1 基調講演

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基調講演
建築とコミュニティ空間の創造:第二次大戦後から現在に繋がる主要な研究対象
Architecture and The Makiing of Community Space:
Key Studies from WWII to the Present
マリステラ・カッシアート教授 (イタリア・ボローニャ大学建築史教授)
この記録は当日の講演を忠実に文章にしたものです。
講演では多数の画像説明がありましたが、ホームページに掲載
するに当たり、その許可の関係から掲載出来ない画像※が数多く
ありますこと ご了承ください。
「皆様こんにちは」。私が知っている数少ない日本語の 1 つです。この場に皆様とお会いす
ることができ非常にうれしく思います。
では、始めさせていただきます。まず私の気持ちをお伝えしたいと思います。会場の皆様、
私の同僚、そして友人の皆様、この講演を始めるのに先立ち、現在東京で開催中の UIA 東京大
会世界建築会議の枠組みの中で開催されるコミュニティ・アーキテクツ国際シンポジウムにお
いて名誉ある基調講演へのお招きを頂き、ご尽力下さいました皆様にご挨拶申し上げます。
社団法人日本建築士連合会のチームの皆様、この数日間いろいろと会議などを行ってまいり
ましたが、お会いできてうれしく思います。
会長の藤本昌也先生および北尾靖雅先生、 小黒利昭先生、皆様がローマにいらした際にお会い
したのが我々のコラボレーションのそもそもの始まりでした。北尾 靖雅先生、私のこの基調講演
の翻訳のお手伝いをいただき誠にありがとうございます。文化的背景が日本とは非常に異なる
ところから発する私の思いを、日本語にしっかりと訳していただきまして心より感謝申し上げ
ます。コンセプト(概念)の中にも通訳、翻訳のそう難しくないものがございますが、たくさ
んの時間を費やして適切な言葉を探す作業をしていただきました。ありがとうございました。
本日ご列席の日本のご同僚の皆様にも心より感謝申し上げます。このシンポジウムに参加する
ことがかない、非常にうれしく思います。
この講演はもともと特定の環境におけるコミュニティの発生を促す建築への参加プロセスに
ついて触れるものでして、本日の講演については 2 つのケーススタディを扱います。いずれも
第二次世界大戦後のイタリアにおける総合的住宅計画で、2 つのケーススタディの合間にアメ
リカ合衆国の 1960 年代、70 年代における別の選択肢となるコミュニティの黎明がありました
が、それについて触れたいと思います。最後に短く結論を述べますが、これはまたパネルの皆
様とのお話の中にもつながる結論として述べさせていただきます。
私のこれからの基調講演は、いくつかのイメージ、短い動画等をご覧になっていただきます。
また文献のご紹介も含め、この内容のご理解にお役立ていただきたいと思います。私がこれか
ら触れるであろう本のタイトルなども盛り込んでまいりたいと思います。イメージや動画は説
明を助けるためのものですので、これがお役に立つことを望みます。
この講演はもともと特定の環境における人間のコミュニティの発生を促す建築への参加プロ
セスについて、私と議論を展開してきた方々と興味を共にするところからきています。イタリ
アの例では直接に設計者と将来の住人との間の協力によって生まれたものではないにしても、
第二次世界大戦後のイタリアにおける経験がこの方向性の出発点となりました。こういった新
たな住宅やコミュニティ建設の経験は低所得の人々に寄与するものでした。第二次世界大戦後
にイタリアで起こった運動で、私が研究している対象です。この研究に触れたことで私はその
後、現代社会におけるコミュニティと建築という考えの進化について幅広く調査することに強
く興味を覚えました。この講演ではこういった過去の研究からお話を進めたいと思います。
私が着目するのは西洋文化の中で培われた経験から引き出したケーススタディであって、そ
れらは直接空間実験およびコミュニティの
対話に関連するものです。私は数多くの論
文を通じて戦後イタリアのいわゆるネオリ
アリズム、建築の世界のネオリアリズムの
歴史について紹介してまいりました。
こちらが 2 つの、私が論文を書かせていた
だきました本の表紙ですが、こちらが戦後
の実験的取り組みとして住宅やコミュニテ
ィの建設を行った内容が盛り込まれていま
す。
fig1
fig2
その 1 つですが、このシンポジウムに合わせて最近日本語に再び翻訳され出版されました。で
すので、皆様も配布のブックレットの中にお持ちかと思います。
そして、イタリアのネオリアリズムの定義に関しては、こちらが私が書いた論文のタイトル
にもあるイタリアのネオリアリズムとして日本語の翻訳も右側に出ています。
fig1:「イタリアにおけるネオリアリズムの建築:モダニズムへの切望、戦後建築文化の実験」S.W.Goldhagen,Legault(編)2000 年
fig2:「現実への招待:イタリアの 1950 年代におけるリアリズムとネオリアリズム」P.Di Biagi(編)2001 年
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このネオリアリズムの定義に関しては、第二次世界大戦後の再建期における低所得の人々のた
めの住宅地の設計にしばしば触れてまいりました。戦後の混乱から立ち上がる中での動きだっ
たわけですが、この内容はこの講演で私が触れたいと思っている共通基盤と言語を確立するも
のです。
戦後、数多くの映画の巨匠、例えばルチアーノ・ビスコンティやヴィットリオ・デ・シーカ
といった英語的言語から借りたものがございます。※左は『郵便配達は二度ベルを鳴らす』、右
側が『自転車泥棒』でヴィットリオ・デ・シーカによる映画です。
この『自転車泥棒』は非常に有名な映画でして、ハリウッドでも特別賞を授与された映画で
す。この映画に描かれている世界はイタリアのネオリアリズムのムードを如実に表現していま
す。つまり、建築家が用いるネオリアリズムの定義は様式を意味しているわけではなくて、建
築の中でも厳密な言語体系化がされていません。むしろナチス・ドイツに対する抵抗感やファ
シスト時代のモニュメンタルでアカデミックな姿勢に反対するものとしてご覧いただきたいと
思います。(自転車道泥棒-映画のワンシーン)
彼の仕事道具である自転車がなくなってしまった。どうしようかと途方に暮れている。彼は
プロの俳優ではなくて、普通の男性、そしてこれが息子なのですが……。
(動画再生)
「先に行っていろ」というセリフが今出ていました。自転車が仕事のためにどうしても必要
です。
この映画は白黒の映画ですが、フラミーニョという地区の情景が描かれています。こ
の場所からネオリアリズム的雰囲気に触れることができます。言語学的な体系化ということよ
りは、先ほど申し上げましたがファシズムに対する抵抗感やファシスト時代のモニュメンタル
でアカデミックな姿勢に反対するものでした。ネオリアリズムは日常生活の建築に対して開か
れ、建築の使用者である一般人の物質的、心理的必要性に直接対応しようとしていました。
ではこちら※に戻ります。こちらで言う一般の人々とは、新しい定義として映画の中でも描
かれていましたが、神話的ではなく叙情的な世界に暮らす人々でした。新しい民主主義体制の
下、典型的な暮らしをしていたイタリア人です。一般の人々というときに思い出すとお役に立
つのではないかと思われる内容ですが、1942 年にアメリカの副大統領であるヘンリー・A・ウ
ォレスは有名な演説を行い、
「大衆の時代」の到来について語りました。その政治的な意味合い
は別として、すべての人間のためのノーマルな建築の模索という概念を示したいと思います。
つまり、現実的な建築は現地の文化に従い、その土地のさまざまな生活の側面を強調し、映
画でも描いていましたが、かつその土地の空間的特性に従うものという考えがあると思います。
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そして結果として戦後の原点回帰により新しい表現の世界が生まれ、建築家は彼らの物語能力
を生かして現実を書き換えました。結果として単なる模倣には決して陥らない強力な、そして
人間的な、有機的な建築的な感性が生まれました。
第二次世界大戦による破壊の直接的結果にとどまらない、より複雑かつ幅広い現象として、
この共通のイディオムはヨーロッパの国々において明確に実現されました。より具体的に申し
上げますと、スウェーデンにおいてはこのネオリアリズム、この新たな感性、建築的感性を新
経験主義と名づけると同時に、フランスやイタリアでも利用されました。
1 つご紹介したいと思いますのは、1950 年代前半のスウェーデンにおけるミドルウェイ・ウ
ェルフェア・ステート(middle-way welfare state)、つまり中庸と福祉を目指すコミュニティ
ということで、非常に象徴的な意味合いがありました。フランス、イタリアにおいても同様の
建築的感性が用いられ、そして戦後の革新的な住宅再建を行いました。
これらの実験について詳しく触れることは講演の意図ではありません。むしろ彼らが発した
いくつかの主要概念について解説し、最後に私の主要テーマである「実験的コミュニティの建
設とコミュニティ空間の特性について」に繋げて参りたいと思います。
もう 1 つ例を申し上げます。ジュゼッペ・ズィガーニャ(Giuseppe Zigaina)という画家で
す。1940 年代終わりにイタリア北部で絵を描いていた画家で、パゾリーニ(Pazolini)と仕事
をしていました。映画作家であるパゾリーニが地元のなまりを生かした作品をつくっていたこ
とで、主要な知性主義といったものにとらわれず作品の制作を行いました。また、コルデラー
ドというイタリア南部出身の詩人がいますが、その詩人も我々が言うところのネオリアリズム
の言語をうまく表現している詩人の 1 人です。
私が今までご紹介したこういった例は、その詳細ということではなくて、むしろこういった
人たちが発した主要な概念について解説をすることが私の講演の主要なテーマです。そして、
先ほど申し上げた建築とコミュニティ空間の特性に繋げて参りたいと思います。ただ私の話の
中では政治的な意味合いはないことをここで示しておきます。さまざまな政治的影響が例えば
旧ソビエト圏などから影響があったものも当然ですが、政治的な意味合いから離れてお話しさ
せていただきたいと思います。
最初のケーススタディをご紹介する前に、この時代の社会的変換における建築的歴史につい
て、まずアンリ・ルフェーブルが提唱するレスパスベキュ(l'espace vécu)、つまり生活者の経
験によって得られる空間について申し上げたいと思います。これは、主題の複数性によって経
験されるところの空間であります。そしてこちらは、非常に有名なイタリアのネオリアリズム
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の時代の生活環境圏に関する事ですが、空間というのは主題が経験する空間であり、環境であ
るとか景観、建物といったプランニング、そういた生活環境圏のプランニングに触れるもので
す。では、この内容をフランスの都市部の哲学者アンリ・ルフェーブルの言葉を借りて申し上
げたいと思います。ここで簡単に、空間を十分理解するためにルフェーブルが見出した 3 つの
必要事項について申し上げたいと思います。
最初は、レスパス・ペルシュ(l'espace perçu)という、社会生活上得られる空間経験です。
これは実現した、経験的に存在する社会的に生まれた空間であるということ。直接に感覚とし
て感じることができ、測定や表示が可能なものであるということ。そして、人間の活動、振る
舞い、経験の媒体と結果の両方であるということです。
2 つ目のスキームはレスパス・コンシュ(l'espace conçu)、つまり表象から得られた経験の
空間であり、我々は空間に関して我々が持っている記号や符号、対話の世界について語るとき
に、私はこれを命題知識の領域として考えたいと思います。つまり、科学者、プランナー、テ
クノクラート、ときには芸術家が集まる場です。この場所は社会的勢力、管理そして生産に関
する関係を包含する空間で、表象的空間と言ってもいいものです。この空間はまた文章やロゴ
に深く依存し、ある種イデオロギーと慣習の表れを内包する心理的空間になっているものです。
さらに最も重要で、もう 1 人のフランスの哲学者フーコー(Foucault)ですが、この空間に
ついて述べています。つまり、心理的空間はルフェーブルが言うところのレスパス・コンシュ、
つまり表象から得られた経験の空間ということです。その意味においてこのレスパス・コンシ
ュ、つまり表象から得られた経験の空間が我々の世界を支配する最も重要な空間だと言えます。
第 3 の、私の話の中で触れたいと思っているスキームはレスパス・ベキュ、つまり生活者の
経験によって得られる空間です。これは直接住まれている空間。住人や使用者ではなく、ある
いはそれらの表象に関するスキームであるところのレスパス・コンシュでもない、一般の人々
のために建設された空間的世界の間の相互交換の空間です。
ルフェーブルが言っているのは、住まわれることによる現在の個々と今がレスパスベキュ、
つまり生活者の経験によって得られる空間をかたどるものであり、ほかの 2 つの空間とは異な
ると同時に内包するものであるということ。認知され意識される空間というのは人の生きる経
験の重要な構成要素であって、従ってレスパス・ベキュ、生活者の経験によって得られる空間
は 2 つの空間と異なると同時にレスパス・ペルシュ、レスパス・コンシュを含むものです。
このケーススタディをご理解いただくために、コミュニティの中における個人の持つ空間が
非常に重要であって、それが環境をかたどるものになるということです。両方であってどちら
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でもあるということで、どちらか一方ではないということです。この枠組みにおいて私のレス
パス・ベキュ、生活者の経験によって得られる空間を通じて最初のケーススタディをご紹介い
たします。
イタリア南部にございますマテラ(Matera)に計画されたラ・マルテラ(La Martella)村
は統合的にその土地に根ざしたプランニングの過程に新たな方向性を見出した代表例です。現
在は持続可能なプランニングとして知られています。またネオリアリズムの言語を代表する例
としても知られています。1953 年から 54 年にかけてこのラ・マルテラ村の建設が行われたの
ですが、当時このラ・マルテラ村は、こちらに※ございますように、これは設計のプロセスに
参加した建築家が描いたイラストですが、
イタリアのネオリアリスト建築において
鍵となる出来事でした。それは最適なか
たちで実現され、プロジェクトの性格と
して、大衆的地方的文化を盛り込むと同
時に、大衆的というのは、地元の農民を
取り込んでということだったのですが、
それと同時に準備には幅広く学際的な研
究が用いられました。
この建築的なアプローチはシンプルであ
fig3:マテラにおけるサッシの風景
って、地元に根ざしたもの、そして模倣
でないということです。これがネオリア
リストのキーワードで映画にも通じるも
のです。このプロジェクトの位置する地
域の研究に関してですが、社会学、文化
人類学といったさまざまな学際的な角度
から研究をし、そしてラ・マルテラ村の
計画が策定されました。このプランニン
グの起源は、非常に興味深く、地理的に
fig4
fig4:サッシでの生活環境調査(本調査はオリベッティによって観光された雑誌の「Comunita:コミュニータ」に掲載された)
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ももちろんそうですが、サッシ(Sassi)
は原始的な岩をくりぬいた住居が集合し
た場所です。
マテラはバジリカータ(Basilicata)
という地域の中心都市ですが、この中で
こういった岩を活用した住居になってい
ます。農業に従事する人々が長い間、家
族と家畜とともに住んでいました。非常
に歴史的に意味合いを持つわけですが、
イタリアにおいてこのサッシは 1950 年
fig5
サッシにおける共同生活
代当時は非常にネガティブな意味合いをもってブラックホールと揶揄されたのですが、数多く
の農業に従事する人々の家族や家畜の住まいとなっていました。毎朝農民の家族は農作業に出
て行って夕方帰ってきます。非常にある意味で原始的なといえますか、独特の空間構造を持っ
ていました。ただ衛生的な問題があったり、病気が発生したりしていましたが、1952 年にその
サッシを撤 去する法律 が制定され て退去した 家族の住居 を確保しよ うとしまし た。ボルギ
(borghi)という例もあるのですが、ほかのイタリアの地区に関しても中性のギルドなどから
近代的な住居を確保するとして動きがございました。
この地方整備計画に基づきサッシの生活改善の運動はアメリカの援助を受けた 2 つの調査プ
ロジェクトによってその存在が大いに高まりました。その 2 つの調査ですが、1 つはフルブラ
イト財団のジョン・フリードマンという社会学者によるもの。2 つ目はアメリカ復興計画ミッ
ションの文化人類学者ネッロマゾッキ・アレンマンニによるものでした。このようなアメリカ
の援助があって地方整備計画を進めました。
建築的な要素だけではなくより大規模な計画をすることによって、こういった農業に従事す
る人々の家族の希望がかなうように、日常的な生活を快適に送れるようにと、まったく新たな、
特殊な実例として実施されました。この 2 つのプロジェクトの双方がイタリアの雑誌に紹介さ
れました。これが※そのときの記事です。
『Viaggio ai "Sassi" di Matera』というマテラのサッ
シの紹介をしているのが 1 つ。それとジョン・フリードマンという社会学者を紹介する記事が
右側にございます。
この調査は 1952 年に『コムニタ(Comunità)』という雑誌によって紹介されました。
この雑誌は当時非常に有名で、このプロジェクトを推し進めた有名な実業家であるアドリアー
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ノ・オリベッティ(Adriano Olivetti)が
原動力となりました。後ほどまた触れます。
数多くの建築家が『カッサベッラ・コンテ
ィニュイタ(Casabella Continuità)』とい
う雑誌にも記事を寄稿しておりまして、イ
タリアの南部における住居環境について触
れています。イタリア南部は Mezzogiorno
(メゾジオリーノ)とも呼ばれています。
ではこの新しい計画の背景にあった基本
的な考え方ついて触れたいと思います。
fig6
先ほど申しましたように、原動力となった人物がアドリアーノ・オリベッティです。戦後イタ
リア社会において知性の転換の強力な推進を行いました。オリベッティ工場を持つだけではな
く、知性に富み政治活動にも参加し、アートや建築にも非常に情熱を注ぎました。彼は一連の
建築家に対して場所と空間の質に影響する社会的、文化的プロセスについて、集団的に検証す
ることを求めました。つまり、実態に即した都市のダイナミックなプロセスに変換しました。
彼の新たなビジョンの導入は、解釈論とか抽象から距離をおいて実際の生活に目を向けようと
いうものでした。
このオリベッティのダイナミックなプロセスの中で。オリベッティが工場の前で写真を撮っ
ています。建築家と話をしているオリベッティ氏の姿があります。よく知られているのがオリ
ベッティの工場では当然タイプライターの生産をしておりましたし、その設計にもオリベッテ
ィがかかわっていました。そして工場のある地域の都市の都市計画にもかかわっていました。
オリベッティはあらゆる生活、人間活動の場での経験をしたということです。そしてさまざま
なデザインへの影響を与えました。
このオリベッティのイタリア文化への新たなビジョンの導入は、アメリカのニューディール
政策に見る社会開発政策への理解や、都市、地域および隣人の団結といったマンフォードの思
想の再解釈からきたものです。つまり、外見的要素だけではなく実際の生活の質に目を向けよ
うというものでありました。
オリベッティがマンフォードと会談している写真があります※が、マンフォードの『都市の
建築』という代表作が右側に解説してあります。
『コムニタ』という先ほどご紹介した雑誌の中
Fig6:アドリアーノオリベッティ(1901∼1960)はイタリアのオリベッティ社の経営者で、知識人として政治的にも活躍した。
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でオリベッティの主導によりイタリア語に翻訳され 1953 年にイタリアにも紹介されておりま
す。それがイタリアの戦後の再建計画に大きな影響を与えました。
またオリベッティはマルテラ村の再建築、再構築の背後にあり、新しい地方の村、これはボ
ルギという村の再建築に当たったわけですが、ラ・マテラはボルギの 1 つなのです。こちら※
はボルギドズキオですが、この写真からもご覧になっていただけますように、家族がまとまっ
て暮らす場所であって、中央に広場があり、コミュニティ全体で活用する設備が真ん中に設置
してあります。そして村というか小さな集落を形成しておりました。
ル ド ビ コ ・ ク ア ロ ー ニ ( Ludovico
Quaroni)という建築家の生誕 100 年祭
を、今月の丁度 2 日前にラ・マルテラで
お祝いをし、シンポジウムが開かれまし
た。オリベッティがその設計を託した建
築家が今申し上げたルドビコ・クアロー
ニ、フェデリコ・ゴリオ(Federico Gorio)、
ピエロ・マリア・ルッリ(Piero Maria
Lugli)、ミケレ・ヴァローリ(Michele
Valori)、ミケレ・アガティ(Michele
fig7 建設中のマルテラ村の風景
Agati)といった若いエンジニアであり、
プランナーのチームと協働しラ・マルテ
ラの整備計画をつくりました。
このチームはラ・マルテラ村を田園の
物理的特徴と調和した集落にしようとし
ました。そして家屋や施設を農民の世界
への接点のオマージュとしました。地理
学、歴史学、社会学、医学、考古学、民
俗学、犯罪学、心理学、農学、そして農
業経済の専門家を交えた委員会が設計者
fig8 完成直後のマルテラ村の航空写真
を支援し、この学際的グループの存在が合理的判断に基づく社会開発の実験室となりました。
つまり、純粋な機能主義的な村づくりではないということです。
最後になりますが、目的は何千年にもわたる歴史を持つこれらの農業に従事する人々に対し、
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クリーンな環境を提供することでした。つまり、的外れな知的装飾、刹那的でその場限りの、
流行から開放された環境を提供することです。飾り立てるのではなくて、その地元の環境に即
した環境を提供することでした。
建物です。こちら※の建物の配置、これが※ラ・マルテラ村のマスタープランです。
家の配置がありますが、不規則な道路沿いに配置され、村の中心部を形成する丘の頂上へと続
いています。建築家のルドビコ・クアローニはその目標について、サッシを特徴づける動きの
自由を最もシンプルな方法、少ない配色、地元の材料を用いてある程度再現することだと説明
していました。ですので、地元のものであるということ、経済的なものであるということが鍵
となっています。
この取り組みの背景にある主要なポイントは、衛生面での問題さえ解決できればサッシの持
つ雰囲気がなんとしても救われ、住人とともに移行するべきだということです。つまり、この
計画は住民に移住を強いるものではありましたが、彼らの伝統を失わせないという配慮があり
ました。農民の習慣や慣習、伝統を保つのです。こういった意図があったからこそ農業に従事
する人々自身が一連の住居タイプから選択し自分たちに最も適したものを選ぶことも可能にな
りました。
建築単位の間のつながりですが、これが※各々の家のイメージになります。建築単位の間の
つながりは 2 家屋を一対として建てる工法によってもたらされました。それぞれの辺は短辺と
長辺の割合が 1 対 2 でできていました。ですので、このような対は長辺で接続されると広場の
構造を形成し、短辺でつなぐと長い長方形を形成しました。ですから、これはある意味で洗練
された中間的なアイデアといいますか、こういった構造にすることで洗練された配置が可能に
なるとともに、最も簡素な創造性が融合することによってすべてのファサードが同じ顔になる
という単調さを回避すると同時に、ある程度のバリエーションを持たせることで私的な開放空
間と公共のそれとを区別することができました。
こういったプランナーたちの独創的な、農民への共感のおかげで古代の農業定住地を再生し、
例えばパンなどを焼くためのまきのオーブンといった設備がそれぞれ住居を隣接するユニット
において人が集まる場所となりました。それでマテラのサッシの人のつながり、農民同士の共
感が維持されたわけです。
これらのイメージは、中央の空間のエッセンスそのものを定義づける社会実践への参加の経
験について知るための空間となります。このようなスペースは、中央と周縁、境界を同時に見
ることができ、これがレスパス・ベキュ、つまり生活者の経験によって得られる空間を体現し
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たことになります。自然と文化がある特別なかたちで融合し、人々がその空間的周辺に参加す
ることによってある対話が生まれます。
こちらの写真にご覧になっていただけま
すクアローニの設計した教会ですが、大き
な建物でして、村の中心を形成しておりま
した。村の中心の中で教会という物理的、
象徴的役割を持っていました。もう 1 つ※
別の角度から見た教会の前の広場ですが、
まず広場の中心に教会があり、教会がある
ことにより農民が今その教会に行こうとし
ているところと、左側には都会的な人たち
fig9 マルドヴイコ・クワローニによるマテラ村の教会
がいるということで、教会が取り持っているというイメージです。メインの広場においては、
背後に教会が控え、神父の衣が風にたなびき、村人が集まっています。この建築的な特徴はイ
タリアのネオリアリズム建築を動かした理知的かつ感情的な魂をじょう舌に語るものでした。
建築家のジャンカルロ・デ・カルロが展開していったもう 1 つの素晴らしい例。これが 1970
年代中ごろのイタリアであった例ですが、この中では文化人類的なコミュニティの意味につい
て触れてまいりたいと思います。
まずコミュニティについて、少しひもときたいと思います。コミュニティとはある種のつな
がりであり、ある共通の利益の下に確立されるものです。ラテン語に communitas や同じ語源
の communis という言葉がありますが、仲間のあいだでの平等を意味しております。共産主義
のことを言っているわけではありません。仲間の間の平等、結束、共通崇拝などを意味してい
ます。19 世紀中ごろにはドイツの社会学者フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnie)
が 2 種類の人間のつながりの概念を設け、社会学的分類を与えました。それがゲマインシャフ
ト(Gemeinschaft)とゲゼルシャフト(Geselschaft)です。ゲマインシャフトがコミュニテ
ィ、ゲゼルシャフトが社会を意味しています。基本的にコミュニティとは、ある特定の地域に
居住するメンバーで成り立つ社会的グループのことであり、管理をすること、関心を共通にし
ています。個人は自分の利益関心の範囲でそのつながりに帰属していて、しばしば彼ら共通の
文化的、歴史的継承をしています。
これが私がラ・マルテラの例を用いて、集落として私が表現しようとしている最も適した表
現なのです。集落という言葉そのものが、私が今言わんとしているコミュニティの例に当たる
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ものを表現するのに最もふさわしいと思いますが、これは偶然ではありません。何か測定する
ことができるものではありませんが、その空間の認識がコミュニティを生んでいます。
最後に相互的な生活環境の問題もまた重要な視点です。相互作用によって人口がある一つの
地域に集まり居住地ができます。するとひとつの地域に居住し、環境の推移に従って中心的役
割を果たす場合を考えなくてはなりません。今現在でも、例えば日本でもそうかもしれません
が、イタリア、ヨーロッパの中では、人間が地理的な意味での景観に対して責任を持つことが
優先事項になってきています。これらの概念を実証するために、つまりコミュニティに関する
概念を求めてゆくために、次に大西洋を渡り、いわゆる新世界へと飛び、手短に新しいヨーロ
ッパからの移住者がどのようにこの概念について取り扱ったかを話したいと思います。
1970 年代の半ばですが、我々は非常にこの本の影響を受けました。ドロレス・ハイデン
(Dolores Hayden)です。こちらにご覧になっていただいております『7 人のアメリカ人』が
コミューン主義者の社会的な導入について述べています。アメリカの文化がこのコミューン主
義者のグループによって推移してきたことが共通の基盤となってきたアメリカ大陸に広がって
いたということです。ここで私は 1 つだけですが、いかにこのような社会的考え方がこの新し
い世界への移住の当初に広がっていたかを例示したいと思います。そしてその後、いくつかの
別の可能性のあるコミュニティの存在が 1970 年代にいかにアメリカ合衆国に広がっていった
かをお話しします。
先ほど申しました 1 つ目のグループは、シェーカー(Shaker)というグループです。シェー
カーの歴史は 1774 年のアメリカに始まりました。このとき 39 歳の労働者階級の女性が 8 人の
追随者を従えてイギリスのマンチェスターからニューヨークに渡りました。アン・リー(Ann
Lee)が彼女の名前でした。新たな規範をつくり地上の楽園を築くことを提唱しました。これ
を組合の経験を分かち合うことによって実現しようとしたわけです。
そこで、当時はアメリカでは共同生活の試みがほとんどなされていなかったのですが、シェ
ーカー達はまさに自分たちのコミュニティを形成しました。各コミュニティのメンバーは自己
の欲求ではなくコミュニティのニーズを優先するという意味で、これがいわゆるゲマインシャ
フトの形式でした。シェーカーの村での生活は完全にファミリーという単位が中心で、各コミ
ュニティは 2 から 3 のファミリーで構成され、大きくなると 5 つかそれ以上のファミリーがあ
りました。ニューレバノンは 8 つのファミリーで構成されていました。
ファミリーというのは相互に独立したグループを近隣のファミリーとの間に形成しています。
そして特定の距離が離れた形でその地域内に設置されていました。各ファミリーはそれぞれに
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住居、作業所、納屋を持っていました。ニューレバノンのシェーカー達もいわゆるニューレバ
ノンのシェーカー達のコミュニティを形成しました。彼らはこれがマネジメントのシステムを
持っていました。この経営システムに問題がなかったわけではありませんが非常に成功してお
り、おそらく人類のより良き限りない可能性を信じた社会を形成するためにコミュニティの形
成と運営が最良のかたちをとったと思われます。
1800 年になる頃にはシェーカー達は強い自覚を持っていたのですが、これは交易に関するも
のです。ですから、彼らのビジネスは繁栄し始めました。ここに※彼らがつくったものがあり
ますが、料理もしましたし印刷も石工もしました。家具をつくったり仕立てなどもしました。
さまざまなかたちでそれらを売ることによって収入を助けるかたちにしたのです。ニューレバ
ノンのコミュニティは非常に目に見える世界形成において影響を与えるものでした。集落を創
りだす計画、建造物、そして衣類、あらゆる種類の家財道具をつくっていたわけです。
ほかのシェーカー達のコミュニティがハンコック(Hancock)というところにありましたが、
これは 1778 年から 1836 年にかけて構築し続けられた、19 個のコミュニティのうちの 3 つ目
でした。当時 1830 年代には 300 人のシェーカー達が 6 つのファミリーに分かれてハンコック
に住んでいました。このビレッジはコミュニティ全体に影響し合っていきました。ハンコック
ビレッジは間もなくウェスタン鉄道に乗っていく旅行者とって主なアトラクションの一つとな
りました。1847 年にこの鉄道ルートについて記述されたものがあるのですが、このビレッジに
ついてまるまる 1 ページをさいてその人々や建物を紹介しています。
ウェスタン鉄道はシェーカーの人々にとっても自分たちや友人たちが旅行するのに有効な手
段でしたが、さらに重要なことに、自分たちの製作した製品を輸送する有効な手段だったので
す。つまり企業家精神を発露する移動の手段だったといえます。
ここで、地元で発行された出版物から引用します。
「最近ハンコックを通ると、その光景が向
上しているのにうれしい驚きを覚える。いつもながら整然としており、今や美しくなっている
近代化された家々、柱と板を載せた石の塀、広い固定ゲートは赤く塗られており、バネ式南京
錠で留められている。すべてが若返って見える」。
建てられた建造物の中で最も注目を集めたのは、円形の納屋で 1826 年に建造されました。
これが※コロニアルルーフ、あとでクープラと変わりましたが、その家畜納屋は特異的で独立
して建てられた建物でした。火災のためにいく度か再建されてきましたが、ハンコックビレッ
ジの象徴して位置づけられました。
シェーカーのコミュニティは、しばらく続いたのですが、実際 20 世紀の到来によってゆっ
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くり、しかし確実に衰退を始めました。理解に難くないことですが、拡大と産業化がこれらの
コミュニティのいわゆる存在意義を失わせていったわけです。
残存する中で最も訴えかけるものはこのシェーカーのデザインですが、これは集団の優美さ
を表象しています。そして俗世を離れた感覚をもたらしてくれるものです。ここに※いくつか
家具や家財道具のデザインの例が載っていますが、これがシェーカーのデザインです。最近、
もっと詳しく見てみますと、地球温暖化、不況、石油危機、情報の洪水、自然および人的な災
害、そして、地球上のいくつかの地域において高齢化ということがあることは言うまでもあり
ませんが、大きな変化をもたらしました。必要性と選択の両方の面において、多くの人々は再
び共同生活のもつ魅力に引きつけられています。ですから、今回は過去の成功と失敗の経験か
ら学んで豊かになったというかたちなのです。
私としてはこの経験をいわゆる試験的なコミュニティ、これは非常に興味深い言葉ではある
のですが、
「ユートピアス」という言葉で呼びたいと思います。ユートピアという言葉はもとも
と、
「どこにもないところ」という意味ですが、これを協調的で良い、地球に優しい場所へとい
う意味を持たせるという意図で、人々の良き生活をもたらすものといった意味合いを持たせる
ことで「ユートピアス」という言葉で呼びたいと思います。
この考え方は 60 年代、70 年代にアメリカ合衆国に、このようなかたちがもたらされ定着し
ていったことを申し上げたいと思います。このアメリカのリチャード・フェアフィールドとい
う方が、著述家なのですが、先駆者としての役割を果たしました。彼は画期的な雑誌である『ザ・
モダン・ユートピアン(The modern Utopian)』の編集者であり発行者でした。そしてティモ
シー・ミラー(Timothy Miller)は、
『モダン・ユートピアン:当時と今の別の可能性であるコ
ミュニティ(The Modern Utopian: Alternative Communities Then and Now)』という著作が
あるのですが、これによって反体制文化的な共同社会がアメリカの 1960 年代にいかなる状況
かについて述べました。
彼の文章を引用すると、「反体制文化的共同社会がアメリカの 1960 年代において」、私が個
人的に申し上げるともっと先に広がったのではないかと思いますが、彼によると「これが時代
を定義づけする助けになったにもかかわらず、政治、セックス、ドラッグやロックンロールよ
りははるかに注目度が低い、静かなる巨人であった。何千、何万という数が存在し、ある時点
においては何万もの反体制文化人が特定の、または他の共同社会に住んでいた」と述べられて
います。
1937 年に生まれた反体制文化の真の先駆者だったリチャード・フェアフィールドは共同社会
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の状況を内部からレポートしました。彼は当時、現在より拒絶と衰退にあったアメリカ社会に
おける新たな共同社会の重要性を見抜く目を非常に鋭く知覚していました。彼の雑誌である
『ザ・モダン・ユートピアン』は彼の書籍とともに、単なる共同体生活をあえて試みた記憶を
はるかに超えたものでした。彼の幅広い項目や示唆は我々の今日の社会に資するソーシャルネ
ットワークと同様の働きをしていました。ソーシャルネットワーク、例えばコンピュータとか
を使ったようなものですが、それによって人々を動かすことが現代はできるようになっていま
す。
そしてコミュニティは共同生活に関して、伝統的アメリカ方式とはまったく異なっています。
伝統的なかたちというのは、個人個人の精神的に独立した孤立的なかたちですが、共同生活は
相互の思いやりと開かれている事への激しい希求につき動かされた流れなのです。私がシェー
カー達の試みを簡単に概説することで明らかにしたように、これはアメリカ合衆国による最大
かつ長期にわたった共同社会生活であると思いますが、1960 年代、反社会文化よりはるかに古
い歴史を持っていることが分かっていただけると思います。
こういったアメリカ合衆国におけるコミューンですが、これは非常に有機的に発生していき
ました。いわゆる共同生活への活動がもっともっと早い時期から起こっていたわけです。これ
は居住型でいえば自己充足型生活を追求していたわけですが、そこには社会学的に識別された
グループ、性とか年齢とか人種といったものが含まれています。
カ リ フ ォ ル ニ ア の 学 生 運 動 家 活 動 と か 非 正 式 な コ ミ ュ ニ テ ィ 、 ビ ー ト 世 代 ( the Beat
Generation)の反社会な文化的価値観が東海岸、西海岸で発達したわけです。そしてアジアの
宗教への興味が若い世代の間で盛り上がっていきました。
構成員は特定の共通の視点を分かち合うわけです。非常に広い世界を理解するということで
す。ドイツ語で申し上げますと Weltanschauung という言葉になります。まずメンバーの中に
深い尊重と敬意と気持ちを自然に生態学的システムに対して持っているということです。2 つ
目が反体制意識が広く広がっていること。社会的、制度的向上の変化が必要であるという信念
が基本にあるからです。これによって人間的素質のため、人間に自らの可能性を発展させる機
会が生まれると考えているわけです。
これらの感情が我々の現代社会において有力になってきています。我々の社会制度の 1 つに、
自然を閉じ込めようという見解ですとか、自発性を窒息状態、そしてゲームを楽しんでいるか
のような、無気力な人工的な社会が優勢になってきていますが、こういった非人間的なものが
60 年代、70 年代の反社会体制支持者には敵対するものとして捉えられていました。
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南コロラドの平野のドロップシティ(Drop City)において、1965 年に、最も新しい現象が
みられました。これがドロッパーズなのですが、彼らはもともと型にはまらない創造性を求め
て進んでいきました。そしてドロッパーズの信条としては、
「我々は自然の摂理とともに働いて
いる、宇宙の力の道具となるべく努力する。我々は地球、空気、火、そして水がすべての人に
帰属し、売買したり所有したりできないものであると信じている。私たちは完全に革命的であ
る。我々は自由な宇宙において自由な創造物とともに同等に生きる自由な男女である」という
ことでした。この反社会的な意志は非常に強いものでしたが、私は彼らのこの言葉が私たちの
現在の社会にも適用されるのではないかと思っています。
ドロッパーズは自分たちの独自のコミュニティを形成し、素晴らしい構造物を建造し始めま
した。これはバックミンスター・フラー(Buckminster Fuller)、彼はジオデシックドームを
つくった建築家ですが、こういった人にインスピレーションを受けて、廃車のほろや屋根から
ジオデシックドームをつくりました。例えば廃材やゴミ捨て場の廃材から切り取った部品で屋
根を造り出しました。こういったものの写真は雑誌や新聞をアメリカ全土で飾ることになりま
した。アメリカを越えた世界にも広がっていきました。
このライフスタイルの試みの概要は、私の基調講演の主題を大きく離れているでしょう。し
かし、1960 年代と続く 1970 年代に繁栄したすべての共同社会を、すなわちコミュニティを全
部を書き出してリストにすることは誰にもできませんし、彼らが我々の近代史において文化的
変化の大きな時代である 1960 年代の世界文化に集団の力として大きな影響を与えたことは否
定できません。それ以外に同じように大きな影響を政治的に与えたもので私が思いつくのは、
9.11、つまり 2001 年 9 月 11 日のアメリカへの攻撃への対応以外には思い浮かばないです。
ではこれからもう一度、ほかの可能性を持ったライフスタイルについてお話をしてみましょ
う。これが現在の私たちの社会のモデルの一部になっていると考えられるからです。これが私
たちの社会的価値観の再構成について述べられた記事ですが、そこには、これが別の可能性の
ある生活への考えです。私たちの能力を家族の一体感という意味で再構築していこうという考
え方です。これはバーナード・ルドフスキー(Bernard Rudofsky)が、ほかの可能性のある社
会について、
「建築家なしの建築」で述べています。彼は自発的な建造物としての建築という概
念について述べました。
ここで手短に私の新しいケーススタディに移っていきたいと思います。非常に簡単に述べた
いと思います。数分しか残っていませんので、ジャンカルロ・デ・カルロ(Giancarlo De Carlo)、
のテルニ(Terni)にあるマティオッティ・ビレッジ(Matteotti Village)について簡単に述べ
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たいと思います。統合してゆくための過程についても述べたいと思います。またデザイナーと
ユーザーの参加についても述べたいと思います。また、どのようなことがさまざまなグループ
においてなされてきたかについてもお話ししたいと思います。
ジャンカルロ・デ・カルロの写真がここに※ありますが、彼は空間と社会の建築家でした。
テルニのプロジェクトは試験的なものでして、他のユートピアを標榜した建築家とよくにた考
え方を実施したものです。ジャンカルロ・デ・カルロがチーム 10 というグループで議論を行
なっている様子が載っています。これは、2 つの非常に目覚しい瞬間がありました。これはモ
ダンムーブメント、近代運動というものです。CIAM との決別のあと、チーム 10 は社会福祉
に関する状況への批判と勃興する消費者社会において対立する新しい局面に直面していました。
そこで、建築において新たな住民参加と再開発事業が社会的に成長してゆきました。
チーム 10 は、例えば新たな民主的な住民である利用者と建築家との関係を構築し、建築家
の見た固有性に関する課題についての論議を展開する為に触媒として役割を果たしました。
素早く話をしたいと思うのですが、いくつかの参考資料、チーム 10 の論議についての例を
お示ししたいと思います。テルニの実験についてのお話をしたいと思います。マティオッティ
の居住地はイタリアの国営製鉄会社むけにデザインされましたが、これはテルニの産業都市に
存在しています。イタリアの中央にあります。将来の住民との協力は反独断的な市民の情熱を
複数の建築的選択へと結びつけたわけです。当初からデ・カルロの意図するところは、利用者
がデザイン・プロセスに参画すべきであるという考えでした。この面を促進するために、積極
的で意志の高い住民との間で会合をもちました。さまざまな住居の状況、住居の課題が考えら
れてゆきました。最初デ・カルロは、非常に単純で非常に密度の高い、そして低価格の住宅を
想定していました。
そこで建築家はさまざまな目的のある会議などを通じて将来の住民と出会いました。時には
建築家は一方的に展示会だとか説明会などを開き、あるいは住民の必要性を把握するための調
査などを行いました。しかしこういう社会的な調査の結果はデザイン・プロセスに反映されま
した。トップダウンの都市計画とは違った手法を提示しました。
マティオッティはあたかも小さな集落のようでした。その第 1 段階、つまりフェーズ 1 しか
進行できなかったのですが実現した住宅は、長い 3 階建ての集合住宅が 4 棟と 2 階建ての集合
住宅が 1 棟のみでした。
すこし端折りますが、この住宅が非常にバラエティに富んでいて、250 戸には住宅の種類が
45 種類もありました。個々の住宅は奥に引っ込んでいたり、あるいは前に出っ張ったりして、
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凹凸をつけることによって単調さを避けたということです。
少しここでジョンカルロ・デカルロの映像を見ていただきます。このマティオッティのプロ
ジェクトについてインタビューを受けております。すべてを紹介することはできませんが、彼
が言っているのは、計画段階での市民の参画をいかに進めていくかについて語っているわけで
す。展示会、あるいはスケッチなどを活用して、将来の住民と対話を重ねるというこのプロセ
スは当時、大変珍しく、革新的な考え方でした。映像はここで止めさせていただきます。
さて結論に移ります。私の結論は大変複雑です。なぜなら皆さまにぜひご理解いただきたか
ったのは、私が先ほど提示させていただいたのは、つい最近の事例であるということです。と
ころが、より古い時代などの事例も非常に示唆に富むものがあるということで、古代から存在
する未来について、結論として説明したいと思います。
現在の西洋社会はますます明確で、しかし相反する方向に動いています。一方でこの主流の
文化は政府や産業界によってけん引され、絶えず経済成長と技術革新を求めています。その結
果として環境負荷が高まり、基本的な人々の必要性を無視する状況が発生しています。
これに真っ向から対立している潮流があります。多くの非常に広範囲なグループが、森羅万
象すべての生命が互いにつながっているという考え方に基づいて新しい潮流を促進しているの
です。緑の党の結成や環境意識の高まりなどによって自然の変化を広く受け入れる、より人間
的な生活環境をつくることを志向するグループの活動が非常に拡大しているということです。
これは、この人道的なアプローチ、そして生命のつながりについて語っているビデオです。
(動画再生)
私たちは自然の中に位置づけられます。我々はどのような自然との関係性を持つのか、社会
とはどのような関係性を持つのかといったことを考慮しなければなりません。産業社会の構造
はますます科学技術、大変狭い経済におけるパラダイムの相互作用によって規定されています。
そのことによって中央集権化と専門化が異常に進展してゆきます。産業革命以来、個人の権利
は制約され、政治経済の組織が肥大化しています。私たちは非常に学際的なアプローチで知識
を拡大していかなければなりませんし、政治や経済組織を分権化していかなければなりません。
よりバランスの取れた健全な社会を模索していかなければなりません。
今まで多くのことを申し上げました。そしてこれが私の講演が最後の部分になります。バリ
ー・ベルグドール(Barry Bergdoll)は最近随筆を発表しています。彼はフィリップ・ジョン
ソンが増築を手がけたニューヨーク近代美術館(MOMA)の館長ですが、その美術館で開催さ
れた展示会、"Home Delivery"と"Rising Currents"の目的について説明しています。ベルグド
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ールは、現在私どもが大きな変革期にあり、新たな必要性に対応するためには我々はノーマル
な状態に回帰しなければならないと明確に言っています。
端的に述べますと、今までスター・アーキテクトが非常に脚光を浴びてきた時代がありまし
た。それはスターのような建築家です。そういうスター・アーキテクトというよりも規模は小
さいですが、大きな変革や、社会とのかかわりを深める新しい建築のあり方という展示会をこ
の美術館がテーマとした事なのです。その展示会においては地域住民と密接なかかわりを持ち
ながら地域に貢献している建築家の作品が紹介されていて、コンペを待つものではなく積極的
に建築家が住民とかかわっていく姿を訴えています。住居、貧困、災害、気候変動など大変深
刻な問題に我々は直面していますが、これらの問題を解決するためには我々は地域から行動を
起こしながらグローバルな課題に対処していかなければなりません。
ベルグドールはこの新しい世界への介入を加速化させるためには教育機関の果たす役割が大
きいと言っています。私はもう 30 年近く教鞭を取っておりますが、このベルグドールの立場
を支持します。今後は学際的な教育が必要だと思います。例えば造園と建築、地域計画と経済
分析、デザインと人口開発の問題を学際的に検討し、参画型の対話とコラボレーションを通じ
て地域開発の新たな地平を開拓することができると私は信じます。私たちはこうした考え方を
共有していると思います。そして我々は良識のあるコミュニティの形成と運営を求めています。
Siena Palazzie の中でこうした良識を伴ったコミュニティの形成と運営を私どもは進めている
わけです。
私の基調講演が皆様にとって刺激になることを大変望んでおります。皆様ご清聴ありがとう
ございました。そしてこの会議にご招待いただきまいてありがとうございました。ラウンド・
テーブルに参加しますので、もしも提案やご質問がございましたらぜひご連絡をください。歓
迎いたします。
非常に長い時間にわたって講演をさせていただきました。誠にありがとうございました。
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