「スリー カップス オブ ティー」 平和を目指して進む一人の男の驚くべき道のり…ここに学校をつくろう グレッグ ・ モーテンソン&デイビッド ・ オリバー ・ レーリン ブランカ ・ ヴァン ・ ハッセルト 1993 年、 グレッグ ・ モーテンソンは K2 登 頂を目指す登山隊の一員として遠征に出発 しました。 パキスタンと中国の国境に位置す るカラコルム山脈にある K2 の標高は 8611 メートル、 世界最高峰です。 が、 この遠征 は失敗となりました。 遠征隊員の一人を病院 に収容するため救助のヘリが着陸できるポイ ントまで氷河づたいに下山しなければならず、 緊急撤退を余儀なくされたのです。 遠征隊員の中には再び K2 を目指して引き返す者もいました。 しかし、 グレッグ ・ モー テンソンとスコット ・ ダースネイの 2 人は、 救助にエネルギー を使い果たしてしまい、 もう一度山頂へと引き返すリスクを負 うにはあまりにも体力を消耗しすぎていると感じていました。 2 人は登頂をあきらめ、 バルトロ氷河に沿って下り、 アスコール 村へと向かいました。 そこで帰還への準備をしようと決めたの です。 心身ともに疲労していたせいか、 グレッグはバルトロ氷 河沿いの 62 キロの行程中、 注意力が散漫になっていました。 道を間違えてしまったグレッグが、 極度の疲労と脱水症状で ふらふらになりながらようやくたどり着いたのは、 アスコール村と は大峡谷を挟んだ反対側にあるコルフェという村でした。 パキスタン北東部にあるこの人里離れた村にやってきた西洋 人は、 おそらくグレッグが初めてだったでしょう。 村長のハジ ・ アリはグレッグを家に連れ帰って看病しました。 グレッグの体 力が回復するには 2 カ月かかりました。 その頃には現地の言 葉をいくらか覚え、 村の人々とコミュニケーションをとれるように なっていました。 村を去る前に地元の小学校に行ってみたいと グレッグは言いました。 驚いたことに、 この村に先生がやって 来るのは 2 日に 1 度で、 何より学校そのものがありませんでし た。 子どもたちは外で地面に座って授業を受けるのです。 先 生が来ない日は子どもたちだけで、 晴れていれば地面に、 雨 が降ればぬかるみに、 棒で文字を書いて自分たちで勉強する というのです。 この村の人々に看病をしてもらい、 わずかな食 料や日用品を分け与えてもらったグレッグは、 お礼に何をす ればよいかと数週間ずっと考えていました。 もう一度ここに戻っ てきて、 この村に学校を建てようとグレッグは決めたのでした。 アメリカに帰国し、 グレッグは緊急医として勤務する生活に戻 りました。 昼間の時間を活動に充てるため夜勤で働きました。 パキスタンの統治下ですがインドの意向によって地図上では 「紛争地」 と記されている山深い村に学校を建てたいと、 さま ざまなミュージシャンや有名人に手紙を出しました。 この学校 建設プロジェクトのため、 少しでも生活費を切り詰めようと、 グ レッグはアパートひきはらって車に寝泊まりし、 シャワーは、 トレ ッキングや遠征の間に登山家たちが利用するジムですませま した。 580 通もの手紙を著名人に宛てて出したのですが返事は 1 通も来ませんでした。 夜の勤務中、 グレッグは登山仲間でも ある同僚とよく話をしていたのですが、 その同僚がアメリカ ・ ヒ マラヤ協会の会報誌に寄稿してみてはどうかと提案してくれま した。 これが成功しました。 会報誌出版後間もなく、 ジーン ・ ホエーニという人から連絡があったのです。 ジーン氏は 70 代 の物理学博士で、 半導体やシリコンチップなどの新技術の開 発に携わっており、 自身で設立した会社をいくつか経営してい て、 その業績は好調でした。 スイス生まれのジーン博士は、 若い時は登山家でもあり、 エベレストに挑戦したこともありました。 グレッグに詳細な説明を求めることなく、 学校を建てるのにいく らかかるのかとジーン博士は尋ねました。 そして、 グレッグの言 った通りの額、 1万2千ドルを寄付してくれたのです。 グレッグはコルフェ村に学校を建てるための旅に向けて動き始 めました。 イスラマバード近くのラワールピンディで、 校舎の基 礎建築を手伝ってくれる人を雇いました。 必要な質、量の板材、 梁、 セメント、 釘、 そしてもちろんそれらの輸送費を見積もりま した。 資材はすべてインダス川に沿って曲がりくねるカラコルム ハイウェイを、 高原から世界最高峰の山脈地帯へと運送され ることになりました。 スカルドゥという場所からはトラックからジー プに積み替えて運びます。 ここで、 ある困難が生じます。 それ は、 資材の運搬そのものではありませんでした。 ここの長老たち が、 はるか先のコルフェ村の学校ではなくて、 自分たちの村の 学校のために資材を流用したいと言い出したのです。 グレッグ は資材を一旦置いて一足先にハジ ・ アリ村長に自分の到着を 告げに行きました。 しかし、 グレッグは村長の言葉に落胆する ことになります。村長は学校を建てるにはまだ早いと言うのです。 村へ通じる橋が架かっていないのにどうやって資材を運ぶのか、 と。 1994 年は橋の建設のために費やされました。 翌年 1995 年にやっと校舎の建設に着工し、 その半分ができました。 予定 していたよりも 1 カ月遅れてアメリカに帰国したグレッグは、 仕 事もガールフレンドも失っていました。 ジーン博士に進捗状況を 報告すると、 博士は、 グレッグをアメリカ ・ ヒマラヤ協会の年次 会議に招待しました。 これをきっかけに彼の運命が変わります。 中央アジア協会 (CAI) の設立です。 ジーン ・ ホエーニ博士と ジョージ ・ マッコーンの後援によるこの協会は、 男子だけでなく 女子教育の促進のための学校を建設することを目的としていま す。 グレッグは中央アジア協会の理事長に任命されました。 さ らに幸運は続きます。 グレッグはここで素晴らしい女性に出会っ たのです。 6 日後、 2 人は結婚しました! 1996 年、 グレッグは学校を完成させるため、 また、 別の学 校建設用地を探すため、 コルフェ村に戻ってきました。 新たな 学校づくりは、 順調に進展する場所もありましたが、 女子教育 に懐疑的なイスラム教指導者のため難かしい所もありました。 そんな中、 グレッグの活動に反対を示すファトワー (イスラム法 にのっとった裁断) が下されました。 これを取り消すには、 イス ラム穏健派、 さらにはイラン中北西部コム市にあるアヤトラ最高 裁からの強力な支持が必要でした。 その一方、 イスラム原理 主義者が立ち上がり、 サウジの後援を得てムジャハへディン ・ マドラス (イスラム原理主義学校) も、 パキスタン各地に設立 されています。 K2 登頂の失敗から 10 年後の 2003 年、 グレ ッグの尽力と CAI の後援により 50 以上の宗教とは無関係の学 校が建設されました。 その間、 アフガニスタンのタリバンとの紛 争に端を発した 9.11 という悲惨な事件もありました。 CAI 後援 の学校予定地は、 アフガニスタンのパキスタンとの国境付近の 難民キャンプ地内にもあります。 2003 年以降、 CAI はパキス タンとタジキスタンの間に位置するアフガニスタン北西部の細長 い台地、 ワクハン峡谷にも学校を建設しようとしています。 中央アジア協会 www.ikat.org info@threecupsoftea 訳 小越 二美 (Fumi Kogoe) June / July 2012 i-News 18
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