Tetsuo Yoshimatsu Debut / Retrospect - So-net

Tetsuo Yoshimatsu
Debut / Retrospect
都市美術家の顔 Self portrait 1990 Acrylic on canvas H145 × W113cm
espace éphémère
展覧会企画
エスパース・エフェメール
吉松哲夫 デビュー/回顧展 実行委員会
この展覧会は、1996 年に他界した
アーチスト吉松哲夫の日本でのデ
東京・ロンドン・パリ・アムステルダ
ムで制作されたドローイングや絵画
ビュー/回顧展である。吉松哲夫は、
絵画・彫刻・デザインといった多岐に
作品など20点余りである。他に、
ジュエリー・デザインやパリでのビ
わたる創作活動を行ったが、その現
場は、ロンドン・パリ・アムステルダ
デオ、未完のプロジェクト・プランな
どが展示される。
ムであったため、日本では未知の作
家である。彼の死後、家族および友人
オープニングでは、吉松哲夫と交
友のあったトランペット奏者の近藤
によって集められた作品と資料をも
とに構成されたのが、今回のギャラ
等則氏のパフォーマンスも予定され
ている。吉松哲夫が夢見た都市芸術
リー・ル・デコの個展である。
展示の中心となるのは、パリ、トル
家としてのロマン「エスパース・エ
フェメール」は、停滞した日本のアー
ビアック駅の地面に描かれた 5000m2
の絵画(ビデオ・写真による紹介)と
トシーンに、必ずや一石を投じるで
あろう。
Wakiro SUMI
都市計画絵画 Urban painting 1991 Tolbiac station, Paris. Acrylic, pigment, sand on the ground. 5000m2
espace éphémère
都市美術家のロマン
アトリエ・フリーゴの作家/吉松哲夫
La Peinture Urbaniste
espace éphémère
それはおそらく足元から
ひろが
都市と絵画
展っていく
都市と風景
水平の世界に惹かれる
水平の絵画 つかの間の風景
都市の中で制作する我々
雨上がりの水たまりに映った
都市美術家は
例えば
都市の風景そのものを
夕焼けあるいはネオンに
キャンバスとして制作する
感激することがあるように
吉松哲夫 1996
光村図書出版 美術 2-3 下より
底なしの虚空と崇高な晴天
写真家 大野純一
彼の20年に及ぶその作品を見ると
き、本物の芸術だけが持つ、底なしの
虚空と雲上だけに存在する変わるこ
とのない崇高な晴天を突きつけられ
る。
パリの街に5000平方メートルの絵
を描いた男、制作することで社会と
の接点を作り上げた男。
彼の去勢されない想像力を源に制
作された絵画やオブジェ達は、日常
性の中に埋没してしまった私たちの
意識を覚醒させるために生まれ出て
きたひとつの源であると思う。
Tetsuo Yoshimatsu on his work
環境のデザイン
都市計画の絵画
吉松哲夫(1950 ∼ 1996)
エスパース・エフェメールとは、フ
ランス語で、つかの間の空間という
意味である。80 年代後期より、パリ
市内において、都市計画の過程で一
定の期間使われない建物や空き地を、
アーティストたちが所有者との合意
のもとに、芸術の制作および発表の
場として利用する活動をさしている。
そのような場所は、現在、パリ市内で
も数 10 ケ所存在し、その地域の活性
化に役立っている。このような創作
活動の着想は、私たちの現代都市の
することが制作の目的であった。こ
れは、この地区に、以前からある垂直
な世界と次なる世界との間に、移行
するかたちを形成し、また、関連ス
ペースの再開発を目的としたもので
もあった。用いた技法は、その場所の
土台によって異なるが、表面がコン
クリートやタールのような場合は、
古典的な絵画技法を用い薄く色づけ
された砂で表面を覆ったり、凸凹の
ある表面の場合には、染料を散布し
たりという方法を取った。
こうした芸術活動を繰り広げるこ
とは、土地・建物価格が上昇して、大
都市における芸術活動が困難になる
現状の中で、私たちの芸術活動とそ
の地区に住む住民と、また、それにか
かわる企業とが、一瞬のかげろうの
ような、素晴らしいハーモニーを奏
でているように思われる。
さて、いま、東京を顧みると、経済
活動の谷間の期間に当たり、企業か
らの援助も縮小され、制作するとこ
ろはもちろん、発表する機会も減少
してきている。それでなくても、ヨー
ロッパやアメリカに比べると格段に
少ない芸術と市民の関わりが、この
ままでは東京からまったくなくなり、
経済だけの発展の街としてしか存在
し得なくなることにもなりかねない。
自主管理運営する空間をほんのつか
の間(エフェメール)であろうとも東
京に現出させる必要性を強く感じさ
せる。
観察から生まれたものである。現代
の都市景観は、垂直性と同義語と
いってもよく、私たちの目に入るす
べて、林立した塊に限定されている。
そのような中、芸術家の目的は、垂直
に断ち切られた視野に水平に広がる
世界を再現し、発見してもらうこと
なのである。街の施設はそれを見る
私たちにとっては継続的な現象であ
る。工事を進めていくことによって、
つかの間の風景がその都度生まれて
くる。その生まれ変わりに画家自身
が参画しようということなのである。
画家の創作は古い建築物との二つの
垂直の相を結びつけることなのであ
る。このつかの間の作品は、限りなく
周辺の景観を生き返らせることにな
るだろう。パリでのそのような活動
の運営は芸術家たちの自主運営が主
で、利用期間が過ぎると別の場所に
移動する。主に工場・病院・学校など
を利用して活動を継続している。こ
の活動は建物や土地の所有者の好意
的な援助が必須で、周辺地区の活性
化を促す意味から、パリ市の援助を
受けている団体もある。
1991 年に、私が手がけたパリのト
ルビアック地区のプロジェクト「都
市計画の絵画」も、パリのエスパー
ス・エフェメールである。
(1997 年:中
学校、美術教科書 p.29 掲載)トルビ
アック地区は、パリの「離れ」で、徐々
に新たな文化生活の中心地となって
きている。この地区の、トルビアック
駅の鉄道路線の間にある地面に
「7000m2 の広大なフレスコ画」を実現
都市計画絵画 Urban painting 1991 Tolbiac station, Paris. Acrylic, pigment, sand on the ground. 5000m2
Atelier “FRIGO”
91 Quai de la gare
パ
リ、凱旋門から南へ、セーヌ川
沿いに街は少しずつ表情を変え
ていく。
「ポン・ヌフ」を通り越して
しばらく行くと、左岸に広大な土地
が拡がる。
「ポン・トルビアック」
、ト
ルビアック橋を渡ったそこが、QUAI
DE LA GAREだ。パリ 13 区、その昔、
南ヨーロッパへの始発駅であった操
車場跡。いまは、オーストリッツ駅に
その役目を譲り、ひっそりと当時の
c’est quoi ?
面影を残している。錆びた線路。古い
冷凍倉庫……。しかしながら、一歩足
を踏み入れるとそこは違う。さまざ
まなアーティスト達が集まるお城と
化している。美術家、写真家、音楽家、
建築家。最上階には貸スタジオまで
設置している。それもそのはず、昔冷
凍倉庫だったので、壁の厚さ約1m
という。防音効果の素晴らしさはも
ちろん、冬は暖かく、夏は涼しい。
アーティスト達にとって絶好の場所
である。付近の線路跡には、ジプシー
達が家族でテントを張っている。マ
イルス・デイビスやレイ・チャールズ
も訪れたという、QAUI DE LA GARE
のアトリエ " フリーゴ "(冷凍庫の
意)
。フェリーニの映画「カサノバ」の
舞台美術、パリ・コレクション、ジャ
ンポール・ゴルチィエの VTR で有名
なパオロ・カリエや、東京の汐留の操
車場跡地でも公演したことのある
アーバン・サックスもこの地をアト
リエにしている。
う、東京でいえば汐留の操車場
そ
跡地である。これがパリでの吉
松哲夫の活動拠点であった。それに
つけてもフランスと日本のアートに
たいする認識と意識の差は、嘆かわ
しいものである。故吉松氏が悔し
がっていたあの表情がいまでもくっ
きりと目に浮かぶ。
「絵を描きたいだ
けなのに、東京ってとこは……」彼
の、その視線の彼方には、アルチュー
ル・ランボーがかつて見たはずの、巨
大な地平線が拡がっていた。
在、都市再開発が徐々にではあ
現
るが、進んでいる。広大なフラ
ンス国鉄敷地跡の住所も 9 1 Q a u i
Panhard et Levassor, 75013 Parisと変更
された。しかし、アトリエ・フリーゴ
は健在で、今もなおパリのアーティ
ストたちがこの建物を自主管理する、
いわば芸術家コミューンとして、賑
わっている。
Jun WASHITAKE
「都市美術家」
吉松哲夫氏に捧げる
多摩美術大学教授
太田幸夫
それは代官山駅前美容院「ステッ
ので、大判のハガキくらいのサイズ
ルンツに直接会うように勧めてくれ
サ」だった。颯爽と入ってきた吉松さ
んをオーナーの高橋芳明さんから紹
になり、結構ディティ−ルもよくわ
かる。
たし、相当量の作品集も 30 万円くら
いで手に入ることを吉松さんが、知
介され、ヨーロッパでの創作活動を
聞いて興味を覚えたのが、最初の出
この国際版が教科書を出版してい
る光村図書の目にとまり、世界から
らせてくれたのに、どちらも実現し
ないうちにアルンツは帰らぬ人と
会だった。高橋さんは、入口の非常口
のサインを例示して、私自身の仕事
抜てきされた数百点の優れた掲載事
例の中から吉松さんの図版が選ばれ
なってしまった。
その後、吉松さんのアドバイスに
であるサインとかシンボルデザイン
にも言及したような気がする。
て、全国の中学校の美術の教科書に
環境デザインの作例として載ること
よって、アルンツの作品の多くを保
存しているというデン・ハーグ市立
吉松さんと私の関係は、その後、二
つの展開を見せることになる。ひと
になった。と同時に私の仕事や研究
成果も別の巻に仲良くおさまった。
美術館を訪れた。キューレーターの
人たちが言うとおり、アルンツの仕
つは「サイン・コミュニケーション
(CI/ 環境)2」
(柏書房:1994 年)と題す
ところが、事前に出版社から相談
を受けていろいろいろ協力したもの
事の成果は、毎日見続けて1週間か
けないと全貌を見渡せないこともわ
る国際出版をまとめていた時期だっ
たので、パリの鉄道の広大な空き地
の、図版のレイアウトまでは話が及
ばなかった。結果として 吉松さんの
かった。書庫にはオットー・ノイラー
トとの労作によるアイソタイプの成
に絵を描くという吉松さんの仕事の
成果を、世界の優れたサイン・コミュ
2点の図版が載ったが、こちらが扱っ
たサイズと比べてあまりにも小さい
果を見せる貴重本も少なくない。
オーストリア・ウイーンの教育者・
ニケーション環境の多数の設計事例
とともにその本に収録して広く内外
ことが後で分かった。これでは吉松
さんの狙いが、美術を勉強する中学
哲学者 O・ノイラートが、1920 年に
ロンドンで客死するまでに考案・発
に紹介した。
吉松さんがヨーロッパ各地で実践
生にはよく伝わらないと思うと残念
でならない。けれども、一方、吉松さ
展させた国際絵ことば「アイソタイ
プ」のことは、日本では教科書にも登
したように、都市空間をキャンバス
にして創作活動を展開する意義は大
んは出版社に頼まれて、美術教師の
ための指導書に「都市計画の絵画」と
場しよく知られている。百科事典な
どにも詳しい。けれども、そのアイソ
きいと思う。例えば彫刻作品を街の
中に置くパブリックアートとは違っ
題する一文を書いている。添えられ
た一編の詩には、自らをはっきり「都
タイプのデザインを狙ったのが、ア
ルンツであることは知られていない。
て、都市そのものをアート化する方
向。その際、スケールと、額縁のよう
市美術家」と賛っている。教科書の完
成を見ずして逝く直前に病床で書い
そして、G・アルンツの本業ともいえ
る版画は、ヨーロッパではかねてよ
なフレームに納めない二つの表現効
果は案外重要なポイントとなるかも
たものと聞く。
り注目され、大々的に展覧会が開か
れ、マスコミが扱ってきたのに……。
しれない。
(吉松さんは工事期間中の
つかの間の水平面をそのようなアー
日本でアルンツの本を出すことが
必要だ、と考えていた吉松さんにお
ト空間として創造している。
)その結
果、
「街がシンボル性を持つようにな
金を渡して、ついでの折に動いても
らった。吉松さんは当初すぐ、G ・ア
れば、人と街のふれあいは豊かにな
る」というこちら(編著作者)側の関
ルンツの作風の今日的新しさを感知
し共鳴してくれた。それは白と黒の
心を裏打ちする写真が送られてきた。
制作現場の色によごれた小屋に立
造形、男と女の性、金持ちや権力者と
一般市民の相克(具体的には、ナチ
つ子供の写真は、妙に印象深かった。
結局採用したのは広い空き地を上空
ス・ドイツの圧政に版画で毅然と立
ち向かった)といった二進法で形容
から撮った写真のコピー上に彩色し
たスケッチだった。B4判ほどで
できるもののようだ。もしかしたら、
吉松さんが放っていた魅力と重なる
あっただろうか。
「塗料が足りなくて
完成しなかった」というようなこと
私と吉松さんのもうひとつの関係
は、私の研究活動に対する吉松さん
かもしれない。
デン・ハーグの美術館は、日本での
を、その後聞いたような気がする。こ
ちらにとっては、完成したかどうか
の協力であった。オランダに2度出
向いて、ゲルト・アルンツという版画
アルンツの展覧会も勧めてくれた。
出版とともに実現できたら、吉松さ
は重要でなかった。A4判サイズの
ページの上半分に4色刷りで載せた
家に会ってもらい、資料や情報を寄
せてもらった。当時 80 歳近かったア
んの協力にまずもって感謝のことば
を捧げよう。
家具彫刻 Furniture sculpture 1986 Iron, natural wood W200 × D90cm
あのバカタレが、
早く死にやがって…
ミュージシャン
近藤等則
アムステルダムの街を歩いている
と、テツのことを思い出す。
晩大阪の梅田にある“インタープレ
イ 8”というジャズ喫茶で、プロの
話し合った。
有名になるとかならないとか、売
「あのバカタレが、早く死にやがって
……」
ミュージシャンとリズムセッション
にフリージャズを演奏することに
れるとか売れないとか、小ざかしい
人間社会のスキンデープな世界から
2年余り前、テツは突然のように再
びアムステルダムに住み始めた。日
なった。そこでウエイターとして働
いていた高校生、いや中退の通称 ''
飛んでしまったテツの魂に再会出来
て、オレはホント、ウレシかった。
本人の経営する旅行代理店「東西ト
ラベラーズ」のビルの4階を借りて、
バッハ '' の友人がテツだった。
バッハとテツは、オレが東京に出
テツは己の魂に忠実に生き抜いた
希有のヤツだったと、オレは思う。ホ
昔の仲間のオランダ人達を集め、何
かコトを起こそうという雰囲気だっ
てくるのと呼応するかのように、国
分寺に住み始めた。
ントにいつも抱きしめてやりたいよ
うなヤツだった。
た。
「今の東京や日本なんかほっとけ。全
それから 2 0 年、青山のクラブ
“MIX”でオレ達は再会した。東京の
20 世紀、ウオーホールが「アート
は終わった」と宣言し、ヨーゼフ・ボ
くの個人に却って、地球上で思いっ
きり表現しまくろう」と、オレもうれ
どうしようもない閉鎖性に絶望し、
アムステルダムに音楽難民しようと
イスは「すべての人々は、本来、アー
ティストである」と言った。この二人
しくなって、テツと話した。
でも、テツは金が続かず、二、三ケ
していた矢先の頃だった。
「ヨーロッパでデカいパフォーマンス
の言葉をしっかり受けとめて、
“生き
る”ことそのものを“表現”しつづけ
月でその部屋をひきはらい、そして、
数カ月後には、湘南の海辺で、御陀仏
やろうよ、コンドーさんが爆音だし
て、オレが数百メートルの規模のビ
たテツ。ガンなんか、ピストルで撃て
ばよかったんだよ、テツ。
してしまったのだ。
テツとの出会いは、1970 年にさか
ジュアルやるから」
「オレは今の都市はクソやと思う。ど
はり子の虎のような人間社会に、
ホントの魂を入れようとして、オマ
のぼる。
大阪万博の年の年明けから、オレ
うせやるなら、大自然の中やで」
と、二人とも酔っ払いながら、
エも人を愛さずにはいられない正直
者のイゴッソウだったんだよな、こ
は京都の大学に籍を置きながら、毎
クラブミュージックの大音響の中で
のバカタレが。
MEMORIAL Writing
by Gaetano Pesce
▼
若き友人 Tetsu の死を悼む
建築家
ガエターノ=ペッシェ
Several years ago Tetsu, then young artist, came to visit me
while I was spending the three months of summer in Venice,
Italy with my studio. When we met, I asked him whether he
was able to do model making, architectural constructions
and detail drawings, develop design, etc.
He replied me;
"No, but two weeks from now I will".
His reaction had shown me his intelligence, his desire to make
and to learn his sincere commitment.
I saw him several times afterwards in Tokyo, we became
friends.
I regret sincerely that once more death has taken away a
young creator of great intelligence and curiosity.
Gaetano Pesce
1 9 3 9 年イタリア生れ、
ニューヨーク在住。鬼才と
して名高い世界的な建築
家。デザイン・立体作品と
その活動は多岐にわたる。
何故
l’espace éphémère、
鉄鴎 ’s
debut/retrospect?
ば、飛んで行き、交渉を重ねた。しかし東京はつれない。く
誰も TETSU を知らない
日本の美術界で TETSU は無名である。彼の活動の拠点 やしいではないか。東京もガンバレ、と言いたいところだ。
は、パリでありロンドンでありアムステルダムであった。 もっとも、幻の東京都市博覧会の建設予定地に彼のエス
フーテンの寅さんよろしく、「じゃあな」といって、ヨー パース・エフェメールが、実現する予定であったことを付
ロッパへ行ったかと思えば、2年も3年も日本には帰って け加えておく。
こない。日本でアーティストとして成り上がろうなんて気
はさらさらない。むしろ、日本でのTETSU の生き様は、ポ
誰も T E T S U を知らない。しかし近ごろの中学生は、
TETSUの作品を知っている。中学生たちは、1997年か美術
エジーの世界とおさらばして、アデンアラビアへ出かけた
"商人"アルチュール・ランボーを思い浮かばせる。TETSU
の授業で TETSU の作品を通して、
「環境のデザイン=調和
する人と自然」というテーマを学ぶこととなった。日本デ
にとって東京は、文化やアートとは無縁の経済だけの都市
なのだ。
ビューもまだ済ませていない彼が、どうして中学の教科書
に紹介されるの、というのが正直な感想だ。その昔、ビー
芸術家への公的支援システムの整っているヨーロッパ生
活の長い TETSU に、東京はどのように見えていたのだろ
トルズの「イエスタディ」が、音楽の教科書に紹介された
時の驚きと、喜びに似ている。
うか。東京での TETSU の活動といえば、カンディスキー
(ブランド名)のソックスであったり、モロッコから調達
中学生だけでなく大人の日本人にも彼の存在を少しでも
知ってもらおう、というのが、我々の願いだ。
してきた化石入り大理石のテーブルであったり、昆虫の
ジュエリーであったり、すべて、絵画や彫刻とは異なる "
誰も TETSU を忘れられない
破天荒な TETSU、ヤツがいると、なぜかいつも面白かっ
商品 " 制作だった。もちろん、1995 年以降、日本での本格
的な活動の拠点となった恵比寿のアトリエから生まれたド
た。まわりの人間を巻き込んで突拍子もないシカケをいく
つも考案した T E T S U 。我らが愛すべきバガボンド=
ローイングを忘れてはならない。しかし、遅すぎた日本で
の本拠地作り……。
TETSU。確かに彼は死んでしまったのだが、いつものよう
に、ふらっとヨーロッパに帰って行ったとしか思えない
TETSU を認知したのは誰か。東京ではない、パリだ。ト
ルビアック駅敷地内の 5000m2 に描いた壮大な地上絵画=
TETSU。各人さまざまな TETSU の思い出があり、誰も
TETSU を忘れられない、という思いを持つ者たちが、誰も
エスパース・エフェメール(都市絵画プロジェクト)、描
くことを許したのは、パリだ。TETSUは東京でもエスパー
TETSU を知らないに挑戦しようとするのが、今回のプロ
ジェクトの基本コンセプトである。
ス・エフェメールの実現に奔走した。広大な空き地があれ
Nbuo Masui
UBATAMA(PEYOTE) 1995 H78 × W89cm, acrylic, collage by Tetsuo Yoshimatsu
espace éphémère
夜、歩く男 Night Walking man 1991 Acrylic on canvas H200 × W100cm