総特集 |アフリカ - JCAS:地域研究コンソーシアム

地域に内在し世界を構想する JCAS
Review
地域研究 9 1
Vol.
No.
アフリカ
総特集 |
〈希望の大陸〉
のゆくえ
[座談会]落合雄彦・島田周平・高橋基樹・松田素二・遠藤貢
特集
1| 変貌するアフリカ
川端正久/栗田禎子/津田みわ/井上一明/松本尚之
特集
2| アフリカをみる世界の目
武内進一/加茂省三/川島真/笹岡雄一/片岡貞治
特集
3| 日本に息づくアフリカ
和崎春日/川田薫/若林チヒロ
●地域研究コンソーシアム/ JAPAN CONSORTIUM FOR AREA STUDIES
地域研究
―― 目次
巻 号 JCAS Review Vol.9 No.1
JAPAN CONSORTIUM FOR AREA STUDIES
第
148
131
108
090
068
048
――都市・農村から国家まで 168
189
]
変貌するアフリカ
日本に息づくアフリカ
]
……
………………………
208
特集
――ケニア二〇〇七年総選挙後の混乱と複数政党制政治
…………………
…
松本尚之
……
……………………………………………………
ジンバブウェのクレプトクラシー体制とそのメカニズム
――二〇〇〇〜〇八年
ナイジェリア都市部における移民と王制
]
アフリカをみる世界の目
――ポスト植民地時代のアフリカにおける伝統的権威者の象徴的価値
特集
武内進一
…………………
…
加茂省三
…
………………………………………………………………………
アフリカの紛争解決に向けて ――国際社会の関与とアポリア
フランスからみたアフリカ
特集
――カメルーン人の生活戦略と母国の政治社会状況
川田 薫
…
………
若林チヒロ
…
………………………………
盛り場
「六本木」
におけるアフリカ出身就労者の生活実践
――快適な空間のためのコミュニティへの道のり
和崎春日
マラウイの対中国交樹立 ――なぜ中国を選ぶのか ………………………………………………川島 真
ウガンダの分権化と貧困削減 ――ドナーの視座の制約 …………………………………笹岡雄一
アフリカ問題と日本 …………………………………………………………………………………………………………………片岡貞治
――サルコジ大統領のダカールでの演説より
井上一明
アフリカ独立五〇年を考える ――アフリカ現代史の書きかえに向けて ……川端正久
「移行期」のスーダン政治 ――南北和平・民主化・ダルフール危機 …………………栗田禎子
暴力化した「キクユ嫌い」 ……………………………………………………………………………………………………津田みわ
[
[
147
結婚、移住してガーナを生きる日本の女性たち
230
遠藤 貢 …
[総特集にあたって内
] と外からみたアフリカとアフリカ研究の現在
…………
[座談会ア
] フリカの変容 …………………………………………………………………………………落合雄彦・島田周平
高橋基樹・松田素二・遠藤貢 (司会)
[総 特]
集
アフリカ 〈希望の大陸〉のゆくえ
地域研究コンソーシアム
1
付表 アフリカ重要事項年表/アフリカ基本統計データ
260
[
005
9
中古自動車業を生きる滞日アフリカ人の生活動態
259
006
280
047
022
298
1
2
3
総特集
アフリカ
カーボ・ヴェルデ
〈希望の大陸〉のゆくえ
セウタ及びメリリャ
(スペイン)
ラバト
カサブランカ
カナリー諸島
(スペイン)
トリポリ
アルジェリア
アレクサン
ドリア
カイロ
リビア
エジプト
モーリタニア
マリ
ダカール
セネガル
ガンビア
ギニアビサウ
チュニジア
モロッコ
西サハラ
ヌアクショット
テュニス
アルジェ
トンブクトゥ
ニアメ
ギニア
ブルキナファソ
シエラレオネ
ニジェール
ハルツーム
ナイジェ
リア
ンジャメナ
ジブティ
トリア
エリ
チャド
スーダン
アディスアベバ
アブジャ
エチオピア ソマリア
カメルーン 中央アフリカ
ヤウンデ
ガーナ ベニン
象牙海岸共和国
ウガンダ ケニア
コンゴ
トーゴ
モガディシュ
(コートジボアール)
共和国 ルワンダ
ガボ
ン
サントメ・プリンシペ
コンゴ
ナイロビ
赤道ギニア ブラザビル
民主共和国
キンシャサ ブルンディ タンザニア ダルエスサラーム
リベリア
﹁危機 を脱出﹂﹁二一世紀 は成長 の世紀﹂
﹁絶望 の大陸 か ら希望 の大陸 へ﹂︱︱国
際 的 な注 目 が高 ま る な か、 ア フ リ カ は
ど の よ う に変 化 し、 ど の よ う な新 し い
現 実 に直 面 し て い る の か。 都 市・ 農 村
レ ベ ル か ら国 家 レ ベ ル ま で、 地 域 社 会
に密着 し た視点 で解 き明 か す。
ルアンダ
セントヘレナ及びその付属諸島
アンゴラ
ナミビア
ウィ
ン
トフック
ザンビア
マラウィ
ジンバブエ
ケープタウン
アフリカ
モザンビーク
南アフリカ
アンタナナリボ
マダガスカル
ボツワナ
ハボローネ
プレトリア
首都
主要都市
コモロ
マプート
スワジランド
レソト
レユニオン
(仏)
総特集 アフリカ――〈希望の大陸〉のゆくえ
[総特集にあたって]
内と外からみたアフリカとアフリカ研究の現在
遠藤貢
二〇〇八年五月二八日から三〇日の横浜での第四回
アフリカ開発会議 (TICADⅣ)と、そして七月
しわ寄せを最も受けやすく、こうした問題が人びと
るをえない国際情勢のなか、こうした問題の影響と
規模、かつ地域横断的な問題が議題の中心とならざ
(代替エネルギーや石油価格の高騰)といった、地球
も問題化し始めた、
食料(価格の急騰)やエネルギー
気 候 変 動 (C O 2排 出 削 減 )の 影 響 を 受 け る 形 で
ディアの関心はきわめて高く、一部の新聞では外部
ど 著 名 人 の 来 日 も あ り、 ア フ リ カ に 関 す る 国 内 メ
ドール、さらにはコロンビア大学のJ・サックスな
された。さらにU2のボノやセネガルのユッスーン
の規模でアフリカにかかわるサイドイベントが開催
え、とくにTICADⅣの折には横浜を中心に空前
し て 扱 わ れ た こ と は ま だ 記 憶 に 新 し い。 こ れ に 加
のこの外交の場で「アフリカ問題」が主要な議題と
はじめに
の「生存」という生物学的な生死に直結する可能性
編集者を招く形で一〇ページにわたる特集を組むな
七日から九日の北海道 洞
・ 爺湖でのG8サミットが
日本で同時開催された。そしておそらくは空前絶後
が最も高い地域のひとつが、アフリカであることは
筆者は八年前に書いたレヴュー論文のなかで三冊
Ⅰ 三冊の
﹃世界政治におけるアフリカ﹄
ど、きわめて異例ともいえる形でアフリカが集中的
疑いようがない。
こ う し た 対 応 の 急 が れ る 課 題 が 山 積 す る な か、
に取り上げられ、国内のアフリカへの関心をひきつ
しかし、ある種お祭りムードであった二〇〇八年
けるうえで重要な役割を果たした。
はかなり限定的で、その意味において「正常化」し
の『世 界 政 治 に お け る ア フ リ カ 』( Africa in World
の第二四半期を過ぎて、アフリカに関する国内報道
ているが、それがアフリカにかかわる問題の終焉を
なった。小論は、その濃密な論文群の前座として、
リカの現在を読み出す多角的な作業を行うことに
う地域に焦点をあてて、内と外という観点からアフ
今回の『地域研究』では、はじめてアフリカとい
には想定できず、また本特集のなかでも扱われるこ
世紀になってはじめて上梓され、そこには三版まで
フリカ』の第四版が八年の時を経て、さらには二一
ようなものである。つい最近『世界政治におけるア
正しながら用いることとしたい。その理由は以下の
)を比較検討したことがある (遠藤 2000
)
。こ
2000
こでははじめにそこで紹介した内容を、部分的に修
Harbeson and Rothchild 1 9 9 1 ; 1 9 9 5 ;
ここに展開されるさまざまな論考への誘いをおもな
)(
Politics
目的とするものである。そしてその際に、内と外か
とになる内と外からみたアフリカにかかわる興味深
意味するものではまったくないことも紛れのない事
らみてアフリカを取り巻く問題群がどのように変遷
い問題群が含まれているからである ( Harbeson and
006
007 内と外からみたアフリカとアフリカ研究の現在
実である。
し、現在にいたっているのかについて、筆者が専門
)。
Rothchild 2008
初版から第三版までは、おもにアメリカのアフリ
収録された論文がある一方で、それぞれの改訂の際
かには初版以来三回にわたって加筆修正されながら
訂を経て二〇〇〇年に第三版が出版された。そのな
文集であり、一九九一年以降一〇年の間に二回の改
カ研究者の手による一四ないし、一五編からなる論
*
とする政治学の分野におけるアフリカにかかわる研
究の展開の変化を切り口として提示することにした
い。
*
に論文の大幅な入れ替えが行われているほか、編集
者であるニューヨーク市立大学のハーブソン ( John
)とカリフォルニア大学デービス校の
W. Harbeson
)が 執 筆 し て い
ロ ス チ ャ イ ル ド ( Donald Rothchild
る巻頭論文のなかで、それぞれの改訂時期における
問題関心と編集方針をある程度明確化している。し
たがって、この三冊の著作を比較検討する作業を通
じて、おもにアメリカのアフリカ研究における国際
政治のなかにおけるアフリカの位置付けと、その主
要な問題関心とその変容が明らかにできると考えら
れる。
1 全体構成 の比較
まず、初版から第三版までの全体構成を俯瞰して
おこう。初版の構成は以下のとおりである。
リカ――変化するアジェンダ
第1章 ポスト冷戦期の国際政治におけるアフ
第一部 アフリカ国際関係の規定要因
第2章 植民地主義の遺制 (クラフォード・ヤ
ング)
第3章 アフリカと世界経済 (トーマス・カラ
トマン)
第 章 アフリカにおける地域的平和構築――
)としての大国の
促進者 ( Facilitators
役割 (ドナルド・ロスチャイルド)
第 章 大国と南部アフリカ――対立か、協力
か (ヴィタレー・ヴァシルコフ)
また、第二版は次のとおりである。本版では副題
として「冷戦後の挑戦」が新たに付されている(なお、
新たに収録された、あるいはタイトルを変更して書き
直されている論文に関しては太字で示している)
。
第一部 イントロダクション
第 1 章 世 界 政 治 に お け る ア フ リ カ ―― リ
ニューアルと深まる危機のはざまで
第二部 アフリカの再周辺化の諸パラメータ
第2章 植民地主義の遺制 (クラフォード・ヤ
ング)
第3章 アフリカと世界経済 (トーマス・カラ
ヒー)
第4章 アフリカと他の文明(アリ・マズルイ)
第5章 不履行のなかの従属――ヨーロッパ連
合とアフリカの関係(ジョン・レイベ
ヒー)
第4章 アフリカと他の文明(アリ・マズルイ)
ス・グルンディ)
第二部 現代アフリカにおける国際紛争地域
第 5 章 南 部 ア フ リ カ ―― 長 引 く 革 命 ( ケ ネ
ハーブソン)
第6章 アフリカの角におけるアイデンティ
テ ィ ー を め ぐ る 国 際 政 治 ( ジ ョ ン・
第7章 リビアの冒険主義( Adventurism
)
(ル
ネ・ルマルシャン)
第三部 アフリカと諸国家 ( powers
)
第8章 合衆国とアフリカ――将来に向けての
争点 (ジェフリー・バーブスト)
係」の希薄化(ジョン・レイベンヒル)
第9章 アフリカとヨーロッパ――「特別な関
第
章 アフリカと中東――収束と分散の様式
(ナオミ・ハザン、
ビクター・レヴァイン)
第 章 ソ連とアフリカ
(マリーナ・オッタウェイ)
章 アフリカ国家間交渉(ウィリアム・ザー
(キャロル・ランカスター)
第四部 アフリカにおける国家間紛争の管理
第 章 ラ ゴ ス・ ス リ ー ―― サ ハ ラ 以 南 ア フ
リカにおける経済における地域主義
第
ンヒル)
第三部 アフリカ国際関係における地域的な舞台
第6章 アフリカの角における冷戦後の政治――
強まる政治的アイデンティティーの追
求 (ジョン・ハーブソン)
アフリカ(ジェフリー・バーブスト)
第7章 アパルトヘイト後の南アフリカと南部
第8章 フランス・アフリカ関係のなかにおけ
る 仏 語 圏 ア フ リ カ 諸 国( ガ イ・ マ ー
ティン)
第 9 章 ラ ゴ ス・ ス リ ー ―― サ ハ ラ 以 南 ア フ
リカにおける経済における地域主義
(キャロル・ランカスター)
(ラリー・ダイアモンド)
章 アフリカにおける民主主義の促進――
以降期のアメリカと国際社会の政策
ザートマン)
章 ア フ リ カ 国 家 間 交 渉 ( ウ ィ リ ア ム・
第四部 主要争点
第 章 合衆国とアフリカにおける紛争管理
(ドナルド・ロスチャイルド)
第
第
第
章 政治的・軍事的安全保障(ハーマン・
コーエン)
008
009 内と外からみたアフリカとアフリカ研究の現在
10
11
12
13
10
11
12
13
14
15
第 章 主権と責任の和解へ向けて――国際的
人道活動の基礎(フランシス・デン)
第三版は次のとおりである。なお、この版の副題
は「激動期にあるアフリカ国家システム」となって
い る (な お、 新 た に 収 録 さ れ た、 あ る い は タ イ ト ル
を変更して書き直されている論文に関しては太字で
示している)
。
システム
第一部 イントロダクション
第1章 アフリカ国家と激動期のアフリカ国家
第二部 歴史的パラメータ
第2章 植民地主義の遺制 (クラフォード・ヤ
ング)
第3章 アフリカと世界経済 (トーマス・カラ
ヒー)
第 4 章 リ ニ ュ ー ア ル す る ア フ リ カ に お け る
ヨーロッパ――ポストコロニアリズム
を超えて?
(ギルバート・カディアガラ)
第5章 アフリカと他の文明(アリ・マズルイ)
アル (ウィリアム・ザートマン)
第7章 アフリカにおける内戦解決に対する合
衆国の非関与の影響 (ドナルド・ロス
チャイルド)
第 8 章 ECOMOGから ECO NO G Ⅱ ――
シ エ ラ レ オ ネ へ の 介 入 ( ロ バ ー ト・
モーティメール)
章 外部支援を受ける民主化――理論的問
第 9 章 世 界 情 勢 の 中 の ア フ リ カ ( キ ャ ロ ル・
ランカスター)
第
ブソン)
題群とアフリカの現実 (ジョン・ハー
章 アフリカの弱い国家、非国家主体、国
家間関係の私物化
(ウィリアム・レノ)
)
か、 新 た な る 関 与( re-engagement
か(ニコラス・ファンデワール)
第四部 グローバル化と変容する国家システム
章 アフリカと世界経済――周縁化の持続
第
第
第
章 西側、そしてアフリカの平和維持軍――
動機と機会
(ジェフリー・バーブスト)
第 章 大湖地域の危機
(ルネ・ルマルシャン)
トルであるが、つぎにこうした構成の変化、とりわ
以上が初版から三版までの構成と収録論文のタイ
の合計が八〇万人ともいわれる大虐殺が同じ四月に
国政選挙が実施された一方で、ルワンダでは被害者
いる。また、四月には南アで史上初の全人種参加の
第
け編集者が執筆している巻頭論文に、一九九〇年代
始まっている。そして、これを期に大量のルワンダ
章 主権と責任の和解へ向けて――国際的
人道活動の基礎 (フランシス・デン)
のどのようなアフリカにおける状況、さらにそれに
難民が隣国ザイール、タンザニアに流出した。これ
第三部 紛争管理とアフリカ国家
第6章 アフリカ国家間交渉と国家のリニュー
対する認識の変化が反映されているのかについて考
を受けて国際社会の対応のあり方、とくに平和維持
さらにはアフリカにおける地域的な課題が、網羅的
は、アフリカと他の主要国、あるいは地域との関係、
が少しずつ変化していることが看守できる。初版で
一九九〇年代におけるアフリカをめぐる問題の所在
そのすべての論文が新たに収録されたものである点
部から格上げされ、新たにパートとして導入され、
争管理とアフリカの国家の問題が第二版の争点の一
のうち一一本までが新たな論文である。とくに、紛
さらに第三版 (二〇〇〇年)では、一五本の論文
活動をめぐる問題が大きな課題となっている。
に扱われている印象を受ける。第二版(一九九五年)
の三本の論文は、一九九〇年代後半におけるアフリ
には注目する必要があろう。第六章から第八章まで
初 版 か ら 第 三 版 ま で の 構 成 を 比 較 し て み る と、
えてみたい。
では、約半数の七本の論文が入れ替えられており、
圏首脳会議において、CFAフランの対フランス・
に目を向ける必要がある。この年の一月にはフラン
る。この変化の背景としては、一九九四年という年
重要な課題に焦点をあてる方針への変化がみられ
新たに取り上げられている。したがって、ここでは
の外部勢力の関与のあり方(人道的介入を含む)が、
策、アフリカにおける紛争・安全保障とその問題へ
にともなう南部アフリカ、フランスの対アフリカ政
テーマとして新たに四本の論文を収録している。と
さらに第四部では、グローバル化とアフリカ国家を
方を再考する試みとして位置付けることができる。
る。いずれも、これまでのアフリカへの関与のあり
代の「外から」の民主化圧力の功罪を取り上げてい
)の論文は援
また、ランカスター ( Carol Lancaster
助の効率性と効果、ハーブソンの論文は一九九〇年
カの非関与、地域機構の役割などを検証している。
カにおける内戦の多発と、この問題に対するアメリ
*
ヨーロッパとアフリカの関係、アパルトヘイト終焉
フラン平価の五〇パーセント切り下げが決定されて
*
010
011 内と外からみたアフリカとアフリカ研究の現在
10
11
12
13
15 14
14
くに、ルワンダ、ブルンジ、旧ザイール (コンゴ民
2 巻頭論文 の比較
つぎに、初版から第三版までの、編集者の手によ
主共和国)といった大湖地域における危機と国際社
る巻頭論文を比較検討することで、「世界政治にお
う。巻頭論文とはいえ、それぞれの版を構成する論
)
会の関与のあり方、さらにはレノ ( William Reno
の論文にみられるように、西アフリカにおける内戦
文群における議論を踏まえた記述がなされているの
の分析を通じて明らかになってきた近年のアフリカ
こ う し て、 論 文 の 出 入 り の 激 し い な か に あ っ
けるアフリカ」に関する視点の変遷をたどっておこ
て、 初 版 か ら 第 三 版 ま で す べ て の 版 で 収 録 さ れ て
で、各版における議論を集約している論文という位
政治研究の成果がとり入れられている。
い る 論 文 は、 そ れ ぞ れ 部 分 的 な 改 訂 を 加 え る 形 で
初 版 の 巻 頭 論 文 に お け る 鍵 に な る 概 念 は、
置付けにもなっている。
Thomas M.
収録されてきた植民地主義の影響を論じたヤング
( Crawford Young
)の論文と、
カラヒー(
)
、 あ る い は 周 辺 化
周 縁 化 ( marginalization
と同時に、アフリカにとって一九九〇年代がいかに
えでの基本的な考え方を示す論文であることを示す
れらの論文が国際社会におけるアフリカを考えるう
)の論文、どれもアフリカの歴
ルイ ( Ali A. Mazrui
史に関わっている三本だけである。この事実は、こ
し、相対的にアフリカとの商取引関係を減らしてい
)は 維 持
「表 に は 出 な い 形 の 支 配 」( hidden control
し な が ら も、 と く に 二 国 間 経 済 関 係 を 大 幅 に 減 ら
での周辺化概念は、欧米諸国が途上地域に対して、
ム論における「周辺」概念とは異なっている。ここ
)による「アフリカと世界経済」に関する
Callaghy
論文、そして「アフリカと他の文明」に関するマズ
激動の時代であったかということを改めて示してい
( peripheralization
)ということができる。むろんこ
こでのこれらの概念は従属論、あるいは世界システ
ると考えることもできるのである。
)を 指 し
く 現 象 ( Harbeson and Rothchild 1991 : 11
ている。また、冷戦の終焉によって戦略的重要性を
減じたアフリカをめぐってどのような外交課題があ
い な い が、 焦 点 は 経 済 か ら 政 治 に シ フ ト し て い
第 二 版 で は、 基 本 的 な 構 成 は 初 版 と 変 わ っ て
り、また新たな国際秩序形成の過程においてどのよ
うな新しい争点を見出すことができるのかに力点が
る。 と く に 一 九 九 〇 年 代 初 期 以 降 出 て き た 援 助 に
)の問題を構造調整との比較のなかに
conditionality
とらえようとしている。その意味では、この政治的
おかれている。とくにここでは、一九八〇年代まで
コンディショナリティー、政治改革、民主化が、第
に、 欧 米 と ア フ リ カ と の 経 済 関 係 が 実 体 の レ ベ ル
国内の政治改革を求めるバイのドナー、そしてとり
お け る 政 治 的 コ ン デ ィ シ ョ ナ リ テ ィ ー ( political
わけIMF、世銀等マルチのドナーの圧力が強まっ
二版の中心的なテーマになっているとみてよい。そ
)し て い る 一 方
に お い て は 大 幅 に 減 少 ( disengage
で、構造調整に代表される国内の経済改革、さらに
て い る 状 況 の 変 化 を 示 し て い る。 つ ま り、 二 国 間
して、構造調整と政治的コンディショナリティーと
段階では、アフリカの周辺化をそれだけで否定的に
政体の実現可能性の展望である。したがって、この
随ではない、アフリカ独自の文化に根ざした開発、
環境といった社会的、人道的課題、第四に欧米の追
新たな国際環境のなかにおける人権、エイズ、麻薬、
二に構造調整の評価とアフリカ経済の展望、第三に
ている。第一に国際体系におけるアフリカ国家、第
た文脈のなかで、次の四点を検討課題として指摘し
)と い う 傾 向 が、 一 九 九 〇 年 代 初 頭 ま
engagement
でに顕在化してきているという主張である。こうし
た外の対応はアフリカにおける問題を複雑化し、か
決する必要を迫られることになるが、編者はこうし
。この結果、
いる( Harbeson and Rothchild 1995 : )
11
アフリカ諸国は経済、政治の両方の課題を同時に解
メッセージがかなり重層的であることが指摘されて
める目的がなかった、先進諸国がアフリカへ発した
ティーはそれ自体直接的には国際社会との関係を強
指向していたのに対して、政治的コンディショナリ
済と国際経済をより強く結びつける方向への改革を
あげているのは、たとえば、構造調整がアフリカ経
いう経済と政治の両方の改革への圧力がもつ矛盾と
評価しようとするだけではなく、新たな政治経済的
えって逆効果であったことが一九九〇年代前半にお
問題を示す試みがなされている。両者の相違として
な展開の転機につながる可能性もある好機としてと
ける民主化の失敗の事例に明らかになってきたとし
)
レ ベ ル で の 関 係 の 後 退 ( bilateral disengagement
と多国間の国際組織による関与の増大 ( multilateral
らえようとする将来展望をも含んでいた。
012
013 内と外からみたアフリカとアフリカ研究の現在
いる。しかし、初版では先行きに一定の明るさをみ
すアフリカ諸国における問題群に焦点が当てられて
の変化から、そのもとでの国際社会の対応がもたら
という国際社会のなかにおけるアフリカの位置付け
いう見解を述べて結んでいる。第二版では、周縁化
リカが主体的に自らの将来を構想することにあると
としては、外から押し付けられるのではなく、アフ
る。そして、ポスト冷戦期におけるアフリカの課題
可 能 性 を 秘 め る と し て、 批 判 す る 姿 勢 を 示 し て い
て お り、 今 後 ア フ リ カ の 国 家 を 危 機 に 直 面 さ せ る
としての民主化はじめにありき」という前提に立っ
さらに、こ うしたドナーのア プローチは、「目的
のモザンビーク、ナミビア、南アフリカなど、交渉
な事例を示しながら、比較している。南部アフリカ
)重 要 性 を 有 し て い る の か
機 能 的 な ( instrumental
という問題である。この問題に関して以下の具体的
民主化は国家を強化するうえでどのような道具的・
れ自体がひとつの目標であるといえるが、それでは
関係を問題としている。いいかえれば、民主化はそ
治装置としての)国家の強化という二つの課題間の
( Harbeson and Rothchild 2000 )
:。
6
ひとつの重要な論点として、民主化と (おもに統
るという悲観論を、さらに強める論調になっている
な「ルネサンス」が消滅しつつあることを示してい
おいて示されていたアフリカにおける政治経済的
見解を示している。こうした現状は、とくに初版に
るアフリカの内戦とその拡大がもたらされたとする
ていたのに比べ、民主化が必ずしも成功しないなど
ている。
の経験的な材料をもとに、やや悲観的な将来展望を
と協定にもとづいた民主化の推進が行われた国の場
である。国家の脆弱性そのものが国家システムの弱
いった規範にもとづいた国家システムでもあるから
リカの秩序を維持するうえでの主権、内政不干渉と
の国家だけではなく、これまでのとりあえずのアフ
うした軍事介入によって弱体化するのは、それぞれ
カでしばしば生じていることを問題視している。こ
が、とくに、
「アフリカの角」、大湖地域、西アフリ
尊重、内政不干渉等の規範・原則にもとる軍事行動
れている、メンバー国の国家主権と領土的一体性の
ムに関しては、アフリカ統一機構 (OAU)で約さ
にまで悪影響を及ぼしている。そして、国家システ
関 係 (こ こ で は 国 家 シ ス テ ム と 名 づ け ら れ て い る )
脆弱性が相互に悪影響を及ぼしあって、今日にいた
リカにおいては個別の国家の弱さと国家システムの
点が当てられている。とくに、ポスト冷戦期のアフ
国家と、それらの国家群からなる国家システムに焦
映し、激動し、崩壊の淵にもあるアフリカの個別の
く、一九九〇年代後半のアフリカ大陸での状況を反
第 三 版 で は、 構 成 が 大 き く 変 更 さ れ た だ け で な
陸の政治秩序のあり方が大きく問い直されていた。
て弱体化しつつある国家システムというアフリカ大
綻、さらには、こうした国家への「介入」の現実によっ
い る ア フ リ カ に お け る 個 々 の 国 家 の 機 能 不 全、 破
アフリカの内戦に焦点があたり、これがもたらして
においては、部分的には民主化圧力に起因している
しようとする方向性が示されていた。そして第三版
主化にみて、こうした関与のもつ問題性を明らかに
関与のあり方を政治的コンディショナリティー、民
対し、第二版ではとくに、国際社会のアフリカへの
両義的な意味あいに関する議論が中心であったのに
戦後の国際社会におけるアフリカの位置付けとその
版の段階では、周縁化、あるいは周辺化という、冷
なり反映されてきているということができよう。初
)といわれる地域全体の国家間
角」( Horn of Africa
ア、エリトリア、ソマリアなどを含む「アフリカの
て マ イ ナ ス の 影 響 が 出 る ば か り で な く、 エ チ オ ピ
しない場合には民主化、国家再建双方の課題におい
エチオピアとエリトリアの事例は、協定締結が成功
で展開しているという事例となっている。しかし、
合には、民主化と国家機能の回復が深く関係する形
*
行っている。
体化にも波及するアフリカの現状への強い懸念が、
て き て い る。 と く に 第 三 版 に 論 文 を 寄 稿 し て い る
ほ か、 多 様 な 主 体 の 関 与 も 実 証 的 に 明 ら か に さ れ
における政治経済と深く結びつく傾向をみせている
また、アフリカの内戦もグローバル化という文脈
ここに示されている。
3 三冊 の﹃世界政治におけるアフリカ﹄
にみられる諸論点
以上の各版の構成、巻頭論文における議論には、
レ ノ の ア フ リ カ の 紛 争 を め ぐ る 一 連 の 作 業 ( Reno
)や「軍閥政治」
shadow state
)は、「影の国家」
(
1998
( warlord politics, warlordism
)といった概念をもち
こむことを通じて、非常に興味深い論点を提供して
一九九〇年代前半から一九九〇年代末にかけてのア
化、さらにこうした変化をどう認識しようとするの
いる。さらに、地域安全保障における地域機構の役
フ リ カ に お け る 状 況 と、 そ れ を 取 り 巻 く 環 境 の 変
かというアメリカのアフリカ政治研究者の関心がか
014
015 内と外からみたアフリカとアフリカ研究の現在
*
割や、援助の問題に関しても、『世界政治における
アフリカ』のなかでの議論に限らず、昨今さまざま
に議論されており、理論的にも、政策的にも重要な
研究・検討分野を構成するものとなっている。
Ⅱ 四冊目の
﹃世界政治におけるアフリカ﹄
二〇〇八年同じ編者ハーブソンとロスチャイルド
編の第四冊目の『世界政治におけるアフリカ』が出
版されたことは既述のとおりである。先に倣い、ま
ずはこの論文集の構成を確認しておくことにしよ
う。なお、
この新たな版では『政治秩序を改革する』
( Reforming Political Order
)という副題がつけられ
て い る (な お、 新 た に 収 録 さ れ た、 あ る い は タ イ ト
ルを変更して書き直されている論文に関しては太字
で示している)
。
1 全体 の構成 と そ の特長
第一部 イントロダクション
第1章 アフリカン・ルネッサンスの暗示――
近年の進歩、長期にわたる挑戦 (ジョ
ン・ハーブソン)
第二部 歴史的パラメータ
第 2 章 植 民 地 主 義 の 遺 制 ( ク ラ フ ォ ー ド・ ヤ
ング)
第3章 アフリカと世界経済――依然として身
動きがとれないのか (トーマス・カラ
ヒー)
第4章 アフリカと他の文明――征服と征服へ
の対抗 (アリ・マズルイ)
第三部 アフリカの国家と国家システム――再創
造と復興
第5章 アフリカの弱い国家における民主化を
約束する(ジョン・ハーブソン)
民社会と権利基盤の言説(アイリ・マ
第6章 権威を求めて――アフリカにおける市
リ・トリップ)
第7章 エイズ危機――アフリカにおける国際
関係とガバナンス(アラン・ホワイト
サイド、アノキー・パリキー)
第8章 アフリカ国際関係の私物化(ウィリア
ム・レノ)
第9章 アフリカ国家間交渉と秩序の改革
(ウィリアム・ザートマン)
章は、アフリカにおける「弱い国家」という前提の
認すると同時に、第一四章におけるデンの議論との
もとにおける民主化にかかわる問題領域を改めて確
うえでのアメリカの役割(ドナルド・
では、係属してアフリカにおける国家の問題が、そ
連関のなかで、民主化と国家の強化という第三版で
章 アフリカにおけるテロとの戦い(プリ
ンストン・N・ライマン)
る。 と く に、 紛 争 や 民 主 化 な ど の 国 家 の 危 機、 あ
て表現している。ここには、人びとの参加を軸とし
「第 二 の 」 独 立 と い う レ ト リ ッ ク を 用 い
置された)
お け る 国 家 の (お も に 一 九 六 〇 年 代 の 政 治 独 立 と 対
る い は 政 治 変 動 が、 国 家 の 再 構 築 に つ な が る 契 機
の中心に位置づけられているとみることが可能であ
提起した問題意識を継続して論じている。その意味
章 成熟期におけるヨーロッパとアフリカ
関係(ギルバート・カディアガラ)
と し て 位 置 付 け 直 さ れ て お り、 そ れ を ア フ リ カ に
ロスチャイルド)
第四部 グローバルな関係――関与、競争、責任
章 平和なアフリカ国家間関係を実現する
第
第
第
第
章 ア フ リ カ に お け る 中 国 の 関 与 ―― 射
程、
重要性、影響(デニス・M・タル)
第 章 主権と責任の和解へ向けて――国際的
人道活動の基礎(フランシス・デン)
過去の改訂にならい、初版から第三版まですべて
一部をアップデートする形で部分的な改訂が加えら
グローバル化とのかかわりのなかで国際関係が「私
る。むろん、レノの議論に典型的に現れるように、
( neopatrimonialism
)と し て 議 論 さ れ て き た ア フ リ
カの政治の特徴の変革の可能性をみようとしてい
)の 変 革 を 通 じ た 新 た な 国 家
た 政 治 体 制 ( regimes
形 成 へ の 期 待 と と も に、 こ れ ま で「新 家 産 主 義 」
れて残る形になっている。しかし、第三部と第四部
物化」されるという汚職、さらには「新家産主義」
の版で収録されていた、アフリカの歴史に関わる第
の論文は大幅な入れ替え作業が行われている。以下
にもつながり、アフリカにおける長期にわたる意味
二部の三本の論文は、第四版においても、それぞれ
では、巻頭論文を中心に検討しながら、本版に現れ
る。
合いをもつ現象が存在していることにも言及してい
ている特長をまとめておくことにしたい。
編者のハーブソンは従来からアフリカにおける民
主化を分析してきた研究者であるが、第五章と第六
016
017 内と外からみたアフリカとアフリカ研究の現在
10
11
12
13
14
喚 起 す る 形 に な っ て い る。 ザ ー ト マ ン に よ る 第 九
る 形 で、 ア フ リ カ に お け る 問 題 の 深 刻 さ を 改 め て
として意識されていたが、単独の論文として記され
われているエイズの問題は、初版以降潜在的な問題
ていることを反映する形となっており、現実的な問
加え、資源に焦点をあてた積極的な外交が展開され
)
。こ
2007 ; Guerrero and Manji 2008 ; Kitissou 2008
れは、とくに二〇〇六年の中国アフリカサミットに
る ( Alden 2007 ; Alden et al. 2008 ; Manji and Marks
は、 こ こ 一、二 年 の 間 に 急 速 に 出 版 さ れ 始 め て い
で あ る。 ア フ リ カ と の 関 係 に お け る「中 国 も の 」
章 で は、 大 陸 レ ベ ル の 地 域 機 構 と し て 大 き く 組 織
題関心と整合するものといえる。
また、新しいテーマも扱われている。第七章で扱
、そしてアフ
替 え が 行 わ れ た ア フ リ カ 連 合 (A U )
担当している国際政治経済における変化を扱った
章に一章を割く形で扱われているほか、カラヒーが
点で大きな注目点として浮上しているのが、第一三
のといえる。その意味では、外部からの関与という
いる。これらは従来の版との連続性が意識されたも
れ、またヨーロッパとの関係が第一二章で扱われて
ロ と の 戦 い 」 を 含 む )が 第 一 〇、一 一 章 で 取 り 扱 わ
一 一 に 端 を 発 す る ア メ リ カ の 対 ア フ リ カ 政 策 (「テ
扱われている。また、外部からの関与として、九・
頭におけるアフリカ諸国主導の試みが批判的に取り
レヴュー・メカニズム (APRM)など二一世紀初
題が記録されており、テーマとしてはアフリカにお
まなディシプリンを持つ研究者が近年考えている問
は、長年アフリカにおける研究経験を持ち、さまざ
意 見 交 換 を 行 っ た 座 談 が 掲 載 さ れ て い る。 こ こ に
とアフリカ研究の現在と今後の展望について自由な
ている。本号に寄稿された諸論文の前に、アフリカ
治におけるアフリカ』とはそのスタンスを異にはし
では、外との関連をより強く意識している『世界政
論文によって基本的には構成されている。その意味
文脈と、外からの視点の交差する中に描こうとする
今日問題となっているアフリカ地域の問題を内なる
『地域研究』における本号でのアフリカ特集は、
2 本特集 と の関連
リカの指導者たちの手によって作成されたアフリ
カ開発のための新たなパートナーシップ (NEPA
D)
、そしてそのなかにおいてとくに相互にガバナ
第三章でも大きく取り上げられている中国の動向
えてもよい。
ンスを監視する目的で設立されたアフリカン・ピア
けるコミュニティーレベルの変容から国家の変容に
課題に包括的な分析を加えた栗田論文がまず、その
一九八九年以降の動向を丹念に追い、「移行期」の
れ た 紛 争 を 抱 え る ス ー ダ ン が 抱 え る 問 題 に 関 し、
内なる視座としては、現在アフリカにおいて残さ
かそうとしている。また『世界政治におけるアフリ
演説の分析を通してフランスの政策の現在を解き明
ついて、加茂論文はサルコジ大統領のダカールでの
歴史的に関係の深い宗主国のアフリカ政策の現在に
態と課題を明確な形で示している。植民地主義など
における紛争と「紛争後」への国際社会の対応の様
内なる視座に続く、外からの 視座のほうが、『世
問 題 状 況 を 明 ら か に し て い る。 そ し て、 選 挙 と い
カ』四版でも新たに扱われることになった中国から
界政治におけるアフリカ』四版との関連は深い。本
う「民主化」の手続きとの兼ね合いで発生した、ま
の視座にかかわるものとしては、二〇〇七年末のマ
いたる広範な問題が扱われている。その後、アフリ
だ記憶に新しいケニアにおける選挙結果をめぐる暴
ラウィの承認変更問題 (台湾から中国へ)を事例と
カの「独立の年」である一九六〇年から約半世紀を
力の問題を歴史的な視点を交えて検証した津田論文
した、中国外交のダイナミズムが鮮烈な形で示され
特集では、さまざまな課題を抱えるアフリカと国際
と、現在も継続して問題が生み出されている「失敗
。 日 本 の 援 助 機 関 に 在 籍 し、 実 務 経
る (川 島 論 文 )
迎えようとする現在を改めて検証しようとする川端
国家」ジンバブウェの政治を「クレプトクラシー」
験を持つ執筆者が、ウガンダの分権化政策をめぐる
社会の関係をそうした課題や外部主体とのかかわり
という視点から考察した井上論文が続く。そして、
論文が、長期の視点に立ったアフリカの変容の捉え
あ る い は こ う し た 問 題 を 含 む「民 主 化 」 の 過 程 で
ドナーのかかわりを現地政権の思惑との絡みを描い
において考察を加えている。武内論文は、アフリカ
(特に「分権化」との連関で)注目される「伝統的権
フリカ』では扱われてこなかった日本との関係を広
。そして、『世界政治におけるア
ている (笹岡論文)
方を示している。
。
威」の政治的意味などが取り上げられる(松本論文)
る論文は、アフリカにおける「民主化」を批判的に
を締めくくる。
く考察した片岡論文が、外からの視座のセクション
*
したがって、
「内なる視座」としてまとめられてい
検証するという方向がさまざまに示されていると考
018
019 内と外からみたアフリカとアフリカ研究の現在
*
者」
「居住者」がいる。この実態の一端を明らかに
内にもさまざまな形で多くのアフリカからの「滞在
多くの人が経験していると思われるように、日本国
のが、「日本に息づくアフリカ」という小特集である。
感をもたずにはおられないというのが率直なところ
るにせよ、アフリカ研究の立場からは大いなる違和
で、こうした分類は一定の便宜性をもつものではあ
導の国際秩序を実現するための対象の把握のうえ
政策的な観点から世界を監視し、管理し、超大国主
範疇に区分されることがしばしばある。おそらく、
れ、アフリカは、前近代、あるいは混沌圏といった
するための三本の論文が掲載される (和崎論文、川
ではなかろうか。
また、本特集号のひとつの特徴となると思われる
田 論 文、 若 林 論 文 )
。日本におけるアフリカの現在
二〇〇七年に逝去している。
* 1 な お、 編 集 者 の 一 人 で あ っ た ロ ス チ ャ イ ル ド は
◉注
できたことになると考えているところである。
できれば、ささやかながらそのねらいの一部は達成
改めてアフリカの現在と現代世界のつながりが確認
本特集で扱われる問題やその評価などを通じて、
を垣間見るために格好の論文群である。
おわりに
アフリカで生じているさまざまな問題は、決して
現在のグローバル化ともいわれる世界と隔絶したと
ころで起きているわけではなく、むしろ密接にかか
)は結果的に、
flux
版までの論文に手を
ザートマンの論文だけは第
入れた論文である。
わりあうなかで生起している。むろん、現象として
は、アフリカの各地域の固有性とでも呼べるような
*3 この版のキー概念である激動(
eds. ( 2000 ) Africa in World Politics: The African
State System in Flux (Third Edition), Boulder: Westeds. ( 2008 ) Africa in World Politics: Reforming Po-
view.
Manji, Firoze and Stephen Marks, eds. ( 2007 ) African
Kitissou, Marcel, ed. ( 2 0 0 8 ) Africa in China’s Global
litical Order, Boulder: Westview.
Reno, William ( 1 9 9 5 ) Corruption and State Politics in
( 1998 ) Warlord Politics and African States, Boul-
(えんどう・みつぎ/東京大学大学院総合文化研究科)
)
「内 と 外 の 論 理 か ら み た ア フ リ カ 国 家 と そ
――( 2007
の変容」『アフリカ研究』七一号、一〇七―一一八頁。
ア経済』四六巻一一/一二号、一〇―三八頁。
)「『民主化』から民主化へ?――『民主化』
――( 2005
後ザンビアの政治過程と政治実践をめぐって」『アジ
der: Lynne Rienner.
遠藤貢( 2000
)「変革期世界とアフリカ」『国際関係論研
究』第一四号、一―二五頁。
――
Press.
Sierra Leone, Cambridge: Cambridge University
Perspectives on China in Africa, Oxford: Fahamu.
Strategy, London: Adonis and Abbey.
――
――
*4 括弧つきの「民主化」概念については、遠藤( 2005
)
を参照のこと。
衰退( decay
)をもたらしうるとする見解のなかにも
こうした考えが垣間見られる。
*2
地域的特性を絡めとりながら事態は展開しているわ
けではあるが、
「現代的」な文脈で生起している現
象の「共時性」を十分に意識して理解する必要があ
るのではないかということを、いくつかの機会に述
べてきた。とくに国際政治の議論では、ときに前近
代、近代、ポスト近代と分類された国家群が提起さ
◉参考文献
Challenges (Second Edition), Boulder: Westview.
eds. ( 1995 ) Africa in World Politics: Post-Cold War
view.
eds. ( 1991 ) Africa in World Politics, Boulder: West-
tion), Boulder: Westview, pp.3-20.
Politics: The African State System in Flux (Third Edi-
John W. and Donald Rothchild (eds.), Africa in World
(2000) The African State and State System. Harbeson,
pp. 1 - 15 .
(eds.), Africa in World Politics, Boulder: Westview,
Agendas. Harbeson, John W. and Donald Rothchild
ca in Post-cold War International Politics: Changing
Harbeson, John W. and Donald Rothchild ( 1 9 9 1 ) Afri-
Westview, pp. 3 - 20 .
Post-Cold War Challenges (Second Edition). Boulder:
and Donald Rothchild (eds.), Africa in World Politics:
Amid Renewal, Deepening Crisis. Harbeson, John W.
Harbeson, John W. ( 1 9 9 5 ) Africa in World Politics:
for a New Perspective, Oxford: Fahamu.
China’s New Role in Africa and the South: A Search
Guerrero, Dorothy-Grace and Firoze Manji, eds. ( 2008 )
Hurst.
A Rising Power and a Continent Embrace, London:
Alden, Chris, et al. eds. ( 2008 ) China Returns to Africa:
Alden, Chris ( 2007 ) China in Africa, London: Zed.
――
――
――
020
021 内と外からみたアフリカとアフリカ研究の現在
2
総特集 アフリカ――〈希望の大陸〉のゆくえ
[座談会]
アフリカの変容 ︱︱都市・農村から国家まで 比較する
収録日 二〇〇八年一〇月二二日
島田周平 ︵京都大学大学院 ア ジ ア・ ア フ リ カ地域研究研究科︶
出席者 落合雄彦 ︵龍谷大学法学部︶
高橋基樹 ︵神戸大学大学院国際協力研究科︶
松田素二 ︵京都大学大学院文学研究科︶
司 会 遠藤 貢 ︵東京大学大学院総合文化研究科︶
最近の金融危機も、長期的には援助リソースの減少といっ
た形で跳ね返ってくる可能性はありますし、食料価格や原
油価格の高騰は、とくにサブサハラ以南の地域では、生存
と く に「 資 源 」 と い っ た 観 点 か ら の 注 目 も あ る わ け で す
アフリカを取 り巻 く今日的問題
が、アフリカ自体にも、アフリカへの関心にも、また日本
という生物学的な死に直結するような形でしわ寄せが現れ
遠藤 気候変動や食料問題など、いわゆるグローバルな問
題のなかで、
アフリカが注目されることが多くなりました。
とアフリカとの関係にも大きな変化が起きつつあるわけで
ています。その一方で、アフリカに対する国際的な注目、
ね。昨年二〇〇八年は、五月末に横浜で第四回のアフリカ
す。
今 日 は そ の あ た り を 踏 ま え な が ら、 ア フ リ カ の 今 と 今
のG8サミットが日本で開催されるという年でした。TI
CADの際には横浜を中心に空前の規模でアフリカにかか
後、そしてアフリカ地域研究の役割を話し合ってみたいと
開発会議 (TICAD)が、七月上旬には北海道洞爺湖で
わるさまざまなサイドイベントが催されたことも記憶に新
思います。
ういう変化なり新しい現実に直面していると見えているの
そこで、まずみなさんが関わられてきたアフリカは、ど
しいかと思います。アフリカがメディアなどでも集中的に
たにしても、アフリカへの日本の関心を引き付ける「国民
か、お話をいただければと思います。
扱われました。確かに一過性のお祭りという側面が強かっ
啓蒙」といったような意味合いで、それなりの機会となっ
た と 思 い ま す。 T I C A D の 成 果 は 今 後 の 展 開 次 第 と い
西 アフリカの精神科病院
落合 私はナイジェリアやシエラレオネといった西アフリ
カ諸国の政治を研究しているのですが、ここ数年間は精神
科病院も回るようにしているんです。西アフリカという地
域は、もともとクーデタは頻発していたけれども、ビアフ
ラ戦争 (一九六七〜七〇年)などを除けば大規模な武力紛
争はあまり発生してこなかった地域なのです。その点は、
独 立 以 来 紛 争 が 多 発 し て き た 東 ア フ リ カ の「 ア フ リ カ の
角」地域や南部アフリカのアンゴラ・モザンビークとはか
なり状況が異なります。ところが、九〇年代以降、つまり
冷戦終焉後にリベリアやシエラレオネなどで大規模な内戦
022
023[座談会]
アフリカの変容
う と こ ろ も あ り、 現 段 階 で は 評 価 し に く い 面 も あ り ま す
遠藤 貢(えんどう・みつぎ) 東京大学大学院
総合文化研究科教授。アフリカの政治現象に
関心を持って研究をしてきた。従来は南部ア
フリカ諸国(南アフリカ、ザンビア、ボツワナ)
を中心に、その政治体制の変動(いわゆる民
主化)をテーマとしていた。近年は、破綻国
家などとも言われる紛争に由来する国家が体
をなさない状況に対する学術的関心を持って
おり、ソマリアを中心とした「アフリカの角」
も研究している。
ンタビューにも結構親身になって付き合ってくださるんで
す。すると、精神を病んでいる患者さんのなかに、紛争だ
けではなく、いまのアフリカ社会をめぐるさまざまな問題
がいわば集約されている、あるいはそうしたさまざまな問
題を患者さんのなかから感じとることができる、と思える
ようになったんです。たとえば、アフリカというと「拡大
家族」なんていうイメージがあるけれども、ナイジェリア
やシエラレオネでは都会のなかで本当にひとりぼっちで生
きているような人も結構たくさんいるんです。おそらくそ
れは、単に精神科病院がいわば社会の「姥捨て山」のよう
な存在になっているからだけではない。患者さんのライフ
逆にその消費量が拡大しているということが大きく影響し
イン消費量が減少しつつあるのに対して、ヨーロッパでは
発されています。その背景には、近年のアメリカではコカ
ネ、ギニアビサウ、リベリアなどで、コカインが大量に摘
カ は 大 麻 で し た。 と こ ろ が 二 〇 〇 八 年 に は、 シ エ ラ レ オ
イン、アメリカはコカインであったのに対して、西アフリ
日本の主要な問題ドラッグは覚せい剤、ヨーロッパはヘロ
してもドラッグ患者が非常に多くなっています。これまで
ガーナもそうですし、ナイジェリアはそこまでいかないと
と、その患者さんの九割はドラッグに絡んでいるのです。
せん。でも、たとえばシエラレオネの精神科病院の場合だ
グがすごく増えているなんていう肌感覚はほとんどありま
おられることが多いので、私との数時間にもおよぶ長いイ
のようなものがあまり充実していなくて、とても退屈して
送っておられる患者さんというのは、院内で行う作業療法
しています。ナイジェリアなどの精神科病院で入院生活を
インタビューしてそのライフヒストリーをうかがうように
の姿が見えてくるんですね。精神科病院では、患者さんに
まり「下から」見てみると、紛争を含むアフリカ社会の別
なかのさらに最周辺部に位置する場所から見てみると、つ
すが、精神科病院という、いわばアフリカという周辺部の
うした紛争や社会をどうしても「上から」見てしまうので
が起きるようになったんです。政治学の立場からだと、そ
病院を回っていると、ふっとそんな気がしてくるんです。
いが始まりつつあるのかもしれない。西アフリカの精神科
リカではいま、ドラッグという別の凶器を用いた新しい闘
冷戦後の武力紛争の嵐がようやく一段落つきそうな西アフ
頻繁に利用されているそうです。カラシニコフ銃を用いた
府の腐敗などもあって、南米からのコカイン経由地として
ビサウは言語的にも南米諸国と近く、また警察・国軍・政
も、短期間ながら紛争を経験した旧ポルトガル領のギニア
という社会的経験のようなものもあると思います。なかで
戦中に戦闘員や若者のなかでドラッグ乱用が蔓延していた
集中的に狙われているのです。もちろんその根底には、内
オネやリベリアといった紛争後の国境管理の脆弱な諸国が
費地として、従来のナイジェリアに加えていま、シエラレ
つつある南米からのコカイン、その両者の経由地および消
りますが、たとえば普通に町を歩くだけだったら、ドラッ
です。私は西アフリカに通い始めてから二〇年ぐらいにな
もガーナも、ドラッグ問題がとても深刻になりつつあるん
ていませんが、西アフリカのナイジェリアもシエラレオネ
烈に見えてきます。日本のメディアではほとんど報道され
の問題につなげていくと、ドラッグの問題もまさに先鋭鮮
を社会のひとつの縮図と捉え、それをいまのアフリカ社会
の関心からはかなり脱線してしまうんですが、精神科病院
れてくるんです。また、もともとのアフリカ政治や紛争へ
きる人々が増殖しつつあるという情景が朧気ながら立ち現
の、とくに都市部において、日本社会と同様に孤立して生
ヒストリーを丹念につむいでいくと、そこには、アフリカ
ているようです。つまり、コカインを南米のコロンビアや
アフリカと開発経済学
ベネズエラなどから西アフリカ諸国に飛行機や船でいった
ん運び、そこからヨーロッパ諸国に流すというルートが急
速に拡大しつつあるんです。そしてこの密輸プロセスのな
かで、ドラッグの一部が西アフリカ社会のなかに残留し、
高橋 私は経済学を基本にしていますが、ミクロの視点、
人々に注目することの重要性については落合さんに同感で
それが消費されているのです。二〇〇七年末に国連薬物犯
密輸に関する報告書冒頭の一文は、「西アフリカは攻撃に
リカについては、データの信頼性に疑問符のつくことが多
罪事務所 (UNODC)が発表した西アフリカのコカイン
)
」という実に
晒されている ( West Africa is under attack
衝撃的なものでした。これまでインドやパキスタンから西
く、マクロの経済研究の結果についても厳密な信憑性には
すね。マクロで見ることはもちろん大事なのですが、アフ
アフリカに運び込まれていたヘロイン、そしていま急増し
024
025[座談会]
アフリカの変容
落合雄彦(おちあい・たけひこ) 龍谷大学法学
部教授。専門はアフリカ政治学。ナイジェリ
アやシエラレオネといった西アフリカ諸国の
国内政治や安全保障の研究を進める一方、植
民地史、新宗教運動、精神医療などにも関心
がある。おもな著作としては『アフリカの医
療・障害・ジェンダー』
( 編著、晃洋書房)な
どがある。
中枢部にいた友人さえ先日雑談の中で「おれたちは何も役
に立たなかった。何も変えられなかった」なんて驚くよう
な発言をしていましたが、そうした帰結にいたってしまっ
た。しかし、村レベルの調査や情報を見ていると、確実に
商品経済が身近に来ている部分がありますし、さらにもっ
と複雑なインパクトもあるのですね。たとえば、構造調整
で補助金がカットされて肥料が高騰し、買えなくなる状況
のなかで、村人が肥料に頼らないでお金もうけできる手段
として稲作への転換を考える、といった動きも起きている。
肥料が買えなくなると商品作物が作りにくくなって自給自
足経済に退行するかというと、どうもそれだけではない。
助に関わった志というのは、五歳までに六人に一人が死ん
問題が残ってしまう。個人的な話になりますが、自分が援
い。この変化がどこに行くのか、ちょっとおもしろいとこ
な農民が現れている、と要約できるような変化だけでもな
べ物も市場から買うようになって商品生産に特化するよう
あるいは自給自足から爆発的に市場の分業に参加して、食
でしまうようなアフリカの人々の状況をどうにかしたいと
ろだと思います。
サハラ以南のアフリカ
年
14 歳以下人口
図 1 中国およびサハラ以南アフリカの年齢別人口構成の推移
(出所)World Development Indicators 2009。
人々の変化ということで無視できないことのひとつに、
100
の解体にも自分なりに貢献をしたいと思っていたわけです。
200
最近、開発経済学の新しいテーマになっている人口ボーナ
300
。 人 口 転 換 の 過 程 で、 労
ス と い う 概 念 が あ り ま す (図 1)
400
そこで人々の暮らしに注目してみると、アフリカがミク
500
ロのレベルでいろんな変化を起こしているのは間違いな
700
働人口が極端に高い比率、たとえば七〇%といった比率に
600
人口︵100万︶
2000
1970
0
1960
15∼64 歳人口
65 歳以上人口
1990
0
1960
1980
年
い。私の研究テーマのひとつは構造調整政策、つまり市場
いうことがありましたし、人々を苦しめるアパルトヘイト
800
2000
1970
1980
1990
なる一時期があって、経済成長に有利な条件になるわけで
中国
す。高度成長期までの日本、その後の東アジアも経験して
200
経済の原理を世界に押し広げようという政策で、アフリカ
400
ではかなり早い時期に強引に導入されたわけです。この構
600
026
027[座談会]
アフリカの変容
高橋基樹(たかはし・もとき) 神戸大学大学院
国際協力研究科教授。サハラ以南のアフリカ
の開発・貧困問題に主たる関心をもち、その
政治経済的背景を、理論的また比較論的に考
察してきた。ケニア、タンザニア、ザンビア
など東南部アフリカの国々での調査が多い。
また、平均所得の低い国々に対する開発援助
を、政策論的観点を含め、分析することも手
がけている。
800
人口︵100万︶
1000
きたことですが、そのアジアはいま「老化する」という時
1200
造調整政策は大方の見方としては大きな失敗で、IMFの
1400
期を迎えていて人口ボーナスは消えつつある。目下高度成
を し て い る の で す ね。 い ま の ア フ リ カ は、 八 〇 年 代 か ら
TICADに大きな関心が集まったのは、アフリカが全
九〇年代にかけてわれわれが見ていたような、おしなべて
体としては順調な経済成長をして、ビジネス機会がたくさ
長している中国も、いずれは一人っ子政策のダメージが効
JICAプロジェクトの見学でスラムに行って写真なんか
んありそうだし、資源もあるからという理由に惹かれたの
いてきて、急激に人口ボーナスが消える時期が来ると予測
撮ろうとすると、たくさんの子どもがばーっと集まってく
は間違いないことで、だからこそ政界、官界、財界が、メ
窮乏化している状況ではなくて、 ま「だら 」になってきて
いるという感じがするのです。あと二〜三年すると明暗が
るわけです。子どもたちの数が、五〇年前の独立前後にく
ディアも一緒になってあれだけアフリカに注目したわけで
よりはっきりと見えてくると思うのですが。
らべるとおおよそ三倍くらいになっていて、就業機会がな
す。今回の金融危機、世界不況といわれるなかでこの関心
されています。ではアフリカは、というと、まだ子どもを
いままどんどん社会に出ているのです。アフリカにおける
が続くかどうか、興味深く見ているところです。
はじめ従属(扶養)人口が比率としていっぱいいるのです。
人口ボーナスの欠如はまだあまり注目されていませんが、
んでみようというところから始めたんです。そこから、国
源をもたないタンザニアのような国がなかなか順調な成長
況は忘れてはならないと思います。一方で、原油などの資
な経済成長のかたわらで、さらに貧困が深刻化している状
あると懸念しています。二〇〇八年前半までの比較的順調
な金融危機のなかで、この追い風が消えてしまう可能性が
二〇〇八年の米国のサブプライム問題に端を発する世界的
説ですね。サブプライム危機で若干不安定な要素はありま
二〇〇二〜三年以降、希望の大陸へと変貌しているという
たらアフリカは援助対象国というイメージだったけれど、
も矛盾が集中しているといわれている都市スラムに住み込
考えられていなかった。それはないだろうというので、最
家、植民地支配あるいは都市なんていうのは研究対象とは
ら は と に か く 奥 地 に 行 く と い う の を 基 本 に し て い て、 国
七〇年代、アフリカに行くのはサル学者と人類学者で、彼
松田 ぼくは七九年にナイロビ大学の大学院に留学したの
ですが、テーマは都市スラムでした。その当時、六〇年代、
アフリカの可能性
マクロ的な数字をとると確かめられます。
さて、二〇〇三年あたりからサハラ以南のアフリカ地域
全体としては急激に成長率が上がっています。私はこの成
長にはかなり見せかけの部分もあると思っています。中国
家を介在しないいろいろな社会福祉とか、文化創造が見え
やインドが資源を世界中から集めているなかで、それが追
てきて、それがアフリカに私が引き付けられたところなん
すが、基本的な基調としてアフリカをそういうふうにとら
い風になって経済成長をしたところが多分にあるのです。
ですが。
ね。そういう変化のなかに何が見えるんだろうというとこ
起きて、二〇〇七年は選挙で大暴動が起きてしまうんです
いくことになる。九三年、九四年には未曽有の民族紛争が
独裁体制が進行し、九〇年代に入ると経済的にも破綻して
も、いまのアフリカを取り巻く状況が、希望と機会という
る よ う な 気 も し ま す よ ね。 い く つ か 希 望 は 見 え る け れ ど
望といわれたときの難問は、基本的に手つかずで残ってい
八〇年代、九〇年代にわれわれが実感した、アフリカの絶
け を 見 る と た し か に そ う い う の が 現 れ て い る け れ ど も、
でも、はたしてそれは本当なんだろうかと。経済数値だ
える見方が主流になっているわけです。
ろを、部族対立の政治力学とか、外国資本の直接的な影響
ところが八〇年代になると、ケニアの場合には政治的な
とかではなくて、もう少しアフリカ社会に密着した形で解
き明かせないかというのが私のテーマです。
高橋さんも指摘されているように、今回のTICADの
スローガンは「希望と機会の大陸」「がんばるアフリカ」
「二一世紀、成長の世紀」
。たしかに成長率の統計だけ見た
らV字形ですよね。赤道ギニアなんて、八〇年代初頭にG
028
029[座談会]
アフリカの変容
DP一人あたり三〇〇ドルだったのが一万ドルになった、
とんでもない成長率を示しているし、資源をもっていない
ところでも経済成長を高く維持している国がある。こうい
う 点 に 注 目 し て、 ア フ リ カ は 完 全 に 危 機 を 脱 し て 成 長 の
レールに乗った、中国、インド、マレーシア、南アなどか
らはカントリー リ
・ スクを計算したうえで直接投資が行わ
れている、ということが言われているわけです。以前だっ
松田素二(まつだ・もとじ) 京都大学大学院文
学研究科教員。東アフリカ、とりわけケニア
の都市農村関係を 20 世紀初頭から現代にいた
るまで、日常生活世界の視点から考察。農山
村の常民の視点から、植民地支配、低開発、
環境破壊、民族紛争をとらえかえす作業を続
けている。
ようなものに向いているんだろうかと、村で生活している
実 感 か ら す る と す ご く ズ レ て い る。 ア フ リ カ の 変 化 を グ
ローバル経済とかグローバルポリティクスの変数として一
方的に見ていて、それでアフリカが良くなった悪くなった
と い う 議 論 の 仕 方 も 気 に な り ま す。 ア フ リ カ の 可 能 性 は
いったいどこに見出せるんだろうかということと、それを
いまのわれわれが地域研究で行うことの意味は何だろうか
ということが議論できればと思います。
ものが一気に一五ドル台にもなって、国家予算も政府がコ
ブームの只中で、一九七三年には一バーレル三ドルだった
ちだと思ったんです。当時のナイジェリアはすごいオイル
でも、ナイジェリアに七九年に行ったとき、それは嘘っぱ
ながら、ローカルな、活気のある姿を描いていたんですね。
ループは、国家の相対性といったことを非常に強く意識し
て、 モ ノ グ ラ フ を 書 こ う と 思 っ た ん で す。 当 時 の 京 大 グ
都大学のアフリカ研究者グループのように農村調査をやっ
島田 ぼくが最初にナイジェリアに行ったのは一九七四年
です。最初の長期滞在は七九年から二年間です。最初は京
況になったんですよ。かなり辺鄙なところへ行っても。こ
老たちが冷蔵庫で冷やしたビールを普通に飲むといった状
ところだったのに、七〇年代の後半になると、農村でも長
いで農村部は疲弊して、経済的にも何も大きな変化のない
在すると思ったわけですね。七〇年までビアフラ戦争のせ
プは言っていたけれど、国民経済という枠組みは厳然と存
い、と言われてしまったり。国家の相対性なんて京大グルー
のボトルを一本持って行かないとインタビューに応じな
ないくらい金があって。農村調査に行っても、ウィスキー
年目で予算をどーんと増やしたんですよ。もう処理しきれ
アフリカ農村の変容
ントロールできないくらい膨張していた時期でした。たと
で一緒に何かするということが、ぼくが行き始めたころに
えば第三次国家開発計画 (一九七五〜八〇年)は計画の三
ういうときに「国家という枠組みをいったん外して」なん
比べれば非常に減っている。もちろんその頃、ザンビアで
た伝統的な「偉い人たち」がコントロールできなくなって
もナイジェリアでも、お金があれば土地を買える人が出て
います。同様に南部のデルタ地帯では、政府や多国籍石油
ていう議論が、ぼくには信用できなかった。京都大学のグ
そのあとザンビアに行ったのですが、農村に行くと、ナ
会社に対する反対運動を、地元の首長 (チーフ)たちがほ
。ぼくにとっ
ループは楽をしていると思ったわけです (笑)
イジェリアでもザンビアでも、すごく似たところがあるん
とんどコントロールできなくなっています。ナイジェリア
きていて、政府もそれをサポートしてきたのですが、その
ですよ。もちろん、歴史やそのなかで創られてきた国家の
は い ま の と こ ろ、 地 域 紛 争 で 国 が 崩 壊 す る と こ ろ ま で は
て七九年、八〇年まではナイジェリアがアフリカだったん
枠組みに規定されて、すごく違うところもあって、そのあ
至っていないけれど、かなり危ない状況だという見方さえ
ことが村の性質を変えてきているのではないか、と思いま
いだをどう理解するかということに、ずっといままで迷っ
出ています。スーダンやソマリア、コートジボアールで指
ですね。その後、他の国にも行くようになって、じつはナ
てきた感じがします。TICAD前後の動きや「成長する
摘されていることとも共通しますね。その基底には都市問
す。 こ の こ と は、 地 域 紛 争 と も 関 わ っ て い る の で は な い
アフリカ」については、ぼくも松田さんに似た感じがあり
題もあるんですが、やはり農村の変化が非常に大きいので
か と 最 近 強 く 思 っ て い ま す。 ナ イ ジ ェ リ ア の 地 域 紛 争 も
ますね。一人あたりGNPが上昇している、あるいはこれ
はないかと、ぼくには思えます。紛争が勃発するきっかけ
イジェリアの方が特殊な国であることがよくわかりまし
までリスクが高くて実現しなかった投資が入るようになっ
にはいろいろな問題があると思うんですが、それが長期化
た。
しかもオイルブームという異常な時代だったのですね。
たとか、いろいろ言われていますが、農村を見ていてわか
する、あるいは拡大するのは、一般の人たちのレベルでそ
一九九〇年代から性格が変わってきたと言われています。
る大きな変化は何だったのかと問われると、それはやはり
いまはオイルブームがなくなって、普通の、違和感のない
共同性の崩壊かな、と思うんですね。たとえば、みんなで
の紛争を支える意思や力があるのだろうと思います。これ
イスラム教徒の多い北部地域の紛争でも、イマームといっ
一緒にやる労働が減っていますよね。世帯レベルから拡大
まで農村社会を研究してきて、農村社会にそのような紛争
国になっていますが。
家族、近所付き合いといったレベルではなくて、村レベル
030
031[座談会]
アフリカの変容
島田周平(しまだ・しゅうへい) 京都大学大学
院アジア・アフリカ地域研究研究科教授。1980
年代には、主としてナイジェリアの地域問題
や小農生産の変遷過程に関する研究を行って
きた。1990 年代以降、ザンビアでも農村調
査を開始し、農業生産や農村社会の変化を社
会・経済的条件のみならず自然環境の変化と
の関連でとらえる研究を進めている。最近は
ポリティカル・エコロジー論的視点から農村
社会の脆弱性といった問題を考えている。
をも支持するような根があったのかどうか、いますごく気
持ちこたえられなくなった時に、家は一気に崩壊してしま
これらのことを私なりに整理すると、「脆弱性」という
うということですね。
言葉で定義できるのではないか、と思っています。アフリ
になっています。
もうひとつ、ザンビアに関して気になっているのはHI
カの農村部がもっていた「耐える力」、そういうものが弱
グ ロ ー バ ル 化 に つ い て 言 う と、 モ ザ ン ビ ー ク、 ザ ン ビ
V・エイズです。農村調査をしていると、いくつかの家族
ア、アンゴラ、ナミビアあたりまでは、グローバル化の波
のなかで成員がバタバタと亡くなって、家も村も崩壊して
況に陥る、といった一般的な傾向が指摘されていますが、
が南アフリカを経由してやってきている、つまり二重の波
まっているのではないか、と。これが、先に言った紛争と
ひとつの村を長期で見続けていると、HIV・エイズのイ
になってきていると思います。これらの国の経済は停滞し
しまうケースがあるんですね。世界保健機関 (WHO)が
ンパクトはそういう一般的な傾向が共通して見られるとい
ている。タンザニアは南アフリカから見ると少し距離があ
いう状況が起きてしまうことにも関係しているのではない
うより、非常に個別的なんだということがわかります。た
りますが。さっき高橋さんが「まだら」と言われましたが、
か、と考えるのです。
とえばたくさんのHIVポジティブが出ている家と、ぜん
グローバル化の影響を考える場合も幾層にも重なったもの
行 っ た 大 規 模 な 標 本 調 査 で は、 H I V・ エ イ ズ が 広 が る
ぜん出ていない家が隣り合ってある。しかも、HIVポジ
と、たとえば女性の労働の荷重が増える、孤児が困難な状
ティブが出ている家でも、拡大家族のなかでなんとか対応
を取りはがしていかないと解けない問題もあります。
いるのかという問題。落合さんのお話ですとドラッグや家
村レベルでの変容、人間関係とか社会関係がどう変化して
に作用して、ぎりぎりまで衝撃を吸収してしまうために、
とりわけ拡大家族のもっている扶養力が、ある意味では逆
様 の、 つ ま り 新 し い チ ャ ン ス を 使 え た 人 と 使 え な か っ た
会というのは、アフリカだけでなくどこでも「まだら」模
とても興味深く聞きました。グローバル化を経たあとの社
長という側面、もうひとつはそれとは裏腹のように見える
遠藤 みなさんのお話をうかがっていますと、共通の論点
がいくつかありますね。ひとつは、最近のマクロの経済成
共同体の崩壊
している場合もあれば、一家消滅にいたるケースもある。
見ていると、たとえ三〇代の人が亡くなって子どもが孤児
になっても、拡大家族のなかで育ててHIV・エイズの衝
撃を吸収してしまう例が多く見られます。ところがそのよ
族の崩壊といった問題、島田さんのお話であれば、とくに
人、波に耐えた人とそうではなかった人が隣り合って暮ら
うな場合でも、ある限界を越えると、一気にその家は崩壊
アフリカの南部にその影響が集中しているHIVのもたら
す社会になったような感じがしているのですが、その境目
いが必ずしも機能しなくなっている。そのなかで孤独を感
そしてレベルは違うかもしれないけれど拡大家族の助け合
なものです。アフリカでは都市化が進み、共同体が崩壊し、
カ社会で進行しつつあるもっと広い「絆の希薄化」のよう
する個別的な排除や孤立の問題だけではなく、いまアフリ
関わりを通して感じたのは、そうしたドラッグ問題に起因
からも見放されます。しかし、私がドラッグ患者さんとの
ういう人は当然、社会的に排除されますし、しばしば家族
マもすごく強くて、ドラッグをやって精神病になれば、そ
してとても強い嫌悪感があるし、精神病に対するスティグ
深刻さのお話をしましたが、西アフリカではドラッグに対
います。ただ、先ほど西アフリカにおけるドラッグ問題の
普通に自作の農民が暮らしている農村で、主食用の農産物
ようなものを、グローバル化した形で行うようなね。でも
雇ってという、植民地支配時代の白人プランテーションの
ンくらいでしょう。大規模な機械化をして、農業労働者を
は、外国の資本が入って株式会社化した旧プランテーショ
村というのも考えられない。部分的にでも成功しているの
う。といって主食のトウモロコシや米で成功した豊かな農
品作物を作っても価格変動が大きくて大半がつぶれてしま
とになりますよね。昔のように、コーヒーのような世界商
す。ではどこで豊かさを得るかというと、農作物を売るこ
農村が豊かになっているという実感はまったくないんで
わったり建物ができたりというのはあるとしても、それで
松田 共同性の崩壊という現象もあると思うんだけど、ケ
ニ ア や ウ ガ ン ダ を 見 て い る と、 援 助 で 人 々 の 考 え 方 が 変
してしまう。つまり、アフリカ社会がもっている扶養力、
す問題も絡んでいる。
がひとつのポイントになるんですね。
じながら都会を生きている人が増えているのではないか、
を売って、換金して、資金を得て、豊かになっている姿が
を考えるうえで「耐える力」あるいは「共同性」というの
落合 共同体の崩壊と個々の家族の崩壊が、同じような時
代性と環境のなかで起きているのかどうか、あるいは全然
という肌感覚のことなんです。
出現しているのは見たことがない。ケニアの場合、都市で
違うレベルの現象なのか、という問題はもちろんあると思
押川 島田先生のアフリカの「耐える力」というご発言を
032
033[座談会]
アフリカの変容
ですよ。ぼくが七〇年代に住み込んだところは、同じ村か
松田 ケニアの場合、村からナイロビに行った人たちがど
うやって暮らすかというと、七〇年代はコロニーを作るん
押川 そういう状況と、農村の共同性の崩壊や変容は関係
するんですか。
ますね。
農村雑業をやっている人がケニアとタンザニアでは見られ
ここ一〇年くらい、村に帰ってきて、でも農業ではなくて
て、アジア型のスラムを形成していったわけですが。でも
農 村 を 支 え る、 そ れ が で き な け れ ば 完 全 に 都 市 に 定 着 し
なかった現象ですね。以前だったら都市へ移動して送金で
半ばから激増しています。七〇年代、八〇年代にほとんど
仕事がなくて農村にUターンで帰ってくる人が九〇年代の
に一〇年いたのに、インフォーマルセクターでもほとんど
松田 都市人口の増加率はね。都市化率自体はまだ低いん
だけど。でも国によりますよ。たとえばケニアでは、都市
ですから。
人口が増えていますよね。アフリカは都市人口比率が高い
んで、ネットワークでなんとかやっているというのが、ぼ
他の農村部との関係性が、資金の流れ、人の流れも全部含
は、都市との関係があるからかもしれません。あるいは、
ないんです。ひょっとして、農村がなんとかやっているの
イジェリアも、ぼくが行ってからこれまでにそう変わって
が南部ナイジェリアには広範にあるんです。ザンビアもナ
く豊かというわけではないけれど、そう貧しくはない農村
部は、主食でそんなに大変なことはありません。ものすご
ないなと思ったんですが、湿潤サバンナのナイジェリア南
フリカのトウモロコシの単作地帯に行ったとき、これは危
やキャッサバであって、ほとんど満ち足りてます。南部ア
よ。私が住んでいた南部ナイジェリアでは主食がヤムイモ
リアの農村はそんなに貧しかったという印象がないんです
にいうと、
いまの問いかけがそもそもおかしくて、ナイジェ
島田 ナイジェリアの農村をずっと見た印象でいえば、そ
んなに大きな変化があったようには見えないんですね。逆
ますか?
すけど、農業で発展して成功したモデルというのは、あり
品の配布所やNGOのクリニックなどができたりしていま
いという状況ですね。たしかに学校の数が増えたり、医薬
がまだ成立しているから、発展はないけど飢えはまだ少な
ずですよね。もっと都市部から遠い地域だったら自給自足
で、すこし違う実感があるのですが、西アフリカのほうが
るという見方もできますね。私は東アフリカを見ているの
ちはがんばって商品作物、とくに食料の生産に参加してい
や野菜などを全部考えてみると、意外と西アフリカの人た
業、あるいは都市農業というかたちですね。また、日本人
る。経済協力開発機構 (OECD)傘下の組織であるサヘ
手にする商品作物としての食料生産はけっこう増えてい
ので、都市部に食料消費人口が生まれて、その人たちを相
ただそれだけで食料需要を全部まかなうわけにはいかない
高橋 アジアの大都市とは違って、アフリカの場合は都市
に移動してもそこで農業をする人がけっこういるのです。
ですね。
ピー・ストーリーは、もう成立していないのは間違いない
て、みんなで助け合ってなんとか適応していくというハッ
変わってきています。その意味で、村の人たちが町に行っ
なって、小規模の家族、親族が一〇人ずつぐらいでナイロ
裂 し て い く ん で す ね。 そ う い う 大 規 模 な 共 同 が で き な く
島田 大きくなっていると思いますね。都市が発展して、
の崩壊や変容は関係するんですか。
ているんですか。そして、そういう状況と、農村の共同性
押川 都市が農村を支える力というのは、増えてるんです
か、減ってるんですか。都市の何が農村に与える力になっ
す。
という研究者の側の態度にもあったことを指摘していま
機会を失ったのは、「薬は正しかったが、患者が悪かった」
れまでの農業開発が、度重なる失敗にもかかわらず反省の
これまでの「科学的」な見方の相対化を迫るものです。こ
推し進めなくてはならない対象としてしか見てこなかった
に技術的低位や低い生産性を問題にし、ひたすら近代化を
いう発想です。それは、アフリカの農業を見る場合に、常
の成功の秘訣を探ることによって、それを横に広げようと
ではなくて、すでに地元にある成功のモデルを発見し、そ
なり、何も外から大きな投資が来ないで、自分たちの力で
例を見つけ出そうという提案をしています。小農が中心に
が推進する農業の発展とは違う、下から持ち上がった成功
)で、
「アフリカ農業の新方向」という特集をやった
36-2
ときに、CGIAR (国際農業研究協議グループ)あたり
セ ッ ク ス 大 学 の 開 発 学 研 究 所 で 出 し た 研 究 報 告 ( Bulletin
くの感じなんです。ところで、二〇〇五年にイギリスのサ
ら、七〇〇、八〇〇人規模の村ですが、一〇〇人ぐらいが
まだ動きがあるのかなという気がします。
の出稼ぎ送金がなかったら、おそらくみんな飢えているは
そこのスラムに住んでいる。つまり、村の生活を再現する、
は農業というと五穀という思い込みがありますけど、イモ
ル西アフリカクラブなどが希望を託しているのは、近郊農
ビのいろいろなスラムに散らばって生活するというように
成功した例を見つけ出そうというのです。外から来たもの
)とわれわれは呼んだのですが。
再農村化 ( re-ruralization
でも、構造調整が失敗したのか成功したのかは別として、
八〇年代の半ばから九〇年代にかけて、そのコロニーが破
034
035[座談会]
アフリカの変容
崩壊ではなく変容へ
組んでいる例も多く見られます。私は、そういうところで
はまさにアフリカ自身の希望があると思いますね。
島 田 ど う も 崩 壊 ま で い っ て い る と は 言 え な い で す ね
(笑)
。
ませんが、最近はアフリカ人の高学歴で比較的経済的に恵
からの募金で運営しているというイメージがあるかもしれ
いる。アフリカの孤児院というと白人のシスターが、欧米
代的な、市民社会的なアクションとして孤児院が作られて
るのもアフリカのひとつの状況です。ある意味では西欧近
対象でしょう。東南部アフリカを中心に孤児院が増えてい
国政府にとっても、いちばん守ってあげなければならない
すれば、最も脆弱な人たちとして、国際社会からしても各
なっている。そういう子どもたちは、人間の安全保障から
農 村 に も け っ こ う、 こ う い う 子 ど も た ち が 目 立 つ よ う に
部、南部のアフリカのそこここで、都会だけではなくて、
ち ゃ ん を 筆 頭 に 自 分 た ち だ け で 生 活 し て い る の で す。 東
父さんお母さんを亡くした子どもたちが、お兄ちゃんお姉
)
」
、これは都会ではほぼストリートチルドレン
household
を意味しますが、そうした世帯が増えている。HIVでお
にするかどうか、困ったときの貸し借りをどの範囲でやる
というのは、とくに東アフリカの場合はきわめて少ないで
本のように完全に土地に定住して先祖伝来そこに根をはる
しれない。そもそも、たとえば村落共同体といっても、日
化中」だけれど、それは単純に崩壊、解体ではないのかも
の状況に適応させながら変えていくんですね。つねに「変
り、あるいは再農村化したりというように、共同原理をそ
か ら 二 〇 〇 〇 年 代 に 入 っ て、 こ ん ど は 逆 に ク ラ ン 化 し た
的に崩壊しているように見えていたのですけど、九〇年代
たのが、八〇年代には家族になる、そこまではまさに単線
の場合、民族的共同体といったものを意識した互助があっ
ていくというふうに、単純にはいえないわけです。ケニア
落の共同体が解体して、個化していく、あるいは家族化し
ときに、民族的、クラン的共同性が解体して、あるいは村
族、と何層にも多様にあった。だからそれが変化していく
、 ク ラ ン、 民
家 族、 ち ょ っ と 大 き な リ ネ ー ジ ( 出 自 集 団 )
松 田 そ う。 こ れ は 注 意 し な く て は い け な い。 た ん に 解
体・崩壊しているわけではないんですよね。変わっている
まれた女性たちのなかから、一所懸命こういう問題に取り
かという、かなり具体的なレベルでイメージしているので
高 橋 共 同 性 の 崩 壊 の ひ と つ の 例 か も し れ な い で す が、
二 年 く ら い 前 に タ ン ザ ニ ア に 行 っ て 驚 い た の は、 国 際 機
すよね。その民族が移動してきてから、たかだか三〇〇年
すが、そういう共同性は、じつはかなりファジーなものな
のは間違いないけれど。ただ、七〇年代、共同性のもとに
から四〇〇年。家族や村だけで見たら一〇〇年から一五〇
なる人間関係のファクターは何かといったら、家族、拡大
年。つねに移動・移住しているから、もともとの共同性の
んですよね。形になっているわけではないし、要求はでき
関 の 統 計 用 語 で い え ば「 子 ど も 世 帯 主 世 帯 ( child-headed
イメージがずいぶん違う。
所有権は土地を「買った」
「正規」の土地所有者にあって、
者がかぶさっているアフリカによくある構造ですね。土地
つまり先住している民族のうえに法的には正当な土地所有
かもしれませんが。六〇年代の初期の土地の不公正配分、
題です。たしかに開票における不正が暴動の直接的な誘因
アナンさんも指摘しているように、基底にあるのは土地問
うですが、紛争の調停者となった前国連事務総長コフィ・
ね。たとえばケニアの場合、二〇〇八年の選挙の騒動もそ
んてことも起きる。もちろん、そういうペナルティがあっ
何か義務違反があると、翌年はメンバーから外される、な
ンバーシップが持ち込まれるわけです。援助と引き換えに
問題になります。これまでファジーだったものに明確なメ
うということになります。すると、そのメンバーシップが
あげますよ」という援助をする。そうすると組合をつくろ
助の関係者がやってきて「組合をつくれば半分は補填して
造調整計画の結果、肥料価格が高騰したんですが、開発援
用をしたのではないでしょうか。たとえばザンビアで、構
構造調整計画というのは、このファジーさに楔を打つ作
るけれど全然当てにならないこともあるという、そのファ
もともとそこに住んでいた人たちは、牧畜民も多いですけ
ても、またアフリカ的に対応するんですけど。なんとなく
近代以降、とくに独立以降、村とか都市の境界ができて、
れど、土地所有権から排除されているというねじれた関係
はっきりさせない形で維持されてきた共同性を担う集合体
ジーさ、幾重にも重なるファジーさのなかで共同性は存在
が、何かあったときに噴出するというのが、東アフリカの
が、部分部分に区切られてしまうんですね。それはある意
していると思うのです。
紛争の流れですよね。そういう意味で、共同性もつねに変
味では、共同性の意味を明確化しているようにも見えるん
村的共同性も変わってきたのですが、紛争のような状況に
化しているから、紛争はそれを巧みに利用した形で起こっ
な る と、 い ろ い ろ な 共 同 性 が 一 気 に 開 花 し て い く ん で す
てくる。
くなるという点で、それまでの共同性からはかなり異質な
ですけれど、メンバーでなければお願いすることもできな
島田 ぼくも崩壊ではなくて変容だと思う。ぼくが言って
いる共同性は、一緒に飯を食べるかどうか、農作業を一緒
036
037[座談会]
アフリカの変容
ものになっているのですね。
国家の変容
押川 いまは大なり小なり、かなりの国がそうで、外とど
ういう関係を結べているかということだと思うんです。ア
フリカはいま、国家を外側から支えているかって、わかっ
ているようで、よくはわからないんですけど、どういう力
アフリカ担当次官補が発言したりするんですが、イニシア
ティブはとりにくい。
スーダンについては、最近では中国の動向もかなり影響
をおよぼしていますが、これは経済的な権益ですね。それ
が国連安保理の決定にまでつながる動きになっている。つ
まりケースバイケースで、国際法であったり、権益レベル
のリアルポリティクスであったり。
押川 そういう外の力と国内の政治社会関係はもちろん関
連している。
もこの問題に無関心かというとそうでもなくて、国務省の
アフリカ域内の問題だといっています。ただし、アメリカ
遠藤 そこが難しいところで、ソマリアとかソマリランド
については、アメリカも基本的にはアフリカ連合、つまり
押川 誰が認定するのですか。事実上は。また外との関わ
りでの新しい力学はありますか。
らくはアラブとの兼ね合いがあると思うんですけど。
かという基準だけでは、国際的な認知は得られない。おそ
ともアフリカに関しては、その国家が民主化しているか否
れていないという場合もあって、いろいろですね。少なく
ランドは、民主的な政体でありながら国家としては認めら
遠藤 ソマリアのように、国際法といった規範レベルの力
で支えられているというケースもありますし、逆にソマリ
ジェリアの独立は多くのアフリカ諸国と同様に一九六〇年
て、南アフリカの犯罪シンジケートにとって、中国人はター
アフリカには不法滞在の中国人が三〇万いるといわれてい
もいろんなインパクトをおよぼしていますね。たとえば南
もなっています。
北京か台北かという承認レベルの問題を、アフリカ諸国を
合はまだ例外的だとしても、現れ始めている。一方では、
しまう。こういう形で現象化するケースが、ザンビアの場
る動きが出てくるという形で、政権選択の争点にもなって
件が非常によくないので、中国人を排斥する政党を支持す
ザンビアで繊維の工場や銅の鉱山を買った。そこの労働条
の均衡が支えているんですか。
ゲットになっている。アフリカの一部の国には中国人村が
国?)は六〇年代後半から七〇年代にかけてだったと思う
ですが、私はナイジェリア国家の本質的な意味での独立(建
遠藤 中国のアフリカ進出は国内的な政治にもいろいろな
インパクトをおよぼしています。たとえば、中国の企業が
できていて、今後は農村レベルの社会関係にも影響が出る
ミクロのレベルでの社会関係では、中国人労働者の増加
てこにして動かすという、国際的な問題につながる動きに
のではないですか?
だから、アフリカ諸国はそれなりに共有している特徴がた
す。たしかに「アフリカ国家論」という議論があるくらい
いるので、つい「アフリカの国家」と総まとめにしがちで
に独立して、しかも同じような植民地化の過去を背負って
は、アンゴラやモザンビークなどを除けばだいたい同時期
家間の違いが現れつつあるということです。アフリカ諸国
できるようになった、と思うんです。第二は、アフリカ国
通の国」として外交、安全保障、経済関係をつむぐことが
ていた。それがいまは、アフリカ域内外のアクターと「普
主義的な関係や米ソ冷戦下での従属的関係に強く拘束され
家というものは、フランスのような旧宗主国との新植民地
な気がします。昔であれば、多かれ少なかれアフリカの国
近のアフリカ国家はある意味で「普通の国」になったよう
落合 見方をちょっと変えると、アフリカの国家について
少なくとも二つのことがいえると思うんです。第一に、最
イニーズ」
、挨拶は「ニーハオ」。完全に変わりましたね。
島田 ザンビアの場合、以前だったらぼくらが農村に行く
と「ジャパニーズ」といわれたんだけど、最近だと「チャ
ずつ顕在化し、そのあり方が多様化してくることになるの
見過ごされがちだった国家構造・特質の相違と差異が少し
と負け組といった単純な格差分化だけではなく、これまで
たと思うんです。今後のアフリカ国家は、経済的な勝ち組
リカ諸国よりも一〇年ほど遅れたことの構造的な要因だっ
の一〇年の差が、ナイジェリアにおける民主化が他のアフ
して、このナイジェリア国家に見られる「起点」と「基点」
こそがそのあり方を考えるうえでの「基点」なのです。そ
に「起点」となりましたが、ビアフラ戦争とオイルブーム
ジェリアという国家にとってイギリスからの独立はたしか
で は 全 然 違 う 国 家 な ん で す。 別 の 言 い 方 を す れ ば、 ナ イ
イルブーム (経済)を契機に成立した「ナイジェリア」と
立で成立したナイジェリアと、ビアフラ戦争 (政治)とオ
今日のような国家システムを構築したのです。六〇年の独
制という名のもとに各州政府や地方政府に分配するという
湧きました。この二つの出来事をへてナイジェリアは、石
機となるビアフラ戦争があり、七〇年代はオイルブームに
んです。ナイジェリアでは、六〇年代後半に国家分裂の危
くさんある。しかし、共有していない部分も実は結構ある
ではないでしょうか。
油関連収入を中央政府にいったん集めて、そのパイを連邦
んです。たとえば、ナイジェリアがそのよい例です。ナイ
038
039[座談会]
アフリカの変容
変わってきました。まずひとつめは遠藤さんが指摘された
たわけです。ただ、二一世紀になって、さらに状況が少し
ると国の不安定に直結するという非常に単純な構造があっ
思っても、援助が入らないと何もできない、援助を絞られ
政治的なパトロンが資源をばらまいて国を統治しようと
す。だから、援助を切られると公共投資ができなくなる。
上、低所得国になると八割か九割が援助で賄われるわけで
その開発予算、つまり公共事業をやるための予算の半分以
めによって予算を開発予算と経常予算に分けていますが、
について具体的にいうと、アフリカの大半の国は国連の勧
的にものを考えられるようになってきましたね。援助依存
たけれど、いまはそういう束縛がないので、もう少し実利
主義に従属するのか、といった批判も受けざるをえなかっ
カ寄りの立場をとれば東側との関係を悪くし、同時に帝国
で、冷戦構造の崩壊は、やはり大事で、冷戦時代はアメリ
は り 援 助 依 存 の 問 題 を 抜 き に で き な い で す ね。 こ の 意 味
テンアメリカと比べてみると、圧倒的に違う点として、や
高橋 普通の国というのは面白い見方ですが、ナイジェリ
アのような産油大国は除いてアフリカの国家をアジアやラ
きるようになった。
援助も、「援助だけですよ」といって受け入れることがで
普通の貧乏国。普通の国家といわれればそうかもしれない。
すね。ということで、残っているのは債務と援助、つまり
せればいい、という意味でも選択肢がはっきりしたわけで
し、市場経済をどうこうというより、基本的には市場に任
です。冷戦構造のなかで東西に気をつかうしがらみも消滅
かつてのように、旧宗主国にお伺いをたてなくていいわけ
れも見方を変えれば普通の借金国になった、ともいえる。
国はほとんど自立できない状況だと指摘されるけれど、こ
要なくなった。高橋さんは開発資金から見るとアフリカ諸
ということは、ある種の従属の裏返しですよね。それが必
が「つっぱらなくなった」と思うのですが、「つっぱる」
島田 落合さんの「普通の国になった」というコメントが
新鮮ですね。たしかにそうかもしれません。ナイジェリア
にいろいろ口出しされながらですが。
が出てきたのではないか、と思うのです。もちろん援助側
国づくりをしようとする、そしてある程度それができる国
いた、ということになって、そのことを前提に自分なりの
もしかたない、冷戦の終焉もあってある意味では勝負がつ
てきた。まあ、今回の経済危機でその先行きはやや不透明
中国の登場ですよね。中国以外にも欧米先進国、OECD
になったわけですが。三つめは、市場経済原理に逆らって
メンバーではない援助国が現れてきた。二つめは、資源ブー
ムで外貨が入るようになって援助に頼らないでいい国が出
話が出ていますが、福祉国家型の国家というアイデアは、
二一世紀型の国家としては先進諸国でもすでに棄却されて
いて、サービス提供の能力を少し減退させつつ市場との関
乖離しているところにあり、しかも、給料がよかったころ
遠藤 もともとアフリカの国家は、植民地期に外部から移
植された側面があって、ハイデンの議論のように大衆から
押川 アフリカの国家はどういう存在なのでしょうか、あ
るいはどういう可能性があるのでしょうか。
投入を得るNGOが補填、補完するということも考えない
部分がありますね。国家ができない部分は、外からの資源
型ではないかたちを、短中期的には考えなければいけない
先進国で期待されてきたようなフルセットのサービス提供
とえば教育サービスの提供、外交といった限られたサービ
国家の可能性と限界
は国家に寄生する政治エリートが食いものにするような対
係をつくるということになっている。とすると、さらに国
象であった側面が強い。いわゆるガバナンスに関しては非
といけない。国家に完全に依存するというあり方は、短期
家の資源の限られているアフリカでは、国家の機能を、た
常に能力を欠いてきたと、
基本的には理解されてきました。
的には難しいような気がします。税金を提供できる国民な
に住んでいる人たちを抑圧するという現象が、九〇年代以
は資源がなくなって、抑圧的な暴力装置化して、その領土
卵が先か鶏が先かという議論はあるでしょうが、ウェー
バー型の官僚制、あるいはウェーバー型の国家、あるいは
るものも、なかなかアフリカでは形成されてこない。
スに特化して、マンパワーを集中投入するというかたち、
「普通」の国家になったといわれたところでも、一時的に
降起きてしまった。つまり政策論的には脆弱国家と呼ばれ
ウェーバー型の暴力独占装置というモデルのもとでは、ア
フリカのこれからの国家像や積極的なオルタナティブな像
を出すのは難しいと思っています。
そうすると、
政府と国家を分けて考える必要もあります。
るわけですね。
ソ マ リ ア の よ う に、 外 形 的 に は 国 家 だ け ど、 政 府 機 能 は
落合
入し、できない部分は市民社会組織といった他のアクター
国家がサービス全部をやるのではなくて、できそう
な機能や優先すべき機能に人的・財政的なエネルギーを投
まったく失われて、社会的な信頼も欠如している社会で、
いくのかと、非常に大きな難問として突きつけられている
に代替・補完してもらうというのがやはり現実的ですね。
どういうふうに国家をつくっていくのか、政府を樹立して
わけですね。政府の機能としてサービスを提供するという
040
041[座談会]
アフリカの変容
カの文脈の向こうにしか見えてこないはずです。
のあり方をモデルにすることではなく、あくまでもアフリ
アフリカ国家のあり方の展望は、ヨーロッパや日本の国家
それは日本の国家でも究極的には同じことです。しかし、
いけないが、
その一方でしばしば国民を虐待もするんです。
もちろん国民を守ったりサービスを提供したりしなければ
する。
国家というのは国民に近い巨大な「保護者」だから、
もわかるように、保護者は児童を守ることもすれば虐待も
いうのは「保護者」のようなもので、児童虐待の事例から
僚制が育っていく過程とはかみ合わない。もともと国家と
から、いくらウェーバー的国家を期待してもアフリカの官
ヨーロッパではなくアフリカの歴史的延長線上にしかない
ね。もともとあったシステム自体に抑圧や差別が入ってい
松田 アフリカの地域がもっている潜在力をファンタジー
のように語る、あるいはロマンティックにとらえて、そこ
点を打破する可能性をもっていたはずですが。
ては平等な国民ということを想定することによって、この
ないか、とも思えるのです。国家は、少なくとも理念とし
力構造から排除されている人たちも排除してしまうのでは
える力」に期待し、それを補完しようとすると、既存の権
える力」自体は一定の権力構造をもっている。つまり「耐
のお言葉でいえば「アフリカの耐える力」ですが、その「耐
どの議論でいけばアフリカのなかに内在する力、島田さん
が、市民社会はとてもファジーです。もうひとつは、先ほ
は り 問 題 で す ね。 ひ と つ は 市 民 社 会 と い う こ と で し ょ う
ですが、では、それを補完するものが何か、というのはや
高橋 問題は、その保護者であるべき国家が別の親分、つ
まり集団としての援助側に頼ってないと存立できないよう
る場合、たとえば、潜在力ということでよく例に出される
アフリカ国家は西洋から移植されたとはいえ、その未来は
な保護者だということですね。したがって、その将来像も
ケニア西部の農業慣行にしても、特定の過程への女性の参
に夢を託すということは、基本的には不可能に近いですよ
完全に自立して構想することはできない。
入を禁止するといったジェンダー的な役割分業がありま
す。慣行重視でいけば、女性のエンパワーメントができる
のかという点は、いまの価値基準からいえば当然出てきま
ないか、と。
Oに依存して、ある種の代替主義で考えるのは違うのでは
ですが、海外の「ポリティカルコレクト」のNPOやNG
来ている。もちろん、それですべて解決するとは思わない
策をつくることなんですね。それが必要というところまで
重要なことは、アフリカの課題についてひとつひとつ、
その中身を腑分けして、ファジーな部分も含めて解決する
がいるという構図です。
まりグローバルパワー、AU、国家があってその下の国民
体になっているんですね。開発の主流はやはり上から、つ
にしていない。その意味で、やはりアフリカは一方的に客
に語ることが容認されても、もうほとんど「伝統」を相手
るのとは逆に、あるいは議論のレベルではロマンティック
が実態はというと、アフリカの伝統をロマンティックに語
く、一個一個腑分けするしかないと思うんですよ。ところ
ムをつくる。イデオロギー的に潜在力に依存するのではな
常にファジーなネットワークをあわせて、機能するシステ
融資 (マイクロクレジット)と、もともとあった互助の非
知識と接合することになる。典型的な例としては、小規模
押川 アフリカの国家の機能はいくつかの基本的で選択的
な機能に特化せざるをえない、ということはよくわかるの
る方が、家長、それは多くの場合父親ですが、彼に食糧を
も似たようなものを感じるときがあります。女性と子ども
えで言っているのです。女性のエンパワーメントの議論に
それで抑圧されている人がいっぱいいることもわかったう
伝統にファンタジーなものがあるとは思っていませんし、
くということに、ものすごく恐怖を感じます。アフリカの
れる変化の見通しもなく、近代化のために社会を変えてい
V・エイズ対策を接合させるときのプロセスが、ものすご
必 要 が あ る と 思 う の で す。 結 婚 制 度 と い っ た 伝 統 と H I
HIV・エイズに対応する「プロセス」を慎重に見ておく
いう点からはそれが論理的妥当性があるけれど。問題は、
らないことがたくさんあるんですよね。HIV・エイズと
変えることになるんだけど、そうすると想定しなければな
にある相続制度を変えることになって、つまり社会全体を
だ、ぼくにいわせると、結婚制度、ということはその背後
ば、という意見もある。たしかに医学的にはそうです。た
婚制度、つまり一夫多妻制があるから、そこを変えなけれ
で、意見が分かれる。HIV・エイズの蔓延の背景には結
は一致したんです。ただ「何かしなければ」というところ
しようとすれば、伝統だけではできなくて近代的な技術や
国家 を補完するもの
す。もともと伝統と呼ばれているもののなかに、いろんな
島田 日本アフリカ学会でHIV・エイズのシンポをした
ときに、女性研究者グループと打ち合わせをしたことがあ
配布した場合に比べ、子どもの栄養状態が良くなるとは必
問題点があることは間違いない。ということは状況を改善
るんです。HIV・エイズは深刻な問題で、放置すれば社
ずしもいえないのです。むしろその逆に、家長に食糧を配
がいちばん脆弱な対象だから、その人たちに食糧を配布す
く大事だという気がするんです。私は、政策の後に想定さ
会は崩壊する、対応が必要、という点は明確で、そのこと
042
043[座談会]
アフリカの変容
かないと思います。ひとつの抑圧を取り除くと別の抑圧が
代化の方向が絶対的に正しい、といった発想ではうまくい
セスを大事に考えないとうまくいかないと思うのです。近
思うなら、その社会の仕組みを充分認識して、変えるプロ
係の法則が存在するからです。つまり、何かを変えようと
口に入るわけではないのです。つまり家族のなかにも力関
しますが、家へ帰れば結局それはそのまま女性と子どもの
ント・プログラムでは女性や子どもにミルクとお砂糖を渡
が良かったという報告があるのです。女性のエンパワーメ
ことが地域研究者の仕事ではないかと思うのです。なにか
単純な理性では捉えられないものを問題提起する、という
提起をする、その社会がもっている「ひだ」みたいなもの、
するのです。こういう単純な理性主義に対してつねに問題
純な理性主義に近づいていくのではないか、という感じが
のだと指摘した問題にも通じるのではないか、きわめて単
主義とファシズムについて、両方とも理性を信奉しすぎな
化にもいえる。結局のところ、それはハイエクがマルクス
ゆく必要があると思います。同じことが民主化や市場経済
まで行くのはどうなのか、それはそれで丁寧に議論をして
うに、相続制度や結婚制度を即変えるべきだというところ
じていますが、それが一足跳びに島田さんが言及されたよ
生まれたりもします。NGOが来て、村長を介さないで農
布したときの方が援助が停止された後の子どもの栄養状態
民個人個人に直接支援をすると、その支援を受けた人が後
よいインプットをひとつしたら必ず結果が出てよい方向に
なのですかね。
は、松田さんがさっき言われた「腑分け」、その主体は誰
向く、と単純に考えてはいけない、と。そこで気になるの
で村長の妬みを買い村から追放されたりするわけです。
アフリカ研究の課題
とインタラクションしながら、それを一方的に肯定したり
松田 それは外部の者しかないでしょう。ローカルな潜在
力、つまりそこに暮らす人たちの固有の知識、実践や制度
押川 アフリカ研究は何をすべきか、という話になりかけ
ていますね。
つ検討していくのが研究者の仕事になると思いますね。
などを使いつつではあるけれど、官僚が自分で経済政策を
験をもつところは結構しっかりしていて、コンサルタント
錯誤をしつつ構造調整プログラムを受け入れて策定した経
界銀行やIMFに指図されながらも、自分たちなりに試行
エチオピアやタンザニアを見ていると、一九八〇年代に世
高橋 さっきは悲観的な話になったけれど、「まだら」と
言ったことにもつながるのですが、一部の国、たとえば、
が出ていましたが。
松田 政治学や経済学は、現代アフリカ社会の希望をどこ
に見るんでしょうね。先ほどガバナンスや援助依存の問題
外には立てないにしても。
のエンパワーメントといったこと、個人的には必要だと信
遠藤 そうですね。答えはまだ見えないけれど、新しい時
代が始まっているということでしょうか。ありがとうござ
ね。
ます。そういうところは国家レベルでは感じるのですけど
ときより、もうちょっと地に足がついているように思われ
アメリカの手先だ」といってイデオロギー的に騒いでいる
いかと思います。以前のように「世銀、IMFは悪者だ。
は、昔に比べると若干出てきていると言っていいのではな
うことも踏まえなければならない。けれども、一部の国で
高橋 もちろん手放しではそう言えません。遠藤さんや落
合さんが言われたウェーバー型官僚制の形成の困難さとい
シップは発揮できている?
高橋 そのなかには人類学だけでなくアフリカ史の研究者
も含まれていますね。研究者は、ある程度は客観的に、局
否定したりするのではなく、その効用や限界をひとつひと
高橋 自分は開発主義者としてアフリカ研究に入ったつも
りですし、いまでもある意味でそうあり続けているつもり
つくろうとしています。世銀やIMFの方も、昔のように
いました。
なのですが、最近いろいろ考えることがありますね。女性
自分たちがすべて政策を書いてしまったら押しつけになっ
は官僚や政治家が自分たちの考えを込めていく意志や態度
てうまくいかないということをある程度自覚するように
なっています。その点では、以前よりはよくなったのでは
ないでしょうか。各国政府および世銀・IMFの双方の政
策文書には、構造調整時代と異なり、新自由主義のコンセ
プトだけではないこともたくさん書いてあります。民主化
を受けて、開発政策について国会で説明しなければならな
い、 と い う プ ロ セ ス も い ま は あ り ま す。 少 し ず つ で す け
ど、若干はわれわれの言葉でいえば「オーナーシップ (主
」という言葉があてはまるようになってきた。
体性)
松田 つまり、
援助を受け入れて活用するときに、オーナー
044
045[座談会]
アフリカの変容
特集 ─1
変貌するアフリカ
﹁独立 の年﹂ か ら半世紀間 の検証、紛争 と暴力、民
主 化 と伝 統 的 権 威 と い う視 点 か ら、 ア フ リ カ地 域
の内 な る変容 を解 き明 か す。
特集 1
―
変貌するアフリカ
アフリカ独立五〇年 を考 える
(二〇〇四
ニュージェント『独立後のアフリカ 比較史』
年)は主として研究者と学生向けに書かれた研究書で、著
そのなかでも代表的な著書は次の三冊である。
迎え、
アフリカ現代史に関する著作の刊行が相次いでいる。
二〇〇〇年代に入り、
「アフリカ独立五〇年」の時期を
カ社会主義、軍事支配、第二の解放、構造調整政策、多党
独立における継続と断絶、「計画された脱植民地」論、パン・
ントはアフリカ現代史の主要なテーマと理論的事項、たと
よっており、各国史は詳細に記述されている。ニュージェ
て 有 用 で あ る。 構 成 は テ ー マ 別 で、 大 ま か な 時 期 区 分 に
︱︱ アフリカ現代史の書 きかえに向 けて
)は エ デ ィ ン バ
者 ポ ー ル・ ニ ュ ー ジ ェ ン ト ( Paul Nugent
ラ大学歴史学部教授 (アフリカ比較政治史)である。主要
議論を展開している。視点はペシミズムだが、二一世紀の
川端正久
(二〇〇〇年)
、
著書に『ガーナにおける民族 発明の限界』
『ガーナにおけるビッグマン、スモールボーイおよび政治』
新しい動向にも注目している。
制と民主主義、ペシミズムとオプティミズムなどについて
アフリカの思想、近代化と伝統、部族と部族主義、アフリ
えば分析枠組み、アフリカ現代史論争、アフリカの独立、
があるけれども、内容は高度であり、アフリカを研究する
(一 九 九 六 年 )が あ る。 本 書 は 記 述 に 若 干 の 間 違 い や 誤 植
ア ー ノ ル ド『ア フ リ カ 現 代 史 』(二 〇 〇 五 年 )は ア フ
リカ問題に関心を寄せる一般読者向けに書かれた概説書
一九六〇年代「希望の一〇年」、第二部=一九七〇年代「現
盟 運 動 第 三 世 界 歴 史 辞 典 』(二 〇 〇 六 年 )が あ る。 本 書
はアフリカの独立から現在までを一〇年ごと――第一部=
、『非 同
る。 主 要 著 書 に『新 生 南 ア フ リ カ 』(二 〇 〇 〇 年 )
大佐による宮廷クーデタであったと解説している。これは
かになっているが、この事件はカビラのいとこのカペンド
ラは大統領警護隊員によって暗殺されたことはすでに明ら
出典 (脚注)がないことである。たとえばローラン・カビ
ので、ビッグマン政治論である。弱点は記述の根拠を示す
学者、アフリカ問題をさらに勉強しようとする学生にとっ
実主義の一〇年」
、第三部=一九八〇年代「バスケット・ケー
興味深い解説だが、残念ながら、その根拠が示されていな
区分によっている。政治家の動向に焦点があてられている
ス」
、第四部=一九九〇年代「新しい方向と認識」――に時
い。この点で、研究者には不満が残る内容である。同書の
記 』(一 九 九 七 年 )
、『ム ガ ベ ジ ン バ ブ エ に お け る 権 力 と
略 奪 』(二 〇 〇 三 年 )が あ る。 本 書 の 構 成 は 大 ま か な 時 期
期区分している。構成は地域別、国別、テーマ別になされ、
で、著者ガイ・アーノルド ( Guy Arnold
)はアフリカの紛
争などアフリカ問題全般にわたって多くの著書を執筆・編
わかりやすく、とりわけ各国史は詳細で正確に記述されて
別題名『アフリカの運命 解放の希望から絶望の深奥へ
独立五〇年史』の象徴的表現にもみられるように、視点は
集してきたベテランのフリーランス・ジャーナリストであ
いる。事件や出来事、紛争に関する詳細な解説は圧巻であ
典型的なペシミズムである。
よ う に、 広 く 一 般 読 者 向 け に 書 か れ た 物 語 ス タ イ ル の
(二〇〇五
メレディス『アフリカの状態 独立五〇年史』
年 )は、 ヒ ー ス ロ ー 空 港 内 の 書 店 に も 山 積 み さ れ て い た
ネサンス論に近い。
勢を明確に示し、視点はオプティミズムで、アフリカ・ル
理論的事項にも的確に論及している。植民地主義批判の姿
)は 年 鑑『ア
あ り、 著 者 コ リ ン・ レ ー ガ ム ( Colin Legum
(一 九 九 九 年 )は 学 生 や 一 般 読 者 向 け に 書 か れ た 入 門 書 で
)はニューヨー
レデリック・クーパー ( Frederick Cooper
ク大学歴史学教授である。レーガム『独立後のアフリカ』
に関して学生向けに書かれた標準的教科書であり、著者フ
去 』(二 〇 〇 二 年 )は 一 九 四 〇 年 代 以 降 の ア フ リ カ 現 代 史
ている。クーパー『一九四〇年以降のアフリカ 現在の過
これら以外にも、次のようないくつかの著作が刊行され
り、読み物としても面白い。アフリカ社会主義、援助と開
平 易 な 読 み 物 で、 著 者 マ ー テ ィ ン・ メ レ デ ィ ス ( Martin
)編 集 者
フ リ カ 現 代 記 録 』( Africa Contemporary Record
と し て 周 知 で あ る。 フ ァ ン デ ル フ ェ ー ン『ア フ リ カ は ど
発、新植民地主義、アフリカ合衆国論など主要なテーマと
)はアフリカ問題を題材にしているジャーナリス
Meredith
ト・歴史家である。主要著作に『ネルソン・マンデラ 伝
048
049 アフリカ独立 50 年を考える
う し た の か 』(二 〇 〇 四 年 )は 学 生 と 開 発 関 係 者 向 け に 書
かれた啓蒙書であり、著者ファンデルフェーン ( Roel van
の始点をアフリカ独立においている。
他方、若干の著書がアフリカ現代史の始点を第二次世界
大戦においている。たとえばクーパー『一九四〇年以降の
アフリカ』は一九四〇年代からアフリカ現代史を書き始め
二次世界大戦のほうがアフリカ独立の形式的モメントより
ている。その理由について、歴史の断絶という点では、第
本稿は、三冊の著書を含め、こうした著書と論文をアフ
も重要である、独立を分岐点とすることには意味がないか
)はオランダ政府外務省で働いた経験のある歴史
der Veen
家である。さらに多くの著書と論文 (書評や記事を含む)
リカ現代史研究として一括り (参考文献を参照されたい)
が刊行されている。
にし、現代アフリカ政治経済に関する議論内容を検討し、
た。この過ちの馬鹿らしさはクーパー『一九四〇年以降の
たった二つの種類すなわち植民地前後と植民地に分けられ
い い 分 岐 点 で あ っ た。 こ の 不 幸 な 分 岐 に よ っ て、 歴 史 は
け る 植 民 地 支 配 の 終 焉 は、 余 り に も 長 い 間、 最 も 都 合 の
史家にとって、一九六〇年代中頃の、大陸のほとんどにお
)
。アンダーソン ( D. M. Anderson
)はクーパーの時期
158
区分を支持し、次のように評言している。「アフリカの歴
らである、とエリス ( S. Ellis
)はクーパー著書に対する書
評 に お い て、 ク ー パ ー の 視 点 を 強 調 し て い る ( Ellis 2004 :
主要なテーマと論点を表象的に剔出し整理することを目的
とする。これはアフリカ現代史の書きかえに向けた基礎作
業である。
1 アフリカ現代史の起点
︱︱ アフリカ独立か第二次世界大戦か
)
。
2004 : 309 - 310
クーパー著書は「アフリカ史への新しいアプローチ」シ
アフリカ』においてみごとに暴露されている」( Anderson
し て い る。 ニ ュ ー ジ ェ ン ト、 ア ー ノ ル ド、 メ レ デ ィ ス、
リーズ第一巻として刊行されたので、アフリカ現代史は第
ア フ リ カ 現 代 史 の 起 点 ( beginning
) は い つ か。 多 く
の論者はアフリカ現代史の出発点をアフリカ独立に設定
レーガムの著書、そしてバーミンガムとマーティンの編著
二 次 世 界 大 戦 か ら 開 始 さ れ た と い う 視 点 が「新 し い ア プ
しいアプローチ」ではない。約二〇年前、ケンブリッジ・
ローチ」として強調されたのである。しかし、これは「新
( Birmingham and Martin: 1998
)
、ビッセルとラドゥの編著
( Bissell and Radu: 1984
)な ど の 著 作、 そ し て そ の 他 多 く
のアフリカ現代史に関する著書・論文は、アフリカ現代史
アフリカ史第八巻 (一九八四年)は一九四〇年代 (第二次
け(
)と分析され、ポスト・コロニアリズム理論
pretense
)と非継続( discontinuity
)
によれば、独立は継続( continuity
の混成 ( hybridization
)過程とみなされた。
一 九 五 〇 年 代 末 ま で、 イ ギ リ ス の 政 治 家 も 植 民 地 の 総
世界大戦)を画期とし、他方、ユネスコ・アフリカ史第八
としている。アフリカ (現代)史の時期区分は依然として
督 も、 イ ギ リ ス 政 府 は さ ら に 数 年 の 間 ア フ リ カ 植 民 地 領
巻 (一九八五年)は 一 九 三 五 年 (エチオピア戦争)を 画 期
重要な論点である。
域 を 支 配 し 続 け る こ と を 構 想 し て い た。 一 九 五 九 年 の あ
る会議において、「彼らは独立のありそうな日付を考えて
い た。 タ ン ガ ニ ー カ は た ぶ ん 最 初 で あ ろ う、 し か し、 そ
一九七五年頃になるだろう」と議論されたと伝えられてい
2 アフリカ独立の意味
︱︱民族運動 が獲得 し た の か
計画的 に付与 さ れ た の か
)
。 こ れ が 事 実 だ と す れ ば、 現 実 に
る ( Meredith 2005 a: 87
は、アフリカ人の民族解放運動が独立の日程を大幅に前倒
「計画された脱植民地」に関する議論はフリント ( Flint
しさせたことになる。
れ は 一 九 七 〇 年 ま で で は な か ろ う。 ウ ガ ン ダ と ケ ニ ア は
ア フ リ カ に お け る 植 民 地 独 立 と は 何 だ っ た の か。 独 立
( independence
)の 含 意 を め ぐ っ て さ ま ざ ま な 議 論 が 展 開
されてきた。議論の核心は、アフリカ人の民族主義運動が
いたのである。イギリスは飼いならした買弁階級を育成す
革の道に乗り出すことを決定し、それが脱植民地に結びつ
独立を獲得したのか、それとも植民地宗主国が計画的に独
)
立 を 付 与 し た の か、 に あ る。 脱 植 民 地 ( decolonization
とは鋭い断絶を必ずしも意味しなかった、支配者と被支配
)と ピ ア ス ( Pearce 1984
)に よ っ て 一 九 八 〇 年 代 初
1983
めに提起された。彼らによれば、イギリス政府が植民地改
者の関係の間には継続がある、とニュージェントは指摘し
を引きわたす道を選択した、とニュージェントは説明して
地がある。
。脱植民地が計画されていたのか、
いる ( Nugent 2004 : )
24
それとも計画されていなかったのかについては、議論の余
る誘惑を回避し、大衆的支持を示威する民族主義者に権力
)
。民族主義闘争の高尚なドラ
ている ( Nugent 2004 : 56 - 57
マは、植民地から立ち去る植民地権力と新興独立国に出現
す る ア フ リ カ 人 エ リ ー ト の 間 の、 示 し 合 わ せ た 約 束 を 隠
蔽するための煙幕にすぎなかった、と主張する論者もいる
( Nugent 2004 : 24
)
。新植民地主義理論では、独立はみせか
050
051 アフリカ独立 50 年を考える
いずれにせよ植民地に独立を付与することを決定した段
階で、ヨーロッパの植民地権力は何を考えていたのか。彼
らは植民地支配を独立によってアフリカ人が継承すること
に 安 心 し て い た の か、 そ れ と も、 彼 ら は 植 民 地 支 配 を 終
焉 さ せ る こ と に 不 安 を 感 じ て い た の か。 ゲ イ リ ー( H. A.
)は前者を願望的思考と解釈している( Gailey 2002 )
Gailey
:。
9
3 アフリカに接近する見方
︱︱ペシミズムかオプティミズムか
ア フ リ カ を ど の よ う な 観 点 で 見 る の か。 ア フ リ カ 現 代
)に 関 し て は、 ペ シ
史 に ア プ ロ ー チ す る 観 点 ( viewpoint
ミズム対オプティミズムの絶えざる対立が継続している
( Ellis 2002 :)
。
8 メ レ デ ィ ス が 指 摘 し た よ う に、 独 立 の 幸
福感が色あせたあと、アフリカに関する多くの著作はペシ
)と脱植民地 ( decoloもう一点は、独立 ( independence
) の 概 念 の 相 違 の 問 題 で あ る ( Gifford and Louis:
nization
)
。脱植民地の概念は次のように説明されている。「脱
1988
植民地とはあらゆる形態の植民地主義権力を暴露し解体す
。
ミズムの見方に席巻されてきた ( Meredith 2005 a: 13 - )
14
アフリカ問題をオプティミズムの姿勢で分析してきたデ
) ま で も が、 一 九 九 〇 年 代 に
ヴ ィ ッ ド ソ ン ( B. Davidson
はペシミズムに陥ってしまった、とニュージェントは述懐
る過程である。これは、植民地主義権力を維持した、そし
て政治的独立を達成したあとでも残している、植民地権力
の制度的文化的諸勢力の隠された諸側面を解体すること
( Ashcroft et al. 1998 : )
。スプリングホー
を、
含んでいる」
63
リカ独立から五〇年の現在、独立とは何であったのか、再
そして独立と脱植民地を再考することは重要である。アフ
を付与するに至った宗主国の政治過程を再検証すること、
。
成 を、 通 常 は 意 味 し て い る ( Springhall 2001 :)
3 植民地
における民族主義運動が独立を獲得した政治過程を、独立
の人びとと白人の主人による手段、新たな種類の関係の形
ファンデルフェーンはペシミズムだが、アフリカ・ルネ
いない。メレディスはペシミズムである。
ルネサンスの誕生を阻止する障害は何もない、とわれわれ
)は一九九四年のア
出現している。マンデラ ( N. Mandela
「アフリカ・
フリカ統一機構 (OAU)首脳会議において、
)論が
なわちアフリカ・ルネサンス ( African Renaissance
)
、マーリ ( Murray 2000
)が紹介している。
285
一九九〇年代中頃以降、新しいオプティミズムの観点す
化されている」と表現したことについて ( Mamdani 1996 :
。
)が
し て い る ( Nugent 2004 :)
8 マ ム ダ ニ ( M. Mamdani
「この観点はアフロ・ペシミズムという名前の傾向に結晶
度、アフリカ側から検証することは価値あることである。
サンスへの期待を結論として次のように表現している。「よ
)に よ れ ば、 脱 植 民 地 と は、 海 外 の 植 民
ル ( J. Springhall
地領域に対する外的支配を実質的に終わらせるための現地
)が
は言わねばならない」と発言した。ムベキ ( T. Mbeki
マンデラのアフリカ・ルネサンスの呼びかけに呼応し、ア
り重要なことは、多くのアフリカ人が、政治家を含めて、
フリカ・ルネサンスに関する自己のヴィジョンを明確にし
た(
アフリカが直面する膨大な諸問題を解決しようとする姿勢
を示し始めていることである。アフリカ・ルネサンスの可
Meredith 2005 a: 676 -
否を決定するもの、それは何よりも、その意志の強さにか
)ことは賞賛された (
Mbeki 1998
カ連合 (AU)の創設において主導性を発揮した。この二
)
。ムベキは他の指導者とともに、アフリカ開発のため
678
の新パートナーシップ (NEPAD)を立ち上げ、アフリ
とペシミズムを示す後退の現象が同時に進行しているの
つのイニシアティブはアフリカ自身が主体性を奪還しつつ
で、いずれかを過大 (過小)に評価してはならない。バラ
かっている」( Veen 2004 : 370
)
。レーガムはオプティミズ
ムへの傾向を示しているが、それはより広範なペシミズム
現段階で、アフリカ・ルネサンスへの見通しが明確にあ
ンスのとれた分析が求められる。ペシミズムからオプティ
あることを示威しており、二一世紀初めの段階におけるア
るわけではないけれども、将来的には、アフリカ・ルネサ
ミズムへの観点の移行、とりわけアフリカ・ルネサンスの
への有効な「解毒剤」である。オプティミズムを示す前進
ンスの可能性はある。アフリカ・ルネサンスが成功する可
フリカ・ルネサンス思想の具現化である。
能性があるとすれば、その基本的要因 (必要条件)は、ア
思想が出現しつつあることが重要なのである。
)の状況は曖昧
析する理論枠組み ( theoretical framework
アフリカをどのように分析するのか。現代アフリカを分
の桎梏から
︱︱近代化論
な理論枠組みの構築へ
適切
4 アフリカを分析する理論
フリカ経済が外部からの援助がなくても発展すること、と
りわけ二つの経済大国すなわちナイジェリアと南アフリカ
が発展し協力することである、とアーノルドは分析してい
)
。ペシミズムの旗手バヤール ( J.-F.
る ( Arnold 2005 : 967
)は ア フ リ カ・ ル ネ サ ン ス を 土 着 主 義 ( nativism
)
Bayart
と酷評しながらも、その将来についての唯一の確実性はア
フリカが国際システムに参入することに関連していると指
)
。ニュージェントもアーノ
摘している ( Bayart 2000 : 267
ルドもアフリカ・ルネサンスの可能性への期待を否定して
052
053 アフリカ独立 50 年を考える
要 理 論 は、 ヨ ー ロ ッ パ が 伝 統 か ら 近 代 へ と 発 展 し た 過 程
理 論 ( theory of decolonization
)の 状 況 に つ い て、 ト ウ ォ
わけではなかった。一九八〇年代中頃に出現した脱植民地
関係する社会科学者には、それほど大きな影響力を与えた
を 近 代 化 の 歴 史 過 程 と し て 典 型 化 し、 進 ん だ ヨ ー ロ ッ パ
)は ア フ リ カ に お け る 脱 植 民 地 の 支 配
ド ル ( M. Twaddle
的パラダイムを四つのパラダイムに分類し、より弁証法的
で あ る。 ア フ リ カ 独 立 の 一 九 六 〇 年 代 当 時、 鍵 概 念 と 主
のように遅れたアフリカも近代化過程を辿ることができ
)であった ( Ellis 2002 : 4)
modernization
-。
5 しかし近代化
理論は必ずしも多くの論者によって受容されたわけではな
)
。
形態の追求をすべきであると結論づけた ( Twaddle 1986
一 九 八 〇 年 代 中 頃 以 降、 ポ ス ト・ コ ロ ニ ア リ ズ ム 理
るということを意味した、いわゆる近代化理論 ( theory of
かった。
) が 出 現 し、 一 九 九 〇 年 代
論 ( theory of post-colonialism
中 頃 以 降、 一 方 で は、 ア フ リ カ・ ル ネ サ ン ス の 思 考 が 誕
)
。す
が気づいていた、と指摘している ( Cooper 2000 : 328
な わ ち ク ー パ ー に よ れ ば、 一 九 六 〇 年 代 か ら 一 九 七 〇 年
たパズルの解決にとって不適切であることに若干の論者
るための有用な概念ではあるが、それらが理論であるかど
)が 登 場 し た。 グ ロ ー バ リ ゼ ー シ ョ ン 理 論 も
globalization
アフリカ・ルネサンス論の思考も、アフリカ問題を理解す
生 し、 他 方 で は、 グ ロ ー バ リ ゼ ー シ ョ ン 理 論 ( theory of
た と え ば ク ー パ ー は、 近 代 化 理 論 は 彼 ら が 直 面 し て い
代 に か け て、 西 側 の 理 論 は そ れ が 現 地 に 適 用 で き る か ど
うかについては問題である。確かに、近代化理論とグロー
バリゼーション理論には類似した側面があるので、グロー
う か に つ い て 証 明 す る 必 要 性 に 直 面 し て い た、 と チ ェ ゲ
Chege 1997 :
Neale
ムがもっとも明瞭な見本である、と指摘している ( Vansina
心事項が「社会史」を構成しており、とりわけフェミニズ
し、貧者、女性、農民、宗教そして健康などについての関
)
展 開 し て き た、 マ ル ク ス 主 義 理 論 ( theory of Marxism
の 存 在 で あ る。 一 九 八 〇 年 代 中 頃 ま で、 た と え ば ト リ ウ
級と国家、民族解放運動などの事項に関する分野で議論を
)
。
ている ( Cooper 2001 : 212
もう一つ忘れてならないのは、社会主義的発展の道、階
バリゼーション理論は近代化理論の現代版である。「近代
化理論と同様に、グローバリゼーション理論は単一の概念
( M. Chege
)が指摘していたというのである (
)
。モデルとされたヨーロッパの近代化の歴史は近代化
136
理論が説明したようには均質・単一ではなかった。もちろ
枠組みの形成に向けようとしている」とクーパーは主張し
一九七〇年代から一九八〇年代初めにかけて、近代化理
んアフリカも均質・単一ではなかった。
)と 低 開
論 に 代 わ っ て、 従 属 理 論 ( theory of dependency
)
が出現したが( Nugent
発理論( theory of underdevelopment
)
、ニール(
Law 1981
、
2004 :)
5 これらはヨーロッパとラテンアメリカの関係に
ついての議論では関心がもたれたものの、アフリカ問題に
)
、ロー(
ル ツ ィ ( Triulzi 1981
)
、イェヴシェヴィツキ ( Jewsiewicki 1989
)などはア
1985
フリカ史においてマルクス主義の議論を展開した。ニール
分野として社会史研究が開始された。この新しい傾向が出
ればならない。一九八〇年代から、アフリカ研究の新たな
( Jewsiewicki 1989
)
。
さらにもう一点、社会史研究の分野の出現を確認しなけ
ルクス主義のアフリカ歴史研究に関する重要な業績である
ス主義の見解の豊穣さについて総括している。これらはマ
)
。イェヴシェ
配 し 続 け る 」 と 表 現 し た ( Neale 1986 : 120
ヴィツキはアフリカニスト・マルクス主義の解体とマルク
ローチを定立するのか、アフリカ現代史を書きかえる理論
。
とが必要である」、と提言している ( Ellis 2002 : )
26
い か な る 分 析 枠 組 み を す る の か、 ど の よ う な 理 論 ア プ
はいかなる時代にあるのかについてオープンに議論するこ
リカを区別する特徴を明確にするという意味で、アフリカ
)
。バヤールはアフ
る方法論を堅持している ( Bayart 2000
リカと世界の長い関係が重要であると主張している。エリ
)と長期 ( longue durée
)
バヤールは外翻 ( extraversion
の歴史の概念を提起し、外翻の長い軌跡によって歴史をみ
。
1992 : )
86
現 し た こ と に よ っ て、 ア フ リ カ 史 の 焦 点 は 国 家 制 度 の 政
は「マ ル ク ス 主 義 は ア フ リ カ 史 を め ぐ る 西 欧 の 思 想 を 支
治 史 か ら、 社 会 と そ の 内 的 変 化 の 社 会 史 に 移 行 し つ つ あ
的枠組みを設定することは重要である。
アフリカは民主化 (
)に成功するのか。
democratization
)に 支 配 さ れ て き た ア フ リ カ
権 威 主 義 ( authoritarianism
の模倣から
︱︱西欧型民主主義
アフリカ型民主主義の創造へ
5 民主主義の構築
スは、「現在のアフリカとこれまで証明しうる過去のアフ
)
。 フ ィ リ ( K. M.
る と 指 摘 さ れ て い る ( Jewsiewicki 1993
)は 一 九 六 〇 年 代 か ら 一 九 八 〇 年 代 ま で の ア フ リ カ
Phiri
史研究の進展を一九八七年に整理し、アフリカ史研究を三
つ――すなわち政治史、経済史そして社会史――に分類し
ている。フィリは社会史への関心が一九八〇年代に登場し
たことを強調し、
「アフリカにおける女性の歴史はほんの
最近になって重要な注目を受け始めた」と言及した( Phiri
)
。ヴァンシナ ( J. Vansina
)はアフリカ史のテー
1987 : 43
マの多様化はすでに一九七〇年代から始まっていたと分析
054
055 アフリカ独立 50 年を考える
( African-style democracy
)を 創 造 す る こ と に 失 敗 し て き
たことがある。ビッグマンとエリートは人民の意思を通じ
的 な 政 府 を 樹 立 す る こ と に、 そ し て ア フ リ カ 型 民 主 主 義
政治を民主主義 ( democracy
)に近づけることが民主化で
あ る。 政 治 的 危 機 の 核 心 に は、 ア フ リ カ 人 指 導 者 が 実 効
て民主主義が意味をもつためには、アフリカの人びとが生
義でなければならないということである。アフリカにおい
容、実践と様式がアフリカ的民主主義すなわちアフリカの
採用されなければならない。重要なことは、民主主義の内
とは必要であるけれども、民主主義はアフリカのやり方で
て 統 治 し な か っ た。 ア フ リ カ に お け る 政 治 は 新 家 産 主 義
裁の支配に終止符をうつこと、そしてアフリカ的要因に基
活の改善のための政治過程に参加すること、権威主義と独
社会、伝統、文化、政治経済に基づいたアフリカ型民主主
( neo-patrimonialism
) の 恩 顧 (パ ト ロ ン・ ク ラ イ ア ン ト )
関 係 を 通 じ て、 あ る い は レ ン ト・ シ ー キ ン グ を 通 じ て、
題を同時に遂行させなければならない一括の課題としてア
)によって妨害されてきた。
politics
西側諸国と援助機関は政治的民主化と経済的自由化の命
)を 一 旦 は 採 用 し
し た の で、 多 党 制 ( multi-party system
た。独立アフリカ諸国の民族主義的指導者はやがて権威主
アフリカ諸国は独立後暫くの間、西欧型の政治制度を模倣
は重要である。多党制すなわち民主主義ではない。多くの
づいてアフリカ型民主主義を創造することである。
フリカ諸国に命令した。民主化と自由化は、単純化すれば、
義的大統領になり、国民国家を建設し国民統合を促進する
個人的利益を追求するビッグマンの略奪政治(
先進ヨーロッパと後進アフリカの関係を固定化させたまま
西欧型民主主義を導入するように圧力を加える西側の試み
フリカは物事を自分で決めることである。アフリカ諸国に
必要なことは西欧化ではなく、逆にアフリカ化つまりア
一九八〇年代末まで堅固にみえた。
をし、一党制民主主義を建設できると議論した。一党制は
会主義を支持した若干の指導者は、一党制のもとでも選挙
は、一党制は支配的な政党制度になっていた。アフリカ社
を抑圧するために一党制を利用した。一九六〇年代中頃に
民主化との関連で、政党制度 (一党制と多党制)の問題
での、アフリカの西欧化である。しかし植民地主義が破綻
predatory
したことは、植民地支配による西欧化が失敗したことを証
)を 導 入
た め と い う 口 実 の も と 一 党 制 ( one-party system
した。権威主義的支配者は独裁的支配を維持し野党の活動
は成功しない。世界のどこにでも適用できる普遍的な民主
明した。
主義の像を描き、それをアフリカに適用することほど危険
しかし一九八九年からの民主化の過程において、アフリ
であったこと」( Phiri 1987 : )
38は明確である。
なことはない。アフリカが主体的に民主主義を導入するこ
カ諸国は多党制を再導入した。一九九一年五月に開催され
ガニーカのある州知事が一九二六年に「各部族は明確な単
)体制を
植民地時代、原住民統治機関 ( native authority
確立する過程において、植民地行政官は原住民を統治する
( Nyong’o 1992 : 1)
-。
8 多党制が民主化に貢献しているかど
うかは問題であり、多党制を導入した諸国は民主主義諸国
位として考えられなければならない」と述べたことをメレ
(
)
は「部族を発明した( inventing
)
」
レインジャー( T. Ranger
)と表現し、ニュージェントは「部族を生産
Ranger 1983
。
せ、対立と嫌疑は独立後も継続された ( Arnold 2005 : )
71
)が 民 族 集 団 ( ethnic group
)す な わ ち
さ れ た 首 長 ( chief
)の象徴になったのである。植民地主義は植民
部族 ( tribe
地支配を正当化するために、部族間の敵対と嫌疑を悪化さ
可能な単位を形成しようとした、それが部族である。タン
であると考えることは間違いである。民主主義と政党制度
た ア フ リ カ 政 治 学 会 研 究 大 会 に お い て、 ニ オ ン ゴ ( P. A.
)は「一党国家とその擁護者」について報告した
Nyong’o
の関係は再吟味されなければならない。
)
。植民地行
ディスは引用している(
Meredith
2005
a:
154
)と し て 任 命
政 機 関 に よ っ て 植 民 地 統 治 の 代 理 人 ( agent
6 部族と民族
︱︱他者批判の否定的部族論から
相互理解の積極的民族論へ
アフリカにおいて、部族と部族主義はどのように誕生し
つであるといわれてきた。「民族的」指導者は野党をしば
た。とりわけ国民国家建設の過程において、部族と部族主
たのか。部族と部族主義は植民地主義の産物である。民族
( ethnicity or nation
)
、部族 ( tribe
)
、部族主義 ( tribalism
)
に関する研究は比較的新しい研究分野になっている。ヴェ
しば「部族的」と攻撃したので、野党指導者は「民族的」
)
」( Nugent 2004 :)3と表現した。
した ( manufactured
これまで部族と部族主義は否定的なものと考えられてき
)編『南部アフリカにおける部族主義の創
イル ( Vail 1989
造』は、一九世紀以前の歴史記録において部族はほとんど
指導者を「部族的」と非難した。彼らは部族という言葉を
しかしながら最近では、部族を肯定的に考えようとする
他者批判の常套句として使用したのである。
義の存在は国民形成の障害である、紛争の主たる要因の一
存在しなかったこと、部族主義はまったく存在しなかった
こ と、 部 族 主 義 は 創 造 (
)さ れ た こ と を 論 証 し た
creation
(
)
。 こ う し た 研 究 に よ っ て「部
Etherington
1990
:
153
155
)
族主義がまったくのところ植民地主義の発明 ( invention
056
057 アフリカ独立 50 年を考える
)
。民族連邦制度すなわちエチオピアにおける民
2004 : 487
族集団の連邦制度の実験について関心が寄せられている
新たな思考の傾向がでている。ニュージェントは、「二〇
世紀末までに、国民のアイデンティティは民族のアイデン
(
アフリカにおける国境線は神聖不可侵か。国境線につい
7 国境線神聖論の崩壊
︱︱現状維持の固執から
国境線変更のルール作 りへ
)
。
Turton 2006
テ ィ テ ィ を 抑 圧 す る こ と に よ っ て は 形 成 で き な い こ と、
そ し て、 民 族 に は 積 極 的 側 面 が あ る こ と を 喜 ん で 承 認 す
る動きがある」
「伝統的指導者は社会的緊張を緩和するこ
とにおいて重要な役割を果たしてきた」と指摘している
( Nugent 2004 : 484 , 487
)
。これは積極民族理論 ( theory of
)
、すなわち対立を緩和し紛争を解決し国
positive ethnicity
)を 形 成 す る た め に は 民 族 ( ethnicity
)の 積 極
民 ( nation
的側面を活用することが重要である、という考え方を招来
あり、ニエレレ政権は伝統的制度を完全に廃絶した、と紹
る。ニュージェントによれば、唯一の例外はタンザニアで
を保持し、伝統と首長は重要であるとの認識が出現してい
独立以降、伝統的制度はかなり自己改革し、首長は威信
しないことになったので、政府の実効的支配の如何に関係
境線を受け入れるように加盟国に要請した。国境線は変更
年のアフリカ統一機構 (OAU)首脳会議で決定された。
)の原則が適用され、神聖であると考え
持 ( uti possidetis
られてきた。国境線を変更しないというルールは一九六四
)は、現状維
地の遺産として継承された国境線 ( boundary
てのルールが変更されつつある。一九八〇年代まで、植民
)
。ニュージェントの議論が
介している ( Nugent 2004 : 136
正しいかどうかも含めて、今日の民主化の過程において、
なく、アフリカのすべての存在は領域的存在として国際社
している。
伝統制度と首長勢力の役割について再検討することは必要
首脳会議は国境紛争に関する決議を採択し、継承された国
である。
)の
会から承認された。かくして法律国家 ( juridical state
議論が登場した。一九九一年、アフリカ独立三〇周年を記
民族集団間の平等を促進するための一つの実験はエチオ
ピアにおける連邦制度にみられる。地域を付与された各民
)はアフリカの国
念した論考において、リマー(
D.
Rimmer
)を強調した( Rimmer 1991 b: )
。
境線の永続性( durability
93
会がこの協定を承認したことは、植民地に由来する国境線
民投票によって独立の権利をもつことを承認した。国際社
植民地主義的な従属の典型事例である、と分析した。リー
持者は、ケニアは外国資本に支配されている、ケニアは新
は「ケニア論争」と呼ばれた。低開発理論や従属理論の支
アフリカ資本主義 ( African capitalism
)の性格はどのよ
うなものか。ケニアにおける資本主義の性格をめぐる議論
8 アフリカ資本主義
︱︱ ケニア論争の教訓と
資本主義論争の貧困
)あ る い は 各 民 族 ( ethnicity
)は 分 離 の
族 体 ( nationality
権利を含めて、無条件の自決権を与えられている ( Nugent
エリトリアがエチオピアから一九九三年に分離独立した
際、多くの論者はエリトリアのエチオピアからの分離独立
は例外的事例であると分析したが、これをOAU原則から
)
。
の逸脱であると分析した論者もいた ( Nugent 2004 : 440
スーダンの南北内戦を終結させるために二〇〇五年一月に
はもはや神聖ではないこと、つまりアフリカでも国境線は
締結された包括和平協定は、スーダン南部の人びとの自決
変更可能であることを意味した。境界紛争の根源は植民地
権を承認し、南部の人びとは協定の六年後に実施される国
列強が決定した人工的で不自然な境界線に遡る。国境線を
)は持
たが、現地ブルジョアジー ( indigenous bourgeoisie
続的な資本主義発展を産みだす歴史的使命の遂行に失敗し
)は、 ケ ニ ア・ ブ ル ジ ョ ア ジ ー は 進 歩 的 役 割
ズ(
C.
Leys
)であっ
を担った民族ブルジョアジー( national bourgeoisie
)は「ア
めぐる紛争は数多くある。ラレモン( R. R. Larémont
フリカ諸国の国境線がわれわれの目の前で引き直されてい
)と二〇〇五
ることは明らかである」( Larémont 2005 : 28
年に指摘した。国境線が変更可能な時代における国境線画
リス領ソマリランド、現在のソマリアの北部、ソマリランド
ソマリランドの事例を忘れてはならない。かつてのイギ
様式に関する議論をすることは必要である。
ションが進行する現在、再度、アフリカ資本主義の性格と
ぐ る 論 争 は 低 調 で あ る。 冷 戦 が 終 わ り、 グ ロ ー バ リ ゼ ー
た。残念ながら、その後、アフリカ資本主義そのものをめ
)
。議論の適否は別にして、ケ
た、と議論した ( Leys 1975
ニア論争はアフリカ資本主義論争としては有意義であっ
は一九九一年に独立を宣言したが、国際社会から承認され
定の新しいルールを策定する必要がある。
ていない。エリトリアの独立が承認されたのに、ソマリラ
ンドの独立が承認されていないことは理解できない。実際、
ソマリランドは民主的国家として機能しているのである。
058
059 アフリカ独立 50 年を考える
の精神と資本主義の資金
9 アフリカ社会主義
︱︱社会主義
アフリカに社会主義は存在したのか。アフリカ現代史を
めぐる論争の最大のテーマの一つはアフリカ社会主義論争
で あ る。 ア フ リ カ 社 会 主 義 に つ い て、 ニ ュ ー ジ ェ ン ト は
「アフリカ社会主義は首尾一貫性がなく、さまざまに解釈
に社会主義国は存在しなかった。なぜなら、自助はなく、
開発もなく、参加もなかったからである。
さ て ア フ リ カ 社 会 主 義 に 関 し て は、「ア フ リ カ 社 会 主
義 」( African socialism
) と「科 学 的 社 会 主 義 」( scientific
) と い う 二 つ の 表 現 が 使 用 さ れ た が、 こ の 二 つ
socialism
の相違を理解することは困難であり、また無意味である。
)は「アフリカ社会主義」
ガーナのンクルマ( K. Nkrumah
を非難し、「科学的社会主義」が「正しい道」であると「決
)
。
会主義を建設しようとしたのである ( Arnold 2005 : 157
社会主義は、社会科学の学術用語でいう、資本主義に対
実の政策を遂行した。端的にいえば、資本主義の資金で社
について説教しながら、実際には、資本主義に基づいて現
ていた。タンザニア政府の政治家と役人は社会主義の精神
)である」とニエレレがいみじくも述
方 ( attitude of mind
べたように、アフリカ社会主義は概念そのものが漠然とし
)
。「社会主義は精神の持ち
と描写した ( Nugent 2004 : 146
ナ、コンゴ、ベナンなどは一度も社会主義国になったこと
主 義 国 あ る い は 科 学 的 社 会 主 義 国 に な っ た。 し か し ガ ー
がほとんどなかった、と考えられる。
概念が曖昧であり、「科学的社会主義」は社会主義と関係
般的にいえば、「アフリカ社会主義」は社会主義としての
)はマルクス・レーニ
した。ベナンのケレク ( M. Kérékou
ン主義を政権の公式イデオロギーとして「規定」した。一
ゲルスが形成した科学的社会主義だけである、と「宣言」
)はアフリカ社
定」した。コンゴのングアビ ( M. Ngouabi
会主義とは距離をおき、社会主義は一つ、マルクスとエン
抗 す る 概 念 で は な か っ た。 ア フ リ カ 社 会 主 義 は 社 会 主 義
がなかったのである。アフリカ社会主義と科学的社会主義
された、曖昧でロマンティックなポプリにすぎなかった」
精神の持ち方と資本主義の資金からなる混成概念である。
についての分析者の説明は大雑把で混乱していた。オッタ
大統領が社会主義を宣言すれば、その国はアフリカ社会
ニュージェントはアフリカ社会主義の成立要件 (基準)と
ンザニアでは、ニエレレが開始した方針に誰も文句をいう
綻した。共同耕作の思考も社会主義の戦略もなかった。タ
強制力を行使して人びとを動員したので、計画の実践は破
(
し て、 自 助、 国 家、 社 会 的 平 等、 大 衆 の 参 加 を 列 挙 し た
)が、この基準によれば、アフリカ
Nugent 2004 : 139 - 140
)はアフリカ共産主義
ウエイ (
Ottaway
and
Ottaway
1981
)を議論し、ソール ( Saul 1985
)はアフ
Afro-communism
(
) に 言 及 し、 ケ ラ ー
リ カ・ マ ル ク ス 主 義 (
Afro-Marxism
)は
と ロ ス チ ャ イ ル ド の 著 書 ( Keller and Rothchild 1987
ア フ リ カ・ マ ル ク ス 主 義 政 権 に つ い て 解 説 し、 ヒ ュ ー ズ
か っ た、 最 終 的 に 失 敗 し た け れ ど も、 ニ エ レ レ の 社 会 主
)
。アーノルドの指摘によれば、ニエレレは
2005 a: 256 - 257
社会主義が実際に達成したことに関して議論したことはな
者はいなかった、とメレディスは述懐している ( Meredith
の概念を社会科学の学術用語として厳密に適用していない
( Hughes 1992
)はマルクス主義のアフリカからの撤退につ
いて議論した。こうした議論に共通する特徴は、社会主義
ことである。アフリカ社会主義における「社会主義」の用
義 の 信 念 は 大 陸 の「新 鮮 な 空 気 」 で あ っ た、 と い わ れ た
を導入しなかった。ウジャマー村づくり政策は社会主義的
( Arnold 2005 : 279
)
。
実際はどうだったのか。タンザニア政府は社会主義政策
語はたんなる修辞 (レトリック)にすぎなかった。
ウジャマー社会主義の実験
生産様式を導入しないで、単に新しい村を作る計画にすぎ
持 し、 タ ン ザ ニ ア は 社 会 主 義 国 に な っ た。 ニ エ レ レ は ウ
の精神と原則を規定するアルーシャ宣言を一九六七年に支
カ民族同盟 (TANU)は、ニエレレが提起した社会主義
であった。タンザニアの支配政党、タンガニーカ・アフリ
想、そしてタンザニアにおけるウジャマー社会主義の実験
義のテーマとして注目されたのはニエレレの社会主義思
ウジャマー社会主義とは何だったのか。アフリカ社会主
の被害を受けた多くの人びとにとって、ウジャマーの風は
)
。今日でもニエレレとその社
い る ( Meredith 2005 a: 373
会主義を賞賛する人びとはいる。しかし、ウジャマー政策
まって二三年後のことであった」とメレディスは記述して
青写真として公式に放棄されたのは、社会主義の実験が始
わりについて言及しなかった。「アルーシャ宣言が開発の
会主義政策について総括をせず、ニエレレは社会主義の終
し、多大の経済的人的損害を残した。タンザニア政府は社
︱︱﹁新鮮 な空気﹂か﹁不快 な悪臭﹂か
ジャマー村づくり計画が自発的に遂行されることを強調し
「新鮮な空気」ではなく、「不快な悪臭」にすぎなかった。
なかった。そのウジャマー政策も実際のところ完全に失敗
た。ニエレレ政権はウジャマー運動を奨励したが、進捗は
遅かった。そこでニエレレは人びとを誘導し、最終的には
060
061 アフリカ独立 50 年を考える
10
)
。新植民地主義においてイギリスとフランスの
2000 : 230
どちらが強固であるのか、などと議論しても生産的ではな
い。新植民地主義の政治的経済的システムそのものを分析
)である。現在、先進国主
理論 ( theory of neo-colonialism
導の国際システムはグローバリゼーション時代の新植民
列強や先進国に従属している、という議論が新植民地主義
束縛は継続されているので、独立アフリカ諸国は旧植民地
一九六〇年代にアフリカ諸国は独立したけれども、経済的
ア フ リ カ に お い て、 植 民 地 主 義 は 廃 絶 さ れ た の か。
用語は、いわゆる第三世界がグローバリゼーションの圧力
関して広範に使用されている。広義の意味において、この
。
とを、含意している」と指摘している ( Ajayi 1997 : )
42
次の定義は有効である。「新植民地主義という用語は、
フリカの人民が自分自身の事柄を自己管理できていないこ
りわけ旧宗主国列強への従属を増加させたこと、そしてア
)は「新
することが重要である。アジァイ( J. F. Ade Ajayi
植民地主義とは、政治的独立がアフリカ人民の国際社会と
地 主 義 で あ り、 新 植 民 地 主 義 は ア フ リ カ に お け る 援 助 供
の 下 で、 独 立 し た 経 済 的 政 治 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ を 発 展
新植民地主義
︱︱従属状態は今も昔も継続する
与 国 の 原 則 に な っ て い る。 他 の 手 段、 主 と し て 経 済 的 関
)の結論は次の通りである。
ザームンド ( D. Rothermund
「この見えざる手は外側からのみ異種の経済に触れること
元植民地に対するいずれかのそしてすべての形態の支配に
係を通して、西側先進国のアフリカ支配は継続している。
させることができないことを意味している」( Ashcroft et
)
。新植民地主義の「見えざる手」に関するロ
al. 1998 : 163
一九八〇年代末、新植民地主義的状況は強化された。とい
うのは、国際通貨基金 (IMF)と世界銀行 (WB)そし
て主要援助供与諸国がアフリカにおける経済的統制を強化
まであり、多様性を欠如している。このように影響を受け
ができる。ほとんどのポスト・コロニアル経済は異種のま
新植民地主義という批判は旧イギリス領植民地よりも旧
したからである。
フ ラ ン ス 領 植 民 地 に 妥 当 し て い る と、 ニ ュ ー ジ ェ ン ト は
ある経済的既得権益すなわち補助金と関税障壁を維持する
発援助 (ODA)システムを継続するのは、彼らの国益で
現在の国際政治経済システムにおいて、先進国が政府開
た 人 び と に と っ て、 世 界 市 場 の「見 え ざ る 手 」(
invisible
)は新植民地主義の「隠された手」( hidden hand
)の
hand
)
。
ようである」( Rothermund 2006 : 273
)
。しかしバヤールに言わ
言及している ( Nugent 2004 : 49
せ れ ば、 ア フ リ カ に 対 し て 本 当 の 大 陸 政 策 を も と う と し
援助は先進国の免罪符
ている唯一のヨーロッパ国家こそフランスである ( Bayart
ためである。メレディスは次のように説明している。先進
一〇億ドル、一年三七〇〇億ドルであり、これはアフリカ
関税障壁の体制を操作している。農業補助金の総額は一日
︱︱援助継続から援助脱出へ
先進国はなぜアフリカを援助するのか。これまで膨大な
国はアフリカの生産者の努力を無力化するために補助金と
量の援助が投入されたにもかかわらず、援助が失敗したこ
全体の国内総生産 (GDP)総額を超えている。アフリカ
と は 明 白 で あ る。 ア フ リ カ は 援 助 依 存 か ら 脱 出 し な け れ
諸国の生産物は先進世界が課している関税障壁に直面して
おり、先進国はアフリカの製品を先進国市場から実質的に
ばならない、とアーノルドは主張している ( Arnold 2005 :
)
。これは援助が先
締 め 出 し て い る ( Meredith 2005 a: 684
進国の経済特権を守るための免罪符になっていることを意
)
。 援 助 は 経 済 開 発 を 支 援 せ ず、 む し ろ 腐 敗 を 助 長 し
927
依存を深化させ、構造調整計画 (SAP)は顕著な経済成
長をもたらさなかった。SAPが急速な開発をもたらさな
味している。
するようになった。SAPはアフリカの開発潜在力を引き
進国の農家が生活を維持するために必要だからである。ア
システムを維持するための方策であり、補助金と関税は先
よって、その回答は違っている。先進国は援助から脱出で
援 助 か ら 脱 出 で き る か ど う か が 問 題 で あ り、 当 事 者 に
かったとすれば、その社会的結果はどうなるのかが問題で
)
。三〇〇〇億
出すことに失敗した ( Nugent 2004 : 334 - 336
ド ル の 西 側 の 援 助 が ア フ リ カ に 投 下 さ れ た が、 確 認 で き
なら、援助は彼らが権力を維持するための財源になってい
ある。SAPのもとで、アフリカ諸国は援助供与国に依存
る よ う な 効 果 は な か っ た、 と メ レ デ ィ ス は 指 摘 し て い る
るからである。アフリカの大多数の人びとは援助から脱出
フリカ諸国の支配エリートは援助から脱出できない、なぜ
きない、なぜなら、援助は先進国有利の不公正な国際経済
略が経済進歩の達成目標に到達することに失敗したことを
( Meredith 2005 a: 683
)
。ファンデルフェーンは「より一般
的には、彼ら (国際通貨基金と世界銀行)は彼らの経済戦
からである。
できる、なぜなら、彼らは援助なしでも日常生活はできる
)
。援助が失敗し
認めた」と記述している ( Veen 2004 : 303
たことに関する一般的見解は正しい。
062
063 アフリカ独立 50 年を考える
11
12
援助との関連において、非政府組織 (NGO)の援助を
どのように評価するかは難しい問題である。国際的NGO
の援助に対しては、これに憤慨する国もあれば、歓迎する
国もある。援助という点では同じであるが、ODAとNG
Oの評価については区別して考えなければならない。確か
に、NGOの援助が人びとの生活改善のために貢献してい
る事例はあるけれども、他方、否定的に機能している事例
もある。われわれは「一般的に、NGOはポスト・コロニ
)とい
アル国家の弱化に貢献してきた」( Nugent 2004 : 357
うニュージェントの論点に留意しなければならない。
アフリカ独立五〇年を迎えて、アフリカ現代史を再考す
考える』」(『アフリカ研究』七三号、二〇〇八年一二月、五七
―六〇頁)を参照されたい。
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検証すべき事件と出来事は多岐にわたる。本格的な議論と
分析が展開されることを期待したい。
◉付記
本稿は日本アフリカ学会シンポジウム「アフリカ独立五〇
年を考える」
(二〇〇八年五月二四日)における報告( Masahisa
Kawabata, Rewriting a Contemporary History of Africa, May
2 0 0 8 , Research Institute for Social Sciences, Ryukoku Uni-
)の一部を改稿したものである。なおシンポジウムの
versity
概要については拙稿「シンポジウム『アフリカ独立五〇年を
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067 アフリカ独立 50 年を考える
30
特集 ―1 変貌するアフリカ
﹁移行期﹂のスーダン政治
︱︱南北和平・民主化・ダルフール危機
栗田禎子
問う住民投票が施行されることになっている。このように
現在のスーダンは、まぎれもない「移行期」にあり、最近
はいわゆる「移行期の政治」や「移行期正義」の事例の一
の規定によれば、二〇〇九年にはスーダン全国で総選挙が
され、以後、政治プロセスは新たな段階に入った。CPA
運動・解放軍)との間で「包括和平協定 (CPA)
」が調印
てきた反体制組織SPLM/SPLA (スーダン人民解放
権と、従来、とくに南部スーダンなどの地域で抵抗を続け
ル政権の支配下に置かれてきたが、二〇〇五年一月、同政
スーダンは一九八九年以来、クーデタで成立したバシー
行期」は、疑いなくスーダン独立 (一九五六年)以来の最
括和平協定」は、まさに「和平」として――すなわち独裁
るさまざまな力関係の結果として、スーダンにおける「包
に異なっている。国内における、あるいは国際社会におけ
転換がなされた南アフリカの事例とは、スーダンは明らか
アパルトヘイト体制が打倒されて国家体制全体の民主的な
転換、というわけではないということである。この点で、
ある「移行」は、非民主的な政体から民主主義への完全な
ただ、注意を要するのは、現在のスーダンが経験しつつ
はじめに
行われ、また二〇一一年には南部を対象に、将来の帰属を
大の転機であるだけでなく、一九世紀にエジプトによる征
つとしてスーダンが取り上げられることも多い。
体制を完全に打倒するのではなく、これと交渉し、温存す
服・植民地支配のもとで、今日のスーダン共和国の領域の
このように、現在スーダンが通過しつつある「移行期」
る形で――成立せざるをえなかった。現在のスーダンにお
とはきわめてセンシティヴな性格のものであるが、にもか
ける「移行」や「民主化」は、過去二〇年間の流血や人権
同時に注目すべきなのは、現在のスーダンにおける「移
かわらず、やはりそれが大きな変革のチャンスであり、独
原型が「エジプト領スーダン」として形成されて以来の転
行期」は、場合によっては、その結果として、これまでの
裁の温存や国家の分裂という危険をはらむ一方で、スーダ
侵害の張本人であるバシール政権が温存され、また「包括
スーダン共和国の領域的一体性が解体されるかもしれない
ンにおける政治や経済のあり方に、意味のある変化をもた
機であり、東アフリカのこの地域における国分けのシステ
という性格の「移行期」――「スーダン」という国自体の
らしうる可能性を持つものであることは否定できない。そ
和平協定」の一方の当事者として正統性を承認されてもい
存続がかかっている「移行期」――だということである。
して目下スーダン国民の多くは、内外の諸力のせめぎあい
ムに大きな地殻変動を引き起こしかねないものであるとも
前述のように二〇一一年には南部の住民を対象に、南部が
いえる。
将来、統一されたスーダンのなかに留まるのか、それとも
がもたらす複雑な情勢に翻弄されつつも、その変革の可能
るという特殊な状況下で進められているのであり、これが
分離独立するのかを問う住民投票が行われることになって
性に賭けて、さまざまな模索を行っているということがで
スーダン国民の闘いを複雑で困難なものとしている。
おり、
「移行期」のスーダン政治のありようによっては、
きる。
ン政治の課題と、現在のスーダンをめぐる内外の諸勢力の
以上のような観点から、本稿では、「移行期」のスーダ
南部の人々が分離を選択する可能性は否定できない。さら
お け る 状 況 が 急 速 に 深 刻 化 し て お り、 も し「移 行 期 」 の
動き、今後の展望を検討する。
に、周知のようにここ数年はスーダン西部のダルフールに
スーダン政治がこの問題への対応を誤れば、国際的力学と
もあいまって、将来的には南部だけでなく、ダルフールの
ような諸地域も現在のスーダン共和国の体制からの離脱の
動きを強めていく可能性がある。その意味では現在の「移
068
069 「移行期」のスーダン政治
Ⅰ 一九八九年以降のスーダン国民の
いとその到達点
立以来、北部スーダンにおける民主化闘争は一定の蓄積を
有してきたということができる。スーダンは一九五六年に
独立し、形式的には (英統治下で準備された「二大政党制」
に 基 づ く )議 会 制 民 主 主 義 体 制 に 基 づ く 政 治 が 始 動 し た
(これを「寄生的資本家」とする規定もある)が、クーデタ
成長を遂げた北部スーダン出身の新種の資本家グループ
一九七〇年代後半〜八〇年代に金融・流通などの分野で急
を 母 体 と し て 成 立 し た ウ マ ル・ ア ル・ バ シ ー ル 政 権 は、
一 九 八 九 年 六 月 に「国 民 イ ス ラ ー ム 戦 線 (N I F )
」
動に「無神論」のレッテルを貼って弾圧するためにイスラー
、あるいは左翼運
いった現象 (一九五八年の軍事クーデタ)
制民主主義」の外被をかなぐり捨てて軍部に政権を渡すと
ると、民衆の運動を封じこめるため、支配層の側が「議会
る労働者・農民などの勢力による異議申し立ての声が高ま
ものにすぎず、民衆の利害を代表しなかった。これに対す
りの農業・商業資本家が特定の宗教的名家を核に結集した
が、これら「二大政党」は、植民地支配下で成長した一握
によって政権を奪取し、
「イスラーム主義」イデオロギー
闘
を掲げることで、権力と富の独占を正当化しようとしたも
人・学生)は果敢な抵抗を行ってきた歴史がある。アッブー
ムを政治的に利用するといった現象が生じた。しかし、こ
ド政権 (一九五八〜六四年)に対する一九六四年の「一〇
のということができる。同政権下では、北部を含む全スー
に 対 し て は、 む き 出 し の 武 力 に よ る 弾 圧 が 行 わ れ た。 バ
月革命」、ヌメイリー政権に対する一九八五年の「インティ
道労働者や綿花プロジェクトの農民、都市の専門職者や知識
シール政権の支配は(「国民イスラーム戦線」支持者以外の)
」 は い ず れ も、 民 衆 が デ モ と ゼ ネ ス
フ ァ ー ダ (市 民 蜂 起 )
れに対し、北部スーダンの民主勢力 (中心となったのは鉄
ほとんどすべての国民を抑圧・排除するものであったが、
ダンが強権的支配下に置かれ、民主主義が圧殺され、人権
それは皮肉なことに、同政権への抵抗の過程で、独立後の
トの組み合わせによって軍事独裁政権を瓦解させた、アフ
が蹂躪されると同時に、南部をはじめとする低開発諸地域
スーダンにおいて初めて、北部における民主化闘争と、南
リカや中東では稀有な事例である。
ら継承されてきた深刻な開発格差に対して異議申し立て
他 方、 ス ー ダ ン 国 内 の 低 開 発 諸 地 域 も、 植 民 地 時 代 か
部をはじめとする低開発地域の住民の運動との間で本格的
ここでスーダンの政治史を簡単に振り返ってみると、独
かで位置づけて北部の民主勢力と共闘しようとする発想は
な共闘関係が形成されるという結果をもたらした。
を 行 っ て き た 歴 史 を 持 ち、 と く に 南 部 で は、 早 く も ス ー
こ れ に 対 し、 一 九 八 九 年 の バ シ ー ル 政 権 成 立 後 の 段 階
生まれていなかった。
一九七一年)
(ちなみに、低開発地域である南部、ヌバ山地
ダ ン 独 立 前 夜 の 一 九 五 五 年 か ら 武 装 闘 争 が 発 生 し た (〜
しかしながら従来は、この二つの潮流――北部における
建設すべきかをめぐるヴィジョンを共有するにいたったと
り、かつその過程で、将来のスーダンにどのような国家を
は、北部における民主化闘争と、南部をはじめとする低開
民主化運動と低開発地域の住民の抵抗運動――の間に本格
いう点で、きわめて注目すべきものとなった。政権打倒を
などは、歴史的経緯から、文化的・宗教的には、イスラーム
的な対話や交流が生まれることはなかった。北部スーダン
め ざ し て 結 成 さ れ た「国 民 民 主 同 盟 (N D A )
」 に は、 北
発地域の住民の運動とが、政権打倒のために共闘関係に入
の民主化運動のなかで中心的役割を果たしてきたスーダ
党、労組組織だけでなく、八三年以降南部などを基盤に活
、共産
部の伝統的「二大政党」(=民主統一党、ウンマ党)
やアラビア語が浸透しなかった地域と重なっていた)
。
ン共産党 (一九四六年結党)は、早い時期から植民地型の
極的に連携していくという戦略はまだ存在しなかった。他
張したが、南部の民衆の運動の主体性に着目し、これと積
の南部をめぐる円卓会議では南部に自治を与えることを主
かったように思われる。また、共産党は「一〇月革命」後
を包括的に解決するヴィジョンを形成するには至っていな
民地」的位置に置かれることになった低開発諸地域の問題
えていたが、独立後のスーダン国家内部でいわば「内国植
一 九 九 三 年 の「ナ イ ロ ビ 宣 言 」 な ど を 経 て )一 九 九 五 年 の
いて議論するという作業を続け、(一九九二年の「憲章」、
ダ ン が 抱 え て き た 諸 問 題 を 見 直 し、 あ る べ き 国 家 像 に つ
せて闘うという方針を確立した。同時に、独立以降のスー
おいて主としてSPLMが展開する武装闘争とを組み合わ
部におけるインティファーダ (市民蜂起)と、南部などに
民主同盟」は、まずバシール政権打倒のために団結し、北
運動・解放軍。以下、SPLMと略記)も合流した。
「国民
動を開始していたSPLM/SPLA (スーダン人民解放
*1
経済構造からの脱却や強権的国家機構の変革の必要性を唱
方、低開発地域の側も、一九六〇年代にゲリラ活動を展開
「アスマラ会議」までには、将来のスーダン国家において
まで「分離独立」という発想に基づく運動しか生み出して
する、②複数政党制と人権の原則に基づく民主的制度を構
は①開発格差を是正し、バランスのとれた経済発展を実現
*2
運動」に発展)の例に見られるように、この段階ではあく
した「アニャ・ニャ」(「毒虫」。のちに「南部スーダン解放
おらず、自らの抱える問題をスーダン国家全体の構造のな
070
071 「移行期」のスーダン政治
「宗教・人種・性別・文化」にかかわらず、「市民」の概念
行う、
という諸原則が確立された。将来のスーダン国家は、
は一九五五〜七一年の南北内戦をいったん終結させた「アジ
余 地 が な い。 S P L M は ヌ メ イ リ ー 政 権 末 期、(直 接 的 に
SPLMの果たした役割が決定的であったことには疑いの
ジョンが「国民民主同盟」によって採用されるにあたり、
し、 政 治・ 経 済 構 造 の 抜 本 的 変 革 を 謳 う こ の よ う な ヴ ィ
に基づき、完全な平等が保証される国家、従来「周辺化さ
築する、③宗教の政治利用を許さず、事実上の政教分離を
れ て き た 人 々」 の 権 利 が 保 証 さ れ る「新 し い ス ー ダ ン 」
て「分離主義」的発想を克服した運動、南部の状況を国家
成 さ れ た 組 織 で あ っ た が、 南 部 を 基 盤 と し な が ら も 初 め
スアベバ協定」に基づく南部自治をめぐる取り決めが政府に
)
。
Alliance 1995
「国民民主同盟」が到達したこのヴィジョンにおいて最
構造全体の歪みから生じる問題として捉え、その変革をめ
と な る こ と が 宣 言 さ れ た の で あ る(
も注目に値するのは、従来の政治過程を特徴づけてきた二
ざそうとする運動であった。結成直後の一九八三年七月に
よ っ て 一 方 的 に 変 更 さ れ た こ と を 契 機 に )南 部 に お い て 結
つの流れ――民主主義を求める動きと低開発諸地域の権利
公表された綱領的文書「マニフェスト」のなかでSPLM
National Democratic
要求――が統合され、国家構造全体の大胆な民主化を実現
元来はSPLMが提唱したスローガンであった。そしてこ
することによってこそ、スーダンの一体性を守っていこう
のような主張は、SPLMの指導者で優れた政治手腕と洞
は、 南 部 が 抱 え る 問 題 を、 植 民 地 主 義 や 新 植 民 地 主 義 が
が、この決定は同時に、将来のスーダンにおいて開発格差
察力の持ち主であったジョン・ガラングの活動や、反体制
という発想が打ち出されたという点である。アスマラ会議
の是正や民主化が徹底されるならば、南部の住民も自決権
運動のなかでSPLMが政治的・軍事的に占めた比重のゆ
スーダン国内に作り出した「中心=周辺」構造の産物とし
行使にあたり、
「分離」を選択する必要はなくなるはずだ、
えに、「国民民主同盟」全体の方針に影響を与えていくこ
て捉える視点を打ち出している。「新しいスーダン」は、
という判断に支えられていた。「新しいスーダン」とはい
と と な る。 ア ス マ ラ 会 議 で 採 用 さ れ た「周 辺 化 さ れ て き
民主的権利として」
)
「自決権」を認めることが明記された
わば、民主主義の実現と統一の維持というスーダンが抱え
た人々」という表現には、SPLMによって議論されてき
では、南部に対し、(すべての民族に認められた「人間的・
る二つの課題を、一体のものとして捉え、解決しようとす
う事実が指摘できる。
「国民イスラーム戦線」を形成する
り方を批判的に見直そうとする気運が生まれていた、とい
ていた)一般大衆の間にも、独立以来のスーダン政治のあ
部 内 部 の (従 来 は 伝 統 的「二 大 政 党 」 の 支 持 基 盤 を 形 成 し
う と い う 動 き は、 こ れ 以 前 に も な か っ た わ け で は な い。
スーダン政府とSPLMとの間で和平を成立させよ
本格化し始めた、いわゆる南北「和平」プロセスである。
形の展開を見せることになった。これが二〇〇一年以降に
てから、「国民民主同盟」の構想とは必ずしも一致しない
しかしながら現実の政治過程は、とくに二一世紀に入っ
﹁移行期﹂
Ⅱ ﹁南北和平﹂の性格と
の政治過程の特徴
た「中 心 = 周 辺 」 概 念 の 影 響 が 窺 わ れ る ( Sudan People's
る構想だったといえる。
独立以来のスーダン国家のあり方全体を批判的に見直
)
。
Liberation Movement 1983 ; Garang 1992
同時に、このSPLMの主張が「国民民主同盟」全体に
受容された要因としては、共産党に代表される北部の民主
勢力の役割があげられるが、それに加えて、「国民イスラー
一握りの資本家層による強権政治のもと、スーダン国民は
ム戦線」政権が国民生活全体にもたらした苦難の結果、北
等しく、歪んだ経済政策や、宗教の政治利用がもたらす害
和平は実現しなかった。これに対し、二一世紀に入り和平
一九九〇年代には、エチオピア・エリトリア・ウガンダ・
プロセスが急速に本格化した背景には内外の諸要因が存
悪を痛感した。「国民イスラーム戦線」は「イスラーム主義」
自由主義」的政策を追求したが、これは北部の一般市民の
在 す る が、 最 も 決 定 的 だ っ た と さ れ る の は ア メ リ カ の イ
府間開発機構)諸国――による調停の試みが存在したが、
生活の窮乏化と、低開発地域のさらなる荒廃、「周辺化」
ニ シ ア テ ィ ヴ で あ る。 ア メ リ カ は バ シ ー ル 政 権 成 立 後、
ケニアなどの近隣アフリカ諸国――いわゆるIGAD (政
を同時進行させた。このような背景のもとに、
「新しいスー
的イデオロギーの外被のもと、経済的には公共部門の民営
ダン」というヴィジョンが、広範な層の心を捉えるという
一九九〇年代を通じて、公式にはこの「イスラーム主義」
化、
医療・教育分野への「市場原理」の導入など、一連の「新
状況が生まれていたと考えられるのである。
政権を敵視し、「テロ支援国家」として糾弾して、経済制
裁などの対象としてきた。だがその間にスーダンは中国・
マレーシアなどとの経済関係を深め、二一世紀に入るころ
(折から南部における石油生産が本格化し、
からアメリカは、
072
073 「移行期」のスーダン政治
また西部などにおける稀少金属の存在が注目を集め始めたこ
あった。SPLMによる武装闘争はかなりの成果を上げ、
軍事行動の戦線は、南部のみならず、ヌバ山地、東部 (紅
一九九〇年代半ばには南部においては政権側の支配は「点
海岸)などにも広がり、政権に大きな脅威を与えた。しか
ともあり)対スーダン関係を仕切り直す必要性を感じ始め
紀のアフリカ戦略を構想する上で、重要な位置にあった。
し、その後戦況は膠着状態に陥り、二〇〇一年当時にはS
と線」のみのものとなり、大半の地域は事実上、SPLM
他方、
バシール政権の側も、国際社会への復帰の機会を窺っ
PLMと政権側は、ともに相手を完全に打ち負かすことは
た。地政学的・軍事的にも、ペルシャ湾・インド洋を臨む
ており、両者の利害が一致した結果、二〇〇一年以降、(い
できない、「弱さのバランス」ともいうべき状況に陥って
による「解放区」となるという状況が生じた。また九〇年
わゆる「九・一一」事件をむしろうまく利用する形で)両国
いた。他方、抵抗闘争のもうひとつの柱となるはずの、北
代末には、SPLMを中心とする「国民民主同盟」による
関係の転換が図られることになる。「テロ支援国家」の烙
部における市民蜂起はといえば、バシール政権によるきわ
帯」諸国への通路にあたるスーダンは、アメリカが二一世
印を押され、実際にウサーマ・ビン・ラーディンとも密接
「アフリカの角」の背後の要であり、内陸部の「大湖水地
な関係にあったバシール政権は、にもかかわらず、「九・
めて強権的な弾圧、また (従来はストの中心であった勢力
はなく、政権との和平に応じ、これまで戦場となってきた
一一」後、一転してアメリカの捜査に全面的に協力する姿
南部の人々に平和と安定をもたらすべきだ、という判断が
の弱体化をねらった)労組の解体や、公務員の政治的解雇
和平プロセスの背景には同時に、スーダン国内における
優勢となったのはある意味では自然なことであった。この
などの政策のため、実現するにいたらなかった。こうした
反体制運動をめぐる状況、諸勢力間の力学も存在した。す
ような背景のもと、SPLMもアメリカの働きかけに応じ
勢に転じることで、対米関係改善のきっかけを掴んだ。ア
でに見たように「国民民主同盟」の戦略は、バシール政権
てバシール政権との「和平」プロセスに引き入れられてい
メリカ側もこれに応え、スーダンとの関係を再構築する意
を、北部における市民蜂起と、SPLMが主として担う武
北内戦」という次元のみで捉えた上で、「和平」をもって
状況下で、(国家全体の変革を自らに課しているとはいえ)
装闘争との組み合わせによって打倒しようというもので
決着させようという発想に基づいていること――にあると
欲を示すとともに、
その前提として、「南北内戦」の解決、「和
くという現象が生じ、二〇〇二年には停戦協定「マチャコ
いえる。そしてこの「和平」は具体的には、NCPとSP
やはり南部を主要な支持基盤としているSPLM内部で、
ス議定書」が成立、二〇〇四年には両者間の「権力分配に
平」プロセスに積極的にコミットする姿勢を示し始めたの
関 す る 議 定 書 」 が 成 立 し、 さ ら に 二 〇 〇 五 年 一 月 に は、
LMの間でポストと富の分配を行い、この二者間のみで、
バシール政権完全打倒やスーダン全体の民主化を待つので
これら一連の合意の集大成としての「包括和平協定 (CP
いわば「手打ち」を行う過程として構想されている。スー
である。
A)
」が調印される。
の成立により、これまで長年戦場となってきた南部の人々
に、積極的側面があることも見落としてはならない。和平
む ろ ん、 和 平 プ ロ セ ス と そ の 集 大 成 と し て の C P A と
ダン政治全体の民主化という視点は薄く、それどころか、
で折半すること、④中央政府のポストもNCP五二%、S
「富と権力の分配」の方針が示され、③石油収入は南北間
にはようやく平和が訪れた。バシール政権が反体制勢力S
NCPとSPLM二者間で主要な政府ポストが分配される
PLM二八%という比率で配分すること、SPLM議長は
PLMを叩き潰すのではなく、このような形での和平を結
CPAにおいてはまず、①停戦が宣言されるとともに、
南部スーダン政府の長であるとともにスーダン共和国副大
ばざるをえなかったこと自体、SPLMの闘いの成果にほ
② 南 部 に は「南 部 ス ー ダ ン 政 府 」 が 樹 立 さ れ る こ と が 決
統領にも就任すること、などが取り決められた。そして、
かならず、その結果として「移行期」の政治過程に低開発
取り決めによって、それ以外の諸勢力は移行期の政治過程
⑤南部に自決権を認め、六年間の「移行期間」終了時 (=
地域を代表する運動がこれほどまでに中心的な形で参与す
定された。さらに、バシール政権 (ちなみに一九九八年以
二〇一一年)
に南部においては(スーダン共和国に留まるか、
ることになったことは、スーダン政治史上、画期的なこと
から事実上排除される構造が作り出されている。
分離独立するかを問う)住民投票を行うこと、また、⑥こ
降、「国 民 会 議 党(N C P )
」 と 改 称 )と S P L M の 間 で の
れに先立ち、
「移行期間」の四年目、二〇〇九年にはスー
だといえる。南北和平はあくまでも、これまでのSPLM
ンの現状を、国家構造全体が抱える矛盾と捉えてこれを根
り南北「和平」としてのみ構想されていること――スーダ
さて、この和平プロセスの最大の特徴は、それが文字通
権の尊重、女性の地位向上など、文言の上では、かつての
議定書」、またCPAのなかには、開発格差の是正や、人
のなのであり、「マチャコス合意」や「権力分配に関する
や「国民民主同盟」の運動の成果を前提として成立したも
*3
ダン全国で総選挙を実施すること、が規定された。
本から解決しようとするのではなく、問題をあくまで「南
074
075 「移行期」のスーダン政治
「国民民主同盟」の決定との連続性を感じさせる積極的規
いない状況下では、公正な選挙を行えない危険性がある。
その「和平」の成立によって、(和平協定調印の当事者とし
る発想がもたらす消極面によって、また、とりわけまさに
の「和平」という部分的・限定的な形で決着させようとす
だが、これらすべての積極面は、問題を「南北」二者間
Aによれば、現在の移行期間は南北間の「信頼醸成」が行
ルギー・鉱物資源相ポストを要求したが失敗)
。また、CP
さ れ て い な い (閣 僚 ポ ス ト 分 配 に あ た り、 S P L M は エ ネ
関 す る デ ー タ 自 体 が N C P の 手 中 に あ り、 国 民 に は 開 示
ているが、現実にはスーダンの石油の販路や正確な収益に
定によれば石油収入の半分は南部に分配されることになっ
同時にNCPは、SPLMを政権のパートナーとして迎
ての)バシール政権が温存されるという効果が生じたこと
われるべき重要な時期であり、南部の経済的・社会的復興
定も少なくない。移行期間の折り返し点で総選挙を行うと
によって、相殺もしくは形骸化されてしまっている。そし
のために全力が尽くされることになっているが、実際には
え入れはしたが、これに中央政治における実権は与えず、
て和平協定によってバシール政権が温存され、同時に政治
中央政府の予算案では南部復興のための手当てが行われて
いうCPAの規定も、複数政党制に基づく民主的政治制度
過程からNCP=SPLM以外の勢力が事実上排除された
いない。こうした中でSPLMを中心とする南部スーダン
他方で、南部をめぐる規定に関してもCPAの遵守を意図
ことは、一方で「移行期」におけるスーダンの民主化の展
的に怠るという政策をとっている。たとえば和平協定の規
望に否定的影響を及ぼすとともに、他方では、皮肉なこと
政府は結局、和平協定後、海外から流入し始めた巨額の援
を再建するというという課題に一応応えようとするもので
に、(CPAで最も恩恵を受けるはずの)南部地域の復興や
助に依存するようになっているが、その過程で汚職・腐敗
ある。
SPLMの活動の発展をも阻害し、ひいてはスーダン国家
現在南部スーダンは食糧を近隣の東アフリカ諸国からの輸
という現象も生じ始めている。地域社会の復興や農業生産
入に全面的に依存しているが、これは長期的には、南部が
の再開に向けた条件がスーダン国内で整備されないため、
CPは、現在も、従来と基本的には同じ政治を続行するこ
スーダンから分離していく傾向を促進する可能性がある。
具体的には、和平協定によって与党として温存されたN
とをめざしている。NCP政権による言論や集会の自由へ
の統一の展望に影を落としていると考えられるのである。
の規制・介入は続いており、これは民主化の実質を失わせ
ま た、 C P A で 定 め ら れ て い る 南 部 か ら の 政 府 軍 の 撤 退
いては、政治・経済を取り巻く状況が抜本的に変革される
温存されたNCP政権下で進行中の現在の「移行期」にお
ような条件を作り出すというものであった。これに対し、
の暁にも南部の人々がその意思に基づいて統一を選択する
治的・経済的変革を進めることで、南部の「自決権」行使
持という課題を一体のものとして捉え、スーダン全体の政
民主同盟」の元来の構想は、民主化とスーダンの統一の維
あったために、大きな矛盾を抱えることになった。「国民
Mは、いうまでもなく、現在きわめて微妙な段階にあり、
ル政権と単独和平し、一転して与党の立場に転じたSPL
スーダン」ヴィジョンを先導した存在でありながら、バシー
て検討しておきたい。かつて「国民民主同盟」の「新しい
場でSPLMと共闘していた北部の政治勢力の状況に分け
ろうか。以下では、①SPLMと、②「国民民主同盟」の
ていた諸勢力――はどのように行動しようとしているのだ
諸政治勢力――とりわけ、従来「国民民主同盟」を形成し
それでは、こうした移行期の政治のなかで、スーダンの
︱︱諸政治勢力の模索
気配が見えないため、スーダンの一体性が維持される可能
その状況は分析に値する。また、和平協定によって政治過
Ⅲ 民主化と統一を求めて
ている。政治的諸自由を制限する諸法がいまだ撤廃されて
や、南北間でその帰属がペンディングとなっているアビエ
( Abyei
)地 区 を め ぐ っ て も、 N C P は 不 誠 実 な 対 応 を 続
けている。
以上をまとめれば、和平プロセスによって始動した「移
性も脅かされているということができる。民主化や開発格
程から排除されてしまった北部の民主勢力が現状をどのよ
行期」の政治過程は、それがNCP体制を温存するもので
差の是正が進まず、二〇〇九年の総選挙を経てもスーダン
うに捉え、対処しようとしているのかも重要である。
重要な転換点にある。反乱者から政権担当者へ、軍事組織
まず、SPLMについて見てみると、現在、同組織は、
政治に抜本的変化が訪れなければ、南部をはじめとする低
開発地域の分離傾向に弾みがつくのは当然の結末であろ
う。
か ら 政 党 へ と、 変 容・ 脱 皮 す る 過 程 に あ り、 二 〇 〇 五 年
当 時 数 千 人 だ っ た メ ン バ ー は、 二 〇 〇 八 年 現 在 で は 公 称
四〇〇万人に膨れ上がっている。二〇〇八年五月には南部
のジュバで、(一九九四年以来二度目となる)大会が開催さ
076
077 「移行期」のスーダン政治
*4
興に関わる規定の実施を怠っていることを批判し、CPA
は山積している。SPLMは中央政府がCPA中の南部復
業の再開など、南部の人々の生活を安定させるための課題
還・地雷の除去・インフラの整備・医療や教育の充実・農
戻し」の時期と位置づけていること――である。難民の帰
装闘争の過程で大きな犠牲を払った南部の民衆への「払い
に取り組んでいること――和平成立後の現在を、長年の武
ずSPLMが当面の最重要課題としては、南部社会の復興
こうした大会の場などでの議論から確認できるのは、ま
たこともあり、ガラング後のSPLMは基本的には南部の
の指導者だったジョン・ガラングが二〇〇五年夏に急死し
ミットしなくなっても不自然ではない。SPLM結成以来
Mが「新しいスーダン」に対し、もはや以前のようにはコ
決権を行使する権利も承認されたいまとなっては、SPL
によって「富と権力の分配」に与り、移行期間終了時に自
の運動にとって中心的なものであったが、南部が和平協定
変革を謳う「新しいスーダン」のヴィジョンは、SPLM
る。すでに見たように、スーダン国家の構造全体の抜本的
のだというスタンスを崩してはいないということ――であ
けを代表するのではなく、全スーダン国民のための運動な
を放棄してはいないということ――自らは南部スーダンだ
の完全遵守を要求している。同時に、SPLM内部での復
れた。
興ビジネスなどに伴う汚職の蔓延が公然と指摘され、厳し
利害を代表する地域政党へと、その体質を変化させていく
脈でSPLMは、ヌバ山地、青ナイルという――南部と同
没頭し、「サブ・ナショナルなレベルに後退」するのは、
体の構造を変革するという初心を忘れて南部のことのみに
就任したサルバ・キール ( Salva Kiir Mayardit
)は、たと
えば第二回大会の基調演説で、SPLMがスーダン国家全
しかしながら、ジョン・ガラングの死後SPLM議長に
のではないかという観測も存在した。
く批判されている点が印象的である。
ついで確認できるのは、にもかかわらずSPLMが、自
じく低開発地域であり、多くの住民がSPLMに参加して
らは南部のみならず、他の低開発諸地域の利害を代表して
戦ったが、CPAにおいては「自決権」の対象とはならな
恥ずべきことだと戒めている。キールによれば、SPLM
もいるのだという立場を維持していることである。この文
かった――地域についても、その権利要求を支持していく
の闘争は「新しいスーダン」のヴィジョンに導かれてこそ
まず南部という場で「新しいスーダン」の理念を実践に移
ろ、CPAは単なる出発点、「ミニ新スーダン」であり、
い う ヴ ィ ジ ョ ン の 代 わ り に な り う る も の で は な い。 む し
CPAはひとつの成果ではあるが、「新しいスーダン」と
る成果に到達することもできなかった。SPLMにとり、
なくとも公式には、
「新しいスーダン」というヴィジョン
そして決定的に重要なのは、SPLMが現時点でも、少
が持つ限界性は認識しながらも、それが南部に平和をもた
ことが明らかになって以降は、「国民民主同盟」はCPA
のとなり、かつそれが南部の人々によって歓迎されている
を批判し、その欠陥を指摘していた。だが和平が現実のも
と、NCP=SPLMという二者間の合意にすぎないこと
問題を南北内戦という次元のみに限定して捉えているこ
は南北和平プロセス開始当初は、それがスーダンの抱える
M は (南部スーダンの解放と和平という)現 在手 に し て い
発展してきたのであり、このヴィジョンがなければSPL
*5
方針を示している。
したのちに、これをスーダン全体に広げていくという発想
の地域の住民の間にSPLMへの支持が広がっていたとい
山地、青ナイル、紅海岸などの地域にまで広がり、これら
装闘争の過程で、SPLMの戦線は南部だけでなく、ヌバ
ように、バシール政権に対する一九九〇年代を通じての武
スーダン全土における組織建設を進めている。すでに見た
動」なのだという訴えかけに力を入れ、南部だけでなく、
は、自らは全スーダン国民の政党、「国民的かつ民主的運
こうした基本的スタンスに導かれる形で、現在SPLM
の補償などに関する「カイロ合意」を取り交わした上で、
の自由化、軍や治安機関の政治的中立化、政治的解雇者へ
バシール政権と交渉を行い、複数政党制の樹立、労組活動
の北部諸勢力は同年一月のCPA成立後の状況を受けて、
とるようになった。二〇〇五年六月、「国民民主同盟」内
セスへと転換・発展させていくことをめざすという立場を
M二者間の和平合意から、スーダン政治全体の民主化プロ
的に参加していくことで、CPAを単なるNCP=SPL
らしたことは評価し、自らも「移行期」の政治過程に積極
*6
が必要である。
う現実があるが、現在はこの支持を背景に、政党としての
スーダン国内の政治過程への復帰を決定する。
弁者でもあることが強調され、こうした勢力を対象に、北
、あるいは女性といった勢力の代
央 (= 北 部 )の 貧 困 者 」
イロ合意」もバシール政権によって事実上無視されている。
の政治勢力が存在感を発揮するのは難しい状況があり、「カ
P=SPLMの二者に独占されているなかでは、それ以外
現実には、CPAのもと、政策決定過程が基本的にNC
*8
基盤を建設することがめざされている。さらに注目に値す
部でも支持を拡大することがめざされていることである。
だが「国民民主同盟」側は、引き続き合意内容の実施を求
るのは、SPLMは低開発地域の住民だけではなく、「中
次に、従来「国民民主同盟」の場でSPLMと共闘して
めると同時に、移行期間中に政治的自由を最大限に拡大す
*7
いた北部の政治諸勢力についてであるが、「国民民主同盟」
078
079 「移行期」のスーダン政治
ること、とくにバシール政権下で制定された言論・集会の
自由を規制する諸法を撤廃することを要求する運動を展開
*9
している。
いか?
この点に関しては、事態のゆくえはまだまったく不透明
であるといわざるをえない。NCPは言論・集会などの自
選挙で国民の支持を受けるという形で勝利し、実現すると
SPLMが掲げた「新しいスーダン」のヴィジョンが、総
ひとつの可能性――すなわち、かつて「国民民主同盟」や
を巡回して政治キャンペーンを展開している。ここからは
問うことであり、実際にSPLMは、北部の諸都市・農村
全土で闘い、
「新しいスーダン」のヴィジョンを全国民に
そこでめざされているのは、二〇〇九年の選挙をスーダン
見たように北部を含む全国での組織建設を急いでいるが、
はSPLMによっても共有されている。SPLMはすでに
であるが、総選挙に賭けようとするこのような姿勢は、実
ての共闘の動きが生まれている。二〇〇八年一月には、S
現在も、SPLMと北部の政治勢力の間には、選挙に向け
て、こうした民衆の動向に規定される形で、「移行期」の
ジョンを支持する空気が存在するということである。そし
あり方全体に疑問を覚え、「新しいスーダン」というヴィ
持基盤であった北部の一般民衆の間にも、独立後の政治の
それ以上に注目に値するのは、従来なら伝統的諸政党の支
在でも低開発地域との連帯の姿勢を堅持しており、また、
めた部分も存在する。だが、たとえばスーダン共産党は現
通じてNCPを形成する「寄生的資本家」層と親和性を強
れることに耐えかねてNCPと接近した部分、経済活動を
バシール政権下で長期にわたって富や権力の場から排除さ
由に対する抑圧を続けて民主勢力による選挙キャンペーン
いう展望――が浮かび上がる。インティファーダや武装闘
PLMと北部諸政党を含む計一三党が、民主的選挙法の制
を妨害する一方、政権居座りを狙って、すでに選挙戦に向
争を通じてバシール政権を打倒し、「新しいスーダン」を
定を求める共同覚書を発するという試みがなされた。さら
さて、移行期間中に政治的自由をできるかぎり拡大し、
建設するというシナリオは実現しなかったが、北部の民主
に二〇〇八年末には、SPLMと「国民民主同盟」は共同
民主化を推進することをめざす北部民主勢力のこのような
勢力と低開発地域とが政治的共闘を再構築すれば、同じこ
とはいえ、一七世紀にケイラ・スルタン国が建国されるな
け て の 買 収 工 作 を 展 開 し て い る と も さ れ る。 ま た、 北 部
とを選挙を通じて実現する可能性は残されているのではな
ど、スーダンのイスラーム化に大きな役割を果たした地域
動きの先には、それによって二〇〇九年の総選挙が自由で
で、総選挙実施前に治安・新聞・出版・労組関係の諸法を
である。だが一九世紀以降にエジプト、ついでイギリスの
党・ウンマ党)の上層部を形成する資本家層のなかには、
改正することを要求した。こうした動きが、実際の選挙協
の 諸 政 治 勢 力 の な か で も、 伝 統 的「二 大 政 党 」(民 主 統 一
力につながっていくかどうかは不明であるが、現時点では
植民地化によって成立した近代スーダン国家の枠内では低
公正なものとなる条件を作り出し、選挙によってスーダン
依然、SPLMと北部民主勢力の間に共闘が成立し、その
開発地域に転落し、独立後のスーダンでも経済的・政治的
政治に実質的な変化をもたらそうという目標が存在するの
結果、総選挙によってスーダンの政治構造に積極的変化が
に従属的位置に置かれてきた。さらに、ダルフールの低開
発状況は、他の地域の場合同様、「国民イスラーム戦線」
*
生じる可能性は皆無ではないということができる。
政権の「新自由主義」的政策のもとでいっそう深刻化した。
現在起きていることは基本的に、こうした状況に対し抗議
の移行期全体のゆくえを左右しかねない重大問題となって
況を検討してきたが、二〇〇三年以降激化し、現在ではこ
以上、南北和平成立後の「移行期」のスーダン政治の状
地で観察されたものである。また、弾圧のために正規軍で
的な性暴力などはいずれも、一九九〇年代に南部やヌバ山
である。ダルフールに関して報じられる無差別殺戮、組織
いう事態であり、他の低開発地域で起きてきたことと同じ
の声を上げた現地住民を、政府が暴力的に弾圧していると
いるのが、ダルフール危機である。現在までに二〇万人近
はなく「部族民兵」を用いるという手法も、南部でも用い
*
くが死亡し、約二五〇万人が国内外で難民化したといわれ
られた。
このように現在ダルフールで起きていることは、基本的
と同一の性格のものである。スーダン西部に位置するダル
が国内の低開発諸地域に対して繰り返してきた暴力的弾圧
一九八九年の政権掌握以来、「国民イスラーム戦線」体制
過去数年来ダルフールで生じている事態は基本的には、
ておかねばならないのが、南北和平プロセスとダルフール
については、別個の分析が必要となる。この文脈で指摘し
新たな蛮行に走ったのか――という「タイミング」の問題
この時期になってバシール政権はダルフールを舞台とする
ただ、なぜ危機が二〇〇三年以降深刻化したのか――なぜ
には、従来南部などで行われていたことの再現であるが、
フール地方は、文化的には非アラブ的要素を保持している
おこう。
は問題の基本的性格と現状、今後の展望について検討して
るこの危機に関してはすでに報道・分析も多いが、以下で
Ⅳ ダルフール危機のゆくえ
**
080
081 「移行期」のスーダン政治
**
M/SLA)
」および「正義と平等運動(JEM)」という)
た 抵 抗 が 組 織 化 さ れ、(「ス ー ダ ン 解 放 運 動・ 解 放 軍(S L
認 し て お く 必 要 が あ る。 し か し、 二 〇 〇 三 年 春 に こ う し
バシール政権がダルフールの住民に対する過酷な弾圧に
二つの代表的組織が活動を本格化した――それによって、
危機との間の連関である。
着手した背景には、南北和平プロセスが進展を見せ、アメ
これまでにない規模の弾圧を誘発した――契機としては、
南北「内戦」の当事者となったために国際社会の注目を集
リカの圧力のもと、南部に対しては「富と権力の分配」を
め、二〇〇一年以降の南北和平プロセスの過程で、富と権
行わざるをえないことが明らかになってきた段階で、同様
こともできるのである。さらに、二〇〇五年のCPA成立
力の大幅な分配に与る見通しが明らかになったことは、ダ
やはり南北和平プロセスの影響が無視できない。ダルフー
後もバシール政権がダルフールにおける暴力をいっそうエ
ルフールの抵抗運動にもひとつの教訓を与えた。低開発地
の動きが他の低開発地域に波及することを防ごうという
スカレートさせた背景には、CPAによって二〇〇九年の
域の抱える問題をスピーディーに解決するには、武装闘争
ルは以前から経済的・政治的従属状況に苦しんでいたが、
総 選 挙 実 施 が 定 め ら れ た こ と を 受 け、(開 発 格 差 や 差 別 に
に訴え、「内戦」の当事者として国際社会にアピールする
同じ問題を抱える南部のSPLMが、武装闘争という形で
苦しんできた地域であり、正常に選挙が行われれば現政権が
ことが早道だという発想が、ダルフールの側に生まれてし
フール危機は皮肉にも、南北和平プロセスの副産物という
敗北することが予想される)ダルフールの状況を「変えて」
「見せしめ」の意図が存在したとされる。この意味でダル
おこうとする打算があったとも指摘される。住民の虐殺や
まったと考えられるのである。
このような状況下で、「国民民主同盟」に代表されるスー
難民化は、選挙に備えてダルフールの人口学的状況を物理
的に変更するための、いわば究極の「選挙対策」として行
に あ り、 基 本 的 に 防 衛 的 な 性 格 の も の で あ っ た こ と は 確
返されていた政府側の弾圧から村を守るための住民の抵抗
ルフールにおける武装闘争組織のルーツは、以前から繰り
く、ダルフールの抵抗運動側の動向にも影響を与えた。ダ
他 方、 南 北 和 平 プ ロ セ ス の 進 展 は、 政 権 側 だ け で は な
し、事態はにわかに緊迫した。ダルフール危機の「国際化」
括的に解決すべきだという提案を行ってきた。また、とく
て、全政治勢力が参加する会議を開催して、政治的かつ包
スーダン全体の開発格差の是正や民主化の問題の一環とし
に、当面の暴力が停止された後は、ダルフール危機もまた
弾し、ダルフールの要求の正当性を基本的に認めると同時
ダンの民主勢力は、危機を引き起こしたバシール政権を糾
にSPLMは、ダルフールの抵抗運動が (分断統治の手法
一方の当事者とする)CPA体制、現在の「移行期」の枠
によってNCPが追い詰められ、それによって (NCPを
われたともいえるのである。
に長けている政権側の策動もあって)分 裂 を 繰 り 返 し、 十
組み自体が崩壊する可能性が現実のものとなってきたので
数の組織が乱立する状況となったことを憂慮し、二〇〇七
年 以 降、 S P L M の 特 別 チ ー ム「ダ ル フ ー ル・ タ ス ク・
ある。
*
しかしながら、
現在までのところ、ダルフール危機をスー
CPAは、すでに見たように、元来はそれと引き換えにバ
すでに見たように、南北和平プロセスの本格化自体が、ア
立った現象となっているのは、国際的介入の増大である。
二一世紀に入って以降のスーダン政治を特徴づける際
Ⅴ ﹁国際社会﹂の介入をどう捉 えるべきか
フォース」の仲介で抵抗諸組織を統一し、それによって政
権側との交渉能力を高めさせることをめざしてきた。
ダン内部からのイニシアティヴによって政治的に解決しよ
シール政権の温存・延命、さらには国際社会への復帰を保
メリカの強力なイニシアティヴによるものであった。現在
うとする試みは成果を上げていない。南北和平プロセスや
証する性格を有していた。だが、バシール政権がその独特
のスーダンの政治過程の前提となっている南北和平体制
は国際的関与のもとに作り出されたものであり、CPAに
PAのゆえに)ダルフールにおける暴力をエスカレートさ
せ、その後も時間稼ぎ的政策を続けていることは、国際社
は、その実施を監督するために国連PKO (UNMIS)
の情勢判断に基づいて、CPAにもかかわらず (むしろC
会の反発と介入を招き、この独裁政権の「軟着陸」の可能
ル危機の激化が、同地域をめぐる国際的介入の増大を招い
の展開を求めることが書き込まれている。また、ダルフー
危機の激化を受けてダルフールには二〇〇六年からはア
ていることは前述の通りである。では、国際的介入の増大
性を不透明なものとしている。
フリカ連合 (AU)による監視部隊が、また〇八年からは
いものでないことは言うまでもないが、スーダンの場合、
国際的介入が国家の主権を侵害するものであり、望まし
は、どのように捉えられるべきだろうか。
検 察 官 が、 ダ ル フ ー ル で の ジ ェ ノ サ イ ド の 責 任 を 問 う て
まず確認しておくべきなのは、このような介入を招いたの
めた。さらに〇八年七月には、国際刑事裁判所 (ICC)
国連・AU共同のPKO部隊 (UNAMID)が展開し始
バシール大統領本人に対する訴追手続きに入る方針を発表
082
083 「移行期」のスーダン政治
**
際社会」による介入が現実にはすでに見たような経済的・
的自己決定権を奪っていくものだということである。「国
フールなどで引き起こしてきた事態なのだという事実であ
戦略的利害を背景とするものであることを考慮すると、こ
は 一 九 九 〇 年 代 以 来、 バ シ ー ル 政 権 が 南 部、 そ し て ダ ル
ろう。主権を危険にさらしているのは、第一義的には、政
際的介入が、実は先進資本主義諸国がスーダンに対して行
の点はいっそう重要である。人道の名のもとに行われる国
同時に、国際的介入の増大に関しては、その背景に、スー
う「新植民地主義」的進出の、新たな端緒となる可能性も
権自体だといえる。
ダンの資源や地政学的・戦略的な位置という要因が存在す
存在する。
護する責任」という概念 (そのモデル・ケースとしてしば
連の動きや、
あるいは国連によって近年提起され始めた「保
心をも根底で規定している。また、ダルフールをめぐる国
国を中心とする「国際社会」全般の、スーダンに対する関
りだが、同様の要因はアメリカだけでなく、先進資本主義
だが、同様の発想はダルフール危機に関する国際社会の認
単純化する発想に基づくものだったことはすでに見た通り
に文化的・宗教的に異なる「南北」間の対立のみに還元・
る。アメリカによる介入がスーダンの抱える問題を基本的
として認識した上で行われる傾向を持つということであ
なく、「エスニシティー」や「宗教」の差異に基づく対立
は、往々にして、問題を経済的・政治的なものとしてでは
第 二 に 重 要 な の は、 ス ー ダ ン に 対 す る 国 際 社 会 の 介 入
ることを見逃してはならない。アメリカのスーダンへの関
し ば 言 及 さ れ て き た の は ス ー ダ ン で あ る )の 意 味 を 考 え る
与がこうした要因に基づくものであることはすでに見た通
際にも、国連という組織の指導部を形成する先進諸国の利
識 (そこでは問題はもっぱら「アラブ系」対「アフリカ系」
*
害や戦略を考えるべきだろう。
うな姿勢は、「国際社会」の主流を形成するのが依然、先
の対立という図式で捉えられる)にも観察される。問題の
進資本主義諸国であることから生じているともいえるが、
では、こうした背景に基づく国際社会の介入は、スーダ
第一に指摘しておきたいのは、国際的介入は、それが (た
重要なのはこうしたアプローチが問題を錯綜・紛糾させ、
経済的次元を無視し、植民地主義の遺産や新自由主義的政
とえばダルフールにおける)当面の暴力を停止させ、住民
策の矛盾といった現象から極力目をそらそうとするこのよ
を守るという「緊急避難」的効果を持つとはいえ、やはり
さらにはエスニシティーや宗教に基づく対立を激化・実体
ンの人々にとってどのような意味を持ち、政治プロセスに
スーダンの主権を阻害し、長期的にはスーダン国民の政治
されたりする危険性は絶えず警戒されねばならないが)基本
どのような影響を与えるのだろうか。
化させていくということである。
さらに場合によっては異なる地域ごとに分裂させていくこ
とはいえない。ICCがバシール訴追の方針を示したこと
役割を考えれば、先進国諸政府の思惑に従属している組織
託を受けて調査を行ってきたとはいえ)
、その設置の経緯や
CC)も、(ダルフールの事態をめぐっては国連安保理の付
とになりかねない、危険な側面を持つといえる。南部「復
は、ダルフール危機が「国民イスラーム戦線」政権の政策
的には積極的方向性を持っている。また、国際刑事法廷(I
興」事業に国際社会から注ぎ込まれる莫大な資金は、スー
このように見てくると、
先進資本主義国を中心とする「国
ダンへの多国籍企業の進出の道を掃き清め、さらに、南部
によって引き起こされてきたものであることを考えると、
際社会」の介入は、
スーダンを新植民地的従属状況に置き、
の分離を勢いづける方向に作用していく可能性がある。ダ
論理的には完全に正しい。さらに、ICCの方針は、それ
化 を め ざ す 動 き (具 体 的 に は 二 〇 〇 九 年 の 大 統 領 選 挙 の 動
ルフールへの国際介入の増大も、長期的にはスーダン各地
向)に新たな展望を開く可能性も秘めている。バシール政
がバシールの政治生命を脅かし、事実上「死に体」に追い
自衛隊の海外派兵「実績」を増やして憲法九条改正の伏線を
権は短期的にはICCの方針を内政干渉であるとして拒否
やったことで、場合によってはスーダン国内における民主
張 る と い う 方針に基づいて強行された)日 本 の 自 衛 隊 の 南
本的にアメリカの世界戦略に奉仕するため、機会があり次第
部PKOへの参加も、
紛れもなくこうした「新植民地主義」
する強硬姿勢を示し、むしろこれをテコに国内世論を動員
(基
方間の対立や分離の流れを作り出しかねない。そして、
的国際介入の一環であり、スーダンの人々の福利に寄与す
反面、スーダンをめぐる国際的な動きのなかに、先進資
る国際的非難の高まりは、もしこの条件をスーダン国内の
ICCの方針に代表される、NCP政権の人権侵害に対す
いるが、長期的には、政権の孤立・弱体化は避けられない。
し、中東・アフリカ諸国の支持を取り付けようとさえして
本主義諸国の政府からなる「国際社会」と区別されるべき
民主勢力がうまく活かすことに成功すれば、政治プロセス
るものではまったくない。
ものもあることは言うまでもない。たとえば、南部での医
に積極的影響を与える可能性もある。
また、外部からの関与ではあっても、先進諸国主導の介
療などに取り組むNGOや、ダルフールでの人権状況を告
との交流や連帯を願って活動しており、彼らの活動は (そ
入と、アフリカ諸国主導の、いわば域内のイニシアティヴ
発する国際的な運動に携わる人々の多くは、スーダン国民
れが先進諸国政府や多国籍企業の思惑に取り込まれたり利用
084
085 「移行期」のスーダン政治
**
ず、植民地支配との闘争や国民統合の努力という経験を共
裏付けられていることは言うまでもないが、にもかかわら
リカ諸国による関与といえども、各国政府の利害や思惑に
上がっていない。開発格差の是正も政治的民主化も進まな
行期」であるが、現在までのところ、はかばかしい成果は
た。民主主義とスーダンの一体性との未来がかかった「移
一かの意向を問う、という困難な課題を背負うことになっ
民主化の努力をし、移行期終了時には南部住民に分離か統
国民は、NCPが政権に居座ったままの「移行期」の間に、
有してきた域内諸国によるイニシアティヴには、先進諸国
いまま移行期が終わり、スーダンは最終的に分裂してしま
に基づく関与とは区別する必要がある。むろん近隣のアフ
主導のそれには見られない積極面が存在すると考えられる
う、という悲観的なシナリオも一定の説得力を持つ。
*
からである。また、やはりスーダンの問題解決のためにア
運動と民主化運動の共闘(あるいは融合)
の可能性は、依然、
ている、という事実も見逃してはならない。低開発地域の
や、女性といった人々――によって支持されるようになっ
的支配層の政治に疑問を抱くようになった北部の一般市民
民に加えて、NCP政権下での体験を経て、独立後の伝統
ジョンが現実に、スーダン国民の多く――低開発地域の住
しかしながら、その一方で、「新しいスーダン」というヴィ
フリカに学ぶという文脈では、近年SPLMが、南アフリ
カのANC (アフリカ国民会議)との交流を強化している
のも注目に値する動きといえよう。
むすびにかえて
以上見てきたように、現在、スーダン政治のゆくえはき
て ス ー ダ ン の 一 体 性 を 守 る、 と い う「国 民 民 主 同 盟 」 の
徴 づ け ら れ る「新 し い ス ー ダ ン 」 を 建 設 し、 そ れ に よ っ
ち に、 バ ラ ン ス の と れ た 経 済 発 展 と 民 主 主 義 に よ っ て 特
つ包括的に解決しようという機運が存在している。このよ
を、スーダン内部からのイニシアティヴによって民主的か
ない不安定要因であるが、スーダン国民の間にはこの問題
ダルフール危機は、「移行期」の政治過程全体を覆しかね
また、南北和平プロセスの進展と同時に深刻化してきた
現実のものとして存在する。
一 九 九 〇 年 代 の 戦 略 は、 そ の ま ま の 形 で は 実 現 し な か っ
うな解決は本来、「新しいスーダン」のヴィジョンに基づ
わ め て 不 透 明 な 状 況 に あ る。 N C P 政 権 の 完 全 打 倒 の の
戦闘を終わらせはしたものの、「和平」と引き換えにNC
けば充分可能なわけであり、こうしたイニシアティヴが成
た。二〇〇五年の包括和平協定 (CPA)は南部における
P政権を温存することになった。結果として現在スーダン
*2 国民民主同盟にはこの他、「国軍合法司令部」、紅海岸の
住民の運動である「ベジャ会議」なども加わった。なおウン
“Opening
*7 注 に引いた “Organizational Report”
参照。一方で、
「新
しいスーダン」というスローガン自体のニュアンスに微妙な
Speech”
Report”
*6 Sudan People's Liberation Movement
( 2008
)中の
*5
( 2008
)中のパガ
Sudan
People's
Liberation
Movement
ン・アムーム( Pagan Amum
)事務局長による “Organizational
における政治宣伝ツアーの過程での取材に基づいている。
)
、および二〇〇八年三月に筆者
ple's Liberation Movement 2008
が同行した、
SPLMの北部(ハルトゥーム〜ワド・マダニー)
*3 CPAの詳細に関しては、栗本( 2005
)参照。
* 4 以 下 の 分 析 は、 S P L M の 第 二 回 大 会 資 料( Sudan Peo-
マ党は、のちに国民民主同盟における活動を凍結。
功を収めるかどうかは、それと並行して「移行期」のスー
づけるか)という問題と不可分であるともいえよう。ダル
ダンがどれだけ民主化するか (=「新しいスーダン」に近
フール危機の解決をめざす運動は、民主化運動と一体のも
のとして進められる必要がある。
移行期のスーダン政治全体に大きな影響を与えている国
際的契機に関しても、
「新植民地主義」につながりかねな
い、明らかに否定的なものと、変革を求めるスーダン国民
の運動と連動させていける性格のものとが存在する。そし
てこれをスーダンの人々は、注意深く見定めていると考え
られるのである。
移行期を民主化と統一に向けての真の転換の過程にする
ことをめざす、スーダン国民の闘いは依然続いている。
変化も見られる。一九九〇年代には「新しいスーダン」とは、
本稿の作成は、科学研究費「スーダンにおける戦後復興と
スーダン」から「新しいスーダン」への移行を、「古い爪を押
もの、「古いスーダン」とは完全に絶縁した存在としてイメー
武装闘争によってバシール政権を打倒したのちに建設される
平和構築の研究」(研究代表者 栗本英世)によって二〇〇八
年にスーダンで行った調査の結果、可能になった。また、栗
し出して新しい爪が生えてくるようなプロセス」とする興味
が、もしも南部の人々が最終的に分離独立を選ぶならば、そ
SPLMはスーダンの統一維持のために最大限の努力をする
映している。また、サルバ・キール自身が大会演説のなかで、
漸進的に変革を進めねばならない、CPA成立後の状況を反
ジされていた。これに対し、SPLM第二回大会では、「古い
本英世・岡崎彰の両氏からは、貴重な資料の貸与、資料情報
深い議論が見られ、これはバシール政権が温存された状態で
*1 独立後のスーダンの経済・政治構造に関する共産党の分
析に関しては、 al- izb al-Shuyū‘ī al-Sūdānī
( 1965
)を参照。
◉注
の教示を受けた。
◉付記
5
086
087 「移行期」のスーダン政治
**
二つの国それぞれで『新しいスーダン』のヴィジョン実現の
く、スーダン政府によって西アフリカなどの近隣諸国からリ
ラブ系」民兵のなかには、実は現地のアラブ系牧畜民ではな
であり、また(「ジャンジャウィード」と呼ばれる)この「ア
政府により組織・訓練・武器供与された「民兵」による攻撃
ための政治を追求することになるだろう」と言明しており、
クルートされてきた「外人」部隊も多数含まれている。
の意思を尊重する、と述べ、その場合には「SPLMは(南北)
ここではすでに南部が分離独立を遂げた場合に備えて、「新し
* Sudan People's Liberation Movement
( 2008
)
中の “Interest
いスーダン」を複数形のものとして構想し直すことが試みら
れている。だが現時点で注目すべきなのは、にもかかわらず
SPLMがあくまで組織としては、スーダンの統一を守ろう
*8 「移行期」の中央政府の閣僚ポスト三〇名のうち一五名は
NCP、九名はSPLMに割り当てられているが、残り六名
は武力で首都近郊の町オムドゥルマーンを制圧しようとして
義と平等運動」は冒険主義的傾向を強め(二〇〇八年五月に
の異議申し立てを試みてきた組織といえる。だが近年は、「正
なお、SLM/SLAはマル
in Sustainable Peace in Darfur”
クス主義的語彙を用い、「正義と平等運動」は「イスラーム主
は「その他の南北の政治勢力」に残されており、民主統一党
失敗)、またSLM/SLA(アブド・アル・ワーヒド・ムハ
義」的語彙を用いるが、いずれもダルフールの低開発状況へ
は入閣を選んだ。また共産党は政権には参加しないが、議会
ンマド・ヌール派)は国際的な「アラブ」対「反アラブ」対
立の図式のなかに巻き込まれて、イスラエルに事務所を開設
するなどの逸脱を示している。
国連はイラク戦争の際にはアメリカと距離を置いたが、
その後「保護する責任」論によって、自らのイニシアティヴ
*
でアジア・アフリカなどに積極的に武力介入する可能性を模
索し始めた。これは巨視的にはサミール・アミーンらが指摘
izb al-Shuyū‘ī al-
*9 なお共産党は政治的解雇者への補償問題にとくに力を入
れ、また一九八九年以降の不正を正すための試みとして「真
実 委 員 会 」 の 設 置 を 提 案 し て い る( al-
)。
Sūdānī 2008
*
比例代表制と小選挙区制を一対一の割合で組み合わせ、
比例区の候補者リストは男女比を半々にすることなどが提案
された。
の共同管理、という状況に対応するものといえよう。
ではなく、スーダン全体の民主化、また政教分離の重要性な
* たとえば「南北和平」に関しても、一九九四年にIGA
D諸国が提起した調停方針案(「原則宣言」)は、「和平」だけ
する、「北」
(アメリカ・ヨーロッパ・日本の三極)による「南」
なお、「部族民兵」問題に関連して、ダルフール危機につ
いては、これを農耕民と牧畜民との間の水や放牧地をめぐる
資源利用をめぐる対立が存在することは事実であるが、現地
どを確認した点で、のちのアメリカの構想よりも積極的側面
*
の社会には、こうした対立を交渉によって平和裡に解決する
争いとする説明もあるが、正確ではない。生業形態の相違や
メカニズムも存在してきた。ダルフールで起きているのは、
を有していたといえる。
◉参考文献
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)『近代スーダンにおける体制変動と民族形成』
大月書店。
「
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――( 2004)
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――( 2005
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二〇〇八年五月一三日号、四八―五一頁。
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ple's Liberation Movement/ Sudan People's Liberation Army
and New York: Kegan Paul International.
a Long War. London: Zed Books.
には「国民民主同盟」ブロックとして参加している。
とする立場を堅持していることであろう。
12
13
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Justice and Equality Movement ( 2004 ) The Black Book: Imbal-
& Company.
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(くりた・よしこ/千葉大学文学部)
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1983 , n.p.
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―― ( 2008 ) The SPLM 2 National Convention, Juba, 15 -
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com)
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―― ( 2008 ) Mashrū‘ Barnāmij al- izb al-Shuyū‘ ī al-Sūdānī al(スーダン共産党第五回
Muqaddam li-l-Mu’tamar al-Khāmis
大会綱領案) (http://www.midan.net
)
al- izb al-Shuyū ‘ ī al-Sūdānī ( 1965 ) Thawra al-Sha‘(b人民の
革命) al-Qāhira.
14
088
089 「移行期」のスーダン政治
10
11
特集 1
―
変貌するアフリカ
暴力化した
﹁キクユ嫌い﹂
はじめに
︱︱ ケニア二〇〇七年総選挙後の混乱と複数政党制政治
「われわれの票とわれわれの権利を盗んだ泥棒と、同じ
場 を 共 有 す る こ と は で き な い。 わ れ わ れ は、 わ れ わ れ
の権利を守るため最後まで戦う」
( ケ ニ ア、 リ フ ト バ
レー州南部で二〇〇八年二月に配られた怪文書の一部。
津田 み わ
アフリカ大陸の東部、大地溝帯 (グレート・リフト・バ
となるこの領域のなかでは、
にケニア共和国(以下、ケニア)
本格的な植民地支配が始まったのは一九世紀末だった。後
レー)周辺からインド洋にかけての領域でイギリスによる
に陥ることを望んでいる」
(ケニア第二代大統領モイ
「 複 数 政 党 制 化 を 主 張 す る 者 は、 ケ ニ ア が 混 沌 と 流 血
ア フ リ カ 系 住 民 は 何 ら か の「民 族 」 に 帰 属 す る も の と さ
)
。
CIPEV 2008:131
の 発 言。 複 数 政 党 制 化 を 求 め る 民 主 化 運 動 に 抗 し て。
れ、数十年にわたる植民地統治を経て、キクユ人、ルオ人、
カンバ人などの民族分類が定着するにいたった。領域内の
植民地期の民族の枠組みは基本的に継承・制度化された。
三 年 遅 れ た 一 九 六 三 年、 ケ ニ ア は 独 立 を 果 た す が、 こ の
)
。
中心に用いられるようになった (松田 1997 ; 2000
大 陸 全 体 で 十 数 ヵ 国 が 独 立 し た「ア フ リ カ の 年 」 か ら
ヤ人、カレンジン人などの名称が、政治的結社の名乗りを
する試みがなされ――いわゆる「超民族化現象」――ルイ
てキクユやルオといった大集団に数のうえで対抗しようと
年代以降は、
小集団を糾合して「民族」を名乗ることによっ
また、アフリカ系住民による政治活動が発展した一九五〇
れも人口比一割程度のルオ人、カンバ人が続く形になった。
算 四 度 目 に あ た る 総 選 挙 が 行 わ れ た の で あ る が、 一 二 月
に 陥 っ た。 二 〇 〇 七 年 一 二 月 に、 複 数 政 党 制 移 行 か ら 通
二〇〇七年末から二〇〇八年前半にかけて未曾有の危機
と こ ろ が、 こ の「民 主 化 の 優 等 生 」 だ っ た ケ ニ ア が、
だった。
い。 ま た 二 〇 〇 七 年 ま で は 大 規 模 な 政 治 的 混 乱 と も 無 縁
まで、いちどもクーデターによる政権交代を経験していな
なる民主化へと駒を進めた。結局ケニアは、独立から今日
年、ケニアは選挙による政権交代をはじめて経験し、さら
正が指摘されることなく乗り越えてきた。さらに二〇〇二
ムーズに果たし、その後の三度の総選挙も大きな混乱や不
)
。
Standard on Sunday 1991
「民族別人口」は、キクユ人が約二割で最大、これにいず
一九七〇~八〇年代の数次の国勢調査結果でのケニアの主
三〇日の選挙管理委員会 (以下、選管)による「現職キバ
*
要民族には、キクユ、ルイヤ、ルオ、カレンジン、カンバ
中央州出身〔図1〕、キクユ人。挙国一致
キ ( Mwai Kibaki,
脱植民地化後は、アフリカ諸国の多くが、クーデターに
*
の名称が並ぶ。
よる軍政や民族を動員の旗印とした国内紛争に長らく苦し
むことになる。とくに一九九〇年代になるといわゆる民主
党〔 Party of National Unity: PNU
〕公認)再選」との大統
領選挙結果の発表の直後から全国で暴動と住民襲撃事件が
〕公認)の勝利を信じる国民
Democratic Movement: ODM
は、全国の主要都市を中心に街頭に繰り出し、その一部は
発生したのである。キバキの対立候補のオディンガ ( Raila
ニャンザ州出身、
ルオ人。オレンジ民主運動〔 Orange
Odinga,
暴 徒 化 し て キ バ キ と 同 じ「キ ク ユ 」 民 族 に 属 す る 人 た ち
化の雪崩現象が本格化し、その急激な政治変動、とりわけ
が発生してきた。東アフリカでも、クーデターが繰り返さ
を「キバキ支持者である」として襲撃した。その他、家屋
や店舗への放火も続いた。さらに、それに対しキクユ人自
れてきたウガンダに加え、ソマリア、スーダン、ブルンジ、
そのなかにあってケニアは、これまで例外的な政治的安
警団を名乗る組織が非キクユ人住民を襲撃するなど、暴力
ルワンダが次々と深刻な内戦に突入した。
定を保ってきた。一九九一年の複数政党制復帰を比較的ス
複数政党制選挙の実施に関連していくつもの大規模な紛争
*
090
091 暴力化した「キクユ嫌い」
*
ケニアの州と主な民族
カレンジン
キシイ
沿岸州
ミジケンダ
(注)ケニア全人口に対する比率が 10 %以上の民族(キ
(出所)筆者作成。
ケンダを明朝体で示した。
書が出揃いつつある。それらに共通して見出せる特徴は、
長期的要因の強調である。ケニアの各地域が独立直後から
抱えた、土地再配分過程での入植者(主としてキクユ人だっ
たとされる)と「先住者」との潜在的対立、また一九九〇
*
年代に発生してきた選挙キャンペーンの一環としての住民
襲撃事件の余波、それに関連して、キクユほか民族的なカ
CIPEV 2008 , HRW 2008 , Mathenge
在が重要であることは言を待たない。しかし、二〇〇七/
*
族カテゴリーに纏わる確執や、長期にわたる土地問題の存
)
。
る ( Klopp and Kamungi 2008
たしかに、今回の混乱を理解するために、独立以来の民
二〇〇七年選挙後暴力にその延長という側面を見出してい
)
。また一九九〇年代から
and Mwaniki 2008 , OHCHR 2008
続く国内避難民の問題に長らく言及してきたクロップも、
指 摘 さ れ る (た と え ば
テゴリーを自称して組織化されてきた暴力組織の残存が
*
というタイミングで混乱が発生したということを、長期に
ちはどう理解すればいいだろうか。この問いに対し、危機
ケニア未曾有の大混乱となった今回の事態を、わたした
は、集計結果の発表直後から突如として全国各地が大混乱
一 環 と し て そ の ほ と ん ど が 展 開 し て き た の に 対 し、 今 回
特定の候補を選挙で有利にするための選挙キャンペーンの
に、これまでケニアで起こってきた総選挙関連の暴力が、
の発生からほぼ一年たった今、各種の人権関連NGOによ
に 陥 る と い う こ れ ま で に な い パ タ ー ン を 示 し て い る。 ま
た、これまでと異なり、今回の危機の最大の特徴は、とく
に初期において自然発生的な暴力が大規模に発生したとみ
)
。
られる点にある ( Kiai 2008 : 141 - 142
そこで本稿は、ケニア政治史における今回総選挙の位置
づ け と い う 観 点 か ら こ の 危 機 発 生 を 再 構 成 す る こ と で、
対
「非キクユ」
の別が暴力の現場での意味ある対立軸となっ
きればと思う。結論を先取りしていえば、私は、「キクユ」
問題」という視点についても、そのひとつの限界が提示で
て、長期的要因として提示されつつある「独立以来の民族
ン グ の 問 題 へ の 接 近 を 試 み た い。 ま た、 そ の 作 業 を 通 じ
く か ら 与 党 ケ ニ ア・ ア フ リ カ 人 全 国 同 盟 ( Kenya African
性 を は ら む、 画 期 的 な イ ベ ン ト で あ っ た。 ケ ニ ア で は 早
た と い う 意 味 で、 そ れ ま で の 総 選 挙 を 遥 か に 超 え る 重 要
交 代 が 起 こ る ―― こ と が あ ら か じ め わ か っ て い て 行 わ れ
二〇〇二年の総選挙は、必ず大統領が交替する――政権
1 成立前史 ︱︱大同団結 の夢
たのは、それほど遠い過去ではなく、むしろ二〇〇二年か
中 央 州 出 身、 キ ク ユ 人 )の 時 代 に 行 わ れ た 二 回
Kenyatta,
の大統領選挙に立候補したのは、ケニヤッタすなわちKA
以下、まずはキバキ政権に対して広く大同団結の夢が仮
託されていった様子を、二〇〇二年選挙での政権交代にい
NUの候補一名のみであった。対立候補なしの場合、投票
キ バ キ 政 権 下 で「キ ク ユ / 非 キ ク ユ 」 と い う 対 立 軸 が 強
。 つ い で、 こ の
壊 し て い っ た 経 緯 を た ど る (第 Ⅰ 章 の 2)
権 の 統 治 が 早 く も 二 〇 〇 三 年 の 段 階 か ら そ の「夢 」 を 破
の投票を経ることがなかった。第二代大統領モイ ( Daniel
ヤッタは一九七八年に病死するまで一度も大統領選挙で
は行われず唯一の立候補者が当選する仕組みである。ケニ
二〇〇七年総選挙における不正疑惑のなかでそれが暴力に
。
結びついていった側面を描いてみたい (第Ⅱ章の2)
が実施されたが、大統領選挙への立候補者は毎回KANU
ANUの一党制が採用された。これを挟んで三回の総選挙
リフトバレー州出身、カレンジン人)も、同様で
arap Moi,
あった。しかも一九八二年には憲法改正によって正式にK
1
、
化 さ れ 争 点 化 し て い っ た 流 れ を 振 り 返 り (第 Ⅱ 章 の 1)
た る 過 程 を 通 じ て 確 認 し た の ち (第 Ⅰ 章 の
)
、キバキ政
らの五年間で急速に成立したものとみている。
: KANU
)に よ る 事 実 上 の 一 党 制 が 確 立
National Union
し て い た た め、 独 立 後 の 初 代 大 統 領 ケ ニ ヤ ッ タ ( Jomo
二〇〇七年総選挙の直後に暴力が発生したという、タイミ
Ⅰ ケニア史におけるキバキ政権
る調査結果や、大統領の任命による独立調査委員会の報告
*
八という年に、そして大統領選挙の結果が発表された直後
)
」と呼ばれることになるこの危機は、総
election violence
選挙後数ヵ月の間に少なくとも死者一〇〇〇人、最低でも
わたる背景のみで理解することもまた難しいだろう。とく
深い爪痕を残したのである。
*
三〇万人を超える国内避難民を生み、ケニアにかつてない
the post
クユ、ルイヤ、ルオ、カンバ、カレンジン)をゴシ
ック体で、10 %未満のキシイ、メル、エンブ、ミジ
の 連 鎖 が 発 生 し た。
「(二 〇 〇 七 年 )選 挙 後 暴 力 (
図1
メル
エンブ
中央州
キクユ
ナイロビ
カンバ
ニャンザ州 ルオ
北東州
東部州
西部州 リフトバレー州
ルイヤ
092
093 暴力化した「キクユ嫌い」
*
N
大統領選挙へのモイの立候補資格が失われたのである。与
党議員の一部からは、再度の憲法改正によってモイの大統
のモイ一人だけであり、投票が行われることはなかった。
一九九〇年代になると民主化圧力が激化するなかで複数
領就任期間を延ばすべきだとする意見が繰り返し表明され
二 〇 〇 二 年 の 大 統 領 交 替 必 須 と い う 状 況 の な か で、
政党制が回復され、競争的な大統領選挙が行われるように
一九九七年総選挙終了以降、政界再編の動きはこれまでに
たが、モイはそうした動きを諌め、次回大統領選挙までま
結果にも表れて、モイとKANUの得票率は毎回三~四割
だ間がある一九九九年の段階で引退表明を行い、その後も
と過半数を下回っていた。しかし、モイは一九九〇年代の
なく活発化した。この流れが、二〇〇二年総選挙での野党
はなったが、
それでも政権交代はなかなか実現しなかった。
二回の総選挙でともに再選を果たし、政権を維持した。再
側勝利へと直接結びついていくことになる。一九九〇年代
モイ政権は、人権侵害、経済の低迷、そして汚職などを特
選を可能にした最大の要因のひとつは、有力野党が分裂を
の負けに教訓を得た野党側は、はじめて大同団結を成功さ
立場を翻すことはなかった。
繰り返し、選挙時にモイへの批判票を固められなかったこ
徴としており、複数政党制復帰後はその不人気ぶりが選挙
とだった。当時の最大野党は結成直後に分裂し、一九九二
線や支持基盤の異なる一四もの政党が一堂に会したことを
せ、全国虹の連合 ( National Rainbow Coalition: NARC
)を
成立させる。当時の与野党の議員たちがともに参加し、路
年選挙時のケニアには、ケニア民主党 (
Democratic Party
一九九七年の複数政党制復帰後第二回となる総選挙時に
選挙でこのNARC公認の統一候補になったのが、キバキ
NARC結成は快挙であった。そして、二〇〇二年大統領
モイ政権に倦んでいた多くのケニアの人びとにとって、
象徴して、「虹」が名称とされた。
は、主要野党の数は七にまで増えていた。独立以来、ケニ
だった。一〇月半ばの結成集会において、オディンガは自
など三つの有力野党が林立
of Kenya: DP,
委員長キバキ)
していた。野党側勢力の分裂はその後五年でさらに進み、
アでは大統領選挙が行われてはきたものの、無投票あるい
とこのウフル・ケニヤッタの二人に絞られたため、大統領
( Uhuru Kenyatta,
中央州出身、キクユ人)という人物だっ
たことはここでの注記に値するだろう。有力候補はキバキ
連続して二回当選した。このため、二〇〇二末予定だった
た。いまみたように、モイは一九九〇年代の大統領選挙で
新設されたひとつの規定――大統領の三選禁止――であっ
これを変えたのが、複数政党制復帰のための憲法改正で
る政党DPが実権を排他的に掌握するような事態を避けよ
の準備にほかならない。ここにはキバキと、その基盤とす
実がNARC傘下の諸勢力に応分に配分されるように、と
た の が 初 代 大 統 領 ケ ニ ヤ ッ タ の 実 子 ウ フ ル・ ケ ニ ヤ ッ タ
)
」と述べて聴衆の拍
ら ず、「キ バ キ で 十 分 ( Kibaki tosha
手喝采を浴びた。なお、引退を決めたモイが後継に指名し
らも有力なNARC統一の大統領候補だったにもかかわ
*
は「出来レース」にとどまってきたのであった。
選挙はキクユ人対キクユ人という図式になり、民族的属性
うとするオディンガたち政治エリートの思惑が透けてみえ
二 〇 〇 二 年 一 二 月、 ケ ニ ア 第 九 回 総 選 挙 の 投 票 が 行 わ
ンガらポスト配分を約束された全員が署名するという厳密
る。覚書作成には、弁護士立ち会いのうえ、キバキ、オディ
め交わしていた。「キバキ政権」成立といえども、その果
はこのときの争点にはなりえない状態だった。
れ、大統領にはキバキが当選、国会でもNARCが議席の
な手続がとられたという。
た、政党としての実体に乏しい寄り合い所帯にすぎなかっ
に よ る 相 乗 り 候 補 に す ぎ ず、 与 党 に な っ た N A R C も ま
ろん、新大統領となったキバキは、オディンガらとの妥協
え、半数以上の閣僚をキバキ派から任命し、加えて財務、
は、二〇〇三年一月の最初の組閣で早くも覚書の約束を違
そ れ ら 事 前 の 約 束 は す べ て 反 古 に さ れ て い っ た。 キ バ キ
ところが、キバキ政権発足後は、キバキ派の主導により
2 統治 の実際 ︱︱排除 の政治
*
六割を獲得して新たに与党となった。KANUの議席は国
会三割にとどまり、独立以来ほぼ四〇年を経てはじめて野
党に転落した。ケニア初の選挙による政権交代の成立であ
たが、このことで逆に、キバキとNARCは、「民族や地
治安担当国務など重要ポストをやはりキバキ派に独占さ
主的な新憲法の一〇〇日以内の制定 (当時の草案では、大
ディンガ派とキバキ派で閣僚ポストを等分)
、(2) よ り 民
憲法制定は六月までに行う」などと述べて覚書を遵守しな
一〇〇日以内に新憲法を制定するとは約束していない、新
東部州出身、
大臣に登用したムルンギ ( Kiraitu Murungi,
メル人)は、二〇〇三年の二月の段階で「NARC政府は
せ た。 新 憲 法 の 制 定 も 回 避 が 模 索 さ れ た。 キ バ キ が 司 法
統領職を名誉職に近いものとし、首相職を新設して権力を分
いことを公言してはばからなかった。結局新憲法は制定さ
*
なお、
オディンガ、
キバキらも、(1)ポストの均等配分(オ
有するとされていた)
、
(3)首相職へのオディンガ就任、
れず、首相職が新設されることはなかった。
*
などを骨子とする覚書をNARC結成にあたってあらかじ
めることに成功した。
域を越えた政治を実現する組織」との期待を選挙民から集
り、ケニアの二〇〇二年はまさに快挙の年となった。もち
*
094
095 暴力化した「キクユ嫌い」
*
かキバキ派のみという状態が、その後何ヵ月にもわたって
とおりのポストを得たのは、じつのところ大統領キバキほ
いたキバキだが、じつは彼自身がケニヤッタ、モイのもと
による政権交代という鳴り物入りで第三代大統領の座につ
をつくり、意思決定を事実上独占、私物化してきた。選挙
(
「ファミリー」
、「キッチン・キャビネット」などと呼ばれる)
会など公的な意思決定の仕組みを超越した私的な諮問団
続く事態となった。覚書上の首相、副首相などのポストは
このため、NARC政権の誕生によって覚書で約束した
現行憲法には存在しないため、オディンガらは閣僚職に任
で財務大臣や副大統領といった要職を長年務めた経歴の持
*
命されるにとどまらざるをえなかった。
ち主であり、政権交代後のキバキは、かなり早い段階から
自らのキッチン・キャビネットを作った。
閣外で重大案件の予備決定を行うこと自体の適否の問題
るDPの長年のメンバーだったということである。DPは
団会合では早くもオディンガ派議員の側から覚書が遵守さ
一九九〇年代を通じて国会に三〇~四〇議席を送り出す主
も小さくないものの、いっそう重大であるのは、キバキの
会選抜委員会の新委員長の互選が行われた際に、同委員会
要政党のひとつではあり続けてきたものの、その地盤はキ
れていないとする不満の声があがり、このままでは国会で
のNARC委員の一部が、委員長職再選を目指すオディン
ぎり)全員が、一九九〇年代にキバキが結成した政党であ
ガを支持せず、結局オディンガが落選するという事態が発
バキの出身地である中央州北部とその周辺各県――いわゆ
歴代の「キッチン・キャビネット」構成員の (知られるか
生した。委員の一人だった上述の司法大臣ムルンギも対立
る「マウント・ケニア地域」――に集中している。この偏
の法案採決で野党KANUと共同歩調をとるなどの発言が
候補支持にまわった一人だったが、後にこのことを問題と
領 の ケ ニ ヤ ッ タ と モ イ は い ず れ も、 閣 議 や 党 の 執 行 委 員
刻な問題――身内びいき――を露呈していった。歴代大統
行と深く関係する形で、キバキ政権は別の、そしてより深
この司法大臣の人事にもあらわれているが、覚書の不履
のであったらまだ受け入れ可能だったのかもしれない。し
大統領の政権を選好する」という意味でキバキに投票した
弾圧は激しく、野党は幹部が従来もっていた人脈や地縁を
付けることに集中してきた。モイ政権下では野党活動への
DPは、比較的富裕な農民・ビジネスマンらの支持を取り
また、同じ中央州を地盤とする有力政党との競合のなかで
以下同)
」にのみ厚い支持層をもつ、ということでもある。
りはすなわち「キクユ人 (および近縁のメル人、エンブ人。
超える範囲への影響力拡大にほとんど成功してこなかった
かし、二〇〇二年選挙の争点はそこにはなかった。キバキ
断できるのは約四〇にとどまり、国会全議席の二割に満た
ないことはもとより、NARCのなかでも過半には遠くい
Ⅱ 政治的対立軸と化した
﹁キクユ/非キクユ﹂
チン・キャビネット」の現出という排除の政治だった。加
争と、
国会過半に遙かに満たない弱小勢力DPによる「キッ
二〇〇二年総選挙のあと現れたものは、先鋭化する派閥抗
し て 運 営 す る 新 し い 政 権 の 誕 生 ―― 画 期 的 だ っ た は ず の
怒りへと拡大していく様子を、筆者はこの数年をかけてみ
判にとどまるのではなく、民族としての「キクユ人」への
とになった。これが、たんなるキバキ嫌い、キバキ政権批
き返った人びとの日常生活に、早くから暗い影を落とすこ
キバキ政権による「裏切り」は、NARC政権成立に沸
1 キ バ キ に よ る統治 と﹁ キ ク ユ嫌 い﹂
えてキバキは、大統領としてのその強大な人事権を行使す
てきたのだと思う。
の一九六〇年代前半の時点で、キクユ人が三〇パーセント
ケニヤッタ (キクユ人)政権期の閣僚人事では、独立後
うに行うつもりかのメッセージとみなされる傾向が強い。
をもつ大統領が、自らの政権におけるポスト配分をどのよ
ケニアにおける高官の人事は、そのほぼすべてに任免権
た。 ケ ニ ヤ ッ タ 政 権 の キ ク ユ 人 閣 僚 の 割 合 は 突 出 し て 高
ン人は微増したもののまだ八パーセント程度にとどまっ
人のシェアは三〇パーセントと相変わらず高く、カレンジ
はゼロとにべもなかった。一九七〇年代に入ってもキクユ
と人口比を上回って最大、一方たとえばカレンジン人閣僚
二〇〇二年総選挙において、もともと多数派が「キクユ人
その例は枚挙に暇がない。
大臣ほか、中核的なポストにことごとくキクユ人を任命し
**
続けた。中央銀行総裁、最高裁判所長官、徴税局局長など
*
る際、上述の司法大臣をはじめ、財務大臣、治安担当国務
たらない。選挙による政権交代、一四もの政党が大同団結
政権による排除の政治のもたらした影響は甚大であった。
が、キバキのDPも例外ではなく、同党は優れて「富裕キ
が、NARCのもつ一三〇議席のうち「DPの議席」と判
*
体することはなかった。キバキのDPもそのひとつだった
ず、その傘下の諸政党は二〇〇二年からの五年を通じて解
上述したようにNARCの実態はアンブレラ組織にすぎ
クユ人階層の政党」であり続けてきた。
明し、その発言自体が物議を醸した。
されると、
「オディンガを信頼していなかったから」と説
なされている。同じ三月には、憲法見直し問題に関する国
体はすぐにおこった。二〇〇三年三月のNARC国会議員
覚書の約束が果たされないなか、NARCの事実上の解
*
096
097 暴力化した「キクユ嫌い」
**
スをとったことや、そもそもカレンジン人 (なかでもモイ
)
。目
の人口比におおいに配慮したようである (津田 1991
立つ閣僚人事においてこのようにモイが巧妙に民族バラン
要民族についても同様であり、モイは閣僚人事では民族別
に一三パーセント強に増加したあと一定した。その他の主
し、カレンジン人については、就任後初の内閣改造で一挙
キクユ人のシェアはだいたい二〇パーセント程度に減少
モイ (カレンジン人)だった。モイ政権下で閣僚における
の後も数時間一緒にいたが、政治の話はいっさい出ないま
た私の発言は、誰にも拾われることなく宙に浮かんだ。そ
とき、話の接ぎ穂にとキバキ政権の覚書不履行問題に触れ
が常だった。しかし政権が代わってはじめて集まったその
関係にあった。二〇〇二年の政権交代までは一番の共通の
の同僚同士であり、私がケニアに行けば必ず集まる近しい
ピソードがあった。彼らは当時ケニア屈指の大手建設会社
がたいものだった。たとえば、古い知人たちとのこんなエ
聞き取り調査を行ったが、その時体験した「暗さ」は忘れ
年半ばにもひと月ほどケニアに滞在し、政治意識に関する
の属するトゥゲン人)の人口が相対的に少ないこともあっ
まにその夜は解散となった。
かったといってよい。これを調整したのが第二代大統領の
て、モイ政権期では「モイの悪口」はあたかも日本でいう
――モイ政権時代には一定以上の意味をもたなかったこの
出身であるか否か、
「キクユ」なのか「非キクユ」なのか
そしてキクユびいきであった。「マウント・ケニア地域」
のキバキ政権で始まったのが、オディンガ派排除の政治、
権交代という形で多くの選挙民の夢を乗せて成立したはず
ところが、歴史的な大同団結、はじめての選挙による政
の「カレンジン嫌い」に結びつくことにはならなかった。
教えてくれた。「中央州の人はキバキ政権を支持してるか
類 で い え ば、 彼 は「ル オ 人 」 と な る )も、 意 図 的 だ っ た と
た。一方「西の出身」と言われたうちの一人 (民族的な分
思えば彼は仲間内でただ一人の中央州出身キクユ人であっ
ヤ人、みな西の出身だ。話が合わない」と一人は言った。
それ以来政治の話は避けている」「私以外はルオ人とルイ
た。「一度キバキの話ですごく意見が割れたことがあった。
い て み る と、 そ の「沈 黙 」 が 意 図 的 だ っ た こ と が わ か っ
後日、彼らの一人ひとりと一対一で会う機会を作って聞
話題はモイ政権批判であり、夜遅くまで政治談義に耽るの
天候の挨拶のように共有されたが、そのことが民族として
地域的で民族的なレッテルは、排他性を漂わせるキバキ「D
ら。政治の話は飲み会ではもうしない」。
それでもなお、政治談義に花を咲かせていたのである。し
かった。出身地の違いや支持政党、派閥の違いを前提とし、
ちの政治的な支持はそれまでもかならずしも一致していな
盤とする強力な政党、派閥はモイ政権期からあり、知人た
クユ人、ルオ人、ルイヤ人それぞれのおもな居住地域を地
の人脈や地縁に依拠する傾向が強い。そのためたとえばキ
たとえば筆者は、キバキ政権発足から半年後の二〇〇三
ち合わせ場所として指定してきたのは、大学の真向かいに
た。だがキバキ政権成立後、半年して再会した時、彼が待
いてい見つけることができるほどの「シニア」常連であっ
治の研究で世界の学会をリードする彼は、食堂を覗けばた
まさに「マウント・ケニア地域」の出身である。ケニア政
所研究員も同じだった。彼は民族的属性でいえばメル人、
い」と言う。別の「シニア」常連のナイロビ大学付属研究
上述したように、ケニアの政党や政治家の活動は、幹部
*
P」政権のもとで、急速に深刻な対立軸へと転化していっ
かし二〇〇二年の政権交代を境におこったのは、「中央州
ある高級ホテルのテラスだった。「シニア」だったら二人
*
た。
の人」
「西の出身」
「ルオ人」との名付けだった。彼らはそ
分の昼食を優にまかなえるような金額のソーダ一本を見や
*
れ以後いまでも、直接の会話の場では政治に関して口を閉
も自由に出入りし、ケニア政治についておおいに論議する
師、大学付属研究所の研究員に加わって元教授、元講師ら
が高かったこの食堂――通称「シニア」――は、教授、講
地内ということで、一党制時代でさえ比較的言論の自由度
ム」と呼ばれる大学教員食堂でも起こっていた。大学の敷
学 の メ イ ン・ キ ャ ン パ ス に あ る「シ ニ ア・ コ モ ン・ ル ー
を「雰囲気が悪い」と言っていた上述の元ナイロビ大学講
てきたが、結局一度も「シニア」を使っていない。
「シニア」
その後もキバキ政権下で多くの元「シニア」常連と会っ
大学教員があれではアカデミズムも終わりだ」と続けた。
と、それは私があの地域の人間だから、ということになる。
されて不愉快だ。少しでもキバキ政権をプラスに評価する
出身だろう?
こで政治の話はできなくなった。私はマウント・ケニアの
場として機能していた。むろん、教員らの出身地域や民族
師 (ニャンザ州出身、キシイ人)は、二〇〇六年に再会し
何を言ってもバイアスがかかってると判断
的な属性は多様である。モイ政権時代、彼らとの待ち合わ
たときには「せっかく政権が代わったのに、キクユ人が国
がまったくかからなくなった。友人のひとりである元ナイ
ところが二〇〇二年の政権交代を境に「シニアで」の声
先ほどの建設会社の知人たちが採用したのと同じ対立軸を
私たちとは別」とまで言い、「キクユ/非キクユ」という
を独り占めしていて、私たちは貧しいままだ。キクユ人は、
**
ロビ大学講師に尋ねてみると、「最近あそこは雰囲気が悪
*
せは、いつも「シニアで」の一言で事足りていた。
同様の現象は、ケニア有数の国立大学であるナイロビ大
りながら彼は、「もうシニアには行かない」と言い、「あそ
**
ざしたままの状態を続けている。
**
098
099 暴力化した「キクユ嫌い」
**
*
キバキの統治下で「キクユ嫌い」が先鋭化し、「キクユ/
知人たちとの限られたエピソードではあるが、そこには
多数の反対のなかで、いかにも大統領の出身民族だけが大
けっして一枚岩ではなかった。しかし、投票の結果は、大
反対キャンペーンを主導しており、キクユ人政治家たちは
をはじめとして有力な政治エリートが政府の新憲法案への
中央州とその周辺では、現副首相のウフル・ケニヤッタ
非キクユ」の別が対立軸となっていった様子が如実に表れ
内面化している様子を私にみせた。
ている。その傾向を、公式に、きわめてマクロな形で全国
統領派作成の憲法案に賛成したようにみえる、地理的にか
なり偏ったものになった。しかもこの結果は、ケニアの各
新憲法案は否決されて現行憲法が引き続き適用されること
け離れた内容そのものへの批判は強く、国民投票の結果、
投票にかけられた。強権的な政治手法、そして草案からか
の大統領権力を温存する、形ばかりの「新」憲法案が国民
アの批判を浴びつつも、最終的には現行憲法とほぼ同程度
換骨奪胎され、
オディンガ派をはじめ多くのNGO、メディ
い現象だった。キバキは憎いが、のうのうとキバキを支持
裂が走るというのは、キバキ政権成立後の五年間での新し
族を出身とする人びととの間で、これほど深刻な社会的亀
ない。大統領の出身民族に属する人びとと、それ以外の民
間にか成りえていた――そんな評価さえ可能なのかもしれ
ることで、かえって「国民」をまとめ上げる存在にいつの
悪弊を抱えていたが、モイは自身が突出した憎まれ役にな
前大統領モイの統治は上述したようにさまざまな深刻な
種メディアで大きく報道され、「キクユびいきのキバキ政
となった。ここで注目すべきは、その新憲法案に多数が賛
している「ようにみえる」キクユ人も憎い――「非キクユ
先に触れたように、大統領権力の縮小を嫌ったキバキ派
成票を投じた選挙区が、あからさまに中央州、東部州中部、
権を支持しているのはキクユ人だけ」という印象がばらま
すなわち「マウント・ケニア地域」と、そしてリフトバレー
人」の間には、好むと好まざるとにかかわらずそのような
は、新憲法の制定についても覚書の約束を反古にした。大
州中部に集中していたことだった。キクユ人の人口比率が
ている。前出のナイロビ大学付属研究所研究員は「民族で
「キクユ嫌い」の「空気」が横溢していったと筆者は感じ
かれる格好になった。
高い地域だけが、キクユ人であるキバキが先導した悪評高
のである。
M の 公 認 を 受 け て お り、 大 統 領 権 限 の 縮 小 を よ し と し な
法制定を求める動きのなかで二〇〇五年に結成されたOD
ケニア社会が分裂しかかっている」「未曾有の社会的危機」
*
と述べて、早くから危機感をあらわにしていた。キバキ政
かったキバキ政権を批判する改革派の立場を特徴としてい
たキバキは憎い。だから次の選挙をずっと五年間待ってい
い 知 人 (沿 岸 州 出 身、 タ イ タ 人 )が、「覚 書 の 約 束 を 破 っ
貧しい失業者でもあり、そして「非キクユ人」でもある古
ケニアを訪ねたとき、病気の子どもを抱える父でもあり、
た。筆者が総選挙実施の直前にあたる二〇〇七年一一月に
有 力 な 手 段 と 期 待 さ れ た の が、 二 〇 〇 七 年 の 総 選 挙 だ っ
キバキ政権による排除の政治が続くなかで、現状打破の
一方、キバキについては、キクユ人が住民の多数を占め
口は東部州北部、北東州、沿岸州では住民の多数を占める。
との間には政府への強い不満が広がっていた。ムスリム人
スリムの人権侵害が横行しているとして、ムスリムの人び
れる。加えて、キバキ政権下でテロ取り締まりと称してム
する強い不満が生まれていたリフトバレー州がまずあげら
カレンジン人の強制退去問題などを背景にキバキ政権に対
国で広い支持を得ていることが予想された。具体的には、
キバキの五年間の統治に不満をもつ層の結集先として、全
*
権から漂い出たこの「キクユびいき」という排他を前にし
た。
たケニア社会は、それほど長い間耐えることができなかっ
た。
二〇〇五年の国民投票結果から予想された両者の支持基
盤 の 分 布 は、 オ デ ィ ン ガ 優 勢 を 指 し 示 す も の だ っ た。 オ
た。選挙で交代させればよいのだ。投票が私たちにとって
る地域として、地元中央州、東部州中部およびリフトバレー
ディンガは、地元ニャンザ州、隣接する西部州はもとより、
の武器なのだ」と言っていたのが印象的であった。実際に
州中部での支持は見込まれた。ほかにキバキが副大統領な
2 投票 か ら暴力 へ
二〇〇二年に選挙による政権交代があったばかりであり、
二〇〇七年になると、ケニアは総選挙一色という雰囲気
どに登用した政治エリートの出身地である西部州の一部で
オ デ ィ ン ガ 優 勢 の 構 図 は、 世 論 調 査 で も 示 さ れ た。
やはり支持が予測された。とはいえ、その領域は自ずと限
央州出身のキクユ人、対するオディンガはニャンザ州出身
二〇〇七年総選挙前に民間の複数の調査会社が繰り返し
定されると考えられた。
のルオ人である。ただしオディンガは、より民主的な新憲
になった。当然、大統領選挙の争点はキバキ政権を交代さ
*
選挙への信頼はとても厚いものがあったとみてよい。
**
い新憲法案にこぞって賛成した、とみえる結果に終わった
統領権力の縮小を規定していた当時の既存草案は強行的に
された国民投票だった。
に知らしめる作用をもったのが、二〇〇五年一一月に実施
**
せるか否かに収斂した。冒頭で触れたように、キバキは中
**
100
101 暴力化した「キクユ嫌い」
**
ディンガへの支持率がキバキへのそれを上回る結果が出さ
会議員、大統領ともにかなりの趨勢が判明する (と人びと
ナイロビの選管が正式な当選者発表をする前の段階で、国
日の当日夜から、ケニアの代表的なラジオ、テレビからは、
レビ、ラジオ、新聞などメディアが入ることができ、投票
。筆者は一二月半ば
れ た ( Saturday Nation 2007 a; 2007)
b
までケニアに滞在していたが、その段階でオディンガ支持
行 っ た 世 論 調 査 で は、 い く つ か の 例 外 を 除 い て つ ね に オ
の知人たちは、毎回の世論調査の結果に胸をなで下ろし、
が考えやすい)仕組みになっていることが重要である。
混乱は報告されず、これまで繰り返されてきた総選挙と変
所では、恒例となった長い行列が各地でみられた。大きな
投票日の二〇〇七年一二月二七日早朝、ケニアの各投票
ディンガのODMがキバキのPNUを大きく上回って議席
ル の 国 会 議 員 選 挙 結 果 と し て 報 じ ら れ た の は、 や は り オ
速報値が寄せられた。そして、投票所レベル・選挙区レベ
実際、各種メディアには二七日夜の段階からつぎつぎと
一日中選挙速報が流れる状態になる。このため、最終的に
早くも前祝いムードであった。
わらない様子で選挙は始まり、同日の夕刻、投票は締め切
進むにつれ、キバキ側閣僚が国会議員選挙で大量に落選し
を伸ばしているとの速報値であった。さらに、開票作業が
二 〇 〇 七 年 総 選 挙 で は、 投 票 所 は 全 国 で お よ そ
られ、予定どおり即日開票が始まった。
果のとおり、実際の大統領選挙でも速報では終始オディン
た模様との速報があり、一二月三〇日までには、オディン
ガがリード、さらに国会議員選挙ではキバキ側閣僚が大量
二 万 七 〇 〇 〇 ヵ 所 設 け ら れ た。 す べ て 選 管 の 監 督 下 に あ
に集められ、国会議員候補と大統領候補の選挙区レベル得
落選しオディンガの政党ODMが国会第一党となるのが確
一二月三〇日午前の時点では、事前の各社世論調査の結
票が集計される。国会議員は選挙区での最大得票で当選と
実という状況だった。この開票、地方レベルの集計の段階
ガのODMが国会第一党になったことが事実上判明した。
なるので、このレベルで事実上当選者が判明することにな
り、各投票所では即日開票が行われる。投票所レベルの開
る。選挙区レベル集計所の集計結果は選管に届けられ、選
になっても、一部の選挙区で混乱があったものの、おおむ
票結果は、
いったん選挙区レベル集計所(全国二一〇ヵ所)
管が地方議会議員・国会議員の当選者を正式に発表するほ
ね平和裡に総選挙は終了しつつあった。
一〇〇〇万票に達した。そのうちわずか二〇数万票の僅差
る 高 い 得 票 率 と な り、 大 統 領 選 挙 で の 総 有 効 投 票 数 は 約
権者数は約一四〇〇万人、二〇〇七年総選挙は七割を超え
統 領 選 挙 に 当 選 し た 」 と 発 表 し た の で あ る。 ケ ニ ア の 有
得票数は四三五万二九九三票だったとして、「キバキが大
バ キ の 総 得 票 数 は 四 五 八 万 四 七 二 一 票、 オ デ ィ ン ガ の 総
選管のいずれのレベルにも内外のオブザーバーをはじめテ
真相は不明とされた ( IREC 2008
)
。しかし、もしキバキ側
が大規模な不正により勝利宣言をしたとすれば、それは、
については、独立の調査委員会が調査したものの、結局、
本当にキバキを当選させるための不正があったかどうか
の一方的な大統領就任宣誓の直後、一二月三〇日夜だった。
り、全国各地で暴動と住民襲撃事件が発生したのはキバキ
た若者を中心に「不正選挙」として激しい抗議行動がおこ
午 後 五 時、 最 終 的 な 集 計 作 業 に あ た っ て い た 選 管 が、 キ
ところが、問題はその直後に発生した。一二月三〇日の
か、大統領選挙の全国レベルの得票を集計し、当選者を正
で、
突如としてキバキが(逆転)勝利、と発表されたのであっ
政治的安定という見地からみてもっとも危険な手段をとっ
式に発表する。投票所、選挙区レベル集計所、ナイロビの
た。発表はケニア国営放送の生放送という形で行われ、テ
を表す手段を、五年おきの投票以外にもたない、そのよう
たということにほかならないだろう。貧困や政治への怒り
な人びとにとっての選挙を無意味にするような「手段」は、
レビとラジオを通じて全国で流された。
ついで午後六時過ぎ、夕闇の迫る大統領官邸において、
暴力の直接の矛先は、大統領官邸でもキバキ派閣僚たち
キバキは急遽大統領への就任宣誓式を断行した。午前まで
でもなく、「キバキ支持」とみられていた一般のキクユ人
けっしてとるべきではなかったと思われる。
ない、まさに青天の霹靂の展開であり、また、日を改めて
の「オディンガ有利」の報道からわずか数時間後とは思え
数十万人の収容が可能な会場で盛大に執り行われてきた通
の主要都市、そして、キクユ人住民とそれ以外のルオ人、
へとまず向かった。続いて、「キクユ人組織」を自称する
カレンジン人などの住民が交わって住む領域、とくにリフ
例の就任宣誓式と比べ、いかにも異様であった。選管委員
「選管による集計作業の過程で結果が歪められた」「不正
ト バ レ ー 州 に 集 中 し て 発 生 し た。 五 年 か け て 醸 成 さ れ た
武装集団によるとみられる非キクユ人への襲撃が多発し
選挙が行われた」と多くの人が感じたとしても、それはむ
「キクユ/非キクユ」の対峙という構図が、このときつい
長によるキバキ当選の発表と同様に、この様子もテレビ・
しろ当然だったかもしれない。オディンガを支持した有権
た。暴動・住民襲撃事件は、ナイロビをはじめとする全国
者にとって「不正選挙によるキバキの再選」とは、「唯一
に選挙での投票という次元を離れ、暴力化したのだった。
ラジオで全国に配信された。
の平和的な抗議手段の剥奪」と同義だった。すでにオディ
ンガの勝利を祝おうと前祝いムードで路上に繰り出してい
102
103 暴力化した「キクユ嫌い」
の「二〇〇七年選挙後暴力」の背景には、たんなる民族的
属性の違いには回収されえない要素――すなわち、(1)
大同団結の夢を乗せて成立したはずのキバキ政権が、事前
などで特定民族を優先 (非優先)するような規定は基本的
現行のケニアの法制度においては、資源配分や居住地域
不正が強く疑われる形で死産に終わったことへの拒否――
た多数派「非キクユ」の推すオディンガ率いる政権交代が、
して(2)排除の政治の帰結として当然起こるはずであっ
いき」と揶揄された排除の政治を続けたことへの抗議、そ
おわりに
に排除されている。もちろん民族別政党も非合法である。
の合意を裏切って、キバキ派のみによる政治、「キクユび
そ う し た 制 度 と 運 用 の か ね あ い に よ り、 こ れ ま で 民 主 化
ただし、民族を旗印とするような暴力が結果として大規
こそが横たわっているのである。
模に発生してしまった過去を消すことはできない。ケニア
と政治的安定を両立させてきたケニアが、今回ついに躓い
た。選挙キャンペーンの一環として暴力が起こされていた
における複数政党制政治は、いまや大規模な暴力と背中合
きて今度は複数政党制でアフリカ人をさらに分断しようと
一九九〇年代とは違い、今回のケニアでは、総選挙自体が
ただし、この「キクユ」と「非キクユ」という二分法自
)
、「政治的安定が破壊されるだ
している」( Masenya 1991
失敗し、いわば選挙の代替物として大規模な暴力がふるわ
体の理解には注意が必要である。「キクユ/非キクユ」の
)
。前大統領モイが、一党制時代に自ら
ろう」( Omari 1992
の強大な権力を擁護しようとして繰り返したにすぎないこ
わせの関係にあると見なさざるをえないだろう。「植民地
別が暴力の現場での意味ある対立軸となったのは、それほ
うした主張が、いまはまるで不吉な予言のように響く。収
れたのである。しかもその対立軸は、
「キクユ/非キクユ」
ど遠い過去ではなく、むしろ二〇〇二年からの五年間で、
主義者は部族でアフリカ人を分断し、いままた舞い戻って
複数政党制政治における権力抗争に関連して、急速に成立
束を果たした「二〇〇七年選挙後暴力」はすでに「記憶」
という、民族に纏わる形をとった。
したものとみてよい。本稿で辿ってきたように、今回の危
の問題として扱うべき領域に入った。その「記憶」の有り
た。二〇〇八年二月にはキバキ、オディンガの両者が、アナ
様、そしてその果たす役割とを見つめる作業を将来の課題
Uとオディンガを擁立したODMの大連立政権とし、大統領
機には、その背後に、国民の多数派の意思が政権運営に反
◉注
にはキバキが就任する、(2)オディンガの就任を前提とする
映されるべきだとする、民主主義の貫徹を求めるという意
* 1 一 九 九 〇 年 代 以 降 は 民 族 別 人 口 に 関 す る 国 勢 調 査 結 果
は 公 表 さ れ て い な い が、 い ま も 最 大 の 規 模 を も つ 民 族 は キ
に託し、本稿の結びにかえたい。
ク ユ 人(人 口 の 約 二 割。 な お ケ ニ ア の 現 在 の 人 口 は お よ そ
その後暴動、住民襲撃事件はほぼ沈静化し、現在にいたる。
「首相」職を新設する、などとした最終合意文書に調印した。
味でしごく真っ当な願いがあったとみるべきだろう。今回
三四〇〇万人)、ついで一割強を占めるルイヤ人、ルオ人、カ
*
選挙後の政党別任命議員を含む。二〇〇三年二月時点。
なお任命議員を含む国会全議席数は二二二。
)を参照されたい。
117
職してしまった。くわしくは津田( 2007 a: 48 - 49 ; 2007 b: 108 -
*9 オディンガ派から一部登用された閣僚は、結局二〇〇五
年にはキバキに解任され、最後はオディンガも自ら閣僚を辞
*7 詳細は津田( 2007 b: 102 - 108
)を参照されたい。
*8 くわしくは津田( 2007)aを参照されたい。
( 2008)
bを参照されたい。
* 6 ケ ニ ア の 政 党 再 編 に つ い て 詳 細 は 津 田( 2007)c を 参 照
されたい。
*4 この点についてくわしくは、津田( 2003
)を参照されたい。
*5 筆者自身もこの点には別項でわずかながら触れた。津田
ンらの立ち会いのもと、(1)新政権はキバキを擁立したPN
レンジン人、カンバ人と続き、その五つの民族の合計でケニ
ア人口の約七割を占めると考えてよい。ケニアの分類では民
族は四〇以上あるとされており、人口の残りの三割をシェア
数パーセントの多数の民族が分け合う形になっている。キク
ユ人が住民の多数を占めるのは、中央州およびリフト・バレー
州の中部である。ルイヤ人は西部州、ルオ人はニャンザ州、
カレンジン人はリフトバレー州(とくに州の中北部)、カンバ
人は東部州(とくに州の南部)でそれぞれ多数を占める(図1)。
*2 ケニアの総選挙は、大統領選挙、国会議員選挙、そして
地方議会議員選挙の三つの選挙からなり、一人一票のもとで
の同日選挙である。一九六〇年代から基本的に五年おきに開
催されてきた。一九九〇年代以降は、大統領選挙で当選する
ためには、最大得票の他に、ケニアを構成する八つの州のう
ち五州以上で有効投票の二五パーセント以上をそれぞれ獲得
しなければならなくなっている(いわゆる、五州二五パーセ
*
ケニアの大統領権力に関する法制度と運用の実態につい
て、くわしくは津田( 2007 b: 89 - )
95を参照されたい。
*
ント・ルール)。たんに得票が多くても十分でなく、全国で満
遍なく得票することを要件としたこの仕組みは「一部の民族
*
*
*
の支持ばかりでは大統領に当選できない」という含意をもつ。
*3 なお、危機発生後は、早期から欧米の外交団やアフリカ
連合の議長、ウガンダ大統領などが調停を試み、最終的には
アナン( Kofi Annan
)前国連事務総長らによる調停が奏功し
二〇〇三年一〇月九日にナイロビで行ったインタビュー。
二〇〇七年一一月二〇日にナイロビで行ったインタ
ビュー。
二〇〇三年九月二九日にナイロビで行ったインタビュー。
二〇〇三年一〇月一三日にナイロビで行ったインタ
104
105 暴力化した「キクユ嫌い」
10
11
13 12
15 14
二〇〇六年八月二二日にナイロビで行ったインタビュー。
ビュー。
*
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c ケ ニ ア の 政 党 再 編 と 第 一 〇 回 総 選 挙 」『ア フ リ
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a 二 〇 〇 七 年 ケ ニ ア 総 選 挙 後 の 危 機 」『ア フ リ カ
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レポート』第四七号、三―八頁。
* 二〇〇五年の国民投票とその結果についてくわしくは津
田( 2007)aを参照されたい。
二〇〇三年一〇月一三日にナイロビで行ったインタ
ビュー。
*
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106
107 暴力化した「キクユ嫌い」
17 16
18
19
特集 1
―
変貌するアフリカ
クレプトクラシーのモデルについて
③ クレプトクラシー体制の鍵を握るのは「正当な物理
的暴力装置」と仮定する。
井上一明
ジンバブウェのクレプトクラシー体制とそのメカニズム
︱︱二〇〇〇∼〇八年
Ⅰ 問題の所在
本稿は、二〇〇〇年から二〇〇八年までのジンバブウェ
の政治体制を読み解こうとするものである。そしてここで
の問題意識は、以下の三点である。
① 二〇〇〇年から二〇〇八年までの時期におけるジン
バブウェの政治体制をクレプトクラシー体制としてと
らえる。
② ジンバブウェにおけるクレプトクラシー体制のメカ
ニズムを分析する。
ジンバブウェの政治体制を分析する際に参考となるモデ
ル、そしてとくにアフリカ諸国を分析対象とした政治体制
のモデルは少なくない。たとえば、古典的なものとしては
ジャクソンとロスバーグによる『ブラック・アフリカにお
)をあげる
ける個人支配』( Jackson and Rosberg 1982 : 316
ことができよう。ここでジャクソンらのモデルを紹介する
余裕はないが、彼らの諸モデルに則していうならば、本稿
ラシーというタームないしは概念を使った研究としては、
権力の座にある人々が自分たちのためにほとんどすべての
が扱う時期のジンバブウェは、
「暴君型 (
)
」というモデルに一番近いと思わ
人 支 配 ( Personal Rule
れる。しかしながら本稿でこのモデルを採らない理由は、
資 産 を 掌 握 す る 体 制、 と い う 意 味 で こ の 言 葉 を 使 っ て お
たとえばオルソンは、一国の経済的繁栄を議論する際に、
「個人支配」という、
まさに支配のメカニズムとしての「個
)
」の「個
Tyrant
人」に焦点を合わせた結果として、本稿で分析しようとす
り ( Olson 2000 :)
、
1 バ イ ヤ ー ト、 エ リ ス、 そ し て ヒ ー ボ
ウは、国家の犯罪化の過程をクレプトクラシーから凶悪国
デルが内包する指導者の時系列的な変動過程を見失う危険
。
ろう (佐藤 2007 :)
9 また本稿では分析対象期間を限定す
ることによって、ヒーデンが指摘したジャクソンたちのモ
いくことの必要性に相通ずるものがあるといってよいであ
官僚制そして軍隊といった国家の諸要素との関連で捉えて
国家』のなかで指摘している点、すなわち統治者を法制度、
危惧したためである。これは、佐藤がその編著『統治者と
割・統治戦略に部分的に依存している、と結論づけている
否かは社会における諸制度の弱体化によって可能となる分
のために転用する体制と定義し、この体制が功を奏するか
し は 小 集 団 の 利 益 の た め に 統 制・ 運 用 さ れ、 彼 ら は 権 力
)
。またエースモル、ヴァーディアー、そしてロ
et al. 1999
ビンソンは、クレプトクラシー体制とは、国家が個人ない
)へ と い う 観 点 で 分 析 し て い る ( Bayart
家 ( the felonious
る「正当な物理的暴力装置」の役割が不明確になることを
性を最小限度にとどめることが可能になり、限られた期間
は「泥棒」
、そしてクラシーは「支配」あるいは「統治」
)とは、デモクラシーやアリス
プトクラシー ( kleptocracy
ト ク ラ シ ー な ど と な ら ぶ 統 治 の 一 形 態 で あ り、 ク レ プ ト
ク ラ シ ー」 と い う 概 念 に つ い て 説 明 し て お き た い。 ク レ
。
めである ( Hyden 2006 : 100佐; 藤 2007 :)
8
ところで本稿において中心的な位置を占める「クレプト
そしてどのように獲得するのかということに焦点を合わせ
制とは何か、そしてこの体制において誰が、何を、何時、
十分に実証的とはいえない。本稿は、クレプトクラシー体
分 に 分 析 し て い る と は い え な い。 バ イ ヤ ー ト た ち の 議 論
を所与のものとして捉え、そのメカニズムについては、十
を行使することによって社会的資源の大部分を自分たち
におけるメカニズムの分析がより明確化されると考えたた
( Acemoglu et al. 2004 : 162
)
。
以上のようなこれまでの研究は、クレプトクラシー体制
を 意 味 す る こ と か ら、 ク レ プ ト ク ラ シ ー と は 文 字 通 り に
ている。そこで以下、本稿で議論するクレプトクラシー体
は、本稿で議論しようとしている内容に近いが、必ずしも
は「泥棒支配」を意味するタームである。このクレプトク
108
109 ジンバブウェのクレプトクラシー体制とそのメカニズム
1
制の捉え方について説明しておきたい。
されるべき資金から調達される。このため、市民生活の質
もっぱら地位と私的な富を求める人々による政治」ないし
は一般に「クレプトクラシー」を「被統治者を犠牲にして
な辞書においては、簡単な記述があるだけであり、そこで
を対象として国家資源の再分配を行う体制、という意味で
の支配者がその近親者や支持者といった限られたアクター
ば家父長制度がそのまま国家になったような、つまり国家
クレプトクラシーは、ウェーバーの議論を踏まえていえ
にさらなる害を生じさせる。
は、
「権力の座にあるアクターたちが国家資源を略奪し着
制」国家というタームを用いずに「クレプトクラシー」と
「新家産制」に類似している。本稿においてこの「新家産
クレプトクラシーという言葉の定義については、語学的
服する政体あるいは国家」と説明している。本稿において
いうタームを用いた理由は、国家資源の再分配のメカニズ
*1
は、クレプトクラシーの定義、その特徴そしてその効果を
以下のように説明する。クレプトクラシーとは、政治権力
ムよりも支配のメカニズムに焦点を合わせたかったためで
*2
を行使することによって公職にある者および支配階級の私
ク レ プ ト ク ラ シ ー の統治 メ カ ニ ズ ム
ある。
的な富の拡大を、民衆を犠牲にして行う政治体制であり、
)と 集 合 的 に
そ の 構 成 員 は ク レ プ ト ク ラ ッ ト ( kleptorats
呼ばれる。その特徴としては、独裁制あるいは専制的でネ
ポ テ ィ ズ ム な 政 府 の 形 態 で あ り、 典 型 的 な ク レ プ ト ク ラ
シーの支配者は、国家の財産をあたかも個人の銀行口座の
クレプトクラシーの統治メカニズムとして指摘すること
な弱体化を生み出す。またしばしば税金を財源とする基金
体制は外国投資の極端な不足、市場および対外貿易の急激
政治そして市民の権利を食い物にするという点にあり、同
クレプトクラシー体制の否定的な効果は、国家の経済・
脅 迫、 暴 力 お よ び 行 政 部 寄 り の 裁 判 官 の 任 命 な ど )に よ っ
行われる。他方司法部は、あらゆる手段 (現職裁判官への
しば議会の立法にかわって大統領の行政命令による統治が
を行う。すなわち議会が「ゴム印議会」となる。またしば
おいては立法部が形骸化し、行政部の意向に則した立法化
行政部による一元的な支配のもとに置かれる。この体制に
ができるのは、まず三権分立の喪失である。そして国家は、
の乱用そしてマネーロンダリングによって市民生活の質を
ように扱う。
悪化させる。そして政府 (行政部)が着服する資金は、病
周知の通りウェーバーは、「国家とはある一定の領域の
いうことである。そして「正当な物理的暴力装置」が忠誠
は、支配者への忠誠を誓い、その命令に服従し、そして義
いてもいえよう。いいかえれば、
「正当な物理的暴力装置」
て行政部の統制下に置かれ、その独立が剥奪される。他方、
内部で正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同
を誓う政治指導者だけが、その支持を得て政治権力を行使
院、学校、道路、公園の建設といった本来公共投資に費や
。
体」と定義している (ウェーバー 1980 :)
9 この国家の定
義に則していえば、行政部の政策履行を担保する主体とは
トロール」が定着していないような国家において、軍のエ
「正当な物理的暴力装置」ということができよう。ここで
することができる。そしてこうした傾向は、とくにアフリ
クレプトクラシーの支配層、つまりクレプトクラットは政
問題となるのが、いわゆる「シヴィリアンコントロール」
カ諸国において顕著に見られるのである ( Amoda 2008
)
。
それではなぜ軍、警察、そして刑務といった「正当な物
スタブリッシュメントに危害を及ぼさないこと、また「正
の問題である。たとえばダールは、「シヴィリアンコント
理的暴力装置」の構成員は、みずからのエスタブリッシュ
当な物理的暴力装置」の利益・価値を満足させることが、
ロール」にとって、軍の政治体制に対する忠誠、服従そし
メントを堅持し、また彼らが守ろうとするシステムないし
権の維持を手段として、国家資源の略奪という目的を「合
て義務という信条を生み出し、かつこれを支えるものとし
は諸価値の安定、繁栄、あるいは存在を維持するために文
法的」に追求する。この場合クレプトクラットが掌握する
ての「軍人としてのプロフェッショナリズム」だけでは不
民に代わって政権の座に就こうとしないのか。アフリカに
文民政権にとっては政権の安定、存続にとって重要な用件
十分であり、文民指導者たちが軍のエスタブリッシュメン
おいては、少なくとも九〇年代にいたるまで、多くの軍部
行政部の政策履行を担保する主体とは何であろうか。本稿
トに危害を及ぼすと確信した場合に、軍人たちは全面的に
政権が登場してきた。しかしながら九〇年代のアフリカに
となる。このことは、デモクラシーばかりではなく表面的
シヴィリアンコントロールに抵抗し、かつこれを排除する
おける「民主化」以降、その数は激減している。その理由
では、これを「正当な物理的暴力装置」、すなわち軍、警察、
可能性がある。また軍人が守ろうとするシステムないしは
には文民が支配者となっているクレプトクラシー体制につ
諸価値の安定、繁栄、あるいは存在が脅かされたと感じた
は、やはり「民主主義のグローバル化」によるものと考え
そして刑務と想定する。
場 合、 文 民 指 導 者 を 拒 否 す る こ と も あ り う る と 指 摘 す る
)
てよいであろう。たとえばアフリカ連合 ( Africa Union
*3
務を履行するかどうかを自立的に決定する場合がある、と
( Dahl 1991 : 82 - 83
)
。であるとすれば、「シヴィリアンコン
110
111 ジンバブウェのクレプトクラシー体制とそのメカニズム
2
*6
的暴力装置」の主体にとってはみずからは政治の背後に位
拒否」が明確に規定されている。したがって「正当な物理
定められた手続きを無視した政権交代に対する非難と承認
は、 ジ ン バ ブ ウ ェ 独 立 以 前 の Z A N U ‐ P F の 反 植 民 地
て き た と い う 議 論 で あ る。 そ し て こ う し た 同 政 権 の 性 格
持するために、必要な場合にはつねに物理的暴力を行使し
立以来のものであり、同政権は、みずからの支配体制を堅
る。つまりZANU‐PFムガベ政権のこうした性格は独
置して、自分たちの既得権益を擁護することを確約した文
武装解放組織としての経歴に由来すると見なすのである
の憲章にも、
「民主主義の諸原則の尊重」そして「憲法に
民指導者を支持する、という選択がもっとも合理的な選択
(
部分的には「民主主義のグローバル化」の産物であるとい
権の交代の可能性がきわめて低い「選挙権威主義体制」も、
も日常的にそれが表面化したわけではなかった。また支配
いえない。すなわち少なくとも独立後一〇年間は、仮にZ
の政治史を見るならば、必ずしも事実を反映しているとは
。
Bratton and Masunungre 2008 : )
43
しかしながら、こうした議論は、ジンバブウェの独立後
といえるであろう。ちなみに、客観的には「自由かつ公平」
えよう ( Schedler 2006
)
。
それでは以下、これまでの「クレプトクラシー」とその
者 た ち を 被 支 配 者 で は な く、 シ ス テ ム を 構 成 す る パ ト ロ
とは決していえない選挙が繰り返し行われ、したがって政
メカニズムに関する議論を踏まえてジンバブウェにおける
ン、協力者、クライアント、支持者、そしてライバルに連
( Jackson and Rosberg 1982 : )
の「個人支配」
19でもなかっ
たのである。むしろ一九八〇年代のジンバブウェは、社会
)
」として
結する「関係のシステム ( a system of relations
ANU‐PFが基本的に暴力的な性格を持っていたとして
クレプトクラシーについて論じてみたい。
*4
Ⅱ ﹁クレプトクラシー﹂国家の歴史的背景
主義に基づく福祉国家、そしてそれを実現するための給付
よる著作にこの傾向が多く見られる。またZANU‐PF
独裁という解釈が一般的であり、とくにジャーナリストに
ように、ジンバブウェを見る視点としては、ムガベ個人の
なっていった。この意味で九〇年代の政治・経済、そして
支配者と被支配者のあいだの乖離が次第に顕著なものと
造調整計画」を実施して貧富の差が急激に拡大した結果、
こうしたジンバブウェが、九〇年代に入りいわゆる「構
行政というタームによって象徴される国家であった。
政権については、その暴力的性格がしばしば指摘されてい
そして七千人が身体的虐待を受けた、と報告された ( The
「黒いヒトラー」
「暴君ムガベ」といった表現に見られる
社会的状況は、二〇〇〇年代のクレプトクラシー体制を論
Catholic Commission for Justice and Peace in Zimbabwe
)
。この事件は、
and The Legal Resources Foundation 1997
ZANU‐PF政権の暴力的性格を示すひとつの根拠とし
*5
じる上で重要な意味を持つであろう。なぜならば、ジンバ
制への体制転換の原因をこの時期に見出すことができるか
てしばしば指摘されている。たしかに上記のような同政権
ブウェにおける「民主主義体制」からクレプトクラシー体
らである。
の非人道的な活動は、たとえそれが国家統合、そして国内
治安の維持という目的であっても決して正当化することは
一九八〇年、少数白人支配体制のローデシアが消滅し、
を打倒しようという行動、そしてこれを「正当な物理的暴
権の座に就いた政党の支配を受け入れず暴力によってこれ
によって「自由かつ公平」と評価された総選挙の結果、政
そ し て給付行政
普通選挙権に基づく民主主義国家のジンバブウェが誕生し
社 会 主 義
た と き、 白 人 政 権 と の 約 一 〇 年 に わ た る 内 戦 の 当 事 者 で
力装置」によって鎮圧する、というパターンはアフリカで
*7
できないであろう。しかし少なくとも外部のオブザーバー
あったZANU‐PFは、有権者の圧倒的な支持により政
ジンバブウェの独立当初から、ムガベはみずからの政権
はよく見られるとはいえ、同様に決して正当化しえないで
の目標として「最大多数のジンバブウェ人のための社会的
あろう。したがって当時のZANU‐PF政権のこうした
前者の課題に関して同政権は、ンデベレ人を基盤とする
な最大幸福」を掲げ、これは白人とアフリカ人のあいだの
権の座についた。ムガベ率いるZANU‐PFにとっての
野党勢力PF‐ZAPUをほぼ強制的にZANU‐PFへ
支配従属関係というジンバブウェにおける歴史的矛眉の解
優先的な政策課題は、内戦終結後のいわゆる「DDR (武
吸収合併して全国的な権力基盤を確立した。この過程にお
消にある、とした。彼によれば、こうした目標を実現する
行動だけがとくに暴力的であったという議論はいささか客
いて、ンデベレ人が多数派を占めるマタベレランドを中心
装解除、動員解除、社会復帰)
」そして白人と黒人のあいだ
として武装集団による反政府活動が発生し、これは約五年
ためのイデオロギーが社会主義であり、社会主義のみが最
観性を欠くように思われる。
間続いた。ZANU‐PF政権は、これを武力で鎮圧した
大多数のジンバブウェ人に杜会的な最大幸福をもたらし、
の格差是正であった。
が、 こ の 間、 三 七 五 〇 人 が 死 亡 し、 一 万 人 が 拘 禁 さ れ、
112
113 ジンバブウェのクレプトクラシー体制とそのメカニズム
1
共同体的伝統に立脚するものであり、こうした伝統とマル
張したのである。さらに彼は、ジンバブウェの社会主義は、
れ は 必 ず し も 社 会 主 義 的 政 策 と は い え な い が、 い わ ゆ る
一七・一%であり、防衛費は一二・一%であった。さらにこ
い て は、 さ ら に こ の 比 率 が 逆 転 し て 教 育 が 占 め る 割 合 は
か ら も 明 ら か で あ る。 た と え ば 八 九 / 九 〇 年 度 予 算 に お
の政府予算に占める割合が防衛費に次ぐものであったこと
クス・レーニン主義の理論と実践からその基本的な思想と
ジンバブウェの歴史的な矛眉を解消することができると主
原理を引き出したものであると説明した。
こうしたいわば「ジンバブウェ社会主義」と形容される
会福祉と教育の充実を図るとともに最低賃金制を導入し、
ムガベ政権は、いわゆる福祉国家の建設を目標として社
若干の増加が見られる。他方、中間管理職については、全
一〇%から大幅な増大、そして八九年の三七%と比べると
上級管理職の三八%をアフリカ人が占め、これは八六年の
かたちで増大した。すなわち一九九一年の段階ですべての
「積 極 的 差 別 是 正 措 置 (ア フ ァ ー マ テ ィ ヴ ア
」
・ クション)
が開始され、政府機関はもとより民間企業においてもアフ
ローデシア時代に意図的に押さえられていたアフリカ人の
体 の 六 八 % を ア フ リ カ 人 が 占 め て い る。 こ れ も 八 六 年 の
リカ人の積極的な雇用と昇進が実現した。たとえば民間セ
賃金の上昇、そして全般的な生活条件の改善をめざした。
社会主義は、その実践的側面において二つの側面を有して
具体的には低所得者層を対象とした医療費の国庫負担、お
四五%、八九年の六五%に比べれば確実に増加傾向にあっ
い た。 す な わ ち 貧 し い 人 々 に 対 す る 行 政 サ ー ヴ ィ ス の 充
よび初等教育における授業料の無料化である。その結果、
)
。 こ の こ と は、
た ( Business Herald, 12 December 1991
いうまでもなく経済界における白人の独占的体制が崩壊し
クターにおけるアフリカ人の進出は、大企業においてはア
平均余命 (平均寿命)は、一九六〇年の四五歳から八七年
つつあったことを意味すると同時に、アフリカ人高額所得
実、そして統制経済である。ここでは前者、すなわち給付
に は 五 八 歳 へ 上 昇 し た。 ま た 初 等 学 校 の 就 学 児 童 数 は、
フリカ人の中間管理職、そして上級管理職への昇進という
七九年の八二万人から八五年には二二三万人に大幅に増
者の増加を示していたのである。
行政に限定して簡単に論じておきたい。
え、さらに中等学校の生徒数も六万六千人から四九万九千
人へと増加した ( Central Statistical Office N.D.: 29 - 45 , 65 )
。このようにムガベ政権が社会福祉政策と教育政策にい
81
かに重視していたかということは、八〇年代、教育と保健
ソリンとディーゼル・オイル、電気などの価格が次々と値
そして統制経済から市場経済へという転換を意味した。す
:ESA
画 ( Economic Structural Adjustment Programme
P)
」を開始した。これは「大きな政府」から「小さな政府」、
ジ ン バ ブ ウ ェ は 一 九 九 一 年 五 月 か ら「経 済 構 造 調 整 計
道 料 金、 医 療 費、 営 業 許 可 証 料 金、 そ し て 公 立 学 校 の 施
地方自治体によって運営される公営住宅の賃貸料、上下水
価切り下げによる輸入材料の高騰と、それに伴う衣料・雑
バス料金、鉄道料金)の値上げ、ジンバブウェ・ドルの平
上げされていった。また公共輸送機関の料金 (具体的には
なわちジンバブウェ政府は、八〇年代における教育・福祉
)などの値上げが段階的に実施された。
設費 ( School Levy
なお公立初等学校における授業料も一九九一年一月から導
に対 す る民衆 の不満
サーヴィスに対する巨額の経常的な支出、統制経済による
入された。さらに農村部の人口過剰と貧困、そして都市に
Z A N U ︲ P F 政 権
国民経済の低迷、そして対外累積債務の悪化などにより社
に伴う消費者物価の急激な高騰、教育・保険医療分野にお
影響としては、生活必需品に関する公定価格の漸進的撤廃
人々に多大な社会・経済的影響を及ぼした。すなわちその
ESAPの導入は、単に経済体制の変革にとどまらず、
犯 罪 発 生 率 が 上 昇 し、 ま た 犯 罪 が 凶 悪 化 し て い っ た こ と
民の生活は次第に困窮していった。その結果、都市部での
住宅事情、さらには雇用不安などによって都市部の一般住
費者物価の高騰そして三〇%を超えるインフレ率、苛酷な
ないまま彼らの強制的な移動を繰り返したのであった。消
貨品の値上げなどが急激に発生した。都市部においては、
会主義社会の実現そして社会福祉政策の継続を放棄せざる
)の問
おける住宅不足に端を発した不法居往者 ( squatters
題も深刻化し、政府はこの問題解決に有効な手段を見出せ
ける受益者負担制度に基づく教育費の導入と医療に対する
は、 都 市 部 住 民 の 日 常 生 活 を さ ら に 不 安 定 な も の に し て
をえなくなったのである。
政府補助金の大幅削滅、そして労働条件と労賃に関する規
いった。
*8
制の緩和が盛り込まれた新たな労働法による労働者の地位
ESAP開始以前から公共企業体の政府補助金依存体質
の種などの価格の高騰は、農村社会にきわめて深刻な影響
響も次第に顕在化していった。たとえば化学肥料やメイズ
農村部における経済自由化およびESAPの否定的な影
を改善すべく、牛乳、牛肉、砂糖そして主食であるメイズ
を与え、とくに農村部の女性たちは、物価の高騰によって
の弱体化などがその主たるものであった。
粉 (ローラー・ミル)などのほとんどすべての食料品、ガ
114
115 ジンバブウェのクレプトクラシー体制とそのメカニズム
2
)
。そ
れることになった ( Sunday Mail, 10 November 1991
して農村部の住民は、一九九一年からの二年続きの早魅に
制度も物価の上昇による生活の窮乏によって解体を強いら
そうの苦難を強いられた。これに加えて伝統的な一夫多妻
)の衰退によっ
れた。また拡大家族制度( Extended Family
て厳しい条件のなかで生活している老人たちは、よりいっ
(教 育 費 を 含 む )を 支 出 で き な い と い っ た 状 況 に 追 い 込 ま
こうした生活苦のために子どもに対しても十分な養育費
に雇用機会に恵まれず生活を改善する術をもたなかった。
きわめて苦しい生活を強いられながらも、学歴がないため
が暴動へと発展したものであった。なお①は、警官の発砲
⑦は、物価の高騰を不満とする一部の都市住民のデモ行進
(と く に 賃 上 げ )を め ざ し た 組 織 的 行 動 で あ り、 他 方 ⑤ と
などである。このうち②③④そして⑥は、労働条件の改善
てブラワヨにおけるガソリンの値上げに端を発する暴動、
棄」、⑦九八年一一月のハラレ、チトゥングウィザ、そし
値上げに端を発したハラレとチトゥングウィザにおける暴
:ZCTU)
」主導によるゼネストとその直後
Trade Union
にハラレにおいて発生した暴動、⑤九八年一月、食料品の
月、「ジ ン バ ブ ウ ェ 労 働 組 合 会 議 ( Zimbabwe Congress of
セクターに生活の糧を求めたが、都市部の人々が全体とし
マルセクターから生み出された失業者は、インフォーマル
の悪化を体験することになった。都市部の貧困層やフォー
都市部で暮らす人々は農村部で暮らす人々よりも生活条件
大きな生活苦をもたらした。そしてこれによって、とくに
ESAPは、このようにジンバブウェの大多数の人々に
F政権に対する不満を蓄積させたのである。
らされた生活条件の悪化は、民衆のあいだにZANU‐P
おける騒乱に示されるように、ESAPの結果としてもた
めて厳しい措置を課したこと、である。こうした都市部に
と、そして第二点は公務員の抗議運動に対して政府はきわ
ある。すなわち第一点は、騒乱状態は都市部で発生したこ
そしてこれらの事例から確認しうることは、以下の二点で
に激怒した市民の抗議運動が暴動となった事件であった。
動、 ⑥ 九 八 年 中 に 頻 発 し た Z C T U 主 導 に よ る「職 場 放
よってさらに大きな被害を受けたのである。
て生活条件の悪化によって不満を募らせたことは明らかで
The Zimbabwe Mirror, 19 - 25 , March 1999 ; Constitutional
)
。九九年一一月三〇日
Commission of Zimbabwe N.D.: 20
*
に発表された新憲法草案の骨子は、次のとおりである。①
(
参 加 を 拒 否 し た た め に、 結 果 的 に 政 府 主 導 で 起 草 さ れ た
ある。そしてこれは九〇年代後半に入って頻発したストラ
イキと都市暴動によって示されている。すなわち①九五年
一一月の首都ハラレにおける暴動、②九六年八月と一〇〜
一一月の公務員ストライキ、③九七年七〜九月頃、経済の
あらゆるセクターにおけるストライキ続発、④九七年一二
Ⅲ クレプトクラシー国家の誕生
1 ク レ プ ト ク ラ シ ー体制 へ の転換点
︱︱新憲法草案 に関 す る国民投票
先に述べたように、一九九〇年代後半において、ハラレ
大統領の任期を一期五年間二期までとする。②大統領の権
限の大幅拡大。③首相のポストの設置。④六〇議席からな
る上院の設置。⑤下院選挙への比例代表制の導入。⑥政府
から独立した選挙管理委員会の設置。⑦伝統的指導者に対
MDCは当初からこの憲法草案に否定的であり、国民投
する権限の付与。
票による否決を目指して他の市民団体 (NGO)とともに
の労働者の労働条件の改善に深く関わり合い、ゼネスト、
そして職場放棄を組織したのが ZCTUであった。同組
われた国民投票の結果、同憲法草案は反対票五五%で否決
活動を展開した。そして二〇〇〇年二月一二・一三日に行
織 は、 九 九 年 二 月 み ず か ら を 母 胎 と し て 政 党 を 結 成 す る
ことを発表し、同年九月、「民主改革運動 (
Movement for
この投票結果において指摘されるべきことは、新憲法草
された。
にする一方で、農村部への浸透にも積極的に取り組んだ。
案に対する反対票が都市部ばかりではなく、農村部におい
:MDC)
」を結成した。そして以後同
Democratic Change
党は、ハラレ、ブラワヨといった都市の住民の支持を確実
すなわち農村部において同党は、初等・中等学校の教員を
ても広範に見られたということである。いうまでもなく、
*9
の活動が実を結んだ最初の事例が、二〇〇〇年二月に行わ
つうじて支持基盤の拡大を目指したのであった。そしてそ
)
ア フ リ カ 諸 国 の よ う に 人 口 構 成 が 多 民 族 ( multi-ethnic
である場合には、個々のエスニシティーそしてエスニック
と え ば 二 〇 以 上 の 市 民 団 体 を 代 表 す る「全 国 制 憲 会 議
「制 憲 委 員 会 」 に よ っ て 起 草 さ れ る 予 定 で あ っ た が、 た
新 憲 法 草 案 は、 当 初、 官 と 民 の 代 表 か ら 構 成 さ れ る
ていえば、「ショナ人」が多数を占める選挙区おいては憲
行動をその結果から見ることができる。すなわち単純化し
してこの国民投票においてもエスニックグループ別の投票
グループごとの投票行動に関する分析が必要であろう。そ
れた「新憲法草案」に関する国民投票であった。
: N C A )が こ れ へ の
National Constitutional Assembly
(
116
117 ジンバブウェのクレプトクラシー体制とそのメカニズム
**
〇五年の議会選挙とは有権者の投票行動という点において
投票が、同じ年の議会選挙、〇二年の大統領選挙、そして
においては憲法草案反対であった。しかしながらこの国民
正確に反映されたものと推測できよう。そしてこの国民投
ける有権者の政治意識が同年の議会選挙の投票結果よりも
ベルの、とくに「ショナ人」が多数派を占める選挙区にお
示したということを意味するばかりではなく、各選挙区レ
票結果は、有権者の過半数が政府に対する否定的な態度を
大いに異なるのは、
「ショナ人」が多数を占める選挙区に
票の結果はZANU‐PF政権にとっては、クレプトクラ
法草案賛成、そして「ンデベレ人」が多数を占める選挙区
おいても無視できないほどの憲法草案反対票が見られたと
ク レ プ ト ク ラ シ ー体制 の メ カ ニ ズ ム
シー体制への転換を推し進める転機となったのである。
国民投票の投票結果は、たんに新憲法草案それ自体に対
いうことである。
する反対票というだけではなく、その背後にはESAP以
NU‐PF政権に対する生活苦に基づく不満があり、それ
ループの違いを超えた全国的なレベルにおける人々のZA
立法部の形骸化、②司法部の独立剥奪、③「市民社会」に
ムを、本稿においては次の四点から分析する。すなわち①
ジンバブウェにおけるクレプトクラシー体制のメカニズ
後の都市部・農村部の違いを超えた、そしてエスニックグ
が反対票というかたちをとった、ということができるであ
対する弾圧、そして④行政部による民間資産の略奪、であ
の前年から全国各地で行われていた「新憲法起草委員会」
るといった行為もほとんど行われなかった。また国民投票
MDCをはじめとする「市民団体」の活動に露骨に介入す
を使って賛成票を投ずるように強いることはなかったし、
たがって、ZANU‐PFは有権者に対して物理的な暴力
されたZANU‐PF議員による多数派議席の固定化であ
員会を含む)によって操作された議会選挙に基づいて選出
会」化を生み出したひとつの要因は、行政部 (選挙管理委
を慎重な審議なしに成立されるという意味での「ゴム印議
立法部の形骸化、言葉をかえれば行政部提出による法案
立法部の形骸化
る。
による公聴会においても、人々の反政府的な発言に対する
る。
二〇〇〇年六月から二〇〇八年三月二九日までのあいだ
が重要な課題であった。これによって同党は、議会の過半
ぼ独占することによって政権基盤を安定させるということ
は、人口の約七五%を構成するショナ系住民の選挙区をほ
数 (あるいは三分の二以上)の議席を獲得し、憲法改正を
よび〇五年三月)
、そして大統領選挙が一回 (〇二年三月)
行われた。ここではこれらの選挙を詳細に分析する余裕は
含むあらゆる政府法案の成立を可能にしたのであった。
ショナ系住民が多数派を占める選挙区において圧勝し、M
な選挙」とは見なされなかったこと、②ZANU‐PFは、
および「元兵士」、ZANU‐PF党員、そして軍による
二〇〇〇年三月以降、政府による白人農園の強制収用、
司法部の独立剥奪
な手続きに基づくものではなく違法であり、政府の活動は
DCは都市部およびンデベレ住民が多数派を占める選挙区
者に対する暴力行為、そして開票をめぐる不正行為が全国
基本的に私有財産権の侵害にあたるという判断を下した
の訴えに基づいて、政府による白人農園の強制収用は法的
的に見られた。とくに農村部においては、MDCの選挙運
、最高裁判所は白人農園主
農 園 侵 略 が 続 く な か で (後 述 )
動の中核となった教員に対する暴力行為が頻発した。同選
( Panafrican News Agency, 11 November 2000
)
。
ジンバブウェにおいてはすべての判事は、司法部の職員
の議席をほぼ独占したこと、である。①に関しては、たと
挙に派遣された英連邦オブザーバーグループも、その報告
人事を統括する「法務職員委員会」の勧告に基づいて大統
されていた。しかしながらZANU‐PF政権は、土地の
書のなかで、全国各地で暴力行為や脅迫行為が見られ、こ
と、そしてこうした行為は、有権者の選択の自由を損なっ
強制収用を違法とした最高裁判所の判決を強く非難し、法
れており、これによって司法部の独立性を保つことが意図
た と 指 摘 し て い る ( Commonwealth Secretariat 2000 : 32 -
)は、行政府の決定はも
務相チナマサ ( Patrick Chinamasa
はや変更しえないものであること、そして高等裁判所およ
領によって指名されることが憲法 (憲法九一条)に定めら
)
。こうした傾向は、〇二年大統領選挙、そして〇五年の
33
議 会 選 挙 に お い て も 見 ら れ た。 ② に つ い て ク レ プ ト ク ラ
び最高裁判所の判事に白人を任命したことは大きな誤りで
うした行為はとくに農村部で顕著であり、野党やその候補
シー体制との関連でいうならば、ZANU‐PFにとって
者たちは同地域で選挙運動を行うことが妨げられていたこ
えば〇〇年議会選挙は、その選挙運動期間中から野党支持
外のオブザーバー、および諸政府によって「自由かつ公平
ないが、それらに共通する点を列挙すると、①アフリカ圏
にジンバブウェにおいては議会選挙が二回 (〇〇年六月お
*
妨害は見られなかった。この意味において、国民投票の投
草案を支持するものと楽観視していたように思われる。し
ZANU‐PF政権は、人々が国民投票において新憲法
ろう。
2
118
119 ジンバブウェのクレプトクラシー体制とそのメカニズム
**
ちは、再三にわたって最高裁判所に対して示威行動を行う
)を任命したのであった。
デャウシク( Godfrey Chidyausiku
他方、
「元兵士」たち、およびZANU‐PFの支持者た
最終的に政府は、彼の後任としてZANU‐PFに近いチ
)に対し
に、最高裁判所長官ガッベイ ( Anothony Gubbay
て辞任を強要し、〇一年三月彼を停職処分とした。そして
近い人物を高等裁判所判事として次々と任命するととも
題へとすり替えたのであった ( Herald, 8 December 2000
)
。
同政府は、その後、ZANU‐PF党員ないしは同党に
権力の行使を一貫して批判してきた非政府系日刊紙「デイ
トが国内退去処分になり、さらにこれまで政府の恣意的な
る。この結果、同法に基づいて多くの外国人ジャーナリス
外国人ジャーナリストの国内活動を禁じる内容のものであ
ライバシー保護法」に代表されるが、これはすべてのマス
入は、〇二年に立法化された「情報へのアクセスおよびプ
し て お り、 警 察 は こ れ を 積 極 的 に 阻 止 す る よ う な 行 動 を
系のメディアに対する妨害活動は、〇〇年以降とくに頻発
「市民社会」に対する弾圧
とともに、白人の判事およびその家族に対して威嚇・脅迫
あったと語り、この問題を法的な手続きの問題から人種問
行為を繰り返し、彼らをその職を離れざるをえない状況へ
リー・ニュース」も〇三年九月、発禁処分となった。
バブウェのケースからいえることは、「正当な物理的暴力
嚇・脅迫行為によってその独立性を失った。すなわちジン
介入、そして「元兵士」とZANU‐PF支持者による威
かくしてジンバブウェにおける司法部は、行政部による
とくに「憲法修正第一七号」は、海外への渡航をふくむ移
(〇五年)をあげれば十分であろう。
て「憲法修正第一七号」
、そし
活動を禁ずる「民間ボランティア組織法」(〇四年)
、すべてのNGOを登録制として反政府的なNGOの
年)
動を厳しく規制する「公共秩序および安全保障法」(〇二
市民社会に対する政府の統制としては、反政府分子の活
メディア組織およびその関係者を登録制にするとともに、
まったくとらなかった。「表現の自由」に対する政府の介
「元兵士」およびZANU‐PFの支持者による非政府
と追い込んだのである。
装置」を独占する行政府がその権力を恣意的に行使した場
動の自由の制限、また賠償を伴わない農地の接収、そして
合、そうした行為を押しとどめる憲法上の安全装置は機能
せず、その結果として三権分立は形骸化し、行政府の独裁
農地の接収に関する司法判断の停止を規定したものであっ
た。
体制が確立される、ということである。
うした支配体制、国家による資産の略奪という「クレプト
当な物理的暴力装置」を独占していたのである。そしてこ
り、
さらに同政権はこの制度を効果的に運用するための「正
その支配体制を維持するうえで非常に効果的な制度であ
侵害するものであったが、ZANU‐PF政権にとっては
兵 士 」 の 利 益 団 体 で あ る「ジ ン バ ブ ウ ェ 全 国 元 兵 士 協 会
たのであった。さらに「農園侵略」において同政権が「元
て 成 立 さ せ、 こ れ に よ っ て 一 方 的 な 土 地 収 用 を 合 法 化 し
〇〇年四月、新たな「土地収用法」を大統領権限に基づい
せ よ う と は し な か っ た。 そ れ ば か り で は な く 同 政 権 は、
派 遣 し た が 農 園 を 占 拠 し た「元 兵 士 た ち 」 を 強 制 退 去 さ
ZANU‐PF政権は、こうした事態に対して警察官を
こうした諸法は、基本的人権そして私有財産権を著しく
クラシー体制」の実効性は、「農村侵略」、企業の国有化そ
( Zimbabwe National War Veteran Association
)
」と連携し
ていたことがのちに明らかになり、これに加えて政府は陸
して「ゴミ捨て作戦」において証明されることになった。
行政部による民間資産の略奪
軍およびZANU‐PF党員を動員して「農園侵略」を繰
られた。しかしながら彼らの活動はその後次第に組織化さ
人農園の侵略を行い、政府と交渉するといったケースが見
は、この「元兵士」が村人を動員するかたちで平和裡に白
指して「解放勢力」に身を投じた人々のことを指す。当初
る。
「元兵士」とは、七〇年代、ジンバブウェの独立を目
大農園を暴力を用いて一方的に侵略し、占拠する活動であ
と呼ばれる人々が主要なアクターとなり、白人が所有する
)
」をあげることができる。
Murambatsvina
「農園侵略」
とは、
二〇〇〇年三月以降いわゆる「元兵士」
とくに他のアフリカ諸国に対して「農園侵略」を正当化し
いう「大義」を掲げることによって国内的そして国外的、
種対立の図式を組み込み、さらに「植民地主義の清算」と
地改革、大農園主対小農という図式に白人対黒人という人
動と見ることができる。さらにZANU‐PF政権は、農
在をアピールするとともに自己の利益の実現を目指した行
兵士」たちにとっては政府との連携によってみずからの存
う要求を実現するための戦略としての側面をもち、また「元
政権にとっては、大票田である農村部住民の農地改革とい
り返していったのである。
行 政 部 に よ る 資 産 の 略 奪 と し て、 ① 農 園 侵 略、 ② 民
れ、さらには武装した「元兵士」のグループが、大農園を
たのであった。この「農園侵略」によって接収された白人
「農園侵略」は、政権の維持を目指ざすZANU‐PF
襲撃し、抵抗する白人農園主を殺害するといった行動へと
農園は国有化され、土地不足に悩む農民に再分配された。
間 企 業 の 国 有 化、 そ し て ③「ゴ ミ 捨 て 作 戦 ( Operation
エスカレートしていったのである。
120
121 ジンバブウェのクレプトクラシー体制とそのメカニズム
支配層によって所有されたと信じられているが、真偽のほ
あった。その後、民衆のあいだではこれらの農園が国家の
産性を理由に行政部によって強制的に退去させられたので
二 〇 〇 七 年 ( Indigenisation and Economic Empowerment
「先 住 民 化 お よ び 経 済 的 エ ン パ ワ ー メ ン ト 法 案、
部門の国有化をも射程にいれたものであった。
による資産の略奪は、ジンバブウェ経済の基幹をなす鉱業
どは不明である。
)
」は、ZANU‐PF党員が過半数を占める「ゴ
Bill, 2007
ム印議会」で〇七年九月成立し、翌年五月、大統領ムガベ
しかしながら旧白人農園に再入植した農民の多くは、低生
ZANU‐PF政権の推し進める「農地改革」に対して、
国籍を有する者に付与されることが定められた。これは、
がこれに署名した。同法によって、ジンバブウェで活動す
クレプトクラシー体制の支配層に属する企業家が合法的に
る鉱業そして銀行を含む外国企業の所有権がジンバブウェ
たように行政府の圧力の前にその力を失い、さらに政府批
民間資産を略奪することを可能にすることを意味したので
した。国内的にも司法部がこれに異議を唱えたが先に述べ
判勢力としての非政府系のマスメディアも行政部による弾
ある。
「私有財産権」を擁護する立場から欧米諸国はこれを非難
圧および「元兵士」とZANU‐PF支持者による暴力行
ところでZANU‐PF政権はみずからの支配体制を
為の対象となった。
ジンバブウェのクレプトクラシー体制を示すものとし
政府は主要都市の浄化を掲げて警察、陸軍、元兵士、そし
よ り い っ そ う 強 固 に す べ く、 M D C の 支 持 基 盤 と 目 さ れ
て青年民兵などを動員して「シャンティー・タウン」を物
て い た 都 市 部 の 貧 困 層 居 住 地 域 に 対 し て「ゴ ミ 捨 て 作 戦
の目的として掲げた。しかしマスメディアでは〇〇年議会
理的に一掃したのである。この強制撤去によって、同年七
て、二〇〇七年頃から行政部が積極的に議論し始めた民間
選挙前に始まった「農村侵略」同様、この民間企業の国有
月までに全国五二ヵ所で九万二四六〇戸の住居建造物が破
企業、とくに多国籍企業の国有化をあげることができる。
化も〇八年総選挙を念頭に置いたZANU‐PFの選挙戦
ていった。その後もインフレは続き、これに加えて原油価
これは民間企業、とくに多国籍企業が、ジンバブウェの経
略の一環として解釈された。この国有化という名の行政部
格の高騰と食料の輸入によって国民経済は悪化の一途をた
( Operation Murambatsvina
)
」 を 行 っ た。 こ の 作 戦 は、
〇五年議会選挙においてMDCが、都市部で前回の議会選
壊され、一三万三五三四世帯が影響を受けた。その結果、
どった。この結果としての民衆の困窮は、都市部・農村部
済を悪化させた元凶であり、したがってみずからの利潤だ
ジンバブウェの諸都市において約七〇万人が住居ないしは
を問わず全土に広がり、とくに農村部においては彼らの「生
して無関係ではないであろう。そして〇五年五月一九日、
生活資源あるいは両方を失い、推定五〇万人の子どもたち
存経済」が脅かされることになった。そしてこの事実こそ
挙 (〇〇年)と同様、圧倒的な得票数を獲得したことと決
が学校を離れ、あるいは子どもの教育が中断された。さら
が、ジンバブウェの独立以来ZANU‐PF政権の強固な
けを追求する民間企業による搾取から国有化によって民衆
に四人の子どもを含む少なくとも六人が住居の破壊と寒さ
基盤であったマショナランドの住民をも野党勢力の支持へ
を解放し、あわせてその経済支配に終止符を打つことをそ
によって死亡した。かくして全体としては人口の一八%に
*
あたる約二四〇万人が直接的ないしは間接的にこの「ゴミ
と転換させたのである。
一〇月から日常消費物資に対する価格統制を実施したが、
し た。 こ れ に 先 立 ち 政 府 は、 イ ン フ レ 対 策 と し て 〇 一 年
し、インフレ率は〇三年の時点で、前年比三八四%に上昇
資を停止したためにジンバブウェでは外貨が事実上枯渇
た。さらに〇二年六月、国際通貨基金 (IMF)も新規融
ジンバブウェの英連邦首脳会議への参加資格も停止され
陸軍、空軍、警察、および刑務の諸機関、そしてその周辺
したのである。ここでいう「正当な物理的暴力装置」とは、
なく、クレプトクラシー体制に忠誠を誓うことを明確に示
)
。ジンバブウェにおける「正当な物理的暴力装置」
2008
とその周辺に位置する集団は、同選挙において憲法にでは
とはなりえない」ことを実証した出来事であった( Amoda
「すべてのアフリカ社会において、選挙民は軍の対抗勢力
二 〇 〇 八 年 の 大 統 領・ 議 会 同 時 選 挙 は、 一 言 で い え ば
﹁正当
Ⅳ クレプトクラシー体制と
な物理的暴力装置﹂
捨 て 作 戦 」 の 影 響 を 受 け た の で あ る ( International Crisis
Group 2005 : 1)
-。
2 これと同時に、警察はインフォーマル
セクターに従事する「違法な商人達」の摘発を行い、ハラ
レにおいては二週間で一万七千人以上が逮捕された。
二〇〇〇年以降、白人農園襲撃事件、そして農地の強制
その結果しばしばマーケットから商品が姿を消すことに
収用を契機として先進国は対ジンバブウェ援助を停止し、
なった。価格統制は、〇七年六月にも再度実施されたが、
に位置する集団とはおもにに元兵士と青年民兵を指す。
これらの「正当な物理的暴力装置」とその周辺に位置す
そ の 結 果 は 前 回 と 同 じ で あ っ た。 ま た 停 電 (電 力 不 足 )
も、石油と設備投資の不足などにより日常的なものとなっ
122
123 ジンバブウェのクレプトクラシー体制とそのメカニズム
**
る集団は、同年六月の大統領選挙決選投票にいたるムガベ
け て ム ガ ベ の 選 挙 運 動 を 組 織 し た の が「合 同 作 戦 司 令 部
( Joint Operation Command
:JOC)
」 と 呼 ば れ る「正 当
な物理的暴力装置」を統括する最高安全保障機関であった
の選挙運動の主導権を握るが、国軍がその政治的中立性を
みずから否定してZANU‐PFの支配体制以外のいかな
Human Rights Watch 2008 : 18 - 19 ; Solidarity Peace Trust
(
。
2008 : 28 - )
30
JOCは、地方住宅・社会環境設備担当相ムナンガグァ
)を長として、国防軍総司令官、
Emmerson Mnangagwa
陸軍司令官、空軍司令官、警察長官、刑務長官、中央情報
(
る体制をも受け入れないという姿勢は、たとえばジンバブ
ウェ国防軍最高司令官チウェンガによってすでに選挙前か
ら表明されていた ( Kitsepile Nyathi 2008 a; 2008 b; 2008)
。
c
二 〇 〇 八 年 三 月 二 九 日、 上 下 両 院 選 挙、 大 統 領 選
挙、 そ し て 地 方 議 会 選 挙 が 行 わ れ た。 議 会 ( House of
*
局長官、そして準備銀行総裁によって構成されているとい
う。そして同機関が、主導権を握って「誰に投票したのか
ギライが出馬を取りやめたためムガベが当選した。ツァン
ガベは四三・二%、そして同年六月の決選投票ではツァン
おいて、ツァンギライが全投票数の四七・九%、そしてム
の地位を失ったのである。他方大統領選挙は第一回投票に
選挙においてZANU‐PFは、独立以来、初めて第一党
‐PF九九議席、そして無所属一議席であった。この議会
は大統領選挙第一回投票において第二位になったことから
)
。ち
Muleya 2008ノ
; ーランド 2008 : 26 - 28 ; Timberg 2008
なみに複数のマスメディアにおける報道によれば、ムガベ
J O C に よ っ て 掌 握 さ れ た と い わ れ て い る ( Philp 2008 ;
決 選 投 票 日 ま で の 期 間、 ジ ン バ ブ ウ ェ の 統 治 は 事 実 上、
残虐な暴力行為が発生したのであった。そして少なくとも
過程において多くの住民、とくにMDCの支持者に対する
)
」の名の下に大統領
作 戦 ( Operation Makavhoterapapi?
選挙決選投票日にいたるムガベの選挙運動が行われ、その
)選 挙 は、 二 一 〇 議 席 を め ぐ っ て 行 わ れ、 そ の
Assembly
結果はMDCツァンギライ派 (MDC‐T)一〇〇議席、
ギライが決選投票から降りた最大の理由は、MDCの支持
両候補者が第一回の投票で投票数の過半数を獲得できな
同 メ ン バ ー か ら 翻 意 を 促 さ れ、 そ の 結 果、 出 馬 を 決 意 し
ていた。しかしながら彼がそれをJOCに伝えたところ、
2008 : 26 ;
か っ た、 と い う「選 挙 管 理 委 員 会 」 の 発 表 に 基 づ い て 決
*
)
」 の 報 告 書 に よ れ ば、
ウ ォ ッ チ ( Human Rights Watch
「誰に投票したのか作戦」の結果、暴行・拷問事件が少な
)
。
Timberg 2008
国際人権NGOのひとつである「ヒューマン・ライツ・
らにとって利益とならなくなった場合には、彼らがムガベ
するかぎりにおいて彼に帰属するのであり、この判断が彼
「正当な物理的暴力装置」の構成員は、ムガベが自分たち
の利益にとってもっとも好ましい「大統領」であると判断
くとも二千件発生し、少なくとも三六名が殺害され、そし
二〇〇八年議会選挙における有権者の投票行動は、過去
二回の議会選挙と基本的には同じパターンが見られた。す
なわちMDCは、都市部とンデベレ系住民が多数派を占め
る選挙区で圧勝し、ZANU‐PFはショナ系住民が多数
派を占める選挙区で優位に立つというパターンである。し
げられる。以上のことから読み解くことができるのは、ジ
ガベが大統領選挙の第一回投票において敗北したことがあ
)
。 こ の 作 戦 の 背 景 は、 い う ま で も な く Z A N U
2008 : 28
‐PFが議会において独立以来の第一党の地位を失い、ム
においてもMDCが全議席の約二〇%を獲得したこと、で
ANU‐PFの独占状態が続いていたマショナランド三州
席をMDCが獲得したこと、そして②これまでほとんどZ
住民が多数派を占めるマニカランド州の三分の二以上の議
かしながら今回の議会選挙で特徴的なことは、①ショナ系
ンバブウェの「正当な物理的暴力装置」が、憲法そして国
こうした特徴は、大統領選挙の第一回投票からも読み取
ある。すなわちZANU‐PFは、そのもっとも強固な支
ることができる。すなわちマニカランド州においてはツァ
持基盤と見なしていたショナ系住民の選挙区において議席
ントに危害を及ぼすことのない人物であり、また彼らが守
家に対して忠誠心を持っているのではなく、ムガベに帰属
ろうとするシステムないしは諸価値の安定、繁栄、あるい
ンギライが勝利を収め、マショナランド三州においてはマ
していたことを示している。ダールの言葉を援用すれば、
は存在にとっては脅威とはならない「支配者」であったと
ショナランド・セントラル州ではムガベが三分の二以上の
を失ったことにより敗北したのである。
いうことである。そしてこのことは彼らがムガベに対して
ムガベは「正当な物理的暴力装置」のエスタブリッシュメ
力 行 為 の 五 六 % に 関 わ っ て い た ( Solidarity Peace Trust
)
」の
テ ィ ー・ ピ ー ス・ ト ラ ス ト ( Solidarity Peace Trust
報 告 書 に よ れ ば、 J O C は 三 月 二 九 日 以 降 に 発 生 し た 暴
を離れ国内流民となった ( Human Rights Watch 2000 : 1 - 2 ,
)
。また南アフリカの人権擁護NGOである「ソリダリ
67
に帰属する保証はなにもないのである。
忠 誠 心 を 持 っ て い る と い う こ と と 同 じ で は な い。 む し ろ
**
て三千人以上がこうした弾圧から逃れるために居住地域
*
:ノーランド
たという ( Philp 2008 ; Muleya 2008
*
者に対する前例のない規模の弾圧が「正当な物理的暴力装
決選投票への出馬をあきらめ政治の舞台からの引退を考え
MDCムタンバラ派 (MDC‐M)が一〇議席、ZANU
置」とその周辺の集団によって行われたためである。
**
選 投 票 が 行 わ れ る こ と に な っ た が、 こ の 決 選 投 票 日 に 向
**
124
125 ジンバブウェのクレプトクラシー体制とそのメカニズム
**
その支持者にたいする過酷な弾圧、こうしたまさに「あめ
とむち」の政策によってZANU‐PF政権は、その「ク
票を獲得したが、ウェスト・マショナランド州およびイー
スト・マショナランド州においては勝者ムガベとツァンギ
レプトクラシー体制」を確立したと考えたのであろう。
結果、たとえZANU‐PF政権の「正当な物理的暴力装
見れば、
「生存経済」を維持できない状況に追い込まれた
くにマショナランド三州における農村部の有権者の側から
た。本稿でいうクレプトクラットとは、ZANU‐PFの
のあらゆる資産を私物化するためメカニズムを作り上げ
モクラシー」を形式的には保持しながらも、実際には国家
いてクレプトクラットたちは、その憲法に明記された「デ
二〇〇〇年から〇八年にいたる時期のジンバブウェにお
結語
ラ イ の 得 票 数 の 差 は、 一 〇 〜 一 四 % で あ っ た。 こ れ は、
〇二年の大統領選挙において、マショナランド三州におけ
るツァンギライの得票数が、全投票数の一五〜二五%程度
であったことから見て、マショナランドにおいてもツァン
置」やその周辺の集団による弾圧を受けたとしても、彼ら
ギライの支持者が増大したことを示している。有権者、と
としては政権の交代を望んだに違いないのである。
ZANU‐PF政権が行った「正当な物理的暴力装置」お
年の議会選挙、そして〇二年の大統領選挙の前後の時期に
市民社会に対する弾圧に加えて、先に触れた〇〇年と〇五
う「大義」に訴えた農園侵略と民間企業の国有化、そして
剥奪、表面的には民衆に対する「国家資源の再分配」とい
三者協議は、国防相や内務相などの主要閣僚ポストの獲
ウェにおいては、本稿で指摘したようにこの「正当な物理
的暴力装置」を駆使してこれを排除した。そしてジンバブ
U‐PF政権に異議を唱える勢力に対しては「正当な物理
「市民社会」に対する弾圧を「合法化」し、それでもZAN
立 を 奪 い、 立 法 部 を「ゴ ム 印 議 会 」 化 し、 こ れ に よ っ て
クレプトクラットたちの支配する行政部は、司法部の独
指導者、「正当な物理的暴力装置」の構成員、そしてその
よびその周辺に位置する集団によるMDCの活動の妨害と
得をめぐって三者が鋭く対立したために難航したが、SA
それではなぜZANU‐PF政権は、こうした結果を予
的暴力装置」は、ムガベと一体化している。すなわち「正
DCの仲介により二〇〇九年二月五日、最終的に三者は首
周辺に位置する元兵士、青年民兵、およびZANU‐PF
当な暴力装置」
は、
ジンバブウェ憲法あるいはジンバブウェ
相ポストの新たな設置、および「合意」の制度化のための
の支持者たちである。彼らにとって政治権力とは、国家資
共和国に対して忠誠を誓っているのではなく、その既得権
憲 法 改 正 を 行 っ た (憲 法 修 正 第 一 九 号 )
。かくしてツァン
測 で き な か っ た の で あ ろ う か。 合 理 的 な 解 釈 と し て は、
益および利益の最大化を保証するムガベに忠誠を誓って
ギライは、同月一一日首相に就任し、一三日には三者から
二〇〇〇年の新憲法に関する国民投票以降、ZANU‐P
いるのである。これはムガベ個人がこの暴力装置をコント
選出された三五名の閣僚の就任式が行われた。ムガベ自身
源を略奪するための単なる手段にすぎないといってもよい
ロールしていることと同じではない。この暴力装置の構成
が「合意」を快く思っていないことは明らかだが、それ以
F政権が築き上げてきたクレプトクラシー体制を過信した
員は、自分たちの利益をムガベに承諾されるための物理的
上に「クレプトクラシー体制」を支えてきたさまざまなア
であろう。
強制力を独占しているのである。ケニヤの〇七年大統領選
クター、特に「正当な暴力装置」の構成員とその周辺の団
ことによるといえよう。先に述べたように、司法部の独立
挙後の政治情勢について「キバキに対する軍の忠誠心は、
体が依然としてこの「合意」への荷担にきわめて消極的と
伝えられる。それであればこそ、わが国を含めた先進諸国
ていた切り札であった」というアモダの指摘は、ジンバブ
ウェにおけるムガベと「正当な物理的暴力装置」の関係を
かつ実効性のある政策を履行しうるように、積極的な活動
権力分有 (パワー・シェアリング)交渉において彼が持っ
)
。
考えるうえできわめて示唆的である ( Amoda 2008
ところで二〇〇八年九月一五日、南アフリカ共和国大統
を行うことが求められているように思われる。
ki/Kleptocracy
二〇〇八年一二月二五日アクセス)などを
参照。
アクセス 。)
*2
Olson 2000 ; Bayart et al. 1999 ; Acemoglu et al. 2004 ,
( http://en.wikipedia.org/wiWikipedia, thefreeencyclopedia
www.merriam-webster.com (http://www.merriamwebster.com/dictionary/kleptocracy
二〇〇八年一二月二五日
*1 たとえば
◉注
がアフリカ諸国と一体となって「国民統一政府」が民主的
領ムベキの調停によりムガベ、ツァンギライ、そしてムタ
ンバラの三者は、パワーシェアリング (権力分有)に関す
」
る合意書に調印した。これにより「国民統一政府(GNU)
の樹立に向けての第一歩が記されたことになる。同協定に
よると、ムガベは大統領、ツァンギライは首相、そしてム
タンバラは副首相へそれぞれ就任し、三一人の閣僚から構
成される内閣は、うち一五人がZANU‐PF、一三人が
MDCツァンギライ派、そして三人がMDCムタンバラ派
から選出されることになった。
126
127 ジンバブウェのクレプトクラシー体制とそのメカニズム
約三〇名の人々が参加し、新憲法起草委員会委員による同草
シェ郡ニャクージカ初等学校において行われた公聴会には、
社会的に確立した制度や体制。またはそれを代表する支配階
*3 ここでは「エスタブリッシュメント」というタームを、
案の説明後、人々は自由に発言する機会を与えられた(九九
Economist Intelligence Unit, Country Report: Zimbabwe,
Bayart, Jena-Francois and Stephen Ellis, Beatrice Hibou ( 1999 )
Amoda, John Moyibi ( 2 0 0 8 ) Power Sharing-Some Misunder-
Acemoglu, Daron and Thierry Verdier, James A. Robinson
al Rule. Journal of the European Economic Association, AprilMay 2004 2 ( 2 - 3 ): 162 - 192 .
standing. Vanguard (Lagos), 16 December 2008 .
The Criminalization of the State in Africa. Oxford: James
Currey.
Long Agony. Journal of Democracy 19 ( 4 ): 41 - 55 .
* “Zimbabwe threatens foreign businesses with nationalization”
( International Herald Tribune, Reuters, Wednesday, June 2 7 ,
年七〜八月の同地域における筆者の現地調査による)。
級・組織という意味で用いている。
)に加筆修正を加えたも
2008 : 640 - 654
*4 本章は、拙著『ジンバブウェの政治力学』の第六章から
第八章(井上 2001 : 209 - 298
)および、拙稿「国家と社会 ジ
ンバブウェにおける政治変動――民主主義体制から権威主義
体制への逆行」(井上
のである。
*5 たとえば、 Holland
( 2008 : 250
)その他、 Meredith
( 2002 :
)、
(
)。
243
Hill
2005
:
178
* 6 た と え ば、 Bratton and Masunungure
( 2008
)、 Kriger
(
)。
2005
*7 たとえば、 Commonwealth Secretariat
( 1980
)。
*8 消費者物価の高騰、および個々の品目の値上げについて
は
)を参照さ
2002
の 一 九 九 〇 年 か ら 九 二 年 の 各 号 が 参 考 に な る。 な お
Malawi
都市住民と政治に関しては、拙稿「ジンバブウェにおける市
民 と 政 治 ――ハラレをケースとして」(井上
れたい。
ツァンギライとのインタビュー。
*9 二〇〇〇年三月、MDC党本部における筆者による党首
* 「新 憲 法 草 案 」 の 全 文 は、 ウ ェ ブ 上 の ジ ン バ ブ ウ ェ 政 府
の サ イ ト( http://www.gta.gov.zw/Constitutional/Draft% 20
一九九九年八月、マショナランド・セントラル州、チウェ
)にアップロードされ
constitution/Contents.Draft.Const.htm
ていた(二〇〇八年一二月二九日現在削除)。
*
◉参考文献
井上一明(
)『ジンバブウェの政治力学』慶應義塾大学出版会。
2001
)「ジンバブウェにおける市民と政治――ハラレをケー
――( 2002
スとして」『法学研究』七五巻一一号、一―三二頁。
)「国家と社会 ジンバブウェにおける政治変動――
――( 2008
民主主義体制から権威主義体制への逆行」『 アフリカⅡ』朝
)『職業としての政治』脇圭平訳、
1980
倉書店、六四〇―六五四頁。
ウェーバー、マックス(
岩波書店。
)『統治者と国家――アフリカの個人支配再考』
2007
(研究双書五六四)、アジア経済研究所。
佐藤章編(
Bratton, Michael and Eldred Masunungure ( 2008 ) Zimbabwe's
ノーランド、ロッド( 2008
)「独裁者を操る七人の黒幕」『ニュー
ズウィーク(日本版)』二〇〇八年八月六日、二六―二八頁。
Central Statistical Office N.D. Statistical Yearbook of Zimba-
( 2004 ) Kleptocracy and Divide-And-Rule: A Model of Person-
)
2007
ちなみに、上院議会選挙(六〇議席)の結果は、ZAN
U‐PF三〇議席、MDC‐Tが二四議席、そしてMDC‐
*
Mが六議席を獲得した。
* MDCは、大統領選挙の第一回投票の結果、ツァンギラ
イ が 五 〇・三 % を 獲 得 し た と 主 張 し た。 http://www.mdczim-
(〇九年一月一日アクセス)
babwe.org/
*
J O C の 具 体 的 な 構 成 は、 ム ナ ン ガ グ ァ に 加 え て 国 防
軍 総 司 令 官 チ ウ ェ ン ガ( Constantine Chiwenga
)
、陸軍司
令 官 シ バ ン ダ( Philip Sibanda
)
、 空 軍 司 令 官 シ リ( Perence
)
、警察長官チウリ( Augustine Chihuri
)
、刑務長官ジモ
Shiri
ンディ(
)
、中央情報局長官ボニョングウェ
Paradzayi
Zimondi
( Happyton Bonyongwe
)
、 そ し て 準 備 銀 行 総 裁 ゴ ノ( Gideon
)である。 http://nonblog.typepad.com/the_nonbloggish_
Gono
(二 〇 〇 八
blog/ 2008 / 06 /zimbabwe-joc-names-and-faces.html
年一二月三〇日アクセス)
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特集 1
―
変貌するアフリカ
ナイジェリア都市部における移民と王制
︱︱ ポスト植民地時代のアフリカにおける伝統的権威者の象徴的価値
松本尚之
リ カ の さ ま ざ ま な 国 で、 国 家 が 各 民 族 の 王 や 首 長 を 保 護
し、地域社会の代表として一定の権限を与える政策をとっ
て い る。 ア フ リ カ 国 家 の ほ と ん ど が 植 民 地 時 代 の 領 土 を
た め、 国 内 に 抱 え た 民 族 間 の コ ン フ リ ク ト を 回 避 し 自 ら
はじめに
本論文では、ナイジェリア国内外の都市において、イボ
の 正 統 性 を 補 完 す る ひ と つ の 手 段 と し て、 各 民 族 の 伝 統
継 承 し て お り、 歴 史 的 に 自 明 な 正 統 性 を も た な い。 そ の
人移民たちが故郷の権威制度を模して創造した擬制的な王
的な権威者たちの囲い込みが行われているのである ( van
る。そして、特定の民族社会を越えた国家やアフリカ全体
ちが復権し、国家と伝統的権威者が並び立つ状況がみられ
)
。その結果として、近
van Nieuwaal 1999 ; Vaughan 2000
代国家の樹立とともに消失するかにみえた伝統的権威者た
Rouveroy van Nieuwaal 1996 ; van Dijk and van Rouveroy
制を論じる。それによって、今日のナイジェリアにおける
伝統的権威者の象徴的価値について考察する。
ポスト植民地時代のアフリカにおいて、とくに一九九〇
年 代 に 入 っ て 顕 著 と な っ た 現 象 の ひ と つ に、「首 長 位
の 復 活 」(
)
( van Binsbergen
the revival of chieftainship
)と呼ばれるものがある。多民族が共生するアフ
1999 : 102
130
131
イボ社会にはさまざまな変化が生じている。本論文で取り
上げるイボ人移民たちによる擬制的な王制創造の動きもそ
の社会的文脈のなかで、王位や首長位が新しい象徴的価値
を帯び、人びとの関心を惹きつけるようになっているので
のひとつである。
形成していたハウサ社会やヨルバ社会との対比のうえに、
まで多くの研究者が、英国による植民地化以前に王国群を
び、ナイジェリアの三大民族に位置づけられている。これ
一九九〇年代後半には南部の都市にも広まっていった。現
が異民族の都市において、イボ人移民たちが故郷のエゼを
)と呼ばれる権威者が存在する。
「エゼ・イボ」とはイ
Igbo
ボ語で「イボ人の王」を意味する言葉であり、ホスト社会
イボ」( Eze Igbo
)あ る い は「エ ゼ・ ン デ ィ ボ 」( Eze Ndi-
ナイジェリア国内外のイボ人移民社会には現在、「エゼ・
)
。
ある ( Vaughan 1991 ; Oomen 2005松; 本 2008
本論文で対象とするイボ人は、ハウサ人、ヨルバ人と並
伝 統 的 な イ ボ 社 会 を 集 権 的 な 権 威 者 が 不 在 の「民 主 主 義
在ではナイジェリア国内に留まらず、世界各地のイボ人移
学 的 研 究 で は、 移 民 た ち が 同 郷 者 を 集 め て 構 築 し た ネ ッ
ナイジェリアの移民社会を扱ったこれまでの都市人類
民社会に同様の動きがみられる。
は一九八〇年代にナイジェリア北部の諸都市ではじまり、
模して導入した地位である。エゼ・イボの地位創造の動き
しかし、今日のイボ社会には、いくつかの集落からなる
など)
、「共和
的」(
Forde
and
Jones
1950
:
24
;
Ejiofor
1981
など)
主義的」( Achebe 1984 [ 1983 ]: 50 ; Ekechi 1989 : 144
*
社会として論じてきた。
複数形はンディエゼ、
小さな地縁集団ごとに「エゼ」(
Eze
)と呼ばれる権威者が存在する。
「エゼ」とは、イ
Ndi-Eze
まれた新しい地位である。エゼはそれぞれの地縁集団の伝
会単位をメンバーシップの基準として設定しており、移民
( Honey and Okafor, eds 1998 ; Trager 2001
)
。それら同郷
団体は、小さな村落から民族全体まで、大小さまざまな社
ト ワ ー ク と し て、 主 と し て 同 郷 団 体 が 注 目 を 集 め て き た
統的権威者という位置づけにあり、さまざまな機会に政府
たちの民族意識の生成に大きな貢献を果たしたといわれて
)を 意
ボ 語 で「王 」 や「伝 統 的 統 治 者 」( traditional ruler
味する。この地位は、ナイジェリアにおける「首長位の復
に対する住民たちの代表を務める。イボ社会では現在、エ
)
。これら
いる ( Smock 1971 ; Coleman 1986 [ 1958 ]: 339 - 343
の同郷団体は現在でも精力的に活動を行っており、移民た
活」の結果、一九七〇年代後半の国家政策を契機として生
ゼの地位に対する人びとの関心が非常に高い。「伝統的な
ちの相互扶助ネットワークの中核をなしている。しかしそ
イボ社会にはもともと王制が存在した」とする歴史認識ま
)
。その結果、今日の
2003
の一部をあわせた地域を指す。植民地化以前のイボランド
で生まれているのである (松本
れら団体の活動と平行して、一九八〇年代以降、イボ人移
な権威者は存在しなかった。それぞれ集団の意志決定は、
は、いくつかの集落が集まってできた大小さまざまな地縁
るイボランドにおけるエゼの位置づけについて概括する。
すべての成人男性が参加し、発言する権利をもつ集会の場
集団の寄せ集めであり、それら地縁集団の多くには集権的
そして続くⅡ章で、一九八〇年代に始まる移民たちによる
で、合議によって行われた ( Uchendu 1965 : 41 - 43 ; Afigbo
以下では、はじめにⅠ章において、移民たちの故郷であ
擬制的王制創造の過程を論じる。イボ人移民社会における
民たちによる擬制的王制創造の動きがみられるのである。
擬制的王制を扱った先行研究には、ナイジェリア北部の都
みならず、住民たちからも伝統的権威者としての扱いを受
)
。しかし今日では、イボランドのどの地縁集
1972 : 20 - 21
団にもエゼの地位が存在し、その地位にある者は、政府の
)の
市カノの事例を扱ったオサガエ ( Osaghae 1994 ; 1998
研究がある。Ⅱ章の前半では、オサガエの研究を参照しつ
けている。
イボ人移民社会における擬制的王制の位置づけについて概
章後半では、ナイジェリア南部の都市ラゴスを事例とし、
場合、一九七八年に今日のエゼ制度の基礎となる「首長位
をめぐる政策に由来する。たとえば、南東地域のイモ州の
軍事政権が各州で施行した伝統的権威者たちの承認と保護
これらのエゼたちの多くは、一九七〇年代後半に当時の
つイボ人移民による擬制的王制の創造がナイジェリア北部
括する。その後Ⅲ章にて、擬制的王制に対する故郷の人び
から始まり、南部に拡大していく過程を論じる。そしてⅡ
とや、移民社会内での評価を取り上げる。最後にⅣ章にお
表1は、一九九九年の第四次民主政権発足後にイモ州政
に深く浸透していたのである。
が施行されたときには、王や首長の地位がイボ社会にすで
ことなく続いてきた。そのため、一九七〇年代後半に法規
行政のエージェントとして用いる政策がほとんど途絶える
国による植民地化以来、各民族の伝統的権威者たちを地方
すことなく、積極的に受け入れた。ナイジェリアでは、英
)が施行された。この法
に関する規則」( Chieftaincy Edict
規が施行されると、イボ人たちはこの法規に拒否反応を示
いて、それまでの議論をふまえた考察を行う。
*
Ⅰ 故郷におけるエゼの創造
ヌグ州、エボニ州)のほとんどと、デルタ州、リバース州
ア 南 東 地 域 の 五 州 (ア ナ ン ブ ラ 州、 ア ビ ア 州、 イ モ 州、 エ
イボ人移民たちの故郷であるイボランドは、ナイジェリ
*
132
133 ナイジェリア都市部における移民と王制
*
府が施行した法規をもとに、エゼの位置づけをまとめたも
のである。エゼは、
「自律的共同体」と呼ばれる単位をも
とに選ばれる。政府は自律的共同体を伝統的な社会集団と
見なしており、エゼはその長として想定されている。しか
しその一方で、自律的共同体は政府の認可を必要とする単
位であり、エゼも就任にあたって政府の承認を得なくては
ならない。そして、承認後は政府から手当を支給される。
1991小
; 馬
1984 ; Mamdani 1996 ;
そ の 意 味 で は エ ゼ は、 国 家 に よ っ て 行 政 上 の 特 権 を 与 え
られた「行政首長」(中林
)や「官僚首長」( Oomen 2005
)と呼ばれ
von Trotha 1996
る地位に類する存在である。ただし、法規に定められたエ
ゼの役割は共同体の文化的代表としてのものであり、エゼ
は政府から明確な行政上の権限を与えられているわけでは
しかし、文化的代表と位置づけられたエゼではあるが、
ない。
彼らの多くはインフォーマルな政治的影響力をもってい
る。植民地時代から続く首長を仲立ちとした地方行政政策
の結果、人びとはエゼを政府と自分たちを結ぶ媒介者と見
なしている。そのため、エゼの選出に当たっては、多くの
場 合、 共 同 体 内 外 に 政 治 的、 経 済 的 な 影 響 力 を も つ 者 が
選ばれる場合が多い ( Harneit-Sievers 1998 : 67 ; Nwaubani
)
。
1994 : 364 - 365
また、エゼたちは、自律的共同体の発展に貢献した人び
(エゼの評議会 Eze-in-Council
)を構成するメンバーとなる。
今日、エゼたちの多くが、都市で経済的に成功を収めた移
含 ま れ る。 称 号 を 手 に し た 者 は、 エ ゼ が 主 催 す る 評 議 会
には、都市に出た共同体出身の移民たちや、異民族の者も
ず贈られるものもある。それらの称号を手にする者のなか
るが、称号のなかには候補者の出身地や居住地にかかわら
。 そ れ に 対 し、 イ ボ 人 移 民 た ち が、 同 郷 者 を 結 び
1971 : )
10
つける媒介として擬制的王制を創造するのは、ポスト植民
一九二〇年代後半には、同郷団体の設立がみられる( Smock
の は 王 制 で は な く、 同 郷 団 体 で あ る。 ナ イ ジ ェ リ ア で は
互 扶 助 の ネ ッ ト ワ ー ク を 構 築 す る 際 に、 そ の 媒 体 と し た
)
。
[ 1958 ]: 332 - 334
植民地時代、都市部に出稼ぎにでたイボ人移民たちが相
訪れた政府要人らに、首長位の称号を授与する。そして称
号授与によって生まれたネットワークは、エゼに求心力を
生み出し、自律的共同体内外における影響力を与えている
のである。
イボ人移民社会における王制の創造は、ナイジェリア北
部の都市で、一九八〇年代後半に始まった。たとえば、北
部第一の都市であるカノでは、一九八七年末に、イボ人移
民たちによってエゼ・イボの地位が創造された。そして、
市部へと移民の流れを生み出した。ラゴスやカノ、カドゥ
さは、植民地時代にイボランドからナイジェリア各地の都
アのなかでも特に人口が過密な地域である。人口密度の高
「イボランドの核」と称される南東地域は、ナイジェリ
て、 キ リ ス ト 教 徒 が 多 数 派 を 占 め る 南 部 か ら の 移 民 た ち
ス ラ ム 宗 教 政 治 体 制 の 保 護 政 策 を と っ た。 そ の 一 環 と し
)
。
市に、エゼ・イボ制度が浸透していた ( Osaghae 1994
植民地時代、英国政府はナイジェリア北部において、イ
ザリア、ソコト、カツィナ、バウチといった北部の主要都
一九九〇年代半ばには、カノに限らず、カドゥナやジョス、
ナなどの西部、北部の主要都市ではイボ人移民の人口が急
と、イスラム教徒の地元住民の交流を最小限に抑えるため
Ⅱ 都市におけるエゼ・イボの創造
1 北部 に お け る創造 と南部 へ の普及
地時代になってのことである。
四〇パーセントを占めるまでになっていた ( Coleman 1986
(出典)I.S.N.(2000)をもとに筆者が作成。
民たちや、政府に顔の利く政治家たち、あるいは共同体を
とを対象として、首長位の称号 ( chieftaincy title
)を授与
する権限をもっている。称号の種類は共同体によって異な
呼称と定義
エゼ(
)
「伝統と習慣に従って人々が同定、選出、指名し、かつ就任させたあと、承認のために政府に披露した、
自律的共同体の伝統的な、あるいはその他の長」
選出単位
自律的共同体(Autonomous Community)
「特定しうる地理的な一地域、あるいは複数の地域に居住し、ひとつあるいは複数の共同体からなり、
共通の歴史的遺産とともに共通の伝統的、文化的生活様式によって結ばれ、政府によってひとつの自
律的共同体と承認され認可された、人びとの集まり」
役割
①式典などの機会に自律的共同体を代表する。
②共同体の重要な来客を接見する。
③共同体の祭りを主宰する。
④文化、習慣、伝統の保護者を務め、これらについて共同体に助言を与える。
⑤共同体の法と秩序の維持において政府を助ける。
⑥共同体の安全に関わる諸事について、まち組合(共同体の自治組織)とともに審議する。
⑦共同体の開発計画を奨励する。
⑧税金などの徴収において、共同体を管轄する州および地方政府を助ける。
⑨共同体の安定と平和を促進する。
⑩相談と助言を求めるために地方行政区の議長が時として招集する集会に参加する。
⑪所与の共同体のまち組合と良好な関係を維持する。
速 に 増 加 し、 一 九 五 〇 年 代 初 頭 に は 全 移 民 人 口 の お よ そ
134
135 ナイジェリア都市部における移民と王制
表 1 1999 年の法規に定められたエゼの位置づけ
式を取り仕切るよう依頼する。その後、カノのエミール(伝
ボの戴冠にあたっては、故郷からエゼの一人を招き、戴冠
は、 一 九 一 一 年 に サ ボ ン・ ガ リ が 設 置 さ れ て い る。 サ ボ
に、サボン・ガリと呼ばれる移民居住区を設けた。カノで
ン・ガリの住民人口において、当初多数派を占めたのはヨ
裕福な企業家であり、とくに一九九三年に三代目エゼ・イ
で三名がその地位に就いた。彼ら三名はみな、カノ在住の
てから一九九八年までの間に二度の地位継承があり、合計
カノでは、一九八七年末にエゼ・イボの地位が創造され
)
。それによって、エゼ・
バンを巻く」( Osaghae 1998 : 119
イボの戴冠が公的に承認されたことになる。
統 的 権 威 者 )に 面 会 し、 伝 統 的 な 区 長 ( sarkin
)の 任 命 方
法と同じ作法で、エミールがエゼ・イボの候補者に「ター
ル バ 人 で あ っ た が、 植 民 地 時 代 後 期 に は イ ボ 人 が そ の 地
位 に 取 っ て 代 わ っ た。 そ の た め、 居 住 制 限 が な く な っ た
現 在 も、 イ ボ 人 移 民 の 多 く が サ ボ ン・ ガ リ に 住 居 を 構 え
ており、移民人口の集中がみられる ( Nnoli 1980 : 115 - 116 ;
)
。
Osaghae 1994 ; 1998
エゼ・イボの選出は、イボ人共同体結社( Igbo Community
者の選考を行い、最後に結社の総会で承認を得て、新たな
役割を代行する)がいくつかの段階を経て審査と最終候補
イボが組織する助言機関で、エゼ・イボが不在の際にはその
候補者を募ったあと、結社とエゼ・イボの評議会 (エゼ・
地域の各州から持ち回りで選ばれる。イボ人共同体結社が
)
。
ている( Osaghae 1994 : 47 - 49 ; 1998 : 113 - 115
エゼ・イボの地位は世襲制ではなく、ナイジェリア南東
ており、それら団体から派遣された代表によって運営され
行政区などを単位としたおよそ一六〇の同郷団体が加盟し
置く中央組織という位置づけにある。自律的共同体や地方
移 民 た ち は 居 住 年 数 の 長 さ に か か わ ら ず、 都 市 で の 生 活
に、同じく移住先と故郷の距離が比較的近い結果、南部の
郷 と の 間 に 永 続 的 な 結 び つ き を 維 持 し て い る こ と。 第 二
都市は移民たちの故郷から距離が近いため、移民たちが故
下の四つをあげている。第一に、北部と比較して南部の諸
社会のみで普及し、南部に拡大しなかった理由として、以
)は、
はみられなかった。オサガエ ( Osaghae 1994 : 71 - 74
一九九〇年代半ばまでエゼ・イボ制度が北部のイボ人移民
は、 い ま だ イ ボ 人 移 民 た ち に よ る エ ゼ・ イ ボ の 地 位 創 造
市 に エ ゼ・ イ ボ の 地 位 が 普 及 し て い た の に 対 し、 南 部 で
。
1994 : )
54
ナイジェリア北部では、一九九〇年代半ばには各地の都
ボに戴冠した人物は、弁護士の資格ももっていた( Osaghae
)
。 エ ゼ・ イ
エ ゼ・ イ ボ が 決 定 す る ( Osaghae 1994 : 61 - 62
)という名の同郷団体を介して行われた。イボ
Association
人共同体結社はイボ人全体を対象とする団体で、カノのイ
を一時的なものと捉えていること。第三に、南部にはサボ
)で構成されており、五つの区はさらに合計二〇
Division
)に 分 か れ る。 そ
の 地 方 行 政 区 ( Local Government Area
して、それぞれの区には、伝統的権威者としてヨルバ人の
ボ人移民たちが設立した大小さまざまな同郷団体を傘下に
いことから、同郷団体やエゼ・イボ制度のような集約的な
オバがいる。
われていること。これらの結果として、南部ではひとつの
り小さな下位集団レベルでの同郷団体によって精力的に行
互扶助を目的とした活動が、民族レベルの団体よりも、よ
の諸都市は移民人口がより大きいことから、移民たちの相
表するエゼ・イボとは別に、州を構成する地方行政区それ
を名乗る人物が存在する。ラゴス州全体のイボ人移民を代
表する。それに対し、ラゴスには、複数の「エゼ・イボ」
つき一人のみ選ばれ、その都市に住むイボ人移民全体を代
カノの事例のように、通常エゼ・イボはひとつの都市に
ン・ガリのような特定地区への移民人口の集中がみられな
組織化がより困難なこと。そして最後に、北部に比べ南部
都市に住む移民たちの意見を集約し、一人の王を選ぶこと
である。以下では、とくにラゴス州のイボ人移民全体を代
ぞれに、その地方行政区を取り仕切るエゼ・イボがいるの
しかし、九〇年代後半になるとナイジェリア南部の主要
がより困難であるというのが、オサガエの主張である。
都市でも、イボ人移民たちによるエゼ・イボの地位創造が
ラゴスのエゼ・イボの地位が創造されたのは、一九九九
)の み を 指 し て、
「ラ
表 す る エ ゼ・ イ ボ ( Eze Igbo, Lagos
ゴスのエゼ・イボ」という表現を用いることとする。
年のことである。初代エゼ・イボは、一九四八年生まれの
みられるようになった。二〇〇八年現在では、ラゴスやイ
ゼ・イボの地位が存在する。以下では、ラゴス州の例をみ
ア ナ ン ブ ラ 州 I 自 律 的 共 同 体 出 身 の O 氏 で、 戴 冠 当 時 は
バダン、リバース、クロス・リバー、エドなどの各州にエ
てみたい。
五〇歳であった。彼がラゴスに移住したのは内戦直後のこ
とであり、以後現在にいたるまで同地で暮らしている。O
と漁村であったが、植民地支配とともに政治・経済の中心
ラゴスはサハラ以南アフリカ最大の都市である。もとも
る以前の一九九二年には、故郷のI自律的共同体のエゼか
功した企業家の一人である。ラゴスのエゼ・イボに選ばれ
位にあり、ラゴス在住のイボ人移民たちのなかでも最も成
氏は、自らが設立したグループ企業の最高経営責任者の地
都市として発展し、独立後も一九九一年までナイジェリア
ら首長位の称号を授受している。加えて、ゴンベ州 (北部)
2 ラ ゴ ス に お け る エ ゼ・ イ ボ制度 の始 ま り
の首都であった。現在のラゴスは五つの区( Administrative
136
137 ナイジェリア都市部における移民と王制
の伝統的権威者の一人からも首長位の称号を授与されてお
り、民族を越えた幅広い交友関係をもつことが窺える。
一九九八年一〇月にO氏の自宅で行われた。式では、同じ
地方行政区に住むイボ人移民たちのなかでも最年長の者が
会が少ない者や、ラゴスで生まれ育った移民二世や三世た
的代表として位置づけている。彼らは、故郷に帰省する機
持者たちは、ラゴスのエゼ・イボをイボ人移民全体の文化
民と関わる問題について話し合いを行う。また、O氏の支
ラブルから他の民族集団との大規模な争いまで、イボ人移
の支持者を集めて集会を開き、個々人が抱える日常的なト
「イボ人たちの家」の意味)と名
ンディイボ」( Obi Ndigbo
付けられた集会場がある。この集会場において、O氏は彼
さらに、戴冠式のあとに、O氏はイボランドから五人のエ
ンドからエゼの一人を招き、彼の手によって執り行われた。
といわれている。ラゴスのエゼ・イボの戴冠式は、イボラ
ンディボ・ラゴス」( Ohaneze Ndigbo, Lagos
)という名の
団体で、O氏は団体の設立にあたり大きな貢献を果たした
場合と同様に、民族団体を介して行われた。「オハネエゼ・
のエゼ・イボの地位に就いた。選出は地方行政区における
の地位の創造とO氏の戴冠が権威づけられた。
O氏の頭に用意した王冠を載せ、それによってエゼ・イボ
ちが、イボ人の民族文化を学び、民族アイデンティティを
ゼを招き、彼らエゼたちを紹介人としてラゴスのオバに謁
O氏の自宅の豪奢なコンパウンドの一角には、「オビ・
維持する機会として、エゼ・イボが主催する文化行事の必
見し、オバから祝福を受けた。
ラ ゴ ス の エ ゼ・ イ ボ に 戴 冠 し た あ と、 O 氏 は 自 ら の 支
それから約半年たった一九九八年四月に、O氏はラゴス
要性を主張している。そうした機会のひとつとして、O氏
は毎年自宅において、故郷の年中行事を模したヤムイモの
。「エゼ・イボの評議
持 者 を 集 め 評 議 会 を 組 織 し た (図 1)
評議会)に類似した集まりである。イボランドのエゼたち
)と呼ばれるもので、イボランド
会」( Eze Igbo-in-Council
のエゼたちが各自のパレスにおいて開催する集会 (エゼの
収穫祭を開催している。
は ラ ゴ ス の エ ゼ・ イ ボ に 戴 冠 す る お よ そ 半 年 前 に、 彼 が
O 氏 が エ ゼ・ イ ボ に 選 ば れ た 経 緯 を み る と、 ま ず O 氏
居を構えている地方行政区のエゼ・イボに選ばれている。
三種類ある。さらに
する首長位の称号は
のエゼ・イボが授与
バーとなる。ラゴス
)と い う 名 の 同 郷 団 体 を 組 織 し て お り、 こ の
Association
結 社 を 介 し て エ ゼ・ イ ボ の 選 出 が 行 わ れ た。 戴 冠 式 は
代わる存在として、それぞれの地方行政区のまとめ役にし
に従属するエゼ・ウドたちを各地方行政区のエゼ・イボに
地方行政区におけるエゼ・イボ創造の動きを牽制し、自ら
あった。O氏はエゼ・ウドの称号授与によって、それら各
に 戴 冠 す る 以 前 は、 居 住 す る 地 方 行 政 区 の エ ゼ・ イ ボ で
そうとする動きがある。O氏自身も、ラゴスのエゼ・イボ
首長位の称号をもつ人びとが、エゼ・イボの評議会のメン
と同じく、ラゴスのエゼ・イボも、彼がその地位にふさわ
称号とは異なるが、
ようとしたのである。ところが、O氏の意図に反し、エゼ・
同 地 区 の イ ボ 人 移 民 た ち は、 エ ゼ・ イ ボ の 地 位 創 造 と 同
評議会の役職がいく
しいと考える人びとに対して、首長位の称号を授与する。
つかあり、評議会の
ウドの地位に就いた人びとは、自らを「エゼ・イボ」と称
オブエフィ(上位首長)
イチエ(首長)
図 1 エゼ・イボの評議会
べたように、ラゴスでは、州全体を代表するエゼ・イボと
むイボ人移民の代表という位置づけにある。本節冒頭で述
られる。エゼ・ウドの称号をもつ者は、各地方行政区に住
のなかから、それぞれの地方行政区につき一名のみに与え
を 行 う ば か り で な く、 故 郷 に お い て 企 画 さ れ た 自 助 開 発
同 郷 団 体 の 多 く は、 会 員 間 の 相 互 扶 助 を 目 的 と し た 活 動
ナイジェリアの都市部においてイボ人たちが組織した
は別に、各地方行政区においてエゼ・イボの地位を生み出
の 試 み に 対し、経 済 的 な 援 助 を 行 っ て い る ( Smock 1971 ;
)
。都市と農村の経済的格差が進む今日、
Nwachukwu 1996
1 故郷 の人 び と の反応
Ⅲ エゼ・イボ創造に対するイボ人たちの反応
エゼ・ウドの称号を授与された人びとなのである。
ゼ・イボと称される人びとの幾人かは、もともとO氏から
対象はイボ人に限定されず、他民族の者も含まれる。彼ら
メンバーのなかから
し、O氏からなかば自律した存在として自らの地位を主張
じ年に「イボ人進歩福祉結社」( Igbo Progressive Welfare
エゼ・イボの指名に
するようになった。ラゴスにおいて現在、地方行政区のエ
興 味 深 い の が、 エ
じるうえで、とくに
イボ制度の展開を論
ゴスにおけるエゼ・
称号のなかでも、ラ
三種類の首長位の
よって選ばれる。
役職
(その他の役職)
地方行政区
138
139 ナイジェリア都市部における移民と王制
トラディショナル・
プライムミニスター
エゼ・ウド
)の称号である。この称号はイボ人の
ゼ・ウド ( Eze Udo
みを対象とした称号であり、ラゴス在住のイボ人移民たち
エゼ・イボ
は、同郷団体が存在しない都市の移民たちに対し、同郷者
故 郷 の 人 び と に と っ て は 喜 ば し い 出 来 事 で あ る。 と き に
する。したがって、移民たちによる同郷団体の組織化は、
各地の同郷団体にコンタクトを取り、経済的な援助を要請
実行組織は計画を進めるにあたって、資金が必要になれば
故郷の自助開発の主要な資金源となっている。自助開発の
及したエゼ制度自体に否定的であり、エゼ・イボ制度につ
を受けたイボ人知識層に多い。彼らはイボランドに現在普
場である。この言説を主張する人びとは、とくに高等教育
和主義」や「民主主義」をイボ人固有の民族文化とする立
)
。ひとつは、伝統的なイボ社会には王や首長のよう
2003
な集権的な権威者は存在しなかったとする言説であり、「共
づけについて、相反する二つの言説が広まっている (松本
今日イボ人たちの間には、民族文化としての王制の位置
を集めて団体を設立するように、故郷のエゼや自治組織が
いても、「イボ人を統べる王」という考えそのものがイボ
都市に出た移民たちが同郷団体を介して行う資金援助は、
積極的に働きかけることもある。
ント活動に関しても、移民たちが故郷との結びつきを維持
る。同郷団体が故郷の文化を模して開催するこれらのイベ
いる自助開発のための寄付集めの催しが開かれたりもす
りでは、故郷からエゼら来賓を招いたり、故郷で行われて
中行事を模した祭りなどを開催するものがある。それら祭
している。当然のことながら、故郷のエゼたちは、この言
が広く普及している現在、多くの人びとがこの言説を支持
わった民族文化とする立場である。イボランドにエゼ制度
と す る も の で あ り、 エ ゼ の 地 位 を イ ボ 社 会 に も と も と 備
言説は、イボ社会にはもともと集権的な権威者が存在した
民族文化としての王制の位置づけに関するもうひとつの
社会にそぐわないとして厳しく批判する。
し、移民二世や三世たちが自分たちの文化を学ぶ機会を提
説の主唱者である。だが、イボ文化におけるエゼの地位の
また、同郷団体のなかには活動拠点の都市で、故郷の年
供するものとして、故郷の人びとは肯定的に評価する。
も、 活 動 拠 点 や 会 員 構 成 が 異 な る 複 数 の 団 体 が 林 立 し て
ついても、対象とする出身地や会員資格を同じくしながら
正統性を主張する彼らも、都市部に生まれたエゼ・イボの
エゼ・イボの地位に就いた者は、対象となる都市に居住
い る の で あ る。 汎 イ ボ 人 団 体 に つ い て も、 O 氏 の 戴 冠 に
地位については否定的である。故郷のエゼたちは、移民た
す る イ ボ 人 移 民 た ち を 代 表 す る「王 」(エゼ)で あ る と 主
このように、都市に移住した人びとが同郷団体を設立し
張する。しかしその一方で、故郷に戻れば、彼らは出身共
関 わ っ た オ ハ ネ エ ゼ・ ン デ ィ ボ・ ラ ゴ ス の 他 に、 ン デ ィ
たり、団体を介して祭りを開催したりすることを、故郷の
同体のエゼに従属する立場にある。そのため、エゼ・イボ
ボ・ ラ ゴ ス ( Ndigbo, Lagos
) や イ ボ 語 話 者 共 同 体 ( Igbo
ちによるエゼ・イボの地位創造の動きについて、
それを「イ
の地位は、移住先の都市と故郷の間に、権威関係のねじれ
)な ど 複 数 の 団 体 が 存 在 し、 自 ら を
Speaking Community
ラゴス在住のイボ人全体を代表する組織として位置づけて
人びとは、移民たちが自分たちのルーツを忘れていない証
を生み出しているのである。故郷のエゼたちは、移民たち
)と呼び、
ボ文化の粗悪化」( bastardization of Igbo culture
イボ社会におけるエゼの権威を蝕む試みとして非難してい
が自分たちの文化的代表を選びたいのであれば、「エゼ・
いるのである。
として、歓迎する。しかしその一方で、移民たちによるエ
イボ」(イボ人の王)という呼称ではなく、「オニイシ・ン
は、移民たちが故郷の文化に触れるひとつの媒介としてエ
ゼ・ イ ボ の 地 位 創 造 の 動 き に 対 す る 故 郷 の 人 び と の 反 応
)と い う 言 葉 を 用 い る べ き だ と
デ ィ ボ 」(
Onye
isi Ndigbo
主張している。
「オニイシ」とはイボ語で「指導者」(人を
の預かり知らぬところで進められたO氏のエゼ・イボへの
る。
表 す onye
+ 頭 を 表 す isi
)を 意 味 す る 言 葉 で あ り、 同 郷 団
体 な ど の 会 長 を 表 す た め に 用 い ら れ る。 二 〇 〇 八 年 一 〇
戴 冠 に つ い て は 公 的 に 認 め て い な い。 ン デ ィ ボ・ ラ ゴ ス
は、非常に否定的である。
月 に は、 ナ イ ジ ェ リ ア 南 東 地 域 の エ ゼ た ち が 集 ま る 会 議
てO氏を招待する。しかし、エゼ・イボとして招いている
ボという地位にもとづくものではないのである。
がもつ影響力にもとづくものであって、ラゴスのエゼ・イ
ボ人移民たちが示すO氏への支持は、多くの場合、彼個人
わけではないと主張する。結局のところ、ラゴス在住のイ
は、集会があればラゴスで影響力をもつイボ人の一人とし
ゼ・イボの地位の必要性を認めている。しかし、自分たち
そ れ ら 団 体 の う ち、 た と え ば ン デ ィ ボ・ ラ ゴ ス の 役 員
( South East Council of Traditional Rulers
)が、都市移民た
ちが創造したエゼ・イボの地位を認知しないという声明を
発表した (
。
All Africa.com 2008 / 10 / )
21
2 移民 た ち の反応
エゼ・イボに関する評価は、ラゴス在住の移民たちの間
でも意見が分かれている。サボン・ガリに人口が集中して
いるカノの事例とは異なり、ラゴスのイボ人移民たちは、
州内の各地に分散して居住している。そのため同郷団体に
140
141 ナイジェリア都市部における移民と王制
Ⅳ 考察
よりは、むしろ王位を媒体とした自発的アソシエーション
の長といったほうが、ふさわしいであろう。
ではなぜ、既存の同郷団体とは異なる、王制を媒介とし
た移民ネットワークが生まれたのであろうか。
称 号 制 度 の 導 入 や 評 議 会 の 設 置 は、 す べ て 故 郷 の エ ゼ の
これまで、故郷を離れナイジェリア国内外で暮らすイボ人
1994 : 71 - )
74は、エゼ・イボの地位が創造された第一の理
由として、移民たちと故郷の結び付きの変化をあげている。
カ ノ の エ ゼ・ イ ボ 制 度 を 分 析 し た オ サ ガ エ ( Osaghae
そ れ と 類 似 し た 作 り と な っ て い る。 当 然 の こ と な が ら、
移民たちについては、彼らの多くが移住先の地において「一
エゼ・イボの地位は、移民たちが故郷のエゼ制度を模し
一九七〇年代の国家政策を契機として生まれたエゼの地
て創造した新しい権威者の地位である。エゼ・イボによる
位がイボ社会に浸透することなくして、移民たちによるエ
)の 立 場 に と ど ま り、 都
時 逗 留 者 」( temporary sojourner
市と故郷を行き来する二重生活を送り続けることが指摘さ
たがって、イボ人移民たちによる擬制的王制の創造は、ポ
)
。 し か し、 移 住 生 活 の 安 定
れ て き た ( Gugler 1971 ; 1997
ゼ・イボ創造の動きも生じることはなかったであろう。し
スト植民地時代の「首長位の復活」が今日のイボ社会に与
トワークが構築されたというのである。
政治体制に適応するためにも、王制を媒体とした移民ネッ
)と し て
化 や 長 期 化 と と も に、 自 ら を「定 住 者 」( settler
位置づけるようになった。その結果、カノの集権的な宗教
エゼ・イボとは、イボ語で「イボ人の王」を意味する。
えた影響の大きさを如実に物語っている。
しかしエゼ・イボは、一定の地域空間を対象としつつも、
権威者たちのように、国家の後ろ盾や、法にもとづく承認
びとを従属させる手段をもたない。さらに、今日の伝統的
ても、エゼ・イボの権限を認めない者も多く、それらの人
ねじれを生み出しており、イボランドのエゼたちの権威を
ゼ・イボ制度は、それと関わる者と故郷の間に権威関係の
び と、 と く に エ ゼ た ち の 反 応 は 非 常 に 否 定 的 で あ る。 エ
Ⅲ章で論じたとおり、エゼ・イボ制度に関する故郷の人
一時逗留者から定住者へという移民たちの意識の変化
があるわけでもない。したがって、エゼ・イボは王という
交換される象徴財となっている。ヴァウグハン ( Vaughan
同地域に住むイボ人移民とのみ関わりをもつ。同一地域に
揺るがす存在である。そのため、故郷の文化を模した都市
)は 伝 統 的 権 威 者 た ち が 高 位 に あ る 有 力 者 た ち
1991 : 319
に称号を授与することを、ナイジェリアの「国内に広がっ
は、一九九〇年代後半からの南部の諸都市へのエゼ・イボ
文化を生み出すことで民族アイデンティティを維持しよう
たサブカルチャー」と呼んでいる。植民地時代から現在ま
制度の普及を考える際にも重要である。
という、移民たちのひとつの試みでありながらも、故郷の
で続く伝統的権威者を認知し保護する国家政策によって、
住むホストの立場にある民族や他民族出身の移民たちに対
人びとから厳しい批判の声があがっている。それにもかか
王や首長の地位は、高い象徴的価値をもつようになってい
しては何ら権限をもたない。加えて、イボ人移民たちにし
わ ら ず、 エ ゼ・ イ ボ の 地 位 創 造 の 動 き は 止 ま る こ と が な
るのである。
多民族が共生する都市において、自らを一時逗留者では
く、その動きは南部の諸都市のみならず、ナイジェリア国
称号授受をめぐる都市移民と故郷の関係については、移
なく定住者と定めた移民たちにとって重要なのは、ひとつ
外まで拡大しているのである。
民たちが故郷や都市の同郷者たちの社会的承認を受けるた
たく承認していないのである。エゼ・イボと関わる称号を
は都市で生まれたものであり、何より故郷の人びとがまっ
)
。しかしエゼ・イボや、彼が授与する首長位の称
248 - 253
号については、この分析があてはまらない。これらの称号
された同国の政治文化にもとづく。そしてそれは、ポスト
制度に示す関心は、ナイジェリア近現代史のなかで創り出
である。したがって、今日のイボ人移民たちがエゼ・イボ
が都市において自らを権威づけるために必要な象徴財なの
て認知された王位や首長位こそ、定住者となった移民たち
の民族内ではなく、民族の垣根を越えて認知された象徴財
手にすることで得られる社会的承認は、居住地の都市に限
植民地時代のアフリカ全土に広がる「首長位の復活」と呼
◉付記
である。ナイジェリアのサブカルチャーとして民族を越え
定される。したがって、エゼ・イボの地位創造の動きは、
ばれる現象の一部なのである。
2005 :
イボ人移民たちの一部に定住者としての意識が生まれ、移
めに故郷の称号を求める、という指摘がある (野元
住先の都市におけるネットワークを重視するようになった
結果生じた現象である。
では、なぜ王制をネットワーク構築の媒体として用いる
制的王制の創造に関する研究」(研究代表者・松本尚之)の成
本研究は、二〇〇六~二〇〇八年度文部科学省科学研究費
補助金・若手研究(B)「ナイジェリア・イボ人移民による擬
の関係のみでは理解することはできない。今日のナイジェ
果の一部である。
のか。王位や首長位がもつ象徴的価値は、移民たちと故郷
リアにおいて、王制と関わる称号は、民族の垣根を越えて
142
143 ナイジェリア都市部における移民と王制
◉注
*
おもにイボランド北部や西部の一部の集団には、王や首
長を頂く集権的な社会も存在した( Henderson 1972 ; Nzimiro
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3や
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)と見なした。
以下で概括するイボ社会におけるエゼの創造過程のより
詳細な内容については、松本( 2008
)を参照されたい。
*
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145 ナイジェリア都市部における移民と王制
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――
治 に お け る ア フ リ カ の あ り よ う を解 き明 か す。
国 際 援 助 機 関、 そ し て日 本 と の関 係 か ら、 国 際 政
国際社会 の紛争 へ の対応 の あ り方、旧宗主国、中国、
(まつもと・ひさし/東洋大学国際地域学部)
of Nigeria Gazette 1 ( 25 ): 1 - 36 .
特集 2
─
アフリカをみる
世界の目
146
特集 2
―
アフリカをみる世界の目
アフリカの紛争解決に向 けて
︱︱国際社会の関与とアポリア
武内進一
ベリアなど、この時期に深刻な紛争を経験したアフリカ諸
国は枚挙に暇がない。
しかし、二〇〇〇年代に入ると、アフリカの紛争は総じ
これは、一九九〇年代のアフリカでいかに深刻な紛争が多
( United Nations 1998
)
。特定地域の紛争に関する国連事務
総長報告が提出されたのは、史上はじめてのことである。
に対してアフリカの武力紛争に関する報告書を提出した
一九九八年、国連のアナン事務総長は、安全保障理事会
画が相次いで公開されたこともあって、紛争の悲惨さにつ
了したわけである。近年、アフリカの紛争を題材にした映
施されて本格政権が誕生した。紛争から平時への移行が完
で和平協定が締結され、移行期政権が樹立され、選挙が実
余曲折を経つつも、紛争は鎮静化に向かった。リベリア、
ように紛争が継続している地域もあるが、多くの国では紆
Ⅰ 紛争から紛争後へ?
発したかの証左といえる。僅か一〇〇日足らずのうちに、
て収束へと向かった。ソマリアやスーダンのダルフールの
少なくとも五〇万人が虐殺されたルワンダ、国民の一割近
いてはよく知られるようになったが、その多くが最近収束
えで、Ⅲで紛争解決のために国際社会がどのような関与を
下、Ⅱで近年のアフリカにおける紛争の性格を検討したう
*
アフリカの紛争の収束傾向を考えるうえで、国際社会の
*
くが殺され、残るほとんども国内避難民や難民となったリ
関与について検討し、その意義を考察することにある。以
シエラレオネ、コンゴ民主共和国などでは、内戦当事者間
傾向にあることはあまり知られていない。
関与は重要な要因である。冷戦終結後、国際社会は紛争解
実践しているのか、具体的に整理する。そして、Ⅳにおい
*
決 に 向 け た 関 与 を 強 め た。 当 初 は ソ マ リ ア や ル ワ ン ダ の
てその意義と課題を考察する。
*
うになった。これが近年、アフリカにおける紛争の収拾を
の移行を目指して、国際社会がさまざまな形で関与するよ
)
、制度構築、さらには国民和解の支援
reintegration: DDR
にまで及んでいる。紛争が勃発すると、その収拾と平時へ
り方について確認しておこう。表1に、一九九〇年代以降
一九九〇年代以降アフリカ諸国が経験した紛争とその終わ
紛 争 解 決、 平 和 構 築 に つ い て 議 論 す る に あ た っ て、
諸 説 あ る が、 こ こ で は ウ プ サ ラ 大 学 と オ ス ロ 国 際 平 和 研
わけではない。紛争の激発こそ抑えられているものの、ア
た。 表 1 で は、 そ の 一 八 年 間 に 紛 争 強 度 が「強 」 の 年 が
2008
以 下、 U C D P デ ー タ セ ッ ト と 称 す る )に 依 拠 し、
一九九〇年~二〇〇七年に記録された紛争を表1に掲げ
究所の共同研究によるデータベース ( Uppusala University
フリカ各国の経験を子細にみると、紛争再発の恐れが払拭
あ っ た 場 合、 下 線 を 付 し た。 一 五 ヵ 国 が そ れ に あ た る。
の紛争問題の解決にそれほど楽観的な見通しがたっている
され、順調に国民和解の歩みを進めているとは、なかなか
ビンダ)
、コンゴ民主共和国 (東部)
、ウガンダ、エチオピ
二〇〇七年の段階で紛争が起こっているのは、アンゴラ(カ
*
ソマリア、チャド、ニジェール、マリであるが、紛争強度
、スーダン(ダルフール)
、
ア(オロミアおよびオガデン地方)
*
言い切れない。多くの国々は、戦争状態こそ回避している
本稿の目的は、アフリカの紛争解決に向けた国際社会の
にある。
ものの、平和が確立したともみなしがたい、不安定な状況
こうした状況は基本的に評価できるものだが、アフリカ
疑いない。
に武力紛争を経験した国々をあげた。武力紛争の定義には
Ⅱ 紛争の性格
よ う な 失 敗 も あ っ た が、 結 果 と し て 国 際 社 会 の 介 入 が 奏
*
促し、その再発を未然に防止する効果を有していることは
装 解 除・ 動 員 解 除・ 再 統 合 ( disarmament, demobilization,
は、人道支援や停戦監視に留まらず、和平協定の仲介、武
功 し た 事 例 も 多 い。 今 日、 紛 争 に 対 す る 国 際 社 会 の 関 与
*
148
149 アフリカの紛争解決に向けて
*
*
が「強」と評価されたのはソマリアだけである。ここ数年
の間に激しい戦闘があったのは、無政府状態が続くソマリ
アの他にはスーダンのダルフールとチャドくらいであり、
アフリカの紛争要因について、ここでは詳細に検討する
二〇〇〇年代に入って紛争強度は総じて低下傾向にある。
紙幅がないが、それが国家統治をめぐる問題に起因するこ
)
。表1から明らかなよ
とは確認しておきたい (武内 2009
うに、この間の紛争は、エチオピア・エリトリア戦争を除
いて、すべて国内紛争である。アフリカでは、国家権力の
行使や国家統治のあり方をめぐって国内紛争が勃発する例
が多い。ガバナンスの悪さに示される国家の脆弱性が、紛
争を引き起こす要因となってきた。近年、アフリカの紛争
強度が低下傾向にあるとはいえ、必ずしもガバナンスが改
善しているわけではない。むしろ、国際社会の介入によっ
て暴力の激発が抑制されていることが、紛争強度の低下に
結びついている。
表2に、近年のアフリカにおける紛争がどのような形で
*
終わるかを示した。そこでは、一九九〇年代以降の主要な
紛争を、
終わり方に応じて三つに分類している。ここから、
武力よりも交渉で決着する紛争が多いこと、多くの紛争に
対して国連平和維持軍 (PKO)が派遣されていることが
わかる。
オピア戦争)
、カメルーン、ギニア、ギニアビサウ、コートディヴォワール、コモロ、コンゴ共和国、
コンゴ民主共和国、シエラレオネ、ジブチ、スーダン(南部、ダルフール)
、セネガル、ソマリア、チャド、
中央アフリカ、ナイジェリア、ニジェール、ブルンディ、マリ、モザンビーク、リベリア、ルワンダ、
(出所)Uppusala University 2008 から筆者作成。
(注)1990∼2007 年の間に紛争強度が「強」の年を含むものに下線を付した。
レソト
表 2 近年のアフリカにおける紛争終結のパターン
結した紛争(8) オピア、コンゴ共和国、コンゴ民主共和国(1996∼97 年)
、ルワンダ
結した紛争(10) 中央アフリカ(1996∼98 年)
、スーダン(南部)、エチオピア・エリトリア戦争、
コンゴ民主共和国(1998∼2001 年)
、ブルンディ、コートディヴォワール
(出所)筆者作成。
(注 1)下線は、関連して国連 PKO が派遣された事例。
(注 2)本表に示す紛争事例は、表 1 の事例と必ずしも一致しない。
なわち、
(1)戦闘の停止と和平に向けた合意形成、(2)
して捉えるために、関与を四つの局面に分けて考える。す
あとに実施される諸施策とそこでの国際社会の役割を整理
て政策的対応も変わってくる。ここでは、紛争が起こった
始末まで、紛争の様相は局面によって異なり、それに応じ
容を具体的にみていこう。勃発から激化、沈静からその後
次に、アフリカの紛争解決に向けた国際社会の関与の内
あるが、リベリアやシエラレオネのように和平交渉の後に
たん締結された和平協定が破棄され内戦に戻ったケースも
ていることがわかる。アンゴラやルワンダのように、いっ
争強度「強」を含む紛争)の多くが、交渉によって終結し
る紛争が比較的多い。表1と比べてみると、深刻な内戦(紛
うに、近年のアフリカでは和平協定の締結によって終結す
のための仲介は、紛争勃発とともに始まる。表2でみたよ
それらを截然と分けて論じられるわけではなく、以下に述
でもなく相互に関連し、重なり合っている。したがって、
を果たす場合もある。近年の例をいくつかあげてみよう。
る仲介活動はよくみられるが、NGOが仲介に重要な役割
アフリカ連合のような国際機関、また周辺国や先進国によ
和平交渉の仲介に関わる主体はさまざまである。国連や
べる政策的対応も、特定の局面だけを対象にするとは限ら
な主体が和平への仲介を行った。隣国ザイール(現コンゴ民
ルワンダ内戦では、一九九〇年の勃発直後からさまざま
ずしも一から四の順に起こるわけではない。こうした点を
*
て、米国、フランスなど先進国が仲介に加わり、一九九三
に加え
やOAU(アフリカ統一機構。現アフリカ連合:AU)
念頭においたうえで、紛争の諸局面における政策的対応と
国際社会の役割を整理しよう。
主共和国)
の モ ブ ツ( Mobutu Sese Seko
)
大統領は当初仲介
に積極的だったが、交渉は失敗に終わった。その後、国連
ない。また、ある程度時系列的な関係性はあるものの、必
社会の修復、の四つである。これら四つの局面は、いうま
協定が遵守されて移行期を完了した国も多い。
国際社会による平和的解決に向けた圧力や、停戦・和平
1 停戦協定・和平交渉
アンゴラ、ウガンダ、エチオピア(国内紛争、対エリトリア戦争)、エリトリア(国内紛争、対エチ
治安の安定、
(3)正当な国家権力の確立、(4)分裂した
Ⅲ 国際社会の関与
表 1 1990 年代以降のアフリカにおける紛争経験国
年に和平協定(アルーシャ和平協定)が締結された。
*
150
151 アフリカの紛争解決に向けて
ア、ウガンダ(対 LRA)
(5)
中央アフリカ(2006 年∼)
、チャド(2005 年∼)、スーダン(ダルフール)、ソマリ
継続中の紛争
モザンビーク、シエラレオネ、リベリア(1989∼95 年)、リベリア(2000∼03 年)
、
交渉によって終
アンゴラ、ギニアビサウ、チャド(1990 年)
、中央アフリカ(2002∼03 年)
、エチ
武力によって終
*
コンゴ民主共和国で一九九八年に勃発した内戦は、多数
2 治安 の確立
連して要請されることも多い。
治安の確立は、平和構築の基礎である。治安が不安定で
の 周 辺 国 の 参 戦 に よ っ て 国 際 化 し た が、 隣 国 ザ ン ビ ア の
チルバ ( Frederic Chilba
)大統領が仲介の労を執り、翌年
に主要介入国とコンゴ民主共和国政府、そして主要反政府
は、和平協定の履行は進まない。和平に向けた合意形成へ
武装勢力の間で停戦協定 (ルサカ協定)が結ばれた。その
後、
コンゴ国内諸勢力間の交渉を国連のニアス(
の関与と並行して、治安確立に対する国際社会の役割も拡
大 し て い る。 こ の 点 は、 国 連 P K O の 性 格 変 化 と も 関 係
Moustapha
)特使と南アフリカのムベキ ( Thabo Mbeki
)大統
Niasse
領が中心になってまとめ上げ、和平協定(プレトリア合意)
す る。 国 連 P K O は、 武 装 勢 力 間 の 停 戦 合 意 が 成 立 し た
あ と で な け れ ば 展 開 で き な い。 従 来 の 考 え 方 は、 治 安 の
*
が締結された。
二〇〇二年に勃発したコートディヴォワールの内戦で
問 題 に 解 決 の 目 処 が た っ た あ と に 国 連 P K O が 展 開 し、
*
実、 国 際 社 会 が 武 装 勢 力 を 鎮 圧 す る「平 和 執 行 」( peace
合 意 さ れ た 停 戦 協 定 を 監 視 す る と い う も の で あ っ た。 事
は、 フ ラ ン ス 政 府 が 停 戦・ 和 平 合 意 形 成 に 主 導 的 役 割 を
)
、独立直後から続いてきたモザンビー
果たし (佐藤 2008
ク 内 戦 に 終 止 符 を 打 っ た ロ ー マ 総 合 和 平 協 定 (一 九 九 二
)の 構 想 は、 ソ マ リ ア で 破 綻 し て い る。 と は
enforcement
いえ、国連PKOに軍事力は不可欠である。軍事力をもっ
( Saint’ Edigio
)とイタリア政府の仲介で結ばれた。
停戦合意や和平協定が結ばれたら、その履行を監視しな
争が再燃しかけたときに対応できる。この機能は、今日の
た部隊の展開はそれ自身紛争の抑止力になるし、実際に紛
年)は、イタリアのキリスト教会系NGOサンテディヂオ
ければならない。これにも、国際社会が重要な役割を果た
年アフリカに派遣される国連PKOは、しばしば国連憲章
た部隊が展開し、政治秩序を担保することが望ましい。近
わめて脆弱なものになる。そのため、十分な軍事力を備え
戦合意や和平協定が結ばれても実効性が乏しく、合意はき
の段階での国際社会の関与が、つぎに述べる治安確立と関
点から発展したものである。ただし、アフリカの場合、こ
務とする、いわゆる第一世代の国連PKOは、こうした観
履行を監視するのは自然な流れである。停戦合意を主要任
) に み ら れ る よ う に、 国
レ ポ ー ト 」( United Nations 2000
連PKOを派遣する際には十分な人員やマンデートを与え
た。この失敗は深刻な反省を強い、その後は「ブラヒミ・
不十分であったことなど、さまざまな問題が指摘されてい
れ、急進派の暴力に対応するためのマンデート (任務)が
)
。こうした事
割 拠 す る よう な 状 況 で あ る ( Zartman 1995
態になると、政治秩序を維持する担い手がいないため、停
に悪化するなかで紛争が勃発し、国内を複数の武装勢力が
綻として起こっている。国家機能が低下し、治安が全般的
近年のアフリカの紛争は、多くの場合、いわゆる国家破
アフリカにおいて重要度を増している。
第七章にもとづいて派遣され、必要な場合には武力行使が
実際、国連PKOの規模は総じて拡大傾向にある。アフ
るべきだという主張が強くなった。
ベリア)
、UNMIS (スーダン南部)
、UNAMID (スー
リカに対して派遣された一万人を超える大規模な国連PK
ダン・ダルフール地方)の五つが展開している。また、和
この点に関して、国際社会に反省を強い、その後の対応
AMIR)が展開した。しかし、この和平協定にルワンダ
平プロセスが危機に瀕したときには、必要に応じてより機
Oは、一九九〇年代にはUNOSOMⅡ (ソマリア)だけ
国内の急進派が反発し、履行を妨害するためにエスニック
に大きな変化をもたらしたのは、ルワンダでの経験である。
な扇動を強めた。急進派は、UNAMIRが反政府ゲリラ
動性の高い部隊が投入されるようになった。コンゴ民主共
オネ)
、MONUC (コンゴ民主共和国)
、 U N M I L (リ
寄りだと非難し、新聞やラジオなどのメディアを使って攻
和国の移行過程で政治情勢が不安定化した際にはヨーロッ
であったが、二〇〇〇年以降はUNAMSIL (シエラレ
撃した。一九九四年四月、大統領暗殺を契機に虐殺が開始
パ連合 (EU)が多国籍軍 (EUFOR)を派遣したし、
一九九〇年に内戦が勃発したルワンダでは、一九九三年に
された直後、首相を護衛していたUNAMIRのベルギー
シエラレオネの政情が悪化したときにはイギリスが単独で
紛争を繰り返さないためには、紛争の原因が是正されな
3 正当 な国家権力 の確立
*
部隊が急進派に襲撃され、一〇名が惨殺されるという事件
派兵した。
和平協定が結ばれたことを受け、国連平和維持部隊 (UN
な要請がある。
認められているが、その背景には治安の確立に対する切実
いし、合意形成に国際社会が深く関与していれば、それが
す。合意の履行監視は中立的な第三者が行うことが望まし
*
が起こる。この事件を受けてベルギーはルワンダから撤退
を決め、それがきっかけとなってUNAMIRの人員は大
幅に縮小された。この結果、国際社会はルワンダの虐殺を
傍観せざるをえなかったのである。
U N A M I R に つ い て は、 国 連 憲 章 第 六 章 下 に 設 置 さ
**
152
153 アフリカの紛争解決に向けて
*
戦 (二 〇 〇 〇 ~ 二 〇 〇 三 年 )で は D D R R (D D R お よ び
や復興の戦略に対応して多様であり、リベリアの第二次内
あるから、国内紛争を引き起こした統治のあり方を改め、
ければならない。アフリカの紛争のほとんどは国内紛争で
正当な国家権力を確立する必要がある。今日、そのための
社 会 復 帰 Rehabilitation
)
、コンゴ民主共和国の周辺国武装
勢力に対する作戦においてはDDRRR (DDRおよび再
施策に国際社会が深く関与している。
意 味 で、 治 安 部 門 改 革 ( Security Sector Reform: SSR
)は
紛争後の核心的な課題のひとつである。SSRに関する議
目 指 す と き、 そ の 中 心 と な る の は 治 安 部 門 で あ る。 そ の
的に立て直す必要がある。もっとも、アフリカの場合、紛
能が破壊された紛争経験国においては、国家の制度を全面
定 住 resettlement
・帰還
*
ている。
)と い う 形 で 進 め ら れ
repatriation
論は近年変化を遂げており、軍、警察、司法部門といった
争勃発以前の制度がそもそも十分に機能していなかったこ
上述した論点とも関連するが、正当な国家権力の確立を
「暴力」に関わる国家機構の能力や効率性を向上させるだ
プメント)や、地方行政機構の改革・構築は、近年の開発
とも多い。中央省庁の能力開発(キャパシティ・ディベロッ
治安部門以外にも重要な課題は多い。内戦により国家機
けでなく、それが国民からみて正当なものと認識されるよ
援助の重要な案件になっており、そこにはこうした制度の
*
能力の低さや機能麻痺が紛争の原因になったという問題意
識がある。
ログラムとして実施され、国連PKOのマンデートにも盛
てきたDDRの三事業は、一九九〇年代後半から一連のプ
に再統合させるというものである。以前は別々に実施され
戦闘能力を失わせたうえで、職業訓練を施すなどして社会
た武装勢力から武器を取り上げ、指揮命令系統を解体して
D R (武装解除・動員解除・再統合)が あ る。 内 戦 を 戦 っ
、また国際社会の役割が大きいプログラムとして、D
る)
もに、選挙監視団を派遣し、その正統性を評価する。その
支援を行っている。選挙資金を提供し、準備を手伝うとと
される。国際社会は、選挙実施に際してもさまざまな形で
その実施によって紛争から平時への移行が完了したとみな
和平プロセスにおいて選挙はきわめて重要な意味を持ち、
国民の信を受けており、強力な正統性をもつ。その意味で、
挙である。自由で公正な選挙を経て成立した国家権力は、
正当な国家権力確立のメルクマールともいえるのが、選
*
り込まれるようになった。DDRの実施形態は紛争の性格
4 分裂 し た社会 の修復
紛 争 が 社 会 を 深 く 傷 つ け る こ と は い う ま で も な い が、
その修復に向けた政策的対応を実施するというアイデア
罪、ジェノサイド罪)を訴追するための裁判所が国際社会
のイニシャティヴで設置された。ただし、一九九四年に設
置されたルワンダ国際刑事裁判所 ( International Criminal
に国内紛争を経験した国々で国民和解に向けた政策的対
年 に 設 置 さ れ た シ エ ラ レ オ ネ 特 別 裁 判 所 ( Special Court
)が国連安全保障理事会 (安保
Tribunal for Rwanda: ICTR
理)決議による完全な国際機関であるのに対し、二〇〇〇
応 が 必 要 だ と い う 考 え 方 が 強 ま っ て い る。 移 行 期 正 義
目 的 と し て、 過 去 の 傷 に 対 処 す る 試 み を 包 括 的 に 意 味 す
明 責 任 を 果 た し、 正 義 を 確 立 し、 和 解 を 達 成 す る こ と を
( transitional justice
)は、そのための施策のひとつである。
移 行 期 正 義 と は、 大 規 模 な 人 権 侵 害 を 被 っ た 社 会 が、 説
こと自体、注目に値する。これら裁判所の行動は、国際社
はこれら国際的な刑事裁判所にとって唯一無二の目的では
とつとして国民和解への貢献があげられている。国民和解
関与の度合いに違いはあるものの、いずれも活動目的のひ
と向き合ったラテンアメリカ諸国や、アパルトヘイト廃絶
おける紛争処理過程では、その多くに移行期正義が取り入
与はそれほど目立たなかった。しかし、最近のアフリカに
)を通じて過去の克服に取り組んだ南アフリカの経験
TRC
などがある。こうした取り組みにおいては、国際社会の関
例だが、こうした国々の和平協定には国際社会が深く関与
シエラレオネ、コンゴ民主共和国、ブルンディなどがその
の設置が和平協定に盛り込まれるケースが目立っている。
また、近年紛争後のアフリカ諸国では、真実和解委員会
きだと考えられているのである。
れられ、そこに国際社会がさまざまな形で関与している。
しており、その意味で真実和解委員会の設置には、国際社
*
( Scheffer 1996
)と捉えられるが、「司
会による「司法介入」
法介入」に際しても対象国における社会の修復に留意すべ
ないが、平和の維持や法の支配と並んでそれが言及される
*
。
る ( United Nations 2004 : para.)
8 その先駆的な事例とし
ては、一九八〇年代以降の民主化過程で軍政期の人権侵害
*
)は国連とシエラレオネ政府の協議
for Sierra Leone: SCSL
による混合法廷という位置づけになっている。国際社会の
は、 従 来 そ れ ほ ど 一 般 的 で な か っ た。 近 年、 紛 争、 と く
時における国際人道法上の犯罪 (戦争犯罪、人道に反する
判 所 で あ る。 ル ワ ン ダ と シ エ ラ レ オ ネ に 関 し て は、 内 戦
S S R と 深 く 関 わ り (そ の 一 部 と 見 な さ れ る こ と も あ
( OECD 2005
)
。現在多くのアフリカ諸国が、国際社会の助
力を得ながらSSRに取り組んでいる。
う、ガバナンスを改革すべきだと考えられるようになった
**
評価は、当然ながら、その後の支援を左右することになる。
**
国 際 社 会 の 主 導 性 が 最 も 顕 著 な の は、 国 際 的 な 刑 事 裁
後に真実和解委員会 ( Truth and Reconciliation Committee:
**
**
**
154
155 アフリカの紛争解決に向けて
**
会の意向が反映されているとみることができる。真実和解
委員会は紛争処理のツールとして国際的に認知され、多く
として知られている。これは、一九九四年のジェノサイド
えば、ルワンダのガチャチャは、現地主導型の移行期正義
ても、それが国際社会と無関係であるわけではない。たと
現地社会のイニシャティヴで移行期正義が実施されてい
大きく変えた。発展途上国の武力紛争は冷戦期から頻発し
的とする機関だが、国際社会の構造変化が安保理の行動を
の構造変化がある。たとえば、国連は国際紛争の解決を目
に深まった。この背景には、冷戦終結に起因する国際社会
武力紛争に対する国際社会の関与は、冷戦終結以降急速
1 な ぜ関与 す る の か
の容疑者をローカルレベルの知見を利用して裁くもので、
ていたが、それらは米ソの代理戦争という性格をもつもの
の国で応用されている。
ルワンダ政府の発案と主導で行われている。ただし、オラ
が 多 く、 国 連 が 紛 争 解 決 に 取 り 組 む こ と は 事 実 上 で き な
*
ンダなどいくつかのヨーロッパ諸国はガチャチャに対して
かった。対立する米ソが安保理で拒否権を発動し、国連の
く高めようとしたのが、一九九二~九六年に事務総長を務
こうした状況変化を受けて、国連の紛争解決能力を大き
争解決に取り組む条件が整った。
消滅によって、安保理の恒常的な対立は解消し、国連が紛
行動を麻痺させたからである。冷戦終結と東側ブロックの
資金援助を与えており、ガチャチャも国際的な支援と承認
を受けて進められたとみることができる。
Ⅳ 関与の理由と評価
前章では、紛争が勃発したあと、国際社会が果たす多様
GOなど多様な形態をとった国際社会の関与が拡大してい
て、国連にとどまらず、国際機関、諸国家、そして国際N
与 は 拡 大 を 続 け た。 さ ら に、 紛 争 解 決 と 平 和 構 築 に 向 け
して所期の目的を達成しているのだろうか。
国に関与するのだろうか。そして、国際社会の関与ははた
援している。いったいなぜここまで、国際社会は紛争経験
なく、紛争によって傷ついた社会の修復まで国際社会は支
際NGOの活動がきわめて重要な役割を果たしている。和
疑いないが、前節でみたように、さまざまな国際機関や国
に限られない。先進各国が重要なプレーヤーであることは
アフリカの紛争解決に向けた国際道義の担い手は主権国家
ンダなどでいったん蹉跌をきたしたが、その後も国連の関
した。国連への期待は一九九〇年代前半にソマリアやルワ
国連の平和活動に関する概念を整理し、その強化策を提示
)に
出 し た 報 告 書「平 和 へ の 課 題 」( United Nations 1992
*
おいて、予防外交、平和創造、平和維持、平和構築など、
め た ブ ト ロ ス・ ブ ト ロ ス = ガ ー リ Boutros Boutros=Ghali
であった。ガーリは、就任直後に安保理の要請を受けて提
るのである。この動きは世界各地の紛争に関して観察され
平交渉、治安の確立、正統性をもった国づくり、社会の修
な役割について概観した。戦闘を止めさせ、和平協定を結
るが、一九九〇年代に紛争が頻発したアフリカでは、その
復のいずれをとっても、国際機関や国際NGOの関与なく
られている」もののひとつとして、「他の人間に不必要な
けている国際的な道徳律」の「最も重要で最も明確に認め
)と述べて、国
言い得るものが存在する」(カー 1996 : 261
際道義の存在を確認した。具体的には、「諸国家を義務づ
対して訴えることができる共通の諸理念の国際的な根幹と
かな」く、
「いかに制約を受けるものであれ、……それに
である」ことを強調する一方で、それが「事実の一端でし
の二つに区分できる。カーは国際政治が「つねに力の政治
が、あえて整理すれば、道義的な関心と現実主義的な関心
国際社会がアフリカの紛争解決に関与する理由は多様だ
しないメリットを有するが、世論の影響を過度に受けやす
えよう。この事実は平和活動が特定国の狭義の国益に従属
フリカ諸国が戦略的にあまり重要でないことの裏返しとい
せず、国際機関や国際NGOの役割が大きい。これは、ア
やアフガニスタンにおける米国のような主導的大国が存在
うのが常である。
NGOも国際機関も、道義的関心を正面に掲げて活動を行
範形成に果たす役割は大きく広がっている。そして、国際
プロセスの例にみられるように、今日NGOが国際的な規
スや「紛争ダイヤモンド」の流通規制を強めたキンバリー・
して成り立たない。対人地雷廃絶に向けたオタワ・プロセ
ばせ、その履行を監視・支援し、国づくりを助けるだけで
解決に向けた国際社会の動きも目立っている。
。
)
1996 : 285
今日、国際社会がアフリカの紛争解決に向けて関与する際
**
国際社会は大きな変化を遂げた。具体的にいえば、その構
ただし、カーが思索した両大戦間期と今日を比べると、
で は な い。 残 念 な が ら、 世 論 へ の 対 応 に 囚 わ れ て 判 断 を
また持続的に平和構築に向けて投入できるかどうかは定か
もつ強い影響力は大衆動員に効果的だが、それを的確に、
い デ メ リ ッ ト も も つ。 メ デ ィ ア や「セ レ ブ 」(有 名 人 )が
成体が顕著に変わったのである。カーが国際道義というと
誤った例もまた、少なくないのである。
*
き、
その担い手はすぐれて主権国家であった。しかし今日、
に、この「義務」が意識されていることは疑いない。
一般にアフリカ諸国の紛争解決や平和構築では、イラク
*
死や苦しみをさせない義務」をあげた (カー
**
**
156
157 アフリカの紛争解決に向けて
**
他方、
現実主義的な関心は、とくに主権国家の行動にとっ
のに対して、これはグローバルな「テロとの戦い」の一環
ことができる。資源が豊富なコンゴ民主共和国の平和構築
るフランスの場合など、旧宗主国の行動に典型例を見出す
とづく紛争解決への関与は、コートディヴォワールにおけ
ができるだろう。こうした狭義の国益を確保する動機にも
国を自らの勢力圏にとどめ、自国企業の商機を増やすこと
益をビルトインさせることができる。それによって、当該
る諸事業に関与することで、当該国の復興過程に自国の権
第一に、伝統的な意味での国益である。紛争解決に関わ
見出すことができる。
になるという観点から考えると、今日そこに三つの態様を
容は多様だが、アフリカの紛争解決への関与が自国の利益
だことで合意への筋道がついたものもある。ブレアがNG
リー・プロセス)のように、ブレアがサミットに持ち込ん
世論形成に努めた。紛争ダイヤモンドの流通規制 (キンバ
ブ」と協働して、アフリカの貧困削減や紛争解決に向けた
増額するとともに、NGOやアフリカに関心をもつ「セレ
D (国際開発省)を立ち上げ、アフリカ向け援助を大幅に
は、一九九七年の政権発足時に海外援助を担当するDFI
いるが、関心を高めるよう計画された側面もある。ブレア
ア ( Tony Blair
)政 権 下 の イ ギ リ ス に お い て 顕 著 で あ っ
た。アフリカの紛争と貧困は、今日国際的な課題になって
る 自 国 の プ レ ゼ ン ス を 高 め る 効 果 が あ る。 こ れ は、 ブ レ
第 三 に、 国 際 道 義 を 主 導 す る こ と で、 国 際 社 会 に お け
という性格をもつ。
過程に、米国をはじめ先進国が積極的なのも、同様の観点
O な ど と 連 携 し て 推 進 し た「セ レ ブ 人 道 主 義 」( Porteous
て主要な動因となる。現実主義的な関心といってもその内
で捉えられよう。もっとも、こうした利害や関心が、関与
するようになった。第一の国益が一国主義的なものである
米国もヨーロッパも、こうした懸念と対策の必要性を公言
いう性格を帯びている。二〇〇一年の九・一一事件以降、
日の紛争解決への取り組みは、そうした事態の予防措置と
な い と こ ろ で 起 き て い る。 多 国 籍 軍 や 単 独 派 兵 に よ る 平
ルなど著しい人道危機は国際的な平和維持活動が機能し
様化し、紛争解決の過程における主権国家以外のアクター
道的悲惨さに負うところもあるが、国際社会の構成体が多
ら語られることはない。それは、アフリカの紛争がもつ人
いては、国際道義が強調され、一国主義的な国益が正面か
*
(国 際 機 関 や N G O )の 役 割 が 著 し く 高 ま っ た こ と に 対 応
和活動も、国連PKOを補完、補強する効果を持ちうる。
二〇〇〇年のシエラレオネや、二〇〇三年のコンゴ民主共
和国のように、国連PKOの手に余る状況に陥った場合で
アフリカの紛争に対する国際社会の関与は、どのように
大を食い止めることができた。ルワンダにおける失敗の経
はEUFOR (EU多国籍軍)の展開によって、暴力の拡
も、前者のケースはイギリスの単独派兵、後者のケースで
評価できるだろうか。はたしてそれは、紛争解決や平和構
験を経たあと、国際社会が暴力の激発を抑制する目的でア
*
フリカに軍事的展開を実行した際には、一定程度その成果
が現れていると評価できるだろう。
アフリカの紛争に関していえば、停戦や和平の仲介、そ
紛争当事者間を仲介し、交渉を促して、停戦や和平の合
意へと導く作業には、国際社会の貢献が大きい。こうした
して暴力の抑制に関して、国際社会の貢献はそれなりに評
評価を下せない。もちろん、紛争における暴力を抑制させ
価できる。しかし、他の平和構築の課題、すなわち正当な
たあとで、平和の確立のため国際社会が関与を継続するこ
役割には中立的な第三者が適していることを考えると、こ
暴力の抑制に関しても、国際社会は重要な貢献をしてい
とは自然であり、また必要であろう。しかし、その効力や
れは当然である。紛争の平和的解決を促すことは国連憲章
る。二〇〇〇年代に入ってから紛争発生件数が減少傾向に
方法論についてはなお未知な点が多く、さまざまな問題に
国家権力の確立と分裂した社会の修復については、国際社
あること、それと並行して国連PKOの規模が拡大し、平
直面しているのが現実である。
でいえば第六章の行動にあたり、紛争解決に向けた国際社
和維持を目的とする多国籍軍の派遣が増加したことは先に
会の関与がどのような貢献をなしているか、あまり明確な
述べた。国連平和維持活動が暴力の抑制に効果的なことは
統治 (ガバナンス)に関わる制度がどの程度根付き、機能
正当な国家権力の確立過程においては、新たに導入した
)
、事
先行研究で示されており ( Doyle and Sambanis 2000
実 一 九 九 四 年 の ル ワ ン ダ、 二 〇 〇 三 ~ 〇 四 年 の ダ ル フ ー
会の伝統的な役割といえよう。
**
う。
築 に 寄 与 し て い る の だ ろ う か。 最 後 に こ の 点 を 考 察 し よ
2 関与 の評価
*
している。ブレア政権は、その動きをうまく利用して自国
アフリカの紛争解決に向けた近年の国際社会の行動にお
より、自国の援助政策の影響力を強めたのである。
*
する側から公言されることはあまりない。
)の効力は大きく、アフリカへの関心を世界的に
2008 : 97
*
高めた。イギリスは対アフリカ国際支援を主導することに
第二に、安全保障上の懸念にもとづく関与である。アフ
リカにおいて、紛争が長引き混乱が続けば、アフガニスタ
**
の利益に繋げたといえよう。
ンのように国際的な安全保障上の脅威となりかねない。今
**
158
159 アフリカの紛争解決に向けて
**
**
結から時間が経過しても、依然としてガバナンスの改善が
ものがある。ここでは、制度の移植と特定勢力の特権化と
した国際社会と紛争経験国との非対称的な関係に由来する
の確立や社会の修復に関与するうえでの困難性には、そう
な優位性をもっている。逆説的であるが、正当な国家権力
みられないという報告は少なくない。国民和解の進展につ
いう問題をあげたい。
しているのかという点が問われる。しかし、和平協定の締
いても、楽観的な報告はあまり聞かれない。国際的な刑事
へ移行するための前提に関わる行動であるのに対し、正当
はない。交渉の仲介や暴力の抑制が、紛争から平和な社会
なことは確かである。しかし、たんに時間的な問題だけで
ほど時間が経過していない現状では、評価がそもそも困難
果が上がるものではない。取り組みが開始されてからそれ
)
。
ある (舩田クラーセン 2008
国家機構の確立や国民和解には時間がかかり、すぐに成
。民主主義の不可欠の
2008武
; 内 2008)
b
要素とされる選挙が、社会の亀裂を深めているとの指摘も
繋がるかどうか定かでないうえに、裁判がしばしば政治性
国際社会を想定する場合でも、その中心を占めるのは欧米
類なき有力な価値観になった。アフリカの紛争に関与する
)
。自由民主主義は欧米先進国の共通の価値観であり、
2004
冷戦終結によって東側ブロックが消滅した後は、世界で比
ル・デモクラシー)思想に立脚していると指摘する (
おいて国際社会が導入する施策が、自由民主主義 (リベラ
影 響 を 受 け ざ る を え な い。 パ リ ス は、 今 日 の 平 和 構 築 に
な ら な い。 そ し て、 国 際 社 会 が 平 和 構 築 に 深 く 関 与 す る
平和構築の過程では、たんに旧来の制度を再興するので
*
裁判所にしても、ローカルな裁判にしても、裁きが和解に
な国家権力の確立や社会の修復は、紛争経験国の国家建設
のアクター (国家、組織、個人)であり、そこでの価値観
の時間を要するのか、いつまで国際社会は関与を続けるの
まだ出ていない。また、移植した制度の定着にどのくらい
可能であり、また持続的なのだろうか。説得的な答えは、
性にいたるまで、国際社会はアフリカ諸国に比べて圧倒的
いえば、軍事力、資金、技術等のリソースから規範の正統
国との非対称性に由来する。紛争解決と平和構築に関して
アポリアは、関与する国際社会と関与されるアフリカ諸
だし、移行期の大統領職には内戦前の大統領カビラ( Joséph
ストや国会議席などでまったく同数が割り当てられた。た
二つの有力な武装勢力、そして文民野党勢力には、閣僚ポ
で、平和を持続させる発想である。この移植は、どの程度
と文化のなかで成立した制度をアフリカに移植すること
のアフリカ諸国に関与している。換言すれば、欧米の歴史
政治経済体制を確立するという発想にもとづいて、紛争後
今日国際社会は、持続的な平和を創り出すために自由な
Paris
今 日 の 状 況 下 に お い て、 導 入 さ れ る 制 度 は 関 与 す る 側 の
はなく、紛争要因に配慮した新たな制度を構築しなければ
そのものである。そこに国際社会という外部のアクターが
や制度が普遍的なものとみなされて移植される。
かという問いにも、確たる答えはない。アフリカ土着の制
)が横滑りし (すなわち、内戦中の政府側勢力がその
Kabila
ポストを握り)
、副大統領職を有力四グループで分け合っ
和構築過程への関与は、まったくの中立というわけではな
政権担当勢力を事実上優遇するからである。国際社会の平
る。国際社会は、移行期における政治的安定を重視して、
移 行 期 に 政 権 中 枢 を 担 う 勢 力 は、 特 権 的 な 立 場 を 獲 得 す
する国際社会が紛争に介入し、和平協定を仲介するとき、
者の正統性が低い。しかし、圧倒的なリソースと権威を有
紛争は統治に関わる問題に由来し、国民からみて政権担当
る勢力と、国際社会との関係である。一般に、アフリカの
第二に指摘したいのは、移行期に国家権力の中枢を占め
)
。
声すら聞かれる ( Englebert and Tull 2008 : 112
利用可能なリソースや正統性が圧倒的であるからこそ、
政治経済体制を創り出しただけだったのではないかという
プロセスの結果、結局内戦前と同様の、強権的で腐敗した
統領の座についたカビラは強権化傾向を強めており、和平
て排外主義に訴えたが敗北した。選挙に勝利して正式に大
選挙の際、国際社会がカビラ大統領派を優遇しているとし
の良好な関係にもとづいて勢力拡大に成功する。野党側は
その後の移行政権期と選挙において大統領派は国際社会と
ら極立って強い支持を得ていたとは考えにくい。しかし、
*
度を活かすという答えは誰もが思いつくが、具体的に何を
た。和平協定が結ばれた時点で、カビラ大統領派が国民か
い。政権担当勢力に対するてこ入れと、その反民主主義的
国際社会はアフリカの和平プロセスに深く関与する。アフ
い。政治的安定を考慮する国際社会は、政権の中枢を担う
リカ側のどの政治主体にとっても国際社会を権力確立のた
勢力を支援するからである。その勢力は国際社会と深い関
カンボジアのUNTACにおいても議論されたが(
コ ン ゴ 民 主 共 和 国 の 移 行 過 程 を 例 に 取 ろ う (武 内
)
、アフリカにおいてこの問題はよりクリ
and Piombo 2007
ティカルになりうる。
和平協定締結時に「たまたま」政権を担当していた彼らが、
係を結び、その資源を利用するうえで、有利な位置にある。
めに利用する誘因は強いが、そのための条件は平等ではな
。
2008)
a 二 〇 〇 二 年 に 結 ば れ た 和 平 協 定 で は、 八 つ の 武
装勢力間で権力分有が実施され、とくに内戦中の政府側、
Guttieri
性格の是正をどのようにバランスさせるかという問題は、
*
どう活かすのかという成功例は依然として乏しい。
で、構造的な――アポリア (難題)があるように思われる。
を 帯 び る (望 月
関 与 す る と き、 つ ね に 直 面 せ ざ る を え な い ―― そ の 意 味
**
160
161 アフリカの紛争解決に向けて
**
**
して得られた政治的安定はいったいどの程度持続可能なの
てそれほど正統性の高くない勢力を特権化するなら、そう
与が、その圧倒的な権威とリソースによって、国民からみ
て暴力の激発を抑えることは重要だが、それは「止血」で
長期的かつ根本的な対応が必要である。軍事的展開によっ
争は国家形成過程に構造的要因をもつ根深い問題であり、
動員を可能にする一方で、持続性に乏しい。アフリカの紛
である。しかし、国際道義に立脚する関心は、膨大な大衆
だろうか。コンゴ民主共和国東部で二〇〇七年以降再燃し
あって、根本的な対応ではない。
国際社会を利用しやすい立場を獲得できる。国際社会の関
た紛争は、国際社会にとって暗い予兆なのかもしれない。
アフリカの紛争は国家統治の問題に由来し、再発を防ぐ
にはガバナンスの改善が不可欠である。この点は、近年の
議論でかなりはっきりした。国際社会は今日、紛争経験国
冷戦終結以降、国際社会が武力紛争の解決に向けて関与
ない試みである。アフリカ側の主体性を活かしながら、外
療法」を実践しようとしている。これは、ほとんど前例の
むすびにかえて
を深め、それとともにアフリカの紛争や紛争解決が世界的
部からいかなる関与が可能なのか。試行錯誤の中から模索
の国家建設に関与することで、「止血」のみならず「根治
な 関 心 を 集 め る よ う に な っ た。 こ れ ま で ア フ リ カ の 紛 争
するしかないが、それにはなお時間がかかるだろう。
実主義が支配してきた従来の国際政治を考えれば画期的な
与に際して国際道義が強調されることも、一国主義的な現
の動きは基本的に評価できる。また、紛争解決のための関
は、当然かも知れない。アフリカの紛争を解決に導き、人
な転換である。したがって、そこに無理や矛盾が生じるの
エストファリア体制の根幹をなした内政不干渉原則の大き
面に立てて解決のために関与するという現在の動きは、ウ
アフリカなどの紛争に対し、国際社会が道義的関心を前
が、ときに先進国の政府や企業に利用され、ときに無関心
ことである。本稿では、こうした変化を整理し、それを前
道的悲惨が繰り返されないような制度を構築し、そして傷
のうちに放置されてきたことを考えれば、近年の国際社会
向きに捉えたうえで、そこにおける問題点や構造的な難題
い。しかし、そこに簡便な解決策などありえないこともま
ついた社会を修復する必要性については誰にも異論はな
アフリカの紛争への道義的関心が顕著に高まり、その解
た、はっきりしている。国際社会は、当分の間試行錯誤を
を指摘した。
決を目指した取り組みが活発化することは評価すべきこと
事態の改善に貢献した。しかし、翌年に任務を引き継いだ国
連平和維持軍は、現地勢力と衝突して多くの死傷者を出した。
国連平和維持軍の指揮下に入らず展開した米国軍に犠牲者が
続けることになろう。
◉注
平和維持軍も目的を達成しないまま撤退を余儀なくされた。
ルワンダについては、本文で後述する。
出るに及んで、当時のクリントン政権は部隊の撤収を決定し、
*1 この報告書で分析の焦点はサブサハラ・アフリカにあて
られた。本稿も分析対象をサブサハラ・アフリカに絞り、以
下で「アフリカ」という場合にはサブサハラ・アフリカ諸国
*5 UCDPデータセットでは、紛争は「統治( government
)
あ る い は 領 域( territory
) に 関 す る 競 合 す る 対 立 で、 そ の 少
なくとも一方が一国の政府であり、武力によって少なくとも
を指す。
ル・ルワンダ』(二〇〇六年)や『ブラッド・ダイヤモンド』
二五名の戦闘関連犠牲者が出たもの」と定義されている。紛
* 2 近 年 日 本 で 上 映 さ れ、 話 題 に な っ た 映 画 と し て、『ホ テ
(二〇〇七年)などがある。前者はルワンダ、後者はシエラレ
争強度については、当該年における戦闘関連犠牲者数が二五
評価される。
~九九九人であれば「弱」、一〇〇〇人以上であれば「強」と
オネの紛争を題材にしている。
う国際社会とは、価値観や目標がある程度共有され、一定の
*3 本稿では、「国際社会」という言葉が頻出する。ここでい
て考える本稿では、国家以外のアクター、すなわち国際機関
倒的に重要だと考えた。アフリカの紛争解決への関与につい
捉えられる。これは、ブル( 2000
)の捉え方にもとづいてい
る。ただし、ブルは国際社会の構成体として、主権国家が圧
含まれていないため、表2では、筆者の判断で選択、分類した。
紛争の終わり方に関するデータは、UCDPデータセットに
ヴで和平協定が結ばれた場合、交渉で終結したとみなした。
続ける余力があるにもかかわらず、外部仲介者のイニシャティ
秩序とそれを担保する制度が存在する国際的な主体間関係と
や国際NGOもまた、重要な構成要素だと考える。アフリカ
*6 紛争が武力で決着したか、交渉によって終わったかとい
う評価を、明確につけがたい場合もある。ここでは、紛争を
の紛争解決に関与する国際社会を想定する場合、欧米の国家
地サンシティ( Sun City
)に三六七人のコンゴ人政治家を招
き、二ヵ月にわたる徹底的な話し合いの場を提供した。こう
*8 二〇〇二年二~四月、ムベキ大統領は、自国のリゾート
らである。
大統領暗殺事件をきっかけに大虐殺と内戦再発にいたったか
*7 ただし、アルーシャ和平協定は、結局効力を発揮しなかっ
た。ルワンダの政権内急進派の妨害で実行に移されないまま、
(政府)や非国家主体(たとえばNGO)が中心にあって、強
い影響力を行使している。
*4 一九九一年にバーレ( Siad Barre
)政権が崩壊したあと、
無政府状態に陥ったソマリアでは、天候不順とも相まって、
飢餓状態が蔓延した。これに対し、一九九二年に米国を中心
とした多国籍軍が人道支援と治安の確立のために派遣され、
162
163 アフリカの紛争解決に向けて
した議論の末、同年一二月に国内諸勢力間でプレトリア合意
が成立した。くわしくは、武内( 2008)a参照。
* 9 一 九 九 二 年 に ガ ー リ 国 連 事 務 総 長 は『平 和 へ の 課 題 』
( United Nations 1992
) を 発 表 し、 そ の な か で 悪 化 し た 治 安
状況下で治安確立に従事する「平和執行」部隊の構想を示し
た。しかし、ソマリアの経験によってその構想の問題点が露
わになり、三年後に発表した『平和への課題』追補版( United
) で は、 そ れ を「非 現 実 的 」 だ と し て 事 実 上 撤
Nations 1995
回した。
に絞って概観する。
* い ず れ も 裁 判 所 の 設 置 に 関 す る 安 保 理 決 議(ル ワ ン ダ
に つ い て は 安 保 理 決 議 九 五 五、 シ エ ラ レ オ ネ に つ い て は 同
同じ国際的な刑事裁判所とはいえ、国際刑事裁判所(I
CC)の設立規程(ローマ規程 一九九八年)にはこうした
目的がなく、犯罪の再発を防ぐ目的が言及されているだけで
Rが派遣された。シエラレオネでは、UNAMSIL部隊が
* コンゴ民主共和国に対しては、東部のイトゥリ情勢が悪
化した際(二〇〇三年)と選挙時(二〇〇六年)にEUFO
解を原則的には考慮することなく実施されているということ
案を扱っているが、その行動は当該国の平和の維持や国民和
ンゴ民主共和国、中央アフリカ、スーダン、ウガンダ)の事
ある。ICCは、二〇〇八年一〇月現在、アフリカ四ヵ国(コ
人質にとられるなど、情勢が極度に不安定化した二〇〇〇年
ノサイド容疑者を裁くという発想そのものが、ドナーによっ
て示唆されたものと主張する論者もいる( Oomen 2005
)。
の訳。国連憲法第六章で想定されている平
“peace making”
和的手段を通じて、敵対する当事者間に合意を取り付けるこ
対人地雷廃絶のためのオタワ・プロセスにおけるNGO
と。和平交渉の仲介が念頭におかれている。
*
の役割については西谷( 2007
)を、紛争ダイヤモンド取引規
制のためのキンバリー・プロセスでのNGOの役割について
は西元( 2008
)を参照のこと。
最もよく知られた例は、ルワンダ内戦の後ザイール(現
* ダルフール紛争は今日なお継続しているが、殺戮による
犠牲者数は二〇〇三~〇四年が突出して多かった( Flint and
いる。
*
ルワンダ政府は、ガチャチャによって国民和解を進める
という意図をもっている。もっとも、ガチャチャによってジェ
である。
* 国連PKOのマンデートに最初にDDRという言葉が盛
り込まれたのは、一九九九年一〇月に設立されたUNAMS
IL(シエラレオネ)であった(山根 2008
)。
*
リベリアについては山根( 2008
)、コンゴ民主共和国につ
いては武内( 2008)aを参照のこと。
* シエラレオネの地方制度改革に対するイギリス開発援助
省(DFID)の積極的な支援の背景に同様の問題意識があ
ることについて、落合( 2008
)を参照。
*
紛争によって傷ついた社会の修復という点でいえば、経
済発展を目指す通常の開発援助であっても、紛争経験国に供
与される場合は、間接的に同様の目的を有するといえるだろ
う。ここでは、国民和解という紛争後社会に固有の取り組み
コンゴ民主共和国)東部に逃れた難民に対する緊急人道援助
であろう。難民キャンプに膨大な数のルワンダ難民が押し寄
せ、コレラが蔓延して犠牲者が続出する映像がマスメディア
で流れると、世界的に関心が高まって援助が集中豪雨的に供
与された。多数の国際NGOが現地入りし、日本を含め八ヵ
掛けていた。しかし、国際社会は難民の武装解除に手をつけ
プに流入し、そこを拠点としてルワンダ本国に越境攻撃を仕
含まれていた。彼らは、武器をもったまま隣国の難民キャン
かには、ルワンダのジェノサイドに責任を負う政治指導者が
も知れない。ここでは、国連平和維持部隊を大幅に増強し、
い。また、コンゴ民主共和国の例が反証としてあげられるか
これらはいずれも、当初予定したレベルの展開ができていな
るスーダン(ダルフール)で暴力はやんでいない。ただし、
国連とAUの合同平和維持軍(UNAMID)が展開してい
もちろん、国際社会が暴力抑制に万能というわけではな
い。AUが平和維持軍(AMISOM)を送ったソマリアや、
)。 こ れ は、 A U や 国 連 が 本 格 的 に 平 和 維
de Waal 2008 : 151
持活動を行う以前の段階である。
ないまま、人道援助の供与を続けた。結果的に、ジェノサイ
多 国 籍 軍 を 二 度 派 遣 し て 暴 力 の 抑 制 に 一 度 は 成 功 し た が、
たとえば、コンゴ民主共和国においては、経済運営が改
善せず、汚職の蔓延も改まらないとして、二〇〇六年にはI
M F が 融 資 を 停 止 す る 事 態 に い た っ た( Africa Confidential
一九九二年以来複数政党制を導入し、自由で競争的な選
挙が根付いたとみられてきたケニアでも、二〇〇七年末の大
二〇〇七年九月七日付)。
*
ことができる。
築や国民和解の失敗が暴力への回帰を生んだケースとみなす
二〇〇七年以降東部で紛争が再燃している。これは、制度構
*
ドに責任のある武装勢力が、国際社会の人道支援を受けなが
国が人道支援のために国軍を送った。しかし、この難民のな
ら、ルワンダに越境攻撃を繰り返すという倒錯した状況が現
出したのである。くわしくは、武内( 2006
)参照。
米国は、九・一一事件の一年後に発表された国家安全保障
戦略において、地域紛争の抑止やアフリカの脆弱国家への対
*
)。
United States of America 2002
二〇〇三年に発表されたEUの安全保障戦略でも、同様の認
応の必要性を論じている(
識がみられる( European Union 2003
)。
紛争ダイヤモンドの流通規制は「グローバル・ウイット
統領選挙をきっかけに一〇〇〇人を超える規模の犠牲者を出
かも、難しい問題である。
かるのか、制度が定着したと、いつどのように判断できるの
す内乱状態に陥った。制度定着までにどのくらいの時間がか
*
ネス」( Global Witness
)などのNGOによって主張されてき
たが、これを二〇〇〇年の九州・沖縄サミットで取り上げ、
ブレアは芸能界の有名人とも関係が深く、二〇〇四年に
自 ら 議 長 と な っ て 設 立 し た「ア フ リ カ 委 員 会 」( Commission
)には、ロックスターのボブ・ゲルドフが参加して
for Africa
*
実現への道筋を付けたのはブレアである。
*
*
にイギリス軍が投入され、事態の改善に貢献した。
*
*
維持に資する」と謳われている。
罪者を訴追することが、「国民和解の過程および平和の再興と
一三一五)の前文に、国際人道法の深刻な侵害に関わった犯
15
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165 アフリカの紛争解決に向けて
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23
たとえば、アフリカ側の主導によって進められている和
解プロセスとしてルワンダのガチャチャがあるが、これを成
*
2008)
b参照。
功と呼ぶにはさまざまな留保が必要である。くわしくは武内
(
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Africa Confidential
166
167 アフリカの紛争解決に向けて
28
特集 2
―
アフリカをみる世界の目
フランスからみたアフリカ
︱︱サルコジ大統領のダカールでの演説より
加茂省三
出すなどのそれまでいわゆるタブー視されてきたことに挑
戦するという「意外性」の演出にある。そのようなサルコ
ジはこれまでの常識を打ち破るような改革案を矢継ぎ早に
セネガルとガボンを選んだ。大統領となったサルコジの政
外遊先として旧フランス領でありフランスとの関係が深い
に大統領に就任したばかりのサルコジは、最初のアフリカ
サルコジがセネガルのダカールで演説を行った。同年六月
二〇〇七年七月二六日、フランス共和国大統領ニコラ・
も継承してきたフランス語圏アフリカ諸国を重視する伝統
)
、大統領選挙戦中も前任者の
え ( Le Monde, 21 mai 2006
シラクがド・ゴール時代から完全に同じ形態でないにして
スとアフリカの健全で解放され対等な新しい関係」を唱
も、 内 相 時 代 の 二 〇 〇 六 年 に 訪 問 し た ベ ナ ン で「フ ラ ン
げ、フランス国内外から注目を集めた。アフリカに関して
はじめに
治手法は、所属政党にとらわれず敵対政党である左派まで
打ち出すことによって改革者としてのイメージをつくりあ
も閣僚に任命するといった人事面での起用や、フランス第
的なアフリカ外交からの変革を訴えてきた ( Le Monde, 14
)
。それだけに最初の訪問地をそ
février 2007 et 8 mai 2007
が、演説の内容からは歴史認識という問題を越えた、フラ
五共和制の仕組みを変えることにつながる憲法改正を打ち
れら二ヵ国に選定したことは、期待を裏切ったことになっ
ンスのあるいはヨーロッパのアフリカ観に潜む根本的な問
そこで本稿では、ダカールでの演説、ならびに演説に対
題が提起されることとなったのである。
ルコジがダカールで行った演説の内容であった。サルコジ
する批判を紹介することを中心に進め、フランスからみる
しかしこの訪問国の選択以上に人々を驚かせたのは、サ
たが、意外な選択であった。
はこれまでの経歴からして経験上アフリカをよく知ってい
アフリカを検証していきたい。
草者である、
アンリ・ゲノ大統領特別顧問が『ル・モンド』
されたのである。さらに演説の約一年後には演説原稿の起
アカデミックな立場の人々を中心に厳しい批判が引き起こ
とつながる内容であった。とりわけアフリカやフランスの
となったのである。単なる政策スピーチではないこの演説
するスピーチではなく、サルコジ政権のアフリカ観や、ア
わゆる政治エリート層を対象にした政策的な内容を中心と
るという形式で進められた。したがって演説の内容は、い
われた演説は、サルコジがアフリカの若者たちに語りかけ
ダカール大学のシェイク・アンタ・ディオップ講堂で行
Ⅰ ダカールでの演説
るわけでもアフリカに親近感があるわけでもなかった。そ
れでも、アフリカとの関係が深いフランスの共和国大統領
としてのアフリカ観やアフリカとの関係の将来的な方向性
に関して、アフリカ内外から注目が集まるのは当然であっ
紙上へ演説に関する弁明の内容を寄稿するといった事態ま
からは、サルコジ政権のアフリカに対する見方を知ること
た。しかしその演説は、驚きを通り越して一部では怒りへ
)
。
で発生することとなった ( Le Monde, 27 - 28 juillet 2008
アフリカとの関係が緊密なフランスの歴代大統領による演
や植民地支配といった歴史の問題に言及したことにある。
ルコジがまさに歴代の大統領が踏み込まなかった奴隷貿易
容をもつ演説をアフリカで行ったのであろうか。それはサ
いったいサルコジはいかなる目的をもってそのような内
ることができるものであったといえる。これからその演説
あったはずである。その点に対してサルコジの演説は応え
場で初めてアフリカの地で行う演説で果たすべき課題で
いは暗示的に示すことは、フランス共和国大統領という立
ができると考えられ、また、そうした見方を明示的にある
フリカ・フランス関係の将来的な方向性が述べられること
説でこれほどの批判を浴びることはなかったのである。
サルコジは果敢にタブーに挑んだといえるのかもしれない
168
169 フランスからみたアフリカ
とから、演説の内容が十分に周知されているとは考えにく
このダカールでの演説が日本で大きく報道されていないこ
関しては次章以降で取り上げることとしたい。なぜなら、
た。 …… こ の 黒 い 人 間 ( l'homme noir
)の 苦 悩 は、 す
べての人間の苦悩でもある。黒い人間の魂にある消え
い。人間に対する罪であり、人道全体に対する罪であっ
そしてこの罪はアフリカ人だけに対する罪なのではな
制があった、男や女、子どもが商品として売買された。
い。そこでまず演説の内容を概説した後で、演説に関する
ることのない傷は、すべての人間の魂にある消えるこ
の概要を紹介する。ただし、演説の内容の評価や問題点に
批判を紹介したい。とりわけ演説からの引用が長く感じら
とのない傷である。」
初の焦点はそのなかでもとくにフランスとアフリカの間に
そこでまずサルコジ政権のアフリカ観が述べられるが、最
リカ関係の将来的な方向性の大きく二つに分かれている。
演説はサルコジ政権によるアフリカ観とフランス・アフ
に来たのではない。私は奴隷貿易や奴隷制を人道に対
ない。アフリカの若者たちよ、私は悔いを述べるため
ちを悔い改めるよう息子たちに要求することなどでき
在の世代に要求することなどできない。父親たちの過
「過去の世代によって犯されたこの罪を償うことを現
を表明する。
この奴隷貿易の罪に対して、サルコジは次のような態度
れるかもしれない。これは本稿が演説の一部を切り取った
上で考察しているとの評価を受けることは不本意であると
考えることから、できるだけ演説の原文を掲載するほうが
内容の客観的な理解に寄与すると考え、あえて引用文を多
存在する長い歴史的な関係に関するものである。その歴史
する罪であると強く感じている、と言うために来たの
く掲載することにした。
的過去に対してどのように向き合うのか、サルコジは次の
で あ る。 私 は あ な た 方 の 別 離 や 苦 痛 は 私 た ち の で あ
「私は過去を消すために来たのではない。なぜなら過
来たのである。」
り越えて、お互いに見つめ合うことを提案するために
アフリカ人とフランス人がそのような別離や苦痛を乗
*1
去は消すことができないからである。私は過ちや罪を
り、私のでもあると言うために来たのである。私は、
ように述べた。
否定するためにきたのではない。なぜなら幾度の過ち
人の尊厳を無視したことが過ちであったとする。そして、
し、欧州と比べて劣等的なイメージを作り上げ、アフリカ
義者がアフリカやアフリカ人の植民地化以前の過去を否定
植民地支配に関して、アフリカを征服したこと、植民地主
り、次に植民地支配へと演説は進んでいく。サルコジは、
で も、 奴 隷 貿 易 で 終 わ っ た わ け で も な い の は 明 ら か で あ
フランスがアフリカで行った過去の過ちは奴隷貿易だけ
負っているのではない。しかし植民地化は大きな過ち
いるのではない。植民地化は浪費や環境汚染に責任を
るのではない。植民地化は腐敗や汚職に責任を負って
るのではない。植民地化は狂信主義に責任を負ってい
いるのではない。植民地化は独裁者に責任を負ってい
のではない。植民地化はジェノサイドに責任を負って
で行われている血なまぐさい紛争に責任を負っている
を負っているのではない。植民地化はアフリカ人同士
や罪が存在したからである。奴隷貿易があった、奴隷
次のように述べたのである。
を、そして学校を建設した。植民地主義者は手つかず
たい。植民地主義者は橋を、道路を、病院を、診療所
私は植民地主義者はまた与えた、と敬意をもって言い
土地、成果、労働を奪った。植民地主義者は奪ったが、
植民地主義者は植民地化された人々から人格、自由、
ない資源や富を奪い、利用し、搾取し、だまし取った。
「植民地主義者が来て、植民地主義者たちのものでは
る。」
フリカの人々とヨーロッパの人々を変化させたのであ
たるものとなった。……良くも悪くも、植民地化がア
おける戦争で犠牲となったアフリカ人兵士の血で確固
混ぜ合わせた。そしてこの共通の運命はヨーロッパに
ヨーロッパとアフリカの運命を変え、それらの運命を
の 考 え は と り わ け 私 の 心 を 掴 ん で い る。 植 民 地 化 は
の大きな過ちは共通の運命への萌芽を産み出した。こ
であった。……植民地化は大きな過ちであったが、こ
の土地を豊かにし、苦労し、労働し、知恵をつかった。
とを考えていた、善を行うことを考えていた。……植
いた。そのような人たちは文明化の使命を達成するこ
には悪い人間もいたと同時に、良い志をもった人間も
取者ではない、とここで私は言いたい。植民者のなか
しての責務が説かれる。まずサルコジは原理主義に代表さ
とりわけアフリカの若者たちにグローバルな世界の一員と
合いがあると考える。ここから演説では、アフリカの人々、
化がアフリカをグローバルな世界に統合させた、との意味
サルコジが用いた「共通の運命」という言葉は、植民地
すべての植民者が盗人ではなく、すべての植民者が搾
民地化が現在のアフリカにおけるすべての困難に責任
170
171 フランスからみたアフリカ
れる狂信的な行為に傾倒することへの警鐘を鳴らし、アフ
リカの文明に誇りを持つことを諭した。その上でサルコジ
は現在のアフリカの問題点を次のように語った。
アフリカの挑戦に関して、サルコジは次のように続ける。
わせて暮らし、その理想的な生活とは自然との調和で
)が歴史のなかへ十分に入っていない、ということ
ain
である。アフリカの農民は、数世紀にわたり季節にあ
人間精神の混血へ加わる程度に応じて大きくなる。ア
的な生産物として学ぶことである。……文明は偉大な
て学ぶことである。それは、近代科学技術を人類の知
平等を、正義をあらゆる文明と人類に共通の遺産とし
ける普遍的なすべての継承者だと自覚することを学ぶ
「アフリカの挑戦とは、自分もまたあらゆる文明にお
あり、同じような行為と言葉の終わりなき反復によっ
フリカの弱さは、アフリカ内では多くの輝かしい文明
「 ア フ リ カ の 惨 劇 は ア フ リ カ の 人 間(
てリズムが刻まれる時間の永久的な繰り返しのみしか
を知りつつも、長期間にわたりその偉大な人間精神の
ことである。それは、人権を、民主主義を、自由を、
認めていない。常にすべてが反復されるという想像の
l'homme afric-
領域では、人間による冒険や進歩的な考えのための場
混血へ十分加わることがなかったことである。」
ぜながらアフリカの若者たちを次のように鼓舞する。
そこでサルコジは、自らの歴史観やアフリカ観を織り交
所は存在しない。自然がすべてを指揮するそのような
世界では、人間は近代の人間を苦しめている歴史の苦
悩を免れている。しかし、その人間は、すべてが予め
書き記されているような不変の秩序の只中で停滞して
いる。そこでは人間が未来に向かって突き進むような
を、アフリカの感性のすべてを、アフリカの精神構造
の 神 秘 的 な こ と す べ て を、 ア フ リ カ の 信 仰 の す べ て
とする人々、アフリカ的であること、つまりアフリカ
する人々、あなた方のアイデンティティを剥奪しよう
ことである。
」
フリカの挑戦とは、なによりもまず歴史のなかに入る
許してほしいが、アフリカの問題とはそこにある。ア
決してない。アフリカの一友人がそのことを言うのを
代を共有していたということを改めて思い出させる。
きた。アフリカはすべての大地の人々に、同じ幼年時
幾世紀にもわたって神々についての古き伝説を伝えて
ら口頭伝承は何世代にもわたり尊重され繰り返され、
の時代である。偉大な口頭伝承の時代である。なぜな
り調和であった。それは魔術師、魔法使い、シャマン
フリカの若者たちよ、あなた方を根無し草にしようと
再度非難されるかもしれないとの理由からである。ア
ないアフリカであるなら、それは隷属の状態にあると
を聞いてはいけない。なぜなら、これ以上何も変わら
を歴史の外においておこうとしている人々のいうこと
のすべてを一掃しようとする人々のいうことを聞いて
アフリカはそこから単純な喜び、つかの間の幸運と必
「アフリカの若者たちよ、伝統の名においてアフリカ
はならない。なぜなら、意見をやりとりするためには
ことは決してない。その人間が運命を自ら思い描くた
何か与えるものをもっていなければならないし、他者
要とされること――ここで必要とされることとは、理
めに繰り返しから脱出するという考えにいたることは
と話すためには何か発言することをもっていなければ
解 す る よ り も 信 じ る こ と、 思 考 す る よ り も 感 じ る こ
を呼び覚ましたのである。」
と、支配するよりも調和することであるが――それら
ならないからである。
」
さらにサルコジはサンゴールを引用して、アフリカが他
の世界の幼年期であるとするアフリカ観を提示するのであ
そしてアフリカ・ルネサンスという言葉が用いられる。
に父祖伝来の記憶を持ち続けている。なぜなら各人が
の幸せな思い出を持ち続けているように、意識の奥底
記憶の泉に遡る。各人は、大人が心の奥底に幼年時代
「(サンゴールの)詩は、象徴の森を越え、父祖伝来の
ア フ リ カ で 成 功 す る こ と を 目 的 に す る よ う に 説 く。 そ し
題および頭脳流出の問題に言及し、アフリカの若者たちに
ネサンスと呼称するのである。ここからサルコジは移民問
放がアフリカを成功に導くとし、その解放をアフリカ・ル
きない原因とする。サルコジは、そのような神話からの解
から解き放たれていないことが、アフリカが現実を直視で
サルコジはいまだに神話化された過去に固執し、その呪縛
現在の永遠の時を知っていたからである。各人は全人
て、フランスとアフリカの関係を次のように述べる。
る。
類を支配することではなく、全世界と調和して生きる
「アフリカが望むことはフランスも望むことである、
ことを探求している。感覚、本能、直感の時間、密儀
とイニシエーションの時間、神秘的あるいは神聖な時
間がいたる所にあった。そこでは、すべてが奇跡であ
172
173 フランスからみたアフリカ
の姿とは異なるグローバリゼーションを望んでいる。
性豊かな、より正義に満ちた、より規制された、現在
た方と協同するであろう。……あなた方は、より人間
あれば、フランスはそれらをつくり上げるためにあな
もしあなた方が民主主義、自由、正義、法を選ぶので
スはあなた方の領分を侵すつもりはない。それでも、
あろうか。それを決めるのはあなた方である。フラン
あなた方は民主主義を、自由を、正義を、法を望むで
同、パートナー関係である。アフリカの若者たちよ、
ロッパとアフリカで待望されている。」
来を準備することであり、その偉大な共通の夢はヨー
リカとともに行いたいこと、それはユーラフリカの到
交渉し決定した移民政策である。……フランスがアフ
受け入れられるために、フランスとアフリカが一緒に
のヨーロッパでアフリカの若者が尊厳と尊敬を持って
リカとともに行いたいこと、それはフランスとすべて
おける共通の戦略を磨くことである。フランスがアフ
ともに行いたいこと、それはグローバリゼーションに
り共有された発展である。……フランスがアフリカと
フリカとともに行いたいこと、それは共同発展、つま
ではなく現実の政治を行うことである。フランスがア
フランスもまたそのようなグローバリゼーションを望
それは対等な権利と義務を有する国家同士の協力、協
んでいる、と私は言いたい。フランスはヨーロッパと
し我々はあなた方に干渉することはできない。……あ
るすべての人々とともに闘うことを望んでいる。しか
でグローバリゼーションを変化させることを望んでい
が未来へのメッセージとなるとして演説を終了したので
殊性ではなく世界の一部としての存在するようになること
てヨーロッパとアフリカの一体性を主張し、アフリカの特
このようにサルコジは、ユーラフリカという言葉を用い
ともに闘うこと、アフリカとともに闘うこと、世界中
なた方は恣意的な行為や汚職、暴力をやめることを望
あった。
うな箇所は発せられなかったというものである。演説の後
ていたが、実際の演説のなかではサルコジの口からそのよ
を奴隷商人に売ったのは他のアフリカ人である」と記され
)
。
なかった箇所があるといった指摘がある ( Gassama 2008
それは、事前に報道機関に配布された版では「アフリカ人
には書かれていたがサルコジが実際に演説では読み上げ
サイトから配布されたのとは別版があり、その別版の原稿
なかには、サルコジの演説にはフランス大統領府のウェブ
目録をつくることはここでの目的ではない。また、批判の
羅的に紹介することは物理的にも不可能であるし、批判の
を行いたい。ただしここでは演説に対する批判すべてを網
ら批判の一部を参照しつつ、演説の問題点を整理し、考察
多くは、アフリカ観に関するものであるが、これからそれ
フランス国内から数々の批判が起こることとなる。批判の
それは現実を直視することであり、もはや神話の政治
象に「クズを片付けろ」と叫びメディアに大きく取り上げ
パリ近郊で暴動が発生した際には、移民系の若者たちを対
二〇〇五年五月から二年間内相を務めたが、同年一一月に
リ テ ィ に ま っ た く 問 題 が な い と は い え な い。 サ ル コ ジ は
を 看 過 す る こ と に な ろ う。 も っ と も サ ル コ ジ の パ ー ソ ナ
に 内 包 す る フ ラ ン ス・ ア フ リ カ 関 係 に 広 く か か わ る 問 題
ジやゲノを例外的な人物とすることで問題の解決をはかる
物たちであるが、個人の問題に収斂させてしまえばサルコ
外交に大きな影響を与えることのできる高い地位にある人
領でありゲノは大統領特別顧問というフランスのアフリカ
なるのであって、もちろんサルコジはフランス共和国大統
パーソナリティが問題ならサルコジ、ゲノの個人が問題に
つ な が る と 考 え る。 な ぜ な ら サ ル コ ジ や ゲ ノ の 個 人 的 な
ものもあるが、それでは問題を矮小化させてしまうことに
サルコジや演説の起草者であるゲノ個人の問題として扱う
これまで見てきた演説の内容に対して、アフリカおよび
Ⅱ 誰に向 けての演説か
んでいるか。もしあなた方がそれを望むのであれば、
フランスはあなた方の味方となってそのことを要求す
るが、干渉はしない。……あなた方はアフリカの統一
を望むのか。フランスもまたアフリカの統一を希望す
にフランス大統領府のウェブサイトに掲載された演説原稿
られると、予定されていた小アンティル諸島に点在するフ
る。……フランスがアフリカとともに行いたいこと、
では該当する記述はない。そのような内容を発言しようと
ラ ン ス 領 へ の 訪 問 が キ ャ ン セ ル さ れ、 批 判 の 的 と な っ た
ことが可能になってしまうからである。それではこの演説
を柱とする新しい移民政策を規定する法案の議会での採決
*2
していたこと自体が大きな問題であることに違いないが、
*4
実際には発言されていないのであるから、ここではこの点
また、ここではサルコジの演説を対象とするが、サルコ
と期間が重なったこともあって、ベナン市民がサルコジの
*3
に関して批判がなされていることを指摘するだけにとどめ
( Le Monde, 9 décembre 2005
)
。また二〇〇六年五月にはア
フリカ諸国歴訪でマリとベナンを訪問したが、移民の選択
ジ自身のパーソナリティのみを対象にすることは必ずしも
訪問に抗議し、ベナン議会の議員たちが、フランス側主催
たい。
適当でないと考える。確かに批判のなかには演説の内容を
174
175 フランスからみたアフリカ
ヌ』誌 ( Politique africaine 2007 :)6は、演説を「父権主義
的であり極端な啓蒙的傾向がある」とし、「このような調
)
」に満ちていると
それは演説が「父権主義 ( paternalisme
いうものである。たとえば、『ポリティーク・アフリケー
に語りかけるという形式そのものにあったと考えられる。
示されたが、まずこの演説の問題点はアフリカの若者たち
)
。
たことは事実である ( Le Monde, 06 mai 2007
さて、演説への批判はアフリカ観に関するものが多く提
が大統領に当選した際、アフリカからは失望の声が上がっ
( Le Monde, 19 mai 2006
)
。ベナン訪問の件はサルコジがス
ケープゴートにされたという面があるにしても、サルコジ
はサルコジを、
「アフリカの友人ではない」と切り捨てた
て謝罪する意思は示されず、むしろ人類全体に対する人道
隷貿易と奴隷制に関しては、過去の世代が犯した罪に対し
隷制および植民地支配の「誤り」が認められた。しかし奴
africaine 2007 :)7が指摘するように、これまでのフランス
第五共和制において奴隷貿易や植民地支配に対する批判を
ある。確かに『ポリティーク・アフリケーヌ』誌( Politique
貿易、奴隷制および植民地支配に関する発言から明らかで
フランス国内の文脈を踏襲したものであった。それは奴隷
人々に顔を向けて語りかけているのではないと指摘できる
意 識 し て い な か っ た に と ど ま ら ず、 そ も そ も ア フ リ カ の
いるということは意識されなかったのであろうか。
サルコジを聴いている若者ではないアフリカの人々が多く
子で演説する西欧の指導者は他にはいない」と批判する。
の昼食会をキャンセルするという事態も生じた。議員たち
確かに演説の形式を鑑みれば、起草者のゲノが擁護するよ
の罪との認識が示された。植民地支配に関しては、すべて
に語りかけるという形式が妥当と考えたに違いない。それ
題や未来志向の関係構築という演説の狙いからして、若者
この点に関してゲノは何も述べていない。おそらく移民問
ンスの存在、とりわけ北アフリカにおける存在の積極
罪であるという位置づけが確立されている。また、同年八
が可決されたことから、奴隷貿易と奴隷制が人道に対する
を人道に対する罪として承認する法」(通称「トビラ法」)
フランスの上院議会であるセナで「奴隷貿易および奴隷制
奴隷貿易と奴隷制に関しては、二〇〇一年五月一〇日に
を否定するのではなく、植民地者のなかには「良い志」を
明確に行った大統領はいなかった。演説では奴隷貿易、奴
ことにある。演説の内容はフランス国内を意識しており、
演説のさらなる問題点は、若者以外のアフリカの人々を
うにアフリカの若者たちに呼びかけるという形式である以
もったものもいたという積極的な側面が強調された。
*5
)
、ある程度父権主義的な
上 ( Le Monde, 27 - 28 juillet 2008
調子になるのは仕方がないのかもしれない。しかし、それ
でも演説を聴くのは若者だけではない。若者に対して語る
的な役割を認め、海外領土出身のフランス軍兵士の歴
ではなぜ若者たちに語りかけるという形式をとったのか。
月三一日〜九月七日に南アフリカのダーバンで国連主催の
史と犠牲に、それら兵士の権利である高い地位を与え
*
る世界会議」では、会議に参加したアフリカ諸国から奴隷
る。」
「人種主義、人種差別、外国人排斥および不寛容に反対す
貿易に対する謝罪と賠償が要求された。その際にトビラ法
がアフリカ諸国から好意的に評価される場面もあったよう
制と奴隷貿易が人道に反する罪であるということが認めら
議会に提出したが、サルコジが党首を務める与党国民運動
えた ( Le Monde, 25 mars 2005
)
。二〇〇五年一一月三〇日
に野党社会党が第四条の廃止をめざす法案をフランス国民
歴史研究者たちはこの「公式な歴史」の教育に拒否を訴
れ、現在もなお奴隷制やそれと同類のことが行われている
とりわけサルコジは、社会党の態度を「永遠の懺悔」とし
連合(UMP)の反対で法案は審議されることはなかった。
)
、トビラ法では謝
であるが ( Le Monde, 8 septembre 2001
罪にも賠償にも触れられていない。結局、会議では、奴隷
ことを非難する内容の最終宣言が出されたにとどまり、ア
の発言であったと見ることができる。それは「帰還フラン
植民地支配に関しても、フランス国内の動きを踏まえて
る。そのためシラク大統領(当時)が事態収拾に動いたが、
り広げられるといった社会的なうねりとなる様相を呈す
越え、フランス領アンティーユやアルジェリアでデモが繰
束せず、むしろ第四条に反対する動きは研究者のレベルを
*7
フリカ側が求めた謝罪や賠償は実現されなかった。サルコ
ス人の国籍および国家への貢献を認める」二〇〇五年二月
第四条の削除にまでなかなか決断ができなかった。シラク
て非難し、法案反対に主導権をとった。これでは事態は収
二三日法である。この法律に対してフランス国内の歴史研
が決断したのは年が明けた二〇〇六年一月二五日のことで
ジの演説はこの流れを踏襲している。
究者から反発の声が上がった。二〇〇五年二月二三日法の
*8
第四条には次のように記されていた。
……高い地位を与える」)が削除されるという異例の対応と
会 で 議 論 さ れ る こ と な く 第 四 条 の 第 二 段 落 (「学 校 教 育 の
あった。シラクの要求に応じて憲法評議会が開催され、議
存在、とりわけ北アフリカにおけるフランスの存在の
る。
なった。それは議会での審議が期待できなかったことによ
「大学の研究プログラムは、海外領土でのフランスの
歴史にふさわしい地位を与える。
学校教育のプログラムは、とくに海外領土でのフラ
176
177 フランスからみたアフリカ
*
私は自分たちの国を誇りに思うことを我々に禁じさせ
を表明することで懺悔するというやり方を嫌悪する。
は選挙対策という要素が大きいと考えられる。二〇〇二年
ようとする懺悔を嫌悪する。」
それではサルコジが何故に抵抗したのであろうか。それ
の大統領選挙の際、フランスを震撼させたのは、大統領選
第二回投票でシラクがル・ペンに勝利して大統領に再選さ
ンではなく、極右政党国民戦線のル・ペンであった。結局
たが、第二位は大方の予想に反して社会党候補のジョスパ
アミナタ・トラオレは、『侮辱されたアフリカ』と題され
る と は 考 え ら れ な い。 た と え ば マ リ の 元 文 化 大 臣 で あ る
ある。これではサルコジの演説にアフリカの聴衆が納得す
サルコジのダカールでの演説はこの延長線上にあるので
挙第一回投票の結果、第一位はUMP候補のシラクであっ
れることになるのであるが、ル・ペンが第二位につけたこ
た 著 作 の な か で 次 の よ う に 述 べ て い る ( Traoré 2008 : 45 -
したのもそのような背景がある。二〇〇五年二月二三日法
宗教的シンボル禁止法」(通称「スカーフ禁止法」)が成立
るようになる。たとえば二〇〇四年に「公立学校における
右への票の流れを意識しナショナリスト色の強い政策をと
たのである。これ以降、シラク政権および与党UMPは極
)
』
ほうがずっとよい。『人質の学校 ( école des otages
は入植者が必要とする補助者を育成することを目的と
な成果に対して礼を言わなければならないと思わせる
カの人間』はフランスによって成し遂げられた文明的
勝手に許したり、自分で勝手に賞賛したり、『アフリ
まなければならないのであろうか。それよりも自分で
「なぜ奴隷貿易や植民地支配の遺産の重荷を背負い込
)
。
46
とは世論を驚かせた。とりわけ危機感を募らせたのは保守
政党である与党UMPであった。自分たちの票が移民排斥
も同様の文脈で成立した。さらにサルコジは大統領選挙期
していたことや、フランス本国を豊かにすることにな
などを声高に主張する極右勢力へ流れていくことを心配し
間中の二〇〇七年四月五日にリオンで次のように述べてい
を建設したことを忘れるよう、我々は促されているの
して時には血の代償を払ってインフラストラクチャー
*9
る。
ティをあまりに悪く言われるがままにしておくのは間
「我々はフランスを、フランスの歴史とアイデンティ
である。」
ろう未開の土地を肥沃にさせるために、我々が額に汗
違っている。私はフランスとフランスの歴史への嫌悪
らないからです。黒人の特徴といえば、その意識がな
んらかの確固たる客観性を直観するにいたっていない
ことが、まさにそれで、人間の意思が関与し、人間の
述することにして、歴史のなかへ十分に入っていない云々
という表現自体もまた問題視されたのであるがその点は後
釈よりも世論を驚かすことになった。「アフリカの人間」
し た こ と は、 奴 隷 貿 易、 奴 隷 制、 植 民 地 支 配 に 関 す る 解
リカの人間が歴史のなかへ十分に入っていない云々と発言
にとどまらず展開されている。とりわけサルコジが、アフ
演説では歴史に関して、奴隷貿易や奴隷制、植民地支配
ればならない。彼らの性格のうちには人間の心にひび
る畏敬の念や共同精神や心情的なものをすてさらなけ
人間です。彼らを正確にとらえようと思えば、あらゆ
ん。……黒人は自然のままの、まったく野蛮で奔放な
な絶対の実存についてはまったく知ることがありませ
統一のうちにあって、自己とはべつの、自己より高度
ての自分との区別を認識する以前の、素朴で内閉的な
い。アフリカ人は、個としての自分と普遍的本質とし
Ⅲ 歴史 なきアフリカと悪しき二分法
と の 発 言 か ら、 ヘ ー ゲ ル 的 歴 史 観 の 再 来 で あ る と す る 批
くものがないのです。」
本質を直観させてくれる紙や法律が彼らのもとにはな
判 が 提 示 さ れ た の で あ る ( Chrétien 2008 : 18 - 19 ; Politique
リカの特徴をとらえるのは困難ですが、というのも、
覚める以前の暗黒の夜におおわれています。……アフ
きこもった黄金の地、子どもの国であって、歴史に目
他の世界との交渉をもたない閉鎖地帯です。内部に引
「……アフリカは、歴史的にさかのぼれるかぎりでは
起させるという意図が起草者にあったのではないであろ
入っていない云々という箇所は、けっして植民地支配を想
しまったのである。もちろん、演説で歴史のなかへ十分に
ことに演説そのものに植民地主義的な調子が醸し出されて
の問題を過去のものとする意図がうかがわれるが、皮肉な
)が指摘するように、このヘーゲルのアフリカ観は植民
19
地主義的思考の典型である。サルコジの演説からは植民地
ジ ャ ン・ ピ エ ー ル・ ク レ テ ィ ア ン ( Chrétien 2008 : 18 -
ここでは、私たち (ヨーロッパ人)がものを考えると
う。起草者であるゲノは、大統領はヘーゲルから何も得て
。
)が 次
africaine 2007 :)
6 そ れ は ヘ ー ゲ ル ( 1994 : 157 - 160
のように記したことが想起されるとの指摘であった。
きつねに必要とする一般概念を、すててかからねばな
178
179 フランスからみたアフリカ
いない、と振り返る ( Le Monde, 27 - 28 juillet 2008
)
。確か
に 演 説 は ヘ ー ゲ ル か ら 直 接 引 用 し て い な い。 さ ら に ゲ ノ
ていないとは、自然のままのまったく野蛮で奔放な人間か
奔放な人間である、という。つまり歴史のなかに十分入っ
(ヘーゲル曰く「黒人」
)が、自然のままのまったく野蛮で
は、アフリカに歴史がないとはどこにも言っていない、と
ら抜け出しきれていないという意味合いを持つことになる
この点こそが演説に潜む注目すべき問題点である。つま
のである。
り、 ア フ リ カ は「未 開 」 あ る い は「幼 稚 」 で あ る と の 意
し、アフリカの人間は歴史のなかや世界のなかに入ってい
史の否定につながるのか、とも述べている。確かにヘーゲ
識 が い ま だ に 存 在 し て い る こ と の 現 れ で あ る。 こ の 点 を
るが十分ではないといったのであって、どうしてこれが歴
ルは、そもそもアフリカは歴史に目覚める以前の状態だと
)は演説のなかからそのような意識
ン ( Chrétien 2008 : 21
を読み取ることのできる言葉を指摘する。「神秘的な教義
明 白 に 批 判 す る の は、 ク レ テ ィ ア ン で あ る。 ク レ テ ィ ア
している。
)
」という言葉を
それでは、ゲノはなぜ「歴史 ( histoire
単純に用いたのであろうか。この点に関してゲノは言及し
ていない。むしろ、ゲノは二〇〇八年四月九日付でセネガ
ルの日刊紙『ル・ソレイユ』の社説欄に著名なアフリカ人
ヘーゲルは、歴史に目覚める以前の状態のアフリカの人々
させられる。ここで想起されるのが再びヘーゲルである。
いない、となると、その人間はどのような状態なのか考え
いう言葉を単純に用いて、人間が歴史のなかに十分入って
きとのメッセージとして受け取れる。それが、「歴史」と
は、アフリカがもっと現代世界が直面する課題に関与すべ
ことには気付いていないようである。バラ・ディウフから
いる。しかし「歴史」と「現代史」では意味合いが異なる
)へ入る
く今世紀は我々が現代史 ( histoire contemporaine
ことを要求している、と記したことを引用して正当化して
カ人の「友人」として植民地支配を「誤り」と表現するこ
方では、原住民と文明化の使者の対立であり、この構造的
とができるとされているとし、伝統と近代とは、別の言い
西欧モデルへの入会によってのみ変化と進歩をみいだすこ
レティアン ( Chrétien 2008 : 21 - )
22は演説のなかで、伝統
と退嬰主義という檻に閉じ込められたアフリカの人たちが
ヨーロッパの幼年時代と結論づけているとする。さらにク
)
」、
「失われた楽園 ( un paradis perdus
)
」といっ
immuable
た 言 葉 を 抜 き 出 し た ク レ テ ィ ア ン は、 演 説 が ア フ リ カ を
)
」、「自 然 と の 共
祖伝来の賢明さ(
une
sagesse
ancestrale
)
」、「不変の秩序 ( un ordre
生 ( la symbiose avec la nature
(
)
」、
「アフリカの魂 (
)
」、
「超
foi
mystérieuse
l'âme
africaine
)
」
、「先
自 然 的 な 想 像 の 領 域 ( un imaginaire merveilleux
な二元論がダカールの演説の核心である、とする。実際に
とで非難しても、演説の構造は「人種主義者の原型 ( proto-
ジャーナリストであるバラ・ディウフが、我々の扉をたた
ゲノは、ヨーロッパ以外の文明に進歩という要素がないと
*
いいたいのではないが、我々が知っている進歩というイデ
)
」そのままである、と断言する。このアフリカ人を
raciste
劣等視する人種主義は何も奴隷貿易や植民地支配といった
オロギーは啓蒙の時代からの遺産に固有のものである、と
ティアン ( Chrétien 2008 : 19 - )
29は、現在のフランスのメ
ディアでも、アフリカは常に「神秘的」で「冒険」の対象
過去とダカールでの演説に限定されることではない。クレ
である。
人 種 主 義 と い う 側 面 が 潜 ん で い る と い う。 そ し て ベ ン ベ
)
。ここからゲノが
している ( Le Monde, 27 - 28 juillet 2008
二元論から解き放たれた思考の持ち主でないことは明らか
)が
さ ら に、 こ の 二 元 論 の 背 後 に は 人 種 主 義 ( racisme
あ る と の 主 張 が あ る。 演 説 で 用 い ら れ た「ア フ リ カ の 人
(
ものが機能するという流儀の最も公的な証言になってい
)は、サルコジの演説が、アフリカのこ
Membe 2008 : 106
とを問題にするやいなやフランス風人種主義ともいうべき
として紹介されているとし、ヨーロッパの文化の深淵には
間」や「黒い人間」という表現が人種主義的であると指摘
されている。また、演説の様式それ自体を人種主義的とす
る批判がある。たとえば、アシル・ベンベ ( Membe 2008 :
民地統治下でも継承され、黒人たちは森に住み泉で歌を歌
純な人間性の生きた象徴である。このようなレッテルは植
が 一 九 七 一 年 に ユ ネ ス コ で 行 っ た「人 種 と 文 化 ( Race et
対 す る 特 権 を 正 当 化 す る こ と、 と の レ ヴ ィ・ ス ト ロ ー ス
こうした人種主義との批判は、演説起草者であるゲノに
とって最も耐え難いものであったに違いない。『ル・モン
る、とするのである。
)
」 の メ ン バ ー が、
友 好 協 会 ( Société des Amis des Noirs
奴隷制や奴隷貿易に苦しむ黒人に同情する、つまり黒人の
ド』紙に掲載されたゲノの反論では、人種主義との批判に
)は、 一 七 八 八 年 に フ ラ ン ス で 設 立 さ れ た「黒 人
117 - 119
友人として好意を抱きながら行動しつつも、黒人を劣等視
対して多くの紙面が割かれていた ( Le Monde, 27 - 28 juillet
いながら自然や魂と調和して生きているとされた。ベンベ
*
してそのメンバーにとって、黒人とはいにしえの幸運で単
するという人種的偏見からは解放されていないとする。そ
)
。ゲノはまず、人種主義とは人間集団を遺伝形質の
2008
質に基づき階層化し、上位の人間集団が下位の人間集団に
はここにサルコジの演説との類似性をみいだすのである。
)は、サルコジがアフリ
そしてベンベ ( Mbembe 2008 : 121
180
181 フランスからみたアフリカ
**
)
」と題する講演のなかで展開した人種主義の概念
culture
を引用する。そしてゲノは演説ではそのような階層化は行
**
われていないとするのである。さらにゲノは、戦後の対独
)
」のである。バイヤールは、サルコジもた
a pas rupture
びたび引用するヴィクトル・ユゴーが、一八七九年に残し
)
』を
た『アフリカについての演説 ( Discours sur l'Afrique
和解に貢献した哲学者エマニュエル・ムニエが、自然との
調 和 を ア フ リ カ の 幸 福 と 推 測 す る 箇 所 を 引 用 し、 ま た ア
引用する。
「さあ人々よ。その土地を奪取せよ。その土地を奪え。
地を奪うのだ。神がその土地を人間に与えるのだ。神
ムニエやブローデルを人種主義者と呼ぶのか、と問いかけ
このゲノの反論は的外れといわざるをえない。レヴィ・
がアフリカをヨーロッパに与えるのだ。その土地を奪
誰のためにか。誰のためではない。神のためにその土
ストロースによる定義はもっともであるし、演説のなかで
)
。
え」( Hugo 1926: 128
で あ る。 そ れ は つ ま り ジ ャ ン = フ ラ ン ソ ワ・ バ イ ヤ ー ル
の現在になってもいまだに解放されていないということ
がアフリカを語るときに人種主義的な呪縛から二一世紀
するように、サルコジ演説が明らかにしたことはフランス
ジ個人の資質を問うことにあるのではない。ベンベが指摘
の個人的なものが存在する。しかし、問題の本質はサルコ
いるようなものである。確かに批判のなかにはサルコジへ
サルコジ個人を人種主義者と呼ぶのは誤りであると言って
人種主義者と呼べるのかという問いかけは、いいかえれば
に含まれていたことにある。そしてムニエやブローデルを
アフリカを劣等視する意味を想起させる表現や語句が演説
)
」
ようとした。それが「フランサフリック ( Françafrique
なる用語で特徴づけることのできるフランスと旧フランス
帝国主義的な要素を色濃く残した関係をアフリカと構築し
)
。 そ し て、 ア フ リ カ 植 民 地
あ る ( Manceron 2006 : 60 - 61
が独立を迎えても、フランスはまだ植民地主義的あるいは
人種は劣等人種を文明化する義務がある、と主張したので
リカの黒人のために書かれたのではない、と断言し、優等
されているジュル・フェリーでさえ、人権宣言は赤道アフ
張し、むしろ植民地住民に対して親近感を抱いていたと評
物ではなかった。さらにこの後、植民地拡大の重要性を主
けたヴィクトル・ユゴーですら、その範疇から逸脱する人
奴隷貿易および奴隷制を人道主義的な立場から批判し続
演説のなかで具体的に階層化されていたか否かではなく、
階層化が行われていないのも確かである。しかし、問題は
ている。
は外界から閉ざされた存在と述べている箇所を引用して、
ナール派の歴史学者フェルナン・ブローデルが、アフリカ
y
象徴的に示している。フランサフリックもまた過去との断
主義的思考に囚われ続けるフランスという、両者の関係を
いう勢力圏を有することで国際的な大国たらんとする帝国
ようにフランスに大きく依存するアフリカと、アフリカと
カの一体性という意味合いが、独立後もなお植民地時代の
( France
)とアフリカ ( Afrique
)からつくられた造語であ
るフランサフリックは、その用語の持つフランスとアフリ
と の 関 係 な の で あ る。 ウ フ ェ = ボ ワ ニ に よ っ て フ ラ ン ス
領アフリカ諸国を中心としたフランス語圏アフリカ諸国
し て も、 サ ル コ ジ の 演 説 す べ て を 否 定 し よ う と の 意 図 は
中心に展開されたのであるが、そのアカデミックな立場に
。
指摘しておかなければならない ( Chrétien 2008 : )
23
サルコジの演説に対する批判はアカデミックな立場から
コジの演説に対して違和感を表明した指導者もいたことは
AU委員長のアルファ・ウマール・コナレのように、サル
もいる。もっとも公式に非難することはなかったにせよ、
キ大統領 (当時)のように、二〇〇七年七月二日付けサル
問題化していない。それどころか南アフリカのタボ・ムベ
( Bayart 2008 : 31 - 34
)が指摘するように、
「断絶がない (
絶ではなかった。大統領選挙戦ではこのフランサフリック
な い と 思 わ れ る。 た と え ば ク レ テ ィ ア ン ( Chrétien 2008 :
*
の改革を訴えたサルコジであるが、結局はサルコジもまた
せた、としている。むしろ演説において問題であることは、
*
コジ宛の親書のなかで演説に対して謝意を表明した指導者
断絶できていないことがこのダカールの演説で露呈してし
)は、父権主義的、二元論的、人種主義的な要素が、演
25
説の他の箇所に見ることができる善意を相対化させ失墜さ
まったことは皮肉なことである。
サルコジおよびゲノが意図的に父権主義的、二元論的、人
を行ったわけではなく、また二元論的発言もアフリカを劣
は演説のなかで明白にアフリカに対して人種主義的な発言
に対する批判を見てきた。ゲノが反論するようにサルコジ
ここまでサルコジがダカールで行った演説の内容と演説
を意図して用いた用語ゆえに、フランスとアフリカとの新
ても、それがフランスが第四共和制下で植民地体制の維持
なのである。演説の最後で提唱されたユーラフリックにし
名称だけを意識して意味をよく考えずに使ったことが問題
)が批判するように、演説にお
ベンベ ( Mbembe 2008 : 126
ける言葉の使い方が鈍感すぎるのであり、言葉の表面的な
種主義的な演説を行おうとしたか否かではないのである。
等視することを主たる目的として発言したのではないであ
しい未来を切り開く言葉との印象を持たせることができる
おわりに
ろう。実際にサルコジの演説はアフリカ諸国との間で外交
182
183 フランスからみたアフリカ
**
**
得てきた人物であった。それだけにこの『ネグロロジー』
ているとはいえないゲノを演説の起草者にしたこと、そし
アフリケーヌ』誌 ( Politique africaine 2007 :)6が指摘する
ように、サルコジの腹心とはいえ、アフリカ問題に精通し
が演説の言葉の選び方に影響を与えたと考えることはでき
影響を与えたわけではないが、アフロ・ペシミズムの蔓延
ある。もちろん『ネグロロジー』が直接サルコジの演説に
のかは疑問である。この点に関しては、『ポリティーク・
てその演説原稿に対してフランス政府内のアフリカ問題担
よう。
の内容は驚きを持って迎えられ、賛否両論が起こったので
当者が意見を言うことはなかったのか、といったことが疑
に与ったからといって問題が解決されているわけではな
に 与 る こ と の で き る ア フ リ カ 諸 国 は 限 ら れ て お り、 恩 恵
は上向いている。しかし、その資源価格の高騰という恩恵
こ数年の国際的な資源価格の高騰により、アフリカの経済
いう社会的な背景があるのではないであろうか。確かにこ
」の蔓延と
のは、
「アフリカ悲観論 (アフロ・ペシミズム)
その一方でサルコジにこのような演説を許してしまった
徴するものであり、フランサフリックを公的に担保するも
フランスと旧フランス領アフリカ諸国の深い結びつきを象
た。なぜなら、この安全保障に関する二国間協力協定は、
る二国間協力協定の見直しに言及されたことが注目され
ス領アフリカ諸国との間で締結された安全保障分野に関す
な内容を持つものであった。とりわけフランスと旧フラン
にケープで行った演説はダカールの演説と異なり、政策的
て南アフリカを訪問した。南アフリカ滞在中の二月二八日
サルコジは二〇〇八年二月に二回目のアフリカ外遊とし
い。 ア フ ロ・ ペ シ ミ ズ ム が 蔓 延 し て い る 例 と し て、 ス テ
のでもあるからである。しかもフランス第五共和制の歴代
問に感じられる。
フ ァ ン・ ス ミ ス が 二 〇 〇 三 年 に 発 表 し た『ネ グ ロ ロ ジ ー
にされることはなかった。
ランスの『リベラシオン』紙や『ル・モンド』紙の記者と
義的な視点を提示したのである。スミスは長きにわたりフ
る。むしろサルコジは改革とは反対の方向に進んでいるよ
えてきたアフリカ外交の改革に関して進展はないのであ
に関しては進展がない。サルコジが大統領選挙期間中に訴
しかしこれまでのところ、この二国間協力協定の見直し
政権でこの安全保障に関する二国間協力協定の存続が問題
*
( Négrologie
)
』をあげることができるであろう。そのなか
でスミスは、現在のアフリカの苦悩の原因がアフリカの人
してアフリカで取材を続け、アフリカに好意的な第一線級
◉注
うに思える。たとえばフランス政府内部でフランサフリッ
クとの決別を強く主張したジャン=マリー・ボッケルは、
*1 サルコジの演説はフランス大統領府のウェブサイトから
*
担当相から更迭された。またサルコジは旧来のアフリカ外
交 で 暗 躍 し て い た ロ ベ ー ル・ ブ ル ジ 弁 護 士 と 接 触 し て い
る。さらにチャドのデビー政権との不透明な関係が指摘さ
*2 たとえば、
T. Heams, «L'Homme africain...», Libération
(France), 2 août 2 0 0 7 ; A. Membe, «L'Afrique de Nicolas
カ外交こそまさに停滞とよぶにふさわしい状況である。サ
tembre 2007 ; Raharimanana, B. Boris Diop et al., «Lettre
«Lettre à M. Nicolas Sarkozy», Le Matin (Dakar), 7 sep-
Sarkozy», Sud Quotidien (Dakar), 2 août 2 0 0 7 ; I. Thioub,
ルコジ政権のアフリカ外交の中心的な目的としては経済的
2007 ; C. Coquery-Vidrovitch, G. Manceron, B. Stona, «La
ouvert à Nicolas Sarkozy», Libération (France), 1 0 août
mémoire partisane du président», Libération (France), 1 3
1 4 août 2 0 0 7 ; M. Diouf, «Pourquoi Sarkozy se donne-t-
E. Viret, «Géopolitique de la nostalgie», Libération (France),
août 2007 ; F. Brisset-Foucault, M.E. Pommerolle, E. Smith,
いないこともまた示しているのである。資源確保という行
il le droit de nous tracer et de juger nos pratiques», Sud
Quotidien (Dakar), 17 août 2007 ; N. et S. Kourouma, «En
mémoire de notre pére» et B. Giraud, «Les tribulations
sarkoziennes en Afrique et l'histoire à l'école», Libéraricain de Sarkozy», Le Monde (France), 2 3 août 2 0 0 7 ;
tion (France), 20 août 2007 ; P. Bernard, «Le faux pas af-
ないのかもしれない。過去の亡霊のように現れたサルコジ
プロマティーク 日本語・電子版』二〇〇七年九月号)
; J.-P.
(「サルコジの
diplomatique (France), septembre 2007 , p. 32
ア フ リ カ と ん で も 演 説 」 清 水 眞 理 子 訳、『ル・ モ ン ド・ デ ィ
Anne-Cécile Robert, «L'Afrique au kärcher», Le monde
時間がかかることになろう。
そしてフランサフリックの根本的な転換にはまだしばらく
のダカールでの演説をみると、フランスのアフリカ外交、
在するオリエンタリズムの克服なくしては到来することが
る。もっともそのような新しさは、依然として潜在的に存
う観点からの新しさがないと指摘することはできると考え
が、そこにアフリカと未来に向けた新しい関係を築くとい
動を単純に新植民地主義と批判することは適当ではない
これはアフリカが依然として原料供給地にしか見なされて
の産油国との関係改善・強化に力が注がれている。しかし
な実利優先という観点から資源外交があり、アンゴラなど
)
。
れている ( Le Monde, 13 mars 2008
こうしたことからアフリカではなく、サルコジのアフリ
引 用( www.elysee.fr/download/?mode=press&filenam
)(二 〇 〇 八 年
e=disc-sarko-universite_dakar- 26 - 07 - 07 .pdf
一〇月三〇日)。
二〇〇八年三月の内閣改造の際に協力・フランコフォニー
のジャーナリストとしてフランス、アフリカ双方で評価を
間的貧困や後進性に基づく文化に原因があるとし、人種主
**
184
185 フランスからみたアフリカ
**
Chrétien «Le discours de Dakar. Le poids idéologique d'un
africanisme traditionnel», Esprit (France), novembre 2007 ,
より五月一〇日がフランスで「奴隷貿易、奴隷制とその廃止
の記憶記念日」となっている。
sance de la Nation et contribution nationale en faveur des
)(二〇〇八年一一月三〇日)
www.unhchr.ch/pdf/Durban.pdf
*8 Loi N˚ 2005 - 158 du 23 février 2005 portant reconnais-
*7 Durban Declaration and Programme of Action
( http://
*3 サルコジの演説原稿の別バージョンは次のウェブサイト
か ら 入 手 可 能。 http://www.africa.com/index.php?page=cont
pp. 163 - 181 .
enu&art=1841&PHPSESSID=044c45260248abdddc803752c41a52
Français rapatriés.
*9 Cité de Yves Gounin, «De la Françafrique à l'Eurafrique:
席した際にも繰り返し発言された( Le Monde, 10 mai 2007
)。
*
ク レ テ ィ ア ン は「ア フ リ カ 人 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ は、
神 秘 主 義 や 宗 教 心、 感 性 か ら つ く ら れ る( identité africaine
p. 39サ
. ル コ ジ に よ る「懺 悔 」 へ の 批 判 は、 二 〇 〇 七 年 五 月
一〇日の「奴隷貿易、奴隷制とその廃止の記憶記念日」に出
Questions internationales, n.˚ 3 3 , septembre-octobre 2 0 0 8 ,
les débats nés du discours de Nicolas Sarkozy à Dakar»,
Gassama
(二〇〇八年一〇月三〇日)
cf
* 4 た と え ば M. Gassama, «Le piége infernal»
(
)。また、フランスの著名な作家であり文化人で
2008 : 33 - 36
あるベルナール=アンリ・レヴィは、二〇〇七年一〇月九日
にラジオで放送されたフランス・アンテール局の番組内で、
ダカールの演説を起草したゲノは人種主義者であると批判し
て い る( http://www.ldh-toulon.net/spip.php?article 2310
)
(二〇〇八年一〇月三〇日)。
*5 フランスで定評のある学術専門誌である『ポリティーク・
アフリケーヌ』は、同誌第一〇七号の巻頭に編集部名でサル
コジの演説に関する論考を掲載した。
*6 Loi N˚ 2001 - 434 du 21 mai 2001 tendant à la reconnais-
)」との引用も
faite de mystique, de religiosité, de sensibilité
掲載しているが、本稿で参照した演説原稿には一致する箇所
を み い だ す こ と が で き な か っ た。 演 説 原 稿 で は、「ア フ リ カ
の若者たちよ、あなた方を根無し草にしようとする人々、あ
カ的であること、つまりアフリカの神秘的なことすべてを、
なた方のアイデンティティを剥奪しようとする人々、アフリ
ア フ リ カ の 信 仰 の す べ て を、 ア フ リ カ の 感 性 の す べ て を、
ボケルの更迭に関しては、ボケルのフランサフリックに
対する立場を好ましく思っていないガボンのボンゴ大統領や
コンゴ共和国のサッスー・ンゲソからの圧力があったとの報
*
(二〇〇八年一二月二〇日)。
tité, faire de table rase de tout de ce qui est africain, de tout
ceux qui veulent vous déraciner, vous priver de votre iden-
う こ と を 聞 い て は な ら な い( N'écoute pas, jeunes d'Afrique,
アフリカの精神構造のすべてを一掃しようとする人々の言
通称となったトビラとは、この法律の提唱者
tre l'humanité.
であり制定に中心的な役割を果たした仏領ギアナ出身のフラ
la mystique, le religiosité, la sensibilité, la mentalitè afric)」と記されている。
aine
協会のメンバーにはミラボー、グレゴワール神父、ラファ
イエットなどがいた。
道 が な さ れ て い る( Le Figaro, 20 mars 2008 ; L'Express, 19
◉参考文献
)『歴史哲学講義(上)』長谷川宏訳、岩波文庫。
1994
)。
mars 2008
同義語としてのフランサフリックを使用することは、フラン
ヘーゲル(
る。フランサフリックに関しては、加茂省三「フランス領ア
フリカ独立期の再考――フランサフリックの視点から――」
(『人間学研究』六号、名城大学、二〇〇八年一二月)を参照。
* ムベキからサルコジに宛てた親書は当初非公開であった
が、親書に対するサルコジの返書がフランス大統領府のウェ
ブサイトに先に掲載され公開されたことから、親書の内容に
関して憶測がなされ、サルコジ演説を肯定したとの批判がム
ベキに対して起こっていった。そこで南アフリカ大統領府は
二 〇 〇 七 年 八 月 二 四 日 付 け で 声 明 を 発 出 し、 ム ベ キ 大 統 領
が賞賛したのは、演説におけるアフリカ・ルネサンスとアフ
リ カ の 開 発 に 関 す る 箇 所 だ け で あ る と し、 批 判 を 打 ち 消 そ
http://www.ldh-toulon.net/spip.
う と し た。 そ の 後 親 書 が ウ ェ ブ サ イ ト( http://www.africul) に 掲 載 さ れ た(
tures.com
)。
php?article 2217
* 演説の全文はフランス大統領府ウェブサイトよりダ
ウ ン ロ ー ド 可 能( http://www.elysee.fr/documents/index.
)
php?mode=cview&cat_id= 7 &press_id= 1 1 0 6 &lang=fr
Hugo, Victor ( 1 9 2 6 ) Discours sur l'Afrique. Oeuvres complètes
Gassama, Makhily (ed.) ( 2008 ) L'Afrique répond à Sarkozy. Lon-
Chrétien, Jean-Pierre ( 2008 ), Introduction: par delà un discours
Politique africaine ( 2007 ) Le Mépris souverain. Politique africaine
Kharthala, pp. 91 - 132 .
Chrétien (ed.), L'Afrique de Sarkozy: un déni d'histoire. Paris:
Mbembe, Achille ( 2008 ) L'intarissable puits aux fantasmes. J.-P.
Paris: La Découverte.
Manceron, Gille (2006) 1885: le tournant colonial de la République.
Paris: Société d'éditions littéraires et artistiques, pp. 121 - 129 .
de Victor Hugo, Actes et paroles IV, Depuis l'exile 1876 - 1885 .
rai: Phillipe Rey.
ni d'histoire. Paris: Kharthala, pp. 7 - 30 .
présidentiel. J.-P. Chrétien (ed.), L'Afrique de Sarkozy: un dé-
Kharthala, pp. 31 - 34 .
tien (ed.), L'Afrique de Sarkozy: un déni d'histoire. Paris:
Bayart, Jean-François ( 2008 ) Y a pas rupture, patron. J.-P. Chré-
サフリック本来の意味合いから逸脱させることになると考え
れてきた経緯がある。本稿では、そのようなスキャンダルの
* フランサフリックに関しては、たとえばグザビエ・ヴェ
ルシャーブなどによってスキャンダルの同義語として用いら
*
生に伝えるための「奴隷制の記憶のための委員会( le Comité
)」 が 創 設 さ れ、 二 〇 〇 六 年
pour la Mémoire de l'Esclavage
( Christiane Taubira-Delannon
) に 由 来 し て い る。 さ ら に こ
のトビラ法にしたがって、奴隷貿易および奴隷制の記憶を後
ンス国民議会議員、クリスティアンヌ・トビラ=ドランノン
sance de la traite et de l'esclavage en tant que crime con-
10
15
186
187 フランスからみたアフリカ
11
12
13
14
107 : 5 - 8 .
―
アフリカをみる世界の目
(かも・しょうぞう/名城大学人間学部)
Toraoré, Animata ( 2008 ) L'Afrique humiliée. Paris: Fayard.
Calmann-lévy.
Smith, Stephan ( 2003 ) Négrologie: Pourquoi l'Afrique meurt. Paris:
特集
マラウイの対中国交樹立
︱︱ なぜ中国 を選ぶのか
はじめに
*
川島 真
ランド、ガンビアの四ヵ国である。ここ一〇年間、南アフ
二五日)
、チャド (二〇〇六年八月六日)というように、中
、セネガル (二〇〇五年一〇月
リカ (一九九八年一月一日)
華民国から中華人民共和国に承認を切り替える国が漸増し
協力など多様な側面が考えられるが、「古くて新しい」側
対アフリカ外交を考える場合、安全保障、資源外交、友好
共和国と国交を結んだマラウイの事例を検討する。中国の
研究として、二〇〇七年末に中華民国と断交し、中華人民
月にマラウイや台湾で行った関係者へのインタビューなど
うか。この点について、文献資料とともに、二〇〇八年三
ウイはどのように、そしてなぜ承認を切り替えたのであろ
カと異なり、資源の乏しい内陸の農業国である。そのマラ
マラウイは資源国であるチャドや主要国である南アフリ
ている。
面として中華民国 (台湾)との承認問題がある。二〇〇八
に依拠して検討したい。それを通じて、マラウイ側、中国
*
年一〇月現在、アフリカ諸国のなかで中華民国を承認して
側双方のどのような思惑があったのかということととも
本稿は、中国の対アフリカ外交を検討するうえでの事例
*
いる国はブルキナファソ、サントメ・プリンシペ、スワジ
*
188
189
2
が中華人民共和国を承認していたなかで、マラウイが以後
ことである。すでにフランスやフランスから独立した諸国
置づけられるかということも併せて検討したいと考えてい
も 中 華 民 国 と 良 好 な 関 係 を 築 い た の は、 南 部 ア フ リ カ の
に、中国の対アフリカ外交においてこのケースがいかに位
る。
検討されないようである。むろん、マラウイとの断交につ
くて新しい問題」である承認問題については昨今ほとんど
点、
台湾の専門家である厳震生も含めて、テーマ的には「古
ローチでは現地調査が行われないという傾向がある。この
は 中 国 側 の 史 料 が 用 い ら れ ず、 ま た 中 国 研 究 か ら の ア プ
きている。だが、総じてアフリカ研究からのアプローチで
)
( 2007
)
、ペル・シェ
マンジ、マークス (
Manji
and
Marks
)
(
)など、英語圏での研
ルトン (
le
Pere
and
Shelton
2007
)や中国の対外援助の
究が多く、また日本でも平野 ( 2006
制度研究や資源外交をめぐる論考など、昨今業績が増えて
との良好な関係を築くなかで、中国承認問題をめぐって地
とより、海への出口にあるモザンビークが中華人民共和国
東隣りのタンザニアや、西隣りの地域有力国ザンビアはも
た。しかし、中華人民共和国と伝統的友好関係を有する北
陸国であるマラウイはそれでも中華民国との国交を維持し
で あ れ ば、 中 国 か ら 多 額 の 投 資 を 得 る こ と に な っ た。 内
国交を結び、とくに戦略的に重要な国や、資源を有する国
は、スワジランドを除くほとんどの国が中華人民共和国と
国 際 政 治 に お い て 大 き な 影 響 力 を 有 し、 中 華 民 国 を 承 認
い て も、 そ の 対 中 国 交 樹 立 を 台 湾 の 側 か ら 検 討 し た 川 島
らの国々が中国からの支援を受けるのをみて、自国にも同
)
。
え、あくまでも農業国家であり、資源の面ではウラン鉱が
し か し、 マ ラ ウ イ は 政 局 が 比 較 的 安 定 し て い る と は い
日
因 に な っ た と さ れ る (イ ン タ ビ ュ ー、 二 〇 〇 八 年 三 月 二 七
う。そして、それらが中華人民共和国との関係構築への誘
域国際政治の中で孤立することへの危惧が生じ、またこれ
一 九 九 八 年 に 中 華 民 国 と 断 交 す る と、 ア フ リ カ 南 部 諸 国
ンタビュー、二〇〇八年三月二七日a)
。その南アフリカが
し て い た 南 ア フ リ カ へ の 配 慮 と い う 面 が あ っ た と い う (イ
( 2008)
aのほかは、レポート類はあっても専門的な論考は
管見のかぎり見当たらない。以下、時系列にもとづいてマ
様の支援が得られるのではないかという期待が生じたとい
)
( 2007
)
、
先 行 研 究 に つ い て み れ ば、 ア ル デ ン ( Alden
ラウイの中国承認の転換の過程について検討してみたい。
Ⅰ マラウイと中華人民共和国の国交締結過程
マラウイが中華民国と国交を締結したのは一九六六年の
リカ大統領夫人の弔慰のためにマラウイに派遣、また七月
。
から述べていた ( The Dairy Times, Jan 15 , 2008)
a また、
二〇〇七年六月には陳水扁総統が特使として蘇貞昌をムタ
ら、人口の多い台湾を認めないのはナンセンスだと日ごろ
進 す べ く、 人 口 が 少 な い モ ン テ ネ グ ロ の 加 盟 を 認 め な が
タリカ大統領は、国際連合で中華民国 (台湾)の加盟を推
ための外交行動をおこすほどの中華民国支持国だった。ム
ろまで、マラウイは国際連合やWHOにおいて中華民国の
ビ ュ ー、 二 〇 〇 八 年 三 月 三 一 日 )
。だが、二〇〇六年の中ご
えば、承認変更がなされる可能性はあるのだろう (インタ
か ら つ ね に 接 触 が な さ れ て い て、 条 件 や タ イ ミ ン グ が 整
中 華 民 国 を 承 認 し て い る 国 に 対 し て は、 中 華 人 民 共 和 国
承認変更に関心を示すか否かわからなかった。たしかに、
恵を得られるわけではない。そのため、中国がマラウイの
フリカの資源国のように、石油などの化石燃料の高騰の恩
られている。主力産業のタバコ産業も低迷気味で、他のア
ことだ。わが国は、豊穣な土地、水力発電や灌漑のための
なくて国民の状態であるという信念が浸透しているという
ず、国民や社会において、貧しいのはわが国そのものでは
国となったことから示唆を受けている。私たちも、マラウ
この点、わが国は台湾が小さな一歩から世界の主要な貿易
ラウイは現在、貧困からの脱出を断固として行いつつある。
支援に始まる中華民国の多角的な支援に感謝しつつ、「マ
はないかと筆者は考える。大統領は、一九六〇年代の農業
での発言には、台湾へのメッセージがこめられていたので
いう点である。ムタリカ大統領の台湾・アフリカサミット
の、それに中華民国側が迅速に対応したわけではない、と
のメッセージも伝えていなかったというわけではないもの
は、 川 島 ( 2008)aで 詳 述 し た が、 こ こ で 概 要 を 述 べ て お
こう。重要と思われるのは、マラウイ側から中華民国に何
か ら の 承 認 を 失 う 原 因 が な か っ た わ け で は な い。 こ の 点
だが、結果から振り返った場合、中華民国側にマラウイ
年の前半にはあまりみられなかったのである。
に黄志芳外交部長一行がマラウイを訪問、そしてムタリカ
河川、漁業や養殖のための水質のいい湖、ツーリズム向け
あるとされるものの、その生産量などには限界があると見
大統領が九月上旬に台北で開催された第一回台湾・アフリ
など、きわめて多くの自然資源を有している。マラウイは、
の山々、牛・ヤギ・羊の大規模牧畜業に適した広大な斜面
イが同じような成果を得ることができると信じている。ま
)に参
カサミット ( Taiwan-Africa Heads of State Summit
*
加して台北宣言に署名 (九月九日)するなど、要人・首脳
こうした天然資源を利用して新たな富を生み出し、それに
*
交流も活発で、関係は比較的緊密と思われていた。承認問
よってわが国の経済の持続的な成長を実現し、国民を貧困
190
191 マラウイの対中国交樹立
a
題についてただちに変化が発生するような予兆は二〇〇七
*
*
述べている。結果論からみれば、九月のムタリカ大統領発
*
め、協力の段階をランクアップさせる必要性を感じた」と
湾がこの発展のパートナーであると信じている。とくに、
言から三ヵ月を経た一二月末になって、局長が状況を把握
の陥弄から救い出そうとしている。私は、中華民国――台
私たちは台湾がこの私たちの発展のヴィジョンに即した支
ここには、マラウイの国家建設が新たな段階に入り、新
援計画を進めていくことを期待している」と述べていた。
る。以上が、マラウイの中華人民共和国承認の中華民国側
理由にして中華人民共和国への接近を始めていたのであ
したということだろう。この間に、マラウイは経済建設を
*
たな発展のパートナーとしての台湾に期待するというメッ
の経験に則り、輸入代替・輸出促進と持続的発展政策を遂
の基本的に十分に食べられるようになり、これからは台湾
存の協力計画についてはすでに成果をあげ、マラウイ国民
は、台湾とマラウイ間の糧食増産やインフラ建設などの既
月に張アフリカ局長がマラウイを訪問した際にわかったの
雲屏・アフリカ局長はマラウイ訪問の感想として、「一二
断交が明確になり始めた二〇〇七年一二月、中華民国の張
いたる中華民国側の原因としてあげられるかもしれない。
の意思を陳水扁政権は有していなかったことも、断交へと
あり、またマラウイ大統領のこうした訴えに即応するだけ
進国型の援助をイメージしていたことにまず留意すべきで
るが、中華民国は国連のミレニアム宣言などを踏まえた先
側が即応したわけではなった。先の台北宣言にも表れてい
が比較的強力に台湾とマラウイの友誼を破壊させようとし
のものが二〇〇七年九月の国連総会の時期であり、「中国
イに対して何度も何度もアプローチがあったものの、直近
ラウイの閣僚が会談した。中華民国側は、中国からマラウ
三月三一日)
。 ま た、 同 月、 国 連 総 会 に て 中 国 の 外 相 と マ
)がおり、両者間で将来の外交関係樹立について
Katsonga
話し合いがもたれたとされる (インタビュー、二〇〇八年
臣 (大統領府議会担当大臣)のカツォンガ ( Davis Chester
場には駐ザンビア中国大使である李強民とマラウイ国務大
)に、モザンビーク、
あるグレ・ワムクル ( Gule Wamkulu
ザンビア、マラウイの首脳が集まったときだという。その
)族の祭りで
た。その日にザンビア東部のチェワ ( Chewa
サ ミ ッ ト の 四 日 前 に あ た る、 二 〇 〇 七 年 九 月 五 日 で あ っ
ラウイと中国の間で接点がもたれたのは、台湾・アフリカ
次に、中華人民共和国との国交樹立の過程を見よう。マ
の要因の概要である。
行し始めなければならず、われわれはこれまで同様に開か
ていることがわかった」としている。こののち、マラウイ
*
れた態度でマラウイに接し、これまでの協力の政策を見定
り、順調に進んでいなかった。とくに道路事業については、
を行ったものと考えられ、外務省はあくまでも中華民国と
カ大統領周辺が主導し、実質的にはカツォンガ大臣が実務
中華人民共和国への承認転換の動きは、基本的にムタリ
その後、一一月にはメディアレヴェルでもマラウイが中
される支援から見れば、あまり目立たないものであった。
新規の事業はIT支援にとどまり、中国から与えられると
めに、中華民国側が関与を躊躇していたのである。また、
るとともに、中華民国側の焦りを喚起した。一二月、中華
なった。そのため、マラウイ国内では中国への期待が高ま
華民国と断交するという話が多く取り上げられるように
Africa and China:
民国の外交部楊子葆次長 (次官)およびアフリカ局長の張
雲屏がマラウイを訪問して関係維持を図った。その際、マ
などはマラウイとしては経済を
Threats or opportunities?
重視して中国との関係を結ぶべきだとするなど、大統領寄
ラウイ政府は関係不変を強調していたが、実際には、月末
)建設を二、
三年のうち
ティパ道路 ( Karonga-Chitipa Road
に実現するよう努力することと、次年度の八〇〇セットの
都リロングウェの国会議事堂建設、北部のカロンガ・ディ
)は、
していた。駐マラウイ大使の莊訓鎧 ( James Chuang
中華民国の国慶節にあたる二〇〇七年一〇月一〇日に、首
華民国の黄志芳外交部長の訪問を拒否したことを報じる
いえ、一月四日にはマラウイ現地紙にムタリカ大統領が中
二〇〇八年一月一四日になって公表されたときに示された
カツォンガ大臣と楊清篪外交部長であった。だが、これは
二〇〇七年一二月二八日、マラウイと中華人民共和国は
にはカツォンガ大臣らが中国入りしていた。
コンピュータ支援について言及し、マラウイ外務省側もそ
*
日付であって、この日付で公表されたわけではない。とは
*
国交を樹立した。北京で共同コミュニケに調印したのは、
れらとともに、水上警備艇や鉄道支援について謝辞を述べ
)
。 し か し、 荘 大 使 の 言
て い た ( The Nation, Oct 11 , 2007
葉に表れているように、これら道路建設などには困難があ
という記事が掲載されるなど
Bingu Snabs Taiwan Envoy
( The Nation, Jan 4 , 2008
)
、国交樹立が時間の問題とされ
ていた。
だが、中華民国側もマラウイへの援助攻勢をかけようと
国への接近が正当化されていく面があった。
)
。ムタリ
りの記事もみられた ( The Nation, Oct 19 , 2007
カ大統領は経済重視を強調することが多く、その文脈で中
紙のコラム
る。 た と え ば、 The Nation
の関係維持を表明していた。だが、二〇〇七年一〇月にな
世界銀行の支援部分について中華人民共和国が落札したた
*
ると中国との関係改善をめぐる記事が新聞にも掲載され
。
たという (インタビュー、二〇〇八年二月二七日a)
政府の四閣僚 (産業、貿易、運輸、外務)が中国を訪問し
のである。だが、マラウイ側のこのメッセージに中華民国
セージがこめられている。マラウイは台湾に変化を求めた
*
192
193 マラウイの対中国交樹立
*
日まで発表を遅らせたのは、選挙戦の過程で、黄志芳外交
挙)が行われ、与党民進党が大敗を喫していた。一月一四
た。 一 月 一 二 日 に は 台 湾 で 立 法 院 委 員 選 挙 (国 会 議 員 選
は、 上 述 の と お り、 二 〇 〇 八 年 一 月 一 四 日 の こ と で あ っ
およびいっさいの援助計画の停止を宣言した。楊次長は、
交部の楊政務次長がマラウイ共和国との外交関係の断絶、
中国」政策を支持するとしていた。同日夕方、中華民国外
華人民共和国を中国で唯一の合法政府と認め、「ひとつの
大使級の外交関係の樹立が述べられ、またマラウイ側が中
したのは一二月二八日だとされた。この文書には、まずは
部長がマラウイ大統領から会見を断わったことが政権与党
益誘導)
』により中国との国交樹立を決めた」とし、また
「マ ラ ウ イ 共 和 国 は 中 国 の『威 脅 利 誘 (脅 し な が ら 行 う 利
中華人民共和国とマラウイが国交樹立を明確にしたの
に否定的に受けとめられたように、立法院委員選挙で国民
)新大統領就任式に
国のアルバロ・コロン ( Alvaro Colom
出席すべく中米を訪問するのに合わせたともみることがで
きるし、また一月一一日から陳水扁総統がグアテマラ共和
を訪問しているタイミングをねらった」と指責したのだっ
とについては、「中国と示し合わせてわが国の元首が外国
具体的に二〇〇七年後半に六〇億米ドルを提示してマラウ
*
党を側面援助するための中国の外交政策だとみることもで
きる。しかし、確たる証拠はない。だが、マラウイとの断
た。中国の新華社のニュース配信は、二〇〇八年一月一四
中華人民共和国の国交樹立、中華民国との断交の経緯であ
**
清箎外交部長)が「中華人民共和国とマラウイ共和国の外
交樹立を宣言し、またマラウイ政府は中華民国に対して断
一月一四日、中華人民共和国とマラウイ共和国政府は国
にもたらされたのであろうか。それを次章で検討したい。
した。では、はたして中国との国交樹立の果実はマラウイ
国側でも六〇億米ドルもの金銭の誘惑こそが断交の原因と
済発展のために中国を選択したと説明された。また中華民
交関係樹立に関する共同コミュニケ」という文書にサイン
の皮肉とともに、対中外交についてはジンバブエなどの周
は、 バ ン ダ 外 務 大 臣 が 中 国 と の 国 交 樹 立 を 宣 言 し た。 翌
二〇〇八年一月一四日、マラウイの首都リロングウェで
多くの場合低品質だが、マラウイ内部の製造業と利害衝突
廉価な商品の市場を探しているのだ。その廉価な商品は、
共和国は、明らかに、その大量生産型産業で産み出された
辺諸国の経験から学ぶべきだとした。そして、「中華人民
日、マラウイ各紙は対中国交樹立を大きく報じた。記者会
たが、他の高官の発言では中華人民共和国がこれらを継承
受けないと述べた。この点について、外相は明言しなかっ
のカロンガ・ディティパ道路などのプロジェクトは影響を
国が進めてきた首都リロングウェの国会議事堂建設、北部
人民共和国を承認していることを強調した。さらに中華民
カを含む、アフリカの五三ヵ国のうち四ヵ国を除いて中華
ンビーク、タンザニア、ジンバブエ、ザンビア、南アフリ
を築きたいとした。そして、マラウイの周辺国であるモザ
係だったが、中華人民共和国とはより多くを得られる関係
の専門家や技術者(医師を含む)が一四名であった。だが、
収を命じられた。当時、大使館の職員は六名、支援のため
。
)
した ( The Dairy Times, Jan 21 , 2008
リロングウェの中華民国大使館関係者は一ヵ月以内の撤
ティパ道路建設に真剣ではなかったと非難する記事を掲載
ろう」などとし、さらに中華民国が北部のカロンガ・ディ
行ったわが国への支援を、中国は最長でも一〇年で行うだ
それに反発したカリアティ情報相が、「台湾が四二年間で
を「人をだます、嘘つきだ」などと評したことを報道し、
。
いという論調をとった ( The Dairy Times, Jan 15 , 2008)
b
こ の ほ か に も 同 紙 は、 中 華 民 国 の 黄 外 交 部 長 が マ ラ ウ イ
をおこし、マラウイの労働者の雇用を奪う可能性があるの
だ 」 な ど と 警 鐘 を な ら し、 国 交 樹 立 を 手 放 し で は 喜 べ な
す る と さ れ て い た。 そ し て、 六 〇 億 米 ド ル と さ れ る 中 国
。
たのである (インタビュー、二〇〇八年三月二九日 )
*
資産売却などがあり、最終的な撤収作業は三月までかかっ
The
からマラウイに提示された援助パッケージについても明言
を避け、両国関係の詳細は後に明らかにするとした (
。
Dairy Times, Jan 15 , 2008)
a
中華民国の撤収と引き換えに、中華人民共和国との国交
**
に期待すると述べ、中華民国との関係はたんなる誠実な関
)は、 中 華 人 民
見 を 行 っ た バ ン ダ 外 務 大 臣 ( Joyce Banda
共和国がマラウイの主権の保持と経済発展に協力すること
Ⅱ チャイナ・マネーへの期待
同日、 The Daily Times
紙は社説でこの問題を論じ、そ
れまで承認変更はないと繰り返し述べていたバンダ外相へ
交を通告した。その際、両国の代表 (カツォンガ大臣、楊
はムタリカ大統領周辺がそれを主導し、大統領は自国の経
*
湾側からマラウイと断交することは否定したものの、中国
れていることは認めていた。
*
。マラウイで
る (インタビュー、二〇〇八年三月二八日a )
以上が二〇〇七年から翌年の初頭にいたる、マラウイと
イを誘惑したと述べた。そして、一月一四日に公表したこ
交は年明けには公然の事実となっており、二〇〇八年一月
日付、またテレビ報道は一月一五日になされた。
*
一〇日に中華民国外交部で行われた記者会見で黄志芳外交
**
からマラウイに対して金銭を用いたさまざまな誘惑がなさ
部長は、マラウイ政府から何らの説明もないとし、また台
*
194
195 マラウイの対中国交樹立
**
提示した四年の半分の二年の工期で完成させる予定だとい
ついて中国はSADC諸国から建設業者を募り中華民国が
路 建 設 事 業 (全 長 一 〇 七 キ ロ、 七 〇 億 ク ワ ッ チ ャ 相 当 )に
するとされた。また懸案の北部のカロンガ・ディティパ道
程度)が動き出して二〇〇八年一一月には新議事堂が完成
増した。まずは、国会議事堂建設計画 (四〇億クワッチャ
が開設されると中国からの援助パッケージに関する情報が
助理である翟隽がマラウイを訪問し、一月二六日に大使館
一月二五日から二七日に、中国国家主席代表、外交部部長
のような記事が一月中に報じられた。とくに、二〇〇八年
ホテルなどといった支援計画があるとも述べている ( The
を あ げ た。 大 統 領 は、 国 際 会 議 場、 ス タ ジ ア ム、 五 つ 星
じ め 多 く の 経 済 支 援 を 中 国 が 約 束 し て く れ た こ と、 な ど
が っ て い る こ と、 第 四 に 国 会 議 事 堂 や 北 部 道 路 建 設 を は
中国が世界経済の主要国でありその工業製品が世界中に拡
は中華人民共和国を共産中国とは看做せないこと、第三に
あること、第二にかつてバンダ大統領 ( Kamuzu Banda
)
が中華民国を承認したのは反共という原因があったが現在
統 領 は、 そ の 理 由 と し て 第 一 に 中 国 承 認 が 世 界 的 趨 勢 で
ついて明確に論じたのは二月初旬のことだった。そこで大
ムタリカ大統領自身が中華人民和共和国との国交樹立に
なったという印象が読者に与えられたことであろう。
う ム ッ サ 運 輸・ 公 共 事 業 相 の 談 話 が 報 じ ら れ た。 こ の ほ
樹立は経済効果としてマラウイでは受け止められたし、そ
か、 そ の 道 路 を ザ ン ビ ア 国 境 ま で 延 長 す る と い う 中 国 大
)
。
する記事もあった ( The Guardian, Feb 6 , 2008
し か し、 大 勢 と し て は「中 国 景 気 」 へ の 期 待 は 高 ま っ
マラウイ人労働者を扱うかといった懸念を示したり、中国
あった。中国の人権問題を指摘して中国企業がどのように
)
。
Guardian, Feb 5 , 2008
大統領に代表される、このような立場を批判する論調も
使館関係者の発言も記事になっている ( The Dairy Times,
)
。これら二事業は中華民国が推進しようとし
Jan 22 , 2008
た事業であったが、このほかにもシーレ・ザンベジ (
)水路計画、衛生医療、教育、農業方面での新規
Zambezi
)
、実
事業があると報じられ ( The Guardian, Jan 29 , 2008
際 に ザ ン ビ ア や モ ザ ン ビ ー ク な ど と と も に シ ー レ・ ザ ン
て い た。 だ が、 そ の あ ま り に 高 い 期 待 は 大 使 館 の 樊 貴
発支援の枠組みにマラウイも参加することができるように
した。胡主席は、政治、経済、人文の三部門に分け、政治
た。二五日、大統領は胡錦濤国家主席と人民大会堂で会見
紙 の 記 者 が「リ ロ ン グ ェ に 開 設 さ れ た 中 国 大 使 館
Nation
に は、 あ ま り に 多 く の 個 人、 政 府 の 各 部 局、 非 政 府 組 織
The
の廉価な製造業が国内の産業を圧迫する可能性などを指摘
ベジ水路計画を推進することになったという記事もあっ
金・臨時代理大使の失言問題を喚起した。その問題は
Shire-
)
。中国と国交を樹立す
た ( The Dairy Times, Jan 31 , 2008
ることで、中国が支援している南部アフリカ地域の広域開
(NGO)の 人び と が 物 乞い の た めの 容 器 を持 っ て 群が っ
については相互支持と国際的な、あるいは地域的な場での
農業、漁業、鉱産資源開発、インフラ建設などの領域での
すべく、実力、信用ある企業のマラウイへの投資を促し、
*
て い る と、 樊 貴 金・ 臨 時 代 理 大 使 が 不 平 を も ら し た 」 と
( begger
)
」という言葉を実際に使ったのかどうかについ
ては疑わしい面があるが (インタビュー、二〇〇八年三月
相互協力の可能性を模索すべく、両国政府が計画、指導調
中華人民共和国からマラウイへの支援が具体化しはじめ
技術協力協定」、「経済技術協力協定」、「中国政府のマラウ
会談ののち、両国首脳は「中国・マラウイ貿易、投資、
医療衛生そのほかの文化で協力を進めるとされている。
整の役割を担うとしている。人文領域では、文化、教育、
協力を唱えた。経済面では、両国間の経済貿易協力を推進
、あまりの期待に中国大使館が戸
二七日bおよび二八日b)
報じたことに始まる (
)
。「物乞い
The Nation, Mar 7 , 2008
惑いを禁じえなかったことは確かであろう。
は三月
たのは、三月になってからである。 The Guardian
一七・一八日に中国がマラウイにタバコ工場を設立すると
。
The Nation, Mar 25 , 2008)
a こ の 詳 細 は 不 明 だ が、 ム タ
リカ大統領は経済効果とともに貧困対策につながることを
*
などに署名したとされる ( The Daily Times, Mar 28 , 2008 ;
イ政府に対する特殊優待関税待遇付与に関する交換公文」
い う ニ ュ ー ス を 流 し た。 従 来、 マ ラ ウ イ の タ バ コ 産 業 は
会 社 の 影 響 下 に あ っ た が、 そ
British American Tobacco
れからの離脱という意味でも、また農産物の輸出国への転
換という意味でも歓迎された (
The Guardian, Mar 17 - 18 ,
)
。このようにして、国交樹立から二ヵ月を経て、中
2008
国への期待がしだいに具体的な像をもってマラウイに示さ
れるようになっていったのである。
強調し、バンダ外相は中国企業の対マラウイ投資促進につ
。 ま た、 マ ラ
な が る と す る ( The Nation, Mar 25 , 2008)
b
ウ イ 各 紙 は 懸 案 で あ っ た 北 部 の カ ロ ン ガ・ デ ィ テ ィ パ 道
路建設事業について協定が結ばれたと報じた ( The Dairy
二〇〇八年三月二四日から一週間、ムタリカ大統領はバ
国側としてマラウイの産品の輸入を促進するなど、貿易の
相は、援助や協力のプロジェクトを早期に進めること、中
)
。
Times, Mar 27 , 2008
大統領は中南海紫光閣にて温家宝総理と会談した。温首
ンダ外務大臣以下、経済関連の閣僚を連れて中国を訪問し
Ⅲ ムタリカ大統領の訪中とマラウイ支援の具体化
**
196
197 マラウイの対中国交樹立
**
*
認したあと、
「経済貿易、科学技術、医療、人文、社会発
カ 大 統 領 は、 ひ と つ の 中 国 と 台 湾 問 題 を め ぐ る 原 則 を 確
の参加を表明した。大統領の帰国後、マラウイの与党民進
上海に到着して韓正市長と会見、二〇一〇年の上海万博へ
べ、深圳の経験から学ぶことを強調した。翌日、大統領は
サービス業について学んで国際投資を引き付けたいと述
を国際貿易港にしたいとの希望があるということや、金融
展などの各領域における相互協力を加速し、中国企業がマ
増 加 と バ ラ ン ス あ る 発 展 を 目 指 す と 述 べ て い た。 ム タ リ
ラウイに投資興業し、マラウイの経済建設に参加し支持す
党の代表団が中国を訪問している。
これらの地方訪問がはたして中国の地方政府それじたい
巨峰省長と会談した。蒋省長は、四川とマラウイの間には
水利工程、北京匯源飲料食品集団成都公司などを見学、蒋
イ大使を伴って四川に向かった。翌日、大統領は、都江堰
れ、大統領はそれに参加した後、赴任前の林松添駐マラウ
三 月 二 六 日、 北 京 に て マ ラ ウ イ 大 使 館 の 開 館 式 が 行 わ
定 の 締 結 は 重 要 な も の で あ っ た。 し か し、 期 待 と 裏 腹 に
ら の 政 策 の 正 当 性 を 示 す 機 会 で あ っ た。 そ れ だ け に 六 協
のであった。三月末のムタリカ大統領の訪中は、まさに自
込むさまは、マラウイの中国との国交樹立の目的を示すも
からない。だが、マラウイ大統領が貿易促進や投資を呼び
リベートを得る)ということなのかは動向を見守らねばわ
には地方の企業のマラウイへの投資斡旋を求めた (政府は
からの支援を呼び込むことになるのか、それとも地方政府
資源面や産業の面で類似性があり、双方には協力の可能性
副部長・高虎城率いる経済訪問団四六人がマラウイを訪問
二〇〇八年五月一三日から一六日にかけて、中国商務部
*
があるとした。具体的には、農産加工品、水資源の開発利
六〇億米ドルといわれたパッケージが実現されるのには、
品を重視しており参観が有意義であったことを述べたうえ
*
用、水利事業、鉱産資源開発、冶金などがあげられた。ム
かなりの時間を要することになる。
で、マラウイには穀物、大豆、たばこなどの生産量が多く、
力を求めた。
*
バナジウム、チタン、宝石などの鉱産物も豊富だとして協
**
( Press Release, May 11 , 2008
)
、
「中国―マラウイ間の工業、
貿易および投資協力における了解事項に関する備忘録」に
*
タリカ大統領はマラウイにとって水利灌漑施設や農産加工
フォーラムへのマラウイの参加を促した。
博覧会へ参加するとした。温総理も、中国・アフリカ協力
ることを歓迎する」と述べた。そして、二〇一〇年の上海
**
長と会見した。大統領は、マラウイ南部には湖畔の小都市
三月二八日、ムタリカ大統領は深圳を訪問し、許宗衡市
う 問 題 が 発 生 し、 現 地 紙 で 英 語 の 学 習 が 求 め ら れ る と い
。
とされている ( The Guardian, May 16 - 18 , 200)
8 そして
調印し、二一〇億クワッチャ相当のタバコ買付を約束した
一〇〇名近い官僚、専門家、技術者、メディア関係者など
ウイに二五名の国費留学生枠を用意し、この半年ですでに
の伸びとなった。また教育協力の面では、中国側からマラ
せ、中国の輸入額が三〇〇万米ドルと一三一六パーセント
三四〇〇万米ドルと前年比で九三パーセントの伸びをみ
国 交 樹 立 ブ ー ム の な か、 二 〇 〇 八 年 の 両 国 の 貿 易 額 は
け で、 労 働 者 に つ い て は 帯 同 す る と コ ス ト が か か る の で
して、一〇~二〇名の中国人専門家がマラウイ入りするだ
程における雇用創出要請 (中国人労働者の帯同反対)に対
し た。 林 松 添 大 使 は、 マ ラ ウ イ 社 会 に お け る 事 業 推 進 過
計研究院が道路事業についてマラウイ運輸省と協定を締結
ろうか。九月五日、コンサルタント事業を行う北京建設設
ティパ道路建設事業と国会議事堂建設についてはどうであ
は、
北部のムズズ中央病院に派遣されることになっていた。
とも最初に対応した具体的なプロジェクトであった。彼ら
このうち、七名の医療隊派遣は、おそらく中国側がもっ
認された。
サルタントの結果は商務部に報告され、一〇月一七日に承
害も多く指摘されている。この北京建設設計研究院のコン
)
。中国のプロジェクトでは労働者ま
Guardian, Sep 9 , 2008
で帯同するとの話が知られているが、アフリカではその弊
*
を招へいし、六月三〇日には医療隊七名を派遣したとして
この病院は、かつて中華民国の支援のもとにあり、その医
交通・公共事業大臣がサインして漸く建設が具体化した。
*
このようにして、初期の懸案であった二事業など、中華
**
また、議事堂については、一二月四日に林大使とバンダ
**
ている。
。七月
療 支 援 の 拠 点 と な っ て い た と こ ろ だ (川島 2008)
b
初旬、そのムズズ中央病院に向かう中国人医師たちがマラ
民国側が残したいくつかの事業は中国側が肩代わりする形
*
)
。医師は
ウ イ に 到 着 し た ( The Guardian, July 2 - 3 , 2008
六名、通訳が一名であったのだが、すぐに問題が発生した。
で再スタートを切った。しかし、その総額は六〇億ドルと
*
それは英語であった。中国人医師の英語能力が低く、現地
**
いわれたパッケージからは程遠いし、また当初予定された
*
現地にて二〇〇~三〇〇人を雇用すると述べていた ( The
**
いる。マラウイ在住の中国系住民も七〇〇名にまで増加し
*
この直後の五月二三日、駐マラウイ中国大使・林松添が国
われるほどになったのである ( The Daily Times, Aug 13 ,
*
書をマラウイ大統領に奉じた。林松添大使は、与党民進党
*
やメディアとの関係を維持しつつ、大統領の出身地である
)
。
2008
台湾側が残した二つの主要事業、北部のカロンガ・ディ
**
南部への教育支援のための視察などを行った。
**
**
スタッフとも患者ともコミュニケーションがとれないとい
**
**
198
199 マラウイの対中国交樹立
**
**
よりも多くの時間を要していた。また、ムズズ中央病院の
状況にあらわれるように、道路や国会議事堂建設が順調に
進むか否か未知数である。しかし、マラウイ側に中国に提
承認変更にともなう動向を、おおむね時系列に即して叙述
本稿では、二〇〇七年末になされたマラウイの中国政府
おわりに
なく、中国に提示できる交換材料は言わば中華民国との承
した。マラウイ側では、大統領周辺でこの承認変更が進め
供できるだけの鉱物資源や農業資源が十分にあるわけでは
認変更程度であった。そうした意味では、中華民国が残し
られたが、承認変更の理由としてあげられたのは、経済建
設重視と周辺諸国との協調であった。そこには、資源乏し
た事業をグレードアップさせながら引き継ぐことが第一の
しかし、マラウイ側の期待はそれにとどまるものではな
き内陸国としてのマラウイの地政学的な条件があるのであ
課題となることは、中国側の観点からは理解できる。
い。実際、タバコ工場など農業関連の投資がしばしば報道
ろう。また、アメリカのブッシュ政権への批判的意味合い
の 援 助 の 候 補 地 が 南 部 に 向 か う な ど、 ム タ リ カ 大 統 領 お
をこめて中国と接近するという向きもある、との見解もあ
よび現政権維持政策を中国がみせていることも否めない。
されたが、これもどこまで実現しているのか、まだわから
二〇〇九年一月一五日、中国の楊潔箎外交部長がマラウ
二〇〇九年に選挙を控えているマラウイでは、このような
な い。 本 当 に 六 〇 億 ド ル の パ ッ ケ ー ジ が 現 実 の も の と な
イを訪問してムタリカ大統領と会見、中馬有関合作文件に
チャイナ・マネーを利用した公共事業の展開は、一定程度
。そして大統領
る (インタビュー、二〇〇八年三月二五日)
サインした。しかし、それもマラウイを満足させるもので
の意味をもつものと思われる。南部の地盤を固めるだけで
り、現政権を支えるのか。この点は継続した調査が必要と
はなかったようである。二月になると、マラウイが台湾を
の 訪 中 直 後 に 民 主 進 歩 党 の 幹 部 が 訪 中 し、 ま た い く つ か
再承認することを希望していると噂が流れるようになっ
なく、北部道路やムズズ中央病院の支援などを通じた北部
なろう。
た。しかし、
台湾の馬英九政権は既に中国との「外交休兵」
への進出も視野に入っているのかもしれない。いずれにし
ても、マラウイを含めてこの地域の中国との関係は、「中
を宣言しており、それに応じようとはしていないようだ。
国のアフリカへの進出」という論理よりも、アフリカ自身
よ う に 用 い る の か、 ま た 中 国 人 労 働 者 が ア フ リ カ に と ど
かねない。中国人の企業経営者がマラウイの労働者をどの
の期待以下であれば承認変更じたいが否定的にとらえられ
れが現政権支持率に影響するであろうし、その支援が当初
られるわけではない。事業推進過程で問題が発生すればそ
他方、マラウイと中国との関係強化が肯定的にのみ捉え
フリカ地域と中国全体の関係を考えて、二〇〇九年のマラ
選挙で中国が排斥されるようなことがあったために、南ア
問として残る。ひとつの仮説は、二〇〇六年のザンビア総
ぜこのタイミングでカツォンガ大臣に声をかけたのかが疑
まるとみることもできる。また、中国のザンビア大使がな
た援助の代替えと、大統領や現政権維持のための支援に留
ない。それだけに、経済支援もあくまでも中華民国が行っ
ので、この承認変更が外交上の最優先課題というわけでは
て、特別待遇を与えることはできないのであろう。たしか
まって犯罪者になるのではないかといった危惧がないわけ
ウイ総選挙で中国寄りの政権の続投を目指したものとも考
が外部的存在である中国をいかに利用して内的なコンテキ
で は な い が、 マ ラ ウ イ で は そ れ は ま だ 予 想 の 範 囲 に す ぎ
に承認問題は中国の「統一戦線」の論理ではきわめて重要
ず、また多民族社会であるアフリカでは多くの治安問題が
えられるが、未知数である。この点は中華民国側の要因も
であるし、台湾の民進党政権に打撃を与えるうえでは無視
あり、中国人社会との問題もそのような諸問題との相対的
。
含めて検討すべきである (川島 2008)
a
そして、本稿の叙述でも明確なように、中国のマラウイ
ストに落としていくかという論理のなかに位置づけられ
な視点のなかで語られるということが重要である。また、
へのアプローチは多様であり、中央政府のいわゆる経済支
る。これは現地的には当然のことだが、日本の「アフリカ
対中国交政権樹立に尽力したカツォンガ大臣が中国からの
援だけでなく、中央政府による投資の促進、また地方政府
できない。しかし、マラウイには十分な資源があるわけで
リベートを得たのではないかとの疑惑のなかで政界の一線
の斡旋する投資などもあり、複合的である。マラウイから
―中国」をめぐる言論にはあまり表れない論じられ方であ
から引いた状態にあるといったこともある。こうした状況
みれば「チャイナ・マネー」であるが、中国内部的にはさ
も、また中国商品の大市場として期待できるわけでもない
の中で、ムッサ大臣らが数回訪中してマラウイへの投資を
る。
呼びかけるなど、マラウイ側には地道な対中投資誘導を結
まざまな系統がかかわっている。これを一元的なデザイン
のもとにある拘束力のある中央から地方への「命令」であ
果的におこなうしかない状況になっている。
中 国 側 か ら み れ ば、 承 認 変 更 を 行 っ た マ ラ ウ イ に 対 し
200
201 マラウイの対中国交樹立
あることについて示唆を与えてくれる。これは当然のこと
のアプローチは、中国の対アフリカ関与がおそらく多様で
るとみるほうが妥当であろう。そして、中国のマラウイへ
を 示 し て い た。 そ し て、 中 国 と の 関 係 に お い て い つ か 問
援 が、 チ ャ イ ナ・ マ ネ ー に よ っ て 一 蹴 さ れ た と い う 観 点
という問題が残るものの、長期的で地道なマラウイへの支
統領からのメッセージをはたしてどの程度受け止めたのか
中華民国 (台湾)側は、本稿で述べたようにムタリカ大
ではあるが、ダルフールのような国際政治上の焦点、ナイ
題が発生して、承認を再変更するまで待つという (インタ
るとみるよりも、一定の方向付けがなされている程度であ
ジェリアやアンゴラのような石油資源、あるいはザンビア
ビュー、二〇〇八年三月一八日および三一日。馬政権成立後
先進国は、ODAの世界における新たな、そして強力な
に方針の方針の変更があった可能性もある)
。むろん、アフ
アクターとしての中国をいかに位置づけるのかという問題
のような鉱産資源がある上に地域政治の主要国であるとこ
チの積極性の強弱などが相手国に応じて見られるのだ。中
に直面している。今回の承認変更においても、国益重視、
ろ、そして南アフリカのような資源大国でありながら地域
国政府は、経済商務参賛処をアフリカ各国の中国大使館に
外交上の道義よりも金銭優先、大統領や閣僚個人あるいは
リカ各地で行われる選挙にあわせて多くの工作がなされる
展開し、各国の公共事業等のデータをウェブサイトに公開
選挙のための利益誘導といった面が、中国のアプローチに
経済大国でもある国、それぞれに応じた関係を中国は模索
し、華商の参入を促している。アフリカの華人社会にはす
は見られた。中国のいう南南協力の一環としての中国のマ
のであろうが、アフリカ諸国からみれば中国といかにかか
でに多くの華字紙があり、そこにも経済投資の情報があふ
ラウイに対する支援をいかに位置づけるのかという点につ
している。だが、こうした資源国、主要国へのアプローチ
れている。だが、中国のアフリカにおけるプレゼンスの上
わるのかが、内政にも影響している状況にあるということ
昇 は 否 め ず、 中 国 人 の 増 加 が 可 視 的 な 現 象 で あ る と し て
いて現地のドナー国にも戸惑いがあるのだろう。周知のと
もあろう。
も、たとえば鉱山開発技術の領域やアフリカにおける経済
おり、すでに多くの規定が定められつつあるとはいえ(小林
と、マラウイのそれは異なる。居住中国人商人の多寡にも
事業の展開という面で、中国には経験不足の面も残されて
とづく領事政策の相違、資源や戦略的価値によるアプロー
おり、中国にとっての対アフリカ外交も模索中だというこ
)
、中国はOECD加盟国ではなく、DACの諸規定の
2007
拘束を受けないため、リロングウェの援助国の大使らから
関係者、JICA関係者、アメリカ大使館関係者、中国大使
。
ともできる (インタビュー、二〇〇八年三月二七日b)
構成されるドナー・グループ(一ヵ月に一度会合)は、中
館 関 係 者 へ の イ ン タ ビ ュ ー、 元 中 華 民 国 大 使 館 関 係 者、
中華民国代表処関係者、台湾系市議会議員、JICA関係者、
関係者)、南アフリカにおけるインタビュー調査
Daily Times
(二〇〇八年三月二五~二六日、三〇~三一日、大学関係者、
The
国側の参加を求めた。中国側も「このグループに加わるこ
とが中国に得なのかどうかわからない。オブザーバーとし
ての参加は検討する」などと述べていた(インタビュー、
また、JICAマラウイ事務所からは関連新聞記事などの提
貢教授の協力および駐マラウイ日本大使館の便宜供与を得た。
中国人街)など。なお、本調査にあたっては東京大学の遠藤
外援助司が一定程度の情報を公開しているが全体像は不明
供を受けた。記して謝辞を表したい。
二〇〇八年三月二七日b、c)
。中国の対外援助は、商務部対
である。あるいはこの公開されている部分を国際標準にお
* 3 「感 覺 像 回 家 」(『外 交 部 通 訊 』 二 六 巻 六 期、 二 〇 〇 七 年
九 月 号、 http://multilingual.mofa.gov.tw/web/web_UTF- 8 /
ける援助と位置づけるのかもしれない。先進国はドナー国
の既存の観点から中国をとらえがちであるが、中国は援助
を制度化しつつあり、また何を援助の枠のなかにいれ、何
を政治的な資金、経済的な投資とするかを定めつつある過
これら諸国が中華民国の国連加盟などを支持する内容となっ
)(二〇〇八年一一月一〇日アクセス)
out/ 2606 /report_ 2 .htm
*4 台北宣言は、中華民国のアフリカ諸国への支援とともに、
gov.tw/webapp/lp.asp?CtNode= 1288 &CtUnit= 302 &BaseDS
て い た。(中 華 民 国 外 交 部 ウ ェ ブ サ イ ト、 http://www.mofa.
程にある。結果的には多元性を担保しつつ、制度化された
部分については国際標準にのっとるというスタイルをとる
(
bapp/ct.asp?xItem= 28826 &ctNode= 1099 &mp=)
1 二〇〇八
イ ト、 外 交 部 新 聞 説 明 会 紀 要、 http://www.mofa.gov.tw/we-
共 和 國 外 交 關 係 記 者 會 答 詢 紀 要 」(中 華 民 国 外 交 部 ウ ェ ブ サ
*6 二〇〇八年一月一四日、「楊政務次長宣布我中止與馬拉威
7034 &ctNode= 1288 &mp=)(1二〇〇八年一一月一〇日アクセ
ス)
ブサイト、 http://www.mofa.gov.tw/webapp/ct.asp?xItem= 2
威共和國總統莫泰加閣下致詞稿(英文)」
(中華民国外交部ウェ
D= 7 &mp=)
1(二〇〇八年一一月一〇日アクセス)
*5 二〇〇七年九月九日、「『第一屆臺非元首高峰會議』馬拉
のだろうが、何を制度化するかという点は流動的であろう。
◉注
*1 「邦交国」
(中華民国外交部ウェブサイト、 http://www.mofa.
)
gov.tw/webapp/ct.asp?/xItem=11624&CtNode=1143&mp=1
(二〇〇八年一一月一〇日アクセス)
*2 この調査は以下のように実施した。中華民国外交部(台
北)におけるマラウイ大使館駐在経験者へのインタビュー
(二〇〇八年三月一八日)、マラウイにおけるインタビュー調
査(電話取材含む、二〇〇八年三月二七~三〇日、対象:マ
ラウイ外務省関係者、マラウイ政府元国務大臣、日本大使館
202
203 マラウイの対中国交樹立
年一一月一〇日アクセス)
*7 二〇〇八年一月一四日、「楊政務次長宣布我中止與馬拉威
共 和 國 外 交 關 係 記 者 會 答 詢 紀 要 」(中 華 民 国 外 交 部 ウ ェ ブ サ
イ ト、 外 交 部 新 聞 説 明 会 紀 要、 http://www.mofa.gov.tw/we-
(
bapp/ct.asp?xItem= 28826 &ctNode= 1099 &mp=)
1 二〇〇八
年一一月一〇日アクセス)
* 8 同 席 し た の は、 バ ン ダ 大 臣(
Henry
Chimunthu
Banda,
エネルギー・鉱山相)、リペンガ大臣( Ken Lipenga
貿易・プ
ライベートセクター発展相)、ムッサ大臣( Henry Mussa
、運
輸・公共事業相)らであった。この顔ぶれからもマラウイ側
の中国への期待がうかがえる。
*
マラウイ側では、日本などのように台湾との経済・文化
関係の維持のための制度化を模索することはなかったという。
そのひとつの理由は実質的な経済関係が希薄であることがあ
げられる。
二〇〇八年一月一四日、「楊政務次長宣布我中止與馬拉威
共和國外交關係記者會答詢紀要」(中華民国外交部ウェブサイ
*
ト、 中 華 民 国 外 交 部 新 聞 説 明 会 紀 要、 http://www.mofa.gov.
中 央 人 民 政 府 ウ ェ ブ サ イ ト、 http://www.gov.cn/ld-
tw/webapp/ct.asp?xItem= 2 8 8 2 6 &ctNode= 1 0 9 9 &mp=)
1
(二〇〇八年一一月一〇日アクセス)
*
* マラウイ側の報道では、このときに六協定が締結された
という。だが、その内容は明かされていない。
(二〇〇八年一一月一〇
hd/ 2008 - 03 / 25 /content_ 928605 .htm
日アクセス)
長宣布我中止與馬拉威共和國外交關係記者會答詢紀要」(中華
*
The Daily Times, Jan 17 , 2008
にみられ、後者の立場は、二〇〇八年一月一四日、「楊政務次
*9 前者の立場は、たとえば
民国外交部ウェブサイト、中華民国外交部新聞説明会紀要、
http://www.mofa.gov.tw/webapp/ct.asp?xItem= 28826 &ctNo
(二〇〇八年一一月一〇日アク
de= 1099 &mp=)に
1 みられる。
セス)
* 二〇〇八年一月一〇日、「黃部長說當前我國外交情勢記者
會」(中華民国外交部ウェブサイト、外交部新聞説明会紀要、
http://www.mofa.gov.tw/webapp/fp.asp?xItem= 28777 &ctno
de= 1099 &mp=)(
1 二〇〇八年一一月一〇日アクセス)
*
二 〇 〇 八 年 一 月 一 四 日、「中 国 与 马 拉 维 建 立 外 交 关 系
在 北 京 签 署 联 合 公 报 」(中 央 人 民 政 府 ウ ェ ブ サ イ ト、 http://
中 央 人 民 政 府 ウ ェ ブ サ イ ト 、 h t t p : / / w w w . g o v . c n /
ldhd/ 2008 - 03 / 26 /content_ 929595 .ht(
m二〇〇八
年一一月一〇日アクセス)
* 「马 拉 维 驻 华 大 使 馆 在 京 开 馆 杨 洁 篪 主 持 开 馆 仪 式 」
(中 央 人 民 政 府 ウ ェ ブ サ イ ト、 http://www.gov.cn/
中 央 人 民 政 府 ウ ェ ブ サ イ ト、 http://www.gov.cn/
)(二 〇 〇 八 年 一 一 月
jrzg/ 2008 - 03 / 26 /content_ 929487 .htm
一〇日アクセス)
*
四 川 大 地 震 の 際、 マ ラ ウ イ 大 統 領 は 胡 錦 濤 主 席 あ て に
慰 問 メ ッ セ ー ジ を 発 し た。 中 央 人 民 政 府 ウ ェ ブ サ イ ト、
(二 〇 〇 八 年 一 一 月
jrzg/ 2008 - 03 / 28 /content_ 930755 .htm
一〇日アクセス)
)
www.gov.cn/jrzg/ 2 0 0 8 - 0 1 / 1 4 /content_ 8 5 7 7 7 5 .htm
(二〇〇八年一一月一〇日アクセス)
駐 マ ラ ウ イ 大 使 館 ウ ェ ブ サ イ ト、
http:/ / www.go v.cn/
jr z g/ 2 0 0 8 - 0 3 / 2 8 / co nte nt_ 9 3 1 6 6 6 .htm
「中馬関係概況」(中華人民共和国駐マラウイ大使館ウェ
* 「商 务 部 对 外 援 助 项 目 招 标 委 员 会 二 〇 〇 八 年 第 三 四 次 例
会 」(中 華 人 民 共 和 国 商 務 部 ウ ェ ブ サ イ ト、 http://yws.mof-
)(二 〇 〇 八 年 一 一 月 一 〇
org/chn/sghdhzxxx/t 511642 .htm
日アクセス)
http://mw.china-embassy.
会大厦项目僊计建议合同签字仪式在马举行」(中華人民共和国
*
http://www.gov.cn/jrzg/ 2008 - 05 / 17 /content_ 979227 .htm
(二〇〇八年一一月一〇日アクセス)
*
蒋巨峰省长会见马拉维共和国总统穆塔里卡(四川大政網、
)(二 〇 〇 八 年
15084
中 央 人 民 政 府 ウ ェ ブ サ イ ト 、
=
http://sc.dzw.gov.cn/show_doc.asp?id
一一月一〇日アクセス)
*
*
ブ サ イ ト、 http://mw.china-embassy.org/chn/sbgx/t 509829 .
)(二〇〇八年一一月一〇日アクセス)
htm
* 二 〇 〇 八 年 五 月 二 四 日、「馬 拉 維 總 統 表 示 願 與 中 國 加 強
合 作 」(新 華 網、 http://news.sina.com.hk/cgi-bin/nw/show.
「中馬関係概況」(中華人民共和国駐マラウイ大使館ウェ
)(二 〇 〇 八 年 一 一 月 一 〇 日 ア
cgi/ 106 / 1 / 1 / 748298 / 1 .html
クセス)
*
ブ サ イ ト、 http://mw.china-embassy.org/chn/sbgx/t 509829 .
)(二〇〇八年一一月一〇日アクセス)
htm
台湾のマラウイ支援には屏東地区の病院などが関与して
いた。財団法人屏東基督教医院を中心とした非洲馬拉威醫療
*
)
com.gov.cn/aarticle/o/r/ 2 0 0 8 1 0 / 2 0 0 8 1 0 0 5 8 5 3 5 5 6 .html
(二〇〇八年一一月一〇日アクセス)
* 「中 国 援 建 马 拉 维 议 会 大 厦 项 目 政 府 立 項 換 文 及 施 工 合 同
签 字 仪 式 隆 重 举 行 」(中 華 人 民 共 和 国 駐 マ ラ ウ イ 大 使 館 ウ ェ
ブ サ イ ト、 http://mv.chineseembassy.org/chn/sghdhzxxx/
)(二〇〇八年一月二〇日アクセス)
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*
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團 隊 の 活 動 を 参 照。 http://www.ptch.org.tw/_private/histo-
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205 マラウイの対中国交樹立
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tive on China in Africa, Fahamu, Cape town, Nairobi and Oxford.
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Bingu Snubs Taiwan Envoy, The Nation, Jan 4 , 2008 .
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Let’s learn from neighbours on Mainland China, The Dairy
Govt orders Taiwan to pull down flag, The Daily times, Jan
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Kaliati hits at Taiwan government, The Dairy Times, Jan 21 ,
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Jan 29 , 2008 .
Shire-Zambezi takes new turn, The Dairy Times, Jan 3 1 ,
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Bingu speaks on China, The Guardian, Feb 5 , 2008 .
Malawi dumps baby dragon for its mother, The Guardian,
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二〇〇八年三月二七日a、マラウイ政府元国務大臣への電話イ
(於:日本大使館)。
二〇〇八年三月二七日b、中国大使館関係者へのインタビュー
のインタビュー(於:駐マラウイアメリカ大使館)。
二〇〇八年三月二七日c、駐マラウイアメリカ大使館関係者へ
(於:マラウイ外務省)。
二〇〇八年三月二八日a、マラウイ外務省高官へのインタビュー
二 〇 〇 八 年 三 月 二 八 日 b、 メ デ ィ ア 関 係 者 へ の イ ン タ ビ ュ ー
(於:リロングウェ市内)。
ビュー(於:JICAマラウイ事務所長宅)
二〇〇八年三月二九日、元中華民国大使館職員への電話インタ
のインタビュー(於:中華民国在南アフリカ代表処)
二〇〇八年三月三一日、中華民国在南アフリカ代表処関係者へ
(かわしま・しん/東京大学大学院総合文化研究科)
Feb 6 , 2008 .
China fed up with beggars, The Nation, Mar 7 , 2008 .
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China to Open Tobacco Factories, The Guardian, Mar 17 - 18 ,
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Malawi, Beijing to sign
agreements, The Nation, Mar 25 ,
Govt to sign six packs with China, The Nation, Mar 25 , 2008 a.
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Malawi, Beijing to sign
Dairy Times, Mar 27 , 2008 .
Malawi China sign KARONGA/Chitipa road agreement, The
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◉インタビュー
二〇〇八年三月一八日、中華民国外交部(台北)におけるマラ
ウイ大使館駐在経験者へのインタビュー。
二〇〇八年三月二五日、南アフリカにおけるアフリカ研究者へ
のインタビュー調査(於: Witwatersrand
大学)。
206
207 マラウイの対中国交樹立
6
6
特集
―
アフリカをみる世界の目
ウガンダの分権化と貧困削減
︱︱ ドナーの視座の制約
笹岡雄一
また、ウガンダは政府の規模を縮減する公共セクター改革
に も 成 功 し、 一 九 九 七 年 に 途 上 国 で 最 初 に 貧 困 削 減 戦 略
ていた。内戦からの復興過程にあったとはいえ、当時の経
」と呼ばれ
望の星 (オルブライト米国国務長官、一九九七)
であるが、
一九九〇年代の開発協力の世界においては、「希
ウガンダは東アフリカの内陸部に位置する目立たない国
う し た 社 会 経 済 的 な 成 功 と は 対 照 的 に、 政 治 形 態 に お い
)
初等教育普遍化政策( Universal Primary Education: UPE
の導入による就学児童数の拡大などを達成した。他方、こ
反映した所得貧困の低下、HIV/AIDsの早期対策、
はじめに
済成長率六パーセントという数字はサブサハラアフリカ
)
」
ては二〇〇六年までは「無政党政治 (
no
party
politics
:
と 形 容 さ れ た、 N R M ( National Resistance Movement
二 〇 〇 一 年 か ら は ム ー ブ メ ン ト と 呼 ば れ た )と 呼 称 さ れ る
( Poverty Reduction Strategy: PRS
)を作成したが、
そのオー
ナーシップぶりでも評価された。さらに、好調な成長率を
行をはじめ国際金融機関、国連機関や二国間政府援助機関
唯一の政治勢力の統治が続き、国民の政治的権利は抑制さ
(以 下「ア フ リ カ 」
)では希少であったので、IMF世界銀
(以下、「ドナー」と総称)から大きな賞賛を浴びていた。
二〇〇六年までの一〇年間のプロセスである。分権化はP
あ っ た か ら で あ る。 本 格 的 な 稼 動 期 間 は 一 九 九 七 年 か ら
ともに域内で最も急進的かつ本格的な分権化を進めた国で
策のなかでもとくに注目された。ウガンダは南アフリカと
ウガンダの分権化政策は、九〇年代のアフリカ諸国の政
期の準備期間の必要性を考慮すると暫定的な評価という
た。しかし、この見解自体、貧困削減の多面的な要因、長
ティング ( Jütting et al. 2004
)らの研究は、分権化の貧困
削減への貢献度は総じて「やや否定的」か「否定的」とし
る。 一 九 ヵ 国 を 対 象 と し た O E C D 開 発 セ ン タ ー の ユ ッ
政策だけで効果を測定することは一般的に困難だからであ
ざまな政策、改革が一体的に作用する必要があり、分権化
RSと同様、ウガンダ政府の内発的なイニシアティブによ
感 が 否 め な い。 ウ ガ ン ダ を 研 究 し た ス テ ィ ナ ー ( Steiner
れた。
り実施されてきたが、ドナー側も積極的に支援した。分権
*
化の目標に関する政府の公式のスタンスは、地方における
)は 分 権 化 の 貧 困 削 減 効 果 は 三 つ の ル ー ト を 通 じ て
2007
実 現 す る と い う。 そ れ は、 公 共 的 な 意 思 決 定 過 程 へ の 参
ナーは実際にはそのとおり機能しなかったと論じている。
)
、公共サービスの効率性の向
加 ( Crook and Manor 1998
)
、および紛争解決能力の形成 ( Crook
上 ( World Bank 2001
)
。 た だ し、 本 格 稼
な 政 策 」 と 評 さ れ た ( Mitchinson 2003
動から一〇年が経過し、さまざまな問題も露呈した。「ア
本稿では開発援助を通じての分権化と貧困削減の関係を理
)
。ウガンダの分権化に対
の促進であった ( MoFPED 2000
する国際社会の論調も当初は歓迎ムードが強く、「いかな
フリカ民主主義の制度として地方政府(LC/RC、後述)
論的に考察し、分権化のプロセスが集権性を伴っていたこ
)である。ウガンダの分権化は当初こ
and Sverrisson 2001
れ ら の ル ー ト そ れ ぞ れ で 高 い 評 価 を 得 て い た が、 ス テ ィ
を創設するという当初の考え方が後退した」のではという
あったことを論じる。
)
。貧困削減にはさま
い ( Jütting et al. 2004 ; Steiner 2007
つ い て の 先 行 研 究 は 多 い が、 貧 困 削 減 効 果 の 研 究 は 少 な
減 の 関 係 で あ る。 低 所 得 国 の 分 権 化 政 策 の 目 的 や 動 機 に
検討したい。第一の課題は、手段としての分権化と貧困削
全体像をみることができる。しかし、残念ながら、ウガン
明された立場だけであったなら、第一の課題を検討すれば
把握する必要性である。もしウガンダ側の動機が公式に表
第二の課題は、ウガンダの分権化の政策動機を総合的に
と、 そ の 意 味 で 貧 困 削 減 は 分 権 化 と は 直 結 し な い 事 象 で
)
。
見方もある (斉藤 2007
本稿ではウガンダの分権化について大きく二つの課題を
)政 策 よ り も 最 も ラ デ ィ カ ル
る 国 の 権 限 委 譲 ( devolution
サービス・デリバリー体制の構築による貧困削減と民主化
*
208
209 ウガンダの分権化と貧困削減
2
必要がある。最後に、「おわりに」ではウガンダの分権化
権化は行政レベルに留まらず、政治レベルから広く捉える
は分権化の意味を汲み取れないだろう。一般に低所得国に
とは何を意味するものであったのか、暫定的な結論を述べ
ダ 側 に 隠 れ た 動 機 が 存 在 し た な ら ば、 第 一 の 課 題 だ け で
とって分権化が何であったのかを問うことは、公式の政策
ることにしたい。
第Ⅰ章の論述に立脚してウガンダの貧困削減と分権化の関
かでドナーが果たした役割について解説する。第Ⅱ章では
たウガンダの分権化政策やPRSの経緯を説明し、そのな
る。以下の構成としては、第Ⅰ章で一九九七年を中心とし
像すれば、ある程度予測できたゲームと捉えることもでき
政策決定者ないしは権力エリートとドナーの間の関係を想
権化のダイナミズムの全貌に近接できると考えた。それは
の政策動機という二つの課題を検討することで、同国の分
本稿では、ウガンダの分権化と貧困削減の関係、分権化
プロセスが始まっていたことになる。PEAPはIMF世
で、ウガンダではその二年前からオーナーシップをもった
れたのは、九九年のIMF世界銀行の合同委員会であるの
た。国際社会で途上国全体に対するPRSの作成が討議さ
中心になって構成される一〇名あまりのチームが作業し
この打ちわせ会議に参加したことがあるが、ウガンダ人が
( Poverty Eradication Action Plan: PEAP
)というウガンダ
版PRSの作成が着手されたのもこの年であった。筆者も
多 く の 政 策 改 革 が 並 行 し て 進 展 し た。 貧 困 撲 滅 行 動 計 画
一九九七年のウガンダでは財務計画省によって担われた
1 九七年 の軌跡
Ⅰ 中央から地方へ
やプログラムの検証を通じても解明できないことが多い。
また、一〇年という期間が経過することによって分権化の
プロセスに変化がうまれることもあろう。もしドナーが看
取していないウガンダ側の動機が存在したとすれば、それ
は開発を進めるにあたってのドナーの視座の制約を意味す
るものになろう。筆者はこの面について動機に変化があっ
係について考察する。ここで第一の課題である分権化政策
)進
界銀行のPRSP ( Poverty Reduction Strategy Paper
捗状況報告書においても「参加型貧困調査などで最も綿密
たとの観点から論じる。
の貧困削減に対する寄与の可能性を論じる。第Ⅲ章では第
階で、ドナーの反応も芳しくなかった。ところが、九七年
UPEを実施したい旨説明したが、計画はまだ初歩的な段
。
く合意がとれていなかった ( Piron with Norton 2004 : )
16
九六年一一月にパリで開催された援助国会合で教育大臣は
方、初等教育については国際金融機関と政府の間でまった
あ り、 さ ら に U P E を 行 う 余 裕 は な い と 述 べ て い た。 他
年度の予算は重点セクター全般の拡充と道路で手一杯で
者が世界銀行の常駐代表に着任挨拶をした際、同代表は来
路一〇ヵ年整備計画」が形成され始めた時期であった。筆
は、世界銀行をはじめ多くのドナーの協力を得て「全国道
と、そこでUPE政策を公約したことであった。九六年末
ベニが九六年にはじめて公開の大統領選に参加したこと
)
。
とを確認している ( MoFPED 2000 : 108
ウガンダにおいてPEAP策定が急がれた理由は、ムセ
ガンダの民主主義は分権化の文脈のなかで追求される」こ
のひとつにあげており、その改訂版は憲法を引用して「ウ
た、PEAPは地方分権を貧困削減のための重要政策項目
動機に変化があったのかについて検討する。ここでは、分
する開発戦略と投資計画のことである。そして、地方の貧
というのは個別のプロジェクトを超えたセクター全体に対
び他のドナーに対して呼びかけた。セクター・プログラム
は教育のセクター・プログラムの実施をウガンダ政府およ
(
化するとともに、ドナーの内部で新しいタイプの援助様態
に対応することを決定した。英国政府はムセベニ支援を強
あった。英国は中等支援プログラムを終了させ、初等教育
初 等 教 育 だ と 説 明 し た ( Piron with Norton 2004 : 18
)
。こ
うした状況で、ドナーで真っ先に対応を変えたのは英国で
統領は機会あるごとに、ウガンダで優先されるのは道路と
し、自分達の努力の姿勢を示す必要があった。ムセベニ大
画省はPEAPにもとづく中長期的な優先セクターを明示
の教員が多く、彼らは無資格教員と呼ばれていた。こうし
の資格は初等教員養成学校卒であったが、実際は小学校卒
ていたが、未訓練教師の比率の高さに困惑していた。教員
)
。ま
な検討が行われたと評価されている ( MoFPED 2001
二の課題として一〇年の間にウガンダ側の分権化をめぐる
になってムセベニ大統領はUPEをただちに実施する旨の
困削減のニーズに応えるコンポーネントとしてバスケット
教育を支援していたドナーにはUPEによる初等教育の
フ ァ ン ド と い う 新 し い 援 助 モ ダ リ テ ィ を 提 唱 し た。 こ れ
)を推進する機会を得たいと考えたのである。
aid modality
一九九七年二月にUPE政策が公式発表されると、英国
た懐疑的なドナーの対応を変えるために、ウガンダ財務計
ラジオ演説を行うのである。
質の低下を懸念する声があった。英国は、初等教育ではな
)アプロー
を呼びかけたが、彼らは地域拠点 ( Area Based
と呼ばれ
は初等教育の教室建設を対象とし、 School Fund
た。英国はオランダ、アイルランドなど北欧ドナーに参加
く、中等教育に対する支援を行っていた。米国の国際開発
庁は小学校教員、校長に対するスキルアップの支援を行っ
210
211 ウガンダの分権化と貧困削減
チという多セクターの事業を地方で展開しており、単一の
で き る と 語 っ た ( President Speech, New Vision, Oct. 10 ,
モニタリングおよび地方政府に対する技術支援に限定され
セクター基金には消極的であった。北欧諸国は従来から多
るとした。
)
。他方、中央政府の役割は、国家政策の実施、国家
1997
的基準の確保、よい統治、腐敗と職権乱用の阻止、検査、
)によってウ
国間債務基金 ( Multilateral Debt Fund: MDF
ガンダの債務の利子払いを代行していた。それが九九年の
)
、無条件( un-conditional
)
、
ントには、条件付き( conditional
一九九三年から中央政府から地方政府に交付されたグラ
ケ ル ン・ サ ミ ッ ト に よ っ て 最 終 合 意 さ れ た 重 債 務 貧 困 国
( Heavily Indebted Poor Countries: HIPCs
)救済措置の導入
によって不必要となることから、MDFを原資に地方開発
)の 三 種 類 が あ っ た。 北 欧 諸 国 は、
平 等 化 ( equalization
地方政府には開発プロジェクトの優先順位の変化に応じて
を支える基金を作ろうと議論していたのである。
一九九七年に開始された、もうひとつの重要な改革が分
はPEAPの重点三セクター (初等教育、地方道路および
柔軟に支出を変えられる裁量権が重要であるとし、中央政
と農業があとで加わった。無条件グラントは、人口と自治
権化政策である。九二年から政策実施の準備過程に入り、
する原則によって指針を与えられている」と述べている。
体の面積により算出される一般行政経費であり、人件費と
府の公務員を地方公務員にする際、給与定員をセクターで
)
九七年に発布された地方政府法 ( Local Government Act
には政治的、行政的および財政的分権化が規定された。同
物件費からなる。平等化グラントは、標準より達成度の低
縛らず無条件グラントとして確保するように働きかけた。
年の一〇月九日の独立記念日の演説でムセベニ大統領は、
限定される条件付きグラントは、交付金全体に占める比率
地方政府省にデンマークの支援で分権化事務局が設置さ
分権化によって中央政府から地方政府に移転された予算に
が九四/九五年度の九〇パーセントから九七/九八年度の
れ、九五年に発布された憲法には分権化の規定が盛り込ま
)
草の根レベルの人びとがアクセスし、準郡 ( sub-county
レベルの歳入の六五パーセントが地元で使える、地方政府
む、とくに権力の分立、司法と議会の強化が必要で、野党
地方政府省はこの要求に応え、交付金に占める無条件グラ
が中央政府に相談なく計画、財政、案件の優先順位を決定
の 活 動 自 由 化 に つ い て は 二 〇 〇 〇 年 ま で に 実 現 す べ き、
れた。
「国家目標および国家政策の根本原理」のⅡ―ⅲは、
七六パーセントに減少したものの、二〇〇一/〇二年度予
まもなく行われる地方選挙は分権化にとり重要なステッ
ントを九四/九五年度の一〇パーセントから九七/九八年
算には八七パーセントに回復し、その後も変化していない。
度予算では二四パーセントに拡大した。条件付きグラント
また、平等化グラントは二〇〇一年度実績でグラント全体
プとの声明を出した。北部地域については南部との格差拡
切なレベルに政府の機能と権限を分権化および権限委譲
の一パーセント未満しかなく、現在でもそのままである。
大、治安の不安定化に懸念を有し、反逆集団LRA ( Lord
「国家は人びとが最良に運営し、彼らの業務を遂行する適
つまり、地方交付金予算の中心は現在にいたるまで条件付
)との政治対話が必要と表明した。分権
Resistance Army
化については、多くのドナーからの支持表明のなかで米国
)を起源としていた。九七
評議会RC ( Resistance Council
年当時、最大の二国間ドナーのデンマークは、経常予算と
村の行政組織 (LC1)は内戦時代のNRMの末端の抵抗
直接応えることの重要性を痛感したからであった。また、
APと同様、一九九六年の選挙活動を経て国民のニーズに
ムセベニが急進的な財政的分権化を指向したのは、PE
条件で同意すると注文を付け、独は経常予算支援を大規模
が必要性を確認した。英国は同基金が政府財政を構成する
ると述べた。また、地方開発の基金については世界銀行、
略を立てており、その柱は分権化と民間セクター支援であ
論した。国連開発計画 (UNDP)は貧困撲滅を中心に戦
は地方政府の能力を確認すべきで、性急な支援は疑問と反
い県に対して特別に交付される資金であった。資金使途が
プライマリーヘルスケア)の事業経費として開始され、水
きグラントであり、デンマークなどが主張したほどには無
開発予算の多くの執行権限を地方政府に交付すべきと唱
に続けると、支援に際限がなくなる恐れがあるとコメント
条件グラントは拡大されなかった。
え、地方政府省といくつかの地方政府の支持を取り付けて
した。
導する必要があるという漸進主義の立場であった。九八年
府にはいまだ十分な行政能力がなく、中央政府が大きく指
た。こうしたイニシアティブのもとでムセベニは国際金融
サービス・デリバリーを地方政府のもとで実施しようとし
大統領選挙勝利を背景に分権化政策を本格的に稼動させ
一九九七年のウガンダはドナーからの厚い支持と前年の
オランダ、デンマーク、アイルランド、スウェーデンなど
いた。これに対し、IMF世界銀行、財務計画省は地方政
)と し て の 分 権 化 を 漸 進 的 に 実 施
に 権 限 委 譲 ( devolution
し、まず中央に地方に対する貧困削減のための基金を導入
一九九七年一一月にパリで開かれた援助国会合において
政策の推進に邁進した。それを開発計画と各省・ドナー協
機関の示唆すら無視し、巧みにドナーを取り込んでUPE
た。 P E A P に お い て 優 先 セ ク タ ー を 明 示 し、 そ れ ら の
するという折衷案が打ち出された。
オ ラ ン ダ は E U の 議 長 国 と し て、 民 主 的 な 政 治 改 革 を 求
212
213 ウガンダの分権化と貧困削減
ガンダ政府の政策においては、分権化=サービス・デリバ
ナーシップが備わっていたと考えられる。この時点で、ウ
あり、こうした政治から行政にいたるリンクには高いオー
の資金が供与され、自主財源ではまかなえない本格的な事
ファンドとして蓄えるために、地方政府にかつてない規模
が大きな資金をドナーから誘引し、それを通常バスケット
セクター・プログラムと分権化の協調的な部分は、前者
作成に取り掛かった。
リー=貧困削減の目的と手段は明確にリンクしていたし、
業展開が行えることである。地方政府にはインセンティブ
議のうえで支えたのが財務計画省、とくにムテビレ次官で
ドナー側もそれを支援した。
と使命感がうまれ、本来あるべき執行体制が確立され、運
用のルールが組織内に浸透する効果がうまれる。つぎに、
は世界銀行、教育分野は英国主導で開始された。この二つ
九七年に道路と教育セクターにおいて導入され、道路分野
し、結果重視のモニタリングを行うアプローチであった。
は そ の ひ と つ で あ り、 政 府 と ド ナ ー が 共 同 で 計 画・ 投 資
助の新規モダリティが試みられた。セクター・プログラム
一九九七/九八年度は、ウガンダにおいてさまざまな援
方、地方政府、とくに県政府はセクターの拘束を受けた予
委 員 会 で ド ナ ー 側 に 対 す る 改 善 策 の 説 明 に 追 わ れ た。 他
求する。セクター省庁と地方政府省はバスケットファンド
対し、ドナー側は次期の資金リリースを遅らせて改善を要
るが、それはしばしば不正確であったり遅延した。これに
学校や保健所という現場から上位の機関に順次報告をあげ
方政府に対するセクター省庁の苛立ちである。地方政府は
両者が衝突する部分は、膨大な業務と予算をこなせない地
は、九七年から開始されたPEAPにおいて最も高い予算
算では自らの裁量権がなく、参加型で計画を作っても活用
2 新 し い援助 の モ ダ リ テ ィ
の伸びを示したセクターであった。セクター・プログラム
できない不満があった。
で、PEAP=セクター・プログラム=条件付きグラント
行動基金( Poverty Action Fund: PAF
)
の原型となった( The
バスケットファンドを開始することで合意し、これが貧困
英国はオランダとともに初等教育と保健の二セクターで
と分権化は地方の貧困層を削減するという共通の目的を有
という整合的な計画を中央で作成することが可能であり、
し、 条 件 付 き グ ラ ン ト は セ ク タ ー 別 の 事 業 予 算 で あ る の
各県は九九年からこれに合致する形で地方政府予算計画書
)
。二セクターはPEAPの優先
Republic of Uganda 1998
分野であり、条件付きグラントに入っていた。一九九八年
イナンスの仕方についての留保付きで参加を表明した。P
健、地方道路、水の四セクターに拡大し、世界銀行もファ
一二月の援助国会合においてPAFの対象は初等教育、保
的な予算執行と上からのPEAP、セクター・プログラム
試みがパイロット県で行われ、下からの分権化計画や弾力
とされ、多くのグラントが統合された。さらなる分権化の
ラントの利用の弾力化と中央に対する報告の簡略化が狙い
)の
Local Government Budget Framework Paper: LGBFP
AFは、PEAPを具体化する資金を集めるために一般予
の制度趣旨をいかに調和させるか、さらに高度の行政的な
(
算のなかに特化された基金である。ウガンダ政府はHIP
技術が求められることになった。
根民主主義を推進するために、県以下の単位での地域拠点
北欧ドナーは地方におけるサービス・デリバリーと草の
Cs救済措置によって浮いた資金をPAFに回すことが義
し、政府の貧困削減に向けたコミットメントの高さを示し
型開発を支援していた。これらのドナーは総合的な開発と
務付けられた。PAFの政府歳出に占める割合は年々増加
た。PAFは開始された九七/九八年度に歳出の一七パー
はドナー丸抱えとなり、コストがかかるので対象エリアが
住民自治などのガバナンスの向上施策を組み合わせて援助
縮小され、近隣の地域に成果を広げられなかった。ウガン
する傾向があった。このアプローチにおいて問題となった
二 〇 〇 七 年 時 点 で も、 地 方 財 政 の う ち 条 件 付 き グ ラ ン
ダ政府はすべての主要な地域にサービスを提供できないこ
セントの規模であったが、毎年漸増して二〇〇〇/〇一年
ト、 平 等 化 グ ラ ン ト の 九 割 が P A F に よ り 担 わ れ て い
とがNRMの政治的不支持に繋がる懸念を有していた。両
度には二九パーセントになった。地方政府は四半期毎に予
る。 イ ヤ マ ー ク 型 援 助 や 条 件 付 き グ ラ ン ト の 多 様 化 に よ
者の思惑が合致して一九九七年までにすべての県に対する
のは、県以下の行政単位が政府予算の計画・執行権限を有
り、 二 〇 〇 二 年 時 点 で 地 方 財 政 に は 三 〇 の 異 な る 資 金 移
財政的分権化が開始されたのである。財政の分権化は九〇
算要求とモニタリング進捗報告を中央政府に対して行うこ
転 シ ス テ ム が 存 在 し、 政 府 の 手 続 き が 非 常 に 煩 瑣 に な っ
年代後半に飛躍的に進捗し、地方政府の政府予算に占める
していないことであった。その結果、プロジェクトの予算
た。 予 算 全 体 の 執 行 状 況 は わ る く な か っ た が、 条 件 付 き
比率は一九九四/九五年度の一四パーセントから二〇〇〇
とになった。
グラントがよい効果をうんでいないことが問題とされた。
いる。
/〇一年度に三四パーセントに増加し、現在も維持されて
)と 準 郡 の 段 階 で 計 画 や 実 施、 予 算 管 理 能 力
県 ( district
をさらに高めることが課題となり、同年にFDS ( Fiscal
)が 作 成 さ れ た。 地 方 政 府 の グ
Decentralization Strategy
214
215 ウガンダの分権化と貧困削減
セクター
財政支援、
セクター
バスケット
分権化(強)
(注)GBS: General Budget Support, Balance of Payment は国際収支のバランスのための支援。
図 1 開発支援モダリティの位置づけ
多くのドナーは地域拠点のプロジェクトを撤退させ、そ
の 資 金 を P A F に 振 り 向 け た。 ま た、 財 政 支 援 ( Budget
)と呼ばれるアフリカでその後普及する援助モダ
Support
リティが開始された。これはPAF同様に、財務計画省の
*
中央銀行の口座にドナーの援助資金を直接投入する方式
で、ウガンダ政府が推進した。とくに一般財政支援という
ような事業が地方で実施されているのか実情を把握できな
きるように支援を行った。財務計画省や一般省庁は、どの
ジェクトを実施し、農民が自分達の力で開発計画を作成で
分 権 化 の 推 進 を 目 的 と し た。 デ ン マ ー ク は 総 合 開 発 プ ロ
ていた。たとえば、アイルランドは地方開発の支援、地方
などが実施し、県や市、村の単位でプロジェクトを実施し
ランド、オーストリア、ベルギー、UNICEF、WFP
図1における①の地域拠点型の援助は北欧諸国、アイル
転用される可能性は少なかった。
支出が遅延することはあっても、大規模な腐敗や軍事費に
ビリティを確保しやすかった。PAFのイヤマーク資金は
監査を可能とし、ドナーにとっても拠出資金のアカウンタ
キームが発達した。これは中央政府の資金コントロールや
益者としながら、中央において運営される垂直的な予算ス
して条件付きグラントにいたるという、地方の一般層を受
はPEAPからセクター・プログラムないしPAFを経由
タイプは、使途が完全に自由な予算であった。ウガンダで
*
セクター財政支援やセクターバスケットファンドに転換さ
せた。どの省庁もセクター・プログラムを実施したがり、
二〇〇一年時点で教育、幹線道路、保健、司法の四つのプ
援助と分権指向が非常に強い地域拠点型の援助が減少し、
としては、分権指向が弱い中央政府に対するプロジェクト
るが、ウガンダでは主流ではなくなっている。全体の傾向
ビレ次官はコーヒー市場の自由化をあげていた。これには
ントに減少した。この最大の要因として財務計画省のムテ
困層は九七年に四六パーセント、二〇〇〇年に三四パーセ
一九九二年に人口の五六パーセントを占めていた絶対貧
ログラムが完成した。③のプロジェクト援助は継続してい
適 度 に 分 権 化 指 向 の あ る プ ロ グ ラ ム 援 助 が 増 加 し た。 ま
二五〇万人の小農が従事しており、彼等の得た現金収入が
まな援助モダリティが形成された。それは計画作成のプロ
一九九七/九八年度は分権化政策ともリンクしてさまざ
だ し、 金 は 隣 国 の コ ン ゴ 民 主 共 和 国 で 産 出 さ れ た も の が
の 輸 出 が 増 え、 九 九 年 か ら 金 も 主 力 輸 出 品 に な っ た。 た
家 計 に 現 れ た。 九 八 年 か ら 同 輸 出 は 減 少 し た が、 魚、 花
セスであったり、資金の配分メカニズムであるが、地方に
一のセクターを対象とするモダリティであった。また、開
し、セクター・プログラムは集権性の強い援助で、かつ単
件の悪化により三八パーセントに増加したが ( Economist
ントとして供与し直したことで予算執行体制としては集権
融 機 関 か ら の も の で、 経 常 予 算 の 三 割 が 債 務 返 済 に 充 て
)
。
率の減少が顕著であった ( UBoS 2007
対外債務は九〇年代後半には全体の三分の二が国際金
の援助資金を吸収し、かつこれを中央からの条件付きグラ
性を強める傾向があった。分権化による地方のサービス・
発資金の枠組みであるPAFや一般財政支援は地域拠点型
)
、〇五/〇六年度には再び三一パーセントに減少し
2007
ている。同年度においては都市部と比較して農村部の貧困
サービスを供給しようという一貫した意図は窺えた。しか
)
。貧困
持 ち 込 ま れ た と 推 測 さ れ て い る ( Economist 2007
率は二〇〇二/〇三年度にGDP成長率の低下と交易条
現在まで続いている。
た、政府財政の半分を援助で支える傾向が九〇年代末から
Ⅱ 貧困の削減
デリバリー強化の目的とは別に、連動した援助モダリティ
ユニセクター
いので熱心に支援しなかった。PAFと一般財政支援の発
③
が集権的な性格を有していたことによって、ウガンダの分
②
権化政策は中央主導、中央依存の傾向を深めたのである。
セクター・
プログラム
達によりこのアプローチは急減する。②のセクター・プロ
分権化(弱)
グラムは中央政府ベースのプロジェクトの一部を吸収し、
プロジェクト援助
地域拠点型
①
GBS,
PAF
Balance of
Payment
Support
216
217 ウガンダの分権化と貧困削減
クロスセクター
ら れ て い た。 構 造 調 整 の 努 力 が 評 価 さ れ た ウ ガ ン ダ は、
免措置が加えられた。HIPCsの適用後は外国直接投資
その後も主要国首脳会議 (G8)において二国間債務の減
の 学 校 に 届 か な か っ た。 こ う し た 現 状 を 調 べ た の が 世 界
一九九一年と九五年の間は一三パーセントしか最終目的地
)も、
かった。初等教育の学校運営経費 ( capitation grant
条件付きグラントの一部として地方政府に交付されたが、
(笹岡・西村 2007
)
。
従来の社会セクターの予算は地方の現場には届きにく
(FDI)も 二〇 〇 一 年 の一 億 五 〇〇 〇 万 ドル か ら 〇五 年
銀 行 な ど の 公 共 支 出 追 跡 調 査 ( PETS: Public Expenditure
一九九八年四月にHIPCs救済措置の適用により以降
の二億六〇〇〇万ドルに増加した。債務問題の軽減化は、
三〇年間にわたり六億五〇〇〇万ドルの債務が削減され、
PEAPを通じてウガンダの優先セクター予算の拡充に寄
)である ( Reinikka and Svensson 2004
)
。
Tracking Survey
この調査では、初等教育・保健資金のサービス機関への到
し、児童の留年・退学率は高く、内部効率性が問われてい
は、ジェンダー格差の改善とともに評価されている。ただ
〇四年に七四〇万人に増えている。この事業の量的な拡大
一、二年生であった。さらに、二〇〇二年に六九〇万人、
( head-count
)が 行 わ れ た。 児 童 数 は 九 六 年 の 二 九 〇 万 人
か ら 九 七 年 八 月 の 五 三 〇 万 人 に 急 増 し、 そ の 四 割 は 小 学
金 (U N I C E F ) の 協 力 に よ り U P E 就 学 児 童 の 登 録
に 各 家 庭 の 児 童 全 員 に 拡 大 さ れ た。 九 七 年 に 国 連 児 童 基
(一九九六年一二月、大統領声明)
、対象は二〇〇二年七月
庭四人の児童まで授業料を無償化するものであったが
は 特 別 の 扱 い を 受 け た。 ウ ガ ン ダ の U P E 政 策 は、 各 家
P E A P の 優 先 セ ク タ ー の な か で も、 初 等 教 育 と 保 健
を 定 め た。 県 病 院 は 国 か ら 県 の 管 轄 に 移 行 し た。 ミ ニ マ
テ ィ ヴ・ ヘ ル ス、 公 衆 衛 生 な ど か ら な る。 保 健 サ ー ビ ス
した。対象領域は、感染症、統合的小児疾患、リプロダク
層、女性と子どもを重点対象として、公平に提供しようと
保 健 政 策 も ヘ ル ス ケ ア の ミ ニ マ ム・ パ ッ ケ ー ジ を 貧 困
運営委員会の委員長が横領するケースも報告されている。
二〇〇〇年に資金の八〇~九〇パーセントが届くように
対 策 の 流 れ と 合 致 し て 九 七 年 に U P E が 行 わ れ、 九 九 /
を 校 舎 の 壁 に 張 り 出 す こ と が 義 務 付 け ら れ た。 こ う し た
うになった。学校は地方政府から受領したグラントの明細
て、政府は月毎に機関間の資金の移転を新聞に公示するよ
達の有無と、受領した資金額を分析した。調査結果を受け
与することになった。
)
。また、児童の両親の学校への
る ( Nishimura et al. 2007
関わりはUPEの導入後貧しい地域ほど弱くなっている
る (九 〇 / 九 一 年 度 の 五 四 パ ー
74
84
180
160
170
137
48
51
42
50.4
セントから二〇〇一/〇二年度
の六二パーセント)
。大きな傾
向としては、所得貧困率の削減
も社会セクター指標の改善も援
助の拡大とともに漸進的に進ん
できた。
一九九八年に実施が開始され
たウガンダ参加型貧困調査プ
ロセス (UPPAP)は九つの
県で貧困者の貧困についての見
解を集めたフィールド調査であ
る。 こ の 調 査 が 注 目 さ れ た の
ころが大きい。また、五歳未満死亡率などはアフリカ一般
輸出)
、さらにはUPEなどセクター予算の増加によると
AIDs感染率の低下、九〇年代の経済成長 (換金作物の
当に改善している。ただし、これは治安の安定やHIV/
が表1である。とくに九八年から〇六年の間に各指標は相
)
。
Mutebi 2005
一九八〇年から二〇〇六年までの社会指標を比較したの
しても、絶対的な貧困者の参加と受益は限られていた。P
が考案されたが、セクター・プログラムにしてもPAFに
ていたとみなすこともできる。さまざまな援助モダリティ
)
、二〇〇二/〇三年の家計調査におい
たが ( McGee 2004
て貧困率が増加したので、UPPAPがその予兆を把握し
計調査とUPPAPの観察結果の違いはおおいに注目され
くなる」という貧困者の観察が紹介されたことにある。家
年代末に「富むものはさらに富み、貧しい者はさらに貧し
で も 低 下 し て お り (一 九 九 〇 年 に 一 〇 〇 〇 人 あ た り 四 三 人
は、家計調査において貧困が減少しているといわれた九〇
(出典)Uganda Bureau of Statistics, Statistical
Abstract 各年版
は、分権化政策を踏まえて複数の行政段階に対応して活動
なったとされた。ただし、資金の到着は遅く、校長や学校
ム・パッケージの実践は、準郡以下に多くの役割を期待し
たが、初等教育と同様に施設設備、人員の配置などの対応
が遅れた。HIV/AIDsはウガンダにおいて他国に先
駆けて飛躍的に改善した分野である (一九九二年の感染率
一八パーセントから二〇〇六年の七パーセント)
。ウガンダ
が情報公開に熱心であったことや村レベルの普及活動の対
策が効を奏したといわれている。二〇〇一年には基礎保健
のコスト・シェアリング制度が廃止され、診察料を政府が
支払うことになった。然しながら、サービス提供機関が住
民に近くはなっても、多くの住民が保健サービスに満足し
ていたわけではなく、問題があっても同機関や政治家に抗
議できなかった。つい最近まで権力の地位にあった者が公
衆 を と が め て 威 嚇 し た 社 会 に お い て は、 村 民 は 抗 議 す る
74
AFにより地方に施設が建設され、行政の活動経費が提供
ことによって何らかの報復が来ることを恐れる (
27.4
50
から二〇〇二年に四〇人)
、初等教育の純就学率も同様であ
Golooba-
2006
21.0
平均寿命
1998
17.8
5 歳未満死亡率
1990
12.8
初等純就学率
1980
人口(百万人)
218
219 ウガンダの分権化と貧困削減
表 1 ウガンダの社会指標の変化
の奇襲を逃れるために国内避難民が八〇万人以上になった
格差は顕著である。北部地域では一九九〇年代末にLRA
( Lentz 2002
)
。
貧困の国内格差は大きく、なかでも北部地域と他地域の
を 与 え、 小 農 や そ の 地 域 社 会 を 周 縁 化 す る 傾 向 に あ っ た
べての階層を利するものであったが、最貧困層をターゲッ
理していた。また、社会セクターの各種利用料の撤廃はす
は評判ほどには分権化しておらず、資源を中央に集めて管
連結する仕組みが集権的であったので、開発プロセス全般
ある。援助モダリティの観点からは、ウガンダは分権化に
パクトを特定して評価することは個々の意思決定プロセス
立ったことは推測できるが、予算の増加以外の分権化イン
時期もあった。北部地域はNRMにとって内戦期に交戦し
されたが、それはもともと資産をもっている者により利益
た旧政府軍の輩出地であり、最も政治的な支持の薄い地域
ト化したものではなかった。
Ⅲ NRMの動機
やアカウンタビリティの実状に立ち入って分析する必要が
であった。ムセベニとNRMは南部と西部を支持基盤にし
ており、北部と東部の支持は相対的に低く、また両地域の
方が貧困の度合いは高かった。これに対し、政府は一般的
な分権化政策による資源配分に加えて、北部に資源を提供
する特別のプログラムを実施し、世界銀行はNUSAFと
上の統治が続き、政党は結社の自由はあるが集会や活動の
ムセベニは内外の民主化圧力のなかで一九九六年および
自由は著しく制限されていた。ムセベニは九六年の大統領
二〇〇一年の大統領選挙を「無政党政治」のもとで実施し、
貧困層の減少は市場の自由化措置の影響が大きく、民営
選挙において七六パーセントの得票を得た。対戦相手は民
いう大規模な社会基金借款を供与した。しかし、二〇年に
化・市場化も分権化の一部であるという通常の定義づけに
主党の党首セモゲレレで、ムセベニの政権で第二副首相を
わたって継続した紛争が社会経済を疲弊させ、さらに人口
従えば、分権化のインパクトだという説明を行うこともで
務めた人物であった。九六年と二〇〇〇年の間にドナーと
これに勝利した。これらは候補者が政党ではなく個人の資
きる。しかしながら、それは一九九七年以降の地方政府へ
の 増 加 率 や 移 動 率 の 高 さ に よ り、 社 会 指 標 は 低 い ま ま で
の分権化とは異なる意味である。九七年以降の分権化が地
の密接な協力のもとで多数の改革が行われたが、大量の援
格で出馬する選挙であった。一九八〇年代のNRMの延長
方政府に多くの予算を配分し、それが社会指標の改善に役
な概念を提出し、すべての成人が無政党という政党に所属
あった。
助の流入とともに汚職の噂も増加した。ムセベニは疑いの
し、政党は存在しても政治活動は妨げられると説明した。
ムセベニとNRMは、二〇〇〇年に複数政党制に対する
あ る 閣 僚 に 法 的 処 罰 を 与 え な か っ た が、 報 道 が や ま な い
た。内部は政党政治を行いたい野党ないしはNRMの権力
治 で あ っ た。 無 政 党 政 治 に 対 す る 批 判 は 内 外 か ら な さ れ
いる地域では、反対派にとっては囲い込まれたなかでの自
味したが、NRMの勢力が地方議会・政府を覆い尽くして
分権化は一般市民の行政や政策決定過程への参加促進を意
の広汎かつ効率的な提供を目指した。無政党政治のもとで
年代の分権化政策は、この全国組織を基礎としてサービス
ピラミッド構造の議会・行政システムであった。一九九〇
)で あ っ た。 地 方 に は 五
地 方 議 会 / 政 府 ( Local Councils
段階のLCシステムが存在し、下位の意見が上位に上がる
)。 複 数 政 党 制 の
を 推 進 で き る と 述 べ た ( Museveni 1997
不在に対する批判を補うものとしてNRMが重視したのが
支持を集めたNRMが宗派や地域などの相違を超えて団結
)の
ム セ ベ ニ は、 複 数 政 党 制 は 党 派 主 義 ( sectarianism
復権に通じるのでウガンダには不適当で、かわりに広範な
の前年に反逆やレイプの容疑で逮捕されたが、スウェーデ
い る F D C ( The Forum for Democratic Change
)と い う
新政党がNRMにとっての脅威となった。ベシジェは選挙
憲法改正動議として承認された。〇六年にはベシジェが率
題とされたが、これはNRMが圧倒的多数の議会において
ムセベニの任期が憲法の規定上二期までしかないことも問
への移行を宣言し、〇五年の国民投票もこれを承認した。
中二三〇を得た。しかし、〇三年にムセベニは複数政党制
が、却下された。同年の議会選挙でNRMは二八二の議席
選挙後ベシジェは選挙における脅迫と不正を裁判に訴えた
RMを離脱した強力な対抗馬が出現した。結果はムセベニ
た。投票率は五一パーセントで、九一パーセントが支持に
の自由が解除されないことがわかるとボイコットに転じ
と、辞任させる措置をとった。
基盤から外れている政治集団であり、反政府系の日刊紙モ
〇六年一月には釈放された。大統領選は六八パーセントの
国 民 投 票 を 実 施 し た。 野 党 は は じ め は 歓 迎 し た が、 活 動
)な ど に 動 向 が 掲 載 さ れ た。 外 部 は 欧 米
ニ タ ー ( Monitor
ドナーやNGO、人権団体などである。一部の研究者もそ
パーセントであった。ベシジェは前回より一〇パーセント
投 票 率 で、 ム セ ベ ニ が 五 九 パ ー セ ン ト、 ベ シ ジ ェ が 三 七
ン、オランダ、英国が相次いで抗議の意味で援助を停止し、
が六九パーセント、ベシジェが二八パーセントであった。
回った。これを受けた〇一年の選挙ではベシジェというN
)は一九九六年
のなかに含まれ、カスファー ( Kasfir 1998
のムセベニ圧勝を受けて、「無政党民主主義」という皮肉
220
221 ウガンダの分権化と貧困削減
く議会の選挙でNRMは三一九議席中の一八七議席を獲得
得票率を伸ばしたが、北部地域の支持が最も厚かった。続
)
、 地 方 政 府 と 議 会、 そ し て 軍 部 で あ っ た。 半 自
agencies
治的な組織は、地方政府財政委員会 (LGFC)やウガン
こ で、 注 目 さ れ た の が 半 自 治 的 な 組 織 ( semi-autonomous
した。
安 定 し た 援 助 の 流 入 を 可 能 に し た。 九 七 年 の P E A P は
公共セクター改革が国際金融機関の評価をうみ、その後の
九六年の間に一〇万人から四万人に縮小した。このような
ポ ス ト も 三 八 か ら 一 七 に 削 減 し、 軍 部 も 一 九 九 〇 年 か ら
での間に三二万人から一五万六〇〇〇人に削減した。大臣
わせるものはなかった。そこで政府の定員を一九九六年ま
時、既得権益層とのつながりはなく、政府の縮減をためら
導 入 に 踏 み 切 っ た。 ム セ ベ ニ が 内 戦 後 に 権 力 を 掌 握 し た
が、九八年にはコンゴ民主共和国北東部にも防衛を理由に
軍部は北部のLRAとの戦闘を理由に軍事費を伸ばした
ポストが増加し、二〇〇一年以降大臣は六七名になった。
する職員は五万人となった。また、一九九六年以降副大臣
統的な公務員は二〇万人に増加し、半自治的な組織に勤務
保健スタッフが増加した。この結果、二〇〇三年までに伝
する理由付けを政府に与え、地方政府職員、小学校教員や
規程の制約を受けず高給である。PRSは地方政府を拡充
を受けたが、政府と機能が重複し、スタッフは政府の給与
年までに約七〇となり、一部はドナーからも活動費の支援
問・協議・モニタリングの役割が多い。その数は二〇〇二
九六年の大統領選挙における貧困削減の公約を集大成した
ダ司法研究所 (JSIU)などが例にあたるが、政府の諮
ものでもあった。その手段として公式に強化されたのが分
派兵し、二〇〇三年には一時的に五万六〇〇〇人の規模に
このように一九九六年からの一〇年間のあいだにNRM
権化政策と重点セクター予算の拡充であった。このような
拡大した。
は民主化の圧力にさらされ、二〇〇六年には複数政党制の
PRS、公共セクター改革と分権化の繋がりをドナー側は
しい県を創設することで大量の新しい職を作り、各人にパ
こうしたポスト作りのなかでも、ムセベニ大統領は「新
一九九六年以降のムセベニ政権は持ちうる資源を動員し
評価し、さらに支援を増加したのである。
て選挙対策を行う必要があった。その手段がNRMに忠誠
)
。それによっ
トロネージの機会を与えた」( Mwenda 2007
て、 潜 在 的 に 反 対 派 に な り う る リ ー ダ ー を 政 府 の 給 与 袋
になっている。分権化によって
せたが、その変化は表2のよう
員や国会議員を連動して増加さ
の で、 中 央 政 府 を 再 び 拡 張 す る こ と は で き な か っ た。 そ
ものではなかった。この援助の効果についての開発政策上
野の確認はするものの、特定の支出部門にイヤマークする
始した。この援助は、貧困国の財政全体を支援し、優先分
新しい援助モダリティとして財政支援という援助形態を開
)
。新しい県とい
に 引 き 込 み、 中 立 化 さ せ た ( Green 2008
う「選挙区の創出」は、固有の算定式によって地方政府職
をつくす人間に社会的に高いポストを与える措置であっ
一二年の間に県の数は倍増し
の 評 価 は こ こ で は 省 く が、 ウ ガ ン ダ の ガ バ ナ ン ス 全 般 に
た。 公 共 セ ク タ ー 改 革 が ド ナ ー か ら 高 く 評 価 さ れ て い た
た。ウガンダの自治体新設は、
とっては二つの意味があった。
それと連動する分権化政策が選
でムセベニもNRMもPRSや
( Green 2008
)
。
もちろん、一九九七年の時点
見返りに提案する傾向が強い
NRMを支える多数の工作資金になりえたし、幽霊兵士の
ドル、二〇〇四年に二億ドル前後に増加している。これは
)
。ウガンダの軍事費は一九九六年に
and Tangri 2005
八八〇〇万ドルであったが、二〇〇三年に一億五〇〇〇万
)
、軍事費
を 拡 充 す る こ と に 寄 与 し た が ( Steffensen 2005
の増加にも役立ち、使途不明金も含まれていた ( Mwenda
テ ィ と し て 最 も 重 視 し た 財 政 支 援 は、 地 方 へ の グ ラ ン ト
第一は、ウガンダ政府、とくに財務計画省が援助モダリ
*
選挙前にNRMが新しい県候補
挙前の集票マシーンに使えると
の権力エリートに次回の集票と
*
踏んではいなかった。ドナーの
(出典)Green 2008: 11(Table 4)
.
口座は小型汚職の温床になった。第二は、財政支援やPA
4.1
側はセクター・プログラムの誕生という契機もあって、N
330
Fのような資金援助はプロジェクト援助と比較してドナー
80
RMが望む中央主導の分権化政策に同調し、地方政府に条
4.4
2008
が 即 座 に 拠 出 を 拒 む こ と が で き る の で、 政 治 的 コ ン デ ィ
306
ショナリティ (政策付帯条件)を受け取り国に対して強め
70
件付きグラントを垂直的に交付する方法を支援したが、こ
5.4
2005
れは国際金融機関や英国も望んだ路線であった。北欧諸国
305
る効果をもった。このことが実証されたのが九八年にウガ
56
には、地方政府に無条件グラントを交付し、より地方主導
6.5
2002
ンダがコンゴ民主共和国に侵攻してからの援助減額であっ
294
た。ウガンダの援助受取額はこの侵攻の後に一九九七年の
45
で資金計画を立てる方法を望む傾向にあったが、PAFを
7.4
1999
多セクター基金とすることを引き換えに中央主導路線に同
288
八 億 一 三 〇 〇 万 ド ル か ら 九 八 年 の 六 億 四 七 〇 〇 万 ド ル、
県あたり国会議員の数
39
意した。米国はNGOを通じて地方における開発や保健セ
国会議員の数
1996
)
。
九九年の五億五五〇〇万ドルに減少した ( OECD 2001
表 2 県と国会議員の数
クターの支援を行っていた。ドナーはさらにもうひとつの
県の数
222
223 ウガンダの分権化と貧困削減
年
ムセベニ大統領とNRMにとってこの記憶は痛烈なものと
NRMは選挙での勝利と見返りに分権化政策という名目
だ。これは同質的なパトロネージのネットワークの拡大と
る も の で あ っ た ( Crook 2003
)
。拡大された地方政府はN
RMの支持基盤ではない東部と北部を含めて全国に及ん
で多数のポストを提供した。これは民主的分権化の本来の
加と活力を高める筈であった。そのための参加型の計画作
いうよりも、敵対する可能性のある勢力を繋ぎ留めておこ
なったであろう。さらに、二〇〇二年の隣国ケニアでのモ
成やUPPAPという貧困調査も実施された。地方政府の
目的である「下からの参加」を促進する内容ではなく、中
資金は拡大し、サービスが最終目的地に届くための各種の
うとする方針と見受けられる。つまり、ネットワークはよ
イ政権の平和的な交替が大きく影響し、〇三年の複数政党
努力も行われた。他方で、地方を中央に依存させる政策が
り不安定で、短中期的な取引に近い。ただし、この策はム
央と地方のエリートをパトロネージ・ネットワークで繋げ
進行した。それは条件付きグラントの増加であり、地方税
セベニとNRMにとっては選挙での勝利を確実にし、得票
地方に目を転じたときに、分権化政策は地方の市民の参
の廃止による地方歳入の減少であった。代表的な地方税の
の動機は貧困削減から徐々にNRM体制の維持にすり替え
制への宣言につながったと考えられる。
)は人頭税の流れを汲む
GPT ( Graduated Personal Tax
一八歳以上の成人男性 (賃金労働で働く女性を含む)にか
られた。
地方政府は中央政府に過度に依存している構図である。
少した。つまり、ウガンダという中央政府は外国援助に、
三五パーセントから〇三/〇四年度の一〇パーセントに減
ウガンダの地方政府の自己歳入比率は九七/九八年度の
(州)よりも小さな単位の県に対して高度の自治を与える
で地方政府との関係についても言及され、政府予算の三割
置きし、緊急に行うべき活動計画が提案された。このなか
内の納税者に事態を説明することが困難になっていると前
算の七・五パーセントに達しており、ドナーにとっては国
(
)
。会計検査院が議会に
Consultative Group Meeting 2003
報告した各年の使途不明金は二〇〇〇億シリング、政府予
年 の 援 助 国 会 合 で は ド ナ ー が ガ バ ナ ン ス と 反 腐 敗 ( anti)に 対 す る 共 同 ス テ ー ト メ ン ト を 提 出 し た
corruption
腐 敗 は ド ナ ー と の 間 で 焦 眉 の 問 題 と な っ た。 二 〇 〇 三
率の低い東部と北部での回復を狙うものであった。分権化
けられる税で、徴税コストが大きいという意味で非合理な
税であったが、地方政府の最大の収入源であった。GPT
は二〇〇一年に一万シリングから三〇〇〇シリングに単価
が引き下げられ、さらに〇五年に廃止された。これは〇六
年の複数政党制での選挙直前の措置であり、人気取り政策
が地方政府に配分されるなかで、腐敗も地方に波及してい
ことは連邦主義の予防になると考えられたのである。新し
とみなせるが、同時に地方政府をより中央依存にさせた。
る証拠があると述べた。そして、この問題はサービスの再
えられる。
〇二/〇三年度予算の一部が軍事費に流用され、財政支援
ニの複数政党制の宣言を支持した。また、EUやIMFは
るべきと論じた。個別の議論では、多くのドナーがムセベ
対極的なものであったし、援助依存路線のさらなる推進で
人件費中心の政府拡張策はもともとNRMの政治姿勢とは
になり、貧困削減になるとは考えにくい。議員や行政官の
ただし、地方政府の過剰がサービス・デリバリーの向上
い県の創設はそれと同様の論理が全国展開したものとも考
)によって解決されるべきではな
集権化 ( re-centralisation
く、分権化政策が新しいツールをともなうことで対処され
が一時停止された問題を提議した。これらの論点はそれぞ
もあった。ウガンダが当初の分権化路線から撤退してきた
断する時期と前後している。さらに、〇六/〇七年度より
れ当然のように聞こえるが、どの論点も相互の関係や、新
政府予算やサービスの拡大にもかかわらず、ムセベニと
)などの地
首席事務官 ( CAO: Chief Administrative Officer
方政府の幹部行政官が中央政府任命に切り替わった。この
徴候は県の増加という見地から二〇〇二/〇三年には明ら
NRMに対する政治的支持は一九九六年から二〇〇六年ま
かになってきた。これは複数政党制への移行をNRMが決
で の 間 に 漸 減 し て い っ た。 南 部 地 域 の ブ ガ ン ダ な ど に は
動きには、地方政治家からの危ない誘いかけを回避する意
しい県のパトロネージ・ネットワークとの関連を指摘した
一九六〇年代の連邦制を復活させる動きがあり、連邦主義
味があるかもしれないが、自治の後退であることは否めな
ものはなかった。
者たちはNRMではなく野党を支持する傾向があった。と
い (斉 藤
て相当程度変質したと考える。
。筆者はこれらの動きから当初の貧困
)
2007 : 37
削減を政策目標として掲げた分権化政策は一〇年が経過し
くに二〇〇六年の複数政党制での選挙は、接戦とはいかな
いまでも緊迫した内容となった。このような政治過程にお
いて、NRMは地方政府を政治的資源として活用するよう
になり、新しい県の創出が全国的に展開された。ムセベニ
は西部出身であり、NRMは西部と南部から政治的に支持
されていたが、分権化政策は当初NRMの膝元における対
)
。地域
立 を 封 じ 込 め る も の で あ っ た ( Johannessen 2006
224
225 ウガンダの分権化と貧困削減
という観点からウガンダを支援し、PAFや一般財政支援
を拡大させた。各種セクターにおいては、ドナーの資金を
利用して初等教育の授業料や保健の受診料が削減され、税
が出るまでに非常に時間がかかる複合的な政策領域であ
なキャパシティの問題もある。ただし、貧困削減とは成果
には経済学的なコストパフォーマンスもあるし、行政学的
けるサービス・デリバリーの提供に有用と考えても、それ
的な数字なのかどうかが問われている。分権化が地方にお
。
平均人口は三八万三〇〇〇人である ( Green 2008 :)
2 こ
の数が分権化による貧困削減という目的を果たすのに合理
ウガンダの県政府 (自治体)の数は八〇で、県あたりの
貧困削減の促進に繋がらないディレンマがうまれたのであ
う本来経済の安定にとってセーフガードになる貿易政策が
企業と軍にしか利益が届かなくなった。輸出の多角化とい
なると、コンゴ民主共和国からの搬入に携わる一部の民間
出の重点が魚や花になるとその影響は低下し、さらに金に
は貧困層を含む一般農民に収益が届く産品であったが、輸
のブームによって支えられていた。それを支えたコーヒー
ではなくなる。所得貧困の減少は一九九〇年代の輸出作物
達成するという論理のもとで正当化されるが、実際には所
おわりに
り、単一の政策改革ですぐに実現をかなえられるようなも
る。
ではGPTが削除された。この流れは分権化が貧困削減を
のではない。多くの場合、成果が出るまでの長期的な視点
改革の実績、スーダンが軍事支援するLRAとの戦闘終結
もっていても、従来の経済パフォーマンスや公共セクター
た。その時点では、ドナーはウガンダの民主政治に不満を
のサービス・デリバリーと連結することが真摯に期待され
持と得票を増やすために分権化が使われ、各種のセクター
一〇年間は、無政党政治のもとでムセベニやNRMへの支
以降民主化政策の遅れを補う意図をもっていた。はじめの
ウガンダの分権化政策の政治学的な含意は、一九九六年
ナーはより眼力を高める必要があるし、民主化 (とくに、
という手段の増加はそれ自体が目的となった。ムセベニと
明らかになった。貧困削減のために必要であった地方機関
に対するサービスがNRMおよび政府の眼目であることが
票をとりまとめる権力エリートやそれを支えるブローカー
の根拠を失い、地方の市民に対するサービスよりも地方で
いう論理により牽引されている。地方政府の増加は合理性
動機を失ったが、より純化したパトロネージ体制の継続と
二〇〇六年以降の分権化政策は複数政党制の代替という
得貧困の減少は二〇〇〇年代に入ってからかつてほど明確
や忍耐が国際社会には求められることになる。
NRMは複数政党制を国際社会に示し、地方政府などの政
複数政党制)
、分権化や公共セクター改革などの政策改革
しかし、外交的な観点からはドナーの強力なウガンダ支
の相互の関係についても分析力を高める必要があるだろ
援は容易に変化しそうもない。スーダンにおけるイスラム
治ポスト提供の手法で二〇〇六年の選挙をなんとか勝利す
合計一一年間の公教育が無償となったのである。しかし、
原理主義の浸透と不安定、ダルフール問題、二〇一一年の
ることができた。二〇〇六年には中等教育の無償化が選挙
ムセベニは三期目になり、野党との票差は縮まり、NRM
う。
の打つ手は限られてきている。ウガンダ政府はドナーから
スーダン南部の独立信任投票、コンゴ民主共和国における
で公約され、翌年に実現している。初等七年、中等四年で
の圧力に弱く、ドナーが大挙して資金の供与を停止すれば
題 と し な が ら も、 経 済 的 な パ フ ォ ー マ ン ス は い ま だ に 評
地方集団の抗争と混乱という隣国の状況がそれを物語って
価 し て い る。 分 権 化 か ら 貧 困 削 減 と い う 論 理 は 曖 昧 と な
政府の運営は破綻する。〇五年のベシジェの逮捕時の三カ
ドナーの責任は二〇〇〇年代に入って、とくに二〇〇三
り、分権化は政治権力の延命装置と化しつつあるものの、
いる。二〇〇七年三月、ウガンダはソマリアにAUの軍隊
年あたりからは徐々に明らかになってきた。たしかに以前
ウガンダはドナーにとって地域内の援助の重点対象国で
の先陣として派兵したが、これは不安定な東アフリカにお
からウガンダのガバナンスに対するドナーや国際的な市民
あ り 続 け て い る。 二 〇 〇 六 年 時 点 で 最 大 の 二 国 間 ド ナ ー
国による援助停止は実際にそれを予見させるものであっ
社会からの批判には強烈なものがあった。しかし、関心の
は 米 国 と 英 国 で あ り、 米 国 が 二 億 四 〇 〇 〇 万 ド ル、 英 国
た。そうしたなかで、国際金融機関を中心とした外国借款
中心は腐敗の防止であり、NRMの開発援助を利用した統
が 二 億 一 〇 〇 〇 万 ド ル と 圧 倒 的 な 規 模 の 資 金 を 供 与 し、
ける砦としての同国の地位を国際社会に示そうとするも
治のあり方に対する基本的な注文は突きつけられなかっ
政府開発援助 (ODA)の純支出総額は国際機関を含めて
の債務は増加し、二〇〇〇年代前半の間に対GDP比で六
た。 N R M 側 の 分 権 化 に 対 す る 動 機 の 変 化 に 関 し て、 ド
の で あ っ た。 I M F も ウ ガ ン ダ の 軍 事 費 増 大 は 大 き な 問
ナー側は自らの視座の制約を認識し、NRMに誘導された
一五億五〇〇〇万ドルに達している。
割から七割に増加している。
プロセスを自戒しなければならないであろう。分権化政策
を推進する政治勢力のさまざまな動機と効果についてド
226
227 ウガンダの分権化と貧困削減
◉注
)氏の発
Mutebile
*1 筆者は一九九六年〜九八年にウガンダの財務計画経済開
発省(以下、「財務計画省」)に勤務した。
*2 もともと財務計画省次官のムテビレ(
案であったことが知られている。
*3 くわしくは、一般財政支援やセクター財政支援、PAF
一般支援などのカテゴリーに分かれる。
◉参考文献
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228
229 ウガンダの分権化と貧困削減
特集
―
アフリカをみる世界の目
アフリカ問題と日本
片岡貞治
国のみならず、資源を有していない国も今までにない高い
成長率を示している。多くのアフリカ諸国が域内の石油産
出国や南アフリカをはじめとした南部アフリカ諸国の活況
崩壊後の国際社会の秩序において、アフリカは「周縁化」
現在、アフリカが世界中の耳目を集めている。冷戦構造
ベルを維持し、二〇〇九年には五・九パーセントにまで上
ン ト と い う 高 い 成 長 率 を 記 録 し、 二 〇 〇 八 年 に は そ の レ
年には平均五・七パーセント、二〇〇七年には五・八パーセ
はじめに
した状態にあるとして、共通に認識されていた。しかし、
昇すると予測されており、輸出額も拡大していた ( OECD
を受け、二〇〇五年には平均五・二パーセント、二〇〇六
ここ数年来、その状況に大きな変化が生じ始めている。
)
。アフリカ諸国においては、歴史的な高
2008 ; ECA 2008
水準での経済成長率の上昇傾向を維持していく兆候を見せ
フリカを希望の大陸のように報告書に記載している。資源
の経済協力を増大させることによって、よりいっそう積極
スタートさせている。一九七〇年代からは、アフリカ向け
また、
「アフリカ悲観主義」の象徴であった武力紛争は、
まず、アフリカ諸国の政治経済状況が、二〇〇〇年以降、
改善されつつあるということである。最近の経済成長は目
始めていた。
一九九〇年代に頻発し、広域化かつ長期化していったが、
的に展開させた。一九九〇年代以降は、一九九三年に開催
*
覚しいものであり、世銀などの国際機関は、異口同音にア
そうした数々の武力紛争も、現在収斂しつつある。現在進
*
行中の深刻な紛争は、ダルフール、コートジヴォワール、
染症の蔓延など暗いイメージと豊富な文化、ライオンやフ
他方で、アフリカというと、貧困、紛争、独裁政権、感
の両方を開催するという僥倖に恵まれ、五月にTICAD
かには、中国、ロシアといったかつてアフリカと歴史的に
ラミンゴなどのサファリ、マサイ族などの民族衣装、楽弓
際社会の最前線に躍進し、国際社会の直面する最重要課題
関係の深かった諸国もあれば、ブラジル、ベネズエラ、イ
などの民族音楽器などに代表される明るいイメージという
Ⅳを横浜で開催し、その成果をふまえたうえで、環境とア
ンド、韓国、トルコ、イランなどの新興国もあり、アフリ
本人の社会的な体験や記憶のなかにアフリカがあまり入っ
のひとつ、また重要地域として認識され始めているのであ
カは正しく世界規模の関心を引き寄せているのである (片
ていないために、一般の日本人は、
「アフリカ」と聞くと、
フリカ開発を主要テーマに掲げた北海道洞爺湖サミットを
。
)
2008 : 14 - 15
そうしたなかで、日本もアフリカに対してさまざまな形
即座に「遠い」という印象をもつ傾向にある。実際に、一
七月に主催した。二つの国際会議を通じて、日本はアフリ
で取り組んできた。
「アフリカの年」と呼ばれた一九六〇
般の日本人にとって、アフリカは、遠い大陸であり、地理
る。それは、国際社会全体がアフリカに対して再び関心を
年 以 降、 つ ぎ つ ぎ に 独 立 を 達 成 し た ア フ リ カ 諸 国 に 対 し
抱き始めたということ、およびアフリカに対して特別な関
て、日本は大使館を開設するとともに、小規模ではあった
的にも、心理的にも遠くにあり、然して馴染みのない存在
なかば二律背反したイメージが日本では流布している。日
ものの、技術協力や有償資金協力を開始した。また、六〇
として認識されている。アフリカは遠く、日本および日本
岡
年代後半以降は、これも小額ではあるが、無償資金協力を
カ開発に対する大規模なコミットメントを行った。
二〇〇八年、日本は一九九三年以来、G8とTICAD
的な関与を行うにいたっている。
て、同プロセスを対アフリカ外交の主軸に据えつつ、積極
し た T I C A D を 皮 切 り に、 T I C A D プ ロ セ ス を 通 じ
*
心を抱く国が増えてきたということをも意味する。そのな
の注目を集めているのである。つまり、「アフリカ」が国
染症など、さまざまな分野で今まさにアフリカが国際社会
安全保障、天然資源、移民、貿易・投資、経済協力、感
ソマリアおよびコンゴ (民)程度であろう。
*
230
231 アフリカ問題と日本
2
しかしながら、アフリカは、日本や日本人とまったく関
リカ、将来性のあるアフリカに重きをおく一派とに大別さ
る一派と最近の数年の経済成長を取り上げ、バラ色のアフ
動、腐敗した政権などのネガティブな暗部を殊更に強調す
争、貧困、汚職、感染症の蔓延、インフォーマルな経済活
係のない地域などではない。じつは、アフリカから輸入さ
れる。
人との関係はきわめて薄いという認識が支配的なのである。
れた食品が、数多く日本人の食卓に上り、日本人の大部分
*
が使用する携帯電話のコンデンサー部分には、アフリカ産
最大の課題のひとつとなっているアフリカ問題を整理・分
け出していることにほかならない。本稿では、国際社会の
アフリカを知ろうとしないという知的怠慢を国際社会に曝
側ドナー諸国にも責任があるのである。アフリカの現状を
)
。アフリカの問題は、
結果である ( Ferguson 2006 : 15 - 22
アフリカ人およびアフリカ諸国に責任の一端はあるが、西
り、アフリカと西欧あるいは国際社会との関係の一部分の
)が 大 著『 Global Shadows
』のなかで述べてい
Ferguson
*
るように、世界におけるアフリカの暗部は世界の一面であ
し か し な が ら、 ジ ェ ー ム ス・ フ ァ ー ガ ソ ン ( James
析しつつ、アフリカと日本との関係を鳥瞰したうえで、地
の希少金属タンタルが使用されている。それでも「アフリ
球規模の課題であるアフリカ問題への日本の対応を精査し
ポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかという議論の
カは遠い大陸」と退け続けるのは、不誠実な対応であり、
ていくことを目的とする。
Ⅰ アフリカ問題の分析
前に、アフリカの問題は、国際社会全体の問題でもあると
いう認識から出発すべきであろう。
たしかに、前述のようにアフリカ諸国の最近の数年の経
済成長は目覚しいものである。たんに資源国のみならず、
多 く の 諸 国 が 高 い 成 長 率 を 示 し て い る。 こ の 成 長 は、 グ
める位置について、多くの議論があり、往々にして相反す
困難をともなう。というのも、世界においてアフリカの占
アフリカの現状をいかに捉えるかという作業は、つねに
一ドル以下で暮らすいわゆる貧困層がアフリカ大陸の全人
資源ブームにより活況を呈する国も出てきているが、一日
いと考えられる。確かに原油価格や鉱物資源の高騰に沸く
済成長と工業化による資源需要の増大によるところが大き
ローバリゼーションの影響や中国およびインドの急速な経
る二つの流派が激突するからである。アフリカにおける紛
長率を維持しているにすぎないのである。また、レアメタ
が「現在、世界人口六五億人のうち、およそ四〇パーセン
な ら な い。 実 際 に、 二 〇 〇 七 年 に 起 こ っ た サ ブ プ ラ イ ム
そのポジティブ面を強調するのは、真実を隠すことにほか
輸出量と額は限定的なものである ( Maury 2007 : 68 - )
。
72
したがって、現在の好況は、脆弱なものであり、殊更に
ルの高騰で鉱物資源国は潤っているが、レアメタル自体の
ト が 一 日 を 二 ド ル 以 下 で 生 活 す る 貧 困 状 態 に あ り、 お よ
ローン破綻に端を発した二〇〇八年の世界的金融恐慌の
*
そ一四パーセントが一日を一ドル以下で生活する極貧状
ノ ー ベ ル 経 済 学 賞 受 賞 者 の ジ ョ ゼ フ・ ス テ ィ グ リ ッ ツ
態 に お か れ て い る。 と く に ア フ リ カ で は 極 貧 者 の 数 が、
機会が増大しているという短絡的かつ楽観的にアフリカの
ブな兆候で、アフリカ大陸全域で貿易、投資および観光の
ンドの需要増大に後押しされる形での経済成長がポジティ
原油や希少金属価格の高騰による資源ブームと中国とイ
)
。その約四〇パーセントを南アフリ
る ( World Book 2008
カが占め、さらに残りの約一五パーセントをナイジェリア
り、サブサハラ・アフリカ諸国では、七四四七億ドルであ
タ に よ れ ば、 ア フ リ カ 全 体 の G D P は、 約 一 兆 ド ル で あ
二・五パーセント程度である。世銀などの二〇〇八年のデー
な存在である。アフリカの占める割合は、世界経済全体の
)
。
Afrique 2008
現状を捉えることは、忌避すべきであろう。高度経済成長
が占めている。それを除く四五ヵ国のGDPは、三〇兆円
)
、グロー
る」旨述べているように (スティグリッツ 2007
バ リ ゼ ー シ ョ ン の 影 響 に よ り、 ア フ リ カ で は 貧 困 層 の 数
国と成長軌道に乗れない国との所得格差の拡大、個々の国
程度であり、神奈川県や埼玉県のGDPと同程度である。
2 ア フ リ カ の経済問題
においても国内所得格差が拡大している。また、原油産出
)
。 事 実、
が む し ろ 増 大 し て い る (ス テ ィ グ リ ッ ツ 2002
一九七四年以降サブサハラ・アフリカの一人あたりの所得
国のほとんどが、機能する製油所をもたず、石油を精製し
アフリカ経済において、農業の占める割合はきわめて高
アフリカ諸国の経済は、世界経済においてきわめて小さ
て輸出することができないでいる。すなわち、加工技術を
い。アフリカの経済構造は、石油やボーキサイトなどの資
*
もたないまま原料を輸出して、外貨を獲得し、高い経済成
は減少、貧困人口も増えている。
余 波 を 少 な か ら ず ア フ リ カ も 受 け て い る の で あ る ( Jeune
い。
口の大部分を占めるという現実を無視することはできな
1 ア フ リ カ の現状認識
*
一 億 六 四 〇 〇 万 人 か ら、 三 億 一 六 〇 〇 万 人 に 倍 増 し て い
*
*
232
233 アフリカ問題と日本
*
まり、経済的にも疲弊していった。また、アフリカ諸国は
易収支は悪化し、一九七〇年代末には債務の返済に行き詰
多く輸入するアフリカ諸国にとって、大打撃となった。貿
年のオイルショック等は、一次産品に依存し、二次産品を
してきた。しかし、一次産品の国際価格の下落や一九七三
一次産品の輸出と外国からの援助によって、工業化を目指
た。アフリカ諸国は、一九六〇年代の独立以降、こうした
どの農作物などの一次産品の生産と輸出を機軸としてい
も多くのアフリカ諸国においては続いているということで
く。植民地時代の産業構造とまったく変わらない状況が今
職やバッド・ガバナンスの温床となり、悪循環となってい
源による富は権力上層部の一部にのみ分配され、それが汚
豊富な資源を活かすための産業が育っていないために、資
を購入する欧米企業によって行われる。また、国内にその
の価格に影響されてしまう。精製などの加工技術は、資源
の加工技術を有していないために、農作物同様、国際市場
産油国などとは異なっているように思われるが、精製など
要の飛躍的な増大により、とりわけ、今日、注目され、非
少鉱物資源などの高価な一次産品を有する諸国は、資源需
一次産品の値段をコントロールできないために、一次産品
ある。
源、銅やウラニウムなどの鉱物資源、カカオやコーヒーな
の国際価格にも依存することになり、ますます混迷を深め
農業に関しても、ボツワナやモーリシャスを除き、全体
ていった。現在の国際経済システムは、アフリカ諸国経済
には不利にできており、それがアフリカ経済の停滞・悪化
いう経済構造には変化もなく、目先の利益のために、換金
して、植民地時代からの換金作物や天然資源に依存すると
勢い、工業化に行き詰まり、ほとんどの国が、農業国と
出の割合は低く、八割以上が国内向けの食糧作物中心の農
生産を行っているが、農業生産全体においては、農産品輸
フリカ諸国では、貿易に関しては、輸出用換金作物中心に
業従事者であり、最大の生産部門が農業である。多くのア
カにおいては、南アフリカを除いて、多くの労働人口が農
として農業の生産性や穀物生産性は伸びていない。アフリ
作物をせっせと生産し、その構造はむしろ助長されていっ
を助長していった。
た。
関連の分野の国際価格が上昇し、それによる所得が大きく
)
。
いる ( UNCTAD 2008
八〇年代の後半から、世銀、IMF、ドナー諸国が主導
の性質により、供給面での問題が数多くある旨指摘されて
業が行われている。にもかかわらず、穀物生産性も上がっ
伸び、他を引き上げているという現象なのである。一次産
する形で構造調整政策が、多くの国で導入された。ワシン
他 方 で、 一 口 に 一 次 産 品 と い っ て も、 多 様 で あ る も の
品を輸出して、外貨を稼いでいるという状況に大きな変化
トン・コンセンサスにもとづく反ケインズ式経済政策によ
ていない。土地生産性も低い状況で、必然的に慢性的な食
はないのである。新しい技術を取り入れた産業は成長して
り、たしかに貿易赤字、財政赤字、インフレなどの抑制等
糧危機に陥らざるをえない。急速な若年層の人口増加も影
いない。携帯電話の普及と発展は特筆すべきものであり、
のマクロ指標の若干の改善はあったが、経済の再建、飛躍
の、アフリカ諸国は往々にして同様の運命を共有していっ
通信関連では、三次産業として成長しつつある産業となっ
的な経済成長という結果は残せなかった。債務は増加し、
た。多くのアフリカ諸国にとって、一次産品の生産と輸出
ている。しかし、先進国において経済の中心となっている
所得格差の拡大もみられた。問題は、ドナー諸国、世銀、
響 し て い る。 ジ ン バ ブ エ の よ う に か つ て の 小 麦 の 輸 出 国
広範な中小企業や中高等技術を必要とする製造業の振興
IMFが画一的な経済政策の導入を援助を与えるためのコ
が外貨獲得の手段であった。金銀、ダイヤモンドおよび希
が、アフリカにはいまだにみられない。換金作物、資源依
ンディショナリティとしたことにあった。経済政策のオー
と多国籍企業による新輸出産業の例はほとんどない。UN
存型および低技術の安価な製造業中心の経済から抜け出せ
ナーシップは、ほとんどアフリカ側にはなかったことであ
が、今は食糧輸入に頼らざるをえないというケースは枚挙
ていない。それどころか、八〇年代の構造調整政策の導入
る。すなわち、オーナーシップを声高に謳う一方で、世銀
CTADの二〇〇八年のアフリカ経済の報告書によれば、
以降、自由化の原則と各種規制の順次撤廃、また国内産業
らは、画一的な政策を押し付けていったのである。ドナー
アフリカの輸出産業の振興には、そのコスト高(賃金など)
保護のための関税の引下げ等の施策の結果、低技術の缶詰
諸国はアフリカのオーナーシップの大切さを異口同音に叫
)
。
2002
繰り返し述べているように、現在の状況は、僅かに資源
などの食料加工産業や日用衣料品などの地場産業部門も、
に暇がない (平野
中国やインドなどから輸入されるより安い日用雑貨品に押
んでいるが、実際にアフリカにオーナーシップがあるかど
になるという神話が流布された。グローバリゼーションと
また、グローバリゼーションによって、アフリカが豊か
うかは疑わしい。
されて、大きな打撃を受けている。
換金作物以外の新たな輸出産業に関しては、三菱商事な
企業によって開発された新たな産業のケースも出てきてい
は、あらゆるもののボーダーレス化であり、国際間の輸送・
どが中心となったモザンビークのモザールのような多国籍
るが、まだ少ない。石油、天然ガスなどの開発を別にする
234
235 アフリカ問題と日本
ていないのが現状である。前述のように中国やインドから
で行われたものは、一部の国を除いてアフリカでは機能し
由主義経済、各種の規制の撤廃、貿易の自由化の名のもと
ントン・コンセンサスにもとづく市場優先主義の経済、自
いては勝者と敗者を峻別するシステムとなっている。ワシ
負の部分しか提供できていないように思える。経済面にお
ローバリゼーションは、現時点では、アフリカにおいては
いくという現象と一般的には考えられている。しかし、グ
果、世界各国の経済取引や交流がより緊密なものになって
国際間の交流を妨げてきた人為的障壁が除去され、その結
ニズムを指す。たんなる国家の予算の運営みならず、人材
いは少人数のグループへの権力および資源の独占的なメカ
リモニアル・システムは、新家産制とも訳され、個人ある
パトリモニアル・システムが取り上げられる。ネオ・パト
ない。アフリカの政治体制の特徴として、しばしばネオ・
が行使されているのかをつねに観察しておかなければなら
カにおいて、こうした国家のなかで、いかなる形式で権力
をもつ主権国家として承認されて行ったのである。アフリ
当時誕生したアフリカの諸国家は、国際的な意味合い主権
( decolonization
)のプロセスにすぎなかった。この段階で
は、むろん国内的な統治能力があるかどうかは問われず、
カ の 新 興 独 立 国 家 の 国 際 的 な 承 認 で あ り、 脱 植 民 地 化
は、 欧 州 列 強 の 植 民 地 支 配 か ら 独 立 を 獲 得 し た ア フ リ
の安い繊維、衣料や日用品が市場を席巻し、関連国内産業
の育成、適材適所の人材の配置、適切な法制度の設定と運
移動コスト、情報通信コストが低下し、非関税障壁など、
は大きな痛手を受けている。また、資源開発関連の大型投
営などが既得権益化した権力によって適切に行われること
近代において想定されている国家とは、「公」の概念か
資がアンゴラ、ナイジェリア等産油国に集中しているが、
ら、公務を効果的かつ健全に管理し、公の領域を統治して
それらは資本集約型の投資であり、原産地の住民の所得拡
にできているのであり、飛び地の間にある大きな空間は開
いるエンティティにほかならない。しかし、多くのサブサ
はなかった。
発から取り残されている。グローバリゼーションは依然と
大、
雇用対効果は少ない。いわば、外国投資の飛び地が方々
してアフリカ諸国に恩恵をもたらしてはいないのである。
ハラ・アフリカ諸国の国家の場合、近代国家において規定
される公の概念は、およそ程遠く、西欧流の「公」とは結
という社会集団やその社会集団が生存するコミュニティ
びつかず、屡私物化されることが多い。為政者の出身部族
一 九 六 〇 年 の 国 連 の 決 議、 一 九 六 三 年 の O A U の 決 議
の国家といかに付き合い、いかにして国民に責任を果たす
3 ア フ リ カ政治、行政、 ガ バ ナ ン ス の問題
という別の「公」に左右されることが多いのである (片岡
国家と変えていくかというのが課題である。
は、依拠する社会集団によって有するものの、国内的な公
の利益の代表者にすぎない。つまり、国内的な権力の基盤
ず、国家の代表や国家の統治者ではなく、一定の社会集団
る国家元首は、国家資源の配分も国民に対して十分に行わ
こうしたアフリカの国家システムにおいては、為政者た
アフリカ諸国は憲法や法制度を変えて複数政党制のもとに
発の鍵であるとしたのである。九〇年代の前半には多くの
政治、選ばれた者による政治、民主主義こそがアフリカ開
を求めるようになった。権力の独占から、国民参加による
の見方を強め、援助の条件として「グッド・ガバナンス」
ナンス」すなわち、政治のあり方が開発を阻害していると
一九八〇年代後半より、ドナー諸国は、「バッド・ガバ
)
。世界に類を見ないアフリカ的な国家、近
2002 : 135 - 137
*
代化が成立していると考える専門家も多い。
の権力の正統性をまったくもたない元首なのである。この
おける総選挙を行うことになった。
ら社会保障や医療、教育などの公共サービスをまったく受
いる。一般国民からも、税を支払っていない一方で、国か
化し、適切な税収を確保することができない状態が続いて
から実態を把握されないインフォーマル・セクターが活発
移動型のアフリカ住民の存在を捉えきれず、必然的に政府
に配分できていない国がほとんどである。また、政府は、
国家が国民に対して責任を負わず、いわゆる価値を権威的
医療、保健、教育、社会サービスが欠落している国が多い。
開発や経済発展は望むべくもない。アフリカには基礎的な
ク集団による希少経済資源の独占状態が続くだけであり、
における総選挙という形式は受け入れられようが、それが
かで、西欧型の民主主義が導入された。複数政党制のもと
)
、
が持ち込んだ各種の統治システム、部族主義 ( tribalism
既得権益グループなどが織りなす複雑な統治システムのな
えてきた。アフリカの伝統的な統治のシステム、植民国家
政治が一朝一夕に民主化するわけでもないという現実もみ
ケースもある。良心的な指導者が選ばれても、アフリカの
握 っ た 新 し い 指 導 者 が、 新 し い 独 裁 者 に 変 身 し て し ま う
者 が 再 選 さ れ る ケ ー ス も 少 な く な い。 あ る い は、 権 力 を
たものへ移行した場合もあれば、依然として専制的な指導
してきている。結果として、平和裏に権力が選挙で選ばれ
たしかに複数政党制のもとでの民主的な選挙の数は増加
ような国民に対して責任を果たせない国家にあっては、公
けておらず、国家建設に参加しているという意識を持てな
ただちに西欧的な民主主義政体への移行ではない。外見と
権力や公共の財が私物化され、国家内部の支配的エスニッ
い状況にある。こうしたネオ・パトリモニアル・システム
236
237 アフリカ問題と日本
*
が示しているように、アフリカ諸国における民主的選挙の
おいて、発展途上国に多くの援助を与えていった。これが、
対 す る 援 助 問 題 は、 い わ ゆ る Point Four
構想として打ち
出されることになり、以後、米国は資金、資材、技術面に
れたとされている。この演説のときに米国の発展途上国に
実施は、社会的な不満を顕在化し暴力的な対立の可能性も
所 謂 現 代 的 な 意 味 で の 開 発 援 助 の 始 ま り で あ る ( Dichter
中身は必ずしも一致しない。
潜んでいる。民主的な選挙実施が「民主主義の定着」のひ
二〇〇七年末に生じたケニアおよびジンバブエでの混乱
とつのメルクマールとなっており、国際的に認められる証
一九七〇年一〇月二四日に、国連総会は、先進諸国に対
)
。 時 は、 冷 戦 の 勃 発 時 で あ り、 開 発 援 助 は、 同
2003 : 55
盟国の友好と恭順に報いるための地政学的な補助金のごと
し て、 発 展 途 上 国 へ の 開 発 援 助 供 与 額 は 各 国 の G N P 比
きものであった。
説的に暴力的手段を使うこともある。それは、本当の意味
〇・七パーセントを最低限の数値とする目標を採択する。
となることから、権力の座に固執する為政者は、形振り構
で民主主義が定着していないことの証左にほかならない。
しかし、現在になっても、この目標をクリアしているのは
わず、ひたすら勝利だけを目指して選挙戦を行う結果、逆
しかしながら、九〇年代から二〇〇〇年代においてアフ
アフリカは、世界で最もこの開発援助を受けている地域
リカでは数百の「民主的な」選挙が行われ、市民団体、外
である。アフリカ大陸は、一九八〇年代に、平均して一年
北欧の数ヵ国に限定されている。
が、市民のなかに民主主義、政治への参加の意識、選挙の
国の人権団体などによる民政教育の成果は徐々にではある
意識を高め、確固たる民主主義的文化が浸透してきている
に一五〇億ドル、一人あたり三一ドルの援助を受けていた。
*
主化が最終目標であると謳っていたとしても、決して「グッ
発援助の対象となるためのクライテリアは、公的には、民
ある一一ドルの三倍に相当する額であった。冷戦時代の開
これは第三世界全体の一人あたりの平均援助受け取り額で
のも事実である。
4 援助 ︱︱ ア フ リ カ援助 の あ り方
援助の問題点
ド・ガバナンス改善のための努力などではなかった。何よ
)という言葉は一九四九年一月二〇日のトルーマ
countries
ン大統領の議会における再選就任演説の際にはじめて使わ
三〇〇万人の子どもが一二セントのマラリアの治療薬を受
の報奨金であった。かくして西側の一員であることを明ら
平均して年に五億二四〇〇万ドルの無償援助や財政支援を
失脚する一九九七年まで九三億ドルの援助を受けており、
大規模な経済危機の勃発した一九七五年からモブツ元帥が
最も顕著な例は、モブツのザイールであった。同国は、
使えないのであろうか。また、薬を配布するシステムに問
三〇ドルの援助を受けている。その一部を子どものために
景を説明すると、七億人のアフリカ人は一人あたり二〇~
薬が、三〇〇万人の子どもに行き渡らない現実がある。背
りもまず、忠実な僕である同盟国の「仕事」に報いるため
かにしていたモロッコ、エジプト、ソマリア、コートジヴォ
けられないために死亡しているという。一二セントの治療
「後 進 国 」 あ る い は「低 開 発 国 」( underdeveloped
ワール、ガボン、ケニアなどは多くの援助を享受した。
受けていたのである。そのうちの五〇億ドルがモブツ大統
る物となっているのである。
り、最終的な弱者にいきわたるときには、その額は微々た
とに届くまでに、さまざまなアクターが関与するものであ
題があるのであろうか ( Easterly 2006 : 3 - )
。援助という
25
の は、 ま さ に そ う い う 側 面 を 有 し て お り、 最 底 辺 の 人 び
)
。こ
領 の 個 人 資 産 に 流 用 さ れ て い た ( Smith 2005 : 46 - 47
れが冷戦時代の援助の実態であったのである。
援助の効果
だ不確かである。援助の効果は開発指標に現れるものであ
)
。援助が開発に貢献しているか否かの議論が
2006 : 3 - 25
あるが、援助量の増加と経済成長の関係は統計的にはいま
とドナー諸国、国民と被援助国政府の対話があろうとも、
家の支出の大半を援助に依存することにより、いかに国民
への依存度を高め「依存症」が悪化する可能性もある。国
度そのものを強化するインセンティブを欠き、国家の援助
はたして、援助額の増大は、経済成長につながるもので
ろうか。援助の効果をどのようにはかるのか。もしこれほ
ドナー諸国を満足させるような支出が多くなることは避け
ア フ リ カ に は 二 兆 ド ル か ら 三 兆 ド ル が 援 助 と し て、 こ
ど大きな投資、資源の移転が限られた効果しかあげられな
られないであろう。さらに、現在議論されているような大
あろうか。援助が大幅に増加することにより、アフリカ諸
かったとすれば、援助プロジェクトの選択も含めた援助側
幅な援助が供与されることになっても、MDGsの目標で
ウ ィ リ ア ム・ イ ー ス タ リ ー に よ れ ば、 援 助 は 機 能 し て
性にも疑義を呈さざるをえない。また、一体いつまでこの
ある二〇一五年以降にも続くものであろうか、援助の持続
国は税金による増収を図ることなく、徴税を含め国家の制
と援助の受け取り側に大きな問題があったと考えることが
れ ま で の 四 〇 年 間 に 供 与 さ れ て い る と さ れ る ( Easterly
できる。
)
。アフリカでは毎年
い な い と い う ( Easterly 2006 : 3 - 25
238
239 アフリカ問題と日本
*
様な分野に行われ、それぞれの分野での成果物は必ずしも
積極的な関連を見出せないとしている。しかし、援助は多
いない。最近でも世銀やIMF職員による論文は、両者に
)
。
のであろうか ( Moss and Arvind Subramanian 2005
援助と経済成長の関連については、いまだに結論は出て
ラクチャーや組織の維持管理の費用の財源はどこに求める
めないとしたならば、援助で作られた膨大なインフラスト
わる税収をもたらすほどの開発は、今までの経験からも望
諸国は援助を供与してきたが、どの分野が成長したのであ
供するのが援助であろうか。四〇年以上にわたり、ドナー
て、トレンドや廃れがみられる。さて、足りないものを提
におけるドナー諸国側の開発理論、国民の関心などによっ
ない。援助の供与の方法や対象分野については、国際社会
るという考え方である。この基本原則は今でも変わってい
が、援助は基本的には、インフラを整備し、途上国に不足
助が当該国の経済開発を主目的といえるものではなかった
カへの援助は一九七〇年代に始まった。冷戦下における援
始まり、次第に円借款による資金の提供と発展し、アフリ
数量的、貨幣価値ではかられるものでもなく、たとえ、代
ろうか。
状況を続けていくのだろうか。二〇一五年までに援助にか
替変数を使っても各プロジェクトやプログラムの成果を
足りないものを満たすという援助には、大きな問題が隠
援助の問題点
している資金、技術、人材を供与すれば、開発が達成され
生 む ま で の 熟 成 期 間 が お お い に 異 な る わ け で あ り、 援 助
生 産 的 な 努 力 に は 思 え な い。 も ち ろ ん、 援 助 が 先 進 国 の
全 体 と 経 済 開 発 の 間 の 有 機 的 な 関 係 性 を 求 め る こ と は、
税 金 を 使 っ て い る か ぎ り、 納 税 者 へ の 説 明 責 任 が 生 じ る
て説明されてきた。旱魃による食糧危機、感染症の流行で
「援助は発展途上国自身の自助努力に対する支援」とし
る。
ア諸国への役務提供を中心とした技術協力が一九五四年に
えられた。日本の援助は、戦後賠償の枠組みで、東南アジ
を補充するものであった。その後、技術、人材の供与が加
から始まる「援助」は、被ドナー諸国の不足している資金
)
。
Tarp 2001 ; Roodman 2004ゲ
; スト 2008 : 170 - 172
戦後のヨーロッパの復興を目的とするマーシャルプラン
的傲慢である。国際的な援助機関の基本方針は、ドナー諸
が援助される側に対して開発を指導できるという誤った知
途上国の同化を求めてきた。根底にあるのは、援助する側
するとの態度をもって接してきた。先進国はその近代化に
民地時代の歴史から、優越意識をもって、アフリカを指導
整備への手助けを行っていくような援助を考えるべきであ
している魚を与えるのではなく、魚の釣り方、船や港湾の
いから発展途上国なのである。よく言われるように、不足
国は開発のための不足している諸条件を自力で獲得できな
という根本的な問題に答えていないことである。発展途上
されていると考える。まず、開発のプロセスは、足りない
医薬品不足、インフラストラクチャーの不備で貿易が機能
国が大きな影響をもつ理事会で決定されている。西欧的な
が、別の評価と説明の仕方があるように思われる (
しないなど、その度に援助が供与されるならば、最悪の自
近代化の過程への同化が求められ、ドナー諸国により牛耳
ものを補充することではないということである。足りない
体は避けられる。しかし、途上国は自らの改革で悲劇を避
Rajan
ける努力をしなくなるというケースがしばしばみられた。
られているのが実情である。アフリカの苦難に満ちた近代
技術、人、物、資金を供与することに、なぜそれらがない
援助が供与され続けるならば、自らの努力は必要なく、問
化の過程をまなび、その中から積極的な解決策を導き出そ
and Arvind Subramanian 2005 a; Easterly 2003 ; Henrik and
題は先送りにされる可能性も高い。援助があるために、積
うという姿勢に欠けている。
に従わなければならないとの先入観、政治的、経済的な圧
存しなければならないという依存症により、先進国の指導
の基礎である。アフリカは先進国の資金、技術、人材に依
のであった。民主化、市場経済の原則は、西欧的な近代化
的イニシアティブは、西欧の近代化の過程を基盤としたも
してきた。しかし、これまでの多くのアフリカ開発の国際
NEPADにいたるまで、独自の開発計画を国際社会に示
アフリカは一九八〇年のラゴス行動計画をはじめとして
助においては、その策定から実施にいたるまで、アフリカ
フリカの開発はアフリカ人の責任であると謳いながら、援
るために行う援助であり、アフリカ人は傍観者である。ア
が、開発ビジネスの一環として、自分達の豊かさを共有す
体に利益を見出さない第三者、すなわち援助業界の関係者
援助機関かそこから請け負ったNGOなどである。開発自
しろ、援助事業を行っているのは、直接の受益者ではない、
対する援助をみると、プロジェクトにしろ、プログラムに
押し付けられた行動であってはならない。今のアフリカに
井の人びと自身でなくてはならない。外部から与えられた
開発の主たるアクターは、アフリカおよびアフリカの市
極的に問題を自ら克服する努力を怠るという可能性もある
力に押されて、先進国の作成した計画からプロジェクトま
のである。これこそが依存症の結果である。
でを容易に受け入れてしまった。それがアフリカに適応す
人は脇役に置かれている。援助の策定段階から、アフリカ
政府および直接の裨益者である市井の人びとの対話を推し
るのかどうかを検証することもせずに。
他方で、先進国側には根底にその開発と発展の経験と植
240
241 アフリカ問題と日本
においては、重債務国の世銀、IMFへの債務の帳消しが
ミットメントがなされた。サミットに先立つG7蔵相会議
のG8サミットの議題となり、政府開発援助への新たなコ
会を組織し、その報告書はグレンイーグルスの二〇〇五年
二〇〇四年には英国はブレアー首相直属のアフリカ委員
国際社会における対アフリカ援助増額ブーム
際に、米国はテロ対策の一環で対アフリカ援助を増額させ
う資源獲得への強い関心の反映であるように思われる。実
の依存度が近い将来総供給の二五パーセントに達するとい
アフリカ重視の理由ではあるが、アフリカの石油への米国
一一テロ攻撃以降の米国の世界の治安に対する強い関心も
にとっての重要性を強調する報告書を発表している。九・
先立って、米国の権威あるシンクタンクがアフリカの米国
進めていくべきなのである。
決定され、二〇〇五年の国連特別首脳会議においてはMD
ているが、赤道ギニアなどの新規産油国に対しては莫大な
)
。
Millennium Project 2005 ; Commission for Africa 2005
二〇〇四年の米国、シーアイランドにおけるG8会合に
Gsのレビューが行われた。国連はミレニアム・プロジェ
投資と援助を行っている。
でさらに二五〇億ドルの増加を勧めている。ミレニアム・
援助の年二五〇億ドルの追加的拠出、その後二〇一五年ま
ている。アフリカ委員会報告書は二〇一〇年まで政府開発
のうち二五〇億ドルがアフリカに供与されることを約束し
G8では五年間で四八〇億ドルの政府開発援助の増加、そ
所在、解決への政策提言を含む膨大な報告書を提出した。
二〇〇〇年の沖縄サミットから、アフリカの首脳とG8首
さ に 様 変 わ り で あ る。 ア フ リ カ は N E P A D を 発 表 し、
)
。
るべきことを指摘している ( CSIS 2004 ; CFR 2004 ; 2005
九 〇 年 代 初 頭 の ア フ リ カ へ の「援 助 疲 れ 」 の こ ろ と は ま
の ほ か に も テ ロ 対 策、 民 主 化 も 米 国 の 強 い 関 心 事 項 で あ
いる。資源、とくに石油の重要性があげられているが、そ
新たな報告書を発表し、アフリカ支援の重要性を強調して
二〇〇五年一二月にも、世界的なシンクタンクCFRは
クトとして、ジェフリー・サックスをヘッドとした多数の
プロジェクト報告書は二〇〇六年には少なくとも八五〇億
脳 と の 対 話 が 制 度 化 さ れ、 ア フ リ カ 支 援 が G 8 の 議 題 と
専門家によるMDGsの途上国における進捗状況、問題の
ドル、二〇一五年までにさらに六〇〇億ドルの追加を勧め
得が増え、購買力も増加し、消費が増える。家計所得の一
なったことは、アフリカ支援への世界的な世論を呼び起こ
部は貯蓄にまわり、投資の機会を増やす。家計所得が潤え
すうえで有効であった。アフリカの貧困の削減が世界的な
六〇年代に経済計画の策定による開発路線が広く受け入
ば、税金も増え、政府の歳入も増加し、その一部が公共投
て い る。 さ ら に 両 方 報 告 書 は 外 国 直 接 投 資 が ア フ リ カ 開
れられていたときに、開発に弾みをつけるために、一定の
が行われ、一人あたり資本蓄積と国民所得が増加し、経済
発 の 主 役 と な ら な け れ ば な ら な い と し、 政 府 開 発 援 助 を
限 界 線 を こ え る 投 資 が 必 要 で あ る と の 議 論 が「ビ ッ グ・
が成長する。貧困の罠とは、成長しない経済を抱えている
関心を呼び起こしている。
)
」 と し て も て は や さ れ た。 そ の 限 界
プ ッ シ ュ ( Big Push
線 に つ い て は、 明 確 な 線 引 き は な か っ た が、 六 〇 年 代、
状態のことである。
超える外国投資としての資源の流入を期待している ( UN
七〇年代と大規模な灌漑事業や工業化が進められた。MD
)
」である。アフリカは「貧困の罠」に捉えられ
Big Push
ており、それからの脱出は政府開発援助の大幅な増加、債
資の大幅な増加を求めている。新しい「ビッグ・プッシュ
D、国際機関の報告書はすべて政府開発援助と外国直接投
計を直接に支援し、家計貯蓄を増やす。つぎに、現在のト
と主張する。まず、人道援助はBHN支援で貧困家庭の家
たり資本が増加し、経済が成長し、家計所得は豊かになる
サックスは、開発援助の大規模な増額によって、一人あ
資となる。その結果、人口増加分や減価償却分以上の投資
G s 報 告 書 と ア フ リ カ 委 員 会 報 告 書、 さ ら に は N E P A
(
一人あたり資本が増えることによって経済が成長し、貧困
レンドとなりつつある財政支援による援助で裨益国の国家
国連ミレニアム・プロジェクトのリーダーであるジェフ
から脱出するとサックスは説く ( Sachs 2005
)
。はたして、
本当にビッグ・プッシュだけで、アフリカの開発は可能な
務の帳消し、外国直接投資、輸出市場の開放が必要とされ
リー・サックス教授は「
『グッド・ガバナンス』だけでは、
のであろうか。
財政を支援し、公共投資の機会を増やす。援助資金も民間
ビッグ・プッシュを引き起こすことはできないし、貧困の
一朝一夕に解決できるものとは思われない。しばしば要求
投資を増やす。こうして全体の投資が増え、資金が循環し、
罠に陥ってしまう」とアフリカの開発にはグッド・ガバナ
される「アフリカのためのマーシャル・プラン」ではサブ
ている。さらに、現在の援助のあり方の変更を要請してい
)
。サックスに
ン ス で は 不 十 分 で あ る と 説 く ( Sachs 2005
よれば、
途上国は開発援助のビッグ・プッシュによって「貧
る。
困の罠」に陥った状態から脱することが可能であると説明
サハラ・アフリカ諸国の問題を解決することは現実的に不
可能である。アフリカは一九九六年にGNPの一三パーセ
サックスが言っているように新たなビッグ・プッシュで
する。
古典的な経済成長理論では、経済が成長すると、家計所
242
243 アフリカ問題と日本
ランスとドイツが「マーシャル・プラン」で受け取った援
ントを開発援助という形で受け取っているのに対して、フ
え て き た。 結 果、 多 く の 低 所 得 国 が、「援 助 依 存 症 」( aid
ト以上押し上げている。援助無しでは、アフリカは厳しい
を割いた。本章では、日本とアフリカの関係を簡潔に鳥瞰
前章では、アフリカ問題、とりわけ開発の問題にページ
Ⅱ 日本とアフリカの関係
*
)
。
れてしまったのである ( Van de Walle 2005
の能
ロセスにおける現場のオーナーシップや self-reliance
力や制度上のキャパシティの自発的な誕生の機会が侵食さ
)に苦しんでいった。援助依存症においては、
dependency
大量の援助およびドナーのプロジェクトによって、開発プ
助額は当時のGNPの二・五パーセントにすぎなかったの
当然のことながら、MDGs報告書とアフリカ委員会報
である。
告書は現在の援助のあり方を批判している一方で援助の増
加が開発につながるとの立場をとっている。アフリカ委員
会報告書は「多くの調査では、財政・プログラム支援、イ
ンフラストラクチャー、農業、その他の生産的部門への支
低落を経験することになったであろう。援助が効果的であ
したうえで、現在の地球規模の課題となっているアフリカ
援の短期的なインパクトは、アフリカの成長を一パーセン
るという観察は、各国の状況に大きく左右されないが、よ
問題への日本の対応を整理・分析することを目的とする。
1 黎明期
い政策、
制度、
ガバナンスのある国ではより効果的である」
)
。
と指摘している ( Commission for Africa 2005 : 300
開発援助は途上国の国家体制を支え、同時にその国家を
日本とアフリカとの交流は、一六世紀に遡る。イタリア
弱 い ま ま に し、 開 発 を 先 に 進 め る こ と を 不 可 能 に し て し
まったのであると現在では多くの研究者が同意している
き て お り、 そ の 黒 人 従 者 を 織 田 信 長 が 気 に 入 り、 黒 人 従
を訪問している。当時の日本人は、素朴な好奇心から「ア
それから三〇〇年後に万延元年の遣米使節団が、アフリカ
これまでに多くの資源を腐敗しかつ能力を欠く国家に与
事態になった。結局は破談となったが、アラヤ公と黒田子
ラヤ公)が日本人女性を気に入り、花嫁を募集するという
二年後には、ヘルイ一行に同行したエチオピアの皇族 (ア
3)
-。
9 ま た、 日 本 人 と し て、 最 初 に ア フ リ カ 大 陸 に 足 を
踏み入れたのは、天正遣欧使節団の四名であったとされる。
2005 :
人宣教師ヴァリニャーノが上洛した際に黒人従者を連れて
( Van de Walle 2005 : 38 - 39
)
。 す な わ ち、 結 局 は 途 上 国 の
為政者と援助業界の人びとを潤おしたにすぎなかったので
者「彌介」として本能寺に招き入れたという (藤田
フリカ」および「黒坊」を見てたんに驚いていたようであ
爵の令嬢黒田雅子との婚姻話は当時の日本では大きな話題
ドナー諸国は、いかなる制度改革も強要することなく、
ある。
る。蔑視の感情があったかどうかは確かではない。しかし、
となった (藤田
)
。
2005 : 178 - 209
江戸期になると中国からの文献などの影響で、次第に奴隷
として扱われる黒人への蔑視の感情が芽生えていった。江
リカに触れるようになると、次第に欧州のフィルターを通
(青木 2000 : 4)
-。
6
明治維新以降、欧州からの間接的な情報を通して、アフ
の四ヵ国のみであったが、「アフリカの年」と呼ばれたあ
独立国は、エジプト、エチオピア、南アフリカ、リベリア
第二次世界大戦が終了した一九四五年には、アフリカの
2 日本の対アフリカ外交とTICADプロセス
したアフリカ観が形成される。日清戦争、日露戦争に勝利
の一九六〇年には一七の植民地が欧州列強より独立した。
戸時代末期には、マダガスカル人殺害事件も起こっている
し、第一次大戦にも参戦した日本の勇ましさがアフリカの
戦後の日本とアフリカの関係は、この「アフリカの年」
その「アフリカの年」から早くも五〇年近くが経過した。
以降に開始したが、深い関係にあったとは言いがたいもの
現 在、 ア フ リ カ 大 陸 に は 五 三 の 独 立 し た 主 権 国 家 が 存 在
同年、外務省の調査団もエチオピアを含む東部アフリカ諸
であった。当時のアフリカ大陸における日本の大使館は、
関心を引くようになる。とくに、欧州列強に抵抗し続けた
国 を 訪 問 す る。 一 九 三 〇 年 の ラ ス・ タ フ ァ リ の 戴 冠 式 に
、エチオピア、ナイジェリア、
エジプト (当時はアラブ連合)
エチオピアとの交流がさかんになっていった。一九二七年
は、日本の代表が参加している。一九三一年に、日本への
コンゴ、ガーナの五館のみで、南アフリカ、ケニアとモロッ
し、実に国連加盟国の四分の一以上を占めた存在となって
答礼として、ヘルイ外相一行が国賓として来日するとエチ
に、武者小路公共駐ルーマニア公使が、アディス・アベバ
オピア・ブームが起こった。ヘルイは、帰国後、日本の印
コに領事館、スーダンに公使館が設置されていたにすぎな
いる。
象を綴った『大日本』という本を著した。同書は、アフリ
かった。館員も三~五人程度で、きわめて小規模の公館で
を訪れ、摂政のラス・タファリと修好通商条約を結んだ。
カ人による最初の「日本」および「日本人論」であった。
244
245 アフリカ問題と日本
*
時期における日本の対アフリカ政策は、きわめて消極的な
こうしたことからみられるように、アフリカ諸国の独立
く、経済協力、すなわち二国間ODAで、とりわけ技術協
日 本 の 対 ア フ リ カ 政 策 の ツ ー ル は、 貿 易・ 投 資 で は な
一九七九年七月の園田外相のアフリカ訪問以降であった。
この時期よりさらに変化をみせ、より本格的になるのは、
する危機感から、アフリカに関心を示したものであった。
ものであった。小規模の技術協力がある程度であった。他
あった。
方で、総合商社をはじめとした民間レベルでのアフリカの
一 九 八 〇 年 代 前 半 は、 ア フ リ カ で は 旱 魃 が 猛 威 を 振 る
力と無償資金協力が中心であった。一九八〇年代に、バイ
い、一九八四年には多くの難民や国内避難民を生じせしめ
関係は、政府の対応よりはより活気があったものの、あく
くは繊維製品で、すぐに日本の輸出超過が目立つこととな
た。 こ う し た 深 刻 な 危 機 に 対 し て、 日 本 は い ち 早 く 反 応
のODAを中心とする対アフリカ向け援助を急激に拡大
り、片貿易としての貿易摩擦の兆候が現れた。ナイジェリ
し、食糧関係の緊急援助を行った。一九八四年一一月には
し、アフリカのシェアは全体の一〇パーセントを維持する
アは、一九六三年には、日本からの繊維製品の輸入をライ
安倍外相が、ザンビア、エチオピア、エジプトを訪問する。
まで繊維製品などの輸出市場としてアフリカを捉えられて
セ ン ス 製 に 切 り 替 え、 対 日 輸 入 制 限 に 踏 み 切 っ た。 こ う
安倍外相は帰国後もアフリカ支援の必要性を訴えた。同年
いた。このなかには、便宜置籍船制度をおくリベリアに対
した商社の貿易による輸出超過の片貿易に対するアフリ
ようになっていった。
カ の 不 満 に 対 応 す る た め に、 日 本 政 府 は 円 借 款 の 供 与 を
に「アフリカ月間」が開催された。他方で、ジェームス・
する船舶輸出も多く含まれていた。日本からの輸出品の多
一九六〇年代なかばに開始したにすぎなかった。戦後賠償
グラントUNICEF事務局長の毛布二〇〇万枚の緊急支
明し、官民合同の支援活動として、森繁久彌氏を会長とし
によるヒモつき援助で、官民が積極的に進出して行ったア
た「ア フ リ カ へ 毛 布 を 送 る 会 」 が 発 足 し、 日 本 全 国 か ら
援の呼びかけに呼応し、日本は一〇〇万枚の毛布援助を表
こうした状況の変化の兆しをみるには、一九七四年一〇
一七一万枚以上の毛布が寄せられ、エチオピアをはじめと
ジアの状況とは様相を異にしていた。
月三一日から一一月九日にかけての木村俊夫外相のアフリ
するアフリカの国々へ届けられた。このように、「アフリ
発援助 (ODA)中期目標を策定して以降、一九八一年に
経済協力に関しては、日本は一九七八年に第一次政府開
)
。これは前年の石油ショックによる資源に対
1994 : 80 - 96
ような成果を得られず、世界経済からの疎外化に危機感を
まな開発イニシアティブにコミットしてきていたが、思う
た。アフリカ諸国自身もECAのラゴス計画以降、さまざ
カへ毛布を送る運動」も大きな盛り上がりをみせた。
*
ニア、エジプト)まで、待たなければならなかった (小田
カ 五 ヵ 国 訪 問 (ガ ー ナ、 ナ イ ジ ェ リ ア、 ザ イ ー ル、 タ ン ザ
第二次中期目標、一九八五年に第三次中期目標、一九八八
募らせていた。
こうしたアフリカを取り巻く国際環境と日本の経済協力
門にも大きな影響を与え、
貧困層の増加に苦しんでいった。
年」と形容されるほどの長期的な経済停滞に陥り、社会部
一方、アフリカ諸国は、一九八〇年代は「失われた一〇
ク ナ マ ラ 元 世 銀 総 裁 を 通 じ て、 マ ク ナ マ ラ が 創 始 者 の 一
ぎつけたものであった。同代表部は、同時に国連本部やマ
代表部が、一九八九年以降外務本省に働きかけて実現に漕
のは、在ニューヨークの国連日本政府代表部であった。同
国際会議を開催するというアイディアを最初に考え出した
政策環境の変化のなかで、アフリカの開発問題に対処する
八〇年代後半以降、多くのアフリカ諸国は政治的には、民
形成された。こうして、九一年五月、アフリカ開発会議を
主化への舵を取り、経済的には世銀・IMF主導の構造調
九三年に開催する方針を打ち出し、九一年九月の国連総会
整政策を取り入れ、ネオ・リベラルな市場経済メカニズム
欧米の主要ドナー諸国は、冷戦構造のなかで政治の道具
における「アフリカ経済復興と開発のための国連行動計画
(G C A )
、在 ニ ュ ー
人 で あ る Global Coalition for Africa
ヨークのアフリカ諸国の国連代表にも働きかけて、アフリ
として行われていた対アフリカ向けの経済協力を、冷戦構
(一九八六―一九九〇 )
」の特別委員会の場で、一九九三年
カ開発に関する共同の国際会議の開催という枠組みが合意
造の崩壊を理由に、大幅に減少させ、中東欧諸国への関心
を取り入れていったが、希望された成果を得ることはでき
を高め、相対的にアフリカに対する関心を低下させ、アフ
秋のアフリカ開発会議の開催を発表した。
フリカのマージナル化に拍車がかかっていく状況にあっ
わゆる「援助疲れ」という現象をみせていき、結果的にア
という状況で、援助に対する国民世論の関心も低下し、い
諸国は、長期にわたる援助にもかかわらず成果がみえない
あったが、その裏の目的としては、アフリカ開発へのイニ
からみられるように、アフリカ開発が表向きのテーマでは
国連日本政府代表部からのアイディアが発端であったこと
このTICAD開催のイニシアティブが、八〇年代末の
*
リカ諸国からは財政的な撤退を図っていった。また、欧米
なかった。
て世界最大の援助供与国となっていた。
を図り続け、一九八九年にはODA支出純額が米国を抜い
年六月に第四次中期目標と夫々策定してODAの量的拡大
**
246
247 アフリカ問題と日本
**
とは一線を画する。TICADは厳密には日本が主導する
ランス首脳会議)および「フランス語圏諸国首脳会議」等
好関係を強化し、国連における責任ある地位の獲得という
「日・アフリカ会議」ではなく、日本のイニシアティブの
シアティブを発揮することによって、アフリカ諸国との友
側面があったのである。とりわけ、当初は国連安保理非常
もとで日本と国際機関とが共催する会議ということになっ
問題に対する関心が低下し、「援助疲れ」が叫ばれていた
マとする国際会議となっていった。冷戦終結後、アフリカ
(二 〇 〇 〇 年 よ り )と 共 同 で 開 催 す る ア フ リ カ 開 発 を テ ー
起しつつ、「オーナーシップ」と「パートナーシップ」の
られるように、日本政府は、アフリカ問題への関心を再喚
た「アフリカ開発に関する東京宣言」でのメッセージにみ
TICADⅠでは、細川総理の基調演説および採択され
ている。
なかで、日本が独自のイニシアティブを発揮し、九三年に
開発哲学の提唱、アジア・アフリカ協力の推進を提唱した。
T I C A D は、 日 本 が 主 導 し、 国 連、 U N D P、 世 銀
任理事国入りのための選挙用のツールのひとつでもあった。
開催したものである。TICADは、東西冷戦構造から開
TICADⅠの意義は、大きく分けて二つある。まず、
議」
「フランス・アフリカ首脳会議」(現在はアフリカ・フ
フ ラ ン ス が そ れ ぞ れ 定 期 的 に 行 っ て い る「英 連 邦 首 脳 会
A D は、 ア フ リ カ 大 陸 の 二 大 旧 宗 主 国 で あ る イ ギ リ ス と
ナーを巻き込む形で開催されている。その意味で、TIC
と い う 形 式 に な っ て お り、 い わ ば 国 際 社 会 の 開 発 パ ー ト
、世界銀行との共催
連 (U N / O S C A L お よ び U N D P )
でありながら、日本政府単独の主催ではなく、GCA、国
リティである。TICADは、日本独自のイニシアティブ
アフリカ開発問題を議論するというのがTICADのモダ
らず、ドナー諸国およびアジア諸国の代表が日本において
日本政府、アフリカ各国の代表、国際機関の代表のみな
プローチ)として、①協調の強化、②地域的な協力と統合、
択する」とされ、「パートナーシップ」の強化の必要性が
プの強化に役立つことを期待しつつ、この宣言を厳粛に採
可能な開発に向けて、現れつつある新たなパートナーシッ
力およびアフリカの開発パートナーの支援にもとづく持続
調である。東京宣言の前置きでは「アフリカ諸国の自助努
現とともにアフリカによる開発の「オーナーシップ」の強
に注目すべき第二の意義は、「開発パートナー」という表
への議論が高まる契機となったことである。さらに、つぎ
る。これは、その後のG8や国連等の国際場裡でアフリカ
フリカ開発問題の重要性を国際社会に再喚起したことであ
本のイニシアティブにより、国連などを巻き込む形で、ア
最大の意義は、冷戦構造崩壊後の新たな世界のなかで、日
発問題およびアフリカ問題を解き放ち、アフリカへの国際
言 及 さ れ た。 こ れ は ア フ リ カ の 開 発 は ア フ リ カ 人 の 手 に
ティ・ビルディング、②女性の社会・経済参画、③環境の
③南南協力、共通課題 (横断的テーマ)として①キャパシ
的な関心喚起に大きな貢献を果たした。
よって行われ、その自助努力に開発パートナーは支援すべ
保全を示した。
*
きであるという主張であった。これは、画期的な問題提起
であり、これこそが、その後のTICADプロセスを支え
概念として取り入れられていく。実際に、日本は、この面
と partnership
という二つの原
そ の 後、 こ の ownership
則を基盤とした理念は、DACの「新開発戦略」の中心的
CADⅡは、ODA予算が減少傾向に移る初年度に開催さ
年をピークに一九九八年以降の漸減を余儀なくされ、TI
る時期での開催となった。事実、日本のODAは一九九七
動きが顕在化し、ODAも「量から質への転換」を迫られ
しかし、経済協力政策においては、バブル経済崩壊後の
で の 先 進 国 間 の 共 通 の 戦 略 を 作 り 出 す た め に、 O E C D
れたものであった。
る理念となっていったのである。
におけるコンセンサスの形成にも積極的に努力し、その結
TICADⅡが提示した重要点は三つある。まずは、ア
長引く日本経済の停滞を背景にODAの量的拡大を見直す
果、OECDによる一九九六年「新開発戦略」の採択に主
導的役割を果たした。
「新開発戦略」の多くの部分は、M
は、TICADで示されている開発目標が、ワシントン・
フリカ開発のための達成すべき具体的な数値目標を掲げた
コンセンサスにもとづく開発イニシアティブおよび構造調
ことである。第二は、民間セクターを含め経済開発に関す
一九九八年に行われたTICADⅡでは、五年前のTI
整政策などとは一線を画することを意味している。最後の
にも継承されている。さらに、
DGs(ミレニアム開発目標)
CADで採択された「東京宣言」からさらに踏み込み、ア
重要点は、アフリカ開発の推進の新たな方策としての、ア
一九九七年には世銀のCDF (包括的開発枠組み)の策定
フリカ開発への行動指向型の支援策やクライテリアを盛り
ジアの発展に学ぶ南南協力の強調である。ここにアジアの
る政府の積極的な関与を積極的に奨励した点である。これ
込んだ「東京行動計画」を採択した。同行動計画は二一世
一員としての日本のアフリカ開発政策の独自性を見出すこ
にも日本は積極的にイニシアティブを発揮した。
紀のアフリカ開発に向けて、「貧困削減と世界経済へのア
TICADⅡ以降のアフリカと日本を取り巻く環境は世
とができるからである。
フリカの統合」を主題とし、より戦略的な指針となった。
オーナーシップとパートナーシップという基本原則を設
定し、アフリカ開発を効果的に進めるための基本姿勢 (ア
248
249 アフリカ問題と日本
**
(アンゴラ、リベリア、シエラ・レオネ、ルワンダ、ブルン
フリカ諸国では、一九九〇年代に頻発した多くの武力紛争
また、二〇〇一年初頭に森喜朗内閣総理大臣が現職の総理
トで議論するという慣例は日本が先鞭をつけたのである。
ることは定例化している。つまり、アフリカ問題をサミッ
の場でアフリカのリーダーを呼び、アフリカ問題を議論す
諸国の首脳を招待し、アフリカ問題を議論した。以来G8
ディ、コンゴ民主共和国(旧ザイール)
、コンゴ共和国など)
紀をはさんでさらに大きく変化した。二一世紀を迎えたア
が 次 第 に 収 斂 し て い っ た。 ア フ リ カ 諸 国 自 身 は 二 〇 〇 一
としてはじめてサブサハラ・アフリカ諸国 (南アフリカ、
こうしたなかで二〇〇三年にTICADⅢが開催され
年 以 来、 O A U (ア フ リ カ 統 一 機 構 )を A U (ア フ リ カ 連
た。TICADⅢでは、一九九三年からの一〇年を記念し
「ア フ リ カ 問 題 の 解 決
ナ イ ジ ェ リ ア、 ケ ニ ア )を 訪 問 し、
二〇〇〇年の国連ミレニアムサミットでのMDGsの採
て、「TICADⅢ一〇周年宣言」を採択、森議長による「議
なくして二一世紀の世界の安定と繁栄はない」との理念を
択、
「G8 アフリカ行動計画」の策定、二〇〇二年のWS
長サマリー」が発表された。また、そして「平和の定着」、
合 )に 改 組・ 発 展 さ せ、 史 上 初 の ア フ リ カ 諸 国 自 身 の イ
SDや二〇〇三年のエヴィアン・サミットなどでの議論な
「経済成長を通じた貧困削減」、および「人間中心の開発」
ニシアティブであるNEPAD (アフリカ開発のための新
どにもみられるように、国際社会におけるアフリカ問題へ
の三本柱を日本のアフリカ開発政策の支柱とした。TIC
掲げた。その理念にもとづき、日本はアフリカへのコミッ
の関心も年々高まっていった。九・一一テロ攻撃事件を背
ADⅢの意義は三点あった。第一の意義は、NEPADに
パートナーシップ)を採択し、
アフリカの問題に対してオー
景に、テロ対策の観点から米国も対アフリカ向け支援を急
対する支援を、国際社会全体を巻き込む形で打ち出せたこ
トメントを継続している。
増させ、
主要ドナー諸国もアフリカ向け援助を増額させた。
とにあった。
ナ ー シ ッ プ を 発 揮 し、 対 処 し よ う と し て い た。 他 方 で、
また、イラク戦争の影響で、ありとあらゆる場でアフリカ
TICADⅢの重要な要素は三つあった。ひとつは、T
開発がMDGsの達成、ODAの増額、債務の削減、貿易
障害の撤廃、外国投資の増加などとのコンテキストで議論
役割を果たしたといえる。しかし、政府の介入や役割を強
開発問題を扱う世界最大級の政策フォーラムとして大きな
よび国際社会のコンセンサスを獲得したことは、アフリカ
テーマについて、TICADⅢの場において、アフリカお
いて、サミット史上はじめて、枠外ではあるが、アフリカ
日本も、二〇〇〇年に行われた九州・沖縄サミットにお
フリカ争奪戦」が繰り広げられていたからである。また、
をはじめとした多くの諸国がアフリカに関心を抱き、「ア
たように、伝統的なドナー諸国のみならず、中国やインド
巻く状況はTICADⅢ以来、激変していた。冒頭に述べ
しいコンテキストのなかで行われた。アフリカ開発を取り
二〇〇八年五月に行われたTICADⅣは、まったく新
の国際社会の支持とパートナーシップの拡大という主要
NEPAD支援を打ち出したことであった。NEPADへ
ICADとしてアフリカ諸国自身のイニシアティブである
調しているTICADプロセスとネオ・リベラルな市場経
経済的には、多くのアフリカ諸国が歴史的な高水準での経
されている時期であった。
済主義に則っているNEPADは、概念的には相反するも
済成長率の上昇傾向を維持していく兆候を見せ始めてい
のであった。
二つ目は、日本が推進する「人間の安全保障」の概念の
り、人間が尊厳のある生活を送ることができるよう、政治
間の有する基本的な自由を護り、過酷な脅威から人間を守
ピーク時であった一九九七年の一兆二〇〇〇億円から四〇
め て 厳 し い 状 況 に 直 面 し て い た。 日 本 の O D A 予 算 は、
巻く環境は、深刻な財政赤字と財政再建政策の影響できわ
一方、日本のアフリカ政策の基軸である経済協力を取り
た。
的、社会的、経済的、軍事的、文化的なシステムを築くこ
パーセント減の七〇〇〇億円程度にまで落ち込んでいた。
アフリカ開発への導入である。「人間の安全保障」は、人
とである。国家の安全保障がこれまでの開発政策の中心に
り、かつては対アフリカ向け援助第二位グループに位置し
おかれたが、それを人間一人ひとりの安全保障に置き換え
ていたが、二〇〇三年以降は四位から五位の位置に甘んじ
日本の対アフリカ向けのODAも横ばいか減少傾向にあ
最後は、これまでのTICADプロセスにおける三大優
ており、アフリカにおける日本の存在感は年々薄れている
るという画期的な提案であった。
②経済開発〔民間セクター・工業・農業開発、対外債務問題
先分野 (①社会開発〔教育、保健・医療、女性の参画など〕
通じた貧困の削減」
「平和の定着」という分かりやすい三
に対する支援のあり方を、
「人間中心の開発」「経済成長を
指して」というスローガンのもとで、アフリカの「明るい
政治経済的な好況ぶりを反映して、「元気なアフリカを目
こうしたなかで開催されたTICADⅣは、アフリカの
状況にあった。
本柱に整理して、より明確な形にして国際的に表明したこ
兆し」を後押しするものであると同時に、一五年前にTI
など〕③開発の基盤〔よい統治、紛争予防と紛争後の開発〕
)
とである。
250
251 アフリカ問題と日本
CADを開催した日本にとって、アフリカにおける日本の
存在感を再びアピールするための反撃の足がかりという重
ローアップ・メカニズム」が採択され、今後のフォローアッ
プやモニタリングのモダリティなどが明らかにされた。
つの文書が発出された。TICADⅣまでの五年間の実績
うための「TICADフォローアップ・メカニズム」の三
浜行動計画」
、TICADプロセスの実施状況の検証を行
ADプロセスの具体的取組を示すロードマップである「横
意思を示す「横浜宣言」
、同宣言にもとづき今後のTIC
今後のアフリカ開発の取り組み・方向性に関する政治的
勢」の足場を作ることができたことである。とくに、日本
アフリカの民間投資の倍増支援を発表し、正しく「反転攻
のために、二〇一二年までに対アフリカODAの倍増、対
の成果は、厳しい財政状況にもかかわらず、アフリカ開発
るコンセンサスが改めて得られたということである。第二
念にもとづき、アフリカの成長を国際社会全体で後押しす
きた「オーナーシップ」と「パートナーシップ」という概
リカ諸国より多くの元首クラスが参加し、日本が主張して
TICADⅣの成果は、四つある。最大の成果は、アフ
の平均値を基準とし、二〇一二年に対アフリカ向けODA
の民間セクターのアフリカにおける活動の促進とインフラ
要な役割も担っていた。
の総額を倍増するというものである。また、五年間で最大
て重要であった。第三の成果は、「横浜行動計画」の採択
四〇億ドルのインフラ整備のための円借を実施することを
により、MDGs達成に向けて、今後のTICADプロセ
整備への確固たるコミットメントがなされたことはきわめ
他方で、横浜行動計画はアフリカ開発の方向性および取
発表した。
り組みのための政治文書である横浜宣言に則り、①成長の
それをモニタリングする機関もなかったし、政府もその枠
スの具体的な行動指針を示すロードマップを明らかにした
組みで定期的に発表を行ったり、レビューをしたりするこ
、②MD
加速化 (インフラ、貿易・投資・観光、農業開発)
拡大 (官民連携、NGOや学界との連携)を主要テーマに、
とはなかった。このメカニズムの創設により、これまでの
ことである。最後は、TICADフォローアップ・メカニ
TICADⅣ後の五年間にとるべき行動指針と具体的数値
多岐にわたるイニシアティブの具体的な成果について関係
、③平和の定着・
Gs達成 (コミュニティ開発、教育、保健)
目標を明示したものとして採択された。また、TICAD
、東部アフリカ (ケニア、ウガンダ、エチオピア、タ
南ア)
ズムの創設である。これまでTICAD以来、さまざまな
プロセスの実施状況の検証を行うための「TICADフォ
ンザニア)
、西部アフリカ (ナイジェリア、ガーナ、セネガ
イニシアティブが発表され、実施に移されてきた。しかし、
当事者間で共有し、議論することができるようになり、T
ル、
コートジヴォワール、
カメルーン)を訪問した。正しく、
援)
、④環境・気候変動への対処、⑤パートナーシップの
ICADプロセスの透明性の向上に資することになるから
グ ッ ド・ ガ バ ナ ン ス (平 和 構 築、 紛 争 予 防、 人 道・ 復 興 支
である。TICADⅣは、結果やアウトカムを重視したと
政官民が一体となってオールジャパンでアフリカとの民間
ても歓迎すべきことであった。このことは、アフリカ開発
議長国としてアフリカ問題の議論をリードした日本にとっ
るとの認識がG8メンバーのなかで共有された。これは、
る世論調査」においても、アフリカへの関心は相対的に高
投げかける。内閣府が毎年一〇月に実施する「外交に関す
メディアは「なぜ、今アフリカなのか」という疑問を必ず
アフリカ問題がクローズアップされると、日本のマス・
おわりに
する。
セクターレベルの経済関係の強化に乗り出したことを意味
いう点で、これまでの三度の会議とは異なっていた。
TICADⅣの結果をふまえて開催された二〇〇八年七
月 の 洞 爺 湖 サ ミ ッ ト で は、 T I C A D Ⅳ の ス ロ ー ガ ン で
あった「元気なアフリカ」の実現に向けては、アフリカの
成長とMDGs目標達成のためにインフラ整備、医療・保
健、水・衛生、教育分野での取組の強化、食糧作物の生産
のためには、アフリカ諸国のオーナーシップとG8や国連
くはない。以前よりは、関心は高まっているものの、最近
量の倍増や農業支援、グッド・ガバナンスなどが重要であ
機関、ひいては国際社会全体を巻き込むというパートナー
の調査(二〇〇六年)でもだいたい六割くらいの人びとが、
ま た、 T I C A D Ⅳ の フ ォ ロ ー ア ッ プ の 枠 組 み で 外 務
リカに関心をもっており、九割近くの人が日本が積極的な
り方について」と題した世論調査では、約七割の人がアフ
ところが二〇〇六年七月に「今後の対アフリカ政策の在
「アフリカに対して親しみを感じていない」としている。
*
シップの重要性を冷戦構造崩壊直後から訴えてきた日本の
面目躍如であり、TICADⅣとG8を同年に開催すると
省、経済産業省、国土交通省、JICAやJBICなどの
役割を果たし、国際社会の信頼を得るべきであると答えて
いう僥倖を巧妙に利用した外交成果ともなった。
関連機関と六〇社以上の民間企業が参加する貿易投資促進
いる。一般的な日本国民の感情としては、親しみを感じる
*
合同ミッションが二〇〇八年八月末から九月下旬にかけ、
ほど近い存在ではないが、関心は有しており、日本が積極
252
253 アフリカ問題と日本
**
南 部 ア フ リ カ (ボ ツ ワ ナ、 モ ザ ン ビ ー ク、 マ ダ ガ ス カ ル、
**
アフリカ外交を展開していくべき理由としてさらに付け
加えるべきものは、二点ある。第四の理由は、「貧困」へ
的な役割を果たしていくことには同意しているということ
であろうか。これは世界的なアフリカ問題への意識の高ま
たりの所得にのみはかられるのではなく、より深刻な問題
の対応についてである。「貧困」とは一人あたりの一日あ
を包含する。そこでの「貧困」とは、選択の自由と自由そ
りと無関係ではない。
また、外務省のアフリカ関係者は、アフリカ支援の理由
る。 国 連 や 国 際 機 関 に お け る 各 種 選 挙 な ど が そ の 一 例 で
国際社会において実現することができるということであ
と、 こ れ に よ り 日 本 に と っ て 有 利 に な る よ う な ル ー ル を
リカ諸国との友好関係の促進により外交基盤を強化するこ
それを日本の国益として捉えることである。第二は、アフ
ことにより発言権を強化し、かつ信頼を得ること、そして
のために、国際社会の責任ある一員としての責務を果たす
第一は、国際社会の喫緊の課題であるアフリカ問題解決
賀田 2008 : 27 - 31
)
。その内訳としては、以下の三点に集約
されている。
フリカをたんなる援助供与先としてみるのではなく、援助
いくことも必要なのではないであろうか。また、日本はア
て、助けていくということを国際社会の場で堂々と訴えて
困」に喘ぐ遠い地域の人びとを日本として、同じ人間とし
るという側面をもっている。しかし、それだけでなく、「貧
援助はたしかに国益追求のツールであり、政治の道具であ
の人びとが人間としての尊厳に欠ける生活を送っている。
人間中心の援助に移ってきている。アフリカでは、四億人
を中核としてきた。援助の重点は国民国家の基盤造りから
日本の開発理念は、今日「貧困削減」「人間の安全保障」
に関する具体的な説明を試みている (大森
あ る。 九 〇 年 代 後 半 の 内 海 I T U 事 務 局 長 選 挙、 松 浦 U
する側と援助される側という固定観念から脱却して、重要
のものがないということである。
2005 : 40 - 56目
;
NESCO事務局長選挙、BIEの選挙 (愛知万博)およ
なパートナーとして捉える視点をもつべきであろう。
社会の信頼、ひいてはアフリカ諸国の信頼を勝ち取ること
ての重要性である。しかし、この三点だけで、日本は国際
た。第三は、経済的利益、とくにレアメタルの供給源とし
ことは認めざるをえない。経済的には世界第二位の国家で
にも、経済的にも、文化的にも、歴史的にも疎遠であった
答という点である。アフリカ大陸との日本と関係は政治的
んなるアジアの中規模国であるのかという問いに対する回
最後の理由は、日本がグローバル・パワーであるのかた
び二〇〇〇年以降の小和田国際司法裁判所判事選挙など、
はできるであろうか。
Dを経て、重要なキャリアパスのひとつである官房長官秘
アフリカ票によって助けられたケースは枚挙に暇がなかっ
ありながら、資源が乏しく、他の諸国との貿易によってし
議官 (小田野展丈、堂道秀明、河野雅治、小田部陽一、目賀
アフリカ審議官に任命されている。これまでにアフリカ審
交関係を他の地域や諸国と結んでいくべきなのであろう
田周一郎、木寺昌人)を務めた六人は、その後、それぞれ
書官職を過去に経験した者が二人 (河野雅治、木寺昌人)
、
か。まさに日本の外交戦略が問われているのである。「中
現EU大使)
、中東アフリカ局長 (その後駐イラン大使、現
儀 典 長 (そ の 後 ミ ャ ン マ ー 大 使、 T I C A D Ⅳ 担 当 大 使、
か、また、世界の繁栄と平和のなかにしか、わが国の繁栄
規模の高品質国家」として、世界中のさまざまな国々との
と平和を見出すことができない国家としては、いかなる外
パートナーシップを拡大しつつ、問題解決に積極的に取り
ら半独立する形で創設された。人員数は三四人と微増した
二〇〇一年にはアフリカ審議官組織が中近東アフリカ局か
省内における「アフリカ」の位置づけは大きく変わった。
で ア フ リ カ 各 国 を 訪 問 し て い る。 外 務 省 内 に お い て も、
連 が 誕 生 し、 議 連 の 議 員 は 毎 年 夏 に な る と チ ー ム を 組 ん
三度という実績である。議会に目を向ければ、日・AU議
高村の六回、総理のアフリカ訪問は、森、小泉 (二回)の
、 川 口、
リ カ 訪 問 は 木 村、 園 田、 安 倍、 池 田 (国 際 会 議 )
がアフリカを訪問するようになった。これまで外相のアフ
圧倒的に数は少ないが、総理や外相、また副大臣や政務官
位置づけも大きく変わった。まだ、欧米や中国と比べると
から、一五年が経過し、日本政府部内におけるアフリカの
日本の対アフリカ外交の基軸となったTICADの開催
ナ、マリ、マラウイ (二〇〇八年一月より)が開館し、今
の後押しもあって、増設される方向にある。すでにボツワ
らに、現在二四ヵ国の在アフリカの日本大使館も、政治家
の大使として任命された。これも画期的なことである。さ
リア外務官僚 (元人事課長の片上慶一など)が在アフリカ
があり、本省では中二階人事となる、将来有望な中堅のキャ
である。また、TICADⅣ以後、局長に昇進する可能性
TICAD以前にはまったく考えられなかった外務省人事
課長と上り詰めている行政官(石兼公博)も出てきている。
カ一課長を務めた後に官房長官秘書官、総理秘書官、総務
ではなかった。しかし、TICADプロセス以後、アフリ
および二課の課長のポストは、それ程重要なキャリアパス
局長にそれぞれ「昇進」している。かつてはアフリカ一課
、 駐 ペ ル ー 大 使、 国 際 協 力
経 済 局 長 (そ の 後 外 務 審 議 官 )
駐インド大使)
、 総 合 外 交 政 策 局 長 (そ の 後 外 務 審 議 官 )
、
だけでそれほど増えていないものの、アフリカ審議官組織
後モーリタニア、ブルキナファソ、ベナン、ルワンダと開
組んでいくことが、日本の正しい外交戦略であろう。
に優秀な行政官が異動するようになった。四回のTICA
254
255 アフリカ問題と日本
館予定で、二〇〇九年には三一の実館をもつことになる。
済学スウェーデン銀行賞とされ、厳密な意味でのノーベル賞
*5 「ノーベル経済学賞」は、アルフレッド・ノーベル記念経
* 「社会実績データ図録」( http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/
)
より。
ではない。
この政府内のアフリカに対する位置づけの大きな変化
が、一般国民にまで浸透していくまでには、まだまだ多く
の時間を要するであろうが、いずれは変わってくるであろ
う。世論調査にみられるように、一般国民もアフリカへの
支援とアフリカの繁栄が、アフリカのためだけではなく、
将来的にはアジアの一員である日本にも有益となってくる
という純粋な「情けは人のためならず」という発想に理解
を示し始めているからである。
◉注
*1 冷戦構造崩壊後に勃発した紛争としては、アンゴラ(冷
戦時代から続いていたが)、エチオピア・エリトリア、ギニア
ビサオ、コートジヴォワール、コンゴ共和国、コンゴ民主共
和国、シエラレオネ、ソマリア、チャド、中央アフリカ、ブ
ルンディ、モザンビーク、リベリア、ルワンダ、ダルフール
などである。
統領選挙はいまだに行われていない状況にあり、不安定な状
*2 紛争自体は、収斂しているが、紛争終結の象徴となる大
態が続いている。
ばアフリカ産のたこが全輸入の八三パーセントを占めるとい
*3 「たこ」や「カカオ」など。外務省のホームページによれ
と形容している。
”An Africa-in-the-world”
う。 http://www.mofa.go.jp/Mofaj/comment/faq/area/africa.
html
*4 ファーガソンは
◉参考文献
青木澄夫(
)『日本人のアフリカ発見』山川出版社。
2000
イースタリー、ウィリアム( 2003
)『エコノミスト 南の貧困と
闘う』小浜裕久・織井啓介・富田陽子訳、東洋経済新報社。
大森茂( 2005
)
「日本のアフリカ外交と今後の支援のあり方」
『国
際問題』二〇〇五年一一月、第五四八号、日本国際問題研究所。
小田英郎( 1994
)「日本のアフリカ政策」川端正久編『アフリカ
と日本』勁草書房。
片岡貞治( 2002
)「アフリカの『国家』の苦難とグッド・ガバナ
ンス」『サブサハラ・アフリカ諸国におけるガバナンス』日本
国際問題研究所。
)「TICADプロセスと日本の対アフリカ外交」(上)
――( 2008
(下)『海外事情』二〇〇八年九月号および一〇月号、拓殖大
学海外事情研究所。
*7 ロンドン在住のフランスの歴史学者シャバルがその代表
例であろう( Chabal and Daloz 1998 : 11 - 16 , 26 - )
。
30
実際に、「グッド・ガバナンス」という用語も、冷戦構造
崩壊後に、世銀によって使用され、広範に広まっていた。冷
*8
戦構造後の概念なのである。
リ カ 外 交 」(上 )(下 )『海 外 事 情 』 二 〇 〇 八 年 九 月 号 お よ び
*9 本稿は、片岡貞治「TICADプロセスと日本の対アフ
「ア フ リ カ へ 毛 布 を 送 る 会 」 の ホ ー ム ペ ー ジ( http://
一〇月号を大幅に加筆修正して作成した。
*
)より。
www.mofu.org/why.html
*
Africa’s
Priority Programme for Economic Recovery 1986 、のちに United Nations Programme of Action for
1990 (APPER)
Africa’s Economic Recovery and Development. (UN-PAAERD)
(1986)
* 外 務 省 ホ ー ム ペ ー ジ( http://www.mofa.go.jp/mofaj/ar)より。
ea/ticad/tc_senge.html
内閣府のホームページ( http://www 8 .cao.go.jp/survey/
*
)より。
index-gai.html
* 外務省のホームページ( http://www 8 .cao.go.jp/monitor/
)より。
kadai/ 1809 _afurika.pdf
二〇〇八年一月号、都市出版社。
and Beyond 2004 , NY.
―― (2005) More Than Humanitarianism: A Strategy U.S. Ap-
and Security :G 8 Partnership with Africa: Sea Island 2004
CFR (Council on Foreign Relations) ( 2004 ) Freedom, Prosperity
Chabal, Patrick and Jean-Pascal Daloz ( 1 9 9 8 ) Africa Works:
Disorder as Political instrument, Oxford Bloomington and In-
proach toward Africa, NY, December.
dianapolis: Indiana University Press.
the Commission for Africa.
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特集 3
─
日本に息づく
アフリカ
258
特集 3
―
日本に息づくアフリカ
中古自動車業を生きる滞日アフリカ人の生活動態
︱︱ カメルーン人の生活戦略と母国の政治社会状況
和崎春日
短 期・ 長 期 の 滞 在 に や っ て 来 て い る。 筆 者 が 東 京 の 繁 華
街、六本木や歌舞伎町で会ったアフリカ人の国籍は、ナイ
ジェリア、ガーナ、セネガル、ケニア、タンザニア、コン
リカ系アメリカ人ではなく、アフリカ人である。ナイジェ
の英語の発声を車内でよく耳にする。彼ら彼女らは、アフ
かといってイギリス英語でもない「アフリカ系」の人たち
の手線に乗っていても、明らかにアメリカ英語ではない、
今日、東京の埼京線や武蔵野線、中央線のみならず、山
身で日本に仕事にやってきている。富裕層や特権階級では
に、三〇歳代前後の未婚、既婚の人たちがまずほとんど単
エスタブリッシュした壮年老年層ではなく、若年層を中心
母国における家族の社会階層も特権階級ではない。世代も
も、彼ら彼女らは、外交官や企業エリートなどではなく、
ルキナファソ、ウガンダなど、多くの国々を数える。しか
はじめに
リアとガーナからが、日本に滞在するアフリカ人の第一位
ない一般的なアフリカ民衆が、多く日本にやってくる時代
ゴ民主共和国、カメルーン、ギニア、マリ、リベリア、ブ
人口と第二位人口を占めている。最近は、この二ヵ国ばか
になったのである。
ある。個人レベルと国家・国際レベルを結んでカメルーン
人の行動類型と大構造との関連性を分析・考察することで
*1
りではなく、多くのアフリカ人がさまざまな国から日本に
その一般的なアフリカ民衆が日本に来住したり短期・長
人のアフリカ―日本をつなぐ国際移動を考察する。
そこでまず、滞日カメルーン人が最近とみにこの業種に
期に滞在したりするその生活実態は、今日まで研究上まっ
そこで、筆者は二〇〇四年から「来住アフリカ人の相互扶
就労している中古自動車パーツ業の実態を掘り下げてみよ
たく手つかずで、
その生活動態を解明していく必要がある。
助と日本人との共生に関する都市人類学的研究」、そして
う。
人数上の量的多数性を持たず、来日の歴史も新しい滞日カ
ことによって、滞日のナイジェリア人やガーナ人のような
社会における生活動態を本稿で記述・考察する。そうする
保障して提出する身元保証書といってもよい。この身元保
)を受け取らねばならない。このレター
状( invitation letter
は、カメルーンにある在カメルーン日本大使館の領事部に
商売をしようとするものは、日本の会社や個人から、招待
まず、日本において、カメルーン人で自動車やパーツの
︱︱日本 で の買 い つ け か ら輸送、
カ メ ル ー ン で の販売 ま で
Ⅰ 中古自動車パーツ売買の実態
二〇〇七年から「滞日アフリカ人の生活戦略と日本社会に
*2
おける多民族共生に関する都市人類学的研究」という共同
研究を組織するにいたった。富裕層ではない「アフリカ一
般庶民の出稼ぎ」は、何を記述し描いても資料的な新規性
を持つ。そこで、ケニア人、タンザニア人、ウガンダ人と
いったかつて日本で目立った東アフリカの人たちでもな
く、
最近の滞日人口第一位と第二位のナイジェリア人、ガー
メルーン人でさえここまで日本社会特有の諸条件による生
ナ人でもない、日本社会には目新しいカメルーン人の日本
業の特色を認知し稼いでいるのかを示すことによって、日
証書を発行するのは、多くは、中古自動車や中古パーツを
や輸出業者である。ここには、カメルーン人で日本に来て
本社会へのアフリカ人全体の高い浸透度を描出することに
第二の目的は、来日するカメルーン人の生活上の営みの
中古自動車やパーツを購入してカメルーンへ輸入しようと
輸出する日本におけるその販売元の解体業者やヤード業者
旺盛さを、その人的属性から分析した場合、カメルーンの
する者の氏名や国籍、パスポート番号、住所、生年月日な
したい。これが、本稿の第一の目的である。
大きな社会政治構造とどのように連関するのか、その個々
260
261 中古自動車業を生きる滞日アフリカ人の生活動態
を遵守するよう監督すること」「当人が生活費および帰国
の活動をしないよう監督すること」「当人が日本国の法令
際に、日本側保証人が「そのカメルーン人が入国目的以外
社、貿易会社などが用意する。カメルーンと日本との中古
書類である。これらの書類を、日本側の海運会社や解体会
たる。海運会社が、その荷の中身の内容と重量を明記する
られていない。いわば日本政府による輸出入の許可証にあ
認めるもので、たとえば、中古の電池の輸出などは、認め
費を支払えない場合、負担すること」「いかなる場合も当
自動車をめぐる輸出入の開始は、西カメルーン英語圏に住
どが記されている。そして、大事な点は、日本に入国した
人の身元引受人になること」を保障する文章がしたためら
Shipping Documents
Bだと相対的に新しく近年のものであ
13
は、新車なら五〇〇万円ほどの値がす
HiLux
を要する、と一般カメルーン人業者たちは口をそろえる。
手厚いものだった。したがって、怪しい車売買には、注意
*3
相互協力は、搬送代金二〇〇万円を寄金として集めるなど
メルーン人協会と、これを構成する各カメルーン人たちの
亡くなったカメルーン人の遺体の搬送帰国にむける在日カ
自動車業者たちの反応は、厳しいものだった。もちろん、
件があった。こうした事件に対する一般カメルーン人中古
高架から飛び降りて一人が死亡一人が重症を負うという事
トカーに追跡され、東京から千葉の高速道路に逃げ込み、
二〇〇七年、盗難車を運転していたカメルーン人二人がパ
で極端な場合はタダなのだが、その分「身の危険」も増す。
られる。だから、こうした犯罪に関わる車はきわめて安価
と、盗難自体に関わっていなくとも、売買しただけで罰せ
という商品名で売られている。
は Toyota 4 Runner
ただ、いくら安価がいいといっても、盗難車に手をだす
は 人 気 が あ る 高 級 車 で、 カ メ ル ー ン で
で 売 っ た。 HiLux
でパーツ
カメルーンにあるトヨタ系会社 CamiTOYOTA
を六万CFAで購入し、これで修繕しておよそ二〇〇万円
を、 サ ミ ュ エ ル A は そ の 事
る。四年前に作られた HiLux
故経歴のため一五万円で購入した。カメルーンに輸送し、
級車トヨタ
車のような商品にも手を出す。カメルーンで人気のある高
然の戦略である。そのため、日本では安価に売られる事故
これにカメルーンに入国するときの課税も高い。たとえば
る。世界からの需要により、これだけの値段の差がでる。
と さ ら に 古 く、
一〇年経過 Dyna B型エンジンだと二〇万円もする。こ
のタイプは、汎用度が広く大きい。番号の意味は、 Bだ
日産の一〇年経過エンジンだと一万五千円だが、トヨタの
や、日本の中古車市場でのトヨタ人気によって、一般に、
と 売 切 状 態 に な る こ と も あ る。 カ メ ル ー ン 国 内 で の 需 要
なって二〜五年後くらいのときは品があるが、一〇年たつ
六〇万円くらいだが、市場の相場は同じではない。中古に
エ ン ジ ン 三 個 な ど の よ う に 変 更 す る 必 要 が あ る。 こ れ で
わからない。なければ適宜、トヨタのエンジン七個、三菱
二、必要なときも、日本に行ってみないとその流通状況が
た と え ば ト ヨ タ の エ ン ジ ン が 六 〇、三 菱 の エ ン ジ ン が
は、神戸の米田産業や名古屋の安西興業などが用意する。
本人との交流から始まるといわれる。サミュエルAの場合
むサミュエルA氏 (以下敬称略)のカメルーンにおける日
き、 さ ら に 必 要 書 類 と し て は、 ①
こうして日本に来てパーツなどを購入し搬出すると
。
れている (図1参照)
図1 身元保証書
②
③ Bill of Loading
の三つがある。この Bill of
Invoice
が最も重要な書類である。これは、日本国政府が
Loading
一四万CFA (二万五千円〜三万円)のエンジンだとカメ
ルーン入国時に三〇%の税率なので、四万二千CFAも税
金がかかる。この高い税率は、いまカメルーンの自動車業
界やタクシー、運輸業界でおおいに問題になっているとい
う。したがって、数に関しては、実際のエンジン数よりも
低いめに申告し、実際の台数の三分の一から四分の一くら
いに書いて税金負担を軽減する。もちろん虚偽申告が明ら
かになると罰せられるが、まずコンテナーの中身全体を詳
細にわたって逐一検査するということはきわめて稀である
この搬出用のコンテ
ナーには、二種類ある。
ひとつは二〇フィート・
コンテナーで二〇トン積
。も
め る (写 真 1 参 照 )
うひとつは四〇フィー
ト・コンテナーで三〇ト
ン積める。車は利益が大
きいが、スペースをとる。
したがって、日本で車を
安く買い、カメルーンで
高く売る、というのは当
14
15
262
263 中古自動車業を生きる滞日アフリカ人の生活動態
という。税関通過の際の個人的「手数料」が必要なときも
ある、という。
写真1 日本のヤードでコンテナーに積み込んでいる
ところ
カ メ ル ー ン で は、 ま だ 規 制 さ れ な い た め に、 し ば ら く は
メルーン人の中古車ディーラーは注視して認識している。
の高いエンジンなどのパーツをつめ、利益が最も高く出る
ディーゼル車やそのエンジンは売れる、と見込んでいるの
こうしてコンテナーには車三台程度入れ、さらに利益率
ようにバランスをとる。上述したように、汎用度の広いエ
である。
サミュエルの場合、三ヵ月ビザの期間の間に、商品とな
ンジンを多く積んだほうが得である。エンジンの広範囲利
る中古部品や自動車がまだ目標数集まっていないときは、
いったんシンガポールに出て五日間過ごし、再入国する。
、 Corolla
、 HiAce
タのガソリン用2Eエンジンは、 Carina
のエンジンとしても使える。ランドクルーザーのHZエン
フツ王国を研究している日本人研究者S教授のところに居
ルーン第三の都市バメンダ近くのバフツ王国だが、このバ
る関係地である。サミュエルのカメルーンの故郷は、カメ
シンガポールというのは、日本人との家族関係を資源とす
ジンは、さすがに強力で他車種との互換性がなく特別であ
候させてもらうことがよくある。S教授の妹氏一家が当時
のエンジン Bは、
用は、次のようになっている。
Dyna
にも使える。
の3Lエンジンは
他の車種
Coaster
HiAce
に 使 え る。 Corolla
の2Cエンジンとトヨ
HiLux
る。2Cなどのエンジン表記については、カメルーン人販
トヨタ
売者はもちろんカメルーン人購入者も知っている場合が多
シンガポールに在住で、この家族関係を頼って数日間、日
三ヵ月の観光ビザか可能なら二ヵ月の業務ビザを取得して
本 国 の 外 に 出 て 過 ご さ せ て も ら っ て い る。 そ し て ま た、
く、こうした表記でカメルーンで売られている (後述の表
また、ディーゼル・エンジンを買うかどうかも、判断が
2「カメルーンにおける自動車パーツ料金」参照)
。
後に止まるだろう、とこの規制の趨勢が出る以前にすでに
題のため、日本のディーゼル・エンジンの生産は二〜三年
考えていくかも、判断のしどころである。さらに、環境問
い。だが、そのガソリン燃費は安い。このバランスをどう
ン そ の も の は 高 い。 ト ヨ タ の デ ィ ー ゼ ル・ エ ン ジ ン は 高
業者JIFALからカメルーンまで海上輸送されたコンテ
春日部近辺にあるカメルーン人マリリン経営の解体・運送
送する代金がおよそ三〇万円前後である。ここに、埼玉県
フィート・コンテナーだと、この荷をつめて搬入し海上輸
の商品の汎用度と効率性は、大きなポイントである。二〇
上述のコンテナーで、限られた空間に搬入するので、こ
入国するのである。
サミュエルたちは話していた。日本の近年の交通規制動向
。
ナーの例を見てみよう (表1参照)
いる。日産を選んでエンジンを買えば安い。だが、ガソリ
とディーゼル・エンジンの値段の低下傾向についても、カ
20 ラジエーター
400,000
1,500
140
70 フューエルポンプ
800
30,000
56,000
60
30 ガスポンプ
700
21,000
50
25 オートファン
1,200
30,000
40
20 ライトセット
2,000
40,000
5 リアーアクセル
40,000
200,000
3 フロントアクセル
20,000
60,000
4,000
40
20 アーム
500
60,000
10,000
30
12 コンプレッサー(エンジン) 1,000
12,000
11
11 オルタネーター
400
28 ホーン
150
900
4,200
16
32 ジャック
400
12,800
30
40 ステアリングラグ
1,000
40,000
50
10 プロペラシャフト
1,800
18,000
100 ショックアブソーバー
750
75,000
6
24 イグゾーストネット
250
6,000
74
37 イグゾーストポット
500
18,500
48 ブレーキマスターポンプ
800
38,400
7
200
148
500
3,000
5 ノーズカット
5,000
25,000
375
5 ギアボックス
15,000
75,000
35
27 カーステレオ
5,000
135,000
60
6 バンパー
75
2,500,900
合計
280,000
輸送代金
21,600
600
36 ディストリビューター
9
2,220,900
844 ヤードでの料金
9,006
15 ドア
150
量
重量
4,400
ジン、アクセル、ギアといった動力に関するパーツがやは
2,000
これは、二〇フィート・コンテナーにどういう物品を入
200 リフトスプリング
り 一 万 円 以 上 の 値 段 が す る。 バ ン パ ー や シ ョ ッ ク・ ア ブ
255,000
1,600
ソーバーなど一千円に満たない何百円という部品も一一品
600,000
45,000
れて輸送したかを調べたものである。この場合は、車全体
60,000
5 ガソリンエンジン
は入れず、全部パーツを入れて輸送したものである。パー
10 ディーゼルエンジン
1,750
目ある。重さでは、やはりエンジンが重く、ディーゼル・
2,000
ツであるだけに、一個一個の値段はさほど高くない。最も
(kg)(個)
264
265 中古自動車業を生きる滞日アフリカ人の生活動態
14
100
1,050
金額
価格
中古自動車部品
(円) (C&F DOUALA)
エ ン ジ ン が 一 個 二 千 キ ロ グ ラ ム、 ガ ソ リ ン・ エ ン ジ ン が
FROM : YOKOHAMA,JAPAN TO : DOUALA,CAMEROON
高いパーツで、
ディーゼル・エンジンの一個六万円である。
SAILING ON OR ABOUT : 7-NOV-7
一七五〇キロである。軽い方は、イグゾーストネット六キ
表 1 日本からのコンテナーによる中古自動車部品の輸送
最も廉価なパーツは、ホーンの一個一五〇円である。エン
SHIPPED PAR : MAERSK SEALAND
24 Bonnets
ボンネット
25,000
25 Booth box
ブースボックス
9,000
26 Booth shock absorbers
ブースショックアブソーバー
5,000
27 Brake drums
ブレーキドラム
5,000
28 Carriages car
キャリアカー
4,000
29 Car wages
カーウェジ
1,500
30 Coils
コイル
31 Compressors
コンプレッサー
32 Cut outs
カットアウト
15,000
33 Distributors
ディストリビューター
20,000
34 Exhaust nets
イグゾーストネット
6,000
35 Exhaust pots
イグゾーストポット
15,000
36 Fan belts
ファンベルト
37 Floor Carpets
フロアーカーペット
38 Grills
グリル
39 Jacks Cars
ジャックスカー
40 Linings doors
ライニングドアー
41 Horns
ホーン 警報鈴
42 Hops back
ホップスバック
43 Hops Front
ホップスフロント
267 中古自動車業を生きる滞日アフリカ人の生活動態
4,000
6,000
10, 000
2,000
1,500
15,000
2,000
15,000
2,000
5,000
10,000
写真 2 ドアラ港コンテナー降ろし場の様子
円をダヴィはマリリン
10,000
ロや、ホーン七キロ、デストリビューター九キロなどが、
アンテナ
に支払った。ワン・パッ
23 Antennas
一〇キロをきる軽さである。だが、二七品目のパーツを総
エアフィルター
ケ ー ジ で な い 場 合 は、
10,000
22 Air filters
計すると、八四四ものピースが一個のコンテナーのなかに
ラジエーター
輸出入関係のビザの最
X0,000
21 AC Radiators
長期間である約二ヵ月
2C FR */* ターボ
カメルーンのバハム出身のバミレケ人ダヴィが一括注文
450,000
20 2C FR */* Turbo
入れられ、その総重量は九トンに上る。
RD 2B
のあいだ日本に滞在し、
150,000
19 RD 2B
したもので、実際のパーツ買い付けは日本側JIFALが
LJ 50 ズズキ
ヤードに設置されてい
100,000
18 LJ 50 Suzuki
る簡易宿舎などに住み
250,000
ネイキッド(ダイハツ)
行った。マリリンの夫はその役割を果たしている。買い付
E/3 ミッション車
17 Half blocs naked
けの最初からカメルーンへの輸送まですべて任せる場合
16 E/3 M/T
込 ん で、 自 ら 日 本 各 地
250,000
と、パーツの品質などに直接のチェックを入れたいという
E/5
のオークション会場や
280,000
15 E/5
ことから短期に取引人本人や家族など関係者がカメルーン
CD20 オートマティック車 ターボ
解体屋などを回りパー
300,000
14 CD20 A/T Turbo
ツや中古自動車を買い
CD17 オートマティック車
からやってくる場合とがある。これだと交通費や滞在費を
350,000
13 CD17 A/T
浮かすことができる。こういうパーツ収集による注文方法
FF キャブレター
付け収集する方法である。訪日経験や日本滞在歴がまだ長
330,000
12 4A FF Caburator
を「ワン・パッケージ」と呼ぶこともある。ダヴィは、長
FF
くない多くのカメルーン人は、この方法をとっている。ま
400,000
11 4A FF
た、物品の品質確認のためにも、自ら全品を確認して買い
4913 ミツビシ(三菱)
年の日本在住歴を持ち日本語も達者で、今日まで自ら何回
380,000
10 4913 Mitsubishi
も日本に来てJIFAL経営のマリリンと取引をすでにし
3y LP ガス
付け、自らの責任で日本からカメルーンへ送り込む。この
420,000
9 3y LPG
たり、若い部下や「弟分」を日本に派遣したりしており、
3y ガス オートマティック車
方法をとるカメルーン人が多い。
300,000
8 3y Gas A/T
マ リ リ ン と は 懇 意 で 信 頼 関 係 を 持 っ て い る。 だ か ら、 ワ
FF ミッション車
さて、コンテナーが横浜港などからカメルーン・ドアラ
370,000
7 3A FF M/T
港 に 向 か う と、 お よ そ 二 ヵ 月 で ド ア ラ 港 に 到 着 す る (写 真
FF ターボ オートマティック車
ン・パッケージの契約をしやすいといえる。JIFALで
400,000
6 2C FF Turbo A/T
は自動車の解体やコンテナーへの部品搬入や港への運送
FF ミッション車 ターボ
2参照)
。これら中古自動車やパーツを、多くは経済首都
450,000
5 2C FF M/T Turbo
を 行 っ て お り、 こ う し た 広 い 荷 役 作 業・ 集 積 場 を ヤ ー ド
400,000
4 2C FF M/T New model FF ミッション車 新型
といえる一〇〇万都市ドアラや首都ヤウンデ、そして西カ
FF オートマティック車
メルーン最大の都市バメンダなどで販売するのである。カ
420,000
3 2C FF A/T
*4
FR オートマティック車
)という。このJIFALヤードでの料金が、パー
yard
ツ総計の値段で、二二〇万九〇〇円である。そして、カメ
300,000
2 2C FR A/T
(
価格(FCA)
メルーンに着いた自動車パーツがどれほどの価格で販売さ
商 品
1 1G GE
ルーンまでの輸送代金が二八万円で、合計二五〇万九〇〇
表 2 カメルーンにおける自動車パーツ料金
266
コンテナーに車全体を入れる場合は、三台くらい入れる
あることがわかる (表1、表2比較参照)
。
売店での料金を表にまとめたものである。単位はカメルー
れ て い る か、 調 査 し た (表 2 参 照 )
。表2はバメンダの販
ンの通貨フランCFAで、円との換金率はおよそ一万CF
(カ メ
が、 カ メ ル ー ン で 人 気 が あ り 利 益 率 の 高 い HiLux
)などを買い、カメルーンで売
Toyota 4 Runner
差はない。およそこれくらいの値段の傾向にあると見てよ
ンダなどの都市の違いや業者の違いによってさほど大きな
規制、そしてエンジンの汎用度や道路状況、さらには流行
円 (八〇〇万CFA)で売る。運輸行政や販売台数や環境
を越谷のオー
る。 サ ン タ 出 身 の オ リ バ ー な ど は、 HiLux
*5
クションで七〇万円で入札購入し、カメルーンで一八〇万
ルーン名
い。上述したホーンなどは、日本で一五〇円で買い付けた
なども含めた、日本での流通状況とカメルーンでの政治・
これら自動車パーツの値段は、ドアラ、ヤウンデ、バメ
も の が 四 〇 〇 〜 五 〇 〇 円 相 当 で 売 ら れ て い る。 表 の 一 〜
社会・経済状況の落差によって、このような利益の仕組み
A=二五〇〇〜二千円である。
二〇番まで2Cなどと記されているものは、エンジンであ
が生まれるのである。
作業員を雇うことも多
やカメルーンのヤードで
は二四%もかかる。日本
利がカメルーンの銀行で
入れる。その際には、金
購入資金を銀行から借り
発展させようと思うなら
を見込む。大きく商売を
の滞在費、航空運賃など
まな経費が要る。日本で
そ の と き に も、 さ ま ざ
る。どうした車種のエンジンかを商品名のなかに記してあ
る。スズキや三菱などと表記されていないものは、トヨタ
車である。輸入主が違うので単純比較はできないものの、
の日本でのエンジン購入値段と比較すると、四万五千円ほ
カメルーンにおける差額 (利益)の傾向を見るべく、表1
どで購入されたエンジンが、七万〜一一万円相当ほどで販
売されていることがわかる。ディストリビューターは、日
本で六〇〇円で買い付け、カメルーンで四千〜五千円で売
る。イグゾーストネットは買い入れ二五〇円販売一二〇〇
〜一五〇〇円、イグゾーストポットは買い入れ五〇〇円、
販売二七〇〇〜三千円と、利益率が高い。カメルーンでは
希少なのである。コンプレッサーなども一千円で買い一万
カメルーン経済では、その場をしのいでいく「ヤリクリ」
〜四〇〇ユーロ(四〜五万円)ほどであることを考えると、
在)
、カメルーン国立大学の教授や公務員の月給が三〇〇
利益は微小に見えるかもしれないが、今日 (二〇〇八年現
表 2 の よ う な 売 値 が は じ き 出 さ れ る の で あ る。 こ う し た
労 賃 な ど も 必 要 に な る。 こ う し た 必 要 経 費 を 勘 案 し て、
寸前の自動車などを部品に解体すると一台七千円かかる。
ス領、西側の一五%ほどのイギリス領という分割統治であ
。東側の八五%ほどのフラン
ま で 続 い て い る (図 2 参 照 )
が占領し、戦後、英仏両国による分割統治国となり、独立
の部分を、一九一六〜六〇年の間、第一次大戦中より英仏
仏の植民地を交換したのである。この隣接地を除いたもと
領に変換し、ドイツ領カメルーンとして統合している。独
東側・南側に隣接する広大な版図をフランス領からドイツ
スの権益をドイツが認めるかわりに、いまのカメルーンの
ることになる。一九一一年には、モロッコにおけるフラン
い。日本のヤードで廃棄
(野元美佐のいう「デブルイエ」
、小川了のいう「デブルヤー
る。一九六〇年、「アフリカの年」と呼ばれるように、ア
〜二万五千円で売る。このような利益 (差額)の仕組みで
ジ ュ」)の な か に あ る と は い え、 充 分 に ひ と つ の 商 売「メ
フリカに多くの独立国が誕生した。カメルーンもまた、こ
*6
真3参照)
。
んだのである。こうして今日でいう、「英語圏」の西カメ
カメルーンの西に隣接するナイジェリアと連邦する道を選
合体し、「カメルーン連邦共和国」となった。北半分は、
翌一九六一年、その南側の半分のみがカメルーン共和国に
て独立した。西側の旧英領の部分は、「国民」投票を行って、
の一九六〇年、東側の仏領のみ「カメルーン共和国」とし
チエ」として成り立ち始めていることがわかるのである(写
Ⅱ カメルーンの政治社会構造
カメルーン連合共和国の成立
1 カメルーンの現代史
︱︱
*7
ルーン、「フランス語圏」の東カメルーンという構造がで
だった。一九世紀の中ごろから、ヨーロッパ列強によるア
までは、現在カメルーンが立地している地域は、ドイツ領
れたのではなく、他律的な植民地化の線引きによる枠組み
る境界性から現在のカメルーンという国家の境界が定めら
こうして、この地の民族間の諸関係による論理に内在す
きあがった。
フリカ分割がおこり、ドイツ、フランス、イギリスなどが
から解放される形で、他のほとんどすべてのアフリカ諸国
二〇世紀前一八八四年から、二〇世紀の初頭一九〇八年
入れかわり立ちかわり、現在のカメルーンあたりを領有す
268
269 中古自動車業を生きる滞日アフリカ人の生活動態
写真 3 カメルーンでパーツを売っている中古自動
車業者
る。したがって、カメルーン国内には必然性によってでは
布と関係なく、現実の民族範域を分断する形で通過してい
カメルーンをかたどる国境線は、民族や言語グループの分
が物とし、ヨーロッパでも簡単には実現していない、旧英
れた矛盾のなかでも「近代国家」という概念をなんとか我
メルーン共和国」へと変換した。この意味は、押し付けら
さらに一九八四年、国名をカメルーン連合共和国から「カ
う」というキャンペーン・ソングが歌われたのであった。
なく、六五の民族、数え方によっては二〇〇あまりの民族
領と旧仏領の統合という近代まれに見る困難な事業を成し
と同様に、カメルーンも独立を勝ち取った。したがって、
が、存在している。したがって、一九六〇年にフランスか
遂げていこうという高い理念の宣言であった。
こうして、六五の民族や言語グループも、北部から中部
ら独立した領域と、これに翌六一年にイギリスから独立を
にかけてのイスラーム文化圏も南部から中部にかけてのキ
果たしたナイジェリアに隣接する部分を加えたカメルーン
連邦共和国においては、こうした多様性をばらばらの形で
し た が っ て、 カ メ ル ー ン 共 和 国 の 一 党 制 に よ る 組 閣 で
リスト教文化圏も、旧英国植民地の西カメルーン・アング
は、必ずマイノリティになりがちな英語圏の西カメルーン
はなく統合する形で一国を形成していくことの重要性が求
多民族や多地域が自己主張を控えて、小異を捨てて一党制
大学といわれるヤウンデ大学の副学長 (大統領がすべての
ロ フ ォ ン も 旧 フ ラ ン ス 植 民 地 の 東 カ メ ル ー ン・ フ ラ ン コ
のなかへまとまってカメルーン国を築いていこうという気
カメルーンの国立大学の学長で、副学長が実質的学長職)ア
フォンも、ともに一党制のもとにまとまりカメルーンとい
概 が 溢 れ て い た。 そ れ が、 Union National Camérounaise
の 政 党 で あ る。 三 〇 年 前 の 一 九 七 八 年 な ど に は、 大 き な
ノマ・ングー氏は、英語圏サンタの街の出身であるが、か
められた。この理念を促進させて一九七二年には連邦制を
キャンペーンが張られ、盲目のポピュラー歌手、タラ・ア
れを科学技術庁長官に登用した。かれが厚生大臣となりそ
廃止し、
「カメルーン連合共和国」へと統合した。連邦か
ンドレ・マリーがラジオで「ユニオン・ナショナル・カメ
の数年の任期を終えると、エネルギー庁長官に同じく西カ
う国を造り育てていこうとしたのである。
ルネーズ」の歌を頻繁に歌っていた。また、この人気歌手、
メルーン出身者を据える、というように、大臣のなかに必
ら連合へと統合性を強めたのである。そのため、当時から、
タラ・アンドレ・マリーがカメルーン各都市を回って奇術
図 2 滞日カメルーン人中古自動車業者の出身地
(作図)和崎 2008。
から意識的に大臣を登用している。カメルーンの国立筆頭
ショウやスポーツ・ショウとともに興行を行うのだが、こ
首都ヤウンデ
中央アフリカ共和国
経済首都
ドゥアラ
チャド共和国
Bafut
Mankon アイザック
サミュエル A
アポロ
ロビン
ジュリアス
ダニエル
ゴドフリー
NjaEtou
オスカー
ケネス Bamenda
Nkwen
Santa
ポリーヌ
Bali
オリバー
マリリン
ウォーリー
アントニー エリック
Mbengui
ジャクソン
ジュリエット ゴッディー
カミラ
ステファン
ヴィンセント ウルフ
ボビー
英語圏
Akum ケント
Baham ダヴィ
ボブソン
ガブリエル 西カメルーン
Baffoussam
Mamfé
フランシス
サミュエル
Muea
Banjoun
Banganté
マーガレット
クレイマン パスカル
Batié
Buea
ダンテ
オナシス
ジム
Dchang
ポッパー
アントニー
Limbé サンドラ
ジョナス
ジョージ
Baffia
スティーブン
フランス語圏 マルカス
東カメルーン
Obara
マチルダ
Yaoundé
Douala
エマニュエル
エリクソン
カメルーン
Nigeria
エドワード
マンデー
共和国
カメルーン共和国
270
271 中古自動車業を生きる滞日アフリカ人の生活動態
ず西カメルーン出身者を置くようにしたのである。また、
ピーター
ゴドフリー
ジェリー
Hospital Roundabout
サム
ジャッキー六本木
ハリソン
トリフ
ティモシー
サミュエル
クリフォード
ルーカス江東区
のときにも、
「一党制のもとにまとまって国を造っていこ
Bamenda
Market エドワード
記を併用して記すことになった。たとえば、カメルーンに
たのだが、歴史的経緯から見れば、実態は「ひとつにまと
の条件として、政治上の「平等」や「公平な競争」を求め
これは、日米欧の北側諸国が、構造調整による経済援助
大政党である。
おいて私たち日本人研究者が取得する調査許可証も、上段
まってやっていこう」とする大団結に対する分断の性格が
省庁などで使用する公式書類も、フランス語表記と英語表
にフランス語、その下に英語が記され、英仏語二重の文章
まり、つまり言語・宗教・文化のアプリオリな共通性や同
が続いていくように書かれている。このように、歴史的に
一性を基盤に政党がそれぞれ組織された側面が強い。もと
強 い。 少 な く と も、 民 衆 レ ベ ル で は そ う 感 じ ら れ て い る
ところが、ヨーロッパ、アメリカ、日本の北側諸国は、
より、そうせざるをえない。すぐに北側社会がいうような
も新しく「後発」として加入し、領土も狭い「小領域」を
「構 造 調 整 」 の 名 の も と に、 発 展 途 上 国 の 一 党 制 を 許 さ
「平等」や「公平」や「自由競争」など、また違った普遍
部分が多かったといえる。政治理念による結びつきによっ
ず、多党制の導入を貸付や援助の条件とした。これを受け
性の形で社会を組織していたアフリカ民俗社会に、あるべ
て、いくつもの政党が出てきたというより、地域的なまと
て カ メ ル ー ン で は、 一 九 九 三 年 の 時 点 で、 七 三 の 政 党 が
くもなかった。北側資本の論理を押しつけられた側面が強
占めるにすぎない西カメルーンをも、同等に包み込む国家
登録している。複数政党制に否応なく移行したのである。
い。すなわち、現政権を担っているRDPC (カメルーン
理念が存在していた。
こ の な か で 基 盤 の し っ か り し て い る 勢 力 と し て、 五 つ の
政党をあげることができるだろう (和崎
動き、さらに、最近ではUDC (カメルーン民主連合)の
こうして、権力に吸い寄せられる形で地域を越えていく
いといえる。
に擦り寄らざるをえない伝統首長が多かったし、現在も多
主張に関係なく現政権の支持者に統合してきた。また権力
な諸チーフダムの首長や諸王国の王を、かれらの
「本心の」
国民民主合同)は、権力を保有するだけに、各地の民族的
)
。まず、カ
1998
メルーン国民民主合同 (
Rassamblement Démocratique de
:RDPC)があげられる。もっとも
Peuple Camérounais
支持者が「多い」といわれ、現在の政権を掌握している。
そして、人民民主国民連合 (
Union National Démocratique
:UNDP)
、 カ メ ル ー ン 人 民 連 合 ( Union
Populaire
:UPC)
、カメルーン民主連合
Populaire Camérounais
主連合)は、ヌン県 (旧バムン県)を中心とした西部州を
(カメルーン国民民主合同)である。UDC (カメルーン民
カメルーンを基盤としているのが、現政権を握るRDPC
としている。これに対し、植民拠点ヤウンデを中心に南部
は違う」
、伝統的な一〇〇万南部大都市ドアラ近辺を基盤
として発達した「歴史性の薄い現在の首都ヤウンデなどと
基礎とするドアラ地域文化を包含し、ヨーロッパ植民拠点
UDC (カメルーン民主連合)は、伝統王族マンガ一族を
ムを奉じるモスレムが大多数を占めるという特色を持つ。
主に北部カメルーンを基盤とし、ここでの住民はイスラー
定の特色がある。つまり、
UNDP(人民民主国民連合)は、
政党における地域的なまとまりや基盤ということでは、一
ていく動きなどがあり、
これが増えてきている。とはいえ、
管轄する役人は、「現政府寄りが多い」と人々はいう。こ
けて、このイブラヒムの投票を許可しない。実際、選挙を
致しないだの、住所登録が未完だの、さまざまな理由をつ
不正に作られているだの、納税証明がないだの、原簿と合
に有利にことを運ぼうとする選挙役人なら、身分証明書が
いう名前なら西カメルーン出身者である。現政府RDPC
身で「UNDPに入れそうだ」と読むのである。ングーと
バとついていれば北カメルーンのハウサ・フルベ人社会出
人であり「UDCに入れそうだ」とか、イブラヒム・ガル
違いはない。イブラヒム・ベッコムとついていればバムン
まずカメルーン北部か西部州ヌン県の出身と見て大きな間
ループ出身かは、すぐ分かる。イブラヒムとついていれば、
見るだけで、その投票者が何県出身でどのエスニック・グ
検査し原簿と照合して投票を許可する。このとき、名前を
党首などその政治上の高潔性に賛意が集まって地域を越え
基盤としている。SDF (社会民主戦線)は、主に英語圏
うして、アブバカーは投票を拒絶された。カメルーンには
(
:UDC)
、社会民主戦
Union
Démocratique
de
Caméroun
: S D F )の 四 つ を 含 め た 五
線 ( Social Democratic Front
の 西 カ メ ル ー ン を 基 盤 と し て い る。 他 の 四 大 政 党 が フ ラ
二大都市がある。一〇〇万都市は、「経済首都」といわれ
というように英語表記である。
Democratic Front
現代のカメルーン政治状況を、一九九六年の六月に施行
もかかわらず、この時三人までが、投票を拒否されたので
のカメルーン人は、外国公館勤務という確かな身元保証に
とが起こっていた。在ヤウンデ日本国大使館に勤める五人
ンス語表記なのに対して、この社会民主戦線だけが
された国民議会選挙に見てみよう。このとき、たとえば西
ある。
るドアラと現首都のヤウンデである。ヤウンデでも同じこ
部州ヌン県出身でバムン人アブバカーは、大都市のドアラ
Social
に出てきて生活している。そこで、投票所に行くと、選挙
権 が あ る か ど う か チ ェ ッ ク が 行 わ れ る。 投 票 所 を 管 理 す
る役人が投票者のカルト・イダンティテ (身分証明書)を
272
273 中古自動車業を生きる滞日アフリカ人の生活動態
きない、上手でない、という形で商談を有利に運ぶことが
「下手」だと思われていることを逆手にとって、あえてで
ン の マ ン コ ン 首 長 社 会 の 出 身 だ が、 か れ は フ ラ ン ス 語 が
者が多い。中古自動車パーツ業者のアポロは、西カメルー
用上の揶揄や排斥を食らった経験を持つ西カメルーン出身
だが、大多数を占めるフランス語圏社会から何かと言語使
による話の過剰展開がふくまれていることは間違いない。
る者といる。ここには、もちろん、過剰な反応や噂の流布
者、友人の体験を自分の体験のように熱い感情をもって語
自身が拒否された経験を持つ者、自分の家族が拒否された
埼玉にあるカメルーン・レストランでよく出くわす。自分
の経験を語る中古自動車業に携わる滞日カメルーン人に、
上の第Ⅱ章1前節で述べたような選挙における投票拒否
2 現代 カ メ ル ー ン政治状況 の も と で の
滞 日 カ メ ル ー ン 人 の 心 意
を利かせている。
ない機動隊精鋭部隊の駐屯基地があり政情混乱へのにらみ
は、まず他のどの地域でもない、この西カメルーンである。
いる」と首都ヤウンデの新聞やメディアで報じられるの
る。選挙のたびに、「緊張が走っている」「騒ぎが起こって
補とされ、軍隊・機動隊による自宅幽閉を何度も受けてい
(社会民主戦線、SDF)の党首フル・
Democratic Front
ンデは、大統領選や国会選挙のたびに、現大統領の対立候
る西カメルーン人は多い。唯ひとつの英語読み政党
も遅れに遅れた。何かと後回しにされている、と感じてい
雨が降ると道から水が吹き出るときもある。飛行場の建設
修は進まず、ンクウェンの市場あたりの道路はデコボコで
西カメルーンの最大の中心都市バメンダにおける道路の補
て、西カメルーンは徴づけられる存在だということである。
の要らない、徴づける必要のない地域である。これに対し
ンの東側部分、フランス語圏のカメルーンは、とくに注釈
えば、意味を持つが、「東カメルーン」とは実はほとんど
)の二重言
あると語る。リセ・ビラング ( Lycée Bilangue
語学校で学ぶのは、西カメルーンの生徒である。またここ
く、選ばれた少数者である。カメルーンにおける一〇〇万
で行われた在日カメルーン人協会年次総会で
Afro Wave
は、規約がフランス語でしか書かれていないことに不満が
二〇〇八年二月に春日部近辺のカメルーン・レストラン
西カメルーンの最大都市バメンダには、他の地方都市には
Social
いわない。聞かない。分析上の用語でしかない。カメルー
で学べるのは、西カメルーンの大多数の庶民すべてではな
都市ドアラも首都ヤウンデもフランス語圏東カメルーンに
(西 カ メ ル ー ン )と 英 語 で い
West Cameroon
きな政治社会構造から理由づけることに、大きな間違いは
件のもとに出ようとする西カメルーン出身者の行動を、大
噴出し、英語でも書かれることになった。「日本にいるカ
位置し、多くの経済ビジネス・チャンスがここに収斂して
メルーン人はこんなにアングロフォンのほうが多いのに」
ないであろう。カメルーン内のマイノリティ状況が英語圏
い る。 ま た
図2は、滞日カメルーン人中古自動車パーツ業者の出身
西カメルーン人の越境の意志をより強く後押ししていると
。
と会員は語った。そのことを検証してみよう (図2参照)
地を示す図である。この図は、筆者が出会った中古自動車
捉えられる。
る。このドット・マップの分布を見て分析されるように、
メルーン人の出身地を地図上に列挙してプロットしてい
作業を行う単純な労働者まで、この業界に生きる多様なカ
ての執着性を持った行動・生き方を記述した。ここでは、
を見きわめて購入・販売していく、その商人・企業家とし
人商人の、日本〜カメルーン両市場の趨勢と両社会の特質
ルーンの中古自動車パーツ市場とを結ぶ、滞日カメルーン
最 初 の Ⅰ 章 で は、 日 本 の 中 古 自 動 車 パ ー ツ 市 場 と カ メ
むすび
業に携わる、在日、滞日のカメルーン人がカメルーンのど
の都市、村出身なのかを示したものである。したがって、
日 本 に 拠 点 を 置 い て い る 在 日 の ヤ ー ド 経 営 者 か ら、 カ メ
ルーン〜日本の往復を繰り返す滞日カメルーン人業者、そ
英語圏の西カメルーン出身者が圧倒的に多く日本に来てい
して、自動車解体やコンテナーに関わる荷役や搬入・搬出
ることが歴然と判る。この分析は、筆者がカメルーン・レ
商売上とはいえ、これほどまでにシブトク日本社会に入り
や村の名前が多く並ぶのである。ここに、潜在的に、心理
エア、ムニャ、リンベと、やはり英語圏西カメルーンの町
ンコン、バフツ、バリ、ブエングイ、ジャー・エトゥ、ブ
自動車ビジネス関係者ばかりではないのだが、サンタ、マ
で出会ったカメルーン
析と一致する。つまり Afro Wave
人の出身地は、食堂ウェイトレスや学生や工場勤務など、
カメルーン人もいる。これに、多くの中古自動車パーツ業
るようになってから夫人をカメルーンから呼び寄せた在日
うにヤード経営者として日本語で「シャチョウ」と呼ばれ
ジャッキーのようなヤード経営者もいる。ゴッディーのよ
ドを経営しているマリリン夫妻がいる。日本人と結婚した
なった。日本に常駐して「在日カメルーン人」としてヤー
込み根づいているカメルーン人の存在と活動が明らかに
的 に も 被 抑 圧 の も と に あ り、 利 の 回 っ て こ な い ネ ー シ ョ
の輸出入で稼ぐカメルーン在住の滞日カメルーン人たちが
ストラン
で出会ったカメルーン人の出身地分
Afro Wave
ン・ステートの枠組みを一挙に打ち出て、より恵まれた条
274
275 中古自動車業を生きる滞日アフリカ人の生活動態
まってくる。そういう「普通の」カメルーン人やアフリカ
同 業 者 は も ち ろ ん、 学 生 や 工 場 勤 務 の カ メ ル ー ン 人 も 集
あるカメルーン料理店である。ここには、中古自動車業の
ルーン音楽のフリップを見てくつろぐのも、埼玉や東京に
ルーンの家族と連絡し合い、またカメルーン人仲間とカメ
理やカメルーン料理を食べに行き、インターネットでカメ
メルーン人たちである。彼ら彼女らが土日曜にアフリカ料
当をだす。この単純労働をするのも、千葉、埼玉に住むカ
動車の解体や搬入、運搬、荷役の労働に一日約一万円の日
求めてカメルーン人が集まってくる。JIFALでは、自
提示できた。さらに、ヤードでの作業に働くにもその職を
車パーツの販売にいたるまでの、基本的な流れと枠組みは
カメルーンへの海上輸送、そしてカメルーンでの中古自動
ないが、日本における中古自動車パーツの買い付けから、
た、途中のより詳細なプロセス分析を加えていかねばなら
」 を 生 き て い く 術 で あ る。 ま
跨 ぎ つ な い で「間 (は ざ ま )
シ ョ ン・ ス テ ー ト の 枠 組 み で は な く、 ア フ リ カ と 日 本 を
日 本 〜 カ メ ル ー ン 間 の 明 確 な 差 額 と し て 提 示 し た。 ネ ー
の落差も、トヨタ・エンジンなど目玉商品を選択した後、
よ、何をどう買い何をどう売るべきなのか、その売り買い
メルーン国家政治構造あるいはカメルーン現代史と、カメ
差となって西カメルーン人に顕著に表面化した。大きなカ
に来て自動車ビジネスに賭けているかは、歴然とした数の
語圏カメルーンか英語圏の西カメルーンか、どちらが日本
ん日本に経済チャンスを求めてやってきている。フランス
にも政治的にも閉塞した西カメルーンの人たちが、たくさ
圧力さえ登場するようになったのである。こうした心理的
潜めた。西カメルーンからの民衆の発言に、多大な軍事的
用するというようなアファーマティブ・アクションは影を
視」され、疎まれてきた。必ず西カメルーンから大臣を登
となり、むしろ西カメルーンの政治勢力は中央から「敵対
る構造調整が働いてからは、多党制による「公平な競争」
が輩出されたのである。ところが、日米欧の援助圧力によ
のときには、必ず、旧英国植民地の西カメルーンから大臣
も、アファーマティブ・アクションが効いていた。一党制
メルーン連邦共和国に新たに参入した歴史的後発地域に
制による挙国一致の体制のなかでは、まがりなりにも、カ
に、この独立時からカメルーン共和国の設立までの一党体
立 ま で の 歴 史 を 大 き な 政 治 構 造 史 と し て 追 跡 し た。 さ ら
仏による植民地分割から独立、そしてカメルーン共和国設
次にⅡ章では、現在のカメルーン地域一帯をめぐる独英
む」時代なのである。
人が多数、日本に押し寄せ浸透してきている時代であるこ
ルーン民衆の日本を舞台にした個々の生き抜き戦略とは、
やってきている。車全体にせよエンジンなどのパーツにせ
とが、ここから判るのである。アフリカが日本に「浸み込
持って情報が入ってきた東アフリカ人ではなく、またナイ
うして日本社会の仕組みを学び考察して掘り下げ、そこか
大構造に随伴した小行動となって相互に結びついていた。
ら自らの利益に結びつけてアフリカと日本を繋いでいこう
ジェリア人、ガーナ人のようにいま多大な人口が来日して
だが、これでも課題は残る。この一要因だけで滞日カメ
とするような、アフリカ人の積極的な日本への浸透が、中
いるアフリカ人でもなく、アフリカのなかでも情報が少な
ルーン人の自動車ビジネスをめぐる活発な活動を説明しき
古自動車パーツ業をめぐって、深くしかも多大に存在し進
西カメルーンの政治的マイノリティ状況が、海外に展開す
れない。カメルーン国内で、南部キリスト教マジョリティ
行していることが、明らかになったのである。そして、こ
る西カメルーン人の行動力を押し上げているひとつの要因
社会から同じく阻害されがちな北カメルーンのイスラー
う し た 滞 日 ア フ リ カ 人 の 生 活 動 態 は、 グ ロ ー バ ラ イ ゼ ー
く周辺的な位置づけをされていたカメルーン人でさえ、こ
ム・マジョリティ地域からなぜ来日人口が少ないのか。あ
ションや多文化主義やグローバルシティといった既存の科
であることは間違いないだろう。
るいは、北カメルーン人がフランス語使用者だから、日本
学言説にはけっして包摂されない、ナマでジカの越境的生
*8
に馴染めないのか。サミュエルA氏という偶然にも日本社
きっぷりであることを、私たちはより強く確認していかね
*9
会と強く大きな接点を持った人物が西カメルーンから出た
ばならないだろう。
*
から、チェーン・マイグレーションのように、その車情報
◉注
と刺激を得て、西カメルーンから次々と人がやってきたと
いう要因も捨てきれない。もとより、バミレケ人のように、
西カメルーン人、それを民族的にいえばティカール人諸グ
*1 筆者と田渕六郎は、来日したカメルーン人の母村の家族
状況を調査した。ここでは、かれらの家族・親族の経済力が
特 権 階 級 的 で あ る の で は な く、「民 衆 的 な 普 通 の 経 済 力 」 に
ループは、
「商業の民」だというような民族的説明があて
はまるのかどうか。多くの複合的な要因や理由や条件をつ
よりつつも来日を果たしていることを報告した(和崎・田渕
生に関する都市人類学的研究』(和崎 2008
)を著し、「世界を
又 に 駆 け る ア フ リ カ 人 」「在 日 人 口 第 一 位 ナ イ ジ ェ リ ア 人 と
)。
2007
*2 和崎春日編『来住アフリカ人の相互扶助と日本人との共
めて分析・考察していく必要がある。これは本研究の課題
少なくとも、本論では、日本における外国人のなかでも
である。
心理的に「最も周辺的」であったに違いないアフリカ人の、
そのなかでもケニア、タンザニアなど日本と初期に接触を
276
277 中古自動車業を生きる滞日アフリカ人の生活動態
**
第二位ガーナ人」「日本で活躍するアフリカ人芸能者」「在日
アフリカ人の宗教拠点――イスラーム・モスクとキリスト教
会」「大都市でのアフリカ人の生活動態――六本木と栄」「日
本でのサクセスストーリー=自動車ビジネス」という六つの
柱で、一一本の論考が来住アフリカ人の生活動態の考察を行っ
がら、まったく変わりがない(福田
)。
1998 : 270
)。
2007
* 6 野 元( 2005 : 139
)。 小 川 了 は「切 り 抜 け に 切 り 抜 け を 重
ねて生きるほかはない、それがデブルヤージュの本義である」
と論じている(小川
*8 小倉充夫は、国家がさまざまな制約のもとに外国人労働
者という形で、不自由な賃労働を作り出し、潜在的機能とし
* 7 図 表 を 交 え た わ か り や す い カ メ ル ー ン 現 代 史 に つ い て
は、河合( 1984
)を参照。
て「不法就労者」をも生み出しもしているのだが、そうした
ている。
*3 在日・滞日カメルーン人たちは、お互いの親睦と緊急時
の 相 互 扶 助 の た め に、 在 日 カ メ ル ー ン 人 協 会 A C A J A を
)。その論に筆者の調査実
1997 : 10 - 11
態も呼応するものである。
を展開している(小倉
と国際移動の差を縮めさせることに注目すべきだ、という論
国家の制約的機能にかかわらず、移動する労働者が国内移動
設 立 し て、 ネ ッ ト ワ ー ク を 張 っ て い る(く わ し く は、 和 崎
)。
2008
*4 コンテナーによっては、六〇〜七〇万円のコンテナー輸
送代を見込む必要がある。輸送地はカメルーンの場合ドアラ
やってくる。すると、日本社会でもまた違った集団範疇が現
* 9 諸 外 国 や 異 文 化 か ら い ろ ん な 人 が い ろ ん な 形 で 日 本 に
港だが、ここで親族が待機していることが多い。親族の配置
は、カメルーン国内に限らず、たとえばバリ出身のエリック
れてくる。これはいままでとは異なる人間認識のひとつの展
の場合、自らはベルギーに住み日本に買い入れに来て、弟が
や Honda
、TDKといった集団や会社に帰属する人間範疇が
意味を持ち始めたことがあった。それが、今日、具体的な豊
開の可能性である。アフリカ人を受け入れる日本社会のほう
田市というトポスで企業を中心にした派生ではあっても、新
ドアラにいて荷の到着を待つ。このようなトランス・ナショ
してボタン操作によって最高値段を出せば、その車を落札で
たな集団類型としてこれが生じている。アフリカ人でもトヨ
で、「ト ヨ テ ィ ズ ム 」 と い っ た 文 化・ 集 団 範 疇 が 生 じ て い る
きる仕組みになっていた。そのプレ情報として分厚い販売予
タマンになればいいのだ。実際、名古屋で出会うアフリカ人
ナルな親族配置については、パキスタン人の場合も同じでよ
定の車資料集が、駅から会場に向かう小型バスのなかで無料
たちは、自分を信用させるために、これらの世界大ブランド
り進んだ形態であることが工藤正子により報告されている(工
で配られていた。オークション自体の仕組みは、福田友子が
タン人の中古車輸出業」樋口直人他著『国境を越える――滞
(松宮他 2008
)。かつてエスニシティが主張されだした三〇年
前、むしろ世界でNHKや Mitsubishi
や Panasonic
やJVC
報告しているパキスタン人から見た光景とも、当然のことな
日ムスリム移民の社会学』青弓社。
藤 2008 : 207 - 241
)。
*5 筆者が滞日カメルーン人業者とともに参加した越谷と蕨
の中古自動車オークションでは、画面に映し出される車に対
への帰属を主張する。名古屋の堀田地区にたくさんある下請
(わざき・はるか/名古屋大学大学院文学研究科)
)「来日カメルーン人の母村・家族状
2007
況」『スワヒリ&アフリカ研究』一七号、一一七―一四四頁。
和崎春日・田渕六郎(
究成果報告書)。
類学研究室(平成一六年度〜平成一八年度、科学研究費、研
和崎春日編( 2008
)『来住アフリカ人の相互扶助と日本人との共
生に関する都市人類学的研究』名古屋大学文学研究科文化人
)「滞日アフリカ人のアソシエーション設立行動と集
――( 2008
会活動」『名古屋大学文学部研究論集』史学五四号、一―二〇頁。
)「アフリカ地方都市の生活誌六――あえぐ伝統
1998
国家と現代国家」『月刊アフリカ』三八巻二号、二五―二七頁。
和崎春日(
)『トヨティズムを生きる
2008
――名古屋発カルチュラル・スタディーズ』せりか書房。
松宮朝・鶴本花織・西山哲郎編(
工場のひとつで検査作業を行うイボ青年もそう主張する。さ
らに、豊田市の駅前「あかのれん」で酒飲むアフリカ人たち
とはなしたとき、そこにはトヨタ・エリートであるという、
自負が、堂々と悠然と表現されていた。豊田市というより、
トヨタ市なのである。こうして、既製の集団範疇の概念を相
対化する急進性を持つことから、トヨティズムのような考え
方を、カルチュラル・スタディーズに関連さて解釈しようと
いうスタンスも認められる。
*
こうした滞日外国人の生き方は、滞日フィリピン人にも
見られることを永田貴聖は論じている(永田 2007 : 116 - 130
)。
◉参考文献
小川了( 1998
)『可能性としての国家誌――現代アフリカ国家の
人と宗教』世界思想社。
)「国際移動の展開と理論」小倉充夫編『国際移
1997
動論』三嶺書房、三―三一頁。
小倉充夫(
河合雅雄監修( 1984
)「カメルーン――アフリカ文明の十字路」
『 Common Sense
』一巻一二号、教育社、八―四九頁。
工藤正子( 2008
)『越境の人類学――在日パキスタン人ムスリム
移民の妻たち』東京大学出版会。
永田貴聖( 2007
)
「フィリピン人は境界線を越える」
『現代思想』
二〇〇七年六月号、一一六―一三〇頁。
)「トランスナショナルな企業家たち――パキス
2007
)『アフリカ都市の民族誌――カメルーンの「商
2005
人」バミレケのカネと故郷』明石書店。
野元美佐(
福田友子(
278
279 中古自動車業を生きる滞日アフリカ人の生活動態
10
特集 3
―
日本に息づくアフリカ
盛 り場﹁六本木﹂におけるアフリカ出身就労者の生活実践
川田 薫
を聞いてみると米国の英語のアクセントとは多少異なった
リカンが主流であるかとの印象が強かった。ところが、話
ていたが、横須賀や福生の米軍を除隊したブラック・アメ
︱︱快適 な空間のためのコミュニティへの道のり
はじめに
英語を話すアフリカ出身者がほとんどであることがのちに
る。一方で、夜になると六本木は盛り場の顔として、六本
日中にはさまざまな年代が訪れる観光スポットとなってい
かにしていくために、二〇〇一年八月から六本木の外苑通
から来て六本木で働いているのだろうか。この疑問を明ら
ここで素朴な疑問が生じる。なぜ彼らがはるかアフリカ
わかることになった。
木交差点から外苑通りの東西にバーやクラブ、または風俗
りのロアビルの近くにあるナイジェリア人オーナーのバー
東京都港区の六本木はミッドタウンや六本木ヒルズなど
店がひしめいており、大人を中心とした社交場に様変わり
開始した。また、バーHの周辺の風俗店に勤務しているア
H (仮名)で勤務している従業員へのインタビュー調査を
著者は、盛り場の六本木の調査を二〇〇一年ごろから本
する。
労者を中心にみながらも、六本木のアフリカ出身のコミュ
ナ人が最も多いとされている。そこで、ナイジェリア人就
フリカ出身者からもインタビューを行った。
本稿では、二〇〇一年から約一年にわたる聞き取り調査
ニティに不可欠な他国出身者も本稿では登場する。
格的に取り組みだした。当時の六本木は黒人が目立ち始め
と、二〇〇八年現在における六本木で就労しているアフリ
身が状況に操作されたり、状況を操作したりという環境の
人間関係を複雑にしてしまうことも起こる。このように自
どが語られ、こうしたうわさ話が利害関係などと結びつき
内部では、インフォーマルな会話の延長線上でうわさ話な
となる。また、六本木という小さなコミュニティの就労者
十全的な仕事への参加を通じて自己の判断の柔軟さが必要
せたり、ときには客が暴力化したときには締め出すなど、
はホストの立場となる。そこで自己を客側のニーズに合わ
しての主体でありながらも、六本木を訪れる客との関係で
もある。こうした環境に身をおいている就労者は生活者と
)
。
ロセスから考えていきたい (レイブ 1993
六本木のような盛り場は、虚飾の世界を演出する空間で
目的よりも、自身がビジネスを起業して村に錦を飾ること
者自身は、出稼ぎのように母国の家族を助けるためという
の動機付けとなったと述べていたことも重要である。来日
政治経済の腐敗による就労機会の減少や賃金の低下が移住
)
。母国ナイジェリアにおけ
者が増加し始める (若林 1996
るプッシュ要因として、聞き取り対象者は軍事政権時代の
発隊として、ついで一九九〇年前後からナイジェリア出身
の好景気の流れのなかで、一九八〇年後半にはガーナが先
純労働者としてであった。アフリカ出身者もこうした日本
り、その受入れ先は町工場や中小企業などの製造業等で単
ア地域をはじめとして多くの外国人労働者が来日してお
日本は一九八〇年代後半よりバブル経済の状況下でアジ
1 ナ イ ジ ェ リ ア出身就労者 の来日背景
Ⅰ 六本木での就労の経緯と民族関係
カ出身者の生活世界の変化を記述していくこととする。当
初の素朴な疑問を明らかにしながら、約七年間を経た六本
木の就労者の変化を、彼らが六本木という状況 (場所)に
埋め込まれた際に自己がどのようにして、六本木の仕事へ
なかで、彼らが快適に就労していくために、就労場所での
と参加していくのかという自己の行為の積極的な変容のプ
助け合いや路上でのインフォーマルな情報交換の場が創出さ
)
。
2006
で、 結 果 家 族 の 生 活 を 豊 か に し て い く と い う 目 的 意 識 を
もっての来日が大半である (川田
れていく過程を環境と自己の両側面から動態的にみていく。
六本木の就労者は、西アフリカのナイジェリア人とガー
280
281 盛り場「六本木」におけるアフリカ出身就労者の生活実践
二〇〇七年に開店している。それまで六本木のナイジェリ
ジェリア人女性オーナーのナイジェリアンレストランが
りのパターンがある。工場労働から転職した者と来日初期
ア料理は、ナイジェリア人オーナーのバーで時折提供する
二〇〇一年時の六本木のナイジェリア人就労者は、二通
から六本木でアルバイトなどの勤務経験者である。さらに
店があったがメインは飲み屋であった。
バーやクラブの出店が契機となり同民族や地縁者が集まる
木 に お け る ア フ リ カ 出 身 就 労 者 の 増 加 は、 古 参 者 に よ る
り、 国 ご と に 棲 み 分 け が で き て い る。 ま た、 ア フ リ カ 出
時 ご ろ に な る と 食 べ に 来 て い る。 ま た、 ガ ー ナ 人 レ ス ト
ナイジェリア人男性の就労者やビジネスマンが夜八―九
六本木のナイジェリアンレストランには、平日はおもに
後者の来日初期から六本木で勤務している者は在住数十年
)
。
ようになっていく (川田 2005
六本木の就労者の出身国は、ナイジェリアとガーナが多
身男性が利用するヘアーサロンもあり、ナイジェリア人が
の古参者と来日したばかりの新参者とに分けられる。六本
いが、少数であるがセネガル人やマリ人、シエラレオネ人、
経営をしている。
こうして六本木では、
アフリカ出身者をター
ラ ン で も、 平 日 は ガ ー ナ 人 男 性 の 就 労 者 が 食 べ に 来 て お
チャド人、ケニア人やエチオピア人などがいる。ナイジェ
リアでは、一般的に二五〇~三五〇ものエスニックグルー
プがあるとされ、三大エスニックグループは、北部のハウ
)
、東部のイボ ( Igbo
)
、西部のヨルバ ( Yoruba
)
サ ( Hausa
である。在日ナイジェリア人の出身民族は、公的な記録と
しては存在していないが、聞き取りからイボ人、中西部の
)が多く、そのつぎにヨルバ人が
民族であるエド人 ( Edo
*
続く。少数派の民族出身者も多くいるのでひとくくりに民
族の類型化は難しいのが現状である。
六本木における変化として、就労者が利用するエスニッ
ク ビ ジ ネ ス の 出 現 が あ げ ら れ る。 六 本 木 で は、 ガ ー ナ 人
オーナーのレストランがガーナ料理を提供するレストラ
ン と し て 営 業 し て い た が、 二 〇 〇 八 年 の 調 査 で は、 ナ イ
ゲットとしたエスニックビジネスが少しずつ現れ始めている。
六本木のバーHのナイジェリア人の就労経緯を聞き取り
大学卒で、外資系会社での現地人と本国の社員の賃金格差
ドアマンでのアルバイト勤務である。ナイジェリアの国立
二〇〇一年一〇月来日。バーHにてセキュリティおよび
に疑問を覚え、日本でビジネスチャンスを求めて単独で来
日した。六本木に行けば仕事があると言われたが、ブロー
カーに引っかかり給料のピンはねが一年間行われた。日本
人と結婚している。
F氏 (ナイジェリア:男性四〇代、イボ人、在留資格:短
K氏 (ナイジェリア:男性三〇代、エド人)
二〇〇七年に日本人妻と離婚した。
族のオーナーと兄が知り合いであったことで紹介される。
日 本 に 暮 ら し て お り、 呼 び 寄 せ で 来 日 し た。 仕 事 は 同 民
た。母国に妻子がおり、在留資格が取得できず仕事上で精
)で あ っ た。 日 本 で 行 わ れ た ビ ジ ネ ス 会 議 を 利 用
Servant
して来日し、B氏とともに東京で約半年共同生活をしてい
呼 び 込 み を 行 う。 大 学 卒 で あ り 母 国 は 下 級 公 務 員 ( Civil
にてアルバイトで六本木交差点の路上でビラ配りおよび
二 〇 〇 一 年 一 〇 月 来 日。 日 本 人 経 営 の ス ト リ ッ プ バ ー
期ビザ→超過滞在者)
一 九 九 四 年 に 来 日。 バ ー H の 系 列 店 バ ー J に 一 九 九 八
神的につらい日々を過ごし、二〇〇三年四月に母国に帰国
上記の就労経緯から、ナイジェリア人において
「同民族」
した。
し た。 六 本 木 の 勤 務 以 前 は 工 場 勤 務 で あ っ た。 兄 は
による口利きが就職先を得る手段として大変有効であるこ
年からドアマンおよびセキュリティとして勤務してい
一 九 八 九 年 に 来 日 し て い る。 六 本 木 の 仕 事 は、 同 民 族 の
た。 高 卒 で あ り、 日 本 人 女 性 と ナ イ ジ ェ リ ア で 結 婚
イ ジ ェ リ ア で は 自 動 車 整 備 工 で あ っ た。 兄 二 人 が す で に
お よ び バ ー テ ン ダ ー の ア ル バ イ ト 勤 務 で あ る。 高 卒、 ナ
二 〇 〇 一 年 一 月 ご ろ に 来 日。 バ ー H に 勤 務 し ド ア マ ン
期ビザ→配偶者ビザ)
S氏 (ナイジェリア:男性三〇代、エド人、在留資格:短
よび在留資格と民族関係についてみていく。
以下では二〇〇一年当時のバーH関連の従業員の経緯お
していくと、オーナーはエド民族であり従業員も同民族の
期ビザ→超過滞在者)
B氏 (ナイジェリア:男性三〇代、イボ人、在留資格:短
た。日本人と結婚し子どもがいる。
オーナーと知り合いだったことで声をかけられて転職し
写真2 「Royal Foods」レストランのナイジェリア
人女性オーナー
エド人が圧倒的に多いことは特徴的である。
2 就労契機 と民族関係 か ら み え て く る こ と
写真1 ナイジェリアの国旗に店名を書いた看板
282
283 盛り場「六本木」におけるアフリカ出身就労者の生活実践
*
とがわかる。事例ではエド人経営者の店には、エド人従業
からで帰りは早朝が一般的である。新米従業員は、七時ご
リズムの関係を乗り越えていない証でもある。異なる民族
という負の遺産が、いまだにナイジェリア国民とトライバ
した同国人よりも同民族が選好される背景には、旧植民地
ができる。それでも必要となるのはコミュニケーション能
者は、言葉や在留資格があいまいな状態でも勤務すること
る程度できるものでないと勤まらない。一方、屋外勤務の
たときなど警察との対応があるため在留資格と日本語があ
仕事内容に関しては、店内勤務の者は、客に問題が起き
ろには職場に着き、店内の掃除や飲料などを業者から受け
同士の微妙な感情や同じ民族語を話すといった親和性など
員が集まってくる。逆に在留資格がなく身元保証人となる
は、ナイジェリア人という単位では微細な人間関係の網の
力である。彼らに期待されていることは、お客を店内に呼
取る仕事がある。
目をみていくことの難しさがある。こうした雇用主と被雇
び込むことである。そこでコミュニケーション方法が重要
血縁者がないイボ人従業員は、辛酸を経験している。こう
用者との関係は、同じ民族であることがより有効に機能し
となる。こうしたコミュニケーションには、言語の使用ま
聞き取りが多かったこともあり、呼び込みには簡単な日本
ある。二〇〇一年時の調査では、バーの新米従業員からの
たはノン・バーバルによるジェスチャーを使用した勧誘が
ていることがバーHの雇用状況からみえる。
Ⅱ 国際色豊かな六本木での仕事
語で「安いよ」、「大丈夫」という言葉で勧誘したり、通り
してくる時間は、従業員によって異なるが、夕方七時ごろ
路上での呼び込みと店内の会計などがある。六本木に出勤
して客や警察などの対応となる。一方、風俗店での仕事は、
兼セキュリティと呼び込み、フロアーではマネージャーと
店での勤務となる。バーやクラブでは入り口のガードマン
六本木のアフリカ出身男性はおもにバーやクラブと風俗
いう付加価値を身につけていくことで、六本木での呼び込
日本語でのコミュニケーション方法をマスターしていくと
非移動タイプは、約一〇年近くの者もおり、期間の長さの
タイプでも六年間も路上で仕事をし続けている者もおり、
る非移動型がみられる。双方において、就労期間は、移動
近のビルの角で同僚と立ち話をしながらお客を物色してい
積極的に行き来しながら勧誘している移動型と、交差点付
られた (川田 2005
)
。
二〇〇八年時の調査では、風俗店の就労者では、路上を
かかる日本人客をなかば強引に引き止めるなどの光景がみ
相 関 性 は な い よ う だ が、 就 労 者 の 長 期 化 が 目 立 つ よ う に
み業を、たんなるアルバイトではなく技術を習得し呼び込
1 サービス業の仕事 から路上での客の呼び込み
なっている。そこで風俗店の呼び込みをしているP氏の変
で、積極的に呼び込みを行わなくてもいい立場になった。
い く タ イ プ で あ る。 現 在 の P 氏 に は 固 定 客 も 多 く い る の
りしてコミュニケーションを楽しみながら客の心を掴んで
ね」といった六本木風な配慮を示し、お客に冗談を言った
配りの点でも、路上で風が強ければ「スカート気をつけて
の勤務は九年目となる。日本語は大変流ちょうであり、気
風俗店などの共同経営を始めたり、関東圏でバーを開業し
多くはない。多くの就労者は、お金が貯まったら六本木で
P氏のように呼び込みの仕事一筋で行っている者はあまり
いため、勧誘は日本人よりもやりやすいと言う。上述した
フリカ出身者においては、言葉がストレートに伝わりやす
多い。英語でのやりとりの方が英語を共通語としているア
六本木の場合は、近隣で暮らす外国人の住人や観光客も
2 日本人客から外国人客への呼び込み対象の変化
みを専門的な仕事に高めた先駆者となっている。
遷を簡単にみていく。
P氏は、テナントが入っている交差点周辺のビルで他店
の仲間の呼び込み従業員と立ち話をしながらも、積極的に
客を物色し、路上を移動することはしない。P氏は、西ア
二〇〇一年時の調査では、風俗店の呼び込みとして就労し
ていくのである。
フリカのギニア近くのK国の出身で在住一三年、六本木で
一年ほどの新参者だったため、早出で店内の清掃から小間
ナイジェリア人 (イボ民族)のA氏は、六本木ミッドタ
P氏のような呼び込み熟練者として成長することは就労
ウン方面で風俗店を共同経営している。マネージャーとし
使いで店舗と路上を行ったり来たりしたり、同僚のセネガ
熟知している点、またP氏の上級的な話術の点で、あえて
て経営管理もしながら、お客が少ない時は自ら路上に出て
期間の長さと比例するものではないようである。そこでナ
路上を行き来しなくても日本人客を呼び込むことができる
イジェリア人A氏の営業活動をみていく。
ようになった。P氏を知る者は、二〇〇メートル離れた場
お客を勧誘することもあると言う。著者にはクラブを経営
ル人と店の周辺から交差点にかけて勧誘をしていた。現在
所からでもP氏は客を引っ張ってくることができると述べ
しているとだけ言ったが、同行のナイジェリア人から事前
のP氏は六本木では、古参者としてお客の呼び込み方法を
ていた。つまり、P氏の場合は、六本木という盛り場風な
284
285 盛り場「六本木」におけるアフリカ出身就労者の生活実践
た。A氏は、世襲制の伝統的宗教の預言者の家に生まれ、
性が男性客を接待する風俗店であることは教えられてい
れてこなくてはならない日本人を勧誘しなくても、外国人客
うになる。A氏の店での選好には、長時間かけて説得して連
とが可能であり、かつ身の危険を最小限にとどめていけるよ
を選好することで、言語面のバリアーを簡単に乗り越えるこ
ため、風俗店従業員は外国人客をターゲットとしていくこと
祖父から信託を受け世襲した。六年前に来日したが、その
に通称トップレスバーと呼ばれる東欧出身やアジア出身女
動機として神から日本に行けとのお告げを受けたと言う。
が来店してくれる状況は、結果として外国人を対象としてい
*
A氏は、歌舞伎町でのビラ配りの仕事から、六本木に移っ
く戦略が採用されることへと結びついていく。
客もついていると言う。外国人客が多くなる理由は、英語
嚼していく作業を経ていくことで、行動パターンをより安
との体験や就労仲間からの情報を共有しながら、情報を咀
との集積地でもある。そのため、呼び込み従業員自身の客
盛り場という性格上、多様な国籍の人びとが集まる人び
たあと、同民族のイボ人から風俗店の共同経営の話をもち
を媒介として意思疎通がしやすい点がある。一方で日本語
全な方法として確立させていかなくてはならないのである。
かけられた。お客の八割は外国人、二割が日本人で、固定
がさほど流暢でないため日本人客を店まで連れてくること
1 バ ー従業員 の多様 な民族性
Ⅲ 六本木のクラブにおける﹁イメージ﹂の創出
は簡単ではないと言う。
A氏も路上で呼び込みをするが、店のナイジェリア人の
呼び込みスタッフの日本語の会話レベルや、呼び込みの結
果として日本人客を多く呼び込めない、ないし積極的に呼
び込まないのが現状である。日本人男性客にとっては、黒
人に声をかけられることは、ぼったくられるかもしれない
六本木のメインストリートに位置しているバーの前で
という怖い体験と感じる人もいるようである。一方で、日
ラブの人員の配置に一定の決まりがみられる。バーHの入
本人客の場合は、覆面捜査員などの客になりすましている
環境を作り出していた。店内はナイジェリア出身オーナー
は、アフリカ出身の就労者がタキシードを着て客の案内兼
六本木は多くの外国人が遊びに訪れる盛り場である。その
としてのアフリカ的趣向はいっさい排除され、海外の客に
ので呼び込みは慎重にならざるをえない。A氏は、日本人
り口には、体格のがっしりとしたアフリカ出身者がドアマ
受け入れられやすいカジュアルな雰囲気で、訪れた客の写
セキュリティをしていたり、黒色のカジュアルな洋服で入
ンとして配置されているが、内部に入ると、アメリカ発信
り口に立って呼び込みしている姿をみかける。こうしたク
の音楽が流れるなか、日本人や白人 (オーストラリア人、
真が壁一面に貼ってあり、日本的な和の嗜好とは対極の西
客をターゲットにしなくとも商売にはさほど影響はないと
アメリカ人、ニュージーランド人)男 性 バ ー テ ン ダ ー、 ロ
洋のイメージを戦略的に創造していたことで、成功を収め
述べている。
シア人女性、フィリピン人女性、そしてナイジェリア人女
ていった。
所の場となる。メインストリートと路地のバーとでは、就
出身者が働いており、客も同国人が多く訪れるような集会
一歩入ったアフリカ出身者が経営しているバーでは、同国
タッフがあまりいないことに驚く者もいる。一方、路地を
が い る が、 ド ア マ ン は ア フ リ カ 出 身 者 の 黒 人 で あ る。 同
メージ」であると述べた。バーHは、多様な国籍の従業員
て 入 り 口 で 立 っ て い る こ と で 客 に 提 供 し て い る の は「イ
マンとして路上で働いていたB氏は、黒人がドアマンとし
二〇〇一年当時、メインストリートのバーHの前でドア
2 イ メ ー ジ と し て の黒人従業員
性とナイジェリア人男性スタッフという国際色豊かな構成
となっている。店内の黒人の割合は、バーにもよるが非黒
人が多く占めている。そのため、入り口で大柄の黒人に声
労者の国籍も客層も様変わりする点は、お店の立地や広報
オーナーの系列クラブのドアマンも大柄のナイジェリア人
をかけられて入店した日本人女性などは、店内には黒人ス
ということも影響があるようである。
でも六本木で行くバーやクラブを検索するとバーHの名前
』 や『メ ト ロ ポ リ タ ン 』 な ど
け の『 Tokyo Notice Board
のフリーペーパーにも広告を載せていた。また、海外から
したが、二〇〇一年時は、ホームページもあり、外国人向
は表現することが難しい分野であるとし、黒人は外国人客
氏は、黒人の朗らかさなどフレンドリーな一面が、白人に
ミュニケーションが可能などをあげていた。なかでも、B
B氏は、黒人の「イメージ」を客に提供している点に、
男性であった。
が記載されており、外国人客で賑わっていたバーHは、東
や日本人客を問わずコミュニケーションを円滑にしていく
メインストリートに出店しているバーHは、現在は閉店
京だけではなくグローバルな広報活動をしていたのであ
ことができると述べた。
外国人のいるバー、フレンドリーさ、用心棒、英語でのコ
る。こうした店の戦略が、多様な国籍の従業員が勤務する
286
287 盛り場「六本木」におけるアフリカ出身就労者の生活実践
*
B氏は、日本人にこうした返答をする理由として、相手が
何者か分からないので、自身の安全を守るために、アメリ
B氏の語る黒人のイメージは、客からはアフリカ出身者
でも米国系の黒人でもどちらに受け取られても構わないと
の?」と質問されてしまう。B氏は、「アメリカから来た
カと言っておけば、まずそれ以上質問をされずに面倒に巻
と言えば質問はされないのに、アフリカから来たと言えば
述べている。そして重要なことは、六本木における国際性
バーや風俗店を問わずアフリカ出身従業員から名刺をも
日本人は必ず、なぜ来たかと、質問してくる。おかしいよ」
き込まれないことをあげている。万が一、正直に出身国を
らうと、米国や英国風の簡単な名前の者が多い。従業員に
言 え ば、 日 本 人 客 か ら「な ん で ア フ リ カ か ら 日 本 に 来 た
は、キリスト教徒も多いが、イスラム教も多少いる。彼ら
と述べている。結局、日本人に対してはアフリカ出身とい
のコンテキストに即した、親しみやすさを前面にだした外
の本名は、別にあり、いわゆる源氏名を六本木では使用し
うことを介して有益なコミュニケーションを生み出さない
国人従業員としての顔となることとつけ加えた。
ているのである。そのため、同じ名前同士の者がいること
のである。
図的に隠し、客に覚えてもらいやすい名前をつけている。
本人の宗教や出身などの背景が客には分からないように意
は、キリスト教的な名前を源氏名として使用しているため
名と本名が近しい場合もある。一方で、イスラム教徒の者
ていく、ないしあえて日本人的思考に便乗することで関係
応から、アフリカ出身者が積極的に日本人客の要望に応え
とは承知しているとつけ加えた。こうした日本人による反
はアフリカ出身」という答えを日本人は期待していないこ
動物」のイメージがほとんどであるため、黒人従業員が「私
知らないし、知っていても「エイズ」、「貧しい」や「野生
B氏は続けて、たいていの日本人客が、アフリカの国を
もある。キリスト教徒などは、ミドルネームは民族名でも、
こうした名前を一例として、彼らが自身の素性を明らか
性をスムーズにしていることがわかる。
下の名前を聖書から名づけられている者も多いため、源氏
にせず就労している点は、日本人客とのやりとりから垣間
「ヨーロッパやアメリカの外国人客は、アフリカのこと
ように述べる。
一方で、外国人客についての対応に関し、B氏は以下の
見 る こ と が で き る。 そ こ で B 氏 と の 会 話 か ら み て い き た
い。
B氏は、六本木のストリートで就労している黒人に、日
をよく知っている。私がナイジェリア出身と言えば何らか
本 人 客 が「ど こ 出 身?」 と 聞 く と、「ア メ リ カ 」 や「ジ ャ
マイカ」との答えが返ってくるのが普通であると述べる。
就労者自身は、こうした使い分けは、日本人女性の気を
に対しては、源氏名を使用するように、自身も日本人客に
引きたいなどの別のコンテキストで使用されるケースもあ
の返答をしてくれる。ビジネスで行ったことがあるとか。
てないけれど、聞かれれば正直に答えるけど、話しがそこ
る が、 一 般 的 に は 日 本 人 の ア フ リ カ へ の ネ ガ テ ィ ブ な イ
合わせてさまざまな国の名前を使い分ける態度を身につけ
で終わってしまう。外国人でもブラック・アメリカンとは
メージないしアフリカへの関心の低さが、就労者自が自身
ていることが無難な対応になっている。
ア フ リ カ の 人 と の 関 係 が 微 妙 に な る 場 合 も あ る。 ブ ラ ッ
いつも好意的で、話していても楽しい。外国人には、自分
ク・アメリカン側は、ビラ配りしているアフリカ人を自分
を臨機応変に変身させていく方策を生み出していったと言
の出身国は隠すことはない。日本人にも私は隠そうとはし
達と一緒に思われるのを快く思ってないこともある。アフ
える。
1 バ ーH に お け る従業員 の互助関係
Ⅳ 六本木におけるインフォーマルなコミュニティの創造
リカ出身でもセキュリティのような仕事だと、ブラック・
アメリカンとの付き合いは問題がないが、深い付き合いは
危険なことに巻き込まれることもあるから。」
また、P氏は、西アフリカのギニア近くの小さな国の出
身であり、アメリカやカリブ海諸島に連れて行かれた解放
奴隷の移住地としての歴史をもつ国の出身である。P氏と
六本木は盛り場として客たちがひとときの開放感を求め
の会話から、
六本木に来る日本人客で、この国の名前を知っ
ている者は二〇〇一年当時ほとんどいなかったと言う。一
て 集 う 場 所 で あ る。 就 労 者 に と っ て は、 長 時 間 の 立 ち 仕
ぎた客が喧嘩を始めたり、物が盗まれたりなどのトラブル
事、冬になれば雪でも外で長時間の仕事をしなくてはなら
も起こり、従業員たちは客の対応を迫られる。こうした場
方で、米国やヨーロッパからの外国人客は、P氏の出身国
六本木の就労者は、決してアフリカ出身であることを公
については過去に深刻な紛争が起こっていた国としてほと
言しないという態度ではない。外国人客には、求められれ
合は、路上で勤務するバーのドアマンも喧嘩の仲裁として
ない肉体的にきつい仕事である。加えて、開放的になりす
ば出身国を伝えるし、そのうえでコミュニケーションが活
バーの店内に駆り出されることもしばしばである。外国人
んどが知っているのが現状であった。
発になり、お客が来てくれることもある。一方で日本人客
288
289 盛り場「六本木」におけるアフリカ出身就労者の生活実践
で、自ずと社員同士の横の関係性が重要になる。
バーH(二〇〇三年当時)のアフリカ出身者の従業員は、
客の扱いには従業員は慣れているものの、日本人客のなか
には飲みすぎて暴れたり、私物が紛失すれば警察を即座に
概要で述べた、従業員S氏とB氏は、近い時期に入店して
ナイジェリア出身のエド人とイボ人で占めており、マネー
従業員は、こうした日本人客とのトラブルの対処法とし
いる。マネージャーの二名は、エド人であり。マネージャー
呼びバーの責任問題として訴えもじさないとの態度の客も
てマニュアルなどはない。そのため客の属性や体格などか
もらい工場勤務から転職した。日本語が比較的上手である
ジャー二名と従業員二名であった。Ⅰ章の2節の従業員の
」
ら判断し、体格のいいドアマンが大きな声で「 Get Out!
と一喝したり、それでも効果がない場合は、身体を使って
ことをかわれてマネージャーとしてのポジションを得てい
おり、揉め事は絶えない場所である。
威 嚇 し て い く な ど (暴力をふるうことは極力行わない)の
る。もう一名のM氏は、O氏がマネージャーとしての力量
ネージャーとして入店した。
O氏は、エド人オーナーと同民族であることで紹介をして
方法で、トラブルを起こす客を店から締め出していく。す
不 足 で 解 雇 さ れ た こ と で、 別 の バ ー か ら 引 き 抜 か れ て マ
こうした微細な酔っ払い同士のトラブルで、客が警察を
べて瞬時の判断と経験が要求される事柄である。
ネージャーが対応し、責任の所在がバーになければ、つぎ
が 多 い。 こ う し た ト ラ ブ ル を 日 本 語 で 対 応 で き る 男 性 マ
同じバーで就労しているアフリカ出身者は、同国人男性
きは電話で頻繁に連絡をとり合ったりという関係が続いて
一年ほどチームで行っていたので、六本木で仕事仲間のと
発せられているものであった。B氏とS氏は、同じ仕事を
度ではなく、笑い飛ばしてしまおうという寛大な視線から
しかしこうした呼び方は、のけ者にするといった陰湿な態
バーHのナイジェリア従業員は、マネージャーのO氏が
に大柄の黒人が身体的に圧力をかけてバーから追い出して
いた。マネージャーのM氏は、人望が厚かったことで、頼
呼んでも、警察は介入することはほとんどないのが現状で
いくという連携作業をとっていく。同じ職場で勤務してい
れる存在としてナイジェリア人従業員からは対等にみられ
マ ネ ー ジ メ ン ト に 問 題 が あ る こ と で、 冗 談 半 分 に 彼 の こ
るかぎり、チームメートとして連携し店を守っていくこと
ていた。こうして従業員が民族を越えたバランスのよい関
」と影で呼んでいた。
とを「オートート (信頼できない者)
も、彼らの業務のひとつとなっている。多角的に経営して
いる。ここでは、『ストリート仲間』と命名し彼らの人間
ある。六本木では、こうした微細なトラブルは日常茶飯事
いるオーナーの場合は店に毎日顔を出すとは限らないの
関係のあり方を示していく。ストリート仲間とは、顔を合
であるからである。
係を築けたことで、バーH内のナイジェリア人従業員は、
わせればちょっとした会話をする程度のインフォーマルな
ことでもある。しかし、たんにバーでの就労は、働く場所
は、従業員の生活を支えている経済活動の場を守っていく
を 客 や 警 察、 と き に は 暴 力 団 の 妨 害 か ら 守 っ て い く こ と
バーHのナイジェリア人従業員たちが「自分たちの店」
なストリート仲間の存在はある。しかし、アフリカ出身者
の交流となっている」(川田 2005
)
。
二〇〇八年時でも、こうしたインフォーマルでゆるやか
ルバ人間の仲間の交流は、民族間のバウンダリーを越えて
人同士では、六本木のストリートではイボ人、エド人、ヨ
語り合うという比較的内輪的なものである。ナイジェリア
*
個人主義的な利益に走ることなく、客とのトラブルをチー
という場の提供というのではなく、従業員同士が就労場所
のバーのドアマンと風俗店の呼び込み従業員では、挨拶や
ネットワークとして、六本木の就労者同士での共通話題を
ムワークでうまく収めていくための、小さな互助集団とし
*
へ の 愛 着 や 人 間 関 係 の 繋 が り に よ り 育 ま れ る「人 の 気 持
て機能していたようにみえる。
ち」が通う場として民族のバウンダリーを越えた関係を創
握手はするが、職種の違いからお互いに親密に交わること
は な い と い う。 二 〇 〇 一 年 時 点 で も、 こ う し た 職 種 の 違
いには、暗黙裡にドアマンが呼び込みよりも地位が高いと
い っ た 序 列 関 係 が、 あ か ら さ ま に 態 度 で 示 す も の で は な
かったものの、双方が感じているものであったとB氏は述
スをしたり、不満などを話し合ったり、またはちょっとし
いないようだが、ストリートでも顔なじみが各々アドバイ
くは国毎の就労者による組織的な援助グループは存在して
「六本木のストリートでは、アフリカ出身者同士やもし
の違いが年齢や経歴を越えた序列関係を垣間見ることがで
給料も多く得ている。こうした、会話の一端からも、職種
る。実際P氏はB氏よりも数年年上で、六本木での先輩で
立場に話しかけるときの呼びかけのピジン英語を用いてい
ンであったB氏に話しかけるときは、「オガ」という上の
二〇〇八年の調査では、呼び込みのP氏がバーのドアマ
べている。
た生活上で分からないことなどの情報交換を行うなどして
論じた。
リートの就労者の情報交換に関して、下記のような状況を
二 〇 〇 一 年 か ら の 調 査 で、 著 者 は 六 本 木 に お け る ス ト
2 情報交換の場としてのストリートの序列関係
造させたことで、より円滑な経済活動が生まれている。
*
290
291 盛り場「六本木」におけるアフリカ出身就労者の生活実践
*
六 本 木 に お け る ス ト リ ー ト 仲 間 を 詳 細 に み て い く と、
まってお客を探しながら話している光景がより目立つよう
しながら知り合いと話をしたり、交差点の角で数名がかた
として働いている風俗店の呼び込み従業員が、道を行き来
身オーナーのバーやクラブが減少したことで、路上を拠点
バーと風俗店の就労者の間では、挨拶程度の顔見知り程度
になっている。
きる。
に留まるレベルで、同じ職種の場合は仕事を通じてのイン
呼び込み従業員は夜から早朝にかけて路上で呼び込みの
フォーマルな情報交換が機能し始めるというように職種ご
とに形成されるネットワークが分化しているのである。ま
仕事をしており、繁忙時間と閑散な時間帯や曜日がある。
話す光景が見られた。その集まりには、呼び込み従業員の
二〇〇八年に六本木を訪れた時は、平日の閑散としている
P氏と六名くらいアフリカ出身男性が話し合いをしてい
た、B氏は、同国人でも職種の違いにより顔見知りにはな
二 〇 〇 一 年 か ら の 調 査 で は、 こ う し た 職 種 の 相 違 に よ
た。上段に座っていたのは、ベテランのP氏とガーナ人の
るが、挨拶以上に話し合える関係を築きにくいと述べてい
る、序列関係を見極めることが困難であった。個々の対象
時間帯であり、自然と路上の呼び込みの数名が腰をかけて
者の経歴を知っていた著者にとっては、母国の大学に在学
ベテラン呼び込み従業員で、囲むようにアフリカ出身従業
る。
中に来日したP氏は、大卒のB氏と教育レベルでの立場に
員が立って話し合いに加わっていた。
い る と 述 べ た。 続 い て P 氏 は ミ ー テ ィ ン グ を し て い る と
P氏は、著者の問いかけに「黒人ミーティング」をして
は大きな相違がないと感じていた。しかし、現場で働く就
ないのに対して、仕事の内容は個々の経歴を覆い隠しなが
断ったうえで、著者と簡単な会話をした際に、興味深いコ
労者においては、教育レベルは自ら語り・語れるものでは
ら自ら語らざるをえないのである。アフリカ出身者が多く
メントを述べていた。
著者は調査時、知人女性と一緒であったが、P氏は「こ
就労している盛り場は、P氏の事例のように地位の逆転が
簡単に起こりうる場にもなるのである。
こ (六本木)で結婚している女性が男の人と個人的に話し
をすることは、あまりいいことではないんだよ。ここでは
が長いから先輩として下の人にちゃんと示しをつけていか
うわさになったりすることもある。自分はここ (六本木)
二〇〇八年の調査では、メインストリートのアフリカ出
るように映る。P氏の述べていた「コミュニティ」に関す
いう「ここにしかない唯一」という場所性が創造されてい
越えた、何か愛着といった感情が付与された「六本木」と
ミュニティは、いろんな事があるから、自分が大丈夫でも、
たくさん裁判にもなったりするから」、そして「ここのコ
ないといけないから」と加えた。著者は既婚者であり、六
る言説には、古参となった先輩としての立場の視点から、
3 呼 び込 み従業員 が創造 す る コ ミ ュ ニ テ ィ
本木では著者の配偶者がどういう人物かはP氏も含め一部
あらゆる辛酸や楽しい経験を仲間と共有してきた感情的な
となる仲間内からの反抗の可能性も含んでいる。六本木と
方向性があると同時に、「うわさ話によって誰かが被害者」
して盛り場での警察や入管職員など権力側に抵抗していく
ミーティング」では、
「自身や仲間を守っていく方法」と
とも示唆している。六本木では、P氏の言うように「黒人
時として外部の口コミによるネットワークに乗っていくこ
情報が六本木という狭い空間で共有されるだけではなく、
るアフリカ出身者によって権力から身を守ってくれる「味
警察とのトラブルの場合には職種を問わず駆けつけてくれ
が感じている「共有のコミュニティ」でもあり、ときには
との交渉といった特殊な技量を共有している呼び込み同士
び込みという仕事にともなう危険やリスクの回避方法や客
い。しかしながら、古参者のP氏においては、路上での呼
区分けされたような実体として存在しているものではな
P氏が語った六本木におけるコミュニティは、地理的に
ニティとして表現されたと考えられる。
結びつきの反映として、換言すれば「共生」感覚がコミュ
のアフリカ出身者は周知している。
P氏の言説は、六本木におけるアフリカ出身者や他国の
いう場所性には、公権力との衝突や人間の陰陽の感情など
方としてのコミュニティ」、うわさ話によって中傷される
従業員同士が顔見知りや知人という関係が築かれており、
が渦巻いており、就労者自身がこうした目に見えない情報
者が多数であったことで個々が自分の仕事に必死の状況で
めた時期であり、新参者や就労して一~二年目という就労
二〇〇一年時は、六本木にはアフリカ出身就労者が増え始
ある意識の相違が見受けられる。人種による分類でしかな
語った「黒人」と「アフリカン」に横たわる表現の根底に
えて「黒人ミーティング」と日本人である著者に日本語で
また、P氏が「アフリカンミーティング」ではなく、あ
える。
「敵対的なコミュニティ」にもなるという多面性がうかが
あった。ところが、約七年の月日を経たことで六本木とい
い「黒人」が、日本人客側の選好で使用されていることを、
P 氏 の「こ こ の コ ミ ュ ニ テ ィ」 の 語 り に 関 し て は、
操作に対して敏感にならざるをえないのである。
う場所が就労するためのたんなる場所であるという感覚を
292
293 盛り場「六本木」におけるアフリカ出身就労者の生活実践
が、日本人にはイメージを喚起しやすいのである。P氏の
にアフリカンを主張するよりも、黒人として総称すること
フリカ出身という大枠では、彼らは同じアフリカから来た
ら、同時に同質的な側面が混在している。サハラ以南のア
た大都市に位置する六本木の盛り場は、異質的でありなが
六本木におけるアフリカ出身の就労者自身の視点からみ
そこで考察として以下のことを知見として提示していく。
語りからは、六本木での日本人が考える「黒人像」を代弁
彼らが意識し、感じていることである。六本木では対外的
しているようでもある。
ブラザー (同胞)同士としての同質的な意識感覚がある。
には職業に応じて序列や階層が暗黙裡に共有され、仕事に
しかしながら、風俗店呼び込み従業員とバー従業員との間
Ⅴ まとめ
と も な う 問 題 や 悩 み な ど の 情 報 は、 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン
ネットワークの観点からは積極的な共有が認められない。
︱︱就労環境を快適な空間に創造していく営為
ブ ラ ザ ー と し て 同 質 性 を 共 有 し な が ら も、 職 種 の 相 違 に
しかし、アンビバレントな関係でありながら、路上で巡
よって異質であることが創出されている。双方はアンビバ
回警察との小さなトラブルが起きた場合は、職種を問わず
六本木で就労しているアフリカ出身者は、大都市の盛り
本でお金を稼いで独立し事業を興すことである。そのため
場で経済活動を行っている。アフリカから遠く離れた日本
には、工場労働より多くの収入を得られる場所として、六
路上で働いているアフリカ出身者が集まり圧力をかけて警
レントな関係なのである。
本木がアフリカ出身者の就労場所として発展を遂げてきた
察 と の ト ラ ブ ル を 回 避 さ せ た り す る の で あ る。 六 本 木 で
に来た経緯は、ガーナ人やナイジェリア人などはおもに日
のである。
風俗店呼び込みのP氏は、日本人オーナーの店で同じく
また、盛り場は外部からさまざまな出身地 (国)からの
は、こうした助け合いは、出身国や職種に関係なく自身に
ニティの萌芽の観点から考察してきた。
勤務している呼び込み担当のガーナ人やアメリカ人とチー
もトラブルが起こる可能性があるため、六本木のアフリカ
客が流動的に訪れる場所としてつねに異質性を受け止める
ムで役割分担をしているが、仕事自体は一人で行う。その
本稿では、都市における盛り場としての状況 (場所)に
場所である。ホストとしての就労者は、それぞれの職種の
点ではバーのドアマンが客を待つ受身な立場なら、P氏は
おける就労者の仕事への参加を、バーのセキュリティと風
コンテキストに沿って言葉で客を口説き落としたり、ノン
自らより能動的に動かなくてはいけない。こうした能動的
出 身 の 就 労 仲 間 と い う 範 疇 と し て 適 用 さ れ る 点 で、 ブ ラ
バーバルな身体表現を用いながら、客にとっては六本木と
な仕事は、P氏はビザがありベテランであっても警察の取
俗店の呼び込み従業員というアフリカ出身者の二大職業に
いう異界の雰囲気を親しみやすい場所へと変換させていく
り締まりで捕まる危険を伴う。それはP氏よりキャリアが
ザーとして同胞を守っていこうとする同質的ベクトルが働
のである。こうした変換の装置は、国際的な盛り場でのイ
長 い 呼 び 込 み の ガ ー ナ 人 も 同 じ 境 遇 に あ る。 一 方、 ナ イ
くのである。
メージを提供するアフリカ出身経営者のバーでみられた。
ジェリア人風俗店マネージャーA氏のように、外国人客を
おける呼び込みの仕事、イメージとしての黒人、ストリー
国際的な場をイメージしてやってくる客に対してアフリカ
ターゲットにすることで、より身の安全を確保する対処法
294
295 盛り場「六本木」におけるアフリカ出身就労者の生活実践
トの職種による序列関係、そして呼び込み従業員のコミュ
出身ドアマンは、米国の古い映画のようなフレンドリーで
もあるが、安定的な集客のために日本人客を外すことは、
P氏は、経験と技量の面ではインフォーマルセクターの
人 当 た り の よ い「黒 人 」 を 演 じ、 ア フ リ カ 出 身 オ ー ナ ー
極みである単純労働の中の「呼び込みの仕事」を専門的な
は、客の嗜好に近づけるために、店舗の内装や音楽を欧米
イ ン フ ォ ー マ ル な コ ミ ュ ニ テ ィ に 関 し て は、 在 日 ナ イ
仕事にまで高めたプロフェッショナルである。こうしたP
経営面でのリスクを抱えることになるのである。危険やリ
ジェリア人などが組織している相互扶助を基盤とした同郷
氏やガーナ人の呼び込みが輪になってインフォーマルに仕
風にし、アフリカらしさを排除している。こうして欧米の
人団体のような金銭的な助けはないものの、情報交換や就
事の情報交換や日常の会話の場としての「黒人ミーティン
スクを最小限に軽減するには、現場の呼び込み担当の経験
労中のトラブルに対しての互助的な側面がある。バーHの
グ」が機能していることは、六本木におけるアフリカ出身
に基づく勘や技量に頼らざるをえない。
事例では、同じ環境に身を置くナイジェリア人出身者同士
就労者の定着化とそれにともなう情報共有の必要があるこ
イメージを戦略的に採用することで異界な空間を心地よい
で は、 イ ボ 人 や エ ド 人 の 民 族 を 越 え た 冗 談 関 係 や 情 報 交
親しみのある空間に変換する創意がみられた。
換、ときには仕事の悩みにまでおよぶ精神的な互助のよう
とを示唆している。
このように定着化の一端としてP氏が語った六本木のア
な親密な関係性を築いていくことで快適な就労環境を築こ
*
うとするベクトルが働いていた。
*
フリカ出身者の「コミュニティ」像には、ストリート仲間
が微細なトラブルが起きたら協同で助け合う同質の意識が
みられる。反面、ストリート仲間が仲間の行為を観察して
いるという同質的なコンテキスト内でも、うわさ話や揉め
)。ナイジェリアでは、一九六〇年後半に起き
1971 : 94 - 124
たイボ人を中心としたビアフラ戦争のようにナイジェリア国
川
家、部族間のコンフリクトを断ち切り独立国家の樹立のため
の民族自決運動がある。著者は、ビアフラ戦争の出来事もふ
まえて、ナイジェリアが英国から独立し、国民国家として近
立場を積極的に採用し「民族」の呼称にすることで、近代に
の呼称からナイジェリア人が国民―国家を生きる主体という
代化を目指す過程で、旧宗主国からラベリングされた「部族」
て排除していく。六本木のコミュニティは、同質と異質が
おける他民族との共生を捉えようとしている。
事に端を発した嫉妬や規範に反する行為を異質な事柄とし
混在しながらも、六本木を単なる経済活動の場所として捉
外の日本人に言うことはほとんどない。こうした業種の仕事
に携わっている者が、自ら風俗店で勤務していることを客以
*2 調査では、風俗店を経営している者やその呼び込みなど
えるのではなく、心理的にも強い結合関係が構築されてい
る「コミュニティ」と言えそうである。こうした多面的性
格を持ち合わせた「コミュニティ」で就労しているアフリ
は、「あまり人には知られたくない仕事」として感じている点
にある。また、一般的に風俗店やバー勤務を問わず夜に仕事
カ出身者において六本木は、生き抜いていくための実践的
な学習の場所であり、より快適な就労環境を創造していく
をしていることを母国の身内に詳細に教えることもしたがら
に「しょうがなく」やっているにすぎないとの認識が強い。
ない。風俗店を経営している者は、お金を短期間で稼ぐため
知恵が要求される社会生活の場所でもある。
◉注
かりのために頑張っているのである。
そのため一生かけての仕事ではなく、次への事業展開の足が
*1 「民族」と「部族」のどちらの呼称を使用するかについて
は、現在において統一の議論には達してはいない。しかし、
双方において、文化集団の基本単位として、成員が共通言語
装が行われて、ダンスができないような作りになっている。
二〇〇八年現在の調査では、六本木におけるバーやクラ
ブのようなお酒を飲み、ダンスができる店舗はほとんどが改
あわせている点は共通している。「部族」の呼称は、英国など
準が設けられているようで、警察の取り締まりを予防するた
*3
の宗主国が植民地化政策において間接統治に便宜上「 tribe
」
として、日本語訳では「部族」として蔑称的にラベリングさ
めに、ダンスができるバーやクラブはこの数年で数が減少し
を使用し、共通の統合的文化を共有し、強い共属意識をもち
れたものである。発展段階論的な議論では、歴史が進むにつ
ている。
富川盛道( 1971
)「1 部族社会」『地域研究講座 現代の世 界
)『状況に埋
1993
め込まれた学習――正統的周辺参加』佐伯胖訳、産業図書。
ジーン・レイブ、エティエンヌ・ウェンガー(
一七九―一九〇頁。
)「在日ナイジェリア人のコミュニティの形成――相
――( 2007
互扶助を介した起業家の資本形成」
『年報社会学論集』二〇号、
学論叢』一一号、一二七―一三八頁。
)「在日ナイジェリア人のコミュニティの共同性の構
――( 2006
築――イモ州同郷人団体がつなぐイボ民族の生活世界」『生活
学院社会学研究科紀要』六〇号、七一―九二頁。
川田薫( 2005
)「東京の西アフリカ系出身者の生活戦術――六本
木におけるサービス業従事者を事例として」『慶應義塾大学大
)『文化とコミュニケーション――構
1981
造人類学入門』青木保・宮坂敬造訳、紀伊国屋書店。
エドマンド・リーチ(
◉参考文献
風営法により、ダンスフロアーを設置するには、別の法的基
れ「部族」から「民族」へと移行していくといった議論もある(富
*4 バーHが二〇〇五年に閉店した後は、S氏は六本木をいっ
たん離れてから、再度風俗店の共同経営者として戻ってきて
いる。O氏は、六本木で勤務したあと、千葉県内でバーを開
業した。M氏もバーHの閉店後は埼玉県でバーを開業してい
る。B氏は、六本木から工場勤務となった。二〇〇八年現在
は頻繁なコミュニケーションはないものの、六本木を訪れた
りする時は仲間に声をかける関係である。
を設立している。団体のおもな活動には、就職先の世話、金
*5 在住ナイジェリア人は、出身州や民族ごとに同郷人団体
銭的な支援、母州の発展プロジェクトの支援がある。在日ナ
イジェリア人の日本での雇用事情はきわめて厳しいため、在
日ナイジェリア人のなかで会社経営をしている者も増えたこ
とで雇い入れや口コミを通じ職を紹介することがある。金銭
的な支援では、日本における福祉制度の限界により、多額の
金銭を賄えないときに行う。たとえば大病を患うや死亡した
際の母国への搬送資金を会員から、または寄付金集めのパー
アフリカ』ダイヤモンド社。
山口覚( 2008
)『出郷者たちの都市空間――パーソナルネットワー
クと同郷者集団』ミネルヴァ書房。
ティーを行い募金を集める。母州の発展プロジェクトの支援
は、母州からの要望があると、パーティーやミーティングで
若林チヒロ(
)「滞日アフリカ黒人の『プライド』形成のた
1996
めのネットワーク」駒井洋編『日本のエスニック社会』明石
寄付金を募り、集めた募金は、要請された州への慈善事業と
書店。
して利用される。たとえばナイジェリアの南東部にあるイボ
人が多く暮らすイモ州政府からイモ州立大学の寮施設の要望
和崎春日(
市問題研究』四〇巻二号、七九―九五頁。
)「都市人類学からみた『都市の本質』――都市
1988
生活者の『生き抜き』戦略とエスニック・バウンダリー論」
『都
を州行政担当より受け、施設建設資金としてあてられる予定
)。
2006
があるなど。会員の相互扶助に焦点をおいた活動が認められ
ている(川田
(かわだ・かおる/財団法人エイズ予防財団)
296
297 盛り場「六本木」におけるアフリカ出身就労者の生活実践
特集 3
―
日本に息づくアフリカ
結婚、移住してガーナを生きる日本の女性たち
若林 チ ヒ ロ
り、現在ではこの西アフリカ二ヵ国ですべてのアフリカ地
域の外国人登録者の四割を占めている。
かつて、アフリカ地域からの来日は国費留学や行政関係
限定していたため、一般の日本人がふだんの暮らしでアフ
はじめに
一九八〇年前後、来日して就学・就労する外国人が急増
リカ地域出身者に会うことはほとんどなかった。しかし現
などで一定期間のみ来日する人に限られ、生活する地域も
した。大部分はアジア地域出身者であったが、アフリカ地
在、彼らは工場やレストランなどで日本人と働き、電車や
し二世の子の学校行事に参加するなど、首都圏では一般の
スーパーを利用して地域生活を送っており、日本人と結婚
アフリカ地域すべての国の人を合計しても数百人単位にし
日本人が多様な場でアフリカ地域出身者に会うことは珍し
務省在留外国人統計)をみると、一九八〇年代初頭までは
かならなかったが、
現在は一万人を超えている。背景には、
域出身者も少なからず含まれていた。外国人登録者数 (法
一九八〇年代から一九九〇年代にかけてガーナとナイジェ
)
。
いことではなくなった (若林 1996
初期に来日した人では四半世紀が経過して五〇歳前後に
課題となっている。ある人は今後も続くのであろう日本で
に、夫の帰国に伴ってガーナに移住する人が出始めた。彼
)
。
なり多様性をみせている (若林 2008
このようななか、ガーナ人と結婚した日本人女性のなか
リアから来日して就学・就労する人々が急激したことがあ
の定住生活を充実させるよう対応し、ある人は帰国して仕
女 ら は 日 本 で ガ ー ナ 人 と 知 り 合 い、 し ば ら く 結 婚 生 活 を
なり、将来的な生活の基盤をどこに置くかが人生の岐路の
事や住居など母国での生活の基盤を築き直している。
送った後、夫や子と共にガーナへ移住している。一九九〇
本稿で書いてみたいのは、このような日本人女性につい
定住の選択が可能となるのは、大部分は日本人女性と結
てである。アフリカ地域出身者と日本人女性との結婚がわ
年代初頭から少しずつ増え、現在は約三〇世帯、一〇〇人
強と推定される。結婚により、安定した就労条件や地域生
ずか四半世紀ほどの間に数千件の単位で生じる背景には、
弱の日本人女性とその子らがガーナに移住して暮らしてい
活となり、妻の家族や知人など日本人とのつながりを深め
どのような意識や社会があるのか。彼女らが選んだ結婚や
婚して正規の滞在資格を得た人々である。二〇〇七年末現
たり、子育てを経験したりして、彼らの日本の地域社会で
子育て、移住など人生の経験を通してみる日本人や日本社
在 の 外 国 人 登 録 者 数 で み る と、 日 本 人 と 結 婚 し て い る 人
の位置づけは多様化しており、なかには日本に帰化する人
会とはどのようなものなのか、日本人女性がガーナ人と結
る。
も生じている。彼らは、いつかは母国に帰国したいという
は、ガーナ人は約一千人、ナイジェリア人は約一五〇〇人
希望はあるものの、未成年の子が日本で成長するなか、当
婚し移住するという選択をする背景や意味について考えて
向きになりつつあり、帰国後の暮らしにも魅力が出始めて
ガーナ共和国でのフィールドワークと、それ以前から実施
本稿の記述は、二〇〇六年と二〇〇八年の各一ヵ月間の
Ⅰ 方法
みたい。
分は帰国という選択が難しいことも理解している。
一方、近年では、帰国組も増えている。背景には、滞在
が長期化するなか日本での仕事や生活にストレスを感じる
ことや、高齢化を前に母国に戻り将来の生活の基盤を築き
たいといった意識がある。帰国後のガーナ人は、仕事がな
おり、なかには日本での貯蓄を元に母国でホテル業や中古
してきた日本国内での聞き取りや参与観察に基づいてい
く無職になる場合も少なくないが、ガーナ経済が全体に上
車業など大きな仕事を起こして成功している人もいて、か
298
299 結婚、移住してガーナを生きる日本の女性たち
る。日本人女性については、ガーナへの移住者へのインタ
ビューを元に記載しているため、内容も移住者に限定され
ている。
ガ ー ナ人 の来日状況
Ⅱ ガーナ人と日本人との結婚
日本で暮らすアフリカ地域およびガーナ出身者の状況
を、外国人登録をしている人の状況で概観しておこう。外
05年
00
95
90
国人登録は、上陸から九〇日以内に登録することが義務づ
けられているため、外国人登録者数には、観光などの短期
間の滞在者の多くや、査証が切れて超過滞在をしている人
は含まれていない。ガーナ人のなかには、超過滞在の人も
少なからず存在しているため、日本に暮らすガーナ人の実
数はより多いと考えられる。
日本の外国人登録者数は、とくにこの二〇年ほどの間に
急増しており、二〇〇七年末現在で約二一五万人、人口の
約一・六九%を占めている。人数は八割をアジア地域出身
者が占めており、アフリカ地域出身者は二〇〇七年末現在
一万一四六五人で、外国人全体の〇・五%に過ぎない (図
1)
。しかし、アフリカ地域出身者の推移をみると、長い
間 数 百 人 で し か な か っ た の が、 一 九 八 二 年 に 一 千 人 を 超
え、二〇〇三年には一万人に達しており、この四半世紀は
ほぼ右肩上がりで増加し続けている。
一九八〇年の値を一〇〇としてみると、二〇〇七年末現
(資料)法務省「在留外国人統計」(各年版)
。
(出典)法務省「在留外国人統計」
(各年版)より作成。
図 1 出身地域別外国人登録者数
図 2 出身地域別外国人登録者数(1980 年 =100)
在の外国人登録者総数は二七五であるが、アフリカ地域は
一四四〇まで拡大しており、他地域に比べてもっとも激し
。日本に生活す
い 増 加 傾 向 に あ っ た こ と が わ か る (図2)
るアフリカ地域出身者は、かつては留学生や研究者、大使
アジア
800
85
79
05 年
0
200
50
400
館関係者や特定の商用で来日する人など限られた人々が、
600
北米
オセアニア
1000
ヨーロッパ
北米
500
限られた生活圏のなかで、限られた期間のみ生活していた
が、現在では数だけでなく質も多様なアフリカ地域出身者
100
700
南米
150
900
ヨーロッパ
1200
300
301 結婚、移住してガーナを生きる日本の女性たち
が広く日本人と地域生活をするようになっている。
次に、アフリカのなかを国籍別にみると、一九八〇年代
初 頭 ま で、 ア フ リ カ 地 域 で も っ と も 多 か っ た の は エ ジ プ
ト、次いで南アフリカ共和国で、一九八〇年代初頭までは
エ ジ プ ト は 二 〇 〇 人 前 後、 南 ア フ リ カ 共 和 国 は 一 〇 〇 人
前 後 で 推 移 し て い た。 そ の 後、 ガ ー ナ と ナ イ ジ ェ リ ア の
増 加 が 激 し く、 そ れ ぞ れ 二 〇 〇 七 年 末 現 在 の 登 録 者 数 は
一八八四人、二五二三人で、西アフリカ地域二ヵ国でアフ
ガーナは一九七〇年代までは変化なく推移していたが、
。
リカ地域の四割を占めている (図3)
一 九 八 一 年 に 四 二 人 と 微 増 し た 後 は、 一 九 八 五 年 に 九 八
人、一九八六年には二二七人と一九八〇年代前半から半ば
1400
オセアニア
200
1100
アフリカ
アフリカ
1300
アジア
00
95
90
85
80
100
(万人)
250
1500
1
1600
300
1500
400
2000
250
ガーナ
200
1000
100
300
歳以上
20
25
30
35
40
45
50
55
60
19
24
29
34
39
44
49
54
59
64
∼ 歳
∼ 歳
∼ 歳
∼ 歳
∼ 歳
∼ 歳
∼ 歳
∼ 歳
∼ 歳
5∼9歳
0∼4歳
図 3 アフリカ地域の出身国別外国人登録者数
図 4 ガーナにおける年齢階級別外国人登録者
(資料)法務省「在留外国人統計」(各年版)
。
(資料)法務省「在留外国人統計」
(各年版)。
05年
00
95
90
85
にかけて増加が始まり、一九九三年には一千人を超えてい
る。ナイジェリアの場合には、ガーナより少し遅れて増加
し始め、一九九〇年に突然急増するかたちで増えている。
両国出身者の滞日生活は各国それぞれの文化や特徴があり
様相が異なるが、来日の経緯や日本での就労や結婚といっ
た 状 況 に つ い て は 似 通 っ て い る。 ま た、 セ ネ ガ ル や カ メ
ルーンといった他のアフリカ諸国からも同様の来日者が増
加し、より多国籍のアフリカ出身者が、これまでにないか
たちで日本の地域生活を送っていると推定される。
ま た、 ガ ー ナ 人 の 性 年 齢 を み る と、 二 〇 〇 七 年 末、
男 性 は 一 五 六 九 人 で 八 三・三 %、 女 性 は 三 一 五 人 で
一 六・七 % と、 男 性 が 多 い。 男 性 を 年 齢 別 に み る と、
一九九〇年末には三〇歳以上三四歳以下をピークに二〇
歳 代 が 三 二・一 %、 三 〇 歳 代 が 五 六・七 % と、 来 日 者 は 青
年 層 に 集 中 し て い た。 そ の 後、 二 〇 〇 〇 年 末 に は、 二 〇
歳 代 は 九・九 % に 低 下 し、 三 〇 歳 代 が 五 八・三 %、 四 〇
歳 代 が 二 四・四 % を 占 め、 二 〇 〇 七 年 末 は、 三 〇 歳 代 が
三六・三%、四〇歳代が三九・六%、五〇歳以上が八・四%
と、全体にそのまま高年齢層に移行している。ガーナ人は、
査証許可が厳しくなり、新規に来日して滞日生活を送る人
が減少しているため、滞日ガーナ人がほぼそのまま高齢化
する方向に移動しているのである。先に述べたように、帰
国の背景には、このような高齢化を前に、帰国して母国で
の生活基盤を築きたいという夫の希望が生じているのであ
。
る (図4)
と の結婚
日本人女性
ガーナ人と日本人との結婚がどの程度の規模で生じてい
るかを統計から推定する。通常、外国人との結婚は厚生労
働省の「人口動態統計」で示されるが、国別の集計が行わ
れていないため、外国人登録の在留資格別人数から推定す
日本人と結婚している外国人の査証には「日本人の配偶
る。
者等」がある。日本人の子で外国籍の人や養子縁組なども
含むため、すべてが配偶者ではないが、ガーナ人の場合に
は日本人の子の多くは日本国籍をもっているため、「日本
人の配偶者等」査証のかなりの部分が日本人の配偶者と考
えられる。結婚生活が数年を経過したり正規の就労を数年
継続したりして安定した生活をしている人の場合には「永
住者」や「定住者」の査証を持つ人もいる。「日本人の配
偶者等」では離婚や死別により滞在資格を失うため、可能
な場合には「永住者」や「定住者」に切り替えているとい
う。本来「永住者」や「定住者」は、日本人と結婚してい
なくとも就労などで安定した生活をしている場合には許可
が下りるが、ガーナ人の場合には、就労目的の査証で長期
302
303 結婚、移住してガーナを生きる日本の女性たち
∼ 歳
15
14
∼ 歳
10
2
ケニア
500
65
79
0
南アフリカ
50
ナイジェリア
2500
男性(2007 年)
男性(2000 年)
350
エジプト
男性(1990 年)
150
女性(2007 年)
0
(人)
3000
(人)
450
タン
デシュ
プト
共和国
リア
日本人の配偶者
9.5
32.5
16.6
31.6
11.8
4.6
4.8
12.3
永住者
0.0
8.6
37.2
33.4
11.3
7.2
13.8
25.5
定住者
5.2
1.4
6.9
1.6
2.0
1.3
3.1
5.6
就労
3.8
4.5
4.7
2.3
48.0
15.2
14.7
13.5
11.7
15.0
1.6
就学
12.2
2.1
0.6
0.2
0.2
0.1
3.9
0.2
研修
3.7
1.2
0.3
0.0
0.2
0.9
0.6
0.4
その他
6.7
14.0
16.2
12.0
16.8
51.4
36.7
29.2
(資料)法務省「在留外国人統計」(各年版)より作成。ガーナ以外は 2007 年末現在の値。
(注)
「就労」は就労を目的とする査証の合計。
「その他」は表示以外のものを全て合計した。
がガーナ人 と知 り合 う場 と時代背景
日本人
滞在している人が少ないため、「永住者」や「定住者」査
証の大部分は日本人と結婚していると推定されるのだが、
正確にはその区別はつけられない。
そ こ で、 こ こ で は、「日 本 人 配 偶 者 等 」
「永 住 者 」「定
住 者 」 査 証 の 合 計 の 数 値 を 概 観 す る。 こ の 数 値 は、
「日 本 人 の 配 偶 者 を 多 く 含 む と 推 測 さ れ る、 正 規 査 証
を も つ 長 期 滞 日 者 数 」 を 捉 え る こ と に な る。 ガ ー ナ 人
は 一 九 九 〇 年 に は 合 計 一 四・七 %、 八 八 人 で あ っ た が、
二 〇 〇 〇 年 に は 四 二・四 %、 七 〇 三 人、 二 〇 〇 七 年 に は
六〇・七%、一一四三人に増加している。ただし、超過滞
在の状態のまま日本人と結婚した場合には、すぐには「日
本人の配偶者等」の査証は得られないため、一九九〇年前
後の超過滞在者が多かった頃には、実際にはこの数値より
も多いガーナ人が日本人との婚姻状態にあった可能性はあ
る。
他国との比較は、「永住者」「定住者」査証の発給が個別
の国事情によるため、安易にはできない。しかし、ガーナ
と来日の状況が類似しているナイジェリア人の場合には、
二〇〇七年末現在で合計六六・六%、一六八〇人という計
算になる。ガーナ人もナイジェリア人も外国人登録者数の
八割以上は男性であり、結婚している人の大部分は日本人
女性との婚姻である。
このような傾向は、エジプトや南アフリカといったかつ
域生活の場面で知り合いになっている。このような接点が
という人、友人に紹介されたという人など、ごく日常の地
とりをしたのを契機に興味があったので会うようになった
かったので友人になったという人、駅で道を聞かれてやり
る。公園で話しかけられて互いに日本語と英語を勉強した
日本で日本人がガーナ人と知り合う契機はさまざまであ
でいたのかもしれない。
たという点で、多数派ではない文化や意識を持つ人も含ん
代から九〇年代の段階ですでにそのような接点を持ってい
ているが、ガーナに移住している日本人妻らは一九八〇年
ジェンベなどのアフリカ楽器に関心を持つ人も多少は増え
経 験 し て い た 日 本 人 と い え る。 近 年 で は ア フ リ カ 音 楽 や
にあった教室というので、かなり早くからアフリカ文化を
このように日本人がガーナ人と知り合う契機は、彼らの
う人などがいる。この時期、欧米やアジアといった定番の
いう人、日本語学校で教師をしていた時の学生だったとい
という人、アフリカンダンスを習っていた時の教師だった
ていえば、レゲエ音楽のコンサートで友人から紹介された
国際的な活動を接点として知り合ったという経験につい
にとどまっている。この傾向は、アフリカ地域全体や外国
市圏以外の「その他」に分類した地域は一貫して一割程度
下して中部圏と近畿圏への増加にいたっているが、三大都
一九九〇年以降の推移をみると、首都圏への集中がやや低
都圏で、中部圏、近畿圏を合わせると九割を占めている。
県別外国人登録者数をみると、ガーナ人は七五・八%が首
居 住 地 と 同 様 に 都 市 部 に 集 中 し て い る。 表 2 で、 都 道 府
「国際化」だけでなく、アフリカについても芸術や音楽、
る。
県、神奈川県、大阪府などの首都圏を中心に経験されてい
一 九 八 〇 年 代 後 半 か ら 一 九 九 〇 年 代 以 降、 東 京 都 や 埼 玉
ンス教室は現在でも稀有であるが、青山 (東京都渋谷区)
プラッシュ」は、一九八五年が初回である。アフリカンダ
語学といった文化の交流が多様化し始めた時代背景がある
7.3
18.3
て来日者が多かった他のアフリカ地域出身者ではみられな
0.9
3.5
のかもしれない。日本で広く外国人が通える日本語学校が
6.3
2.3
増加し始めたのは一九八三年の「留学生一〇万人計画」以
16.6
3.4
い。一方、バングラデシュやパキスタンなど、ガーナ人ら
14.1
3.9
と類似の経過で来日した人が多く、性別も男性が大部分を
31.9
10.4
後である。アフリカ音楽のブームは一九八〇年代半ばから
48.5
占める国と比べてみても、ガーナ人やナイジェリア人には
短期
留学
日本人と結婚している人の割合が高いことがわかる。
(単位:%)
後半以降というし (鈴木 2008
)
、毎夏東京で開催されるよ
うになった黒人音楽レゲエのコンサート「レゲエ・サンス
1990 年 2000 年 2007 年
592 人 1,730 人 11,255人 9,332 人
598 人 1,657 人 1,884 人 2,523 人
総数
バングラ パキス
エジ
ナイジェ 南アフリカ
アジア
アフリカ
ガーナ
304
305 結婚、移住してガーナを生きる日本の女性たち
表 1 在留資格別国籍別外国人登録者割合
3
35.6
61.4
61.9
56.7
84.1
79.2
75.8
74.4
58.6
58.9
12.2
東京都
17.8
40.8
31.4
25.0
60.4
36.3
30.7
53.0
30.2
29.1
1.4
埼玉県
5.3
8.6
12.8
11.2
16.9
18.0
17.0
12.6
9.6
11.3
4.4
千葉県
4.9
4.6
7.7
7.4
2.7
11.6
11.5
3.3
10.6
9.2
1.9
神奈川県
7.6
7.3
10.0
13.1
4.2
13.2
16.6
5.5
8.2
9.3
4.5
中部圏
20.1
5.4
7.4
10.0
1.7
4.4
6.1
3.2
7.1
9.6
55.2
近畿圏
19.0
10.6
8.9
10.2
3.8
5.5
7.3
3.6
3.8
3.9
7.4
その他
25.3
22.7
21.8
23.1
10.4
10.9
10.8
18.8
30.5
27.6
25.1
(単位:%)
人登録者全体と比べても特徴的である。
同様の時期や経緯で来日したバングラデシュなどのアジ
ア系男性外国人が、初期には東京都を中心とする首都圏に
住んでいたのが、次第に群馬県、茨城県、栃木県といった
北関東や中部圏の大手工場の下請けの多い地方都市へと移
動していることや、ブラジル人などの南米出身者が中部圏
に集中して居住しているのと比較して、ガーナ人は今なお
首都圏と大都市部への集中度が高い。彼らが日本人と知り
合う契機も一貫してその圏内にある場合が多いと推測され
る。
ま た、 ガ ー ナ 人 の 移 動 は、 首 都 圏 の な か で 行 わ れ て お
り、一九九〇年には東京都が六〇・四%を占めていたが、
二〇〇七年には三〇・七%に半減し、神奈川県と千葉県の
増加につながっている。これは、滞在が長期化するにつれ、
より住居費や生活費の安い郊外に移動したことや、たとえ
ば埼玉県には母国の食材を入手できる店舗やレストランな
)
。
2008
どアフリカ地域出身者のコミュニティがあり、より生活し
やすい背景があるためと考えられる (和崎
上二〇歳未満が五人で、一七歳が最年長である。子どもの
教育環境を考慮して幼稚園や小学校入学などに際して移住
する人も多いことから、このような年齢分布になっている
のではないかと考えられる。六六人のうち一五人は両親が
ガーナに不在であるという。これら子女は日本語補習校に
ガーナ人の家族としてガーナに移住している日本人数を
うである。ガーナの言語や教育、文化を身につけさせるた
た。現地の日本人社会とはあまり接点なく暮らしているよ
通うことはなく、他の日本人から状況をきくこともなかっ
「海外在留邦人数調査統計」(外務省、各年版)などで概観
めなどの理由で、両親は日本に残ったまま、親戚や祖父母
を経て、ある程度生活が安定したり、子が学校に上がった
いる日本人妻の年齢層が高めであるのは、結婚や出産など
めており、中年層に集中していることがわかる。移住して
多い。三〇歳以上五五歳未満までが二五人で九割以上を占
層は四〇歳以上四五歳未満の年齢階級が一〇人ともっとも
二〇〇八年三月一日現在二七人おり、全員が女性で、年齢
ガーナで日本人配偶者として在留届を出している人は
が、二〇〇四年には小学生二五人、中学生三人で合計二八
国際機関などで働く日本人同士の子の数も含まれている
無別に人数を把握できる。大使館やJICA、日系企業、
ナには日本人学校はないため、日本語補習校への通学の有
本人学校、 日本語 補 習校、 その他 )に 示 さ れ て い る。 ガ ー
生数と中学生数について、通学している学校の種類別 (日
省、 各 年 版 )
。 こ の 統 計 で は、 毎 年 一 時 点 の 海 外 在 留 小 学
海外在留邦人子女数の届け出数でみることもできる (外務
小 学 生、 中 学 生 の 学 齢 期 に あ る 子 に 限 れ ば、 外 務 省 の
りといった準備態勢が整ってから移住するためであろう。
人であったが、二〇〇八年には小学生四一人、中学生一三
は六六人で、〇歳以上五歳未満が一一人、五歳以上一〇歳
は、小学生では一二人、中学生五人の合計一七人であり、
日本語補習校への通学の有無別にみると通学しているの
人で合計五四人に倍増している。
未満が二三人、一〇歳以上一五歳未満が二七人、一五歳以
ガーナに在留するガーナ人夫と日本人妻を親にもつ子の数
次に、子の数についてみる。大使館のデータによると、
能性はある。
してみる。この統計は、在ガーナ日本大使館に在留届を出
(注)中部圏とは、愛知県、岐阜県、静岡県、三重県の合計。近畿圏とは、大阪府、京都府、
兵庫県、滋賀県、奈良県の合計。
に子どもの養育を任せる人もいるとのことである。
(資料)法務省「在留外国人統計」(各年版)より作成。
している数であり、義務ではないため多少実数と異なる可
1 移住 す る日本人妻 と子 の概数
Ⅲ 日本人妻の移住生活
首都圏
2,152,973人 2,140人 8,214人 11,465人 598人 1,657人 1,884人 2,109人 7,176人 11,255人 316,967人
総数
2007年
全体
1990年 2000年 2007年 1990年 2000年 2007年 1990年 2000年 2007年
ブラジル
バングラデシュ
ガーナ
アフリカ全体
306
307 結婚、移住してガーナを生きる日本の女性たち
表 2 都道府県別外国人登録者割合
は通学していない。日本語補習校は毎週土曜日の午前中に
テナに詰めて日本から輸入する中古車ビジネスを始めるな
スチャンスがあることがあげられた。中古車の部品をコン
を日本で貯めることができた人にとっては、新たなビジネ
ることや政治的に安定していることから、ある程度の資産
首都アクラで開講されている。なかには早朝発で毎週地方
ど、帰国後も日本とガーナを往復して一つ数百万円のコン
小学生二九人、中学生八人の合計三七人は日本語補習校に
都市から通うという人もいるが、地方都市や郊外に居住す
テナを複数送るといった、規模の大きなビジネスをしてい
る人にとっての通学は容易ではない。
これらガーナの傾向をナイジェリアの海外在留邦人子女
し た と い う 人 は 少 な く な い。 し か し、 母 国 に 少 な か ら ず
るガーナ人の夫もいる。このようなビジネスは、誰もが成
チャンスがあることは、日本での「自由がない」生活と比
功しているわけではまったくなく、むしろビジネスに失敗
の合計数はこの五年間〇人から四人の間で推移している。
較して、夫が帰国を強く希望する要因となっているようで
アに在留する日本人の小学生は三人いるのみで、小中学生
この差異の要因には、両国における日本人女性の就労や社
ある。
数 (学齢期)と比べてみると、二〇〇八年現在ナイジェリ
会 参 加 機 会、 子 の 教 育 シ ス テ ム や 日 本 語 補 習 校 の 有 無 と
また子の教育面の要因として、子どもが日本で差別され
いった教育環境、夫側の帰国意向や就労機会など、文化社
会的に多様な要因が考えられる。
た経験から子どものためにガーナに移住したという人もい
る。幼稚園くらいからいじめが始まったため、その頃に移
する要因と、相手国側への移住をひきつける要因について
日本人妻の移住の動機について、日本からの移住を促進
ないが、大部分の人が日本と比べてガーナの教育水準や教
教育水準を移住前からどの程度知りえていたかは定かでは
いことも移住を継続する要因としてあげられた。ガーナの
のインターナショナルスクールの場合には教育レベルが高
日本人妻 に と っ て の移住 の契機
みてみよう。日本からの移住を促進する要因としては、第
育環境、教師の質を高く評価しており、この点は移住生活
住を検討し始めたという人もいた。一方で、ガーナの私立
一に夫の強い希望をあげる人が多い。滞日生活が長期化す
を長期に継続させている要因と思われた。
るなか、日本でのきつい仕事や生活に嫌気がさしていた夫
の暮 ら し向 き
移住生活
このような移住の要因についてみると、夫の意向や子の
の希望で、子を連れて帰国したという。一方、移住をひき
つける要因としては、近年ガーナの経済状態が上向きであ
教育環境はあげられるが、妻自身が日本から出たかったと
か、ガーナに生活することを強く望んだという状況は聞か
れず、夫や子の状況を考慮して移住生活を選択していた。
の、移住前から妻が移住を強く望んでいたという話は聞か
ではあるものの、車の購入や維持費、子の教育費、水や電
程度の経済力が必要である。現地では食費や被服費は安価
観してみたい。ガーナでの移住生活を続けるためにはある
ガーナでの暮らしをみる一手段として支出の費目から概
れなかった。移住してみてよかったという評価は多いもの
移住への準備状況をみても、移住までの準備に綿密な計
住居は、地元の家屋に家族と隣接するようなかたちで生
画を立てていた人もいるが、とりあえず来てみて生活を始
活している人もいるし、日本で得た資金で建てた庭付き一
気など設備のある住居に住むとなると、日本人の場合には
なかったが、夫の仕事や希望、子との家族生活を考慮して
めたという人も少なくなかった。ある人は、夫と知り合っ
仕方なく移住を決め、はじめて訪れたという。なかには、
戸建ての住居に住む人もいる。水や電気などの住環境設備
地元の人と同じ家計水準では生活できない。
現地で日本人女性の自分ができる仕事を準備して、生命保
を整えて維持していくには資金や経費が必要であるが、日
家事手伝いのメイドやボーイを雇用している人もいる
本人には水の設備や安全管理がある程度整った住居に住む
が、自宅に他人をいれる習慣がなく、日本式の家事を教育
険などでの健康リスク対処も周到に調べ、経済的に困らな
と共に働いて貯金をし、日本から親戚にお金を送って土地
したりトラブルが発生したりするのが面倒なので、雇用し
いよう周到な準備をして移住した人もいるし、結婚当初か
を買い、家を建て、貯蓄もある程度の目標に達したので移
人も少なくない。
住したという人もいる。このように計画的に移住した人で
の数年、急激に車の台数が増えているとのことであるが、
はいるが、自家用車を持っている人も多い。ガーナではこ
小型バスで、日本人にもこれらを乗りこなしている人たち
ガーナの主な交通手段はタクシーかトロトロと呼ばれる
ないという人もいる。
たために移住したというわけではない。
さえ、彼女ら自身が、日本での生活が嫌で、日本を出たかっ
ら将来はガーナで暮らす予定で、日本では子は作らずに夫
て以降、一度もガーナに来たことはなかったし、来たくも
3
308
309 結婚、移住してガーナを生きる日本の女性たち
2
車の価格は中古車でも数十万円で日本と変わらない価格
か、車の質を考慮するとむしろ高額であり、ガーナの物価
からすると破格に高い。修理には費用がかかるし、ガソリ
日本人妻 の移住後 の職業
以上の学校に通わせている人もいる。毎週土曜日に開催さ
間二〇万円程度を要するといい、なかには年間一〇〇万円
の子女が大半を占める学校もある。学費は安い学校でも年
れは必ずしも外国人が通学する学校ばかりではなく、現地
と呼ばれる私立校へ通わせている人が多いようである。こ
子どもは、公立校ではなくインターナショナルスクール
ぱら日本人妻が立てているという人も少なくないようであ
し、事業も失敗することは多いため、移住後の生計はもっ
永年日本にいた夫が仕事を見つけることは容易ではない
いる人もいる。しかし雇用機会が潤沢にはないガーナで、
と共にホテル経営など比較的大きな事業の経営に関与して
ポートしたり子育てに従事したりしている人もいるし、夫
け る と 三 パ タ ー ン が あ る。 専 業 主 婦 と し て 夫 の 仕 事 を サ
での被雇用者か、自営業などの経営者となるか、大きく分
日本人妻の職業としては、専業主婦か、日系企業や機関
れる日本語補習校に通わせるには一学期五〇ドルの学費も
ンも高価なので、車の維持費はかなりの費用を要する。
必要であるし、通学のためには自家用車の維持費も要する
かった。日本関連の雇用先は、大使館やJICA、日系企
る。妻が働くといっても日本人の女性が雇用される場はそ
業の現地職員があるが、この数年で日系企業は撤退してい
ので、教育費はかなりの金額に及ぶ。五人の子どもがいる
その他、妻子が時々日本へ帰国する費用も必要である。
る 場 合 が 多 い。 先 に 示 し た ガ ー ナ で の 生 活 費 を 考 慮 す る
う多くはない。日本人女性が働く場は日本と関係ある機関
な か に は、 夏 休 み 時 期 の 違 い を 利 用 し て 七 月 初 旬 に 帰 国
と、日本人の場合には、一般ガーナ人よりも相当な所得が
が主であり、現地企業や外資系企業で働いている人はいな
し、ほぼ毎年子どもを日本の学校に通わせたという人もい
人もいたが、これら教育費は複数の子どもがいるとかなり
る。日本の家族の冠婚葬祭のほか、親の介護など急な帰国
必要となってくるが、夫婦とも仕事がなくて生活が成り立
の金額になる。
が必要な場合もあるし、本人の病気や健康問題などで日本
たず、仕方なく日本に帰国したという人もいるという。
な生活 の課題
将来的
した旅行社で経営者の一人として勤務している人、テレビ
企業の現地支店長として働いている人や、日本人が設立
で受診をしたいという場合もある。ガーナでの移住生活に
はこのような予定外の急な支出のための貯蓄も必要であ
る。
番組のアテンドをしてガーナ全域を案内したり撮影のサ
ポートをしたりする仕事をしている人もいるが、これらは
い ず れ の 仕 事 も 簡 単 に 得 ら れ る ポ ス ト で は な い。 彼 女 ら
は、ガーナ社会に根を下ろしており、だからこそ、その仕
事 に 就 い て い る よ う に み え る。 一 〇 年 前 後 の 歴 史 が あ っ
その他、いくつかの生活上の課題や視点を紹介しておく。
く厳しいという声もきかれた。日本語補習校へも行かせた
日の日中は勤務であり、子育てと家事、仕事の負担は大き
仕事と生活、とくに子の教育との兼ね合いをみると、平
の冷めない距離」に義母が住んでいて、子育てを手伝って
んで頻繁な交流がある人もいる。ある人は近隣の「スープ
両親や兄弟などと同じ敷地内に住んでいる人や、近隣に住
れに適度な関係を築いている人が多いようであった。夫の
いてまったく付き合いをしないという人もいたが、それぞ
ガーナ人家族との関係
いが、平日の仕事で疲労しており、土曜の朝に子どもを日
くれたり地元の人間にしか対応できない事柄への対処に手
日本人妻の移住生活をみるうえで、夫の家族との付き合
本語補習校まで通わせることは継続できなかったという人
助けしてくれたりするので助かっているという人もいる
て、ガーナの人や社会の特徴を知り、いいところも悪いと
もいる。ガーナにいて日本語を継続的に学ばせるには、母
し、家族への物的支援をすることで、日本人妻としての存
ころも知り、それに対して日本人の自分がどう対応するの
親が時間と労力をかけることも求められ、なかには早朝発
在を示しているという人もいる。家族との関係は、それぞ
い方は重要な点である。文化的、宗教的な風習や冠婚葬祭
で郊外の町から首都アクラまで通っている人もいたが、就
か、どう考えるのか、時には苦い経験もしたのかもしれな
労しつつ子の日本語教育を継続させることは容易ではない
れの状況に合わせて移住生活をうまく過ごすための戦略が
に日本人妻が関与することは容易ではなく、地方に住んで
という声もきかれた。学費は有料で通学の交通費も必要で
あるようであった。
いが、それらを経て、現在があるようにみえた。
あるし、平日英語で学校教育を受けている子らに、日本語
が、妻が外勤で働く場合には時間的にも容易ではないとい
移住した妻たちの不安として多くあげられたのが健康と
健康と医療
を習得させ続けるには、家庭での日本語教育が必要である
う声もきかれた。
310
311 結婚、移住してガーナを生きる日本の女性たち
4
5
医療の問題である。現地の医療水準の低さは日本人妻の大
きな懸念材料である。病気になった場合、とくに現地で重
い病気になった場合の対応は安心できるものではない。病
気は日本に帰国して対応するという人もいるが、病気をす
うに送るかは、今後多様な選択がありえるのかもしれない。
家族などの支援がある人ばかりではないであろう。今後、
彼女らの適応力やコミュニケーション能力、洞察力や慎重
たい。フィールドワークで最も印象に残ったことの一つが
ガーナに移住した日本人妻たちの特徴について考えてみ
Ⅳ ガーナを生 きる日本人妻 たち
加齢がすすむなかで移住生活を継続するには、健康と医療
るたびに帰国するといった余裕や、日本で対応してくれる
の問題は重要である。
さであった。
め、心配をかけてきて申し訳ないという気持ちから、親の
し、 親 か ら 遠 く 離 れ た 海 外 で 生 活 を し て い る 人 も 多 い た
高齢化し介護を必要とする世代である。反対をおして結婚
日本人妻の多くは三〇代から四〇代であり、今後は親が
フリカ人や黒人に対する抵抗感が少ないからであり、頭の
あるという。海外生活の経験がある人は英語が話せるしア
る人か、頭のよい人か、実家がお金持ちの人のどれか」で
「ガーナ人と付き合う日本人女性は、海外生活の経験があ
でガーナ人からも聞いたことがあった。ある人によると、
ガーナ人と付き合う日本人女性の特徴については、日本
老後の暮らしを放置しておくわけにはいかないという思い
良い人は差別意識が低いからであり、家がお金持ちの人は
日本にいる親の介護
を人一倍持っている人も少なくないようである。
自身の老後
も、「最近ガーナにくる日本人女性は優秀でしっかりした
う。 永 年 ガ ー ナ で 多 く の 日 本 人 妻 を み て き た 日 本 人 男 性
経済的に裕福なのでお金よりも愛情を重視するからだとい
彼女ら自身も、現在は若く健康であるが、将来的に自身
年である。経済力や社会的地位、学歴などが高いほど評価
人が多い」という。別のある在ガーナ日本人も、他国での
されるという基準が一般的なものとするならば、彼女らが
が高齢化するなかで生じる課題もあり、今後の彼女らの生
日本でガーナ人と付き合う女性には、より多様な人がい
選んだ夫は日本の既存の基準から外れた存在である。彼女
日本人妻と比較するかたちで、「ガーナにくる日本人妻は
るようにみえるが、ある妻に言わせると、「なかには遊び
ら自身、「もともと型にはまった人生がいやだった」「目の
自立している」「自分が夫に選ばれたのではなく、自分が
半分で付き合う人もいるが、そういう人は長くは続かない
前にある安定した生活をあえて選ばなかったのかもしれな
活スタイルや人生設計はまた変化する可能性もある。老後
か結婚にいたらない」という。ガーナ人は離婚や複数の妻
い」という人もいる。ある人は社会的にも安定した職にあ
はカナダなど第三国への移住を考えているという人もいた
を持つことに比較的抵抗感が少なく、人によっては日本で
る日本人との結婚をやめてガーナ人と結婚した。自分には
夫を選んだという意識がある」と述べていた。
ガールフレンドを見つけることはさほど困難ではないの
し、子が進学、自立するなかで老後の生活をどこでどのよ
で、合わなければ別れて次の人を見つけているともいい、
安定した将来を描ける人の妻としての生活はつまらなく、
なく、自分が采配を振るう立場の方が自分には合っていた
より見合う条件の日本人に落ち着いているのかもしれな
と感じるという。彼女は、社会的地位のある夫の妻、補佐
耐えられなかったと思うという。誰かの妻という立場では
結婚は夫側の要因も含めさまざまな原因で離婚にいたる
い。
こともあるので、継続することだけが良い選択ともいえな
役という立場に納まるのではなく、たとえリスクが伴った
ある人は、夫との結婚について「背中を押してくれた存
いが、ガーナ人との結婚やとくに移住生活は必ずしも平坦
在ではある」という表現を使っていた。結婚前の彼女は安
としても自分の人生を生きることを自分で選んでいるよう
いたり子育てをしたり、夫の大家族の一員としてうまくコ
定した生活を保障されていたようにみえるが、ガーナ人と
にみえる。
ミュニケーションをとって生活したりしていくには、それ
の結婚という既存の基準から外れた生き方を選択すること
なものではないので、異国で結婚生活を継続していく能力
に対応できる能力や適応力、時には生活を楽しむ余裕がな
のある人が残っているのかもしれない。異文化のなかで働
ければ継続できないであろうから、結局はある種の条件に
ではじめて、レールの敷かれた生活を手放すことができ、
決意し、ある者はさしたる意識もなく選択している。客観
もちろんこのような感覚には個人差も大きい。ある者は
たようにもみえる。
自分で自分の人生を創りあげざるをえない状況に身をおい
かなった人のみが移住生活を継続しているのであろう。
また、移住している日本人妻には、安定を保障された人
生をあえて外した選択をしているのではないかと思う人が
少なからずいる。
ガーナ人の夫は結婚当時はアフリカからやってきた一青
312
313 結婚、移住してガーナを生きる日本の女性たち
的には、安定した地位を放棄してガーナ人との生活を選ん
機として、ガーナ人の夫の生活し辛さやチャンスのなさ、
に際して親や友人など周囲の人の価値観や偏見に抗し、自
人も少なくない。いずれにしても、彼女らの多くは、結婚
い人々が多いことを述べたが、このような有能な日本人女
ち合わせており、自らの人生を選択するという自立度の高
価値観を持っていたり、異国で生き残る高い能力や術を持
移住した妻たちは多様な文化や意識を受け入れるという
子をめぐる偏見や差別といった日本社会のありようをあげ
身の価値観を位置づけながら、最終的に自分の選択を通し
性がガーナへ出て暮らしている現状を見聞きしていると、
だとみえる女性もいるが、その受け止めは「人生の選択」
ている。現地の日本人が彼女らを評して「自立している」
た人も多かった。
という言葉で表現していたように、彼女らに共通して感じ
本来、このような女性が生きやすい社会、より多様な選択
といった構えよりも、
「成り行き」でといった表現を使う
るのは、自分で選んだ自分の人生を生きているという自負
が尊重される社会こそ豊かな社会なのではないかとも思
とするならば、彼女らの存在や選択、生き方を通じてみえ
かし、ことの本質が日本社会に広がる状況を反映している
とさら取り上げて一般化する話ではないかもしれない。し
ガーナに移住する日本人女性は数はきわめて少なく、こ
う。
である。
むすび
本 稿 で は、 結 婚 し て ガ ー ナ に 移 住 す る 日 本 の 女 性 た ち
ガーナ人との結婚や移住に際し、日本では周囲と異なる行
動 的 な 生 活 を 送 っ た り し て い た 人 が 多 か っ た。 し か し、
住したのではなく、ごく普通に職場や社会で活躍したり活
は、日本がいやだからとか日本社会に不適応だったから移
異 国 で 生 き る 場 を 創 り 出 し て い る こ と を 述 べ た。 彼 女 ら
そこからみえる日本の社会についても調査を重ねて考察を
フサイクルの展開に従って、さまざまな転機が経験される。
とが多々ある。今後、子の成長や妻の高齢化といったライ
彼女らの移住生活からは、日本社会をみる上で示唆深いこ
や、その子どもについてごく一部しか記述できていない。
本稿では、ガーナ人との結婚と移住を経験した日本人妻
る日本社会の課題には根深いものがある。
動をとると「変わった人」といわれて、排他的にひと括り
深めてみたい。
が、その能力や価値観を術として移住後の生活を調整し、
にされてしまうことには抵抗感を持っていたり、移住の動
状況と中古車ビジネス――滞日カメルーン人のアフリカン・
平成一六年度〜平成一八年度科学研究費補助金(基盤研究A)
人の相互扶助と日本人との共生に関する都市人類学的研究』
レストランへの集合と情報交換」和崎春日編『来住アフリカ
本稿は、文部科学研究費補助金「来住アフリカ人の相互扶助
と日本人との共生に関する都市人類学的研究」(一般研究、基盤
◉謝辞
A、課題番号一六二〇二〇二四、平成一六~一八年度、研究代
研究成果報告書、一四五―一五七頁。
(わかばやし・ちひろ/埼玉県立大学保健医療福祉学部)
表者・和崎春日)と、文部科学研究費補助金「滞日アフリカ人
の生活戦略と日本社会における多民族共生に関する都市人類学
的研究」(一般研究、基盤A、課題番号一九二〇二〇二九、平成
一九年度、研究代表者・和崎春日)のもとで実施されたフィー
ルドワークに基づくものである。
◉参考文献
外務省(各年版)『海外在留邦人数調査統計』。
鈴木裕之( 2008
)「日本に生きるアフリカ人ミュージシャン ――
その経歴と活動」和崎春日編『来住アフリカ人の相互扶助と
度 科 学 研 究 費 補 助 金(基 盤 研 究 A ) 研 究 成 果 報 告 書、 六 一 ―
日本との共生に関する都市人類学的研究』平成一六~一八年
八二頁。
法務省入国管理局(各年版)『在留外国人統計』財団法人入管協会。
若 林 チ ヒ ロ( 1996
)「滞 日 ガ ー ナ 人 の プ ラ イ ド 形 成 ネ ッ ト ワ ー
ク 」 駒 井 洋 編『日 本 の エ ス ニ ッ ク 社 会 』 明 石 書 店、 二 〇 二 ―
二二八頁。
)「日本を経験したガーナ出身者たちの帰国後のくら
――( 2008
しと仕事」和崎春日編『来住アフリカ人の相互扶助と日本と
の共生に関する都市人類学的研究』平成一六~一八年度科学
)「来住アフリカ人の集合
2008
研究費補助金(基盤研究A)研究成果報告書、五一 ―六〇頁。
和崎春日・田淵六郎・田中重好(
314
315 結婚、移住してガーナを生きる日本の女性たち
年
[付表
年
年
年
月
月
フランス語圏諸国会議第
九回サミット。
アフリカ統一機構(OA
U) の 後 継 組 織 ア フ リ カ
連合(AU)発足。
オ メ ガ 計 画( ロ ー マ 首 脳
会議)
。
アフリカ全土
ミ レ ニ ア ム・ ア フ リ カ 再
生計画(MAP)
。
中国アフリカ協力フォーラ
ム第一回閣僚会議(北京)
。
アフリカ全土
ナ イ ジ ェ リ ア オ バ サ ン ジ ョ 大 統
領再選。
コ ー ト ジ ボ ワ ー ル 一 部 兵 士 に よ
る騒擾事件」
。
シエラレオネ 大統領選挙実施。
南部アフリカ
(作成)河本和美。
ジ ン バ ブ エ 政 府 に よ る 白 人 大 農
場 の 強 制 収 用 が 始 ま り、 共 同 農 場
で働くアフリカ人農民等に再配分
することを目的とした土地改革
「ファスト・トラック」が開始。
エ チ オ ピ ア・ エ リ ト リ ア 和 平 合
意成立。
中部アフリカ
東アフリカ
中 央 ア フ リ カ 中 央 ア フ リ カ 国 連
ミッション(MINURCA)撤退、
国 連 平 和 構 築 事 務 所( B O N U C
A)設立。
コ ン ゴ 民 主 共 和 国 ロ ー ラ ン・ デ
ジ レ・ カ ビ ラ 大 統 領 暗 殺 後、 息 子
のジョゼフ・カビラが後継。
南部アフリカ
ザンビア 総選挙 ムワナワサ大
統領就任。
マ ダ ガ ス カ ル 大 統 領 選 挙 の 得 票
結果を巡り政情危機。
中 央 ア フ リ カ 一 部 国 軍 兵 士 に よ ジ ブ チ 政 府 と 武 装 Front for the
るクーデター未遂事件。
Restoration of Unity and Democracy
(FRUD)との間で最終和平案を
合意。
中 央 ア フ リ カ ボ ジ ゼ 元 参 謀 長 派 ブ ル ン ジ 民 族 融 和 的 な 暫 定 政 権
兵 士 と 大 統 領 親 衛 隊 と の 間 の 武 力 樹立。
衝突事件。
コ ン ゴ 共 和 国 新 憲 法 草 案 に 関 す
る国民投票。
赤 道 ギ ニ ア オ ビ ア ン・ ン ゲ マ 大
統領三選。
コ ン ゴ 民 主 共 和 国 包 括 的 和 平 合
意署名。
中 央 ア フ リ カ ボ ジ ゼ 元 軍 司 令 官
によるクーデター。
ス ー ダ ン 西 部 ダ ル フ ー ル 地 域 で
アラブ系民兵によるアフリカ系住
民への襲撃激化。
中 央 ア フ リ カ ボ ジ ゼ 元 参 謀 長 派 ソマリア 停戦合意が成立。
兵士と大統領親衛隊との間の武力
衝突事件。
スーダン 和平交渉開始。
国民議会選挙。
ジンバブエ 野党民主改革運動(M
DC)の主導する大規模な反政府
デモ。
マダガスカル
マ ダ ガ ス カ ル 政 情 危 機 で ラ チ ラ
カ前大統領が仏に出国。
マ ダ ガ ス カ ル ラ ヴ ァ ル マ ナ ナ 大
統領就任。
エ チ オ ピ ア・ エ リ ト リ ア 国 境 委 アンゴラ 停戦合意署名。
員会により(地図上の)国境線確定。
西アフリカ
中部アフリカ
東アフリカ
シ エ ラ レ オ ネ カ バ 大 統 領 が 国 家 コンゴ共和国 大統領選挙でサス・
非常事態の終了宣言。
ンゲソ大統領当選。
ガーナ クフォー大統領就任。
西アフリカ
]アフリカ重要事項 年表
年 初頭
3
4
6
年
1
2
8
10
12
1
5
10
11
12
1
3
4
5
6
7
9
10
12
00
01
02
03
年
年
年
年
年
中部アフリカ
東アフリカ
コンゴ民主共和国 暫定政府発足。
月
アフリカ全土
西アフリカ
新アフリカイニシアティ
ブ(NAI) マ プ ト 首 脳
会議。
サントメ・プリンシペ クーデター
未遂発生。
中部アフリカ
新憲法公布。
コンゴ民主共和国 憲法国民投票
の実施。
ガボン ボンゴ大統領七選。
ブ ル ン ジ 最 大 反 政 府 勢 力 F D D
と和平合意署名。
ソマリア ナイロビにおいて暫定
連邦議会発足。
南部アフリカ
マ ダ ガ ス カ ル A U 首 脳 サ ミ ッ ト
でAU復帰を承認される。
ムベキ大統領再任。
コモロ諸島 国内危機打開に関す
る合意。
南ア
マラウィ ムタリカ大統領当選。
ケ ニ ア ワ ン ガ リ・ マ ー タ イ さ ん、
アフリカ女性初のノーベル平和賞
受賞。
ソマリア ユスフ暫定大統領選出。
ス ー ダ ン 南 北 包 括 的 和 平 合 意 が
成立。
スワジランド
新憲法採択。
ジンバブエ
年以降に収用され
た土地の原則国有化。
ジ ン バ ブ エ 政 府 は「 ご み 片 付 け
作戦」と称して不法居住区の住宅
や 露 店 の 撤 去 に 着 手 し、 七 〇 万 人
(国連発表)が住居や生活の糧を
失った。
ナミビア ポハンバ大統領就任。
モ ザ ン ビ ー ク ゲ ブ ー ザ 大 統 領 就
任。
東アフリカ
南部アフリカ
ソ マ リ ア 暫 定 連 邦 政 府 が ナ イ ロ
ビにて樹立。
エチオピア 第五回国政選挙。
スーダン 統一暫定政府樹立。
中央アフリカ ボジゼ大統領就任、
エリー・ドテ内閣組閣。
中 央 ア フ リ カ 大 統 領 選 挙、 国 民
議会選挙を実施。
ル ワ ン ダ 複 数 立 候 補 に よ る 初 の
大統領選挙でカガメ大統領当選。
モザンビークのシサノ大
統領が AU 議長に就任。
フランス語圏諸国会議第
一〇回サミット。
アフリカ全土
ト ー ゴ エ ヤ デ マ 大 統 領 死 亡。 息
子ニャシンベが後継を表明したた
めに政情不安。
西アフリカ
ナイジェリアのオバサンジョ
大統領がAU議長に就任。
コ ー ト・ ジ ボ ワ ー ル 国 連 PKO
(UNOCI)派遣。
中国アフリカ協力フォー
ラ ム 第 二 回 閣 僚 会 議( ア
ディス・アベバ)
。
第三回 TICAD
(東京)
。ギ ニ ア ビ サ ウ 軍 が ク ー デ タ ー に
より全権掌握を宣言。
リベリア 包括的和平合意。
マ リ の コ ナ レ 氏 が AU 議
長に就任。
月
〜
ト ー ゴ 大 統 領 選 挙 に よ り フ ォ ー
ル・ニャシンベが大統領就任。
モーリタニア 軍によるクーデ
ター。
ギ ニ ア ビ サ ウ ヴ ィ エ イ ラ 大 統 領
就任。
フ ラ ン ス 語 圏 会 議 で「 フ
ランス語圏憲章」を採択。
コ ン ゴ 共 和 国 の サ ス・ ン リ ベ リ ア ア フ リ カ 初 の 民 選 に よ
ゲソ大統領が AU 議長に る 女 性 大 統 領 ジ ョ ン ソ ン = サ ー
就任。
リーフ大統領就任。
チ ャ ド 憲 法 改 正 に よ り、 大 統 領
再選回数制限を撤廃。
7
コンゴ民主共和国
00
7
1
11
10
8
7
5
4
12
11
9
8
7
5
1
2
3
3
4
5
6
7
8
10
11
12
1
2
04
05
06
年
年
年
年
年
月
3
5
7
9
12 10
〜
〜
月
〜
〜
アフリカ全土
フランス語圏諸国会議第
一一回サミット。
ガーナのクフォー大統領
が AU 議長に就任。
2
1
1
3
4
5
9
12
2
3
4
5
6
8
8
9
9
12 11
チャド
デビー大統領三選。
コンゴ民主共和国 東部での内戦激化。
東アフリカ
スーダン ダルフール和平合意署
名( 反 政 府 勢 力 三 派 中 二 派 は 署 名
拒否)
。
南部アフリカ
ブ ル ン ジ F N L ル ワ サ 派 と の 包 ザンビア ムワナワサ大統領再選。
括的停戦合意。
スーダン 東部和平合意署名。
ボツワナ モハエ大統領引退(三一
日)、
カーマ大統領就任(四月一日)
。
南部アフリカ
コ モ ロ 諸 島 ア ン ジ ュ ア ン 自 治 島
の政情悪化。
ソ マ リ ア 暫 定 連 邦 政 府 首 都 に 樹 マ ダ ガ ス カ ル ラ ヴ ァ ル マ ナ ナ 大
立(エチオピア軍の支援)
。
統領就任(再任)。
東アフリカ
ケ ニ ア 大 統 領 選 で キ バ キ 大 統 領
再 選。 野 党 の 集 計 や り 直 し 要 求 が
発端となって各地で暴動発生。
ソ マ リ ア 暫 定 連 邦 政 府 と ソ マ リ
ア再解放連盟が停戦などを定めた
ジブチ合意に署名。
スーダン 大統領選挙(予定)
。
南ア 総選挙および大統領選挙(予定)
。
ザンビア バンダ大統領就任。
南ア アフリカ民族会議(ANC)
を抜けたレコタ氏らが新野党の人
民会議(COPE)を結成。
南 ア ム ベ キ 大 統 領 辞 任、 モ ト ラ
ンテ大統領就任。
ア ン ゴ ラ 内 戦 終 了 後 初 の 国 政 選
挙。与党MPLAが圧倒的勝利。
ソ マ リ ア 国 連 安 保 理 決 議 ジンバブエ ムガベ大統領が五選。
一八一六でソマリア領内にて外国 またインフレ率二〇〇万%を超え
船舶による海賊捕捉を承認。
る。
カ メ ル ー ン 物 価 の 上 昇 や ビ ヤ 大 エ チ オ ピ ア・ エ リ ト リ ア エ リ ト
統 領 の 次 期 大 統 領 選 挙 出 馬 問 題 等 リ ア・ エ チ オ ピ ア 国 連 ミ ッ シ ョ ン
を め ぐ っ て、 ド ゥ ア ラ 等 で 暴 動 が( U N M E E ) は 停 戦 監 視 活 動 を
発生。
行っていた暫定安全保障地帯から
の 一 時 移 転 を 余 儀 な く さ れ、 両 国
軍が直接対峙する緊張状態に。
中部アフリカ
コ ン ゴ 民 主 共 和 国 ジ ョ ゼ フ・ カ
ビラ大統領就任。
サ ン ト メ・ プ リ ン シ ペ デ・ メ ネ
デス大統領再選。
西アフリカ
中部アフリカ
ガ ン ビ ア チ ャ ン 軍 参 謀 総 長 に よ
るクーデター未遂発生。
ギ ニ ア ゼ ネ ス ト 状 況 下 で の デ モ
隊と治安部隊の衝突により二〇〇
名以上の死傷者発生。
コ ー ト・ ジ ボ ワ ー ル ワ ガ ド ゥ グ
合意成立。
モ ー リ タ ニ ア ア ブ ダ ラ イ 大 統 領
就任。
ナ イ ジ ェ リ ア ヤ ラ ド ゥ ア 大 統 領
就任
シエラレオネ 与党から野党への
移 行 が 平 和 裡 に 実 現。 コ ロ マ 大 統
領就任。
西アフリカ
ブルキナファソ 内閣改造。
AU 議長にリビアのカダ ガーナ 野党ミルズ氏が大統領に。
フィー氏選出。
ギ ニ ア コ ン テ 大 統 領 の 死 後、 カ
マラ大尉によるクーデター。
ブルキナファソ 内閣改造。
第四回 TICAD
(横浜)
。
AU 委 員 長 に ガ ボ ン の
ジャン・ピン氏就任。
タンザニアのキクウェテ
大 統 領 が AU 議 長 に 就
任。
アフリカ全土
5
9
7
1
4
07
08
09
ます。公募要領および執筆要項などの詳細は、地域研究コンソーシアムのホームページ
(http://www.jcas.jp)に掲載しています。また刊行担当([email protected])に
メイルにてご相談いただくこともできます。
地域に立脚した視点から広く「世界」を考える企画・論考を歓迎します。ぜひふるって、
ご応募ください。
『地域研究』編集委員会(2009 年 3 月現在)
飯塚正人 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(委員長)
家田 修 北海道大学スラブ研究センター
臼杵 陽 日本女子大学文学部
遠藤 貢 東京大学大学院総合文化研究科
岡本正明 京都大学東南アジア研究所
川島 真 東京大学大学院総合文化研究科
村上勇介 京都大学地域研究統合情報センター
村田雄二郎 東京大学大学院総合文化研究科
山本博之 京都大学地域研究統合情報センター
押川文子 京都大学地域研究統合情報センター(刊行担当)
260.0
148.0
123.8
204.2
181.0
148.6
33.6
174.8
209.0
68.4
205.0
126.4
127.2
99.1
206.0
74.2
122.8
91.0
113.4
119.9
161.2
200.1
120.6
131.8
235.0
115.4
120.2
216.8
125.0
14.4
138.4
60.6
253.2
191.4
160.3
95.6
116.2
13.1
270.0
145.4
69.0
88.6
163.6
118.2
108.0
134.2
182.0
105.0
人口一人当たりの援
助額︵$ ︶
で検討し採否を決定します。個別論文は、査読を経たのち、編集委員会で採否を決定し
42.4
56.2
49.8
51.9
49.0
50.3
71.0
44.4
50.6
63.2
46.1
54.8
48.1
43.3
51.1
57.3
52.5
56.7
59.1
59.7
55.5
46.2
53.4
42.9
45.3
59.0
47.6
53.8
63.7
73.2
42.5
52.5
56.4
46.8
45.6
65.2
62.8
72.2
42.2
47.7
50.7
58.1
40.8
51.9
58.2
50.7
41.7
42.7
成人の識字率︵%︶
『地域研究』では、特集案および個別論文を公募しています。特集企画案は編集委員会
1,247
113
582
274
28
475
4
623
1,284
2
2,345
342
322
23
28
118
1,104
268
11
239
246
36
580
30
111
587
118
1,240
1,031
2
799
824
1,267
924
26
1
197
0.46
72
638
1,219
2506
17
947
57
241
753
391
GINI係数
投稿のご案内
2.8
3
1.2
2.9
3.9
2
2.2
1.8
2.8
2
2.9
2.1
1.9
1.9
2.4
3.1
2.5
1.5
2.6
2
2.1
2.9
2.6
0.5
4.8
2.6
2.5
3
2.5
0.7
1.9
1.3
3.3
2.2
2.8
1.8
2.8
0.5
1.8
2.9
0.4
2.2
0.6
2.4
2.6
3.4
1.9
1.3
5歳以下の乳幼児死
亡率︵千人当たり︶
は、コンソーシアム事務局を担当する京都大学地域研究統合情報センターが担当します。
平均余命
多様な研究対象地域やアプローチをもつ研究者が協力して編集しています。年 2 回の刊行
国土︵千平方km︶
クト、学会、市民組織や国際機関などが参加する「地域研究コンソーシアム」におき、
4,400 17,019
1,310
9,025
12,420
1,881
1,120 14,777
330
8,496
2,120 18,533
2,940
530
740
4,343
1,280 10,764
1,150
626
290 62,399
2,750
3,767
1,590 19,268
3,800
506
21,230
508
520
4,842
780 79,087
13,080
1,330
1,140
1,707
1,330 23,462
1,120
9,380
470
1,695
1,540 37,531
1,890
2,006
290
3,753
920 19,670
750 13,920
1,040 12,334
2,010
3,121
11,390
1,263
690 21,372
5,120
2,074
630 14,195
1,770 147,983
860
9,736
1,630
158
1,640 12,411
15,450
85
660
5,848
n.a.
8,696
9,560 47,588
1,880 38,556
4,930
1,145
1,200 40,432
800
6,581
920 30,930
1,220 11,920
n.a. 13,403
年間人口成長率︵%︶
『地域研究』は、編集委員会を地域研究にかかわる全国の研究教育機関、研究プロジェ
23.4
4.6
3.8
4
3.6
3.3
6.9
4.2
0.6
−1
6.5
−1.6
1.8
6
12.5
0.8
11.1
5.6
7
6.3
1.5
2.7
6.9
4.9
9.4
6.5
7.4
2.8
1.9
4.7
7
5.9
3.2
6.3
6
6
4.8
6.3
6.5
n.a.
4.8
10.2
2.4
7.1
2.1
6.5
6
n.a.
人口︵千人︶
を目標に刊行します。
アンゴラ
58.55
ベニン
5.43
ボツワナ
11.78
ブルキナファソ
6.77
ブルンジ
0.97
カメルーン
20.64
カーポ・ヴェルデ
1.43
中央アフリカ
1.71
チャド
7.08
コモロ諸島
0.45
コンゴ民主共和国
8.96
コンゴ共和国
7.65
コート・ジボワール
19.57
* ジブチ
0.97
赤道ギニア
9.92
エリトリア
1.20
エチオピア
19.39
ガボン
10.65
ガンビア
0.64
ガーナ
15.25
ギニア
4.56
ギニア・ビサウ
0.36
ケニア
29.51
レソト
1.60
リベリア
0.73
マダガスカル
7.33
マラウィ
3.55
マリ
6.86
モーリタニア
2.64
モーリシャス
6.36
モザンビーク
7.75
ナミビア
6.74
ニジェール
4.17
ナイジェリア
165.69
ルワンダ
3.32
サントメプリンシペ
0.14
セネガル
11.15
セイシェル
0.73
シエラレオネ
1.67
ソマリア
n.a.
南アフリカ
277.58
スーダン
47.63
スワジランド
2.94
タンザニア
16.18
トーゴ
2.49
ウガンダ
11.21
ザンビア
11.36
ジンバブエ
n.a.
1人当たりGNI
︵購買力平価$︶
とする多様な研究を結び、地域の視点から問題を提起し、
「地域から世界を考える」こと
10
GDP年間成長率
︵%︶
研究』は、地域の総体的理解を目指す地域研究のフォーラム誌として、世界各地を対象
国 名
億$ ︶
グローバル化の進む今日、世界の各地は緊密に連関し、また共通の課題に直面してい
ます。その変化や課題が展開されているのは、人々の生きる現場である「地域」
。
『地域
GDP︵
『地域研究』刊行にあたって
[付表 2]アフリカ基本統計データ
n.a.
36.5
63
39.5
42.4
44.6
n.a.
61.3
n.a.
n.a.
n.a.
n.a.
44.6
n.a.
n.a.
n.a.
30
n.a.
50.2
39.4
38.1
n.a.
44.5
63.2
n.a.
47.5
39
40.1
39
39
47.3
70.7
50.5
43.7
46.8
n.a.
41.3
n.a.
62.9
n.a.
65
n.a.
50.4
34.6
n.a.
45.7
50.8
50.1
67.4
34.7
81.2
21.8
59.3
67.9
76.6
48.6
25.7
56.5
67.2
83.8
48.7
67.9
87
58.6
42.7
63.2
40.1
57.9
29.5
42.4
85.1
84.8
57.5
68.9
62.7
46.6
51.2
84.4
47.8
85
28.7
68
70.4
84.9
39.3
91.8
35.1
37.8
84.6
61.1
81.6
69.4
60.9
66.8
80.6
90.7
10
43
35
61
51
93
267
31
27
50
34
69
13
143
54
28
25
24
45
51
18
50
26
36
75
39
49
69
62
15
77
71
29
79
62
139
68
165
63
46
15
55
30
46
12
52
122
21
(出典)World Bank Quick Query 2007(http://ddp-ext.worldbank.org/ext/DDPQQ/member.do?method=
getMembers&userid=1&queryId=135)ただし、GINI 係数と成人識字率、およびジブチのデー
タは CIA World Factbook による。そのためジブチの場合「1 人当たり GNI」は「1 人当たり GDP」
、
「5 歳以下乳幼児死亡率」は「幼児死亡率」である。
(作成)河本和美。
編集後記
長い混迷の時期を経て、ようやく〈希望の大陸〉という形容も見られるよう
になったアフリカ。本号は、このアフリカに焦点をあてて、アフリカ内部の動
きとアフリカへの眼差しの両面からその実情に迫る総特集号としました。世界
的な金融危機が顕在化したのはちょうど原稿が揃いつつあった時期でした。今
後とも、この希望と絶望、機会と貧困が交差する大陸の行方に注目したいと思
います。今年度も諸般の事情により年 1 回の刊行となったことをお詫び申し上
げます。(F.O)
地域研究 Vol. 9 No. 1
初版発行
2009 年 3 月 31 日
編 集
地域研究コンソーシアム『地域研究』編集委員会
発 行
京都大学地域研究統合情報センター
〒 606-8501 京都市左京区吉田下阿達町 46
[email protected]
http://www.cias.kyoto-u.ac.jp
制作・発売
株式会社 昭和堂
〒 606-8224 京都市左京区北白川京大農学部前
電話 075-706-8818 / FAX 075-706-8878
振替 01060-5-9347
http://www.kyoto-gakujutsu.co.jp/showado/
印刷 中村印刷
© 地域研究コンソーシアム『地域研究』編集委員会 2009
Printed in Japan
ISSN 1349-5038
ISBN978-4-8122-0921-9