2010年11月20日

�����学地理学���
第 5�号
2010 年11月 20 日
目
次
2010 年学部改革と地理カリキュラム(水野惠司)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥1
平成 22 年度 教室・学会関係行事予定表 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥2
平成 22 年度 教員人事 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥4
平成 22 年度 地理学新専攻生 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥4
平成 22 年度 日曜巡検・野外実習 日程一覧 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥5
平成 22 年度 大阪教育大学地理学会・関連行事案内 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥7
平成 21 年度 優秀卒業論文要旨(中西香澄)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥9
平成 22 年度 夏季野外実習報告(舟井洋人)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥10
港今昔~ユーラシアの名港たち~(前編)(占部 太)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥14
離島の航空交通(その3)(奥野一生) ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥19
諸連絡 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥26
2010 年学部改革と地理カリキュラム
水野惠司
2010 年,
大阪教育大学は学部の教育組織の改革を行い,
地理学関係の教育も大きな変更があった。
このため,今回のカリキュラム変更についての記録を残しておく必要があると考え,この会報に記
すことにした。前回(2000 年)の改革においては,地理関係専攻生は,教員養成課程では小学校課
程人文社会系(国語専攻・社会専攻を合わせて定員 85 名)と中学校課程社会専攻(定員 10 名)に
属していたが,今回から学校教員養成課程の社会専攻小学校コースと中学校コースとなった(小中
合わせて定員 55 名)
。教養学科社会文化コース 25 名には,変化がなかった。教養基礎科目を除く
地理学関係科目の新旧の対照を,以下に示す。
教員養成でのカリキュラム変更の重点は,大学全体の改革方針と課程認定に従う中で,1)地理
学の普及,2)専門科目のスリム化,にあった。1)については,本学入学者の高校での地理履修経
験が 2,3 割程度であること,社会科入学者中の大学入試センター試験科目での地理A,Bの選択が
さらに少ないという現況があり,さらに社会科の中の地理学専攻生の減少傾向への対応である。2)
については,1)への対応と,さらに大学の教員数削減方針に対応するものである。3 ページの新旧
対照表のように,今回は1回生への科目配当数を厚くしている。旧の「地理学基礎論 I」と「地理
-1-
平成 22 年度 教室・学会関係行事予定表(含関連行事)
前期
4
7(水)
月 8(木)
後期
入学式
10
1(金)
後期授業開始
学部オリエンテーション
月
2(土)~4(月)
日本地理学会秋季大会
9(金)
前期授業開始
(名古屋大)
10(土)
大教大地理学会共催・人文
17(日)
第 4 回巡検(堺市内)
20(土)~22(月)
人文地理学会大会
地理学会地理思想部会
5
13(火)
地理新専攻生歓迎会
14(金)~15(土)
第 1 回巡検(橿原・明日香)
5(土)
月 13(日)
7
22(木)
月 24(土)
8
(奈良教育大)
月
月
6
11
17(火)~20(金)
月 19(木)~22(日)
第 2 回巡検(河内堅上)
12
教員懇親会
月
21(日)
第 5 回巡検(大阪市内)
12(日)
大阪教育大学地理学会
(卒論中間報告会)
25(土)
冬期休暇開始
前期授業終了
1
7(金)
授業再開
第 3 回巡検(京都市内)
月
15(土)
第 6 回巡検(長瀬川)
27(木)
後期授業終了
29(土)
大学院入試
6(日)
卒論修論発表会・送別会
夏季野外実習(高野山)
2
第二部野外調査実習
月
(郡上八幡)
9
11(土)
月 30(木)
大学院入試
3
23(水)
卒業・修了式
卒業・修了式
月
29(火)~31(木)
日本地理学会春季大会
(明治大)
(9 月卒業・修了者)
-2-
学基礎論 II」を,
「人文地理学の基礎」と「自然地理学の基礎」に名称と学年を変更した。
「社会」
は,社会科専攻以外の学生の選択必修科目である。旧来社会科では,これを各学問分野が別々に開
講していたものを,今回は,小学校の教科内容を考慮して,地理学,歴史学,公民の教員がそれぞ
れ,2 分の 1,4 分の 1,4 分の 1 の分担開講とすることとした。これにより,全学の小学校コース
学生が少なくとも半コマ分の地理学に接する機会ができることになる。一方,旧にあった専門科目
である「地理学概論 I」と「地理学概論Ⅱ」は,
「地理学概論」に一本化された。前後半で自然地理
と人文地理の教員が交替する形で,授業を予定している。
「地理学史及び研究法」
,
「歴史地理学」
,
「集落地理学」は,今回は「人文地理学特講」に,
「自然地理学 I」と「自然地理学 II」は「自然地
理学特講」にそれぞれまとめられた。
「自然地理学実験 I」と「自然地理学実験Ⅱ」は廃された。
「社
会」を除く専攻科目数は 18 から 12 に減少し,地理学の専門性低下は明らかである。内容の充実と
評価基準の厳正化を図るなどにより,不足を補っていく必要があろう。
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学
年
2000~2009 年入学者
教員養成課程
小学校課程
1
2
2010 年入学者
社会文化
中学校課程
教員養成課程
小・中コース
社会 I(3 クラス)
地誌概論
社会(0.5×8 クラス)
地域と環境
地域と環境
地域と環境
地誌概論
社会文化
基礎セミナー
地誌概論
地誌概論
人文地理学の基礎
人文地理学の基礎
自然地理学の基礎
自然地理学の基礎
地理学概論
地理学概論
地理学概論 I,II
環境文化動態論Ⅰ,Ⅱ
地理学基礎論 I,II
比較地域論Ⅰ
人文地理学研究Ⅰ
地理学史及び研究法
地域環境論
自然地理学研究Ⅰ
歴史地理学
集落地理学
3
地理学概論 I,II
地理学実習 I,II
地理学実習 I,II
地理学実習 I,II
地理学野外実習
地域環境科学実験Ⅰ,Ⅱ
地域環境科学野外実習
地理学実習 I,II
地理学野外実習
地理学野外実習
地理学野外実習
自然地理学 I,II
地域類型論
人文地理学特講
人文地理学特講
自然地理学実験 I,II
地域環境科学研究Ⅰ,Ⅱ
自然地理学特講
人文地理学研究Ⅱ
自然地理学研究Ⅱ
4
地理学演習 I,II
地理学演習 I,II
地域環境科学演習Ⅰ,Ⅱ
地域環境科学研究Ⅲ,Ⅳ
地理学演習 I,II
地理学演習Ⅰ,Ⅱ
人文地理学研究Ⅲ
自然地理学研究Ⅲ
-3-
教養学科(社会文化コース)においても同時期にカリキュラム改正を行い,2010 年入学生から適
用されている(表参照)
。主な変更点は次の三つである。1)同時開講科目の解消:全学で同時開講
の解消が図られたため,内容および目的を同じくする科目は,教員養成課程と教養学科で同一名称
の科目として相互履修することとした。これに伴い,
「環境」
,
「地域」
,
「文化」といった語が科目名
から消失した。2)専攻科目の開講学年引き下げ:これは,従来1回生において集中的に履修して
いた教養基礎科目を 1~4 の学年に亘って履修することに伴う変化で,専門教育科目を 1 回生,2
回生から履修出来るように変更したものである。3)労働安全基準の適用のため,
「実験」科目は成
立が難しくなり「実習」科目化した。この他に,教養学科のみに関わる変更として,
「基礎セミナー」
が必修科目として新たに開講されることとなった。これは,入学生の基礎学力不足対策で,1回生
の前期において論文(文献)の読み方,文献資料検索法,レポート作成法等を経験させる目的で開
講されている。併せて批判的文章読解力,プレゼンテーション力,コミュニケーション力の養成を
目指している。
平成 22 年度 教員人事
平成 22 年度の非常勤の先生方は,次の通りです。
井寄芳春(附属平野中):中等社会科教育法Ⅰ,社会科教育研究Ⅱ
関口靖之:地域と環境, 地理学基礎論 I・環境文化動態論Ⅰ
波江彰彦(大阪大学):暮らしの環境と地図,地理学史および研究法・地域類型論
本岡拓哉(日本学術振興会特別研究員・立命館大学):地誌概論・地域環境論
平成 22 年度 地理学新専攻生
本年度は,下記の諸君を新たに地理学教室に迎えました。
◇大学院修士課程(社会科教育専攻地理学コース) 2 名
黒田 翔(追手門学院大出身)
,山内章弘(大阪教育大出身)
◇学部(小学校課程人文社会専攻・中学校課程社会専攻 3 回生)12 名
井上彰信,上田和佳,遠藤充建,大浦 遥,小田悠子,勝田研介,河原仁志,田中千恵,
中西俊輔,堀田多恵,矢野啓太,中本朝海(4 回生)
◇学部(教養学科社会文化コース 4 回生)2 名
岩崎綾香,高田知世
◇学部(第二部小学校教員養成課程 5 回生)3 名
石丸さゆり,中森慎一,橋本 晋
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平成 22 年度 日曜巡検・野外実習
第1回巡検 橿原・明日香方面 + 在学生セミナー(教員養成課程のみ)
[期
日]
平成 22 年 5 月 14 日(金)~5 月 15 日(土)
[集合場所] 近鉄大阪線 大和八木駅改札口
[集合時刻] 午前 10 時
[主
題] 橿原・飛鳥地域の街並みとその変容
[経
路] 5/14:大和八木駅→今井町→耳成山公園(昼食)→飛鳥寺→飛鳥寺研修会館
5/15:飛鳥寺研修会館→飛鳥資料館→石川池→橿原神宮前駅
[指
導] 山田周二
[地
図] 2 万 5 千分の 1「桜井」「畝傍山」
[そ の 他] 地理学実習 I で作成した地図,筆記用具,雨具,野帳,宿泊に必要な身の回りのもの
第 2 回巡検 河内堅上方面
[期
日] 平成 22 年 6 月 5 日(土)
[集合場所] 近鉄大阪線 恩智駅改札前
[集合時刻] 午前 10 時
[主
題] 土石流と地滑り地形,ハザードマップ読図
[経
路] 恩智駅→JR 河内堅上駅→亀の背地すべり地→JR 河内堅上駅(解散)
[指
導] 水野惠司
[地
図] 2 万 5 千分の1「大和高田」
[その他] 最少催行人員 2 名,小雨決行
第 3 回巡検 京都市内方面
[期
日]
平成 22 年7月 24 日(土)
[集合場所] 京都市役所前広場(地下鉄 京都市役所前駅すぐ)
[集合時刻] 午前 10 時 30 分
[主
題] 京都都心部の現況と祇園祭
[経
路] 京都市役所前(祇園祭花傘巡行)→寺町通→八坂神社→山鉾町(都心部の土地利用調査)
→京都市学校歴史博物館→阪急河原町駅
[指
導] 山近博義
[地
図] 1 万分の 1「京都御所」「東山」
※オプション…18 時頃~祇園祭還幸祭
[そ の 他] ①雨天決行(多少コ-スを変更), ②昼食時は一時解散,③筆記用具など持参,
④入館料など 500 円程度
-5-
第 4 回巡検 堺市内方面
[期
日] 平成 22 年 10 月 17 日(日)
[集合場所] JR 阪和線 三国ヶ丘駅改札口(北口)
[集合時刻] 午前 10 時
[主
題] 熊野街道を歩く
[経
路] 三国ヶ丘駅→仁徳天皇陵(大仙公園)→南宗寺→浜寺船尾町→大鳥大社→
鳳商店街(北王子)→上集落→日部神社→JR 鳳駅(解散)
[指
導] 辻本英和
[地
図] 2 万 5 千分の1「堺」,1 万分の1「堺」「鳳」
[そ の 他] 昼食時一時解散,小雨決行, 歩きやすい服装と靴で参加
第 5 回巡検 大阪市内方面
[期
日] 平成 22 年 11 月 21 日(日)
[集合場所] 四天王寺西門(地下鉄 四天王寺前夕陽ヶ丘駅から徒歩約 5 分)
[集合時刻] 午前 10 時
[主
題] 上町台地横断と桃谷商店街
[経
路] 四天王寺→下寺町→口縄坂→JR桃谷駅(一時解散・昼食)→桃谷商店街→
御幸森商店街―鶴橋駅(解散)
[指
導] 正木久仁
[地
図] 1万分の1「天王寺」
[そ の 他] 小雨決行
第 6 回巡検 長瀬川方面
[期
日] 平成 23 年1月 15 日(土)
[集合場所] 近鉄大阪線 堅下駅改札口
[集合時刻] 午前 10 時
[主
題] 旧大和川跡を歩く
[経
路] 堅下駅→二股→渋川神社→久宝寺・八尾(昼食解散)→波許曾神社→西堤神社→
川俣神社→阿遅速雄神社→JR 放出駅
[指
導] 関口靖之
[地
図] 2 万 5 千分の1「大阪東北部」「大阪東南部」
[そ の 他] 歩きやすい服装,コース変更の可能性あり
-6-
地理学野外実習・地域環境科学野外実習
高野山方面
[期
日] 平成 22 年 8 月 17 日(火)~8 月 20 日(金)
[主
題] 宗教都市・高野山の地域調査
[経
路] 8/17 高野山駅⇒女人堂→巴陵院(宿泊先)→金剛峯寺・壇上伽藍・大門など
8/18 午前:観光客発地調査,午後:商業的土地利用調査
8/19 午前:宗教的石造物調査,午後:奥ノ院見学
8/20 午前:九度山町の段丘地形と真田庵見学
[宿
泊] 巴陵院(民営国民宿舎・宿坊)
[指
導] 水野惠司・今里悟之
[地
図] 2 万 5 千分の 1「高野山」「橋本」
第二部地理学野外調査実習 郡上八幡方面
[期
日] 平成 22 年 8 月 19 日(木)~22 日(日)
[主
題] 地方都市の町づくり,産業と地域社会
[経
路] 岐阜県岐阜市・郡上市
[指
導] 正木久仁
人文地理学会 第 100 回 地理思想研究部会
共 催: 大阪教育大学地理学会
日時: 平成 22 年 4 月 10 日(土) 午後 2 時~5 時
会場: 大阪教育大学 天王寺キャンパス 中央館 213 教室
研究発表: 木岡伸夫(関西大学・哲学)「〈問い〉としての地理哲学―風土学の定礎に向けて」
趣旨: 地理哲学の実体のみならず,「地理哲学とは何か」を問わねばならぬ状況そのものを問う。地理
学と哲学の接近と乖離,融合と離反の歴史を通覧し,「地理哲学」の代表的な営み,特に,ほぼ唯一の
地理哲学的モデルと見られるベルクのメゾロジー(風土学)を,批判的に検討する。
※当日の発表内容の詳細は,『人文地理』62 巻 3 号(2010 年)の 90 頁に掲載されています。
-7-
平成 22 年度 大阪教育大学地理学会
下記の通り,本年度の大会・総会が開催されます。会員の皆様方のご参加をお待ちしております。
当日は日曜日ですので,正門の方からお入り下さい。お車でのご来場はご遠慮下さい。
日
時: 平成 22 年 12 月 12 日(日) 午前 10 時より
場
所: 大阪教育大学 天王寺キャンパス 中央館 214 教室
3 回生野外実習報告
4 回生卒業論文中間報告
岩崎綾香
大阪府立青少年海洋センターにおけるサービス・クオリティの評価に関する研究
高田知世
大阪湾内におけるマリーナの立地と登録利用者の居住地
松川紘久
地域と神社
石丸さゆり
里山学習の現状と課題
修士論文中間報告
浅場 敦
神戸市の公共交通ネットワーク分析
高橋雅志
神戸のケミカルシューズ産地におけるエスニシティ
舟井洋人
大阪府のブドウ栽培の特徴
松下博武
中学校社会科地理的分野における身近な地域調査の教材開発
講演
松本博之 (奈良女子大学名誉教授・元大阪教育大学教授) オーストラリア・トレス海峡諸島の人と自然
題目未定
総会および懇親会
平成 22 年度 卒業論文・修士論文発表会
日 時: 平成 23 年 2 月 6 日(日) 午前 10 時より
場 所: 大阪教育大学 天王寺キャンパス 中央館 315 教室
4 回生卒業論文発表
中本朝海
大阪府と学校の地域特性
豊田修司
国内航空交通について
修士論文発表
植村亮太
奈良県の住宅団地について
松原史哲
神戸第一学区における学力の地域格差について
森田淳一朗 小値賀島におけるツーリズム
懇親会(卒業生送別会)
※参加ご希望の方は,当日会場受付でお申し込み下さい。
-8-
平成 21 年度 優秀卒業論文要旨
「文学作品を通してみた長崎のイメージ」
中西香澄(教養学科社会文化コース)
長崎は古代から朝鮮半島・中国大陸を結ぶ交通路となっていた。また,江戸時代には国際貿易港
を開くなど,古くから異国との交流が盛んであった。異国情緒の漂う街並みは観光地として人気が
あり,全国各地から多くの人が訪れる都市である。日本だけでなく海外からの観光客も多い。本稿
では長崎県を事例として取り上げ,長崎という場所に対するイメージとはどのようなものであるか
を明らかにした。
方法として,まず長崎を舞台にした 4 つの文学作品(遠藤周作『沈黙』
,なかにし礼『長崎ぶらぶ
ら節』
,林 京子『ギヤマン ビードロ』
,さだまさし『解夏』
)をもとに,作者が長崎に何を求めて
いたかを明らかにした。作品に登場する長崎にまつわる名詞を網羅的に取り上げ,イメージ要素に
分類したところ,地形・地名・建物名などの「場所」に関する名詞が多く登場することが分かった
(下表中の「①地物」や「②地点」
)
。
続いて,作品に登場する旧長崎市街中心部の場所イメージを,作品の場面の雰囲気や登場人物の
心情を通して解釈した。作品ごとの場所イメージを地図上に示すことで,ひとつの場所に対する場
所イメージは決まったものではなく,作品ごとに異なっていることが分かった。また,登場してい
る場所は,町名や通り名などその土地に住む人々がよく知るような場所が多かった。反対に,長崎
と聞いて一般にイメージされる「観光名所」や「原爆」などに関係する場所の登場は,それほど多
くなかった。このことから,本稿で扱った 4 作品に描かれている場所イメージは,
「観光地・被爆都
市としての長崎」というよりは「生活の場としての長崎」であったといえる。
沈黙
割合(%)
22
4.0%
80
14.5%
416
75.4%
14
2.5%
1
0.2%
10
1.8%
9
1.6%
0
0.0%
0
0.0%
0
0.0%
552
100.0%
実数
①地物
②地点
③西洋の宗教
④東洋の宗教
⑤伝統行事
⑥歌・俳句
⑦舶来品
⑧食事
⑨軍事
⑩原爆
計
長崎ぶらぶら節
ギヤマン ビードロ
実数
割合(%)
実数
割合(%)
55
17.9%
42
12.4%
119
38.6%
92
27.1%
46
14.9%
15
4.4%
(別紙の表を直接貼付)
9
2.9%
7
2.1%
14
4.5%
0
0.0%
18
5.8%
1
0.3%
21
6.8%
20
5.9%
7
2.3%
1
0.3%
19
6.2%
28
8.2%
0
0.0%
134
39.4%
308
100.0%
340
100.0%
-9-
解夏
割合(%)
42
25.5%
69
41.8%
4
2.4%
42
25.5%
2
1.2%
2
1.2%
2
1.2%
2
1.2%
0
0.0%
0
0.0%
165
100.0%
実数
平成 22 年度 地理学野外実習報告
舟井洋人(修士課程社会科教育専攻)
〔活動日時〕平成 22 年 8 月 17 日(火)~20 日(金)
〔調査地域〕和歌山県高野町(紀伊山地と霊場,金剛峰寺周辺)
〔調査内容〕当地域の観光・商業・宗教的造営物の立地と特徴を,地理学的視点から考察する
᦬ ᣣ㧔ೋᣣ㧕
午前 10 時 50 分,教員養成課程 3 回生 10 名,同 4 回生1名,教養学科 3 回生 7 名,院生1名,
教員 2 名の総勢 21 名が,南海電鉄高野山ケーブル線高野山駅に集合したところから,今回の実地調
査は始まった。一行は南海りんかんバスに乗り換え,女人堂へと向かった。
は りょう い ん
女人堂に着いた一行は,そこから徒歩で調査期間中お世話になる宿坊『巴 陵 院』へと向かった。
巴陵院は,高野山の宿坊の中で最も北西部に位置する宿坊である。そのため,中心街からは少し離
れており,とても落ち着いた荘厳な雰囲気の宿坊であった。
宿坊に荷物を預けた一行は軽装備に変え,一路高野山中心街へと向かい,各自思い思いの昼食を
とった。午後 1 時に金剛峰寺前で再集合した一行は,
『金剛峰寺』を参拝することにした。
金剛峰寺の本堂内を散策していると,他の寺院の中では見ることのできない案内標識を見つけた。
そこには英語で「Cafe Room」と書いてあった。日本語では「順路」としか表記していなかったので,
最初は茶室でもあるのかと思っていたが,その予想はものの見事に外れてしまった。確かに Cafe
Room を日本語訳にすると喫茶店であり,茶室にはならない。その訳のとおり,お堂の一部屋でお茶
とお茶菓子が配られていたのであった。その部屋ではお茶をよばれながら僧侶の説法を頂くことが
でき,学生たちはみな,真剣に耳を傾けていた。女性の僧侶に説法をしていただいたおかげで,と
ても分かりやすい優しい話し方で真言宗の教えが学べたと思った。その後もみな真剣に真言宗につ
いての質問をしており,その内容は中々のものだったと思う。
だ ん じょう が ら ん
こんぽんだいとう
午後 2 時,一行は『壇上伽藍』へと次の進路をとった。壇上伽藍は根本大塔を中心に東西に塔を
建て,御社も配置された神仏融合の寺社である。その一つ一つの建物はとても大きく,その存在感
こんぽんだいとう
だけでも圧倒されそうである。そして根本大塔の中には,高さ約 50mの大日如来像が祀られていた。
他にも境内には六角(荒川)経蔵があり,人の腰の位置に大きな歯車がついてあった。今日では普
段回されている様子もないものだったが,水野教授の発案で回してみようということとなり,学生
ら 10 数名係りで祈りを込め回してみた。
これがなかなか重く,
やっとのことで回すことができたが,
少人数の旅行者では不可能だったかもしれない。
壇上伽藍を後にした一行が次に向かったのは『大門』である。今でこそ道路や鉄道が整備され,
高野山へと向かう道は多々存在するが,昔はこの大門をくぐらないと参拝することができなかった
- 10 -
のだ。この高野山の大門は,奈良の東大寺の南大門に匹敵するくらいの高さがあり,みな一様に見
上げていた。しかしこの大門が使われていた当時,高野山は女人禁制の聖域であったため,女性は
この大門を潜って入山することができなかった。
そのため大門横から弁天岳に伸びる山道をつくり,
女人堂へと参っていたのだ。我々もその当時の人の痕跡をたどるべく,弁天岳へと向かった。
弁天岳は標高 984m で,大門との高低差はおおよそ 100m 前後である。大阪教育大学の柏原キャン
パスのふもとの駅から頂上の校舎までの高低差と,あまり変わらないということで,最初はみな軽
い気持ちで登っていたが,やはり舗装整備のされていない山道を登ることは容易ではなかった。み
な息を切らせ汗を垂らしながら,弁天岳へと登りきった。地理学を専攻している者として,三角点
はしっかりと探索。そして女人堂までの下り坂を一気に駆け降りた。
宿坊に着くと一斉に風呂に入り,一日の汗を流すと,待ちに待った夕食時である。予想外のハイ
キングも付き,みな空腹の極みだった。夕食は精進料理であった。内容はご飯,麩の澄し汁,黒豆
の煮付け,胡麻豆腐,湯豆腐,香物,そして水菓子。みな米の一粒一粒をしっかりと噛み締め,夕
食をとった。食後,翌日の本調査に向けてのミーティングを行い,みな早々(?)に睡眠を取った。
᦬ ᣣ㧔 ᣣ⋡㧕
宿坊の朝は早い。朝の 6 時に起床の鐘が鳴らされ,宿坊中に響き渡った。みな眠い目をこすりな
がらも朝の勤行に参加する。ご住職の経文はとても心地よく,朝に弱い現代っ子には睡眠へと誘う
魔法の呪文のようにも聞こえてしまう。しかしみな眠気と戦いながらも,朝の勤行になんとか耐え
切っていた。勤行の後,朝食をとり 9 時から調査を開始した。
2 日目からの調査が,今回の実習の目的である。学生 18 名が 3 チームに分かれ,それぞれ「宗教
的石造物」
「商業的土地利用」
「高野山へ来ている車(乗用車,バス,バイク)
」を 2 日目の午前と午
後,3 日目の午前の 3 回に亘って,大門から奥之院までの範囲を 3 箇所に分けて調査することとな
っている。宿坊を出発した一行は,金剛峰寺の前で簡単なミーティングをし,各々与えられた調査
内容を調べるために分かれ,行動を開始した。
私が同行したチームの午前の調査内容は「高野山へ来ている車」だったので,まず金剛峰寺前に
ある無料駐車場に停めている車のナンバープレートから,高野山へ車で来ている人の在住地はどこ
かを調べることにした。朝も早い時間であったため,停まっている車も駐車場全体の 7 割くらいし
かなく,調査は 30 分ほどですぐに終了した。和歌山ナンバーの観光バスが 1 台停まっていたので,
乗車している人たちは和歌山県民なのか,それとも和歌山以外の人なのかが知りたくなったので,
バスガイドさんに質問してみた。その結果,このバスが乗せてきた人たちは,ほとんどが東京都か
ら来た人であるということがわかった。
その後,奥之院前にある無料駐車場へと調査地を変え,同様にナンバープレートを調べた。奥之
院前の無料駐車場には観光バスはなく,駐車している車のほとんどは自家用車で数台バイクが駐車
されているだけであった。また商業車も数台停まっており,和歌山ナンバーの車だったため,奥之
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院前にある店に来ている車ではないかと予想した。
調査が順調に進んだおかげで,集合予定時間の 1 時間前には終わり,一行は小休止を取った後,
集合場所の金剛峰寺前まで戻っていった。
各自昼食を取った後,午後 1 時に金剛峰寺前に再集合し,午後の調査を開始した。昼からの調査
は「宗教的石造物」の立地とその分類である。実はこれが一番厄介な調査ではないかと,私は思っ
ていた。なぜなら宗教的石造物となると高野山にはごまんとある。各寺社仏閣内には少なくても数
点,多いところでは数十点は存在するだろう。それをひとつずつ調べるとなると時間はいくらあっ
ても足りないだろう。予想通り,午前に宗教的石造物を調べたチームからの報告で,寺社仏閣内ま
では調べ切れないから,通りに存在するものだけでということになった。そうすると,主に観光客
相手の商業地域になっているので,通り沿いにはあまり見当たらない。あるのは主に石燈篭や寺社
仏閣を案内する石碑くらいで,初めにいくつか調べると同じパターンのものばかりなので,すぐに
表通りを調べ終えてしまった。裏通りに入るとさらに出現頻度が下がり,さくさくと調査は終えた
ように思えた。
だが,巴陵院に戻る途中の道も調査範囲に入っており,ここが曲者だった。2~3mおきに石燈篭
が存在した。多いところでは,5mほどの間に 17 もの石燈篭が存在したポイントがあった。それら
は同一年に造られたもので,いったいその年に何があったのか,その時の我々には調べる術がなか
ったので,謎が残る形で午後の調査は終了した。
調査 2 日目は,一日好天に恵まれたおかげで雨に濡れることなく,みな真っ黒に焼け無事に調査
を終えることとなった。みな疲れた体を風呂で癒し,夕食の時間となった。今日の夕食もまた精進
料理・・・精進料理・・・精進料理ではないぞ。肉がある,それも油物である。みんなの頭の中の
思いを口に出すと「あれ?肉?」だ。宿坊のご配慮によって,私たちは 2 日ぶりの肉にありつけた
のであった。いや多分,多くの者は肉が恋しくて,昼食時に何らかの肉っ気のある物を食していた
に違いない。かく言う私も昼食にハンバーグを食べていた。現代っ子に修行の道はつらすぎるので
ある。昨晩の精進料理も良かったが,やはりみな肉が良かったようで,黙々ではなく和気あいあい
と食事を取った。食後,今日の報告会を行い,みな早々に睡眠を取った。
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今日も朝の 6 時に起床の鐘が鳴らされ,宿坊中に響き渡っていた。みな眠い目をこすりながらも
朝の勤行に参列する。2 回目になると,みな経文も慣れてきたのだろう。一様に頭をたれながら静
かに聴き入っている。うむ,寝ているのではない,静かに聴いているのだろう。勤行の後,ゆっく
りと朝食をとり,9 時から第 3 回の実地調査を開始した。
今日の調査は,商業地域の端から奥之院までである。多分,今回の調査ポイントの中でここが,
一番範囲が広い。よって,時間内に一番奥まで調査し,戻ってこないといけないのである。ちなみ
に,奥之院から集合場所の広場までは歩いて約 40 分はかかる。往復で 80 分。端道まで調べて回っ
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ていては,調査にあてられる 3 時間の半分は移動で取られてしまう。それでは,しっかりとした調
査ができないのではないか。よって,私が同行していたチームは,大通り沿いの店を調べる者と端
道を調べる者とに別れ,分担作業をすることにした。
私は,大通り沿いの店を調べる側についていった。大通り沿いはやはり店がとても多く,最初か
らだいぶ時間がかかってしまったが,その分,店の人からとても色々な情報を得ることができた。
この地域に存在している商店は,観光客相手のものよりも,高野山内に住む人を相手にした商店が
多い。寺社仏閣に花を卸している花屋,薬局,美容院,土木建築業,町の食堂などがあった。中に
は,店の表にあるものはすべて英語表記にして,外国人を主なターゲットに商売をしているのだろ
うと思われる喫茶店もあったのが,面白く思えた。1 時間半ほど調査したところで端道を調べてい
た者たちが戻って来たので,一同小休止。端道の方はほぼ全て,高野山内に住む人を相手にした商
店だったようだ。時間もほとんど無くなってきたので,帰りの時間を考慮した結果,奥之院までは
行かず,手前の参道入り口のところまで調査することにした。参道入り口は観光客が多いため,観
光客を相手にした土産物屋や食事処が多かった。この地域では,主な観光名所以外の場所で出店し
ている店のほとんどが,高野山内に住んでいる人向けのお店で,例外として,表通りでも,広い駐
車スペースを有している観光客相手の土産物屋が存在しているということである。
午後は奥之院まで観察である。奥之院までの参道には墓石が多々ある。偉人の墓が多数存在し,
それらが高野山の歴史を物語っているとも言えよう。そして学生たちはみな偉人たちの墓を興味深
く見ながら道を行くのであった。奥之院に着くと自由行動となった。庵の中を見て回る者や墓石を
見て回る者と,みな思い思いに午後の時間を満喫していた。
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長く思えた高野山での野外調査も,今日で最後である。3 日目の起床の鐘の音にも慣れ,6 時起き
の生活にも体が慣れてきたところで,高野山での生活ともさよならである。やっと下界の現世の生
活に戻れるという喜びと,ここから離れてしまう寂しさが交わったアンニュイな朝がやってきた。
昨晩,ミーティングが行われた後に,学生の提案でささやかな親睦会が行われ,みな遅くまで起き
て話し込んでいたのだろう,朝早くから起きている者はいなかった。勤行が行われる時間ぎりぎり
までみな寝ていたようで,眠そうな顔をしている者も中には居た。
朝食を済ませ,宿坊を発ち,最後の見学地九度山へと向かう。そこでは,河成段丘と柿畑の景観
観察を1時間ほど行った。しかし,涼やかな山上から九度山の暑さへの環境変化は,まさに天国と
地獄であった。再び今年の酷暑を思い知らされた。みな疲れた面持ちだったが,とても充実した 3
泊 4 日の野外調査だったと思えた。
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港今昔~ユーラシアの名港たち~(前編)
占部 太
今、ここに“ユーラシアの名港たち”と副題して、ロンドン、ハンブルク、ホンコン、シンガポ
ール、そして神戸を概観してみようと思う。そもそも近代的港湾は、18 世紀の産業革命期以降、運
河時代に始まり鉄路の充実と併せて、交通の中心的機能を具備して来た。もとより港湾都市として、
ヴェネツィア、コンスタンチノープル、ニューヨーク、サンフランシスコ、バンクーバー、ヒュー
ストン、ロッテルダム、ムンバイ、リオデジャネイロ、ケープタウン、メルボルンなどマドロス達
の思い出のトポスとして語られる地は、世界各所に幾多とある。
私は、神戸に暮らし、地理的知見に於いて当地の市民に遠く及ばない事は充々承知している。し
かしだからこそ、よそ者が見る新鮮さ珍しさ、と言った探検家的興味の視座が現れるかと期待する。
港湾が街として近代的に整うのは大航海時代以降の事である。そしてアジアに於いては、イギリス
帝国主義の影響を大きく受けている。植民地として、宗主国に支配されつつ、又、各種交流の実験
場的側面を持ちつつしたたかに暮らす、港の民々の姿を活写できれば、この上ない喜びである。
(1)ロンドン港
ロンドン港は、カエサルのガリア征服によって、ローマ帝国の範囲となった。その由来が、テム
と しん
ズの渡津集落である点はハンブルクとの共通点である。構造平野を流れるテムズが、ケスタ稜をう
がって、流路を南下しつつ干満著しいエスチュアリーを形成し、そこにロンドン港は位置する。ス
コットランドには氷痕が多く残る。例えばそれはグラスゴーとエジンバラを結ぶ地溝と湖であり、
又、カレドニア地峡付近のフィヨルドである。ブリテン島には様々な方向の斜曲軸が知られるが、
ロンドンケスタはほぼ東西方向の向斜であると、ごく大ざっぱに言えるだろう。街としての発祥は、
北岸のシティーであり、権威の中心としてセントポール寺院の果たすトポスの意義は大きいだろう。
言うまでもなく、ロンドン港は、通商の場としてイギリス第一の港湾である。テムズの曲降部に
あるミルウォールドック等、数多くのドックが、特定の商人達の独占的使用によって、行先別、あ
るいは荷種別に、19 世紀に建造されたが、それはテムズの潮汐を回避する目的があった。日本人に
は馴じみにくい、ケスタとしての構造平野の性質を、ここロンドンが持つことは、郊外に滞在する
だけでもよく判る。気候の当然ながら水田と言うものが分布せず、そこには波うつ大地に牧草地が
広がっているのである。ここにエンクロージャーを為した郷紳層が、立憲主義を求めて覇を競った
時代を想うのは、果たして単なる時代がかった郷愁であろうか。
ロンドンの街路が、鉄道と共に発達することは誠にイギリス的である。私的な会社経営の本場と
して、元来から鉄路の競合があったので、市街には、統一的な交通網としての地下鉄の登場が待た
れたのである。この商いの覇、ロンドンに東インド会社という株式会社の発祥を得たからこそ、そ
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してそれが時代とともに独占権を削減しても尚、スチュワート朝エリザベス時代に、ここロンドン
は、世界の経済中心としてのパックスブリタニカを謳歌出来たのだ。本来ならば、東インド会社史
を詳論すべきであるが、今私には力量不足である。ただ、それが株式会社の祖である、と記すにと
どめておく。要するに、近代のロンドンは、ロンドン港の貿易を糧にしつつ、ロイズを初めとして、
資本主義の実験場としての意義を果たし続けているのである。
(2)ハンブルク港
ハンブルク港は、北ドイツ平原ユトランド半島の基部に位置し、そこをエルベが貫流する。近代
的にはベルリンの外港の役割を果たしたが、そもそもは、リューベックを盟主とするハンザ同盟都
市の一員であったことが重要である。北ドイツ平原は、当然ながら氷跡を多く残し、エルベはそこ
に、エンドモレーンが大まかに南限を画す。そこが氷食地形であることは、デンマーク、そしてス
ウェーデンを旅して、森と湿地と湖が、ただただ、一面に広がることからも明らかである。読図か
ら読みとれる特徴は、アルスター湖が、モレーンに画された氷跡湖であろうと言う事である。詳し
くは削られた傷の向き等から確認され得る。ハンブルク港の築港は、その微高地へ向けて網状流を
形成している点が重要である。つまり、太田川式のデルタ状三角州が、河川中に形成されているの
である。その洲を利用して、19 世紀のビスマルク時代から櫛形の小頭が築かれて来たのである。
さて、今、ハンブルクが、ハンザの一員であると言う事は、本邦の徳川期二十四組問屋、十組問
屋のごとく、17 世紀に於いて、商人としての同業者がバルト海、北海にて、自治都市たるゲルマン
的組合同盟を結んでいた事を意味する。ギルドハンザである。その意味でドイツは諸侯の治める分
権的な連邦を形成する性格を持ち、国民国家として成長したイギリスとは好対照を為すのである。
ドイツという国は、地方性が豊かであり、山地でありながら西岸海洋性気候の中での潤わしき
「Wald」
(森)を各所に持つ。そして、ボーデン湖に発し、移牧の地アルプスの雪融けを以って源
とするラインの刻む Rhine Graben こそが本来の通商の軸であろう。中世のドイツ─イタリア軸と
いう南北軸の動脈として、ラインに勝る場はない。ライン地溝の成因は、正断層─地塁関係であろ
うが、鎌層の資料に欠き、ここでは実証できない。しかしその地が豊かな農地であり、交通路であ
り続けている事は確かである。であるからこそ、中世金融資本フッガー家が、アウグスブルクに居
商し得たのである。
い にょう
ドイツ各地には、カールスルーエ、ストラスブール等に顕著な様に、城壁による囲 繞都市が多く
見られる。中世後期、ルネサンスへの流れのもとに、市場を伴いつつ自由民として自立し得る市民
の活躍の場が、ここにも表れているのである。この事は、
「都市の空気は自由にする。
」と、希望を
持って言われるのだ。そして又、都市が、三圃制によって生産力を高めた農村と関わりつつ、キヴ
ィタスとしての役割を果たすトポスであった事を、物語っている。街道と市の存在は、ドイツ諸都
市の自治をよく表象しているのである。つまり、ハンブルクは、この様なドイツ的な諸都市の連繋
としての代表格、ハンザ同盟の中から、近代的港湾都市として成長して行くのであった。
- 15 -
(3)ホンコン港
ホンコンの地の清朝以前については、私はそれを語れない。だが、イギリス東インド会社が、マ
ドラス、ボンベイ、カルカッタというインドに於ける拠点から、植民地支配の触手を東へ伸ばし、
barter 相手方としてインド産アヘンの搬入先に中国の場を求めた事は、香港に於ける劇的重大事で
あると言える。今仮に、1840 年前後から香港を説き始めるとすると、アヘン戦争はやはり画期であ
る。イギリスにとっては、清国からの茶の輸入増加により、多国間決済システムが崩れ始めていた。
さ ん き きゅう こ う と う
銀の流出、即ち入超である。マカートニーが、三跪九叩頭の礼を拒絶し貿易交渉は決裂するも、ア
ヘン密売にマディソン商会が暗躍するのである。ついにイギリスは、清に通商を迫り鑑隊を送って
ア モイ
厦門などを封鎖、そして上海を占領し南京への威嚇という実力行使に出た。ここに、さしものエス
ノセンティリズムとても清はこれに屈せざるを得なかった。広州に於けるアヘン廃棄という、林則
除によるボストンティーパーティーがごとき強行への報復であったことには間違いないが、イギリ
こ ほん
スによるその制裁によって、ついに公行の廃止、五口の閉港、領事裁判権、香港の割譲等が 1842
年、清英間に交された。南京条約である。動機としては帝国主義的ではあるが、朝貢貿易に君臨す
る中国が、欧米資本主義経済に従属して行く契機という意味での近代アジアの一大画期である。
2010 年の今、顧みれば、香港は以来 1997 年までの 155 年間、イギリス統治下のホンコン政庁によ
って、工業化植民地への道を歩んで来た訳であるが、決して City States への平坦な歩みではなか
った。日本の開国、日清日露戦争、門戸開放政策、辛亥革命、柳条湖事件、太平洋戦争、中華人民
共和国の成立、朝鮮戦争、ベトナム戦争と、ここ東アジアに起こった世界史的重大事件に巻き込ま
れつつ、工業化アジア四小竜の一雄としての、ホンコンのごく最近の工程に、ここで触れて置くに
すぎないのである。
さて、ここ香港は、1997 年 7 月 1 日を以って、イギリス統治から中華人民共和国に返還され、今
でこそ珠江エスチュアリーの半島部として、広州経済圏の一部に収まる感がある。この九七大限と
いう主権回復までに、香港はイギリスの植民政策の下、レッセフェールに基く工業化シティステー
トとしての地位を、金融、貿易の面から築き上げて来た。シンガポールと比べていかにも雑然とは
しているが、その点が自由放任たる魅力でもあるのだ。
この地は、そもそも九龍半島と対岸の香港島を主な構成地域として抱え持ち、新界と九龍の境に
地溝を持つ。自然史的には珠江デルタと、その先の沈降部の先に沈み残った半島部に位置し、広州
metropolitan area を形成する。広州近郊の農村部が農業からの労働力と農産物を提供し、又、九
広鉄道が、体制の異なる香港に、物資運搬にも貢献したことは見のがせない。鄧氏による一国二制
度のもと、香港があったからこそ、沿海部経済特別区の発展が遂げられた意義も忘れてはなるまい。
香港の発展を支えて来た自由放任は、中国大陸とその他の国々、とりわけ英米との中継貿易に寄
与し、イギリス流の多角的決済システムを、うまく機能せしめた。加工貿易の為の良質な労働者を
育むホンコン大学の存在も大きな意味を持つ。Hegemony としてのイギリス帝国主義下から出発した
近代ホンコンには数多くの遺産が残る。中環付近から、象徴としてのトポス、ビクトリアピークま
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での街市(バザール)に、今、
“集体回憶”として、街並み保存運動がある。映画暮情の舞台とし
て、イギリスシステムを象徴する雑居の街でもある訳だ。特区から発展した、隣接都市深圳と合わ
せると、この珠江左岸コナベーションのコンテナ貨物取扱量は現在世界一である。雑居と近代化と
いう味わい深い街並みも、ここ香港が、パクスブリタニカの枠の中で、唯一の工業化植民地として
発展した、したたかな都市国家建設の生い立ちを物語っているのだ。
(次号に続く)
〈エスチュアリーとしてのテムズ川とタワーブリッジ〉
〈ハンブルクに於ける氷跡湖 : アルスター湖〉
- 17 -
- 18 -
離島の航空交通(その3)
奥野一生
④ 種子島・屋久島・硫黄島・諏訪之瀬路線
第7図は,種子島・屋久島・硫黄島・諏訪之瀬路線の旅客数推移を示したものである。
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第7図(別ファイル)
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鹿児島~種子島線は,1952 年東亜航空鹿児島~種子島線開設(種子島の発着地は中種子町高峯)
セスナ機・パイパー機就航,1958 年東亜航空鹿児島~種子島線開設(種子島の発着地は中種子町野
間)ビーチクラフト機就航,同年富士航空鹿児島~種子島線開設パイパーアパッチ機就航,1959 年
富士航空鹿児島~種子島線開設(種子島の発着地は西之表安納)
,1962 年機種変更DHダブ機就航,
1964 年機種変更DHヘロン機就航,同年富士航空鹿児島~種子島線(西之表安納)休航,同年富士
航空鹿児島~種子島線(中種子町野間)休航となった。1969 年機種変更YS-11機就航,1970
年機種変更全便YS-11機就航で旅客数が大きく増加した。
その後も順調に旅客数は増加したが,
1989 年超高速船ジェットフォイル鹿児島~西之表間就航で影響を受け,
1990 年日本エアーコミュー
ター鹿児島~種子島線開設(日本エアシステムから移管)
,1991 年度の 19 万人をピークに,1992
年2隻目のジェットフォイル就航で航空旅客数は大きく減少に転じた。1994 年機種変更サーブ機就
航,1995 年3隻目のジェットフォイル就航でさらに航空旅客数に影響を与え,1998 年度旅客数は屋
久島線を下まわった。種子島線は,業務路線・生活路線の比率が高く,鹿児島市内~西之表間の移
動が多い。ジェットフォイルはその間を直結しており,鹿児島空港・種子島空港の両空港アクセス
不便が影響している。2006 年度は9万2千人とピーク時の半分にまで減少,以後も減少傾向は継続
している。2006 年DHC-8-Q400機就航,2006 年YS-11機は引退した。
大阪~種子島線は,
1974 年度の1975 年2月東亜国内航空大阪~種子島線開設YS-11機就航,
- 19 -
1989 年超高速船ジェットフォイル鹿児島~西之表間就航,1989・90 年度の3万5千人をピークに,
1992 年日本エアーコミューターに移管,1992 年2隻目のジェットフォイル就航,1994 年機種変更
サーブ機就航(多客時YS-11機使用便を増便)で座席数減少により旅客数が減少した。1995 年
3隻目のジェットフォイル就航で航空旅客数に影響を与え,1995 年度以降は2万人台で推移,大阪
~種子島線も鹿児島までジェット機,鹿児島よりジェットフォイル利用客が増加した。2006 年機種
変更DHC-8-Q400機が就航した。
福岡~種子島線は,1997 年日本エアーコミューター福岡~種子島線開設サーブ機就航,同年のみ
の季節運航であった。
種子島~屋久島線は,1963 年富士航空種子島~屋久島線開設・東亜航空種子島~屋久島線開設,
1965 年日本国内航空種子島~屋久島線廃止,
1973 年東亜国内航空種子島~屋久島線タウロン引退で
休止となった。1977 年日本内外航空種子島~屋久島線開設で再開されたものの,1982 年日本内外航
空種子島~屋久島線休止となった。1983 年公共施設地図航空種子島~屋久島線開設で再開,1986
年朝日航空(旧・日本産業航空,のちに広島~松山~大分の都市間コミューターを開設した)種子
島~屋久島線開設,1989 年ジェットフォイル就航の影響を受けて,1990 年休止となった。
鹿児島~屋久島線は,1963 年富士航空鹿児島~屋久島線開設DHヘロン機就航・東亜航空鹿児島
~屋久島線開設DHヘロン機就航,1965 年日本国内航空休止,1974 年屋久島空港滑走路延長工事で
閉鎖で鹿児島~屋久島線休止,1975 年機種変更YS-11機就航で旅客数は大きく増加した。1988
年東亜国内航空は日本エアシステムに社名変更,その翌年に,社名変更後の最初に屋久島線が日本
エアーコミューターに移管された。また,1989 年超高速船ジェットフォイル就航で種子島・屋久島
ともに観光客が急増,船名から「トッピー効果」と称された。1992 年2隻目のジェットフォイル就
航,1993 年ユネスコ世界遺産登録で観光客が増加,1995 年3隻目のジェットフォイル就航で航空旅
客数に影響を与えた。1995 年機種変更サーブ機就航,屋久島は観光路線の色彩が濃く,遠方からの
観光客は鹿児島空港での乗り換えのみで済む航空の利用が多くて,むしろ現在では相乗効果(ジェ
ットフォイル就航で,供給不足解消と観光客増加に貢献)で増加,種子島線航空旅客数と逆転して
上まわった。しかし今後の航空便増便は困難なことが多いので,屋久島でも滑走路延長・ジェット
化が論議される可能性がある。2002 年4月ダイヤから,鹿児島~屋久島線が2便増の1日7便に増
便され,YS-11機使用の単独路線として最多便数路線となり,2003 年DHC-8-Q400機
が就航した。2004 年度は 17 万9千人と過去最高を記録したが,以後は減少に転じている。
福岡~屋久島線は,1997 年日本エアーコミューター福岡~種子島線開設サーブ機就航,同年のみ
の季節運航であった。
鹿児島~硫黄島線は,1973 年日本内外航空鹿児島~硫黄島線開設アイランダー機・セスナ機就航,
1982 年休止となった。
鹿児島~諏訪之瀬島線は,1975 年日本内外航空鹿児島~諏訪之瀬島線開設アイランダー機・セス
ナ機就航,1982 年休止となった。
- 20 -
屋久島~硫黄島線は,1977 年日本内外航空屋久島~硫黄島線開設アイランダー機就航,1982 年休
止となった。
⑤ 奄美群島路線
第8図は東京・大阪・鹿児島~奄美路線の旅客数推移を,第9図は奄美群島内・那覇路線の旅客
数推移を示したものである。
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第8図(別ファイル)
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第9図(別ファイル)
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奄美群島は,2003 年 12 月 25 日で,復帰 50 周年を迎えた。奄美振興の課題は多いが,特に航空
交通の改善が求められる。沖縄離島では人口 2,000 人未満(2000 年度国勢調査,以下同様)の与那
国島で空港がジェット化されているのに対して,人口約1万 5,000 人の沖永良部島,同約 9,000 人
の喜界島,同約 6,000 人の与論島の各空港はジェット化されておらず,東京・大阪からの直行便も
いまだ就航していない。観光客の増加,島内生産物の移出,就航率の改善にジェット化が求められ
る。また,YS-11機は北海道や沖縄路線で引退した後も,鹿児島発着離島路線では,1960 年代
より就航のYS-11機便が多く残り,2005 年度にようやく引退した。代替機として就航したのは
故障の多いDHC-8-Q400機や乗り心地の悪いサーブ機で,機材の向上も必要である。特に
サーブ機は,季節変更や臨時変更を除き,九州離島路線からの運用から基本的に外れ,離島路線で
は奥尻・隠岐路線でも使用されているが,圧倒的に奄美路線が中心となった。更に,就航している
ジェット機はMD-81機で,現在,日本国内で就航している機材としては古い機材である。ちな
みに,奄美群島に就航しているこれらのDHC-8-Q400機・サーブ機・MD-81機は,沖
縄離島には過去も含めて,一切就航していない機材である。また,奄美群島の各空港は島の中央に
位置しておらず,島内各地からのアクセス改善が求められる。特に奄美大島は島内道路整備が近年
急速に行なわれたが,まだアクセス時間が長い。また,観光や農業等の産業振興も,航空交通と連
携した視点から検討することが必要である。
鹿児島~奄美線は,1964 年東亜航空鹿児島~奄美~徳之島線開設ヘロン機就航,1965 年東亜航空
鹿児島~奄美~徳之島線機種変更YS-11機就航(奄美群島初就航)
,1965 年全日本空輸鹿児島
~奄美~那覇線開設F27フレンドシップ機就航,1967 年全日本空輸機種変更YS-11機就航で
旅客数は増加,
1980 年代に入って横ばい傾向となったが,
1988 年日本エアシステム便ジェット化
(D
C-9-41機およびDC-9-81機就航)
・エアーニッポン便ジェット化(B737機就航・一
部の便)で再度増加した。しかし,1992 年度をピークに,微減傾向が継続している。奄美大島での
人口減少,観光客の停滞,産業の停滞等が要因で,本土離島で見られるような航路との競合による
ものではない。1995 年エアーニッポン便全便(2便)ジェット化(B737機就航・YS-11機
奄美空港路線より引退)されたもの,2001 年エアーニッポン休止,同年日本エアーコミューター開
設サーブ機就航,2001 年度旅客数は大幅に減少した。2002 年日本エアーコミューター機種変更YS
-11機就航,2003 年機種変更DHC-8-Q400機就航,2004 年度旅客数は更に減少,2006
年度旅客数は 30 万人すれすれ,2007 年度旅客数は約 29 万人と 30 万人を割り,1989 年の空港移転・
ジェット化直後の水準まで減少している。2005 年機種変更サーブ機が就航(YS-11機引退)し
た。
大阪~奄美線は,1972 年度の 1973 年1月東亜国内航空が1日1便YS-11機で開設・同年 12
月1日2便に増便,1974 年1日3便に増便,1980 年1日2便に減便と東亜国内航空大阪~鹿児島線
開設で鹿児島経由に旅客が移転して直行便旅客が減少したが,1988 年ジェット化・MD-87機就
航,1989 年全便(2便)ジェット化で増加に転じ,1991 年度に過去最高を記録した。1994 年関西
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空港開港で関西空港発着に変更で減少,1997 年伊丹便復活で増加に転じたが,1998 年関西便休止で
伊丹便の1便のみになって,10 万人を下まわった。
福岡~奄美線は,1974 年東亜国内航空福岡~奄美線開設YS-11機就航,1975 年廃止された。
東京~奄美線は,1992 年日本エアシステム東京~奄美線開設MD-81機(DC9-81機)就
航,1990 年代後半に増加したが,便数から 10 万人や大阪線を上まわるにいたっていない。
鹿児島~徳之島線は,1962 年東亜航空鹿児島~徳之島線開設ヘロン機就航,1964 年東亜航空鹿児
島~奄美~徳之島線開設ヘロン機就航,1965 年東亜航空鹿児島~奄美~徳之島線機種変更YS-1
1機就航(奄美群島初就航)で旅客数が増加,1980 年東亜国内航空鹿児島~徳之島線ジェット化(D
C-9機就航・奄美群島初ジェット化・離島空港初本格ジェット化)で旅客数が増加,1980 年度 10
万人を超えた。減少期もあったが 1980 年代後半から 1990 年代前半は増加傾向となり,1990 年代後
半から横ばい傾向である。1995 年サーブ機就航,1999 年サーブ機運航終了となった。
大阪~徳之島線は,1995 年日本エアーコミューター大阪~徳之島線開設サーブ機就航,1997 年休
止された。
鹿児島~沖永良部線は,1969 年東亜航空鹿児島~奄美~沖永良部線開設YS-11機就航,1972
年鹿児島~沖永良部線直行便開設,1988 年日本エアーコミューター移管開設YS-11機就航,
1980 年代から 1990 年代半ばまで順調に増加したが,使用機材による輸送力の限界,鹿児島から東
京志向の高まりによる,チャーター便で那覇経由の東京行きが増加して,微減傾向に転じた。1996
年機種変更サーブ機就航,2005 年機種変更DHC-8-Q400機が就航(YS-11機沖永良部
線引退)した。
鹿児島~喜界線は,1959 年東亜航空鹿児島~喜界線開設ヘロン機就航,奄美群島初の航空路線と
して開設された。開設以来,旅客数は増加したが,1965 年鹿児島~奄美線YS-11機就航(奄美
群島初就航)で,奄美経由に旅客が転移して 1966 年度は減少に転じ,1968 年東亜航空鹿児島~喜
界線休止となりヘロン機も奄美路線より引退した。1995 年日本エアーコミューター鹿児島~喜界線
開設(再開)サーブ機就航,旅客数は増加して鹿児島~与論線を上まわった。
鹿児島~与論線は,1977 年東亜国内航空鹿児島~与論線開設YS-11機就航,1980 年代前半に
那覇~与論線や奄美~与論線に旅客がシフトして鹿児島~与論線の旅客が減少したこともあったが,
1980 年代後半から 1990 年代前半には増加,1992 年度は那覇~与論線を上まわった。1988 年日本エ
アーコミューター移管開設YS-11機就航,1990 年代後半から減少傾向が継続,2000 年度は那覇
~与論線を下まわった。人口減少・観光客の減少・産業の停滞が影響している。2005 年機種変更D
HC-8-Q400機が就航(YS-11機与論線引退)した。
那覇~与論線は,1978 年南西航空那覇~与論線開設YS-11機就航,1980 年にそれまでの週便
から1日1便化され,1981 年から夏季2便化で那覇~奄美線や鹿児島~与論線の旅客数を上まわり,
1984 年からの夏季3便化でさらに旅客数が増加した。
1986 年からは増便期間が春季連休期間にも拡
大された。しかし 1990 年代に入って観光客の減少で旅客数も減少傾向となり,1992 年度は鹿児島
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~与論線を下まわり,夏季3便化も 1995 年度で終了した。1997 年に琉球エアーコミューターに移
管されてYS-11機の1日1便からDHC-8-100機の1日2便(夏季は3便に増便)とな
り,旅客数も減少した。その後,冬季を中心に1日1便に減便される期間もあるが,2000 年度から
は夏季4便化と年度末3便化で旅客数が増加,一時期,那覇~奄美線を下まわったこともあったの
が盛り返し,鹿児島~与論線を上まわった。後述するように,波動の大きい路線で,需要動向に即
した柔軟な便数が求められる。実質的に,奄美路線というよりは「与論島の沖縄離島路線としての
位置づけ」が需要に結びついている。2007 年DHC-8-300機が就航した。
那覇~沖永良部線は,1979 年南西航空那覇~沖永良部線開設YS-11機就航,1980 年休止され
た。現在,エアードルフィンが那覇~沖永良部線チャーター運航,沖永良部島民は那覇経由で東京
方面等への移動に利用している。定期便化や機材の大型化が検討されたが,定期便化で少客時にも
運航することが必要となったり,
大型化に対応した集客が常に見込めるか等,
採算上の問題があり,
当面の定期便化は見送られている。
那覇~奄美線は,1965 年全日本空輸那覇~奄美~鹿児島線開設F27フレンドシップ機就航,当
時は沖縄本土復帰前で,国際線扱いであった。1967 年機種変更YS-11機就航,1972 年の沖縄本
土復帰で国内線となり,週便から1日1便の運航となった。この間,那覇~鹿児島間の直通旅客輸
送も担い,順調に旅客数は増加した。しかし,復帰後,那覇~鹿児島線の直行便が開設され,1975
年の沖縄海洋博覧会時には伊江島にも寄港,1985 年に日本近距離航空に移管されたが,長らくYS
-11機による1日1便体制が継続,1980 年代末から 1990 年代初頭のバブル期に奄美・沖縄本島
をめぐる観光客で若干増加した以外は,横ばいが継続した。1995 年のジェット化(B737機就航・
エアーニッポンの九州内路線からのYS-11機引退にともなう)でやや旅客数が増加,過去最高
を記録,那覇~与論線を上まわったが,1日1便のままで利便性は向上しなかった。1999 年に琉球
エアーコミューターに移管され,B737機の1日1便からDHC-8-100機の1日1便とな
り,旅客数が大きく減少,那覇~与論線を下まわった。移管後の運航ダイヤがビジネス利用に必要
な日帰り可能ダイヤでなくなり,夏季と年末年始等に1日2便化されたものの,那覇~与論線ほど
の観光客利用がない。かつては結びつきの強かった奄美と沖縄(那覇)であるが,双方の本土志向
で結びつきが薄れて,旅客数が減少傾向を示すので,与論線や奄美群島内路線と連携した運航ダイ
ヤでの需要開拓が求められるであろう。
奄美~喜界線は,1965 年東亜航空奄美~喜界線開設ヘロン機就航,1969 年東亜航空奄美~喜界線
機種変更YS-11機就航
(喜界初就航)
,
当時はYS-11機運航路線としては最短路線であった。
1983 年日本エアーコミューター移管開設ドルニエ機就航(YS-11機喜界路線より引退)
,機材
は小型化されたが便数は大幅に増加して旅客数は増加,奄美群島内路線の奄美~徳之島線や那覇~
与論線を上まわった。1995 年機種変更サーブ機就航・ドルニエ機引退,1995 年鹿児島~喜界線開設
で旅客数が減少,その傾向が継続している。
奄美~徳之島線は,1964 年東亜航空鹿児島~奄美~徳之島線開設ヘロン機就航,1965 年東亜航空
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鹿児島~奄美~徳之島線機種変更YS-11機就航(奄美群島路線初就航)
,1980 年鹿児島~徳之
島線ジェット化による鹿児島方面直通客の転移で,旅客数が大きく減少した。1983 年日本エアーコ
ミューター移管開設ドルニエ機就航,便数増で旅客数が増加,1995 年日本エアーコミューター奄美
~徳之島線サーブ機就航(ドルニエ機引退)
,便数減で旅客数が減少した。奄美群島内における奄美
大島の中心性の低下が,郡島内路線の旅客数減少につながっている。
奄美~沖永良部線は,1969 年東亜航空鹿児島~奄美~沖永良部線開設YS-11機就航,最初か
らYS-11機が就航して旅客数が順調に増加した。1983 年日本エアーコミューター移管開設ドル
ニエ機就航で旅客数は大きく減少,一時は1万人を下まわったが,便数増と 1995 年機種変更サーブ
機就航・ドルニエ機引退で持ち直した。
奄美~与論線は,1976 年東亜国内航空奄美~与論線開設YS-11機就航,1983 年日本エアーコ
ミューター移管開設ドルニエ機就航で旅客数は大きく減少,1985 年休止された(日本エアーコミュ
ーター奄美~与論線を徳之島経由に変更)
。1995 年日本エアーコミューター奄美~与論線開設サー
ブ機就航(奄美~徳之島~与論線を直行便に変更)
,1998 年休止された。
徳之島~与論線は,1985 年日本エアーコミューター徳之島~与論線開設(奄美~与論線を徳之島
経由に変更)ドルニエ機就航,1995 年休止された。
沖永良部~与論線は,1980 年南西航空那覇~与論~沖永良部線開設YS-11機就航(那覇~沖
永良部線を与論経由に変更)
,1987 年南西航空沖永良部~与論線廃止(那覇~与論のみに)された。
1998 年日本エアーコミューター沖永良部~与論線開設(奄美~与論線を沖永良部経由に変更)サー
ブ機が就航した。
(次号に続く)
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諸連絡
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会報 58 号の原稿を募集しています。論文,短報,地理授業紹介,巡検記録,エッセイ,文献紹
介など奮って投稿下さい。投稿原稿は,テキスト形式・マイクロソフトワード・一太郎などによっ
て B5 用紙,43 字×34 行のフォーマットで,電子メール添付・CD-ROM・フロッピーディスクな
どでお送り下さい。写真や図表も可能ならデジタル形式でお願いします。一層の印刷経費節減のた
め,今年度から 400 字換算で 20 枚以内に変更させていただきました。会員の皆様方のご理解とご
協力のほど,重ねてお願い申し上げます。原稿締切は,平成 23 年 8 月末日です。
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地理教育部会では,地理教育の研究会・巡検などの活動を行っています。地理教育研究のための
例会は,毎月第 2 土曜日に主に天王寺キャンパスで開かれています(3 月・8 月は休み)
。教材研究・
資料交換・指導方法の研究などを,各例会 1~2 名の発表をお願いし,それをもとにした討論を行
います。最近では,パソコン利用の情報交換も行われています。巡検も定例化され,年間 3 回程度
行っています。また Web(http://chirikyouiku-lj-hp.web.infoseek.co.jp/)上での活発な議論もありま
す。活動についてのお問い合わせは右記まで。橋本九二男(自宅 Tel.0745-48-4856)
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本号に会費納入用の振替用紙を同封します。平成 22 年度の会費(2000 円)を同封の振替用紙(振
替番号 00940-6-49251 大阪教育大学地理学会あて)で納入下さいますよう,お願い申し上げます。
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会長(教員)
・・・・・・正木久仁
顧問(元教員)
・・・・・前田 昇,守田 優,石井孝行
理事(教員 3 名)
・・・・辻本英和(会計監査)
,山近博義・山田周二(総務)
,
水野惠司・今里悟之(編集)
理事(卒業生 3 名)
・・・磯 高材,橋本九二男,奈良芳信
理事(学生 3 名)
・・・・委員長(学部)
:袋谷紀之,委員(院)
:舟井洋人
会計(学部)
: 浦川香織
学生委員(4 名)
・・・・4 回生:万野裕香,中西香澄
3 回生:松川紘久,豊田修司
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会長(教員)
・・・・・・正木久仁
顧問(元教員)
・・・・・前田 昇,守田 優,石井孝行
理事(教員 3 名)
・・・・辻本英和(会計監査)
,山近博義・山田周二(総務)
,
水野惠司・今里悟之(編集)
理事(卒業生 3 名)
・・・磯 高材,橋本九二男,奈良芳信
理事(学生 3 名)
・・・・委員長(学部)
:松川紘久,委員(院)
:浅場 敦
会計(学部)
:豊田修司
学生委員(4 名)
・・・・4 回生:中本朝海,高田知世
3 回生:井上彰信,矢野啓太
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〔教員養成課程〕浅場隆宏(日本郵政)
,浦川香織(徳島県小学校教諭)
,小西勝也(西宮市消防局)
,
高坂直輝(岡山県小学校講師)
,犀川雄創(富山県小学校教諭)
,島谷友香利(奈良県警事務)
,
清水建伍(大阪府小学校教諭)
,濱森壮太郎(大阪府小学校教諭)
,
袋谷紀之(大阪府小学校教諭)
,万野裕香(大阪府小学校教諭)
〔教養学科〕葛城澄香(吉野家)
,川浪干城(大阪府中学校講師)
,
川本祐美(ジョンソン・エンド・ジョンソン)
,吉川拓志(同志社大学大学院)
,
佐藤宏祐(柏原市役所)
,中西香澄(専門学校トライデント)
,西村光泰(ピップフジモト)
,
八木花菜(富士通ゼネラル)
,米女侑里(高知銀行)
〔第二部〕有村哲也(未定)
,柿原 昇(堺市中学校教諭)
,杉田 翔(大阪市小学校教諭)
,
深澤賢吾(兵庫県中学校講師)
,山岸史弥(大阪府小学校講師)
,若田智和(企業)
和田夏代(兵庫県小学校教諭)
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今年度 57 号は,大阪教育大学地理学教室のホームページ上でも見ることができます。アドレス
は以下の通りです。
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~shakai/chiri/kaihou.htm
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