『日本の近代公園史、緑の東京史』

平成25年11月21日
第69回 建設産業史研究会定例講演
『日本の近代公園史、緑の東京史』
東
京
農
業
大
学
名誉教授 進士五十八氏
緑の東京史。東京の歴史をどこからお話するのが正しいか分かりませんが、資料を配っており
ますので、これでざっくりとお話しいたします。皆さんは公園のことはあまりご関心がなかったこと
でしょう。公園は、日本の社会資本の中でも最も遅れた部分です。ただ、都市計画上は、大きな東
京緑地計画というものを昭和14年につくっています。これがいまの東京の緑の骨格を結構つくって
いるのです。たとえば小金井緑地や世田谷美術館がある砧緑地、あるいは舎人、水元などです。
戦時下にヒトラーの真似をし、東京も防空ということで考え、防空緑地というものを設置しました。
実はその前にそのタネが東京緑地計画ということで昭和14年にできています。その後軍事態勢に
なったので、それにちゃっかり乗っかってつくろうとしたものです。
お手元に年表がございますので、最初にそれをご覧いただければと思います。このページでい
きますと、右下にあります50ページをご覧ください。公園というのは、明治政府が制度をつくるわけ
です。最初の制度は法律ではなく、太政官布達というものです。太政官がほとんどの行政を行っ
ていましたから、明治6年に太政官布達第拾六号をつくります。これでできたのが上野公園、浅草
公園、芝公園、深川公園、飛鳥山公園というようなものです。これはすべて実は江戸時代の遺産
です。上野の寛永寺、芝の増上寺は、徳川家の菩提寺でありますし、浅草は庶民の遊観の場所
でありました。深川公園も富岡八幡宮という神社の境内でした。飛鳥山は元々、桜の名所として、
江戸幕府が直営でつくった、いわば花見の場所であります。
そういう文化遺産、歴史遺産を明治政府は大衆に対して公園というもので与えました。これは東
京の場合で、京都の嵐山、奥州の松島もそうですし、安芸の厳島神社のある宮島もそうです。で
すから、考えてみますと、実際はもう江戸時代に公園はあったということです。
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すでに江戸の町は立派な大都市でありますから、大都市であれば当然公園は必要なわけです。
公園という言葉はありませんけれども、緑地はあったわけで、ランドマーク、エッジとしてありました。
品川の御殿山も実は緑地です。東京、江戸の大事な花見の場所です。
本当はいろいろなお話をしたいのですが、少しだけ言うと、品川の御殿山は家康が御殿をつくら
せたということで御殿山というのですが、日本中に御殿山はございます。問題はこの中身で、ここ
には東海寺というお寺さんがあります。江戸幕府というのはなかなかうまいなと思います。これか
ら行政を学ぶといいと思うのは管理者です。王子には飛鳥山というのがあります。飛鳥山も桜を
植えて、幕府は花見の場所として市民に公開しますが、あそこには王子権現があります。つまり、
お寺や神社に、いまで言うと指定管理者がいて管理を任せてしまうのです。最初の造成は幕府が
お金を出してやりますけれども、そのあとのランニングコストは、いわば自力でやらせるというやり
方をとるのです。ですから、こういうあたりはなかなか利口です。
御殿山の場合ですと、吉宗が桜の名所としてつくりますが、秋の紅葉狩りもやろうということでナ
ンキンハゼを植えさせます。普通、紅葉狩りはカエデの類を植えるわけですが、ハゼもきれいな真
はぜろう
っ赤になります。ハゼは櫨蠟になるのです。ろうそくになるのです。和ろうそくです。女性の口紅も
わ ろ う
ろう
皆、和蠟から採っています。そういう植物系の蠟を絞る。ハゼが真っ赤に紅葉し、紅葉狩りを楽し
んだあとに実がなりますから、その実を取って蒸すとそういうことになります。つまり、ここは花と団
子と両方いただいているわけです。結構、そういう意味では、江戸時代の緑地管理は、いろいろな
意味でなかなか合理的にやっています。
これは四つ木の引ふね、canalです。これも東京の下町にはたくさんあります。この築地の周りも
そうですが、築地浜離宮の場合は浜御殿と言いました。浜御殿は、元々は甲州の殿様の邸宅とい
うか埋め立て造成をしてつくったものです。そこから将軍が出るものですから、そのまま将軍家の
ものになります。
浜の場合は、四周canalで、運河で囲っています。あるいは築地側から上って行きますと、山下
濠を経由して江戸城に入れるようになっています。完全に、江戸城からいざと言うときは将軍が逃
げ出せるようにつくってあるわけです。ですから、浜だけは四周が石垣で堀で、そして大手門を構
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えています。あれは完全な城郭です。実際には社交の場として京都からおいでになったお公家さ
んたちのもてなしの場所などにいろいろと使いますが、そういうものがあって、浜も江戸の歴史的
緑地であります。
要点だけご説明すると、こういうグラフになります。これは私が昔つくったものですが、平たく言う
と、自然豊かな環境、一方で
は盛り場のように人為的なア
ーティフィシャルな歌舞伎町
的なものもあります。右左は
パブリックなもの、それからプ
ライベートなものです。ここで
は、4×3=12の箱をつくりま
したが、非常に多様な緑地が
あったとひと言で言えます。
つまり非常にプライベートな根岸、根津、下谷、谷中のあたりの緑はほとんど路地の緑です。江戸
の土地利用というのは、ご存知のように7割近くは武家地ですから、いわば残りの3割に一般人は
押し込められていたわけです。ですから、非常に緑に対する飢えというものがあって、お金がない
場合は築地市場で出たトロ箱のようなものに土を入れて花をつくります。鉢物園芸やトロ箱園芸が
盛んでありました。少しそれが昇華されてきれいになると、菊鉢や朝顔、ほおずきになります。これ
が浅草寺の四万六千日のほおずき市です。
要するに、江戸という町は、100万とも200万とも言われますが、これはカウントの仕方いかんで
変わるのですが、いずれにしても結構な高密度都市です。密度が高くなると、市民は緑地を求め
し な だ ゆたか
ます。これは品田 穣 さんという人が昔、研究したことです。つまり人口密度が一定になるように行
楽圏を拡大するという一種の法則があるのです。うんと密度が高ければ、そこに緑地が入ってき
て、逆に人口密度が高いところは郊外に人が出ていくということです。お分かりでしょうか。人の行
動圏が拡大するのです。人口密度が高くなると行動圏が拡大し、江戸川や葛西あたりに出ていく。
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逆に西のほうの小金井のほうに出ていく。そして、結局、そこのオープンスペースの密度は同じに
なるということです。ですから、人口がオープンスペースを求めることになります。
これは当たり前です。人間という生き物は、過密なところにいるとイライラするわけです。まして
やいろいろな法度があって町奉行所が目を光らせて、小さく言えば家主が店子のことをあれこれ
言いますし、九尺二間の狭い長屋で暮らすわけですから、さまざまなプレッシャーがある。そこか
ら解放されるために緑を使います。
これはたくさん絵が残っています。久留米藩の藩主たちが武家屋敷で、武家屋敷といっても偉
い人は立派ないい部屋を持っていますが、大部屋のほうはたまりません。そこにたくさんの朝顔を
並べて、室内に鉢植えを入れて癒されているという図が残っています。
ですから、園芸趣味というのは、高密度になると必ず起こってくるわけです。少し余裕が出ると
町屋の庭、先ほど言ったのは大衆向けの路地の庭です。それがもう少し大きくなるとお稲荷さんで
す。江戸の町は八百八稲荷と言いますように、たくさんのお稲荷さんがあります。これは私の解釈
では、江戸という人工的な都市の中で、いわば生き物との触れ合いの場所です。「王子の狐」とい
う落語もありますが、一種の生物のサンクチュアリです。江戸の町を開拓して広げていくときに、
元々、そこには先住民のタヌキだったり、キツネだったりがいるわけです。ですから、建設関係の
方はご存知のように地鎮祭をやるでしょう。土地神をちゃんと鎮めて、ここに開発行為をやらせて
もらうよと、一応、お断りをするわけです。そのときにお稲荷さんをつくります。ですから、東京の沖
積エリアはたいへんなお稲荷さんがあります。町内毎にあるぐらいにあります。これは、そこに先
住民は入ってもらって、そしてあとは使わせていただくということだったろうと思います。
自然の保護と開発というのは、列島改造の頃の大きな話題のように皆さんは思われるかもしれ
ませんが、人間と自然の関係というのは、都市化ということが起こって以来、ずっと昔からあるわ
けです。それに対してどう対応したかというと、身近に鉢植えの植物を置いたり、あるいは山から
や ま き
木を持ってくる。山の木を山木と言いますが、それを庭に持ってくると庭木になります。これは移植
が可能になった状態を言うのですが、そうやって身近な自然として取り込んでいきます。それを少
し美しくレイアウトすると、ガーデン、庭園になります。
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江戸の下町では植木市が盛んに開かれており、近郊の農民が栽培した植木をたくさん植木市
に運び、それを下げ木の庭と言いますが、手で下げて帰って自分で植えるのです。そいうことを下
町の庶民はやりました。一方、7割を占める大名は広大な土地を将軍家から拝領しますので、無
かかえ や し き
駄にすると怒られますから、庭園化するわけです。上屋敷、中屋敷、下屋敷、それ以外に 抱 屋敷
というのを持ちました。万石以上では何坪と皆標準が決まっております。したがって、各屋敷は、
結構広大な緑地を、つまり庭園をつくるわけです。
たとえば浜離宮は十万坪あります。十万坪を全部建物で覆うということはあり得ないでしょう。
建築で覆うのはわずかなのです。したがって、ほとんどは緑地なのです。緑地を放っておくと、将
軍家からいただいたものをいい加減に使っていると怒られますから、立派な庭園をつくるわけです。
そういう意味では、江戸がガーデンシティだと言われたというのは、なるほどです。まさに庭園都市
そのものであります。
これが7割の土地利用で、武家地です。残りの3割は寺社地半分、町人地半分です。寺社地が
先ほど言ったお稲荷さんを始め、それ以前からある昔からの神社があります。徳川家ができてか
ら、京都の由緒ある神社を勧請します。山王、日枝神社をわざわざ持ってくるわけです。愛宕神社
もそうです。防火のため愛宕さんをいただくというようにして、京都と同じように配置していくわけで
す。格の高い神社がここでできていきます。
徳川家の菩提寺は、先ほど言いました増上寺・寛永寺で、ここも徳川政策はおもしろいです。片
方が浄土宗、片方は天台宗です。思想的には、もうむちゃくちゃです。キリスト教徒に言わせれば
こんな信仰心はとんでもないです。宗教界を統御するためでしょう。東本願寺・西本願寺をつくった
のも同じことです。ですから、幕府の政策というのは、このように非常に多様な緑を江戸につくると
いうことになります。お寺、神社、そして庶民のお稲荷さんです。
それ以外では、土手を築くとその土手をモグラがいためますので、人がたくさん歩くようにする。
それには桜を植えたほうがいいというので、桜の土手を築きます。花見に来ますから、ひとりでに
踏圧で丈夫な堤ができるというわけです。信玄堤と同じことです。墨堤はそうやってできます。
これが墨堤の桜になります。隅田川の墨堤の桜は、家綱の頃からすでに植栽をしています。四
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代将軍からすでに桜を植えています。何回もだめになって、またあるムーブメントが起こって植え
るということを繰り返しますけれども、それがのちに関東大震災のあとの震災復興計画で隅田公
園という形で生まれ変わるわけです。実は新東京の緑は、江戸時代からの蓄積を明治6年の太政
官布達第拾六号でオーソライズしたわけです。
少しここも余分なことを言いますけれども、江戸時代さながらの生活をしている庶民に公園が必
要だったでしょうか。明治6年というのは、まだ新体制が固まっていません。新政府がずっと安定し
た政権になるかどうかなども怪しいものです。そういうときに、なぜこのような政策が必要なのでし
ょうか。これは公園政策ではなく土地政策です。要するに、徳川家が持っていた、徳川家の恩恵で
上野の花見が行われ、芝の見学ができたのです。それを新政府が取り上げてしまうわけにはいか
ないわけです。だいたい江戸時代というのは、寺社に社領地を与えておりましたし、その代り境内
は一般に開放されておりました。いまで言うオープンスペースなのです。ですから、そういう江戸時
代のオープンスペースは、江戸にはもちろんのこと、地方のそれぞれの城下にもありました。それ
ぞれの藩主の菩提寺や氏神様のようなものを開放していました。ですから、これは名前が公園で
ないだけで、ほとんど公園なのです。
明治になってから、明治6年頃に地租改正を行なったり、いろいろと課税の問題が出てきます。
そうすると、土地台帳を整備しなければいけない。このときに課税する対象とするか、高外除地と
して税金をかけないでいいとするかというのは、大蔵省にとっては大変重要な課題でした。太政官
布達第拾六号を出し、「従前、大衆が遊観の場所として使っていた場所は図面を添えて大蔵省に
届けなさい。認められたものは公園ということで、課税対象から外します。」ということを決めました。
それが実は先ほどの東京の五公園なのです。多くは寺社地であります。
このように江戸時代にすでに東京の公園の骨格はあったと思っていいと思います。加えて言え
ば、皆様、建設系の方だと公園のことはあまりご存知ないでしょうからあえて言いますと、公園とい
うのは英語ではパークと言います。パブリックパークと言います。パークは元々は狩猟園のことで
す。ハンティングの場所です。ヨーロッパの貴族たちが、武芸を鍛錬するという意味でハンティング
をやりました。馬に乗ってウサギを追いかけたりするわけです。実はそういう場所を完全に囲って
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狩猟園というのをつくったのです。これはいまでもイタリアなどに名残が残っていますが、3メートル
近い高いがっちりした石塀あるいはレンガ塀で囲っています。これをパークと呼びました。これが
近代になってから開放されてパブリックパークというものになるわけです。これがヨーロッパの公園
です。
そして、もうひとつの公園の原型がコモンというものです。教会などの周りに皆が集って、いまで
言うと一種の朝市をやったり、ちょっとしたお祭りあるいは集会を行う。こういうものがコモンスペー
スと言います。要するに皆の場所で、入会地などの概念に近いです。そういうものがコモンズで
す。
このコモンズはアメリカに渡って、ボストンでコモンズというのをつくります。ボストンコモンという
のが最初です。ですから、アメリカの公園は、ヨーロッパのそういうコモンズの発展でできたもので
す。もう一つは、ニューヨークのような大都市では、アメリカでは移民したヨーロッパ人たちが亡くな
っていきますから、お墓が必要になります。はじめは教会の周りに埋葬しました。しかし、これが足
りなくなってくる。そうすると、郊外の丘の上に葬るのです。これがいわゆるセメタリー、霊園です。
アメリカの都市公園の発達は実は霊園なのです。郊外のご先祖様をお祭りして埋めてある場所、
それはだいたいヒルズです。いまはヒルズは金持ちの場所を言いますが、本当の丘です。グリー
ンヒルとか、アメリカにたくさん有名な何とかヒルというのは、ほとんどは大都市の郊外の丘の上で
す。墓地なのです。先祖をしのびながらピクニックを楽しむ、アウトドアレクリエーションを行うので
す。
江戸の話では、郊外に行くとたとえば日暮里の田園リゾート、堀切の菖蒲園、あるいは亀戸の
天神様の梅林、蒲田にも梅林があります。向島には百花園があります。こういうほとんどの緑は、
お寺や神社が客寄せと言ってはいけないけれども、言い方を換えれば信仰者をもてなすものです。
日暮里というのは「日暮の里」ということですから、一日中見ていても飽きない場所ということです。
これはだいたい丘の上で眺望がよく、筑波が見えたり、富士が見え、眼下には川が流れ、そして
田園が広がるのです。
そういうところに萩の寺やつつじの寺など、いろいろな花の寺をつくっていく。それが人を集めて
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お賽銭に変っていくわけです。ですから、教団経営にもなる。百花園は町人が開きましたが、だい
たいは寺社がつくります。いずれにしても皆、民間でつくったある種の公園でした。日本人のDNA
には、そういう意味で日常生活の中に緑地を求めるということはずっとあったということをご理解い
ただければと思います。
一番上のほうにあるのは、将軍家の二の丸庭園、馬込植木屋、富岡八幡宮境内、芝増上寺、
これは先ほど言った公園になります。ですから、左上二つ、墨堤・品川御殿山・飛鳥山、富岡八幡
宮・寛永寺・増上寺は、明治6年に公園になりました。これは地盤国有公園で、上物だけを東京市
がやります。
それから、大名庭園が実はたくさんあります。三百諸侯と言いました。実際の領主は三百人ぐら
いでは毛頭ありません。分家を細かくつくっていますので、金沢の百万石も金沢だけではないわけ
です。富山あたりまでずっと分家をつくっているわけですから、実際は一千諸侯ぐらいいるわけで、
その人たちは格式に応じ、石高に応じて、上屋敷、中屋敷、下屋敷、抱屋敷をつくります。これは
一種のリスクマネージメントです。上屋敷には当主がいますが、息子や奥さん、あるいは2号さん、
3号さん、4号さんといろいろ居ますので、そういう人を皆、分散配置するわけです。殿様もそのほう
がよかったのかもしれません。いろいろな屋敷を巡り歩けばその気になるでしょうから(笑)。
浜御殿の場合を言いますと、家斉は子どもが確か50人以上います。ですから、相当側室を持っ
ていたのです。彼は在政期間も長かったです。何十年も将軍をやります。いまの浜離宮が完全に
整備されるのは、家斉の頃です。ですから、将軍家にとっては愛の園でありました。
いろいろと雑然とお話ししましたが、ここで申し上げたかったことは、実は公園というのは明治6
年に太政官布達第拾六号によってできたと建設省など皆そう書くわけです。皆さんそう思っている。
私はとんでもない間違いだと思っています。そんなに一気に公園ができるわけがない。公園ライフ
を江戸の市民がすでにエンジョイしていたのです。実に多様な緑地ができていたのです。それに
制度的お墨付きを与えたに過ぎない。たとえば民営園地がある。佐原菊塢という人物が、向島百
花園を経営しました。
これにもいろいろなエピソードがあっておもしろい。当時徳川幕府の禁じたことがありました。そ
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れに連座した文化人が何人かいる。そのとき佐原菊塢という仙台生まれの骨董屋が、その罪をか
ぶって、ほかの皆さんは救われるわけです。佐原菊塢は骨董屋を辞めて隠居するのです。それが
向島です。罪をかぶってあげたわけだから、かぶせたほうの文化人が何十人もいます。皆に梅を
一本ずつ寄付しろと言うのです。なかなか利口です。それを植えたのが「新梅屋敷」、いまの向島
の百花園です。ほんの2000坪ぐらいの狭いところですが、そこに梅を植えました。そして、梅干を
採って、生計の足しにしました。
この佐原菊塢というのは、結構な文化人です。春の七草、秋の七草、夏の七草。七草というの
は、勝手にベスト7をやれば七草になるわけですけれども、昔は中国にありましたし、万葉の時代
にもありました。植物をワンセットで見るという見方です。そういうことをやって、七草かごをつくり、
いまは皇室に献上されています。
そういうニュービジネスを次々にやるのです。絵地図をつくって道案内をつくったり、あるいは文
化人、蜀山人などを仲間に引き入れて、根津・根岸あたりからずっと八百善を通って、川を渡って、
向島に来て、団子を食べながら飲みながらというツーリズム。またやってくるという向島の七福神
めぐりイベントをつくったりしました。これも結構なビジネスになっていくわけです。七福神の一つは、
百花園にあるわけです。
このように、江戸市民の才覚というのは、緑地ビジネスを起こしたのです。中でも伊藤伊兵衛と
いう染井の植木屋は、『花壇地錦抄』など園芸の本をたくさん出しています。ソメイヨシノなどの桜
も、そのあたりからつくられていくわけです。そういう相当の学識を持った植木屋がおりました。こ
の人たちは観光農業をやります。植木屋は当然敷地の中にたくさん植木が植えてあります。それ
を見学させるわけです。たとえば、九州の霧島から持ってきた霧島つつじを栽培して、花いっぱい
になるのを鑑賞させ、縁台でお茶やお菓子を出してもてなして、茶代を取るわけです。いまの観光
農業です。
江戸の徳川家康、秀忠、家光の三代は、ともに花癖将軍でした。椿を大事にしたりということで
す。将軍家が花が大好き人間になると、家来の大名も皆花が好きになるのです。最たるものが細
川公です。細川さんというのは、熊本の殿様です。この家は上手で、偉い人がやるとぱっとやる。
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武芸もあったかもしれないけれども、そういう文化的知恵で昇っていく。肥後六花撰などです。肥
後椿、肥後芍薬、肥後朝顔など、いろいろなものを研究します。
江戸時代は、上は将軍家から大名、旗本。大久保にはうんと下級の武士、足軽たちが住んでい
か
ち
ました。これは百人町と言いました。百人の徒士が住んでいました。彼らは給料が安くて食べてい
けません。それで「大久保つつじ」というツツジの栽培をします。ツツジというのは、枝を切ってさし
ていくとどんどん増えるわけです。これを内職にして生計を立てました。これがいま日比谷公園の
中にあるつつじ山です。中央線を通すときに引っ越させたのです。
このように武家も上から下までが花を大事にし、それを見習って庶民、町人もやります。プラント
ハンターのロバートフォーチュンなどが『江戸と北京』という本に、いかに江戸が花の都か世界一
の園芸センターであったかということを書いています。その中で育種技術も発達して、斑入りの植
物や変化朝顔など一芽千両、一芽万両と取引するグリーンビジネスが起こります。 江戸は、この
ぐらいにします。つまり江戸にはそれだけの花と緑と緑地の文化があったということです。それを
すべての市民がエンジョイしていました。その遺産が空間として残っていて、それを明治になって
公園として取り上げていくということです。
公園というものはだいたいこういうものです。「オープンスペース」-防災や何かのためにあった
り、あるいは風景として緑の風景、景観改善のための風致地区という概念です。たとえば神宮の
外苑がいま国立競技場で大もめになっています。イラン人の女性ザハ・ハディドのデザインセンス
はすばらしいが、日本に合うか、神宮外苑にふさわしいかというと私も疑問です。100年の風致地
区に、ああいうものを選んだ安藤忠雄さんもどうかと思います。
私は新宿の景観審議会の会長も何十年かやっているのですが、あれも審議の対象になってい
ます。国立競技場の場所は新宿区です。たまたま新宿区民がほとんど住んでいない新宿区なの
です。あれができると絵画館がまるっきりだめになります。いまの競技場の約3倍になるのです。
高さも広さも全部。そんな大きなものをあそこにつくったら、明治天皇はどうでしょう。明治天皇の
絵画館があって、それ中心に明治神宮外苑があるのです。ついでにスポーツ競技場がある。あん
なに大きくするのなら、埋立地につくったほうがよほどいいと私は思います。
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ここは建設関係の人が多いのでしょう?有力者が多いのでしょう?考えてくださいよ。絶対にそ
のほうがいいです。明治神宮外苑は100年前から風致地区なんです。
緑地はランドスケープとして大事です。そして、エコロジーです。都市の健全さというのは、水際
線がとても大事です。つまりリバーサイドやウォーターフロントです。水が命のもとだからです。地
球の自然環境というのは、水系が最も大きく、その次は緑、緑地です。そのあいだに農地が入りま
す。そういうもののシステムが都市というボディの隅々まで行き届いていることが、都市の健康さを
維持します。
ところが日本の場合は、そういう緑地の計画的開発、整備をしなかったのです。江戸時代も個
人の庭や大名庭園など、緑地はあるのです。しかし、モザイクというか、点で配置され、ネットワー
クになっていないのです。ですから、これはこれからやるときは大事なことです。いまの公開緑地
のようなものは、もう少しそういうように考える。それから屋上緑化や壁面緑化もつなげることによ
って、地域全体を包む。ネットワーク化すると生き物が移動できますし、水も地上から地下にもぐり
ますし、生態的な循環、つまりエコロジカルネットワークができるわけです。
最後にコミュニケーションネットワーク、これは私の造語なのですが、緑地というのはこういう部
屋で講座で勉強するというよりは、庭で、あるいは原っぱで、あるいは菜園で野菜でもつくりながら
人々は交わるのです。
今日はまだ後ろの方はお眠りなっていませんか?(笑)。だいたいこういうところでやると眠くなり
ます。しかも暗くして、私のちょっと風邪気味のいい声がBGMになると眠りやすいのです。つまり、
コミュニケーションというのは、アウトドアが間違いなくいいのです。ですから、本当に話の中身が
ストンと腑に落ちるのは、アウトドアなのです。こういうインドアでやるのは、あまり生産的ではあり
ません。
本当の人と人とのコミュニケーションは、ネクタイなんかしていてはだめで、気楽なTシャツでも
着て、アウトドアで野菜などつくっているときが一番いい。これがコミュニケーション環境としての緑
の大切さです。人間の輪、あるいは絆とか盛んに言っています。被災地の仮設住宅でも皆花をつ
くっています。まさにそこがコミュニケーションの場なのです。
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ですから、緑というのは建築空間のように機
能的にできていませんから、重要性を感じない
のでしょうが、公園デビューというのが話題にな
るぐらい、意外とアウトドアというのは大事なも
のであります。こういう4つの機能を満たした緑
地が、江戸時代にすでにあったということです。
これが飛鳥山です。王子権現が管理者です。もう一つの空間が、護持院原と言います。江戸時
代の緑地配置はすでに現代的になっており、防災緑地になっておりました。護持院原というのは
原っぱですから、つまり延焼防止機能をねらったオープンスペースなのです。建物のない場所、護
持院原を残したのです。
今度は両国の広小路です。両国橋というのは、上総と武蔵国をつなげています。橋をかけるに
は大変な金がいりますから、一回つくったものは
燃やしては困るのです。ですから、橋に火が移ら
ないように両サイドの橋台地の部分をしっかりとオ
ープンスペースにします。これが橋詰広場であり、
広小路です。両国広小路、上野広小路は、火が
延焼しないために、非建蔽地をつくったわけです。
そこからしか向こうに行けないので、橋には人が集まる。たくさん集まる場所はビジネスチャン
スが多いので、放っておくと芝居小屋ができたり、市場ができたりして不法建築ができてくるのが
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問題です。取締りが緩くなると、たちまち町になってしまうのです。時々、何とかの改革などやるひ
とが出て追い払うのですがそのあと、金をもらってそれを許すという政権も出てくる。そういう繰り
返しが、オープンスペースですね。
御殿山は先ほど言いました。紅葉狩りと
桜の花見の両方を楽しむ。これが道灌山で
す。なかなか粋なのは、こういう虫の音を聞
くということです。邯鄲などはとてもいい音で
すが、それ以外は鈴虫。そういうのを味わう。
つまり聴覚、いま風に言うとサウンドスケー
プです。当時の人は音の風景をエンジョイ
するだけの余裕がありました。いまは車の
騒音とか、そちらのほうがうるさいので、と
ても聞けません。お茶庭などでは、水琴窟
といって、手水鉢の水が瓶の底に落ちて、
キーン、キーンととてもいい琴のような音を
出すものがあるのですが、そういうものはわざわざ竹筒でもあてないと聞こえないのです。それだ
け日常的な騒音が増えてしまいました。しかし、昔は人間の五感、見るだけではなく触ったり耳で
感じたりする感覚がありました。
芝増上寺の境内です。30年前の研究に、こ
ういうお寺の境内地を全部合計して、江戸の人
口で割ると、現代の都市公園法による1人当た
り6平方メートルをだいたい満たしていました。
江戸の町は大変なものです。寺社境内が、都
市公園法で規定している面積基準をクリアする
ほどあったのです。
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これは蒲田の梅林です。梅林がなぜこんなに
盛んかと言いますと、狭い長屋で鬱閉した真冬
を過ごし、春一番に咲くのが梅だからなのです。
向島の百花園も百花に先駆けて咲くというので、
梅屋敷を百花園と呼んだのです。ですから、たく
さんの梅林が江戸の中にはできました。
か
こ
これは植木屋、花戸と言いますが、花の生産
者です。生産地あり、隠居所あり。隠居さんや
女性を囲うこともありました。日本橋の大店の人
は川向う、隅田川のあちら側に通うのです。江
戸の中の田園リゾートでした。
そろそろ江戸から東京に移ろうと思います。『緑
の東京史』は、私が若い頃に書いた本です。表紙
の図面はなんと日比谷公園の案ですが、これは
できませんでした。まぼろしの日比谷公園図です。
日本画のようでしょう。赤いのは紅葉だったり、緑
は松や竹林だったり、樅だったり、右下はピンクで
桜です。実に日本的な植物で飾られた日比谷公
園の一案でした。当然、文明開化の時代では、こ
れは没になります。
東京で特色があるのは皇居です。この江戸城
があるおかげというのは、どれほど大きいか分か
りません。銀座の並木です。街路樹の中で銀座
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の並木は、柳です。「銀座の柳」と言います。元々
の街路樹は、柳ではありません。銀座をこういうレ
ンガづくりのモダンな街にしたときに、並木に桜を
植えるのです。四隅角、交差点には松を植えました。
松と桜の風景だったのです。ところが、馬車などで
地面を固めてしまうので、植物が育たず枯れてしま
います。それで一番丈夫な柳を植えたというわけで
す。いまや銀座の表通りは柳もなくて、石貼りの歩道になっています。
東京の特色としては郊外に行くと武蔵野という雑木林があります。これは関東ロームで一番育
つし、植物生産性が最も高い植物です。植物というのは若いときにうんと成長するのです。ですか
ら、薪、炭にするのには最も成長のいい
クヌギやコナラを植えて、だいたい7、8年
で1回切ってあげるのです。そうすると、
ちょうど太さが薪などにいいし、炭を焼く
のも楽なのです。
また、そこを切っておくと、萌芽更新といって下からもう1回ひこばえが生えて、それがまた8年経
つと切れるわけです。落ち葉はたい肥になります。落ち葉掃きをして、それをたい肥にして、川越
いもをつくったわけです。そういう植物の有機物循環、つまり資源循環をやることによって武蔵野
の農村は成り立っていました。これが江戸の市民の口に入る野菜を育てたわけです。ですから、
燃料もこの雑木林から、そしてその葉っぱを栄養にした有機農業からイモ類が採れる、あるいは
野菜が採れる。それから江戸の市民のし尿、汚わいから小松菜が採れる。江戸の町は完全に循
環型社会でした。
このように緑地は現在のように「公園という公共施設。都市計画施設です。」というような別物で
はない。まさにその社会の生産や、エネルギー循環などすべてのあり様を反映しているのです。
皆さんもぜひこのようにお考えいただければありがたいと思います。
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緑は市民のライフスタイルや文化にまで影響を
与えておりました。江戸東京には植木屋がごまんと
ありました。こういう番付表がいくつも出ています。
江戸は三百諸侯の庭園だけで、たぶん本格的日
本庭園が一千数百カ所ありました。これを維持管
理するのは大変な数の職人なのです。現在の造園
業界より、はるかに多かったでしょう。それ以外に庶民のための植木市が開かれます。それで園
芸が盛んになり、郊外に遊びに行くというアウトドアレクリエーションが起こります。
この左の図がそうなのですが、どんどん
行楽圏が拡大していくことを表しています。
人口が増えると外にどんどん出ていきます。
ですから現在は日本国中、世界中が対象に
なってしまうというわけです。
近代都市計画は、市区改正から始まりま
す。実は最初から公園は、ありませんでした。
市区改正計画の基本は道路です。道路
は国の本で、公園は国の末で、ついでと
言うか、ほとんど考えていなかったので
す。それがこの左側のもので日比谷公
園だけが入るのです。それ以外は、芝
の増上寺などで、昔のお寺ですから関
係ありません。
この左の公園というのは、日比谷です。日比谷は練兵場でした。土木学会を創立した古市公威
先生が、この審議会で発言するのです。いまの練兵場の跡は埃っぽくてがしょうがないから、公園
にしてはどうかと発言するのです。これで事務局の原案になかった日比谷公園が誕生したのです。
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ですから、日比谷公園は土木の方がつくったと言っていい。松浦先生、威張っていいです(笑)。
ただし、土木家は絵を描きませんので、建築家の辰野金吾に頼むのです。辰野金吾さんは造
家学者で、いまでいう建築家です。しかし、ヨーロッパのコンコルド広場そのままのようなつまらな
い絵を描いたので、これでは星亨も納得できない。そこで、本多静六という林学博士に仕事が回っ
てくるのです。
本多さんは林学の人で、ドイツに留学して帰ったばかりで30代です。辰野さんの案に、これした
らどうか、あれしたらどうかと意見を言ったものだから、じゃあおまえ、やってみろということで、そ
れを東京市は採用する。造林学者ですけれども、後、造園学も始めたわけです。本多静六は日比
谷を完成してその後、明治神宮内苑の責任者になって、明治神宮の森をつくりました。日比谷の
場合は、文明開化という東京市の最
も期待されたことを実現したわけです
から話題になり、新聞にも載りました。
これがいまの小音楽堂の前身です。
これは関東大震災で潰れてしまいま
した。
先ほど言いましたようにいろいろな案
が次々に出て、いまの日比谷公園は本
多静六の案になるわけです。右下のこ
れが本多静六の案、左上が辰野金吾の
案です。左側下にありますのは、ドイツ
の図面です。コーニッツというところの公
園のプランです。ここでお分かりになる
でしょうか、パクッたというのがよく分かります(笑)。ここに丸いのがあって、こうなっています。こ
れはほんの一部ですが、ディテールを見ると、たくさんあちこちからいただいているというのが、よ
く分かります。
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本多さんは、造林学者で山に木を植
えるのが専門家ですから、木のことは
強いですけれども、図面のことはわか
らないわけです。本郷さんという助手に、
こういうものを集めて見せて、こうしろ、
ああしろと言い、同時にそれ以前の辰
野さんなどいろいろな案の共通点をチ
ェックして、たとえば門の位置はどの図面でも重なりますね。
入口はだいたい有楽町の隅っことか、日比谷の正面はいまの帝国ホテルの前とか、同じです。
これが長岡案です。私はこれができていたほう
が、いまならよかったと思います。東京オリンピック
をやっても、こういう公園が都心にあると、かえって
外国人は喜ぶでしょう。
これが辰野金吾、建築家造家学者の案です。長
岡案や本多案は樹木が丁寧ですが辰野案はただ水
彩絵の具の筆でぽんぽんとやっているだけです。餅
は餅屋というのがよく分かります。
これが本多静六の最終案で、実施案です。
明治時代のメインイベントは太政官布達第拾
六号によって、江戸の文化遺産、緑地遺産が公
園制度として確立されたことです。二つ目は、東
京市区改正設計、つまり都市計画として初めて
更地に日比谷公園という公園をつくったというこ
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とです。
次は明治から大正に入ります。明治天皇がお隠れになって、ただちに渋沢栄一(当時の東京市
長と渋沢栄一は義理の親子関係ですけれども)は、すぐに民間提案として神宮を建設しようという
ことになります。そして明治天皇に縁のある多磨御陵などいろいろなところが候補になりますが、
昭憲皇太后が特別愛しておられた佐々木御苑、花菖蒲園があるところですが、そこに鎮座地を決
めます。こうして、93年前できたのが明治神宮内苑(林苑)です。外苑のほうは、青山練兵場のあ
とを使います。
当時の内務卿は、大隈重信公です。早稲田をつくった大隈さんは政府の神宮造営の責任者で
す。明治神宮の造営はナショナルプロジェクトです。ですから、一流の学者を集めました。建築は
伊東忠太、林苑は本多静六というわけです。芝生の部分や外苑は主に原熙という帝大の園芸系
教授がやることになります。その他、宝物殿建築は大江新太郎。いま歴史に名を残す方たちばか
りです。
明治神宮の造営で
覚えておいていただ
きたいのは、アプロ
ーチの工夫です。こ
こが表参道で、ここ
が神宮橋です。建築
家は、本殿に向けて
真っ直ぐの参道を計画していました。それに対して御苑の部分、いまは花菖蒲がありますが、あそ
こを保全すべきだと造園家は考えたのです。工事責任者の折下吉延です。確か山形の方だったと
思いますが、内務省技師としてやりました。昭憲皇太后も祭神のお一人です。記念の場所を守る
ため参道を右に振って、クランクにして本殿にお参りするという形を採りました。すでにここに歴史
を守るという保全の思想が見られます。
明治天皇がお隠れになって昨年で100年になります。神宮の森ができていま93年目ぐらいにな
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ります。2020年には明治神宮の森ができて100年になります。当時は荒れ地で、そこに人の手で
森をつくったのです。森づくりは、それまでの森の調査をふまえて、森林造成理論を導き、その上
で造成したのです。そういうことで、わが国造園学の発祥は明治神宮の森からということになって
います。その縁でいま私が座長で第二次総合調査をやっています。最初の50年で第一次を、さら
に50年目だということで、2~3年前から第二次調査をやっています。12月12日に学術会議の講堂
で調査報告会をやります。結構、新しい知見をたくさん発見しました。
大正時代の重要な造園史の出来事は、明治神宮内外苑造営です。この点を頭に入れておいて
ください。大正は、明治神宮内外苑造営です。内苑はいま風に言うと、生物多様性原理によってで
きています。いろいろな種類の木をたくさん植える。いろいろな高さの木をたくさん植える。そうして
おくと、自然の植生遷移、サクセッションというのですが、自然の森林は時間と共に成長、あるい
は変化してクライマックス(極相林)、安定した森の状態になるのです。
私の恩師である上原敬二先生(本多静六の弟子)は大学院生の頃に橿原神宮など日本中の古
いお宮の林苑を実測調査しました。そこから学んだのは多様性の原理です。種類が多いというこ
とです。神社だから、大隈公は杉にしろと命令する。しかし、林学の専門家から言うと、「この敷地
は、杉に不適だし、隣を煙がもくもくの山手線が通っている。そんな煙が出るところに杉を植えたら、
すぐに枯れてしまうのでだめだ。いくら大隈公でも反対しよう。」ということで、詳しく調べて反対す
るわけです。大半は乾燥していて、杉が育つような場所ではない。そういうことで、シイ、カシなど
常緑照葉樹を主軸に、森をつくることになったわけです。
基礎的には84の官幣社や国幣社を調査して、その森から学んだ哲学が、多種多様かつ多層な
植栽とすること。高さもいろいろ変えて、いわば三世代同居のようなものです。核家族はだめです。
高木、中木、亜高木というのですが、いろいろな高さの木を混ぜて植える。これをやると安定した
森になる。これは植栽時、それから50年、100年、150年後のシミュレーションの図面を描いていま
す。そして、その通りになったわけです。だから造園の科学・技術だというのです。
大正時代はこうやって過ぎますが、大正の終わり、大正12年に震災が起こります。これが公園
史上大きなエポックになります。関東大震災によって下町一帯は焼け野原です。本所被服廠跡は
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空き地があるというので皆逃げ込んで、焦げて焼けて何万もの人が亡くなりました。震災を受けて
人々は、緑地の防災効果に気付いたわけです。日比谷公園には実際に何十万もの人間が逃げ
込んだのです。
それまで「都市文明は道路」と思っていたのが震災によって初めて緑地が人の生命に関係があ
るということで、俄然、震災復興計画の中では公園が注目されるわけです。国が直接施行した三
大公園は、浜町公園、錦糸公園、隅田公園です。これは内務省が直営でやりました。
これに対して52の小公園は、東京市が担当しました。お見せしているのは実は私の母校の元加
賀小学校で、深川の木場にあります。いま場所は同じですが、デザインは変に変えられてしまい
ました。けれども、学校と公園がワンセットは変わりません。これの指揮は井下清という方で、実は
農大の大先輩です。東京農大の前
身東京高等農学校明治38年の卒業
生で東京市の公園課長でした。農大
はもともと榎本武揚がつくった学校
です。
井下は、その卒業で多磨墓地も
井下清の仕事です。震災復興公園を、こういう形式で設計したのも、井下の欧州調査の成果です。
洋風のプラタナスの列植を使い、壁泉とリリーポンドを配置したおしゃれなものです。ライオンの口
から水がじょろじょろ出て、下に池があって、そこに睡蓮の花が咲く。手前にはパーゴラがあって、
児童の遊具、砂場やブランコがある。そういうモダンな都市広場型公園です。これを一気に52カ所
もつくりました。昭和10年ぐらいまでにできています。計画から完成まで10年間で50数カ所の公園
を一気につくり上げ、それが下町の被災地一帯のコミュニティコアになるのです。これが昭和初期
公園史の大きなトピックスです。
近隣住区ですから、1万人の住人に対して1小学校、1公園を配置するという発想です。小学校
は、3階建でしたけれども、コンクリートでできています。つくり方は同潤会アパートとまったく同じス
タイルです。コの字型校舎が火災よけになる。防火壁です。また学校の校庭というオープンスペー
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スと、公園のオープンスペースを一体的に、日常的には子どもたちが遊ぶ場として使い、いざと言
うときは防災緑地、避難広場として使うという考え方です。これが唯一の公園様式といえる震災復
興公園です。
昭和にはその後、子どもの遊び場問題が出てきます。昭和39年、東京オリンピックです。東京
オリンピックまでずっと建設の時代が続くわけです。ジャリトラが東京中を走り回って建設工事をや
るわけです。首都高もできました。このとき、子どもが邪魔なのです。私自身もそうですが、それま
では子どもたちは路地で遊んでおりました。私は深川ですけれども、区役所通りという商店街があ
りまして、そこで遊んでいたのです。車も通りますが、車のほうが避けてゆっくり通った。そのころま
では、道路が子どもの遊び場だったのです。
ところが、東京オリンピックに向けた建設事業がすすめられる。ジャリトラが突っ走るには子ども
は邪魔です。交通戦争という言葉さえ生まれます。子どもたちがたくさん交通事故で死んだんです。
これはやはりまずいというので、公園をたくさんつくって、子どもの遊び場をつくり、そちらに子ども
は入ってもらい、道路はジャリトラに開放するということになりました。こうして東京には一気に子ど
もの遊び場ができていくわけです。
オリンピックの話はあとにしてその
前に児童指導の話をしておきます。
昭和初期、この頃から子どもを小国
民と大事にしました。別の狙いが見
えがくれしますが。大正末から児童
指導が始まります。日比谷公園に松
本楼がありますが、松本楼のご主人
小坂さんなどは、そこで育っています。日比谷公園の霞ヶ関側のところの一帯は、特設児童遊園
といって子どもの遊び場になっていました。末田ます女史の指導でネイチャースタディというコンセ
プト(自然学習)でアウトドアで大勢の子どもが手をつないだり、ボール遊びをしたり、草木遊びを
したりして、自然のなかで子育てをする。そうすると肺結核にもならないし、頭もよくなって、一高、
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東大に行くと噂されるほど盛んになりまして、日比谷の児童指導は大当たりでした。それは東京中
の公園、大きな深川公園や錦糸公園などにも巡回指導されました。
近年は子どもの遊び場が軽視されていますが、当時は子どもを結構大事にしていたのです。砂
場の砂は不衛生だというので、何カ月かに1回、鉄板を持ってきて、上に砂を乗せて、下で火を燃
やして、砂を熱消毒さえしたのです。それは兵隊さんにするためでもあったかもしれませんけれ
ど。
さて公園の戦中戦後です。上が日比谷公園の
例です。一番右が松本楼の本多の首かけイチョウ。
これは高射砲から邪魔だと上方をハネられてしま
いました。ですから、このイチョウは寸詰まりにな
ってしまいました。真ん中の草地では、食料難だ
からサツマイモをつくる。左の写真は、上野の不忍
の池で、食糧難ですから、田んぼをつくりました。左の下の絵は、防空壕造園です。防空壕です。
庭の中にこういう防空壕をつくったりしました。下の小金井緑地は防空緑地です。高射砲を据えて、
東京の都心、いわば皇居を目指してくるB29を下から大砲で打って落とそうと思った。だいたいそ
れより上を通るものですからだめなのですけれども(笑)。情けない話ですが。
そして、戦後やっと東京オリンピックです。駒沢
のゴルフ場だったところをオリンピック記念公園に
します。芦原義信の設計による石の広場と記念塔
ですね。都電の敷石の再利用でした。
オリンピックに向けた東京建設で都心をジャリト
ラが走り回った時期、道路で遊んでいた子どもたちは交通事故にあうことが多いので、交通ルー
ルを教育しなければいけないというので、交通公園という妙なものをつくりました。これは戸山の交
通公園です。本当は本末転倒ですけどね。昔は「子どもが悪い。子どもがうろちょろするから轢か
れるのだ。」と車を責めないで子どもを責めたのです。公園屋もまた公園屋ですけれども、わざわ
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ざ交通ルールをやるための公園をつくって、
赤信号になったら止まれだとか、黄色にな
ったら行くなと教育したわけです。鉄砲州公
園も交通公園にしました。いまは一つも残っ
ておりません。
そして公害です。高度経済成長から、公害が深刻化し、その反動で緑化が求められます。公害
は灰色の時代、それに対して緑化・グリーンというものが注目されるというわけです。
トンボはどんどん都心から減って、もう田舎に
行かないと見られないようになりましたし、緑地率
50%以下の地域というのはどんどん郊外に移動
して、都心にはほとんど緑がなくなってしまいまし
た。こうして公園というより緑化が叫ばれる時代に
なります。
やがて都市開発は、もう都心では無理だという
ことでニュータウンをつくります。多摩ニュータウンなどもそうですが、初期の頃の公園の配置は、
相変わらず近隣住区理論によって、点的な配置を行っておりました。しかし、後半の多摩ニュータ
ウンのB4あたりからはパーク・システムをめざす。表土は保全し、保全緑地、斜面などは残すとい
う形に向かいました。最初は大造成でした
から、山を削って、谷を埋めて、大きな敷地
をつくってと、大造成でした。徐々に中造成、
小造成と変わって、そして保全緑地を生か
し、既存の多摩地域の古いお寺や神社の
森、あるいは昔の農業用のため池、そうい
うものをニュータウンの中に確保し、そして
一種の水と緑の風景をつくる。棚田部分を
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花菖蒲にするというように、公園を造成する。そういうように、だんだん土地の財産を生かすように
変わってまいりました。
現在の東京は、公害の時代から比べると、はるかに豊かな緑になったと思います。その後、屋
上緑化も盛んになっています。これは私が30年前から横浜の関内地区で主張していたことですが、
やはり時代というのがあって、そのときはいくら言っても通じませんでした。台湾の台北あたりの屋
上緑化は本当に早かったです。30数年前台北は東京以上に人口過密で、当時の市長が「もう屋
上しかない。屋上の緑化の費用を全部市が出す。」といって増やしたのです。屋上でチンゲン菜を
つくっているなど、そういうものをたくさん見ました。
日本でもやっとヒートアイランド現象が言われるようになって公開緑地もつくるようになりましたし、
屋上緑化の義務化が言われるようになりました。最初は新宿区で、私が審議会で言い出したので
す。建築確認に、屋上緑化計画書をお願いしたのが始まりです。
最後に、東京の緑の現状をお知らせして、終わりたいと思います。東京の公園面積は、このよう
に変化しています。東京全部が
ピンクの線なのですが、その中
で23区の部分が下の濃い茶色
の部分です。とにかく公園が相
当増えているということだけは間
違いありません。ただ、人口当た
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りにするとなかなかつらいものがあるのですけれども、それでも昔の公害の時代から比べると3倍
とか5倍の面積で増えていると思います。ですから、公園面積はかなり増えてきました。
しかし、右の図で見ますと、全国平均でも1人当たり8.9で、約10平方メートルです。東京は5.5平
方メートル、それ以外の都市を比較すると、キャンベラなどは特別ですが、バンクーバーやニュー
ヨーク、ベルリンなどは皆、20~30平方メートルという量です。そういう意味では、東京は相変わら
ずまだまだ公園は少ない都市だと言っていいでしょう。
ただ、私はこういう比較で言う必要はないと思っています。公園でなくとも、民間のいろいろな建
物が緑化されればそれもいい。永続性の問題はありますけれども、公共用地でなければ絶対い
けないということはありません。
これが私が昔つくった公園の変化図です。
お分かりいただけますか?昭和39年、約40
年ですが、これが明治公園のあたりですが、
この頃から数がばっと増えています。しかも、
これは対数目盛ですから下の方が増えてい
る。つまり小さな児童公園がたくさんできたと
いうことです。
東京全体で緑地はどんな具合かというと、このようになっています。帯状のところ、河川や国分
寺崖線の斜面林などが一つありますが、それ以外はほぼ点的であります。ただ、23区については、
やはり江戸の文化遺産が結構、貴重
です。余談ですが、新宿御苑は内藤
新宿ですから、内藤家でしたし、浜御
殿は徳川幕府の直轄でしたし、上野
や芝は徳川家の菩提寺でした。
芝増上寺の境内は、明治6年に全
部公園になったのですけれども、それ
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が戦後GHQが入ってきて、あれは元々お寺のものだということで増上寺に返されてしまった。その
ころ増上寺も貧しかった。そこへ付けこんだのが西武……その言い方はいけない、歴史としては
正しくない(笑)。ビジネスとしてお付き合いしたのが西武です。ですから、プリンスホテルがあそこ
にできたわけです。
私の考えでは、境内地は公益空間であったので、本来的に市民共有の公園と同義です。明治
時代になって、廃仏毀釈があったでしょう。明治政府は、お寺に冷たくし、神社をメインにした。国
家神道ですから。だから徳川由来のお寺の土地を皆、公園にしてしまった。芝増上寺も上野寛永
寺もそう。
GHQがそれを宗教法人法というのをつくりもとの寺に戻したわけです。私は社叢学会というので、
鎮守の杜を守ろうと尽力しているのですが、神社系の方とも付き合っています。今どきは、神社の
維持が大変なので、わからなくはないのですが、一部の神職は神社は自分のものだと勘違いして
いる気がする。宗教法人法では5、6人の理事で実質運営できます。宮司さんがここの木を全部切
ってマンションにしたいというと、そうできてしまう。
私たちは世田谷区内の社叢全部の調査をしました。神社の境内は緑被率70%です。お寺は
30%以下です。日本の神様は緑が基本です。仏教寺院は意外と少ない。幼稚園などになっている。
しかし、いまになって神社のほうもやりだしました。新宿の成子天神社はけしからん。新宿区の景
観審議会に正式にかかってきましたから紹介しますけど、境内に高層マンションを2本も建てて、
そのお金で社殿や社務所、宮司宅を立派にするのかもしれません。景観審議会では、神社空間
の景観のあり方、参拝者への景観イメージの重要性を指摘しました。しかし本当は逆だと思いま
すよ。そのことを一番大切に考えるのは宮司さんや宗教法人の役員でなければいけない。
もっと言えば、日本の神社境内は元々はコモンスペースです。土地の人たちが、あるいは殿様
や国司が寄付し、土地を出して、それを皆で長い間守ってきたものです。年中行事、春祭り、夏祭
り、秋祭りから、相撲大会から何から全部、氏子たちで運営してきたものです。その点、日本人に
とってまさに本来的に公園です。日本の公園は社叢だったのです。それを宗教法人の役員が私物
化してしまって、いいのでしょうか。地価の高い都心の境内はどんどん減ってしまうわけです。
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愚痴が出まして、すみません。大会社の社長や建設会社の社長が氏子総代には多いのでここ
のところをお忘れなく(笑)。
街路樹の本数や屋上緑化はだんだん増えています。公園面積もそれなりに増えています。ただ
一方で、樹林地や農地など既存の民有地の緑はどんどん減っていくわけです。だいたい減る量よ
りも増える量は少ないから、全体としては減っていくわけです。
そういうこともあって、以前、東京都の都
市計画審議会で委員会をつくり私が委員
長で新戦略と言って、作ったものです。「も
う税金だけでつくっていたのでは間に合わ
ない。だから民間も頑張ってもらおう。民間
に対して融通性ある政策も出そう。民営の
公園づくりや公園の中に民間施設建設も
認めましょう。」ということで……これは本当は改悪だったかも知れません。
後楽園遊園地に後楽園ホテルがあります。あれは実は公園事業に位置づけられています。芝
公園の中に東京プリンスの高いタワーができました。あれも公園事業として位置付けて認めてい
るのです。都はお金はもらっていないと思いますが、ただ下の方を屋上緑化したり、そういう費用
は事業者負担でやってもらっていると思います。公開緑地を連続的に確保するなど、これからもい
ろいろな形で緑を増やそうという努力はつづけなければなりません。
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以上、雑駁ながら、東京の緑の多彩な側面をお話しました。あとはご質問をいただいたらと思い
ます。ご清聴ありがとうございました。(拍手)
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