大滝詔子 短歌とコラム 怯むことなく 目 次 大滝詔子歌集(二〇〇八年〜二〇一四年)……………………5 大滝さんの短歌について…………………(大山敏夫)… コラム 点描(二〇〇八年〜二〇一六年)…………………… 大滝さんのコラムについて………………(大山敏夫)… あとがき…………………………………………………………… 32 31 6 124 大滝詔子歌集 (二〇〇八年〜二〇一四年) 7 大滝詔子歌集 大滝さんの短歌について 大山 敏夫 大滝さんの短歌作品は、初めて作ったと仰有るものか らずっと見させて頂いて来た。カナダにお住まいなので 投稿はすべて電子メールだが、このツールは例えカナダ からでも殆ど即着信である。いやはや便利な世の中であ る。わたしは、そのメールに一首ずつ感想を入れて、採 用は○、特に良いものには◎、ボツには×等を付ける。 ボツには何故駄目なのか、その代用案、時には作歌の初 歩の気をつけねばならないポイント等をランダムに書き 込んで返信する。 最初の三、四箇月のうちはいわゆる添削をすることも あったが、驚く程の対応力で作歌のコツを摑み、以後は 殆ど添削無し、簡単なコメントと○×を付けるだけ、そ のうちにただ選歌するだけとなる。歴史的仮名遣いをき ちんと使用し、表記の間違い文法間違いも無い。大滝さ んの歌は、わたしのアドバイスにも「二度と同じことを 言わせない」という強い意志の光を放っていた。 わが隣人オランダデンマークウクライナ祖国違へど 皆カナダ人 二〇〇八年 「イエス」「ノー」はつきり言ふも内心は「曖昧」に ゐる日本人われ 初期のうちにすでにこういう歌を作って来て。その完 成度と籠められた真実に打たれた。この人は本当に今ま で歌を作ったことが無かったのか、と幾度も疑った。 大惨事起こしたる国日本の原発停止の気配さへなし 海原に浮かぶ残骸大小の島のごとくに連なりてをり 広島の原爆ドームを思はせる福島原発第四号機 大震災と津波、原発事故を歌った作品も多い。皆しっ かりと主張するものばかり。やはり状況を凝視する眼は 訴える力を有する。 何事も相談せずに事運ぶ紀子は若き日の吾に似てゐ る 孫と娘の遣り取り聞きつつ何かしらうかうかしては をれぬと思ふ ひるむなく生きよ俺もさうしたと父は示しき口に出 さずに 父と娘、母と娘、そして孫。そういう「血」を意識す る歌も印象的だ。小さな孫からも影響を受けてあたふた する姿が、如何にも大滝さんらしい。そして、この本の 題名ともなった父の言葉。父親との関係がほろ苦く、ま た甘く、何か男同士の父子のようでもあった。 二百余の民族集ひて一国を成せるカナダの民として在り 二重国籍を許すはカナダの法なれど日本に帰れば吾は外人 「受け入れる」ことを学びき言語習慣違ふ人らの中に暮らして わが隣人オランダデンマークウクライナ祖国違へど皆カナダ人 何事も相談せずに事運ぶ紀子は若き日の吾に似てゐる 同棲をしてゐる紀子突然に挙式案内のメールをよこす ウエディングドレスは紀子のオリジナル苦心の作と知るは吾のみ 純白のドレスの紀子近づきぬ目線の合ひて目の潤みくる 氷河見んために乗りたる「マーキュリー号」豪華リゾートホテルのごとし 「マーキュリー号」の乗客二千スタッフ九百気になるゴミと汚水の行方 崩落の瞬間待ちゐて乗客ら無言で見つめるハバード氷河壁 8 9 大滝詔子歌集 「ハッピー・バースデー・カナダ!」公園に集へる人らの歓声飛び交ふ 「忠誠」と「服従」を誓ふ宣誓文読み上げしことあり意味考へず 「忠誠」も「服従」も忘れ群衆に紛れゐてカナダの旗を振るわれ 「イエス」「ノー」はつきり言ふも内心は「曖昧」にゐる日本人われ 夢を追ひゐしかつての吾には見えざりき足元にある石ころさへも パソコンに漢字変換頼りゐて書くは簡単消すも簡単 パソコンに漢字変換頼りつつ辞書を引くこと多くなりたり 送信のキイ打つときに一瞬の戸惑ひありてまた読み返す 短縮語、和製語、略語、カタカナ語、母国語なのにわからぬ日本語 紙面一面友の涙に歪む顔バンクーバーサン紙にありて驚く (一九八二年三月二十二日) 十六歳の原爆体験を友は語る米国評議員会の聴衆前に 記憶とは残酷なりといふ言葉思ひ出しをり記事を読みつつ 在りし日の友の苛立ち爆発す「みんなが原爆体験すればいいのよ」 同じ痛み感じられぬが話せ、書け、体験者にしか語れぬことを 意志強き友の生き様しつかりとわが胸にあり逝きし後にも (没二〇〇四年十一月四日) 二〇〇九年 これだけは見逃すまいぞワシントンからの一月二十日の実況 政治のことわからぬ吾も巻き込んでオバマ旋風衰へ見せず 常になく昂揚しをり一日を就任式のライブ観てゐて じんはりと目頭熱くなつてくる演説なぜかグウェンを想はす グウェンの歌ふ黒人霊歌違和感に縮みゐる吾を慰めくれき 押し付けはせぬが娘と話すとき吾は日本語のみに徹する 娘とのメールの遣り取りにできるだけ漢字を混ぜて丁寧に書く 車中にて好奇な視線を感じつつ英語の問ひに日本語で答ふ 10 11 大滝詔子歌集 思ふまま進めと娘を突き放す口は出さぬが見守つてゐる 共に住むことを望みし父なれば心騒ぐも否とは言へず 荷解きを手伝ひをれば真つ白なタオルの中に母の位牌が 飲まうよと誘つてみれば嬉しげに父は酒瓶抱へてきたり インド 同居(一九九五年) 酔つた目に涙うかべて淋しいと吾を見つめる父にたぢろぐ 俺の歳になればわかると口つぐむ父のコップに冷酒を足す 俺の役今終はつたよといふごとく父は突然逝つてしまへり 両の手を合はせ目礼インド式の挨拶をするホテルのボーイに 喧騒の中に微かに流れゐるアッラーへの祈りに耳そばだてる この段差この穴ぼこに気をつけろ言ひつつ夫つまづいてゐる わが知らぬ世界に居るらし一心に祈る男にしばし見惚るる 遊び心無しにはできぬタクシーの運転手との値段の交渉 原点となりしこの村プッタパルティふたたび来たり今度は夫と サリー着て髪にジャスミン眉間には赤のクムクム祭事に臨む 祈るとは願ふに非ず感謝ぞと逝きたる人の言葉浮かび来 鮮やかなサリーに日ごろの鬱憤を隠して女らよく食べ笑ふ 病弱の母親支へ八歳児今日も物乞ふ妹つれて 廃材に布張り付けたる家々のずらりと並ぶ寺院への道 水道も電気もトイレもなき家に鎮座してをり古きテレビが 修行僧カメラ向ければポーズとりルピールピーと右手差し出す 炎天下の露台に売らるる生魚客見当たらず蠅の群がる パパイアの甘き香りに値を聞けば外人吾には倍の値を言ふ 牛糞とゴミと腐臭と男らの視線の気になる狭き道行く 一人では来てはならぬと保健婦の友に従ひスラムに入る 三世代六人家族に狭き土間隅に筵の立て掛けてあり 覚えたる日本語一つ「こんにちは」子ら叫びをり別れる時に 12 13 大滝詔子歌集 二〇一〇 年 吾が子とは持ちたること無き時過ごすインドの子らと折り紙をして 鶴折れば亡き友想ふこの子らにいつか語らむ千羽鶴のことを 物乞ひの子らを引き連れ川へ行く石鹸数個を袋に入れて (九十六メートル) (三十二メートル) 全盲の子が晴れ晴れと語り出す教師になる夢きつと叶ふよ (アナンタプールの障害児施設) 狂ひなくリズムに乗りて踊りをる難聴の子らに手拍子合はす インドより戻り家族にわが伝ふ葬儀は不要散骨希望 胎内の胎児の写真吾が孫と言はれて暫し言葉失ふ 孫といふことは忘れて胎内に形成されたる姿に見惚る 胎内に二十週目のこの胎児五本の指を開きてをりぬ 頬に手を添へて胎児のしかめ面いつたい何を煩ひをるや 淡々と二つの命を生きてゐる娘を今はそつとしておく 義妹より賀状届きぬ虎の絵に芳三郎画と父の名のあり 満州の馬賊に憧れ渡りしと父の十八番の話懐かし 軍服の父と撮りたる唯一の満州の写真失してしまへり 有栖川公園近くの引揚げ者用のバラック未だ忘れず 泥酔の父のことのみ浮かび来るもう忘れてもいい頃なのに ナスカの地上絵(ペルー) 垂直に立つ地平線セスナ機の大きく右に旋回すれば 迫り来る地面一面幾何模様数多の直線白く浮き立つ 溝といふべきかこれらの白線を幅一メートル深さ三十センチ パイロットの指す右下にくつきりと猿の輪郭尾は渦巻きに 猿の絵の全長百十メートル眼下にあるも大きさ掴めず 宇宙飛行士と名付けられたる人らしき絵は山肌に右手をあげて 夕方にならねば見えぬ絵ハチドリは神よりの使者とパイロット言ふ 機首上を向けば突然目の前は眩しきほどの空の青のみ 14 15 大滝詔子歌集 受話器より聞えてきたり数時間前に生れたる孫の泣き声 祖母といふ初めての役まごまごとこの二、三日手順の悪し 生れたての児を両腕にそつと受く意外に重しふはふはなれど 疎かにするまい天の計らひを今日から吾は「島のばあちやん」 血のつながりあるとは言へどエミリーと名付けられたる一つの命 眠りつつふふつと声出しにんまりとしてゐるこの児生後三日目 ポカラへの道(ネパール) 満席の長距離バスの女客吾の他には老婆が一人 比較して何にならうか素のままを見ることこそが旅の醍醐味 ダッシュボードにガネーシャ神据ゑ運転手しばし黙祷出発前に ポカラへと二〇〇キロの道を七時間公営バスに山間を行く またここに石積み重ね慰霊塔らしきものありココナツ添へて バス道を占領されてのろのろと山羊の群れ追ふ子の後を行く トイレはと訊けばあそこと顎で指す岩と潅木数本あるのみ 途中より乗り込み来るこの男小脇に山羊を抱へてをりぬ 二メートルはあらうかこれはポインセチア枝先の赤ルンタの如し ポカラにて 祈ることが仕事と若きこの尼僧屈託のなき笑顔を見せる マザーテレサの意志を継ぎたる尼僧らに漂ふ気迫吾はたぢたぢ 何故かうも心の動く途上国に働く人らは吾が刺激剤 カメラには収め切れぬぞこの全景胸内深くに確と留めむ まづ一歩踏み出してみよ父ならばきつとさう言ふ迷ひたる時 ポカラにておこがましくも始めたり言葉も解せぬボランティアわれ 地図を見て確かめてゐるネパールと同じ緯度なり奄美大島 サンフランシスコ 四十余年振りの再会約束のロビーに行けば直子さん居る (障害者教育施設) スーツケースを一つのみ持ちこの街に着きし日は晴れ一九六七年九月十六日 船酔ひの治まらぬまま下船せし桟橋は確かこの橋の下 (ベイ・ブリッジ) ゆきずりの旅行者吾に惜しみなく手を貸しくれし人は幾人 あの頃のことは語らずここにゐる夫との「今」を大切にせむ 16 17 大滝詔子歌集 二〇一一年 水槽に閉ぢ込められ居るイルカらを笑顔に見てゐる人間吾も 囚はれの身にありながら笑みてゐるやうな顔付きイルカと目の合ふ 目の前に泳ぎ来りて胸内を見透かしたるかイルカの一瞥 微笑める如くに見ゆる顔なるも笑つてをらぬイルカの眼 宙に弧を描きてイルカの潜りゆく先に広がる海原は無し 海原を全速力に泳ぎゐし頃をイルカは覚えをるやも やるせなき思ひは募る軍用に兵器としてのイルカもあると 哀れみは無用といふか自らも愉しむごとく芸するイルカ 紅葉を天に捧げて地に還す木々の営みここの森にも 散りさうで散らぬ葉のありあの枝にひらりひらりと何を待ちゐる 思ひつきり手の平広げ重ねみる国旗の図柄と同じ型の葉 触角の先にあるらし吾が目には見えぬほどなり蛞蝓の眼 じつくりと蛞蝓見をれば目頭の熱くなりたり訳わからねど 害虫と言ふは驕りか蛞蝓としての役割きつとあるはず ラスベガスのやうになるとは思はねどバンクーバーに増えゆくカジノ スーパーの出店阻みし吾が町の人らカジノの建設拒まず 嘆きてもことは変はらぬ吾が出来る唯一カジノに行かぬと定む 買物の帰りにカジノに寄るといふビルは野菜の高値を嘆く ウクライナを捨て来し自分の逝く先は天には非ずここと地を指す この会話が最後とならむケアホームに移り行くビル八十五歳 牡蠣狩りをせしはこの磯今はもう殻一つさへ落ちてはをらぬ いつもなら今頃のはず何故か鷲は海辺に姿を見せず もう海に狩りはせぬのか白頭鷲群れゐる場所はゴミ捨て場とぞ 赤きもの銜へカメラを見据ゑゐる白頭鷲の鋭き眼光 この海に何起こりゐる鮭漁も不振と漁師の嘆く声あり 18 19 大滝詔子歌集 日本に起きてしまへり大惨事地震、津波、原発破壊 がつくりと打ちのめされたる心持涙拭きつつ観てゐる惨状 米軍の「トモダチ作戦」発動す災害救援活動部隊 統合の救援部隊十万の自衛隊員二万の米兵 淡淡と苦境に耐へゐる被災者に感嘆、敬意、称賛の声 全世界からのこの声日本の人らに届け「ガンバレ・ニッポン」 「フクシマは警告する」のプラカード掲げてデモするドイツの人ら 原発の事故の評価、反応の違ひ日本に危機感のなし 大惨事起こしたる国日本の原発停止の気配さへなし 敢へて問はねばならぬか電力と人の命のいづれの大事 地震国狭き日本に五十四基原子炉のあり計画中も 高濃度放射能まみれの現場にて作業してゐる人ら幾人 「原子力正しい理解で豊かな暮らし」避難区域に残る垂れ幕 孫の孫そのまた孫の代までも消えぬ毒性核廃棄物 「オンカロ」と呼ばるる核のゴミ捨て場北緯六一度東経二一度 高濃度の核廃棄物安全なレベルになるまで一〇万年とぞ 真顔にて議論してゐる科学者らこの一〇万年に起こり得ることを 収束の見えざる事故の状況を先づはネットに探る毎日 「死の灰」と呼べば恐ろし核のゴミ無色無臭なれば尚更 ヨウ素剤求めし人あり福島より八千キロのバンクーバーに スリーマイル島事故以降米国に新設されたる原発の無し 日本の大手マスコミ採り上げぬ情報数多ネットにて読む 知るほどに情けなくなる日本の政情これほど酷かつたのか 意思表示せねば判らぬ官僚や議員の監視は国民の役 惨事より半年漸く声上げぬ六万人の「さようなら原発集会」 「この国は事実を隠す、国民を守らないのだ」と言ふ声震ふ 初めてのデモ参加とぞ「この子のためもう黙つては居られません」 嬉しくも悲しくもありこの光景幟の「怒」の字に思はず涙 これほどの惨事も他人事命より経済重視の人たちも居る 20 21 大滝詔子歌集 二〇一二年 船舶の一部だらうかあの破片「福島」の文字くつきりとあり 東日本の津波の残骸太平洋に漂ひをると今夜のニュース 船、車、テレビ、冷蔵庫そのままの形にあるを見るは切なし 海原に浮かぶ残骸大小の島のごとくに連なりてをり いわき市の母親は言ふ「無知でした、この児を被曝させてしまつた」 先づ子らの命を守れと母親ら立ち上がりたり線量計を手に 大間原発建設中の敷地内に「あさこはうす」と呼ばるる民家 原発の用地買収をこの親子拒み続けて三十五年 山形より干し柿届き放射能気になりますかとメモ添へてあり 吾が家の食材ほとんど米国産気になる農薬、遺伝子組み換へ 放射能が怖いと身内に言へぬのが辛いとブログに書き込む女 〈放射能〉〈避難〉の言葉も禁句とぞ何起こりゐるここの人らに 「ばあちやん」と両手を広げハグせむと走り寄り来るエミリー二歳 エミリーと話すときには日本語に徹して欲しと娘に言はる 原発の危険を知りつつ声上げずゐたる吾にも責任のあり よくぞこの取材をしたりドイツ人記者の報道「フクシマの嘘」 日本の〈原子力ムラ〉なる存在を世界に知らしむ「フクシマの嘘」 日本の復興力たれネットにて繋がり動き始めたる人ら 草の根の活動数多日本のことを真摯に考へてゐる 名言と思へり本田宗一郎の「脳ある鷹は爪を出せ」 広島の原爆ドームを思はせる福島原発第四号機 「福島」が「 Fukushima 」になり原発の問題世界に拡がりゆけり 青空に轟き渡る和太鼓の音に祭りの気分高まる 「パウエル祭」と呼ばるる日系夏祭り今年で三十六回目なり 「女太鼓」の演奏男顔負けの迫力ありて拍手惜しまず 22 23 大滝詔子歌集 「たこ焼」の屋台今年は海老入りの「大阪焼」に変りてをりぬ 戦前の日本人街を行くツアー案内役は二世の若者 驚きと哀しみ胸に人々は浜に死にたる鯨を囲む 息をせぬ鯨の上に数本の白き小花の供へてありぬ 神妙な顔に子供ら近寄りて鯨の死骸にそつと触れをり ナイロンの魚網の口に絡まりて鯨は捕食できずにゐたると 三・一一の漂流瓦礫かもしれず鯨に絡まりゐたる魚網は 二〇一三年 顔付きの日本人とそつくりの先住民らこの町に住む ただ単に日本人と顔付きの似てゐるだけで親しみの湧く 新天地をカナダと決めて年二十五万の人ら移住して来る 住み心地良き国カナダの評あればテストに高点取りたる心地 日本人カナダ移民の第一号明治十年に永野万蔵 (一八七七年) 「塩鮭王」の名を持つ万蔵息子らをカナダに残し長崎に死す 足を止め巨大ハリケーン「サンディ」のライブに観入るテレビ売場に 人の名を付けられ熱帯低気圧ハリケーン年年巨大化しゆく マンハッタンの街路に押し寄せ来たる水地下鉄口に流れ落ちゆく 超巨大ハリケーン「サンディ」はドロシーの孫らと遊びし浜辺を襲ふ 「サンディ」の爪跡観つつまた想ふ東北震災、原発の事故 オバマ氏の銃規制強化の発言に常より賑はふ銃を売る店 銃には銃で対抗すべしと言ふ声を聞けばずつしり気の重くなる 」 写真集「 Hoshino`s Alaska 仰向きの腹に子を乗せふざけあふ熊の写真に笑みの誘はる 海面に頭を突き出してこの鯨眼は確とカメラ見てゐる 写真集「 Hoshino`s Alaska 」を繰りゆけば胸のもやもや少し薄らぐ むんむんと生気を感ず森中を緑に覆ふ苔の群生 24 25 大滝詔子歌集 目に見えぬものをも写し観せくるる星野道夫の写真の魅力 大氷原に白熊一頭悠然と行く一枚に特に惹かれる きつぱりと自分の意見を主張する若き人らにたぢたぢとなる 親と違ふ国が祖国となるカナダ生れの若き人ら逞し 親たちの国の血を引き若者らカナダを如何に育みゆかむ 少数にありても無力と思はざり声上げるべし持続は力 (ハワイ島) 懐かしき思ひ込み上ぐ知るはずのなき奉天の街の映像 (現瀋陽) 吾が生地奉天西熱望町二十四番地にいま誰が住む 名のみ知るウォンさん今も健在か赤子の吾を護りくれし人 幾度も父は語りきコロ島に二歳の吾の迷子になりしと 満洲の馬賊に憧れゐし父の話聴くたび心躍りき 鈍行に旧満洲を巡る旅果たせぬままに父は逝きたり じんわりと胸熱くなる中国を列車に巡る番組観てゐて 日本人は初めて見たと大写しになりたる老女に前歯の有らず 荒涼たる溶岩台地にオアシスの如く現るショッピングモール 経営は成り立つのかとつい思ふ豪華なモールに人影まばら 住み心地良きか知らねど売家の値カナダに比べ意外に手ごろ 古き家買ひ改造し売りに出すを繰り返し来し大工の夫と 壁を抜き床を張り替へ二人して古家を改造するは愉しき 健やかに成長してゐる証なり幼の「なぜ?」と問ひ掛けくるは 当然と思へることにも平然と幼は「なぜ?」と突つ込みてくる 噛み砕き幼の「なぜ?」に答へやる娘見てゐる感心しつつ 孫と娘の遣り取り聞きつつ何かしらうかうかしてはをれぬと思ふ 日本語の要所要所に英単語を混ぜて成り立つ孫との会話 この先の世は如何ならむ何時までも孫には「なぜ?」を発しゐて欲し 26 27 大滝詔子歌集 今日も居るあの樹の枝に白頭鷲何を見をるや手を振つてみる 身繕ひを終へたる鷲の雲一つ無き大空にひよいと飛び発つ 早朝の冷気の清し天空に際立ちて見ゆ星座オリオン 寒空にくつきりと在る北斗星心浮き立つほどの煌き 北斗星を見付け心を躍らせし小学生の頃を思へり 早朝のこの季の星座の華やぐを独り愉しむ胸ときめかせ 二〇一四年 畑荒らす鹿に困り果てゐしがしばし姿を見ねば気になる この草もあの樹の鷲も鹿たちもみんな親戚と思ふは愉し あの山との別れが辛いと言ひし父いまなら解るその胸のうち 親戚のひとり増えたりアフガンと日本の血を引く女の子なり アフガンより無事帰還せし若き兵自死すと聞けばまこと切なし 眼前の路上に子連れの鹿のをり停車して待つ渡り切るまで なかなかに道路に一歩を踏み出せぬ小鹿の仕草に笑みの誘はる 息を飲み時を忘れて眺めをりマグマのやうな色の朝焼け ぴりぴりと肌を刺すのは光線か黄金の朝陽をたつぷりと浴ぶ それぞれに料理持ち寄り大晦日を娘の友らと過ごす今年も 若者の活気の満てる輪の中に迎ふる新年輝きの増す 親族の九人に囲む元旦の卓の主役は三歳の孫 嬉しくてたまらないよといふやうに鯨はジャンプす大海原に ヤッホーと叫びをるやも大鯨力の限りジャンプをしつつ ジャンプする鯨を嬉しがつてると見るは人間側の勝手か どこにでも棲めばいいのだ熱帯魚のカナダ沿岸にゐるとのニュース エネルギー資源を取り合ふ戦ひの未だ続けりヒトといふ種に ここにまで移り来たるかバーナビー市の車道を歩くコヨーテの居る 28 29 大滝詔子歌集 コヨーテの増えつつあるらし狼の数の減りゆく米大陸に 侘しさの漂ひてをりコヨーテのとぼとぼと行く後姿に 食べ物にありつけたのかとつい思ふ目の前をゆくコヨーテ一匹 た コヨーテの姿に思ひおこさるる吾がここの地に移り来し頃 コイドッグと呼ばるる雑種の誕生すコヨーテと犬の交尾の結果 う 日本語の使へぬ国に長く住み何の因果か短歌詠み始む 言葉もて思ひを確と韻文に収めることの何ともどかし 英訳を試みるとも日本語に潜める微妙さ伝へきれない いつまでも気になつてゐる父の言「生き来し証を全て消したい」 繰り返し核実験のありし場所ネバダ砂漠の上空を飛ぶ 突然に雲のなくなり眼下一面山吹色の大地現る ラスベガスの北西わづか百キロに核実験場の在るに驚く 「風下の住人」と呼ばるる被爆者ら政府相手に闘つてゐる 名を変へて実験場のまだ在るは新核兵器開発中か わさわさと世界の人らの集ひ来るラスベガスに在る核実験博物館 戦争を促すやうな展示物と批判の声のあるに救はる 幻の歌になりしか満洲に父の作詞の「愛馬に捧げる歌」 応募作「愛馬に捧げる歌」に得し賞金はみな酒に消えしと ひるむなく生きよ俺もさうしたと父は示しき口に出さずに グランドキャニオン 大空と境をなして大峡谷見渡す限り岩の断崖 露出した岩の断崖絶壁の縁に立ちをり柵を掴みて 千四百メートル真下の谷底にある小屋の見ゆ豆粒のやう 本、テレビ、ネットを見ずの十日間旅の時間に身を任せゐる また来たよこの梅の葉は旨いんだ鹿の眼の言ふ吾を見据ゑて 30 あどけなき鹿の眼につい忘る食ひあらさるるゑんどうの芽を 韮、ケール、ビーツ、蕗、葱、鹿が手につけぬ野菜のわが卓にのる 知恵比べいまだ続けり畑守る夫と侵入して来る鹿と 威厳ある角の大鹿わが背丈ほどある垣を軽軽と越す どのやうに鳴くのだらうか大鹿の妻を呼ぶ声聞きたきものを 何がどうなつてゐるのか複雑で理解し難し中東問題 米兵の撤退すれば当然かこの時ばかりと内紛激化 ネットにて戦闘員を募りつつ「イスラム国」の力増しくる テロ組織「イスラム国」の目には目の報復につぐ報復止まず 人間の心の奥の奥にある残虐性をまたも見せらる マスコミの力恐ろし知らぬ間に考察力を奪はれてゐる 玉ねぎの皮を剝くごと潜み在る先入観を取り外したし (二〇〇八年〜二〇一六年) 〈合計二九九首〉 コラム点描 33 大滝さんのコラムについて 大山 敏夫 このコラムも又、随分と大胆なものであった。大滝さ んもよく引き受けたものだと思う。でも、これが大滝詔 子なる人物なんだということは、今になれば納得出来る。 小田実の『何でも見てやろう』を読んで衝撃を受け、ワ クワクするような膨大な世界を思い描き、旅行記や留学 記を読み漁り、自分も必ず行くのだと、夜学に通い、旅 費を貯めながら密かに案を練っていたと大滝さんは仰有 る。この本の表紙カバーを飾る写真は、そんな気持に胸 膨らませ、初めての異国の大地を踏みならして闊歩する 姿である。大滝さんの勇気なら、こんなコラムの連載等 何の苦にもならないだろう。だから、入会後たった三、 四箇月の身でありながら、あっさり受け入れた。 タイトル「カナダ 短歌 」は、何でも良いから短歌 に結びつけてカナダから発信して欲しい、という申出で あった。最初に届いた原稿を二度に分けて掲載すること にした。少し緊張した硬さがあったが、大真面目な興味 深い情報で刺戟になった。最初の二十回分頃までは、タ イトルに忠実な材料を集めてあって懸命に取組まれてい る誠実さが伝わって来た。「こんなので良いのでしょう か。何か注文があれば…」というような話も一度ならず 聞いたが、わたしは「とても気に入っています。自由に 書いて下さい」というふうにお答えした。 一つの転換ポイントになったのは 回目の「ララ物資」 であろう。「ララ物資」の背景と感謝の気持を、豊かな 情報量で述べる。実は読者の一部から編集室へ、大きな 暖かい反応が舞い込んだのはここが最初である。ララ物 資には世話になった人が多いのだ。その全体が具に書か れていて胸を打たれたのであろう。 以後は何か呪縛から解き放たれたように一気に幅広い 話題へと、伸び伸びと広がって行くのだ。読後感も頻繁 に来るようになる。「タネが危ない」「癒す心・治す力」「波 動」「食料廃棄」「うりずん」等印象的な頁が幾つも思い 浮かぶ。そんな中で最も衝撃だったのは 回目の「預言 者」である。インドで逢った不思議な預言者との遣り取 りが躍動的に描かれていて魂消た。とに角このコラムは 幅広い取材と見事な筆致、そこに短歌を巧みに溶け込ま せるテクニックも際立ち、毎月楽しみに読ませて頂いた。 回の連載は、そこに毎回使う写真のラインナップを見 るだけでも、その膨大さに驚くのである。 ができてしまったという。 大切だと言って取り合わなかった。 それ でも気になっていたのか、このような短歌 も習いたいと学生が言ってきても、基礎が と話せる日本語を教えてほしい、スラング が日本語教師の使命だと考えていた。友達 体の丁寧なきちっとした日本語を教えるの 聞 え て く 声までもが が 見 え て、 学生達の顔 柄 や、 教 室 沢さんの人 い 歌 で、 鵜 簡 潔 な、 分かりやす の 雰 囲 気、 は、教科書を自分で選べる立場にもなり、筑 「です、ます」体の日本語と共に、カジュ アルな日本語、女性語、男性語、助詞の省 院生の頃から、まったくの初心者に日本語 博士課程(言語教育学)を修了した。大学 士課程を修了。1994年には、同大学の ンビア大学の図書館で働きながら大学院修 カタカナの自分の名前いち早くマディー 皆が嬉しがりたり カタカナの名札作りて手渡せばクラスの 出てくることに驚くダニエル アルファベット叩けば画面にひらがなの 面が想像できる楽しい歌だ。 うな笑顔で睨みつける鵜沢さん。そんな場 らっ子のような笑みと、ちょっと怒ったよ 意味はもちろん知っている。ベンのいたず は、 日 本 に 居 た こ と が あ る の で、「 便 」 の 上級のクラスになると、漢字オタクにな るカナダ人の学生が結構いるという。ベン ベンはいつも「便」とテストに名前書く 「勉」という字を知りながら書く Situational Functional る。 折々のうた〉に取り上げられ、岩波新書の らだという。 72 を教え始め、それ以来、カナダ、アメリカ 22 う。 東京都出身の鵜沢さんは、1971 年にカナダに移住。ブリティッシュ・コロ 略などが入門の段階から導入されていたか 』を使用。 Japanese 波大学で開発された『 そ の 後、 レ ス ブ リ ッ ジ 大 学 に 移 っ て か ら この歌は、十年ほど前につくられたもの で、その当時の鵜沢さんは、「です、ます」 91 『新折々のうた5』に収録されているとい の作品。この歌は、朝日新聞に連載の〈新 短歌翻訳家・鵜沢梢(うざわこずえ)さん カナダ・アルバータ州レスブリッジ大学 の元助教授で、現在はバンクーバー在住の されるとマイケルこぼす 習いたる日本語どれもていねいで馬鹿に 「カナダの短歌事情」1 to が器用にコピーしており の大学で教えてきた。 カナダの大自然と大滝さん御夫婦⇒ カナダ to 短歌 1 34 35 「カナダの短歌事情」 2 はとても 来たとき うまく出 日本文学を世界に伝えることを目的として に、日本文学の翻訳活動を促し、より広く 翻訳賞)を受賞した。同賞は、一九七九年 翌二〇〇七年には、この本が日米友好基 金日本文学翻訳賞(通称ドナルド・キーン 労 す る が、 嬉しいと 創設されたもの。受賞した著書の中で気に 英訳を し な が ら、 きかなしみの河 いっている作品は、小島ゆかり歌で、英訳 れたのがきっかけ。裏千家の茶道誌『淡交』 英語短歌を書く必要性を感じ、二〇〇五年 I cannot reach/tomorrow/Unless I cross/ いう鵜沢 の歌壇に投稿した中の1首が、佐佐木幸綱 に タ ン カ カ ナ ダ を 結 成。 カ ナ ダ で 初 め て ため、と感じた鵜沢さんは、 年ほど前か ているが、 TANKA を知る人は少ない。こ れはあまりいい短歌の翻訳本が出ていない 共 訳 の プ ロ ジ ェ ク ト を た ち あ げ、 二 〇 〇 六 年 に『 観 覧 車・ 英 訳 現 代 短 んの目にとまった。 トラリアに住むアメリア・フィールデンさ カジャーナル』に投稿した作品が、オース ようと、精力的に翻訳活動に取り組んでい いたいのだと語る。昨年退職したばかりの 歌を翻訳して、たくさんの人に読んでもら 今まで出ている翻訳本のほとんどが、和 歌や平安文学関係の学術書なので、現代短 of deep sorrow が書かれていない・人名や地名が入ってい 歌 一 〇 一 首 』( this river of deep green/this river 渡らねば明日へは行けぬ暗緑のこの河深 がぴったりと決まった作品だという。 により、年間最優秀賞に選ばれたこともあ さんだ。 る。 現 在 は 東 京 の 短 歌 結 社「 心 の 花 」( 佐 佐木幸綱主宰)の会員でもある。 る歌は英語圏の人には理解しずらい・オノ )を出版し ModernContemporary Tanka た。 寺 山 修 二、 河 野 裕 子、 俵 万 智 ら の 歌 として英語圏にも普及し HAIKU マトペ(擬音語、擬態語)がうまく使って 一〇一首の現代短歌を、1首ごとに日本語・ 俳句は あっても、それをそのまま英語にはできな ら自分の好きな短歌の英訳を始めた。主語 これほどの手応えと一体感は初めてだっ 国内で、これまで何度も朗読をしてきたが、 手の感動がジンジンと伝わってきた。日本 の だ と い う。「 実 際 に 読 み 始 め る と、 聞 き れない「何か」を、ぜひ感じ取ってほしい る。翻訳から意味をくみとるだけでは得ら 欲ともなって が作歌への意 で い る よ う だ。 自身が楽しん を北久保さん 応えと一体感」 し て い る。「 手 短歌の紹介を ニュースレター カナダ日本語教育振興会: 号~ 号 バンクーバー経済新聞 参考文献:バンクーバー新報 る。 鵜沢さんは、英語圏の人たちへ短歌を広げ い・英語にしたときに面白くなくなってし ローマ字・英訳の表記でまとめてある。 た。 その情熱に突き動かされ、心の深み から朗読してゆくと、たくさんの魂が会場 いるのだろう。 全体的に味わってもらう、という形式をと 内で大きな渦になったような気がした。こ 「カナダの短歌事情」 日本の伝統的な五音七音の韻律を聞いて ほしいと、国内外で、短歌の朗読活動に力 れからも、心と心に響き合う歌を作り続け 五月。 目的は短歌の朗読だ。カナダ在住 の詩人・俳人・歌人たちで組織する「ハイ ティバル」に参加したのは、二〇〇六年の 北久保さんが、自作の短歌を持って、バ ンクーバーで催された「短歌・俳句フェス る北久保まりこさんだ。 れ合うことができる、ということは確かな 違う感性を持つ人達とも、心の奥底では触 紡ぎだしてしまうようだ。日本人とは全く 北久保さんが言う「手応えと一体感」をも 日本には言霊という言葉があるが、言葉 の 奥 底 に 宿 っ て い る 力 は、 言 語 を 超 え て、 たいと思う」と感想を述べている。 わ が 殻 を 破 り て ゆ か む も う 一 度 生 ま 歩一歩確実に広がっている。 後、カナダ、アメリカへと、活動範囲は一 (オーストラリア)朗読会に参加し、その 北久保さんの短歌朗読活動は、二〇〇二 年 に 始 ま り、 二 〇 〇 五 年 に は、 初 の 海 外 そ し て、 そ れ を注いでいる歌人がいる。心の花、現代短 ク・カナダ」主催のイベントは、俳句や短 れてごらんと声がきこえる 日本独自の詩形である短歌が、翻訳され、 多くの異文化に触れることによって、新た ●参考資料 tanka.kitakubo.com 今月の視点より) ( 二 〇 〇 三 年 八 月 号 『 短 歌 往 来 』 調の「韻律」を感じてもらう。次に英訳し な一面を持ち始める。北久保さんは、吟遊 い と、 ま ず 日 本 語 で 短 歌 を 朗 読 し て 五・七 た 短 歌 を 読 ん で、 内 容 を 理 解 し て も ら う。 詩 人 の よ う に、 朗 読 パ フ ォ ー マ ー と し て さんは、日本語の短歌の響きをぜひ伝えた のだろう。 32 歌愛好家の研究発表の場ともなる。北久保 29 10 歌協会、日本歌人クラブなどの会員でもあ 3 一 〇 一 Ferris Wheel: ま う 歌 も あ る・ な ど、 翻 訳 を す る の は 苦 る。鵜沢さんが日本の英語短歌雑誌『タン の 英 語 短 歌 同 人 誌『 Gusts 』の発行も始め た。現在会員は世界各国に一二〇名ほどい 鵜沢さんの短歌暦は 年。バンクーバー に住んでいたときに、短歌の勉強会に誘わ 15 そしてもう一度日本語で朗読して、作品を 写真は裏隣の家の木に来る白頭鷲が飛び立つ瞬間⇒ カナダ to 短歌 2 カナダ to 短歌 3 36 37 「俳句・ハイク・ 」 Haiku 『ウェブスター第3新国際辞典』(一九六一) な ど の ハ イ ク 専 門 誌 が 続 々 と 出 て い る。 ケイダ(蝉)」「フロッグポンド(蛙の池)」 「アメリカン・ハイク」 (一九六三)以降、「シ 書き始める人が出てきた。最初のハイク誌 ナダのハイク詩人。 の は、 ウ ィ ノ ナ・ ベ た。 大 賞 を 受 賞 し た 語が各百五十句だっ ランス語とイタリア ド イ ツ 語 二 百 句、 フ イカーさんというカ では、 Haiku が〈日本独特の詩形〉と記さ れているが、一九七九年初版の『オックス フォード・アメリカ語辞典』には〈日本の 十 七 音 節 の 三 行 詩、 及 び、 こ の 形 式 を ま moss-hung trees/a deer moves into ’ s silence the hunter 苔の垂れる木々・鹿が入ってくる ねた英語の詩〉と記載され、俳句が Haiku として独立した。日本文学研究家ドナルド・ キーン氏は「日本文学の中で一番外国人に き て、 八 万 句 に も 達 し た こ と が あ る。「 奥 作らない人たちもが賞品目当てに応募して テ ス ト 」( 一 九 八 八 ) で は、 普 段 ハ イ ク を 日本航空ニューヨーク支店が、米国・カ ナダの居住者を対象に催した「ハイクコン る木々?」と訝る人もいたようだが、これ いの句と賞賛された。選考の際「苔の垂れ 知 れ ず( 山 口 誓 子 )〉 に 通 じ る 新 し い 味 わ Haiku ハンターの静寂の中へ(星野恒彦 訳) 句は日本だけのものではなく世界の ・ (ブライス)が『 Haiku 』シリー H Blyth ズ四巻(一九四九―五二)を出版し、発句 は Lichen (ライケン)という地衣類の植 物(写真)でカナダの森林に繁茂している。 一発の銃声で破られる危うい静寂と不安 な緊張を表していて〈海に鴨発砲直前かも 影響を与えたのは間違いなく俳句です。俳 誌 に 英 語 の 発 句 を 紹 介 し た。 同 じ Reader 頃フランスでは、日本の極めて短い詩に注 になったと思います」と述べている。 や子規の俳句を紹介した。ブライスが鈴木 の細道三〇〇年」を記念した山形県主催の 第二次世界大戦後、日本在住の英国人 ・R 大拙の門下に入り、自ら禅僧になったこと カ国から約二千八百句が集まった。そのう う。 のように消えてしま れるが、 Haiku の手法や精神などはアメリ カハイクが世界的に幅を利かせている。禅 米国作家リチャード・ライトが晩年に書 き残したハイク四千句から八一七句を紹介 kcg.jp/acm en.wikipedia.org 「世界俳句大会」(一九八九)では、二十八 多い。 参 考 資 料 も刺激となって、米国では禅ブームが起き 説書などが次々に出版され、英語で俳句を 米国のゲイリー・ゲイの川柳 仏教の精神を基盤にして俳句解釈を紹介し 」 Haiku ( ブ ラ イ ス ) は、 英 国 人 作 家 R.H.Blyth 一九三六年から六四年(没)まで日本に在 た ブ ラ イ ス の 影 響 は 大 き い。 が、 か っ て、 「俳句・ハイク・ ク(訳・宮下恵美子) ロバータ・ベアリー (米国)の六語のハイ snowmelt/ the logs/ 住した。第二次世界大戦中は敵国人として he left behind 雪解けや彼の残せし 抑留されていたが、終戦直後、学習院大学 国、 豪 州 な ど の 英 語 圏 へ と 広 が っ て い っ つカナダが加わって北米俳句圏を作り、英 ヨーロッパの街角で見かける舗道にテー ブルを並べたレストラン。給仕の少年が雨 テーブルから(訳・星野恒彦) 嵐のあと・少年が空を拭きとる る。 I am nobody/A red sinking autumn sun/Took my name away 参考資料 www.haiku-hia.com 文化を背景にして、 Haiku は自由な広がり を持って定着し、今もなお進化を続けてい 際 的 な 短 詩 型 文 学 Haiku と な っ た。 日 本 の俳句世界とは全く違う、それぞれの国の 日本を離れた俳句は五十余年を経て、国 我名無し秋の夕日に取られけり した『 HAIKU ― この別世界』より(訳・ 渡邊路子) 薪の束 の 教 授 に 就 任。 天 皇 の 人 間 宣 言 文 の 草 稿 日本の形式をまねて作られた Haiku は、「三 者の一人でもある。鈴木大拙と共に『 行自由詩」あるいは極短の詩形として、新 The しいスタイルに変化している。愛媛県主催 』( 一 九 四 六 ー 四 七 ) を 出 版 Cultural East の「国際ハイク大会」で一位のダルコ・プ た。米国で発行されているハイク誌をみる 上がりのテーブルに溜まっている水を拭い after the storm/a boy wiping the sky ラザニン(ユーゴスラビア)の三行ハイク と、ハイクの他に川柳、連歌、俳文なども from the table 盛んに作られているのがわかる。特に川柳 ていくと、水に映っていた青空も雲も魔法 はハイクと区別しないで載せている場合が ブームの発端であ 米 国 に 於 け る Haiku る。隣国であり様々な面で密接な関係を持 し日本に駐留していた GHQ や占領将校ら に俳句、川柳、禅などの紹介につとめた。 現在では、ヨーロッパ、バルカン諸国な ど、推定七十カ国で愛好されていると言わ オゾン層に穴・僕の禿穴・日焼けして hole in the ozone/my bald spot sunburned (訳・星野恒彦) ち英語で書かれているのは約二千三百句、 る。日本文化に関する本や俳句の英訳・解 がりを見ないうちに消滅する。 目し、俳諧と呼んで熱心に取り組んだが広 一九〇四年、野口米次郎(詩人)が滞米中、 への普及を簡単にたどってみる。 いる人たちもいるようだが、俳句の英語圏 外国人が彼らの言葉で書く俳句に類似し た短詩を、日本では「ハイク」と表記して 1 2 写真は Lichen(ライケン)という地衣類の植物⇒ カナダ to 短歌 4 カナダ to 短歌 5 38 39 「俳句・ハイク・ 」 Haiku 3 りのある三行詩を ラスで俳句・短歌を指導する取り組みも一 部で見られる。世界二十三カ国の子供たち キリンは太陽に一番近い いる。クラゲの研究をして で俳句を詠む外国人俳人が 鍬や鎌片辺けに置きて今は聞く大型農機 る音 が大地を躍 ではなく、日本の Haiku 俳句精神に則って、日本語 だからそばかすがいっぱい いる D.J. リンズィー氏は オーストラリア出身。季語 が詠んだ Haiku の本、日航財団編『ちきゅ うのうた』より(日本語訳者は不明) 幸せ者ね (ロシアの十三歳の女子) いつも月につながれて いう。日本語の句集『むつ という意味でとらえたいと を自然界の何かを指す言葉 海はまるでドーベルマン 逃げ出そうとしている 異人我れ陽炎を掴みつつある掌 ごろう』から。 (ニュージーランドの男子) 毎年開催される〈海外日系文芸祭〉は今 年で五回目。俳句と短歌を通して、海外日 稲妻の光りて時間こはばりぬ 思考的俳句を提唱している。彼も日本語で 系社会と日本との交流を図る目的で始まっ 一般人から二千の作品が寄せられた。短歌 作句する。句集『空青すぎて』より。 愛好家には三種類あるそうだ。象徴 Haiku 的に使った言葉が、言外で多くのことを含 俳句両部門の中から最高賞に選ばれたのは マブソン青眼の俳号を持つフランス出身 のローラン・マブソン氏は自然・エコロジー ブ ラ ジ ル・ ク リ チ ー バ の 武 井 貢 さ ん の 作 品 週五日うすい邦字紙待ち兼ねる 記事にあまたの百の字重く 文芸祭賞のタイの堀井京子さんの俳句。 参考資料 バンクーバー新報 後、フリーの通訳・翻訳のかたわら短歌を の 言 葉、 そ れ ぞ れ の 感 情 を え 方 も 変 わ る が、 そ れ ぞ れ 質 問 に は〈 文 化 が 違 え ば 考 www.yurinndo.co.jp/yurin/back 勉強。河野裕子の短歌の研究で修士論文を さびしいよ、よよつと言ひて敷居口に片 行 詩 Tanka 歌の紹介に努めている。 が形成されてい く と い う こ と な の だ ろ う。 東 京 で 開 か れ た シ ン ポ ジ ウ ム で は、 フ ィ ー ル デ ン 氏 が 翻 訳 し た 河 野 裕 子 歌 集 『 My Tanka Diary 』より。 英 語 短 歌 集 五 冊 を 出 版 し た。 simplyhaiku. 定 型 に 入 れ て 詩 に す る こ と や tankaonline.com 等 に 自 作 の Tanka は 可 能 〉 と 返 答。 そ れ ぞ れ com の 文 化 圏 内 で、 短 歌 的 な 五 や文章を載せて、ネット上でも精力的に短 書く。これまでに八冊の英訳歌集と自身の スコールや野良犬散りぢり塀の穴 パラグアイ・ラパスの宮里玉枝さんの短歌。 人夏祭りでの勝ち抜き相撲大会 でブラジルの日系移民百周年を詠ったもの。 た。今年は世界十四カ国の小学生、大学生、 足 し て し ま う タ イ プ。 ブライスの四 R.H. 巻の『 Haiku 』の影響で禅宗的な悟りを体 験したいという、米国人に多くみられるタ イプ。 Haiku を通して自然と一体化する方 向を目指すタイプはヨーロッパ、特にフラ ンス人に多いという。 を授業に取り 海 外 の 小 学 校 で も Haiku 入れる所もあると聞く。カナダでは州の公 立中・高等学校の選択科目である日本語ク 「短歌の英訳」 発足六十周年を迎えた日本歌人クラブの 国 際 部 で は、 短 歌 の 国 際 化 を 目 指 し て 活 動 を 続 け て い る。 三 年 ご と に 開 催 さ れ る 』) を My Tanka Diary とりあげ、日本語の短歌を英語に翻訳する 『 日 付 の あ る 歌 』(『 ことの問題点などを語った。英訳上の技法 方の踵でバランスを取る ’I m so / so, lonely! / I wail ていること。基準を音数ではなく語数に置 一語一語英語に移し変えられて屈伸やは デン氏を招いての研究会があった。フィー ので、意味が通じないときは意味を優先す 英語と日本語は語順が逆になる場合が多い る。 語 順 も 可 能 な 限 り 原 作 に あ わ せ る が、 one by one my words are transformed into English with the gentle flexing 参考資料 www.kajin.org www.modernenglishtanka.com of her penciled letters 写真は日系人夏祭りで大人気の太鼓の演奏 balancing on one heel / at the threshold 原作に最も忠実に英訳された歌。 バ ー・ バ ン コ ク で 開 催 さ れ て き た。 ま た、 く こ と を 提 唱。「 五・七・五・七・七 」 の 韻 律 と し て、「 五 行 書 き 」 が 世 界 の 標 準 に な っ を 発 行。 The Tanka Journal 主に英語と仏語だが、独・露・中・韓・ア を「三・五・三・五・五」程度の語数に抑える と、より日本的な短詩のニュアンスに近づ くという。訳者は原作者の表現を可能な限 ル デ ン 氏 は シ ド ニ ー の 生 ま れ。 名 古 屋 大、 り忠実に英語に移し替えることを心がけ 東 京 大 で 平 安 文 学 を 研 究 後、 た び た び 来 思 う が、 英 語 で 書 く こ と は 可 能 か 〉 と の る。〈 短 歌 は 日 本 の 風 土 に 密 着 し た 詩 だ と た後、政府の日本語通訳として働く。退職 日。オーストラリアの高校で日本語を教え の詩人で短歌翻訳家のアメリア・フィール 二〇〇七年九月、第二回短歌国際化シン ポジウムが東京で開かれ、オーストラリア う。 年 に 二 回、 ラブなど様々な言語が載るときもあるとい らかき鉛筆の文字 は、 こ International Tanka Conventions れまでロスアンゼルス・ハワイ・バンクー 春の月 汐引いてしばらく砂に はるあかり 紫煙にも紫煙の影や春燈 写真は今年三十二回目のバンクーバー日系 ませることができるという驚きと感動で満 と呼んでいるが、 Haiku 日本の伝統的な俳句とは違う、自由な広が い が、 世 界 の ほ と ん ど の 国 で Haiku が詠 まれている。多くのハイキスト(俳人)は、 日本の俳句人口は一千万人を超えると言 われている。海外の俳句人口は定かではな カナダ to 短歌 6 カナダ to 短歌 7 40 41 したもの。結城文氏は一九九二年から短歌 か っ た と い う。 英 訳 の 短 歌 は 五 行 書 き で、 アクセントにも留意して短歌特有のリズム を保つようにし、原作にできるだけ忠実に ております。時間の濾過を経て、氏の意識 時それが『とこしへの川』として出版され 時からすこしずつ書きはじめ、六十一歳の の た め、〝 決 し て・・ な い 〟 の た め、 そ し 愛のため、記憶のため、健康のため、地球 も あ り ま す。〈 中 略 〉 真 実 こ れ ら の 歌 は、 合的記憶の内部に読者の心身を置くことで 一九四五年の彼の過去へ、人類の不変の集 写真は広島の被爆者(故)絹子ラスキー 氏デザインのブロー moving against each other – the dead dark, dark water filled with full to the brim all over her blood who cling to me – I run drugging a nurse くろぐろと水満ち水にうち合へる along the dark corridor 訳したという。序文を寄せたイスラエルの 死者満ちてわがとこしへのかは の英訳を手掛け、この本の翻訳には三年か 平和運動家・医師・世界詩人会議副会長の 「原爆短歌」 エルスト・カーン氏は「竹山広の書く短歌 「短歌を英訳し海外の人々に紹介したい と思った時、心に浮かんだのが、竹山広氏 は音楽性のある歌で、抒情的なスタイルで す が、 非 常 に 写 実 的 で も あ り ま す。 被 爆 のなかから余剰のものが沈潜し、その上澄 て人類のためのものでもあります」と高く 者として悲劇的な個的体験を読むことは、 みの部分だけが作品化されております。そ チ。氏はバンクーバー w w w. n a g a s a k i - n p . の 小・ 中 学 校 を 巡 り 「 長 崎 原 爆 は、 歴 史 の か な た の こ と か 」 と竹山広氏は問いかけている。 my everlasting River れゆえ作品はリアリズムに立脚しながら、 評価している。 原爆の怖さを語り続 透明感のあるかなしみをたたえた、いわば けた。 芸術的な昇華をとげた作品群になっている 竹山氏は『竹山広全歌集』で、斎藤茂吉 短歌文学賞、詩歌文学館賞、迢空賞を受賞。 』〈は Everlasting River 二 〇 〇 七 年、 第 八 歌 集『 空 の 空 』 を 刊 行。 じめに〉より) といえましょう」(『 参考資料 』( 竹 山 広 歌 集『 と こ 『 Everlasting River しへの川』百首抄)は、結城文氏が『とこ 人種の多様性を尊重する多文化政策を、世 南米やアジアからの移住者が増え、民族と パ 系 八 十 %、 Visible minority と呼ばれる 非白人系少数民族十七%、先住民族三%。 三千二百万人(日系人六万人) 。うちヨーロッ 二 〇 〇 六 年 の 国 勢 調 査 に よ る と、 総 人 口 女王の代理をする) 。 公 用 語 は 英 語 と 仏 語。 元首はエリザベス二世女王 (カナダ総督が 州が集まってカナダ連邦を形成している。 れ た の が 一 八 六 七 年。 十 の 州 と 三 つ の 準 日本の国土の二十七倍の広さを持つカナ ダ。 英 国 か ら 自 治 領 と し て 独 立 が 認 め ら クーバー日本国総領事専門調査員の小池克 からの謝罪と保証金を得るに到った。バン 後保障問題に取り組み、一九八八年に政府 戦 前・ 戦 中 の 迫 害 に 耐 え た 日 系 一 世 は、 当時を語らなかったが、二世らの団結で戦 韓国系四万五千人、日系は二万五千人。 イ ン ド 系 二 十 万 人、 フ ィ リ ピ ン 系 八 万 人、 口 約 二 百 万 人 の う ち、 中 国 系 三 十 八 万 人、 の定着率が高い。人 クーバーはアジア人 カナダで三番目に 大きい都市のバン と続く。 イツ語、スペイン語 語、イタリア語、ド 仏語以外では、中国 く、次いで仏語。英 てはいない。使用言語は圧倒的に英語が多 る が、 Visible minority や先住民族に対す る偏見や差別意識は、残念ながら無くなっ 占める。差別や格差の撤廃を目指してはい が急増。現在では中国系は総人口の四%を 次々と娘ばかりを五人生み夢中で育て ゑ聞きつつ嬉し 日本語をたどたど話す四世の孫達のこ 中すみえさん (九十歳)の作品。 している会員もいると聞く。日系新聞バン 歳代。日本の結社「コスモス短歌会」に属 つ。会員数二十人。年齢層は四十から九十 バンクーバーには日系人の様々な同好会 が あ る。「 バ ン ク ー バ ー 短 歌 会 」 も そ の 一 という期待をせずにはいられない〉 きたカナダが、ヨーロッパやアメリカとは 独特な歴史と斬新な政策で世界を驚かせて ダ社会の一部になるだろう』と論じる。〈略〉 ての人々が日系に含まれ、変わりゆくカナ であり、日系の遺産と活動に関心を持つ全 もが日系になることを「選択」出来る時代 結成したゴードン門田氏は『これからは誰 という目的は達成され、多くの日系の生活 定義する必要に迫られた。補償問題の解決 co.jp/peace 界で初めて正式に導入した。七十四%の国 憲 氏 は 日 系 社 会 の 変 容 を こ う 書 く。〈 九 十 曳きずり走る暗き廊下を 民が多文化主義を支持し、難民を積極的に た昔を思ふ 参考資料 en.wikipedia.org/canada 第二次世界大戦以前は、カナダへの移住 者の大半はヨーロッパの出身だった。戦後 「カナダ」 受け入れ、年間約二十五万の人達が移住し 年代以降、日系コミュニティーは自らを再 クーバー新報にも短歌を発表している。田 違う方向性を示してくれるのではないか、 が 格 段 に 向 上 し た。〈 略 〉 日 系 全 国 組 織 を てくる。八十年代以降、中国系、インド系 しへの川』の中から百首を選び出して英訳 血だるまとなりて縋りつく看護婦を 現在八十八歳。『 Everlasting River 』より。 なかった原爆詠を被爆十年後の三十五歳の し た。〈 中 略 〉 氏 が 悪 夢 に 怯 え て つ く り 得 の長崎における原爆体験をうたった短歌で カナダ to 短歌 8 カナダ to 短歌 9 42 43 池〉は東京ドーム顔負けの広さを持ち、〈蛙〉 ふるっていました。彼のイメージする〈古 押し。なかでもウガンダからの学生の答は 見 せ た。「 結 果 は・・・ 迷 答、 珍 答 が 目 白 要素にわけ、フランス語で三行書きにして をした。 〈古池や蛙飛び込む水の音〉を〈古 池〉〈そこに飛び込む蛙〉〈水の音〉などの 学生に、俳句を解釈してもらうという実験 中央大学の加賀野井秀一教授が、あるフ ランスの大学で、様々な国からきている留 る国は、世界的には特殊な国であるらしい。 千万の人が母語だけの単一言語で事が足り すということを疑う必要もない国、一億数 でも通用し、日本人なら誰でも日本語を話 本民族しかいない。日本語が日本国中どこ 世界中で日本だけ。日本語を使う民族も日 つ。日本語を国語とし、公用語とする国は を保って暮らしている。日本もその中の一 現在地球上に住む約六十七億の人たち は、多彩な文化圏内で、それぞれの民族色 ん」(『日本語を叱る!』加賀野井秀一著) 感性によって察知されなければなりませ 音の後にくる静寂などが共通のスケールや が必要であり古池の大きさ、蛙の姿、水の 俳句を鑑賞するにはかなりの「暗黙の前提」 が、当たり前と言えばあたり前。なにしろ そ の 違 い や、 外 か ら 見 て 感 じ る 諸 々 を、 日本語や日本、海外の日本語環境等を織り 人の書く俳句とは趣が違うものが多い。 歌 も 作 る と い う。 俳 句 は Haiku として定 着したが、三行自由詩であって、当然日本 を書く多くの人が短 英語圏では、 Haiku ることは、かなり難しい。 の奥に潜む微妙なニュアンスを正確に伝え 本 人 の 感 性 や、 日 本 語 限 り、 異 な る 文 化 圏 に よほどの日本通でない 文 化 の 一 面 な の だ が、 り 立 つ。 こ れ が 日 本 の ミュニケーションも成 言わずに言うというコ ・・・ (1) 」 はさらに凄い。食用ガエルのような巨大な 長い歴史を経て、異国との接触も少なく、 特異な環境の中で育まれてきた日本人と日 古池や蛙飛び込む水の音 外から見ると やつが、何匹もゲコゲコと鳴きながらやっ 本語。物の見方、考え方、感じ方、行動様 「 てきて、ドブンドブンと水に飛び込むとい 式など、日本人特有のものが、無自覚・無 Of an ancient pond! なことどうでもいい。それより『日本語に にとって日本語がどんなものかって、そん どんな存在かとの質問に、こう答えた。「僕 るインタビューで、彼にとって日本語とは という。ブラジルに渡った 所もの移住地区があった 語圏のあちこちに、二千ヵ ラジルというポルトガル 区を築いた。過去には、ブ いえる日本人集団移住地 (ドロシー・ブリトン訳) Jumping into the stillness 交ぜて、数回に分けて書いてみたいと思う。 生 ま れ 育 っ た 人 に、 日 うのです。こんな解答をしたあげく、彼は Listen! a frog 同士が持つ同質性のゆえに、意思の伝達も 意識の部分にまで沁み込んでいる。日本人 んこの詩の素晴らしさは、カエルの動きの 「察し」で言葉を補う傾向が強い。短歌や 涼 し い 顔 で こ う 付 け 加 え た の で す。『 た ぶ ダイナミズムにありますね』 とって僕がどんな存在か』のほうがずっと ぽこり』で講談社エッセイ賞を受けた。あ 俳 句 の よ う に、 暗 示 を 好 み、 余 韻 を 残 し、 外から見ると 「 大事じゃないかと思う」 化をいかに子孫に伝えていくかを模索し ていることになる。外国人に対して閉鎖的 バーの総人口以上の外国人が日本に定住し 気の遠くなるような遥かな道のりの 遠い遠い旅路の 一人一人の顔は 稼ぎブラジル人の実態は知らないが、日本 の様相が変わり始めている。日本にいる出 環境を整えた。が百年を経た今、日系社会 てきた。移住地に住む子供には豊かな言語 日本人は、日本語や日本文 アーサー・ビナード訳『日本の名詩、英 語でおどる』・茨木のり子の〈顔〉より、 だと言われていた日本も、ようやく門を開 その果ての一瞬の開花なのだ peculiar faces is a brief blossoming 南米。カナダの日系社会での日本語継承は 海外で日本語が日常的に使われている国 は、日本人の移住者が多いハワイや北米や at the tip of an astounding tour 米国ミシガン州出身のアーサー・ビナー ドという詩人がいる。様々な言語に出会い けになってしまうと調査結果がでた。とこ british-academy.tea-nifty.com/ba/2008/04 recre.boxerblog.com/nihongo だ。 写真は建国記念日のパレード。 参考資料:ニッケイ新聞(ブラジル) まぜの様相だ。面白い世の中になったもの 思考回路も違う外国人。今や世界はごちゃ を 併 せ 持 つ 日 系 二 世、 三 世 は、 価 値 観 も の陽気さ強かさと、古風な日本の慎ましさ 操り、演歌も歌えばサンバも踊る、ラテン 語とポルトガル語やスペイン語を自由に けたようだ。今の日本には新たな活力が必 from the remotest of ages, each of our Having roamed across vast distances, 世界を知る機会が増えることはいいこと だ。日本の常識や価値観が通用しないこと もあると知ることから始めて、同化ではな ながら日本語の魅力に取り付かれた人だ。 ろ が ブ ラ ジ ル で は、「 日 本 語 文 化 圏 」 と も 日本に住んで二十年。二〇〇一年に日本 語の詩集『釣り上げて』が第六回中原中也 二世までで、三世になると大多数が英語だ 賞を受賞。二〇〇五年には『日本語ぽこり く共生を考える時代なのだと思う。 要だ。異国人の、発想の違う視点から見る が 二 百 十 五 万 人 も い る。 メ ト ロ バ ン ク ー 二〇〇七年の日本の入国管理局の統計を 見て驚いた。在日外国人の中・長期滞在者 ・・・ (2) 」 いやはや恐れいった解釈ではあります カナダ to 短歌 10 カナダ to 短歌 11 44 45 外から見ると 「 ・・・ (3) 」 こ と だ。 世 界 中 しているという るやかなものに 裸の群れに刺さる陽の雨 青春の涙悔しく脱衣所の を見せた。 げ、留学生には英語科の先生が訳したもの の、 全 く 違 う 環 語 が、 多 様 化 さ even the bright rain in the sun With tears of regret, 境や文化背景の 世界で、日常的に使われている言葉のう ち、最も多い使用者数を持つ言葉は中国語 れていくのは自然ななりゆきだ。言葉は生 日本人の生徒には説明なしにすっと分か るこの歌が、留学生には難解だったようだ。 naked young players painfully (福島泰樹・訳者不明) 化を客観的に、明確に解説してある。 の言語観〉など、日本語と日本人や日本文 の中の日本語の位置〉〈日本文化と日本人 考えているか〉〈文字と言語の関係〉〈世界 得 力 の あ る 本 だ。〈 日 本 人 は 日 本 語 を ど う 三十七刷となっている。分かりやすく、説 昭 和 五 十 年 発 行 の こ の 本 は、 平 成 八 年 に カ ナ ダ や 米 国、 英 国 等 で 客 員 教 授 を 歴 任。 年 生 ま れ の 言 語 学 者、 慶 応 大 学 名 誉 教 授。 潮 選 書 ) を 参 考 に し た。 著 者 は 大 正 十 五 「外から見ると・1~4」は、『閉ざされ た 言 語・ 日 本 語 の 世 界 』( 鈴 木 孝 夫 著・ 新 与え、伝統的な英語文法の規定を広げ、ゆ ア語的な言い回しは、英語に大きな影響を ドイツ語・フランス語・スペイン語・ロシ り上手に表現されている例も多いと聞く。 しや表現が沢山あり、それらが純粋英語よ を母語とする人なら決して使わない言い回 ない人が多い。文法的に正しくても、英語 論文を書く人のなかには、英語を母語とし や書き込む人、またはビジネス文書や学術 によって、自分の物の見方が変わり、違っ ちの視点が入っていて、日本語で書くこと るということ。日本語の中に、その先人た き込んできたお陰で、選択技がたくさんあ 年月をかけて、様々な形で日本語に命を吹 いう。数え切れないほどの表現者が、長い 書いていて、ありがたく思うことがあると に日本語に向き合っている。日本語で詩を 出身の詩人アーサー・ビナード氏は、真摯 語で書く外国人作家が活躍している。米国 また、日本語に堪能な外国人も増えてい る。文学界や俳句・短歌の世界でも、日本 の姿を世界に向けて発信し始めた。 日本からも日本人の手で、日本人そのもの 野で活躍している日本人が世界中にいる。 近年になって様相が変わった。あらゆる分 理解させるための努力を怠ってきた。だが 理解しようと努めてきたが、自国のものを 昔から、外国のものは積極的に取り入れて 日本語の持つ威力を改めて知った。日本は 切り離すことができない。この本を読んで 日本の、ある学校の授業で短歌をとりあ 理解しにくい点にあるようだ。 う日本人と日本語の結び付きの特異さが は日本語自体にあるのではなく、それを使 の難しい言葉だと言う人は多いが、難しさ るという。外国人にとって、日本語は習得 国語としての日本語を学ぶ人が増えてい は別に、日本の文化を手がかりにして、外 に翻訳されたマンガ本や DVD が店頭に並 ぶようになった。経済的・学術的な研究と 馴れているようでもやつらは いくらおとなしく 何回もさせる。 輪抜け跳びを 一行の と鞭打つ。 〉が、もし英語の中に棲息 will bite the cat して、人々が知るようになれば、言語が少 〈 いのはおかしい。 現する英語がな の に、 こ れ を 表 で大事な知恵な は な い。 普 遍 的 いう諺は英語に 鼠猫を噛む』と 参考資料: 必要がありそうだ。 (続) 言語 ja.wikipedia.org/wiki/ がどんな言語なのかをしっかりと見極める 思いを正確に伝えるためには、まず日本語 外国語の習得はもちろん大事だが、自分の お互いに理解し合うための大切な道具だ。 国際化が進むなか、慣習や感性の異なる 人たちと接する機会が増えている。言葉は な ぜ 泣 い て い る の か、 刺 さ る 陽 の 雨 と は、 fell on the crowd of で、十三億人。次いで英語九億人、スペイ 活に密着し、環境の変化に伴って、常に変 ン 語 四 億 人、 フ ラ ン ス 語 三 億 人 と 続 く が、 容しながら新しい文化に溶け込んでいく。 を言葉で説明しても、意味はわかるが、そ 政治・経済・科学などの広い分野で、国際 ういう歌の何がおもしろいの?という反応 中で使われる英 的に影響力を持つ言葉は、英語ということ 北米では、寿司やカラオケが完全に定着 した。今、若者の間では日本のアニメやマ 日本語は曖昧な言語だ、日本人ははっき りものを言わない、議論下手だ、などと言 た視点を得ることができるということ。ま www.cafeglobe.com/news/interview/026 「吠えろ」と怒鳴り 「芸になってない」 アーサー・ビナード・日本語の第一詩集 『釣り上げて』・〈ことば使い〉より、 しだけ広がることになる、とも言う。 A cornered rat www5d.biglobe.ne.jp/~plalz/tanka.htm だったという。 われているが、なぜ外国人の目にそう映る 猛獣。 参考資料 ・・・ (4) 」 のかが分かってきた。無意識に使っている た、英語にはない言葉を翻訳して海外に紹 外から見ると 日本語を外から眺めると、自分が見えてく 介 す る こ と も 大 事 だ と い う。 例 え ば『 窮 「 る。日本人の考え方、生き方は、日本語と インターネットに蓄積されている情報の 大多数が英語だが、その情報を利用する人 になっている。 ンガが人気の的になってをり、英語や仏語 カナダ to 短歌 12 カナダ to 短歌 13 46 47 年(明治三十三)までの十五年間に移住し となり、集団移民は禁止される。一九〇〇 排斥をやるなら今のうちですぞ 『新世界』にはこんな歌が載った。 集団移住が禁止になると、自由移民者が 米国本土を目指し渡米。一九〇〇年の一年 一九二四年(大正十三)米国は日本人の 移民を全面的に禁止。移民一世は米国の市 1」 洋沿岸の町に日本人社会を築き始める。 世は自動的に米国籍。 一 九 〇 〇 年( 明 治 三 十 三 ) 九 月 八 日 の『 新 世 界 』 に 載 っ た 俳 句。 『新世界』は 「 移民たちの歌・北米 日本人として初めて米国本土の土を踏ん だのは土佐・中の浜(高知県土佐清水市中 一八九四年(明治二十七)にサンフランシ やがては国を貰ひますから 松嶺子 録がある。江戸時代末期、今から一五〇年 スコで創刊された邦字新聞。異郷に居なが た人は六万四千人。当時のハワイ総人口の 前、 十 四 歳 の 万 次 郎 は、 出 漁 中 に 遭 難 し、 ら日本の風物を眼前にあるかのように詠 第一次世界大戦では、日本は連合国側に 立ってはいたが、日米間の関係はしだいに 米国の捕鯨船に救助される。船長に才能を む。 park18.wakuwaku.com/~hibi/html/ 四十%を占めるほどになっていたという。 認められ英語、数学、航海術、造船技術な あけはなつ座敷匂ふや土用干し 葡軒 年(明治十八)明治政府公認の最初の組織 不 所 持 ) な が ら ハ ワ イ に 渡 る。 一 八 八 五 招くと、排日・反日意識が強くなっていく。 渡米者の多くは出稼ぎが目的。低賃金で 真面目に働くため、米国人労働者の失業を カリホルニアの秋の夕暮れ なかむら jshinbun 参考資料: www.city.tosashimizu.kochi.jp 写真は一九六七年のワイキキ・カラカウ ア通り(ワイキキはハワイ王朝時の保養地) 一九四一年の日本軍の真珠湾攻撃は、日 系社会を一変させた。(続) 民権を取ることができず、米国生まれの二 悪化。米市民の不審と警戒心は増大する。 どを学び帰国。幕府の直参に迎えられて幕 一九〇六年(明治三十九)十一月三日に 載った作品。徐々に当地詠が増えていく。 www.pacificresorts.com/webkawaraban/ が留学生だった。 的集団移民九四四名が、ハワイの農園労働 なそもかく淋しさまさるかりの宿 者として渡航。八年後、ハワイ革命により 一九〇八年(明治四十一)二月十一日の 出稼ぎが目的で渡米した初期の移民たち が、配偶者や同県人たちを呼び寄せて、偏 一九六〇年代から七〇年代にかけて盛り上 守 り 続 け て、 米 国 社 会 へ の 同 化 に 努 め た。 精 神 的 打 撃 は 大 き く、 戦 後 長 い 間 沈 黙 を に と っ て、 経 済 的 損 害 も さ る こ と な が ら、 補 償 運 動 に 重 要 な 役 割 を 果 た す。 日 系 人 で多大な犠牲を払うことになるが、戦後の 隊を編成する。この部隊はヨーロッパ戦線 戦争は終へたりと言へ吾が進路いづこ けてきこゆカヨテの叫び声 森すみ子 一九四六年(昭和二十一) 果てもなき荒野に建てる収容所の夜ふ う兵士なりけり 作者不詳 一九四三年(昭和十八) 敵国人われの男の子はこの国の忠誠誓 に、年代順に、歌に関連した歴史的事実と 見や過酷な労働に耐えながらも、現地に定 がった公民権運動や黒人解放運動は、米国 にありやと亡き母に問ふ 江顕桂舟 す る 日 系 二 世 の 若 者 た ち は、 迫 害 を 受 け、 着する人が増えていく。日系人社会が形成 人の意識を変え、新しい法律が数多く制定 「北米万葉集』より それらの持つ意味も簡潔に記してある。 さ れ て い く な か、 日 米 関 係 は 悪 化 を 続 け、 さ れ た。 日 系 人 の 強 制 収 容 に 対 す る 謝 罪 写 真: 一 九 六 七 年 の 2」 一九四一年十二月、日本はハワイの真珠湾 と損害賠償を求める運動は急速に進展し、 サンフランシスコ 「 移民たちの歌・北米 を攻撃した。当時ハワイには十六万人、米 一九八八年八月、米国政府は謝罪と補償を 参考資料 一九四一年(昭和十六) 国 太 平 洋 岸 に 十 二 万 人、 カ ナ ダ 西 海 岸 の 承認した。カナダに住む日系人も、同年カ 収容所に隔離されながらも、自国米国への 州には二万三千人の日系人が住んでい BC た。うち六割が国籍保持者の二世だった。 ナダ政府から謝罪と補償を得ている。 忠誠を証明しようと、日系人部隊を作るこ 開戦と同時に日系人は全員、敵国人とし て資産は強制的に処分され、四十八時間以 内に辺地に散らばる収容所に隔離された。 大岡信・著『北米万葉集』(集英社新書・ 一九九九年)に一九三二年(昭和七)から 一家族で国籍二つに分かれ居るえにし ハワイでは、日系人が総人口の四割を占め 一九四七年(昭和二十二)までの、在米日 とを決議。米陸軍省は強い警戒心を持ちつ ていたこと、米国の州にはなっていなかっ 系人の詠んだ短歌五百首が収められてい つも提案を受理し、日系二世のみの戦闘部 たこと等で、指導者的立場の人のみが逮捕 る。当時の邦字新聞に投稿された歌を中心 www.shigaku.or.jp/ hanapoem/hanapoe2 こ され、長期間留置所に拘束された。 お 両親の国日本と、生国米国の狭間で苦悩 のなやみ身近に迫れり 三保如水 一九四二年(昭和十七) 王朝は消滅。その後、ハワイは米国の属領 一八六八年(明治元年)一五三名が非合 法(明治新政府から認められずパスポート 間に移住した人の数は一万人に達し、太平 末日本の啓蒙に寄与した。徳川幕府が海外 テキサスの大平原や稲光り 背味丸 浜)のジョン万次郎(中浜万次郎)との記 渡航を解禁した当時は、渡航者のほとんど カナダ to 短歌 14 カナダ to 短歌 15 48 49 3」 紙には毎号のように短歌、俳句、川柳が掲 載されていたという。 査し始めると、シアトルはもとより、タコ 「 移民たちの歌・北米 北米百年桜実行委員会発行の『北米百年 桜 』( 伊 藤 一 男・ 著 一 九 六 九 年 ) と い う 膨大な日系移民史がある。著者の伊藤一男 氏は新聞記者。シアトルの日系人の勧めを マ、スポケーンなど米国西北部やカナダの 受けて、過去一〇〇年の在米日系移民を調 ニッケイ新聞(二〇〇四年7月2日)に よると、シアトルはかって米国西北部日系 バンクーバーに住む日系人からも多くの資 の就いた鉄道工事や農業の様子、娯楽やス り直接インタビューを試みる。戦前の一世 料や手記が寄せられた。伊藤氏は各地を巡 急増したといわれている。先陣を切ったの 空気草履の音が聞きたや 池部苔華 帰りたや恋の日本へ帰りたや とができる格好の場だった。 て、俳句や短歌は、日本語で心情を表すこ れたとある。英語を苦手とした一世にとっ 会」は一九一〇年(明治四十三)に創立さ 氏 の ホ ー ム ペ ー ジ に 記 載 さ れ て い る「 ア 』のタイトルで出版され in North America た。ここでは市立小樽文学館長の亀井秀雄 『 に日系二世、三世の有志達により英訳され ら れ て い る。『 北 米 百 年 桜 』 は 一 九 七 三 年 生の談話や体験談、回想、手記などが収め して残されていなかった在米一世、二世の 中での困難や苦労話など、これまで記録と ポーツなどの日常生活、排日機運の高まる 太平洋戦争が勃発すると、一世たちは強 制収容所の塀の中で俳句や短歌を詠んだ。 メリカにおける俳句」から紹介させて頂 く。 Gayle K. Sato 氏 が『 北 米 百 年 桜 』 に 採録されている俳句を〈一世の文学: Issei 〉の中で紹介したものと Voices and visions のこと。 Brings tears to my eyes A trivial note ’ s hand – But in my mother 母の文何でもないが泣けてくる 土偶 Into fertile fields Who changed these empty grasslands Pioneers are they 草原を沃土にかえた開拓者 九星 Dipped in carefully. O soft First bath for baby! オレゴンの水柔らかき初湯かな 葉子 Oregon water! 写真はシアトルの Space Needle Tower 参考資料 www.nikkeishimbun.com.br/040702-62 涸滝を見上げて着きぬ移民船 上塚瓢骨 日本軍が真珠湾を攻撃すると直ちに、ブ ラジルは日本との国交を断絶。日系人は取 で、約十九万人がブラジルに渡っている。 戸丸」から一九四一年の戦前最後の移民ま ラ ジ ル へ の 移 民 の 数 は 滅 少 し て い く。 「笠 移民希望者の関心が満州に移っていき、ブ 移 民 の 数 を 制 限 す る 法 律 を 作 る。 こ の 頃、 て、 ブ ラ ジ ル 政 府 は 一 九 三 三 年( 昭 和 八 ) ジルの文化に馴染まない出稼ぎ移民に対し 五年して帰ると言いし故郷に ランプの光 妹つれて何しに来しかアマゾンに はてし 『コロニア万葉集』より、 六六三四首が一冊に収められている。 て、戦前・戦後あわせて一三七八人の作品 れた。『椰子樹』の編集者たちが中心となっ 年を記念して『コロニア万葉集』が編纂さ 一九七八年に、日本人ブラジル移住七十周 いる。 homepage2.nifty.com/k-sekirei/otaru/haiku 一九〇八年(明治四十一)四月、第一回 ブ ラ ジ ル 移 民 船「 笠 戸 丸 」 は、 契 約 移 民 り締まりの対象となり、邦字新聞の発行禁 で書く文にぶる(山本・九三七年) Issei: A History of Japanese Immigrants 北米報知社がアイダホ州ミネドカ収容所内 七八一名・一六五家族を乗せて神戸を出港。 止、日本語学校の閉鎖、資産の凍結、集会 てきた。日本人開拓地には続々と日本人が 取ったりして、自作の農業を始める者が出 終えると、誘い合って土地を借りたり買い ブラジルへの移民の多くは、コーヒー農 園の契約労働者として働いた。契約期間を ここから始まったと言われている。 ていたという。ブラジル日系移民の俳句は (俳号:瓢骨)は、移民船の中で句会を行っ り、 年 四 会員がを 名ほどの 土に二百 ラジル全 在でもブ ブ ラ ジ ル の 短 歌 同 人 誌『 椰 子 樹 』 は、 一九三八年(昭和十三)に創刊された。現 地主もいたという。 世、三世の時代へと引き継がれている。 などに定着し、それぞれの地で一世から二 達がアルゼンチン、ボリビア、パラグァイ に到着している。途中下船者や自由移民者 南 米 へ の 初 の 集 団 移 民 は「 佐 倉 丸 」 の 七九〇名で、「笠戸丸」より九年早くペルー www.jomm.jp/newsletter/tayori04_02html www.ndl.go.jp/brasil/comumn/haiku.html 写真: La Compania Church (クスコ・ペルー) 参考資料 露つめたき綿摘みの朝(三浦・一九三七年) 集まり、ブラジル各地に日本人集団地が形 回のペー なくつづく森と水のみ(孤・一九三七年) 約五十日をかけてサントス港に入港した。 の禁止、また日系移民を農園から追い出す 成されていった。集団地では、日本に帰っ スで発行 ても困らないようにと、移民の子弟を日本 を続けて 「笠戸丸」移民の総監督を務めた上塚周平 椰子の葉をひろいあつめて火をたきぬ 水 語で教育する学校を真っ先に建てた。ブラ 「 移民たちの歌・南米 」 で発行していた「ミネドカ・イリゲーター」 治三十九)に結成され、短歌の「コースト は、俳句グループ「沙香会」で一九〇六年(明 芸運動が興り、短歌や俳句を嗜む人の数も をしのぐ勢いで評論、小説、演劇などの文 移民の中心地で、ハワイやカリフォルニア カナダ to 短歌 16 カナダ to 短歌 17 50 51 「 移民たちの歌・アジア 」 イ・チョンジャまた李正子或は香山 帰化植物のごと日本に群れて 放浪せしちちははが棲み吾も棲む 一九九七年に青森県六ヶ所村に建てられ た歌碑には、亡き夫を想う歌〈君よわが愛 銃剣取れりここの境に もろともに同じ祖先をもちながら 北朝鮮のゆがみに映る日本の 在日韓国人二世の胸の内を短歌に綴り、 民族や祖国を詠い、差別を告発してきた。 争いのなき国と国なれ 切実な願いが吾れに一つあり まひしや〉が刻まれている。 一 九 八 〇 年 ご ろ か ら『 鳳 仙 花 の う た 』( 雁 の京城(現ソウル)で少女期を過ごす。女 まれた。生後まもなく帰国し、日本統治下 孫戸妍(ソン・ホヨン)氏は、一九二三 年、父親が早稲田大学に留学中に東京で生 (北出明編者・講談社出版サービス)より 永眠された。『風雪の歌人・孫戸妍の半世紀』 の深さをためさむとかりそめに目を閉じた 近現代史問うこともなし 「 私 達 に は、 日 常 生 活 を 通 し て 一 人 ひ と りが民間外交官になる資格が備わってい いずれが名かと子が問いかける 『鳳仙花のうた』より 書房)、『ふりむけば日本』(河出書房新社)、 帰国をあきらめた暗澹とした思いを詠 う。タイトルに使われている鳳仙花は、見 月一回の例会を開くと共に、日本の短歌団 称 し て 現 在 に 至 っ て い る。 台 北 と 台 南 で、 氏亡き後、二〇〇三年に〈台湾歌壇〉と改 終戦を迎えた喜びもつかの間、朝鮮は南 北に分断され戦争が始まった。 迷わぬ道を諭されし大人 い」と激励されたという。 編著者の孤 る。 歌 集 と められてい 首の歌が収 名。 約 五 千 www.mii.jp/ebisu21/bkno/desk/back/ashio www.asle-japan.org/pdf/jp17-odani.pdf 参考資料 写真:バンクーバーの或るモールの看板 る」という孫戸妍氏。二〇〇三年十一月に 『葉桜』(河出書房新社)などで短歌やエッ 学校時代に朝鮮語が廃止になり、日本語が 歌会」に入会し、近藤芳美氏に師事する。 セイを発表。二〇〇三年には新しい歌や文 常用語となる。東京の帝国女子専門学校(相 模女子大)に留学中に短歌に出会い、歌人・ 佐々木信綱氏から「朝鮮の女流歌人として た目には優しくはかなさを湛えているが、 体との交流も続けているという。会員の高 蓬万里氏 (本 励むように。絶対に途中で止めてはいけな その種子が風に飛ばされて、他郷に根付く 齢化は進んでいるが、歌壇の存在が広く知 より「万葉集」の講義を受けて以来、短歌 呉氏は、台北高等学校在学中に、犬養孝氏 台湾歌壇の前身〈台北歌壇〉は、呉建堂 氏が中心となって一九六八年に発足した。 聞・二〇〇九年一月十二日) 創 立 四 十 周 年 を 迎 え た と い う。( 西 日 本 新 きた台湾人の短歌グループ〈台湾歌壇〉が、 発表し合いながら、日本語の研鑽に励んで 論が規制された戒厳令の下、自作の短歌を は中国語(北京語)に代わった。集会や言 の台湾語と日本語の使用が禁止され、国語 けた台湾の人達のことだ。戦後には、母語 日本統治時代に、日本語で日本の教育を受 一九四五年(昭和二十)まで、五十年間の 【続編】」が同社より出版されている。正続 る。 翌 年 の 一 九 九 五 年 に は「 台 湾 万 葉 集 復刻されたのが日本版「台湾万葉集」であ これが大きな反響を呼んで、集英社により 集中的に取り上げ、来歴や作風を紹介した。 新聞〈折々のうた〉で、十九回にわたって 一九九三年の五月から六月にかけて、朝日 のという。この本を寄贈された大岡信氏は、 版し、日台両国の短歌関係者に贈呈したも として、自費出版の私家版の形で台湾で出 下巻』 (一九九三年)の三巻を「台湾万葉集」 万葉集・中巻』(一九八八年)、『台湾万葉集・ は『 花 を こ ぼ し て 』( 一 九 八 一 年 )、『 台 湾 集」は、一九九三年に完成した。もともと 呉氏が創刊、主宰してきた機関紙「台北 歌壇」の詠者たちの歌を纏めた「台湾万葉 u.nii.ac.jp/baud/110000483655 参考資料 注ぎ重ねたり万葉の短歌 台湾を愛しむ人ら心血を ている。 違いないと、孤蓬万里氏の歌を最後にあげ は、詠者たち一人ひとりの思いであったに 参考にさせて頂いた論文〈『台湾万葉集』 の人とその歌〉は詹秀娟氏によるもの。氏 お伽噺に孫ふくれ面 蔡西川 日本語と台湾語混じる北京語の りまた中国人に 傳彩澄 勝利者の便宜によりて台湾人日本人にな 生命のかぎり短歌詠みゆかむ 孤蓬万里 万葉の流れこの地に留めむと 歌を詠め」と 「汝が国の人ならではの う し 強い生命力があるという。 られるようになって、新たな会員も増えて 名・呉建堂) は、 や俳句の制作に専念してきた。本業は医師 二冊の「台湾万葉集」の短歌作者は二六〇 「台湾万葉集」より 一九九六年度の菊池寛賞を受賞している。 で、剣道八段の猛者でもあったという。呉 台 湾 に は、 日 本 語 世 代 と 呼 ば れ る 人 達 が い る。 一 八 九 五 年( 明 治 二 十 八 ) か ら 「 台湾万葉集 」 いるということだ。 き語彙にくるしみ閉じゆく絵本 『鳳仙花のうた』(影書房)を出版した。 〈生まれたらそこがふるさと〉うつくし 章を加え、絶版の歌集を再刊した の短歌のページに初投稿。その後「未来短 世。二十歳の時に香山正子の名で朝日新聞 三重県在住の歌人・李正子(イ・チョン ジャ)氏は、一九四七年生まれの韓国人二 カナダ to 短歌 18 カナダ to 短歌 19 52 53 「 子供たちのハイク 」 し て『 地 球 歳 時 記・ 第 十 巻・ 鯉のぼり Multicolored Swim in the wind Carp of paper ( 日 航 財 団 編・ あでやかに泳ぐ 二〇〇七)を配 かぜのうた』 り、各国からの 風のなか イクコンテスト〉の応募作品のなかから、 月も出ない 風ヒューヒュー Full of whistling wind A long dark night ・フランス) Timothee Van-Thienen ( 子供たちのハイクを原語、英語、日本語で 参 加 者 と 共 に、 北米最大の俳人の集会と言われる大会が 二〇〇九年八月五日から五日間、カナダの 読み合わせをしたという。『地球歳時記』は、 百句を選んで纏めたもので、一句づつ絵が He catches a cold Towards our grandpapa The north wind blows No moon 拠点を置く Haiku North America 主催のこ の大会は、一九九一年から二年に一度、北 添えられている。参加者は子供たちの作品 米を中心に、世界中から俳人や学者、編集 者などの俳句関係者を集めて会議を開いて 暗く長い夜 www.jal-foundation.org.jp/002sekai/ 風邪にした ・中国) ( Luk Agape 参考資料 www.haiku-his.com/eisaku.html おじいちゃんを 北風が ・スロベニア) Ana Sirnik の素直さ、情景を捉える活き活きとした感 いる。日本からの参加は、今回で五回目と いう俳人の宮下恵美子氏。自称・英語ハイ 『地球歳時記・第十巻・かぜのうた』より、 子供ハイク」は高い評価を得たという。 国際俳句交流協会の評議員でもあり、米国 All over the world 世界中あちこちに わたしのタンポポ Has flown asunder 俳句協会、カナダ俳句協会にも所属。国際 俳句交流協会のホームページでは〈英作ハ 」の Feel the word イク・入門編〉を担当している。 この大会で宮下氏は「 題 で 講 演 し、「 International reading 」では 日 本 代 表 と し て 日 本 語 で 朗 読 を し た。 ま や渡航手続きの簡素化など、簡単に日本を 発達で情報が簡単に入手でき、ビザの取得 なった。交通機関やメディア・通信技術の 一九七〇年前後からの移民は、海外への 憧れや夢の実現のために移住する人が多く リピン、中国、カナダと続いている。 ブラジルの一四〇万人を筆頭に、米国、フィ フリー百科辞典『ウィキペディア』によ る と、 海 外 に 住 む 日 系 人 は 約 三 〇 〇 万 人。 婦では、家庭内の共通語は英語、子供には 日本語を学ぶことになる。異国人同士の夫 を受ける子供達もいるが、外国語としての 人も珍しくない。補習校などで日本語教育 会話はできても、読み書きができない日系 のまま続いているようだ。簡単な日本語の ないことを示すためにとられた処置が、そ の激しい差別や迫害の為、敵性外国人では いるという。太平洋戦争下での、日系人へ 語を使って 常会話に英 約八割が日 も含めると、 という家庭 英語が主流 英語のみで、 おじいちゃん大豆収かくあせまみれ (酒井友希・小学一年・カナダ) おみずの中でくにゃくにゃおよぐ けむしたちつんつんつんつんうごいてる (飯塚真奈美・中学三年・米国) 楽しかった日戻れない日々 木もれ日のやさしさに今思い出す (荒巻峻也・高校二年・米国) 英単語かなロスの熱帯夜 だらだらと机に向かいて暗記する い文芸祭〉作品集(短歌・学生の部)より、 芸祭でもあるようだ。第五回〈みなとみら が学んでいる日本語の実践の場としての文 の応募が増えてきているという。子供たち ア、インドネシアなど、常連の補習校から グアイ、ブラジル、ペルー、オーストラリ 学生たちからだった。米国、カナダ、パラ 004sekaich/002sekai004sekaich.html 離れることができる。現在では外国人との 両親の国の言葉を教え、学校では必須科目 必死の労力利益豊作 ・ロシア) Inna Yegaj 飛んでいった 結婚・親族の国への移住・留学生が帰国せ の仏語に選択科目の外国語、と数ヶ国語を (山崎美音・中学一年・パラグアイ) ( ず居留国の永住権を取得する・日本企業の 自由に使いわけることが出来る人も多い。 た世界の子供達のハイクの朗読会を主催 駐在員の子供が日本国籍を選択しない・帰 た。「短歌・俳句部門」「一般の部・学生の部」 ( Pacific National Exhibition ) PNE (野中真悟・中学三年・パラグアイ) 写真:毎年八月にバンクーバーで催される 畑の麦もよろこぶようだ 雨がふり父の笑顔がこぼれるよ 国子女が日本になじめず移民する・などの 海外日系メディア二十六社で構成する、 海外日系新聞放送協会主催の〈みなとみら 英語が公用語でない国出身の家庭では、 日常会話に母国語が使われる事が多いが、 を合わせて二千の応募のうち、半数以上が い文芸祭〉は、二〇〇八年に五回目を迎え 米国やカナダの日系人の場合、半数以上が ケースが増えてきているという。 「 子供たちのタンカ 」 My Golden dandelion クのフィールドワーカー。「天為」「晨」同人。 性に注目した。また日航財団の事業「世界 ( 毎年行われる日航財団主催の〈世界子供ハ 首都オタワで開かれた。カリフォルニアに カナダ to 短歌 20 カナダ to 短歌 21 54 55 物資と二一〇〇頭の山羊・乳牛が届けられ 間に及び続けられ、合計一七〇〇〇トンの は「ララ物資」と呼ばれ、毎月一回、六年 ンズベリー号が横浜港に入港した。これら 品などの救援物資を積んだハワード・スタ おうと、食料・衣料を中心に医薬品、日用 一九四六年(昭和二十一)十一月三十日、 敗戦直後の食料危機に陥っている日本を救 浅野氏は「日本難民救済会」を結成し、物 一九八七)によると、故国の惨状を知った ナリスト浅野七之助の証言」 (岩手日報社・ 好道著「日系人の夜明け・在米一世ジャー 護・地位向上のための論陣を張った。長江 容 さ れ た 在 米 日 系 人 の 名 誉 回 復・ 権 利 擁 スコで「日米時事」を創刊。戦時に強制収 四六年(昭和二十一)には、サンフランシ 盛岡市出身の浅野七之助氏は、一九一七 年(大正六)、新聞記者特派員として渡米。 日系人たちが集めたものだという。 も外地で生活基盤再建のために励んでいた 達 が 寄 せ た 金 品 を LARA がとりまとめた のである。これらの物資の約二割は、自ら ブラジル・アルゼンチン・ペルーなどの人 の御歌二首が刻まれている。 庫に行幸啓された時に詠まれた、香淳皇后 月十九日に、昭和天皇・皇后が「ララ」倉 記念碑には、一九四九年(昭和二十四)十 埠 頭 に〈 ラ ラ 物 資 記 念 碑 〉 が 建 っ て い る。 「ララ物資」に関わった多くの人達への 感謝と功績を後世に残すため、横浜の新港 英語教師を務めた人でもある。 を注いだ。戦後、 LARA 委員として再来日 し、バイニング夫人の後を受けて、皇室の 停止の嘆願をするなど、平和促進運動に力 日系人たちの世話役となり、日本爆撃即時 戦中は米国で収容所生活を余儀なくされた 添えでやっと認可されたとある。ローズ女 史 は、 戦 前 教 師 と し て 日 本 に 滞 在 し た が、 た。当時の日本人の六人に一人が、この物 「 ララ物資 」 資の恩恵を受けたと言われている。 で き な か っ た。 そ こ で、 宗 教 団 体 に 働 き あたたかきとつ国人の心つくし あつき心に涙こほしつ ララの品つまれたる見てとつ国の か け、 後 に 駐 日 ゆめなわすれそ時はへぬとも 写真:巨大な友情のシンボル・イラナーク Licensed Agencies 資輸送に奔走したが、認可を受けることが 中央委員 LARA 会委員として活 (バンクーバー冬季五輪のロゴマーク) )とは LARA を一本化するために設置された公認アジア 躍 す る、 フ レ ン 参考資料: ww.wako.ac.jp/souken/touzai07/ の略称で、米国の宗教団 for Relief in Asia 体・社会事業団体・労働組合などを中心に 支援組織。米国に於ける戦災難民救済運動 ズ奉仕団代表の 結成された、民間ボランティア団体の窓口 は、米国大統領管轄下の救済統制委員会の www.city.yokohama.lg.jp/nakna/sighthist/ 郷」では伝えきれ さらに、句集「望 etizu/01/hi009.html れるということだけに希望をつないで、予想 ない思いを綴った E. ロ ー ズ 女 史( を中心に、米国・ハワイ・カナダ・メキシコ・ もしていなかった厳しい生活に耐えていた。 自分史「生かされ 今立町(現・越前市)の出身。この地で生 京 都 市 在 住 の 井 筒 紀 久 枝 さ ん は、 現 在 八十九歳。越前和紙の産地である、福井県 ている女性がいる。 世に伝えたいと、ホームページに書き綴っ ばこそ、忘れてはならない、書き残して後 う満州での体験を、悲惨な戦争体験であれ 多 く の 人 が「 思 い 出 し た く も な い 」「 も う忘れました」と言って、口を噤んでしま 四十八)、「歌会始」の詠進歌に応募した歌 い 日 々 だ っ た と い う。 一 九 六 八 年( 昭 和 苦のため、俳句どころか読書もままならな むが、再婚後の京都での十年余りは、生活 満州時代の友人を頼って神戸に移った折 に、俳人金子兜太氏の知遇を得て句作に励 しだいに投稿したという。 新聞、雑誌、ラジオなどの俳壇に手当たり に復帰。紙漉き生活の厳しさを俳句にして、 敗戦と戦後の混乱に巻き込まれ、四六年 (昭和二十)に満州から引き揚げ、紙漉工 ているという。 る日々を綴るべく、今もワープロに向かっ 娘さんの手を借りながらも、生かされてい して岩波書店より出版された。井筒さんは、 筆して、岩波現代文庫版「大陸の花嫁」と る。二〇〇一年(平成十三)には戦争体験 受賞。NHKラジオ深夜便で再々放送され 自分史文学大賞を 園 三 十 周 年 記 念・ 「 海を渡った花嫁 1 」 北満の土に命を捧げよと て生き万緑の中に まれた者は宿命のように、子供の頃から何 麦熟れて東西南北地平線 老ゆ」がNHK学 らかのかたちで製紙業に携わらなければな が入選。これを機に俳句・短歌を再開する。 「満州開拓青年」誌掲載(一九四四年) らなかったという。尋常小学校卒業と同時 満州開拓移民の義勇隊員と結婚した。将来 いた「大陸の花嫁」に応募して満州に渡り、 十八)四月、当時女子青年団に奨励されて を 作 っ て い た と い う。 一 九 四 三 年( 昭 和 さ ん は、 若 い 頃 か ら 自 己 流 の 俳 句 や 短 歌 後などの追憶二〇五句が収められている。 の日々、満州脱出、紙漉工のころ、引揚げ 加藤楸邨氏主宰の俳句誌「寒雷」に発表 した句を纏めた句集「望郷」には、北満で 「川」が御題の入選歌 峡を流るる川音きこゆ 参考資料 句集「望郷」(一九七七年)より みなし子に夕焼け満州国は亡し 穴掘ってわが子埋めし枯野かな www.baloon.ne.jp/453room/index.html は一世帯に二十ヘクタールの耕地が与えら 帝国が唯のにほんに暑き日に 記「大陸の花嫁」を自費出版。後に一部加 に、紙漉工として製紙会社に就職した井筒 どかいの家も紙漉く夜なべ終えたらし 母の便りはかなばかりにて )の力 B. Rhoads 認可が必要だった。これらの団体の所属員 ラ ラ( カナダ to 短歌 22 カナダ to 短歌 23 56 57 社 会 を 作 る た め の 要 と な っ て、 妻 と し て、 ここで見えてきたのは、女性たちが自ら の決断で、苦労を覚悟で海外に渡り、移民 際女子研修セ ム 」、 後 の「 国 移住婦人ホー 崎 市 に「 海 外 神奈川県茅ヶ 母としての役割を引き受けたことである。 立 し た。 独 自 ン タ ー」 を 設 と同時に、それをチャンスととらえ、自ら Japan International Cooperation の人生を切り開いていった、挑戦と苦闘を 「 海を渡った花嫁 2 」 ( JICA り起こすことを目標に、比較的多くの資料 れた。海外に移住した女性たちの歴史を掘 二〇〇九年十月から十二月にかけて開催さ 移り住む国の民とし老いたまふ を詠まれた美智子皇后の御歌。御題「歌」 の日系引退者ホームを視察された。その時 一九九四年(平成六)国賓として両陛下 が米国を訪問された際、ロスアンジェルス 岐 に わ た っ て の 勉 強 会 だ っ た と い う。 同 ・保健衛生の状況・海外移住の心得など多 地の農業・文化・生活・育児 て月一回、南米を勉強する会を開いた。現 合いの世話をすると同時に、自宅を開放し に花嫁を募集して、現地の青年たちとの見 が 残 さ れ て い る、「 花 嫁 」 と し て 移 住 し た 厭わない開拓精神豊かな女性像だった。 女性たちに視点をあてている。 ホームから送られた花嫁は、ブラジル、ア あった。歴史に埋もれがちな女性移民の声 による研究プロジェクトの発表の場でも けて実施されたアンケートと聞き取り調査 花嫁」の四部に分けられてをり、三年をか 争 花 嫁 」、 同 様 に ハ ワ イ に 移 住 し た「 軍 人 や軍属と結婚して米国本土に移住した「戦 ラ ジ ル に 移 住 し た「 花 嫁 移 民 」、 米 軍 兵 士 たのは約五〇〇人だったという。 数千人が応募してきたが、結婚に結びつい の花嫁を待っていると大々的に報道した。 で孤独に開拓に励む青年たちが、日本から 不足だった。マスコミは、ブラジルの大地 ようになった。その時に直面したのが花嫁 ブ ラ ジ ル で は、 一 九 六 〇 年 代 に 入 る と、 青年契約移民たちが自立し始め、定住する 移民きみら巡りきたりし遠き道に まれた美智子皇后の御歌。御題「道」 一九九七年(平成九)に、国賓としてブ ラジル、アルゼンチンを訪問された時に詠 も「花嫁移民の母」と讃えられている。 九十六歳で亡くなったミヨ子さんは、今で 計三七〇人にのぼるという。二〇〇六年に ルゼンチン、カナダなど十三カ国にわたり、 を聞き、その人生を辿り、海外の日系社会 ) Giraffe みあげる ぼくと を見せたい、特に絵本や挿絵のある本を、 の 疲 弊 し た 社 会 で 生 き る 子 供 た ち に、 本 ナリスト。第二次大戦の終った年、ドイツ イエラ・レップマン( Jella Lepman )女史 は、ドイツ・スタットガルト出身のジャー あくしゅ したんだ は ど ん な 人 だ ろ う と 手 に し て、 そ れ が 美 智 しーんと しちゃってさ せかいじゅうが そしたら が 加 盟 し て 活 動 を 続 け て い る。 活 動 の 一 ス の バ ー ゼ ル に 本 部 を 置 き、 七 十 数 カ 国 八〇〇冊の本が届いたという。現在はスイ との要望を発信したところ、二十カ国から めと めで ぴかっと・・・ みおろす キリンと 「キリン」( イぺーの花はいくたび咲きし 参考資料: www.jomm.jp や移住先での活動や貢献を紹介した。 「 絵 本」 」どうぶつたち The ANIMALS 何 年 か 前 の こ と、 バ ン ク ー バ ー の 図 書 館 で、 絵 本 が 並 ん で い る 棚 を 何 気 な く 見 て い た ら、 『 「 子 皇 后 だ と 知 っ て、 驚 く と 同 時 に、 な ぜ か Hushed in wonder, Something clicked between us. Our eyes met. Flash! I looked up. The giraffe looked down, 嬉 し か っ た の を 覚 え て い る。 皇 后 陛 下 は 四 つに Hans Christian Andersen Awards (国 際アンデルセン賞)がある。一九九〇年、 年 を か け て、 八 〇 編 の ま ど 氏 の 詩 を 英 訳 さ れ た と い う。「 The ANIMALS 」には二〇編 が 収 め ら れ て い る。 左 頁 に 日 本 語 の 詩、 右 頁 に 英 訳 さ れ た 詩、 挿 絵 は 安 野 光 雅 氏 の 切 り 絵、 の 構 成 で 一 九 九 二 年 に 日 本 と 米 国 で 同時に、すえもりブックスより出版された。 すべく、まど・みちお氏の詩の翻訳を皇后 陛下に依頼した。 www.ibby.org まど氏は一九九四年度の国際アンデル セン賞作家賞を受賞した。 参考文献 ) A little bird 「ことり」( そらのしずく? 「 okotoba/01/ibby www.kunaicho.go.jp/ うたの つぼみ? ( International Board on Books for IBBY ・国際児童図書評議会)と Young People A dewdrop from the sky? 目でなら さわってもいい? Everyone was looking at us. 」より The ANIMALS 日本支部は、当時ほとんど英訳のな IBBY かった、子供向けの日本の詩を海外に紹介 こっちを みたよ ま ど み ち お・ 詩 美 \ 智 子・ 選・ 訳 』 の タ イ ト ル が 目 に 留 ま っ た。 美 智 子 と い う 翻 訳 者 A bud of song? May I touch you just with my eye? い う、 子 供 と 子 供 の 本 に 関 わ る 全 て の 人 を つ な ぐ ネ ッ ト ワ ー ク が あ る。 創 設 者 の こうした状況の中、東大農学部の小南清 教 授 と 妻 の ミ ヨ 子 さ ん は、 私 財 を 投 じ て、 この展示は、写真見合いにより戦前に米 国 に 移 住 し た「 写 真 花 嫁 」、 同 様 に 戦 後 ブ 君らが歌ふさくらさくらと ・国際協力機構)海外移住資料 Agency 館 の 企 画 展「 海 を 渡 っ た 花 嫁 物 語 」 が、 カナダ to 短歌 24 カナダ to 短歌 25 58 59 「まど・みちおの世界」 そして はじまったのだ く美しく荘厳に思えて、その素晴らしさを 〈ものの存在の仕方〉っちゅうものがすご ることの喜び〉に満ち溢れている。そんな 言わずにおれなくなったんです」 ひとつの ことが いや ちきゅうにとって 「 一 生 懸 命 に な る っ ち ゅ う こ と は、 自 分 が自分になること。一生懸命になれば、一 さくらに とって うちゅうに とって 雄。「 ま ど 」 と い う ペ ン ネ ー ム は「 窓 」 が かけがえのない ひとつの ことが と喜んでほしい。それは何にもまして素晴 として生かされていることを、もっともっ 輝き始める。自分が自分であること、自分 人ひとりの違いが際だち、いのちの個性が あたりまえすぎる 好きだからつけたという。自分は人の窓に ひとつの ことが らしいことなんですから」 「ポッケット詩集」(童話屋)より 「さくらの はなびら」 ているのだ」 朝毎晩、空の真下で、まじめに〈まど〉し 事なものを、ちゃんとみてくれている。毎 窓があって、みんなが見過ごすしている大 い て い る。「 ま ど・ み ち お の 心 に、 明 る い 詩人で児童文学作家の坂田寛夫氏はこう書 という願いが込められているのだという。 ひとりでしか 生きられないからだ いわずに おれなくなる ひとりでは 生きられないからだ いわずに おれなくなる ことばで いいきれないからだ いわずに おれなくなる ことばでしか いえないからだ いわずに おれなくなる 「いわずにおれなくなる」 暗 譜 minominomino.vox.com/library/post への一歩 html 参考資料 人じゃなく、宇宙の意志みたいなもの」 じがします。天というのは、宗教上の偉い 「 私 に と っ て 日 記 は、 詩 の 材 料 と か の 為 ではなく、天に対して書いとるっちゅう感 えだを はなれて 「いわずにおれない」(集英社)より さくらの はなびらが じめんに たどりついた いま おわったのだ バンクーバーにある、ブリティッシュ・ コ ロ ン ビ ア 大 学 の 敷 地 内 に、 旧 五 千 円 札 目以外の多くの学科を受け持ったという。 帰国後は同校の教授となるが、農業関係科 の 為、 三 年 間 の ド イ ツ 留 学 を 命 ぜ ら れ る。 には、札幌農学校助教授として農政学研究 し て 米 国 に 留 学。 一 八 八 七 年( 明 治 二 十 ) 帝国大学(現・東京大学)に進むが、中退 ( 現・ 北 海 道 大 学 ) に 入 学。 卒 業 後 は 東 京 地域開拓事業の志を継ぐため、札幌農学校 貫 して青少年の「人格教育」に力を注いだ。 大 学 の 初 代 学 長 と し て 尽 力 す る な ど、 一 病が回復すると、台湾総督府で働きなが ら、 京 大 や 東 大 で 教 鞭 を と り、 東 京 女 子 性があることを自覚させ、誇りを与えた。 本人に、自分達にも世界に誇れる高い精神 明治維新後、西洋文明に圧倒されていた日 邦 訳 の『 武 士 道 』 は ベ ス ト セ ラ ー に な り、 多 く の 国 の 言 語 に 翻 訳 さ れ た。 日 本 で も、 「太平洋の橋」 の 肖 像 画 に 使 用 さ れ て い た、 新 渡 戸 稲 造 平洋の橋とならん〉と刻まれた石碑が置か が生涯貫き通した大志〈願わくば、われ太 塀に囲まれた純日本式の庭園内には、博士 で息を引き取った。享年七十一歳。白壁の が、帰路体調を崩し、ビクトリア市の病院 ための「太平洋問題調査会議」に出席した。 た民間の知識人による国際問題を解決する 日本代表として、カナダのバンフで開かれ の国際情勢が悪化しつつあるなか、博士は 『 語で書いた本 り、療養中に英 さ れ る。 職 を 辞 し て カ リ フ ォ ル ニ ア に 渡 博 士 三 十 六 歳 の 時、 過 労 の た め 脳 神 経 症 を 患 い、 完 治 八 年 の 療 養 生 活 を 言 い 渡 とから廃校に追いやられたという。 ていた。この夜学は、軍事教練を拒んだこ 教科書なども全て学校が用意して運営され 学 校 の 生 徒 が 教 師 と な り、 授 業 料 は 無 料。 写 真: Nitobe Memorial Garden 入口参考 資料 www.towada.or.jp/nitobe はなをかむ姿にうつす国威かな 高嶺にすめる秋の夜の月 見る人の心ごころにまかせおき 詠んだ短歌と俳句。 七二七首が収録されている。新渡戸博士の 館のデータベースには、博士が著書に引用 博士は著書や講演などに多くの和歌を引 用したという。十和田市立新渡戸稲造記念 の架け橋となって七年間の任務を遂行する。 seibunndoh.com/column/higasi11.html した和歌、俳句、そして博士自作の歌など れている。 』 soul of Japan が、欧米で大き The 新 渡 戸 博 士 は、 一 八 六 二 年( 文 久 二 )、 今の岩手県盛岡市の武士の三男として生ま な 反 響 を 呼 び、 ・ Bushido れた。幕末の当時、父と祖父が行っていた 務局長次官としてジュネーブに滞在。国際間 一九二〇年(大正九)からは、国際連盟の事 博 士 を 偲 ん で 造 ら れ た Nitobe Memorial 米国留学時代に知り合って結婚したメリー ( 新 渡 戸 紀 念 庭 園 ) が あ る。 夫人の協力を得て、勤労青少年の為の夜学 Garden 一 九 三 三 年( 昭 和 八 )、 第 二 次 世 界 大 戦 前 「 遠 友 夜 学 校 」 を 設 立。 こ こ で は、 札 幌 農 「この世界(宇宙)にある全てのものが、 〈あるがまま〉に存在し〈自分が自分であ ひとひら る全ての存在を見て欲しい、感じてほしい なりたい、自分の詩を通して、この世にあ 詩人まど・みちお氏は、二〇〇九年十一 月十六日に百歳になられた。本名は石田道 カナダ to 短歌 26 カナダ to 短歌 27 60 61 「オルカ( )」 Orca んで、研究を続けている科学者がいる。 にある無人島の一つ、ハンソン島に移り住 オルカやクジラが集まってくる。その海峡 鮭 が 戻 っ て く る 地 で も あ り、 夏 に な る と、 のジョンストン海峡周辺は、産卵を控えた 追跡ボートは使用せず、陸上から目視での ン島に「オルカ・ラボ」を設立。ここでは の飼育に疑問を持ち、一九七〇年にハンソ かされ、コンクリートで閉鎖された環境で 人知を遥かに超えたオルカの精神構造に驚 固体識別、水中・水上カメラを据えてビデ オ映像での観察・記録、水中マイクでの音 声 の 分 類 や 登 録 な ど、 二 十 四 時 間 体 制 で、 自然のままのオルカの生態活動を記録して カリブーや熊、さらに自分よりも大きなク 洋を回遊し、アザラシ、イルカ、海を泳ぐ 岸に棲む定住型のオルカと、餌を探して外 鮭やニシンなどの魚類を捕食して、海洋沿 ト ル、 体 重 八 ト ン。 世 界 中 の 海 に 生 息 し、 物を連想させる 。成熟した雄は体長九メー 〈殺し屋クジラ〉、和名は魚偏 Killer Whale に 虎 の 鯱( シ ャ チ )、 と 残 忍 で 獰 猛 な 生 き て、 も う や 験を拒否し 考 え ら れ る 理 由 は た だ 一 つ。 オ ル カ が 実 ら 突 然、 正 解 率 が 〇 パ ー セ ン ト に な っ た。 した。ところが三ヶ月ほど続けたある日か われ、予想通り識別能力は百パーセントで ルカ同様、かなりの知能を持っていると言 それを識別させる実験でした。オルカはイ と二本の線を描いた二枚のカードを見せ、 オ ル カ の 鳴 く 声 が「 I am here. I am glad 地 球 上 で 平 和 に 暮 ら し て い る。 博 士 に は、 報を交換しあって、何百万年もの間、この の存在を知らせ、相手の存在を容認し、情 という。遠くの仲間に独自な鳴き声で自分 オルカは家族の絆が強く、狩をするのも 遊ぶのも一緒。仲間同士で争うことはない いる。 ジラを数頭で組織的に攻撃することもある ように聞えるのだという。 (続) www.orcalab.org www14.pala.or.jp/asiantree/orca/index. www.asahi-net.or.jp/~ar5y-ngtk html ・ワタシハココニイマス。ア you are there ナタガソコ二イテヨカッタ」と言っている 移動型のオルカがいるという。 りたくない たんです」 と言ってい 形、原生林に多雨量で、生態系が豊かな地 カナダ・バンクーバー島海域は、氷河の 侵食により、複雑な海岸線に険しい海底地 として知られている。特にバンクーバー島 北部の、カナダ本土に挟まれた幅約三キロ る博士は、周りにあるありのままの自然を、 家族でハンソン島に移り住み、生活と仕 事の場が合致した大自然の中で過ごしてい 「 冬 の、 た っ た 四 日 間 の 滞 在 で は、 オ ル カ 村仁氏は、その時の体験をこう書いている。 取材でスポング博士を訪ねた映画監督の龍 オルカを、家族の元に還そうという運動だ。 ディエゴ水族館にいる、コーキー( Corky ) と名付けられたハンソン島沖で捕獲された 多くの人たちと共有したいと考えていた。 に会うのは不可能だと言われていた。とこ )」 Orca 慌しい日常の時間と共に、ゆったりとした ろが、ハンソン島に渡るその途中でオルカ 「続オルカ( の時の流れもあることを見て、聴いて、感 の一群に出会った。それもコーキーの家族 かなえ 海原を鼎と湧かしすく立ちて じてほしいのだという。博士の構想に共鳴 雌雄抱きあう大鯨かな 森鴎外 した日本の有志たちの協力で、〈ネイチャー れ、アルファベットと数字を組み合わせた の約三〇〇頭のオルカは、既に固体識別さ データベース化される。ジョンストン海域 らのボランティア・アシスタントによって 集められた膨大な量のテープは、世界中か 野生のオルカの生活形態を研究している。 水 中 マ イ ク を 使 っ て、 二 十 四 時 間 体 制 で、 ルカ・ラボ」を設立。水中・水上カメラや ン海域にある無人島(ハンソン島)に「オ カナダ・バンクーバー島北部のジョンスト 関係を学び博士課程を修了。一九七〇年に 米 国・ サ ン ン 〉 が あ る。 キャンペー コ ー キ ー・ に〈 フ リ ー・ 「 ラ ボ 」 の 活動の一つ 士らの手により続けられている。 ライブは、現在は映像なしではあるが、博 ルカの鳴き声を聴くことができる。オルカ ラを通して、当時の海中・海上の様子やオ したが、ハンソン島周辺に据えられたカメ カ ラ イ ブ〈 www.orca-live.net 〉が開始され た。このプロジェクトは二〇〇五年に終了 ネットワーク〉の最初の試みとして、オル ホッケー)のチームロゴの付いたパック 写真:バンクーバー・カナックス(アイス シンフォニー間奏曲』株・インファス) や妄想でないことだけは確かだ」(『ガイヤ・ てこの時の映像が残っているのだから、夢 に、私自身も戸惑いを覚える。あまりにも 言っていた。このような体験談を書くこと きたのだ。こんな経験は初めてだと博士も こちらに向かって不思議な声で語りかけて 来 る ほ ど 近 寄 っ て き て、 水 か ら 顔 を 出 し、 は、コーキーの弟達が手に触れることが出 だ と い う。 滞 在 中、 こ の 群 れ だ け が 毎 日、 できすぎた話だからだ。しかし、事実とし 島のすぐ近くまでやってきた。最後の日に が 付 け ら れ、 年 齢 や 家 族 構 成 の 家 系 図 ID もできている。鳴き声で、どの家族の誰と ニュージーランド出身のポール・スポン グ博士は、クジラの脳の生理機能と行動の (福本和夫『日本捕鯨史話』) いう事まで判るのだという。 研究が進 む に つ れ て、 参考資料 ニュージーランド出身のポール・スポン 住む鯨すら心ありけり 森鴎外 グ博士( Dr. Paul Spong )は、ブリティッ (福本和夫『日本捕鯨史話』) 「 オ ル カ 」 の ラ テ ン 語 の 学 名・ Orcinus シュ・コロンビア大学の依頼を受けて、バ ンクーバー水族館に飼育されていたオルカ は〈 冥 界 の 魔 物 〉 の 意。 英 名 は Orca の 視 覚 と 聴 覚 の 研 究 を 始 め た。「 一 本 の 線 打ちむれて遊ぶをみれば荒海に カナダ to 短歌 28 カナダ to 短歌 29 62 63 「熊」 わかってくるからなのだろう」(『ガイヤ・ える〉世界の中にこそあるのだという事が を 誘 い 出 す の だ。〈 見 え な い 〉 世 界 は〈 見 なる。スクリーンの奥の虚空が、その流れ んでくるようなエネルギーの流れが必要に スクリーンを突き抜けて、その奥に入り込 像 力 〉 が 生 れ る た め に は、 観 客 の 側 か ら、 やってきたと信じているクリンギット族の があるという。祖先は海から熊に導かれて ト族には、日本との繋がりを暗示する伝説 ル文化を築きあげたハイダ族やクリンギッ 南東アラスカからカナダのブリティッ シュ・コロンビア州にかけて、トーテムポー いくべきかを探る旅を始めていた。 秘められている叡智を、未来へどう伝えて まって、今年の七月には「第七番」が公開 画がある。一九九二年の「第一番」から始 交響曲第三番」が縁になって、二〇〇〇年 族との強い絆と、札幌で上映された「地球 考えていた。星野氏が結んだクリンギット アイヌ民族と繋がりがあるのではないかと 人達は、日本に住む、熊と深い関係を持つ シンフォニー間奏曲』株・インファス) された。その「第三番」は〈故・星野道夫 十二月、アイヌ民族とクリンギット族の神 える〉世界の映像と音を通して奥に密かな を 撮 る こ と に 挑 戦 し た。「 私 の 役 割 は〈 見 える世界〉を通して〈見えない星野道夫〉 間前のことだったという。龍村監督は〈見 たと知らせが入ったのは、撮影に入る一週 チャッカ半島でヒグマに襲われて亡くなっ こに生きる動物や人々を撮り続けていた。 に拠点を置いて、アラスカの大自然や、そ で野生動物管理学を学び、フェアバンクス 過ごす。慶応大学を卒業後、アラスカ大学 北極圏に住むエスキモーの家族とひと夏を 星野氏は、神田の古本屋で手に入れたア ラスカの写真集を切っ掛けに、十九歳の時、 イント州立公園で式典が行われた。 地であるアラスカのシトカ・ハリバットポ ムポールが完成し、二〇〇八年八月、建立 セフ氏作の、星野氏のメモリアル・トーテ いる。クリンギット族の彫刻家トミー・ジョ の後も、先住民族同士の国際交流は続いて が行われた。様々なイベントを通して、そ 話や音楽を交感する、民族的なセレモニー 虚空を構築し、その虚空に観客の〈想像力〉 自然を敬い畏怖し、見えないものに価値 を置く先住民の生き方に興味を持っていた 孤児院で育ったほとんどの動物たちは、時 公園と孤児院との間には境界線がなく、 野生の動物たちが自由に出入りしている。 とも、ダフニさんによって運営されている。 ロビ国立公園の一角に移されたが、夫亡きあ がった。この孤児院は一九七六年に、ナイ 自然に組織化されて動物の孤児院ができあ 児たちを育てて野性に還しているうちに、 たダフニさんは、園内で見つけた動物の孤 長デイビット・シェルドリック氏と結婚し 一九四八年のこと。この公園の初代監視官 地域がツァボ国立公園と定められたのは アフリカ・ケニアの首都ナイロビから四 〇 〇 キ ロ 離 れ た、 四 国 に 匹 敵 す る 広 さ の ているのだという。 人前になるまで、母親役を引き受けてくれ 象を預かり、野生の群れに受け入れて、一 れている。三歳まで孤児院で育てられた小 いるエレナだが、ダフニさんとの絆は保た だという。今は野性に還りツァボに棲んで になって、ダフニさんを手伝ってくれたの 児院に送られてくる動物たちの母親がわり レナは、象だけではなくサイや鹿など、孤 ダフニさんの共同の子育てが始まった。エ 哺乳瓶からミルクを飲み始めた。エレナと エレナが腹の下に置き鼻で撫ぜてやると、 た。 小 象 は 生 き る 気 力 を な く し て い た が、 で母を殺された小象が孤児院に送られてき 準備が整っていたちょうどその頃、目の前 はダフニさんの手で育てられ、野生に還る 象のエレナだ。二歳で孤児になったエレナ ダフニさんには、無くてはならないパー トナーがいる。体長三メートルを超す雌の うのです」 物たちに対する心からの感謝の方法だと思 にとっても大切です。またそれが、私の動 について理解することは、動物たちの未来 な仕事です。人間が動物の心や感情や思考 学びました。それを本にするのが私の重要 ん は 語 る。「 動 物 た ち か ら た く さ ん の 事 を したのです。エレナは象牙がもたらす悲 劇の意味を知っていたのです」とダフニさ は触れず、象牙だけを取り外して砕こうと その経験がなかったはずなのに、他の骨に た。孤児として育ったエレナには、一度も の死体から象牙だけを取り外そうとしまし 歳の頃、初めて仲間の死体を見たとき、そ 何 万 頭 も の 象 が 殺 さ れ た。「 エ レ ナ が 一 八 園の広さゆえに取り締まることが難しく、 年間は、象牙の密猟者との戦いだった。公 参考資料: www.michio-hoshino.com を誘い込むことにある。観客が完全に受け 星野道夫「旅をする木」(文藝春秋) し 死 を 迎 え る。 動 物 の 本 能 的 能 力 の 他 に、 一 人 前 に な る 一 五、六 歳 ま で に、 年 長 の 象 期がくると、自ら野生の仲間と暮らし始め 参考資料: www.sheldrickwildlifetrust.org 龍村仁監督「地球交響曲」 からたくさんの事を学ぶ必要があるのだ。 るが、象はそれができないのだという。人 ダフニさん夫婦がツァボで過ごした三〇 (中津昌子『遊園』) 軋みおりたり雲あつき下 間と同等の、複雑で深い皺の刻まれた脳を 象のかたちに象押し上ぐるしらほねの 持つ象は、人間とほぼ同じ段階を経て成長 星野氏は、古老を訪ねながら、口承伝説に 「象」 身である時には〈想像力〉は生れない。〈想 出演者として決まっていたアラスカ在住 の 写 真 家・ 星 野 道 夫 氏 が、 ロ シ ア の カ ム に捧ぐ〉となっている。 龍村仁監督の「地球交響曲(ガイヤ・シ ン フ ォ ニ ー)」 と い う ド キ ュ メ ン タ リ ー 映 アイノが友と熊殺さましを 正岡子規 (樋口覚『短歌博物誌』) 足たたば蝦夷の栗原くぬ木原 カナダ to 短歌 30 カナダ to 短歌 31 64 65 「トマト」 で決めているのです。トマトは心を持って いると言ってもいい。トマトに限らず、全 ての生物は心を持っています。心という表 朗朗と百人一首を祖母よめば 「競技かるた」 して、成長の限界や世代交代の時期を自分 環境のなかで、光や養分や水の条件を理解 せん。トマトは、今自分に与えられている のトマトの姿は絶対不変のものではありま いう〈常識〉を持っています。しかし、そ 私たちは、トマトは土で育ち、一本の苗 から六〇個の実を収穫できれば上出来だと ません。また奇跡でも何でもない。 のトマトの巨木に技術的な秘密は何もあり のなるトマトの巨木を育ててしまった。「こ 一年間栽培し続けた結果、一万数千個も実 センチ、枝葉の広がり八メートル、そして も使わずに、一粒の種から、茎の直径一〇 雄さんは、遺伝子操作も、化学肥料も農薬 れてしまう。ところが、植物学者の野澤重 実 の 数 は 三、四 〇 個 で、 夏 の 終 わ り に は 枯 普通に栽培されているトマトは、背丈が 一メートル五〇センチくらい、収穫できる 手に持ちあまる青きその実を 釈迢空 村の子は大きトマトをかじり居り 会で、かるたの歴史や昔からの遊び方など は「大学生の時、ストーン睦美さんの講演 た全国歌かるた大会に出場したアナンさん 送った。滋賀県大津市の近江神宮で行われ 二〇〇八年には、タイ人初の競技かるた 選手アナン・バンソンブーンさんを日本に 人二六名、タイ人四五名)だった。 張らせて育てる栽培法のこと。研究所のト で循環させて酸素を送り、水槽の中に根を な栄養素を溶かし込み、その養液をポンプ ハイポニカとは、水に、野菜の生育に必要 イ ポ ニ カ 農 法( 水 気 耕 栽 培 ) を 開 発 し た。 な条件が「土」だと考えた野澤さんは、ハ に、植物の成長を制約している、一番大き だ。光合成の能力の限界を調べていくうち 命力を引き出す栽培方法の研究に取り組ん 工業技術を基に、植物が本来持っている生 わった野澤さんは、そこで得た生産技術と 東大農学部を卒業後、台湾、インドネシ ア、中東諸国などで熱帯農業生産研究に携 TVガイド二〇〇五年十一月号) す か ら ね 」 と 野 澤 さ ん は 言 う。( デ ジ タ ル 持っていないとそれに対応できないわけで 常 に 高 度 な 感 受 性 と い う か、 官 能 器 官 を 生きるというのが機能の一番基本です。非 境を明確にキャッチして、それに適応して 植物が生きているということは、自然の環 だと思うんです」 す。でもこれって本当にもったいないこと る子は少ないで 一首に興味があ 僕の回りは百人 も 日 本 の 友 達 も、 本語を勉強して 龍村仁監督「地球交響曲第一番」 参考資料 nozawagiken.com/ とは一体何なのだろうということでした」 年間、私の研究の中心にあったものは、心 えたらいいのかほとほと困りました。三十 あることを知りました。私はこれをどう伝 する素直さが、植物の育成に密接な関係が 「 植 物 と 心 を 合 わ せ る こ と が 大 事 で す。 育てる人の心の持ち方と、自然の法則に対 るのだという。 機能を発揮できるようにサポートしてあげ 安心して自分が持っている最大の力で生長 の時から栄養分を充分に与えてあげると、 可能性を持っている〉ことを前提に、発芽 根 を 張 っ て い る。〈 生 命 は 本 質 的 に 無 限 の センチの栽培槽に、縦横無尽にびっしりと マトは、畳一畳ほどの大きさの、深さ十二 現 が、 人 間 的 な も の を 感 じ さ せ る だ け で、 小さき手も伸ぶ遥けき新春 櫻井雅江 を聞き興味を持ったのがきっかけです。そ gijutu_tomato に〈ちらし取り〉の体験をさせるのだとい の 歴 史 や 競 技 か る た を 紹 介 し、 生 徒 た ち た。中学や高校、大学に出向いて百人一首 ン、マレーシアで競技かるたの普及に努め 段。主人の転勤先だった英国、カザフスタ 設 立 者 の ス ト ー ン 睦 美 さ ん は 米 国 籍。 競 技 か る た 暦 二 〇 年、 東 京 東 会 所 属、 六 して正式なルールに則って練習している。 毎週土曜日。全日本かるた協会所属の会と めれば誰でも入会できるという。練習日は 齢、性別、国籍に関係なく、ひらがなが読 じめた小倉百人一首競技かるたの会だ。年 タイの首都バンコクに〈クルンテープか るた会〉がある。二〇〇五年から活動をは や す く、 図 書 館 に 通 っ て 勉 強 し て い ま す。 がわかっていたほうが印象づけられて覚え 暗記しただけだったのですが、やはり意味 は全くわからないまま、上の句と下の句を かったかもしれません。はじめは歌の意味 が競技になっていなければ、興味はわかな その流れが面白いと思いました。百人一首 に転じ、現在の競技かるたになったという 学が「百人一首かるた」という庶民の遊び ががらりと変わりました。昔の格式高い文 印象だった「百人一首かるた」のイメージ く名人の技を見て、今まで僕の中で地味な し た。〈 バ シ ー ッ〉 と 素 早 く 札 を 取 っ て い の時かるた大会のビデオを見て圧倒されま 写真:バンコクのワット・フラケオ 題で、ひらがなを覚える気はなし」とか。 破壊の神様。かるたができる云々以前の問 みがうまく、選手としては未知数。次男は ら「競技かるた読み」を聞いていたので読 歴史には詳しい。八歳の長男は小さい時か ので、競技しないのに、かるたのルールや かるた用英語資料を校正してもらっている 「 主 人 は 日 本 語 は で き な い け れ ど、 い つ も 北京で競技かるたの普及活動をしている。 主人の転勤で現在は北京に住んでいる睦 美 さ ん。〈 北 京 鵲 橋 か る た 会 〉 を 発 足 し て webthaiteki.namjai.cc/e17708.htm karutastone う。 年 一 回、 日 タ イ 交 流 か る た 大 会 を 実 参考資料 homepage3.nifty.com/ てし人の命のをしくもあるかな〉です。日 好きな歌は〈忘らるる身をば思はずちかひ クかるた大会〉では参加者は七一名(日本 施。二〇〇九年の〈第五回百人一首バンコ いるタイの友達 しようとする。あとはトマトが思うままに (土浦市『広報つちうら一〇一八号』) カナダ to 短歌 32 カナダ to 短歌 33 66 67 「 競 技 か る た 」 と は、 小 倉 百 人 一 首 を 用 いて「全日本かるた協会」が定めた規則に 全国大会を主催している。 近江神社で 県大津市の 月 に、 滋 賀 た。 毎 年 一 統合を図っ として全国 かるた協会」 ば、直接触るか、他の札を用いてその札を 手は読まれた札の下の句が競技線内にあれ ばれた一首目の上の句だけが読まれる。選 り返された後、一秒置いて、ランダムに選 今を春辺と咲くやこの花 王仁 と決められてをり、叙歌の下の句が二回繰 難波津に咲くやこの花冬籠り 歌は「古今和歌集」からの 「続・競技かるた」 則って行う競技のこと。 ら数えて一一二回目だったという。この頃 戦時に中止されたかるたが復活したのは 一九四六年(昭和二一)で、第一回大会か 基礎となっている。 した。黒岩の提唱は、現在の競技かるたの 体があり黒岩は競技方法の統一を図ろうと を掲載したという。当時は、大小三八の団 倉百人一首かるた早取り秘伝」の特集記事 新聞「萬朝報」で選手を募り、三面に渡り「小 第一回かるた大会を開催。自らの主宰する 会」を結成し、一九〇五年(明治三八)に ジャーナリストの黒岩涙香は「東京かるた 部の学生によって倶楽部として発足した。 首とは関係ない歌(序歌)が読まれる。序 に礼をして競技が始められる。まず百人一 の位置を覚える。対戦相手に、そして読手 与えられ、この間に選手は自陣、敵陣の札 札を並べ終えると、一五分間の暗記時間が 枚の為、五〇枚の空札が生じることになる。 ある取り札は五〇枚だが、読み札は一〇〇 あれば、札を置く位置は自由。競技線内に だ部分を競技線と呼び、自陣の競技線内で に二五枚が並べられる。自陣と敵陣を囲ん なっており、敵陣(相手の陣地)にも同様 札 を 並 べ る。 範 囲 は 横 八 七 セ ン チ ま で と 陣地(自陣)に上段・中段・下段に分けて よく混ぜ、各自が二五枚づつ取る。自分の 一対一で行う個人戦では、対戦者は向か い合って座り、取り札一〇〇枚を裏返して www5f.biglove.net/~st_octopus/carta/02 参考資料: www.karuta.net とも言われている。 久 力、 体 力 が 要 求 さ れ「 畳 の 上 の 格 闘 技 」 る。暗記力、集中力、瞬発力、精神力、持 対戦相手と読手に礼をして競技は終了す に自陣の札が無くなった方が勝ちとなり、 じて札の遣り取りが行われる。こうして先 まった時は「お手つき」になり、状況に応 送る。読まれた札が無い陣の札に触れてし 札を取った時は、自陣より札を一枚敵陣に ある札を取った時は持ち札が減り、敵陣の れる。このように競技は進行する。自陣に まれ、一秒置いて、二首目の上の句が読ま る。札が取られると、その札の下の句が読 競技線外に出すことによって取ことができ から、日本各地でかるた団体の設立が相次 だったとい わせかるた」、ことわざやたとえを書いた 賭博系かるたとはべつに、詩歌を書いた 「歌かるた」、動植物や歴史などを書いた「合 う一片に書かれた下の句を探して一首を やがて貝の一片に和歌の上の句を書き、も 覆い(かいおおい)」という遊びがあった。 ぴったりとはまる一対を探して集める「貝 平安時代(十二世紀)の貴族の間に、蛤 の 貝 殻 の 上 下 を 分 け て ば ら ば ら に 置 き、 出すが効き目は無かったという。その後「天 賭博性も高まり、江戸幕府は度々禁止令を 広まっていった。大衆娯楽となるにつれて るたは、裕福な町民の元から一般庶民へと われ始める。貴族や武士の社交用だったか 士たちの間で流行し、しだいに賭け事に使 い た め、 武 代順に配列した私選和歌集。歌道の入門書 などの勅撰和歌集の中から百首選んで、年 の間に詠まれた歌を「古今集」「新古今集」 飛鳥時代から鎌倉時代初期まで約六〇〇年 人一首」は、鎌倉時代の歌人・藤原定家が、 の が「 小 倉 百 人 一 首 」 を 用 い た も の。「 百 いた「歌かるた」もあるが、最も普及した 語」や「源氏物語」などの中にある歌を用 作 っ て 取 る「 歌 貝( う た が い )」 と 呼 ば れ として読み継がれたという。 「いろはかるた」などが生まれた。「伊勢物 る遊びに発展する。これが「歌かるた」の 正かるた」を改良した、一組七五枚の「う ち 歩 け、 場 原型と言われている。 わが衣手は露にぬれつつ 天智天皇 その一首目の歌は ムの内容は粋で複雑で高度。現在は熊本県 百首目の歌は んすんかるた」が生まれる。西洋と日本を (カルタ)で、戦国時代(十六世紀) Carta にポルトガルから九州に鉄砲や生糸などを 人吉市の無形文化財に指定され、遊び方も ももしきやふるき軒端のしのぶにも 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ 運んだ船乗り達が持ち込んだと言われる 伝承されている。 混合した絵柄の豪華絢爛なかるたで、ゲー カードゲームのこと。「歌留多」や「骨牌」 なほあまりある昔なりけり 順徳院 花札 ja.wikipedia.org/wiki/ 宮島正司「小倉百人一首」日報新書 www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/carta/02 などの字があてられ、そのまま日本語とし のうちの一つ。一組四八枚で、数字や記号 禁止令を逃れるために地下に潜ったかる た は、「 地 方 札 」 と よ ば れ る 様 々 な 絵 柄 の は使わずに、一月から十二月までの折々の の札に変身した。「花かるた(花札)」もそ が付けられ、一組が四八枚。それを元に「天 て定着したという。現在のトランプとは違 正かるた」と呼ばれる国産品が作られる。 花が四枚づつに描かれている。 い、四種類の絵柄に一から十二までの数字 西洋風の絵柄に金箔を用いた豪華な作り 参考資料 「 か る た 」 の 語 源 は ポ ル ト ガ ル 語 の 所も取らな どくしゆ ぎ、 一 九 五 七 年( 昭 和 三 二 ) に「 全 日 本 う。 か る た 「かるた」 は手軽に持 東京に初めてかるた会が設立されたのは 一八九二年(明治二五)頃で、東大の医学 カナダ to 短歌 34 カナダ to 短歌 35 68 69 「セティ計画」 学の一分野として現在も継続されている。 や間違った評価があったが、セティは天文 して秘密にしていたという。一部には誤解 なかった。当時は、 UFO や宇宙人探しの 〈擬似科学〉と誤解される可能性があると 理させて解 ソコンに繋 個 人 の パ で世界中の ターネット 波 を、 イ ン 一九七三年に打ち上げたパイオニア一〇 号、 一 一 号 で は、 い つ か 異 星 人 に 拾 わ れ (宇宙飛行士) 一〇光年と比較的近いクジラ座タウ星とエ 恒 星 で 年 齢 も 太 陽 と 同 じ く ら い、 距 離 が マ計画」と名付けて、太陽と同じタイプの 文 学 者 フ ラ ン ク・ ド レ イ ク 博 士 は、「 オ ズ ニア州の国立電波天文台に所属していた天 世界初の、地球外知的生命の探査を実施 したのは一九六〇年。米国ウエストバージ 信号を捉えることを目的としている。 分けて、異星人が発していると考えられる ピューターで莫大な数のチャンネルに選り に届く電波を電波望遠鏡で捉え、特殊コン た後、太陽系を離れていった。 王星を探査して貴重なデータを地球に送っ ジャーの二機は、木星、土星、天王星、冥 れ、カートリッジと針も添えてある。ボイ を書いたアルミ製のジャケットに入れら 電気信号音などが録音されていて、使用法 音、人の脳、心臓、筋肉などの動きを示す 挨拶、ザトウクジラの声、音楽、波や風の 枚づつ積んである。六〇種類の言語による 金を張った銅版で作られたレコード盤が一 一 九 七 七 年 の ボ イ ジ ャ ー 一 号、 二 号 に は、 の情報を彫った金属板が取り付けてある。 るのはごく自然のことでしょう」 がいるとわかっているのだから、話しかけ その意味で異星人と私達は兄弟です。兄弟 何 万 光 年 先 の 星 で あ れ、 皆 同 じ な の で す。 「 生 命 体 の 肉 体 は、 宇 宙 の 何 処 に で も 存 在する物質で作られています。地球であれ 局も含まれている。 は、日本の山口大学、東海大学、高橋無線 五大陸一五カ国、二五の関連機関の参加に 析するプロジェクト、セティアットホーム リダヌス座イプシロン星を標的に、人工的 Search for Extra- る こ と を 期 待 し て〈 ワ レ ワ レ ハ チ キ ュ ウ な信号が送られてきていないかを一五〇時 一 九 九 九 年 か ら は、 プ エ ル ト リ コ の ア レシボ天文台で収集された宇宙からの電 言い表すことができない、何か激しく熱い なく、感じたというのでもなく、言葉では ていた。その光景は信じられないほど美し た。眼下には真っ青な美しい地球が広がっ しまった。私はゆっくりとまわりを見渡し 「それまで秒刻みの厳しい任務をこなし ていたが、突然何もすることがなくなって に言い残して、船長は宇宙船の中に消えた。 かなくなってしまった。そのまま待つよう るはずだった、スコット船長のカメラが動 時、遊泳しているシュワイカートの姿を撮 だった。ハッチを開け宇宙空間に出たその に降り立つ飛行士の生命維持装置のテスト 陸船と母船とのドッキング・テストと、月 組員として初めて宇宙に出た。任務は月着 シュワイカート飛行士は、アポロ九号の乗 人類が初めて月面に着陸したのは 一九六九年七月。その四ヶ月前、ラッセル・ を 退 い た 後、 シ ュ ワ イ カ ー ト は NASA 人類初の宇宙遊泳をした旧ソ連の飛行士ア は、今まで一度も味わったことはなかった」 なく心で理解できた。こんなに深い連帯感 いる「我々」なのだ〉ということが頭では まれてくるであろう全ての生命と繋がって まれ死んでいった全ての生命、これから生 い地球に生きる全ての生命、これまでに生 ではなく「我々」なのだ。眼下に広がる青 え で も あ っ た。〈 今 こ こ に い る の は「 私 」 こってきた。それは問いであると同時に答 たい誰なんだ〉次々にこんな思いが沸き起 〈 な ぜ こ ん な こ と が 起 こ っ て い る ん だ 〉 〈どうして私はここにいるんだ〉〈私はいっ で、訳もなく大粒の涙を流していた。 てきたのだ。私は宇宙服のヘルメットの中 を指す。そして五日目には、ただ一つの地 自分の国を探す。三日目には、自分の大陸 ウド王子は「宇宙に飛んで一日目、我々は れている。サウジアラビアの宇宙飛行士サ メッセージは、世界中の子供たちに向けら 集「 ることを目指している。一九八八年、写真 行士として貢献できる分野を探り、実行す の支援や環境問題の意識増進など、宇宙飛 れ、年に一度総会を開いている。宇宙開発 年 に「 Association of Space Explorers (宇 宙 探 検 家 協 会 )」 を 設 立。 こ の 協 会 は 宇 宙 地球外知的生命体探査 ja.wikipedia.org/wiki/ homepage3.nifty.com/rickyscafe/rst/ep06 参考資料: 間観測したが、それらしき信号は発見でき 上下左右の感覚も宇宙服の感触すらなく、 なにごとのおはしますかは知らねども いものだった。そして完全な静寂。視界を レクセイ・レオノフに呼びかけ、一九八五 参考資料: iss.jaxa.jp/ase-j/20.html 龍村仁監督「地球交響曲」 球をみるようになる」 (地球・母なる星)」 The Home Planet を 出 版。 一 九 ヶ 国 の 宇 宙 飛 行 士 九 五 人 の 飛行を経験した宇宙飛行士によって構成さ さえぎるものは何一つなく、無重力のため ものが身体のすみずみまで一気に満ち溢れ かたじけなさに涙こぼるる 西行 熱いものが流れ込んできた。考えたのでも な気がした。そのとき突然、胸の中に何か 一人素っ裸で宇宙の闇に漂っている、そん 「宇宙遊泳」 )とは セ テ ィ( SETI げ、 分 散 処 山崎直子 ジ ン デ ス 〉 と の メ ッ セ ー ジ を 発 信。 DNA ( SETI@home )が地球規模で進行している。 の 二 重 ら せ ん 構 造、 人 の 形、 太 陽 系 な ど 二〇一〇年、オズマ計画五〇周年記念・ 世 界 合 同 セ テ ィ「 ド ロ シ ー 計 画 」 を 実 施。 瑠璃色の地球も花も宇宙の子 Terrestrial Intelligenceの 略 で、 地 球 外 知 的生命体探査のこと。広大な宇宙から地球 カナダ to 短歌 36 カナダ to 短歌 37 70 71 「ガイア(地球)」 を維持するように存在しているのです」 大地の座敷に上がりこんだ 私たち 博士は地球以外の大気と惑星地表の分析 のための精密機器の開発にも従事し、電子 私たちの死後の朝 その朝の とする生命力を持っています。決定的な違 ロック( James Lovelock )博士が〈ガイア 仮説〉を提唱したのは四〇年ほど前のこと。 捕 獲 検 出 器 を 発 明 し た。「 例 え ば、 英 国 の 鳥たちのさえずり 波の響き 草の客 木々の客 鳥たちの客 水の客 「 ガ イ ア( Gaia )」 と は ギ リ シ ャ 神 話 に で てくる「大地の女神」のことで、この言葉 私の裏庭で農薬を使ったとしましょう。数 遠い歌声 風のそよぎ いは大気中の酸素の量です。地球だけが過 には地理学、地質学との意味も含まれてい 日後にこの機器を用いて、数千キロ離れた 聞えるだろうか したり顔で だされた御馳走に るという。当初は主に〈気候を中心とした 場所で、我が家で使った農薬を検出するこ いま 去三億年にわたって、二一%という微妙な 生物と環境の相互作用にみられる恒常性に とができます。私達は一つの国や地域に区 (『はるかな国からやってきた』童話屋) 写真:バンクーバー水族館のポスター 舌つづみを打ち 景色を讃めたたえ ついて〉の仮説だったが、多くの批判に理 切られて暮らしているのではないと証明し 数 値 を 保 ち 続 け て い る の で す。 お そ ら く、 論が鍛えられ、緻密化すると共に賛同者が ています。地球が一つの命とわかれば、何 いつの間にか 主人になったつもり 増えて、現在では公式に認められた理論と ます。我々人類が地球に誕生したことには 地球上の全ての生命が、大きな自己調節シ いってよい状態になっている。 大きな意味があると思います。それは多分、 文明の なんという無作法 「 ガ イ ア 理 論 」 で は〈 ガ イ ア( 地 球 ) が 一つの生命体のように、自己調整システム ガイアが我々の目を通して、自分がどれほ ステムのような働きに関与し、生命の流れ を備えている〉としている。生命組織とそ ど美しいか、を見るためなのです」 国 連 調 査 訓 練 研 究 所( UNITAR )の所長 として、発展途上国が抱える課題の解決に 靡 し た 音 楽 家 で あ り、 物 理 学 者 で 哲 学 者、 ヴ ィ ン・ ラ ズ ロ( Ervin Laszlo ) 博 士。 幼 少の頃から天才ピアニストとして一世を風 一九九三年に創設された「ブダペストク ラブ」の主宰者は、ハンガリー生まれのアー 何故に在る (尾崎左永子『星座空間』) 何万光年向うの星の光炎を想ふ自由は 存されること、そしてこの〈場〉によって と、一度起きた情報は消え去ることなく保 ギーの運搬だけではなく情報も伝達するこ があるということを示し、ここではエネル 核力場のほかに〈量子真空エネルギー場〉 には重力場、電磁気場、強い核力場、弱い らかになってきたという。博士はこの宇宙 に満たされた〈場〉であるということが明 ぽの空間ではなく、超高濃度のエネルギー 最新科学に依って、宇宙の七〇パーセン ト以上を占めている真空は、何も無い空っ でしょうか〉 この道を、これからもそのまま歩み続ける するなら、私たちは、今自分が選んでいる 空を超えて未来の世代に伝えられてゆくと く、宇宙の虚空のいずこかに記憶され、時 参考資料:映画「地球交響曲第五番」 写真:ネパール・スワヤンブナートの仏塔 なく、創造するものなのです」 て い る。「 人 類 の 未 来 は 予 測 す る も の で は 変えられる〉という新しい世界観を提唱し るならば、自分自身を変えることで世界も 「 ブ ダ ペ ス ト ク ラ ブ 」 で は〈 私 た ち 一 人 ひとりの意識や行動が世界を形づくってい 体に影響を与えているということです」 りの思いや言動の全てが人類全体、地球全 く 優 れ た シ ス テ ム で す。 全 て の 存 在 が 繋 「 人 間 の 脳 は、 量 子 と い う 最 も 微 細 な レ ベルで外界と情報を交換する、とてつもな 現実に起こり得る(カオス理論)のです」 後には太平洋で巨大台風に発達することが 参考資料: ja.wikipedia.org/ ガイア理論 龍村仁監督「地球交響曲第四番」 死は育むから 新しいいのちを だがもう立ち去るには 遅すぎる れを取り巻く物理的環境である大気、海洋、 を大切にし何を止めるか、自ずと見えてき 岩石などが共同で進化しながら、一つの生 「地球の客」 谷川俊太郎 躾の悪い子どものように 取り組み、数々の実績を残した人でもある。 全ての存在が繋がっているという事実を、 ろくな挨拶もせず 青空の扉をあけ 「 ブ ダ ペ ス ト ク ラ ブ 」 に は、 七 人 の ノ ー ベル賞受賞者を含む五四名の科学者・芸術 科学の立場から説明している。 博士が出演している龍村仁監督のドキュ メ ン タ リ ー 映 画「 地 球 交 響 曲 第 五 番 」 は、 ように既存の価値観が崩壊してゆく危機的 場〉で互いに影響し合っています。現代の www.peaceproposal.com/jbudapestclub がっているということは、私たち一人ひと 家・宗教家たちが参加して、地球の未来に 「 自 然 界 に は 何 一 つ 偶 然 は あ り ま せ ん。 宇宙の全ての存在は〈量子真空エネルギー こんな問いかけから始まる。 の蝶の羽が起こした空気の変化が、一週間 な時代にあっては、アマゾンの奥地で一匹 〈 も し、 私 た ち が 普 段 何 気 な く 行 っ て い る営みの全てが、何ひとつ消え去ることな 向けての様々な提言を行っている。 「ブタペストクラブ」 「 地 球 は、 火 星 や 金 星 な ど の よ う な 単 な る岩石の塊ではなく、自らが生き続けよう 命体として成立しているというのだ。 英 国 の 生 物 物 理 学 者 ジ ェ ー ム ズ・ ラ ブ カナダ to 短歌 38 カナダ to 短歌 39 72 73 サーフボードの君をみつめる 空の青海のあおさのその間 サーフィンの中で最も難しく、全てのサー そのトンネルの中に入ることができます。 し そ の 時 に 正 し い 位 置 に い れ ば、 完 璧 に 中 に 見 事 な 水 の ト ン ネ ル を 作 り ま す。 も き る ん で す。 時 に、 そ の エ ネ ル ギ ー は 海 ファーはそのエネルギーに乗り、そこで生 な エ ネ ル ギ ー が 動 い て く る ん で す。 サ ー と ど ま っ て い て、 水 の 中 を ガ イ ア の 巨 大 海は常にそこにあって触れることができる き 物 達 が 動 き 始 め、 姿 を 見 せ て く れ ま す。 す。長時間静かに座っていると、色々な生 動きというのは、すべてがゆっくりなので 「 海 は 陰 で、 山 は 陽 で す。 一 見、 海 は 活 発で、山には動きがないようだけど、山の ては最善の方法なのだという。 ために、海と山を行き来するのが彼にとっ 「サーフィン」 (俵万智『サラダ記念日』) 毎年冬、アラスカ沖で生れた小さなうね りは、洋上を南下しながら次第に勢力を増 グ」と呼ぶ。 こなす彼を、人々は「パイプライン・キン 荒れ狂う巨大な波に逆らわず、自在に乗り 会 い、 二 三 歳 で ハ ワ イ マ ス タ ー ズ に 優 勝。 歳でサーフィンを始め、一八歳でヨガに出 系の新聞記者、母は日系三世の教師。一〇 )は一九四八年、 リー・ロペス( Gerry Lopez ハワイのオアフ島に生れた。父はスペイン ビ ッ グ・ ウ エ イ ブ・ サ ー フ ァ ー の ジ ェ 中に存在する究極の静寂、絶対的な安心の と呼んでいますが、サーフィンは、自分の 自 身 の 奥 底 に あ る も の、 私 は そ れ を〈 魂 〉 もっと深い何かがあると思うんです。自分 ま り ま す。 で も そ の 表 面 的 な 魅 力 の 奥 に、 るんです。サーフィンの魅力はそこから始 「 こ れ は と て も 微 妙 な こ と で す が、 身 体 だけでなく、心も含めて全てが空っぽにな いくんです」 が消え、全身の感覚だけが研ぎ澄まされて 「 ト ン ネ ル の 中 に 入 る と、 世 界 は 突 然 変 ります。何故か時間はゆっくりと流れ、音 ファーが憧れる一瞬です」 龍村仁監督「地球交響曲第四番」 参考資料: みながら、ただ、漕ぎ続けるのです」 もありません。時には薔薇の香りをたのし 学びます。それができたら、その調和の精 「 サ ー フ ィ ン が 教 え て く れ る の は 調 和。 最初は海や波などの自然と調和することを けど、山に宿る命と触れ合うためには、山 英国生まれの霊長類学者、ジェーン・グドー ンパンジーが道具を使うことを発見した、 アフリカの密林で過ごし、世界で最初にチ 悲心さえあるんです」と語るのは、長年を 心の苦しみを知っています。そして愛や慈 とかの感情も持っています。体だけでなく、 ができるんです。幸せとか、哀しみ、恐れ 葉にはよらない複雑なコミュニケーション 「チンパンジー」 は移動しますが、ほとんどの水はその場に と、私をじっと見詰めて、手を伸ばして木 を 拾 っ て デ イ ビ ッ ト に 差 し 出 し た。「 は じ 座っていたジェーンは、落ちていた木の実 いた猿だった。ある日、デイビットの側に 最初にジェーンを受け入れてくれたのは 〈ひげのデイビット〉と名づけた雄の年老 察を続け、彼らとの距離を縮めていった。 とすらできずにいたが、辛抱強く静かに観 る。はじめはチンパンジーたちに近づくこ 一九六〇年七月、ジェーンは母とタンザ ニアの密林ゴンベ地区に入り調査を開始す りたのだという。 ヴァンヌが同行するということで許可が下 険と、英国政府はストップをかけたが、母 性が一人で未開のジャングルに入るのは危 ンをタンザニアへ送ることにした。若い女 備えていることを見抜いた博士は、ジェー 人材を捜していた。忍耐力と鋭い観察力を 猿の研究が必要と、フィールド調査を行う する上で、ヒトに一番近い存在である類人 ロペス一家は現在、米国西海岸オレゴン 州の山の麓に住んでいる。バランスを取る en.wikipedia.org/wiki/Jane_Goodall 参考資料:映画「地球交響曲第四番」 ひとりが世界を変えるのです」 ければ未来はありません。あなたたち一人 を理解し始めています。世界を変える力は るのか、何を為すべきで何を止めるべきか 知っています。何が正しく何が間違ってい や社会を傷つけてきたのかを、もうみんな てきます。あるのは命の〈循環〉だけなの 「 長 い 間 自 然 の 中 で 生 活 し て い る と、 本 当は〈死〉というものがないんだとわかっ 境教育にも取り組んでいる。 教育と人道教育〉など、子供達のための環 生動物の研究と保全〉〈動物の福祉〉〈環境 ドール・インスティテュートを設立して〈野 研究センターを設立。さらにジェーン・グ 態学の博士号を取り、ゴンベ・ストリーム www.bayfm.co.jp/flint/20070722.html 神を日常生活に生かすこと。急ぐ必要は何 のペースに合わせなければなりません」 し、約一週間でハワイ沖に到達する。波の ル( の実をぽとりと下に落とし、そのまま私の 境地に導いてくれるんです」 二三歳の時、友人を頼ってケニアに渡っ たジェーンは、人類学者ルイス・リーキー 手をそっと握ってくれたのです」 二た月を黙してすごしぬアフリカの 夜のサバンナ雷鳴轟く (松沢哲郎・京都大学霊長類研究所教授) 「 人 間 と チ ン パ ン ジ ー の 遺 伝 子 は 九 八 パーセント同じです。脳や中枢神経システ ムも他のどんな動物よりも似ています。言 )博士。 Jane Goodall 一九六五年、ケンブリッジ大学で行動生 自分の中にあります。そのことに気づかな で す 」「 人 間 の 営 み が、 ど れ ほ ど 多 く 環 境 ) 博 士 に 出 会 い、 秘 書 と し Louis Leakey て 働 く こ と に な る。 当 時 リ ー キ ー 博 士 は、 古代人類化石を発掘し、人類の祖先を研究 めはそっぽを向いたけど、さらに差し出す ( 「 水 が 移 動 し て い る 訳 じ ゃ な い ん で す。 エネルギーが動いているんです。水も少し 高さは時に七、八メートルになる。 カナダ to 短歌 40 カナダ to 短歌 41 74 75 「ホクレア号」 に師事し、ハワイに伝統航海術を蘇らせた。 加。ミクロネシアの航海士・ピアイルグ氏 術を伝える資料は遺されていなかった。 ハワイ人の起源を探るため言語学、考古 学、伝承神話などの観点からの推測を実証 ン プ ソ ン( Nainoa Thompson ) 氏 は、 ホ クレア号建造の時からプロジェクトに参 しようと復元されたのが、古代の遠洋航海 ’ )a 号 」 だ。 現在はカヌーを通して、地球環境の保全や Hokule 二つの船体を並べて、それを繋ぐ形にデッ 海洋文化の継承など、若者たちの教育活動 カ ヌ ー「 ホ ク レ ア( らを生きてゆく子供たちにとって一番大事 い島を観る力〉を養うことこそが、これか キ を 張 っ た 双 胴 船 で、 全 長 一 九 メ ー ト ル、 に 力 を 注 い で い る。「 遥 か 彼 方 の〈 見 え な ど現代の航海に必要な計器類は一切積んで なことだと思います」 ) 全幅五メートル、時計や海図、コンパスな いない。 二〇〇七年にはハワイから日本、そしてハ 球 四 周 分 ほ ど の 距 離 を 航 海 し た と い う。 ホクレア号は若者たちを乗せ、これまで 「 ホ ク レ ア 号 」 の 初 航 海 は 一 九 七 六 年、 ミクロネシアの伝統航海術を継承していた に 太 平 洋 の 島 々 や 米 国、 カ ナ ダ な ど、 地 ワイへの五ヶ月、一万三千キロの航海をし え て い る。「 大 切 な の は、 変 え ら れ な い も マ ウ・ ピ ア イ ル グ( Mau Piailug )氏を航 海士に、一七人の男女が乗り込んで、ハワ のを受け入れる心の静けさ、変えられるも シアン・トライアングル〉と呼ぶ。 に結びつ のを変える勇気、そして、その二つを見分 た。クルーとして訓練を受け、ホクレア号 ス タ ー ナ ビ ゲ ー シ ョ ン ( 伝 統 航 海 術 )と 言 いていっ けられる知恵を持つこと」 イからタヒチ、そしてハワイへの五千キロ われる太陽、月、星、風や波など、自然の た。 参考資料:映画「地球交響曲第三番」 に乗って太平洋を渡った唯一の日本人女性 現象を読み取って針路を決める方法を〈星 オアフ 島に生ま の航海を成し遂げた。この航海はハワイの の歌〉として口承してきたが、時と共に消 れたナイ かってポリネシアの人たちが、この海域 にある島々を目指して移動していく過程で 滅していく。ポリネシアの島々が、西洋の ノ ア・ ト くはるか昔、地球の命が誕生したその時か 習 得 し て い っ た、 カ ヌ ー 航 海 術 が あ っ た。 先住民たちに勇気と誇りを与え、祖先たち 人達に知られるようになった一八世紀後半 地域のアーティストたちの作品の展示や子 ら、大いなる生命交響曲は奏で続けられて 内野加奈子さんは、インタビューにこう答 には、古代ポリネシア人の足跡や伝統航海 供たちの為のイベントも催された。 いたのです〉 地球交響曲第四番イメー ( ジブック・サンマーク出版 ) 伊是名島に生れた。古くから島に語り継が 版画家の名嘉睦稔氏は、かって琉球王朝 の第二尚氏という王統を輩出した沖縄県の で過ぎてゆきます。大河の中では、あらゆ きなうねりとなって現在という時を超高速 良いも悪いも全て合い混ぜながら、河は大 いと思うんですね。何度思ってもね」 いっぱいある幸せを満喫しなければならな 責任がある。それをしっかり持って、この の、心の使いよう、というのは自分自身に トもケモノも皆ひきつれて、喜・怒・哀・楽、 いう感情を人間は持っているので、心の中 「 僕 は 断 言 し た い ん で す け ど ね。 幸 せ の ほうがずっと多いんですよ。ただたくさん れている神話や伝説の風習の中に育ち、大 る事象が繋がりあって、確実に現在から次 写真:沖縄郵政創業一二五年記念切手 し て こ ん な 文 章 を 寄 せ て い る。〈 か た と き 自然に遊び、鍛えられ、学んだ。絵画、イ の瞬間へと刻一刻流れ去ってゆくのです。 平らかに心を保ちゆくことの ラスト、デザインを経て版画に出合う。「裏 そのことに想いをはせると、なぜだか僕の 参考資料: www.bokunen.com 龍村仁監督「地球交響曲第四番」 の幸せの中にあるほんのちょっとした不幸 手彩色」という技法を使って、主に沖縄の 身体は、哀しい幸福感に包まれるのを覚え も止まらず移ろいゆく「時間」という大河 自然をテーマに制作する名嘉氏の作品に ます。大河を生み出した地球は、僕たちに 難なくて今日の吾の歓び は、自然界のさまざまな生き物たちが嬉々 は、全ての生き物の数だけ用意された、そ が、すべてを不幸に思わせてしまう。そう として息づいている。 の生き物だけが鳴らすことのできる命の楽 の流れ。その流れの中で、途絶えることの 伊是名村には名嘉氏制作の第二尚氏王統 初 代 国 王「 尚 円( 金 丸 )」 の ブ ロ ン ズ 像 が 器なのです。大河の流れにそっと耳をすま なかった生命の営み。草・木・虫・魚、ヒ 立つ。世界規模プロジェクトのポスターの 二〇一〇年にはボクネン美術館を開設し、 生命の交響曲。私たち人間がその音に気づ 多岐に渡る活動を精力的にこなしている。 きます。それはまるで、地球全体が奏でる さ ら に 琉 歌、 三 線、 作 詞、 絵 本 創 作 な ど、 響き、まことに賑やかなさまが心に響いて 沖縄郵政創業一二五周年切手の原画制作、 せてみると、さまざまな音色の楽器が鳴り 各 々 の 楽 器 を 持 た せ ま し た。 な ん と そ れ 制作、地球温暖化防止京都会議記念切手や (大山敏夫歌集『呑・舞』) ドキュメンタリー映画「地球交響曲第四 番」のポスターを制作し、出演者の一人と en.wikipedia.org/wiki/Polynesiannavigat 「幸せ」 文字も航海計測器も持たなかった彼らは、 の 叡 智 を 学 ぼ う と い う、 か っ て な い 運 動 点に結んだ巨大な三角形の海域を〈ポリネ イ、ニュージーランド、イースター島を頂 地球上の三分の一を占める太平洋には、 少なくとも一万の諸島があるという。ハワ 島淡く見ゆ朝明けに ( 那原露泉・ハワイ移住者・作一九三八年 与 見はるかす海の彼方にモロカイの カナダ to 短歌 42 カナダ to 短歌 43 76 77 「父と息子」 う」と言う。 を知った博士は、バンクーバー島の北にあ に造った小屋に住み、消滅していたアラス ブリティッシュコロンビア州の森の樹の上 き方を嫌い、一六歳で家を出た。カナダ・ 然に回帰しようとする息子のことを『宇宙 人類の宇宙移住に取り組む父と、地球の自 スポング博士だった。ブラウワー氏は後に、 は、ハンソン島でシャチの研究をしている ラウワー( Kenneth Brower )氏の仲介で、 二人の七年振りの再会の場を提供したの る ハ ン ソ ン 島 に 向 っ た。 作 家 ケ ネ ス・ ブ カ先住民族アリュートのカヤックの復元を 博士の一人息子ジョージは、数式と科学 的頭脳だけで宇宙を目指そうとする父の生 「 人 間 の 想 像 力 は、 単 な る 絵 空 事 で は な く、人は心に描いたことを必ずいつか実現 船とカヌー』(ちくま書房)に書いている。 の思いが蘇る。自分とは全く違う父の生き 始める。バンクーバーの博物館に保存され 方の中に、自分と同じ眼差しがあることを ていたアリュートのカヤックを初めて見た 改良を加 研究所の教授となった。科学、芸術、宗教、 に次々と 知ったのだ。 する。その為に神は、人間に想像力を与え えていっ たのだ。私が持つあらゆる知識に照らして た。 この島での体験は、後の博士の思想に大 きな影響を与えた。生命の起源、進化のメ 音信不 通だった 霊の許可を得て、根こそぎ採らずに、必要 時、潮の匂い、風の感触、波の振動などが ジョージ なだけ頂くのだという。街路樹や生垣に使 一気に身体中に満ちてきて、どうしてもこ の居場所 われている、高さ二〇メートルになる福木 みて〈宇宙には何らかの意志がある〉と考 沖縄には染織が多い。染織という言葉か らも分かるように、染めと織りは本来一体 の樹皮からは、鮮やかな黄色がでる。島で え る 方 が 科 学 的 な の だ。 そ の〈 意 志 〉 を 哲学など、あらゆる分野に幅広い造詣を持 なのだ。石垣さんが子供の頃、島の女たち かけて発酵させるのが石垣さんのやり方 カニズム、心の科学的理解という方向にま ち、宇宙的な視野で語ることのできる叡智 は糸を紡ぎ、普段着や祭りの衣装を自分た だ。同じ藍でも、絹糸は良く染まり、深い で 広 が っ て い っ た の だ。「 私 は、 宇 宙 の 真 の持ち主だと言われている。ヒトという種 ちで織るのが当たり前だった。 青や黒に近い藍にもなるが、芭蕉糸は染ま れに乗って海を旅したいと思ったのだとい の未来について博士は「この小さな星で犇 工房の周りには、芭蕉布の素材になる バナナとそっくりの糸芭蕉の畑がある。三 り難く、光沢のある薄い青になるのだとい 人々は神と呼んでいるのだろう」と語るの きあっているより、私はこの星を美しいま 年かけて育てた芭蕉を刈り取り、幹の外側 う。織り上げた布の最終段階は、海晒しと 理を数式で考え理解しようとするのだが、 まに保ちたい。だから、全ての命のために から薄く剥がして裂いていくと、干瓢のよ いう作業だ。海と川の真水が混じりあう汽 う。以来、誰に教わるでもなく、カヤック も、宇宙に移住していくのが一番いいと思 うな形に紐状の繊維が取れる。剥いだ皮を 水域で、浅瀬のときに布を張り、次の浅瀬 は英国生れの宇宙物理学者フリーマン・ダ 「染 織」 灰汁で煮て水洗いし、滑りを取ってさらに のときに引き上げる。不純物を取り除き布 息子は、まるで音楽家が作曲をする様なや の 中 の 酸 素、 空 気 に 触 れ る こ と に よ っ て、 裂き、細く長く拠り合わせて糸にする。一つ 「 本 当 は 藍 は 緑 色 な ん で す け ど、 空 気 に 触れたとたんに、藍に発色していく。空気 ひとつの作業は手間と時間のかかるものだ の構造を徹底的に研究して、一隻出来上が 藍になるんですね。緑ということはとても が、見えないプロセスが大切なのだという。 るごとに海に出てそれを試した。アラスカ 神秘的で、緑の葉っぱから緑がでるという 「 私 は、 着 る っ て い う の は 皮 膚 の 延 長 と 考えています。植物染料というのは、もと イソン( Freeman Dyson )博士。一九歳の とき、アインシュタインに招かれて米国に ことはないんです」と語るのは、染織作家 自生しな 染料になる植物を採ってくるのは、夫 ・金星さんの仕事。西表島と石垣島にしか もと薬効のあるものですよね。万葉の時代 り方でカヤックを作ってしまうんだ」 の石垣昭子さん。人口三〇〇人の沖縄・八 からずっと受け継がれています。そういう やカナダの複雑な沿岸水路を旅し、その体 重山諸島の竹富島に生れ育った石垣さん い芋科の 意味では、天然繊維で天然染料が皮膚に一 渡り、二四歳で相対性理論と量子力学を統 は、都会に憧れ、東京の美術大学で服飾美 植物紅露 今や世界的なカヤック・ビルダーになっ たジョージは、この再会で父に対する信頼 術を学ぶが、八重山伝統の染織の奥深さに 番近い布ということです」 験をもと 目覚めて島に戻り、廃れかけていた草木染 (くうる) この色が縹色かと思ひつつ 藍の液より糸を引き上ぐ 技術の保存と後継者の育成などに力を注い ら、失われていた祭事の衣装の復元や伝統 西表島に工房を開いて制作活動を続けなが ミートリ る。「バー 料 に な 茶色の染 (歌集『思ふ存分』赤間洋子) でいる。 www.ricepaper88.com/backnumber/vo104 参考資料:映画「地球交響曲第五番」 に色を定着させるのだ。 採れる藍を瓶に入れ、日に二回泡盛を振り ヨ ー( 私 の 分 を わ け て く だ さ い ) 」と樹の 参考資料:映画「地球交響曲第三番」 金色の獅子とうつれよ 佐佐木幸綱 父として幼き者は見上げ居りねがわくは め の 技 術 を 蘇 ら せ た。 一 九 八 〇 年 か ら は、 は渋い赤 合する数式を発見、プリンストン高等学術 カナダ to 短歌 44 カナダ to 短歌 45 78 79 「ラインホルト・メスナー」 ガ・バルバットでは下山の途中雪崩に巻き メートル峰一四座の全てを制覇した。ナン 自分が所有しているというようなものでは を人よりよく知っていたのです。生命力は、 込 ま れ、 弟 ギ ュ ン タ ー を 失 く し て し ま う。 なく、私たちの周囲に無限に存在し渦巻い と駆り立てることになった。 この登山での体験が、彼をさらなる挑戦へ く。それがうまく調和したときに遠征は成 内に取り入れて、スムースに外に出してい 彼自身も凍傷により足の指六本を失うが、 ているものなのです。それをスムースに体 人は旅をし、 功するのです。すると歓びと共にまたエネ 「私は山を征服したいのではありません。 登 れ る と い う こ と を 証 明 し た い の で も な ルギーが体に戻ってくる。人間はいわば生 登れないなら、その山には登りません」と いまだに私の哲学です。酸素ボンベなしで 「私はこれまでに一本もボルトを使って いません。酸素ボンベも同様です。これは いるわけ 靭な体力 ナー( Reinhold Messner )氏。 や耐久力 北イタリアのドイツ語圏である南チロル に生れた彼は、子供の頃らか登山に熱中し、 を 持 っ て 言 い 切 る の は 登 山 家 ラ イ ン ホ ル ト・ メ ス ではあり 「私は他 人より強 とって意味がなかったのです」 学技術の助けを借りて山に登ことは、私に たかったのです。だから大きな組織や、科 の可能性を広げることができるのかを知り 写真:ネパールのマチャプチャレ の心の変革が実は一番大切だと思います」 それも普通の人たちの、普通の生活の中で も、一人ひとりの人間の心の中の革命です。 代償として何か一番大切なものが見えなく よって、私たちは昔の人よりずっと多くの れの中にあるのです。科学や医学の進歩に の間には何の区別もない。同じひとつの流 命力の通り道のようなものなのです」 二五歳までにヨーロッパのほとんどの高峰 ま せ ん。 参考資料:映画「地球交響曲第一番」 い。ただひたすら自分を知りたかったので を登り尽くした。次なる目標をヒマラヤに ただ生命 驚きを知らず、ただ通りすぎる。 置き、一九七〇年、パキスタンにある標高 力を発揮 「私は自分が自然の一部であるというこ とを強く感じています。私と水や木や草と 八一二五メートルのナンガ・バルバットの する方法 かし続ける微妙で霊的な臍の緒ということ す。有限の肉体を持った私が、どこまで命 登頂を皮切りに、一六年をかけて、酸素も セイユに戻るが、ドイツ占領下にあった街 ができるのです」 持たず、ほとんど単独で、世界の八〇〇〇 に嫌気がさしたジャックは、高校卒業と同 笑顔に見てゐる人間吾も 水槽に閉ぢ込められ居るイルカらを ス諸島の主な産業として島の経済を支えて たちに教えて、今では伊勢エビ漁はケイコ る。素潜りでエビ漁を始め、漁法を島の人 は仕事を辞め、サウスケイコス島に移住す 働くが、水族館での仕事に疑問を持った彼 時立ち止まり、あたりを見て、一歩退くな と言っているのではありません。ほんの一 で変革を迫られているのです。過去に戻れ られることも必要です。今人類は多くの点 築くためには、今の常識や生き方が揺さぶ り、 方 角 を 変 え る な り す れ ば い い の で す。 ここで余生を自由に楽しんでもらうので 一九八三年五六歳のとき、前人未踏の水深 学的調査を目的とする潜水実験にも参加。 その自然の叡智に逆らう道を選べば、代償 身につけ、競技の傍ら医学、生理学など科 老人ホームをつくることなのです。人間に ジャックはヨガの呼吸法を学び自らの心 捕えられ、奉仕させられてきたイルカ達に、 拍数や精神状態をコントロールする方法を と呼んでもいいしブッタと呼んでもいい。 い深い叡智が秘められています。それを神 自然や宇宙には、我われには及びもつかな いる。 す」と語るのは、南米バハマ諸島の南端に 後の彼の生き方を形づくることになった。 せんが、呼吸する全ての生き物を繋ぎ、生 えられているのです。これは目には見えま 参考資料:映画「地球交響曲第二番」 は必ず私たち自身にかえってくるのです」 ある小さな島、サウスケイコス島の海でイ 一〇五メートルに到達した。 イビング(素潜り潜水)の数々の記録保持 「 ヨ ガ に は 美 し い 教 え が あ り ま す。 子 宮 者でもあるジャック・マイヨール( Jacques の中にいる赤ちゃんは臍の緒を通して胎盤 るのです。それが呼吸です。私たちは呼吸 マイヨール一家は故郷のフランス・マル で初めてイルカに出会い、その時の体験が、 を通して宇宙の母と繋がり、生きる力を与 毎年家族で夏を過していた九州・唐津の海 と 繋 が り、 母 親 か ら 生 命 エ ネ ル ギ ー を も )氏。 Mayol らっています。誕生の時、その緒は一旦絶 建築技師の父の仕事の関係で、上海に生 れ一三歳までを中国に暮らす。少年の頃に、 ち切られますが、また新しい臍の緒が生れ ルカたちと遊ぶ海洋冒険家で、フリー・ダ 「 私 の 三 〇 年 来 の 夢 が、 こ こ に イ ル カ の (冬雷一月号・二〇一一年) マイアミ水族館で、イルカの調教師として 時に北極圏からカナダ、米国への旅に出る。 「 生 き て い る 限 り、 時 に は 浄 化 作 用 も 必 要です。誤った過去を棄て、新しい未来を は、国や企業を凶弾するキャンペーンより なっているように思います。今大切なこと ものが見えるようになった。しかし、その 「ジャック・マイヨール」 (聖アウグスティヌス) しかし、自分自身については 山の高みや海の広さに驚く。 カナダ to 短歌 46 カナダ to 短歌 47 80 81 「ザトウクジラの歌」 までが最初の旋律。次のフレーズが始まり 音に聞えますが、鯨の歌の一部です。ここ 休むことなく続きました。これはボートの された、たった一頭の鯨の歌は、一五分間 同じなのです。数百メートルの深海で録音 テーマにもどってゆく。このやり方が全く を い ろ い ろ と 変 化 さ せ な が ら、 ま た 同 じ 生み出し、自然を思うがままに変えてきま 「鯨たちは歌で世界と触れ合ってきまし た。私たちは手を器用に使って技術文明を ことを願って、今も宇宙を飛び続けている。 積み込まれ、いつか異星人が聴いてくれる 無人惑星探査機ボイジャー一号、二号にも レコードは、一九七七年に打ち上げられた ますが、まず、テーマの旋律があり、それ て い ま す。〈 ソ ナ タ 形 式 〉 と い う の が あ り 間と鯨は非常によく似た作曲法で歌を作っ 文化とよく似ているから面白いのです。人 「鯨が独自の文化を持っていることは疑 いの無い事実です。しかも、それが人間の だけの歌を収録したレコードを出版した。 に聴こえたのだという。数年後、ザトウ鯨 の声は、まるで別世界からの呼びかのよう た鯨の声に一気にひき込まれてしまう。そ の音を聴いていた博士は、突然聴こえてき ミューダ沖で、ヘッドフォンを使って海中 ス研究所を設立。一九六七年、真夜中のバ 保護を目的としたオーシャン・アライアン 研究で博士号を得る。海の環境調査と鯨の この訓練方法は、単にメロディーやリズム や楽器で示す音を即座に弾きこなすという 耳を通して師から直接学ぶのです。師が声 が、私たちにはそれがありません。全ては の音楽には書き残された楽譜があります )」は世界中で一千五十万 Humpback Whale 枚 を 超 え る 大 ベ ル ト セ ラ ー と な っ た。こ の 「ザトウクジラの歌( えるのに使ったやり方と同じです」 をふむのです。昔、吟遊詩人が長い詩を覚 になってくると、彼らは〈韻を踏む〉とい しい歌に変っているのです。歌が長く複雑 きます。そして五年もたつと、全く別の新 ます。全ての鯨たちがその変化を真似てゆ す。この歌は、年々少しづつ変化してゆき に 初 め か ら、 同 じ 歌 を 繰 返 し 歌 っ た の で 五分間歌い続け、全く休むことなく、正確 二番目、そして高くなる。この鯨はさらに で観客をいくらでも楽しませることができ です。同時に彼は、スピードやテクニック 尽くすことが音楽だ、と師は信じていたの い。その全能なるものに対して自分を捧げ 呼んでもいい、大いなる自己と呼んでもい り、動かしている見えない力、それを神と いということ。この宇宙を創造し、形づく 参考資料:映画「地球交響曲第六番」 ると私は思います」 つ日本文化は、世界を変える力を持ってい のです。その点古くから自然を敬う心を持 繰返しが始まります。これが最初のテーマ、 の仕組みから大切なものを学ぶ必要がある The Songs of the うやり方を使います。音の終わりに必ず韻 「ラヴィ・シャンカール」 を学ぶものではなく、厳しいテクニックの す。そうして音に超越的な力を吹き込むの その先で生れる直感力を磨くことにありま れるような一瞬を奏でるのです。それこそ 引き込まれ、鳥肌が立ち、自然に涙がこぼ しい音に、演奏者も聴衆も一気に別次元に 覚、 触 角 と い っ た 五 感 の 全 て を 解 き 放 ち、 ました。しかし研ぎ澄まされたわずかな美 米国のある植物学者がこんな実験をし た。全く同じ条件で育てている三本の同種 作曲家でシタール奏者のラヴィ・シャン カール( Ravi Shankar )氏はインドのバラ ナシに生まれ、現在九二歳。幼少の頃から てしまったのだという。 カールの音に、蔓はスピーカーに巻き付い ハの音楽には蔓を伸ばし、ラヴィ・シャン 観察した。結果はロックには背を向け、バッ シタール演奏を聴かせて、その成長ぶりを す。だから宗教的な悟りや覚醒といったこ 楽は古来からの宗教と深く結びついていま 情感を知らなければなりません。インド音 ンドに来て私の弟子になりました。本気で もビートルズのジョージ・ハリソンは、イ つなんて想像もしていませんでした。中で に夢中の若者達が、インド音楽に興味を持 「 一 九 六 〇 年 に、 ウ ッ ド ス ト ッ ク フ ェ ス ティバルに招かれました。ロックンロール ているかどうかにかかっているのです」 しい発見が生れますが、それを本気で求め 強中です。技術的にも霊的にも、次々と新 ようとしていました。その為に私は今も勉 が純粋な音楽の力だと信じ、それを表現し 兄たちと共に舞踊団のダンサーとして欧米 とについても学ぶ必要があるのです」 の国の文化の底に流れる精神の世界、深い 参考資料:映画「地球交響曲第六番」 諸国で活躍していたが、一人でインドに戻 インド音楽の真髄を学びたいなら、まずこ り、一八歳のときに師についてシタール奏 「 音 楽 の 本 当 の 姿、 あ る べ き 姿 と い う の は、ただの娯楽ではなく、むしろ祈りに近 「 イ ン ド の 音 楽 に は 師 が 必 要 で す。 西 洋 者としての修行を始める。 バッハの室内楽、ラヴィ・シャンカールの の 植 物 に、 そ れ ぞ れ ロ ッ ク ミ ュ ー ジ ッ ク、 です」 音は神なり インドの古い教え (ナーダ ブラフマ) Nada Brahma 訓練を通して、聴覚はもちろんのこと、視 ます。これで二つのフレーズを聴きました。 した。正直に言って、私たちの未来には破 ニューヨーク生れの海洋生物学者ロ ジャー・ペイン( Roger Payne )博士は、〈音〉 これから新しいテーマが始まります。これ 滅が見え、鯨たちの生き方には永遠が見え で世界を見る動物 (コウモリやフクロウ)の です。非常に高い音になります。これから ます。今こそ鯨や野生動物、そしてガイヤ 大海の鯨の歌の孤独かな 清水晃子 カナダ to 短歌 48 カナダ to 短歌 49 82 83 「クロップ・サークル」 したデジタル信号表に酷似していた。二七 た。他のサークルメーカー達も複数現れて、 シボ電波観測所から、異星人に向けて発信 年前に発信した信号は、元素番号、人間の ルは、同じ形状と書式を使って、あたかも これまでの現象は悪戯説に落ち着き、ブー 返 信 の よ う に 変 容 さ れ て い た の だ。 誰 が、 ムは沈静化した。 全長二三五メートル、四〇九個の大小さま 何故、何のために・・・まだ謎のままだ。 螺 旋 構 造、 地 球 の 人 口、 太 陽 系 の 地 DNA 球の位置、送信に使ったパラボラアンテナ ざまな円が整然と連なった模様で、実際に の口径など一〇項目をデジタル化したもの 英国のマスコミが、初めてクロップ・サー ク ル( Crop Circle )のことを報じたのは 一 九 七 〇 年 代 初 頭。 日 本 で は ミ ス テ リ ー 見た人の多くが、そのスケールと端正な華 二 〇 〇 一 年 八 月、 英 国 南 部 の ア ル ト ン バーン村ミルク・ヒルに、前例のない超巨 サークルと呼ばれる現象で、小麦などの穀 大 サ ー ク ル が 突 如 と し て 現 れ た。〈 ギ ャ ラ 物畑に、突如として判で押したように出現 はるかなる天空の声聴きとむる の周辺に足跡はなく、作物は根元から柔ら 一晩のうちに出来上がってしまうサークル けのものが出来るだろうか」と首を傾げる。 人間の力で、たった四時間ていどで、これだ 入った研究者は「昨夜のような大雨の日に、 (歌集『星座空間』尾崎左永子) パラボラアンテナ鈍く軋む音 www.pantafuefuki.com かく湾曲して、折れてはいない。渦を巻く 参考資料: ように整然と倒された作物は、規則正しく )の二人の老人が製作者として名 Chorley 乗りをあげ、簡単な道具と人力で、比較的 いるが、まだ解明はされていない。 兵器実験説など、様々な憶測が飛び交って 種はあると言われ、初期のような単純な円 出現したと言われている。その図柄は二千 及び、現在までに五千個以上のサークルが 博士らの手によって、プエルトリコのアレ ものは、 SETI (地球外知的生命体探査)のフ ランク・ドレイク博士やカール・セイガン (写真参照) 。 一 つ は、 火 星 探 査 機 バ イ キ ン ) の 真 横 の 畑 に、 長 方 形 の ク Obserbatory ロ ッ プ・ サ ー ク ル が 同 時 に 二 つ 出 現 し た ルの模様が一致することを知って驚くが、 ている幾何学的な図と、クロップ・サーク ギャンブル氏は、世界最古の聖地、エジ プト・アビドスのオシリス神殿の壁に残っ 源の鍵を握っているのだという。 en.wikipedia.org/wiki/crop_circle 短時間にサークルを作る実演をしてみせ 形から、次第に複雑、緻密で端正な幾何学 一九九一年には、英国のダグ・バウワー グが写した火星の人面岩とそっくりの顔の ( Doug Bower )とデイブ・チョーリー( Dave 絵。もう一つ、絨毯の模様のように見える 「続クロップ・サークル」 模 様 に 変 っ て き て い る。 中 に は、 雪 の 結 竜巻説、宇宙人 ( UFO )説、軍事用の衛星 の一つとして注目され、原因はプラズマ説、 る チ ル ボ ル ト ン 電 波 観 測 所( Chilbolton 編み込まれたような状態にある。謎の現象 〈 ギ ャ ラ ク シ ー〉 の 出 現 か ら ち ょ う ど 一 週 間 後、 英 国 の ハ ン プ シ ャ ー 州 に あ ク シ ー〉 と 名 付 け ら れ た こ の サ ー ク ル は、 だったが、チルボルトンに出現したサーク する、巨大な円形模様や幾何学模様のこと。 麗さに圧倒されたという。朝一番で調査に カナダ to 短歌 50 げ、 サ ー ク ル の 作 り 方 を 実 演 し て 見 せ た から四十年が経つ。製作者らが名乗りを上 サ ー ク ル )が 出 現 し た と 初 め て 報 じ ら れ て ジュームを開催し、研究発表の場が設けら サークルが頻繁に現れる七月に国際シンポ ではないかと推測する。 晶や DNA の螺旋構造を表しているのでは 数々の模様のなかには、エネルギーの基本 な い か と 思 わ れ る 模 様 も あ る。 英 国 で は、 形を変形させて、記号化したものもあるの クロップ・サークルが現れる場所は、英 国南部のストーンヘンジやシルベリーヒル けている。 サークルは今でも毎年、世界中で出現し続 )を設立した。様々 Sequoia Symposium な分野の研究者の見解から、ネルギーが渦 ため、一九九七年にセコイア・シンポジュー 米国オハイオ州出身のフォスター・ギャ ン ブ ル( Foster Gamble ) 氏 は、 自 然 界 に あるエネルギーとその応用方法を研究する いでしょうか」と語る。 それに調和するように促しているのではな 教えてくれているのだと思います。我々が 月の収穫と同時に、 サークルも消えてしまう。 しょうか。誰が造ったとか、何処から来た を取って流れるということに注目する。う 巻きを基調として、あらゆる規模で同じ形 (NHK全国短歌大会・平成二十年) 百歳近き今朝の楽しさ 関清治 宇宙船に乗りて空とぶ夢に覚む 構造にも、太陽や地球を取り巻く磁場にも、 人間や動植物の周りにも同じ形を観ること ができるのだという。ドーナツ型をしたこ のエネルギーの流れは、自ら調整し常に均 衡を保ってをり、持続可能な新エネルギー 参考資料 映画「スライヴ︵ ︶」 Thrive 写真は二〇一〇年六月、英国南部ウィル トシャー州の畑に出現したサークル。 ずを巻く銀河全体の構造にも、極小の原子 エネルギーがどの様に機能しているのかを のかはさておき、これらの模様は、宇宙で な ど の、 古 代 遺 跡 の 周 辺 に 集 中 し て い る ム( ル、カナダ、アメリカなど世界三〇ヶ国に が、 イ タ リ ア、 ス イ ス、 ロ シ ア、 ブ ラ ジ 為、悪戯説として一般人の興味は薄れたが、 れ、講演会や見学ツアーも組まれるが、八 「 も ち ろ ん ヤ ラ セ は あ り ま し た が、 五 千 個のサークルの全てが人の悪戯だったので 英 国 で ク ロ ッ プ・ サ ー ク ル ( ミ ス テ リ ー カナダ to 短歌 51 84 85 「イロコイ連邦」 ソンまで、約二〇〇年にわたって続けられ トンから第三六代大統領リンドン・ジョン た。それは初代大統領のジョージ・ワシン 邦を表敬訪問するのが慣わしになってい ん だ。『 自 然 界 の 権 利 は ど う な っ て い る の 利』ってね。そこでわれわれはこう言った る 』 と 言 っ て い た。『 す べ て の 人 た ち の 権 としての権利を求める声が湧き起こってい でしょうか? バッファローや鷲の座席は たという。 どこにあるのですか? この会議で誰が自 イロコイ連邦は伝統的に母系社会で、現 在 も ク ラ ン・ マ ザ ー( 氏 族 の 母 ) と し て、 然界の代表者となっているのですか? 大 地を流れる水に代わって話す人は誰です 女性首長が合議制を代表している。全権を 族だと言われている。一七九四年にアメリ る連邦国家で、北米では七番目に大きな部 オ州にかけて、六つの部族で構成されてい ない」と誓い合う。まだ生れていない世代 であるかどうかを考えて決めなければなら ことが、七世代先の人々にとって良いこと う。会議を始める前には「これから決める まで何日でも話し合いを続けるのだとい 金子兜太 木や可笑し林になればなお可笑し うか?』とね」 わって、いったい誰が発言をするのでしょ すか? 魚に代わって、鯨に代わって、ビー バーに代わって、われわれの子供たちに代 か? 樹々や森に代わって話す人はだれで カ合衆国と主権対等、相互不可侵の条約を の人々が、今よりも良い世界に生れてこれ 定会議には、イロコイ連邦や他の先住民族 なっている。一七八〇年代の合衆国憲法制 念 は、 ア メ リ カ 合 衆 国 の 連 邦 制 度 の 元 に われわれはどんなメッセージを伝えたと思 代表してジュネーブへ行ってきた。そこで ラコタ国のメンバーは、西半球の先住民を 語 る。「 わ れ わ れ イ ロ コ イ 六 ヶ 国 連 邦 と 大 Iroquois en.wikipedia.org/wiki/ 参 考 資 料 polyland. jugem.jp/?eld=295 国旗 写真はイロコイ連邦の などの合衆国政府の捜査権も及 FBI ばない。独自のパスポートを発行し、国連 るようにと、心を配るのが自分達の仕事な 諸国の代表団が含まれていた。アメリカ合 う? 他の国からの参加者たちは、 『人間 のだという。 「イロコイ連邦」が結成されたのは今か ら 一 〇 〇 〇 年 ほ ど 前 で、 六 つ の 国( 民 族 ) オ ノ ン ダ ガ 族 の オ レ ン・ ラ イ オ ン ズ 氏 は、スイスで開かれた会議での体験をこう 衆国大統領は就任に当たって、イロコイ連 未来に光を投げかけることが出来ると信じ 言語も文化も伝統も異なる十三人のお婆 さんは、自らの使命をグローバルに実践し る時、新しい時代は近い〉というのがある 世界の多くの先住民の間に伝わる予言に 〈四つの方角から集まる女性たちが発言す りかけています。その声を聴かなければい い る。「 自 然 は い ろ い ろ な こ と を 私 達 に 語 の奥地に住み、地域の指導者として働いて 生まれの日系二世。アマゾンのジャングル 十三人のお婆さんの一人、クララ・シノ ブ・イウラさんは、ブラジル・サンパウロ けている。 しっかりと変化を見届けよう、と活動を続 となって力を合わせよう、自分たちの目で ジョンを語り合い、人類という一つの種族 の 居 留 地 を 訪 問 し あ い、 祈 り を 捧 げ、 ビ てゆくために、年に一度か二度、それぞれ という。その予言を実現すべく二〇〇四年 ベット、ネパールに住む先住民族十三人の 一 五 〇 年 ぶ り に 川 に 鮭 を 呼 び 戻 し た。 「人 取り込むのだ おまえの中に 月は思うだろう 間は得るばかりだが、互いに与えあわなけ 惧 に 晒 さ れ て い る 種 の 為 に 闘 う。「 私 た ち おまえこそが月なのだと 長老たちが集まって、会議を開き声明を発 次世代の人たちに伝えてゆくことを目的と がビジョンを創ることができれば、それは いつの日か している。 参考資料: (米先住民クリー族の詩) チベットのツェリンさんは「チベットは 今、世界中の製品からでる放射性廃棄物を 人々を癒す方法を伝えることで、不確かな ら伝わる祈りや、平和を保つ方法、地球や なりません」と語る。 ず私たち自身の心の内が平穏でなけれ ば に深く心を痛めています。私たちに古くか あちゃん) めに同盟を結びました。いま地球が直面し 埋める場所になりつつあります。これはと motherspirit.org て い る、 自 然 の 破 壊 や 汚 染、 貧 困、 麻 薬、 ても危険なことです」と訴える。 映 画「 For the Next 7 暴力、戦争、核兵器と核廃棄物などの問題 米 モ ン タ ナ 州 シ ャ イ ア ン 族 の 血 を ひ く 」 Generations マーガレットさんは「変化を望むなら、ま ( 世 界 を 癒 す 十 三 人 の お ば 物と、七世代先とさらに続く子供たちのた 「 私 た ち 十 三 人 の お 婆 さ ん は、 母 な る 地 球のために、そしてそこに住む全ての生き 広まっていきます」とも言う。 表した。自分たちが受け継いできた知恵を、 れば自然のバランスは乱れる」と絶滅の危 州フェニシアに北米、南米、アフリカ、チ 一〇月、イロコイ族の居留地ニューヨーク すべての暖かい夜 けません」と説く。 月光の下で眠れ 最年長の米国オレゴン州のアグネスさ ん( 八 六 歳 ) は、 鮭 の 式 典 を 復 活 さ せ、 その光を、一生をかけて ています」 「十三人のお婆さん」 が一つの国として平和に共存するという概 からも独立自治領として認められている。 結び、 邦( Iroquois Confederacy )」 は そ の 一 つ。 掌握する部族の長としてではなく、調停者 ニューヨーク州北部からカナダのオンタリ としての役を担い、全員の考えが一致する 先 住 民 族 の 居 留 地 が あ る。「 イ ロ コ イ 連 ア メ リ カ 合 衆 国 に は 州 と は 別 に、 合 衆 国政府から独自の主権を認められている カナダ to 短歌 52 カナダ to 短歌 53 86 87 のスピーチは〈リオの伝説のスピーチ〉と ロの旅をして来ました」で始まるセヴァン をためて、カナダからブラジルまで一万キ だくようお願いするために、自分達で費用 たがた大人にも、ぜひ生き方を変えていた 界を変えるためにがんばっています。あな 歳から一三歳の子供達の集まりで、今の世 のは子供環境運動の略です。カナダの一二 てしまっ なたは知らないでしょう。今や砂漠となっ た動物をどうやって生き返らせるのか、あ にどうやってサケを呼び戻すのか、絶滅し か、あなたは知らないでしょう。死んだ川 ゾン層にあいた穴をどうやってふさぐの いっていうことを知ってほしいんです。オ た大人にも、よい解決法なんて持っていな かはっきりわかりません。でも、あなたが のんきな顔をしています。まだ子供の私に 「 こ ん に ち は、 セ ヴ ァ ン・ ス ズ キ で す。 エコを代表してお話しします。エコという は、この危機を救うのに何をしたらいいの きたら、まるでまだまだ余裕があるような い勢いで起こっているのに、私たち人間と てはこないんです。大変なことがものすご は耳にします。それらはもう、永遠に戻っ が、毎日のように絶滅していくのを私たち が分かります。世界を変える為に、立ち上 思っていました。でも今は違うということ 導者に訴えれば、何でも解決してくれると ることが大切です。以前は、世界各国の指 せん。徐々にシフトしていける方法を考え あるのか。地球の問題には特効薬はありま いる様々な環境破壊の先に、どんな未来が 自分達の子供のことです。現実に起こって 配するとしたら、木々や蜂のことではなく、 に 立 っ た。「 人 々 が 将 来 に つ い て 本 気 で 心 ると信じていた十二歳の少女は、二児の母 〈伝説のスピーチ〉から二〇年が経った。 国連や政府に怒りをぶつければ変化が起き のはもうやめてください」 て直すのかわからないものを、壊し続ける 「セヴァンのスピーチ」 言われている。 自分たちです。私とあなたなのです」 個の細胞から成っています。それぞれの細 「 私 た ち は、 単 一 の 固 体、 即 ち 人 間 と し て鏡に映ってはいますが、実際は約五〇兆 の一部を二回に分けて紹介する。 し た「 新 し い 生 物 学 が 明 か す『 心 の 力 』」 二〇〇九年、五井平和財団の五井平和賞 を受賞したリプトン博士が、授賞式で講演 野を開いた。 振る舞いを変えるという新しい生物学の分 に一石を投じた人がいる。米国の ブルー ス・リプトン( Bruce Lipton )博士だ。遺 伝子は単なる生物の設計図にすぎず、意識 するという説が支持されているが、その説 六十年前に遺伝子の二重螺旋構造が発見 され、遺伝子が生物の特性をコントロール 「心の力」 に出会うまで。そして今、動物や植物たち 「父とよくバンクーバーで釣りをしたも のです。数年前に体中ガンでおかされた魚 の視点から大人達へ率直な意見を伝えた。 に集まった世界の指導者たちを前に、子供 状態を保つために働くセロトニンや体を再 シトシンや体を落ち着かせて組織や臓器の たされた状態にあるときには、脳からオキ てゆくことができるのです。心が愛情に満 出る化学物質は変り、自分自身の体も変え つまり信条や物の見方を変えれば、脳から の活性を制御します。ですから自分の知覚、 出し、その化学物質が細胞の反応と遺伝子 の解釈に従って脳は血液中に化学物質を放 ています。知覚は心によって解釈され、そ 私たちは環境の中で、光、音、臭い、感 触など様々なシグナルを知覚でキャッチし ロールしているのでしょう。 の血液成分を調節し、細胞の運命をコント シグナルに反応します。では、何が私たち 血液中の の細胞は り、体内 養地であ の成長培 液が細胞 では、血 す。体内 どうやっ し ょ う。 たは知ら か、 あ な 「環境と開発に関する国連会議(地球サミット) 」 らせるの 還元されるホモサピエンス 斉藤光悦 参考資料 感情も思考も分子の活動に とができるのです」 ます。この世界に平和と調和をもたらすこ 自分の人生も世界も変えていくことはでき 分自身を正しく知れば、プログラムを変え、 とはできるのです。知ることは力です。自 とはできなくても、プログラムを変えるこ る機会を持っています。遺伝子を変えるこ 「 私 た ち は み な 力 強 い 生 物 で あ り、 健 康 かつ幸福で愛情に満たされた人生を創造す 心の仕組みを理解さえすれば良いのです」 コントロールできるパワフルな存在です。 す。私たちは信念、思考によって、細胞を すが、これも科学的に裏づけられたわけで す。また日本人は「病は気から」といいま 日本では古くから「言霊」という考え方 がありますが、それは科学的な事実なので させるのです。 たが心の中で発する言葉が化学物質を分泌 モンを血液中に放出します。つまり、あな ゾール、ヒスタミンといったストレスホル www.youtube.com/watch?v=C2g473JWAEg 田中正造 参考資料 さず 村を破らず 人を殺さざるべし 真の文明は 山を荒らさず 川を荒ら がらなくてはいけないのは、ほかでもない、 親となり、再びリオの地球サミットの演台 )はバン た 場 所 に セヴァン( Severn Cullis-Suzuki ク ー バ ー 生 れ の 日 系 四 世。 一 九 九 二 年 に、 ど う や っ 胞が生命を持った個体であり、人間は何兆 て森を甦 もの細胞からなる共同体なのです。言い換 生させる成長ホルモンが分泌されます。逆 や環境が細胞をコントロールし、遺伝子の な い で え れ ば、 私 た ち は 五 〇 兆 も の 細 胞 を 内 に に 心 が 恐 怖 を 感 じ て い る 時 に は、 コ ル チ news/2009/forum2009_02.html www.goipeace.or.jp/japanese/activities/ www.metromin.net/2012/02/24/1544 持 つ、 皮 膚 で 覆 わ れ た 組 織 培 養 皿 な の で ブラジルのリオデジャネイロで開催され た カナダ to 短歌 54 カナダ to 短歌 55 88 89 り、「 プ ラ ス 思 考 」 を 司 る 心 で す。 過 去、 造的な心です。また、希望や願望の源であ ティ、本体あるいは魂の拠り所であり、創 に 関 わ っ て を り、 私 た ち の ア イ デ ン テ ィ 持っています。意識下の心は、前頭前皮質 下 の 心 で、 両 者 は 非 常 に 異 な っ た 特 性 を 「 人 間 の 心 に は 二 つ の 部 分 が あ り ま す。 それは意識下の心(顕在意識)と潜在意識 の力』」(前月号より続く) 二〇〇九年度「五井平和賞」の受賞者ブ ルース・リプトン( Bruce Lipton )博士の 受賞記念講演「新しい生物学が明かす『心 た自己評価となり、目に見えない習慣とし するか、価値があるか、能力があるかといっ 接潜在意識の中に記録され、自分は愛に値 獲得します。他の人たちの放った言葉が直 もは自らに対する考え方を両親から聞いて ラム化します。また、この催眠期に、子ど ンロードし、自分自身の行動としてプログ します。つまり無意識に他人の行動をダウ くように設計されていて、催眠状態で作動 六歳までの子どもの脳は低周波数脳波で働 生活体験によってプログラム化されます。 のです。そのほかは観察され、記録された 潜在意識のプログラムはどこから得られ るのかというと、一部は本能と呼ばれるも 倍も大きいのです。 情報処理能力は、意識下に比べて一〇〇万 のように作動します。しかも、潜在意識の 重要なのだということを認識しなければな 将来、そして私たちの世界の未来にとって 親が子どもに発する言葉一つひとつ全て が重要なのです。その子の発育、その子の の人生は変ります。 が多いのです。このことがわかれば私たち 見えないプログラムで生きている場合の方 無意識に他の人たちから与えられた、目に つ ま り、 自 分 の 人 生 を 生 き て い る よ う で、 これは神経科学で明らかにされています。 心の習慣によって支配されているのです。 けで、残りの九五%の時間は潜在意識下の、 意識下の心が働いているのは五%の時間だ ここで大きな問題があります。脳の活動 を見ると、私たちが生きている時間のうち、 なります。 さらに精神集中的な意識の脳波が支配的に 識 の 脳 波 は 六 歳 頃 に 現 れ、 十 二 歳 頃 に は、 「続 心の力」 現在および将来の経験のいずれにも焦点を て自動的に演じられるのです。穏やかな意 りません」 合わせることができます。 くるくるかわってぼくはたいへん かあさんはやさしかったりおこったり 本能や後天的に獲得した習慣など、プログ だから時には人だったり、時には動物 に密着したもの、実用的かつ機能的なもの ンディアンにとっては、文学はもっと生活 本質的には知的娯楽であるのに反して、イ news/2009/forum2009_02.html だったり、互いに区別はなかったのだ。 何故そんなことができたのか よかった。 したいことを、ただ口に出して言えば ば呪術的な媒介として歌(時には物語)は る、超自然の能力を獲得するための、いわ に見えない霊と交流したり対抗したりす あってのことである。すなわち、宇宙の目 ても、それには宗教ないし神話の裏付けが 目的を持っていたのである。実用とは言っ 歌、鎮魂の歌など、すべて「実用」という りの獲物を祈願する歌、恋人を得るための 祈願の歌、豊作を祈る歌、雨乞いの歌、狩 病気を治癒するための呪いであった。戦勝 ン・マンによって歌われる歌は、しばしば であった。シャーマン、あるいはメディス そしてみんなが同じ言葉を喋っていた。 その時言葉は、みな魔法のことばで、 「 イ ン デ ィ ア ン 」 と い う 語 が 差 別 用 語 だ と い う 声 が あ が り、 カ ナ ダ に 住 む 先 住 人の頭は不思議な力を持っていた。 民 族 を フ ァ ー ス ト・ ネ イ シ ョ ン ズ( First ぐうぜん口について出た言葉が、不思 ) と 呼 ぶ よ う に な っ て 久 し い。 歴 Nations 議な結果を起こすことがあった。 史も政策もカナダとは全く違う米国で ことばは急に生命を持ちだし Native 人が望んだことが本当に起こった。 ンあるいはアメリカン・インディアンと呼 だれにも説明できなかった。 あったのだ。近代人のように、詩人の魂の は、 ネ イ テ ィ ブ・ ア メ リ カ ン( ばれることを望む人たちも多い。 世界はただ、そういうふうになってい う動機でもって「詩作する」のとは全く異 個人的な叫びとか、言語美の表現だとかい たのだ。 (エスキモー族) はなく、ヴィジョンを見て、それを言葉に である。言いかえると、詩作は知的行為で 質の行為、つまり「文学」以前の行為なの 『魔法のことば』 することに他ならなかった」 金関氏は言う。「近代文明社会の文学が、 ずっと、ずっと大昔 参考資料 NativeBookPhoto/MagicPoem.htm www.aritearu.com/Influence/ 人と動物がともにこの世に住んでいた 動物が人にもなれた。 なりたいと思えば人が動物になれたし とき た様々な部族の口承詩を紹介している。 儀式の歌として、部族全員で歌い継いでき 『アメリカ・インディアンの口承詩』には、 アメリカ現代詩、先住民の詩を専門とす る英文学者で翻訳家の金関寿夫氏の著書 )と呼び替える動きが進んでい American る。が、歴史的呼び名としてのインディア www.goipeace.or.jp/japanese/activities/ 神戸啓孝 小学三年 参考資料 「インディアンの詩」 付けた習慣が、あたかもたった今習ったか 反応を自動的に演じます。一〇年前に身に タンを押すと潜在意識は以前に身に付けた ラム化された行動のデータベースです。ボ 一方、脳のほかの部分を占める潜在意識 下 の 心 は、 記 録 再 生 装 置 の よ う な も の で、 カナダ to 短歌 56 カナダ to 短歌 57 90 91 「タゴール」 ベンガル語で書いた詩をタゴール自身で英 考えない恵みをいただきたいのです その害が取り返しのつかないものだと る。ガンジーらのインド独立運動を支持し、 目を向け、弱者の声を代弁するようにもな と同時に、政治の不条理や社会の諸問題に 心のはげしい痛みの中で 哀しみのどん底、 危険のさなかで恐れないことです 危険から護られることではなく 私が願うのは 失意以外、何もない夜にも 暗い悲しい夜 あなたの存在を認めます 私はあなたを思い 謙虚に頭を垂れ 喜びの日に の知識人との親交も深かった。五回来日し 遺伝子には機械装置のオン・オフ機能に 似た働きがあるということがわかったのは に与える影響を研究している。 と遺伝子研究会」を立ち上げ、心が遺伝子 誉教授の村上和雄氏は、二〇〇二年に「心 高血圧を引き起こす原因となる酵素「レ ニン」の遺伝子解読に成功した筑波大学名 ば発病しないわけです。特別な遺伝病を除 です。しかしスイッチがオンにならなけれ 「ガンにしても高血圧、糖尿病にしても、 誰もが皆その遺伝子を持っていると思うん いう。 問題などを考える上でヒントになるのだと 人間の可能性の問題、教育や病気、健康の て き た。 こ れ は 単 に 科 学 の 問 題 で は な く、 オフに直接関係しているというデータは出 のビタミンやタンパク質は、遺伝子のオン・ スイッチがオンになるという研究だ。多く な刺激で、筋肉タンパク質を作る遺伝子の 運動すると筋肉がつく。体操などの物理的 多くの研究者がやっているのは、たとえば 挫折の連続に遭っている時も らしい。笑いでオンになる遺伝子には、免 子のうち、五〇個くらいが笑いに反応する 果が出始めている。約二万個のヒトの遺伝 笑いによって、どの遺伝子がオンになり、 どの遺伝子がオフになるかという研究の成 短距離で発表できた。ロイター通信でもそ 出したところ、すぐに掲載の許可がでて最 果を論文にして米国の糖尿病医学会誌に提 値上昇を抑えることを突き止めた。その結 続 け、「 笑 い 」 が 糖 尿 病 患 者 の 食 後 の 血 糖 糖尿病患者と吉本興業の協力を得て実験を 村上氏は『笑いによってスイッチがオン になる遺伝子がある』という仮説をたて、 ほぼ間違いないと思っています」 のも体に大きな影響を与えている。これは 写真 タゴールとガンジー 参考資料 www.b-family.org/public_html/ 『ギタンジャリ 五〇年ほど前のこと。栄養源として大腸菌 いて、私はほとんどの病気は、遺伝子が食 疫力の向上や糖尿病による臓器疾患を抑制 ・・・ 訳したものが、アイルランドの詩人イェイ あなたが来て私を救ってくださる を添えて刊行された英文詩集『ギタンジャ これを私は願っていません ツの目に留まる。感動したイェイツの序文 リ』は、英国詩壇に大きな衝撃を与えたと 私が願うのはのりこえてゆく力です ただ 私が重荷を担う 慰めてくださらないで結構です あなたは私の重荷を軽くしたり いう。翌年には、この〈一〇〇頁〉足らずの ここでは、渡辺和子著『愛を込めて生き る』の中に、日本語で紹介されている口語 小さな詩集が、ノーベル文学賞を受賞する。 行われた。詩聖と呼ばれながらも、インド 体の詩を引用させて頂く。 たタゴール 慰めてもらうことではなく その力をお与えください は、 日 本 人 悲しみを克服し ロマン・ロランやアインシュタインら世界 の自然を愛 ああ 決してあなたを 逃げ場がなくなった時も 疑うことがありませんように 』 No.4 勝利をうたうことなのです を高く評価 したという。 にブドウ糖を与えると、大腸菌はそれを食 べ物やストレスなどの環境によってスイッ する働きが見られるということがわかって 勇気を失わさせないでください べて分解する。乳糖と同時に与えると、ブ チがオンになったりオフになったりしてい 一九一二 年、 英 国 へ ドウ糖だけを食べて乳糖を全く食べない。 ると考えています。さらに人間にはメンタ きたのだ。 世間的にも大失敗し ところが、そこからブドウ糖を抜いて乳糖 ルとか、もっと言えばスピリチュアルなも デオキシリボ核酸いわゆるDNAその の 旅 の 途 中、 だけにすると、初めは食べないが、やがて 乳糖を分解する遺伝子はもともとあった、 中にわが生のシナリオ 斉藤光悦 考えられるのだという。 大腸菌という最も簡単なものから研究が 進み、今では人間の遺伝子のオン・オフス イッチのメカニズムが少しわかりだした。 参考資料 www.gsic.jp/support/sp_02/kvs/05_01 しかしそのスイッチがオフになっていたと れを全世界に公表してくれたのだという。 乳糖を食べて分解しだした。ということは、 「スイッチ」 する美意識 哲学など、あらゆる方面に才能を発揮する。 国家の作詞作曲や、小説、戯曲、絵画、思想、 ル( Rabindranath Tabor )の生誕一五〇年 を記念する行事が、東京のインド大使館で 二〇一一年七月、日本とも関わりの深 い、インドの詩人ラビンドラナート・タゴー カナダ to 短歌 58 カナダ to 短歌 59 92 93 競って、祈りを含めた意識研究に乗り出し ド、 コ ロ ン ビ ア な ど 国 を 代 表 す る 大 学 が が明らかになりだしたことです。ハーバー 注目しているのは「祈り」による治癒効果 「 今、 医 学・ 医 療 分 野 に お い て、 革 命 的 なことが起ころうとしています。特に私が なった。 果についての研究に力が注がれるように 瞑想、音楽、信仰などの、医療に及ぼす効 統 医 学 を は じ め、 ハ ー ブ、 漢 方 薬、 鍼 灸、 ところが近年になって、東洋医学などの伝 べて信憑性の低いものとみなされてきた。 療法として残ってはいるも、西洋医学と比 培われ伝えられてきた知恵は、今でも民間 たり、樹液を塗って殺菌したり、経験から を持っていた。木の葉を食べて消化を促し 人間は医療という概念がない頃から、自 然界のものを利用して傷や病気を癒す知恵 プラセボ効果であるとは説明できないのだ がみられた。この結果から、祈りが単なる く離れた東海岸からの祈りも、同様の効果 ある病院に近いグループからの祈りも、遠 全員が使用しなくなった。また、西海岸に 析の使用率が著しく減った。呼吸器はほぼ ない患者よりも人工呼吸器、抗生物質、透 えて、毎日その人の為に祈るように依頼し 祈られるグループの患者の名前と病状を教 為に祈る人たちを全国の教会から募集し、 いグループに無作為に分ける。次に患者の 心臓病の入院患者三九三人を、患者には 知らせずに、祈られるグループと祈られな 行われました」 す。しかし、米国の病院で興味ある実験が くはプラセボ効果にすぎないと考えていま 効であると認めている医学者でも、その多 あることを示しています。祈りが治療に有 れは期待感、自己暗示などが治療に有効で ボ(偽薬)効果として知られています。こ えると効果があることは、古くからプラセ 「全く有効成分が入っていないものでも 『素晴らしい新薬で良く効く』と言って与 ものが。 (クロウ・インディアン) 私たちにあらゆることを教えてくれる その全てをつくったものがいる 木は偶然ここに立っているのではない 的に実証されようとしている。 に祈りを捧げてきた。その祈りが今、科学 古来人類は、目には観えないが確かに存 在する大自然の不思議な働きに対して真摯 れていない。 伝子についての具体的な成果はまだ発表さ 果が数多く発表されている。が、祈りと遺 祈りが対象物に変化を与えるという研究結 祈りの実験の対象は人間だけではなく動 物、 植 物、 細 胞、 細 菌 な ど 多 岐 に わ た り、 「祈り」 て い ま す 」 と 語 る の は、 前 号 で 紹 介 し た、 という。 は二つとして同じものはない』という文章 「水の違いを目に見える形で表す方法は な い も の か と 悩 ん で い た と き、『 雪 の 結 晶 研究に取り組んでいる。 こ の 映 画 に 登 場 す る 江 本 勝 氏 は、 一 九 八 六 年 に I.H.M 総合研究所を設立し て、独自の視点で地球上のさまざまな水の の意識が水に変化を与える」ということ。 点がある。それは「水は情報を記憶する」「人 関わらず、登場する人たちの主張には共通 研究分野や所属する宗教宗派は異なるにも 神秘」「水の新しい科学」が語られている。 ロシアで制作されたドキュメンタリー映 画「 Water 」 で は、 登 場 す る 二 十 三 名 の 科 学者や研究者、宗教者たちによって「水の の交響曲四十番は、華麗な美しい結晶を見 かな曲調の通り整った結晶、モーツアルト トーベンの交響曲『田園』は、明るく爽や すが、結果は素晴らしいものでした。ベー スピーカーの間に置いて音楽を流したので てみました。精製水をビンに入れ、二つの 楽を聴かせ で、 水 に 音 「 あ る 研 究員の発案 ました」 結晶が現れ も、 美 し い 地域の水で が 残 っ て い る 川 の 上 流 な ど、 世 界 の ど の これに対して湧き水、地下水、氷河、自然 水を調べてみると結晶にならないのです。 一九九四年のことでした。まず東京の水道 誤を経てようやく一枚の写真が撮れたのは け始めるほんの数十秒間だけです。試行錯 を撮影できるのは、温度が上がって氷が溶 顕微鏡でのぞくと、結晶が現れます。結晶 的となるべきゆふぐれの水 葛原妙子 他界より眺めてあらばしづかなる ンで会を終了した。 名が会場を埋めスタンディングオベイショ あったが、筆者が参加した時は、約七〇〇 び回っている。カナダでも何度か講演会が は、あちこちからの講演依頼に世界中を飛 関 係 本 も 次 々 と 出 版 さ れ て い る。 江 本 氏 この研究の集大成とも言える写真集『水 か ら の 伝 言 』 は、 世 界 中 で 大 反 響 を 呼 び、 晶が砕け散ってしまったのです」 せた水は、ヘビーメタルの曲と同じように結 紙 を 貼 っ た 水 で、「 ば か や ろ 」 の 言 葉 を 見 結晶を見せてくれたのは「ありがとう」の をビンに貼ったのです。きれいな六角形の とう」「ばかやろ」とワープロで打った紙 見 せ て み よ う と 思 い つ き ま し た。「 あ り が になってしまいました。次に、水に言葉を かせたところ、結晶はばらばらに壊れた形 怒りと反抗に満ちたヘビーメタルの曲を聴 参考資料 映画『祈り』監督白鳥哲 www.youtube.com/embed/G50jF2K2AQ 岩は偶然ここにあるのではない 笑いと遺伝子の働きの関係を研究している が目に留まり、水を凍らせて結晶を作り写 せ て く れ ま し た。 ク ラ ッ シ ッ ク に 限 ら ず、 た。一〇ヶ月後、祈られた患者は、そうで 村上和雄氏。 真を撮ってみようと思いつきました。水一 movie.html 参考資料 www.masaru-emoto.net/jp/memory/ 現在では四十五ヶ国語に翻訳され、続編や 滴をシャーレに落として、マイナス二十度 れ ぞ れ 美 し い 結 晶 に な り ま し た。 し か し、 歌謡曲、民謡、ジャズやロックの名曲もそ 力で盛り上がった氷塊の突起に光を当てて 以下の冷凍庫で三時間ほど凍らし、表面張 「ウオーター」 カナダ to 短歌 60 カナダ to 短歌 61 94 95 一世紀歩み来たれどまだ元気 代頃から世界のタネ市場に急速に広まっ 量が増えて日持ちが良いため、一九六〇年 育が早く、大柄で色・形・味が揃い、収穫 という性質を利用した品種改良の技術。生 と は、 異 な る 品 種 を 人 為 的 に 掛 け 合 F1 わせて、一代目の時にだけ現れる雑種強勢 という。 起こせば生命の死にも関わってくる。それ ネルギーの源で、免疫機能を司り、異変を ている。生命にとってミトコンドリアはエ 伝子の異常を利用した野菜を私たちは食べ てられ、雄性不稔というミトコンドリア遺 咲くこともある。それを種苗会社は抜いて 「タネ」 生くるタネ蒔く菜園に立つ は 植 物 も 人 間 も 同 じ な ん で す。 そ し て F1 の野菜は、二代目以降はタネを採って蒔い 全国各地の在来種と固定種だけを扱ってい 埼玉県飯能市に、小さな種屋「野口のタ ネ・野口種苗研究所」がある。この店では、 に警鐘を鳴らす。また日本の市場に出回っ ら大きく外れて発展した交配技術の安全性 ができてしまうんです」と、自然の摂理か ても、姿形がめちゃくちゃな異品種ばかり 捨ててしまう。生命として正常な野菜は捨 広瀬 保(山梨県) た。人工交配にはピンセットを使う原始的 る。三代目の店主野口勲さんには、家業を さんにそれぞれの方法で育てて頂くしかな ている野菜の種のほとんどが海外で採種さ い。 ど こ か に 一 つ で も 在 来 種 の 遺 伝 子 が 継ぐ前に手塚治虫漫画の編集者だった時代 な方法から、放射線を当てて突然変異を起 残っていれば、いざという時でもなんとか れ て い る 点 を 危 惧 し て い る。「 土 地 に 適 し こさせる方法、細胞と細胞を無理にくっつ がある。手塚作品の根底に流れる生命尊重 いう。二年前、野口さんは今の豊かな「食」 ける細胞融合など、次々に開発される新技 なる」とベランダ飼育も含めて、多くの人 た在来種・固定種を残していく為には、皆 の裏側で起きている事実を知って欲しいと に家庭菜園で自家採種の作物を作り続けて と自然への畏怖、地球環境保全への願いは、 『タネが危ない』を出版した。 術が、タネという生命を変えつつある。い ほしいと呼び掛けている。 用して作る ま最も多く使われているのは、雄性不稔と (エフワン)種=異品種を掛け合 F1 「自然というのは本来の姿に戻ろうとす るので、雄性不稔の野菜の中に正常な花が demand/581590/002479.php な波紋を投げかけた。 果は、フランスをはじめ世界の国々に大き を続けた。専門誌に発表されたこの研究結 与える研究に密着して、二年にわたり撮影 を当てる。ラットに遺伝子組み換え作物を 最新作『世界が食べられなくなる日』で は「遺伝子組み換え」と「原子力」に焦点 ヒット作となった。 ランスでドキュメンタリーとしては異例の の安全性を追及した『未来の食卓』は、フ をテーマにした映画を作るようになる。食 患 っ た こ と を き っ か け に「 食 」 と「 環 境 」 の制作と中継を担当してきたが、結腸癌を フランスのジャン・ポール・ジョー氏は、 長年監督としてテレビ番組やスポーツ番組 桑原正紀 まなこは風のやうにやさしい 草を食み命やしなふ動物の のGM作物が 産、 カ ナ ダ 産 可済みの米国 ページには認 生省のホーム れ て い る。 厚 として使用さ 加工の原材料 食 用 油、 食 品 く の G M 作 物 が 輸 入 さ れ て を り、 飼 料 や と販売を禁止している。日本には、既に多 ルガリア、ルクセンブルグ等はGMの栽培 オーストリア、ハンガリー、ギリシャ、ブ 物 や 果 物 も G M に な り つ つ あ る。 ロ シ ア、 務はない。ジャガイモ、トマト等様々な作 非GM食品と同等であるとして、表示の義 トウモロコシと大豆の作付けのほぼ百 パーセントがGMの米国では、GM作物は はないと警鐘をならす。 M食品は、十分な検証がされているわけで たのだ。既に世界の市場に出回っているG 実験の結果、四ヶ月以降から異常がみられ は明るいと言えます」 人達が増えて行動を起こせば、人類の未来 の 農 業 学 校 を 紹 介 し て い る。「 真 実 を 知 る ムで食料の自立を目指す、セネガル共和国 否し、自然に即した持続可能な農業システ 起こすことが早急に必要です」とGMを拒 は大きいのですが、もっと具体的な行動を すると圧力をかけてきます。ネットの役割 「 原 発 も 遺 伝 子 組 み 換 え も、 ご く 少 数 の 人たちの手中にあり、情報を公開しようと 刻になるということ」 内に蓄積されやすく、世代を追うごとに深 ているということ、そこから出る汚染は体 と、それにも関わらず既に世界中に存在し 問題が起きた時に修正ができないというこ す。まず、人間が管理できないということ、 「遺伝子組み換えと原子力という二つの テクノロジーには共通する問題点がありま でいる人達にスポットを当てた。 現状と共に、福島原発事故の影響に苦しん もう一つのテーマ「原子力」では、世界 第二位の原発保有国である自国フランスの でいる。 ラットの寿命は二年で、人間の八十年に 相当すると言われている。世界的権威であ ずらりと並ん 参考資料 www.uplink.co.jp/sekatabe るFDA(米国食品医薬局)が遺伝子組み 換え G (M 作 ) 物を認可するのに、前提と している実験期間は三ヶ月。ところが長期 参考資料 noguchiseed.com www.videonews.com/on- いう、花粉を作れなくなった突然変異を利 種、 種で育てられたものだ F1 わせて作った一代雑種、 GM 種=遺伝子組 み換え種がある。今日本で売られている野 菜のほとんどは 「食と環境」 種だという。 F1 種には在来種=農家が自家採種した種、 固定種=農家が代々受け継いできた作物の 野口さんの人生観に大きな影響を与えたと カナダ to 短歌 62 カナダ to 短歌 63 96 97 「アフリカのうた」 だ、と吉田氏は指摘する。 『アフリカのうた 平和を紡ぐ言葉たち』 ( 編・ 訳・ 登 坂 雅 志 ) に 収 録 さ れ て い る、 カメルーン生れの詩人ムバフ・ゼテベグ作 きみの心に愛をちりばめるのに 神がみへの賛歌を唱えるのに 過ぎ去った時代の謎を解くのに 際機関やNGOが参加した。 アフリカ以外から三十五ヶ国、七十四の国 カ五十四ヶ国のうち五十一ヶ国の代表と、 催して、一九九三年から五年ごとに日本で 横浜でアフリカ開発会議が開かれた。こ の会議は、日本政府と国連、世界銀行が共 搾取され 辱められた人種の恨みを晴 心をうち砕くのに 火をつけるのに 詩 それは何の役にたつの 詩を書いてます ねえ きみ、きみは何をしてるの かさ、優しさに触れることができる。 カの過酷な歴史を持つ人の逞しさ、心の豊 道を示すのに 戦闘用の斧を葬るのに 女の心を盗むのに ことを公然と言うのに ほかの人たちが声を潜めて言っている 不滅の扉を開くのに 自由を歌うのに 詩 それは何の役にたつの 詩を書いてます ねえ きみ、きみは何をしてるの 説得するのに が存在しているのは確かだがそれだけでは らすのに の「私は詩をつくってます」では、アフリ な い と、「 シ ネ マ ア フ リ カ 」 の 吉 田 未 穂 氏 勇士の遺骸を焼き尽くすのに アフリカと聞くとまず思い浮かぶのが、 飢餓、エイズ、貧困、虐殺。これらの問題 開催されている。今年の会議には、アフリ は言う。この団体は、アフリカ人の手で作 う。複雑で難しいテーマの映画でも、コメ じってノリウッドと呼ばれるほどだとい 数では今や世界第一位で、ハリウッドをも リアの映画産業の発展は目覚しく、制作本 きみの心を啓くのに きみの目を開かせるのに 詩 それは何の役にたつの 詩を書いてます ねえ きみ、きみは何をしてるの で自分の健康を取り戻す力のこと。ところ とは、全ての生き物に備わっている、自分 たちまちその効果が表れる。自発的治癒力 ました。ほんの少し生き方を変えるだけで、 「私は自分の身体や患者さんの体験を通 して、自発的治癒力の効果を何度もみてき 一方的で、身体の側に選択の余地はありま し、選択して吸収するのです。化学薬剤は 体自身が、今の自分には何が必要かを判断 せでできています。生薬を摂取すると、身 剤に対して、薬草は複雑な分子の組み合わ す。たった一つの分子で出来ている化学薬 極的に取り入れ、心身のバランスを整えな ヨガ、呼吸法、リラクゼーションなどを積 医 療 を 統 合 す る 試 み で、 薬 草 や 食 事 療 法、 安全で長い目でみたら効果も高いのです」 要ですが、ほとんどの人には、生薬の方が 性化させるのです。重症の患者さんには必 く、身体に備わっている治癒力を助け、活 せん。薬は、それ自体が病を治すのではな が多くの人は自分にそんな力が備わってい 「自然の産物はみな複雑な構造を持って います。人間の身体もとてつもなく複雑で homepage3.nifty.com/kukkie 参考資料 られた映画を通して、今のアフリカを考え ディタッチの明るい作品が多く、その理由 きみの魂のなかに生の炎をかき立てる ようとの趣旨で活動をしている。ナイジェ として、あまりにも長く続いた辛い苦渋に 十薬の薬効談義清掃日 早坂トミ子 米国のアリゾナ大学医学部を中心に、「統 合 医 療 」 が 始 ま っ て い る。 統 合 医 療 と は、 がら、自然治癒力の向上をめざすという考 「私は、宇宙には何らかの知性がある思っ ています。全ての存在は生きている。私を 「 今 の 私 た ち は、 自 然 の 偉 大 な 治 癒 力 に ついてはあまりにも無知です。その力に気 はなぜ治るのか』など著書多数。 示唆を与えてくれる。『癒す心・治る力』『人 ではなく、心と身体の関係についても深い 行う。彼の経験と叡智は、医学の分野だけ 入って、伝承的な医療や薬草の現地調査を いがあるのだという。 き毒性も少ない。しかし、もっと大きな違 性も強い。これに比べ生薬は、穏やかに働 を投与する。強力で効き目も早い反面、毒 現代医療は、病気の原因と結果を単純化 して的を絞り、計画的、集中的に化学薬剤 で自発的治癒力は鈍ってしまうのです」 いかもしれないと不安を抱けば、それだけ るとは思っていない。もし患者が、治らな 変革が起こるのだと思います」 やり方で、一歩踏み出すことによってのみ 境 に 大 き な 影 響 を 与 え て い ま す。 だ か ら、 みが、意識するしないに関わらず、地球環 岩や山も持っています。私たちの日々の営 生かしてくれている同じ生命エネルギーを づき、それを生かす道を選べば、今よりは 参考資料 龍村仁監督「地球交響曲第七番」 私たち一人ひとりが、自分の場で、自分の るかに健康に生きることができるはずで イル( Andrew Weil )博士は、近代医療の 限界を感じ、メキシコやアマゾンの奥地に え 方。 そ の 先 駆 者 で あ る ア ン ド ル ー・ ワ 世界各地に伝わる伝承医療と、西洋の近代 す」とワイル博士は語る。 のに 「癒す心・治す力」 「笑うしかなかった」という背景があるの 愛するのに カナダ to 短歌 64 カナダ to 短歌 65 98 99 太陽の惑星地球だけ別に 心を動かされた。 球に対する熱い思いと、美しい映像に深く な劇場で上映されていた。出演者たちの地 のこと。東京の井の頭線下北沢にある小さ か?」 こ ん な ナ レ ー シ ョ ン で 始 ま る「 地 球交響曲第一番」を観たのは十五、六年前 上映への動きだった。 跡に近い現象なのだという。その奇跡をも ている。これは映画界の常識からみれば奇 日本や海外の何処かの町で上映会が開かれ ろ が こ の 映 画 は、 二 十 年 余 を 経 た 今 で も、 普通映画は、ロードショーから一年も経 てば上映の機会はなくなってしまう。とこ 「地球交響曲」 生物住まふ不思議なりけり 監督の龍村仁 氏 は、 三 十 四 歳 ことに気づいたのです。人間は実は、二つ 静かに見つめているもう一人の自分がいる そのとき、私は落ちてゆく自分を、上から そ八〇〇メートルの崖を墜落したのです。 と確信しています。下山の途中、私はおよ 「私は理性や五感だけでは捉えることが できない、別の次元の現実が存在している んでいるという。 影が、二〇一四年十月の完成を目指して進 に 撮 り 始 め た こ の 映 画 は、「 第 八 番 」 の 撮 出演者たちの言葉が心に残る。二十数年前 映像と音楽の素晴らしさ、そして何よりも、 ほとんどインタビューだけで成り立って いる映画「地球交響曲」は、背景に流れる の言葉を思い出すことができるのでしょう れてしまうのでしょうか? それとも、科 学技術の進歩と調和しながら、もう一度そ はこのまま自然と語り合う言葉を永遠に忘 話す言葉を急速に忘れ始めたのです。我々 の頃から、人は花や樹や鳥やクジラたちと もの、と考えるようになってきました。そ であり、自然は自分たちのために利用する に、人はいつのまにか、自分が地球の主人 が、最近の科学技術のめざましい進歩と共 が本当に活き活きとできたのです。ところ 火に祈り、水に癒され、土と共に笑うこと ました。太陽を敬い、月を崇め、風に尋ね、 な命の一部分であることを誰もが知ってい その頃、人は自分たちの命が、宇宙の大き 「 か っ て、 人 が 花 や 樹 や 鳥 や ク ジ ラ た ち と、本当に話しができた時代がありました。 化させてゆくだけの力があります。自分の えるかもしれません。彼らには生態系を変 いて、悪い面をほとんど持っていないとい 「象は人間に大変よく似たところを持っ ています。ただ人間の良い面は全て持って うところなんです」(沖縄の版画家名嘉睦稔) す。それは絶対できる。ここはね、そうい けないんで らなきゃい 分自身でや なくて、自 らうんじゃ 満たしても れは他人に よ。でもそ しいんです か、素晴ら この世はね、この地球っていうか、この 生っていう ほんとは「思うもの」ですよね。 じ ゃ な い で す よ ね。 神 様 の 声 な ん て の は、 ふ う に み ん な 思 っ ち ゃ う ん で す よ。 そ う て聞えたり、文字として見えたりとかいう 八番」の撮影が進んでいる。 は、二〇一四年十月の完成を目指して「第 一九八九年より制作を始めた「地球交響曲」 対話してもらえるメディアなのだという。 に暗闇の中で映画と一対一で向き合って 形式の一つであり、テレビと違って、観客 的に駆使して展開できる、素晴らしい表現 楽・ 映 像 を 総 合 は、 言 語・ 音 とって映画と が け る。 氏 に 多くの作品を手 マーシャルなど や ド ラ マ、 コ キュメンタリー め て 独 立 し、 ド (アラスカの写真家星野道夫『旅をする木』) とを、いつも心のどこかで感じていたい」 行して、もうひとつの時間が流れているこ い。あわただしい、人間の日々の営みと平 とのない、ただ流れてゆく時を大切にした し気持ちを込めて、五感の記憶の中にそん サのたたずまい・・・ふと立ち止まり、少 見過ごしてしまいそうな小さなワスレナグ 夏 の ツ ン ド ラ の 甘 い 匂 い、 白 夜 の 淡 い 光、 時 間 で あ る。 頬 を な で る 極 北 の 風 の 感 触、 く、過ごしてしまったかけがえのないその そして最後に意味をもつのは、結果ではな 「 結 果 が、 最 初 の 思 惑 通 り に な ら な く て も、そこで過ごした時間は確実に存在する。 ルドリック) です」(ケニアの動物保護活動家ダフニー・シェ ら、その中で高度な知恵を働かせているの 自分達の命を自然の大きな力に任せなが らは死を決意すると、自ら食べるのをやめ、 に大きな役割を果たしています。また、彼 に変え、草原をまた森に戻し、自然の循環 泄してしまうという身体を持ち、森を草原 決まってくるのだ」 の「想像力」即ち「心」の在り方に依って ば、危機が叫ばれる地球の未来も又、人類 人類の想像力の産物だといえるのであれ く 変 え て き た。 現 代 の 地 球 の 環 境 問 題 が、 て科学技術を生み出し、地球の環境を大き のかもしれない。我々はその想像力に依っ 「心」即ち「想像力」を担っている存在な 「 も し、 地 球 が 本 当 に 生 き て い る 一 つ の 生命体であるとするなら、我々人間はその だと監督は言う。 画で訴えようとしたことを実現しているの だ。この自主上映活動そのものが、この映 えることを現実に成し遂げた人たちばかり る。出演者も心の持ち方一つで、奇跡と思 この映画は、人間の心が持つ豊かな可能 性や無限の力をもう一度見直そうとしてい たらしたのは、観客たちの手による、自主 田中國男 の次元の中に生きている。このことが私の 力で水を掘り起こし、他の動物にも水を与 同じ星を母に持ちいる我らなり とんぼも川もこの竹の子も 田中章義 でNHK を辞 人生の最も重要な体験になったのです」(イ えてくれる。食べた物の六割をそのまま排 「続・地球交響曲」 タリアの登山家ラインホルト・メスナー) な風景を残してゆきたい。何も生み出すこ わずか一日で静かに死んでゆきます。象は 「 神 様 の 声 が 聞 え る っ て 言 う と、 音 と し カナダ to 短歌 66 カナダ to 短歌 67 100 101 明るくは語れぬ地球を手渡して も た ら す 弊 害 を 映 し て い る。 そ の 一 方 で、 の問題など、農業や畜産業の巨大工業化が 染食品での死亡事故、遺伝子組み換え食品 鶏の工場内飼育とその製造過程、牛肉の汚 身動きができない程に詰め込まれた牛、豚、 農家、成長ホルモンや抗生物質を投与され、 な借金を負わされ、安い報酬に喘ぐ下請け がいいと言っていたことに驚きました」 示に関係する部署が、表示なんてないほう ンティックサーモンも認可されました。表 に成長するように仕組まれた、養殖アトラ うこと。通常の二倍の速さで、倍の大きさ ローンの子孫の肉は既に出回っているとい そのものは市場に出回っていませんが、ク 「フード・インク」 夕餉に選ぶ有機人参 俵 万智 氏は、一〇〇社以上の企業に取材を申し込 食べ物が消費者に届くまでの生産過程を 撮影しようと、映画監督ロバート・ケナー ていない。 ているのか、私たちにはほとんど知らされ 品など、誰が、どこで、どのように作られ スーパーマーケットに、所狭しと並ぶ色 取りどりの野菜、魚、肉、スナック、飲料 とケナー氏は言う。 しい食品システムを作っていけるのでは」 費者一人ひとりの行動は小さいですが、新 たスーパーに並ぶ食品にオーガニック(有 品の表示を求める署名が集まっている。ま ン投与の肉が禁止され、遺伝子組み換え食 現在米国では、市民が声をあげ、体制を 変えていく兆しがみえている。成長ホルモ た が、 撮 ら せ て も ら え な か っ た と も 言 う。 のような防護服を着て農薬を蒔く姿を見 環する有機農法を実践する農場にもスポッ 草が全ての基本になり、肥やしも自然に循 せるのではなく、儲け主義の企業が、良い 社会学者の宮台真司氏は、この映画の感 想を「企業批判をして、それだけで終わら )」 は、 高 度 に 工 業 化 さ れ た 食 産 業 の INC 裏側で行われている栽培、飼育、製造の過 た。企業から訴えられる可能性もあり、食 て話したがらないということがわかりまし FOOD, インタビューに答えてケナー監督は「企 業も農家も、自分の作っているものについ 何を要求するのかにかかっている」と語る。 費者の我々が何に価値を置くのか、企業に 造をつくることが大事。そうするには、消 ことをしなければ儲からないような購買構 トをあてる。 程が嫌になるほどわかる作品になってい 品がこれほど危険なテーマだとは思いませ を論理的に分析、分類し、過去と関係づけ 判断する。左脳は言語で考え、情報の細部 て、 直 感 的・ 総 合 的 に 情 報 を 把 握、 認 識、 いう。右脳は現在のこの瞬間に関わってい あえて言えば、全く異なった人格なのだと し 合 っ て い る。 が、 完 全 に 分 離 し て い て、 ヒトの脳にある右脳と左脳は、三億の神 経線維から成る脳粱を通じて、互いに通信 高村典子『笑ふ樹』 丸きもの母は教へる四十歳のわれに 「月」と言つてごらんと病窓に うな奇妙な感覚に襲われる。バランスを崩 ら離れて、運動している自分を見ているよ を始める。するとと、自分の意識が身体か 置で運動 に運動装 ものよう ず、いつ とは知ら している 脳が出血 一九九六年十二月十日の朝、左目の奥に 激しい痛みを感じて目を覚ました博士は、 体験の一部を記してみたい。 る。ここでは講演会で語る博士の不思議な 識を広めるため、精力的に活動を続けてい 科大学で教えながら、精神疾患に関する知 全に回復した博士は現在、インディアナ医 た自分を再生させるまでを綴ったもの。完 か?そして何時?」 ら を 選 び た い で す か? ど ち ら を 選 び ま す ある至福感に満たされます。あなたはどち ます。全ての存在と繋がり、静寂のなかに 分子から成る生命の力を感じることができ 私の肉体を形成している、五十兆の美しい も 分 離 し ま す。 右 脳 の 意 識 を 選 択 す る と、 ルであり、脳科学者であり、あなた方から 単一の個人になります。そこでは、私はジ 択すれば、周りのエネルギーから分離した も備わっている能力です。左脳の意識を選 択する能力を持っています。これは誰にで 「 私 た ち は、 そ の 時 時 に 於 い て、 自 分 が 誰であり、この世界でどうあるべきかを選 てめったにないことだ」 学者が自分の脳を内側から研究できるなん 博士が、自分は脳卒中だと気づいた瞬間、 脳が囁く「わあ、これは素晴らしい。脳科 うだ、助けを呼ばなきゃ」 左 脳 が 言 う「 お 前 は 助 け が 要 る ん だ 」「 そ Qx8vU (日本語字幕つき予告編) www.youtube.com/watch?v=qyBph6 る。一握りの大企業が莫大な利益を得る一 んでした。一番驚いたことは、クローン肉 て考えるという。 しそうになり、壁に寄りかかって腕を見る いく自分を、科学者の目で観察し、その後 四時間の間に、脳の働きが刻々と退化して 士の、左脳の血管が破れたのだ。その後の の『 My Stroke of Insight 』(『 奇 跡 の 脳 』 竹内薫訳 新潮社)が話題になった。ハー バードの第一線で活躍していたテイラー博 い る。 恍 惚 と し て 至 福 感 に 浸 っ て い る と、 存在する全てのエネルギーと一体になって 巻く壮麗なエネルギー。自分が巨大になり、 あっている。唯一感じるのは、自分を取り 原 子 や 分 子 が、 壁 の 原 子 や 分 子 と 混 じ り 二〇〇八年に、米国の脳科学者ジル・ボ ル ト・ テ イ ラ ー( Jill Bolte Tayler )博士 八年の歳月をかけて、赤ん坊のようになっ (博士の講演・日 atch?v=AZZ1vXerxYQ 本語字幕付き) www.youtube.com/ 参考資料 と、自分の身体の境界が分からない。腕の 「右脳と左脳」 方で、企業と契約したため設備投資に多大 ン タ リ ー 映 画「 フ ー ド・ イ ン ク( 二年半をかけて完成した米国のドキュメ 機 ) と 表 示 さ れ た も の が 増 え て き た。 「消 ん だ が 断 ら れ た と い う。 苺 農 場 で 宇 宙 服 カナダ to 短歌 68 カナダ to 短歌 69 102 103 成るとし聴けば身は透きとほる 電子量子光子天地万物は波動にて 意識して宇宙に発振し、直感で得た情報を う空間が生まれるのか、ということを深く ようにしたらいいのか、どうすればそうい れるような振動波が生まれるために、どの にかなって共存共栄し、生き生きと生きら も、とにかく全ての存在物が、自然の法則 物、鉱物、石ころも、ミミズもバクテリア 北里大学医学部分子生物学研究室の協力を 調 べ て、 波 動 エ ネ ル ギ ー 蘇 生 装 置 を 造 り、 いう。その歪みを正常化する波動の形態を 核・原子レベルに歪みがあるのがわかると 題だ。癌ウィルスの形態を調べると、原子 特に関心を持っているのが健康や病気の問 た足立氏の研究対象は多岐にわたる。氏が せで成り立っている、という視点に基づい 「波動」 尾崎左永子 トリノやクォークなどの素粒子に辿りつ 子核の内にある中性子・陽子、さらにニュー いる原子、原子の内部の原子核・電子、原 この世界にある、あらゆる物質を最小単 位にまで分析していくと、物質を形作って して生み出しているが、本来の「波動の本 現在はある程度まで波動の性質を理解し て、人間にとって都合の良いものを道具と 除に症例が確認され始めているという。 成果で、臨床的にも、同研究室によって除 を行なった。結果は情報通りの素晴らしい 得て、人間の子宮癌細胞を正常化する実験 スケッチにします」その時は、自分が描く く。この超ミクロの世界では、それぞれが 質的な性質」の研究がなされていないと氏 しまうと言うのだ。というこということは、 自然界のあらゆる現象は波動の組み合わ まに記してある。 されていないという振動波が、宇宙語のま ミクロの数字が並び、地球上ではまだ発見 も調べて図に書き留める。彼の本には、超 同様にして、原子の構造、原子核、中性 子、陽子、電子などの形態や大きさまでを 当はこうだという直感や閃きを得たら、顕 とは違う現象が起きる。そうするには、本 とれた方向に意識を変換すれば、これまで みです」 (次号に続く) も全くありません。ただただ深く気づくの 『波動の法則』のまえがきにはこう記し て あ る。「 信 じ る 必 要 も、 説 得 さ れ る 必 要 を使わず、そのまま即実行に移す。 宙から直感や閃きで得た情報を、顕在意識 は指摘する。 郁 郎 氏 だ。 早 稲 田 大 学 理 工 学 部 の 出 身 で、 この世に存在する物全てに、意識と意志が しまうこと。但し、自分自身が全てに対し のではなく、描かされる感覚になるのだと 固有の周波数・波長・波形・振幅で絶えず 動)に満ちていることが明らかになった。 一九九〇年に形態波動エネルギー研究所を あるということになる。 て常に謙虚であること、日々の営みを通し 足立氏は、原則として参考文献は一切使 わない。また、推察や仮説も立てない。宇 設立した。 「意識と意志」には三種類あると氏は言 う。自分の体を安全に維持、管理、運営す て、歪んだ自我の強い波動の発振を、限り この波動を、独自の方法で探求している 建 築 家 が い る。『 波 動 の 法 則 』 の 著 者 足 立 「 私 が 建 物 を 設 計 さ せ て 頂 く 時 は、 建 主 さんの目的、用途にかなうことはもちろん る役割の顕在意識、数ヶ月ごとに新陳代謝 なく少なくするように心がけることが肝要 「続・波動」 で す が、 こ の 場 所、 こ の 環 境 で 動 物、 植 大人にはすでに見えざる何か をする六十兆の細胞をコントロールする潜 孫にのみ見ゆる何かのあるならむ 「なぜ人間は、時空を超えた情報をキャッ チできるのか。それは、人間の脳が単なる だと言う。 生物機械ではなく、量子という最も微細な その情報を素直に受け入れ、やわらかく開 中の、中性子や陽子が振動していることが かれた心を持てば、自ずと自分が時空を超 レベルで外界と情報交換する、とてつもな 合 体 」、 こ れ は 人 間 だ け に 限 ら ず、 あ ら ゆ えた存在であることがわかるはずです」(ハ 明らかになった。また、形を持たない思考 る動物、植物、鉱物が共有する「本質」で、 ンガリーの哲学者・アーヴィン・ラズロー) く優れたシステムだからです。身体の全て 人間には、大脳の使われていない部分に重 や感情も、脳内に生じる電気信号の観測に なり、振動体として存在していて、肉体が 周 波 数、 波 長、 波 形、 振 幅 を 持 つ 波 動 は、常に一番近い状態の波動同士で干渉し の部分を通して、無意識のうちに周囲の環 そして私たちを取り巻く全てのものは、自 終わった時には離れて、時空間を自由に移 性質を利用すれば、歪んだ波動を正常に戻 よって振動波を確認できる。さらに目には ら固有の波動を発し続け、同時に自分を取 動するという。 すことは可能なのだと氏は言う。 境から、無限に近い情報を収集しています。 り巻く様々なものからの波動を受け、お互 現在の社会は、この「本質」に入ってく る調和の取れた情報を、顕在意識で歪めて 見えないが磁場(磁気的現象)や電場(電 いに影響し合いながら存在している。 しまっている。自然の法則に適った調和の 「 意 識 」 と「 意 志 」 の 形 態 を 調 べ て み た。 あい、同調、増幅をする性質がある。その す る と 驚 い た こ と に、 意 識 は「 中 性 子 」、 前号で紹介した、波動を独自の方法で探 求している建築家の足立郁郎氏は、人間の そして意志は「陽子」と同じ図形を描いて 気 的 現 象 ) が 確 か に 存 在 す る。 私 た ち は、 二十世紀になって、量子力学が確立され、 あらゆる存在物の基になっている原子核の 在意識を使わず、即、決心をし、実行して 大山敏夫 在意識、そして「本質的な意識と意志の集 いう。 振動していて、宇宙空間はこの振動波(波 カナダ to 短歌 70 カナダ to 短歌 71 104 105 果関係を視て取り、後世に生まれてくる人 想の中で、惑星と人間との間に存在する因 アガスティヤ、シュカらのリシが、深い瞑 インドに実在したとされるブリグ、ヴャサ、 のは、一九九八年五月のこと。数千年前の れる、預言書が保管されていると耳にした 仙(リシ)と呼ばれる聖者が書いたと言わ いる。この町にある館に、古代インドの聖 つとしてヒンドゥ教徒の巡礼の地になって く。七~八世紀に栄えた古都で、聖地の一 インドのチェンナイ空港から、車で南西 に三時間ほど走ると、カーンチプラムに着 澤木洋子 いづれの聖者も生るるものらし 全うなる生態系をはみだして これは椰子の葉の束だと見せてくれる。葉 別な訓練を受けた「葉の読み手」だという。 うなものを手に男性が入ってきた。彼は特 されると、薄い細長い木を、紐で束ねたよ な部屋に通 う か、 小 さ 待っただろ 二時間ほど 聞 か な い。 ことは何も け で、 他 の められただ の指紋を求 受 付 で、 左手の親指 書き移すのだという。 の葉に書き写し、数百年ごとに新しい葉に ミル語で書いたものを、後世の弟子が椰子 は、聖仙アガスティヤが動物の皮に古代タ 館 を 訪 ね る と、 す で に 五、六 人 の 現 地 の 人が待っていた。ここに保管されているの 行ってみることにした。 面白い体験をした。この館は今日も、大 勢の人で賑わっていることだろう。 気や災難除けのための処方箋の章もある。 んでもらうこともできる。前世や来世、病 とが書いてある章を選んで、更に詳しく読 書は、全部で十六章から成り、知りたいこ 来事を具体的に記してある。個人に関する に、この世を去るまでに起きるであろう出 いてある? 夫や娘、弟のこと、仕事や現 状などが書いてあるが間違いはない。さら い不思議な気分だ。この葉に私のことが書 ロ・ウと読めるのだという。何とも言い難 の文字を一字づつ指しながらヨ・シ・サ・ブ・ まった。すると、ここに書いてあると、葉 思わず、どうやって調べたのかと聞いてし と 続 く。「 父 の 名 は 芳 三 郎 か 」 の 問 い に は 問。突然のことで、どぎまぎしながら答え か け た と き「 名 前 は シ ョ ウ コ か 」 と の 質 と答えると次の葉に移る。二束目が終わり 親は健在か」「妹はいるか」などで「ノー」 と、次々に簡単な質問をぶつけてくる。「父 先 ず 私 の 葉 を 捜 す 作 業 と し て、 質 問 に 「 イ エ ス 」 か「 ノ ー」 で 答 え る よ う に と の を良くしていこう」というような共存共栄 競争で成り立つ消費社会で「みんなの世界 のではないでしょうか。このような残酷な ないのです。人がもっと働くため、もっと りません。十万時間持つ電球を作れるのに、 ハイパー消費を続けるためには、商品の寿 ために人生を放り出しているんです。この 「ハイパー消費が世界を壊しているにも 関わらず、高価な商品やライフスタイルの ると、私の生年月日、次に夫の名、母の名 な議論はできるのでしょうか? どこまで が仲間でどこからがライバルなのですか? 売るために「使い捨ての社会」を続けなけ 千時間しか持たない電球しか売ってはいけ 命を縮め、できるだけ多く売らなくてはな 我々の前に立つ巨大な危機問題は環境問 題ではありません。政治的な危機問題なの んでもらうことができると聞き、さっそく たちの一生を、個人名をあげて具体的に記 一面に記号のようにも見えるが、古代タミ 「預言書」 してあるのだという。世界中の人を網羅し ル語の文字だという。 指示がある。お経のように葉を読み始める た膨大な量で、書を託された正統な家系に この里に手毬つきつつ子供らと 遊ぶ春日は暮れずともよし 良寛 です」 説をした。その一部を紹介する。 会議」で、ウルグアイのムヒカ大統領が演 をコントロー の大きな勢力 類が作ったこ 「 現 代 に 至っては、人 「 根 本 的 な 問 題 は、 私 た ち が 実 行 し た 社 会モデルなのです。改めて見直さなければ りません」 の道に私たち首脳は世界を導かなければな のにお気づきでしょうか? これはまぎれ もなく政治問題です。この問題を別の解決 ればならないのです。 悪循環の中にいる 「頭の中にある厳しい疑問を声に出させ てください。午後からずっと話されていた ルしきれてい 二〇一二年六月、ブラジルのリオデジャ ネイロで開催された「国連持続可能な開発 ことは、持続可能な発展と世界の貧困をな ん。 環 境 の た め に 戦 う の で あ れ ば、 人 類 の に幸福をもたらすものでなくてはなりませ ならないのは、私たちの生活スタイルです。 トロールされ 幸福こそが環境の一番大切な要素であると ません。逆に、 ているのです。私たちは発展するために生 いうことを覚えておかなくてはなりません」 くすことでした。私たちの本音は何なので まれてきているわけではありません。幸せ 発展は幸福を阻害するものではなく、人類 費モデルを真似することでしょうか? 西 洋の裕福社会が持つ同じ傲慢な消費を世界 になるためにこの地球にやってきたので 人類がこの消 の八十億の人ができるほどの原料が、この す。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてし 費社会にコン 地球にあるのでしょうか? 資本主義の子 供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限 http://www.youtube.com/watch?v=Q7aJcf_Lexs (全スピーチ・日本語字幕付) の消費と発展を求める社会を作ってきたの せん」 まいます。命よりも高価なものは存在しま 造り、このグローバリゼーションが世界の です。マーケット経済がマーケット社会を しょうか? 現在の裕福な国々の発展と消 あちこちまで原料を探し求める社会にした 連綿と受け継がれているらしい。誰でも読 「大統領の演説」 カナダ to 短歌 72 カナダ to 短歌 73 106 107 「イマジン」 語らなかったという。 国なんてないって 想像してごらん 殺す理由も死ぬ理由もなく 宗教もない そんなに難しいことじゃないよ 沼化し荒れに荒れていた。この年にビート 想像してごらん みんなで 平和に生きているんだって ジョン・レノンが「イマジン」を発表し た一九七一年の米国は、ベトナム戦争が泥 ルズを離れたジョンは、ロンドンにあった た。FBIは二人を要注意人物として警戒 はジョンとヨーコの反戦メッセージだっ でも、僕ひとりだけじゃない 僕のことを夢想家だって言うだろうね 活動拠点をニューヨークに移した。この歌 ニューヨークに起きた同時多発テロ。ショッ クと恐怖と混乱、連日連夜、報道では戦争 していたという話もある。ヨーコは「ビー なのに広告主の名前もない。ニューヨーク 白紙の紙面一面にたった一行だけ、広告欄 (想像してみよう、 people living life in peace 全ての人が平和に暮らしている姿を)と、 ている。 歌は二人の記念碑なんだ」とジョンは語っ よって「イマジン」が誕生したんだ。この ミがインタビュー やってみれば簡単だよ 想像してごらん 天国なんてないって いつか君も 僕らと一緒になって ひとつの世界に生きるんだ でも、僕ひとりだけじゃない 僕のことを夢想家だって言うだろうね 想像してごらん みんなで 世界を分かち合っているんだって 人は みんな兄弟なんだって 欲張ったり飢えることもない 想像してごらん 何も所有しないって 君なら出来ると思うよ いつか君も 僕らと一緒になって 世界はひとつになるんだ や報復という言葉が飛び交っていた。そん タイムズ社には問い合わせが殺到した。広 「 イ マ ジ ン 」 を 作 っ て か ら 九 年 後、 ジ ョ ンはニューヨークの自宅前で銃殺された。 ヨークタイムズに載った。 告 の 主 が ジ ョ ン・ 四十歳だった。 に駆けつけた。が 地獄なんてなくて ただ空があるだけ わかると、マスコ 彼女は「今伝えた 想像してごらん みんなが 今日を生きているんだって 全てこの広告の中 にある」と多くを フランス本土に入る。北部から時計回りに 間を走った後、空路でドーバー海峡を渡り 地方のリーズを出発した。英国内での三区 夫妻と大勢の観衆が見守る中、ヨークシャ 名の選手が参加し、英国のウイリアム王子 今年は、スポンサーの名を冠した九人編 成の二十二チーム、三十四カ国から一九八 を、二十三日間の日程で走る。 岳地帯の起伏に富んだ二十一区間のコース )」 は 一 〇 一 回 目 を 迎 Le Tour de France えた。走行距離は三六〇〇キロ。平地と山 グは三十三歳で現役を引退した。 ているという。三度の優勝を手に、グレッ でもツール・ド・フランスの語り草になっ の日のグレッグの奇跡のような走りは、今 われていたが、見事逆転優勝を果たす。こ 離でこのタイム差を超えるのは無理だと言 手との差は五〇秒。ゴールまでの僅かな距 た。トップを行くフランスのフィニョン選 タイムトライアルでは二位に浮上してい いなかった。がグレッグは、最終日の個人 た。誰も優勝はおろか完走さえも期待して に不可能だと言われていたレースに復帰し 体内に何発もの鉛の弾を抱えたまま、絶対 を 失 っ て い た だ ろ う と い う。 そ の 二 年 後、 ルのヘリコプターが上空を通らなければ命 を負う。もしその時、ハイウェイパトロー て半年後、休暇中に猟銃事故で瀕死の重傷 位、二十五歳で初優勝。チャンピオンになっ 屈まり過ぎぬサドルにわれは 小宮守 葦の葉にゆるる蜻蛉も視野にして と人懐っこい笑顔を見せた。 なが自転車に乗れば少しは良くなるかな」 なるのか、私にはわかりません。でもみん 破壊することもできる。地球の未来がどう 「私たち人類の営みは必ず地球の未来に 影響を与えます。良くすることもできるし、 まれたひと時の姿なのです」 動の一部です。大きな生命活動の過程で生 年の、いや、宇宙誕生一四〇億年の生命活 る。我々一人ひとりは地球誕生以来五〇億 消 え 去 ら な い で、 必 ず 何 か に 再 利 用 さ れ 「 死 は 必 ず 誰 に で も 訪 れ る も の で す が、 その人を生かしていたエネルギーは決して くるんです」 直観力が冴えて第六感が働くようになって 「ツール・ド・フランス」 ピレーネ山脈まで南下して再び北上し、最 二〇〇九年五月、グレッグは地球交響曲 第七番に出演のため、息子と共に来日。日 ( 毎年七月に開催される世界最大の自転車 プロロードレース「ツール・ド・フランス 終日にはパリ市街を走り、シャンゼリゼ通 本文化の源流を訪ねる旅として、紀伊半島 「自転車に乗っていると不思議なくらい 物が見えるようになってくるんです。音や りのゴールを目指すというのが恒例になっ 一九六一年生まれ。二十歳でプロデビュー、 匂いに敏感になり、心が開き透明になって、 欧州の選手以外で初めて個人総合優勝 を 果 た し た 米 国 の グ レ ッ グ・ レ モ ン 氏 は 二十三歳でツール・ド・フランス初出場三 の山岳地帯を自転車で縦断した。 ている。 www.youtube.com/watch?v=dq1z1rkjw-E い メ ッ セ ー ジ は、 ヨーコ・オノだと レノンの未亡人 Imagine all the トルズを解散させた女」などと言われてい たが「僕とヨーコの二人が出会ったことに な中、一際目を引く不思議な広告がニュー カナダ to 短歌 74 カナダ to 短歌 75 108 109 「マジック」 に立った。さっそく客の一人から千円札を ン風の黒縁メガネの店主がカウンターの前 描 か れ て い た。 さ ら に M・ O ご 来 店 予 定 の運び方、切れ目までもがそっくりの絵が の 声 が あ が る。 Prediction ・予知と書かれ た下に、夫が描いた車の絵と大きさ、ペン 経過していた。先に清算をする習いらしく、 を終え、後片付けが終わると、二時間半が の店内は、ほとんどが若い人たちだ。食事 れる。折り紙の動物が飾ってある古い内装 案内してくれた。一人ひとりに番号札をく うど三席だけ空いていると隅のほうの席に 二階にある店のドアを開けると、席はほ とんど埋まっているように見えたが、ちょ の九月だった。 てみようということになった。二〇〇五年 帰りをしていたY子さんを訪ねた折に行っ 見せてくれるのだという。福岡の実家に里 だ。店主がマジックらしからぬマジックを クーバーの友人仲間でも話題になった店 長崎県のJR大村線棚田駅前にある一風 変 っ た 喫 茶 店 に 入 っ た こ と が あ る。 バ ン 取り出して皆に見せ に、挟んである紙を 手帳を握っていた客 単な車の絵。店主は、 一筆書きのような簡 に見せるように指示した。夫が描いたのは す。夫が戻ってくると、いま描いた絵を皆 して好きな絵を描くようにと紙とペンを渡 には部屋の隅に行って名前と生年月日、そ し、しっかり握っているようにと頼む。夫 夫 の 番 号 が 呼 ば れ た。 店 主 は 最 前 列 に 座っている一人に手帳のようなものを渡 関わることになる。 分の持つ番号札と同じ番号を呼ばれた人が いくマジックは、見せるだけではなく、自 口調で客を笑わせながら、次々に進行して は店主の手にすっと戻ってくる。柔らかな 由 自 在 に 飛 び 回 り、「 ハ ウ ス 」 と 言 う と 札 のけると宙に浮いたまま生き物のように自 ラー あんでるせん」と看板を掲げ、予約 なしでは入れないほどの人気店らしい。 う。当時は無かったが、 今では「四次元パー なぜ減ったのかまではわからないのだとい ほど減っていたということは 判明した。が、 形跡はなく、曲っている箇所の厚みが一割 氏が捻じ曲げたスプーンを金属研究所で 調べてもらった人がいる。熱や力を加えた 力なのだという。 れを未知能力呼び、誰にでも備わっている てしまうのを見た時は驚いた。久村氏はこ を、水飴のようにくにゃくにゃに捻じ曲げ が、開けていないビールの瓶を手で引き伸 の手のマジックは何度か見たことがある。 ていたのだと店主は言う。不思議だが、こ ここに来てこの絵を描くことは既に決まっ え決めていなかった。これは宿命で、今日 十八分には、私たちはこの店に来ることさ してある。氏が絵を描いたという午前七時 る位置にてきぱきと並ばせる。サラリーマ 借り、掌に平らにのせると、札がひとりで 05・9・26、AM7: 久村俊英と署名 にむくむくと起き上がり垂直に立つ。手を 全員の清算が済むと椅子を動かし、マジッ のを知っているんです。あるかないかはわ 念力少女の笑顔まぶしく 笹公人 ク シ ョ ー の 準 備 に か か る。 奥 さ ん だ ろ う るように言う。驚き からない、けれども『ある』と信じて研究 ばしたり捻じったり、スプーンやフォーク か、三十人ほどの客を、カウンターが見え 自然の力としかいいようのない存在」とい を 続 け る わ け で す。 科 学 の 大 本 は 哲 学 で、 伝子の情報量は大百科事典の三千二百冊分 授だ。遺伝子とひとことで言っても、全遺 子解読に成功した村上和雄筑波大学名誉教 高血圧の黒幕である酵素「レニン」の遺伝 は ず だ、 そ れ は 誰? と 問 い を 発 し た の は、 たが、そもそも、それを書いた存在がいた る遺伝子の暗号を解こうとした人は大勢い 一億年にあたる。生き物の体の設計図であ な っ て い く。 お 母 さ ん の 一 週 間 が 胎 児 の がら、わずか三十八週で人間の赤ちゃんに 人間の一個の受精卵がお母さんのお腹の 中で、三十八億年の生命の歴史を再現しな 入れ替るとう生の不可思議 三ケ月でヒトの体のタンパク質 は決して出鱈目なものではなく、宇宙や太 は宇宙の法則性がある』ということ。それ を信じているかというと『人間の体の中に くもので、ある程度信仰者なんですよ。何 るほど自然の不思議さや偉大さを感じてい 研究すればす 「 学 者 と い う も の は 皆、 いる。 研究を続けて 証明しようと があることを にする可能性 イッチをオン い遺伝子のス レスでも、い なども研究対象に加えた。さらに悪いスト ひとつで遺伝子は動くと、「祈り」や「瞑想」 「笑い」と遺伝子の因果関係の研究に大 きな成果をあげつつ、村上氏は心のあり方 う。 www.svenson.co.jp/25/interview20_1.html とを多くの人と語り合いたいと村上氏は言 伝えると共に、サムシング・グレートのこ の研究を通して知った生命の素晴らしさを 科学者として自分に出来ることは、遺伝子 日本は、今こそ出番だ」とも語ったという。 教育などの様々な分野に高い技術力のある 法王に深く感動したと言う。また「自然を の問いに、間髪いれず「今だ!」と答えた 今までの人生でいつが一番幸福だったかと した。「幸福とは何か」の議論の最中にでた、 宗教と科学との対話を積極的に試みる村 上氏は、何度かダライ・ラマ法王とも対談 サムシング・グレートからきているんです」 く、哲学も、音楽、芸術、文学など全てが が本来の科学の原点です。科学だけではな ということを科学語で証明していく、これ れた宇宙や生き物が、いかに素晴らしいか それは神学からきています。神様が創造さ に匹敵するという。その膨大な量の情報を、 陽系、地球の活動とも同じく、寸分の狂い (名古屋市) わずか二千億分の一グラムという重さの中 もなく動いている秩序正しい法則性がある 諏訪兼位 に書き込んで、それを間違いなく働かせて 敬 い、 和 を 尊 ぶ 豊 か な 精 神 を 持 ち、 医 療、 い る 何 か が あ る。「 人 間 の 叡 智 を 超 え た 大 ( Something Great )と名づけた。 「サムシング・グレート」 18 う意味で、村上氏はサムシング・グレート 注射針曲がりてとまどう医者を見る カナダ to 短歌 76 カナダ to 短歌 77 110 111 博士。ミシガン州立大学で電子工学及び栄 量を持つ媒体です」と語るのは増川いづみ であり、人間の魂に直接響く、膨大な情報 切な存在なのです。また、音はエネルギー の起源とつながり、生命の育みを支える大 として育っているのです。音は全ての生命 どの臓器の活動音を聞きながら、音も栄養 す。何故でしょう? 私たちは胎児として 長い間、母親の心拍、呼吸の音、胃や腸な られるほど影響を受けやすく出来ていま 佐藤佐太郎 音さやさやとさわがしからず 高きより光をのべて落つる滝 鳴らして、肝臓や腎臓部位に外から当てる る。各臓器の振動数に共鳴する音叉を強く る 博 士 は、 音 叉 を 使 っ た 療 法 を 試 み て い ば、乱れた波動も修正されるのです」と語 ムバーなどで正しい周波数を与えてやれ ること。音叉やチャイ は、その周波数が乱れ どで具合が悪くなるの 持っています。病気な 「 人 体 の 内 臓 や 器 官 は、 独 自 の 周 波 数 を がっているという。 振・共鳴をしながら繋 な宇宙にまで届き、共 は銀河系、さらに深遠 されている微細な波動 う。細胞から常に放射 より変化するのだとい れ て い て、 人 間 の 身 体 も 同 様 に 周 波 数 に る。全ての物質は周波数によって形づくら する。水に音を聞かせると分子構造が変わ 砂に電気や音叉で音を聞かせると、その 音の周波数(振動数)によって模様が変化 と「人間」の繋がりを探求している。 参考資料 Llifetune.jp/masukawa.html できると語っている。 という事実を、古文献の記述に見ることが る技術が、何千年も前に既に使われていた 浮遊させたり、鉱物を精細に分離したりす 特殊な周波数を使って、巨岩を掘削したり 世界中に残されている遺跡や古文献の最 先端の研究にも携わっている増川博士は、 て捉えているのだ。 なく、一つの選択技、ひとつの可能性とし 身の生命力をいかに引き出すかで、それは えている医院もあるという。医学とは、心 西洋医学的な処置をとりつつ、薬の処方 はしないで、波動の調整を診療の中心に据 法)として既に確立している。 はバイオレゾナンス・メソッド(生体共鳴 の生命力を高めるという療法は、ドイツで 五感では感じ取れない振動(波動)を周 波数で捉え、その共鳴現象を利用して心身 ようになってきているのだという。 になる根拠や、その根源的な治療ができる く。音によって、人間の潜在能力や身体に 「 人 間 は 音 に よ り、 不 安 を 感 じ、 静 寂 を 感じ、涙し、震えるような至福の感情を得 解 を 目 指 す「 ア リ ア ス・ プ ラ ン 」 を 携 え、 一九八六年に四十二歳で大統領になった アリアス氏は、徹底した話し合いによる和 和主義を貫いた。 大統領は「非武装永世中立」を宣言して平 国が基地建設を要求したが、当時のモンヘ 革命が起きた際、力ずくで介入してきた米 ローガンを実現させた。隣国ニカラグアで 福祉に回され「兵士の数だけ教師を」のス 記した憲法を制定した。軍事費は教育費や 後の一九四九年に、常備軍は持たないと明 九州と四国をあわせた広さの国土に 四八〇万人が住むコスタリカは、内戦終結 法師人佑太(高校三年・茨城) 素直に読もうぜ九条の意味 憲法に行間読みなどあるものか える意志です。暴力を使わないための方法 とは何かとの生徒の質問に「差異を乗り越 領。講演後、対話をする上で一番大切なこ の学生たちを前に語るのはアリアス元大統 略は軍隊を持たないことです」と小平市 「私は軍隊を撤廃した国からまいりまし た。コスタリカにとって最大の国防戦 語る。 が多いとA氏は 価値観を持つ人 がいい」という 粋で素朴な人生 ている。また「純 結果がついてき も 守 る、 と い う ダ、 人 権 も 環 境 根に、軍隊はいらない、学費、医療費もタ い う。「 そ こ そ こ が い い 」 と い う 考 え 方 を 幸せの形は別なところにある」と語ったと 国 の 経 済 政 策 を「 何 で も そ こ そ こ が い い。 コスタリカ研究家のA氏が国会を訪問し た際、対応に当たってくれた政府高官が自 トワークを形成することにあるという。 するための分校やセンターをつくり、ネッ や憎悪を取り除くべく、教育や訓練の場に 暴力や紛争、テロリズムのもとになる偏見 から一七〇名が在籍している。将来の展望 などの研究や実践活動に、今期は四〇カ国 国際的な平和構築や地域紛争の防止・解決 大学(大学院)がある。国際法や安全保障、 コスタリカの首都サンホセの郊外には国 連関係機関の専門的な人材を養成する平和 ください」と結んだ。 要な強さをそこから引き出して前に進んで これからの人生の中で日々思い起こし、必 てください。今この時に感じている決意を、 して怯まずに、挫けずに、断じて成し遂げ すぎるなどと言われるでしょう。でも、決 う。周りの人たちからは非現実的だ、純粋 の立場をとることに孤独を感じるでしょ 西洋医学も東洋医学も振動医学も変わりは 泥沼の内戦が続いていたニカラグア、エル を何としても探し出す強い意思が必要で サルバドル、グアテマラの紛争解決に貢献 www.magazine9.jp/interv/chihiro は、 各 国 の 大 学 や N G O な ど と 協 力 し て、 した。理想主義、人気取りなどの批判を浴 「コスタリカ」 備わっている免疫力の活性が可能で、病気 養 学 の 博 士 号 を 取 り、 さ ら に マ サ チ ュ ー と、弱った臓器は共鳴して正常に戻ってい す」と答えた。 「音」 セッツ工科大学では量子力学を学んだ。音 びたが意志は揺るがず、一九八七年にノー 卒業間際の学生たちには「学生仲間と離 れて、戦争を評価する世界で、平和推進者 の 神 秘、 奥 深 さ に 着 目 し「 音 」 と「 宇 宙 」 ベル平和賞を受賞した。 カナダ to 短歌 78 カナダ to 短歌 79 112 113 「食料廃棄」 これは二十億人分の量に匹敵するらしい。 捨てられているという。年間約十三億トン。 の消費の為に生産された食料の三分の一が 二〇一一年の調査によると全世界では、人 て い く。 F A O( 国 連 食 糧 農 業 機 関 ) の ン で、 家 庭 で、 食 料 品 が 毎 日 ゴ ミ に な っ 下で、流通過程で、スーパーで、レストラ う現状を取材したドキュメント。生産者の いかに多くの食料を無駄にしているかとい (ゴミを召 ドイツ映画「 Taste the Waste し 上 が れ )」 は、 先 進 国 と 呼 ば れ る 国 で、 佐藤文子(山形) 競の開始のベル鳴るを聞く 脅威の種になってしまった。自分とは別の 約九トンのオレンジが手付かずのまま処分 個 だ が 箱 ご と 処 分。 そ の 日 は 八 百 八 十 箱、 し 熟 れ 過 ぎ で 失 格。 痛 ん で い る の は 一、二 を選別していく。スペインのオレンジが少 パリ近郊の大卸市場では、責任者が入荷 してくる商品を競に掛ける物と掛けない物 に、如何に買わせるかに力を注ぐ。 だ。食品製造業者は、飽食な消費者を相手 く販売者 者ではな は、生産 決めるの 売るかを い。何を 品にしな ウリは商 が薄いもの、濃いものも失格。曲ったキュ マトはスキャンされ、大きさだけでなく色 の放置率は約四十%。葉物も半分放置。ト 米国の大規模農家では、規格に合わない ものはそのまま畑に放置する。ジャガイモ 生 を 語 る ド キ ュ メ ン タ リ ー 映 画。 戦 後 日 系 の 自 然 観 や 生 き 方 な ど、 彼 の こ れ ま で の 人 立 ち や 家 族、 環 境 保 護 活 動 で 知 っ た 先 住 民 うかは定かではない。 食料の廃棄撲滅を意識して買っているかど に な る。 そ れ を 目 当 て の 買 物 客 も い る が、 前日になると、商品に赤札がつけられ半値 筆者の住む町のスーパーでは、賞味期限の 欧州では、多くの人たちが食料廃棄撲滅 に 向 け て、 様 々 な 取 り 組 み を 始 め て い る。 却される。 た全ての食料品は、パックに入ったまま焼 生産することは禁じられている。廃棄され 病の発生以来、残飯を使って家畜の飼料を の家畜の飼料に変身する。がEUでは狂牛 され、熱処理され、おがくずのような形状 ただ日本の場合、残飯の一部は丁寧に分別 ライや弁当がどんどんゴミになっていく。 が開けられ、まだ食べられる寿司や海老フ いないと思うけどね」と言いながらパック いないからだ。スーパーの裏では「もった はゴミになる。古い方を自発的に買う客は 作りたての品が出た途端に、それまでの物 された。一番頻繁にゴミになるのが魚。そ 「耐え難い数字です。信じられないほどの 所に環境があるのではなく、私たち自身が 人 が 排 斥 さ れ た 時、 強 制 的 に 送 り 込 ま れ た の日のうちに売れなかったものは全て廃棄 食品が捨てられている」と語るのは食料廃 環境なのです」と語るのはデヴィド・スズ 収容所や、原爆記念日の広島を訪ねた折の ン「捨てるには早すぎる」をスタートさせ 棄削滅に乗り出したドイツ消費者保護相 キ博士。生物学者として、教育者、思索者、 処分される。 だ。同省では自国での食料廃棄の実態を発 科学番組のキャスターとして、環境問題に 場面もある。 た。 E U 加 盟 国 で も 問 題 意 識 が 高 く、 共 表すると同時に、消費者向けのキャンペー 声を上げ続けているスズキ氏は、バンクー 「人は、人生を終えるにあたって何を想う の で し ょ う。 所 有 し て い る 高 級 車 や 邸 宅 や 同戦略として二〇二〇年までに食料廃棄量 自分自身のことでも自分の世代のこと バー生まれの日系三世。カナダで最高の栄 を半滅するという目標を設定した。 でもなく、来るべき世代の、私たちの 誉であるカナダ勲章ほか、数多くの賞を受 日本の映像も出てくる。スーパーに並ん で い る 惣 菜 や 弁 当。 そ の 賞 味 期 限 は 短 い。 孫や、まだ生まれてもいない大地から く成長し、グローバル化すればするほど良 事項だという観念です。その経済はより速 あるのは、経済こそが人類にとって最重要 「この地球は、人間たちの思い込みによっ て縛られています。その思い込みの中心に 葉には騙されてはいけません。今こそ真剣 票を獲得するための戦略に使われるこの言 「今は『持続可能』という言葉がキーワー ドになっていますが、企業の広告や政府が 時間だと思います」 人 た ち の こ と、 そ し て 彼 ら と 共 に 過 ご し た 「 フォース・オブ・ネイチャー」 やってくる新しい生命に思いを馳せる 賞 し て い る。 シ カ ゴ 大 学 で 遺 伝 学 を 学 び、 いというものです。しかし、皆さんもご存 ヒトという単体種は、地球の在り様を変え 学物質を自然界に放っています。七十億の もかかわらず、私たち人間は毒性のある化 ば、私たちは生きていられません。それに れな空気、水、大地、太陽の恵みがなけれ ちの生きているこの生命圏です。もし、き 極的に保証するものは、経済ではなく私た す言葉) 」 と 題 し た 講 演 を 基 に、 彼 の 生 い コロンビア大学での最終講義「レガシー(遺 「フォース・オブ・ネイチャー」は、氏が 三 十 九 年 間 教 授 を 努 め た ブ リ テ ィ ッ シ ュ・ いる。 日本などでの講演活動を精力的にこなして 内 だ け で は な く、 米 国、 オ ー ス ト ラ リ ア、 動物学の博士号を取る。七十九歳の彼は国 描くことから始まるのです」 ジョン、調和の取れた新しい生き方を思い る 大 地( が何千年にも渡って護り続けてきた「母な に考えなくてはならないのは、先住民たち www.youtube.com/watch?v=8mjwZhc6Ku8 ひ と り の 認 識 か ら 始 ま り ま す。 新 た な ビ )」 の こ と、 人 類 と Mother Earth 自然との関わり方です。変化は私たち一人 てしまい、私たち自身が自然界を破壊する こ と で は な い で し ょ う か。 自 分 の 家 族 や 友 知の通り、私たち人間の豊かさと幸せを究 タ ン ス 一 杯 の 服? い い え、 そ う で は な い は ず で す。 そ れ は 自 分 が 最 も 幸 せ に 感 じ た (アメリカ先住民の古老) 初市にわが畑の菜も並べ終へ カナダ to 短歌 80 カナダ to 短歌 81 114 115 「 コリンズの詩」 見下ろしているという 『死者』 死者はいつも私たちを 奪ってしまうと懐疑的だったコリンズが、 詩が登場する道を開くことになると考えた 靴を履く時もサンドイッチを作る時も デ ィ キ ン ソ ン や ワ ー ズ ワ ー ス よ り も、 ワーナー・ブラザーズやバックス・バニー ゆったりした緑のセーターの袖を身に纏っ 人の腕のような姿をし 奇妙な動物の鼻のように動き回る 『ブダペスト』 私のペンはページの上を 私たちが 下界で動き回るのを見ている 私たちの頭のてっぺんが ゆっくりと永遠を漕ぎ進みながら アニメとのコラボを試みたのは、テレビに か ら だ。 こ こ で は「 日 常 の 中 に あ る 風 景 」 彼らは天国の 五編のなかから二編を紹介する。 がインスピレーションの源というコリン ガラスの底のボートから見下ろしている ズ の 詩 は、 と ぼ け た ウ イ ッ ト と ユ ー モ ア 暖かな午後の囁きにでも誘われて 野原やソファで横になるときには ている 出会えるようにと常に考えを巡らせてい 日常の場面に詩を配して、多くの人が詩と 機内の娯楽用チャンネルで、とありふれた 運動「 Poetry 180 」を提唱したり、バスで 地下鉄で、広告版やシリアルの箱で、飛行 彼は、高校で毎日詩を朗読させようという )」 の 公 職 に つ い た 経 験 も あ り、 Laureate 様々な角度から詩の普及に力を注いでいる ブダペストやその他のまだ行ったこともな 窓の外を眺め 任務のように線をさらに書きつける 鼻を紙の上に押し付け 纏えれば言うことはなく 格子縞のシャツの袖でも 明日もここにいるのが唯一の望み 一心な様子を眺めている 今日の糧となる 地虫や昆虫しか頭にない狩人のように 私たちが目を瞑るのを待っている 親のように オールを引き上げて押し黙り 彼らは見つめ返されていると思い る。 TED カンファレンス 2012 では、アニ メーションを付けた詩を発表した。詩とい い街のことを思っている くる。ブログ『一〇〇〇の最高なこと』の Poet それが紙の上を休みなく嗅ぎまわり うものは単独で成立するもので、音楽やア 斬新なアイディアを聴きに二〇〇〇人が参 評判は瞬く間に広まり、〇九年と一〇 年 の二年連続で世界最優秀ブログ賞を受賞。 』はブログを書籍 The Book of Awesome 化したもので売上げランキング二十週連続 tr.loopshoot.com/id/1398 参考資料 ニメを付けるのは読者の想像する余地を 加する。講演者には一般の人たちも数多く その間の私といえば 「 TED」 選ばれ、参加者と共有したアイディアを深 『 ズ・ワトソン、元米国大統領ビル・クリン DNAの二重螺旋構造の発見者ジェーム キ ペ デ ィ ア の 創 設 者 ジ ミ ー・ ウ ェ ー ル ズ、 りに登場した過去のスピーカーには、ウィ を、二〇分以内に発表するこの小さな集ま 内だけの集まりだった。自らのアイディア ンの三分野からスピーカーを招いての、身 ノロジー・エンターテインメント・デザイ 体のこと。一九八四年の設立当初は、テク TEDとは「価値あるアイディア」を世 に広めることを目的とする米国の非営利団 る自分を何とかしようと、ブログを書き始 ン。自身の離婚と親友の死に気落ちしてい 州生まれのサラリーマ は カ ナ ダ・ オ ン タ リ オ ニ ー ル・ パ ス リ チ ャ 氏 インド出身の父とケ ニア出身の母を持つ 一つを紹介する。 の人気のあった講演の ここでは二〇一四年度 無 料 で 公 開 し て い る。 本 以 上 の 講 演 を 収 録 し、 な る。 現 在 は 一 九 〇 〇 の注目を集めるように (最高)な人生を送ることがで Awesome きると思います」 そ う す れ ば 豊 か で 充 実 感 の あ る、 本 当 に に 忠 実 に、 自 分 が 満 た さ れ る 経 験 を す る。 を 楽 し く す る 喜 び を 見 つ け る。 自 分 の 心 を 向 け、 幼 児 の よ う に 無 邪 気 な 心 で 人 生 で 生 き る 選 択 を す る。 周 り の 世 界 に 意 識 後には死んでいるのです。だから困難に直 せん。ここに居る私たちの誰もが一〇〇年 験して楽しむ時間がほんの少ししかありま す。でも一つひとつのささやかな瞬間を体 楽を感じることができる唯一の生き物で る星に棲み、様々なことを体験して喜怒哀 「 こ の 世 の 中 に は、 幸 せ に 思 え る こ と は いくらでもあります。人間は、生命を育め 一位のベストセラーになっている。 ト ン、 U 2 の ボ ノ な ど、 各 界 で 活 躍 す る める。帰宅する道のりの信号が全部青だっ いる。 実業家、研究者、アーティストが名を連ね たとか、焼きたてのパンの美味しそうな匂 一切空在るは己のこころのみ ている。年に一度、四日間にわたって北米 こよひひとりの酒をよしとす で開催されるTEDカンファレンス(今年 いとか、日々の暮らしの中に見つけた小さ 木島茂夫 の開催地はバンクーバー)では、あらゆる な喜びだけを綴っているうちに気が晴れて s_of_awesome?language=ja www.ted.com/talks/neil_pasricha_the_3_a_ 面しても気持ちを切り替え、前向きな姿勢 分野で世界を変えようとしている人たちの 二〇〇六年に講演会をネット上に動画配 信すると、TEDの活動は世界中の人たち め、横の繋がりを広げてゆく場にもなって 議 会 図 書 館 が 任 命 す る「 桂 冠 詩 人( に 富 み、 多 く の 読 者 を 引 き 付 け て い る。 ニューヨーク生まれの詩人ビリー・コリ ン ズ( William James Collins ) の 詩 集 は、 ベストセラーになる程の人気がある。 カナダ to 短歌 82 カナダ to 短歌 83 116 117 「 アクション」 行動を起こすことだけと「アクション」の も人脈も経験もない自分にできることは、 国して再び、学生仲間を連れて戻った。金 がることによって、いろいろな生き方があ きないことでも、様々な業界の人たちと繋 国際協力業界だけでなく、自分たちにはで がどんなに小さいことでも行動を起こす。 リピンのピナツボ火山の噴火で、被災した 横田宗(はじめ)氏がこの団体を立ち上 げたのは一九九四年、十八歳の時だ。フィ ルが組まれていた。 との交流、ホームステイなどのスケジュー たちの施設などを訪問したり、地域の人達 活動地である盲聾学校や虐待を受けた女性 な仕事だが、合間をぬって、アクションの 設の修理をしながら子供たちと遊ぶのが主 運営しているこの孤児院に寝泊りして、施 院ジャイラホームだ。フィリピンの神父が 目 的 地 は マ ニ ラ か ら 車 で 三 時 間、 北 西 一七〇キロのオロンガポ市郊外にある孤児 週間は面白い体験だった。 性豊かな日本の若者たちと共に過ごした三 マニラに向った。皆それぞれが初対面。個 加する若者たちと合流して、フィリピンの コ ー ス )、 講 演 会 な ど が あ る。 ま た 地 域 で 土 曜 学 校 世 界 を 知 る 会( 小 学 四 年 ~ 六 年 アジアン雑貨チャリティショップの運営、 ア体験事業、社会人向けのスタディツアー、 動 は、 国 際 ボ ラ ン テ ィ また日本事務局での活 十 三 名 が 働 い て い る。 フィリピン人スタッフ 日本人スタッフ三名と ンガポ市の事務局には ロ ジ ェ ク ト な ど、 オ ロ の女性への所得向上プ レ ン の 支 援、 貧 困 地 域 ト、 ス ト リ ー ト チ ル ド 能力向上プロジェク 心 理 ケ ア、 施 設 職 員 の クトが増えている。子供たちへの職業訓練、 筆 者 が 参 加 し て か ら 十 年 経 つ が、 ア ク ションの発展は目覚しく、様々なプロジェ 鋭い力となって たちあらわれる 茨木のり子「六月」 したしさとおかしさとそうして怒りが 同じ時代をともに生きる どこかに美しい人と人との力はないか 若者のやさしいさざめきで満ち満ちる すみれいろした夕暮れは どこまでも続き 食べられる実をつけた街路樹が どこかに美しい村はないか 男も女も大きなジョッキをかたむける 鍬を立てかけ 籠を置き 一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒 どこかに美しい村はないか 続けている。 ことは出来る」と横田氏は精力的に活動を 子供たちが変わろうと思うきっかけを作る 供たちの人生を変えることはできないが、 ることを子供たちに示すことができる。子 名を付けたのだという。 孤児院があることを知った横田氏は、単身 「幸せだから感謝するのではありません。 感謝するから幸せなのです」と説く氏は、 のだという。 ていることに多くの人が気づき始めている 「感謝」の力が、世界を変える可能性を持っ 人の賛同者を得ている。 驚くほど急速に広まり、今では一五〇〇万 よう」とネットに呼びかけると、氏自身が ト 氏 は 語 る。「 幸 せ に な り た い な ら 感 謝 し 者でもあるデヴィド・スタインドル‐ラス いることです」修道士であり諸宗教の研究 「私たち全ての人間に共通していること は、幸せになりたいという気持ちを持って ある「機会」には感謝できるのだという。 面したとしても、与えられた全ての瞬間に 新たな一瞬が与えられる。困難な状況に直 にもできるし、例え逃してしまってもまた 会」でもある。それを生かして幸せへの鍵 た、この一瞬は無限の可能性を秘めた「機 い て く る。 ま 感謝の心が湧 る と、 自 然 に 識して体感す たものだと認 はなく、授かっ 取ったもので 努力して勝ち そ の 一 瞬 は、 きることです」 考 え、 一 瞬 一 瞬 を 満 た さ れ た 気 持 ち で 生 「 感 謝 の 気 持 ち に 理 由 は あ り ま せ ん。 感 謝とは、あるがままの状況を素晴らしいと していた。それは今も変らないという。 人生そのものは神からの贈り物として感謝 る状況を変えることは出来ないとしても、 彼は幸せだったと言う。自分が置かれてい い革命です」 念さへも根本から変えるような、暴力のな が、私の言う革命は、革新的で、革命の概 それ以前と全く同じことを繰り返します いた人たちが革命を起こして頂点に立ち、 ミッド型でもありません。普通は、底辺に グ ル ー プ で す。 ピ ラ ミ ッ ド 型 で も 逆 ピ ラ 「世界の未来はネットワーク型になりま す。お互いを知っていて交流し合う小さな 平等に尊重するようになります」 なります。平等になる訳ではありませんが、 違いを楽しみ、全ての人を尊重するように 動は、分かち合いの心を生みます。人々の 暴力的になりません。感謝から生まれた行 恐れることはなく、恐れることがなければ を開くと行動に繋がります。感謝があれば 与えられているのです。この「機会」に心 す。私たちにできることは、今この瞬間に 覚を大きく開き、与えられたこの素晴らし まいがちですが、立ち止まって、全ての感 れだけです。私たちは人生を駆け抜けてし に習った『止まる・見る・進む』のただそ http://actionman.jp 第二次大戦中、ナチス占領下のオーストリ 大切にせむ心豊かに 日下部冨美 一度丈の人生なれば今日の日を アで十代を過ごす。雑草スープしか食べら れて戦場で死ぬのだろうと思っていた。が、 参考資料 digitalcast.jp/v/19019 い豊かさを楽しみましょう。それが人生で れない日が続き、飢え死にするか、徴兵さ 「感謝して生きるにはどうすればいいの でしょう。子供の頃、横断歩道を渡るとき 「 感謝」 で一ヶ月ほど復興の手伝をしたが、一時帰 のイベントにも積極的に参加している。 「 自 分 に 出 来 る こ と が あ る な ら ば、 そ れ NPO法人アクションのワークキャンプ に参加したことがある。成田で日本から参 カナダ to 短歌 84 カナダ to 短歌 85 118 119 情 の 研 究 者 ポ ー ル・ エ ク マ ン 氏 は パ プ ア 研 究 し て い る ロ ン・ ガ ッ ト マ ン 氏 だ。 表 表情です」と語るのは、笑みの隠れた力を つ最も基本的で生物学的に均一に見られる んでいるのがわかります。笑みは人間が持 を使うと、子宮の中で発達中の胎児が微笑 友を悼むと遠く来りて 小名木綱夫 みどりごの笑へばわれも笑ふなり さ せ る と あ る。 ちを上向きに 為自体が気持 笑むという行 け で な く、 微 結果であるだ が良いときの 笑顔とは気分 そ の 理 論 に は、 仮 説 も 唱 え た。 ダーウィンは「種の起源」で進化論を理 論化したことに加え、表情フィードバック しまうらしい。 もので、顔の筋肉のコントロールを抑えて いう研究結果がでている。笑顔は伝染する 人を見ながらしかめっ面をするのは困難と スウェーデンのウプサラ大学では、笑顔の だった。 を浮かべていた選手の平均寿命は八十歳 は七三歳だったのに対し、輝くような笑み のだという。笑顔ではない選手の平均寿命 をベースに、その選手の寿命を予測できた 査をしたところ、選手が微笑んでいた期間 ウェイン州立大学では、一九五〇年代以 前のメジャーリーグのプロ野球カードで調 もあるらしい。 なく、能力がある人に映るという研究結果 は他者に好感を与え、親切に見えるだけで ドルフィンのような幸せホルモンを分泌し などのストレスホルモンを滅少させ、エン コルチゾールやアドレナリン、ドーバミン より、笑顔でいれば健康になれる。笑顔は 激が生じるという。チョコを大量に食べる 「 笑み」 ニューギニアで実験をした。西洋文化とは 「 印 象 を 良 く し た い、 ス ト レ ス を 軽 滅 し たい、カロリー摂取をせずに高質のチョコ 主である子供が見せる笑顔の回数は、一日 セントいるという。スーパーパワーの持ち 一日に二十回以上微笑む人は、一般的に 全体の三分の一、五回以下の人も十四パー るという。 がわかった。 されるため、微笑むと気分がよくなること バックにより、感情を司る神経処理が修正 脳 の 活 動 を 測 っ た と こ ろ、 表 情 フ ィ ー ド た。 笑 顔 の 筋 肉 を 抑 え る 注 射 の 前 と 後 の、 トマン氏は提案している。 とがあったら、笑顔になりましょう」とガッ 幸せな人生を送りたい、そのように思うこ ワーの力を借りて、長生きしたい、健康で を 食 べ た 気 持 ち に な り た い、 ス ー パ ー パ 「 喜 ば し い こ と に、 人 間 は 生 ま れ な が ら にして微笑んでいます。3 超音波の技術 全く接点がなく、食人風習を持つフォレ族 ドイツではこれを裏付ける研究結果がで に四〇〇回。笑顔が絶えない子供が側にい 研究結果がある。 るようになり、言語障害を起こしたという なかった人も、体調不良を訴え、妄想を見 て死んでしまうという。二百六十四時間寝 いると、二週間後には感染症などにかかっ だからなのだ。動物実験では、眠らせずに かったのは、睡眠が生きていくために必要 険なはずなのに、眠らないように進化しな 眠る。動物は眠っているときは無防備で危 眠っていることになる。哺乳類は例外なく 人は人生の三分の一を寝て過ごすとい う。九十歳まで生きるとして、三十年間を 窪田章一郎 年に稀なる夜となるらし 無意識のうちに昂ぶり眠れぬか 処理していることを発見したときは、それ に は リ ン パ 管 が な い の だ。 イ リ フ 氏 は、 脳が想像もしていなかった方法で老廃物を に並列して体中に広がっている。が、脳内 化したのがリンパ組織で、リンパ管は血管 物を産出する。その老廃物排除のために進 なように、全ての細胞は副産物として老廃 動に栄養が必要 運 ぶ。 細 胞 の 活 に栄養や酸素を は、 個 々 の 細 胞 巡らされた血管 い。 体 中 に 張 り なければならな 養を供給し続け 生きていく為 に は、 細 胞 に 栄 めたのだ。 のは眠っているときだということを突き止 フ氏の研究チームは、脳内を液が駆け巡る フ・イリフ氏は語る。二千年後の今、イリ 的外れではなかったと神経科学者のジェ 新たな原動力を得るという説を唱えたが、 ている間にこの液が脳に流れ込んできて、 重要な役割を担っている。 生命と社会生活の維持になくてはならない 睡眠は注意力や集中力、感情の抑制などを けでなく大人にも大切なのだという。また 維持に欠かせない成長ホルモンは、子供だ モンの分泌・・特に体の修復や免疫機能の 睡眠には様々な役割がある。脳と身体の 休息、記憶の整理、ストレスの除去、ホル 眠っている時だけに行われるのだという。 排出される。脳の老廃物排出作業は、脳が 壁から中に滲み込み、他の排泄物と一緒に る。老廃物を取り込んだ髄液は、血管の外 血管をリンパ管のような機能に変換させ 流れ易いように脳細胞が縮み、脳内にある 脳が静かになると浄化体制に入り、髄液が らされた血管の外壁に沿って脳中を埋めて 物はこの髄液に吸収される。髄液は張り巡 色透明の脳脊髄液があり、脳内からの老廃 法をイリフ氏は解説していく。脳内には無 生きたマウスの脳内血管の映像を観せな がら、脳だけに備わっている老廃物の処理 の美しさに感動したという。 http.//digitalcast.jp/v/11400 二千年前の医学者の一人ガレノスは、私 たちが起きている時は、体の各部に活力を 参考資料 digitalcast.jp/v/21155 与えるため、脳の中にある液が体の隅々に が良く出来ていることに驚くと同時に、そ 司る高次脳機能を休息させるなど、人間の いるが、脳が起きている間は殆ど動かない。 行き渡り脳を干上がらせてしまうが、眠っ 「 眠 り」 る と、 自 分 ま で 笑 顔 に な る 回 数 が 増 え る。 イ ギ リ ス の 研 究 者 に よ れ ば、 笑 顔 一 つ で、チョコバー二千個に相当する脳への刺 D 血圧を下げるのだという。さらに笑顔の人 でも、喜んだり満足したときには笑顔にな カナダ to 短歌 86 カナダ to 短歌 87 120 121 相は核兵器の撤去を決断した。一九七八年 四十四%に増え、一九六九年、トルドー首 す る 国 民 は 十 九 % だ っ た が、 数 年 後 に は て 核 廃 絶 を 訴 え た。 当 初、 核 配 備 に 反 対 ル ソ プ ロ ス 氏 は、 カ ナ ダ 全 土 を 駆 け 巡 っ となったケッベック州出身のディミトリ・ た。二十二の大学の組織を束ねるリーダー スローガンを掲げて学生たちが立ち上がっ う。「 カ ナ ダ 市 民 を 米 国 の 楯 に す る な 」 の 撃機をカナダの上空で打ち落とすのだとい 一九六三年、米国はカナダ全土に核ミサ イルを配備した。核兵器をのせたソ連の爆 竹山 広 伝へず知らず知られざるのみ 原爆症に死にたることし幾人と 六日の広島で起きた事、そして九日に長崎 味での抑止力というのは、一九四五年八月 がいるけれど、愚かなことだよ。本当の意 「 そ れ に し て も、 核 の 抑 止 力 の お 陰 で こ れまで核戦争は起きなかったと言う人たち ス氏は語る。 ルソプロ んだ」と うものな たいと思 を尽くし ために力 と、その 者は社会を変える事ができるんだと感じる 勉強して互いに刺激し合うようになる。若 るようになる。そしてより深い関心を持ち、 界が大きく変わり、次次と目の前で展開す 運動を始めるけれど、始めてみると突然世 者はまず大学という小さな保守的な世界で や学生が非常に積極的に闘ったからだ。若 いたんだ。カナダがそうなったのは、若者 デモや戦いがあった。僕はその全ての中に と呼びかけた。 器の悲惨さを理解するために広島訪問を」 リー氏は、世界中の人たちに向けて「核兵 ついて意見を交わす。米国の元国防長官ペ は十九年振りに広島で開催された。それぞ 識は変わりつつある。今年の国連軍縮会議 の間ではその割合は四十七%だ。人々の意 は五十六%に減った。十八歳から二十九歳 か っ た と 答 え て い る。 が、 今 年 の 調 査 で 七十年前のギャロップ調査では、八十五% の米国人が広島・長崎への原爆投下は正し 事もよく知っているはずだ」 に核兵器は二度と使ってはいけないという しいものだということは知っている。さら い。でも、広島・長崎で起きたことが恐ろ 被爆の現実を詳しく知っているわけではな 界中の人たちが原爆資料館にあるような、 るのかを考えたからではないだろうか。世 何故だと思う? おそらく広島と長崎の経 験から、核兵器を使うとどんなことが起き おうとした軍人たちは結局使えなかった。 「 核廃絶」 の第一回国連軍縮特別委員会では「カナダ で起きた事ではないかと思う。被爆の現実 は核を作ることも保有することも放棄した 点を通して、沖縄の基地問題の根にあるも 新作のドキュメンタリー映画『沖縄うり ずんの雨』では、日米の両サイドからの視 た作品が多い。 た『映画日本国憲法』など日本を題材にし 識人十二人へのインタビューをもとに作っ ロ の 格 闘 を 描 い た『 老 人 と 海 』、 世 界 の 知 旅』、与那国島の老漁師と巨大カジキマグ 丸木夫婦を撮った『劫火・ヒロシマからの 督。原爆投下直後の惨状を描き続ける画家 日本在住二十年のジャン・ユンカーマン 氏は米国ミルウォーキー生まれの映画監 小高 賢 の手の上にいる普天間・辺野古 意識が根強く残っている。沖縄に駐留した 争で勝ち取ったものは自由にしていいとの 二次大戦後、日本を占領した米国には、戦 米国はペリー来航の時からすでに、沖縄 (当時の琉球)の占領を目論んでいた。第 における性暴力の問題にもふれている。 を受けた元海兵隊員の証言、そして米軍内 件で実刑 女暴行事 沖縄の少 る。また 実像に迫 て沖縄の 像を交え 中心に、新たに発掘した米軍撮影の資料映 出された沖縄市民たちへのインタビューを 向き合った元米兵、元日本兵、戦闘に駆り 「沖縄戦」「占領」「凌辱」「明日へ」の四 部構成からなるこの映画では、同じ戦場で いう。 して、希望の意味も込められているのだと という言葉に、実りある季節の準備期間と 期 を 指 す。 ユ ン カ ー マ ン 氏 は「 う り ず ん 」 かさず官邸前のデモに参加していたとある。 よ る と、 小 高 氏 は 毎 週 金 曜 日、 ほ と ん ど 欠 冒 頭 の 歌 は 小 高 賢 遺 歌 集「 秋 の 茱 萸 坂 」 に収められている。『あとがきに代えて』に 日本と米国を拠点に活動を続けている。 です」と語るユンカーマン監督は、現在も ていくのかを問われているのは私たちなの して日本の市民です。その責任をどう負っ 縄の人々ではありません。米国の市民、そ 命から開放する責任を負っているのは、沖 くなったのです。沖縄を戦利品としての運 二つの文化が、狭い島に共存せざるを得な 化と、戦争を選ぶ米国の文化。対極にある を続けてきました。平和を求める沖縄の文 を拠点として朝鮮やベトナム、中東で戦争 として扱い、膨大な基地を建設し、それら 「沖縄の人々は一貫して戦争を拒絶して きました。しかし米軍は、沖縄を「戦利品」 しているだろうか。 我々も、どこまで沖縄のことを正しく把握 沖縄の実態は知らない。また日本人である 活環境は自国と同じで、フェンス外にある 参考資料:ETV「立花隆 次世代へのメッ セージ~わが原点の広島・長崎から~」 れが個人として参加し、軍縮や安全保障に 国です」と演説した。 こそが真の抑止力なんだ」 の を 映 し だ そ う と し て い る。「 う り ず ん 」 米軍関係者はこの七十年間に約三百五十万 「ベトナム戦争や朝鮮戦争で核兵器を使 の語源は「潤い初め(うるおいぞめ)」で、 冬の牡蠣にケチャップを振るアメリカ 冬が終って大地が潤い、草木が芽吹く三月 人いるが、フェンスで囲われた基地内の生 参考資料 okinawa-urizun.com www.youtube.com/watch?v/AAx3ang2eQc 頃から、沖縄が梅雨に入る五月頃までの時 「 うりずん」 「カナダの非核化はかけがえのない成功 体験だ。とても興味深い歴史だよ。沢山の カナダ to 短歌 88 カナダ to 短歌 89 122 123 これ以上の無益な争いを避けるためシアト ら の 開 拓 者 た ち と 戦 っ た。 十 九 世 紀 中 頃、 米国の先住民部族は、先祖代々住み続け てきた土地を守るため、スペインや英国か 長の胸像が建っている。 のパイオニア・スクエアには、シアトル首 バックス発祥の地でもある。ダウンタウン ボ ー イ ン グ 社 な ど が 本 社 を 置 き、 ス タ ー 来する。現在はマイクロソフト、アマゾン、 住民スクワミッシュ族の首長シアトルに由 この市名は、かってこの地に住んでいた先 バンクーバーから車で三時間ほど南下す る と、 ワ シ ン ト ン 州 の シ ア ト ル 市 に 着 く。 コユコンインディアン いを犯せば、大地は知っている 大地は知っている。もしおまえが間違 カヌーを運び子供たちに食べ物を与えてく る。せせらぎの音は祖父の声であり、川は 湖の澄んだ水に映る影は我々の思い出を語 我々の姉妹で、熊や鹿や鷲は我々の兄弟だ。 部 で あ り、 大 地 は 我 々 の 一 部 だ。 花 々 は 一本も聖なるものなのだ。我々は大地の一 我々にとって大地は隅々まで神聖なもの だ。砂浜も草地も森を包む霧も松葉の一本 ことが、なぜできるのだろうか。 どという いするな を売り買 し、 土 地 た。 し か 言ってき 「 ワ シ ン ト ン の 首 長 が、 我 々 の 土 地 を 買 いたいと 組「神話の力」より引用させて頂く。 こではテレビで放映されたインタビュー番 との説もあり真偽のほどはわからない。こ ぎ足されたりで、このような文章ではない 目を集めた。英訳され、時を経て削られ継 う」という首長のスピーチは多くの人の注 ないのに、どうして売り買いできるのだろ る。その時の「土地や空気は誰のものでも 受け継がれてきた音楽なのだという。 とは思想でも教義でもなく、時代を超えて www.youtube.com/watch?v=n613vfB9vq8 て兄弟なのだ」 インディアンであれ白人であれ、我々は全 してほしい。神が我々全てを愛するように。 でほしい。子供たちのために土地を守り愛 も、我々と同じようにそれを愛し、慈しん 我々はこの大地を愛している。赤子が母 の胸の鼓動を愛するように。もし我々があ や森はまだここにあるだろうか。 が原野と共に消えてしまった時、この岸辺 れは生きる事の終りだ。我々インディアン が電線で損なわれたらどうなるだろう。そ 人間のにおいがあふれ、緑豊かな丘の景色 もしバッファローが皆殺しにされてし まったらどうなるのだろう。森の奥にまで なく、人間はその中の一本の縄にすぎない。 合っている。命の網を編んだのは人間では 大地に属するのだ。あらゆるものは繋がり 取る。大地が人に属するのではない。人が 息を与えた風は、また彼の最後の息を受け 大気は尊いものであり、あらゆる生き物 と魂を共有している。我々の祖父に最初の れる。 「 首長シアトル」 ル首長は、合衆国政府の申し出である部族 お続けなさい。それは立派な人生です。あ の土地を売って居留地に移ることに同意す なたに神話の知識などいりません』と言い 必要があるのか、神話は現在の私達の生活 この対談は、先ずモイヤーズ氏の疑問か ら始まる。今どきなぜ神話のことを考える 飛田茂雄で早川書房より出版されている。 書籍化された。日本語版は二〇一〇年に訳・ 心を掴み、後に対談集「神話の力」として 組で語るキャンベル氏の言葉は多くの人の 八十三歳で亡くなった後だったが、この番 の は、 収 録 終 了 の 翌 年、 キ ャ ン ベ ル 氏 が 話は示唆に富んだものだった。放映された 古代の語り部、死と再生などについての対 渡って収録された。英雄と伝説、神と人間、 の対談テレビ番組「神話の力」は二年間に 米国の神話学者ジョーゼフ・キャンベル 氏とジャーナリストのビル・モイヤーズ氏 北米ミンカス族の諺 目に涙がなければ魂に虹は見えない 私達は舞を舞うだけです」と答えたのだと 祭 は「 私 達 に は 思 想 も 教 義 も あ り ま せ ん。 理解できません」すると暫く考えていた司 ていただいたが、あなた方の思想も教義も 儀式に数多く参加して神殿もたくさん見せ 言 っ て い る の を 耳 に し た。「 私 達 は 神 道 の は、 あ る 米 国 人 学 者 が 神 道 の 司 祭 に こ う いたキャンベル氏 宗教に関する会 議で日本を訪れて です」 ことに気づくはず たをとらえている 神話のほうがあな 知 識 さ え あ れ ば、 です。適当な予備 に受け止めるべき 場合には、まとも その問題の方があなたをとらえて放さない で は あ り ま せ ん。 た だ、 ど ん な 形 に し ろ、 ているから興味を向けるなんて賢明なこと たい。どんなことでも、他人が重要だと言っ そが人生で最も大切なことなのに」 結びついた無上の喜びを体験する、それこ て い る。『 い ま 生 き て い る 』 と い う 実 感 に に慣れすぎてしまい、内面的な価値を忘れ る目的を達成するためにあれこれやること こに居るということです。私達は、外にあ そしてあなた自身の意味とは、あなたがそ そ こ に あ る、 或 い は 居 る、 そ れ だ け で す。 「 こ こ に 一 つ の 花 が あ る、 一 匹 の ノ ミ が いる、その意味は何でしょう。それはただ 話はあるのです」 ういう喜びをもたらすための助けとして神 て、生きている無上の喜びを実感する。そ ないし実体に共鳴をもたらすことによっ 生 活 体 験 が、 自 己 の 最 も 深 い 内 面 の 存 在、 と思います。純粋に物理的な次元に於ける いるのは『いま生きているという経験』だ ではありません。人間がほんとうに求めて うに探求しているのは、たぶん生命の意味 「 人 々 は よ く、 我 々 は 生 き る こ と の 意 味 を探っていると言いますが、人間がほんと と ど う 関 わ っ て い る の か を 問 う と、「 答 え いう。同様に、キャンベル氏にとって神話 www.youtube.com/atch?v=2UexY9chnXM としては『どうぞそのままあなたの生活を なた方に土地を売るようなことになって 「 神話の力」 カナダ to 短歌 90 カナダ to 短歌 91 124 125 あとがき 人生には大小さまざまな「節目」がある。定年後を第二の人生と呼ぶ人は多いが、退職 を節目に、これまでとは違う生き方をするということなのだろう。私にとって節目は、門 のようなもので出口であると同時に入口なのだ。例えれば小説の「章」に当たる。そこか ら新たな展開が始まりそうな予感と期待の膨らむ時でもある。さらに、私という人間を創 りあげるのに必要な、さまざまな体験を積むために用意された「機会」だとも思う。陶芸 家河井寛次郎の文の一節に「この世は自分を見に来たところ」とあるが、どんな自分が居 るのか、これまでの歩みを簡単に記してみることにする。 二十二歳までが私の人生の第一章だ。満洲で生まれた私を抱えて引揚げてきた両親と共 に居る自分が見える。引揚者寮に住み、家は貧しく父は荒れていた。泣き虫で、事あるご とに押入れに隠れて声を殺して泣いていたのを覚えている。息苦しくて早く家を出たいと 思い始めたちょうどその頃、小田実の『何でも見てやろう』を読んで衝撃を受けた。そこ にはワクワクするような膨大な世界が広がっていた。旅行記や留学記を読み漁り、自分も 必ず行くのだと、夜学に通い、旅費を貯めながら密かに案を練っていた。 第二章は米国での生活から始まる。ドイツと米国各州から集まった同世代の青年たちと の活動を通して、自分の見識の狭さを知る。研修の一環として、養護施設や老人ホーム、 スラムや精神病院などを訪ね歩いた。想像していた通りの華やかな米国社会の隅には、打 ちのめされて喘ぎながら生きている人たちが居る。そして真剣に彼らに手を差し伸べよう としている人たちも居る。ここでの二年間の体験が、今の私の根幹をなしている。一時帰 国して再び米国に戻る予定が、ビザが取れずカナダに移住した。結婚し、子育てをしなが ら仕事一辺倒の自分が居る。母が亡くなり、八十五歳の父が釣具と油絵の道具と数枚の衣 類だけを持って我が家に移ってきた。しばらく経ったある日、朝から酔っていた父の饒舌 は六時間に及んだ。苦手だった父と二人だけで向き合うのは初めてだ。もっぱら聞き役に 徹していたが、父は私に見えないものを観ていると感じる。それが何かを探り出そうと思っ ていた矢先、交通事故で逝ってしまった。同居して一年足らずのことだった。 第三章には五十歳になったばかりの自分が居る。最初で最後の父との語らいを機に、人 間の心の奥底には何があるのか、この宇宙と自分との関係など、根源的なことを知りたく なった。家事一切を娘に任せて、途上国と言われる国々を一人で回った。名所旧跡を巡る 旅ではなく、難しい思索をする旅でもない。電気も水道も通っていない村を訪ね、そこに 暮す人たちを自分の目で見たかったのだ。 第四章では還暦を過ぎてから短歌に取り組んでいるのが見える。四十三年振りに出席し たクラス会で、二人の級友が短歌を作ると知ったが、歌集や句集などを読んだこともない 自分には無縁のものだと思っていた。ところが、英国に住むもう一人の級友から、感想文 を添えた「冬雷」誌が回ってくるようになる。触発されて感想文を交換し合いながら読み 続けていると、歌に「その人らしさ」があるのに気づく。短歌を通して自分を見ることが できるだろうか。級友に勧められるまま二〇〇八年二月に入会したが、何をどう詠めばい いのかわからず戸惑いながらの投稿だった。入会して四ヶ月程経った頃、大山編集長から 短歌」でコラムを書いてほしいとのメールが届く。驚いたが、試しに新聞記事 を纏めて送ってみた。するとそのまま二回に分けて載せるとの返事だ。こうなったらやれ 「カナダ to 126 るだけやってみよう。情報源はネットに頼るしかないが、世界中のあらゆる分野で活躍し ている人たちを紹介するページにしよう、と書き始める。いつの間にか八年が経っていた。 人』(二〇一五年七月一日発行)に参加させて頂くという幸運に恵まれる。 この間、冬雷編集部企画の合同歌集『冬の雷霆』(二〇一一年十一月二十日発行)と『冬 雷の 員の皆様に心よりお礼を申し上げます。有難うございました。 二〇一六年二月二十九日 〈冬雷短歌会文庫(特別判) 024〉 短歌とコラム 怯むことなく 2016 年6月1日 印刷発行 著 者 大 滝 詔 子 データ制作 冬 雷 編 集 室 印刷・製本 株式会社ローヤル企画 発 行 所 冬 雷 短 歌 会 〒 350-1142 川越市藤間 540-2-207 電話 049(247)1789 大滝 詔子 (冬雷 2016 年6月号別冊付録) します。そしてこのユニークな冬雷短歌会の仲間として、貴重な体験をさせて下さった会 この本の刊行を提案して下さったばかりでなく、選歌、印刷データの作成、校正等々刊 行までの細かく気の抜けないすべての工程を引き受けて下さった大山編集長に深く感謝致 白い一生だったと感謝をしつつ最後を迎えることが出来れば嬉しい。 されている私たち人間の役割は、怯むことなく存分にその生を生き切ることだと思う。面 んだ道をしっかりと歩んでいる人たちに満ち溢れている。何者かによってこの宇宙に生か 図らずもこの本は、第五章に一歩を踏み出したその節目に生まれた。コラムに登場した 人たち然り、冬雷短歌会で研鑽を積んでおられる会員の方々然り、この世界は、自分の選 113
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