バタビア追想:バタビア城に立つ 2010/01 18 世紀のバタビアは猖獗の地であったため 1808 年赴任したダーンデルス総督はその行政 府を南のウエルトフレーデンに移転、猖獗の原因でもあったバタビア城壁都市の城壁を取 り除きその石材を新都心開拓の礎に利用した。これがバタビア城の最後であり、それから 茫々たる 200 年、現在のジャカルタに残っているものはない。バタビア城はどの辺りにあ ったのであろうか。 バタビア城(Batavia Kasteel)の誕生は 1610 年に遡る。其の頃のオランダは既にバン タンをポルトガルから奪い商館を築いていたが、バンタン国が支配するスンダクラパに進 出すべく 1610 年木造の倉庫を建てる許可を取得することができた。其のときのオランダ のバンタンの Regent である Jacques I’Hermite が購入した土地は約 100m2 で$150 であ ったと計算できる。このときのこの根拠地はオランダの王家の名前から Nassau と名付け られていた。1613 年から約束を反故にして着々と石作りの要塞化に着手、1618 年には Martius(Mauritz)と名前を変えた要塞が完成していた。バンタンのジャヤカルタ(スン ダクラパ)領主ウイジャヤカルタ(またの名はジャヤウィカルタ)はオランダと対抗する為、 イギリスにも商館建設の許可を与えた。オランダが得た土地は現在のチリウン河(カリブ サール)の東側であり、ウイジャヤカルタが治めるジャヤカルタ地区及びイギリスの商館 は西側である。 1618 年 12 月マタラム王国がバンテン王国と結びオランダの商館を破壊する挙にでたが翌 年第 4 代総督に任ぜられたクーンはここを拠点とする大決心をし、更に要塞を改造、逆に 対岸のジャヤカルタ王子と戦線を張るイギリス商館を焼き払った。 ここに蘭英の大戦端 が開かれたのである。イギリスは元アメリカ大陸バージニア総督であったトーマスデール が指揮するイギリス海軍 15 隻を派遣、要塞のオランダ商館を攻撃した。クーンはモルッ カに停泊しているオランダ艦船を増援に連れてくるために脱出、その間イギリスとジャヤ カルタ軍の宗主バンタンとの間に生じた不和を乗じてであった。4 ケ月後クーンは 14 隻の 艦船を引きつれ戻ってきてイギリス軍を追い払うことに成功した。これが 1619 年のバタ ビアの誕生である。 (正式には 1621 年 3 月 4 日:弊「蘭英の東インド争奪戦」07 年 6 月) 第 2 期の御城の完成は 1627 年であるが、大 きさは 200 メートル四方程度と推定され、そ の中に、3 千人規模の兵士の居住区や、倉庫 等諸施設なども備えていた。 写真は Lookout Tower からの遠景であるが この辺りと言う感覚だけである。 その後オランダは 1650 年までにはカリブサ ールの東西を壁で囲むウオールシティを完 成させていた。この誕生のいきさつから旧バタビアも東側の方が建設が進んだことが判る。 又ファタヒラ広場の北のクニール通りより北にはところどころ廃墟があるが現在はさび れた一帯である。 ダンドゥッドに「RT5/RW3」と言う歌があるが主人公の住んでいる所は、ジャカルタの北 のコタ・インタンなる言葉で紹介されている。オランダが最初に築いた植民の砦であるバ タビア城が其の謂れであるようだ。古いバタビアの地図を見ると、バタビア城自体が四隅 に突き出した砦(Batalion)があり、全体像はダイヤモンド(インタン)の形状をしてい る。更にこの四つの詰め所には名前が付いており、1. 4. Diamant、2. Saffier、3. Robin、 Paarel と宝石の名前が付けられている。カリブサールの跳ね橋に近いところがダイヤ モンド砦で御城に行くにはこの跳ね橋を通ったから、この橋をそう謡ったのであろう。 御城の所在地は現在のどの辺にあったかであるが、18 世紀の Johannes Rach が丁度西側 の当時のシップヤードからバタビア城を拝む形の絵を描いているので、これが参考になる。 このシップヤードはの VOC カフェになっており、その川岸に記念碑も建っているのでそこ からの対岸が御城である。写真の其の辺りはところどころに倉庫の屋根は見えるが雑草生 い茂れる地帯に見え将につわものどもの夢の跡でうら悲しい。 バタビア城の 4 っつの砦の名前は、昔、ジャカルタ歴史博物館で入手したものを見ると一 番右端南が 1. Diamant、時計回りに 2. Saffier、3. Robin、4. Paarel となるが、ど うもインドネシア語が入っておりインドネシア人が後に手書きしたもののようで間違い であることを発見した。一つはイギリス人の Joyce Gold が書いた地図が「Old Jakarta」 と言う本に収録されているがこれによるとダイヤモンドは左端南で時計と逆回りであり 且つ 2 番目と 3 番目が入れ替わっている。そうすると 4 番目は Lookout Tower に面するこ とになり、Heuken 氏の Lookout Tower は Pearl 砦に面していたという著述と一致する。 対岸となる VOC のカフェは VOC Galangan と 名付けられガラリーも兼営している。 裏に は、ジャワの伝統住宅、フォード・クラシッ クカー、陶器つぼのコレクションが飾られて いる。ここが造船所があった所で 1632 年チ ナのキャプテン Bencon が送別の Specx 総督 に送ったメダルに描かれているので、バタビ ア城初期に建設されていたことになる。ここ には鍛冶屋、ロープ作り、図制作などの 職人と労務の付く奴隷が住んで、小型船の修理に付いていた。大型船は沖の Onrust 島などで行われていた。この一帯が衛生的に汚染された時代、1809 年に御城と共 に運命を共にしたがそのあとは中国人に賃貸され、何代かの手を経て現在も華人の Gajah Tunggal の総師ヌルサリムの手に渡り彼の努力でリノベされ、歴史資産として残された。 ここには高いフラグ・ポールがありこの旗の色で出入りの船の管理をしていたそうで、た とえば青色の旗では停船を意味した。このフラグ・ポールは高い為、ランドマークとなり 当時の多くの絵に顔を出している。 このフラグポールは 1826 年迄あったが 1839 年 Lookout Tower にその任務を引き渡した。ここには 1746 年に最初のポストもあった。 この VOC Cafe の裏、チリウン河沿い、逆にバタビア城の対岸に現在、記念碑がある。御 城のパール砦から大砲が向けられていたこの地には、バンタン国のこの地の領主ウイジャ ヤカルタの領地で彼も砦を築き、又対抗上許したイギリスもここに砦を築いていた。 ウイジャヤカルタ王の宮殿そのものはそこ より数百メートル南の現在のジャラン・コピ の辺りにあった。1996 年に高速が建設された 同時期にこの地の reclamation(干拓工事) と Bulwarks(防波堤)建設が行われたがそれ を記念したモニュメントである。 物の本に は Tugu Pantura と 名 付 け ら れ て い る が Pantura とは Pantai Utara の造語で北海岸 の意味になる。 更にここ造船所の南、あのつり橋(あるいはホテル・バタビア)から言えば高速越えた北 に Ankerwerf という船の錨の置き場倉庫があったそうであるが、これが 1834 年に Groote Boom となった。この Groote Boom はスンダクラパ港が整備された後の 1852 年にはスンダ クラパ港の東側に移り、最後は 1886 年タンジュンプリオク開港でタンジュンプリオクに 移ったものである。 Boom とは木材を意味し、港の船着き場を思い 出すとイメージがわく。更に飛躍してこれは 税関事務所の意味なのである。Groote は大き いという意味なので小さい船着き場 Kleine Boom もあったことになる。最初の Groote Boom は多分この辺りと見当つけた 1993 年頃 の写真を掲げた。 Culemburg の Lookout Tower から南 300 メー トルに当たる。 上記の事から御城の所在地を地図で確認すると Jl.Tongkol の地区であり、これまた Heuken 氏の著作には明瞭に Tongkel と説明がしてあり、小生の発見するまでもなかった。 それで Jl.Tongkol(Kanaal Weg)に出向いた がこの道は Lookout Tower から歴史博物館に 向かって斜めに曲がりながら其の正面の Jl.Cengkeh につながる所までの曲線の約 400 メートル弱の将に其の道がお城の Pearl 砦と Ruby 砦を結ぶ対角線のようである。 写真は Tongkol 通りで、その終わりの辺りに 高速及び鉄道線路がある。御城面影はなにも ない。 スンダクラパからトンコル通りに入ってきて、右側の最初の入り口から覗くとまったくの 原っぱ、次の隙間から覗くと植樹がしてあり、そして最後の入り口がレストラン SBB Seafood Bandar : Batavia であった。 出てきた男にここはバタビア城跡かと聞いたが キョトンとしてガッカリしたが、お城はオランダ 語で Kasteel、インドネシア語で Benteng という が Castle と英語で叫んだので通じなかったので あろう。勿論建物なども新しくお城の名残は何に もない。このレストランから中に入ると 390 年前 のバタビア城跡に立つことができる。そこの敷地 は陸軍の所有を経て現在は華人のアビディンと か言う人の所有らしい。バッググラウンドが判ら ないが、敷地面積は 2.8ha とか 4ha とかいう広さ でなぜ華人の手に渡り、また何年も原っぱで放置 されているのか不自然である。広さが前者ならこ こにあった城の大きさから計算があう。というの はお城はトンコル道路の上にかかっていたはず であるのでここがその半分、全体は 200 メートル 四方だったと推定する。 ここのレストランは深海鮮と銘打っている全席 1,500 人は OK で家族で昼飯を食べて子供が外の遊園地などで遊び半日コースの華人の憩 いの場でもあった。裏側に回ると VOC Galangan と対面していた。 トンコル道路の町に向かって左手は大きな倉庫群が広がっている。 スンダクラパ港は東南アジア貿易の中心として多くの倉庫が建てられた。VOC の船待ちの ためアンボン等から持ち込まれたスパイス類(rempah2)も長くは 1 年も保存することも 多かった。18 世紀に建造された倉庫群は小麦倉庫 Gudang Gandum (Graanpakhuizen)と 呼ばれた。時に東端倉庫(Gudang di tepi timur)は VOC が米、豆、落花生、乾燥菓子な ど食料を貯蔵した。正確には現在 Kampung Bandan と名づけられた地区にあり、VOC の船 に乗る人たち(ABK:Anak Buah Kapal)の食料 として積み込まれた。 7 月 20 日その入口から入って見たが行けど行け ど大型トラックの列と深みの見えない淀んだ 窪みに 100 メートルであきらめ、そこを離れク ニール通りに出て左に折れ大きなオランダビ ル(Joe Wehry)の処で左折し再度 Graanspakhuizen を目指したが、なんとそこに その倉庫と同じような倉庫を目つけた。ヒョッ トすると今までの地図の誤りかと思ったがこ こはあの高速を挟んだ内側である。少なくとも あの倉庫の南端とこの倉庫の北端は同位置にありまたその東側はともにチリウン河を背 にしているのでほとんど同一物に見えた。住所は Kunir II である。 そこは軍が保有する土地になっており、また大きなトラックや重機が密集し、通れる空き 地は水没していた為、もうないものと諦めていたのである。先週、毎週ゴルフに行く時に 通る高速の上から何気なく眺めていたときにこの倉庫が目に飛び込んできた。 斜めに位置する残像からこれはひょっとす ると東倉庫かもしれないと思い写真に収め た。Heuken 氏の写真と同じ作りであることか ら、これこそ東倉庫だと確信している。彼に よると東倉庫は4連棟であったが古い方の 2 連棟は 1995 年の高速建設で壊され、現在は 1棟のみが残っている。破壊された方が 1639 年建築であったのでこれが現存最古の 倉庫であったが、それが無くなった今、現在 は海洋博物館が最古の倉庫であろう。 Tongkol 通りが城址だとするとその前の高速 の南側の Cengkeh 通りは、お城の前の広場で ここでも処刑などが行われた。丁度見間違っ た倉庫と同緯度であるが現在は少し商店が あり、その前には古い倉庫を残した荒れた広 場もあった。この Cengkeh 通りの近くで 1918 年、ポルトガルとパジャジャラン国との条約 碑石 Padrao が発見されている。Padrao につ いては、2006 年 12 月の「ジャボタベックの 古代石碑」を参照ください。 御城の北、スンダクラパの東側はその後 1km に渡り埋め立てられ塩田などもあったが、そ の時代も御城はチリウン河で四周を堀で囲んでいた。北側現在のチリウン河東側河口には 船で城にアクセスできる Waterpoort (Water Gate)があった。このチリウン河はピナンシ アからピントゥクチールへそれからカリブサールに行くがカリブサールの手前で東に戻 り城壁に沿い東の端から北に向かう。ピナンシアから直接北上するのではないが、北に 流れた本流のチリウン河はお城の東と南に別れ、カリブサールと共にお城の堀を形成する。 とうもろこし倉庫 Graanpakhuizen の裏をチ リウン河が流れるがクニール II で河を望みた いと川岸に向かうが当然そこには民家が並ん でいる。ジャカルタのチリウン河は岸辺に座り 横に流れる河の流れを見れるところはほとん どない。バタビア城の城壁の名残を求めて近ず くも、いつも民家に阻まれる。河を見るにはそ の民家の台所か便所を覗くことになるのであ る。御城の北スンダクラパ、パッサールイカンは稿を別にしよう。
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