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「メコンデルタの路上市場」ホーチミン(ベトナム)
KT
【CONTENTS】
新年のご挨拶……………………………………………………………………… <加藤寛之>… 2
第1特集 新春誌上座談会
和食と日本の食文化…………………………………………………………………………………4
シリーズ解説
行事と食文化………………………………………………………………… <柳沢幸江>… 6
おせち料理について………………………………………………………… <松田康子>…12
特別寄稿
雑煮の歴史と文化…………………………………………………………… <奥村彪生>…19
庶民の茶文化 ―抹茶と振り茶の関係から―………………………… <中村羊一郎>…27
和菓子の歴史…………………………………………………… <(株)
虎屋 虎屋文庫>…34
「すし」の歴史と多様性 ―風土に育まれた日本を代表する食―………… <黒川陽子>…38
第2特集 海外事情
「フランス ―マダムと野菜をめぐる追想」……………………………… <髙木麻紀子>… 46
2013 ウズベキスタン旅行記… ……………………………………………… <近藤伸洋>… 52
アフリカ第一のコメ生産国 マダガスカルの食文化……………………… <辻本泰弘>… 58
ベトナム領メコンデルタ管見………………………………………………… <隅田裕明>… 65
最近の技術雑誌から………………………………………………………………………………… 72
開発目線の四方山話(第1話)私の発想法………………………………… <宿﨑幸一>… 75
表紙デザイン 大原 菜桜子
缶詰技術研究会 http://kangiken.net/
新年明けましておめでとうございます。
皆様にはつつがなく新しい年をお迎えのこととお慶び申し上げます。
また,旧年中は格別のご支援ご高配を賜り事務局員一同とともに心より感謝申し上げます。
東日本大震災と福島第一原発事故から4年目を迎えました。徐々に復興が進む一方で,国として
立ち直るにはまだ程遠い状況が続いておりますし,その他の国内の原発についても,重要な課題を
残した中で再稼働に向けた動きが進むなど,その動向に注目しなければなりません。また,昨年は
広島での土砂災害や御嶽山の噴火など自然の脅威を改めて実感した年でありました。
日本全体を見ても,政治・経済・外交で様々な課題に直面しています。4月の消費税増税は,予
想通り一部で駆け込み需要による一時的経済効果をもたらしましたが,その後の反動も否めません。
大臣の辞任問題と消費増税見送りに伴う解散選挙の結果に注目したいと思いますが,与党・野党と
もに不安定な状態が続いており,心配材料となっています。集団的自衛権,雇用,年金,少子高齢
化,地方の人口減少といった具体的課題は目に見える前進もなく,これらをバランスよく解決して
いくことは素人目にも容易ではありません。
本誌に関わる食品業界を振り返りますと,昨年は,国内の冷凍食品農薬混入事件,中国の食品加
工会社の期限切れ食肉使用問題等,食品安全の問題がますます大きな課題となっています。これら
は意図的要素が大きく,まさに事件と呼ぶべきものと思料します。新年のご挨拶で毎年このような
振り返りとなってしまうことは業界に関わるものとして,残念としか言いようがありません。昨年
の問題は,企業の食品安全・衛生・顧客満足に対する基本理念や食品安全マネジメントシステムが
正しく機能しているかを問われるものであると捉えられます。
素材や加工の技術,仕組みの進歩・向上はもちろん,物流システムの発達にも支えられ,より安
全で美味しく,かつ低コストの商品やサービスが提供される時代となっていることは間違いありま
せん。しかしながら,仕組みの観点に注目すると,形だけで機能しないシステムでは意味がありま
せん。そこに「思い」がなければ本当の顧客満足に辿り着かないことも事実です。
缶詰技術研究会は,本年も会誌「食品と容器」を通じ,『食の安全と健康機能』,食の『国際化』
への対応,『自給率向上』,『環境適応性』などをキーワードに,的確で正確な情報提供を目指し,
わずかでも皆様のお役に立てることを願って,事務局員ともども真摯に努めて参ります。今後とも
ご指導ご鞭撻の程何卒よろしくお願い申し上げます。
最後に,皆様のご健康と,新しい年がすばらしい年となりますように祈念申し上げ,ご挨拶とさ
せていただきます。
平成27年元旦
食品と容器
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2015 VOL. 56 NO. 1
第1特集
新 春 誌 上 座 談 会
和食と日本の食文化
行事と食文化…………………………………………柳 沢 幸 江
おせち料理について…………………………………松 田 康 子
雑煮の歴史と文化……………………………………奥 村 彪 生
庶民の茶文化 ―抹茶と振り茶の関係から―… ……中 村 羊一郎
和菓子の歴史……………………………………(株)虎屋 虎屋文庫
「すし」の歴史と多様性 ―風土に育まれた日本を代表する食―…………黒 川 陽 子
第2特集
❖海❖外❖事❖情❖
「フランス―マダムと野菜をめぐる追想」…………髙 木 麻紀子
2013 ウズベキスタン旅行記… ………………………近 藤 伸 洋
アフリカ第一のコメ生産国 マダガスカルの食文化… ……辻 本 泰 弘
ベトナム領メコンデルタ管見 … ……………………隅 田 裕 明
食品と容器
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2015 VOL. 56 NO. 1
新 春 誌 上 座 談 会
▪ 和食と日本の食文化▪
平成25年12月に日本の伝統的食文化である「和食」がユネスコ無形文化遺産に登録されまし
た。「和食」はいま世界からも注目を集める文化となり,この登録を契機にますますその動き
は加速すると予想されます。
あらためて日本人でいながら「和食」ってなんだろうと考えてみますと,まず思い浮かべる
のが伝統的な米を中心とした一汁三菜を基本とする献立やおせち料理,雑煮,すしなどです。
しかし現代の日本を見回すと西洋や中国あるいは東南アジアなどの文化が入り交じり,独自の
日本食となっているものも多いように感じられます。
農林水産省が平成25年度に「和食」について解説した入門書の冒頭に以下のような記述がみ
られます。
『そもそも「和食」とは,料理のことだけを指す言葉ではないのかもしれない。例えば,お
正月のおせち料理。新しい年を迎え,今年1年を元気で,幸せいっぱいに過ごせるようにとい
と そ
う願いが料理に込められている。つまり,日本人の信仰やものの考え方がおせち料理とお屠蘇
とお雑煮という食とそれを囲む空間に表れているのだ。食文化とは,自分たちをとりまく自然
環境とその国や地域ならではの文化を背景にして育まれるものだ。』
本誌では【和食と日本の食文化】をメインテーマに,
「行事と食文化」,
「おせち料理について」
,
「雑煮の歴史と文化」,
「庶民の茶文化 ―抹茶と振り茶の関係から―」,
「和菓子の歴史」,
「
「すし」
の歴史と多様性 ―風土に育まれた日本を代表する食―」について,伝統文化,歴史,地域性
などを交えて専門家の方々に解説をお願いしました。
行事と食文化
和洋女子大学 家政学群 教授
柳沢幸江(やなぎさわ ゆきえ)
女子栄養大学大学院博士後期課程修了。女子栄養大学助手,和洋女子大学講師,
助教授を経て2007年より現職。
著書は「和食と食育」「たべものくらべっこえほん」「進化する食品テクスチャー
研究」「育てようかむ力」など。
所属学会は日本家政学会,日本調理科学会,栄養改善学会,咀嚼学会など。
専門は食事学・調理学。
博士(栄養学)
おせち料理について
女子栄養大学 調理学 教授
松田康子(まつだ やすこ) 女子栄養大学卒業。女子栄養大学助手,講師,助教授,准教授を経て2013年より
現職。
著書は「第5版 調理学実習 基礎から応用」共著,「新版 調理学」共著,
「調
理学-健康・栄養・調理-」共著など。
所属学会は日本調理科学会,日本家政学会,栄養改善学会,日本栄養・食糧学会,
日本食生活学会,日本官能評価学会など。
専門は調理学,食生活。
食品と容器
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2015 VOL. 56 NO. 1
■
▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化▪
雑煮の歴史と文化
奥村彪生料理スタジオ「道楽亭」主宰
奥村彪生(おくむら あやお)
料理研究家の土井勝氏に師事。美作大学大学院修了。神戸山手女子短期大学教授,
神戸山手大学教授,奈良女子大学非常勤講師を経て,現在,大阪市立大学大学院生
活科学部非常勤講師。
南東北,北関東で展開しているスーパー・ヨークベニマルの子会社であるライフフー
ズの惣菜・弁当・すしの開発指導を47年間続ける。現在業界屈指の優良企業に育成。
日本で唯一の伝統料理研究家。飛鳥万葉時代から江戸,明治,大正ならびに昭和
の戦後まで,全国のお雑煮などの様々な料理を文献記録に基づいて再現,若狭小浜
市で順次展示。
著書は「おくむらあやお ふるさとの伝承料理」,「おくむらあやお ふるさとの
家庭料理」など多数。
学術博士
庶民の茶文化 ―抹茶と振り茶の関係から―
静岡産業大学 総合研究所 客員研究員
中村羊一郎(なかむら よういちろう)
東京教育大学文学部卒業。静岡県史編さん室長を経て,静岡産業大学教授,2013
年より現職。
庶民文化についての歴史学・民俗学的研究。地域の生活誌,イルカ追込み漁など
とともに,番茶に関する現地調査を日本から東アジア全域にわたって実施,とくに
ミャンマーを20年来のフィールドにしている。
世界緑茶協会 O-CHA パイオニア賞文化芸術大賞受賞(2012年度)
。
著書は,
「茶の民俗学(名著出版)」,
「番茶と日本人(吉川弘文館)」,
「ミャンマー
いまいちばん知りたい国(東京新聞)」など。
博士(歴史民俗資料学)
和菓子の歴史 株式会社虎屋 虎屋文庫
和菓子文化の伝承と創造の一翼を担うことを目的として,昭和48年(1973),株式会社虎屋の菓子資料
室として創設される。虎屋歴代の古文書や古器物を収蔵するほか,和菓子に関する資料収集,調査研究
活動,和菓子関連の展示を開催。研究論文などを収録した機関誌『和菓子』を年1回発行している。
虎屋文庫の活動についてはホームページでも紹介している。
〒107−8401 東京都港区赤坂4−9−22 Tel:03−3408−2402
E-mail:[email protected] http://www.toraya-group.co.jp/
「すし」の歴史と多様性 ―風土に育まれた日本を代表する食―
料理研究家,ダイニング・コーディネーター
黒川陽子(くろかわ ようこ)
活水女子短期大学卒業。京都で料理研究家に師事,大阪のホテルで製菓を担当。
その後,欧米に武者修行に赴き,各地の個性的な家庭料理の取材・研究を経て,郷
里の長崎で料理教室を開催。
1999年より横浜に活動の拠点を移し,伝統野菜や失われつつある日本の母の手技
の持続可能な取り組みを研究テーマとして,料理教室のほか,料理イベント,セミ
ナーなどのコーディネートを手がける。
著書は,「キッチンライフの基本とコツ」,「オリーブオイルできれいになる」,
「手間なし!野菜たっぷりレシピ」など。
食品と容器
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▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
行事と食文化
やなぎ
さわ
ゆき
え
柳 沢 幸 江
和洋女子大学 家政学群 教授
たなばた
日 端午の節句,七 夕:7月7日 七夕の節句,
はじめに
ちょうよう
重陽:9月9日 菊の節句である。
行事とは,日々の暮らしの中でのイベントであ
柳田國男によれば,五節句とは,本来「五節
り,同じように繰り返される毎日の生活の中にこ
供」とされた言葉であったが,幕府が五節句を公
のような特別な,いわゆる「ハレ」の日を置くこ
の行事として定めた頃から,節句と表現すること
とによって,生活にメリハリをつけることができ
が多くなったようである。節供の「供」は,供す
る。行事は大きく2種類あり,1つは四季折々の
ることであり食物が介在することを示す。つまり
1年間の中での暦に応じた行事で,2つ目が人生
人が共に,同じ飲食を同じ場所で賜ることを含み
の節目に行われる行事である。四季の移り変わり
持っている。これは,栄養補給としての飲食では
がはっきりしている日本では,行事で供される行
なく,分けて双方が食べる,すなわち体に取り込
事食も豊かな季節感があり,その土地その時期の
むことによって,目に見えない力の連鎖を作ると
食べ物が行事食となっている。これらの行事には,
いう古い信仰が根本にあったとされる。年間の行
日本の民族・風土に根ざしたものや,中国の風習
事・人生の節目の行事に,共に食べる「行事食」
を日本に持ってきたものなどがある。
が存在するのもこのような信仰からと考えられる。
近年の行事食は,かつて家庭の中で親から子
この節供が,節句に変わってきた理由を,柳田
へ,また特定の地域の中で受け継がれ伝承されて
は次のように推測している。江戸時代の五節句の
きたものが,それ自体が商品化され,またマーケ
制定は厳粛で,この祝賀の日は必ずや上長の家に
ティングやマスコミ経由で広められているのが特
行くべきものとされた。そのため,多くの人たち
徴である。そのため地域による特徴が薄れ,全国
の往来があり,とても節供として共同の飲食をす
が同じような行事や行事食となったり,欧米の行
ることもできない状況になり,「節供」を「節句」
事を楽しむようになったりと,日本人の行事も多
と表して食べることから切り離し,単に区切りと
様化しつつある。
しての節句とすることが多くなったのではないか
ここでは,年中の行事の基本ともなる五節句を
と。加えて五節句自体が,少しばかり人為的に程
中心に解説し,その他の年中行事,さらに主な通
よく間隔を取ろうとした計画が表れている。その
過儀礼についても触れたい。
頃の日本の各地方でよく知られていたのは,雛の
ひな
節供と端午の節供の2つだけであったが,そこに
1.五節句
9月9日の菊の節句が関西の一部の地域にあるた
「節句」とは,中国から伝わった暦上での風習
めに取り入れ,7月7日の七夕を加えた。さらに
で,そのうち5つを江戸幕府が江戸時代初期に公
1月のみ重日の1日ではなく,7日になっている。
的な行事として定めた。人日:1月7日 七草の
これは,1日は元々正月であり,また,15日は小
節句,上巳:3月3日 桃の節句,端午:5月5
正月として,「どんど焼き」や「粥占い」「大綱引
じん じつ
じょうし
食品と容器
た ん ご
かゆ
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▪ 行事と食文化▪ き」「なまはげ」「鳥追い」など各地域での行事が
時代に定着した七草粥となっていったようである。
多い。そこで,間の7日を人日の節供として,折
鎌倉末期の書「河海抄」にある七草は,現在の
り合いを付けたのではないかと柳田は述べている。 「せり,なずな,ごぎょう,はこべら,ほとけの
先に述べたように,この五節句の日は,祝賀に出
ざ,すずな,すずしろ」とまったく同じ七草が記
向くことをほぼ強制していたため,それまでの行
されている。ただし,その後の書に,様々な七草
われていた行事への配慮も当然されたであろう。
が書かれ,7種の固定された菜であった訳ではな
これらの五節句が基本的に奇数月の重日である
い。七草粥は,1年の初めに,生命力のある野草
のはなぜであろうか。これは,陰陽道の思想から
を食べ,その年の無病息災を祈願して食べるもの
といわれている。陰陽道は,古代の中国で生まれ
である。加えて,行事食の特徴として,調理中に
た自然哲学思想を起源とし,日本で発達したもの
歌「七草ばやし」が付くことが特徴である。
民間での習いであり,地域によって異なるが,
である。陰陽道では,奇数が陽で偶数は陰である
が,中国では,陽数が重なる重日は陰(偶数)に
「七草なずな 唐土の鳥が 日本の土地へ 渡ら
転じることから,特に忌まれ,神に供物をそなえ
ぬ先に・・・」となる。大陸からやってくる渡り
て邪気を祓う祭祀を行っていた。例えば,中国の
鳥は,日本では流行っていない疫病をもたらすた
3月3日は,人形に災厄や自らの罪を託して流す
め,来ないうちに落としてやろうということを意味す
お祓いの行事であったし,5月5日は,後述する
る。これが,正月の鳥追いの行事ともつながり,
ように,暑い季節に入る前の五月は「悪月・物忌
七草ばやしになっていったようである。
はら
さ い し
ひとがた
み月」とも呼ばれ,病気にかかり死ぬ人も多かっ
なお,人日とは,文字通り「人の日」の意味で
たため,病除け,毒除けの意味合いが強く,薬効
ある。中国は前漢の時代,東方朔が記した占いの
のある菖蒲やよもぎを用い,粽を食べて邪気を祓
書(占暑)に,正月1日に鶏,2日に狗,3日に
うといった行事が行われていたのである。忌みから
家猪,4日に羊,5日に牛,6日に馬,7日に人,
くるこれらのお祓いが,やがて転じて,邪を祓って
8日に穀を占ってその日が晴天ならば吉,雨天な
お祝いする式日となっていったのであろう。
らば凶の兆しであるとされていた。7日の人の日
ちまき
いぬ
か ちょ
さらに日本では,古代の中国から伝わった陰陽
には邪気を祓うために,7種の菜によって,1年
道から,奇数は縁起が良い数字とする思想があり,
の無事を祈ったのだともいわれている。
1-2)上巳の節句(3月3日)
伝統的な行事として七五三の行事や,婚礼の時の
三三九度の杯など,祝い時に奇数を用いている。
平安時代に貴族が行っていたひびな(雛)遊び
一方,陰陽道が生まれた中国は,伝統的な中国文
(人形や調度品でのおままごとのようなもの)と,
化として,全てにおいて偶数を尊ぶ観念が強い。
中国から伝わった3月3日の上巳の祓いのために
このように,五節句は中国の暦上での風習を起
人形を流す行事,さらに奈良・平安貴族が3月3
源としているが,日本の民間の行事と融合した日
日に催していた曲水の宴(曲がりくねった流水の
本独自の行事なのである。「五節句」の制度自体
ほとりに座り,水に浮かべた自分の杯が,自分の
は明治6年に廃止されたが,今でも日本の代表的
前を通り過ぎる前に和歌を一首読む遊び)が融合
な年中行事として定着している。
したものが雛祭りである。これらの行事は独立し
1-1)人日の節句(1月7日)
たものであったが,いつしか結びついて,3月3
け い そ さ い じ き
けが
六世紀の初めの中国南朝の「荊楚歳時記」,
「正
日に,雛人形に災厄や穢れを移して川に流す,流
月七日を人日と為す。七種の菜をもって羹をつく
し雛が雛祭りの原型としてできていった(写真
る」とある。羹とは吸い物であるが,これらが日
1)。この雛人形が精巧で豪華なものとなり,江
あつもの
戸時代には女性としての成長を願う女児の節句と
本では,正月の若菜摘みの習俗と合体して,鎌倉
食品と容器
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▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
かしわもち
して,流さずに飾る現在の雛祭りの形式となった。
庶民にも定着した。粽や柏 餅が代表的な行事食
雛祭りの食べ物は,桃花酒,菱 餅,よもぎ餅,
である。粽は中国の伝説に由来し,団子を柏の葉
白酒,蛤がある。これらの行事食はいずれも江戸
で包んだ粽には,難を逃れるという意味があると
以降といわれている。桃は魔を祓う神聖な木とさ
される。柏の葉は,新芽が出てくるまで古い葉が
れ,香りが邪気を祓うという,いずれも強い生命
落ちないことから,「家が途絶えない」という思
力を象徴するものである。貝や,蛤が使われるの
いを重ねて,子孫繁栄につながるものとしたよう
は,かつて磯遊びをする地域があったことと,貝
である。
合わせができることからも分かるように,二枚貝
尚,この節句の日のみ,現在国民の休日「こど
は対の貝としか組み合わせられないことから女児
もの日」となっている(昭和23年制定)。
ひし もち
はまぐり
いそ
1-4)七夕の節句(7月7日)
の将来を願っての意味も持つ。
七夕も中国から伝わった行事である。7月7日
けんぎゅうせい
の夜,天の川の両岸にいる牽牛星(彦星)と織女
かささぎ
星(織姫)とが白鳥座の近くにいる鵲の媒介で1
あ
年に1度逢うという伝説から生まれた行事で,手
芸の神様とされる織女に,針仕事や習字,詩歌な
どが上達するようにと願って星をながめ供え物な
どをする行事とされる。この中国から伝来した伝
た な ば た つ め
説・行事に日本に以前からあった織機津女という
行事が習合したとされている。「棚機津女」は,
7月13日から4日間の「盆」を迎えるための風習
であったとされる。日本で七夕と呼ぶのは,この
「たなばた」からきた日本独自の呼び方で,中国
きっこう
では乞巧と呼ばれている。
行事食として七夕に素麺は,室町時代からのも
のであった。小麦は丁度七夕の頃の収穫であった
写真1 流し雛 ( 鳥取県:写真 山内一博 )
のと素麺の流れが,天の川を連想させるため,織
引用:世界の食べ物 日本編36 行事と食事 朝日新聞社 (1983)
姫が紡ぐ織り糸に見立てることができることから
であろう。970年の「師光年中行事」という書物
1-3)端午の節句(5月5日)
にも次のような記述がある。「正月15日,七草粥。
3月3日,桃花餅。5月5日,五色粽。7月7日,
中国では,5月5日の端午の日に薬草を摘んだ
い もち
しょうぶ
り,菖蒲を浸した酒を飲んだりして,疫病や災厄
索 麺。10月 初, 亥 餅 等。 俗 間 に お こ な い 来 る。
を祓う行事が行われていた。この,邪気祓い,疫
もって歳時となす。」また,日本歳時記には,この
病除けのお祭り,これらの風習が日本にもたらさ
索麺が素麺をさし,7月7日に食べることが記さ
れ,奈良・平安時代には貴族社会で五月五日に
れている。
せ ち え
1-5)重陽の節句(9月9日)
節 会が行われた。鎌倉時代になると,
「菖蒲」が
「尚武」や「勝負」に通じることから,武家社会
重陽とは,重九とも呼ばれ,陽数である奇数の
で重視されて祝日となり,行事が行われるように
最大数である9の重日である。そのため,中国で
なった。江戸時代初期には,端午の節句を男の子
は,陽が重なって陰を生じる不吉な日として厄除
の節句とするのが一般化し,江戸時代中期には
けの行事が行われた。中国の古い風習に,野外に
食品と容器
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▪ 行事と食文化▪ 出て飲食をし,登高といって山に登るなどがある。
らの行事が取り込まれ,クリスマスやバレンタイ
「重陽の節句」が「菊の節句」とも呼ばれるのは,
ンデー,イースター,ハロウィンなどが,特有の
中国では,700歳の老翁でありながら,菊のしず
食べ物(行事食)とセットになり,現在の日本で
くを飲んで児童の姿(菊慈童)を保つという伝説
の行事として取り込まれつつある。
に基づき,菊酒が芳香と気品の高さから,不老長
日常の生活とは異なる人間関係の中で,立ち止
寿の薬と考えられていたからである。従って菊の
まって祝う。行事にはそのような昔も今も変わら
花が咲き誇るこの時期のこの日に,お酒に菊の花
ない,毎日 ・ 毎日を生きていく人々の思いが詰
を浮かべた「菊酒」を飲んで邪気を祓う風習が
まっているようだ。
あったためとされる。
日本にこの風習が伝わったのは平安時代とされ,
3.人生の通過儀礼
正式な宮廷行事として採用され,菊瓶を置いて悪
第2表に主な通過儀礼を示した。通過儀礼も,
気をはらう重陽節として盛んに行われた。江戸幕
年間行事と共通して神人共食が行われていた。こ
府が重陽の節句として,祝日とした後は,各藩主
れらの行事は社会的な承認を願うために,親せき
が登城しお祝いをしたり,庶民も菊の花弁を浮か
や友人といった周囲の人たちを招いての会食を伴
べた酒を飲み,栗ごはんを食べる習慣ができた。
い,共食が行われる。その際の食べ物は赤飯・餅
そのため「栗の節句」とも呼ばれた。明治時代に
が多く見られる。通過儀礼は0歳~1歳までの行
なると,祝祭日からもはずされ,それまでの行事
事が多く,7歳以降は少なくなり,60歳を超えて,
は廃れていったが,9日を「おくんち(お九日)」
また年祝いが増える。お食い初め行事は,生後
と呼び,氏神の秋祭りとして10月に収穫祭を行う
100日頃(3カ月過ぎの乳児)で,まだ離乳食は
風習は現在も残っている。
始まっていない時期である。現在では,ちょうど
くり
3カ月検診の後くらいになる。首がすわりはじめ
2.年中行事
る頃の乳児で,「お食いぞめ」と称し,大人と同
第1表に日本の各地で行われている主な行事を
じ1人前の食膳を作り,食べさせるまねをする儀
示した。中国の行事も併せて示したが,奈良時代
式である。膳には赤飯や,尾頭付きの魚などが並
以降中国大陸との交流によって,中国の習慣を数
ぶが,歯固めといって石を膳に置く地域が多い。
多く取り入れてきたことが分かる。
これは,歯が丈夫になることを願ってのものであ
これらは,基本的には,無病息災,豊作(豊漁)
る(写真2)。
ち と せ あめ
七五三には千歳飴が付く。これは元禄時代頃か
祈願,安全・安心,幸福を願うことが基本となっ
ている。
ら浅草の飴屋が始めたもので現在も残っている。
ケの日常が災いなく続くように,ハレの行事で
子どもは7歳までは神様の庇護の下にあり,何を
改めて祈願する。それを,一人ではなく,家族で,
してもバチは当たらないと考えられていたが,代
地域で,親せきで共有しあう。そこに食が伴い共
わりにいつ病気や事故で死ぬかもしれない存在で
有をより密なものとする。かつて,物の流通や保
もあった。7歳のお祝いをすることで,神様を祭
存が現在のように発達していなかった時代は,行
る大人側になるとされた。もう甘えは許されない
事を行う時期,その土地での季節の旬の食べもの
ということである。
ひ
が付きものであり,自ずと行事食は地域性や季節
ご
婚礼は,現在でも最も重要な通過儀礼である。
性が明確であった。
周りの者に披露し,共に共食することで家族の一
現在は,それらの伝統的な行事が消滅あるいは
員として迎え入れる。人生の中で,家族構成に変
簡略化,画一化されつつあるが,一方で,欧米か
化が生じる大きな儀式である。60歳の還暦から年
食品と容器
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2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
第1表 年中行事と行事食
月
1月
日本
1日 元旦
7日 人日の節句
2月
月
屠蘇酒,雑煮,おせち料理,
1月
1日 元旦
湯年糕(雑煮),年糕(餅)
7日 人日
七種菜羹
七草粥
切糕餃子,饅頭,鰻鈍
11日 鏡開き
雑煮,汁粉
15日 小正月
小豆粥
15日 上元節
元宵(団子)
20日 二十日正月
正月の鰤や鮭の骨を野菜と
煮て食べる
25日 塡倉
倉庫神の祭,穀物商の祭り
ごちそうを食べる
3日頃 節分,追儺
豆まき,煎り大豆
2月
1日 中和節
大陽(小麦粉の団子)
3日 立春,咬春
春餅,生大根
3月
3日 竜抬頭
竜鱗餅,竜鬚麺,
針仕事をしない
4月
5日頃 清明節
4日頃 立春
3月
中国大陸
3日 上巳の節句
白酒,草餅
21日頃 春分・彼岸の中日 ぼた餅
4月
8日 灌仏会
甘茶
8日 浴仏会
5月
2日頃 八十八夜
5日 端午の節句
6月
新茶
5月
5日 端 午 節, 天 中 節,
菖蒲を飾る,ちまき,蒲酒,
端陽,蒲節,
五毒酒,五毒餅,玫瑰餅
女児節,重五
6月
6日
麺を食べるとよいことがある
7月
1日 開鬼門
五味椀(魚,肉,鶏,鴨,菜)
を門前に供える
菖蒲酒,ちまき,柏餅
1日 賜氷節,氷の朔日,歯固めのあられ,かきもち
氷室の節句
玫瑰餅,藤蓮餅,阿弥飯
21日頃 夏至
30日 夏越し
7月
7日 七夕の節句
土用丑 15日 中元,盂蘭盆会
小豆入りの菓子
七夕を飾る,そうめん,
うなぎ
団子
7日 乞巧節,七夕節
15日
瓜,果物,酒などを庭に飾る,
七夕粿
中元節,鬼節,盂
饅頭,肉,魚の料理
蘭盆会
30日 閉鬼門,地蔵節
9月
1日 八朔
八朔餅
9日 重陽の節句
菊酒,菊飯
15日
9月
中秋の名月,芋名
月見団子,里芋
月
9日
重 陽 節, 登 高 節,一家揃って山に登る
重丸
菊花酒,重陽糕,烤羊肉
15日 中秋節
西瓜,月餅
23日頃 秋分・彼岸の中日 おはぎ
10月
11月
12月
亥の日亥の子祭
玄猪餅,亥の子餅(大豆,
小豆,ささげ,ごま,
あわ,柿,飴などでつくる)
20日 えびす講
べったら漬
15日 七五三
千歳飴
22日頃 冬至
31日 大晦日
かぼちゃ
12月
年越しそば
8日頃 臘八節
21日頃 冬至
(みそかそば)
臘八粥
ワンタン
23日 送竈
飴を竈神に供える
31日 除夕,大年夜
守歳酒,年飯(団円飯)
引用:江原絢子ら編集 日本の食文化・その伝承と食の教育 アイ・ケイコーポレーション(2009) 富岡典子,行事と地域の食文化より 食品と容器
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2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 行事と食文化▪ 年齢
0歳
1歳
3歳
5歳
7歳
20 歳
成人
60 歳
70 歳
77 歳
80 歳
88 歳
90 歳
99 歳
100 歳
108 歳
111 歳
最期
第2表 主な通過儀礼
行事内容
誕生
お七夜・命名祝い
お食い初め(100 日頃)
初節句(女児 3月3日)
初節句(男児 5月5日)
初誕生
七五三(男女児)
七五三(男児)
七五三(女児)
成人式
結婚
還暦
古稀
喜寿
傘寿
米寿
卒寿
白寿
百寿
茶寿
皇寿
通夜・葬儀
写真2 お食い初め (写真:萩原秀三郎)
引用:世界の食べ物 日本編36 行事と食事 朝日新聞社 (1983)
る。「お食い別れ」は,最期の故人との共食の場
として通夜や葬儀で食事(精進料理)が設けられ,
故人を思い語るのである。
おわりに
祝いが始まる。還暦とは,生まれ年の暦の干支に
行事における食は,日常から離れた特別なハレ
還ることからの命名である。70歳の古稀は,唐代
の日に共に食べる(共食する)ことによって,新
の詩人杜甫の漢詩からのものである。それ以降は,
たな連帯感や力の連鎖を生み,またこれまでの連
年齢と漢字の関連から名付けられている。現在日
鎖を強めることができる。自分の体に,より大き
本 の100歳 以 上 者 が 5 万 人 を 超 え,70歳 が 稀 で
な生命力を与える食べ物を取り込むことでもある。
あった時代から大きく変化したが,それでも60歳
人間にとっての食は,生理的・文化的・社会的等,
の還暦を迎えられることは生涯の節目であること
実に多様な意味を持つ。行事での食はその象徴で
には違いない。通過儀礼の最期が通夜・葬儀とな
もある。
こ
き
まれ
参 考 文 献
1)柳田國男:年中行事覚書,講談社学術文庫(1977)
3)新谷尚紀監修:日本の「行事」と「食」のしきたり
2)張姫娜・徐 桂梅:日中文化における奇数「1」・偶数
青春出版社(2004)
「2」の相違性の探究-「一分為二」「合二為一」を
4)江原絢子ほか編著:日本の食文化,アイ・ケイコーポ
中 心 に( 上 ) - 東 海 大 学 短 期 大 学 紀 要45号 p23-30
レーション(2009)
(2011)
食品と容器
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2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
おせち料理について
まつ
だ
やす
こ
松 田 康 子
女子栄養大学 調理学 教授
をしている」とあるように,すでにこのころには,
1.おせちの歴史
おせちは正月の食べ物と一般的には考えられてお
1-1)正月の行事はいつから?
り,今日に至っている。
1-3)重詰について
正月の行事は,「お正月さま」とよばれる年神
おせち料理は重箱に詰めるが,これはめでたい
さま(稲の豊作をもたらす穀霊(穀物に宿るとさ
れる精霊のこと)とも,稲作を守護する先祖の霊
ことを重ねるという願いが込められている。おせ
ともされる)を迎えて,五穀豊穣を祈る農耕儀礼
ち料理の基本は四段重ねで,上から順に,一の重,
が本来のものであり,年神さまに供えた神饌を下
二の重,三の重,与の重,と呼ぶ。四段目の重を
ご こ く ほうじょう
しんせん
「四の重」と言わないのは「四」が「死」を連想
げて食するのが正月の食べ物であった。
させて縁起が悪いとされているからである。
このような元日の祝いは奈良時代から宮廷の
公式行事となり,年中行事や儀式が政治そのもの
現在では,おせち料理は重詰が普通だが,そう
で あ っ た 平 安 時 代 に, 宮 廷 中 心 の 各 種 行 事 の
なったのはそれほど古くはない。今の和食の基礎
饗 応 食 における献立が法律によって規定され,
が完成したといわれる江戸時代には,まだ正月料
さらに民間の年中行事でも行われて現在に至って
理は重箱に詰めていたわけでないようである。重
いる。
箱自体は,江戸時代以前からあり,酒宴に肴を盛
きょうおうしょく
さかな
平安時代の正月に宮中で行われていた御 歯固
おはかため
る器として使用されていた。それが,戦国時代が
の儀(干し肉や野菜の漬物などの硬い歯にこたえ
終わり,町民文化が花開いた江戸時代には,漆の
る食べ物を食べて齢を固める祝い事)とそのあと
器も蒔絵を施した贅を尽くしたものから,庶民が
に行われた「御薬の献」と呼ばれる,一献屠蘇,
使うものまで作られ,『江戸庶民風俗絵典』(第1
二献白散,三献度嶂散と薬を服する行事が結びつ
図)にみられるような提重(銚子をセットした物
と
びゃくさん
ま き え
そ
どしょうさん
ぜい
さげじゅう
きちれい
いて,正月雑煮や屠蘇酒の吉例行事の起源となっ
ちょうし
もある)や重箱を携えて,花見や茶会を行ったの
た。現在のような鏡餅を供え,雑煮を祝うなどの
ではないかと思うが,正月の料理を重箱に入れて
正月の風習は室町時代からのものである。
いた記録がなく,やっと寛政(1789 ~ 1800)ご
1-2)なぜ「おせち料理」と呼ぶのか?
ろから,祝い肴(数の子・ごまめ・黒豆など)を
「おせち」ともいう。おせちは「御節」と書き,
せち び
お せ ち く
重箱(第2図)に詰めるようになったようである。
正月や五節供などの節日に神に供える御節句の略
これは,明治時代に入っても引き継がれ,元日
で,節日に神に供えた神饌を下げて,家族が食べ
には「御節」といって,だいこん・にんじん・や
る直 会の食べ物が本来のおせちであり,正月に
つがしら・ごぼう・こんにゃく.焼豆腐・青昆
限ったものでは本来なかった。しかし,江戸時代
布・ごまめなどを煮たものを食べ,塩引きの鮭を
の書物(柳亭種彦の『用捨箱』(1841))に「節供
食膳に出すのが通例で,その他に「喰積」といっ
は節日に神に供える物のことをいうのに,女子供
て数の子・煮豆・昆布巻・ごまめ・たたきごぼうな
は,節供を略した節を正月の食物の事と思い違い
どを重箱に詰めておき,食膳の物として食べたり,
なおらい
さけ
くいつみ
せち
食品と容器
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2015 VOL. 56 NO. 1
▪ おせち料理について▪ 第1図 江戸庶民風俗絵典(三谷一馬;三崎書房,p.192,193)
年賀の客にもすすめるとある。
しの準備を少しでもお手伝いできないものか " と
大正時代になり,日本で初めて出版された主婦
いうコンセプトで,当時の大阪支店よりおせちの
向け料理雑誌に正月の重詰料理(料理の友.大正
販売がはじまる。おせち用の食材は大正11年より
4年正月号)が取り上げられていることより,こ
販売していたが,調理済みのおせちはこの時が初
の頃には,一般的に正月の料理が重箱に詰められ
めてであった。これが百貨店初のおせち販売であ
るようになったようである。
る。初年度は手間ひまかかる田作りや勝栗,はぜ
かち ぐり
1-4)百貨店での販売(大阪の三越より)
昆布巻き,黒豆,煮染めなどの他,約30種類の料
理と組重御料理を販売したとある。翌年の昭和6
昭和5年(1930年),三越は“慌ただしい年越
①
②
江戸時代のある公家の元日昼の祝膳
(3点とも「三条家奥恒例年中行事」から模写)
なます
御祝御膳(①右上)--- 飯,高盛(膾,煮物,御汁,焼物(小鯛など)
屠蘇の祝(①左上)
重箱に入れた料理(②)--- 上:かずかず(数の子),二:ごん(ごぼう),
三:ごまめ・くしかい(串貝),下:黒豆・梅干
第2図 江戸時代(1855年)のある公家の元日 昼の祝膳 (松下幸子;祝いの食文化,東京美術(1991),p.110)
食品と容器
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▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
第3図 ヘルシーおせち
年には,5人前・7人前・10人前の3種類の組重
に仕上げ,カロリーに配慮したなどのおせちの販
から選ぶ現在のスタイルを確立している。そして
売も登場している。(第3図)
昭和42年には,日本橋三越本店の特別食堂に出店
していた永田町の老舗料亭・瓢亭がおせちを販売。
2.家庭でのおせち
当時,大学卒の初任給が3万円未満であった時代
2-1)作られる割合
に,4万5千円のおせち40個が売り切れたことか
さて,家庭で正月料理はどの程度作られている
ら世の中に「買うおせち」のさきがけとなったと
のであろうか。
いわれる。
JA 全中が平成25年に行った「おせち料理に関
1-5)平成のおせち
する意識調査」によると,おせち料理の手作りに
さて,平成時代のおせち料理はいかなるもので
ついては,「全て手作り」している家庭は7.3%,
あろうか。有名料亭のおせち料理だ
けでなく,健康志向をうけて「から
だにやさしいおせち」として,薄味
第4図 おせち料理を手作りしている割合
食品と容器
第5図 手作りするおせち料理手作りをする者のみの回答(数回答 n=403)
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2015 VOL. 56 NO. 1
▪ おせち料理について▪ 「ほとんど手作り,一部購入」23.8%,「ほとんど
の男女 1000 人を対象実施(調査方法=インター
購入,一部手作り」33.2%で,購入もしているが
ネット,期間:平成25年9月27日~9月30日)。 2-2)重箱につめるか
手作りしている家庭が6割程度であった(第4
図)。
河野が行った1997,1998,1999年の「家庭にお
具体的にどんなおせち料理を手作りしているの
けるおせち料理の伝承について」の調査によると,
かについては,
「筑 前煮・煮しめ」が55.1%で一
正月の行事としておせち料理を祝う家庭は,祖父
番多く,昔と変わっていないことが伺える結果で
母との同居で異なり,同居世帯では91.1%で9割
あ っ た。 つ い で,「 な ま す 」41.7 %,
「黒豆」
の家庭で,別居世帯では83.3%で8割の家庭で
40.9%,「卵焼き」39.5%と,それぞれ約4割で
行っていた。別居世帯で低かったのは,正月を親
あった(第5図)。
戚の家で迎えるために家族だけで祝わなかったも
ちくぜん
また,その手作りの手本は「自分の母から教
のが含まれている結果であるので,別居世帯で祝
わった作り方」が54%と半数以上を占め,特に20
う比率が低い訳ではなさそうであった。おせち料
代で高い傾向であった。さらに,手作りしている
理を重詰めにする家庭は,どちらの家族構成にお
人の約8割が,家庭の味を次世代に伝えたいと回
いても約50%と少ない結果であった。重詰をしな
答していた。
い家庭では大皿に盛り付ける,盆などに一人分
出典:全国農業協同組合中央会,20 ~ 60 歳代
盛りつけるといった日常とは異なった配膳方法を
第1表 おせちに使われる食材のめでたい由来
食 材
由 来
ごまめ
ごまめはカタクチイワシを生のまま乾かしたもので,同じカタクチイワシを原料とした煮干しが,ゆでてから乾かす
のと違いがある。ごまめは五万米の文字を当て,米の豊作祈願の縁起でおせちに用いられる。また「田作り」の名も
これにちなみ,昔,田の肥料としたことから起こったともいわれる。
黒豆
黒豆はその色が黒いので,野良に出て働く田夫の健康と勤労を意味し,おせち料理では祝い肴の一つとされている。
かずのこ
かずのこはニシンの卵巣。アイヌ語で,ニシンのことを「かど」と呼び,
「かどの子」がなまって「かずのこ」と呼ばれる。
子だくさん,子孫繁栄の縁起となったといわれる。
えび
海老の字は,長いひげと腰が曲がっているところから付けられたといわれ,海の老人のたとえから長寿を表し,めで
たいとされる。
たたきごぼう
正月に牛蒡を用いるのは,根が地中深く入るところから,家の基礎が地の底まで堅固であることを祈る意味があると
いわれる。
栗きんとん
栗きんとん(栗金団)は,その名のように金色,財宝を意味する。
日の出かまぼこ
かまぼこの表面に紅色で染めた生身をつけて仕上げたもので,祝い膳には欠かせない。とくに正月の儀式は初日の出
の礼拝から始まるように,「日の出蒲鉾」は,重要な意義をもった縁起ものとして詰め合わせられるようになった。
錦たまご
卵黄と卵白を重ねた蒸し物で,黄色と白色を金銀に見立て,錦たまごとなった。錦とは元来,金銀などの縫いのある
華麗な絹織物のことで,財宝を意味する。
だて巻き
伊達巻と書き,長崎におこった卓袱料理の口取りの一つ「カスティラかまぼこ」が江戸に伝えられて,伊達巻と名づ
けられた。普通,伊達巻とは帯の一種をいい,巻いて保存する形が料理名になったともいわれる。また,伊達には美
しく見せるというような意味があるのと,巻き物は文物を尊ぶという縁起もあり,おせち料理に使われる。
八つ頭
八つ頭は里いもの仲間で,親いも用品種に属する。八つ頭は関東で多く栽培され,えびいもは関西で多く栽培される。
名前が人の頭になるという縁起がある。また,昔のおせちは野菜のうま煮や煮しめを唯一のごちそうとしたと伝えら
れるように,八つ頭の煮物はその代表格であった。
きんかん
きんかん(金柑)はミカン科に属し,冬には黄金色に熟してその皮が甘く生食にも適す。果汁は酸みが強いので,甘
く煮ることが多い。おせちに用いられる所以は,きんとんと同じで,その文字が財宝を意味することによる。
紅白なます
紅白なますの紅白は,平安を意味する。
昆布
こんぶがよろこぶと同音である縁起から,用いられる。
ごぼう
だ
食品と容器
て
けんご
しっぽく
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2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
更に二段重,一段のものもある。重詰めで注意し
行っていた。
たいことは,お重の縁よりも高く詰めないようす
いわ
3.おせち重詰め(三段重)の謂れ
ることである。一品でも高く盛りつけると,重が
ぴったりと重ならない。
おせちの重詰めは普通四段重が用いられる。一
また,おせちに使う食材には様々な由来があ
の重は祝い肴,二の重は口取り,三の重は鉢肴,
与の重はうま煮などというように,区分して詰め
り,言葉には魂が宿ると信じられている日本なら
るしきたりがある。ところが,本来は二の重に詰
ではの,おめでたい語呂や長寿の願いがこめられ
められた口取りが甘くておいしく人気があるため,
た料理名や食材が使われていることが分かる(第
一の重に入れ替わり,地味に見える祝い肴が与の
1表)
重に移るなど,詰め方にも変遷がみられる。
4.郷土のおせち
近ごろは三段重が多く用いられる傾向があり,
4-1)山梨のおせち料理(第6図)
甲府盆地周辺は,江戸時代,天領で
あったので,商業が栄えるとともに,江
戸風の重詰おせちがよく作られた。
写真上左から,一の重は,ごまめ,昆
布巻き,黒豆,紅白かまぼこ,数の子。
二の重は,厚焼き卵,紅白ようかん,黄
身がえし(二色卵),栗きんとん伊達巻
き。三の重は,さといも,きんぴらごぼ
う,凍み豆腐,鶏肉の甘辛煮,矢羽酢ば
す,こんにゃく,にんじん,くわい,結
び酢かんぴょう,しいたけ。中央左の,
ゆ
ず
蓋物は紅白柚子なます。右は酒の肴の塩
たい
第6図 山梨のおせち料理
(週間 朝日百科86 世界の食べもの日本編 郷土の料理⑥長野・山梨・岐阜)
かす
辛。下は左から鯛の味噌漬けと鮭の粕漬
け。皿盛りとして酢だこと煮貝。えびの
姿茹でである。
4-2)飛騨のおせち料理(第7図)
新年の膳には富山から入るひと塩のブ
リの大きな切り身を焼いて,大根なます
の上に盛り付ける「あざし」(右)があ
れば,何はなくとも上等の年越しとされ
た。不作の年にはブリの代わりにゆでイ
カを付けたものである。また,正月にす
しといえば,新巻き鮭を使った大根ずし
(左上)か塩マスで作るねずしで,いず
こうじ
れも麹で発酵させたなれずしである。さ
わん
らに煮物椀 の「おひら」(左下)は,だ
第7図 飛騨のおせち料理
(週間 朝日百科86 世界の食べもの日本編 郷土の料理⑥長野・山梨・岐阜)
食品と容器
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いこん,にんじん,ごぼう,さといも,
2015 VOL. 56 NO. 1
▪ おせち料理について▪ こんにゃく,糸昆布を煮干しとともに弱火で気長
ぴりっときかせる。
に煮込み,醤油で味付けしてから,下ろしぎわに
なお,京都には正月の三が日,手をつけないで
かまぼこを入れたもの。この3品のほかはごく普
ただ据えておくだけの“にらみ鯛”のほか,干支
通の田作り,黒豆などが添えられる。
の鯛というのがある。これはその年の干支の人と,
三が日に干支に入る人には,ひとり1匹ずつ尾頭
4-3)加賀のおせち料理(第8図)
つきの塩焼きを膳につける習わしである。
家族の御馳走というより,年賀に来たお客様の
ものといった意味あいが強い。家紋を散らした立
ま き え
派な高蒔絵の重箱に . どこから箸をつけたらいい
のか迷うほど丁寧な詰め合わせをする。
厳粛な儀礼的な意味のものなので,詰め合わさ
れる料理の量も家族の人数に関係なく,主人の交
際の広さに応ずるから,1尺角の五段取に50人前,
100人前などというのも珍しくない。
写真上の「祝肴重」には,数の子,黒豆,田作
ゆう あん
り,まながつお祐庵焼き,紅白板付かまぼこ。写真
いちご
くじゃく
下右の「口取り重」には,初雪苺,鮎西京漬,孔雀
巻,くまじく茸煮,錦たまご。写真左の「煮物重」
第8図 加賀のおせち料理
には,たら子昆布巻,高野豆腐博多煮,とこぶし
富久良煮,梅人参,しめじつや煮が詰められている。
(週間 朝日百科88 世界の食べもの日本編 郷土の料理⑧新潟・富山・石川・福井)
4-4)京都のおせち(第9図)
煮染めを入れるお重(重箱)は4重ねである。
京都ではおせちとはいわず,組み重と言い習わし
てきた。今は家族も少なくなり,生活様式も変
わってきたのでそうもいかないが,従来は一の重
にはごまめ . 二の重には数の子 . 三の重にはたた
きごんぽ(ごぼう)を入れ,一番深い四の重に煮
染めを詰めた。煮染めは金時にんじんを梅の花形
たけのこ
に切って甘く煮たもの,れんこん,くわい,筍,
子いもなどを色美しく炊いたのを取り合わせる。
こんにゃくは真ん中に一筋包丁を入れ,くぐらして
手綱に。これらはまずゆで,昆布とかつおでとっ
ただしに,砂糖とうす口醤油で味付けして,ひと
つずつ別々に炊く。
近ごろは黒豆を3日ほどもかけて煮たぶどう豆,
いも ぼう
棒ダラとえびいもをたき合わせた芋棒などもいっ
しょに入れるようになった。ごまめは必祝い物だ
から頭を落とさぬように気長に炒って砂糖,うす
第9図 京都のおせち料理
口・濃い口醤油を合わせてからめ,タカノツメを
食品と容器
(週間 朝日百科89 世界の食べもの日本編 郷土の料理⑨京都)
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▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
第11図 鹿児島のおせち料理
(今村知子;私の鹿児島料理,
柴田書店 (1984),p.26,27)
第10図 志摩・安乗のおせち料理
4-6)鹿児島のおせち(第11図)
(週間 朝日百科91 世界の食べもの日本編 郷土の料理⑪滋賀・三重・和歌山・奈良)
薩摩ならではのおせち料理として,二の重につ
け揚げ(さつま揚げ),こが焼き(魚のすり身を
4-5)志摩・安乗のおせち(第10図)
入れて作る玉子焼き),がね(そば粉の衣に,ご
家内中がそろって祝膳についたときの御馳走のこ
わせて揚げたもので,かにに似ているところから
とをいった。赤飯,尾頭つき焼き肴1匹(これは
の呼び名),つやよく煮含めた乳白色の十六寸豆
何の魚ととくに決まってはいない)に煮たさとい
などが見られる。また,昆布巻きもブリやサバを
も,ごぼう,高野豆腐,細切り昆布を盛りつけた
芯にしている。
もの,だいこんとにんじんのなますといったもの
以上,各地特有のおせちを見てきたが,これら
が標準的な組み合わせである。
が食の文化と共に各地で今後とも伝承されて行く
あ の り
ぼう・さつまいも・しょうがのせん切りをまぜ合
志摩・安 乗おせちは . もともと大みそかの夜,
ことが望まれる。
参 考 文 献
1)祝いの食文化;松下幸子,東京美術(1991)新版日
2)伝承日本料理;柳原敏雄,日本放送出版協会(1977)
本食物氏-食生活の歴史-;樋口清之,柴田書店
3)家庭におけるおせち料理の伝承について;河野篤子,
(1997)
食物学雑誌,第55号,200,9-13
食品と容器
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2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
雑煮の歴史と文化
おく
むら
あや
お
奥 村 彪 生
伝承料理研究家
1.雑煮以前に菱花びら餅があった
あった。直接,味噌で味をつけるとお目出度い席
室町時代,足利将軍家では正月に薄くて丸い花
澄ましたのである。
びら餅に菱形に切った紅色の餅を重ねた菱花びら
雑煮の具は見ての通り,縁起のよい海山里の幸
餅を焼いて食べていたようだ。菱花びら餅の記述
で構成している。干アワビは不老長寿を意味し,
は京都の吉田神社の神職をしていた鈴鹿家の日記
目を明るくする。干ナマコは別名俵子と呼ばれて
に出てくる。「昼過主君(義詮か)ヱ菱花ヒラ出
おり,豊作と金運に。結びのしや結びワラビは夫
ル三木(長方形の木片)スルメ煮シメ牛蒡出ル」
婦を結ぶにかける。ワラビは笑う。搗グリは勝つ。
を汚す(味噌をつける)といって縁起が悪いから
さ ん ぎ
つい たち
丸子餅は円満を表し,餅は望に通じ,望みが叶え
[貞治3年(1364)1月朔日]とある。
うちくらのりょう
み
ず
し しょ
安土桃山時代に皇室の内蔵寮と御厨子所を管掌
られる。これらは開運を願う食べ物ばかりである。
していた山科言継卿も領地の大宅卿から届けられ
た花びら餅を雑煮に仕立て,正月を祝ったり,溜
3.公卿や武家も来客の酒肴に用いる
醤油焼(雉焼)にして酒肴にしている。
しゅこう
この雑煮の文化が公卿に伝わるとその名がよろ
宮廷では菱花びら餅を鏡飾りとして用いていた
しくないと言って,烹雑と名を変えた。貴族がこ
が,明治4年からその上に下煮した牛蒡を乗せ,
の烹雑を用いた記録として最も早いのは『山科家
白味噌を塗って折り畳んだ軟らかい包み雑煮を食
礼記』である。先に小笠原流の雑煮の具材を示し
べ始めたと,川端道喜氏は書いている。
たが,それより以前にこの日記に初めて具材と味
2.雑煮は京都生まれ,京都育ち
付けが紹介されている。その記述は「飯田・富松
ほう ぞう
よひ(び),餅ニイリコ(干ナマコ)マルアワビ
(干アワビ),スルメ,マメ(ゆでダイズ)入テタ
雑煮は室町時代に京都で誕生した。足利将軍家
レ味噌ニテクワス,酒候也…」[明応元年(1492)
や上級武家の婚儀に際し,お嫁さんのお色直しの
時,夫婦が末長く,固く結ばれることを祈って
さかずき
さかな
「固めの盃」を交わす酒の肴として用いた。現在
と異なり,両親のみ参列した。
その雑煮の具は安土桃山時代の『小笠原流礼法
秘伝書』によると「御まいり肴」と呼び,「干ア
ワビ,干ナマコ,結びのし,結びワラビ,搗グリ,
コブ,餅」とある。ダイズと大小ムギ,塩で作っ
から み
そ
た唐味噌を水で溶き,煮詰めて布袋で漉した澄ま
たれ み
そ
し味噌(垂味噌)で煮ている。水溶きした唐味噌
なま だれ
に ぬき
を漉した生 垂 に花鰹を加えて煮て漉した煮 貫 も
食品と容器
山科家の雑煮 再現:奥村彪生
19
2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
旧暦8月1日]。この山科家の子孫たちも安土桃
ナズナ,結び昆布」を具にしている[長享2年
山時代になると大切な来客に季節を問わず酒肴と
(1488)正月元旦]。寺ゆえ餅に組む具材は精進で
して用いている。京都は内陸部にあった都ゆえ,
ある。安土桃山時代になると寺方ネットワークで
海の幸の多くは干物であった。干物だから季節を
伝わり,奈良興福寺や大阪石山本願寺,上野(現
問わずに使える便利さがあった。
群馬県)の永楽寺などの寺院でも祝っている。大
群雄割拠の戦国時代になると,織田信長はお互
阪の石山本願寺(浄土真宗中興の祖といわれる蓮
いの信頼を固めるために徳川家康を安土城に招き,
如が開山。その末子の実従の日記)では師走の25
饗宴(式三献形式)の初献の酒肴として雑煮を出
日の大掃除のあとでも祝っている。また正月の雑
している。また豊臣秀吉は朝鮮に出兵する武士達
煮には組付と称して数の子や海老,昆布などが添
に,肥前(現佐賀県)名護屋で茶会を催し,雑煮
えられている。これがのちに組重に変容する。そ
を振舞っている。また,自ら前田利家邸を訪れた
して戦国末期には京都の大商(大きな商店)でも
時は雑煮が最初に出され,酒を献盃されている。
祝うようになり,具は金閣寺のものと似ているが,
信長や秀吉が用いた雑煮の具は小笠原流に準じた
ダイコンが加わり,ナズナは菜の花になっている。
ものであろう。
寺院や大商では味噌汁だったと考えられる。
4.正月に雑煮を祝ったのはいつごろか
江戸初期の儒家である貝原益軒によると三ケ日
5.江戸初期,雑煮の味付けは垂味噌と
味噌仕立て
餅を食べるのは,中国で正月に固い飴(膠牙錫)
江戸初期,武 蔵 国 狭 山で書かれた地方料理も
を食べたり,立春の日に春餅(春巻)をすすめる
加わっている『料理物語』[寛永20年(1643)]に,
こうづけ
おおだな
からがせい
む さ し のくに さ や ま
ちゅんぴん
「雑煮は,中(辛)みそ又すまし(垂味噌)にて
習俗に習ったのではないかとしている(日本歳時
記)。
も仕立候。…」とあり,具は先に挙げたものが列
さて,正月の雑煮祝いの記述で最も早いのは,
挙されている。このころまだ醤油は普及していな
先に紹介した京都吉田神社の日記である。「上刻
い。
ウタイ(謡曲) 初 祝,その後に雑煮御酒被下」
6.京都では江戸中期に貧乏人も雑煮
を祝う
はじめのいわい
[北朝貞治3年(1364)1月2日]とあり,3日,
8日にも祝っている。
その後,正月に雑煮を祝う文化は禅林(寺)に
雑煮は京都で誕生してから庶民にまで普及する
も広がり,京都北山にある鹿苑寺(金閣寺)では
のは早い。雑煮は京都生まれの京都育ちといえる。
冷や酒に添える雑煮は「丸小餅,豆腐,サトイモ,
京都の年中行事を書いた『日 次 記 事』に『今 朝
ろくおんじ
ひ なみ き
りょうせんぞうにを
じ
け
さ
く ら う
良 賤 食 二雑煮一』
[貞享2年(1685)元旦]とある。
このころは昆布だしを用い,白(甘)味噌仕立で
ある。昆布でだしを引く文化は室町時代からあり,
白味噌は戦国末期か江戸初期にあったと言われて
いる。京都の市民の雑煮の具が分かるのは江戸後
期の商家の記録である。文政7年(1824)の記録
では午前4時ごろに起き,「年男(一家の主人か
長男)が汲んだ若水とおけら火(大晦に八坂神社
きよ
でもらう浄められた火種)で雑煮を煮る。雑煮,
もち,頭いも,こんぶ,大根,小いも,花かつほ
鹿苑寺(金閣寺)の雑煮 再現:奥村彪生
食品と容器
20
2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 雑煮の歴史と文化▪ かけ」とある。1700年代初めごろから京都では雑
しかし,開府当初江戸城で正月に雑煮祝をしたか
煮祝いが儀礼化している。年の初めの邪気を祓っ
どうかは分からない。おそらく元禄のころ将軍綱
た若返りの水と浄められた火で稲魂が宿る丸小餅
吉の家老であった吉良上 野 介義央のころは祝っ
と冬野菜を年男がひとつ鍋で煮る。それを年神様
ていただろう。その理由は吉良家が駿府(現静岡
と家族が分かち合って食べる直会としての政事に
県)の高家で,安土桃山のころからあり,今川流
なっている。そのために雑煮箸は両細(菱箸また
を継いだ吉良流作法の家元である。吉良流では雑
は太箸とも言う)になっており,一方は人,片一
煮の餅は四寸四方(約12cm 角)の角餅(のし餅)
方は神様が食べる神人共食用になっている。
で,具はのし鮑,昆布,搗栗,ことのばら(田作
頭芋は人の頭になるようにと一家の主人と長男
り),串鮑,若菜であった。おそらく吉良流に
に入れた。現在もそうしている。子芋は子孫繁栄
のっとった雑煮を祝っていたのではないか。のし
を願う。花鰹をトッピングするのは,雑煮祝は神
餅は敵をのすに通じ,焼けばふくらんで角が取れ,
事であるから,精進(具は野菜で構成されてい
福がくるにつながる。
る)でないことを示すためである。
それを示す資料があり,天保7年(1836)の
なおらい
こうづけのすけ
まつりごと
7.地方へ普及するのは元禄以後である
『東都歳時記』に,徳川家の雑煮に触れ,「餅,大
元禄のころになると貨幣経済が発展して金を
ナマコ),昆布,(干)鮑」とある。もちろん,こ
持った者が社会を動かすようになる。まずは商都
の時代の徳川家の雑煮餅は角餅である。そして第
大阪に伝わる。しかし,大阪の作家,井原西鶴に
11代将軍家斉[文政年間(1823ごろ)]の記録で
よると8年間雑煮を祝えなかった話やサトイモや
は「御臓煮もち,里芋,長菜(小松菜か),平昆
ダイコンばかりの餅なし雑煮の話が出てくる。ま
布,花かつほ」と質素になっている。
た,江戸後期日本一の豪商になる鴻池家も,創立
りの雑煮だったと言う。蕪を輪切りにしたものを
9.雑煮文化の全国化は江戸後期の
武家から
鏡蕪と呼ぶ。ということは年の暮れの餅が搗ける
徳川時代になると各藩の藩主は参勤交代で江戸
か搗けないかで,その家の経営状態が分かった。
住まいをする。その時に将軍家の習わしを学び,
その鴻池家の正徳年間(1711 ~ 1715)の雑煮
国元へ持ち帰る。江戸城で正月雑煮祝はいつごろ
は「松鰹,餅,大根,里芋,焼豆腐,結昆布」で
始まったか分からないが,おそらく元禄のころに
ある。この雑煮に簡単な本膳と二段重の組重(正
はあった。文化12,3年(1815 ~ 16)ごろ,江
月組重の初見で元日のみ)が添えられている。こ
戸の国学者屋代弘賢等が,各藩の雑煮の具と味付
の本膳を年迎膳という。
けを調査した時の返書が18通残っている。その質
大阪近郊の河内にも元禄のころ伝わっており,
問状には「菘(小松菜),いも(里芋),大根,人
石川村の酒屋の正月の記録に出てくる。また,同
参,田作(吉良流の影響か)など,其外に何等の
時代に名古屋にも伝わっており,名古屋城で畳奉
物候やらん」とある。その他の記録と合わせると
行をしていた百石取の朝日文左衛門がある家の婚
藩主と城下の武家とは内容は異なる。武家でも位
儀の席で食べたと日記にしたためている。
によって異なっていた。
8.徳川家の雑煮
味付けは,徳川家では享保のころ(1716 ~ 35)
先に書いたように,江戸幕府を開いた徳川家康
てになるのはそれ以後で,大阪から菱垣廻船や樽
は織田信長の招きで安土城で雑煮を食べている。
廻船で運ばれてくる下り醤油が江戸に入ってから
根,牛蒡,焼豆腐,芋(サトイモ),くしこ(干
つ
者の山中鹿之助のころは餅が搗けず,カブラばか
かぶ
か つ お
食品と容器
あおな
までは垂味噌か煮貫であったであろう。醤油仕立
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2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
のことである。1800年代初めは各藩では味噌汁が
ことで,味付けは味噌汁だった。
多く,醤油と味噌汁両方あるとしているのは水戸
幕末の思い出を綴った『江戸府内絵本風俗往来』
藩で(銚子や野田の地廻りか)
,福山藩ではまれに
によると「中等以上の暮らしをする武家や大商の
醤油があると報告している。伊達藩主はカツオ節
家では小松菜,大根,里芋を通常とし,味噌汁を
でだしを取り,干アワビや身欠ニシンを具にして
用いる所もあり,餅も焼く,湯煮する」
。中等以
いたから仙台味噌の垂味噌ではなかったか。城下
上の暮らしをする家では醤油仕立てのすましが多
の武家は焼ハゼである。日本料理が完成期を迎え
かったが,庶民は未だ味噌汁であった。この江戸
る文化・文政以後,醤油が全国的に流通する18世
の庶民の雑煮が後進地の東日本一帯に伝わり,土
紀後半か19世紀初めには江戸風の醤油仕立ての藩
地土地の産物を用いた。ただし,秋田佐竹藩では
が多くなり,大名のいない京都や大阪を中心に白
安土桃山時代に京都で藩主自ら雑煮を食べた経験
味噌仕立てが残ったと考えられる。そして,福井
があり,江戸初期には正月に雑煮を祝っている。
は赤味噌であった。
11.現在の雑煮文化が確立するのは
明治後半
10.江戸の庶民が雑煮祝いをできるのは
江戸末期 賃搗餅屋が出現してから
明治のご一新で肉食が大っぴらに行われるよう
江戸の街は元禄以後百万都市になるが,山手に
になる。明治44年の『東京年中行事』には,
「雑煮
武家や神職,僧職者など半数が住み,残りの半数
は簡略化され,二,
三種の具を用い,家々で異なり,
の庶民は,山手を造成する時に出た土で江戸湾を
鴨,鶏,牛肉など用いる」とある。江戸末期には
埋め立てた下町に住んだ。その庶民の多くは間口
鴨肉を団子にして用いた例はあるが,鶏肉や牛肉
九尺,奥行二間の三坪六畳の長屋に住んだ。餅を
などを雑煮に用いるなどもってのほかだった。
搗く臼や杵の置く場所もない。武家や社家,寺院,
その明治の後半に全国の雑煮を調査したご仁が
使用人の多い大商では日を定めて正月の餅は搗い
おり,その結果を『名物諸国料理』(明治39年,
たが,長屋住まいのトラさんや八っさんらは賃搗
奥村彪生蔵)に丁載している。それを資料にして
餅を利用した。
雑煮マップを作製したところ,現在とほとんど変
賃搗餅屋(引きずりともいう)が江戸に出現す
わっていない(第1図)。
るのは宝暦(1751 ~ 64)のころらしい。年の暮
その雑煮の型は明治のご一新で各藩で平準化し
の12月15日から大晦日まで賃搗餅屋は早朝から夜
た。武家社会が崩れ,「武家は平民化し,平民は
更まで移動しながら搗いた。その杵の音は江戸四
逆に武家の真似をした一種の下克上だ」と私の恩
里四方に響き渡ったという。
師,篠田統氏(日本の食文化研究の草分け者)が
おおだな
信州から江戸に来ていた俳人小林一茶は『八番
『米の文化史』に書いておられる。そのために雑
日記』[文政4年(1821)]に次の句を残している。
煮の味付けは味噌汁から醤油すまし仕立てに変え
賃搗が隣へ来たと云ふ子哉
た土地が多くある。現在公表されている雑煮は大
のし餅の中や一すじ猫の道
名家のものが幾つかあるが,その多くは明治後半
賃搗は忙しいから,上方のように1ヶずつ丸め
にできたものである。
ていては時間がかかり,商売あがったり。稼ぎを
上げるために一気にのした。少し固くなってから
12.雑煮の文化圏は4系統
家人が四角に切った。それを酒樽(一斗樽)か餅
現在,全国で食べられている正月の雑煮を分類
ぶた(長方形の浅箱)に入れた。江戸の長屋住ま
すると4系統に分かれる。
いの人達が正月に雑煮を祝えるのは18世紀以後の
①味噌仕立て,丸餅。京都の公卿・町衆風。京都
食品と容器
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▪ 雑煮の歴史と文化▪ 第1図
かち栗、かや、かずのこ
若菜、焼たいの切り身
明治後半の日本雑煮マップ
江戸時代末期の名残が見え隠れする。
町方は清汁、小かぶとその菜
きな粉、だいこん、ごぼう、
油揚、こんにゃく、するめ、
鮭はららご、塩鮭の服部
、
焼豆腐、だいこん、ごぼう、
鮭のはららご、里芋、油揚
きな粉、だいこん、里芋、
かまぼこ、鮭はららご
、だ
いこん、焼豆腐、里芋、頭芋
・山城伏見の雑煮:京によく似る。
信州松本の雑煮:切
、だいこ
ん、にんじん、ぶり
ごぼう、にんじん、だいこん、
はららご、かまぼこ、せり
、だ
いこん、ごぼう、里芋、豆腐
汁、ぶり、はまぐり
小松菜、里芋、にんじん
川魚、かまぼこの卵とじ
は清汁、里芋、だいこん、ぶり
ごぼう、にんじん、干えび
周防の雑煮:平たい丸
にんじん、油揚、干えび
里芋、こんぶ、みつば
こん、にんじん、里芋、ごぼう
、だ
いこん、にんじん、小鳥の丸
たい、京菜、かまぼこ
清汁、にんじん、ごぼう、
かまぼこ、小松菜
く、清汁、だいこん、
ごまめ、こんぶ、水菜
芋、ごぼう、にんじん、水菜
とり肉、頭芋、だいこん
伊賀の雑
高松の雑煮:丸
、だ
いこん
小松菜、里芋、かまぼこ
油揚、豆腐、里芋、だいこん
清汁、豆腐
、
を焼く、 、だい
こん、里芋、豆腐
白味
、だいこん、焼豆腐、頭芋
、
だいこん、里芋、にんじん
里芋、黒砂糖をかける
奥村彪生作図
第2図
食品と容器
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▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
を中心に大阪,奈良,兵庫,和歌山の北部,香
の中から変わった雑煮の幾つかを挙げる。青森県
川県(明治39年以後),徳島,福井など。福井
八戸では鯨の黒皮(塩漬の脂身)が入る。鯨のご
や徳島の山間部は赤味噌。他は白味噌である。
とく大きくなることへの願いか。岩手県盛岡のク
②醤油すまし仕立て,角餅。武家(江戸)風。東
ルミだれ。餅につけて食べる。千葉県海岸通りの
日本一帯。
ハバノリ。幅をきかせるといってこれだけトッピ
③醤油すまし仕立て,丸餅。武家(江戸)風と公
ングする家がある。東京都府中市の三日月餅。平
卿・町衆(京都)風の折衷型。西日本。
たい丸餅を3つに切る。愛知県は餅菜(小松菜に
④小豆汁仕立て,丸餅。因幡・出雲地方の都市部。
似る)だけ。名を持ち上げるにかける。福井県の
室町時代の京都の古風がこの地に伝わり,残る。
蕪雑煮。株を上げるに通じる。京都市山間部の甘
室町のころ京都の上流階級では,正月に善哉餅
を祝っていたことは関白一条兼良が著した『尺
素往来』に見える。
なお北海道(北の食文化・アイヌ食文化圏)は
明治以後に移住した人達によって雑煮文化が持ち
込まれ,ここは現在では雑多である。沖縄(南の
食文化・琉球食文化圏)では雑煮祝いはなかった
が,現在,雑煮を作る家が出てきた。雑煮文化は
本州,四国,九州を結ぶ中の食文化(日本型食文
出雲の小豆雑煮 再現:奥村彪生
化圏)であった(第2図)。
13.丸餅,角餅の分岐点は関ヶ原
私は日本のめん食を調査するために2007 ~ 8年
と2年間にわたり47都道府県を行脚した。ついで
に雑煮も採録した。丸餅,角餅の分岐ラインはう
どんのだしの濃き,淡きの分岐ラインや東西言葉
の違いの分岐ラインとほぼ一致する。
分岐点になる丸餅,角餅が混在する岐阜県大垣,
まつとう
関ヶ原から丸餅は,北は福井県,石川県白峰,松任,
鹿児島の海老雑炊 再現:奥村彪生
加賀を通り,角餅,丸餅が混在する金沢を抜け,
能登穴水から富山県魚津を通過して,新潟県佐渡
を更に北上して山形県鶴岡,酒田と結ばれる。逆
に南下すると滋賀県から三重県名張(飛地として
伊勢)
,和歌山県新宮を西南へ寄ったラインとなる。
しかし,彦根市は丸餅だがすまし派が多い。藩主
の井伊家は遠州出身だから京都風と折衷したので
ある。人の移動で食文化も移動する何よりの証だ。
14.変わり雑煮のいろいろ
宮城県塩竃の干ホヤ雑煮 再現:奥村彪生
雑煮ほど地域の特徴を表した食べ物はない。そ
食品と容器
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▪ 雑煮の歴史と文化▪ 味噌包み餅の具なしの湯雑煮。神戸市長田では鯨
鶏肉は東北,関東,東海,九州などである。北海
肉。昔捕鯨船に乗っていた人がこの地区に多くい
道では豚肉を用いる家がある。長崎は中国の卓袱
る。奈良県山辺のきなこ雑煮。きなこを稲の花に
料理(中国風の料理)の影響を受け,鰤の他に鶏
見立てて餅につけて食べる。福井県小浜では黒砂
団子や干なまこが加わる。
糖をトッピング。香川県では小豆餡餅の白味噌仕
野菜は大根,人参は全国的だが,里芋は関東,
立て。ここは歴史は浅く明治39年(1906)以後で
近畿,中国,四国,九州に多く見られる。ごぼう
ある。鳥取県八頭は栃餅,鹿児島は頭芋に大豆も
は東北に多く,関東や信越,北陸,中国,九州の
やしをかつらにして出世を祈る。
一部に見られる。蕪は福井の他に山口でもよく使
や
しっぽく
ず
う。そして青味は,せりは東北,信越,小松菜は
15.だしにも地方色あり
関東,東海。水菜(またはみぶ菜)は京阪中心に
雑煮の味をうまくするのはだし。だしの文化は
関西や中国地方の一部。ほうれん草は中国地方や
中国伝来だが,室町時代に奈良時代からあった昆
四国の一部である。岩のり(十六島海苔)は鳥取
布(kombu:アイヌ語)や鰹節(麁鰹魚)を使っ
の弓浜や大山。その他三つ葉や高菜など冬野菜が
て引く文化が生まれた。味噌や醤油の製法も中国
中心になっている。
伝来である。雑煮の発生地の京都は昆布。大阪は
鰹節を併用。鰹節は東京を中心に関東,北陸,東
17.なぜ雑煮の具に地方色があるのか
海地方で主に用いる。煮干は青森,山形,茨城,
日本列島はユーラシア大陸の東端に位置する亜
兵庫,香川,山口,高知,宮崎などに及んでいる。
寒帯から亜熱帯までに属する島国である。北から
アゴ(飛魚)は北九州,焼ハゼは仙台を中心に,
寒流が南下し,南から暖流が北上し,日本列島を
東京の葛飾区でも用いる。宮城県塩竈では焼ハゼ
包む。その上,地形が変化に富む。そのために,
の外に焼ドンコ(エゾアイナメ)や干ホヤ,釜石
地域で気候風土が異なるために,産物は異なる。
では生ホヤを用いる。焼干アナゴは広島の尾道,
その産物を利用して雑煮を作るとなるとおのずと
因島。アサリ貝は山口県岩国。草フグは秋田県男
地域色が出る。その上,家柄や職業ならびに収入
鹿,福島県岩城,広島県福山。するめは石川県小
によって中身は異なる。そのことは正月に用いる
松,福岡県久留米。干エビは小豆島や鹿児島市。
魚(正月魚)にもいえる。例えば,45年前,私が
その他鶏がらや豚肉,エソ,ボラ,干椎茸など実
飛騨高山で聞き書をしたころ,金持は塩鰤(飛騨
に多士済済である。しかし,現在ではだしの素を
鰤),中流は塩鮭か塩鱒,下流は塩鯖で,それ以
使用する家庭が増えており,地方色がだんだん薄
下は塩いかであった。それすら買えない家があり,
れている。
仕方なく油揚を使ったという。
うっぷるい
あら か つ お
16.タンパク質源にも郷土色
豆腐と油揚げは信越,関西。凍豆腐は東北,信
18.正月迎えは生命の更新,精神の
若返りの儀礼
越。鮭は新潟,青森県弘前など。鰤は飛騨,信州,
先に京都における正月の雑煮祝いは儀礼化して
丹後(京都府宮津や舞鶴も含む),但馬,丹波,
いると書いた。皇室の図書陵に勤務していた茶の
南紀,中国,山陽,北九州。鯨は,黒皮を用いる
研究家であった林左馬衛氏宅では,古風にのっと
のは青森県八戸,赤身は神戸市長田。車エビは東
り,大晦日の夕食(神迎膳)が済んでから左馬衛
京。イワシすり身は富山。かまぼこは全国的。宮
氏ご自身が身を清め,装束を正して神社に詣でて
城県塩竈では干ホヤ,広島はカキ貝を用い,山口
隠 ったという。西日本では江戸時代から土地に
県岩国ではアサリ。これら貝類はだし兼用である。
よって日を決めて神宮(伊勢)や金毘羅宮に詣で,
食品と容器
こも
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▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
元旦の朝までに帰ることもしている。ひと時隠る
祝膳の主役として定着した。まさに一味同心[後
ということは擬死を意味する。除夜の鐘を境にし
白河法皇起請文(文治3年5月1日)その2カ月
て生き返る。これを日本民俗学では擬死再生とい
後に源頼朝が使っている]を計る食べ物であった。
う。
た。太陽が沈むと一日の始まり,ために神迎膳を
20.雑煮は文化財的食べごとの遺産
である
する家が現在も東北に多く残る。また正月を迎え
その雑煮を煮る浄火を汚さないために,中国の
る時節は春近しであった。春になると草木の新芽
寒食[冬至から百五日目の清明(春分のころ)に
がいっせいに萌える。草木の生命の更新である。
春の新しい火を迎えるための作り置きの食べ物]
人も同じように生命(精神)の更新をはかって来
の思想の影響を受け,三箇日分の煮染を大晦日に
る年も家内安全,商売繁盛,豊農,豊漁を願って
作り,重詰にした,と考えられる。
新年を迎えた。
重詰料理は時代と共に内容は変わり,今やフレ
19.雑煮は家族,親族の結束をはか
る食べ物だった
ンチやイタリアン,中国風の料理が詰められてい
元旦早朝に起床し,1年最初の若水を汲み,浄
り変わることなく継承されている。ある若い夫婦
められた火を用いてひとつ鍋で煮る雑煮は,聖な
の家では元旦は主人,2日は嫁,3日は創作雑煮
る水と浄めの火の力の合力によって煮られた,人
とバラエティー型にしている。だが,現在は雑煮
間に活力を与える聖なる食べ物だったのである。
を煮るのはほとんど主婦である。雑煮は昔ほどの
それを分かち合って食べることにより,家族なら
厳かさは失われたが,まさに文化財的食べごとと
びに親族の結束をはかるための装置として正月の
いえる。缶詰にして永久保存したいものである。
明治以前は月の満ち欠けを基準にした暦であっ
食品と容器
はん し
る。それに対し,雑煮は主人型か嫁型かといった
力関係でその家の雑煮は変わるものの,代々あま
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▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
庶民の茶文化
―抹茶と振り茶の関係から―
なか
むら
よう いち ろう
中 村 羊 一 郎
静岡産業大学総合研究所客員研究員
て茶が欠かせなかったところから,日本に入った
1.めでたいお茶
抹茶法は,寺院や上流階級の間に普及し,やがて
そろ
正月に家族揃って福茶を飲む習慣がある。元旦
茶の湯へと発展していく。南北朝時代に書かれた
早くに若水を汲み,それで淹れたお茶に梅干しや
とされる「異制庭訓往来」には,栄西から明恵上
昆布などを混ぜていただくというもので,一年間
人(京都栂尾高山寺)に譲られたという由緒をも
の無病息災を祈る伝統行事である。ことの始まり
つ栂尾の茶を筆頭に,各地の茶産地が列挙されて
は平安時代,京都で悪疫が流行したことがあった。
おり,東海から関東地方にまで茶栽培が広がって
念仏を唱え,人々からあつく信頼されていた空也
いることが出ている。また,鎌倉の金沢文庫古文
上人が,ときの村上天皇に差上げたところ平癒さ
書からは,14世紀はじめに,北条氏一族の有力者
れたということに因み,王福茶ともいう。今でも
が,栂尾の茶を渇望していることや,鎌倉の寺院
空也上人ゆかりの空也堂などでは正月に参拝者に
でも茶が生産されていたことが分かる。栄西以降,
これを供している。じつは節分にも同じような習
抹茶は原料つまり粉末にする前の碾茶(葉茶)の
慣があって,豆まきの豆を入れたりする。節分は
生産と,泡立てて飲むという飲用法とがセットに
立春の前日,すなわち翌日から春となる。いいか
なって各地に広まったと考えられる。
えれば新年の始まりでもある。つまり福茶は,起
さて,冒頭述べた正月の福茶の素材は抹茶では
源伝説はさておき,実態は新しい年を迎えるに際
なかった。なぜ,めでたい福茶に,伝統と格式の
して飲む特別なお茶なのである。
高い抹茶ではなく,庶民の番茶が使われるのであ
このときに使われるお茶は,抹茶ではない。一
ろうか。しかも茶に混ぜ物をしているのも現在の
般には煎茶,古くは番茶を用いた。番茶とは商品
感覚からいえば不思議なことである。ここで考え
化される前に全国各地で自家用に作られてきた粗
てみたいのは,伝統的な年中行事とか由緒ある神
放な茶の総称であり,いいかえれば日常の暮らし
社の祭りに際して調製される食べ物には,昔から
のなかで飲まれてきた「日常茶飯」の茶のことで
そのまま伝承されてきたものが多いということで
ある。
ある。いちばんよい例は正月の雑煮であろう。ハ
日本に茶が伝来したのは鎌倉時代の栄西による
レの食物である餅と大根,サトイモなどの伝統野
というのは全くの誤解で,栄西の著書『喫茶養生
菜を煮て神に供え,自らもそれらを頂くというこ
記』にも,日本にはもともと茶は存在したのだが,
とは,この食べ物がきわめて古い起源をもってい
その利用法を知らなかっただけだとある。栄西に
ることを示している。
とっては,当時の中国(宋)で流行していた抹茶
となれば,年が改まる時に飲む福茶は,仮に空
法が正しい茶の利用法であったからである。そし
也の話は伝説だとしても,予想以上に古い歴史を
て,もうひとつ,栄西は茶を「養生の仙薬」とい
もっているのではないだろうか。しかもその茶に
い,茶の薬効を強調している。
混ぜ物をしていることは,茶を純粋の飲料である
栄西が学んだ中国では寺院の儀礼や修行に際し
と見做していなかったことを示唆している。もし
く
い
とがのお
へ い ゆ
食品と容器
てん ちゃ
み
27
な
2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
かしたら,食べ物の一種とされていたのかもしれ
も宮廷を中心とした貴族階級の茶であった。いっ
ない。すぐに思い浮かぶのは,関西地方で一般的
ぽうで,記録にはないものの,当時すでに山地に
な茶粥である。茶粥といえば熊野がとくに有名で,
は茶の木があって,生葉をそのまま陰干しにした
朝食はもちろん場合によっては3度の食事が茶粥
ものや,蒸して天日で乾燥させただけの茶が存在
であったというし,小学生の弁当にも竹筒に入れ
していたとみられる。栄西が茶の利用法を知らな
た茶粥を持たせたことがあったという。この茶粥
かったというのは,このような雑な製法はあった
の素材となる茶は,自宅周りの畑の境に植えたも
としても抹茶にして飲むことは知らなかったとい
のや山中に自生している茶の木から,適当に摘ん
う意味であろう。
では蒸したもの,あるいは鍋で炒ったものを,天
では,記録もないのになぜ,茶がそんな昔から
日で干したような,きわめて粗放な番茶であった
日本にあったといえるのだろうか。西日本各地,
ちゃ がゆ
い
とくに九州山地には山茶といわれる自生の茶があ
(写真1)。
る(写真2)。山で木を伐るとそのあと真っ先に
芽を出すのが茶の木であり,人が植えなくても山
に自然に生えてくるというところから山茶と呼ば
れる。山仕事に従事している人たちは,今でも手
近に生えている茶の枝を折りとり,焚火で炙って
薬缶で煮出すことがあり,これを焼き茶ともいい,
東南アジアの諸民族
の間にも同じ習慣が
ある。これは人間に
よる茶利用のごく初
写真1 天日干し(岡山県美作市)
期の様相を示してい
るものであろう。
2.『茶経』の記述
山茶は日本列島に
中国唐時代の陸羽による『茶経』は,世界最初
最初から自生してい
の茶百科全書として,現代に至っても聖典として
た茶に違いない,と
の地位を保っている。『茶経』によれば,当時の
いう説が唱えられた
宮廷で一般的だった茶の製法は,まず新鮮な生葉
ことがある。しかし,
を蒸し,臼で搗いて団子状とする。ついでこれを
山茶の生える所を詳
平たく伸ばして天日で干し,さらに中央に穴をあ
細に調べると,そこ
けて紐を通し,炭火で乾燥させて保存するもので,
にはかつて人がいたらしいことが分かってきた。
その形状から餅茶といった。飲む時は炙ってから
つまり,焼畑をしながら山中を移動し,茶を栽培
薬研のようなもので粉にし,熱湯に投じて塩を加
した人たちがそこを放棄して他に移って行ったた
え煎じ出すという,たいへん手のこんだもので
め,茶の木があたかも自然に生えてくるように思
あった。日本には遣唐使を通じてこうした飲み方
われたのである。焼畑はもっとも原始的な農耕で
が入ってきたと思われ,平安時代の空海などもこ
あり,日本列島には戦前まではかなりの面積の焼
んな茶を飲んでいたと推定される。この茶を日本
畑が継承されていた。はるかな昔,焼畑の技術を
でも作っていたのか,あるいは舶来品のみを使用
持って日本列島にやってきた先人たちは,自らの
していたのかはよく分かっていないが,あくまで
ふるさとにあったチャも持ち込んだのであろう。
つ
ひも
あぶ
や げん
食品と容器
28
写真2 山茶を摘む
(熊本県やまと市)
2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 庶民の茶文化―抹茶と振り茶の関係から―▪ 焼き茶という原始的な利用法がアジアの茶利用民
つか挙げられているが,そのひとつに茗がある。
族の間に共通してみられることは,列島への茶伝
これは茶摘みの時期が遅いものをさすと解釈され
来時期が想像以上に古いことを示している。そし
ているが,実際の意味は茶と同じであって,平安
て,これもアジアと共通する点であるが,保存や
時代の漢詩にも見られる「香茗」なども香りのよ
携帯に便利なさまざまな製茶法が案出され,もし
い茶という意味で使われている。陸羽が列挙した
くは伝えられてきた。ではそれらの茶はどのよう
茶の同義語は,その時代に漢民族以外の人々が茶
にして飲まれていたのであろうか。
を意味する言葉として使用していたものであろう。
先の『茶経』のなかに注目すべき一文がある。
茗を漢字としてではなく,発音をもとにしてみる
茶にショウガ,陳皮(ミカンの皮を干したもの)
と,ミンに近い音をあてることができる。すると,
などを混ぜることがあるが,これではせっかくの
じつに興味深い事実がでてくる。
よい茶を溝に捨てるようなものだ,茶は純粋に飲
タイの人々は,あまり熱い飲み物を好まない。
み物とすべきであるという主張である。
とくにバンコクあたりでは熱いお茶を普通に飲む
薬効のある植物を一緒に煮出すのは漢方薬のや
ことはない。それに対して,北のチェンマイとか
りかたである。そもそも中国の伝説では,今から
チェンライまで行くと,ミアン(Miang)の木を
数千年も前,神農という皇帝がいて,あらゆる草
栽培し,その葉を摘んでミアンという食べ物を
を口にして薬草を探した。その過程で毒にあたっ
作っている。これはチャの新芽を蒸し,容器に詰
てしまった時には茶の葉を噛んで毒消しにした。
め込んで嫌気性バクテリアによって発酵させる,
つまり薬効に気付いたことが茶利用の契機である
いわばお茶の漬物であり,刻みショウガとか塩を
というのである。陸羽は,このような漢方薬的な
混ぜて食べる(写真3)
。独特の発酵臭をもったミ
飲用法を否定し,茶だけを飲用すべきであると主
アンは文字通りの食べるお茶である。もちろん彼
張したのである。ただし,陸羽は塩を加えること
らは釜炒りの緑茶も作るが,こちらは中国から新
だけは否定していない。これは古くからの飲用法
しく入ってきた製法であり,タイ北部の民族に
の名残りであり,後述する日本の庶民の飲茶法に
とって,植物としてのチャ(Camellia sinensis)は
もかかわることであるので,強調しておきたい。
漬物にして食べるのが本来だった。だから,
「ミア
こうした経緯を知れば,茶にさまざまなモノを
ンの木からお茶ができる」といような表現をする。
混ぜるのは,むしろ本来的な利用法であったとい
まったく同じ製法による漬物茶はミャンマーにあ
うことに気が付く。たとえばモンゴルのスーティ
り,ラペソー(Lapet Soe)という。ラペは茶,ソ
か
ーチャイというのは,ミルクで煮出した茶に種々
の混ぜ物をして飲む,というか食べる茶であり,
チベットではバター茶で麦焦がしを団子状に丸め
て食べる。これらは現地に茶が移入された時から
の伝統を継承した,古くからの利用形態を今に伝
えるものではないか。日本の茶粥は,これらと原
理的には共通する古い時代からの茶利用法が現代
にまで受け継がれてきたものではないかと考えら
れる。
めい
写真3 漬物茶3態
向かって左から,中国雲南省プーラン族の竹筒酸茶,
ミャンマーのラペソー,タイのミアン。
3.茗と茶
『茶経』には,いわゆる茶と同義の言葉がいく
食品と容器
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2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
ーは湿っているというビルマ語だが,実際に作っ
ているパラウン族はこれをミアンと呼んでいる。
4.抹茶と番茶
さらにいえば,ミャンマーと接する中国雲南省の
栄西がもたらした抹茶法は,唐代を経て宋の時
プーラン族も竹筒に詰める形で漬物茶を作ってお
代に発達した新しい飲用法であり,世界最新の流
り,中国人研究者は竹筒酸茶と書いているが,こ
行として鎌倉時代初めに日本に入ってきた。日本
れは意味をとった漢字表記であって,現地ではミ
人は,それを単なる飲用法のひとつという段階に
アンと呼んでいる。つまり,中国南西部からタイ
留めることをせず,一座する楽しさと禅の精神を
やラオス北部,そしてミャンマー中部というひと
もとに,やがて総合芸術としての茶の湯へと発展
つながりの高原地帯に同じような漬物茶すなわち
させた。抹茶とは粉末の茶という意味で,その元
ミアンが存在している。
になる葉っぱの段階の茶は碾茶という。碾茶は,
チャという植物の利用法は大きく分けて2つ
茶園に覆いをかけて日光を調節し,茶葉のタンニ
あった。ひとつは茶と呼ぶ飲み物として洗練され
ン生成を抑制するだけでなく,土造りや施肥にも
ていったもの,もうひとつはミアン(あえて書け
じゅうぶん心配りをして甘みを増やすという,施
ば茗)と呼ぶ食べ物として利用されているもので
設園芸の成果ともいうべき最高級の茶である。こ
ある。
の製法はすでに400年以上も前に確立されていた
チャという植物の薬効が認識されたとき,最初
ことが当時来日していたポルトガル人宣教師の記
は生葉を噛んでエキスを摂取していた。それを保
録に見える。このように作られる碾茶はきわめて
存・携行できるように工夫していく段階で,漬物
高価であり,江戸時代には宇治の特権的な茶師だ
茶にして食べるようにした民族と,乾燥させてか
けが生産し,大名や豪商たちに提供していた。
ら煮出してエキスを抽出するという方法をとった
しかし,栄西の時代の製法はもっと単純であっ
民族があったのではないか。先に例を挙げた混ぜ
た。『喫茶養生記』には,新芽を蒸してから焙炉
物をするタイプは,純粋飲料となる前の古い方法
を用いて丁寧に乾燥させるとあるだけで,茶樹の
が残存しているものとみられるから大きな意味で
栽培法には触れていない。製造に当たっての手間
の飲む茶に属する。
のかけ方や原料の精選などの作業を捨象すると,
こうして食べる茶と飲む茶という2つのコース
この製茶法はわずか2つの工程を経るだけである。
が生れた。前者は主として東南アジアの諸民族に
すなわち,生葉を蒸すこと,そして乾燥させるこ
おける利用法であり,後者は松下智によればヤオ
とである。ここであらためて確認すれば,日本各
族などによって創始され,のちに漢民族によって
地に伝えられてきた庶民の日常茶,すなわち番茶
発達させられたもので,茶を自ら作る地域のなか
といわれる茶は,まさにこんな方法で作られてい
では東の端にあたる日本に,中国風の飲むという
た。つまりは将来高級な碾茶に発展することにな
利用法が伝わった。この地理的関係は重要である。
る蒸し製の茶がすでに存在し,栄西流の新しい抹
いわば文化の吹き溜まる辺境に,古い製茶法であ
茶法にもすぐに対応できたからこそ,鎌倉の寺院
る蒸す技術(中国の製茶法の主流は現在では釜炒
においても自家製造が可能であったのである。
り法であり,蒸し製は全く残っていない)や,粗
この段階で上流階級が望んだのは,製法の良し
放な茶に混ぜ物をするという古俗が残ったのであ
悪しもあろうが,茶の種子の由緒だったことは,
る。その意味からも,茶の日本伝来時期は記録に
栄西から明恵に渡ったと伝える栂尾の茶が最高級
残る時代よりもかなりさかのぼるものと考えられ
とされたことからも分かる。やがて室町期になる
る。先に示した山茶の存在がそのことを物語って
と,各地の荘園で作られた茶が領主に納入される
いる。
ようになる。もちろん,その茶は貴族が抹茶とし
ほ い ろ
だ
食品と容器
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2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 庶民の茶文化―抹茶と振り茶の関係から―▪ て利用したのである。この時期から江戸時代初期
茶筌とは異なり,筅をササラと読むように,鍋な
までは,製茶法に決定的な進展はなかった。すな
どを洗うときに使われるササラの型をしており自
わち殺青(生葉の酸化酵素を不活化すること)は
製も可能である。自家製の番茶と手近な茶筅を使
蒸しにより,乾燥は焙炉を用いる。この過程での
うが,形は茶の湯に似ている。だから振り茶は,
素材の良し悪し,手間のかけ方などにより,上等
茶が庶民階級に普及するようになってから,上流
の新芽を用いれば貴顕が好む抹茶の原料となり,
の茶の湯の真似をして始まったものと考えられて
下級品は煮出して飲む煎じ茶となっていた。もち
いた。
ろん,筵に広げて天日干しするような簡便な製茶
しかし,これは次の2つの点から否定される。
法が庶民の茶であったことはいうまでもない。
まず,第1点はこれまで見てきたように,茶の日
現在の精緻な碾茶製法がいつ確立したのかを知
本伝来は栄西による抹茶法伝来よりもはるかに古
る史料はないが,信長や秀吉の茶会では,すでに
く,しかも蒸して天日干しといった粗放な製茶法
現在と変わらぬ製法による超高級茶が使用されて
によって茶が自生できる西日本では庶民の日常的
いた。上流階級の抹茶に対し,Bancha という語
な飲料となっていた可能性がきわめて高い。つま
がポルトガル人の作った『日 葡辞書』にあり,
り茶の普及は上流階級の茶が庶民階級に広がった
さっせい
むしろ
せ い ち
に っ ぽ
「上等のでない普通の茶」という訳がついている
のではなく,むしろ幅広い茶の普及が前提になっ
(『邦訳日葡辞書』)。上等な茶が抹茶をさすのはあ
て抹茶法が急速に拡大したと考えるべきである。
きらかであるから,バンチャは庶民の茶であり,
新たな文化的雰囲気をもった抹茶法は,これまで
漢字をあてれば番茶あるいは晩茶となる。ポルト
の茶の飲み方に対して最新流行の舶来文化として
ガル人による別な史料では,庶民は茶を煮出して
認識され,柴茶を利用していた庶民も含め階層の
飲んでいるとあるから,バンチャと抹茶とは品質
上下を問わずに大流行したのである。
においても飲用する階級においても対照的な位置
第2点は,庶民の振り茶が上流の茶の湯とは根
にあったことが分かる。このバンチャの内容を念
本的に異なる要素をもっているからである。それ
頭においてこの時代の文献を探すと,柴茶という
は茶を振る段階で塩を加えること,また黒豆やイ
語が見つかる。蒸して天日干しをした程度の,一
モ,炒り米など種々の具を加えることである。こ
見枯葉のような外観をもった茶であり,煮出して
れはさきにみてきたとおり,茶利用の古い形態で
飲んだ。
あり,純粋に茶の味わいだけを楽しむ茶の湯とは
この時代,世の中には大きく分けて,上流階級
明らかに異なっている。茶の湯を模倣するなら,
の抹茶,庶民階級の番茶が併在していたのであっ
一切の混ぜ物を排除した形でなければならない。
た。「七十一番職人歌合」の挿絵はこうした状況
庶民にとっての茶は,茶粥などのように何らか
しば ちゃ
をきわめて具体的に描き出している(写真4)。
右が抹茶,左が煎じ物すなわち薬草的な利用法に
よる,それぞれ異なった茶を売る姿である。 5.茶筅と振り茶
日本各地に振り茶という,いささか奇妙な飲用
法が点々と伝承されている。これは抹茶ではなく
番茶を泡立てて飲むもので,茶筅(筌)でかき混
ぜることを振るということから付いた呼称である。
ただし使用される茶筅は茶の湯で使われる精緻な
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31
写真4 抹茶と煎じ物
(「七十一番職人歌合」より)
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▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
の具を混ぜて煮るための調理素材でもあったし,
る。たとえば,『宝暦現来集』(天保2年成立)に
古くからの伝統として塩を混ぜて飲むものであっ
は,「安永天明の比迄は,老人朝茶を汲て,茶筌
た。庶民は従来の茶利用法をベースに,泡をたて
にて立る時は茶泡立ける,是を好みて呑たる者也,
るという最新の流行に乗ったのである。つまり,
いまはなきか,田舎老人には適には有之が,其比
栄西の抹茶法は階層の上下を問わず,日本人が好
は浅草観音地内楊枝見世には,家毎並べて売しも
む舶来の流行として受容され,それぞれの階層に
の,近比は余り見かけず,古へは粉を挽時は,比
よって異なった形態をとって継承・発展すること
茶せんにて臼を払たるが,いまはみこほうきにて
になったのである。
払故,茶筌家毎になし,寛政比よりは何事も替り
し事多し」と書かれている。
6.振り茶の普遍性と衰退過程
安永天明期,すなわち1770年から80年にかけて
振り茶(写真5)は現在では島根県松江市周辺
のころの様子で,老人は朝茶を飲むときは茶筌
のボテボテ茶,沖縄県那覇市のブクブク茶,富山
(筅)を用い,泡をたてて飲んでいたのだが,今
県のバタバタ茶などが有名であるが,いずれも一
は見なくなり,田舎の年寄りがたまにやっている
部の人々によって辛うじて維持されているに過ぎ
程度になった。茶筅は浅草の楊枝屋(当時の歯ブ
ない。たとえばバタバタ茶は,現在では富山県朝
ラシ売り)で楊枝と一緒に売っていたというのは,
日町蛭谷でしか見ることができないが,かつては
それがありふれた日用品であることをよく示して
このあたりから新潟県糸魚川市一帯にかけて広く
いる。しかもこの茶筌は臼を払うときに用いると
行われていた。使用する茶は福井県で作られた黒
あるから,番茶をササラ型の茶筅で振り,朝茶と
茶で,これを煮出した汁を茶碗に汲み,塩を加え
して飲んでいたということになる。
てササラ型の茶筅で泡立てる。この時茶筅がたて
江戸の町で振り茶が一般的だったことは,考古
る音に因んでバタバタ茶といったのである。また
学の成果からも裏付けられる。江戸の町の発掘調
南信濃から奥三河(長野・愛知両県の境付近)に
査の結果では,やや大ぶりな厚手の茶碗の内側に,
かけての山間部では,自家用の茶を用いて同様な
何か固いものでひっかいたような跡のあるものが
ことを明治期までは行っており,そのことを茶を
かなり発見されているが,時代が新しくなると消
振るといっていた。使用された用具も残っている。
えていくという。もちろん茶筅使用の有無を反映
江戸時代の風俗を記した随筆には,振り茶が庶
したもので,その原因は,次にみるように,やは
民にとっての普通の飲茶法であったことが出てい
り流行と言うキーワードで明らかになろう。
①ボテ茶(香川県)
よ う じ
②ボテボテ茶(島根県松江市)
③ブクブク茶(沖縄県那覇市)
写真5 振り茶
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▪ 庶民の茶文化―抹茶と振り茶の関係から―▪ 抹茶を用いる茶の湯は戦国時代には一世を風靡
ふ う び
民の日常品ではない。しかし煮出して飲む番茶で
したが,江戸時代に入り様式を重んじすぎれば形
あっても,いちいち泡を立て,しかも塩を加える
骸化は避けられない。世俗を離れ茶を自由に味わ
という古くさい飲用法にこだわる必要はない。こ
いたいという人々にとり,爽やかな清風を感じさ
の流れの中で振り茶は旧習を捨てられぬ老人の間
せてくれる新たな茶の出現が待たれていた。そこ
や田舎の風習として残ることになった。
に登場したのが,急須で淹れるお茶,すなわち煎
ここで先を急げば,今のペットボトル全盛の時
茶である。良質の新芽を蒸し,焙炉の上で丁寧に
代が抱える茶業界の課題にもつながることが分
揉みながら形を整えた煎茶は,最初から高い付加
かってくるだろう。お茶屋さんは,なんとか急須
価値をもった商品として18世紀初めに開発され
で淹れる茶の良さを認識してもらって,緑茶の消
た。いわば市場のニーズにこたえる茶であった。
費につなげようと試みている。しかし,ここに見
この製法は開発地の名から宇治製とも,製品の色
た庶民の茶の歴史は,流行あるいは時代の流れそ
合いから青製ともいわれ,各地に普及していく。
のものであり,復古的な方法で劣勢を挽回できる
同時に,混ぜ物は排除され,まさに純粋飲料とし
ものではないことを示している。時代が何を求め,
ての茶が一般化した。ここに新たな流行が生れた
それにどう対応するか,この視点がもっとも求め
のである。もちろん新しい緑茶は高価であり,庶
られているのが現在の茶業界ではないだろうか。
ばんかい
参 考 文 献
1)布目朝渢『茶経詳解 原文・校異・訳文・注解』淡交
4)ジョアン・ロドリーゲス『日本教会史・上』大航海時
社,2001年
代叢書Ⅸ,岩波書店,1967年
2)松下智『茶の民族誌―製茶文化の源流』雄山閣出版,
5)中村羊一郎『番茶と日本人』吉川弘文館,1998年
1998年
6)「七十一番職人歌合」(『新日本古典文学大系』61)岩
3)山田佳翁『宝暦現来集』(続日本随筆大成・別巻7所
波書店,1993年
収)吉川弘文館
食品と容器
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2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
和菓子の歴史
(株式会社)虎屋 虎屋文庫
されている。
はじめに
みず が
し
今でも果物を「水菓子」というように,本来,
菓子とは木の実や果物を指した。甘い食べ物が少
くり
なかった時代は干柿や栗も貴重な甘味であり,現
在私たちのいう「菓子」に近い存在であったと思
われる。そのためか,木の実・果物と「菓子」の
区別が曖昧な時代は長く続く。
一方で,素材の面から考えると日本の菓子の原
あわ
ひえ
写真1 唐菓子再現
形は,米や粟,稗などの穀物を加工した餅や団子
の類といえよう。すでに縄文時代後期には大陸か
し こ う
せ ち え
か ん り
きょうえん
ら稲作が伝わっており,餅や団子は,嗜好品や副
唐菓子は,主に節会や官吏登用の際の饗宴など
食としても作られたと想像される。こうした古来
で供された。一方,平安京の東西の市では索餅が
の食べ物に,外国から伝来した唐菓子・点心・南
売られており,一般の人が口にしたものもあった
蛮 菓 子などが影響を与えることで,多種多様な
ことがうかがえる。なお,当時砂糖は中国から薬
「菓子」が生まれ,江戸時代も半ばには,現在見
としてわずかに入ってくる高級品で,唐菓子の甘
る菓子の大半は作られるようになる。以下,時代
味料としては甘葛(蔦の樹液を煮詰めたもの)が
別に菓子の歴史をたどってみたい。
使われていた。しかし甘葛も製造には手間がかか
1.飛鳥~平安時代(6世紀~12世紀)
り,わずかな量しかできないため,貴重品だった。
とう が
ばん が
し
てんじん
なん
し
あま ずら
つた
唐菓子は鎌倉時代以降,次第に廃れていくが,
ちゅうじるいき
しゅうこず
この時代の特徴として,7世紀~9世紀に中国
『厨事類記』(1295以降)や,『集古図』(1789頃~
に派遣された遣唐使などにより,唐菓子がもたら
97),『搏 桑果』(1808)などの史料が残されてお
されたことが挙げられる。唐菓子の多くは米や麦
り,製法や形状などを知ることができる。なお現
の粉を原料にした生地をさまざまな形に作り,油
在でも神社や寺院の供物として一部が伝えられて
で揚げたものだった(写真1)。
いる。
はくそうか
わ みょうるいじゅしょう
漢和辞典の『和 名 類聚抄』
(935以前)には「八
このほか平安時代には,餅類が年中行事や人生
種唐菓子」として, 桃 枝, 餲 餬, 桂 心, 黏 臍,
儀礼に食べられていた(写真2)。上 巳(三月三
饆饠, 子,梅枝,団喜(歓喜団)の名が見える。
日)に草餅,端午に粽,結婚の際には三日夜の餅,
このほか,同書や『正倉院文書』,『延喜式』には,
子どもが誕生して五十日目には健やかな成長を祝
結果(加久縄),粉熟,餛飩,餅餤,索餅(麦縄),
い「五 十日の餅」が用意されたことが,『落 窪
捻頭(麦形),糫餅,餢飳(伏兎),餺飥なども記
物語』『栄花物語』ほかの古典文学からうかがえ
と う し
ひ ち ら
ついし
ば い し
だ ん き
か っ こ
ねんとう
ふ ず く
むぎかた
食品と容器
まがり
こんとん
ぶ
てんせい
じょうし
かんきだん
しょうそういんもんじょ
かくなわ
けいしん
と
へいだん
えんぎしき
さくべい
むぎ なわ
ほうとう
34
た ん ご
い
ものがたり
か
ちまき
み
か
よ
おちくぼ
えいがものがたり
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▪ 和菓子の歴史▪ あお
る。また,『枕草子』に見える「青 ざし」は,青
しかしこの時代,羊羹や饅頭などには汁がつくこと
麦を煎って粉にし,糸状に撚ったものといわれ,
があり,今日とは異なる味わいだったといえよう。
菓子の一つと解釈されている。
なお,室町時代には日明貿易などによって砂糖
い
よ
にち みん
がもたらされており,貴重な輸入品として贈答に
用いられたほか,「砂糖羊羹」「砂糖饅頭」のよう
に一部は菓子にも使われた。
3.戦国~安土桃山時代 (15世紀後半
~ 17世紀初頭 )
天文12年(1543)の鉄砲伝来以降,ポルトガ
なんばんじん
ル・スペイン人(南蛮人)がキリスト教の布教や
貿易のために日本を訪れた。寄港地であった長崎
や平戸,南蛮寺(教会)が設けられた京都などに
写真2 平安時代の古典文学に見える菓子の再現
ふ ずく
は,南蛮人と日本人が混住していた地域もあった。
はは こ もち
左から粉熟・椿餅・母子餅(草餅)・亥の子餅
ある
交流は短い期間だったが,カステラや金平糖・有
へい とう
平糖・ボーロ・カルメラなどの南蛮菓子がもたら
2.鎌倉~室町時代(12世紀末~
16世紀後半)
ぜんしゅう
された。なかでも,永禄12年(1569),織田信長
に面会した宣教師ルイス・フロイスが,ガラス瓶
そうりょ
この時代,中国に留学した禅宗の僧侶や渡来僧
入りの「Confeito(金平糖)」
(写真3)を贈ったこ
が最新の思想・文化・技術を日本にもたらし,食
とはよく知られる。なお,小 瀬 甫 庵 の『太 閤記』
お
の分野にも大きな影響を与えた。
りんざいしゅう
ぜ
ほ あん
たいこうき
(1625自序)によって,南蛮菓子が布教の折に使
えいさい
たとえば臨済宗を伝えた禅僧栄西は,日本最初
われたことがうかがえる。
き っ さ ようじょうき
の茶書『喫 茶養 生記』(1211)を著し,中国の製
茶技術や飲用法を紹介し,喫茶流行のきっかけを
てんじん
作った。また点心(朝夕の食事の間に摂る小食)
が伝えられ,禅宗寺院を中心に広まっていった。
おうらいもの
室町時代の教科書ともいえる往来物には点心の名
ていきん おうらい
が見られ,たとえば『庭 訓往 来』(14世紀中頃)
セン
ウン サウ
サウ ケイ
ヘツ カン
チョ カン
ロ チャウ カン
ウ ト ン
マンチウ
サウメン
キ
には,「水繊,紅糟,糟鶏,鼈羹,猪羹,驢 腸 羹,
シュン ヤウカン
サ タ ウ ヤウカン
シ
笋 羊羹,砂糖羊羹,饂飩,饅頭,索麵,碁子麵,
ケン ヒン
ウン
巻餅,温餅」が記されている(『往来物大系』七
巻,大空社,1992年より)。
写真3 ポルトガルの Confeito
金平糖の原形とされる。
くず きり
水繊は葛切の原形で,「羹」は「あつもの」と
も読み,本来,とろみのある汁物を指す。鼈羹,
猪羹,羊羹などはもともと肉を使った汁物だった
南蛮菓子には,鶏卵や砂糖を大量に使ったもの
が,禅宗寺院で肉食が禁じられていたため,植物
が多く,それまでの日本の菓子とは違う色かたち,
性の材料を使い,精進の見立て料理として作られ
味だった。廃れてしまった南蛮菓子もあるが,カ
るようになった。羊羹の場合,当初は小豆や葛粉
ステラや金平糖などは,日本人の嗜好にあうもの
を使い,蒸して固める蒸羊羹だったと考えられる。
へと工夫され,次第に定着していった。
しょうじん
食品と容器
35
2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
茶の湯の「菓子」
上菓子の特徴として,雅で洗練された意匠,
かちょう ふうげつ
か めい
室町時代,禅宗寺院や武士を中心に広まった茶
花鳥風月や古典文学にちなんだ菓銘が挙げられる
の湯が,村田珠光,武野紹鷗の侘茶の精神を受け
が(写真4),これには茶の湯の影響が考えられ
む ら た じゅこう
たけのじょうおう
わび ちゃ
せんのりきゅう
る。大名茶人などが好みの道具を作らせたり,
継いだ千利休によって大成されたことは日本文化
ちゃしゃく
ちゃわん
茶杓や茶碗に銘をつけたりしたことが,菓子にも
史上,特記すべき事項だろう。
茶の湯と菓子の結びつきは強く,戦国時代末~
影響を及ぼしたのであろう。また,当時の上層階
江戸時代前期にかけての茶会記『松屋会記』を見
級にとって,和歌や古典文学の知識が教養とされ
ると,栗,胡桃,柿,蜜柑といった木の実や果物
たことも背景にあろう。江戸時代後期にかけて,
に加え,葛餅,栗粉餅ほか餅類,羊羹,饅頭など
上菓子の細工や色彩は一層豪華になっていき(写
ま つ や か い き
み か ん
くり こ もち
真5),幕末には米国初代駐日公使ハリスなどへ
が,「菓子」として出されたことがわかる。この
たこ
きのこ
も,幕府からの贈答品として使われた。
ほか,調理された昆布や蛸,茸類の名も見える。
これら「菓子」は総じて客を招く亭主の手作りで
あったと考えられ,素朴なものが多かった。
ちなみに,千利休が好んだといわれる菓子に
「ふのやき」がある。水で溶いた小麦粉生地を薄
み
そ
く焼き,味噌を塗って巻いたものとも解釈され,
りきゅうひゃっかいき
『利休百会記』に何度も登場する。
4.江戸時代(17世紀初頭~ 19
世紀後半)
ひゃく み
が
し
写真5 百 味菓子再現
江戸時代は徳川幕府の「鎖国」体制のもと,比
う
け いわい
江戸時代後期,宮中の有卦 祝 (幸運の年回りを祝う
行事)に納めた菓子。
較的安定した時代が続き,商品経済が発達した。
砂糖の輸入量が増加したことや,八代将軍徳川吉
名物菓子や行事菓子の広まり
宗の政策などにより,砂糖黍栽培が奨励され,製
高級な上菓子がもてはやされる一方,江戸時代
糖業が発展したことから,砂糖の流通量が増え,
幅広い層で様々な菓子が楽しまれることにもなっ
には,人の集まる寺社の門前や行楽地のほか,都
た。画期的といえるのは,元禄(1688 ~ 1704)
市や街道の茶店などで様々な菓子が売られた。
期頃以降,京都を中心に,高価な白砂糖を使った
たとえば,江戸では隅田川沿いの桜餅や,浅草
上等な菓子,「上菓子」が作られ,江戸ほか各都
の米饅頭,目黒不動尊の三官飴などがよく知られ
市に広まったことである。
ている。このほか,都市部では屋台での商売や振
じょう が
し
よねまんじゅう
め ぐ ろ ふ ど う そん
さんがん あめ
とうじん あめ
まん
あめ
り売りが盛んで,「唐人飴売り」や「お万が飴売
り」といった派手な扮装と面白おかしい歌で客を
呼ぶ飴売りなどもいた。今も人気の金つばや大福
などもこの時代に登場している。
各地でも名物が誕生し,東海道を例にとると,
あ
かわ もち
にっさか
写真4 「御菓子之畫圖 ( おかしのえず )」
元禄8年(1695)虎屋黒川家文書
上菓子の銘と意匠を記した見本帳。
現在の商品カタログのような役割を果たした。
食品と容器
べ
とお だ ん ご
う
つ
安 倍 川 餅( 安 倍 川 ), 十 団 子( 宇 津 ), 蕨 餅
かしわ もち
さる
ば ん ば
(日 坂),柏 餅(猿 が馬 場・以上静岡県),饅頭
うば
もち
く さ つ
(四日市・三重県),姥が餅(草津・滋賀県)など
がある(写真6)。
36
2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 和菓子の歴史▪ したと考えられる。ちなみに年代には諸説あるが,
かんてん
万治年間(1658 ~ 61)頃に寒 天が発見され,寛
ね
政(1789 ~ 1801)頃に寒天で煉 り固める煉羊羹
が江戸で作られるようになったことは,菓子史上,
注目される。煉羊羹はそれまでの蒸羊羹とは違う
なめらかな食感,日持ちのよさが評判になり,全
国各地に伝わった。
5.明治時代以降(19世紀後半~)
明治時代に入ると,キャラメル,チョコレート,
ビスケットなど,西洋の菓子が輸入され,その後
写真6 東海道五十三次内 四日市
弘化4~嘉永5(1847 ~ 52) 名物の饅頭が描かれている。
日本でも作られたり,チョコ饅頭やシベリア(カ
ステラ生地に羊羹を挟んだ菓子)など,和洋折衷
加えて,端午の節句や雛節句などの年中行事や,
の菓子が工夫されたりする。現在もクリームやバ
誕生,婚礼,葬儀ほかの人生儀礼に菓子を用意し,
ターを使った和洋折衷菓子が作られているが,そ
知人や親戚同士で贈りあう風習も庶民に浸透した。
の一方で米や豆類など昔ながらの植物素材を使っ
製法技術の発展
た伝統的な和菓子のよさも見直されている。
多種多様な菓子が作られた背景として,江戸時
外来食文化の影響を受けつつも,身近な行事や
代を通じ,職人の技術が向上したことも見逃せな
人生の節目と深く関わりながら,長い年月をかけ
い。茶道を嗜みとする大名ほか富裕層が好みの菓
て形成された和菓子には,日本人の心や美意識が
子を菓子屋に作らせたり,贈答品として使ったり
宿っているといえよう。日本の風土や歴史が育ん
したことも,職人が切磋琢磨する土壌を作ったと
できた「文化」の一つとして,これからも大事に
いえよう。また,江戸時代半ば以降,『古 今名物
していきたいものである。
御 前菓子秘 伝抄』(1718)や『古 今名 物御 前菓 子
* 本稿は,2010年に虎屋文庫で開催した「和菓
たしな
こ こ ん めいぶつ
ご ぜ ん か し ひでんしょう
こ こ ん めいぶつ ご ぜ ん か
ずしき
し
ふ な ば し や おり え
子の歴史」展の小冊子の内容を再構成し,一部補
図式』
(1761)ほか,江戸深川の菓子屋船橋屋織江
か
し
わ ふなばし
足したものである。 (文責 中山圭子)
の主人が執筆した『菓 子話船 橋』(1841)などの
菓子製法書が刊行されたことも技術の伝播に貢献
主要参考図書
『日本料理秘伝集成』全19巻 同朋舎出版 1985年
鈴木晋一・松本仲子編訳注『近世菓子製法書集成』全2巻
筒井紘一編『茶道学大系第4巻 懐石と菓子』淡交社
平凡社 2003年
1999年
虎屋文庫編『和菓子』1~ 21号 虎屋 1994 ~ 2014年
食品と容器
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2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
「すし」の歴史と多様性
―風土に育まれた日本を代表する食―
くろ
かわ
よう
こ
黒 川 陽 子
料理研究家
の歴史と多様性について探ってみたいと思います。
はじめに
日本を代表する食べ物に「すし」が挙げられま
1.すしの歴史
す。米国のバラック・オバマ大統領が来日した際
「すしの本」の著者篠田統氏は,“アジアの山地
に安倍晋三首相が会食に選ばれたのは,飲食店の
民が高地で頻繁に入手できない魚を長期保存する
格付け本ミシュランガイドから三つ星の評価を受
方法として発達させた魚肉の保存食”が,「すし」
けている「江戸前ずし」の名店でした。一般的に
のルーツだとしています(篠田(1970))。また,
「すし」といえば,酢飯を握り,魚などのネタを
民族学者の石毛直道氏らは,東南アジアの雨季と
のせる江戸前の「握りずし」をイメージすること
乾季がある稲作地帯を「すし」の発祥地の候補に
が多いようです。しかし,長崎で生まれ育ち,大
挙げ,「雨季に池沼状態になる水田で捕獲した魚
阪で料理の勉強をしていた私にとって「すし」と
を魚が獲れない時期の乾季まで保存しておくため
いえば,「押しずし」,「箱ずし」,「バラずし」,郷
に,塩に米を加え発酵させることによって魚の保
土の「大村ずし」などが真っ先に頭に思い浮かび
存性を高める方法が稲作と同時期に日本に伝わっ
ます。「すし」は,実は,地域などによって,多
た」(水田耕作民起源説)(石毛直道 & ケネス・
様なのではないかと思います。
ラドル(1990))と考え,これが「すし」の原型
例えば「すし」には,修行により伝統的な技術
だと述べています。
を身に付け継承してきた職人によるものと,日本
日本に伝わった時期や伝播経路は十分にも明ら
の歴史と風土と伝統とともに作られ育まれてきた
かにはなっていないようですが,日本における
郷土料理としてのものとでは随分異なるように思
「すし」についての文献初見は,日本最古の文献
います。種類にしても,
「握りずし」の他に,
「巻
と さ れ る「 養 老 令 」
(718年 ) の「 賦 役 令 」 に
きずし」
,
「ちらしずし」
,
「箱ずし」
,
「押しずし」
,
「鮓」の文字があり,正倉院文書なる「尾張国正
「稲荷ずし」
,
「なれずし」など様々な種類があり,
税帳」(734年)や「但馬国正税帳」(737年)など
で ん ぱ
すし
すし
地域によっては呼び方が異なったり,また同じ呼
には「鮨」の文字が表されているとされています。
び方でも材料や作り方が異なったりと,多様な形
また,「大宝令」(701年)にも「鮨」の文字が記
で存在するようです。
(一社)農山漁村文化協会
されていた可能性も指摘されているといわれてお
(農文協)の日本の食生活全集には,
「おすしは魚
り,城宮趾出土木簡などには,すでに「鮨」や
と風土がミックスされた豊かな食事です」と記さ
「鮓」の文字がみられることから,日本に伝来し
れており(
「農文協の日本の食生活全集テーマガイ
たのは少なくとも奈良時代以前のことであり,伝
ド」http://www.ruralnet.or.jp/zensyu/syoku/ 参照)
,
播時期は稲作と同時期(紀元前4〜前3世紀)に
風土による多様性が指摘されています。そこで,
日 本 に 伝 わ っ た と 推 測 さ れ て い ま す( 日 比 野
本稿では,
「すし」に関する文献などを基に,
「すし」
(2012))。日比野光梅氏は,そもそも「すし」は,
食品と容器
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2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 「すし」の歴史と多様性―風土に育まれた日本を代表する食―▪ 米飯などのデンプン質を伴う魚肉の塩蔵発酵貯蔵
点ともいわれる製法を伝えるものとされるもので,
食で,わが国における「すし」の起源は,東南ア
香りが熟成の強いチーズに似ており,発酵により
ジアから中国を経てもたらした「ナレズシ」と呼
ペースト状になった米飯を除いて魚だけを食べる
ばれるものだと主張しています(日比野(2012))。
ものです。代表例としては,先にも取り上げた
ニコロブナという淡水魚に塩と米飯を加えて乳
「フナずし」(滋賀県)が挙げられます。いまでも
酸発酵をさせると米飯が溶け,魚だけを食べる滋
正月や祝い事には欠かせない保存食で,神社の
賀県琵琶湖地方で作られている「フナずし」が平
神饌に供されており,歴史の重みを感じさせると
安時代に作られた日本で最も古い型式の「すし」
同時に,後の江戸前の「すし」などとは全く異な
とされています。
る食事のように感じられるものといえます。
室町時代になると,米飯も食べられるように発
一方,「ナマナレ」は,室町時代に派生したと
酵期間を短くした「ナマナレ」が作られるように
いわれ,「なれずし」「くさりずし」「くされずし」
なり,さらに酒や麹,酒粕を混ぜて発酵期間を短
とも呼ばれています。近畿地方に多くみられ米飯
くする工夫がされるようになり , 江戸時代になる
粒と魚を一緒に食べ日本の発酵ずしのほとんどが
と発酵をさせずに,直接酢で酸味を加える方法が
これに当たるそうです。使われる魚としては,淡
広がり,「姿ずし」
,「箱ずし」,「巻きずし」,「握
水魚ではアユ,海水魚ではサバ,コノシロ,アジ,
りずし」など馴染みのある「すし」が作り出され
イワシだそうです。また,「ナマナレ」は,さら
たとされ,種類が豊富になっていったそうです。
に「ホンナレ」と同様の食材で作る「ホンナレ
昔からその土地に伝わる伝統的な「すし」もこの
型」と他の食材を加える「改良型」に分化します。
こうじ
な
しんせん
さけかす
じ
「ナマナレ」の「ホンナレ型」は,魚・塩・米飯を用
頃から生まれ始めたとされています。
いて発酵させ,代表例として「アユのなれずし」
2.すしの種類
や「鯖のなれずし」があるといわれています。
「改良型」は,あらかじめ米飯に酢を加えたり,
もともとは東南アジアの文化に由来し,日本に
伝わってからも歴史的・地域的に分化し
ていったとされる「すし」は,「フナず
し」など歴史的に古いものが残っており,
今日における「すし」の地域による多様
性をもたらしているといえます。本稿で
は,日比野光梅氏による「すし」分類に
基づき,「すし」の多様性を概観したい
と思います(第1図)。
日比野光梅氏によれば,「すし」は,
発酵により酸味を得る「発酵ずし(ナレ
ズシ)系」と酢を使って酸味をつける
「早ずし系」に分別されるそうです。
このうち,「発酵ずし系」は,魚・塩・
米飯とともに漬け込み,長期熟成発酵さ
せた「ホンナレ」と漬け込み時間を短く
し発酵を浅くした「ナマナレ」に分類さ
れます。
「ホンナレ」とは,「すし」の原
食品と容器
第1図 すしの分類 日比野(2001)
注)日比野光梅 (2001) に基づき筆者が作成
39
2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
具材に野菜や海藻などを加えたり,発酵促進剤と
押しをかけず,具をまぜる「混ぜずし」,巻きす
して酒や麹を加えて作られます。「改良型」に魚・
にすし飯を広げその上に具をのせて芯にして巻く
塩・米飯を加えさらに麹と野菜を加えたものが
「巻きずし」
,
「茶巾ずし」や「いなりずし」に代
「飯ずし」といわれ,北海道全域と東北〜北陸ま
表されるように食材にすし飯を詰める「印籠ず
での日本海沿岸に分布しています。代表例として
し」
,すし飯に具材をのせ手で握って押し固める
は,
「ハタハタずし」
(秋田県)
,
「かぶらずし」
(石川
「握りずし」などがあります。これら早ずし系の
県)などが挙げられるといわれています。これらの
「すし」を大別すると,生ものを使う「江戸前ず
「すし」も,江戸前のすしなどとは,相当異なる
し」と生ものを使わない「関西ずし」に分かれる
食事として感じられるのではないでしょうか。
ようです。「握りずし」や「細巻き」は「江戸前
「早ずし系」は,ご飯を美味しく食べるため,
ずし」の代表とされ,ネタを食べるためにご飯に
酢,塩,砂糖,みりん,昆布だしなどを使用しま
は酢に塩だけを使いあまり味をつけないようです。
す。日頃親しんでいるものが多くあり,代表的な
「関西ずし」は生ものを全く使わないのではなく,
物としては,一尾の姿の生魚を酢で締め,すし飯
塩をしたり酢でしめたりと一手間加えるようで,
「巻きずし」(太巻き・中巻き)や「押しずし」な
にのせた「姿ずし」,棒状に固めたすし飯に生魚
の身や山菜,野菜,加熱処理したアナゴやエビを
どに代表されます。これらの「すし」になると,
布巾や巻きすで成形した「棒ずし」,箱にすし飯
今日における「すし」のイメージと合致する人の
と具材を詰め押しをかけ,一塊にしたものを抜き
数が多くなると思いますが,保存が主体と考えら
出して切り分けた「箱ずし」,底のない型枠にす
れていたために砂糖を使っているので,「江戸前
し飯と具材を詰め抜きだした「押し抜きずし」,
ずし」に比べるとかなり濃厚な味になっていると
思われます。
3.個性豊かな各地のすし
かつて,東南アジアから伝わり,魚を保
存する方法として日本で独自の進化を遂げ
た「すし」は,歴史が下がり,古いタイプ
の「すし」を残しつつ,全体としては,酸
味を持つ飯,すなわちすし飯を主体とした
今日的な「すし」に変わっていったといわ
れています。しかし,すし飯の味つけに関
しては,地域によって異なっているようで
す。(AJINOMOTO 企 業 情 報 サ イ ト「 郷
土料理の多様性すし編」等参照。
http://www.ajinomoto.com/jp/features/
library/japanesefood/04_02.html)
すし飯の味つけには,ご飯を発酵させた
酸味とご飯を酢で味付けした酸味をもつ2
つに大別することができ,ご飯を酢で味付
けした酸味はさらに「辛め(塩味を示す)
,
第2図 すし飯の地方性
注)中山武吉 (2000) に基づき筆者が作成
食品と容器
中間,甘め,特に甘め,風味をつけた甘め」
40
2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 「すし」の歴史と多様性―風土に育まれた日本を代表する食―▪ という具合に分けることができます。こうしたす
りを挟み込み,細く切ったニンジンや昆布などと
し飯の味付けの違いは,地域によって異なり,そ
ともに,米麹(糀)で漬け込んで発酵させたもの
の地域の「すし」の特徴のひとつとなっているよ
です。石川県の正月料理で,東北地方にみられる
うです(中山武吉(2000)『酢とすしの話』)。
飯ずしに比べ野菜(カブ)の比重が多く,漬物に
たとえば,私の郷里長崎では,その昔南蛮貿易
近いものといえます。最初の一口はブリの生臭み
によりポルトガルから砂糖がもたらされたことか
を感じますが食べていくにつれカブとの絡みで旨
ら,「すし」を含めて料理全般において砂糖をふ
みにかわり,その瞬間生臭みも旨みの一種だと理
んだんに使う傾向にあり,よそから訪れる方々は,
解できるほど癖になる味わいがあります(写真
長崎の「すし」の甘さにしばしば驚かれます。
2)。
3-2)早ずし系
以下では,私が取材した個性豊かな各地の「す
(1)若狭地方・京都,大阪・出雲地方,岡山
し」について,日比野光梅氏の分類に従い,紹介
したいと思います(第2図)。
県新見市の郷土料理 鯖ずし
3-1)めったに食べられないすし(発酵ずし系)
「鯖の姿ずし」は日本各地でみられますが,個
(1)魚を塩とご飯で乳酸発酵させた保存食 人的には若狭地方や京都,大阪,山陰,岡山県新
さば
鯖のなれずし(福井県若狭小浜)
見市のものが私の好みです。 冷蔵技術が発達す
小浜市の沿岸部にある内外海地区に伝わる郷土
る以前に,京都の場合は鯖街道を通り若狭地方か
料理。同地区の冬場,特に正月には欠かせない逸
ら,岡山県新見の場合は山陰から運ばれる塩干物
品です。脂がのった春サバを塩漬けしたのち,糠
の塩サバが貴重な海産物であり,このサバを利用
に漬け込み約1年間熟成させてできた「へしこ」
した「すし」が定着しました。山陰や若狭では焼
をさらに一晩塩抜きして皮を剥ぎ,腹の中にご飯
いたサバをのせることもあり,特に出雲地方では
と糀を詰めて,樽に10 ~ 14日漬け込み作ります。
江戸時代から「焼き鯖ずし」として日常的に食さ
発酵食品特有の甘みと旨みがあり,高級なチーズ
れていたとされます(写真3.写真4)。
のような香りがし,そのまま食べてもよいですが,
(2)同地方共通の方言で存在するすし
ぬか
こうじ
たる
うま
焼いて食べるとまた違った風味が楽しめます。作
温ずし(近畿以西,中国,四国地方)
り手の高齢化と共に「なれずし」を作る家庭が減少
「ぬくい」は「温かい」。この方言を用いる地方
しています。発酵系の食品が好きな人にとっては,
で食べられているようです。私の郷里の長崎も
たまらないインパクトのある味といえます(写真1)
。 「ぬくい」という言葉があるためか,「蒸しずし」
ぬく
(2)魚+塩+ご飯+糀+野菜」で構成される
(温 ずし)があります。味つけをしたシイタケ,
発酵ずし かぶらずし(石川県)
かんぴょう,焼きアナゴなどを刻んですし飯に混
塩漬けにしたカブに,塩漬けにしたブリの薄切
ぜ,金糸玉子やデンブなどを上にのせて蒸します。
写真1 鯖のなれずし
食品と容器
写真2 かぶらずし
41
写真3 鯖ずし
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▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
写真4 焼き鯖ずし
写真5 温ずし(蒸しずし)
写真6 鱒ずし
冬の時期に食べる季節ものとされていますが,い
を酢飯にのせるか,混ぜ込んだ「すし」です。
までは美味しいからいつでも食べたいという気持
地域により入れる具材が関西は高野豆腐やチリ
ちからか「蒸しずし」という形で年中食べること
メンジャコ,瀬戸内は焼きアナゴ,北関東はかん
ができます(写真5)。
ぴょうと場所によって異なり,生ものだけを入れ
ます
(3)駅弁としても知られる郷土料理 鱒ずし
るところもあります(写真7,写真8)。
マス(サクラマス)を用いて発酵させずに酢で
こちらも全国各地にみられるポピュラーなもの
味付けした「押しずし」です。郷土料理としては,
ですが,「すし」の巻きもの全般を江戸前では
(5)巻きずし (富山県)
「のり巻き」,関西では「巻きずし」といい,太さ
北陸と近畿以西,中部地方の濃尾平野に多くみら
わ っ ぱ
ささ
れる形態で,木製の曲物の底に放射状に笹を敷き,
によっても「太巻き」,「中巻き」,「細巻き」と呼
塩漬け後に味付けをしたマスの切り身をその上に
び方が変わります。「のり巻き」,「卵巻き」,
「高
並べます。そこに酢めしを押しながら詰め,笹を
菜巻き」など巻き付ける材料がついた名前と,
折り曲げて包み込み,その上から重石をのせます。 「梅巻き」,「かんぴょう巻き」など芯の具材名の
食べる時にする笹の香りは独特でマスの味を引き
時があったりと呼び名も種類も豊富な親しみのあ
立ててくれます(写真6)。
る「すし」といえます(写真9,写真10)。
(4)混ぜずし(ちらしずし,五目ずし) 太巻き祭りずし 押圧の工程を持たず,具をのせるものと具を混
農家や漁師に伝えられてきた郷土料理で,歴史
ぜ込むものの2つに大別できます。各地にみられ
は1789 ~ 1801年頃まで遡り,イワシを追いかけ
ますが,東日本では,江戸発祥の「握りずし」の
て来た紀州(和歌山県)の高菜の漬け物で包んだ
ネタ用の刺身などをすし飯の上に並べ,西日本で
握りめしの「めはりずし」をルーツとする説もあ
は生物を使わず,様々な具材を細かく切ったもの
るそうです。冠婚葬祭などのごちそう,弁当,も
写真7 東日本の混ぜずし
食品と容器
写真8 西日本の混ぜずし
42
写真9 巻きずし
2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 「すし」の歴史と多様性―風土に育まれた日本を代表する食―▪ 写真10 細巻き
写真11 太巻き祭りずし
写真12 笹ずし
写真13 柿の葉ずし
写真14 飛騨地方の朴葉ずし
てなし料理として作られてきま
した。見た目にも華やかな楽し
める「すし」ですが,部品とな
る材料の仕込みや巻き方の技な
どを思うと手間をかける大作が
多いように思われます。千葉県
でよく発達しているように思わ
れ ま す が,「 太 巻 き 祭 り ず し 」,
「房総巻き」
「房総太巻きずし」,
「飾巻きずし」,「花ずし」,「祭りず
し」など様々に呼ばれています(写真11)。
など種類に富んだ具を彩りよく並べたものが多い
(6)生活の知恵が織りこまれたすし 葉っぱ
そうです(写真14)。
ずし
(7)山間部につたわる郷土料理の田舎ずし (高知県)
「葉っぱずし」は山村の生活の知恵をうまく用
いたすしという印象を受けます。
「葉っぱずし」
ユズの生産が盛んな高知県では,米のお酢の代
ばしょう
においては,柿の葉,笹の葉,芭蕉の葉,アセの
わりにユズが使われています。高知県内のユズの
葉,わさびの葉や柏の葉,朴葉などそれぞれの地
一大産地である北川村ではユズを種から栽培した
域で自生していた葉っぱでくるんだり,敷き詰め
実生のユズを使います。実生のユズの絞り汁は酸
たりして,葉っぱを殺菌・抗菌作用や臭み消し,
味と香りがとても高いといわれています。すし飯
または香りづけとして用いたり,組み合わせる魚
にユズ酢(ユズの絞り汁に塩と砂糖を加えたも
や食材によって異なる味を楽しんだりと,知恵と
の)をきかせ,味付けしたリュウキュウ(ハスイ
経験が盛り込まれているようで,自然の恵みと自
モ),ミョウガ,シイタケなどをネタにした握り
給の力を発揮して作り出された「すし」のように
ずしや,タケノコ,こんにゃくなどの「詰めず
感じられます(写真12,写真13)。
し」など山の幸を用いて作る彩り豊かな「山菜ず
また,飛騨地方(高山市・下呂市)では,旧暦
し」です。北川村ではユズの皮を砂糖で煮たもの
かしわ
ほお ば
みしょう
の端午の節句に昔から作られてきたとされ,細か
く刻んだ具材を酢飯に混ぜ込む事が多いそうです。
美濃地方では酢飯の上に酢でしめたサケやサバ,
醤油で煮込んだシイタケやキャラブキ,紅ショウ
つくだに
ガ,この土地ならではの食材「はちのこの佃 煮」
食品と容器
写真15 田舎ずし(高知県)
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2015 VOL. 56 NO. 1
▪ 新春誌上座談会 ▪ 和食と日本の食文化
をネタにした「握りずし」もあります(写真15)。
(10)500年の歴史をもつ郷土料理 大村ずし
(長崎県大村市)
(8)地元野菜を使った野菜ずし 雲仙こぶ高
菜ずし (長崎県雲仙市)
その昔,将兵たちの歓迎祝いに作られた即席の
高菜の地方品種だった雲仙こぶ高菜は,1950年
「すし」です。もろぶたに炊きたてのご飯をひろ
代地域に広く普及が図られました。三池高菜と比
げ,その上に魚の切り身や野菜のみじん切りなど
べて収量が少なかったことなどから次第に生産さ
をのせ,「押しずし」を作り,兵が脇差しでこれ
れなくなりその土地から姿を消していきましたが,
を四角に切って食べたのが「大村ずし」の発祥と
自家採種に基づき日本を代表する岩崎政利さんと
されています。この「大村ずし」は領民たちの手
いう有機野菜の生産者の手で復活する事ができま
で受け継がれ,もろぶたが嫁入り道具のひとつ
した。今ではその土地になくてはならない大切な
だった時もあったそうです。初めて食べた人は甘
野菜として守り育まれ,美味しく食べるための手
いと感じるようです。農作業など家族や親戚が共
段として「雲仙こぶ高菜ずし」が考えられました。
に労働をした後に,みんなでご馳走として食べる
漬け物にした雲仙こぶ高菜のこぶと茎はすし飯の
ことが多かったので,体の疲れをとるために砂糖
上にのせ「握りずし」にして,葉の部分は「押し
を入れ,甘くしたのではないかともいわれていま
ずし」にしたり「巻きずし」にしたものが作られ
す。
ています(写真16)。
長崎港が開港しておこなわれた南蛮貿易により,
き
(9)400年の伝統を持つすし 生 ずし(長崎
ち そ う
早くから砂糖が手に入っていた大村ならではの甘
県五島列島)
さかもしれません。甘辛く味付けしたかんぴょう
アジを丸ごと使った姿ずしで,紀州(和歌山
やシイタケ,小さく切ったかまぼこやショウガな
県)の漁師たちが魚を求めて五島列島にやってき
どを具材に家庭によっては奈良漬けや茹でた落花
た時に伝えられたといわれています。「紀寿し」
生を入れたりと個々の家庭にそれぞれの味が存在
とも書きます。背開きにしたアジの骨を抜き,塩
するバラエティーに富んだ「すし」です(写真18)。
ゆ
に一晩以上漬け,その後酢に漬け,味付けするた
めに甘酢に数日漬け込んだ後,すし飯にのせて仕
むすびにかえて
上げます。アジをさばいてから食べるまでに最低
魚の保存食を起源とし,日本で独自の進化をと
でも1週間ほどかかる時間と手間が必要な「す
げた「すし」は,やがて,「ことぶきをつかさど
し」です。見た目は少し強烈ですが,一口食べる
る」という意味の漢字があてられるようになり,
と酢が好きな方はその美味しさに魅了されます
日本を代表する食となっていきました。同時に,
(写真17)。
日本を代表する食であるからこそ,グローバリゼ
ーションが進展する中,地域の個性豊かな食文化
写真16 雲仙こぶ高菜を使った
押しずしと握りずし
食品と容器
写真17 生ずし
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写真18 大村ずし
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▪ 「すし」の歴史と多様性―風土に育まれた日本を代表する食―▪ の喪失や食の画一化がいわれる中でも,地域によ
し」は,目ば
る多様性が残っているといえます。今回,改めて,
かり,手ばか
地域の個性豊かな「すし」を調べてみて,気候や
り,口ばかり
風土,食材の地域性と共に伝えられ,育まれてき
で継承されて
た「すし」の多様性に驚かされました。 き た の で す。
長崎県雲仙市守山女性加工組合の馬場節枝さん
興味深いのは,
がお母さんより伝承されている「五目ちらしず
現代の食の達
し」は,米1升に対して,昆布手のひらサイズ,
人である馬場
塩杯1杯を釜に入れご飯を炊きます。すし酢は,
節枝さんにし
酢茶碗1杯,砂糖茶碗1杯を火にかけ砂糖が溶け
て,
「幾つになっても80歳を過ぎた母のおすしの
たら火からおろします。具は,ゴボウ,ニンジン,
味は出せない」という言葉です。
レンコン,シイタケ,ちくわ,木くらげなどを小
「すし」は,遠い昔に東南アジアから伝わり,
さく刻んで,砂糖と醤油で炊いて味をつけておき
長い年月をかけて日本を代表する食べ物になり,
ます。ご飯が炊けたら,すし酢と具を入れ全体に
今や海外にも紹介されるようになっています。こ
混ぜ込んだらでき上がりとなります(写真19)。
の間,果たしてどれくらいの女性たちが家庭で
今でこそ,金糸卵やそぼろ,カニ棒などを上から
「すし」を作り,家族の幸せとともに母から子供
飾りますが,お母さんの時代はほとんど何も飾ら
たちに伝えてきたのだろうと思うと,風土に育ま
なかったそうです。なんと,おおざっぱな分量と
れて,地域の個性豊かで多彩な「すし」を守り,
思われるかもしれませんが,地域に伝わる「す
育んでいくことの大切さを痛感させられました。
ちゃわん
写真19 五目ちらしずし
参 考 文 献
1)篠田統(1970)『すしの本』岩波書店 石毛直道,
活人新書
ケネス・ラドル (1990)『魚醤とナレズシの研究 – モン
6)日比野光梅(2012)「日本の独自の寿司文化はこうし
スーン・アジアの食事文化』岩波書店
て生まれた『日本の伝統食 巻寿司のはなし』」巻寿
2)中山武吉 (2003)『お寿司の話』学会センター関西
司の話編集委員会編 3)中山武吉 (2001)『酢とすしの話』学会センター関西
7)日比野光梅 (2012)「多彩な日本の寿司を探訪する『日
4)日比野光敏著 (2001)『すしの事典 』東京堂出版
本の伝統食 巻寿司のはなし』」巻寿司の話編集委員
5)吉川誠次 大堀恭良 (2002)『日本・食の歴史地図』生
会編
食品と容器
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「フランス マダムと野菜をめぐる追想」
髙木 麻紀子
春のストラスブール
然になっていた。そんなマリーさんが,単なる
「白アスパラガスをおすそわけするから会いま
「asperge アスペルジュ(アスパラガス)」では
しょう。」
フランス北東部の国境沿いの街,ストラスブー
なく,「blanc ブラン(白い)」であることをこ
ルで暮らし始めてから半年がたった頃のある週末,
とさら強調している。白アスパラガス,あるいは
街中を走るトラムのなかで雑談をしたことをきっ
ホワイトアスパラガスといえば,大抵の日本人は
かけに,時々お茶や散歩をする間柄になっていた
缶や瓶に入った加工済みの姿を想像するのではな
マダムから突然の電話をもらった。小柄だけどい
いだろうか。記憶の限り殆ど食べたことがなく,
つもエネルギッシュなこのマダムは,かつては通
買い求めたこともなかったため,何か特別な食べ
訳の仕事をしていたらしく語学に堪能で,日本語
物のように白アスパラガスの名を口にする彼女が
も片言のレヴェルではなかった。いつしか「マリ
少し驚きだった。フランス,特にアルザス地方の
ーさん」,「マキコ」と下の名前で呼び合うように
人々にとって白アスパラガスは,長く厳しかった
なり,「tutoyer チュトワイエ」(友人同士や家
冬がようやく幕を閉じ,心弾む春が訪れたことを
族など親しい間柄で使う話し言葉)での会話も自
告げる存在であり,皆がその登場を心待ちにして
いるということを知ったのは,やや後になっての
ことである。
フランス人はしばしば自国のことを
「l'Hexagon レグザゴーヌ(六角形)」と呼ぶ。
この呼び名は,国土がおおよそ六角形の形状をし
ていることに由来するのだが,地の利が生かされ
た素晴らしくバランスのとれた国家であるとの誇
りさえもこめられているという。実際フランスは,
国内総生産(GDP)が世界第5位の経済大国で
ある一方で,ヨーロッパ最大の農業,酪農国でも
ある。六角形の国土でみてみると,大体上部半分
マリーさんに頂いた白アスパラガス
が肥沃な平地の広がる農業地帯となっており,多
くの穀物類や根菜類が生産されているのだが,そ
たかぎ まきこ:東京藝術大学美術学部教育研究助手
美術博士
食品と容器
のなかには,白アスパラガスに代表されるように,
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2015 VOL. 56 NO. 1
日本では未だ入手が難しい,または馴染みの薄い
うである。ビニール袋にたっぷりと頂いたので何
食材も少なくない。ストラスブールから帰国して
度か試すことができたが,マリーさんに教わった
はや4年が経ったが,時々無性にあの頃食べたフ
ように,やや堅い根元付近の皮をピーラーや包丁
ランスの野菜の味が懐かしくなる。そしてその味
で丁寧にむいてあげてから,ひとつまみの塩を入
はいつも,それを味わった季節,場所,紹介して
れて茹でると,仕上がりも良く食べやすいようで
くれたフランスのマダムたちの姿と共によみが
ある。まずはそのまま食べてみると,緑色のアス
えってくるように思う。今回は,そんないくつか
パラガスに比べて野菜臭さが殆どなく,口の中に
の野菜のなかから,特に白アスパラガスとアー
ほんのりとした甘みがひろがった。フランスのレ
ティチョークを取り上げ,どれほどその野菜がフ
ストランの前菜などで白アスパラガスを注文する
ランス人の生活に根付き,また愛されているのか
と,卵の黄身,レモン汁,バターで作る鮮やかな
を,マダムたちとの思い出と,それらが描き込ま
黄色がいかにも春らしい「オランデーズソース」
れたフランス絵画を通じて紹介したい。
が添えられていることが多いが,自宅でこのソー
スを作るのは手間がかかるので,近所のスーパー
白アスパラガスをおすそわけしてもらったマリ
で簡単に手に入る有名な「Maille マイユ」のマ
ーさんに聞いた調理法を,早速自宅で実践してみ
ヨネーズやディジョネーズで頂いても充分美味し
ることにした。といっても,ストラスブール人(フ
かった。ひとたび意識してみると,寒さが緩み始
ランスでは「Strasbourgeois ストラスブルジョ
めた春の街で,人々がこの野菜をこぞって買い求
ワ」と呼ばれる)はもちろんのこと,フランス家
める姿が目に入ってくる。白アスパラガスが店頭
庭で一般的な白アスパラガスの食べ方は,シンプ
に並ぶ光景は,まさにアルザスの春の風物詩なの
ルに茹でて,素材そのものの味を楽しむ方法のよ
だろう。帰国してからも,白アスパラガスの季節
にヨーロッパを訪れる幸運に浴することができた
際には,レストランやブラッスリーのメニューに
その名前を必ず探してしまうようになった。
現在も大人気の白アスパラガスだが,ヨーロッ
パで好んで食されるようになったのはいったいい
つ頃からなのであろうか。アンドリュー・シュヴ
ァリエ著『世界薬用植物百科事典』
(誠文堂新光社)
によると,はやくも紀元前4000年頃のエジプト
にアスパラガスの存在をみとめることができ,古
代ギリシアでは利尿薬として重宝されていたとい
う。しかし,おそらくそのアスパラガスは,現代
の日本でも一般的な緑色のそれであろう。例えば,
北イタリアやフランスで14世紀末から15世紀に
かけて盛んに制作された『Tacuinum Sanitatis
タクイヌム・サニターティス』という名の一種の
健康マニュアルには「アスパラガス」の項目がみ
られるのだが,その挿絵のアスパラガスは,鮮や
かな黄緑色で描かれている。一方,目下の話題
アルザスのレストランで食べた白アスパラガス。名物の
シュークルート,地ビールと共に。
食品と容器
の白アスパラガスの起源には諸説あるらしく判
然としない。美食家としても有名な太陽王ルイ
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14世の大好物であったといわれていることから,
い1,000フランで買い取ったのである。そんな購
少なくとも17世紀のフランスで栽培されていた
入者にマネが,「あなたのアスパラガスの束から
ことは確かであるが,土寄せし,日光を遮りなが
一本抜け落ちていました」という一文を添えて贈
ら大切に栽培される白アスパラガスは,長い間,
呈したのが,このオルセー美術館の一本のアスパ
庶民にはなかなか手の出せない貴族やブルジョワ
ラガスなのだ。先にみた『タクイヌム・サニター
の食べ物とされていたらしい。時に「白い貴婦
ティス』の挿絵の,土の中から力強く伸びあがる
人」などと称される所以は,ここにあるのだろう。
野性味あふれる姿とは対照的であり,白アスパラ
ガスの繊細で柔らかそうな質感が,マネの絵筆に
よって巧みにあらわされている。かつてフランス
人を魅了した藤田嗣治の絵画の「乳白色の肌」を
も想起させるといったら言い過ぎであろうか。い
ずれにしても,フランスらしいエスプリの効いた
エピソードも相まって,この野菜に対する人々の
思い入れを感じさせてくれる。
『タクイヌム・サニターティス』「アスパラガス」 14 世紀末,北イタリア制作
19世紀のフランスでもこの野菜が人々にこよ
なく愛されていたという事実を教えてくれる格好
エドゥアール・マネ 《アスパラガス》
1880 年制作
の絵が残されている。2014年に六本木の国立新
美術館で開催された「オルセー美術館展 印象派
***
の誕生——描く事の自由——」にも出品されてい
ので,記憶にある方も多いのではないだろうか。
ストラスブール大学での修士論文の諮問会が迫
フランス近代絵画の創始者ともいわれるエドゥア
る2010年の夏,あるフランスマダムの家に間借
ール・マネの《アスパラガス》(1880年制作)で
りをすることになった。ジャネットという名のそ
ある。灰色がかった大理石の机のきわに一本のア
のマダムは,ドイツ,スイスと国境を接するアル
スパラガスが置かれた様が描き出されたこの小品
ザス地方に長く住んできたアルザス人の末裔であ
には,有名な逸話がある。マネが,本作に先立っ
り,自身の第一言語であるアルザス語のほかにフ
て制作していた白アスパラガスの束を描いた静物
ランス語,ドイツ語を流暢に使いこなした。シル
画(1880年制作,現在はケルン,ヴァルラフ =
バーグレーの巻き毛のボブに青い瞳をした気品の
リヒャルツ美術館所蔵)を,批評家でコレクター
ある容姿とは裏腹に,自慢の薔薇が咲く広い庭の
でもあったシャルル・エフリュッシに800フラン
手入れ,壁の塗り替え,国境を超えるほどの長距
で売却しようとしたところ,彼は希望額よりも高
離運転,となんでもひとりでこなしてしまう,こ
食品と容器
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2015 VOL. 56 NO. 1
にはこの名前を冠した人気カフェもあった。
れまたパワフルなマダムであった。彼女との生活
は,単に留学生として滞在するだけでは知りえな
かったであろうフランス,あるいはアルザスの歴
史,文化,生活習慣に直に触れる機会となり,ふ
とした会話のあいまにドイツとフランスの狭間に
住むものが味わってきた歴史的な傷跡の深さが垣
間みえることもあったが,それさえもとても貴重
なことに感じられ,すっかり魅了されてしまった。
そんなジャネットが,部屋を借り始めてまだ間も
ない週末に,今日は一緒に昼食をしようと声をか
けてくれた。今にして思えば,論文の口頭試問を
控えて緊張している自分を励ましてくれるため
だったのかもしれないが,この日,前菜として出
てきたが,アーティチョークだったのである。
ストラスブールのマルシェ。新鮮な野菜や乳製品を手に
入れることができる。
アーティチョークを食べたことがある読者の方
はいったいどのくらいいるのだろうか。フランス
に来てから,土曜日に近所で立つマルシェやスー
パーの野菜コーナーで,ごろごろと積み上げられ
たアーティチョークをみかけては,いったいどう
やって調理するのであろうか,どんな味がするの
だろうかと想像を膨らましていたけれど,なかな
か手を出すことができないまま時間が過ぎていた。
そもそも,とがった葉っぱだらけにみえるこの固
そうな物体のどこを食べたらよいのだろう。先に
も参照した『世界薬用植物百科事典』によると,
アーティチョーク(和名はチョウセンアザミ)の
パリの屋内市場。レモンの上にみつけたアーティチョー
クは小ぶりで紫がかっていた。
原産地は地中海地域であり,古代ギリシアでは体
臭を抑える効用があると考えられ,根の部分をつ
ぶしたものを脇の下などに塗布して用いられてい
たという。今でも万能薬として有名で,ちょっと
した健康食品としても人気があるらしい。現在,
フランスを始めとするヨーロッパのマルシェやス
ーパーで食用としてみかける姿は,紫色のアザミ
に似た花が咲く前の,若いつぼみの部分が切り取
られたものである。一般的な緑色のもののほかに
紫色がかったものもあり,サイズも,やや小ぶり
のテニスボール大のものから,もう少し大きいソ
フトボール大くらいのものまでと,実にさまざま
である。ちなみにフランス語では「artichaut ア
フランスの大手スーパー,カルフールでみつけた大ぶり
のアーティチョーク
ルティショー」と呼ばれており,ストラスブール
食品と容器
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そのなんとも特徴的な形体ゆえであろうか。ア
シュトスコップフによる《レショーとアオゲ
ーティチョークは,古代ローマのモザイク画にも
ラと桶のある静物》(1630-40年頃制作)は,現
登場するほど古くから芸術作品のモティーフとし
在,ストラスブール中央駅から電車で一時間半
て取り上げられてきたのだが,とりわけフランス
もあれば到着するスイスの街,バーゼルの市立美
やフランドルの静物画に多くみつけることができ
術館に所蔵されている(ちなみに,国境を越える
る。そのなかでも,筆者にとって愛着のある作品
にも関わらずこの間の車内ではパスポートチェッ
のひとつは,17世紀に活躍したストラスブール
クがない)。今にも落ちてしまいそうなほど机の
出身の画家,セバスティアン・シュトスコップフ
縁からはみ出している一匹の魚の入った桶,二羽
(Sébastien Stoskopff)によるものである。日本
の死んだアオゲラ,そして「Rechaud レショー」
での知名度はいまだ低いと思われるが,フランス
と呼ばれる卓上で使用する簡易性コンロにかけら
の著名な美術史家シャルル・ステルリンクにも高
れたアーティチョークが主なモティーフの静物画
く評価されていたこのアルザス人画家は,まるで
である。珍しいのは,アーティチョークが調理最
時が止まってしまったかのような静謐な雰囲気を
中の状態で描かれていることであり,こうした様
たたえる静物画を数多く残した。フランスとドイ
子が取り上げられた作例は筆者が知る限り他にみ
ツという二国間で活動し,また,フランス美術,
あたらない。暗闇で赤く燃える木炭が,レショー
フランドル美術,さらにはドイツ美術の伝統をも
に置かれた錫 製のお皿の上のアーティチョーク
背景にもつこの画家は,幾度も国と国との間を行
をあたためている。鈍色の皿の上で光る明るい橙
き来しながらも,自分たちの文化を守り育んでき
色は,おそらくつけあわせのソースであろう。
た誇り高いアルザス人の精神を体現するかのよう
ただ,この作品における,とがった花弁の先端
な存在であり,実際,ストラスブール大聖堂のす
に施されたハイライトによって暗い背景から浮か
ぐ脇に建つ大聖堂付属美術館は,この画家にまる
びあがるアーティチョークの姿からは,これから
ごと一つの部屋をあてがい,敬愛の意をあらわし
誰かに食されなくなってしまうような,儚さは感
ている。個人的には,ストラスブールに留学して
じられない。むしろ硬質な置物のようで,いつま
最初の口頭発表で与えられた課題がこの画家によ
でもそこにあるかのような確固たる存在感をは
る「五感」をテーマとした作品であったため,特
なっている。興味深いことに,実際フランスでは,
段の思い入れのある画家のひとりなのである。
アーティチョークの形体をそのまま模した,また
すず
は意匠の一部に用いた陶器や銀器がしばしば制
作されており,この野菜がフランスの人々を魅
了してきた要因は,味のみでなく,外観そのもの
にももとめることができそうである。
その日,ジャネットが昼食の前菜として用意し
てくれたアーティチョークは,マルシェや絵画の
中でみてきたような,固く身を閉じた姿とは全く
異なっていた。それは,まるで開花の時を迎えた
かのように,皿いっぱいに花弁をひろげていた。
レシピはおそらくフランス家庭で一番オーソドッ
クスなもので,塩茹でしたアーティチョークに,
ビネガー,マスタード,オリーブオイル,塩,胡
セバスティアン・シュトスコップフ 《レショーとアオゲラと桶のある静物》 1630-40 年制作
食品と容器
椒などで作るビネグレットソースを付けながら食
べる。さて,これのどこをどのように食べればい
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2015 VOL. 56 NO. 1
いのであろうか。ジャネットにたずねてみると,
ワール・アン・クール・ダルティショー」,直訳
花弁のようにみえた部分は実は萼で,そのやや肉
すると「アーティチョークの芯(心)を持つ」と
厚な下部と,蕾の一番真ん中に隠れている芯の部
いう意味だが,これは,すぐに恋に落ちる人,気
分を食べるという。みようみまねで,萼の下の方
が多く,頻繁に愛情の矛先が変わる人に対して使
を前歯でこそぎ取るようにして食べてみると,ど
われる表現で,19世紀より使用されているとい
こか栗に似たほくほくとした食感と味であった。
う。どうして「アーティチョークの心」がそうし
奇抜なみた目から,どんな珍味なのだろうとやや
た意味になってしまうのかは,アーティチョーク
身構えていたが,思いがけず優しい,懐かしい味
を一度食べてみるとよく理解できるだろう。アー
である。一枚,また一枚とどんどん食べ進めるう
ティチョークの心,つまり,フランス人がもっと
ちに,脇に用意してくれていたボールは,あっと
も美味しいという芯の部分には葉っぱのような萼
いう間に歯形がついた萼で一杯になってしまった。
がたくさん付いているが,容易にはがすことがで
そうして最後に辿りつくのがアーティチョークの
き,たくさんの人に配ることができる。よって,
芯で,フランス人が「一番おいしい!」という部
気が多い心の持ち主,という寸法である。何人に
分である。食感はやはりほくほくと柔らかく,豆
も配れる愛が,すぐさま恋愛と結びついてしまう
のような,栗のような,なんとも言えない味がした。
のがいかにもフランス的な慣用句だけれど,遠い
がく
外国から来た留学生を,素朴で,でも滋味に溢れ
ところで,フランスには野菜や果物にまつわる
る料理であたたかくもてなしてくれたジャネット
ことわざや慣用句がたくさんあり,これらを文章
は,よりポジティブな意味で,まさにアーティ
や会話の途中にさりげなく使えると,少しだけフ
チョークの心の持ち主であった。晩夏の昼下がり,
ランス語上級者になれた気分が味わえる。アー
ジャネットと二人で無心に食べたアーティチョー
ティチョークにも有名な慣用句があり,それは
ク。その後のメインには立派な鴨を出してくれて,
まさに「芯」の部分に関わっているので最後に
もちろんこちらも絶品だったのだけど,あの時の
紹介したい。
「Avoir un cœur d’artichaut アヴォ
アーティチョークの味が忘れられない。
ジャネットが用意してくれたアーティチョークの前菜。
バゲットやハムも添えてくれていた。
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2013 ウズベキスタン旅行記
近藤 伸洋
「何故ウズベキスタン?」
「どの辺だっけ?」
「危
46,735US ドルの約1/20。日本人からすると物
なくないの?」
価はかなり安く感じられる。公用語はウズベク語
ウズベキスタンに行くと伝えたらほとんどの人
だが,ロシア語の通用度も高い。関東地方からウ
がこのように聞いてきた。まずは何故ウズベキス
ズベキスタンに行くには,ウズベキスタン航空の
タンに行くことにしたかと言うと。
直行便か,大韓航空・アシアナ航空のソウル経由
類は友を呼ぶと言うがもちろん海外旅行も例外
のどちらか。治安は日本と遜色がないくらい良い
ではなく,最近,私の周りには世界一周の旅をし
が,スリ等もいない訳ではないので,最低限の注
てきた人や,すでに数十カ国を訪問したという人,
意は必要である。現地通貨は「スム」。20スム≒
長い休みには必ず海外へ行くという人がたくさん
1円。日本との時差は4時間である。内陸国なの
いる。お盆休みの計画を立てている時に,そんな
で,海に出るまでに最低2カ国を通らないといけ
人たちでもあまり行った事がなく,日数や予算が
ない。
限られているのであまり遠くなく,そして観光ス
ウズベキスタン入国
ポットのある国がないかインターネットで探した
ところ,ウズベキスタンの美しいモスク・神学校
今回の旅は2013/8/14 〜 8/19の6日間。もち
の写真に魅了されたのがきっかけである。上記の
ろんフライトの時間を含むので,ウズベキスタン
ような反応は実は予想通りで,「帰ってきたら写
滞在はほぼ4日間。私はアシアナ航空のソウル経
真見せて,話聞かせて」と言う人が多かった。
由便を使ってウズベキスタンの首都タシュケント
おそらく日本人にはあまりなじみの無い国だと
へ到着した。ウズベキスタンでは日本円から現地
思うので,ウズベキスタンという国について,簡
通貨「スム」へ両替ができない為,日本で US ド
単にご紹介しておきたい。ウズベキスタンは中央
ルに両替して,現地で US ドルからスムへ両替を
アジアに位置し,旧ソビエト連邦の共和国。面積
した。まず100US ドル(約10,000円)を両替し
は日本の約1.2倍だが,人口は約2,960万人(2012
たのだが,渡された現地通貨(約220,000スム)
年)。宗教は約90% がイスラム教。一人当たりの
は写真の通り。
GDP( 2 01 2年 )は 1, 737U S ド ルで,日本の
1,000スム札が一番大きい札なのでこうなって
しまうのだが,iPhone5を横にして約2/3ぐらい
の高さになった。大金持ちになった気がしたが,
こんどう のぶひろ:市川物産株式会社 東京支店プラ
ントチーム
食品と容器
あくまでも10,000円である。これは後で知るこ
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2015 VOL. 56 NO. 1
完成し,今日までほとんど変化していないという。
ブハラの街に着き宿を探していると何人かの子
供がうちのゲストハウスに泊まらないかと声をか
けてきた。それらを全て断り,日本人に人気のゲ
ストハウスにチェックインして荷物を預け,ブハ
ラの街を歩き始めた。まずはチャイハナと呼ばれ
る café に行き,軽く腹ごしらえをしていると,
前の席に座っていた現地の子供達が英語で話しか
けてきた。
とになるのだが,ウズベキスタン人はお札を数え
るのがすごく速い。財布に入らないし治安もそん
なに悪くないと聞いていたので,とりあえず肩掛
けのバッグにそのまま突っ込んでおいた。首都の
タシュケントに到着したのは現地時間で21時頃。
翌朝のブハラへのフライトに備え,ゲストハウス
に着いてすぐに就寝。
今回の旅程は,タシュケント→ブハラ→サマル
カンド→タシュケントである。ウズベキスタンに
はヒヴァという世界遺産の街があるが,ヒヴァは
両端の男の子2人は英語を少しだが話す。真ん
タシュケントから遠く,この日数でルートに含む
中の子は小さいからまだ無理かな。後ろの両親に
と旅の半分が移動になってしまうので,ブハラ・
彼らが通訳しているので,親世代もおそらく英語
サマルカンドの2つの世界遺産の街を中心に旅す
はダメな様子。これはアジア全体に言える事だと
ることにした。
思うが,最近になって教育水準が上がってきてい
ブハラへはウズベキスタン航空のプロペラ機で
るからなのだろうか,若い人の方が英語を話せる
向かった。写真を撮りたかったが,ウズベキスタ
人は多い。小さい子供はカメラを向けると素敵な
ンでは飛行場,機内,鉄道の分岐点,鉄橋,ダム,
笑顔を見せてくれるのだが,中学生〜高校生ぐら
軍事的な性格を帯びた施設等の撮影が禁止されて
いの年代はキリっと真面目な顔になってしまう。
いるので飛行機からの写真はないが,こっそり撮
まあそういうお年頃なのだろう。
れなくもなかったと思う。ブハラへは約1時間半
ウズベキスタンでは彼らのように街中で旅行者
の飛行時間だった。
に話しかけるという行為は普通のようである。ウ
ズベキスタンはかつてシルクロードではヨーロッ
ブハラ
パと東アジアの中継点であり,たくさんの移民を
ブハラの黄金期は9世紀のサーマーン朝時代に
受け入れてきたことから,その文化が今でも根付
始まる。イスラム王朝のもと,優秀な宗教者や科
いているという。それにしても彼らの行為はお金
学者,商人などもブハラに集まった。他のオアシ
や商売を目的としたものではなく,興味本意であ
ス都市との十字路としても栄えたが,13世紀の
るということが面白いし,好感が持てる。この後
チンギス・ハンの来襲により,町は崩壊した。し
に訪れるサマルカンドでもたくさんの現地人と話
かし16世紀のシャイバニ朝の時代になり,多くの
す機会があったし,一緒に写真を撮ってほしいと
モスクが建造された。ブハラの町並みはこの頃に
頼まれることもあった。
食品と容器
53
2015 VOL. 56 NO. 1
ブハラで一番有名な場所,カラーン・ミナレッ
壊れていて暑かったが,これも発展途上国ではよ
ト。高さは46m。
くあること。約3時間半でサマルカンドに到着。
約束のゲストハウスにチェックインして共有スペ
ースに行くと,前日ブハラで出会った日本人と再
会。昼間は暑いので少し部屋で休憩して夕方から
行動することにした。
サマルカンド
紀元前4世紀に訪れたアレクサンドロス大王が
美しいと称賛した街だが,13世紀にブハラと同
様,チンギス・ハンに壊滅的に破壊されたが,
14世紀にティムールが街を再建し,現在のよう
な美しい街へと生まれ変わったという。
歴史上,様々な使い方をされてきたようだが,
この写真が今回の旅で一番のお気に入りなのだ
12世紀に建造され,チンギス・ハンの来襲で壊
が,どういうシチュエーションか想像できるだろ
されることもなく,大地震にも耐えたという。本
うか。私は前列左端で,唯一の日本人である。こ
来であれば内部の階段で上る事ができるようなの
の写真のエピソードはというと,ゲストハウスで
だが,現在は修復中で閉鎖されていた。私は高い
夕食を食べている時に隣にいたアメリカ人・ルー
ところに上るのが好きなだけに残念。
マニア人と話していると,今から一緒に散歩しな
その後は上記写真の右側に写っているような青
いかと誘われ,一緒に街に出た。後列真ん中の白
いモスク・神学校が他に何カ所かあるのでそれら
いシャツを着ているアメリカ人が前日に現地の結
を観光した後,タシュケントで知り合った日本人
婚式に飛び入り参加したらしく,その家族と道端
と夕食を共にし,彼らと別れてゲストハウスへ向
で偶然再会し写真を撮ろうということになった,
かった。そこには旅行者が交流できる共有スペー
というもの。結婚式に誰でも参加できるというの
スがある。やはりお盆シーズンなので日本人観光
も驚きだが,このような偶然があるのも旅の醍醐
客が多く,日本人6人で盛り上がっているところ
味である。
に参加し,2次会が始まった。
面白かったのが,彼らは全員一
人旅をしていて初対面だという
こと。ウズベキスタンで日本人
のツアー客はほとんど見なかっ
たが,一人旅をしている人は多
かった。結果的には彼らとの出
会いが今回の旅を面白くしたの
だが,彼らの内2人は次の目的
地がサマルカンドで私と同じ
だったので,サマルカンドで同
じホテルに泊まる事を約束して
眠りについた。
翌朝はバスにてブハラからサ
マルカンドへ移動。エアコンが
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2015 VOL. 56 NO. 1
さらにアメリカ人たちと散歩を続けていると,
別の結婚式をやっていたので少し覗いていたら,
ある男性から参加してみないかと誘われた。やは
りそれが普通なのかと思いつつ入るか迷っている
と,係の人からその結婚式は招待状が必要だと伝
えられた。ホッとしたような,でも興味はあった
ので残念なような複雑な気分だった。その後ゲス
トハウスに戻り,ブハラと同じように日本人同士
の飲み会で盛り上がった後,就寝。
翌日は本格的にサマルカンド観光。サマルカン
ドでというよりウズベキスタンの観光地で一番有
ロイドカメラを持ってくるべきだったと後悔した。
名なレギスタン広場の写真がこちら。
夕食は日本人4人で現地の人しか行かないよう
なレストランに行くことにした。観光客向けでは
なく現地人向けのお店は本当に安い。このような
情報はガイドブックには載っていないので,宿に
置いてある情報ノートがその貴重な情報源だ。そ
の奇跡的な安さと値段の割に大きなシャシリク
(後述)に感動しながら,たらふく食べた。旅好
き仲間の話は終わることがなく,ゲストハウスに
帰った後も遅くまで雑談してから,就寝。
最終日は前日の夕食メンバーの内3人でサマル
カンドからタシュケントへ乗合タクシーで移動。
8月のウズベキスタンは乾期の酷暑期。雲一つ
物価の安い国では長距離移動でも電車やバスに乗
ない青空と建物の青のコントラストが絶妙の景観
るのではなく,他の旅行者と一緒にタクシーに乗
を演出している。だが,8/25 〜約1週間,2年
るのも選択肢の一つだ。ドライバーと,1人のウ
に1回開催される音楽祭の準備をしていて,特設
ズベキスタン人と,日本人3人の合わせて5人で
ステージや照明がどうしても写ってしまう。この
約4時間のドライブだった。
椅子の青もまたいい具合に映えて絶景を演出して
タシュケントは首都だが観光地としての見どこ
いると思えばいいか。この日も昼間は暑いのでゲ
ろは少ない。ガイドブックによるとバザールが数
ストハウスで休憩しながら日本人同士で話をして,
少ない観光スポットのようだ。現地の人が買い物
夕食を共にすることを約束した。
するバザールは,世界の台所を勝手に想像できる
夕食まで時間があるので旧市街を散歩すること
ので見ていて楽しい。その後新市街を散歩してそ
にした。私は観光スポットも好きだが,現地の人
の晩発の帰国便に乗る為,空港へと向かった。
が生活している街を散歩するのも好きである。散
お盆シーズンの日本人の夏休みはほとんどが同
歩中に子供達がやってきて「フォト〜」と言いな
じ日程だ。ブハラやサマルカンドで会った日本人
がら集まってきたので,デジカメで何枚か写真を
はほとんどが同じ飛行機に乗る為,別に約束して
撮って見せてあげた。
いた訳でもないのにタシュケント国際空港に集合
日本では外国人旅行者に子供が話しかけるなん
していた。あまりにもウズベキスタンが楽しかっ
て大人が許さないと思うが,やはりこの国では普
たので,飛行機を待つ間,それぞれが経験したお
通なのだろう。すぐに現像して写真を渡せるポラ
互いの旅の内容を報告し合って旅の余韻を楽しん
食品と容器
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2015 VOL. 56 NO. 1
だ。ちゃんと社会復帰できるかな,なんていう冗
談を飛ばしながら。
その晩のフライトにてソウルまで移動し,東京
へのフライトまで数時間の待ち時間があった為,
韓国人の友人に会って日本に帰国した。
ウズベキスタン食事情
グリーンティー
これは食事に当たり前のようについてくるもの。
日本で売られている緑茶よりは少し茶色かかって
いて味も少し濃いが,日本人の舌にも十分合う。
油の多いウズベキスタン料理を食べているとこの
一見西洋風な食べ物のように見えるが,食べてみ
お茶が非常にありがたく感じられた。サマルカン
るとケチャップが麺に絶妙に混ざり合い,その甘
ドのゲストハウスではチェックインと同時にこの
さと麺の食感はまさにナポリタンである。イタリ
お茶を出してくれた。ウエルカムティー,といっ
アのナポリにはナポリタンはないらしいが,まさ
たところだろうか。
かこんなところにあったとは。あくまでもこの食
べ物の名前はラグマンであって,個人的にはトマ
トスープ入りの方が,ウズベキスタンらしいよう
な気がして好きである。
ラグマン1
トマトベースのスープにうどんのような麺,肉
や野菜等,たくさんの具が入っている。タイ料理
プロフ
のトムヤムクンを思い出させるような味だった。
おそらくこのような味付けは珍しく,どのような
ウズベキスタンの伝統料理で,米を肉,野菜等
具を入れるかは地方によってずいぶん違うようで,
と煮ている。サマルカンドのレギスタン広場の近
これはタシュケントのバザール近くで食べたもの。
くのレストランで食べた。肉は牛肉で,黄色く見
暑い時期だったので冷たいこの料理は美味しく感
ているのはイエローキャロット,赤いニンジン,
じた。
豆などが入っている。まさにピラフを脂っこくし
ラグマン2
て具を大量に入れたこの料理にはやはりグリーン
このようにスープ無しのラグマンも存在する。
ティーが欠かせない。他のお店の写真を見る限り
これはブハラのチャイハナ(喫茶店みたいなもの)
ではこれだけ具が多いのは珍しく,もう少しご飯
で食べたもの。ナポリタンの上に卵が乗っている
の分量が多いのが一般的である。
食品と容器
56
2015 VOL. 56 NO. 1
のは無理で,1食でこの1/8ぐらいを食べるのが
ちょうど良いと思う。バザールで現地の人向けに
たくさん売っているが,観光客には大きすぎるの
でお土産以外には買う必要がない。ゲストハウスの
朝食にも夕食にもこのナンがついてくるので,この
地ではナンが主食になっているのだろう。聞いた
話では他の地域でナンを焼いてもサマルカンドと
同じようにはできないというが,本当だろうか。
シャシリク
羊,牛肉のぶつ切り,トマト,ジャガイモを焼
いたもの。玉ねぎに酢をかけたものが別でついて
くる。焼くだけなのでバザール等,屋外でも売っ
ている。写真はサマルカンドにて,日本人4人で
食べたもの。この写真では大きさが伝わらないと
思うが,肉の上から下までで約30cm ある。か
なりのボリュームで盛り上がったが,これは現地
の人向けのお店だからこそで,観光客向けのお店
旅のまとめ
の肉はもう少し小さかった。ウズベキスタンでは
ウズベキスタンという国は少し変わった国だと
本当に肉をよく食べたという印象だった。
思った。特に宗教についてだが,ほとんどがイス
ラム教徒であるのに,その雰囲気をあまり感じな
かった。例えば,顔を隠した女性を一人も見な
かったこと。スカーフで頭を隠している女性は年
配の方ぐらいで若い子は洋服で短パンをはいてい
ること。1日5回のお祈りをしている人を一度も
見なかったこと等。おそらく無神論を奉じるソビ
エト連邦であった時期があることも理由の一つだ
と思うが,こういった緩い宗教観は大半の日本人
に似た感覚でもあると思う。
旅人の間ではよく言われることだが,旅先が良
かったかどうかはその地で会った人に大きく左右
される。今回は現地人・旅人の両方に恵まれた為,
サマルカンドのナン
ウズベキスタンという国を本当に好きになった。
わざわざサマルカンドのという名前を付けるほ
また,この旅行記を読んだ旅好きの方にウズベキ
ど,サマルカンドのナンは有名。ナンというと日
スタンを次の旅先の候補にして頂けると幸いだ。
本人はインドカレーにつけるナンを想像すると思
うが,このナンはそのまま食べることができ,そ
参考文献:地球の歩き方 ’13 〜 ’14 中央アジア
して固いのが特徴。もちろんこれ1個全て食べる
サマルカンドとシルクロードの国々
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アフリカ第一のコメ生産国
マダガスカルの食文化
辻本 泰弘
日本語の「おかず」にあたるローカ(laoka)と
マーサカ ニ ヴァリ(Masaka ny vary)!
いう単語が存在し,キャッサバ,トウモロコシ,
食事どきに町中を歩いていると,家の軒先から
タロなどの主食作物をコメと区別してハニクチャ
こんな声が聞こえてきます。マダガスカル語の語
ナ(hanikotrana)と総称するところにもコメを
順は日本語と逆に,文頭が動詞,文末が主語です。
特別視するマダガスカルの人々の意識が現れてい
マーサカ(Masaka)は,「熟した」とか「準備
ます。
ができた」という意味で使われ,ヴァリ(vary)
実際に,この国の人々の白米の消費量は,国民
が「コメ」,ニ(ny)は英語でいうところの冠詞
1人当たり年間106kg,日本の2倍強の数値を誇
(the)にあたります。直訳すると「コメが炊けて
ります(GRiSP,2013)。また,マダガスカルの
いますよ」。実際の彼らのニュアンスは,「ご飯を
人口2200万人のうち75% が農業従事者でその多
食べていきませんか」という,やや形式的な挨拶
くが稲作を主業としていること,同国のイネ作付
です(本当に立ち寄ってはいけません・・)。
面積135万 ha は全穀物作付面積の82%を占める
マダガスカルでは日本語と同様に,コメという
こと(FAOSTAT http://faostat.fao.org/ を参照)
特定の穀物が広く食事(ご飯)という意味で用い
など,国民の主食としてのコメの重要性だけでな
られることがあります。つまり,食事=コメ!
く,多くの国民の生活基盤としての稲作の存在が
その日初めて会う人からは,“Efa nihinana
想像できます。
という声がかけられ
このインド洋西端に浮かぶ稲作国マダガスカル
ます。少し複雑ですが,“ 朝ごはん(コメ)を食
で,私は2004年から2009年にかけて稲作研究に
べましたか? ” という朝の挨拶で,ここでもヴァ
従事する機会に恵まれました。現地での滞在期間
リ(vary)= コメという単語が使われています。
はのべ3年半にわたります。思い起こすと,当初
後述するように,食事情が悪化する雨季には,
はマダガスカル語の挨拶もままならない状態でし
キャッサバの蒸かしイモなどで朝食を済ますこと
たが,少しずつ語学を習得して(最初に覚えた単
も多いのですが,それでもなお,朝の挨拶にはコ
語はもちろんヴァリ=コメ!),現地の人々と生
メという単語が使われます。また,コメに対比して,
活を共にしながら多くの経験を積むことができま
ny vary ve
ianao? (脚注1)”
した。その経験を通して得た知識をもとに,あま
り日本では知られることのないマダガスカルの
つじもと やすひろ :独立行政法人 国際農林水産業
研究センター 生産環境・畜産領域 研究員
食品と容器
人々の生活や食文化を紹介できればと思います。
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マダガスカルの地理的概要と自然環境
まず,マダガスカルの地理的概要について簡単
に紹介します。マダガスカルは,アフリカ大陸に
ほど近いインド洋南西端に位置し,日本の1.6倍
にあたる58.7万平方キロメートルの国土面積を
有する島国です。南北約1600キロメートルに伸
びる島の中央に沿って,標高800から1800メー
せき りょう
トルの脊 梁 山脈が台地状に広がり,その東西の
裾野はそれぞれインド洋およびモザンビーク海峡
に面しています。この地形的特徴と島に卓越する
偏東風および夏季の北東モンスーンの影響が重な
写真1 マダガスカルの固有種としてよく知られるワオ
キツネザル。イサル国立公園にて(筆者撮影)。
ることで,マダガスカルには,東部の熱帯雨林気
たことがある」,というと,やや羨ましげに,「動
候から,中央部の熱帯高地気候,西部の熱帯サバ
物がたくさんいるのでしょう?」と聞かれます。
ナ気候,南西部の半乾燥気候まで様々な気候がみ
確かに,自然保護区に出かけると,上述のような
られます。
動植物に出会えることがあり,欧米や日本からの
多様な気候は各地域に特徴的な自然生態系を生
生態学者や生物学者が多く活動をしています。
み出し,これら生態系は,数千年にわたり大陸か
しかし,人々の生活に目を向けると,自給自足
ら隔離されてきた島の地史を反映して,マダガス
のままならない農業国という印象が強く,あくま
カル島固有のものとなっています。Wells(2003)
で,1人当たりの GDP =446米ドル(世界銀行,
によると,マダガスカル島はジュラ紀中期の1億
2012年),対象186カ国のうち下から数えて7番
6000万年前ごろにはインド亜大陸や南極大陸と
目という,世界で最も貧しい国の一つです。また,
ともにアフリカ大陸から分離し,1億2000万年
マダガスカルは約20の民族で構成され,豊かな
前ごろに南極大陸,白亜紀後期の8500万年前ご
生態系のみでなく様々な文化を内包した島国です。
ろにインド亜大陸と離れ,現在のような隔離され
中でも南西部の半乾燥地域を除き,島内全土に広
た島になったと考えられています。それ以降の長
がる水田風景やコメへの嗜好性の強さはマダガス
い年月をかけて進化を遂げた多くの動植物には,
カルを訪れた人に最も強い印象を与える文化の一
皆さんもよくご存知のワオキツネザル,アイアイ,
つではないかと思います。この国がもつ多様な民
バオバブなどが含まれ,この島に生息する動植物
族・文化のうち,私は中央高地南部に居住するベ
の約8割がマダガスカルにしか存在しない固有種
ツィレオ族と南東部の森林地域に居住するタナラ
とされています(写真1)
。
族の生活に触れてきました。そのため,以下に紹
アメリカのアニメ映画(ドリームワークス,邦
介する内容には多少なりとも地域的な偏りがある
題「マダガスカル」2005年公開)のタイトルに
ことを予めご了承ください。
もなるほど珍しい動植物で有名なマダガスカルで
すが,冒頭で述べたような米食文化やこの国の
マダガスカルの稲作
人々の生活についてはあまり知られることがあり
地理的にはアフリカ地域に属するマダガスカル
ません。私自身も,「マダガスカルで暮らしてい
ですが,古くからアジア稲(Oryza Sativa)が
脚注1)語学に興味のある読者のための解説。Efa は「既に」とか「もう」という意味。nihinana は mihinana=「食べる」
という動詞の過去形(マダガスカル語の動詞の多くは m- から始まり,m → n に変形すると過去形,m → h に変形する
と未来形になる)。ny vary が目的語のコメ。ve は,主語の前につけて疑問文を示す言葉。ianao= あなた(二人称単数形)。
食品と容器
59
2015 VOL. 56 NO. 1
栽培されており,伝統的な農機具や栽培法でみた
2013)。
類似性から,農業環境で分類すると,アジア稲作
日本や韓国などの東アジアで食される短粒の温
圏としても捉えることができます。また,マダガ
帯ジャポニカ系統の品種は,耐冷性品種の導入な
スカルへの稲作の伝 播は,1500 〜 2000年前に
どにより中央高地の水田で多少の作付けがみられ
断続的に行われた東南アジア島嶼部からの移住の
ますが,それでも普段の生活で口にすることはな
歴史の中でもたらされたものと推測されています。
かったように記憶しています。一度,コシヒカリ
マダガスカルでは地域に応じてその稲作形態に
を日本からのお土産として試食してもらったとこ
特徴があります。例えば,降水量の多い北部や東
ろ,みな一様に,「とても美味しい。おかずがい
部では,自然の回復力に依存した焼畑による粗放
らない。」と口に運んでいたので,短粒の温帯
的な陸稲栽培が盛んです(写真2)
。焼畑では,
ジャポニカ系統であるコシヒカリの食味はマダガ
で ん ぱ
とうしょ
スカル人にも通用するのかも知れません。
マダガスカルにおける稲の栽培法やその地域的
な特徴については,「マダガスカルの稲作-集約
的水稲栽培法 SRI」(辻本と堀江,2009)や「マ
ダガスカルのイネと稲作」(田中,1989)に,よ
り詳しく紹介されています。
マダガスカルの米食文化
~市場でコメを買う~
マダガスカルの市場にコメを買いに行くと,キ
写真2 焼畑で収穫期を迎えた陸稲を穂摘みしている様
子。マダガスカル南東部のタナラ族の農村集落にて(筆
者撮影)。
ログラム価格とともに,カポカ(kapoka)当た
アジア稲を生態型で区分した場合の熱帯ジャポニ
の乳製品会社が生産するコンデンスミルクのブリ
カ系統の品種が多く栽培されています。熱帯ジャ
キ缶(300mL 容量)一杯のことを指します(写
りいくら,という単価が表示されています。カポ
カは全国共通の単位ですが,Socolait という民間
真3)
。日本でいえば,升売りのようなもので
ポニカ系統は大粒の特徴をもち,焼畑を営む地域
ではその食味が特に好まれているようです。しか
しょうか。このカポカという容器はコメ以外にも,
い
し,こうした大粒品種はあまり市場に出回ること
マメ類,炒り子,サヤインゲンなどサイズが小さ
がなく,筆者自身も農家が提供してくれたものを
1,2度食べた程度であったと記憶しています。
マダガスカルの市場に出回るコメは,そのほと
んどが長粒のインディカ系統の品種です。同じイ
ンディカ系統の長粒種として,日本では,‘ タイ
米 ’ などが知られていると思います。これらの品
種は中央高地を中心に広がる水田での水稲栽培で
主に生産されます。また,中央高地で散見するよ
うになった常畑による陸稲栽培でもインディカ系
統の長品種が作られています。常畑陸稲は,ここ
数年で中央高地に急速に拡大している稲作形態で,
水田に適した低地の農業利用が飽和してきたこと
が背景にあると考え ら れ て い ま す(Sester ら,
食品と容器
60
写真3 市場でコメが売られている様子。コメの上に載
っているブリキ缶容器の山盛り1杯が1カポカという全
国共通の単位(JIRCAS横山繁樹氏撮影)。
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い様々な食料品の量り売りに用いられます。擦り
滞在中はコメに混じった小石に頭を悩まされまし
切れ一杯ではなく,山盛りがマダガスカル流の1
た。滞在先の街の外国人コミュニティの中では,
カポカです。一企業の製品容器が全国共通の単位
「○○で売っているコメは石の混じりが少ないよ」
になっているのは何だか不思議な感じがします。
といった情報が共有されていました。食事どきに
ちなみに,ニンジン,キュウリ,ダイコン,トマ
女性や子どもが手蓑を用いて籾殻と小石を取り除
トなどサイズが大きめの生鮮品は,数個を一山に
く様子は,マダガスカルの街角でよく見かける風
して売られており,こちらはトゥクニ(tokony)
景です(写真5)
。
みの
という単位です。一盛りいくらという感じです。
マダガスカルのコメには,北東部のアロチャ湖
周辺を中心に栽培される Makalioka というブラン
ド品種がありますが,それ以外は,日本のように
品種や産地で細分化されることはなく,白米,赤
米,新米,古米,程度の分類で販売されています。
栽培している農家からして,作付け品種の認識が
不十分な場合が多いので,当然といえば当然です。
また,マダガスカルのコメには小石がたくさん
混じっているので注意が必要です。これは,収穫
もみ
した籾を地面に直に広げて天日干しする習慣によ
るものです(写真4)
。ござや乾燥牛糞などを敷
写真5 食事どきに,手蓑を用いて籾殻と小石を取り除
いている様子。マダガスカルの日常風景である(筆者撮
影)。
いて小石が混じらないように工夫する農家もみか
けますが,小石を取り除く作業は ‘ 消費者の仕事 ’
~僅かなおかずで皿一杯のコメを頬張る~
という認識があるらしく,小石の混じり具合では
市場価格が変わりません。つまり,売る側の付加
こうして小石を取り除いている間に火をおこし
価値がないために,小石を取り除く作業にインセ
て,お湯が沸騰し始めたらコメをさっと鍋にいれ
ンティブが働かず,いつまでも小石が混じったコ
ます。コメを研ぐという作業は私が生活した地域
メが売られているのだろうと思います。私自身も
では見ることはありませんでした。上述の通り,
マダガスカルではインディカ米が食されるのです
が,タイ米のようにパサパサした感じはなく,か
といって日本のコメのようなもちもち感はなく,
その中間といった印象です。コメを炊くときの水
加減によるのでしょうか。
コメが炊き上がると,お皿一杯に盛り付け,塩
分たっぷりの葉菜類をおかず(ローカ)に一気に
かきこみます。女性も子どもも1食に1合ほどを
平らげてしまいます(写真6)
。葉菜類ではサツ
マイモの葉を煮込んだものやキャッサバの葉をす
りつぶして油で炒めたラヴィトゥトゥ(ravitoto)
とよばれる料理がポピュラーです(写真7)
。街
写真4 収穫したコメを地面に広げて天日干しにする様
子。晴天日に丸一日乾燥させた後,ほうきなどでかき集
めて自家消費,もしくは市場に出すので,小石がたくさ
ん混じってしまう(筆者撮影)。
食品と容器
中の大衆食堂であれば,そこにヘナキスア(豚肉)
,
ヘナウンビ(牛肉)
,ヘナアクフ(鶏肉)
,トゥル
ンドゥル(魚)などが付けられますが,農村地域
61
2015 VOL. 56 NO. 1
1
調査農家数10戸の平均値を示す
(2008年の調査データ)
。
0114
写真6 収穫期の共同作業の後,塩分たっぷりのおかず
でコメを食べる女性たち。右下の女性は脱穀後の稲わら
に腰かけている。
*&+&',&$'"
)
図1 タナラ族が主に居住する南東部のイクング郡トゥ
ルングイナ地域における 1 食あたりのおかず品目数の月
*-./$(&%& 01)0
2
別推移(Tsujimoto
ら,2012 から一部改変)
。
ではこうした
昔の日本の質素な食生活を指す ‘ 1汁1菜 ’ と
動物性食品を
いう言葉がありますが,私が滞在していたマダガ
口にできる機
スカル農村部の食事はそれ以下の質素さかもしれ
会は多くあり
ません。それでも彼らは,コメをお腹いっぱい口
ません。現地
にすることができると満足の様子です。マダガス
滞在中にいく
カルに来て暫くの頃は,おかずとの配分が分から
つかの農家の
ずご飯が残りますが,慣れてしまうと,塩味の効
食事を毎日記
いた僅かなおかずでお腹いっぱいご飯をかきこめ
録したことが
るようになります。
あります。そ
のデータをみ
~その他のコメ食品を味わう~
ると,おかず
に占める割合
ご飯を取り分けた後,鍋にもう一度お湯を入れ
て,残ったおこげと一緒に煮立たせると,ラヌナ
写真7 ラビトゥトゥ(ravitoto)の ( 品 目 数 と し
準備のため,キャッサバの葉を臼と杵
て)は葉菜類
ですり潰している様子。ravina(葉っ
ぱ)と mitoto(杵で搗くという動詞) が40% で 動
からなる言葉。
物性食品は
パング(rano’apango)と呼ばれるマダガスカル
風のお茶ができ上がります。ラヌ(rano)が水,
アパング(apango)がおこげという意味です。
麦茶と似た味で香ばしく,異国の地にいると大変
15% となっています(図1)
。そもそも1食あた
ほっとする味がします(写真8)
。日本ではあま
りのおかずが1品目に満たないので,動物性食品
りなじみがありませんが,韓国ではスンニュンと
を口にするのは2~3日に一度というペースです。特
いう同じ製法のおこげ茶があるそうです。
に,食事情が厳しい雨期を迎えると,白粥やサン
また,マダガスカルには朝食にお粥を食べる文
バイカ・カザーハ(sambaika kajaha)とよばれ
化があります。体調のすぐれない時でも口に運
るキャッサバの蒸かしイモなど,主食のみ・おかず
ぶことができるので,おこげ茶のラヌナパング
なし,という朝食が多くなります。図1をみても,
と合わせて,アフリカ大陸にはない日本人にとっ
乾期作と雨期作のコメ収穫の端境期にあたる3月
て有難いマダガスカルの米食文化であると感じ
から4月に一食あたりのおかず数が減少しており,
ています。お粥にはシンプルな白粥のヴァリスス
雨季中に逼迫する彼らの食事情が想像されます。
食品と容器
62
2015 VOL. 56 NO. 1
写真9 朝食にマダガスカル風コメ粉パンのム
フガシを頬張る筆者。砂糖たっぷりのコーヒー
で流し込む(筆者撮影)。
写真8 ある日の大衆食堂での夕食。おかずは,豚肉(ヘ
ナキスア)にキャッサバの葉をすり潰したラヴィトゥト
ゥを和えたもの。中央の飲み物がおこげ茶のラヌナパン
グ(筆者撮影)。
マダガスカルのお酒
これだけコメを消費するマダガスカルですが,
ア(vary sosoa) と 草 粥 の ヴ ァ リ ア ミ ナ ナ ナ
アジア地域に一般にみられるコメから作るお酒,
(vary’aminanana)の二種類があり,少し贅沢
すなわち,日本酒や米焼酎の類いがありません。
をするときには,塩気たっぷりのソーセージを加
不思議な感じもしますが,稲作伝播のときには一
えます。朝食にはもってこいの食事だと個人的に
緒に伝わらなかったのでしょうか。残念です・・・
思うのですが,マダガスカルの特に農村地域の
マダガスカルで口にされるお酒は,
THB(Three
人々は朝から山盛りの白米を食べたいという “ 強
horses beer の略でラベルに三頭の馬が描かれて
迫観念 ” があるようで,農家からお粥をご馳走に
いる。仏語風にテーアッシュベーと発音)に代表
なるときには,
「こんなものしか出せなくて,ご
される国産のビールと,東部の多雨地域で栽培さ
免なさいね」という言葉や態度が伝わってきます。
れるサトウキビを原料にした伝統的な蒸留酒の
そ の 他 に, マ ダ ガ ス カ ル に は ム フ ガ シ
トゥアカガシ(toaka gasy)
,すなわちラム酒があ
(mofogasy)と呼ばれるコメ粉パンがあります。
ります。ビールの原料である大麦の一部は,アン
ムフ(mofo)は旧宗主国のフランスパンのこと
チラベなどの高原地帯で栽培されています。トゥ
を指し,ガシ(gasy)がマラガシー(malagasy)
アカガシ(ラム酒)はサトウキビの絞り汁を地中
に由来する ‘ マダガスカルの ’ という形容詞です。
に埋めた樽で発酵させたあと,その醸造酒を蒸留
マダガスカルのパン,すなわちコメ粉パンです。
して作られます。この製法は砂糖精製後の廃糖蜜
丸型の一口サイズで,大衆食堂の軒先などで朝食
で作られるインダストリアル製法に対してアグリ
時に売られています。これを大量の砂糖,さらに
コール製法と呼ばれ,サトウキビの栽培地で収穫
は,上述の量り売りの単位=カポカとして使われ
時期にしかできないため,世界的には珍しいそう
る Socolait のコンデンスミルクを加えた甘った
です。調査対象であった南東部森林地域の村落で
るいコーヒーで流し込むのがマダガスカル流です
もサトウキビ収穫時期の5月から6月には,自家
(写真9)
。とても安くて美味しいので(滞在当時
製の蒸留装置でトゥアカガシ(ラム酒)を作る小
は一つ3円程度),初めてマダガスカルに渡航し
さな湯けむりがあちらこちらに立ち上っていまし
た際にお土産として大量に買って帰った記憶があ
た(写真10)
。当然のことながら,マダガスカル
ります。日本に着くころには異臭を放っていたの
でも無認可の自家醸造は法律で禁止されており,
で,二度と繰り返しませんでしたが・・・。
罰金を取られたり逮捕されたりという話をよく聞く
のですが,貴重な現金収入源として,トゥアカガシ
の製造は今もなお地域に根付いているようです。
食品と容器
63
2015 VOL. 56 NO. 1
ておらず,キャッサバへの依存度が高いことが知
られています(Dostie ら)。図1に挙げた食事調
査においても,雨期が進むにつれてコメの消費量
が減少していく結果が得られています
(Tsujimoto ら,2012)。
コメの収穫が近づくと,キャッサバの蒸かしイ
モを頬張りながら,「早くコメがお腹一杯食べら
れるといいね」という村人の声が聞こえてきます。
彼らがもつコメへの強い思いを知るにつけ,渡部
忠世博士(1990)の「日本は米食民族というよ
写真10 自家製の蒸留装置でトゥアカガシ(ラム酒)を
作る様子。ドラム缶に入れた醸造酒を熱し,気化したア
ルコール分がパイプを通る間に,右上で取水する湧水で
冷やし,再度液化させてポリタンクに集めている(筆者
撮影)。
りは観念としての主食を米と考え,米を食べるこ
都市部のお洒落なレストランに行くとトゥアカガ
ているのが現状ではないでしょうか。近年は,マ
とをもって悲願としてきた ‘ 米食悲願民 ’ であ
る」,という言葉を思い起こします。マダガスカ
ルの農村部の人々もまた,同様の米食悲願を抱い
ダガスカル稲作の生産性も少しずつ改善の兆しが
シ(ラム酒)にマンゴー,ライチ,オレンジ,バ
みられます。もう少しおかずのバリエーションが
ニラなどマダガスカル産の果実を漬け込んだ
増えると嬉しいのですが,まずはコメの自給達成
rhum arrangé(仏語:ラムアランジェ)と呼ば
を願い,また(独)国際農林水産業研究センター
れる果実ラム酒が売られています。特に,マダガ
(JIRCAS)でアフリカの稲生産に取り組む研究員
スカル特産のライチをたっぷり詰め込んだライチ
として,この国の安定的なコメ生産に少しでも貢
ラム酒は絶品です。ライチの収穫時期が重なるク
献できればと考えています。
リスマスや年末は,知り合いの家に集まり,ひた
すらライチの実を取り出してラム酒の瓶に詰めて
引用文献【アルファベット順】
いく,という作業が毎年の恒例行事でした。
さいごに~マダガスカルが抱く米食悲願
限られた枚数の中ですが,日本ではあまり馴染
みのないマダガスカルの食文化について紹介して
きました。読者の方がマダガスカルを訪問する機
会を想定して,文章中に食品名を指すいくつかの
マダガスカル語を記載したつもりです。辞書代わ
りに活用頂き,現地の食事を楽しんでいただくこ
とがあれば幸いです。ただし,私のマダガスカル語
は南部(ベツィレオ族)訛りですので,ご注意を。
アジアとアフリカの地域性が融合した豊かな文
化をもつマダガスカルですが,冒頭で述べたよう
にその経済は発展途上にあり,世界で最も貧しい
国の一つです。国民の主食であるコメについても,
人口増加による恒常的な需要拡大に生産が追い付
かず,輸入米や援助米への依存が続いています。
特に,農村部の貧困層ほどコメを満足に自給でき
食品と容器
64
Dostie B. ら(2002)Seasonal poverty in Madagascar:
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2015 VOL. 56 NO. 1
ベトナム領メコンデルタ管見
隅田 裕明
究員として Dr. Nguyen Bao Ve 助教授を受け入
メコンデルタと COE プログラム
れた経緯があることから,ベトナムを担当するこ
日本大学生物資源科学部では2003 〜 2007年
ととなった。当時 Ve 先生はカントー大学農学部
の5年間に渡って,21世紀 COE プログラム(21st
長に就任していたことも,カントー大学をベトナ
Century Center of Excellence(COE) Program)
ムでの海外調査拠点として選択するには好都合で
として「環境適応生物を活用する環境修復技術の
あった。しかしながら,ベトナムへの渡航経験は
開発」が採択された。このプログラムでは東南ア
なく,どのようにカントーまでたどり着くのか,
ジアに分布する強酸性を示す酸性硫酸塩土壌に焦
滞在には適切なホテルがあるのか,現地踏査のカ
点をあて,社会学的研究と自然科学的研究の両研
ウンターパートの選抜など,全く詳細な状況はわ
究分野より取り組み,両分野より得られた成果を
からず,ベトナム語もわからず,僅かな頼りは
用い,酸性硫酸塩土壌環境に適応する生物を用い
Ve 先生より伺った現地事情と観光ガイドブック,
た修復技術の開発を目的とするフィールド研究で
英語—ベトナム語辞典のみであった。
あった。東南アジア研究対象地として中華人民共
和国南部の海南島,タイ王国ではバンコック北東
いざベトナム領メコンデルタへ
部に位置するナコンナヨ,ベトナム社会主義共和
ベトナムは熱帯から亜熱帯に分布し南北
国ではベトナム領メコンデルタのカントー,キエ
2000km に及ぶ細長い形をしており,東西方向
ンザン省にフィールド拠点を設けて研究を遂行し
に最も広い部分は北部で約600km,最も狭い部
た。海外で研究拠点を設けフィールド調査を遂行
分は中央部で約50km である。国土面積33.1万
するため,海外拠点の担当者が選抜された。土壌
km2,人口8416万人,農地は9.4万 km2であり,
圏科学研究室に所属する私は,かつてのフィール
農林業従事者が全労働者の50% 強を占めている
(図1)。ベトナムの主要な輸出農産物は米,コー
ド研究の経験のあるタイ王国を希望したものの,
研究室にはメコンデルタの中央直轄市であるカン
ヒ ー, ゴ ム な ど で あ り,2005年 の 輸 出 量 は 米
トーの総合大学であるカントー大学より2000年
525万トン,コーヒー 91万トン,ゴム55万トン
に日本大学生物資源科学部国際地域研究所交際研
に達している。
2004年8月に現地での研究協力を得るために
メコンデルタ唯一の総合大学であるカントー大学
すみだ ひろあき :日本大学生物資源科学部 生命化
学科 土壌圏科学研究室教授
食品と容器
へ Ve 先生を訪ねた。ホーチミン市で運転手付レ
65
2015 VOL. 56 NO. 1
支流であるハウ川の南岸に位置
し,当時の国道 A1号線は未整
備で日本の ODA で建設された
カントー橋もなく,オーストラ
リアの援助によるミートゥアン
橋は建設中で,現在とは全く異
なる劣悪な道路事情であった。
カントーにはメコン・ティエン
川とメコン・ハウ川をフェリー
で2回乗り継ぎ,ホーチミン市
より車で5時間ほどかけてカン
トーに辿り着いた。2004年か
ら10年間に渡りメコンデルタ
で17回のフィールド調査(主
図1 ベトナム調査対象地
に酸性硫酸塩土壌の調査と試
ほじょう
ンタカーを借り上げ,ベトナム南部最大の都市で
料採取,定点圃 場を設け,データロガーを設置
あるホーチミン市の西約 160km に位置するカン
し土壌環境の長期測定と土壌溶液の採取)を
トーへとバイクと自転車が氾濫する国道 A1号線
行った。当初はカントー大学を拠点にカントー
を南下した(写真1)。
周辺で研究活動を実施していたが,2005年以降
この国でのバイク,自動車の運転では,特に交
は Ve 先生の勧めにより調査拠点をキエンザン省
差点の通過と右左折には運転手同士の “阿吽の呼
ラ ン チ ギ ア 市 に 移 し,Kien Giang Agriculture
吸 ” が要求されるようである。日本ではバイクに
Extension Center 局長である Dr. Do Minh Nhut
は最大2人が乗車するが,この国では一家に1台
ならびに普及課長である Le Van Huyen 氏の協
所有するバイクに夫婦と子供の4人が乗車するこ
力を得て実施している。ここでは私がメコンデル
とや,荷物の運搬などは一般的なバイクの利用方
タのフィールド調査で経験したメコンデルタ北西
法であるようだ。また,警察による路上検問が行
部の様々な様子と食生活について紹介したい。
あ う ん
われると道路渋滞が発生し,検問が終了するまで
ベトナム領メコンデルタと酸性硫酸塩
土壌
続く。これは無免許のバイク所有者が多数存在す
るとのことであった。カントーはメコン川最大の
メコン川はチベット高原を源流とし,中国雲南
省を通過しミャンマー,ラオス国境,タイ,ラオ
ス国境,カンボジア,ベトナム南部を流下し南シ
ナ海へ注ぐ全長4023km,流域面積795,000km2
の国際河川である。メコンデルタはメコン川最下
流のカンボジア東南部とベトナム南部を含めたメ
コン 川 下 流 の 三 角 州 を 指 す。 面 積 は お よそ
53,000km2,そのうちベトナム領は39,000km2を
占 め, こ の 地 域 は ベ ト ナ ム 領 メ コ ン デ ル タ
(VMD)と呼ばれている。その面積は日本の九州
とほぼ同程度の広さを有する。VMD はベトナム
写真1 国道にあふれかえるバイク
食品と容器
66
2015 VOL. 56 NO. 1
写真2 キエンザン省エビ養殖水田で成長するエビ,
エビ品種は Beam Flash を用い 900 kg/ha/year を
目標養魚量としている。
写真 3 広いセメント舗装された庭で人力で行われる脱
穀米の乾燥作業
超えるエビが養殖できれば,十分な収入が得られ
もみ
最大の穀倉地帯であり,水稲(籾 )1900万トン
三階建ての住居を新築することも可能であるが,
(2005年)を生産しベトナムから輸出される米の
これに成功するエビ養殖農家の割合は5%以下で
あると言われている。
90% 以上を生産する。またサトウキビは463万ト
ン(2005年)を産する。近年は水産(養殖)が
急成長し,養殖(水面)面積68万 ha,養殖水産
VMD の水稲栽培
物 の 生 産 量 は100万 ト ン(2005年 ) に 達 す る。
VMD はベトナム国土面積の僅か12%にすぎな
このほとんどは,淡水ないし汽水域を用いて行わ
いものの,国内主要農産物の50%以上,水産物
れ,海岸沿いにある塩類土壌地帯の農地では急速
の27 % を 生 産 し,GDP の27 % を 占 め て い る。
にエビ養殖池が拡大されている。このエビ養殖は
VMD は,北部にあるベトナム第2の穀倉地帯で
独特な方法で行われている。ベトナムでは米価格
ある紅河デルタに比較して,土壌が若くメコン川
に比べ養殖エビ販売価格がはるかに高く,表1に
上流部からの堆積作用により生成した土壌であり,
示した通り,キエンザン省の「水稲 - エビ養殖」
雨季の後半には,氾濫水と雨水により0.5 〜3m
農家での粗放的水産業(養殖)は水田を利用し,
の冠水を受ける地域も存在することから土壌は肥
乾季に相当する3-6月にエビ養殖を行い,雨季
沃である。また,農家1戸当たりの経営面積が広
の中-後期に相当する7-10月には養殖池の表
いこと等,同じ国であっても稲作を取り巻く条件
土を降雨や洪水による氾濫水で洗脱後,水稲栽培
が大きく異なる。このため両デルタの稲作にも異
を行う粗放的な「水稲-エビ養殖」が行われてい
なる点が多数見受けられる。例えば,紅河デルタ
る。
では堆 厩肥の利用が慣行であるのに対して VMD
たいきゅうひ
ではほとんど利用されていない。また,紅河デル
このエビ養殖は写真2に示した体長が15cm を
タでは水稲の移植栽
表1 キエンザン省の農業カレンダーと水稲収量
Month
Jan Feb Mar Apr May Jun Jul Aug Sep Oct Nov Dec
気象条件
慣行水田(三期作) 冬春作水稲
5〜6t/ha
食品と容器
エビ養殖
春夏作水稲
3t/ha
夏秋作水稲
夏秋作水稲
4.5t/ha
67
ちょくはん
て VMD では 直 播 が
一般的である。また,
雨 季(降水量:1800 〜 2330mm)
水稲−エビ養殖水田 冬春作水稲
培が行われるのに対し
冬春作水稲
冬春作水稲
水稲品種は非感光性
で100日 以 下 の 生 育
期 間 を 持 つ IR 系 多
収量品種の利用によ
2015 VOL. 56 NO. 1
VMD の問題土壌酸性硫酸塩土壌の調査
VMD の土壌は紅河デルタに比較し肥沃である
ものの,酸性硫酸塩土壌および塩類土壌などの問
題土壌の分布面積が大きな割合を占めている。
VMD では将来の優良農耕地拡大の余地はほとん
どないが,問題土壌を中心とした土壌改良など生
産技術の向上により農業生産を増加させるポテン
シャルは大きい地域である。393万 ha の面積を
有する VMD は北部より南部へ緩やかに傾斜 ( 平
均勾配0.0085˚) し,標高は海抜10m 以下の地域
写真 4 庭を持たない農家では道路沿いにビニール
シートを敷いて行う乾燥作業
がほとんどを占める。VMD の農耕地面積の9%
り水稲の二期作から三期作化へ移行すると共に,
はココナッツ,果物,野菜,豆類,豚,アヒル,
農薬,化学肥料の利用,ポンプによる潅漑の普及
牛乳である。潜在的農地としての重要性は極めて
が進んでいる。VMD はベトナム最大のコメ生産
高いと考えられる。しかし,VMD は最終氷期以
地域として,コメ生産の50%を占める。メコン
降の約5000年間に急速に発達し,汽水環境下で
デルタで拡大する水稲三期作のキエンザン省の農
マングローブ林に由来する160万 ha におよぶ酸
業カレンダー(表1)では3~6月の春夏作,6
性 硫 酸 塩 土 壌 (ASS) が 存 在 す る。ASS は 排 水,
~9月の夏秋作,11月~翌年2月の冬春作の三
地下水位の低下により土壌の乾燥が進むことで強
期作である。また輸出米のほとんどがこのメコ
酸性 (pH 2〜3) を示し,Al, Fe 等の金属が可溶
ンデルタ地域で栽培された水稲である。水稲栽
化し,作物栽培には適さない問題土壌として位置
培面積は大きく,三期作が行われるものの,収
づけられている。
は林地であり,農耕地での水稲以外の主要農産物
穫米の乾燥は庭先や道路沿いで天日干しが行わ
ASS の土壌調査は踏査により調査地点を選定
れるなど収穫米の品質管理には多くの問題を抱え
するが,メコンデルタでは平らで急峻な地形は極
ている(写真3,4)。
一部であり,海抜は低く,地下水位は極めて高く,
ま た, カ ン ト ー 市 内 の 店 頭 で 売 ら れ て い る
道路さえ整備されていれば移動は容易であるが,
VMD での米の流通価格は4000 〜 5000ベトナム
当時の道路状況は劣悪を極め,至る所で水没し,
ドン(1ベトナムドン =0.006円),日本円では
寸断されている状況であった(写真6)。
24 〜 30円 /kg である(写真5)
。
写真6 道路整備が進んでいないキエンザン省で雨季の
降雨後に立ち往生するレンタカー
写真5 カントーの小売店で販売される米の価格
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2015 VOL. 56 NO. 1
写真7 近隣の居住者によりつくられた一本橋を渡り
調査地点へ移動
写真9 土壌採取を始めるとすぐに人集りができあがる。
期間中カントー大学より同行したカウンターパ
ートが調査許可書をホテルに置き忘れ,調査時に
集まっていた参集者が駐屯陸軍に通報し,軍担当
官の事情聴取を受けることもあった。しかしキエ
ンザン省カウンターパートである Le Van Huyen
氏と軍担当官が同級生であったことから事なきを
得た。ベトナムでの現地フィールド調査では現地
のカウンターパートと運転手が重要な役割を果た
写真8 移動距離が長い場合には船を借り上げ水路を
経由し調査地点へ移動する。
すことを実感した。キエンザン省でのフィールド
調 査 で は Kien Giang Agriculture Extension
Center 局長である Dr. Do Minh Nhut には調査
その結果,荷物を担ぎ,住民の手作りの一本橋
たど
関連の許可証の申請,機材の管理,定点観測用圃
を渡り目的地に辿り着くか,あるいは縦横に張り
場の管理などを担当頂いた。また,普及課長であ
巡らされた水路を利用し,船を借り上げ移動する
る Le Van Huyen 氏は現地の農業事情に詳しく
方法が主であった(写真7,8)。
各農家の農業形態の詳細な聞き取りに協力して頂
海外の土壌は日本では輸入禁止品とされてい
いた。国内の移動は運転手付レンタカーで行った。
る。2005年12月にベトナムで採取した土壌を日
2005年以降の現地調査には,現地旅行社を通じ
本へ持ち込むために農林水産省より輸入禁止品
運転手として何時も Mr. Tran Anh Quan を指名
輸入許可証を受領し,日本より大量の深層土壌
していた。ベトナムでは同行する運転手に対し,
採取用の専用機材を持ち込み,VMD 北西部のア
車両レンタル期間中の宿泊費,食費を借用者が支
ンザン省,キエンザン省の両省で深さ5m まで
払うシステムとなっている。この結果,現地調査
土壌コアを採取できる深層土壌採取を実施した。
の期間中運転手とは常に行動を一緒にすることと
同国での各省の管理は厳しく,調査を行うにあ
なる。10年近くの付き合いになる我がドライバ
たっては省政府より調査許可を得なければなら
ーである Quan 氏はフィールドでの宿の手配,
ない。省をまたいだ調査ではカントー大学よりこ
小生の好みにあった食事を提供する食堂への同行,
の手続きを行った。調査時には写真9の様に必ず
ベトナム料理の食べ方さらには現地調査時の貴重
住人が集まりあっという間に人集りができる状況
なアシスタントとしても活躍してくれた。
であった。
食品と容器
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ベトナム料理
ベトナムは中国文化の影響を強く受け,19 〜
20世紀にはフランスの植民地統治を受けた結果,
中国料理とベトナムコーヒーやバゲットなどフラ
ンス食文化の影響が残されている(写真10)。
写真 11 ベトナムコーヒー
トと食堂で合流し,朝食を取りながら当日の調査
事項の打合せを行っていた。カウンターパートも
レンタカー運転手同様に食事は一切こちら持ちが
常識のようであった。
ベトナムの南部の食事
写真 10 路端で売られるバゲット(形はフランス文化の
影響を残すが,軟らかくアジア風のバゲットである)
ベトナムの食事は米(長粒米)を主食とし,箸,
小生の感じたベトナム南部料理の特徴は高温多
茶碗を利用しお茶も供され味は日本人の好みに合
湿を反映し,砂糖を多用した甘辛い味とハーブ類
う薄味である。VMD では魚介類が豊富であるこ
の多用,麺類は米粉からつくられた米麺(ライス
とから鍋料理として供されることが多い。鍋料理
ヌードル)が利用されることであった。ベトナム
には様々な魚介類が牛骨スープまたは鶏スープで
料理は東南アジアの辛い料理とは大きく異なり,
独特な形の鍋を利用して供される(写真12)。鍋
味は日本人の舌に適したコクのある味である。ま
の魚介類を食した後に米麺または飯にスープを加
た,供された料理には薄味で各地域ごとに味の異
えて食べることが一般的である。
なる小魚を塩漬け発酵させた魚醤(ヌクマム)と
キエンザン省では漁港が多く豊富な魚介類が
刻んだ唐辛子,甘酢ソース,ライムを用い自分の
捕れる。特に驚いた魚介類料理はシャコであっ
好みの味にして食することが一般的である。また,
食堂では生野菜(コリアンダー,ドクダミ,香草
など)が供される。生野菜はカゴに大盛りにされ
供され,まるで路端に生えている草を取ってきた
ような “ 草の山 ” をテーブルに置かれた感じで
あった。
ベトナムでは一般的に朝食は食堂でとることが
多く,最もポピュラーな朝食はフォーと呼ばれる,
米麺に牛骨スープまたは鶏スープをかけ牛肉,鶏
肉または魚介類をトッピングした麺類と,カップ
にコンデンスミルクを入れ,ステンレスの穴あき
容器で入れるベトナムコーヒーである(写真11)。
キエンザン省での調査では,朝カウンターパー
食品と容器
70
写真 12 鍋に縁側がつき材料が過熱しすぎないように
煮えたら縁側に置くことで保温の効果もある。
2015 VOL. 56 NO. 1
(写真14)
。農家圃場で定点調査を進めるうちに,
圃場借り上げ農家の奥さんが,ゆでた鶏肉,野菜,
スープなどの昼食を準備してくれるようになった
(写真15)
。この食事を家族と共に食べながら
様々な現地情報の聞き取り,農家家族との信頼関
係の構築などフィールド調査を実施するに当たり
極めて重要な機会となった。
これからも継続する VMD のフィール
ド調査
長期に渡るフィールド調査を実施しているが,
写真 13 キエンザン省で食される大きなシャコ
た。日本では5cm 程度のシャコが寿司屋などで
最も大事なことは現地調査を共にするカウンター
供されるが,キエンザン省では長さ15cm 程の
パートとの信頼関係の醸成であった。この関係を
大ぶりのシャコを殻付きのまま焼いて供される
構築することにより,様々な状況の把握と定点圃
(写真13)。
場の管理等が順調に進むこととなった。このよう
昼食はご飯に野菜,魚介類または肉を炒めたもの
な状況になるためには,1年に2回ほど現地調査
をかけスープと共に食べることが一般的であった
を継続し3年ほどの年数を要した。また,メコン
川は国際河川でありながら,上流部の中国国内で
の取水を目的としたダム建設が進行している。今
後メコン川の水量の低下と水環境の変化が懸念さ
れている。キエンザン省での水稲収量はメコン川
に接するアンザン省に比べ低く,三期作が拡大す
るものの,秋冬作水稲の乾燥方法に問題があり随
分低い価格で売買されている。将来もメコンデル
タの農業拡大に関しては様々な問題があることが
予想される。21世紀 COE プログラムは多大な成
果 を 残 し て 終 了 し た が, プ ロ グ ラ ム の 終 了 を
VMD でのフィールド調査期間の終了にしてはな
写真 14 米に炒めた野菜と魚介類を載せた一般的な
昼ご飯
らないと考えている。
2004年の VMD でのフィールド調査を開始し
た時期に比べ,交通網は各段に整備され,ホーチ
ミンからカントーまで車での移動時間は3時間と
なった。また,カントー空港,キエンザン空港も
整備され便数は少ないもののホーチミン,ハノイ
への移動も短時間で行うことができる。さらに
10年間に渡り築き上げてきたカウンターパート,
レンタカー運転手とのこれまでに築いた信頼関係
をよりどころに土壌に焦点をあてたフィールド調
査を継続したいと考えている。
写真 15 定点調査水田所有農家の奥さんが準備して
くれた昼食
食品と容器
71
2015 VOL. 56 NO. 1
最近の技術雑誌から
機器―
食品機械装置,51(12)57 ~ 73(’
14)
○用水・排水処理におけるオゾンの活用… ……高原博文
○ DNA チップによるカビ検査法の活用と製品へのカビ汚
染防止対策… …………………………………猪野 毅
○水中振動波を用いたコンベアネットの連続式・自動・
節水型洗浄装置… ……………………………丹波紀雄
国 内 編
食
品
衛
生
〔解説〕特集―国際標準化進む HACCP: 北米の最新動
向を視る/ FDA 食品テロ対策指針,カナダ FSEP
の HACCP 基準収載―
月刊 HACCP,20(12)19 〜 40(’
14)
○食品安全強化法(FSMA)における輸入業者による外国
供給業者の検証プログラム(規則案)のポイント
…………………………………………………伊藤大介
○産業界のためのガイドライン/食品生産者,加工業者,
および運送業者:食品安全予防対策ガイドライン
……… 原著 : 米国保険社会福祉省食品医薬品局食品
安全・応用栄養センター(FDA / CFSAN)
・翻訳 :
浦上 弘・編集:編集部
○カナダ「FSEP(食品安全強化プログラム)」第 3.2 項
における HACCP の要求事項(前編)
…… 原著 : カナダ食品検査庁(CFIA)・翻訳 : 日本
HACCP トレーニングセンター(JHTC)
・編集:編
集部
〔解説〕特集―食品開発のための新技術―
ジャパンフードサイエンス,53(12)32 〜 52(’
14)
○蛍光指紋による食品分析技術… ………………堀込 純
○レオメーター ONRH 型の特徴………………㈱大菜技研
○「噛む」を計測する
「RHYTHMI-KAMU
( リズミカム)」
…………………………………………………ロッテ㈱
○ヘリウムリークディテクタ MSE-2000S 形シリーズを
発売… …………………………………島津エミット㈱
○ホエイたんぱく入りおやつで健康力アップ
………………………………アメリカ乳製品輸出協会
○第2回 地場もん国民大賞が決定
○フード・アクション・ニッポン アワード 2014 受賞者決定
容
〔解説〕年間特集―食品の品質保証技術―
食品機械装置,51(12)52 〜 56(’
14)
○食肉・液卵中でのサルモネラ増殖予測… ……藤川 浩
〔解説〕特集―機能性包材の現況―
ジャパンフードサイエンス,53(12)16 ~ 30(’
14)
○「オーセロフレッシュ」による農産物の鮮度保持
…………………………………………………渡辺智史
○共押出多層フィルム『マルチトロン』について
…………………………………………………中村 均
○高機能ボトル「ハクリ・ボトル」
……………………………………………キョーラク㈱
○機能性フィルムと関連機器の紹介
添 加 物 ・副 材 料
〔解説〕特集―食感を向上させるたれ,ソースの開発技術―
フードケミカル,30(12)17 〜 52(’
14)
○たれ,ソースの惣菜における利用技術… …… 中山正夫
○スパイスのたれ,ソースへの利用技術… ……武政三男
○低ゲル強度寒天「ウルトラ寒天」のたれ,ソースへ
の利用… ………………………………………根橋怜美
○発酵食品の専門家が開発したユニークなたれ,ソース……
…………………………………………………宮尾茂雄
○世界のマヨネーズ・ケチャップの物性を比較
○たれ,ソースの開発に役立つ素材・添加物・機械紹介
飲
料・
醸
〔解説〕特集―機能性包装―
包装技術,52(12)3 〜 44(’
14)
○機能性段ボール… ………………………………下村 充
○新二液吐出システム… …………………………多田 晃
○新素材 折れるポリエステルフィルム「オリエステルⓇ」
…………………………………………………橋田智之
○水分に依存しないアウトガス吸着フィルム「オージー
Ⓡ
キャッチ 」… ……………………中里祥之・小川達也
○機能包装材料としての環状オレフィンコポリマー
Ⓡ
『TOPAS COC』
… …………………………齊藤達也
○薄物板用エッジ保護材「PEPAC(ペパック)
」の開発
…………………………………………………小田篤史
○イージーピールシーラントの開発
……………………………………油野政人・江口 誠
○バリア機能 PET ボトル「内面プラズマ SiOx蒸着」
について… ……………………………………黒岩 孝
○段ボールパレット- CFG 段ボール紙管パレット-
…………………………………………………宮崎勝裕
造
〔解説〕特集―飲料缶―
Beverage Japan,37(11)27 ~ 47(’
14.12)
○飲料缶のサスティナブル戦略を探る
○主要製缶メーカーの動向
○最新缶飲料充填機事情
○缶向け検査装置の最新動向
機
械 ・ 設 備
〔解説〕特集―食品工場の清掃・洗浄と用水・排水処理
食品と容器
器 ・包 装
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2015 VOL. 56 NO. 1
最近の技術雑誌から
K. Nachay………………………………………… 47~64
海 外 編
○食欲を抑制する満腹促進成分と食品
Combating Hunger Pains
邦文の題名は内容に従って付けてありま
すので,原題と異なる場合があります。
L. M. Ohr………………………………………… 65~72
○水の品質と安全性
ご興味のある雑誌・記事がございました
らいつでも閲覧できますので,当会宛ご
連絡ください。
Water, Water, Everywhere
N. H. Mermelstein……………………………… 73~76
○電離放射線と食品への適用
Irradiation Close-up
J. P. Clark………………………………………… 77~79
○パッケージングにおける RFID の活用
Radio Frequency Identification in Packaging: Part 2
A. L. Brody et al.… …………………………… 80~82
Prepared Foods (USA) Vol.183 Oct. (2014)
Food & Beverage Packaging (USA) Vol.78 Sep. (2014)
○2014年小売り新製品イノベーション賞
3D View of Success
○包装業界の必須アイテムとなったロボット
Robots in Packaging: The Future Is Now
B. Garrison… …………………………………… 23~31
C. Follows………………………………………… 20~22
○アジア料理のフレーバーとクリーンラベル
Asian Inspirations
○過酷な要求に応える軟包装容器
Flexible Packaging, Inflexible Standards
L. A. Williams…………………………………… 35~43
R. E. Schweitzer………………………………… 28~29
○心臓病に対する食習慣のコントロール
Ticker Tape Parade
Food & Beverage Packaging (USA) Vol.78 Oct. (2014)
M. Anthony Ph.D.……………………………… 51~63
○ Pack Expo 2014 展示会プレビュー
○チーズのさまざまな原料とその処方 Pack Expo International Blows Away the Windy City
Mmmm.
..Cheese !
R. E. Schweitzer………………………………… 22~28
D. Feder… ……………………………………… 70~83
○「絵はどんな宣伝文句よりも雄弁に語る」
○次世代のプロバイオティクス
Next Generation Probiotics
ブランド認知に重要なパッケージ印刷
A Picture Speaks a Thousand Words
S. Cantor Ph.D. ………………………………… 84~90
L. Cuneo… ……………………………………… 38~40
○ R&D セミナー:フレーバーにフォーカス
Focus on Flavor
○トレンドに沿って進化する乳製品パッケージ
Dairy A-Go-Go
E. Pelofske… ……………………………………93~103
R. E. Schweitzer………………………………… 44~46
Food Technology (USA) Vol.68 Oct. (2014)
Beverage Industry (USA) Vol.105 Oct. (2014)
○脳の健康と適切な栄養摂取の相関
A Diet for a Kinder Planet
○メインストリームへの起爆剤となるホエープロテイン
Priming Protein for the Mainstream T. Tarver… ……………………………………… 20~29
J. Haderspeck…………………………………… 32~33
○成長のためのレストランの戦略
Restaurants Reposition for Growth
○活動的な消費者にアピールする代替パッケージ
Pulling Out All the Stops
A. E. Sloan… …………………………………… 30~39
J. Haderspeck…………………………………… 38~41
○グローバル食品トレーサビリティ:規制と実行の調和
Global Food Traceability:Harmonizing Regulations
and Best Practices
Beverage World (USA) Vol.133 Oct. (2014)
S. Charlebois et al.……………………………… 40~45
○科学の領域に静かに踏み込むボトルドウォーター
Waters Trend Science Softly
○ベーカリー製品のさまざまな処方
A. Kaplan………………………………………… 14~16
Bakery Bonanza
食品と容器
73
2015 VOL. 56 NO. 1
最近の技術雑誌から
D. Phillips………………………………………… 47~51
○飲料の主流に影響を与えるエキゾチックフレーバー
‘Exotic’ Flavors Hit the Mainstream
○有機食品を支持する新しい根拠について
H. Landi… ……………………………………… 30~33
New Evidence Bolsters Organics
M. Anthony Ph.D.……………………… WF-3~ WF-7
○成長軌道に戻る輸入ビール
Imports Make the Grade
Food Engineering (USA) Vol.86 Oct. (2014)
J. Cioletti… ……………………………………… 35~41
○ HARPC は HACCP と何が異なるか?
○各種飲料パッケージの未来予測
HARPC: Will It Be That Different ?
The Future of Packaging
(HARPC: Hazard Analysis and Risk-based Preventive Controls)
A. Kaplan………………………………………… 51~64
R. F. Stier………………………………………… 29~32
Food Manufacture (GBR) Vol.89 Oct. (2014)
○世界のトップ100食品・飲料会社の市場戦略
The World’s Top 100 Food & Beverage Companies
○仏国グルテンフリー市場へ進出を目論む英国メーカー
Genius at Work
C. Rowan………………………………………… 78~90
N. Robinson……………………………………… 16~17
○ FSMA の HARPC 規則改正について
FSMA HARPC Update
○欧州の健康強調表示規則 (NHCR) とスポーツ栄養食品
Claim, Set and Match
W. Labs……………………………………………93~102
P. Gander………………………………………… 25~26
The Canmaker (GBR) Vol.27 Oct. (2014)
Packaging World (USA) Vol.21 Oct. (2014)
○レクサム社がデザインセンターを英国に新設
Fast Track to Creative Design
○電動式接着剤塗布システムの特長
How to Unclog Adhesive Application
D. Searle… ……………………………………… 36~37
P. Reynolds… ………………………………… 100~102
○クラフトビール向け缶充填システム
The Price of Success
○3D ビジュアル化ソフトによる包装デザイン
Design Tool Visualizes Package Concepts in 3D
T. Woerndl… …………………………………… 51~52
A. M. Mohan… ……………………………… 110~115
○最近開発の缶充填巻締システム
Close Calls
Packaging Digest (USA) Vol.51 Oct. (2014)
T. Woerndl… …………………………………… 54~55
○産業インターネットによるマシンのリモート監視
Remote Machine Monitoring to the Industrial Internet:
Fruit Processing (DEU) Vol.24 Sep./Oct. (2014)
Powering Packaging Performance into the Future
○革新的な KHS 社製ラベリングマシン
S. Cramer………………………………………… 34~36
Impressive New Opportunities
M. Zwilling… ………………………………… 189~192
○2種類の成形・充填・シール:パスタ包装システム
Pasta Packaging Perfected in Two Dimensions
○ニュートリコスメティクスは世界のトレンド
R. Lingle… ……………………………………… 42~46
Global Trend: ‘ Nutricosmetics ’
J. Trebels……………………………………… 193~195
○消費者の注目を集めるロールスリーブフルシュリンク
ラベル
Food Engineering & Ingredients (BEL) Vol.39
Sep./Oct. (2014)
Shake,Rattle and Roll:Cutting-edge Label Pops
on Shelf
L.M. Pierce… …………………………………… 64~65
○新技術が乾燥食品にとって新たな幕開けになるか? A New Dawn for Dried Foods?
Food Processing (USA) Vol.75 Oct. (2014)
- New Technologies Promise to Improve Quality
○なぜ大食いが悪いのか?
and Reduce Costs… ……………………………… 6~9
Why Is Big Food Bad ?
○無菌包装の発展
D. Fusaro………………………………………… 36~44
Developments in Aseptic Packaging
○消費者へ訴えるクリーンラベル
…………………………… 14~17
Label It Clean
食品と容器
74
2015 VOL. 56 NO. 1
問題1
3
開発目線の四方山話(第1話)
私の発想法
しゅく ざき こう いち
宿 﨑 幸 一 (エルダーズ代表責任者,元コーセー常務取締役研究本部長) 日本には昔からソロバンというすぐれた計算機
があります。ソロバンの得意な人は何桁もある大
きな数字の計算を暗算でやってのけます。指先で
ソロバンの珠を素早く動かしていると結果として
ソロバンの上に答が出てくるのだと言う。暗算の
場合も頭の中でソロバン珠を動かしていると,頭
の中のソロバンの上に答が出てくるのだそうだ。
このように,ソロバンで計算する時は「考える」
ということを一切せず,ただひたすら指先を動か
し続けることによって「答」が出てくるのである。
決して「考えて」答を出しているのではなく指先
(身体)を動かしていたら「答」が出てきてくれ
たということだ。日本人にはこのソロバン思考が
頭の底辺に強く流れているような気がします。た
とえば本屋に行くと何事も手っ取り早い方法で身
に付けられるようなハウツー物(趣味や実用的な
事柄の技芸や技術などの簡便な習得法を説いた書
物)がゴマンと並び,これを買い求める人が沢山
います。ハウツー物を否定するわけではありませ
んが,仕事においても,このように表面的なこと
で済まそうとして,あまり深く考えようとしない
人が多いのではないかと思うのです。
ある会社の経営会議でのこと,社長が役員の1
人に「営業状況について,君の考えを聞かせてく
れ」と言うと,その役員は「現在の不況を考える
と,昨年より少し営業利益は下がっておりますが
他社の状況と比べると大健闘している数字であり
ます」と応え,他の役員もうなずいている。よく
ある光景ではないだろうか。しかし社長からは,
「今の話は現状報告であって,君の考えが入って
いない」という言葉が返ってきたそうです。この
ように,私達は考えて仕事をしているつもりでも,
通常は現状分析止まりということが多いのです。
そうならないためには,もう一歩踏み出して,現
状分析し物事の本質を握り,原因は何か,対策は
食品と容器
75
5
どうするのかと仮説を立てて対応する必要があり
X
ます。そこで,問題解決に取り組むときの基本的
な考え方を次のような3つの問題からお話してみ
4
4
たいと思いますので,まずは答を考えてみません
か。
問題1
問題1.右図の三角形 問題1
の線分 X の長さを求
3
5
めなさい。
X
問題2.右図の9個の
4
4
丸を最大4本の線で紙
からペンを離すことなくつなぎ 問題2
問題2
なさい。
問題3.A,B,C,D,E の袋
にコインがいっぱい入っていま
す。この内4つは1個10g の本
物のコインの袋で,ひとつだけ 問題2
1個9g の偽コインの袋です。
秤を1回だけ使って,
問題3
偽コイン袋を見つける
方法を考えなさい。
答は出ましたか。 さて,3つの問題は何を言わんとしているのか,
解答とともにお話してみます。
問題1の解答:この三角形は二辺の長さの和が一
辺の長さと等しく,三角形自体が存在せず,前提
が間違っている問題です。⇒表面的な問題に振り
回されることなく問題の核心はなにか,前提に間
違いはないかと冷静に分析して問題の本質を探り
対策を考える。
問題2の解答:丸の書かれている枠内に線を収め
ようとするとつなげませんが,次頁のように線を
9個の丸の枠の外までのばせば,つなぐことがで
きます。⇒自分たちの狭い経験,知識,技術では
解決できないが,他の分野(他産業)の技術や知
識の応用で解決に結びつく。枠を超えた広い視野
に立って問題の解決を考える。
問題3の解答:この問題は数学の公式では解けま
せん。少しの工夫やアイディアが必要です。方法
は A の袋から1個,B から2個,C から3個,D
から4個,E からはコインを5個取り出し,合計
15個のコインの重さを量ります。すべてのコイ
ンが10gなら150gになりますが,もしも A の袋
が偽コインなら149gになります。B なら148g,
2015 VOL. 56 NO. 1
A
B
「念」とは問題を考えに考え抜いて,いつまで
も念頭から離れない,今の瞬間にもそのことが心
にかかっている。ゆえに今と心が合わさって念と
なる。
「忘」とは念(寝ても覚めても1つのことを考
え続ける)じても,なかなか解けないような難し
い問題に出会った時は忘れることも必要である。
ただ忘れるだけではなく「念」の後に忘れたもの
は意識の領域では忘れても意識下(無意識)では,
風船がだんだん膨らんで大きくなっていくように
熟成されていく。
「解」とは意識下(無意識)の風船がパンパン
に大きくなって,何らかの刺激でパーンと割れる
と「解」に結びつく。この劇的な「解」の瞬間は
向こうからやってきてくれるものである。
このように,創造的なアイディアは「念,忘,
解」のプロセスを経て生まれてくるものです。無
意識の中で自分が体験した経験や知識によって熟
成されて「解」に結びつくわけですから,熟成さ
れる土壌は豊かであればあるほど良いという事に
なります。すなわち,頭の中に基となる経験や知
識は多い方が良いということです。いろいろな現
場の経験や知識を沢山得ることが大事であるとい
うことは,今更力説するまでもないと思います。
このように私の発想法は「前提から本質を掴み,
幅広い視点から考えて念,忘,解のプロセスを経
て問題解決に結びつける」ということです。そし
て,これからも土壌の豊かさを高める努力を続け
なければと思っています。
C なら147g,D なら146
g,D ならば145gとい
うわけで,15個のコイン
の重さを量れば偽コイン
袋が判明します。⇒技術
や知識で解けないと思っ
ていても発想,アイディ
アなど工夫をすることに
よって解決できることがある。
要するに物事を考える時には,少なくても次の
ような3つの視点に立つことが,大切であるとい
うことです。
1.問題の前提に間違いはないか,本当に本質を
見つけ出し掴んでいるのか。
2.狭い専門性にこだわっていないか,広い視点
から見直すことも大切である。
3.固い頭を柔らかくして柔軟な発想からよいア
イディアを生み出そう。
私も,このような視点で物事を考え,取り組む
ように心がけてはいるのですが,よい発想やアイ
ディアはそう簡単に生まれてはこないものです。
若い頃は KJ 法,NM 法,ゴードン法,ブレーン
ストーミングなどなど,発想手段と言われている
ものをいろいろ学びました。しかし,当時の私の
感性には,今ひとつしっくりくるものがありませ
んでした(今考えれば,発想手段に頼り過ぎて真
剣に考えることが足りなかったのではないかとい
う気もするが)。ところが森政弘さんの「念忘解」
に出会い,なるほどと納得し,今では私の発想法
の1つとなりました。
編
集
後
記
●明けましておめでとうございます。本年も「食品と容
器」誌をよろしくお願い申し上げます。
●駐在・留学・出張・旅行などで海外生活を経験された
方々による「その国の食事情」をメインテーマとする特
集記事は正月号の目玉のひとつ。私が編集を担当してか
ら早くものべ 12 カ国が掲載されたが,いずれも普段の
生活体験がベースとなっているので,巷にあふれる旅行
ガイドブックなどにはまず書かれない,それぞれのお国
柄が偲ばれる興味深い記事ばかりだ。料理にしても日本
にある外国料理店で出されるものとは似て非なる味のも
のも少なくないのではと想像する。お節料理に飽きた頃,
蜜柑でも食べながら世界各国の料理に思いを馳せるのも
また一興か。 (俊)
食品と容器
第56巻 第 1号
発行所 缶
平成27年1月 1 日発行
詰 技 術 研 究 会
〒103−0002 東京都中央区日本橋馬喰町 1−8−4
TEL 0 3( 3 6 6 3 )7 2 5 1
定 価
FAX 0 3( 3 6 6 3 )7 2 5 3
1部 800円
Eメール:[email protected]
年間 8,000円
郵便振替 0 0 1 5 0 − 0 − 4 2 2 1 5
(消費税・送料込)
井 俊 夫
編 集 人 荒
−禁無断転載−
発 行 人 田
嶋
一
乱丁・落丁本はお取り替えいたします。
76
雄
印 刷 所 大和サービス株式会社
2015 VOL. 56 NO. 1