東京メトロ(痴漢⾏為を理由とする諭旨解雇処分)事件 (東京地裁 平26.8.12決定) 本件痴漢⾏為は私⽣活上の⾮⾏であるが、懲戒対象にはなるものの、本事案の下では 諭旨解雇処分は相当性を⽋いて無効とされた事例 掲載誌:労判1104号64ページ ※裁判例および掲載誌に関する略称については、こちらをご覧ください 1 事案の概要 旅客鉄道事業の運営等を営む会社(債務者)に雇⽤され駅係員として案内業務等に従事 していた債権者は、通勤のため乗⾞していた債務者の電⾞内で、当時14歳の被害⼥性に 対し、右臀部(でんぶ)付近および左⼤腿(だいたい)部付近を着⾐の上から左⼿で触る などの痴漢⾏為をしたとして、東京都の公衆に著しく迷惑を掛ける暴⼒的不良⾏為等の防 ⽌に関する条例(以下「迷惑防⽌条例」)違反の被疑事実で逮捕、起訴され、東京簡易裁 判所において罰⾦20万円の略式命令を受けた(以下「本件⾮違⾏為」)。そこで、債務 者は、平成26年4⽉25⽇、本件⾮違⾏為が、就業規則56条2号「職務の内外を問わず会社 の名誉を損ない⼜は社員としての体⾯を汚す⾏為があったとき。」に該当するとして、債 権者に対し、諭旨解雇処分を通告した。これに対し、債権者が、本件諭旨解雇は無効であ ると主張して、雇⽤契約上の地位保全などを求めた事案である。 2 判断 [1]本件⾮違⾏為の懲戒事由該当性について 本件⾮違⾏為は通勤中の痴漢⾏為という私⽣活上の⾮⾏であるが、裁判所は、「従業員 の私⽣活上の⾮⾏であっても、事業活動に直接関連を有するもの及び企業の社会的評価の 毀損をもたらすものについては、企業秩序維持のための懲戒の対象となり得る」とした上 で、本件について、「債務者のほか鉄道会社全体が痴漢⾏為の防⽌について積極的に取り 組んでいるという現状において、痴漢⾏為を防⽌すべき駅係員という⽴場にあるにもかか わらず、債務者の電⾞内で通勤途中に本件⾮違⾏為に及んだものであり、本件⾮違⾏為 は、債務者の事業活動に直接関連を有し、債務者の社会的評価の毀損をもたらすものであ る」と評価し、本件⾮違⾏為が就業規則56条2号規定の懲戒事由(名誉毀損等)に当たる と判断している。 なお、債権者は、「本件⾮違⾏為が存在するとしても、これが報道等により世間に知ら れることはなく、債務者の社会的評価を低下させることもなかったから、就業規則56条2 号規定の懲戒事由には当たらない」と主張していたが、裁判所は、「債務者の運⾏する電 ⾞内で痴漢⾏為が⾏われたこと⾃体が、債務者の社会的評価の毀損をもたらすものとい え、そのことは本件刑事事件がマスコミにより報道されることの有無により左右されるも のではない」と述べて、債権者の上記主張を退けている。 [2]本件諭旨解雇の相当性について 裁判所は、本件諭旨解雇の相当性について、「痴漢⾏為が被害者に⼤きな精神的苦痛を 与えることは周知の事実であり、痴漢⾏為を防⽌すべき駅係員として、倫理的にそのよう な⾏為を⾏ってはならない⽴場にある債権者が本件⾮違⾏為を⾏ったことは、厳しく⾮難 されるべきものである」としつつも、「本件諭旨解雇は、⾃⼰都合退職の場合と同様の計 算により算定した退職⾦が⽀払われるほかは、基本的には債務者が就業規則において規定 する懲戒処分中、最も重い懲戒解雇と同列に取り扱われている。そこで、本件諭旨解雇の 相当性については、なお慎重な検討が必要である」と述べ、以下の事情を考慮している。 ①本件⾮違⾏為の態様は、被害⼥性の臀部付近および⼤腿部付近を着⾐の上から⼿で触る というものであって、同種事案との⽐較において悪質性が⾼いとまでいうことはできな い上、刑事処分においても公判請求はされておらず、東京都迷惑防⽌条例5条1項1号、 8条1項2号の法定刑(6カ⽉以下の懲役または50万円以下の罰⾦)では軽微な罰⾦20万 円の略式命令で処分されるにとどまっている ②債務者が開⽰する、従業員の痴漢⾏為に関する懲戒処分例によれば、従業員が起訴され た場合には諭旨解雇とされる⼀⽅で、不起訴処分となった場合には停職等にとどめられ るとの運⽤がされていることが⼀応認められるところ、本件⾮違⾏為に対する懲戒処分 の選択において、債務者側において、刑事⼿続きにおける起訴・不起訴以外の要素を⼗ 分に検討した形跡がうかがわれない ③債権者には前科・前歴や債務者からの懲戒処分歴が⼀切なく、勤務態度にも問題はな かったことが⼀応認められる 裁判所は、上記事情を考慮した結果、「企業秩序維持の観点からみて、本件⾮違⾏為に 対する懲戒処分として本件諭旨解雇より緩やかな処分を選択することも⼗分に可能であっ たというべきである。そうすると、本件諭旨解雇は重きに失するといわざるを得ない」と 判断している。 なお、債務者は、「痴漢⾏為に対し社会的に厳しい対応が求められており、諭旨解雇よ り軽い処分は社内外の批判に耐えるものではないことから、従業員の痴漢⾏為(迷惑防⽌ 条例違反)について、起訴されて刑事罰を受けた場合は原則として諭旨解雇処分としてい るものであって、そのことが不公平、不合理なものであるということはできない」旨主張 していたが、裁判所は、「債務者の上記の取扱いが合理性を有することを裏付ける疎明資 料はない上、本件において、債権者が、本件刑事事件の弁護⼈を通じて被害⼥性側との間 の⽰談に努めたが、被害⼥性の⺟親の理解を得ることができず、⽰談を成⽴させることが できなかったことが⼀応認められるところ、このように債権者の配慮等ではいかんともし 難い事情もあって債権者が起訴された⾯があるにもかかわらず、債権者を本件諭旨解雇と することは酷であるというべきである」として、債務者の上記主張を退けている。 [3]結論 上記[1][2]の判断により、裁判所は、「本件諭旨解雇は、懲戒事由該当性がある ものの、相当性を⽋くから、懲戒権を濫⽤したものとして、労働契約法15条により無効 である」と結論づけている。 3 実務上のポイント [1]私⽣活上の⾮⾏と懲戒処分 懲戒処分は企業秩序維持確保のための制裁罰であるので、従業員の私⽣活上の⾮⾏につ いては原則懲戒処分の対象にはならないが、企業秩序に直接関連するもの、および企業の 社会的評価を毀損する恐れのあるものについては、企業秩序維持確保のために懲戒の対象 になり得る(国鉄中国⽀社事件 最⾼裁⼀⼩ 昭49.2.28判決 労判196号24ページな ど)。この点、本判決も、「事業活動に直接関連を有するもの及び企業の社会的評価の毀 損をもたらすものについては、企業秩序維持のための懲戒の対象となり得る」と判⽰して おり、これまでの裁判所の考え⽅を踏襲しているものといえる。 本裁判例のポイントとしては、債権者が本件⾮違⾏為は報道等されておらず債務者の社 会的評価を低下させていないので懲戒事由(名誉毀損)には当たらないと主張したのに対 し、裁判所は、「債務者の運⾏する電⾞内で痴漢⾏為が⾏われたこと⾃体が、債務者の社 会的評価の毀損をもたらすものといえ、そのことは本件刑事事件がマスコミにより報道さ れることの有無により左右されるものではない」と判⽰しており、報道等されていないか らといって必ずしも社会的評価が毀損されていないということにはならないという点は実 務上参考になると思われる(もっとも、上記国鉄中国⽀社事件では、「その評価の低下毀 損につながるおそれがあると客観的に認められるごとき所為」(下線筆者)と判⽰されて おり、実際に社会的評価が毀損されていることまでは求められていない)。 [2]懲戒処分の相当性 従業員が痴漢⾏為を⾏った場合、懲戒解雇・諭旨解雇処分としている会社が多いと思わ れるが(労務⾏政研究所「懲戒制度の最新実態」のアンケート結果[『労政時報』第 3829号-12.9.14 40ページ]でも、従業員が電⾞内で痴漢⾏為を⾏った場合、懲戒解 雇としている会社が36.9%、諭旨解雇としている会社が33.6%に上っている)、その⼀ ⽅で、裁判例では、以下の⼀覧表の通り、痴漢⾏為に対する懲戒解雇・諭旨解雇処分が常 に有効となっているわけではない。 区分 ⼩⽥急電鉄事件 N銀⾏事件 横浜市・市教委(懲 本裁判例 戒免職処分)事件 判決⽇ 掲載誌 業種 東京⾼裁 東京地裁 東京⾼裁 平15.12.11判決 平21.1.27判決 平25.4.11判決 労判867号5ペー 判時2206号131 ジ) ページ 鉄道 銀⾏ 市⽴⾼校 鉄道 電⾞内で⼥⼦⾼校⽣ 電⾞内で、被害⼥性 デパートの地下⾷品 通勤のため乗⾞して の臀部をスカートの に対し、その着⾐の 売り場において、通 いた債務者の電⾞内 上から撫(な)で回 上から臀部を⾃⼰の ⾏中の第⼀被害者に で、当時14歳の被 痴漢⾏為 の態様 した上、右⼿をその ズボン越しに⼿で 対し、すれ違いざま 害⼥性に対し、右臀 スカート内に差し⼊ 触った にジーンズの上から 部付近および左⼤腿 れ、右⼿指でその左 その股間付近を⼿で 部付近を着⾐の上か 臀部を撫で回すなど 触り、その直後に、 ら左⼿で触るなど 第⼆被害者に対し、 すれ違いざまにス カートの上からその 臀部を⼿で触った 刑罰 報道の有 無 懲役4カ⽉ 罰⾦30万円の略式 執⾏猶予3年 命令 無 有 罰⾦40万円 罰⾦20万円の略式 命令 不明 無 処分およ 懲戒解雇 諭旨解雇 懲戒免職 諭旨解雇 び有効性 【有効】 【有効】 【無効】 【無効】 判断要素 ・決して軽微な犯罪 ・上記痴漢⾏為は決 ・教育委員会の処分 ・悪質性が⾼いとま ではいえない であるとはいえな して軽微な犯罪で 量定⼀覧および指 い あるとはいえない 針上、痴漢⾏為は ・罰⾦20万円の略 ・職務に伴う倫理規 ・就業規則55条2号 停職または免職の 式に留まっている 範として、痴漢⾏ (刑罰を受けたこ いずれかとなって ・起訴・不起訴以外 為を決して⾏って と)の他、同条3 いるところ、⼥⼦ の要素を⼗分に検 はならない⽴場に 号(名誉毀損)、 児童等に与える影 討した形跡がうか ある 6号(正当な理由 響は⼤きいが、上 がわれない のない遅刻等)、 記痴漢⾏為は⽐較 ・前科・前歴や懲戒 漢⾏為で罰⾦刑に 11号(職務命令 的軽微なものにと 処分歴が⼀切な 処せられており、 違反)にも該当す どまっており、ま く、勤務態度にも その際は昇給停 る た、⽣徒等の相当 問題なかった ・半年前に同種の痴 ⽌・降職処分を受 ・管理職ではないこ 数が原告に対する ・弁護⼈を通じて⽰ け、始末書を提出 と等を踏まえて、 ⽀援・協⼒等を申 談に努めたが、⽰ している ⺠間企業および公 し出ていることな 談を成⽴させるこ 務員に関する類似 どから、加重事由 とができなかった 事例も考慮した は存しない という債権者の配 上、懲戒免職を避 ・軽減事由として、 慮等ではいかんと け諭旨解雇として 勤務態度または教 もしがたい事情も いる 育実践が極めて良 あって起訴された 好であった ⾯がある 上記⼀連の裁判例を基に考えると、従業員が痴漢⾏為を⾏った際に懲戒処分の種類を決 定するに当たっては、以下の要素を考慮して慎重に判断する必要がある((+)が懲戒解 雇・諭旨解雇処分するのに有利に働く事情であり、(-)は懲戒解雇・諭旨解雇処分する のに不利に働く事情である。なお、⼀つの事情だけで有効性が決まるわけではないことに 留意されたい)。 ①痴漢⾏為の態様・刑罰の内容 (+)強制わいせつ(例えば、下着の中にまで⼿を⼊れる等)にまで⾄っている (+)迷惑防⽌条例違反で、懲役刑に処せられている(例えば、同種前科のある場合等) (-)迷惑防⽌条例違反で、少額の罰⾦刑に留まっている ②前科・前歴等の有無、⽇常の勤務態度 (-)前科・前歴や懲戒処分歴がない (-)⽇頃の勤務態度が良好である ③その他 (+)要職についている (+)起訴されたかどうか等画⼀的な基準ではなく、個別事案に応じて処分の種類を決定 している なお、上記N銀⾏事件の判⽰に鑑みると、処分決定に⾄る判断過程も記録に残しておく ことが望ましいといえる。 【著者紹介】 渡辺雪彦 わたなべ ゆきひこ ⾼井・岡芹法律事務所 弁護⼠ 2005年早稲⽥⼤学卒業。2009年早稲⽥⼤学法科⼤学院修了。2010年第⼀東京弁護 ⼠会登録、⾼井・岡芹法律事務所⼊所。第⼀東京弁護⼠会労働法制委員会委員。共著 として、『現代型問題社員対策の⼿引(第4版)─⽣産性向上のための⼈事措置の実 務─』(⺠事法研究会)、『労働裁判における解雇事件判例集 改訂第2版』(労働 新聞社)、『決定版!問題社員対応マニュアル〜「問題会社」とならないための実務 的処⽅箋(上・下)』(労働調査会)がある。 ◆⾼井・岡芹法律事務所 http://law-pro.jp/ ■裁判例と掲載誌 ①本⽂中で引⽤した裁判例の表記⽅法は、次のとおり 事件名(1)係属裁判所(2)法廷もしくは⽀部名(3)判決・決定⾔渡⽇(4)判決・決定の別 (5)掲載誌名および通巻番号(6) (例)⼩倉電話局事件(1)最⾼裁(2)三⼩(3)昭43.3.12(4)判決(5)⺠集22巻3号(6) ②裁判所名は、次のとおり略称した 最⾼裁 → 最⾼裁判所(後ろに続く「⼀⼩」「⼆⼩」「三⼩」および「⼤」とは、 それぞれ第⼀・第⼆・第三の各⼩法廷、および⼤法廷における⾔い渡しであること を⽰す) ⾼裁 → ⾼等裁判所 地裁 → 地⽅裁判所(⽀部については、「○○地裁△△⽀部」のように続けて記 載) ③掲載誌の略称は次のとおり(五⼗⾳順) 刑集:『最⾼裁判所刑事判例集』(最⾼裁判所) 判時:『判例時報』(判例時報社) 判タ:『判例タイムズ』(判例タイムズ社) ⺠集:『最⾼裁判所⺠事判例集』(最⾼裁判所) 労経速:『労働経済判例速報』(経団連) 労旬:『労働法律旬報』(労働旬報社) 労判:『労働判例』(産労総合研究所) 労⺠集:『労働関係⺠事裁判例集』(最⾼裁判所)
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