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インターカルチュラリズム,帝国,国民国家
―リム・チェン・イン家の肖像―
ニール・コール・ジン・キョン
(翻訳 金子正徳)
はじめに
本稿は,リム・チェン・イン一家について参照することで,文化的アイデンティティ構
築の過程を理解する試みである。リム一家はペナンのジョージタウンに暮らしていた。ユ
ネスコが世界遺産に指定したこの場所は,他に類を見ないような多文化遺産がある。この
「多文化間の境界面(intercultural interface)」において,中国人移民やマレー人,イギリ
ス人植民者,そして白人とアジア人の混血であるユーラシア人が,この熱帯の拠点を成功
に導くという共通の目的を分かち合いながら,親密な関係の中で共生していた。ペナンの
ある海峡華人一家が経験した 100 年以上にわたる期間に注目することで,さまざまな文化
交渉や個人的な意思決定が文化的アイデンティティを形成することを提示したいと考えて
いる。さらに重要なのは,変動するポリティカル・エコノミーと文化的再生産の関係が多
文化間の関係性と同定の過程に対してどのように影響を与えるかという点である。本稿の
場合は,英語教育とイギリス式の階層システムが,ペナンの海峡華人のある一家に対して
どれほど影響を与えたかということである。
しかしながら,まずはリム・チェン・イン一家が特別な事例であることを述べておかね
ばならない。というのも,彼らの多文化的な(intercultural)価値観と生活スタイルは,他
の一般的な海峡華人にみられるものよりも突出していたからである。しかしながら,さま
ざまな事例研究がしばしば示すように,この一家が獲得したものは,帝国と国民国家の文
脈において獲得可能であったものを明らかにする。さらにいえば,この一家による先端的
な行為の特性は,後日流行する行動の傾向やパターンを反映していた。つまり,彼らは時
代を先取りしていたのだ。
まず,いくつか概念の定義をしておきたい。本稿は「インターカルチュラル」という語
を,特定の文化の間で発生する出会いと融合を指す広い意味をもつ概念として定義する。
「インターカルチュラル」という概念は,コミュニケーションや社会人類学,文学理論そ
して企業研究を含む多様な学術的探究において用いられる。それぞれが異なる意味でこの
用語を用いている。また,これらの多様な定義の多くには,「インターカルチュラル」と
いう用語が二つもしくはそれ以上の,まったく異なる文化もしくは不連続な文化が出会う
ことを示すのだとする誤解がある。
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本稿の目的は,おのおのの文化はけっして純粋なものではないこと,そして,私たちが
まのあたりにしているものはしばしば何らかの発展を遂げていること,つまりそれが「異
なる文化の間(inter-cultural)」からもたらされる結果であることを提示することである。
これは長い時間をかけて発展してきた文化的アイデンティティを研究するときにあきらか
に有用な考え方である。このペナンの海峡華人の一家の事例では,文化的アイデンティテ
ィは,ハイブリッドで,多層的であり,かつ一家の成員それぞれによって動的に定義され
るものである。というのも,彼らは,それぞれの世代やジェンダーそして教育レベルの違
いによって大きく異なる機会や要求に対処してきたからである。
最終的に,リム・チェン・イン一家はペナンの海峡華人の連続体のなかに多岐にわたる
「アイデンティティ」を提示するが,それはイギリス植民地アイデンティティの,そして
植民地以降はマレーシア国民アイデンティティの一部でもあった。その過程における諸段
階において,それぞれが自らの文化的アイデンティティとして同定するもの,つまりそれ
ぞれが他の人々と自分たちとを区別する際の徴とするものは変化し,
時には行き先を失い,
あるいは他の文化的な形態へと進化していった。この一家に関する事例研究は,ハイブリ
ッドな他の諸民族と密接に結びつきながら,さまざまな色彩や地柄を持つ織り布のように
多彩な「アイデンティティ」を示してくれるのだ。
しかしまずは,この特別な一家が,特に「反対思考」的パーソナリティや彼らが作り上
げたイデオロギーなど,多岐にわたる特徴的なアイデンティティをどのようにして展開す
ることが可能であったかを説明するために必要な文脈を示しておく必要があるだろう。
一 「多文化間(inter-cultural)」空間としてのジョージタウン
ジョージタウンは,ひとつの島とマレー半島の細長い沿岸地域とで構成されているマレ
ーシア西部のペナン州における中心都市である。ジョージタウンはマレーシアにおけるイ
ギリス植民地の中で最も古く,イギリス東インド会社の名において,1786 年にフランシ
ス・ライト艦長により創設された。ジョージタウンの住民はつねに多民族で構成されてき
た。これが建築遺産にも反映されていて,第二次世界大戦以前の建物が東南アジアの中で
はもっともたくさん集まっている場所である。このため,世代を超えた物理的な継続性は
いまだ顕著であり,ペナンの住民は周りを見渡すだけで,以前の世代が遺したものを目の
当たりにすることができる。
ペナンは,他のイギリス海峡植民地であったマラッカやシンガポールと同様に,単に植
民地期の交易によって形成されたものではなく,
独自のスタイルをもつ都市中心であった。
シンガポールが都市計画に基づいて方法論的に形成されたのに対して,ジョージタウンの
発展はむしろ無計画に成し遂げられたものであった。それにも関らず,19 世紀の終わりご
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ろには,ペナンは単なる帝国の貿易港の一つとして以上に重要な場所となっていた。ペナ
ンは輸出経済の地域的中心であると同時に,錫やのちの時代にマラヤ植民地北部で産出さ
れたゴムの主要港であったのだ1。
ペナンの都市社会は,18 世紀後半のイギリスで,コーヒーショップから証券取引所にま
で広がりを見せていた「公共圏(public sphere)」に類似している。この公共圏の特徴は,
中流階層の利害が支配していたことである。そこには,科学および技術的な発見に結びつ
いた楽観主義と同じく,自由貿易政策の恩恵への強い確信があった。植民地全体に広がる
警察組織の創設(1872 年)や,華人問題に専念する部署である華民保護官署(Chinese
Protectorate)の創設(1877 年)は徐々に,華人の秘密結社やその他の非合法的な組織の影
響力を弱めた。法は,秩序ある社会を形成するための基盤として重要なものとなった。
基本的には,イギリス勢力の最前線がマレー半島へと進むにつれて,海峡植民地は開拓
の段階から次の段階へと発展していた。しかし,既存の社会構造を置き換える代わりに,
イギリスは,華人諮問委員会(1889 年)を創設することで,さまざまな幇や方言集団など
を華人統治の手段として有効活用した。つまり,華人コミュニティの長老たちを植民地行
政組織のなかで仲介者として利用し,華人系住民を統制しながら秘密結社の影響力を弱め
ていったのである。最終的には,社団登録のみを義務づけていた 1869 年制定の「危険結社
禁止法(Dangerous Societies Suppression Act)」を改正することで,植民地政府は 1890 年に
秘密結社を非合法化した。
イギリスの介入は,都市部においてイギリス化が進行するなかで促進された。海峡植民
地は,華人やアラブ人,アルメニア人,ユダヤ人,そしてインド系ムスリムのビジネス界
と同様,多くの西洋企業にとっても活動の中心となっていた。帝国主義的なコスモポリタ
ン文化が,法律による枠組みを通じてだけではなく,イギリスの学校を通じても創出され
た。1870 年から 1890 年の間に,さまざまな種類の社交クラブが出現し,乗馬やスポーツ,
そして交流に打ち込んだ。そのような社交クラブの大半はヨーロッパ人に成員を限ってい
たので,イギリス人を頂点とするヒエラルキー型社会が発生した。イギリスは地域のエリ
ートをこの社会的ヒエラルキーに組み入れたが,人種概念に従った社会的な障壁も押しつ
けた。反植民地活動をやめさせるために追放法(the Banishment Act)が導入され,大英帝
国の利害に反する活動に対し適用された。
幾人かのマレー人支配者も国外追放に処された。
市政委員会の選挙は納税者に限ることで,政府や指名された委員たちは統治の手綱を操る
ことが可能となった。こうして,行政官たちは,地域不安や人々の不満から距離を置くこ
とができた。そして,国際商業会議所(International Chamber of Commerce)が代表する西
洋の商人たちの利益に沿うような方向で,行政上の変化が徐々に導入されていった。
Loh, Wei Leng 2002 “Penang and the Region, trade and shipping 1786-1863,” Journal of Southeast Asian
Studies 33(2) p.243-256.
1
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二 多文化間の交換がもたらしたさまざまな影響
リム・チェン・イン一家は,福建系の人々であった。ペナンの他のコミュニティと同様
に,福建人もまた上述のような新たな状況を受け入れねばならない圧力の下にあった。彼
らには植民地行政官や西洋の交易業者たちとの長期にわたる協業関係があったので,華人
の他の方言集団よりは有利な立場にあった。英語学校に子供たちを送った最初の華人のな
かにペナンの福建人も含まれていた。1816 年のペナン自由学校創設以来,ペナンの福建人
は学校へ多額の寄付を続けた。彼らはまた,法廷通訳の役割も果たし,植民地行政におい
て事務職としても働いた。英語は,マレー語の代わりに,主要な法曹言語および行政言語
となった。西洋人との継続的な接触と英語教育は他の中国人よりも明らかな優位をペナン
の福建人に対して与え,
さらにはペナンにおける彼らの経済的な影響力を強めてもいった。
1852 年にイギリスが帝国全体で帰化による市民権拡大を行ったとき,西洋との一体化が
政治的な問題となった。それまで中国人は,ヨーロッパ的な考え方にみられるような政治
的なアイデンティティの概念をもっていなかったのである。これには,旧来の習慣に従う
こと,太陰暦の正月を祝うこと,祖先に敬意を払うこと,そして弁髪を結い,前頭部を剃
ることによって,清朝に対する従属をある程度表明することも含んで指している。帝国の
市民権というイギリスの考え方は,ローマ帝国から借用したものであり,中国人にとって
は異質なものであったのだ。国民国家を前提とする西洋の国民アイデンティティは彼らを
惹きつけた。
ペナンの福建人はこの好機に乗じた最初の人々に含まれ,イギリス国旗を自分たちのジ
ャンク船にはためかせた。イギリスの臣民として,彼らは交易相手の他の王国における治
外法権を得ていた。ペナンの福建人商人たちは,中国のアモイ(廈門)にあらたに開港さ
れた福建港における交易に際して,彼らの二重国籍を最大限に利用した。イギリスの臣民
である利益は商売上のものだけではなく,
英国法の下での平等な扱いをも含んでいた。
1857
年に,ペナンにおけるイギリス市民権は,海峡植民地で生まれたことを証明できるものに
限られた。海峡生まれという用語は,市政選挙の投票権が国外在住の納税者および海峡生
まれのイギリス臣民に限られて以後,一般に使われるようになった。ペナンの福建人はプ
ラナカン華人の先祖を持つため,最大の投票者を擁した。結果として,植民地行政官は,
海峡華人とペナンの福建人を同義としてとらえ始めた2。
1857 年には,社会の流動化のために英語教育が不可欠なものとなった。同年に,英語で
教育を受けたものに市政選挙の選挙権を限定しようとする提案があった。海峡華人は,立
Vaughan の記述による。1870 年代、海峡生まれの華人は、ペナンの福建人文化に結び付けられ、プラナカン
的特徴をもっていた。J.D. Vaughan 1879 The Manners and Customs of the Chinese in the Straits
Settlements, Singapore: Mission Press 参照。
2
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法評議会において自分たちの代表として発言する適任の候補を見つけることができなかっ
たため,この提案にはまったく関与していなかった。ただし 1883 年には,英語話者である
2名の海峡華人が立法評議会に選出された。この時までに,多民族で構成される相当な規
模の英語話者コミュニティが形成されていたのだ。華人コミュニティにおいて英語教育を
受けた者の大半は,ペナンの福建人であった。英語教育を受けた者と華語教育を受けた者
の分裂もまた顕著になってきた。ペナンの福建人として社会言語学的なまとまりではあっ
たが,双方が独自の文化的アイデンティティを有していた。英語を話す海峡植民地生まれ
の華人は,まもなく,海峡華人として自らを称するようにもなった。
海峡華人の大部分がプラナカン華人の起源をもつ一方で,植民地のコスモポリタンな環
境が彼らのアイデンティティに影響を及ぼした。しかし,ペナンにおける独自の福建人文
化は,20 世紀初めごろの,英語教育を受けた者たちと華語教育をうけた者たちの間の分裂
が,シンガポールにおいてみられたほど大規模な分裂ではなかったことを意味している。
シンガポールでは,マレー語を話すババ華人が海峡華人コミュニティの大多数であった。
ペナンの華人間では,ペナンの福建語が優勢な言語であったため,ペナンの華人コミュニ
ティは全体として,シンガポールよりも統一されていた。ペナンの華人は,中華総商会を
形成するほどであったのだ。彼らは新聞を所有していたこと,そしてさらに重要なのはそ
の新聞を維持するために必要な読者を有していたことで,南のライバルよりも優位に立っ
ていた3。ペナンの海峡華人は西洋の企業と張り合うために経済的に協力しあっていた。彼
らは,海運・金融・精米・錫精錬,そしてのちにはゴム栽培など,この地域一帯における
輸出依存型経済の主要部門において,シンガポールよりも長期にわたって自立性を維持す
ることが可能であった。ペナンの海峡華人に西洋の企業が打ち勝ったのは,第一次世界大
戦以後にすぐれた技術と立法権によって身を固めてからのことである。それまでは,プラ
ナカンの伝統やペナンの福建人,そして英語教育によって特徴づけられた独特な海峡華人
アイデンティティが確立されていたのだ。
三 ルーツの形成
ペナンの自由港としての地位や低額な税金,そして,もっとも重要なことはイギリスの
市民権が付与されるという特性が,スマトラ島やタイ南部,そして急成長していた英領マ
ラヤからの実業家たちを惹きつけた。ペナンは富裕層だけではなく,前途有望な若者たち
をも惹きつけたのである。ペナンにやってきた多くの中国人移民のなかに,リム・ヒン・
レオン(Lim Hin Leong,1844 年~1901 年)もいた。プア・ヒン・レオン(Phuah Hin Leong)
3
「ストレーツ・エコー(the Straits Echo)」紙の場合、1904 から 1974 年の 70 年間続いた。
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としても知られる。リム・チェン・インの父である。家系からいえば「リム」なのである
が,プア・ヒン・レオンの姓は,養子先の家のものを用いていた。彼が故郷の村における
危害から逃れたときにプア家が隠れ家を提供したのである。しかし,彼は血のつながりの
ある家族を心の中で大切に思っていた。
そして,
子としての親に対するこの敬愛の物語は,
その孫たちによっていまも誇りを持って詳細にかたられる。1850 年代,彼は南シナ海をジ
ャンク船で横断する危険な航海を経て,無一文の移民としてペナンに到着した。それ以前
の移民とは異なり,彼はより制度的な編成が進んでいた植民地社会へと入っていった。
彼はペナン港で港湾労働者として働き始めた。かれは小さなボートを買うだけの貯金を
し,その金で買ったボートで船から波止場へ移動する乗客を運んだ(Lim, “My Parents”,
Penang File 所収)。彼はまた,食品雑貨店を営む父を持つペナンの福建人女性オン・テン・
ネオ(Ong Teng Neo)と結婚する幸運も得た。リム・ヒン・レオンはよく働き,ウェルズ
レー州にあった西洋人が所有するプランテーションにおける初期のタミル人労働者に米を
供給する機会を得た。1880 年代までに彼は裕福になり,プランギン川地区に自ら所有する
製粉所を創設した。かれはまた,クダー(Kedah)王国のスルタンから保護を受け,同地
域における事業ネットワークを拡大させた。彼はこうして,クダーからのコメの安定供給
を確保した。
秘密結社制度のなかに閉じこもる旧来のペナンの福建人とは異なり,リム・ヒン・レオ
ンは西洋の技術を進んで受け入れ,事業を近代化した。ペナンの福建人の友人たちととも
に4,彼はペナンにおける最初の精米所であるキー・ヘン・ビー(Khie Heng Be)精米所を
創設した。これは,華人資本を使って西洋の機械を購入し競争力を向上させていく潮流を
もたらした5。
困難から逃げ出していた旧来のペナンの福建人とは異なり,リム・ヒン・レオンの子供
たちはすべて,英語教育を受けた。長子であるリム・チェン・テイクは若年のころから,
彼の精米事業を助けていた。同企業はまた,取引のあったスマトラ島産の胡椒の乾燥・製
品化をおこなっていた。リム・ヒン・レオンは 1901 年に若くして亡くなったが,その時ま
でに彼は,慈善家の大金持ちとして広く知られていた。福建人のひとりとして,リム・ヒ
ン・レオンはペナンの福建人文化に同化できたので,幅広いビジネスの機会を利用するこ
とができた。イギリスと緊密な関係を持ち,英語も流暢なペナンの福建人たちと付き合う
ここには、チュア・ユ・カイ(Chua Yu Kay)、リム・レン・チャク(Lim Leng Cheak), チェア・ジョー・
ジン(Cheah Joo Jin)そしてチェア・イウェ・ギー(Cheah Ewe Ghee)が含まれる。
5 ペナンの福建人にとって、これが西洋の技術を試した最初ではなかった。1880 年代に、コウ・シアン・タッ
ト(Koh Seang Tat)の兄弟であるコウ・シアン・テック(Koh Seang Tek)がペナンで最初の製氷業を開い
た。その息子のコウ・リープ・チェン(Koh Leap Cheng)はクァ・ベン・キー(Quah Beng Kee)や、ウイ・
ホン・リム(Ooi Hong Lim)ヨウ・セン・リー(Yeoh Seng Lye)そしてヨウ・セン・ソーン(Yeoh Seng Soon)
とともに、ビーン・ワーリー製油(Bean Wah Lee Oil Mill)を創設した。40 万ドルがかけられたこの製油施
設はペナンで最大のものであった。
4
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ことで,
彼は西洋の最新技術に触れたのであった。
彼は中国に対する感情的な傾倒はなく,
西洋の技術が前進のための手段だと理解していた。
リム・ヒン・レオンは西洋からの知識を進んで受け入れるペナンの福建人文化の一部と
なったのだ。結束を強めることで,かれらは挑戦的な文化の実権者であったのだ。彼らと
同様に女性たちもまた,刺繍やビーズ飾りに,西洋のデザイン・パターンを取り入れてい
った。リム・ヒン・レオンの子供はすべて英語教育を受けたので,リム一族はより一層西
洋化され,中国への志向性はあまりなかった。他のペナンの福建人同様に,彼らはペナン
との一体感が大変強かった。このことが,彼らのみなりや目標,願望形成に影響を与えた。
リム一族は事業を強固なものにするため,結婚はクー一族ととり結んだ。リム・ヒン・レ
オンの長男リム・チェン・テイク(Lim Cheng Teik)は,コウ・シアン・タット(Koh Seang
Tat)の孫に当たるクー・グァット・リー(Khoo Guat Lee)と結婚した。この結婚は3家族
をつなぎ合わせたのである。
この時までに,ペナンの福建人文化はペナンにおいて優勢なものとなっていた。イギリ
スにとっては,ペナンの福建人が海峡生まれの華人として知られていた。海峡植民地にお
ける華人コミュニティを研究した植民地行政官たちは,プラナカン華人と福建系華人の文
化的な特性の融合を海峡生まれの華人のアイデンティティとして取り上げた。「海峡生ま
れ」がババ華人を指し示すシンガポールとは異なり,ペナンではこの用語はさまざまな個
人を指していた。大部分はプラナカン文化とかかわりがあったが,ほとんどかかわりのな
い海峡華人もいたのだ。中国志向で華語教育を受けたものもいたが,社会生活を営むほと
んどの海峡生まれの華人は,英語教育を受けたものであった。このように内包的な集団で
あったので,ペナンにおける企業組織及び社会組織の多くは,すべての方言集団に開かれ
ていた。ここにはチャイニーズ・タウン・ホールやチャイニーズ・クラブ,チャイニーズ・
マーチャント・クラブ,チャイニーズ・レクリエーション・クラブ,そして中華総商会も
含まれている。ペナンの福建方言が華人コミュニティをひとつにまとめていた一方で,そ
のなかから英語教育を受けた階層も出現してきた。この英語教育を受けた華人の階層は,
ほどなくして,ほとんどの事業や社交クラブにおける指導的な立場を占めた。英語教育を
受け,みずからをイギリスの臣民として同定する者の間で,エリート主義的な自己認識が
根付き始めた。イギリスはこのような人々を海峡生まれの華人と名づけ,彼らは自らを海
峡華人と称するようになった。
四 リム・チェン・イン
英語教育が海峡華人の間に非現業職階層を生み出すのに重要な役割を果たした一方で,
西洋文化の受容も促進した。もっとも明示的な発展の所産は,西洋風のスーツの着用,葉
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巻の愛好,ステッキの携行,そして山高帽の着用などであった。海峡華人はまた,弁髪を
やめた。英語教育を受けたものは,西洋の家具を輸入し,食事も西洋風にし,野外スポー
ツに参加し,馬に乗り,馬車を輸入し,そしてワインを飲んだ。彼らは様々な所に旅をし,
西洋の名所を訪れ,西洋人がどのようにヨーロッパで暮らしているのかを見聞した。
英語を学んだ海峡華人の間には,少数派ではあったものの,イギリスの大学へ子弟を送
った者たちがいた。交易を家業とする者たちの間に見られた,若い息子を高等教育のため
に送り出す傾向は,専門職階層を生み出し,英語教育を受けたものと華語教育を受けた者
との間の差異を深める結果をひきおこした。英語教育を受けたものは自らが,華語教育を
受けた者たちよりも進歩的で裕福で文化的にも洗練されていると考えていた。
リム・ヒン・レオンは,ケンブリッジ大学で教育を受けた息子リム・チェン・イン(1889
年~1982 年)を持つため,例外のひとりといえる。リム・チェン・インは,ラ・サール学
園系の一校であるファルクハール通りの聖ザビエル・インスティテューションに進学した。
ラ・サール兄弟が 1852 年に創設した学校である。リム・チェン・インは学業に秀でており,
ケンブリッジ大学のクレア・カレッジにおいて法律を研究するために進学した。リム・チ
ェン・インは,ロンドンでもっとも印象に残った出来事を回想している。
1911 年の初頭のことだった。私はロンドンにいたが,あるイギリス人女性に幾人かの
華人学生たちとともにお茶に招かれていたため,まだケンブリッジ大学にはいっていな
かった。……女主人は一冊のアルバムを持ってきたが,そこには,それまでの来訪客が
署名していて,なかには賞賛の言葉などを書き加えているものもみられた。……署名す
る順番が回ってきたとき,私は英語で飾り書きした。女主人はそれをみて,漢字でも書
いてほしいと述べた。ここで私は途方に暮れた。というのも,かつて読み書きを学んだ
漢字すべてを,12 年間の英語教育において完全に忘れてしまっていたからである。……
私は,彼女のお茶会に呼ばれ,漢字で名前を書くことを求められたことに感謝している。
そうでなければ,中国人はみな漢字を知っているものだと考えている人々が世界には居
るのだということを認識できなかっただろう(Lim, “My Life”,Penang File 所収)。
この話は今日のマレーシア華人には奇妙な印象を与えるだろうが,英語教育がペナンの
海峡華人に与えた影響を示す事例である。リム・チェン・インが選んだ結婚相手は,異邦
人であるロザリンド・ホアリムであった。イギリスで出会ったふたりの結婚は,双方の両
親が事業や文化的な理由から結婚相手を決める当時の状況からすると珍しいものであった。
当時の卑近な例は,リム・チェン・インの長兄であるリム・チェン・テイクであろう。彼
はコウ・シアン・タットの孫娘と結婚し,ペナンの海峡華人のなかで最も裕福で影響力の
ある人物となった。リム・チェン・テイクはまた,チン・チュエイ式(chin chuey)で結婚
し,コウ家の屋敷へと移った。そのため,ロザリンド・ホアリムと結婚するというリム・
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チェン・インの決定は,戦略的な計画ではなくて,ある意味で革新的な,恋愛結婚であっ
たのだ。
五 英領ギニア人とのつながり
さらに興味深いのは,ロザリンド・ホアリムの文化的背景である。彼女の一族は,キリ
スト教を信仰している客家の小さなトレンドに乗って,中国から移民し,英領ギニアに上
陸した。将来を多少暗示していそうなことは,英領ギアナの中心都市もジョージタウンと
いう名であったことだが,この南米の町に発展した社会はまったく異なる社会であった。
ここでは,コミュニティはさらに文化的に混ざり合う機会があった。華人の継続的な移民
流出の中では客家華人は小規模でむしろ孤立していたので,同化すべき理由が他より多か
ったのである。他方で,ペナンのジョージタウンでは,華人移民数は急激に増加したため,
ハイブリッドであるプラナカン華人は自らの中国的伝統を維持すべき理由があった。
彼女の夫と同様にロザリンドは,英語教育と帝国が地球を横断して創出した文化的なつ
ながりに二人の共通点を見出した。二人は同じ作家の作品を読み,時計仕掛けのように大
英帝国全域で行われているスポーツや閲兵式になじみがあった。開拓時代から強固な行政
組織を持つ国家へむかう移行期における会館の活動や市民それぞれに求められる積極的な
参加などは,二人ともが同じような政治意識を分かち合っていたことを意味している。
リム・チェン・インがケンブリッジの法学学位のために研究していたのに対して,ロザ
リンドは開業医の資格をエディンバラ大学で取得するためにイギリスにいた。二人はロン
ドンで出会い,恋に落ち,そして第一次世界大戦のさなかに結婚を決めたのであった。二
人の最初の子供は,1915 年に生まれた娘リム・ファイク・ガン(Lim Phaik Gan)であった。
この若い夫婦はすべての面において慣行にとらわれず,
世俗的でコスモポリタンであった。
ロザリンドは,自分の一族のキリスト教徒としての背景と,女性に対する平等な機会とい
う信念から恩恵を受けていた。裕福な海峡華人の末子として生まれたリム・チェン・イン
は,慣行にとらわれない決定ができる経済的・学術的な能力を持っていた。
ペナンに帰ると,リム・チェン・インと妻はほどなくして,それまでよりも形式にとら
われる生活状況に身を置いた。第一次世界大戦は終わったが,戦前の帝国におけるコスモ
ポリタンな世界観はまだ存在していた。イギリスの植民地官僚は古い意見を持つ者から置
き換わって厳しい審査にしたがうようになり,型破りな人が行政においてなんらの有意な
立場を得ることは難しくなった。「白人」コミュニティと「非白人」コミュニティの間の
相互交渉は以前にまして頻繁になったが,
以前よりも形式にとらわれたものとなっていた。
リム・ファイク・ガンの回想によれば,名刺が「そのときに必要となった」。厳格な人種
55
差別が社交クラブや集団そして組織で強化された。いわば,社会がさらにヒエラルキー的
になったのである。
しかし,これは,みずからを「華人のなかの上流階層」と見ていた海峡華人には適して
いた。「模倣こそが追従のもっともすぐれた型である」とは,元華人保護局長官であった
ウィルフレッド・ブライスの言である。リム・チェン・インと,彼の同時代人たちは,乗
馬やポロそしてクリケットなど,イギリスのスポーツ活動に参加した。彼らは,丘の上に,
暖炉があるバンガローを建て,植民地行政に関与する階層に入っていった。
ほどなくして,リム・チェン・インは法律事務所をペナンに作り,市政評議会の評議員
となり,海峡植民地の立法評議会における非常任メンバーとして指名もされた。海峡華人
もまた,行政に対しておおっぴらに批判をするようになりえたのであった。1933 年には,
リム・チェン・インが立法評議会(the Legislative Council)で,政府が公用語以外の言語を
用いた教育に対する資金援助をためらうことへの抗議のために退場するという騒ぎを起こ
した。それにも関らず,リム・チェン・インは,ほぼ変わることなく「国王陛下の華人」
でありつづけ,コスモポリタンな考え方で知られていた。
この退場の主たる理由は,公用語以外の言語を用いた教育に対して、イギリス植民地政
府がとった政策に対する不同意からであった。おそらく,文化的なアイデンティティを保
持するために公用語以外の言語を用いた教育がどれほど重要かを理解していたからだろう。
イギリスは,スタンフォード・ラッフルズが約束したような多文化教育政策を確立するた
めに,公用語以外の言語による教育も守らねばならないのだと断固主張したのであった。
実際に,リム・チェン・インは,マレー語,華語,そしてインド諸語で学ぶことを奨励す
る学校設立に関するラッフルズの約束について言及したのであった。さらに彼は,租税は
すべての市民から,その民族性にかかわりなく集められているのであるから,公用語以外
のすべての共同体における言語を用いた教育を保証しなければ公平ではないと感じていた
のである。
これは「反対思考的(contrarian)」考え方であった。議論の転機が訪れた時に,彼と同
じ立場にあったマラッカ華人のタン・チェン・ロック(Tan Cheng Lock)は彼を見捨てた。
それにもかかわらず,彼はひとりで退場したのであった。1936 年に,このように立場を失
ったにもかかわらず,リム・チェン・イアンは海峡華人英国協会(the Straits Chinese British
Association)ペナン支部の支部長に選ばれた。彼は,立法評議会において海峡華人の利害
の特別な事例の先頭となり,また,部分的にはイギリス臣民は人種の別なく平等であるべ
きだという「マレー的」な議題を押し出すことに成功したのである。これによって彼は,
彼が尊大な人間だと感じたペナンのマレー人を怒らせた。しかし,彼は,貧民救済の無償
奉仕を続け,治安判事にもなった。爵位を授与された「人民の弁護人」は,彼の後年の姿
である。第二次世界大戦後,彼は社会活動から引退し,その長い余生は,クレアモントに
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あったペナン・ヒルの一軒家で半ば隠遁する生活を送った。しかし,子供たちが彼の意思
を継いでいったのだ。
六 子供たち
リム・チェン・インとロザリンド・ホアリムには,男子 5 人,女子 3 人,合計 8 人の子
供がいた。7 人は成人したが末子は病気で無くなった。7 人の一番上は娘のリム・ファイク・
ガン,次は息子のリム・キアン・ホック(Lim Kean Hock)であった。女の子のつぎに男の
子がうまれるパターンが繰り返された。リム・ファイク・リム(Lim Phaik Lim)のつぎが
リム・キアン・チェ(Lim Kean Chye),リム・ファイク・チェーン(Lim Phaik Cheen),
リム・キアン・シウ(Lim Kean Siew),リム・キアン・チョン(Lim Kean Chong)である。
子供たちは全員,海峡華人に典型的なハイブリッド環境で育った。リム・ファイク・ガ
ンは,プランギン通りのミルビューにあった父方の祖母の家へ馬車で行ったことを回想し
ている。そこでは、彼女は豊かなニョニャであり,ユーラシア人の親族も持っていた祖母
が行っていた儀礼や,その生活様式に触れた。祖母の甥の一人には,フランシス・ライト
船長の玄孫にあたるものもいた。今日では,このような一族のつながりは失われ,リム・
ファイク・ガンの思い出の中にのみ残っている。祖母であるプア・ヒン・レオン夫人は,
「成功への鍵」をいつも携えている,畏敬すべき女性であった。高品質のアヘンを吸い,
盛大なパーティを催し,そして亡き夫が果たしていた慈善家としての役割を代行し続けて
いた。
リム・ファイク・ガンは,他の姉妹と同様に,家庭内やライト通りの聖なる幼子イエス
修道院(the Convent of the Holy Infant Jesus)で教育を受けた。後者は,東アジアで最初の
女子向け英語学校である。家庭では,英領ギニア人の母がすべての娘たちは音楽教育を受
けねばならないと強く主張していた。リム・ファイク・ガンはピアノに才能を発揮し,特
にベートーベンの曲を愛好した。彼女の学校の宿題を手伝ったのは父親のほうで,シェイ
クスピアやその他の英語の古典を彼女に教えた。リム・ファイク・ガンは学問に優れ,兄
弟姉妹の模範となった。彼女は,当時のロンドン入学資格試験(the London Metriculation
Examinations)に合格したペナンで最初の少女たちの一人で,ケンブリッジ大学のガート
ン・カレッジに入り,学業を成就した。彼女は法学と歴史学で学位をとった。
息子たちについてみると,長男のキアン・ホックは医学を専攻し,イギリスに移民まで
した。リム・キアン・チェとリム・キアン・シウはケンブリッジ大学に進学し,法学を専
攻した。ケンブリッジ大学でリム・キアン・チェは社会主義サークルで活動し,政治的に
も左派を積極的に支持するようになった。リム・キアン・シウのほうは,第二次世界大戦
終了まで在学していたが,同様に左派の政治思想に引かれた。しかしながら彼は勉強好き
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で,英語と法学の両方で最優秀の成績を収めるという得難い成果をあげた。第8子が亡く
なった後に、実質的な末っ子として家族の誰もからかわいがられた第 7 子のリム・キアン・
チョンは,メルボルン大学で工学を専攻し,その後オーストラリア空軍に入隊して,第二
次世界大戦中はヨーロッパで軍務を勤めた。キール運河をはじめとするドイツ各地におけ
る攻撃のための飛行任務を終えた後,彼は大学に戻り学位を得た。この時期を通じて,彼
は積極的な政治活動を続ける長兄リム・キアン・チェに感服し,1946 年にシンガポールで
結成されたマレー民主主義者同盟に参加した。同組織が非合法化されたときには,リム・
キアン・チョンはリム・キアン・チェの後に続いて中国へと移ったのであった。
一方のリム・キアン・シウは,マレーシアに戻り,ペナンの労働党に参加した。そこで
彼は党の格をあげ,市議会選挙では,党を多くの勝利に導いた。非常にすぐれたウィット
と力強い演説の才能で知られたリム・キアン・シウは,恐るべき野党のリーダーだったの
である。彼は 1959 年のマレーシア議会で当選し,また,1957 年から 1964 年までは社会主
義戦線会派を率いた。彼はペナンを政治基盤とし,生涯をそこで過ごした。
息子たちがそれぞれの道を進んだのに対して,長女リム・ファイク・ガンはシンガポー
ルに活動拠点を持つ弁護士と結婚し,1930 年代のシンガポールでは数年の間,主婦として
過ごした。第二次世界大戦後,彼女は弁護士資格試験を受けるためにイギリスにもどるこ
とを決めた。この 1940 年代後半の時期に彼女は政治活動をするようになった。彼女は,独
立支持派であるマレー人フォーラムの雑誌「スアラ・ムルデカ」誌を編集した。そして,
労働党の党員にもなった。しかし,リム・ファイク・ガンがマレーシアにおいて名を成し
たのは弁護士としてであった。彼女は労働組合の主張を擁護し,公正な賃金とより良い福
利厚生のために戦ったのであった。なかでも,反マレーシア的活動で絞首刑を宣告された
13 人の無罪を勝ち取ったことがもっともよく知られている。リム・ファイク・ガンは,マ
レーシア労働党党首にならないかという提案を断った。彼女が慣れない政治領域に足を踏
み入れたのは,1964 年にセントゥルの議席を得るために戦い,連合候補に負けたときだけ
である。
1969 年に,リム・ファイク・ガンは,5 月 13 日事件の流血の後で,国民評議会(National
Consultative Council)のメンバーに指名された。異論の多かった新経済政策とルクヌガラ
(Rukunnegara,国家原則)を決めた組織である。新経済政策の主たる目的は,人種の違い
にかかわらず貧困を撲滅すること,そして,民族と特定産業とが結びついた状況を終わら
せることであった。リム・ファイク・ガンは 1971 年に,国際連合マレーシア政府代表部特
命全権大使に選ばれた。女性としては初めての栄誉であった。彼女は,かつては法曹分野
で,
そしてこのときには外交分野において,
女性への見えない障壁を打ち破ったのである。
彼女の妹2人は,比較的静かな人生を送った。リム・ファイク・チェーンは,アメリカ
に移住し,主婦になった。リム・ファイク・リムは,エディンバラ大学で医学を専攻し,
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ペナン総合病院に勤める医師となった。中国でごく短期間勤務した以外,彼女はペナンに
居続けたのであった。
結論
リム一家に関するこの記述は,英語話者である海峡華人の文化的アイデンティティが,
いかに英語教育によって形成されたのか,そして,20 世紀の大半の時期を通じてコスモポ
リタンな場であったジョージタウンに身を置いていたという幸運の上にいかに構築された
のかを提示している。それは自らを「反対思考者」,合理主義者,そして率直にもの言う
者として明示するアイデンティティである。こういった価値のすべてが,植民地の枠組み
の中ではリム・チェン・イン自身が効果的に行動できなかった政治分野へと,彼の子供た
ちを導いていった。子供たちのすべてが左派のなかでも特に 1930 年代および 1940 年代の
イギリスで一般に受け入れられていた社会主義へとひかれたことから,そのうちの二人は
マレーシア労働党を結党し,
また他の 3 人が中華人民共和国のために尽くすことになった。
本稿は,
リム家のひとびとが 3 世代を経て,
いかに単なる中流階層的な願望から抜け出し,
国民形成の過程に引き込まれていったかを描きだしたのである。
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