フーコー ニーチェ 『道徳の系譜』 『監獄の誕生』 ∽ 『悲劇の誕生』 『狂気

社会思想史Bノート
フーコー
ニーチェ
『悲劇の誕生』
∽
『狂気の歴史』
「悲劇の誕生」では、古代の悲劇の精神がソラクラテス的知によって覆われたと論じられている。そ
れに対して「狂気の歴史」では、古代からルネサンス期まで狂気の悲劇的形式(たとえば阿呆船)が
存在したとされ、それが古典主義時代=大監禁時代を経由して近代になると、狂気はただひたすら一
方的に精神医学の知によって眺められ、矯正されるだけの存在として眺められるようになったという。
悲劇の精神とその疎外という構図
(もしくは「多様な真理から真理の一元化へ」という図式)
『道徳の系譜』
∽
『監獄の誕生』
「道徳の系譜」では、道徳という真理の背後に権力関係が存在することが論じられている。強者が制
定する真理のうえに、弱者が彼岸で勝利するために(ルサンチマン的精神から)空想的につくりあげ
た真理が重ね書され、われわれの道徳が成立したという。それに対して「監獄の誕生」では、刑罰を
執行する権力のタイプの変容が論じられ、近代的パノプティコン型の権力においては、ひとびとのな
かに活動的服従をつくりあげること(=規律、ディシプリン)とひとびとの行動を隈なく明るみに出し一
望監視の視線から研究すること(=近代的な学問、ディシプリン)とが同時に成立したとされる。
真理の背後には権力が存在するという構図
(権力による包囲/権力から脱することの不可能性/われわれも権力の主体たらざるをえない)
ニーチェの記述のうちの曖昧な部分は、フーコーの具体的な歴史分析によって補うとその意味をかなり理解できるようになる。
「悲劇の誕生」の構図
アドルノ&ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』
ナチスの迫害から逃れてアメリカへ亡命、その問題意識にはつねにナチズムがあった。
ソクラテス的知
彼らが近代的精神の中核としての啓蒙思想を論じるとき、ナチズムは近代性が不十分
なゆえにではなく、近代性が徹底した極点において出現したと位置づけられている。
(フーコー「監獄の誕生」における啓蒙思想の扱いを想起せよ)
啓蒙された大人へ
光をあてる
自律性を獲得
悲劇の精神 = 本質
野蛮な未成年状態
たとえば人間が作った道具であるはずの機械が逆に人
間を支配するようになるというように、最初に本来的な
本質を前提し、そこから派生したものが逆に本質のあり
▲ 啓蒙の図式
ようを抑圧するようになる事態を「疎外」という。
初期ニーチェは典型的に疎外論的である。
だが、
① この啓蒙の図式それ自体が神話であり、啓蒙は必ず野蛮に転化する。
② そもそも野蛮自体がひとつの啓蒙だった!
≪野蛮→啓蒙→野蛮…≫は永遠に循環する。だが、それは何度でも
出発し直せることを意味でしていないだろうか?
フーコーが「テクノロジー」という語を使うときも、テクノロジー
の永遠の転用がイメージされ、歴史の最終目的地点の想定は拒否され
ていた。
ニーチェのキーワードは、初期思想を脱したのち(疎外論を克服し
たのち)
、
「永遠回帰」と「
(たえず超えていく)超人」となっていく。
従来の社会思想では、近代を理想と見なしたり、古代に牧歌的なユートピ
アがあると考えたりして、どこかに安全地帯が存在した。
だが、「啓蒙の弁証法」では出口がない。どこまで行っても≪野蛮→啓蒙
→野蛮…≫を繰り返すだけだ。そこでアドルノ&ホルクハイマーの思想は、
どこまでも暗く、しばしば悲劇的思想の極北と見なされた。
(けれども、ニーチェの「悲劇」は暗いだけのものだったろうか?)
ニーチェとアリストテレスの悲劇概念を比較するまえのの予備知識として
四書五経のひとつに詩経が
孔子もまたプレ孔子たちの
あることの意味を想起せよ
総決算として存在している
(ニーチェ的詩の根源性)
?
ホメロス・ヘシオドス的
神話の世界
● 神=人間の延長
● 祭司階級の支配を表現し
ている
最初の哲学者
タレス、ヘシオドスなど
● 神の死=祭司階級の支
配が失効した時代
ソクラテス
● 対話術=逆説的真理
● 最初の哲学の総決算で
あると同時にアルケー
● 万物のアルケーを論じ
る唯物論=対祭司階級
論の陥穽を避ける
● 「悪法も法なり」?
世界の逆説的把握
むしろ…
● 自然科学=政治=倫理
● 真理の担い手としての
の三位一体
プラトン
アリストテレス
● 体系化=通常科学化
● だが、著作を残すこと=
神話化に反対した師を
裏切っている!
≪私≫を手放すな。
(自己を例外としない)
従来の哲学史における位置づけ
不毛なプレ・ソクラテス期
アッティカ学派 = 真の哲学のはじまり
ニーチェによる評価と批判
ニーチェの言う「ソクラテス的知」は、
ニーチェによる古代思想の再評価は、その後の哲学の世界でも受け入れられ評価されている
むしろプラトンに当たる。悲劇概念の
文脈ではアリストテレスに該当する。
アリストテレスの悲劇概念をめぐって
アリストテレスによる「悲劇」の定義
素材となる歴史や神話群
体系化 … 悲劇/叙事詩/喜劇の区別
構成要素 … (1)筋 (2)性格 (3)話法 (4)思想 (5)視角効果 (6)歌曲
このうち(1)筋は、(a)逆転 (b)真理の開示 (c)浄化
叙事詩
悲劇
● 叙事詩では、自己(観客)が属している歴史的時間の全体を
その他、三一致の法則、機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)など…略
見せ、自己はその一部であると受け止める。
(全体⊃部分)
● 悲劇は無時間的であり、舞台上で表現された真理がそのまま
自己(観客)の真理に一致する。(全体=部分)
英雄中心
:シェークスピア以降、徐々に英雄以外へ拡散・多中心化していく
誰が、誰によって何を「浄化」されるのか?
舞台上で開示された真理によっ
て観客たちの不安な心情や荒ぶ
視点によって真理が無数にありうると主張したのが
る感情が浄化され、ポリスの安定
ニーチェのパースペクティブ主義
が保たれる、そうした機能をもつ
のが悲劇であるという理解
● 初期ニーチェ : 悲劇は万人の存在を肯定し救済するもの
● これは、アリストテレスの悲劇概念とは齟齬がある。
無数の真理 vs 鋳型に入れたような真理
● が、そうした批判だけでは不十分だった。
初期ニーチェ=疎外論的
(そんな本来性などどこにもない!)
● 観客だけでなく作者も、そして演者も「浄化」される。
そのひと自身が「詩」になること
→永遠に超越していく過程としての人間のイメージへ
真理は上から下へ下賜される
言葉の通常の意味で「権力的」