2010 No.6 NOV - 公益社団法人 日本航空機操縦士協会

PILOT
Pilotが作る隔月誌
No.323
2010 No.6
2010 No.6 NOV
NOV
JAPAN AIRCRAFT PILOT ASSOCIATION
JAPAN AIRCRAFT PILOT ASSOCIATION
ISSN 0389-5254
2010年12月15日まで!
航空100年を迎える2010年に新たな取り組みにチャレンジします
す!
JAPA に入会すると!
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まずは
03-3501-0433 事務局まで
E-Mail : [email protected]
[email protected] 入会手続きなどサポートさせて頂きます
『日本航空機操縦士協会のめざすもの』
1.私達の活動の目的は、定款に定められた通り「航空技術の向上を図り、航空の安全確保
につとめ航空知識の普及と諸般の調査研究を行い、もって我が国航空の健全な発展を促
進する」ことです。
2.私達は、定款の目的を踏まえ、将来のあるべき姿として「安全で誰からも信頼され、愛
される航空を実現する」というビジョンを描いています。
3.私達は、目的・ビジョンを達成するために下記を基本的指針に掲げて活動して行きます。
⑴ 航空の安全文化を構築する。
(組織と個人が安全を最優先する気風や習慣を育て、社
会全体で安全意識を高めて行くこと)
⑵ 地球環境と航空の発展との調和を図る。
⑶ 航空に携わるものどうしが心を通わせ共存共栄を図る。
第46期(平成22年度)重点施策
本協会は、引き続き航空の安全に資する事業を推進し、航空関係者の知識と能力を育
み、大きな変化が顕在化してきた状況の下、事業の公益性を一段と高め、移行認定(公
益認定)の手続きを進めます。あわせて財政の安定化を図り、事業に要するコストの効
率化を進めます。
本協会が行なっている事業は、公共性を有していると判断できます。操縦士としての
経験と知識を活かし、日本の空の安全と発展に資するために活動を続けています。安全
情報の提供、制度の解説、知識の普及は空の安全に役立っています。行政との関わりは、
安全講習会の開催や、安全関連検討会への委員の派遣、専門書の監修依頼など多岐に亘っ
ています。今後も公益社団法人の役割を担う事と考えます。
この様な環境を踏まえ、私たちは航空機の運航と空中における豊富な経験と培った知
見を活かし、次の事業を行ないます。
航空の安全文化の普及と啓発
安全対策(制度と運用)
情報伝達と提供
技能習熟の支援
情報収集及び調査研究
その他、本協会の運営に必要な事項
操縦士協会は会員を募集しています。
JAPA は公益法人として国土交通大臣の認可を受けた日本唯一の操縦士団体です。
目的 本協会は、航空技術の向上を図り、航空の安全確保につとめ航空知識の普及と諸般の調査研究
を行い、もってわが国航空の健全な発展を促進することを目的としています。
協会の会員は、下記のように分かれます。
正 会 員;協会の目的に賛同して入会された方で、原則として操縦士技能証明をお持ちの方です。
賛助会員;協会の事業を賛助するため入会した個人または法人です。個人賛助会員は、満16歳以上
の操縦士技能証明を持たない方で、法人賛助会員の資格は、特に定めはありません。
正会員の会費;月 額 1,500円:協会運営費
個人賛助会員;月 額 1,500円:協会運営費
法人賛助会員:一口年額 50,000円:協会運営費
入会すると?
①協会機関誌(AIM・PILOT 誌など)の無償入手
②航空関連商品(書籍等)の割引購入
③会員向け、空港施設見学や講習会への参加
④協会契約割引施設の利用
お申し込みは別途「入会申込書」をお送り致しますので、事務局までご連絡下さい。
皆様のご入会をお待ち致しております!
社団法人日本航空機操縦士協会 JAPANAIRCRAFTPILOTASSOSIATION
TEL03-3501-0433 FAX03-3501-0435 [email protected]
HomepageURLhttp://www.japa.or.jp/
●航空会館 りそな銀行
●JTB
●
日石三菱●
歩道橋
至銀座
NTTドコモ
■汽車
● みずほ銀行
JR
新橋
駅
●八洲電気
●森ビル
カフェ・
ベローチェ
●
烏森通り
ニュー新橋ビル
赤レンガ通り
三菱東京UFJ銀行●
日本酸素●
小里会館
西高楼飯店
20
外堀通り
●
●三井住友
そばや●
●
日本航空機操縦士協会事務所
入口はこちら側にあります
西新橋1・2丁目交差点
内幸町駅
至虎ノ門
至東京
烏森口
至品川
CONTENTS
No.323 2010 No.6 NOV
4
9
10
22
28
34
43
特別寄稿
さきもり
緊迫する見えない国境線! 海の防人
赤星 珪一
航空医学適性の Q&A
健康管理について考えてみよう!
第10回 時差ボケ
48
54
航空医学委員会
62
湯浅 高義
67
寄稿
砂塵舞う空! BK117C-2
サウディアラビアデモ奮闘記
あるパイロットのつぶやき
神谷 國夫
航空史曼陀羅
その38. 想定外の巨人、
ハワード・R・ヒューズ Jr 物語
徳田 忠成
70
71
再掲載
航空機設計における信頼性解析(上)
遠藤 信介
74
役立つ! 運航・技術講座
連載・飛行力学物語 その9
柴田 眞
連載・ヘリコプター飛行安全よもやま噺
冨尾 武
85
AviationCafé
89
赤フンはソロの印
フラップアップ ??
BoysBeAmbitious
駆出しパイロット
安全の分水領
アクシデント・インシデント概要
GA:ジェネアビ情報
小型飛行機の事故
奥貫 博
I ♥ Aviation 第2弾
―HellofromGuam―
第2回 “Manila!Manila!Manila!”
青木 美和
グアム ゼネアビ紀行 その2
石原 達也
FAI ニュース
奥貫 博
開催予告
小型機操縦技術競技会
第5回 航空気象シンポジウム
航空輸送における安全マネジメント・フォーラム
開催報告
スカイ・レジャー・ジャパン2010in福井
第1回全日本曲技飛行競技会
航空安全セミナー開催報告
西日本支部だより
JAPA 通信
JAPA で飛行訓練を!
FlightTrainingDevice
FTD 訓練室
ロートルパイロット
90
JAPAAerialPhotoExhibition
湧井カレン
92
編集後記
社団
法人
日本航空機操縦士協会
JAPAN AIRCRAFT PILOT ASSOCIATION
◦特別寄稿
緊迫する見えない国境線!
海の防人
さきもり
航空ジャーナリスト 赤星 珪一
JAPA 編集委員から最近南の海がキナくさい
ので何か書いてくれとの依頼があり、赤提灯で
の話の誘惑にまけて引き受ける破目になりまし
た。JAPA の読者諸氏は、プロの航空関係者な
のでヘリのことはよくご存知でしょうから、尖
閣諸島に近い海上保安庁の石垣航空基地のヘリ
に焦点をあてて話をすることにします。
歴史的背景
ところで海上保安庁と海上自衛隊とはどこが
違うの?とよく聞かれますが、
「国家の警察権と
軍事権とは違うんだよ」と説明
すると何となく解ったような顔
をされますが、実際はよく解ら
ないし、どちらでも良いじゃな
いのという方が多いようですの
で、少し歴史を振り返りながら
話をします。昭和20年8月大日
辱憲法?)と呼んで、この改正を叫ぶ集団がい
ることはよくご存知のことと思いますが、この
話は省略します。
海軍は無くなったのですが、海上での救難業
務、密航密輸等の犯罪の取り締りや機雷の除去
を行わないことには、物資の輸出入を全て船舶
に頼っている日本人の生活が成り立っていかな
いことに連合国が気付き、昭和23年海上での警
察として海上保安庁をつくり「海上の治安の維
持及び生命財産の保護」に当たらせることにな
りました。海軍はありませんので運輸省(現在
本帝国は太平洋戦争に負けてし
まい、戦勝国としての連合国(米
国が主であった)は日本に占領
軍として進駐し、帝国陸海軍を
解散させることで全ての軍事力
を剥奪してしまいました。さら
に、現在の日本国憲法を制定し、
この中の第9条には「戦争の放
棄、戦力の不保持、交戦権の否
認」ということを定められたの
ですが、これを平和憲法と呼ぶ
集団もあり、押し付け憲法(屈
4
2010 NOV
世界第6位の EEZ
の国土交通省)の所属となり、そのまま現在ま
で続いています。
てくれということになり、陸海空の自衛隊(当
初は警察予備隊と称した)が発足しました。誕
生命財産の保護とは、陸上での消防業務(消
防車や救急車での仕事)のことですから、海保
生から言うと海保は兄貴分でありますが、弟分
の海自はどんどん大きくなり、組織としては4
倍の大きさに成長して現在にいたっています。
は海上の警察であり消防でもあるということで
すが、その他にも灯台の建設・保守管理、海図
の作成などもやっています。後述するのですが、
余談ですが、ひと言で艦船といいますが、戦う
舟を「艦」と書き軍艦、自衛艦などと表し、人
や物資を運ぶ舟を「船」と書き貨物船、油槽船、
日本が灯台を建てて保守管理しているというこ
とは、国家として実効的支配を行っていること
になります。また、正しい海図は、日本の領土
客船などと表し、海保では巡視船と表していま
す。
線を決める基本線となります。他にも海保は18
年前から日本周辺の船舶や航空機が発射する
ELT(緊急信号発信器)を一元的に監視してお
り、数年前までその99%は誤発射でしたが、最
近では衛星中継周波数を制限しているので誤発
射は少なくなったとのことです。
脈絡もなく、日本の航空界の話になります。
戦後7年間日本の空は日の丸をつけた航空機が
飛ぶことを禁じられていたことは皆様よくご存
知のことですが、昭和27年の航空再開となった
時点で、海保は早速5機のヘリ(ベル47型を3
機、シコルスキー S55型を2機、いずれも単発
レシプロエンジン機)を発注し、函館、大村、
館山の各航空基地に配備しました。その後、航
空技術の発展に伴いタービンエンジン・ヘリや
双発ヘリが登場することになりますが、約30年
の運用期間が来て機種更新する場合や、需要に
応じて新しい航空基地が開設されヘリが配備さ
れる場合に双発タービン機のベル212型、ベル
412型、スーパーピューマ332型などを導入し、
平成22年10月現在では全国に45機のヘリを配備
するまでに成長しました。石垣航空基地にもベ
ル212型ヘリが1機、ベル412型ヘリが1機、計
2機配備されています。
昭和25年に朝鮮戦争が勃発し、連合国軍は朝
鮮の方が忙しくなって、日本の国防は日本でやっ
ベル212型ヘリ
2010 NOV
5
区分けしている?のですが、領土がどこかとい
領海と排他的経済水域
またまた話が飛んでしまいますが、日本国は、
北海道から本州、四国、九州を通って沖縄にい
うややこしい問題が存在しているので、中間線
すらはっきりさせていない所もあります。
北方4島はロシアに実効的支配されており、
たる弓状の形をしていることは皆様よくご存知
のことですが、沖縄県も沖縄本島から宮古島、
石垣島、与那国島にいたる形は弓状をしていま
竹島は韓国に実効的支配されておりますが、尖
閣諸島は日本の領土でありもちろん実効的支配
をしています。日本の領土(国土面積)は38万
す。この弓上の西端付近の諸島は先島諸島とか
八重山諸島といわれており、この中に尖閣諸島
も含まれています。この八重山諸島の最西端は
平方 km で世界第61位ですが、領海は43万平方
km あり、EEZ は405万平方 km になるので、領
海と EEZ を加えた447万平方 km という日本が
与那国島ですが、この島の西60マイルは台湾で、
台湾のテレビ放映を観ることができます。この
北海道から沖縄にいたる列島が日本の領土であ
り、日本の主権が及ぶエリアであることは皆様
良くご存知のことと思います。
支配権を有する海域は世界第6位になり、海洋
大国といっても過言ではありません。ちなみに
日本の海岸線は3.4万 km で、これも世界第6位
となっており米国よりも上位にあります。この
ように領土が一番大切なポイントで、これがな
いと EEZ が形成できないので各国ともにこの問
題に神経質になっています。日本の東端は南鳥
島で、気象庁の職員と海自の隊員が常駐してい
ます。最南端は沖ノ鳥島で無人島ですがリーフ
の中に高さ1 m 弱の島が数個散在しているだけ
ですが、昭和19年にリーフ上に灯台を建設し海
保が維持管理しています。この島のおかげで日
本の EEZ が40万平方 km という膨大なエリアを
確保することができています。この EEZ では領
土のような主権は及びませんが、海底油田の開
発とか鉱石の採取などといった天然資源に関す
る権利、海洋調査、海洋構築物に関する権利な
この領土の周囲12マイルの海上のことを「領
海」といい、ここも日本国の主権が及ぶエリア
であります。領土の外側24マイルまでを「接続
水域」といいます(但し、領海部分は除きま
す)
。領土の外側200マイルまでを「排他的経済
水域(EEZ ということが多い)」といいます(但
し、領海と接続水域は除きます)。
もちろん日本とロシア、日本と韓国、日本と
中国の間には200マイルの EEZ が重なる部分が
でてきますので、これらの2国間では中間線で
尖閣諸島の位置関係
6
2010 NOV
どの経済的主権が及ぶことになっています。こ
の領海12マイル、接続水域24マイル、排他的経
済水域200マイルは、国連の海洋法で定めてあ
り、批准国の間では有効なものです。
石垣島周辺海域
リ・飛行機で違法漁船を発見しますと、まずは
領海内であること、次に違法に漁労を行ってい
ることを確認します。証拠の採集として写真撮
影やビデオ撮影を行い、巡視船を誘導して逮捕
するということになります。日本の周辺海域に
おいては、外国漁船の領海内での違法操業は巡
やっと石垣と尖閣の話にたどりつきました。
石垣空港から350度90マイルにある尖閣諸島が注
視船が逮捕しており、全て略式裁判で罰金を支
払って母港へ返しています。9月7日の事案の
ように略式裁判にもかけずに釈放というのは、
目をあびだしたのは、昭和43年に国連の海洋調
査団が海底調査を実施して、周辺海域には膨大
な海底資源が眠っていることを発表したことに
いたって不自然な対応で、今後に禍根を残すこ
とになりそうです。追跡された巡視船にぶつかっ
てくるという不法行為をもお咎め無しでは話に
よります。その後、昭和46年になって中国や台
湾が初めて領有権を主張しだしました。昭和47
年5月連合国(主に米国)は沖縄の施政権を日
本に返還するのですが、この返還は沖縄県の本
島から先島諸島を含む全ての島の返還を意味し
ており、もちろん尖閣諸島も日本に返還された
ことになります。その日から尖閣周辺海域に常
時巡視船を配備してパトロールしており、石垣
航空基地のヘリが周辺をパトロールすることに
より実効的支配を行っているところです。この
尖閣諸島は魚釣島を中心に5つの島からなって
いますが、ヘリが降りることができる平地は魚
釣島しかありません。ちなみに、この魚釣島に
は明治時代から戦前まで日本人が経営するカツ
オ節工場があり280名の島民が生活していました
が、現在は廃墟になっています。船着場は現在
も残っており、今は灯台も建設され海保が管理
しています。かつては魚釣島に巡視船とヘリを
使ってヘリポートを作ったことがあります。中
ならない、パトカーに追跡されて故意にぶつけ
て逃走しようとする車にはどんな罰が与えられ
るか日本人ならすぐに答えが出るはずです。
国はすぐに抗議してきましたが、無視して使用
していたものの波浪によりガタがきて、その後
あり急患輸送にあたることになりましたが、ス
ペースがないということで医者なしで石垣空港
は政治的配慮?で補修されていません。ベル212
で尖閣周辺を哨戒していたら台湾空軍の F86に
上空を通過されたことが2回あるというパイロッ
トもいます。
を出発。与那国空港では患者は自分で機体に乗
ることができるほど意外に元気でしたが、飛行
中に患者の容態が急変し、とうとう鳩間島上空
で出産ということになりました。取り上げたの
今年9月7日に起きた中国漁船の領海内違法
は搭乗中の整備長でありましたが、びっくり仰
天とのことでした。
操業のみならず、台湾の漁船や韓国の漁船も尖
閣周辺だけでなく日本中の領海内に入ってきて
違法に漁労を行おうとしています。巡視船やヘ
その後ベル212中型ヘリに更新されてからも、
昭和59年10月、昭和62年3月にも機内で出産と
この石垣航空基地は、昭和47年5月沖縄の日
本復帰の日から海保の仕事を始めたのですが、
復帰前の昭和47年2月に琉球政府石垣医療航空
事務所として開設され、ヒューズ369型ヘリ2機
で仕事を始めました。ちなみに、パイロット、
整備士、通信士、その他の基地職員はすべて海
上保安庁から派遣されていました。この組織は、
その名のとおり八重山諸島の有人島(10島)に
八重山病院の医者と看護婦をヘリに乗せて、巡
回サービスをするというものでした。他には急
病患者がでると救急ヘリとして輸送するという
ものでしたが、最初はヒューズ369という小型ヘ
リであったので患者さんを乗せるスペースが少
なく苦労したようです。この機体の時代の話、
昭和48年10月に与那国島で早期破水した患者が
2010 NOV
7
いうことがありましたが、いずれの母子ともに
健康で子供は立派に成長されているようです。
空基地と同じ業務をこなしながら尖閣周辺海域
の警戒、救急患者の輸送という特別な業務を行っ
データによると、急患はその45%が夜間に発生
しているのですが、ヘリの乗員は夜間飛行には
特別に気を使っています。都会とは違い町の明
ている石垣航空基地は人事院総裁表彰を始め多
数の表彰を受けており、更には、平成16年に急
患輸送人数の累計2,000名を無事故で達成すると
かりがない漆黒の闇の洋上を飛行し離島のヘリ
ポートに着陸し、患者を容収したら離陸しなけ
ればなりません。ヘリポートといっても単なる
いう快挙を成し遂げています。現在は、ビーチ
350中型飛行機2機、ベル212中型ヘリコプタ1
機、ベル412中型ヘリコプタ1機を保有する勢力
広場であるところが多く、住民の車数台のヘッ
ドライトが唯一の照明施設で立ち木などの周辺
障害物がとても気になるという苦労話を聞きま
で日夜活躍しています。
した。必死の思いで夜間着陸をしても、患者で
ある爺さまは独り身で寂しかっただけという笑
えぬ笑い話も多々ありますが、これが八重山地
方のおおらかさということなのでしょう。密航・
密漁の取り締まり、海難の救助といった他の航
マイル、東京までは1,100マイルという、遥か彼
方の日本の最西端の石垣島にあって50名弱の職
員が頑張っていることをご記憶いただければ幸
いです。
海上保安庁が保有する航空機の一覧表
(H22.10現在)
ベル212
ベル412
アエロスパシアル AS332L1
ユーロコプター EC225LP
シコルスキー S76C
アグスタ AW139
ベル206B
日航製 YS-11A
ガルフストリームⅤ
ダッソーファルコン900
ボンバルディア DHC-8-315
サーブ340B
ビーチクラフト200T/B200T
ビーチクラフト350
セスナ206
計
20
6
4
2
4
5
4
1
2
2
5
4
2
10
1
72
石垣島から宮古島まで66マイル、那覇まで220
参考:「排他的経済水域」とは……
「領海(幅12カイリ)の外側にあって、沿岸国
がその水域のすべての資源(生物、非生物を問
わず)の探査、開発、保存、管理および同水域
のその他の経済的活動について排他的な管轄権
をもつ水域。国連海洋法条約(1982採択)上の
正式名称は上記のとおりであるが、経済水域、
EEZ とも略称される。領海と公海の中間に位置
する第3の新しい水域である。すなわち、資源
利用その他の経済活動の面では領海に同じく、
航行、上空飛行その他の国際コミュニケーショ
ンの面では公海に同じという性格をもつ。排他
的経済水域は、国連海洋法条約において領海が
12カイリと狭く定められた代りに沿岸国に認め
られたものといえる。この水域は、領海の基線
から測って200カイリを超えてはならない。」
(平
凡社世界大百科事典による)
赤星珪一氏のプロファイル
1941年京都市生まれ、1964年海上保安大卒、パイロットとして羽田、仙台、広島、鹿児島の
各航空基地に勤務、1985年㈱ジャムコ入社、飛行試験室でテストパイロットとして勤務、2004
年同社退社。総飛行時間約12000時間(うち飛行機約11500時間、ヘリ約500時間)、日本航空
機操縦士協会所属、ジャーナリスト、フライトインストラクタとして G・A 航空界の育成に各地
で活躍中。
8
2010 NOV
第10回
時差ボケ
航空医学委員会
国際線を生業とする方には今更ながらのお話
だが、時差ボケというのは誰しも経験すること
そんなあなたが、国際線フライトで海外に行
くとどうなるのだろう。
である。物事に集中できず、やる気も起こらな
い。突然起こる睡魔との闘い、何とも不快な気
分になるのがこの時差ボケだ。時差ボケの原因
は、体内時計と環境時計との時差による。
私たち人間は昼行性の動物であり、通常は朝
起きて活動を開始し、夜になると活動を停止し
て眠るというリズムで生活をしている。そのリ
ズムが崩れればどこかしら体調も崩れてくるの
は当たり前である。
われわれの脳の中心にある松果体というとこ
ろに体内時計の中枢はあるといわれているが、
実はその体内時計は25時間にセットされている。
そのため洞窟などの外からの光を遮断した環境
での実験では、一日ごとに1時間ずつずれてい
くことが分かっている。
言い換えれば、体内時計の中枢は、外界から
の光刺激によって24時間に修正をしているので
ある。しかもこの時差を修正する光は、真昼の
たとえば、成田発17時の便でロスアンジェルス
に向かったとしよう。到着は現地時間の午前10時
(同日)
、日本時間では翌日午前3時に到着してい
ることになり、時差は17時間ということになる。
現地では、まさに一日が始まったばかりであ
る。にもかかわらず、実際は午前3時の体内時
計であり17時間の環境時計との差ができる。そ
のためやたらと眠く、集中力も低下し不快な気
分になる。つまり時差ボケである。
これに対して、午前11時の便でロンドンに向
かった場合、ロンドン到着は現地時間での15時、
日本時間での24時となる。時差9時間というこ
とになる。これが日本から西に向かって飛ぶよ
りも、東に向かって飛んだほうが時差ボケがひ
どくなる理由である。
この時差ボケが解消されるのは、何もしなけ
れば、東回りで一日1時間、西回りで一日1時
間半といわれている。時差ボケの解消にと言わ
太陽の光ではなく、日の出直前や日の入り直後
の光だという。このリズムによって、私たちの
体の組織は様々な活動をしているのである。
たとえば、癌細胞は夜に増殖したり、早朝に
れているメラトニンなどは、ある条件下では、
その時差を半分にできるといわれている。
たとえば、8時間の時差があった場合、それ
を解消するには、自然に任せると8日間ほどか
男性ホルモンの分泌がピークになったり、夕方
になると血圧が上がったりと、体内時計により
かるものが、4日ほどで解消する計算である。
ところが、この化学物質の厄介なところは、8時
操られているようにも思える。
また、我々の体の60兆の細胞の DNA にも時
計遺伝子と呼ばれる体内時計が組み込まれてい
る。つまり、それぞれの細胞レベルでの時計と
間の時差ではなく、逆の24-8=16時間を時差と
認識して半分にする場合があるということだ。
つまりメラトニンをいくら飲んでも8日間か
かって時差ボケが直ることになり、何もしない
大本の脳の時計とが修正しあいながら、1日の
リズムを形成しているのである。いわば、中枢
のと同じということが起こりえるのだ。
一般的には光を浴びて運動をするというのが、
が時計台の時計で、細胞レベルの時計遺伝子は
各々の持つ腕時計のような関係ともいえる。
体内時計の修正には効果的とされている。
さて、みなさん独自の時差の解消法は?
2010 NOV
9
◦ 寄 稿
砂塵舞う空! BK117C-2
サウディアラビアデモ奮闘記
川崎重工業株式会社(陸自 OB)
てデビューした。(詳細は PILOT 誌2002 No.6
に掲載)
●はじめに
いつも PILOT 誌を楽しく拝読させてもらっ
ています。今回は、昭和46年1月からの回転翼
パイロット人生の中で忘却の彼方にあれど忘れ
得ない、苦くてしかも深い安堵の喜びが得られ
たささやかな体験を紹介します。
●サウディアラビアとの係わり合い
⑴ サウディ版 KV107
昭和52年8月、弊社は、格納庫や給油施設お
よび宿舎などの基地建設から KV107の納入、さ
らに運航支援までを行う国際フルターンキー契
約を結び、昭和53年9月から昭和59年7月まで
の間に16機を納入した。
私はこの間2回、機体の再組み立て後の飛行
試験、空輸および運航支援を行った。
主要都市に配備された本ヘリコプタには、消
防、救難、EMS および VIP の4形態があり、
ハッジの時期には、各ベースから必要機数がミ
ナー(メッカ近郊の前進基地)に集結し、所要
の任務に当っている。
⑵ BK117C-2
昭和53年3月に初号機を納入して以来、各方
面で活躍し、可愛がっていただいている BK117
シリーズは平成13年(2001年)3月に高性能、
低騒音新型メイン・ロータ・ブレード、広いキャ
ビン・スペース、窓の大型化、新コクピット、
計器の統合およびフレックス・ボールによる操
舵信号伝達装置など、装いを新たに C-2型とし
10
湯浅 高義
2010 NOV
●デモフライト計画
この C-2型をサウディアラビア王国内務省航
空隊へ KV107(タンデム・ヘリコプタ、愛称
“バートル”)の後継機として売り込むために実
機を持ち込んでデモを行うことになった。
時期は平成15年2月中旬、メッカ(正確には
近郊のミナー前進基地)にて、主にハッジ(大
巡礼)の支援や視察で来訪する各組織の要人に
披露するのである。
コンテナに収まった機体の陸揚げは、紅海を
臨む最寄りのジェッダ港にすればよいが、種々
の理由で遠く離れたペルシャ湾に面した東海岸
のダンマン港となった。
約1300Km の半島を陸送で横断するよりも安
全でかつ途中、首都のリヤド基地にも立ち寄れ、
デモンストレーション効果が高いとの判断で空
輸が選択された。
課長に人選を相談したら、答えは図らずも鸚
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PS10
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SA 半島横断概路(往:実線、復:点線)
鵡返しに本人の私に、と返ってきた。
今回は、ダンマン港近くのダーラン、リヤド、
ジェッダ、メッカおよびメディナなどを訪れる、
19年ぶりの訪サとなった。
●出発前の諸準備
機体には、エンジン・サンドフィルターを装
備した。これは大いに役立った。
JEPPESEN チャートを参考に、GPS/MAP 装
置(古野電気㈱社製)に現地の座標が入力でき
ることを確認した。
子さんはやはり男性であった。
1日5回の礼拝(サラート)を呼びかけるア
ザーンの朗々たる響きはモスクを囲むミナレッ
トから発せられ、改めてイスラムの国のまった
だ中にいるのだと思った。
ダーラン基地では KV107が現役で活躍してお
り、運航関係者にはすこぶる好評で産みの親の
一人として頼もしく、嬉しく思った。
機体の手入れもよく、大事にされていること
がうかがい知れた。
私を覚えてくれていたパイロットがいて、大
乾燥した大地、アバヤに身を包んで歩く女性
の光景は、二昔と変わっていないが、ペルシャ
湾沿いの海岸一帯は臨海公園として立派に整備
されていた。
30台ほど収容できる駐車場にはミニ売店が開
いており、散歩がてらに立ち寄ってみたが売り
変懐かしく、古い友人と思いがけず再会したよ
うであった。
航法の準備のために持ち込んだ GARMIN 社
製のハンディ GPS NAV により、経路入力が出
来ることを同乗する整備士と確認した。
待ちに待った40Ft と20Ft コンテナ(前者は
オープン)は、1月19日に半日ほど遅れてダン
マン港から夕刻到着。
航空隊の人々の協力を得て、早速搬出。2日間
で再組完了、エンジン、ロータも快音よく回る。
GPS/MAP 装置を電源 OFF 状態で600NM 以
上移動しているので、内部データ更新のため、
コールドスタートを行い8分弱で測位完了、ハ
ンディ NAV の現在位置と一致し、気分をよく
した。(当たり前のことが異国では嬉しい。)
いよいよサウディの暑い乾燥した大気の中で
リフト・オフ。慎重にコレクティブ・レバーを
上げ、ホバリング。振動体感もよく計器指示、
レディオ・チェック異常なし、コンパスローズ
上の放射線にホバリングでアラインし、精度確
ダーラン基地でバートルの出迎えを受ける
BK117C-2(ダーラン市街とペルシャ湾)
地図情報が表示されないことは頭ではわかっ
ていたが、モノトーンの5.8インチ画面に経路線
だけが引かれたときには、背筋が少し寒くなっ
た。しかし「どうせ砂漠地帯を飛ぶのだから目
標物など元々ないのだ」と、得心させた。
地図や高度情報がないので、飛行の障害とな
る地形や障害物を表示してくれる地形方向表示
機能も無いが、それを頼りにしなければならな
い低視程なんかに遭遇するはずが無いと高を括っ
ていたが、これが大きな誤算であった。
●ダーランでの再組み立て、確認飛行
2010 NOV
11
認、再調整不要。
サウディ・パイロットが同乗し、Take Off。眼
きにはホッとした。10:45着。午後は航空隊の
パイロットの試乗6フライトと、私のデモフラ
下の薄い茶褐色をしたダーラン市街、その向こ
うに広がる荒涼たる砂漠、反対側は紺碧のペル
シャ湾、バーレン大橋も鮮やかに見える。
イト、華麗に舞って魅せた。
初めて訪サした時、リヤドの宿舎周辺を散策
中、家並みが途切れた途端、忽然と砂漠が現れ、
肝を潰したことを思い出す。私のふるさとでは、
(203NM)、1月28日
リヤド離陸前、管制塔から“1葉の FLT PLN
で、2箇所着陸することはできない”といわれ、
裏木戸を開ければ畑や田んぼがあったのに……。
トラッキング(メイン・ロータ・ブレードの
バランス調整)は1回で終了、VOR/DME の方
調整に25分要したしたものの、182NM 先にある
カシームまで左横風が20Kt ほどあったが1時間
30分で問題なく到着。茫洋たる砂漠に浮かぶロー
位距離精度も事前に航空図で調べた値と変わら
ず、満足。
COPI 氏と共同で航法の準備も整え、航空局
から空輸の許可もやっとのこと FAX で入手。
いよいよ明日27日は半島横断の第一レグ、リヤ
ドまでの空輸だ。
カル空港で、廃棄処分と思われる多数の中型旅
客機が銀翼を連ねていた。
Refuel を頼んだところ、聞いていないといわ
れ、話がつくまで30分。ここで WX の再確認を
すればよかったのだが、リヤド離陸時の予報を
信じて、サウディアラムコ社ポンプステーショ
ン(PS)10に向かって10:55離陸。後方には予
報通り、積乱雲が発達しかかっていた。30分も
経たないうちにだんだん向かい風が強くなり、
砂塵により視程も落ちてきた。上空はブローク
ンの積雲が覆っている。とにかく GPS MAP に
引かれた直線を頼りにひたすら対地500から
1000Ft で飛ぶ。速度計は130Kt を指示している
が、対地速度は100Kt ほどしか出ない。風いよ
いよ強くなり、雲が降りているのか砂が舞い上
がっているのか見分けがつかない。つい先ほど
までは風紋の風下側の砂粒が飛散しているのが
目視できたが今はそれすらわからなくなった。
高度を上げようにも ON TOP がわからず垂直視
●半島横断往路飛行
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PS10
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⑴ ダーラン→リヤド(229NM)、1月27日
悪天情報も無く08:55、サウディ・パイロッ
ト、KHI 整備士との3名で離陸、巡航高度は彼
らの通常の NAV 高度という対地1000Ft とし
⑵ リヤド→カシーム(182NM)→ PS10
た。低高度のため、VOR/DME は早々と unreliable となり、寂莫たる砂漠の真っ只中、轍さえ
懐かしい。対地目標は無く、頼りは GPS/NAV
のみ。時々駱駝や山羊の群れが通り過ぎていく
が、驚く様子は無い。ここで不時着したらナツ
メヤシ(デーツ)とともに非常用食料も買い貯
めてあるので、数日なら何とかなるなどと思っ
ているうちに、やがてリヤド局を受信、以前に
は無かった大きなランドマークが見えてきたと
12
2010 NOV
ポンプステーション見ゆ!
程も利かなさそう。
“これが斯く言う砂嵐かっ!”。PS10の対空通
りつくように建てられた白壁の民家が点在、日
本の家のようで懐かしい。
信所と交信したが応答なし。機体の GPS MAP
と手持ちの NAV に表示されている現在位置が
合致しているので経路上を飛んでいることに間
ジェッダまで1時間30分、09:30にようやく
「安着」。
違いない。
目的地まで5NM なのに GPS の残り距離もな
かなか減ってくれない。低視程領域を避け、元
のコースに戻りかけた途端“飛行場らしきもの
見ゆ!”
。間違いなし。
相変わらず交信不可、やむなく一方送信、這
這の体で着陸。
出迎えのないまま、エンジン停止。誰もいな
いオープンハンガーにあった内線電話機により
事情説明。なんとこの時、プライベート飛行場
の管制は行われていなかったのだ。燃料補給の
確認時は、そんなことは言っていなかったと
COPI 氏。こちらも詰めが甘かった。
飛行後点検で、エンジン・サンドフィルター
装置のエアー・クリーナ・パネルを開け、内部
を点検したところ、一粒の砂も混入していない。
その密封性のよさに感心、会社に報告すると、
“よい実用試験が出来ましたね”と褒められた
(?)が、その代償は高かった。
給油後ひとまずハンガーに入れさせてもらっ
たが、強風は止みそうになく、ここでステイす
ることにした。非常食もあるし、狭い機内で男
3人が夜を明かすのかと思っていたが、COPI
氏の交渉により宿泊、暖かい食事にもありつく
ことが出来た。170人ほどが働いているというこ
とで、多少の余裕があるのだろう。風が当たら
ないところで機体もロータを休めているし、今
夜はぐっすり眠れそう。
⑶ PS10→ジェッダ(175NM)、1月29日
快晴の朝、微風すらなく視程無限、昨日とは
別世界、お世話になった PS10を後にする。砂漠
に変わりはないが遠方の山々までくっきり見え
る。鼻歌交じりでいけると思ったのも束の間、
雲垂れ下がり対地1000Ft も取れない。何とか空
いている稜線を越え急峻な谷沿いに降下、紅海
側に出た。ヒジャーズ地方特有の急斜面にへば
ハンガーに入る BK117C-2
●メッカでのデモ(2月2日~12日)
ミナー基地へは、主要なパイロットが COPI
席に着き、試乗を兼ねてジェッダから毎日片道
25分、計10往復の「ヘリ通勤」だった。
デモといってもそのために特別の時間がとって
あるわけではなく、彼らの都合のよいときに試乗
し評価するのである。その間こちらは待ちぼう
け。時にはカメラマンの空撮であったり高官の視
察飛行であったりして、それなりに“ハッジ・
ミッション”運航の一員にもなった。ともあれ、
当航空隊の高級幹部は勿論のこと、内務省の要人
などが計25回試乗し、評価してもらった。
標高800Ft、季節的には冬なのに外気温度は
34℃にもなるので、HOT DAY での両エンジン
のみならず片エンジン不作動時の性能を実証す
るにはよい環境であった。また、BK117の特徴
である無関節ロータによる極めて高い運動性(日
本航空技術協会、航空工学講座、ヘリコプタ参
照)も体感してもらった。
貨物室の観音開きドア、フルフラットな床、
広いキャビンスペース、大きな CABIN / COCKPIT 窓および統合計器なども好評であり、航空
隊長が、
“いいレポートを出すよ“と言ってくれ
た。
2010 NOV
13
●ハッジ風景
数百万人の巡礼者が一堂に会して繰り広げる
荘厳な儀式や数え切れない壮大なテント群には、
ただただ圧倒されるばかりであった。
貨物室の観音開きドア
●ハッジ結団式
巡礼者(ピルグリム)の警護などに当たる各
機関要員や救急車、消防車、オートバイおよび
ヘリコプタなどが勢揃いし、ハッジが始まる直
前に長官の査閲を受けるのだ。出陣式といって
もよい。そこで BK117の飛行展示の話もあった
が、結果的には整列線より一機長前に大型パネ
ルともに地上展示するのみとなった。
(下写真)
渋滞で、身動きとれずバスの天井やその隙間でお祈りす
る巡礼者。
(アラブニューズ新聞)
●帰路も再び砂嵐に遭遇
(2月13日、14日)
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PS10
展示された K117C-2
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観閲台は程遠く、巡閲時も早足で通り過ぎて
行ったので果たして長官の目に留まったのか心
もとなかった。
日没2時間半前、炎天下での式典待機中でも
全参列者がその場でサラート、敬虔なモスレム
の姿を垣間見た思いであった。
往路とは別の COPI 氏が同乗。ジェッダから
メディナへは、要務のバートルが先導してくれ
たが、山間部は雲低く垂れ込め三度目のトライ
でやっと峠が越えられた。
メディナ~カシームはハエが1匹同行してく
れた外は何事もなかった。諸事情でリヤドの WX
は、現地で待機している同僚に確認したのみで
離陸。二週間ほど前の復路であり、いざという
14
2010 NOV
ときには高速道路沿いに行けば何とかなると思っ
ていたが、はたまた甘い WX CHECK の天罰下
ルなのに何故かほろ酔い気分となった。
る。途中、不時着か引き返すか迷うほどの LOW ●♪長い旅路の航行終えて♪
VIS。高速道路と並行して走っている高圧線を
しゅく あ
意気込んでサウディに着いた途端、宿 痾が再
見失うまいと目を凝らすが、砂がもうもうと吹
発し、何とか自力で治したものの、情報量の少
き上がり視程いよいよ下がる。ドライブイン駐
車場への不時着も脳裏を掠めたが、PS10の時よ
り強風で、着陸しても「ロータの始動/停止」
風速制限にかかりそうなことと、後始末が大変
との思いで、意を決して上昇、暫らくして ON
TOP に出た。もっと早く雲上ならぬ砂上に出れ
ばよいものが「陸育ち」のせいか、私はすぐに
潜ってみたくなる。
パイロットとしての生い立ちもさることなが
ら、その後もあまり ON TOP や IFR ならずと
も基本計器飛行的なことをやっていないので、
地表面が見えないと心細いのだ。
《旧海軍最後まで残ったただ1機の九七大艇
は、高度4000m で積乱雲に入り悪戦苦闘しなが
らも、無事脱出し得たのは、
“かって自ら体得し
ていた貴重な経験が生きた”)とその機長は(「奇
跡の飛行艇」、光人社 NF 文庫、北出大太著)の
中で回顧していた。》
VFR で雲中に入ることは出来ないが、日頃か
らこのための訓練を積んでおくことが、いざと
いうときにきっと役立つであろう。月並みでは
あるが、
〔天は自ら助くるものを助く〕
砂嵐のことなど何事もなかったかのようにリ
ヤドに着陸した。
リヤドからは要務のバートルが再度同行し、
ない茫洋たる砂漠を VFR で無事横断できるか
という不安のせいか、一時体調不良に落ち入っ
たりもしたがこれも何とかリカバリーできた。
日本では、風が強いほど飛行視程は上がり、
低視程時には高度を下げればなんとか下の物標
が見えてくるが、ここでは正反対なのだ。
天気を含め幾多の試練を乗り越えられたのも、
不安な心が自分をより慎重にさせたのか、ある
いは偉大なる神のご加護があったのか定かでは
ないが、BK117C-2 JA01BK は41時間50分、
AOG(機体ダウン)になることなく、頑張って
くれた。丹精込めて造り上げたマシンが再びこ
の灼熱の空を飛び、他の日本製品と同様“ヤパー
かいしゃ
ン、ナンバルワン!”と人口に膾炙される日が
来ますように。
天気もよく最終目的地のダーランへ着陸し、今
回のフライトを無事終えた。当然その夜は、同
行してくれたサウディ・パイロットと運航関係
者共々祝杯を挙げたが、ノン・アルコールビー
サウディの市場にて(左から二人目が筆者)
2010 NOV
15
◦ 寄 稿
あるパイロットのつぶやき
―今も通用する操縦こと始め⑶ ―
飛行機って何だ? 操縦術って何だ?
元 JAL 機長
神谷 國夫
前号に引き続き、今回は日本の民間航空の源流「大日本航空時代」の思い出です。憧れの畏
敬するパイロットとの出会い等のエピソードを紹介します。訓練機種は、立川双発高等練習機、
三菱 MC20-Ⅱ型旅客機、中島 DC-3型旅客機、中島 AT-2型旅客機、です。
●大日本航空会社に入社
昭和19年8月、日本陸軍航空部隊を除隊した
私は、民間機の操縦士になるべく、大日本航空
会社に入社した。
敗戦色の濃いときに軍から民へ、きっと航空
局乗員養成所の本科1期生だったからだ、と推
察していた。
軍服を脱いで会社の制服に着替える。
白い肩章つきの半袖シャツに白の半パンツ、
膝までの白いソックスに白のズック靴。
そして冬服は紺のダブルの背広、戦局にふさ
わしくないな、と思った。
社是にもこう記載されている。
1.安全 2.快適 3.定時性
このことをよく考え、君の操縦に命を委ねて
いる乗客乗員の無事を確約することが使命だ。
国家も会社も、君たちに期待している」と。
翌日、我々の歓迎会が阿蘇国際 K.K. ホテルで
行われた。正式な洋式晩餐会で、ナイフとフォー
クを使ってのもので、所長曰く「戦争が終われ
ば、君達は世界に飛び出すことになる、その時、
恥をかかないマナーが必要、その意味での催し
だ」と。
さすが世界を飛んだ幅の広い人だ、と尊敬し
た。
変な話に脱線するが、洋式トイレを初めて体
●訓示に目から鱗
験した。
N所長が紹介される(昭和14年、ニッポン号
で世界一周を達成した機長)。
●訓練開始
飛行少年だった時の憧れのパイロットを目の
前にして、震えるほどの感激! 今も忘れない。
訓辞に接し、目から鱗が落ちる。
さて、操縦に話を戻そう。このとき入所した
同期は21名、勇訓と名づけられ、7名ずつ3つ
軍隊では、飛行機は武器なのだ、当然軍人と
して飛行機とともに死ぬことも、日本男児の本
懐、と教育された。
N所長は言う「武器を持たない飛行機は、人
の命を守る輸送機器なのだ。
君達は飛行機とともに死ぬことを許されない。
16
2010 NOV
の班に別けられ、訓練に入った。
私は3班に決まり、立川双発高等練習機(巡
航速度240キロ、乗員5~9名)で訓練が始まっ
た。
めり、飛行機が逆立ちしたのだ。こぶで済んだ
が、これで火が出ていたら今頃ここにはいない。
前輪の飛行機なら、こんなことにはならなかっ
たろう。
機首が15度以上横に偏角したら、修正は無理
だ。
立川双発高等練習機
●多発機のエンジンは操縦機能を持つ!
当時の飛行機はほとんどが尾輪式だから、地
上の走行は、現在の前輪式に比べると難しく、
風の強い日は特に、だ。しかし双発機になって、
左右のエンジン出力とブレーキを上手に使えば、
意外と楽に操ることが出来た。
大日本航空の機関士は、地上の走行だと我々
パイロットより上手かった。
横風の離陸はローリングテイクオフ、走り始
めは風上側のエンジンを多めに使い、尾部が上
がったところで左右を同一にし、後は方向舵で
というように、空中での保針では左右のエンジ
ンを同調させた後(耳で同調音を確認)、方向舵
のトリムを取る。バランスが大切。水平等速直
線飛行が、渡り鳥の基本だ。
私は時々トリムを取った後、結果いかにと操
縦桿から手を離してみる癖が付いた。
●グランドループ タイヤバースト
飛行訓練は、班7名が一緒に搭乗する。
同僚の技量が分かる、出来るだけ操縦席が見
える席に着くと面白い、人それぞれ癖がある。
人の長所はまねしなければ損だ。
回転する力のほうが強い。離陸後のエンジン
故障でも同じことが言える、クリティカル・エ
ンジン(左側)の時は尚更だ。そして、ベルト
は常時しておくこと、を痛感した。
自分の無知、横着、慣れ、そして怠けで怪我
をすることは、パイロットとして最低。飛行機
なのだ、何が起こるか、飛行機が駐機場に完全
に停止するまで気を抜くな、と自戒した。
また、強い急ブレーキの持続はパンクの原因
になる。踏んだら緩め、踏んだら緩めとポンピ
ングを繰り返すようにブレーキを使え、と教え
られた。訓練機が立川双発高練より、三菱 MC20Ⅱ型になった。
●第3のパイロットとの出会い
三菱 MC20-Ⅱ型旅客機は、当時としては優秀
機だった。乗員4名(操縦士、機関士、航空士、
通信士)、乗客11名、巡航速度320キロメートル、
無線方向探知機、自動操縦装置、除氷装置等を
備え、人工水平儀の計器も新しく、計器飛行が
出来た。
第3のパイロットとは、もちろんオートパイ
ロットのことだ、だが早合点するのはまだ早い。
現在のものを考えたらとてもじゃない、世話
がやけ、大変だった。
15分おきにオートパイロットのジャイロコン
2ヶ月ほど経ったある日、全員がこの機に慣
れた時に事故が発生した。
T君の操縦、上手く接地したが、最後のとこ
ろで横風の処置がまずかった。機首が横ぶれし
たとたん、見事にグランドループに入った。
回転を止めようとしてか、強くブレーキを踏
んだようだ、客席にいた私は、一瞬体が浮いた、
と思ったら天井に放り出され、次いで前部にた
たきつけられた。タイヤがバーストしてつんの
三菱 MC20-Ⅱ型旅客機
2010 NOV
17
パスを羅針盤の数値に合わせる修正操作、ちょっ
と揺れだすと大きな修正舵、その舵が後手後手
になって、揺れを助長させる。
あきらめて手動にすれば楽なのに、何とかこ
なそうとそのまま1時間保針に努めた。
自分の感覚を殺して機材に委ねれば助けにな
るし、また近い将来、きっと改良されて飛行が
もっと楽になる、と思った。
飛行機の全部を知ることが良い操縦につなが
る、と好奇心一杯だ。
今のように飛行マニュアルが渡されている訳
ではない、自分のノートに教室での講義、耳学
問での知識、実際の体験からの記録、等等を書
き込むことで、自分なりのマニュアルを作った
時代だった。
●K機長、操縦と航法担当
「君達は道路工事人なのだ!」
えっ! 何のこと? K機長いわく「君達、
台湾の台北へ行くのに、どのようにして行くか? 飛び上がれば台湾が見えるわけではない。そこ
で航空路を作る。その工事人がお前たちだ。
下手な工事では台湾は消えてしまう。
地図上に、ここから台湾の左側と右側に線を
入れてみよ、出来た三角形の角度は何度だ? 10
度、そう10度だ。
羅針盤を頼りに海の上を1,250キロ、5時間の
飛行、自信は? 覚悟しろ」とでんでん太鼓の
計算版(風向三角形での推測航法用)を渡され
た。
地文航法から推測航法、天気図、地図、羅針
盤、対気速度、時間、偏流角、偏差、自差、風
向、風速、対地速度と徹底的にしごかれた。
午前中は三菱 MC20-Ⅱ型での操縦、午後は航
法。
使用機は中島 DC-3型、胴体下部に2箇所、偏
流測定用の窓が切ってある。
そこから地上、海面とにらめっこ。15分おき
に新針路をパイロットに渡す。かくして、ETA
3分以内で3時間の洋上3角航法の道路(航空
路)を飛行できるようになった。1ヶ月の飛行
18
2010 NOV
中島 DC-3型旅客機
時間が100時間を越える猛訓練である。
戦局はますます厳しい。
会社の飛行機にも、行方不明機が出はじめた。
貴重なガソリンを使って、我々の訓練は続く。
国のため、会社のためだが、私にとって飛ぶ
ことは楽しくて、楽しくてしかたがなかった。
●S機長「一から、一から」
教官がS機長に代わる。
この機長は、一風変わっているな、と感じた。
厳つい顔は、いかにもベテラン。飛行服から
白い絹のマフラー。口癖のように「一から一か
ら、バウンドは3回までよろしい」と言って訓
練生の接地時のバウンド、ハードランディング
にも怒ることはなかった。
ただ、着陸地点には非常にこだわった。当時
の飛行場は狭かったから、どの機長も飛行場の
境界から50メートル以内のところに着けていた。
「飛行場に着陸するのではなく、どこに車輪を
つけるかが問題なのだ」と彼は強調する。
訓練生が、たまさか着陸進入が高くなると、
必ず復行させた。
「一から、一からやり直せ」この教えは安全に
ついて、私の最も重要なものになった。
そういえば、いまだに接地点をランウェイの
中ほどに降りて、オーバーラン事故となるケー
スがあとを絶たない。
長距離を飛んできて、最後の締めくくりに事
故。なぜ? どうして? 天候が悪かったから、
では言い訳にならない。
心の訓練も「一から、一から」ではなかろう
か?
着陸に対する哲学、安全に基づく決断は、機
長に課せられた最後の勇気なのだ。
●同期生7名の死、水平ブリルか?
昭和20年1月、1班の同期生は熊本健軍飛行
場から福岡雁ノ巣飛行場に向け離陸、高度200
メートルぐらいでエンジンが停止し、錐揉みに
入り、飛行場内に墜落した。M機長をはじめ、
機関士、通信士、同期生7名他、1名全員が死
んだ。墜落の本当の原因は解らないが、水平ブ
リルという聞きなれない現象でなければ説明が
付かない、との噂が流れた。
舵がまったく効かない錐揉み状態、下がった
機首が水平まで上がって、振り回された胴体か
ら発生した空気の渦の中に尾部が入り、方向舵、
昇降舵も役に立たなくなるのだそうだ。
墜落現場の悲惨さには、言葉もない。
冷たくなった同期生に涙し納棺、私自身も墜
落の体験があるにもかかわらず、これほど強烈
に、事故の体験は恐ろしい、と思ったことはな
い。
俺は絶対事故を起こさないぞ、とそれこそ天
に誓った。
●着氷の体験
1日おいて葬儀の日に、私はN機長と福岡、
上海経由で台北に飛んだ。
小雪混じりの天候、揺れながら雲の中を上昇
し、800メートルを通過したところで窓に着氷、
しばらくして振動と同時にバケツを叩くような
音がした。ドキッとした。いったい何が起きた
んだ? 機長の顔を窺う。
「氷だよ、高度を下げ
よう」
。
翼を見ると前縁に氷がべったり、除氷装置の
もうお手の物、低空飛行は軍で散々体験済み)、
雲が切れ、天気良好の上海に無事ついた。
N機長の注意!「対応は、何事も小さいうち
に、的確に行うこと」。厳しい職業だ。
私のノートに、着氷と上海、台北の主要ポイ
ントが書き込まれた。
●K機長の教え
「バランス感覚、重心移動」
昭和20年2月。私たちの班は、訓練基地が熊
本から大阪の伊丹空港に変わった。
伊丹空港は陸海軍の防衛基地となっていて、
ゼロ戦と3式戦がわんさと駐機していた。
そんな空港での訓練である。私達の訓練機は
中島 AT-2型になり、教官もK機長になった。
この機長は絵に描いたようなダンディーなパ
イロットで、操縦もぴかいち、と感じた。
ある日彼は言った「自転車は前後2輪しか車
輪がないのに、どうして倒れもせず走ることが
出来るのだ?」と。
私たちはそれぞれ、物理的にジャイロ効果と
か慣性モーメントとか、説明した。
彼は言う「そうだがひとつ忘れていることが
ある、それは人が乗ってバランスをとるからだ。 そして安全に走るためには、周りに気を配り、
全てのバランスを崩さないことだ」と。
確かに、幼児のころ、3輪車から自転車に移っ
た時如何に苦労したか、父親や兄貴に助けられ
て、尻でバランスがとれるようになり、ハンド
ルを放しても自由に走れるまでを思い出し、苦
笑する。
自転車も飛行機もバランスだ。バランスを保
持するのは人だ。
スイッチを入れる。
ますます激しく胴体を打つ音、プロペラにア
ルコールを流したため、剥がれた氷の当たる音
だ。
「君は初めてか?」と、また新しい体験だ。
高度計100メートルで波頭荒れ狂う玄界灘を視
認、50メートルを緊張しながら1時間(これは
中島 AT-2型旅客機
2010 NOV
19
「バランスを意識して操縦すれば上手くなる」
と彼は言う。
●N所長「持っとれ、持っとれ」
確かに、K機長の操縦にはよどみがない、滑
らかな3舵の動き、Gを感じさせない旋回や降
下、そして着陸。
卒業も間じかになった6月のある日、所長と
熊本から大阪に飛んだ。
早くK機長のようになりたい、と理想像を与
えられた思いだった。
4月になったある日、訓練機にお客があった。
宝塚の生徒さん4人、モンペ姿だが美人ぞろい。
だが私たちはうきうきする状況ではない、1等
操縦士の試験を控えての猛訓練。
タッチ・アンド・ゴー、飛行機が初めての美
女達は時、所をかまわず移り変わる下界の景色
に歓声を上げ、前後左右と機内を動き回る。
着陸近くになって前後に動かれては、重心位
置の変化に対応できない。
K機長は知らぬ顔、操縦桿を微妙に使って対
応、汗をかいた。
バランスをとる小指と掌の感覚は重要ポイン
トだ。
そういえば、世の中も全てバランスで成り立っ
ている。
それが崩れた時、不幸な物事が起きるのだ。
バランスを保て。
スムーズ・ランディング、にんまり。
だが叱られた。
「着陸前に乗客を座らせ、ベルトを着用させる
のは機長の責任だ。乗客の動静に気を使わない
パイロットは、民間機の機長にはしない」。
しゅんとなる、反省。
機長とは?を学んだ、頭ではなく身体でだ。
この AT-2機は故障が多く、離陸後のエンジ
ン故障、エンジン・ケーブルの脱落でコントロー
ル出来なくなったエンジン、着陸後にロック機
構の故障で脚が引き込み、胴体着陸になったり、
いろいろな体験をさせてくれた。が、操縦しや
すい飛行機だった。
単独飛行が許され、1等操縦士の試験もこの
飛行機だった。
偉大な所長は背も高く赤ら顔、外人を思わせ
る高い鼻梁、それだけで緊張してしまう。
私は左席で操縦に臨んだ。
天気は上々、2,000メートルを維持して瀬戸内
海の上空を東進、まあまあの出来、と思いなが
ら小さな揺れの中で保針していた時「君ぃ、操
縦桿を動かさないで持っとれ持っとれ、飛行機
は復元するように出来ているよ」と言われた。
言われたままに動きを止める。
なるほど、傾いた翼は元に戻るが、あまり気
分の良いものではない。
そこで、なんとなく方向舵に均等に力を加え
てみたら、揺れが小さくなった。ははぁん、模
型飛行機だな、と思った。
「飛行機はねぇ、優秀な技術者達が頭脳を集め
て造った機械だよ。
だから、設計者の意図を汲んだ操縦をしなけ
れば駄目だよ、下手をすると、パイロットが飛
行の安定をかえって崩してしまい、飛行機を躍
らせることになる、心せよ」。
私はそれ以後、エルロン操作に特に気を使っ
て操縦するようになった。
「持っとれ、持っとれ !!」
余談だが、翌日大阪(伊丹空港)はアメリカ
の戦闘機 P-51の空襲を受け、避難した私たちの
防空壕をロケット弾が直撃したが、幸い不発で
あったため、命を永らえることが出来た。
格納庫の飛行機も無事だった。
あァあ! 神様。
●8月16日 最後の飛行
昭和20年7月、熊本訓練所を無事卒業、1等
操縦士の免状を手に、東京―新京(現、長春)
線の見習い操縦士として、朝鮮(現、韓国)の
京城に赴任した。
沖縄がアメリカ軍に占領され、戦場はもう国
内に移りそう。
20
2010 NOV
東京を始め、各地は B-29による空襲と艦載機
による攻撃にさらされ、東京―京城間の飛行は
緊張のきわみにあった。
通信士による情報の確保が、唯一の安全手段
だった。
機長は雲の真下を選んで飛んだ。
東京―京城3往復、京城―東京5往復、あと
少しで機長に昇格、と言う時に運命の8月15日
を迎えた。
敗戦。
混乱の中、翌8月16日、社命で内地帰還が決
められ、私は三菱 MC 貨物輸送機の機長とし
て、定員オーバーだったが、少年整備員29名全
員を乗せて夕刻、京城から私の母校、米子飛行
場に向け、飛び立った。
絶対少年たちを、生きて親元に帰すのだ、と。
そしてこれが最後の飛行となった。
私の飛行時間956時間、19歳、先輩教官に感
謝。
三菱 MC 貨物輸送機
●終わりに
戦後、私が再び翼を得たのは昭和28年だった。
長らくお付き合いしてくださった読者の皆様
に感謝いたします。
PaintedbyCapt.K.Kamiya,2008
2010 NOV
21
連 載
その38. 想
定外の巨人、
ハワード・R・ヒューズ Jr 物語
徳田 忠成
ハワード・R・ヒューズ・Jr(以降、ハワー
ド)
(1905-1976)は、父親が残した莫大な富を
ハーバード大
学出身で弁護士
引きつぎ、それを元手に映画製作、パイロット、
飛行機製造と航空会社、その他、数々の会社設
立で名をなし、財を築いていった。米資本主義
社会の申し子のような異端児は、全力で生涯を
駆け抜け、数々の伝説を残して去っていった。
航空史的にみても貴重な彼の足跡を追ってみる。
プやスキャンダルに包まれているが、いまだに
ミステリアスな部分が多い。それは彼の極端な
マスコミ嫌いと、人の意表をつく、尋常ならざ
る行動からきている。彼の完璧主義は綿密な頭
脳で計算され、決して突飛なものではなかった
が、周囲の人々の理解を超えていた。もともと
寡黙で内気、懐疑的だったから、産業スパイに
対する秘密主義が徹底しており、最後の最後ま
だった父親は、
画期的な油田掘
削用ドリルを発
明し、ヒューズ・
ツール社を興し、
石油採掘という
時代の波によっ
て莫大な資産を
築いていた。母
親はフランス系
青年実業家 H・ヒューズ
資産家令嬢だっ
た。1905年のク
リスマス・イブにテキサス州ヒューストンで生ま
た一人息子のハワードは、内向的ではあったが、
父親の事業の才覚と、溺愛した母親の病的なまで
の潔癖症をシッカリ受け継いだ。
1919年、ハワードが14才のとき、初めてカー
で、自分のアイデアを胸の奥深くしまっておく
癖が、必然的にできあがっていた。
ハワードは小さいときから、何かに熱中する
と寝食を忘れるほどであり、ときにはそれが翌
ティス水上機に乗って感激したことと、15歳の
夏休みに脚本家の叔父に連れられてハリウッド
見学をしたことが、彼の人生を決定づけた。
1922年春、ハワードが16才のとき、母親が簡
朝まで続いた。ハイ・スクール時代の成績とい
えば、数学以外は並みだったが、この不可解な
単な手術後の合併症で死亡、その2年後に父親
が心臓発作で亡くなった。父親の残した遺言状
行動は、彼が大実業家になっても変わらず、と
きには40時間も不眠で仕事に没頭したという。
それだけに、我流の時間表で奇跡をなしとげ、
なにごとにも全力投球していった。あるアイデ
アを思いつくと、それが真夜中であっても、相
によって、ハワードの遺産の取り分は3/4であっ
たが、弁護士を通じて親戚への遺産1/4を買収、
事実上、資産数千万ドルと評価されたヒューズ
工作機械のオーナーとなった。この買収劇は見
事で、周囲は、まだハイティーンでしかない彼
手をたたき起こして伝えたり、相談したエピソー
の手腕を認めざるを得なかった。
ドに事欠かない。
彼は早速、人材を集めるべく新聞に広告をだ
●巨万の富を相続
ハワードにまつわる伝説は、数多くのゴシッ
22
2010 NOV
したが、管財人として雇われたノア・ディート
リッヒは、後のヒューズ巨大企業の台所をまか
なう大番頭として、辣腕をふるった。ハワード
と32年間を共にしたが、
「80%がディートリッヒ
の才能、20%がハワードの賭博師魂」といわれ
たほどである。
●映画制作に没頭
ハワードが100%の株を保有するにいたった、
雲のある日を予想すべく、UCLA の気象学者フ
イッツ教授を引き抜いてスタッフに加えた。さ
らに自らも操縦して空中へ舞い上がって指揮す
るほど徹底していた。
制作費200万ドルで、ようやく封切られようと
していた矢先、初のトーキー映画『ジャズ・シ
ンガー』を見た彼の決断は早かった。周囲の大
ヒューズ・ツール社経営は順調に利益を出して
反対を押しきって、自分の資産を抵当に入れ、
更に200万ドルを投入、全編音声入りに創りかえ
た。完成までに3年間が費やされて1930年5月、
いたが、それはあくまで亡父の力の延長でしか
なかった。それに密かな不満をいだいていたハ
ワードは、会社経営を重役にまかせ、結婚した
ばかりの地元名士の娘エラ・ライスを連れて、
ハリウッドに乗り込んだ。映画にはまったくの
素人で、まだ20歳の若者だったが、以来、年を
追って彼にまつわる数々の伝説が生まれた。
ハワードは、何事も思いこんだら、徹底して
それを追及する変質狂的なところがあった。ハ
リウッドでは周囲のあざけりにも頓着せず、平
然として映画製作に没頭、家庭を顧みなかった
から、妻エラは夫の奇行に辟易して、早々にテ
キサスへ帰ってしまった。やがてハワードはハ
リウッドの名士になったが、そのキッカケになっ
たのが4本目の映画『地獄の天使』だった。こ
れは第一次大戦時、イギリスとドイツのパイロッ
トがフランス上空で空中戦を演ずるもので、物
語はハンサムな二人のイギリス人パイロットが、
大恐慌の真っ最中に封切られた。
初公開は爆発的人気ではじまった。特別試写
会のハリウッド・ブールバードのグラウマン・
チャイニーズ・シアターには50万の群衆が押し
かけ、整理のために600人の警官が出動したとい
う。そして記録破りの19週間のロング・ランに
なった。イギリスでも同様な騒ぎが起こった。
結局、2年間で800万ドルの収益となり、史上空
前の大成功をおさめた弱冠24才のハワードは、
一躍、ハリウッドの名士に躍りでた。その後、
制作した数本の映画の中で成功を収めたのは、
アル・カポネをモデルにした『暗黒街の顔役』
だった。そしてハリウッドでの揺るがぬ地位を
築こうとしていた若干26歳のハワードは、突然、
航空界へ移っていった。
ヒューズ・ツール会社と映画製作の成功はさ
らに富を増やしていったが、身長189センチで美
男子のハワードは、当時のハリウッド女優の秋
イギリス社交界の娘の関心をひこうと競いあう
単純なものである。
だがハワードは空中戦に重きをおいた。この製
作のために、戦闘機を求めてヨーロッパ中を探し
波の的だった。多くの銀幕の美女たちは近づき、
そして遠ざかっていった。ざっと並べただけで
も、キャサリン・ヘップバーンをはじめ、ジー
ン・ハーロー、ベティ・ディビス、リタ・ヘイ
まわり、第一次大戦時の戦闘機と爆撃機87機を56
万2千ドルで購入、ないしレンタルした。飛行場
ワーズ、ジェーン・ラッセル、ラナ・ターナー、
オリビア・デハビランド、エヴァ・ガードナー、
造成には40万ドルが費やされたが、この地は今の
ロスアンゼルス空港である。私設空軍ができるほ
どの準備、大爆発して焼き落とされるツェッペリ
ン飛行船の購入、1,700人のエキストラを投入、
ジンジャー・ロジャース、テリー・ムーアなど、
3年間で少なくとも50人の女性と浮名を流し、
いつしか『ハリウッドのカサノヴァ(女たら
し)』と呼ばれるようになった。
パイロットたちは週200ドルで雇われた。
大英帝国航空隊とドイツの撃墜王リヒト
フォーヘンひきいる戦闘機隊の英仏海峡上空の
大空中戦には、臨場感を出すために、わざわざ
●H-1レーサー機で世界速度記録
1934年1月、同年齢のパイロット、グレン・オ
デカークの助けを借りて、マイアミで開催された
2010 NOV
23
全米飛行大会のアマチュア部門で優勝した。この
年、ヒューズ航空機㈱を設立したが、これが30年
万時間におよぶ作業時間が物語るように、けっ
して軽い気持ちからではない。ハワードは自ら
後には5億ドルの大企業となり、アメリカ政府か
ら防衛軍需品を請け負う十大企業の一つとして、
通信衛星を開発するまでに成長していた。
200におよぶ救急用装備品リストを創り上げた。
面白いのは、もし海上に不時着水した場合、少
しでも浮遊時間を延ばすために、機体のあらゆ
ヒューズ航空機設立当初のハワードは、自ら
全国の優秀な技術者18人を集め、極端な機密の
もとで、世界最速の飛行機 H-1A(H=Hughes)
る隙間にピンポン球を詰め込んだため、それが
数千個にもなった。さらに搭乗員として指名さ
れた他の3人には、不測の事態にいたったとき
の製作にとりかかった。数字に強く、機械への
こだわりが異常に強いハワードも制作に没頭し
た。引っ込み脚、枕頭鋲という斬新な設計は、
のサバイバルのために、射撃とボートの漕ぎ方
を練習させている。その他、航法や地上の支援
体制などが整えられた。したがって、この飛行
ハワードの指示による。エンジンは空冷星形
P&W ワスプ1,000馬力で、18ヶ月を要した。1935
年9月13日、カリフォルニアのサンタアナにあ
るマーチン飛行場上空で、ハワード自ら操縦し
た H-1A 型レーサー機は、時速352.39マイル(567
キロ)の世界速度新記録を樹立した。
H-1A の改造中、ハワードは1936年1月13日、
陸軍のターボ過給機を装備したノースロップ・
ガンマ低翼単葉機で、カリフォルニア州バーバ
ンク飛行場を離陸し、ニュージャージー州ニュー
アークまでの東向き単独大陸横断無着陸飛行に
成功、9時間26分10秒の新記録を樹立した。約
1年後の1月19日には、1,400馬力エンジン装備
など、種々改良を加えた H-1B によって7時間
28分25秒に短縮したが、以来、H-1B が飛行する
ことはなかった。H-1の設計思想は後に三菱のゼ
ロ戦にも採用されている。
は単に飛行記録を創るだけでなく、飛行中に発
生するであろう未知の部分のテストや、救難飛
行技術を試すことも重要な課題であった。
出来上がった機体は、双発単葉ロッキード14
型「スーパー・エレクトラ」改造機(ライト・
サイクロン1,200馬力エンジン2基)であった。
1938年7月10日、4人の乗組員は、
「ニューヨー
ク世界博1939年」号と命名された機体を駆って、
ニューヨークのフロイド・ベネット飛行場を飛
び立ち、大西洋を横断してパリに到着、モスク
ワ、オムスク、ヤクーツク、ベーリング海上空
を飛行し、フェアバンクス、ミネソタと経由し
て、25,000人の大観衆が待つフロイド・ベネッ
ト飛行場に帰りついた。
飛行距離23,800km を91時間8分で飛翔、それ
までの記録を半分に縮めてしまった。しかし、
ハワードは興奮するジャーナリストの質問攻め
に、
「新型機を運航している航空会社のパイロッ
トならば、誰にでもできることだ」と、冷静だっ
●世界一周飛行の完成
ハワードは、H-1機の制作と並行して、世界一
周飛行を計画していた。しかし、それは延べ20
た。この大記録は、その後9年間破られること
はなかった。
H-1レーサー機
ロッキード14型「スーパー・エレクトラ」
24
2010 NOV
彼は議会から名誉勲章が授与され、テキサス
州の名誉大佐に任命された。マンハッタンのブ
ロードウエイでの凱旋パレードは、175万人もの
観衆が通りを埋めつくした。新聞紙、トイレッ
トペーパーなどの花吹雪が、ビルというビルの
窓から降り注ぎ、そのボリュームは1,800万トン
にもなったという。これはリンドバーグのとき
より200万トン多いらしい。
●XF-11試乗中に大事故
この頃から定期航空を目論んでいたハワード
は、1939年、TWA(トランス・コンチネンタル
&ウエスタン航空、後のトランス・ワールド航
空)を買収してオーナーになるが、これは彼が
隠遁生活を送るまで、約27年間続いた。この間、
優美なスタイルの4発大型輸送機ロッキード「コ
ンステレーション」
(愛称「コニー」
)
、および失
敗作ではあったが、当時「世界最速輸送機」と
いわれた4発ジェット輸送機ジェネラル・ダイ
ナミックス CV880を世に出した、ハワードの功
績は大きい。TWA は CV880を30機発注したが、
「880」とは、契約に至るまでハワードが880回も
の協議を重ねたからだといわれているが、定か
ではない。
一方、第二次大戦の勃発によって、ヒューズ
航空機とヒューズ・ツールは、軍用航空機部品
の発注でうるおっていた。しかもなお、戦後も
人材をえて、企業は拡大を続けた。戦時中のハ
ワードは、双発高速偵察機 XF-11と大型飛行艇
の陸軍からの受注に成功していた。XF-11の生
産について、軍との契約が交わされたのが1943
年8月、しかし、テスト飛行の準備が整ったと
きは、すでに戦争は終わっていた。政府の援助
資金は数百万ドルで、ハワード自身も相当の開
発費を投入していた。契約は解除されても開発
は続けられた。
初飛行は戦後の1946年7月7日(日)の朝、
周囲の反対を押し切ってハワードは機上の人と
なった。カルヴァー・シテイ飛行場を離陸、太
平洋上での高速性能に満足した彼は、帰投時、
突然、右プロペラが故障して急降下、ベイルア
ウトする間もなく、ビバリーヒルズの民家に墜
落、瀕死の重傷を負った。一命は取り留めたが、
肋骨が9本も折れ、頭蓋骨のひびや肩の骨折、
顔の損傷、そして全身は火傷で目を覆うありさ
まだった。ハワードは、結局、5週間の入院の
のち、仕事に復帰した。しかし、治療のために
投与した大量の麻酔剤で、神経系が徐々にむし
ばまれていた。改良型 XF-11が陸軍に納入され
たのは翌年だったが、もはや実用に供されるこ
とはなかった。
ほぼ全快した1947年、ハワードには軍事費横
領疑惑による、上院調査委員会から召喚された
聴聞会が待っていた。XF-11やヘラクレス飛行
艇(後述)などの受注契約上の不正を調査する
ためであった。しかし、その裏には、パンナム
が TWA を吸収する政治的策謀があることを
知ったハワードは、逆にジャーナリストを味方
につけて、これを退けた。
●超弩級飛行艇「ヘラクレス」号の建造
ヒューズ航空機は1942年、1,800万ドルの政府
援助資金をえて、超弩級飛行艇 HK-4型「ヘラク
レス」号(愛称「トウヒのガチョウ」)建造に着
手していた。もともと造船王ヘンリー・カイザー
が、海上輸送用に計画したものだったが、ヒュー
ズが資金援助することから始まった。
夢の飛行艇は翼巾103m、全長67m、10階建て
に相当する全高30m、最大重量181トン、3,000
双発高速偵察機 XF-11
馬力エンジン8基という怪物で、2個大隊の重
装備兵750名と、シャーマン戦車2台を収容し
て、ホノルルから東京まで無着陸飛行可能とし
ている。医療班を乗せた場合は、傷病兵500名の
2010 NOV
25
搭載が可能だった。
不死鳥のように立ち上がった彼を待っていた
点火され、17.2フィートの巨大なプロペラがユッ
クリと回転をはじめた。最初の2回は、徐々に
のは、陸軍からの戦争終了によるヘラクレスへ
の資金援助打ち切りと、契約破棄の通告だった。
3機製作の予定は中断されたが、自前の720万ド
加速されて、巨体はしぶきを上げて海上を疾走、
50から60、70~75mph になったところで減速さ
れ、接岸した。早速、コックピットに同乗でき
ルを投入して遂に1機を完成した。製作所のカ
ルヴァー・シティから試験飛行されるロングビー
チ湾までの40キロへは、二昼夜かかって部品が
た幸運者、ロスアンゼルス放送局のマクナマラ
記者が質問した。
「ハワード、今日は飛ばないのですか?」
運ばれ、組み立てられた。
誰が操縦するかで保険金問題が浮上したが、
「オレが保険会社になる」といって、操縦輪はハ
「勿論、飛ばないよ。飛行は来年の3月か4月
の予定だよ」
この言葉を信じた記者たちは、マクナマラを
ワード自身が握った。副操縦士席は、パイロッ
ト経験のない油圧技師ディビット・グラント、
そして待ちに待った1947年11月1日は、あくま
で3回の水上滑走テストであり、初飛行は翌年
3月の予定である。生憎この日は、雲が低く垂
れこめ、強風で海が荒れていたので中止、翌2
日の日曜日に延期された。飛行日和とはいえな
かったが、前日より波はおさまっており、海上
に浮かんだヘラクレス号は、ハワードの指示で
沖合のターミナル島へユックリと進んでいった。
ロング・ビーチはまさにお祭りムードにつつま
れた。これから展開する世紀のドラマを見学する
ため、埠頭には大衆が押し寄せ、その中央付近に
セットされたテントの中には、CAA(民間航空
局)
、陸海軍関係者、NACA(航空諮問委員会)
のお歴々、それに多くの記者が陣取り、ハワード
が招待したハリウッドの名だたる名士、俳優、女
優たちが顔をみ
せていた。
晩年のハワード・ヒューズ
26
2010 NOV
除いて、皆、降りてしまった。そして3回目の
水上滑走テストの準備が始められたが、最終回
は西のサン・ペドロ方向、つまりロングビーチ
のA桟橋から、海軍基地のあるターミナル島の
西側境界へ、海岸線に沿っての疾走だった。コッ
クピットのマクナマラは、興奮気味にアナウン
スをはじめた。これが後に授賞の対象になった
有名な語りになった。
「私は今、世界最大の巨人機、ハワード・ヒュー
ズの200トンもの飛行艇に乗っているジェーム
ズ・マクナマラです。広いフライト・デッキか
ら貴方に語りかけているこの瞬間、天空の万能
のモンスターは、ロスアンゼルス湾沖合で北東
に向かって、ユックリと動き始めました……」
ハワードは海上を滑走しながら、副操縦士席
のグラントに指示を与えた。
「波はまだ荒いが大丈夫だろう。風も強いが滑
走距離が短くてすむ。およそ3マイルの高速疾
走の予定だ……グラント、フラップを15°
に下げ
海上には小型
モーター・ボー
てくれ」
グラントはセミ・ファウラー・フラップを離
トがヘラクレス
号を取り巻き、
海軍艦艇も待機
しており、上空
陸時の開度15°
にセットした。ほぼ風に正対した
ヘラクレス号は、スロットル全開によって8基
のエンジンが咆哮し、ユックリと加速していっ
た。マクナマラはアナウンスを続けた。
にはプレスの飛
行機や自家用機
が飛び交った。
「……いま50、55、まだ加速しています。60、
約65、70になりました。75、急に静かになりま
した。おお、浮揚しました、浮揚したのです !!」
8基の P&W
R4360-4A ワス
プ・エンジンが
機体は速度計が70mph になった直後に浮揚し
た。離水した飛行艇は20m の高度を保ちながら
1,600m、滞空時間60秒で静かに着水した。着水
になっていたヘラクレス号は、その後、巨大な格
納庫に収められたまま、再び飛ぶことはなかっ
た。機体は国の財産であったが、ハワードはその
後の管理費などで、数千万ドルを投入した。
33年間放置されていたが、ハワードの死後、
1982年、ヘラクレス号は豪華客船「女王クイー
ン・メリー」号とともに、ロングビーチの第7
埠頭に停泊して観光客の眼を楽しませた。その
後、2001年、エバグリーン・ヘリコプター社が
譲り受け、オレゴン州ポートランドにある同社
の航空機博物館へ引っ越し、展示されている。
●ラスベガス乗っ取り計画
ハワードは母親から受け継いだ神経症的持病
があったが、1958年夏にはこれが急速に悪化し
ていた。時折、脅迫神経症や重いパラノイヤに
襲われ、トイレでは、何度も石鹸で手を洗うな
どの奇行が目立ちはじめていた。かつては TWA
のオーナーとして、パン・アメリカンのトリッ
プ社長と国際線進出の利権を争ったほどだった
が、1960年末、経営者不適格として、3/4以上の
株を所有しながら、金融機関と新経営陣によっ
て TWA を追放された。
1966年5月、TWA の持株約660万株を売却、
飛行機との最後の絆を手放した彼は、翌年4月
以降、突如、ラスベガスの買い占めに動いた。
カジノ、ホテル、土地、TV 局、飛行場などを
買い占めて、ネバダ州最大の資産家となった。
しかし、この頃から彼は人前に姿を現さなくな
り、1957年に結婚した女優のジーン・ピーター
ズですら遠ざけるようになった。彼が滞在する
デザート・インから立ち退き要求をされると、
そのホテルを買収して住み続けた。その後、住
処を転々とし、最後の棲家になったのは、メキ
ロング・ビーチのドッグから飛翔までのヘラクレス号
後、ハワードは事もなげに言ったものだ。
「このフラップ・セッティングでは浮揚するね」
「操縦感覚はどうですか?」
「素晴らしかったよ」
「最初から浮揚するつもりだったんですか?」
「勿
論さ、皆をビックリさせたかったんでね」
しかし、大戦終了によって、すでに無用の長物
シコのアカプルコだった。すでに治療に使用し
た麻薬が常習となっていたから、徐々に体が蝕
まれていた彼は、麻薬常習者となり、1976年4
月5日、アカプルコのホテルで危篤状態になり、
故郷ヒューストンのメソジスト病院に向かう
ジェット機上で息を引きとった。死因は脳血管
障害とも心臓病ともいわれている。体重わずか
42キロだった。
2010 NOV
27
航空技術
航空機設計における
信頼性解析(上)
航空局 検査課 遠藤 信介
この技術論文は、1987年の PILOT 誌 No 6から3回にわたり掲載されたものを、筆者(現 運輸安全委員会委員)の諒承を得て、再度掲載するものです。航空機設計における信頼性解析と
はどのようなものかを知る上での貴重な資料です。
1.はじめに
現代の世界では、国際的な人の移動、特に大
洋、大陸を横断するような長距離国際旅行には
ほとんど全ての人が航空機を利用しており、ま
た国内旅行でも数百キロを超える場合には航空
機が主たる交通機関となっています。我が国で
も、昭和60年には、国際線を利用して我が国を
離発着した人の数は年間1,760万人、国内線を利
用した人は年間約4,400万人に達しており、航空
機は国民の足として定着した感があります。
このように、航空機は主要な交通機関の地位
を確立しておりますが、これは、他の交通機関
と比較して高速でありながら運賃は十分競合で
きる水準になったことが主な理由です。しかし、
いかに高速かつ快適であっても、定時性が悪かっ
たり、安全性に一定の信頼を置くことができな
かったとしたら、航空機がここまで利用される
ようになったかははなはだ疑問です。現代の航
空機は、定時出発率も極めて高く、また安全性
についても、定期航空の輸送人キロ当りの死亡
事故率は自動車よりはるかに低い水準に達して
おり、航空機は信頼できる輸送機関の一つとなっ
たと言うことができるでしょう。
しかしながら、このような現代の航空機の高
い信頼性は初めから達成されていた訳ではなく、
1903年のウィルバーとオービルのライト兄弟の
動力飛行機の初飛行後の暫くの間の航空の黎明
期には、航空機の信頼性は低く、故障と事故の
連続だったのです。
28
2010 NOV
(担当:運航技術委員会)
本稿では、航空機の発達の歴史において、信頼
性の概念がどのように確立され、またそれが航
空機の設計にどのように適用されてきたかにつ
いて紹介していくことにします。
2.信頼性解析のはじまり
人類の飛行の歴史は、1783年にフランスの
Montgolfier 兄弟が設計、製作した熱気球の有人
飛行に始まりますが、その後、19世紀末から20
世紀初頭にかけて硬式飛行船が大発展を遂げ、
ドイツのツェッペリンの飛行船は大西洋横断旅
客輸送を行うまでに至りました。しかし1930年
にイギリスの大型硬式飛行船 R101が墜落事故を
起こし、更に1937年にツェッペリンの最新、最
大(全長245m)の硬式飛行船ヒンデンブルグが
火災事故を発生したため、飛行船は軍用と宣伝
飛行用には使用され続けたものの、旅客輸送の
手段としては急速に衰退しました。
飛行船に代って、航空旅客輸送機関として登
場したのが飛行機で、1903年のライト兄弟によ
る動力飛行機の初飛行以後、飛行機は急速に発
達し、1910年には Sommer 複葉機が双発機とし
ての初飛行を行い、続いて、三発機、四発機な
どの多発機が出現するようになりました。
ところが、この当時のエンジンは信頼性が低
く、空中で停止する率が高かったため、一定の
飛行時間において、二発のエンジンのうち一発
が停止する確率や四発のうち一発が停止する確
率を計算し、双発機と四発機の「信頼性」を比
較するようなことがよく行われるようになりま
した。信頼性は、工学的には、一定の環境条件
の下で与えられた時間内に故障しない確率と定
義付けることができますが、エンジンの空中停
止の確率の計算は、このような意味で、航空に
おける信頼性解析の始まりであったのです。し
かしながら、この当時は、まだ信頼性を厳密に
定義付けることや信頼性についての数値的目標
を設定することは行われておりませんでした。
飛行機自体の発達とともに、飛行機による旅
客輸送も急速に発展しました。1914年に米国フ
ロリダ州で始まった飛行機による定期旅客輸送
は、米国とヨーロッパで急速に発展し、KLM、
パン・アメリカン・エアウェィズなどの航空会
社が相次いで設立され、1930年には、IATA
(International Air Traffic Association:国際航
空輸送協会、第二次世界大戦後、1945年に International Air Transport Associaton として再設
立)の加盟航空会社数も23社を数えるようにな
りました。航空会社の運航が拡大するにつれ、
故障や事故に関するデータが集積されるように
なりました。1930年代に入ると、様々な飛行機
について種々の部品、装備品の故障発生頻度の
データや事故統計が集積されるようになりまし
た。この当時は、故障や事故が発生した航空機
の飛行時間のデータはとられるようになったの
ですが、故障を起した個々の部品、装備品の使
用時間のデータまではとられなかったため、部
品、装備品ごとの使用時間当りの故障率のデー
タはまだありませんでしたが、飛行機全体を一
つのシステムと見た場合の飛行時間当りの故障
率や飛行時間当りの事故率といった飛行機の信
頼性、安全性に関する基礎的なデータが徐々に
集められるようになりました。
これらの統計データから、航空機の信頼性と
安全性について、どのような改善が期待でき、
またどのような目標を立てるべきかが検討され
始めました。この時代の航空工学の研究者であ
る A.G.Pugsley は、1940年頃の論文の中で、航
空機の事故率は、全ての事故原因を考慮した場
-5
合、10 /hr を超えるべきではなく、そのうちの
-7
構造破壊によるものは10 /hr を超えるべきでは
ないことを提唱しました。この Pugsley の要求
値は、航空機の信頼性、安全性に関する基準の
最も初期のものの一つと言えるでしょう。
1930年代は、米国とヨーロッパにおいて航空
旅客輸送が本格的に発展し始め、航空機の信頼
性解析もその端緒についた時代ですが、1939年
に第二次世界大戦が勃発すると航空界も軍事色
一色となりました。そしてこの間に、航空機と
は近親関係にあるロケットの分野で、信頼性工
学上の一つの発見がなされたのです。
第二次世界大戦中、ドイツは、V1号とV2
号というロケット兵器を開発しました。このう
ちV2号は、加速度計とジャイロから成る慣性
誘導装置を備え音速を超えて飛行することがで
き、これが第二次世界大戦後の米国とソ連の
ICBM(大陸間弾道弾)の原型となったのは有名
な話ですが、これらのロケットの開発は信頼性
工学の発達にも大きく寄与したのです。
ドイツのロケット兵器は、第二次世界大戦後
米国に渡り米国のロケット開発の立役者となっ
た Wenher von Braun を中心として開発されて
いましたが、開発当初は信頼性が低く、ロケッ
トの発射は失敗に次ぐ失敗だったのです。ドイ
ツの設計者達は、当初、鎖を両端から引っ張る
と最も弱い輪のところで切れるので鎖全体の強
度は最も弱い輪の強度で決定されることの類推
から、ロケットシステム全体の信頼性はシステ
ムの中で最も信頼性の低い部品の信頼性によっ
て決定されると考えました。この考え方に基づ
き、設計者達は信頼性の低い部品の改良を行っ
たのですが、今度は比較的信頼性の高いと考え
られていた部品が故障することが発生し、全体
の信頼性はあまり向上しませんでした。このた
め、彼らは、信頼性の低い部品にだけ着目する
ことはやめて、システム全体の信頼性は個々の
全部品の信頼性に関ってくるのではないかと考
えるようになりました。彼らは、最初は、シス
テムの信頼性は個々の部品の信頼性の平均値に
近いものとなるのではないかと考えましたが、
すぐに、システム全体の信頼性は個々の部品の
信頼性の平均値より相当低いことがわかり、こ
の考えは誤りであることが判明しました。
2010 NOV
29
解析が実施されるようになりました。
現代の航空機設計における信頼性解析の具体
信頼度
1
信頼度
Rsystem=
信頼度
2
×
1
2
×……×
図1 直列システムの信頼度
このようにしてロケットの信頼性の改善が行
き詰った時に、数学者の Pieruschka にこの問題
を相談したところ、彼は、システム全体の信頼
性は個々の部品の信頼性の積で与えられること
を示しました。この示唆により、後に信頼性工
学の分野で Lusser(当時のロケット設計者の一
人)の法則として有名になった直列システムの
信頼性に関する図1の式が得られたのです。
信頼度 R の詳細な定義は後で説明しますが、
信頼度とは、簡単に言えば、故障しない確率で
あると言えます。従って、R は、0から1の間
の実数となり、信頼度が低いとは R が0に近づ
くことを意味し、信頼度が高いとは R が1に近
づくことを意味します。従って、R は1以下な
ので、図1において、システム全体の信頼度
Rsystem は、常に個々の部品の信頼度 R1、R2、
…、Rn より小さくなります。例えば、システム
が、3つの部品から直列的に構成され、それら
の信頼度が、R1=0.9(故障しない確率90%。す
なわち、10%確率でこの部品は故障する。)、R2
=0.7、R3=0.8であったとすれば、Rsystem は、
0.9×0.7×0.8=0.504となり、R1 R2、R3のいずれ
よりも小さな値となります。
この Lusser の式が得られた後、この式に従
い、システム全体の信頼性が目標値に達するよ
うに個々の部品の信頼性の向上が図られ、ロケッ
トの信頼性は大きく向上しました。
これらのことは、いずれも航空宇宙産業の黎
明期におこったことですが、第二次世界大戦後、
信頼性工学は大きく発達し、工業全般に亘って
信頼性の解析が行われるようになりましたが、
航空機設計においても広汎かつ体系的な信頼性
30
2010 NOV
例については次号で紹介することにしますが、
その内容の理解を助けるために、次に、信頼性
に関する基本的概念について説明しましょう。
3.信頼性の指標
皆さんが、日常、航空機の運航に携わってい
る中で、信頼性と言われるとどんな言葉を思い
浮べるでしょうか。おそらくは、エンジンのイ
ンフライト・シャットダウン率とか部品の MTBF
であるとか、あるいは機体の疲労寿命とか、信
頼性を示す様々な指標を思い浮べるのではない
でしょうか。この項では、信頼性を示すいくつ
かの指標について説明していくことにします。
信頼性を示す指標には、信頼度、非信頼度、
故障率、平均故障寿命、平均故障間隔、保全度
等様々なものがありますが、これらはいずれも、
統計的、確率的に数学的に定義付けられていま
す。これらの具体例の説明に入る前に、そもそ
も、なぜ信頼性を示す指標は一般に統計的、確
率的に定義付けられているのかということにつ
いて簡単に触れておきます。
工業製品は、どのようなものであれ、長時間
使用すればいつかは故障することは避けられま
せん。ところが、同じ設計図面に従い、同じ材
料で、同じ工作機械を使って、同一の工場から
出荷されたものでも、これがいつの時点で故障
するかを明確に言うことはできず、いかにデー
タを集めても、故障の発生時点については統計
に基づいた確率的予測しかできないのです。従っ
て、故障をコントロールするための信頼性の理
論も統計、確率に頼らざろう得ないのです。
しかしながら、ここで忘れてはならないこと
は、故障率が明確に異なっているものを集計し
て同じ統計データとしてしまうと、それから得
られる結論がおかしくなってしまうことがある
ことです。例えば、航空機のある部品の故障率
のデータをとってみたところ、許容できる水準
を超えていたのでそれを使用していたA社では
その部品全部を廃棄しましたが、B社では、そ
の部品の故障率を出荷工場別にとっており、そ
の部品の故障率はある工場で作られたものだけ
をつけて勝つことが非常に高い確率で予測され
ました。ところが、現実の選挙結果の得票率は、
が非常に高く、そのため平均の故障率が押し上
げられているが、他工場のものは故障率が低い
ことが判明したので、他工場のものはそのまま
ルーズヘルトが60.7%、ランドンが36.4%で、大
統領選挙として、アメリカ史上まれにみる民主
党の大勝利に終ったのです。統計理論によれば、
使用を続けることにしたなどといったように、
信頼性に関するデータそのものの「信頼性」も
統計のとり方によって異なってくるのです。
240万ものサンプルによるデータからの推測の信
頼性は極めて高い筈なのですが、この世論調査
の統計はどこがおかしかったのでしょうか。
ここで少し脱線して、航空には関係ありませ
んが、統計データのとり方が不適切であったた
めとんでもない間違いをおかしたこととして歴
この誤りの原因の第一歩は、240万人を電話
帳、自動車所有者リスト、クラブの会員名簿等
から選んだことで、この当時はまだ電話や自動
史上有名な話を紹介しましょう。
アメリカの歴代大統領の中でも名大統領の評
価を受けているフランクリン・D・ルーズベル
トは、1928年の大統領選挙で共和党のフーバー
に勝ち大統領になったあと、ニュー・ディール
政策により社会改革を推進しましたが、その政
策は保守派の反発を買い、1936年の大統領選挙
は進歩派と保守派の激戦となることが予測され
ました。1936年の大統領選挙は、民主党から再
選を目指すルーズベルトが、共和党からは保守
派を代表してランドンが出馬しました。この大
統領選挙の結果を予則するため大規模な世論調
査が実施され、電話帳、自動車所有者リスト、
クラブの会員名簿等から無作為に抽出された240
万人の調査結果から、共和党のランドンが民主
党のルーズベルトに得票率で57%対43%の大差
車がほぼ全家庭に普及している状況ではなかっ
たので、電話帳、自動車所有者リスト、クラブ
会員名簿等にのっている人は初めから所得水準
が高い人達だったので、この中でいくら無作為
にサンプルを抽出しても、人口全体を正しく反
映することはできなかったのです。この他にも、
この世論調査は、低所得階層の意見を過少評価
するような誤りをおかしていたのですが、民主
党のルーズベルトは低所得階層に強い地盤を持っ
ていたため、世論調査はルーズベルトの得票力
をはなはだしく過少評価してしまったのです。
その後、この世論調査を行った会社はつぶれ
てしまったそうですが、このエピソードは、統
計の適切なとり方の難しさをよく表わしている
のではないかと思います。
このように、信頼性理論が頼っている統計は、
図2 故障率λ
(t)の例(エンジンのインフライト・シャットダウン率)
2010 NOV
31
データのとり方が難しく、とり方によってはと
んでもない結論が出る可能性があることを頭に
3のまん中の図は、初めは故障率が高いが、や
がて初期故障が解決され故障率が安定するが、
入れて戴いた上で、統計、確率論に基づく信頼
性の指標を説明していくことにします。
図2は、いくつかのエンジンのインフライト・
やがて老朽期に入り再び故障率が増加する場合
を示しています。このような故障率の傾向は、
摩耗を受ける機械製品などに見られます。図3
シャットダウン率を累積使用時間に対して示し
たグラフですが、エンジンの空中停止は機械の
故障の一形態ですので、エンジンのインフライ
の一番下は、使用時間にかかわらず、故障率が
ずっと一定している場合を示しています。この
ような故障率を示すものの例としては、ある種
ト・シャットダウン率は故障率λの一例です。
一般に、故障率は、機械の使用時間 t の関数と
して表わされ、λ
(t)のように表示されます。
の電子機器があります。機器の種類によって、
故障率は、この3例のような傾向ばかりでなく、
様々な傾向を示します。
図2の横軸はエンジン型式ごとの累積使用時間
となっていますので、この場合は、一台のエン
ジンの故障率をその使用時間に対して表わした
ものではなく、一つの型式のエンジンの平均故
障率がその型式全体の総使用時間について表わ
されています。この図から読みとれることは、
一般的に、エンジンの故障率は、使用時間が少
ないうちは高く、使用時間が多くなるにつれ低
くなる傾向を示しています。これは、最初のう
ちは初期故障が多いが、使用が進むにつれ、初
期故障が解決され、故障率も安定してくる過程
を示しているものと考えられます。
図3は、故障率λ
(t)の典型的な例を3つば
かり図示したものです。図3の一番上は、エン
ジンのインフライト・シャットダウン率のよう
に、初めは故障率が高いが、使用時間が進むに
つれ故障率が低下する場合を示しています。図
次に、機器の信頼性を表わす指標としてよく
使われる MTBF について説明しましょう。
MTBF(Mean Time Between Failure)は、一
つの故障が発生してから次の故障が発生するま
での平均時間をいいます。従って、MTBF が長
いほど故障の発生が少いことになり、信頼性が
高いと言えます。先程は故障率λ
(t)について
説明しましたが、λ
(t)の平均値と MTBF は逆
数関係にあり、例えば、あるエンジンのインフ
ライト・シャットダウンが発生する間隔が平均
して1万時間であったとすれば、平均的な故障
率、すなわち平均インフライト・シャットダウ
ン率は、1,000時間当り0.1回となります。
(λ̄= MTBF = 10,000時間 = 1,000時間 )
1
1
0.1
故障率λ
(t)、平均故障間隔 MTBF の他に、
信頼性を表わす指標として用いられるものに信
頼度 R(t)があります。信頼度とは、故障して
いない確率を使用時間に対して表わしたもので
す。従って、信頼度 R(t)は、t =0、すなわち
使用時問が0のときは1(全く故障していない)
λ
()
であり、使用時間が進むにつれ、徐々に減少し、
使用時間が極めて大きくなればほとんど0(ほ
λ
()
とんど全て故障している)となります。図4に、
信頼度 R
(t)を示しましたが、この図の例では、
使用時間10,000時間の時に R(t)=0.9となってい
ますが、これは、使用時間が10,000時間経過す
λ
()
れば、10%のものが故障している(90%が故障
していない)ことを示しています。
図3 故障率λ
(t)の例
32
2010 NOV
以上の故障率λ
(t)、平均故障間隔 MTBF、信
使用時間 t までに故障した機器数
F(t):
機器の総数
()
(t)
f
:
図4 信頼度 R(t)
濃度 R(t)は、信頼性の解析によく用いられる
基礎的な指標です。他の指標としては、非信頼
λ
(t):
使用時間 t における単位時間当りの
故障機器数
機器の総数
使用時間 t における単位時間当りの
故障機器数
使用時間 t までに故障せずに残った
機器数
度 F(t)
( F(t)=1-R
(t)
)
、故障時間密度関数
dF(t)
(t)
f = 、保全率などがあります。
(t)
f
dt
次回以降は、信頼性に関する航空機設計の基
準(装備品の基準、構造の基準)、信頼性解析の
手法(FMEA、FMECA、FTA)
、整備におけ
る信頼性管理、サンプリングの理論などについ
て解説していくことにします。
なお、付録に、信頼性の指標の数学的関係に
ついての若干の説明を行っていますので、数式
に興味のある方は御一読下さい。
平均故障間隔 MTBF は、MTBF=∫0 tf(t)dt で
与えられる。
ここで、故障率が一定の場合(本文図3の一
番下の図の数値例を示してみる。
λ
(t)≡λ=0.1/1000時間と仮定する。
(平均的
に、10,000時間当り1回故障し、かつ故障率が
使用時間にかかわらず一定の場合)
付録:信頼性の指標の数式
信頼度関数 R(t)は、時刻 t までに故障しな
い確率である。従って、R(0)=1、R(∞)=0
となる。
一方、非信頼度関数 F(t)は、時刻 t までに故
障する確率であり、F(0)=0、F(∞)=1とな
り、F
(t)
=1-R(t)の関係がある。
(t)dt } であるので、
から、R(t)=exp{ -∫0 λ
-λt
λ
(t)が一定なら、R(t)=e となり、これよ
-λt
-λt
り、F(t)=1-e 、f(t)=λe となる。MTBF
∞
1
は、∫0 tf(t)dt = となる。従って、
λ
( )
故障時間密度関数(t)は、
f
非信頼度関数 F
(t)
dF(t)
を時刻 t について微分したもので、f(t)= dt
であり、dt を微少な時間間隔とすれば (t)
f × dt
は、時刻 t ~ t+dt の間の故障確率を表わす。
(t)
f
故障率関数λ
(t)は、λ
(t)= で与えら
R(t)
れ、λ
(t)
×d
(t)は、時刻 t までに故障しなかっ
たものが、時刻 t ~ t+dt で故障する確率を表わ
す。これらを、具体的な統計データに対応させ
ると以下のようになる。
使用時間 t までに故障せずに残った
機器数
R
(t)
:
機器の総数
∞
d
dt (1-R(t))
(t)
f
λ
(t)=
=
R(t)
R(t)
t
λ=0.1/1000時間、
1
MTBF = =10,000時間
λ
R(t)=e
-
t
10,000
F(t)=1-e
-
t
10,000
t
e 10,000
f(t)= となる。
10,000
-
なお、この例では、MTBF =10,000時間であ
るが、使用時間10,000時間で故障している確率
10,000
-
10,000
は50%とはならない。F(10,000)=1-e ≒0.63であるので、使用時間10,000時間では故障
している確率は63%となる。一般に、平均故障
間隔 MTBF は、故障確率50%を与える時間で
はないことに注意されたい。
2010 NOV
33
再発見! そんな技
ࢫᇌếὲẅᢃᑋ Ὁ ২ᘐᜒࡈ
我々パイロットは飛行機の Manual に従って運航しています。しかし、それ以外に先輩・同輩
に加え後輩からの「技術の伝承」で培われた部分が大きいのも否定できません。一人前の刀鍛冶
になるのは、少なくとも5年はかかります。炎に照らされた鉄の色合いなどを見て判断する名工
の一挙一投足から、技術を盗む「技術の伝承」で一人前になります。
この新企画は、刀鍛冶とまではいきませんが、「技術の伝承」「技術の研究」を目指す読者のサ
ロンのコーナーです。運航の現場などからお寄せ頂くお役立ち情報や知識を集約したコラムです。
皆様からの「技術に関する情報」等々、その他有益な投稿をお待ちします。
連載・飛行力学物語 その9
プロペラ、そしてオープンローターの物語(前編)
JAXA 風洞技術開発センター
国産旅客機チーム客員 柴田 眞
このところオープンローターの研究が、ふたたび盛んになってきました。オープンローターの技
術は1980年代の後半、すなわち昭和の終わりごろ、実用機開発の一歩手前までいきました。その頃
は一般にプロップファンと呼ばれ、ボーイング B727やダグラス MD80に搭載され飛行する写真が、
航空雑誌をにぎわしたものです。このプロップファンという呼び方は、その技術がプロペラとファ
ンの「あいのこ」であることを示しています。今回はこのプロップファン、最近ではオープンロー
ターと呼ぶ推進システムについての物語です。まずは昔話、プロペラの速度限界の話から始めましょ
う。
高速研究機「研3」
研3機は、長距離飛行記録をつくった航研機ほど有名ではありませんが、戦前のわが国の速度記
録をつくった高速研究機です。陸軍から航研に委託研究として出され、川崎航空機の岐阜工場でキ
-78(陸軍は機種ごとに略称のキ番号を付けていました)として設計製作された機体です。図1「プ
ロペラ速度三角形」に、この機体を側面から見たところを描いておきました。ダイムラーベンツ製
の液冷エンジン D.B.601-A を搭載したこの機体は、ちょっと見には三式戦闘機キ-61「飛燕」に似
ているようですが、速度記録を達成するためにずっと小さくまとめられています。全長は1 m ほど
短いだけなのですが、翼面積は飛燕の55%、スパンは2/3しかありません。実際の寸法でいえば、翼
面積は11.0m2、スパンは8.0m です。この研3機の詳細については、正式なものとしては参考資料
1)に、読み物としては参考資料2)にまとめられています。
34
2010 NOV
速度記録699.9km 毎時
D.B.601-A エンジンはもともと1,175馬力ですが、川崎航空機の明石工場が担当して1,500馬力程度
までチューンアップしました。プロペラは3ブレードで直径2.9m、ラチェ電動可変ピッチ機構を持
つものです。製造したのは、日本国際航空機工業の平塚工場と記録されていますが、湘南の平塚の
どの辺にあったのでしょうか。それはさておき、小柄な機体に大馬力のエンジンを搭載したわけで
すから、研3機はかなり操縦が難しかったようです。たとえばプロペラトルクによる左ロールを防
ぐため、リフトオフ直後には右に補助翼を一杯使用する必要があったようです。その頃の操縦士達
の言葉でいえば、叩き舵(たたきかじ)です。なお研3機を操縦したのは二人、試験飛行を担当し
た川崎の片岡操縦士と領収飛行として飛んだ陸軍の荒蒔少佐だけでした。なお領収後は、そのころ
陸軍の試験飛行場であった福生(ふっさ、現在の横田基地)へ移動する予定でしたが、これは実現
しませんでした。
研3機は昭和17年12月26日の初飛行から、昭和19年1月11日の最終飛行まで、計32回の飛行を実
施しました。場所は全て岐阜県の各務原(かかみがはら)で、いまは航空自衛隊の飛行開発実験団
のあるところです。そして昭和18年(1943年)12月27日の第31回目の飛行で、研3機は高度3,527m
において時速699.9km の速度記録を達成しました。この記録飛行の翌年3月、片岡操縦士はある宮
様に「研三高速機の飛行試験の概要」を御説明する機会があったらしく、その原稿と思われるもの
が残っています。
“ 、、、、回転数2,500rpm にて682km/h しか出ませんでした。、、、、最初から
非常に問題の多い機体でありましたが、大した事故もなく飛行出来たことを思うと感慨無量であり
ます。
”ここでの速度682km/h は計器の読みそのままのためですが、なんとも謙虚な報告です。こ
のレシプロを動力とするプロペラ機の日本速度記録は、67年後の今日にいたるまで破られていませ
んし、今後も破られることはないでしょう。
プロペラの速度三角形
プロペラは「回転しながら前進する翼」と考えるのがよいでしょう。飛行機が静止しているとき
は、プロペラブレードは回転による速度だけをもちます。飛行機が前進しだすと、回転による速度
と前進による速度が合成された速度で、ブレードに空気が流入するようになります。このようにブ
レードは、合成された流れに対し翼として働くわけです。回転による速度と前進による速度、そし
て合成された速度は、ベクトルとして描くと三角形になり、これを速度三角形と呼びます。プロペ
ラに限らず、ジェットエンジンなど空力回転機械の基本中の基本といっていいでしょう。
速度記録を出したときの研3機のプロペラの速度三角形を調べてみました。結果を図1に示しま
すが、空気の圧縮性の影響が出てくる領域なので、速度の単位としてマッハ数を用いました。高度
3,527m における時速699.9km はマッハ数でいうと0.60になり、また回転数1,612rpm のときのブレー
ド先端速度はマッハ0.75ですから、合成速度はマッハ0.96、すなわち音速の一歩手前です。一般にブ
レードなどでは、3/4位置付近が一番有効に働く場所なので、半径の75%における速度三角形も示し
ました。合成速度はマッハ0.82、すなわちジェット旅客機の巡航速度に匹敵します。ということは
遷音速翼型にするとか、後退角を付けるとかしないと、急激に空力性能が低下していく領域のなか
で、ブレードが作動していることになります。研3機の時代、遷音速翼型、後退角など一連の高速
空力技術は、まだまだ未知の世界でした。そしてブレードが圧縮性の影響をもろに受けるようにな
2010 NOV
35
図1 プロペラ速度三角形 研3機 699.9km/h のとき
ると、プロペラ効率が急激に低下し、そのことがプロペラ機の速度限界を決めてきたのです。
プロペラ効率
プロペラ効率とは、プロペラを回転させる馬力のうち、どれだけが実際に飛行機を推進する仕事
に用いられるか、その比率のことです。このプロペラ効率のマッハ数による変化を図2に示しまし
た。縦軸に目盛がありませんが、ふつう0.8~0.9程度のものと思ってください。前節で述べたように
研3機の時代のプロペラは、飛行マッハ数0.60ぐらいから空気の圧縮性の影響を受けて、効率がど
んどん低下していきます。この低下を何とかしようという努力は、ジェット時代になった世の中で
は地味な存在だったのですが、その後も着実に続けられてきました。そして新しいところではエア
バス A400M 輸送機のように巡航マッハ数0.68、最大運用マッハ数0.72という高速プロペラ機も実現
しています。
高速機用のプロペラでは、空気の圧縮性の影響を出来るだけ遅らせなければなりません。まずブ
レードを薄翼にすること、強度上から薄くするのが難しければ、弦長を大きくしワイドコード・ブ
レードにすることが基本です。ブレードのワイドコード化は、面積あたりの空力負荷を小さくして
衝撃波の発生を遅らせますが、同じことはブレードの枚数を増やしても実現できます。さらにブレー
ドを青竜刀のように反らして、平面形に後退角を与えるのも手段のひとつと言えるでしょう。飛行
場にいって最近のターボプロップ機を見たとき、何となく新しいと感じるのは、これらプロペラ形
状の進化が理由のひとつだと思います。ただ最近のプロペラは、発生する音を静かにするためにも、
大きな設計上の努力を払っています。高速域のプロペラ効率の向上および静音化、その両者を融合
した形状が現代の高速プロペラの新しいフォルムです。
36
2010 NOV
オープンローターへの進化
図2でマッハ数0.7~0.9あたりが、オープンローターが目標とする速度領域です。オープンロー
ターでは二重反転が主流で、それで5%程度の効率向上を期待することができます。プロペラは、
ふつうシングル・ローテーションですが、馬力が強いときはプロペラでも二重反転、すなわちカウ
ンター・ローテーションにする場合があります。二重反転プロペラはトルクを相殺するだけでなく、
前方プロペラのスワール(旋回流れのことです)のエネルギーを後方プロペラで回収できるので、
プロペラ効率も上がることが昔から判っていました。オープンローターでは、ターボファン・エン
ジンのファンの技術と高速プロペラ技術を融合させながら、開発を進めることになるでしょう。現
在のジェット旅客機と同等の高速巡航とキャビンの快適性、そして環境騒音を守りながら、大幅な
燃費の低減を実現するのが目標です。
図2 プロペラ効率のマッハ変化
ここでオープンローターを搭載することで飛行機がどう変わるか、そのイメージを示しておきた
いと思います。ボーイング B727は、わが国の国内線のジェット化に貢献した3発旅客機で、昭和40
年代の最盛期には、まさに日本の空の主役といった感じでした。エアライン OB にとって懐かしい
だけでなく、一般の利用者にとっても想い出の多い機体だろうと思います。その B727の -100型機に
オープンローター GE36を搭載した機体の尾部平面形を図3に示しました。3基ある JT8D-17ター
ボファン・エンジンのうちの1基を、推力25,000lbf(11,340kgf)級の GE36に換装していますが、と
くに違和感の無いイメージです。この B727/GE36搭載機は、1986年8月から87年2月までの間に25
回40時間の飛行試験を実施しました。そして B727/GE36に続いてダグラス MD80/GE36搭載機も、
87年4月から88年3月にかけて93回165時間もの飛行試験を実施しました。この MD-80型機は、さ
らにアリソン578-DX オープンローターに換装して飛行試験しています。そのような流れの中で、
オープンローターを搭載した新型旅客機が、開発の一歩手前まで行ったことは、はじめに書いたと
おりです。
2010 NOV
37
図3 B727/GE36尾部平面形
おわりに、主な参考資料
ということで今回は、プロペラからオープンローターへの道のりをまとめたところで、ひと区切
り付けたいと思います。ふたたび盛んになってきたオープンローターの研究について理解するため
に、次回は、オープンローター・エンジンの概要、飛行試験で何が判ったか、これからの課題は何
かなどについて、まとめる予定です。前編で参考にした主な資料は、次のとおりです。
1)わが国航空の軌跡、研三・A26・ガスタービン、日本航空学術史編集委員会、1988年、丸善
2)陸軍速度研究機「研3」〔スピードに挑んだ日本人〕、渡辺洋二、大空への挑戦、航空ジャーナ
ル臨時増刊、1975年
3)AIAA-88-2805, UDF Engine/MD-80 Flight Test Program, H. E. Nichols, GE
4)AIAA-87-1733, UDF/727 Flight Test Program, R. W. Harris, GE, R. D. Cuthbertson, Boeing
(H22.10.12、記)
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2010 NOV
連載・ヘリコプター飛行安全よもやま噺
その1 安定して飛べるようになるまで
JAXA プログラムグループ
運航・安全技術チーム 客員研究員
冨尾 武
はじめに
ヘリコプターは、図1に示すように、定点(空港)間を結んで定期・定型運航を行う大型飛行機
による運送事業とは異なり、山間過疎地を含む地方地域をも主な運航対象に含んで、多様な形態の
運航を非定型かつ不定期に行っています。
このようなヘリコプター運航の飛行安全を考える際のキーワードは、端的にいえば、低高度飛行
(障害物の多い環境での飛行)や、非定型な多様な形態での飛行、といえます。
更に今後は、これらのキーワードに加えて、夜間飛行や天候不良時(視程不良など)の飛行が加
わってきます。その理由は、近年、ヘリコプター運航は安心安全社会の維持と構築のための公共目的
活動(防災や救助、医療搬送等)が、365日24時間運航をも含めて、これからも日増しに増加し続け
ていくものと思われることからです。ヘリコプターはこのような運航を十二分に安全にこなすことの
できる“機械”として発展を遂げてきましたが、ここに至るまでには数多くの歴史を秘めています。
この歴史を紐解きながら(歴史に学びながら)
、ヘリコプターの飛行安全についての諸々を述べます。
図1 ヘリコプター事業と大型飛行機運送事業との運航形態の比較(イメージ)
(上図の他、報道取材、農業支援、物資輸送、電線監視、他、多岐にわたる運航がある)
安定して飛べるようになるまで
飛ぶことができるようになるまで
ヘリコプターの原型が初めて飛行したのは、1907年11月13日に地上約2 m で約20秒の飛行に成功
2010 NOV
39
したフランスのポール・コルニエのタンデム・ヘ
リコプター(図2)でした。これは安定性や操縦
性は欠如していたとはいえども、世界で初めて人
を乗せて“Controlled-Free-Flight”を行った動力
ヘリコプターです。
1907年はライト兄弟の飛行機の初飛行(1903年
12月17日)に遅れること4年です。ライト兄弟の
快挙の後、飛行機は着実に実用が拡大していきま
図2 ポール・コルニエのヘリコプター
すが、それに比べて、ヘリコプターが実用に漕ぎ
出すまでには更に30年強を費やし、イゴール・シ
コルスキーの VS-300(図3)が1940年5月13日に
飛ぶまで待たなければなりませんでした。
人類が空を飛ぶ夢に向けて試行を続けた実験は、
図4に示すようにヘリコプターの方が飛行機より
も約半世紀先行し件数も多いにも拘わらずにこの
経緯を辿った歴史は、大きな重量のもの(ロー
ター)が高速で回転することによって作りだされ
ている巨大なエネルギーを如何に意のままに操る
か、でした。具体的には不安定な動きとねじれ、
過大な振動を如何に克服して操縦士の意に沿うよ
うに機体の動きをなだめるか、でした。
そ の 長 期 戦 を 制 し た 技 術 が、
“The flapping
hinge”と“The cyclically controlled rotor”の発
明です。この2つは American Helicopter Society
(AHS)が1990年代半ばにアンケートによって決
めた TOP-TECHNOLOGY 40 の第二位と第一位
を占めています。
図3 シコルスキー VS-300原型機
フラッピング・ヒンジ
フラッピング・ヒンジはスペイン人のファン・
デ・ラ・シェルパが1922年に、マドリードの王立
劇場で風車が舞台にある『ドンキホーテ』を見て
図4 航空機が飛ぶまでの試行実験数
いたときに、風車の羽根がまわりながらかすかに羽ばたいていることに気づいたことだった。この
たった一つの重要な発見が、回転翼機に空中での自由な動きをもたらすことになりました。
図5は3つの関節(ヒンジ)を持つ全関節型ハブを示します。このヒンジのうち、フラッピング・
ヒンジはローター・ブレードが回転面の上下方向に自由にフラッピング運動を行うことができるよ
うにして複数のローターブレード間の揚力平衡を取ります。
ドラッグ・ヒンジ
ドラッグ・ヒンジ(リード・ラグ・ヒンジとも言う)はブレードが回転面内の前後方向に運動で
きるようにしているものです。フラッピング・ヒンジとドラッグ・ヒンジはともにブレードのフラッ
ピング運動やドラッギング運動によって生じるブレード根元の大きな荷重を軽減してその破損を防
40
2010 NOV
図5 全関節型ハブ
(ウィキペディアより引用)
止するとともに、ローター軸に伝わる荷重の急激な変動を抑制(ダンピング)して振動をやわらげ
たり、操縦を容易にする働きをします。
なお、このドラッギング運動は地上での横揺れと連成して地上共振と呼ばれる激しい不安定振動
を引き起こす可能性があるのでこれを防止するためにドラッグ・ダンパーが取り付けられています。
フェザリング・ヒンジ
フェザリング・ヒンジはブレードの迎え角を変更できるようにするもので、下記のサイクリック・
コントロールを可能とするためのものです。
サイクリック・コントロール
フラッピング・ヒンジはオートジャイロのためには十分なものでしたが、ヘリコプターには能動
的なピッチングとローリング・モーメントの制御が必要でした。
これはサイクリック・コントロールによって達成されました。
サイクリック・コントロールは飛行中のヘリコプターをパイロットが操縦するためにローターブ
レードの傾斜面を制御する方法です。図6の例では、操縦桿を前後に動かしスワッシュプレートを
傾けるとピッチリンクを介して繋がっている各ブレードの迎え角が回転位置に応じて一回転毎に周
期的に(サイクリックに)変わります。その結果、ローターの回転面が傾き機体のピッチ姿勢が変
わって速度を制御します。これは1920年頃にスペイン人のラウル・パテラス・ベスカラ侯爵が着想
した『ローターブレードに、マシーンを空中に持ち上げる以外の役割を持たせてはどうだろうか? ブレードによってヘリコプターの水平方向の動きを制御できれば、他の装置類はいらなくなる』と
の実に優れた着想から生まれました。それまでは、
舵のような板で空気の流れを変えたり、小さなロー
ターを推進装置に使って向きを変えたり、幾つか
のローターをスロットルで調整したりしていまし
たが、いずれの方法にも大きな問題がありました。
シコルスキー VS-300で1941年12月にようやくサ
イクリック・コントロールが機能するようになり、
また、フラッピング・ブレードと併せて組み込ん
だことによってヘリコプターは漸く実用飛行に漕
ぎ出すことができました。
図6 サイクリック・コントロール
2010 NOV
41
安定して飛べるようになるまで
このように約一世紀を掛けて“飛ぶことが出来る”ようになったヘリコプターが、
“安定して”飛
び続けるようになるためには、ヘリコプターが本質的に抱える『不安定な飛行特性』の克服が必要
でした。図7はホバリング後に手放しで飛行を続けた場合の状況を示します。ヘリコプターは時間
を追う毎に姿勢と位置が発散していく不安定な飛行特性を持っています。これを克服して安定な飛
行を続けるためには、パイロットが常にトリムをとるか、安定増大装置を利用することが必要とな
ります。この安定増大装置の発明と普及はヘリコプターの実用に至る重要な技術であり、前述の
AHS のアンケートによって重要順位第9位に位置付けられています。この技術のお陰で、現在のヘ
リコプターは、地表を目視して“姿勢を制御するための基準情報(水平線など)”を十分に得ること
のできる有視界気象状態(VMC)では、図8に示すように、前進から後進までの幅広い飛行領域を
安全に飛ぶことができるようになっています。また、横進やホバー中の機首方位の回転も可能です。
図7 ホバリング後の姿勢発散
図8 ヘリコプターの飛行可能領域
何時でも何処にでも思う存分に飛ぶために
この飛行可能領域は計器飛行気象状態(IMC)での飛行のように地表からの目視情報が劣化して
くると低速領域では安定な姿勢保持が困難になり、飛行できなくなります(図8参照)。この飛行可
能最低速度は VminI(minimum Velocity at IFR)として飛行規程に規定されています。近年の大規
模自然災害の多発や医療問題を受けて、ヘリコプター運航は天候不良時や夜間においても運航する
必要性が日増しに高まってきています。これに確実に安全に対応するためには上記の IFR 時の低速
飛行制限はヘリコプターが克服しなければならない新な課題となっています。この課題の解決には、
安定性と高運動性を飛行シーンに合わせて自在に引き出すような高度な飛行制御技術が必要です。
次回は筆者が行った技術開発の成果を中心に、その実現が技術的には可能となっていることにつ
いて紹介します。
参考文献
1 from da Vinci to Today and Beyond: The Top Technology Achievements, AHS
2 機械仕掛けの神―ヘリコプター全史― ジェイムス・R・チャイルス著 早川書房
3 航空工学講座11 ヘリコプター 齋藤光平・冨尾 武・他共著
4 R.W.Prouty “Safety”, ROTOR WING INTERNATIONAL November 1979
5 INTEGRATING ROTORCRAFT DISPLAYS, CONTROLS AND WORKLOAD, David L
Green 他
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航空に携わる方々の、チョットした一コマなどを紹介する、皆さまからの投稿で成り立つ、
Café で気楽に読める様な投稿コーナーです。日常的な事ごとや思い出など、色々なジャンルの
読物をお寄せ下さい。
赤フンはソロの印
駆出しパイロット
その日は梅雨明けで心なしか湿気を感じる初
夏の午後であった。かまぼこ兵舎を改造したブ
リーフィングルームには、訓練飛行を終えた訓
練生に向かって、教官たちの声がこだまの様に
飛び交っていた。
ブリーフィングルームの教官たちがこちらを
向き「一番乗りだ! 早く行って来い!」
その言葉に弾かれた様に椅子から立ち上がり、
教官に一礼し、ヘルメットを手にするとブリー
フィングルームを出て機に向かった。
学生気分抜けやらぬ十時間そこそこの飛行訓
練時間しかない訓練生たちは、最初の関門であ
るソロフライト(単独飛行)を目指していた。
そんな時期の一場面である。
私の後を同期の二人がついて来た。手には赤
い吹流しを持っていた。操縦席に乗り込みバッ
クミラーを見ると確かに教官はいない。
同期が機体の後部に赤い吹流しを付けていた。
吹流しが付けられたのを確認して、エンジンを
始動しソロフライトに向かったのである。
その日は、何とかフライトをこなせた、と思っ
た日であった。しかし、教官からさんざんな事
を言われ、目の前の教官と目を合わせる事をた
めらわせる様な雰囲気がそこにはあった。
この赤い吹流しは、場周経路を飛ぶ他の訓練
機に目立つ様に、ソロフライトの目印のためで
「赤ふん(赤いふんどし)」と呼んでいた。
「ソロに行って来い!」
沈む気持ちでは、教官の言葉を聞き取れず下
を向いていた。
この吹流しを付けてくれた同期の一人は、当
時ブリーフが当たり前の時代に珍しくふんどし
を着用していた。
次の言葉はブリーフィングルームに響き渡る
ほどで、教官の怒った様な声が聞こえた。
「ソロに行って来い、と言ってんだ!」
我々訓練生が寝泊まりする宿舎の洗濯室の物
干しのロープには彼の愛用のふんどしが自己主
初めて我に返り、キョトンとした顔をした私
に向かって、教官はニヤリと笑い「ソロに行っ
て来い!」と再び繰り返したのだ。
張するかの様に、何時もひるがえっていたのだ。
次の日から、一人また一人とソロフライトが
2010 NOV
43
続く様になった。
い吹流しを付けた。
かまぼこ兵舎のブリーフィングルームには、
ソロフライトを終えた者、未だに教官の許可が
出ない者が入り混じり、安堵感が感じられる訓
そしてキャノピーに一人写る影と共に赤い吹
流しを引きずりながら、彼の乗機は滑走路に向
かっていったのである。
練生と焦りと不安が顔に現れた訓練生が同室し
ていたのである。
そんな中、自己主張するふんどしとは異なり、
ここで話は終わらない。
翌日は訓練が無い休息日である。洗濯室から
ブリーフィングルームや宿舎に、そして寝言で
大声をあげる、未だなかなかソロフライトに出
れない悩める彼の姿があった。
鼻歌交じりの声が聞こえていた。彼である。
しかし、ついに、ふんどしの彼にもソロフラ
イトの日が巡って来たのだ。
た。
洗濯室の物干しのロープには、なんと白いふ
んどしの中に一枚だけ赤いふんどしが水を滴ら
せながらかかっていたのだ。
ブリーフィングルームの端から「よーし! ソ
ロに行ってもいいぞ!」教官の声が聞こえてき
た。
ふと眼をやると、その教官の前には、ふんど
しの彼がいた。
「ありがとうございます!」
立ち上がって教官に一礼する、嬉しさがあふ
れた姿が見えた。
ヘルメットを抱え、かれはブリーフィングルー
ムから飛び出して行った。
洗濯室の前を通りかかりヒョイと中を垣間見
ソロフライトに出れるよう、
『願かけ』で赤い
ふんどしを穿いていた、との後日談である。
いったい『願かけ』で何日間、赤いふんどし
を穿いていたのか?
「少なくとも?」推測のみで今だもって疑問で
ある。
私は赤い吹流しを持って、彼の後
を追った。
前後席の訓練機の前部席に座る彼
は、まるで後部席に教官がいるかの
如く、大声を張り上げながらソロフ
ライト前に幾度となく唱えたであろ
う飛行手順を行っていた。私は、そ
れを眺めつつ、彼の乗機の後部に赤
フラップアップ ??
ロートルパイロット
そのまた大昔、調布飛行場での話。当時は、
若いのが将来の夢を抱えて、盛んに訓練をして
44
2010 NOV
いた。
とはいえ、調布飛行場自体は、昔も今も、訓
練禁止なので、エアポートワークは、ホンダエ
誰かさんは、固定脚のチェロキーでの実地試験
のオーラルで、試験官から、
「この機体のギアダ
アポート、龍ヶ崎飛行場、大利根場外離着陸場
等を実施して行われていた。
ウンスピードは?」と聞かれ、知らないことを
聞かれたものだから、頭が真っ白になってしまっ
た。すかさず、教官が「固定脚の機体なので、
往復のフライトがもったいないので、教官1
人に練習生2人と言ったパターンが多かった。
行きはAさんで、そのままエアポートワーク、
ギアダウンスピードのことは教えていません」
と助け舟を出したが、一度真っ白になってしまっ
た頭が元に戻るまでは大変であった。
その後交代してBさんがエアポートワーク、そ
して、帰りと言うわけである。
これで、午前1便、午後1便と言った具合な
ので、教官も大変であったが、クラブルームは、
いつも熱気にあふれていた。
いまだに、試験官は、知らないで聞いたのか、
あるいは、陸上単発の試験として「固定脚なの
で、ギアダウンスピードの設定はありません」
との模範解答を求めたのかは、定かではない。
そんな具合だから、誰がもうじきソロ、誰が
もうじき実地試験、といった情報は、全員の共
有する所となり、自分だけでなく、仲間の進捗
に、一喜一憂するのであった。
無事オーラルが終って、フライトの段階に入
ると、試験官と、受験生と、教官の乗った機体
は、どこかへ飛んでいってしまう。お昼に帰っ
てきて、航法の課題が示されれば、午前のエア
ポートワークと、エアワークは通過と言うこと
である。
また、練習生が多いのだから、当然、実地試
験も頻繁に行われていた。当時の実地試験のオー
ラルは、遠巻きにして見ることが出来たのだが、
オーラルで顔を真っ赤にして締め上げられてい
る姿は、とても他人事とは思えない。
日頃から色々とあって、皆がやきもきしてい
たC君も、何とか、午前の部を通過し、航法の
課題を与えられた。もう少しだ。
民間の飛行クラブだから、生徒は、年齢も
様々、目的も様々である。将来のエアラインパ
イロットを目指すのもいれば、ただライセンス
が手に入ればいい、といった具合である。
それでいて、将来を目指すのが出来が悪く、
ただ飛べれば、といったのがセンス抜群と言っ
たこともあるのだから、世の中、うまく行かな
いものである。
仲間の連帯意識は抜群だから、時間のある限
り、朝から晩まで飛行場にいて、さまざまな飛
行機談義をした。飛行場で足りなければ、近傍
の安い飲み屋に繰り出すこともあった。
「頑張れよー!」と、皆に見送られ、航法の出
発である。大体は、2レグを飛んだところで、
デスティネーション・チェンジ、そうして、生
地着陸となる。
さて、C君、大きなミスはなく、小さなミス
も何とか乗り切って、龍ヶ崎飛行場に生地着陸
である。これが終れば後は真っ直ぐ調布に帰る
だけである。「もう少しだ」。
気合を入れて、龍ヶ崎飛行場での着陸をまと
め、「では調布へ戻りましょう」となった。
ここまで来ればもう少し。しかし、最後まで
油断はならない、
「調布までの航法をしっかり仕
上げなければ」、頭はもうそっちに行ってしまっ
ていた。
こういった状況だから、様々なことがあった。
2010 NOV
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さて、調布への航法である。最初のチェック
ポイントは、いつものところなので、迷うこと
フラップアップであるはずなのに、フラップ
は1ノッチに下がったままなのだ。
はない。しかし、なぜか GS が出ていない。
そんなに風が吹いているわけはないのに、と
とっさの機転で、1ノッチに下がっているフ
ラップレバーを、手で少し動かし、改めて、1
思ったが、距離の測定も、速度の計算も、間違っ
てはいない。それで、次のチェックポイントの
通過時間を修整してコールし、飛行を続けると、
ノッチの位置に「カチッ」と決め、大声で「フ
ラップ1ノッチセット」とやった。
今度はピタリあった。
その後の着陸も何とかまとめ、エプロンに戻っ
た。もちろん、後席の教官からは「Use Flap 航
法」は丸見えであったのだが、目が合うと、耳
パワーセッティングは合っているのに、本当
に GS が出ていないのである。それで、調布の
リポーティングポイント着の予定を修正し、オ
ンタイムで通過、さあ着陸である。
さて、ダウンウインドにはピッタリと入り、
ターニングベース。もう少しだ。
「速度85、フラップ1ノッチ」、とコールして、
手動式のフラップレバーに手で触った途端、凍
りついた。
に口を当てていわく、
「気がついてない。黙って
ろ」。である。
気が気ではなかったが、特にお咎めはなく、
「合格です」となった。
その後のC君、無事に目的を果たし、某エア
ラインの機長に納まったと聞く。航空事故や、
インシデントも無く、無事に勤め上げたようで
ある。今は遠い昔の出来事であった。
Boys Be Ambitious
湧井 カレン
こういうことを言うと世間さまから嫌われる、
ということを十分承知しながら、こういうこと
を言おうとしています。
46
2010 NOV
“Boys Be Ambitious!”、
「少年よ大志を抱け」
というクラーク博士の有名なフレーズです。
120年前に札幌農学校(現北海道大学)にウィ
リアム・スミス・クラーク氏がお雇い外国人と
訳にたどりついたのです。
し赴任しました。その彼が初代教頭となり、や
がて任務を離れる別れ際、「いよいよ別れじゃ、
元気に暮らせよ」と言われて生徒一人一人と握
その映画はスティーブ・マックイーンの主演
する「ゲッタウェイ」、悪者がハッピーエンドで
外国へ逃亡を果たすという小憎らしく、小気味
手を交わすと、ヒラリと馬背にまたがり“Boys
Be Ambitious!”と叫ぶなり、長鞭を馬腹にあ
て、雪泥を蹴って疎林のかなたへ姿をかき消さ
よい映画です。強盗殺人犯に嵌められたスティー
ブは愛妻(演じるアン・マッグロウがまた好い)
と国境を越えてメキシコへ脱出します、その時
れた、と書物にあります。
大河ドラマを見るようではありませんか。
誘拐した土地の爺さんのぼろトラックをキャッ
シュで買い取ります。商売っ気を出した爺さん
は5000$を要求、スティーブは「じゃあ10000
事の事実ははっきりしませんがクラーク博士
の挨拶全文は「Boys be ambitious like this old
man」だったそうです。
「この老人のように、あ
なたたち若い人も野心的であれ」と文学者、安
藤幾三郎が訳したと文献に出ています。名訳で
すね。
で」と。カメラはパンし愛妻を大写しに、やが
てバッグから愛妻が取りだした現金は30000$、
哀調あるハーモニカの曲が被さり、両者は分か
れて去っていきます。泣かせるラストですね。
さて、筆者は1969年、アメリカ西海岸のある
飛行学校で飛行機の操縦を習っていました。そ
のとき学校に居た主席 FAA 試験官のG氏は、
まさかクラーク博士ほど年寄りではありません
が出身はメイン州ポートランド、アメリカを開
拓した New England 地方と言われるクラーク
博士と同じ地方だったと。
その学校を去る日が来て、私はG試験官に挨
拶に行った、その時G氏がにこやかな表情で発
したのはまさに“Boys Be Ambitious!”だった
のでした。
G氏が趣味で乗る自慢のお宝所有機、ボーイ
30000$をポケットにねじ込んだ爺さんがにっ
こり笑って言ったセリフは「Boys be ambitious」ではなかったのですが、スペイン語の
“Vaya Con Dios!”、直訳すれば神様と一緒だっ
たらいいのにね、となりますが、「では、さよう
なら」とスペイン語辞書にはあります。スペイ
ン人も神様が一緒でないと心もとないのでしょ
うか。Adios =さようなら、という一般的な言
葉と違ってやや揶揄的な別れのあいさつのよう
です。
映画の字幕には「達者でナ」と出ていました。
ご年輩にはナットキングコールの歌う同名の甘
い歌「バイヤコンディオス」をご存じでしょう。
そっか! “Boys Be Ambitious!”も“Vaya
Con Dios!”も一般市民には「達者でナ!」の意
ング・ステアマン複葉機はクラーク博士のよう
に、馬に長鞭をあて、雪泥を駆けるイメージに
似るものがありました。
味だと気がついたのです。アメリカの牛追いや
アルゼンチンのガウチョ(牧童)たちが季節の
仕事を終え、仲間と別れる時に軽く交わす挨拶
らしい、クラーク博士も「来年もまた会おうぜ、
その後長い年月をかけてクラーク博士とG氏
の挨拶の整合性を考えていたのですが、最近テ
レビで古い映画を見ていてようやく納得できる
それまで達者でナ」のような意味で言ったので
はないか?
安藤幾三郎さん、ごめんなさい!
カレン
2010 NOV
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安全の分水領
アクシデント ・ インシデント概要
フライト・ セイフティ・ファウンデーション(FSF)2010年7月号より
訳 佐藤 裕
ここに示す文書は、読者の皆さんが飛行中の遭遇するかもしれない困難な状態を切り抜ける何ら
かの手助けになれば、と思い掲載し続けています。
なお、この文書は各国の運輸安全委員会の発行した正式な報告書をもとに、まとめてあります
:FSF 編集部
2008年3月27日の午後、118名の乗客を乗せ、
オクラホマ・シティからヒューストンに向かお
うとしていたこの航空機のクルーは離陸前、地
上の担当者から、アンチスキッド・システムが
故障していると報告を受けた。
また社で定めている B737に関する最小装備品
リストの要求事項を満たしているので、出発し
ても差し支えないとも伝えられたが、クルーは
見ると、ヒューストン・ジョージ・ブッシュ国
際空港に着陸した際、スピード・ブレーキ及び
スラスト・リバーサーは使用されず、ホイール・
ブレーキ用圧力は最大の限界値3,000psi 近くま
で高くなっていて“この時、同時にノーズ・ギ
アに機体の重量が多く加わってしまう状態を作
り出してしまった”と報告書は書き、明らかに
着陸時、ブレーキは人力で操作されていた点に
ついて注記している。
加えられた高い圧力でブレーキを作動させた
ため、メイン・ランディング・ギアのホイール
はロックされてしまい、タイヤ4本は全てバー
ストしてしまった。
キャプテンは調査官に、接地時 B737の操縦桿
が震えたように感じた、と話している。
このシステムが故障した状態での着陸について
相談をする。
クルーは飛行中何回もアンチスキッドが不作
動な状態での着陸についてブリーフィングを行っ
“キャプテンはこの状態が起きたとき、ブレー
キを作動させていなかったものの、機体は急に
減速した。ステアリング装置を使用し、ランウェ
イのセンター・ライン上を保ち続けた、とも話
た、と NTSB 報告書は書き、そして特に接地
後、スピード・ブレーキを手動で操作する方法、
している。
ランウェイのエンド近くで停止した機体から、
手動操作でスラスト・リバーサーを作動させる
方法、着陸後タイヤに損傷を与えることなく人
力でホイール・ブレーキを操作する方法につい
てもブリーフィングを行った点について注記し
乗客及びフライト・クルーは機体のエアー・ス
テアを使い、降りている”と報告書。
右メイン・ランディング・ギアから発生した
火災は、空港の救命消火チームが消火に当たっ
ている。
しかし、記録されているフライト・データを
たという。
ジェット
ブレーキのロック、タイヤをバーストさせる。
ボーイング₇₃₇︲₅₀₀:小破、 負傷者無し。
48
2010 NOV
乱気流、機体を激しく揺らす。
エアバス A₃₂₀︲₂₃₂:損傷無し、重傷2
名、軽傷2名。
2009 年 7 月 10 日 午 後、 合 衆 国 フ ロ リ ダ 州
フォートマイヤーの近くを飛行していた A320
航空機の周辺空域には、乱気流に関する警報も
無く、機体に搭載しているウェザー・レーダー
も20ノーティカル・マイル(36km)前方まで、
ターボプロップ
誤って正常なエンジンを停止させてしまう。
ビーチ・キングエアー A₉₀:4名重傷、4名軽傷。
2008年8月3日の午後、カナダ、ブリティッ
シュ・コロンビア州ピッツメドウズを離陸し、
何のエコーも示していなかった。
航空会社の運航規定には、降下し18,000フィー
トを通過したなら、シート・ベルトを着用する
高度3,900フィートを通過した直後、パイロット
には爆発音が聞こえ、そして機体は振動し始め
た上、右へ機首を振ってしまう。
ことを示すサインを点灯させるよう義務付けて
ある。
巡航高度から降下を開始する前、キャプテン
は、
“シート・ベルト着用のサインが点灯した
ら、必ず着用するように”
、と機内放送を行う。
そしてキャビンアテンダントも、シートベル
ト着用のサインが点灯した際、シート・ベルト
を着用してください、との機内放送を行ってい
ると合衆国運輸安全委員会(NTSB)の報告書。
この4分ほど後、降下し12,500フィートを通
過したとき“小さな積雲を横切った際、機体は
大きく揺れた。機体はあっという間に200フィー
トほど落とされ、機体には+1.98g の加重が加わ
り、その1秒後に-0.43g の荷重が加わってし
まった”とも書いている。
シート・ベルトを着用していなかった女性客
は座席前方にあるテーブルに体をぶつけ、あば
ら骨2本を骨折してしまう。
パイロットは機首を下げ、右エンジンを停止
させ、プロペラをフェザーした上、左エンジン
のパワー・レバーを最前方位置へ押す。
左エンジンが故障しているため、エンジン出
力は増加しない。
旋回し空港へ戻ろうとするが、空港まで滑空
できなかった。
キングエアー航空機はクランベリー畑を収穫
するための沼地に接地しバウンド、あぜ道のよ
うなマウンドにぶつかり、柔らかな地面の中に
左主翼をめり込ませ、ひっくり返ってしまう。
この事故で同乗していた4名のスカイダイバー
が重傷を負った。
この航空機はスカイダイバーを乗せるように
改造されていて、スカイダイビングを行う場合
に備え、キャビンの床部分にはシート・ベルト
が取り付けてあったものの、乗り込んでいた7
名のスカイダイバーは全員、固定されていない
木製のベンチに座っていた、とカナダ運輸安全
後部の洗面所にいた乗客は、乱気流により機
体が揺れた際、背骨をぶつけ、傷めてしまった。
この他2名の乗客も軽傷を負っている。
“キャプテンはこの乱気流に遭遇する2分ほど
前、機内通話装置でキャビンアテンダントに、
数分の間座席に座っているように、とも伝えて
いる”と報告書。
委員会(Transportation Safety Board of Canada)の事故報告書。
アメリカ合衆国に登録されているこの航空機
は、1966年に製造されてから13,257時間飛行し
ている。
事故調査官はこの航空機の左エンジン、プラッ
ト・アンド・ホイットニー・カナダ社(PWC)
製 PT6A-20エンジンに定められている、オー
バーホールまでの最大使用時間3,600時間を大幅
に上回り、オーバーホールを行うことなく4,435
2010 NOV
49
時間も使用され続けていることを突き止めた。
航空機を運行する会社は、エンジンについて
“オン・コンディション”で運転すればよく、オ
イル分光分析検査、ボアスコープを使った点検
そして状態をトレンド・モニターする必要も無
い、と信じ込んでいたと言う。
報告書は、PWC 社がオンコンディション・
メインテナンス・プログラムを承認せず、TBO
を延長するプログラムについても承認していな
いにもかかわらず、事故を起こした航空機の運
行会社が、この航空機はスカイダイビング専用
に使用しているため、飛行時間は年間300時間に
達しない少なさであったため、どちらにも該当
しないと勝手に判断した点について重要視して
書いている。
左エンジンを調査した結果、エンジン駆動燃
料ポンプを駆動するスプライン部分は腐食し磨
耗していて“疲労破壊を起こす限界値を超えて
いた”と報告書。
磨耗した駆動部のスプラインは、エンジン停
止操作により燃料が途絶え、フレームアウトす
る前サージングを起こし、これによりかみ合っ
たり外れたり言う状態を繰り返しいたものと思
われる。
機首方向が右に振れたと言う状態は、明らか
に右エンジンが故障したためである。
“このパイロットは、この2年の間にキングエ
アー航空機に関する訓練をまったく受けていな
かったため、故障発生時、正しく処置する能力
も衰えていたことは疑いも無い。キングエアー
A90の緊急操作用チェックリストはエンジンが
故障した場合の手順として、パイロットはエン
ジンを最大出力にし、エンジン計器類を参照し
て故障しているエンジンを確認した後、故障し
ているエンジンを停止させ、プロペラをフェザー
しなければならない、と注記してある”と事故
報告書。
確かに、水平方向に配置してあるキングエアー
機のエンジン計器は判別しにくい。
これに引き換え“現在の垂直に配置エンジン
計器は、チェックすれば短時間のうちに故障し
ているエンジンを判別できるのだが”と事故報
50
2010 NOV
告書は結んでいる。
Sターンしている最中に失速を。
ソカタ TBM₇₀₀:大破、1名死亡。
2008年7月15日午後、この単発ターボプロッ
プ機は合衆国ジョージア州にあるコッブ・カウ
ンティ-マッカラム空港のランウェイ09スレッ
シュホールドから3ノーティカル・マイル(6km)
ほど手前を高度960フィート AGL で飛行してい
たが、管制官から出発機があるので1度Sター
ンをするように、と指示される。
録画されていた ATC レーダーの映像記録に
は、この航空機が対地速度147ノットで左旋回
し、Sターンを開始する様子が残されていた。
高度960フィートを保ち、旋回を右に切り返し
た時点でこの航空機の対地速度は89ノットに減
少していることから見て、旋回中パイロットが
出力を増加させなかったことは明らかである。
この時“Sターンを終了し、ランウェイに向
かってかまわない”と管制官はパイロットに伝
える。
目撃者は、TBM 機はランウェイのセンター
ラインの延長線上で、急速に左に傾いていった、
と話している。
この後この航空機は失速し、ひっくり返った
姿勢になり、大きく機首を下げ、市立公園の深
い森の中へ消えた、とも話している。
“この航空機は数本の立ち木と衝突した後、地
上に落下していたが、前方に移動した痕跡が無
いことから、機首を大きく下げた姿勢のまま地
面に激突したと思われる。
墜落時に発生した火災により、機体及び周囲
の樹木等は焼失していた”と報告書。
周辺の人々に、けが人は出ていない。
66歳のこのプライベート・パイロットは、2006
年12月に更新した航空身体検査証を持ち、飛行
時間は975時間であった。
事 故 報 告 書 に よ る と、 こ の パ イ ロ ッ ト は
TBM700航空機で44時間飛行している。
“遺体の薬物検査を行ったところ、明らかに飲
用により飛行に障害のある、医師の処方する鎮
痛効果を持つトラマドール(Tramadol)が検出
された。
このパイロットの保有する有効な航空身体検
査証には、この薬品の飲用に関する記載は無い
……この薬物の飲用、及び健康状態がどのよう
に今回の事故と結びついたのか、については不
明である”と報告書は結んでいる。
ギア・システムは、 ノーマルそしてバックアッ
プ用ともに故障していた。
セスナ₄₄₁コンクェストⅡ:中破、負傷者無し。
2009年7月3日の夜、急患輸送業務(EMS)
を行っているこの航空機は、VMC に包まれた
夜間、合衆国ニューメキシコ州アルバカーキー
にあるダブル・イーグルⅡ空港(KAEG)を離
陸し、州内のソコロへ急病人を収容するため、
飛行した。
“目的地に向かって飛行している最中、飛行し
ようとしている経路上に積乱雲が急速に発達し
たため、パイロットは KAEG に戻ろうと決め
た”と NTSB の報告書。
パイロットがギア下げ操作をすると、何故か
サーキット・ブレーカーは飛び出してしまう。
サーキット・ブレーカーを冷やそうと1分ほ
ど待った後、パイロットはサーキット・ブレー
カーをリセットしようと押し込むが、再び飛び
出してしまう。
パイロットはチェックリスト通り、圧力で窒
にパイロットは両エンジンを停止させ、ランウェ
イ上に胴体着陸した。
機体は右に滑り、ランウェイの右端で停止し
た”と書いている。
441航空機を調査したところ、ランディング・
ギアのギア・セレクター・スイッチが故障して
いて、この故障がサーキット・ブレーカーを飛
び出させたこと、そして窒素ガス・ボンベの取
り付け状態が悪く、緊急脚下げシステム内に高
圧ガスを送り込む装置が作動しなかったことが
発見された。
ピストン航空機
吹き飛んだプロペラ、胴体に当たる。
ブリテン・ノーマン・トライランダー:
中破、3名軽傷。
2009年7月5日午後、この航空機は定期便と
して乗客10名を乗せ、ニュージーランドのグレ
イト・バリア・アイランドを離陸しオークラン
ドに向かおうとしている。
上昇し高度500フィートほどで何かが機体にぶ
つかる音が聞こえ、この直後、3発機のプロペ
ラ同調は乱れてしまう。
パイロットがエンジンとプロペラ回転数を調
整していると、彼の耳には大きな爆発音のよう
素ガスをシステム内に放出してギアを下げる、
緊急脚下げシステムを作動させる手順どおりに
操作するが、ギアは降りない。
“パイロットは機体を揺するように操縦し、ギ
な音と乗客の叫び声が。
“右後ろを振り向いたパイロットの目には、右
エンジン・プロペラがアッセンブリーごと無く
なり、しかも噴出したオイルがカウリング全体
アを下げようとしたが、降りない。KAEG で低
空を飛行し、仲間のパイロットに夜間暗視装置
に飛び散っている姿が飛び込んできた”とニュー
ジーランド運輸事故調査委員会(New Zealand
(NVG)でギアが下がっているか確認してもらっ
たが、依然として引き上げた状態のままであっ
た”と報告書。
この結果、パイロットはより長いランウェイ
Transport Accident Investigation Commission)の報告書。
“機体の胴体部分はかなり激しく破損し、乗客
用のドアは吹き飛び乗客数名の座席近くには大
きな穴が開いていた”とも書いている。
のあるアルバカーキー国際空港へ向かう決心を
する。
着陸するためフレアー操作を行っている最中
乗客のうち3名は破損したキャビン窓の破片
を浴び、擦過傷を負う。
2010 NOV
51
しかし“プロペラ・アッセンブリーのパーツ
は、ひとつも機内に飛び込んではいなかった”
いることを発見する。
“パイロットは水分がなくなるまで燃料を抜き
とも書いている。
パイロットは右エンジンを停止させ、先ほど
離陸した空港へと戻り、無事に着陸。
続けた”と NTSB の報告書。
離陸は異常なかったが、高度300フィート AGL
近くでエンジンは不調になってしまったという。
事故調査官は、2枚ブレードのプロペラ・アッ
センブリーを取り付けている、右エンジンのク
“パイロットは左に見える空き地に着陸しよう
したが高度が低すぎ、滑空距離も得られないと
判断し、そのまま真っ直ぐに滑空し、木の生い
ランクシャフト・フランジに疲労破壊によって
発生したと思われるクラックを発見した。
茂る前方の森へと機体を向けた”とも書いてい
る。
事故調査官は、エンジンに燃料を供給するラ
この航空機は1972年に製造され、18,289時間
飛行している。
エンジンはオーバーホール後2,230時間使用さ
れていて、ライカミング社の規定するオーバー
ホール時間を30時間ほど超過していた。
2004年に実施したエンジンの点検で、小さな
腐食がクランクシャフトのフランジに発見され
ている。
“発見時フランジは取り外され、腐食部分は修
正され、腐食を防止するため再塗装されている。
しかし、しばらく使用された後、腐食を除去
した部分の塗装ははがれ、また腐食し始めてし
まった”にもかかわらず、この後の点検でプロ
ペラ・ハブを取り外す必要は無い、と言う結論
に達したため、クランクシャフトに発生した腐
食は発見されずじまいとなってしまった。
イン内が水、水で変質したグリース、そして固
まりになったカタツムリで一杯になっている状
態を発見した。
報告書はこのクランクシャフトに関して“設
計が古く、フランジにクラックが発生しやすい
ため、点検に関する技術指示がかなり多く発行
されている”と注意している。
燃料に混入した水分及びカタツムリ、機
体を不時着させる。
セスナ U₂₀₆F:中破、1名軽傷。
2009年6月15日の朝、パイロットは小型単発
多用途航空機で合衆国メイン州アイルボロから
ロックランドへ貨物輸送を行おうと飛行前点検
を行っていたが、タンクから燃料を抜きサンプ
ル・チェックを行うと、燃料に水分が混入して
52
2010 NOV
したがって、燃料を抜き取った際、かなりの
量遺物を取り除いたものの、まだ多量の異物が
残っていたと推定される”と報告書は書いてい
る。
ヘリコプター
ベル₄₀₇:中破、死傷者無し。
2008年9月25日、オーストラリア西部のタル
ボット湾に停泊するクルーザーから観光に向か
おうと離陸したこのヘリコプターのエンジンは、
海面上30フィートほどの高度で大きな爆発音を
発し、出力も停止してしまう。
あまりに時間が少なすぎたため、407ヘリコプ
ターが海面に衝突する前に、緊急用フロートを
膨らませることが出来なかった。
“コクピットそしてキャビンには短時間のうち
に海水が流れ込み、機首を下げた姿勢になる前
に横倒しになる”とオーストラリア運輸安全委
員会(Australian Transport Safety Bureau)の
報告書。
報告書は負傷者について触れていないが、6
名の乗客のうち2名は機外に脱出できず、この
うち1名は意識不明の状態に陥ったという。
この脱出できなかった2名は、機体が水没す
る前にヘリコプターのパイロット及びクルーザー
の乗組員により助け出されている。
告書。
しかしロールス・ロイス社は、ケースに加わ
“調査の結果、エンジンのアウター・コンバッ
ション・ケースに火災の高温による破壊の痕跡
が発見され、原因はエンジン運転中に発生した
る応力を軽減するための開発を開始したという。
過度の繰返し応力によって発生したクラックに
よるもの”と報告書は書く。
ロールス・ロイス50-C47B の総使用時間は5,056
時間であった。
ヘリコプター運航会社によると、当初エンジ
ンに組み込まれていたコンバッション・チャン
バーは腐食により、2005年に交換されている。
この結果、運航会社には毎日飛行を終えた後、
エンジン・クリーニングをすること、コンプレッ
サー洗浄剤には腐食防止剤を添加することが義
務付けられた。
新しく組み込まれたコンバッション・ケース
のダイ・チェックが行われたのは、この事故の
発生する6ヶ月前で、クラックは発見されなかっ
た。
“エンジン製造会社では250シリーズ・エンジ
ンに関して、これまでこのシリーズのエンジン
は総計2,100万時間ほど運転されているが、コン
バッション・ケースの破損はわずか2件のみし
か発生していない、とリポートしている”と報
ローター・ブレード、送電線と衝突する。
ヒューズ₂₆₉B:大破、2名死亡。
2008年7月15日の朝、合衆国アーカンソー州
セールスビル近郊で、このパイロットと監視員
は送電線の巡視を行っていた。
飛行を始めて1時間半ほど後、ヘリコプター
は送電線に沿って平行に飛行していたものの、
彼らが巡視していた高圧送電線と直角に交差し
ている、100フィートほど高い位置にある送電線
にメイン・ローター・ブレードをぶつけてしま
う。
パイロットと同乗者は地面に墜落したときの
衝撃で死亡。
“同乗する巡視員には通常、地形及び障害物、
交差する送電線が示してある地図及び巡視した
結果を記入するノートを持たせている、と会社
は言う”と NTSB の報告書。
“墜落現場で、この地図とノートは発見されな
かった”とも書いている。
2010 NOV
53
GA:ジェネアビ情報(第50回)
小型飛行機の事故
奥貫 博
2002年9月号から始めたこのジェネアビ情報
は、今回で連載50回になります。安全で楽しい
小型機の運航に、少しでも役立つことがあれば、
と思うのですが、小型機による航空事故の発生
には問題の多い状況が続いています。
航空事故調査委員会の航空事故統計情報が公
表されるようになった1974年から2009年まで、
36年間の小型飛行機の事故件数は、減少傾向は
見られるものの、まだまだ事故件数の総数は多
く、最近の10年間では年間事故件数が平均6件
にも達している状況です。
この36年間に、実際に飛んでいる小型機プロ
ペラ飛行機の機数及び操縦者の増加傾向はあり
ませんから、機体あるいは操縦者あたりの事故
件数は、減少どころか、逆に増加の傾向といっ
た状況であろうかと思います。
その間、小型機の飛行を援助する FSC 等の無
線業務の充実、自家用操縦士の技量維持にかか
事故の要因別の現状
2009年の事故は、まだ調査中のものが多いの
で、2008年までの事故についてその原因を見ま
すと、以下のような状況です。
わる航空安全講習会の継続実施、各種気象情報
等の携帯端末等による入手容易化があり、GPS
全事故の原因別割合
も便利に利用できるようになりました。また最
近では、航空情報の電子化(CNS/ATM データ
ベース利用)による AIP の電子化も実現し、便
利になりました。航空事故情報の公開、ヒヤリ
即ち、操縦者に関わるもの(含気象判断等)
状態等の情報を収集する ASI - NET 等、様々
な改善も着実に行われてきました。
このように、小型機の安全に関わる様々な進
歩が見られるのですが、それにもかかわらず、
小型機の航空事故が減少しない現実を、私達は
どのように受け止めればよいのでしょうか。
54
2010 NOV
が事故原因の70%を占めている状況です。その
要因には様々なものがありますが、事故件数が
多い小型機の状況からは、改めてその現状を認
識して反省すると共に、内容を良く考え、何ら
かの手を打つことが必要と判断されます。
今回は、それらの操縦士に起因する事故の中
から、小型飛行機の、繰り返される傾向のある
事故について、その要因と防止策に目を向けて
みたいと思います。
事故件数の傾向と現状
多い状況ですから、小型飛行機は、機数の割に、
事故件数が多いと言うことになります。
先ずは事故件数の現状を、小型飛行機、ヘリ
コプター、グライダー、大型機の順に並べてみ
グライダーの事故件数は、この10年ほどは横
這いか若干増加の傾向にありますが、2005年に
は事故件数7件で死亡者6名の事態もあり、事
ました。横軸は暦年で、1974年から2009年まで
の36年間です。縦軸の事故件数は、比較のため
上限を30件とする同じ目盛にしてあります。
故防止策の検討が懸命に行われています。
大型機は組織を挙げての安全対策推進の成果
から、事故件数が低く維持されていたのですが、
グラフの折れ線は、各年の事故件数です、ま
た1本の曲線は、変化傾向の近似曲線です。
小型飛行機の事故件数の傾向は、36年間を通
最近の10年ほどは若干の増加傾向が見られ、や
や要注意の状況と判断されます。
これらの結果から見ましても、小型飛行機の
じて件数の減少は見られるものの、最近の10年
間では、減少傾向が従来ほどではなく、また、
ヘリコプター、グライダー、大型飛行機に比べ
て最も大きな値を示しています。
ヘリコプターの事故は、小型飛行機よりは若
干少ないレベルにあります。ヘリコプターの登
録機は、小型飛行機よりも約200機(約30%)は
事故の発生防止については、一層の努力が必要
な状況といえると思います。
小型飛行機先進国に比べてその規模が貧弱な
日本では、その発展のためにも、小型飛行機の
事故の傾向については謙虚に受け止め、その対
策を考えなければなりません。
小型飛行機の航空事故件数
グライダーの航空事故件数
ヘリコプターの航空事故件数
大型飛行機の航空事故件数
2010 NOV
55
小型飛行機の事故の傾向
離着陸事故の内容
最近の航空機の事故は、前述のように、全体
では原因の70%が操縦者にある現状ですが、小
合計で総事故件数の53%にも及ぶ離着陸関係
と脚操作の事故の内容は、以下の表の状況です。
型飛行機に目を向けて見ますと、操縦者に起因
するものは87%にも達する状況です。
その内容には、様々なものがあります。最近
「脚下げ忘れ及び地上で誤って脚上げ」の件数が
最も多く、全体の29%を占めています。先ずは
この防止策を考える必要があります。
の10年間について、その原因を分析してみます
と、以下の通りです。
最近10年の事故の内容
離着陸関係操作の不良
脚下げ忘れ、地上で脚上げ
視程不良での山へ衝突、接水
燃料管理不良
その他操作不良
曲技飛行、スピン
写真撮影旋回失速
機材故障、整備不良等
計
件数
27
11
8
5
5
4
2
9
71
%
38
15
11
7
7
6
3
13
内容別の件数
件数
脚下げ忘れ、地上で誤って脚上げ 11
%
29
オフランウェイ
オーバーラン
ハードランディング
離着陸における失速
バウンド対処不良
ゴーアラウンド不良
グラウンドループ
ウエークタービュランス
その他
計
18
11
8
8
5
5
3
3
10
7
4
3
3
2
2
1
1
4
38
小型飛行機の事故の内容別割合(2000年以降)
小型飛行機の離着陸等の事故の内容(2000年以降)
小型飛行機の場合は、同じ原因であっても、
事故として扱われる場合と、そうではない場合
があります。例えば、飛行中に燃料がゼロになっ
てエンジン停止の場合、機体の大破、人員の死
傷等があれば航空事故、平坦地に無事に着陸で
きれば重大インシデントと言う訳です。
この表では、重大インシデントであっても事
次に多いのは、オフランウェイ、オーバーラ
ンです。内容は、ファーストソロから、ベテラ
ンのものまで多岐に渡っています。また接地位
置が伸びてしまったり、あるいは大きくバウン
ドしてしまったのに、その後の判断を躊躇し、
事故につながる例も多いようです。これらを合
わせ、ハードランディング、離着陸における失
故と同じ原因のものを含めてカウントしていま
すので、事故報告書の件数とは異なっています。
速、バウンド対処不良、ゴーアラウンド不良等
は、いずれも操縦者の判断の遅れや迷いが大き
最も多いのが離着陸関係の操作又は判断不良
によるもので、これが38%に達しています。次
の脚操作不良は15%ですが、これも離着陸操作
不良に含めますと、53%に達します。事故の半
く影響しているようです。
離着陸は、上空での航法等とは異なり、一瞬
の判断の不良、操作の迷い等が事故に直結して
しまいます。また速度管理、フラップ、脚の操
分以上が離着陸関連という訳です。
離着陸関連の事故は、飛行場の利用者にかけ
作、プロップ、ミクスチャの操作等、実施すべ
きことが多いのに、航空交通管制、他の航空機
る迷惑も大きい訳ですから、これは何とかしな
くてはなりません。
の位置関係、更に横風、後方乱気流等の判断等、
ワークロードが高い状況になります。この点に
注目した対策が必要になります。
56
2010 NOV
視程不良等での山への衝突等
燃料管理不良
離着陸関係の次に多いのが、低視程等での、
山への衝突等です。最近10年では8件の発生が
燃料管理不良には、燃料枯渇と、燃料セレク
タ操作不適切があり、計5件発生しています。
あり、その内容は以下の状況です。
いずれもエンジンが停止し、不時着に至ってい
ます。
内容別の件数
雲中で山に衝突(航法)
件数
3
%
38
雲中で島に衝突(航法)
夜間飛行で山に衝突(航法)
雲中で山に衝突(測量)
2
1
1
25
13
13
視程障害で高度を下げて接水
計
1
8
13
内容別の件数
飛行中の燃料不足
燃料セレクタ操作不適切
燃料の量を確認せずに出発
計
件数
2
%
40
2
1
5
40
20
燃料管理不良による不時着の状況(2000年以降)
視程不良での山への衝突等の状況(2000年以降)
これらの8件は、いずれも有視界飛行方式の
飛行で発生しています。有視界飛行では、雲と
の距離を保って飛行するのが基本中の基本であ
るのに、回避することなく雲に入り、その結果、
山または島等に衝突というものです。
特徴的なこととしては、この中の4件につい
て、GPS への不適切な依存が指摘されていま
す。また、視覚情報が失われた状態での空間式
失調の調査結果もあります。
最近では、計器証明を取得する自家用操縦士
が増えていることもあり、計器を参照して飛行
を維持し、悪天域から脱出することの重要性を
指摘されることも多いのですが、不慣れな場所
での悪天候のプレッシャーは大変なものですか
ら、生半可な技量では通用しません。
それ以前に、経路上の気象の予想能力と、上
空での気象判断能力が重要であることは言うま
でもありません。
これらの事故のうち、視程障害で接水したも
のは、空港から1NM の位置で発生しています。
もう少し、もう少しと進み、これ以上は無理と、
引き返すことにして旋回中に翼端が接水という
ものです。有視界飛行なのに、そこまで無理を
したことが原因であることは言うまでもありま
せん。
飛行中の燃料不足は、燃料残量がゼロになっ
て、飛行継続が不可となったものです。その背
景には、以下のような要因が存在しています。
・無理のある飛行計画(注文)
・燃料消費が多くなる要因の存在
・飛行中の燃料残量不確認
・○時間は飛べるはずとの思い込み
燃料消費が多くなる要因とは、いつもより急
いだハイパワーでの飛行、あるいは機体の重量
等が指摘されています。
「燃料の量を確認せずに出発」の1件は、飛行
前点検で燃料の量を確認せず、また離陸前の燃
料残量確認もしなかったため、離陸後わずか18
分で燃料がゼロになり、不時着と言うものです。
燃料セレクタの操作を忘れ、燃料が残ってい
るのに不時着した例も、2件発生しています。
この2件は、いずれも、十分な量の燃料が残っ
ているタンクがあるのに、そのタンクをセレク
トすることなく、使用中のタンクの燃料残量が
ゼロになって、エンジンが停止というものです。
また、エンジンが停止した時点で、直ちに燃
料が十分に残っているタンクに切り替えれば、
飛行の継続は可能であったのに、その操作が行
われなかったため、不時着に至ったというもの
です。
飛行中の燃料残量の確認と、適切なセレクタ
の切り替え操作が行われていれば、これら事故
2010 NOV
57
空で考えている余裕も、チェックリストを取り
出して読み上げる時間もありません。機体をしっ
かりと飛ばし、不時着場の見当をつけながら、
同時進行での不具合対処が出来なければなりま
せん。
一気に増大するワークロードに対処するには、
日頃の準備がものを言います。Pilot Operating
Handbook あるいは、飛行規程の緊急対処の項
をどれだけ理解し、とっさの場合に利用できる
かが鍵になります。
その他の山を超えられずに失速して墜落、あ
るいは地上で動き出して衝突、の2件も、その
ような危険性が存在することへの、日頃の危機
意識の不足が要因となるものでしょう。
燃料セレクターの例
は防げたとされています。
その他の操作不良
曲技飛行、スピン
その他の操作不良は、以下の5件です。それ
ぞれ、様々な要因のようですが、共通の要因と
しては、思い込み等が考えられるようです。
内容別の件数
エンジン異常対処操作不良
山を超えられず失速して墜落
地上運転で動き出して衝突
計
件数
3
1
1
5
%
60
20
20
曲技飛行、スピンの事故は、以下の4件です。
それぞれ、墜落に至った真の原因は不明です。
内容別の件数
地面又は物件に衝突
スピンから回復できず墜落
計
件数
2
2
4
%
50
50
曲技飛行、スピン事故の状況(2000年以降)
その他の操作不良の状況(2000年以降)
地面への衝突は、曲技飛行展示シーズンに備
エンジン異常対処操作不良は、いずれも、エ
ンジンに何らかの異常な状況が発生した時に、
飛行規程等に定められた適切な措置がとれず、
不時着に至ったものです。
単発機で、高度の余裕が無い時のエンジン異
常対処は、待った無しの実行が求められます。
日頃の備えが無ければ、対処はできません。
前述の、燃料セレクター操作不良の件などは、
エンジンがブスッときた時点で、市販チェック
リストの“Establish Glide, Switch Tank”の手
順が実行されていれば、それで解決なのですが、
それすら実行できないことがあるのが現実なの
です。
単発機の、突然のエンジントラブルには、上
58
2010 NOV
えた練習中のものです。物件への接触は、エア
ショーでの飛行コース逸脱により発生したもの
です。2件とも、単独での飛行です。
スピン事故の2件は、教官同乗のスピン訓練
において、回復できずに墜落に至ったものです。
1件は教育課程でのスピン体験中のもの、もう
1件は、曲技飛行としての背面スピンの練習中
のものでした。これらの4件は、いずれも、十
分な経歴を有する操縦者による事故です。
写真撮影旋回失速
写真撮影での失速は、2件とも事業用操縦士
の業務中の事故です。低高度の失速事故ですの
で、計6名全員死亡の結果となっています。
内容別の件数
旋回撮影中に失速して墜落
旋回撮影後の上昇で失速墜落
計
件数
1
%
50
1
2
50
しまった時への対処手順等の準備が必要です。
電力で脚下げする機体では、手動脚下げも必要
になることがあります。これが実施できなくて、
胴体着陸に至ってしまった事例もありますので、
注意が必要です。
脚折損、フラップ腐食脱落、燃料に異物(燃
写真撮影旋回失速の状況(2000年以降)
事故の要因としては、斜め写真撮影に有利な
低高度、低速度での飛行の要請を断り切れず、
無理な飛行に至ったとの指摘があり、作業実施
基準の遵守が必要とされています。
機材不良、整備不良
料管理不良)、排気管脱落は、整備によって防止
出来たとされるものもあり、パイロットとして
も、個々の機体の使用状況、環境等に応じた整
備の状況について、一層の注意が必要と判断さ
れます。
小型飛行機の事故の防止
機材不良、整備不良による事故の要因は様々
ですが、大別してみますと、以下のようになり
ます。
内容別の件数
エンジン本体故障
発電系統故障
脚折損
フラップ腐食脱落
燃料に異物(燃料管理不良)
排気管脱落
計
ありますから、安全に着陸させるためには、電
気負荷の管理と、バッテリーもアウトになって
件数
2
2
2
1
1
1
9
%
22
22
22
11
11
11
機材不良、整備不良の状況(2000年以降)
機材不良、整備不良は、困ったものですが、
操縦者としても、冷静な対処により被害を最小
限にする努力が必要です。
エンジン本体の故障は、飛行の継続が不可能
になる深刻なものですが、上空ではその原因と
再始動の可否が特定できませんので、不時着に
向けての進入と、再始動への努力を並行して進
めることが必要です。単発機の操縦者は、常に
不時着に備えた技量の維持が必要なのです。
発電系統の故障には、速やかな状況の認識と
対処が必要です。バッテリーの容量には限りが
以上のように列記してみますと、最近10年間
の小型飛行機の事故の内、操縦者に起因するも
のが87%にも達する状況が再認識されます。小
型飛行機の健全な発展のためには、何としても、
これらの操縦者に起因する事故の減少を実現し
なければなりません。
事故の内容は、離着陸、燃料管理、航法、空
中操作関係のものから、曲技飛行まで、様々な
ものがあります。個々に見ていきますと、その
多くは Pilot Operating Handbook あるいは、飛
行規程に従っていれば回避できたか、あるいは、
ごく単純な事故の回避策があるにもかかわらず、
それに気がつかず、実行されていていない、又
は、事態の深刻さ、危険性が正しく認識されて
いない等の傾向が見られるようです。
言い換えれば「基本に従った運航」
「事態を正
しく認識して適切に対処」が実行できていれば、
事故件数は、直ちに1/2から1/3程度以下にまで
減らせそうな気がしてなりません。
その端的な例は、脚の下げ忘れ、燃料切替え
の操作不良、無理な旋回、無理な進入、VFR で
の雲中への突入であろうかと思います。
いずれも「適正な確認行為」、あるいは「それ
は危険」といった状況認識があれば、事故は避
けられたと思えるものばかりです。
2010 NOV
59
ダウンウインドにおいて、本来であれば着陸
前の点検、脚下げ操作等をしなければならない
段階を、いつもとは異なる状況への対応、ある
いは地上からの指示等、相当な注意力が必要な
事態への対処のために忙しく過ごし、滑走路が
正面に迫る段階まで行ってしまいますと、もう
意識は着陸操作に切り替わっていますから、そ
高性能単発機の運航には十分な訓練が必要
では、その背景にあるものは何でしょうか。
私としては、それを「人間の行為の信頼性」と
表現してみたいと思います。人間の行為の信頼
性は低く、誰でも実に単純なミスを犯します。
それは誰でもご存知のことと思います。背景に
は、疲れ、心配事、着陸後の予定等々もあるか
もしれません。しかしそれが死傷事故につなが
るのではたまりません。
事故を避けるには人間の弱さへの対策が必要
です。プロの操縦士のように、組織の定めによっ
て定期的に鍛えられる機会がない自家用操縦士
の場合は、特に注意が必要です。
脚下げ等の手順忘れと離着陸の事故
人間の行為の信頼性が低いことは、脚下げ忘
れ等の手順忘れで実証されているようなもので
す。困ったものですが、単に注意力に頼るとい
うことのみでは解決にはならず、別な確認方策
を設けない限り、この手順忘れから逃れること
はできないようです
の前段階の脚下げ操作には戻りません。
また、着陸する滑走路に集中している状況で
は、脚下げ指示ランプが緑でなくても、スロッ
トル警報が鳴ろうとも、意識がそこへ行ってい
ませんから、どうにもならないのです。
ではどうすればよいのでしょうか、一例とし
て言えば「声を出して点検する機会をもう一回
増やして習慣化する」のが有効でしょう。
ファイナルの最終段階にも、脚、プロップ、
ミクスチュア、キャブヒート等の点検項目を設
定し、声に出し、手で触って点検を実行するこ
との習慣化です。数秒で実施できます。
チェックリストを取り出して読み上げる余裕
はありませんから「ファイナルチェック」とし
て、声に出しての確認です。最近、もしも声を
出さないで飛んでいるとしたら、それは危険の
兆候と考えた方が身のためでしょう。
下の写真は、誤操作防止のため、計器盤の中
央上部に脚操作レバーを装備した例です。これ
により、脚下げグリーンライトの視認の確実化
を図るとともに、フラップレバーとの距離を離
すことによって、フラップ上げのつもりで脚上
げ、といった誤操作の防止を図っています。
特に小型機は、独りで飛ぶことが多く、また、
同じパイロット仲間同士の飛行であっても、共
同作業、あるいは役割分担といったことに慣れ
ていませんから、二人揃って手順忘れと言った
ことも良くあることです。普段は確実にできて
いることを忘れてしまうのには、理由がありま
す。人間の注意力には限りがありますから、手
順忘れは常に起こりうるとの前提で、その防止
策を考える必要があります。
60
2010 NOV
計器盤中央に装備された脚操作レバー
危機意識の欠如と様々な思い込み
有視界飛行なのに雲に入る、あるいは写真撮
影の旋回で失速等は、危機意識の欠落の代表例
です。いかに慣れても、危険領域からは、確実
に離れていなければなりません。
また危機意識の欠如から、様々な「思い込み」
による事故に至ることがあります。燃料の確認
などは基本中の基本であるのに、何も考えず、
エンジンが止まるまで気がつかないというので
は、どうにもなりません。
最近、自家用操縦士の平均年齢の増加が話題
になることがあります。かく言う私も自家用操
縦士歴40年で、事業用の操縦士であったら定年
の頃と思いますが、周りを見ても、昔からの仲
間がそのまま現在に、と言った状況が多く見ら
れます。年齢と慣れによる危機意識の欠如には
要注意との認識が必要でしょう。
おわりに
今回と同様な内容は、本誌ジェネアビ情報の
2006年3月号に掲載していますが、その後の事
故状況に、大きな変化は見られません。件数の
多い離着陸関連の事故と、脚下げ忘れの胴体着
陸等は、空港の利用者に迷惑をかけているわけ
ですから何とかしなければなりません。
「人間はミスをするもの」との前提に立ち、そ
コック」といって、エンジンが「バタッ」とき
たら、
「それ! バタコック」と、燃料コックを
切替える手順が叩き込まれていたそうです。こ
のような声を出してのチェックが有効であるこ
とは、言うまでもありません。
更に、異常又は緊急事態への、想定シナリオ
による対処訓練も必要でしょう。そのポイント
としては、以下の要素が必要と思います。
・悪い環境条件をいくつか組み合わせること。
・注意力がそらされる状況を含めること。
・判断に迷う、悩ましい状況を含めること。
対処訓練には、環境、機材、人間の要素から、
気象悪化、ロストポジション、機器の故障、燃
料欠乏、無線の故障、アイシング、照明の故障
等々、様々な組合せが考えられるでしょう。
そうして「現状認識(判断)と対処方法(行
動)」とを、自己の技量や、機内装備の活用、無
線による援助等を広く考えて、最良の答えを得
る訓練です。危機意識を高めるための訓練です
から、ある程度の厳しさは必要と思います。
時々、経験のある操縦士が二人乗っているの
に、二人とも同様にあせってしまい、事態が認
識できず、必要なことが出来なくて、事故に至っ
てしまうことがあります。
落ちついて対処すれば、問題は即解決できる
のに、それが実行できないのは、日頃のから、
そのような備えが無い事によるものです。
飛行における危険の要素をきちんと認識し、
自己の飛行の分析を習慣付け、確実な認識と行
動で、安全な空を心がけたいと思います。
の上で、事故の罠から逃れる方策を考えなけれ
ばなりません。自家用等の飛行は、独りで静か
に飛ぶ傾向になりがちですが、基本は、チェッ
ク項目の「声を出しての実行」の習慣化です。
先ずは既に述べましたように、脚下げ操作忘
れ事故ゼロを目指す「ファイナルチェック」の
実行を提唱したいと思います。本来のダウンウ
インドでの点検に加え、ファイナルで声を出し
て再確認を、というものです。また、地上での
脚上げ誤操作の問題も、声に出しての実行で、
操作の確実化が図れると思います。
燃料セレクターの件は、戦前の頃から「バタ
着陸して停まるまで気を緩めてはならない
2010 NOV
61
連 載
I ♥ Aviation 第2弾
―Hello from Guam―
第2回 “Manila! Manila! Manila!”
TrendVectorAviationInternational
青木 美和
その日は急に訪れた。朝8時、“Miwa! Are
you ready for the air ambulance flight to
うも思っていた。
Manila?”とキャプテン Cooper(私達はチャッ
クと呼んでいる)が私のオフィスに入ってきた。
“こ の 仕 事 は 複 雑 な 思 い に 駆 ら れ る。Air
Ambulance の仕事がそんなにたびたびあっても
喜べる事ではないんじゃないか? そんなに救
命患者がたくさんいてうれしくなるはずも無
い。”でも、飛行機を飛ばしたい一心で患者が出
る事を待ちどおしく思ってしまう私がいるのも
確かだった。
SimuFlite 社で Westwind の Type Rating(型
式限定)を取ってきてから1ヶ月ほどたった時
だった。Part121(米連邦航空法定期運送事業法
の規定)のラインパイロットと違い、Air Ambulance(救急航空搬送)のパイロットは毎日飛ぶ
わけではない事を、早い時期から思い知らされ
た。せっかく取ってきた Type Rating だ、早く
飛びたくてうずうずしているのだがなかなか出
番が来ない。私みたいに物忘れが早い人にとっ
ては、せっかくシミュレーターで学んだ事も飛
んで習熟しないと忘れてしまう。この1ヶ月は
一度サイパンからグアムに17分の Ferry フライ
トをしただけ、他に仕事は回ってこなかった。
しかし、そんな残念な気持ちとは裏腹に私はこ
初めて Westwind を見たときはあまりかっこいい飛行機
だとは思わなかったが、 今となっては愛着もありセニョー
ラ(スペイン語で奥様)と私は呼んで敬意を払っている。
62
2010 NOV
そんな思いをしている中で不意を打たれ、
チャックの問いについ大きな声で“YES!”と応
じながら、同時に椅子から立ち上がった。
(笑)
そんな滑稽な私の態度にやさしく微笑んで、
“Don’t worry. You will be just fine! Relax!”と
チャックはウインクで、リラックスをうながす。
その日は、急ぎのオペレーションフライトで
はなさそうだ。患者の様態が安定していないた
アメリカでは911は日本でいう119番。何て奇妙なテー
ル番号なんだと初めて見た時は苦笑した。
め、マニラまで運べるのかもまだわからないと
言う。それでも、万が一に備え私たちはフライ
ションが与えられていた。ビジネスジェットで
飛んでいた時にはお客と荷物を優先にしていた
トの準備を始めた。マネージメント側は、International Flight Plan と Catering(機内食)の準
備をし始め、整備士達はフライトがスムーズに
為、途中で給油ストップをする事もあった。グ
アムからマニラへのフライトでは Full Fuel で
行かなければならず、まずは Fuel の重さを先に
できるようにと最善の整備に取り掛かる。私達
パイロットも Crew Room で、まずは天気を調
べ Preflight 作業を始める。
打ち込んでから、その後に患者と付き添い、そ
して医者と看護士の体重をコンピューターに打
ち込む。その後、荷物がどれだけ積めるのかを
初めてのマニラ行き。私にとっては楽しみに
していたマニラ行きも、いざ行く事になるとや
見て重量オーバーにならないようにする。医療
器具がたくさん持ち込まれる為、今までのよう
に手荷物重量の状態を大雑把に見積もっていた
はり緊張と不安が心をよぎる。今回は時間に余
裕があるおかげで、チャックから Air Ambulance オペレーションとはどういうもので何を
したらいいのかを教えてもらいながらの Preflight 作業だ。途中、チャックが私に聞いてく
る、
“美和はアメリカで飛んでいたのだろう? カナダ、メキシコは飛んだ事があるって言って
たよな? ところで Oceanic Flight(洋上飛行)
は初めてなの?”
“ドキっ!”実は、この日が私
にとって初の Oceanic Flight となる。自分で出
来るだけ勉強し、周りの先輩にも色々教わりな
がら準備をしてきたつもりだが経験のないフラ
イトはやはり緊張する。特にチャートを使って
のマーキングや、フライトログへの記録のとり
方、そして何より HF の使い方!などは知らな
い、やったことの無い事だらけの初マニラ行き
だ。私は緊張していた。
時とは大分違いしっかりと計算する。これは侮
れない。その後 Runway Analysis をプリントし
終え、Flight Plan の Route と Fixes、そしてマ
ニラでの Approach をレビューする。この地域
の International フライトで気に留めておかなけ
ればならないのは、Fix での Reporting Procedure。それから、HF での ARINC との交信。
Guam Departure から San Francisco に Hand
over される時のやり方、マニラの管制官とのや
り取りは密かにレビューしてきた。その訳は、
他のアメリカ人のキャプテン達に色々と面倒な
点や苦労話を聞かされていて、少し構えておか
ねばいけないことも確かだった。あまりにも無
知で出来の悪い First Officer だと思われるのも
いやだったので、チャックに確認を取るかのよ
うに留意点を一つずつ聞くのだが、全てが“Don’t
Worry!”の返事だ。私はチャックの心配する
な!の言葉に安どして飛び立つ事にした。
天気を調べ、互いに気象条件は大丈夫そうだ
と確認を取り合う。その後、Weight and Balance
を照合する。私の乗務する Westwind は Air
初フライトがチャックと一緒に飛べて本当に
良かったと思う。なぜなら彼はコンチネンタル
Ambulance 以外にも Part 91(自家用航空規則)
でチャーター機として飛んでいる為、Weight
and Balance ではストレッチャーのついた Air
Ambulance 用のデータを使うようにと指示され
航空のリタイアキャプテンで、このマリアナ諸
島を20年近く自分の庭のように飛んでいる。
“計
器が無くたって、勘でもマニラからグアムまで
飛べるさ!”とジョークを交え笑いながら私の
ている。そしてグアムからマニラの経路では中
間に給油するところが無く、一発勝負となる。
マニラまで行き着くか、途中から帰ってくるか
緊張感を和らげてくれた。
の2つの選択しかない事を知り、これもまた、
初めての経験であると実感した。アメリカ本土
で飛んでいた私にはいつも途中で給油するオプ
から9時間経過していた。夕方6時に離陸する
事になった。初っ端からの夜間飛行! 大丈夫
かな?と思っていると、先輩は“Get used to it!
今朝、チャックが私のオフィスに入ってきて
2010 NOV
63
Most of the air ambulance flight will be at
night!”(ほとんどの患者輸送のフライトは夜間
看護師も私も
チャックは急
になるのが今にわかるさ)と言う。朝から緊張
しているせいか、夜6時からの夜間飛行でマニ
ラに着くのが夜10時と聞いただけで行く前から
に何を言って
いるのだろ
う?とチャッ
少し疲れ気味! この世界の事情をあまり知ら
ずに入ってきた私は、初っ端からいかに大変な
仕事かを事前の Preflight の時点で感じ取ってい
クを見る。す
かさずチャッ
クは、
“ほら見
た。
てみろ! 背
丈の小さな美
和はこの小さ
患者が救急車で格納庫に運ばれてきた。フィ
リピン人の患者さんで、マニラで手術を受ける
らしい。奥さんが付き添っていた。とても体格
の良い患者が救急車から下ろされると、チャッ
クは私に“見ているように!”と、患者が乗っ
た重そうなストレッチャーを救急隊と一緒に
なって Westwind のドアからキャビンに滑らせ
ながら運びこむ。すごい力と Coordination が必
要だ。キャプテンとしての経験がさせるのだろ
う、掛け声を掛けながらチャックは的確な指示
をみんなに送っていた。
“Miwa! Come over here... Let me show
you...”とチャック。人ごとの様に感心しながら
見ている私は現実に引き戻される。そして“次
回からは君がこうやってやるんだぞ!”とキャ
ビンに乗せられた患者の身体を看護士と協力し
て固定する作業を身振り手振り教えてくれた。
とても狭い入り口のドアからキャビンに固定さ
れた Med Bed(医療用ベッド)に慎重に患者を
な Westwind
のキャビンの パイロットもナースや救急隊と共に
中で作業をす 迅速なオペレーションに参加する。特
るのにもって にキャプテン Cooper はチームの
リーダーとして的確なな指示で、ミ
こいだ!”美
スの無いオペレーションを試みる。
和! これ以
上食べ過ぎて成長するなよ!”と、ジョークで
その場の雰囲気を和らげてくれる。どっと笑い
がこぼれ、私はからかわれているにも拘らず、
少しでもお役に立てることが見つかってうれし
い気持ちになった。そしてそれは、これから待
ち受ける未知の世界、まったく私にとって初め
ての体験“Air Ambulance”のパイロットとし
てかんばる覚悟を決めた瞬間でもあった!
いよいよ初フライト! ランプコントロール
にライフガードのコールサインでコンタクトす
る。いつもより声が少し緊張しているのが自分
でもわかる。タワーにコンタクトした時は、い
運び入れる。四苦八苦しながらひとりの看護師
は片手に点滴を持ち、チャックともう一人の看
つもトレンドベクター社のセスナ172を飛ばして
いる CFI の私の声で“ライフガード911GU”と
護師は半腰の辛そうな姿勢で狭いキャビンの中
の作業をする。そして患者の身体を壁にぶつけ
ないように少しずつ少しずつ入れていく。
“そっ
ちは大丈夫か? こっちはオッケー! もう少
呼びこむ。これにはタワーも戸惑い、
“Say your
call sign again!”と聞き返す。心の中で、やっぱ
り! 、、と苦笑い。今度はゆっくりと落ち着い
て、“This is LIFE GUARD 911 GU, Ready for
し高さをあげないと飛行機のドアから入らない
ぞ!”などと大きな声の飛びかう作業だ。相当
重そうだ! これは体力勝負だな!と私。すご
departure!”
い光景を目の前にして少し弱気になっている私
にチャック言う。
“みんな見てみろ! 美和の背
丈を! 美和はこのオペレーションに最適だ!”
ようだった。私の初めてのジェットは Cessna 社
の Citation Encore。姿は似ていないものの、サ
イズ的には同じだ。久々の Air Speed コールア
64
2010 NOV
なんだか、はじめてジェット機に乗った時の
ウトとジェットエンジンのスプール(加速)す
る音を聞きながら緊張感の伴う離陸。
返す。そこで私は彼からも忠告してくれなかっ
た 苦 労 の 始 ま り を 知 っ た。Westwind に は
“Life Guard 911GU, contact Departure, Good
flight!”とタワーが Checklist 実施中の私に指示
SELCAL が付いていない。だからこれから3時
間 HF をモニターし続けなければならない。こ
の雑音は3時間続く。私は SELCAL の付いた
する。すぐさま、
“Contact Departure, Good
night!”と返し私の初マニラ行きのフライトは始
まった。
JAL や ANA の交信を聞くたびに羨ましくて仕
方がなかった。信じられなーい! こんな雑音
を聞きながら3時間のフライトなんて集中でき
6ヶ月以上ジェット機から遠ざかっていたの
で、スピード感についていけるか心配だったが、
たものではない。ジージーがーがーザーザーと
今までに無い苦しみだ。少しでも、雑音を和ら
げてくれる Bose のヘッドセットがあって本当
Horizon Airline でしっかりしたトレーニングを
受けて CRJ700を飛ばしていた経験が、久しぶ
りでも体がしっかり覚えていた。こつこつと
Flow(機上作業)と Checklist を終えて気付け
ばもう最初の Fix へと近づいていた。チャック
が一息ついた私に色々な事を教えてくれる。
に良かったと思った。
まずは、FMS に Fix を打ち込み、Flight Plan
と見比べ確認を取る。そしてその Flight Plan に
チェックマークや○、×などを描きながら、通
過した所やこれから通過する所の ETA と Fuel
残量を確認する。そしてある KITSS(fix)に到
達すると、
“San Francisco ARINC に Position
Report のコンタクトするんだ”とお手本を見せ
てくれた。そして、VHF から HF に切り替え
る。
“ざーざざあーざーざーざーざー”何、この
雑音! スケルチがうまく調節できないのかと
チャックの顔を見る。
何でも無いかのように普通の顔をしている
マ ニ ラ に 近 づ い て き た。 チ ャ ッ ク は 私 に
Manila Control にコンタクトするように指示す
る。私は、
“Manila Manila, November 911 GU”
と呼びこむ。するとすかさずチャックからお叱
りが。
“No-No-No-No! Miwa! Say We are LIFE
GUARD!”私達はライフガードなんだ、としっ
かり伝えろ!と叱られた。すぐさま言い直して
コンタクトするが、Manila Control の返事は
November 911GU の一点張り。なんだか嫌な予
感。時刻はすでにグアム時間の10時近く。クルー
も少し疲れ気味なのがわかる。チャックもあく
びをしながら少し短気になっている。そんな中、
Manila Control から Holding のインストラクショ
ンが来た。まだ、Air Ambulance パイロットと
して自覚の乏しい私は Holding インストラクショ
ンをコピーし始めた。すると、チャックは大声
チャック。冷静だ。私は耳を塞ぎたい思いでか
すかに聞こえてくる ATC に耳を傾けるが、雑
でそして乱暴に ATC を怒鳴りつける。
“Manila
Manila, life Guard 911 GU! Do you understand
音がひどくて聞きとれない。チャックが、Push
Talk のスイッチを押し ATC と交信し始めた。
“Sanfrancisco, Sanfrancisco, Life Guard 911
GU, Position!”私はなぜチャックがこのひどい
we are LIFEGUARD!?”俺達はライフガードな
んだぞ! Holding なんて出来るわけがない。
こっちは生きるか死ぬかの患者を乗せているん
だ! 一刻を争って運んできているのに Holding
雑音ので中交信するのかまだわかっていなかっ
た。相手から、返答が来て、チャックはやっと
安心したのか、コーヒーを飲み始めた。
“チャッ
とはどういうことか?と。マニラからの応答は
無い。チャックが急に大声で怒り出すのでびっ
くりしたが、私は自分の立場をこの日初めて学
クこの雑音どうにかできる?”私は聞いた。
“あーこれか! 仕方ないんだ! SELCAL が
付いてないからね!”
“仕方ないって?”と聞き
んだ!
そうだ! 私は空の救急車のパイロット! 確かに安全にしかも早く患者をマニラに届けな
2010 NOV
65
いと。その時改めてコックピットから後ろを振
り返り、自分の運んでいるお客様は Airline み
たいな一般客ではなく、病人だと言う事を再認
識したのだ。自分を叱りながらチャックの ATC
に耳を傾けた。
Manila からの返事はまだ無い。疲れて短気に
な っ て い る キ ャ プ テ ン は“Manila Manila
Manilas ■■マニラマニラマニラーーーー”と、
返事がくるまで言い続ける。私は苦笑しながら
も私が Life Guard と言わなかった為に起きた出
来事だけに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
やがて Manila から“Life Guard 911 GU. Now
you are number three for ILS approach”と返
事が来た。キャプテンにとっては自分達が3番
目と言う事に対しても不服の様であったが、他
の Traffic の位置を聞き、自分の3番目は理にか
なっている、と自分に言い聞かすかのように私
に説明してくれた。今まで、ATC の Clearance
に文句をつけた事のなかった私は、キャプテン
の積極的な ATC ワークに学ぶべき姿勢を感じ、
勉強になったフライトであった。
ほとんどのフライトは真夜中のオペレーションになり、
マニラからグアムに帰る時は朝日を見ながらのフライト
が多かった。疲れている中、太陽が水平線の上に出てく
るのを見ると疲れも癒された。
した。(笑)
今まで身を置いていた Airline やビジネス
ジェットの仕事に比べ、大きく異なる世界の Air
Ambulance! 想像以上に大変なこの世界へ飛び
込んでしまい、すっかり不安になった初日の私
のフライトでした。次回はフライトで精一杯の
私が少しずつ Air Ambulance のパイロットらし
くなってきた過程をお話しますね。お楽しみに!
この日のフライトは新たな挑戦ばかりで想像
以上に大変だった。私の初めての Air Ambulance の仕事はすっかり疲れてしまい、空港か
らホテルまでの道のりをいつもならおしゃべり
する私だが、珍しく無口のままのホテル入りで
キャプテン Cooper とマニラ上空からの緊急着陸を終
えてほっとしている時のスナップショット!
66
2010 NOV
患者を運び入れる前のキャビンの中。小さなキャビンに
ストレッチャ―が大半の面積を占めている為、ほとんど
の荷物は、後ろトイレエリアに乗せてしまう。途中トイ
レに行く事の苦労は並大抵ではない。
連 載
グアム ゼネアビ紀行 その2
ビジネス航空ジャーナリスト
③ セスナ体験操縦
トレンドベクターエビエーションインターナ
ショナル(以下 TVAI と記す)は、航空コンサ
ルティングや航空会社の運航乗務員訓練などを
手がける日本企業のグアム法人。グアム観光客
などを対象に、セスナ172P スカイホークの体験
操縦プログラムや操縦士免許取得訓練を提供し
ている。米国連邦航空法141条(操縦士指定養成
施設)認可の飛行学校でもある。
グアム島上空を飛びながら、上昇・旋回・降
下・着陸を体験する「標準コース」(飛行時間約
40分)
、子供を対象とした「キッズパイロット
コ ー ス」
(飛 行 時 間 約 25 分)
、簡易体験版の
「ショートコース」
(飛行時間約25分)、失速や急
旋回などパイロットの初級訓練を体験できる「体
験訓練コース」
(飛行時間約45分)などのプログ
ラムがある。
客は機長席に座り、実際にパイロットがおこ
なう操作の数々を、インストラクターの指導の
もと、可能な限り自分自身でおこなうことがで
きる。
インストラクターは全員、FAA 公認のパイ
ロット。青木パイロットも、本職は TVAI の操
縦教官で、CareJet には出向扱いになっている。
体験後は、公式の飛行記録として、自分の飛
行日誌(ログブック)ももらえる。
航空機への理解を深めるため、トライしてみ
た。選択コースは、もちろん「体験訓練」。
なるほど、これは病みつきにもなるわ■■が、
最初の感想だった。筆者はこれまで飛行機を、
「海外旅行にいくときの足」くらいにしか思って
いなかったが、操縦してみると、客席では知り
得なかった面白さがよく分かる。
石原 達也
離陸して高度を上げていくと、真っ青な空か
ら、白い雲が霧のように散り散りになって、高
速で降り注いでくる。客席の小さな窓と異なり、
その光景が視界いっぱいに展開される。窓ガラ
スに当たったときなど、音が鳴りそうなほどだ。
雲がかすめた箇所には、細かい水滴が一瞬で広
がる。地上で見上げているときとは、存在感が
全く異なる。
ホテル街はすぐに眼下に小さくなり、緑に覆
われたグアム島が一望できるようになる。大海
原の深い青色との対比が鮮やかだ。
操縦席からの眺め。筆舌に尽くしがたい爽快感!
周囲一面に繰り広げられるパノラマに興奮す
る一方で、自動車のステアリングとは異なる、
飛行機の操縦桿の扱いには苦戦した。
上昇・降下を制御する前後の動きは、ほんの
少しの力にも大きく反応するため、慎重になら
ざるを得ない。初めての高速道路教習を思い出
す。それに対し左右の舵取りは、パワーステア
リングしか知らない世代には、予想外の重さ。
力の入れ方を速やかに切り替えないと、すぐ
に飛行機はふらふらしてしまう。隣席からは青
2010 NOV
67
木教官の指示が飛ぶが、なかなか乗りこなせな
い。結局、最後まで振り回されっぱなしだった。
地面が半ば逆さまに見えてきたときには、度肝
を抜かれた。鉛直方向よりも左右方向に強いG
面白くないので、早くリベンジしたい。
がはたらくため、自分の体が地面に対して大き
く傾いていても感知できないらしい。三半規管
がどういう臓器か、理屈でなく理解できる貴重
体験訓練コース特有の、失速・急旋回・レイ
ジーエイト(低速や急旋回を組み合わせた8の
字飛行)は、インストラクターが実演してくれ
る。
失速は、わざと速度を危険域まで落とし、急
降下からの復帰操作をおこなう訓練。
「じゃ、行
きますよ」との教官の声につづいて、胃が飛び
上がるような浮遊感が全身を包む。次の瞬間に
は、今まで青空が広がっていたコックピットの
窓一面が、波頭きらめく大海原に占められ、そ
れが一気に目の前に迫ってくる。
そして一転、体がいきなり上から座席に押し
つけられたように感じると、再びコックピット
の窓に青空が戻っている。
とにかく怖いが、それだけに気持ちが良い。
「これを怖がっていては飛行機は操縦できないの
で、パイロット訓練生は最初に、これに完全に
慣れるまで、繰り返し失速を練習させられます」
(青木教官)とのこと。
急旋回は字面のままだが、自分の斜め頭上に、
な体験となった。
この2つを組み合わせたレイジーエイトは、
フィナーレとしては申し分ない。大空の広さを
たっぷりと堪能できる。
地上に帰還後、思った。失速も急旋回も、初
心者には肝っ玉が縮み上がるほどの離れ業に感
じられる。それが、パイロットの初級訓練で繰
り返しおこなわれるわけだ。あれに相当する動
きを自動車や自転車でやったら■■? 危険な
ことこの上ない。
これだけでも、飛行機は実に安全な乗り物で
あることが体感できた(もちろん、正規の訓練
をクリアした操縦士が、必要な整備を施された
機材で、必要な安全管理を徹底した上で飛ばす
ことが前提だが)。
④ 島国としてのグアム
グアムは総面積約549平方 km で、淡路島とほ
ぼ同規模。人口約18万人。
グアム経済を支えるアプラ商業港。近くに火力発電所もある
68
2010 NOV
リゾートホテルや商業施設が集まるタモン街
が経済の中心地となっており、ほかは村や町が
点在するのみ。物資のほとんどは、週に1回、
商業港アプラに寄港する貨物船からの輸入に頼っ
ている。そのため、寄港日前日にはスーパーな
どでも品切れが続出。
「新鮮な野菜を食べる機会
は本当に少ない」(青木氏)という。物価も高
く、ペットボトル入り緑茶(500ml)などは1
本300円近い。
タモン街を離れると公共交通機関もなく、村
同士、町同士を結ぶ路線バスもない。ただし道
路幅は広く、マイカーやレンタカー利用は盛ん。
典型的なクルマ社会だ。
島国、経済の一極集中、輸入依存、クルマ社
会■■何とも親近感を覚える光景だが、事実上
唯一の外界との接点となっているグアム国際空
港は24時間営業。空港規模こそ成田・羽田には
遠く及ばないものの、外貨両替カウンターも24
時間開いている。まだ便が残っているというの
に、夕方8時にさっさと店じまいしてしまう成
田の外貨両替カウンターとは大違い。観光立国
としての心意気が感じられる。
「小さな島国だから■■」航空が未発達である
ことの言い訳をするときには、やたら島国を強
調するが、どれだけの日本人が、その本当の意
味を理解しているのだろうか? ACI の格納庫
に並ぶビジネスジェットを思い出すたびに、考
えずにいられない。
経済競争力の低下、貧相な政治力(およびそ
れを野放しにしている市民の無力)、外交音痴
■■資源が逼迫する近い将来、日本も週に1便
の貨物船に、生活物資の大半を依存する時代が
くるかもしれない。そのとき、我々の島を訪れ
てくれる人間が、どの程度残っているだろうか?
文責:石原達也(ビジネス航空ジャーナリスト)
石原達也氏のプロフィール
1977年愛知県名古屋市生まれ。元中部経済新聞
記者。在職中にビジネス航空と出会いその重要性を
認識。欧米のビジネスジェット産業の取材を個人の
立場でも進めてきた。日本にビジネス航空を広める
情報発信活動に専念するため退職し、08年12月よ
り、フリーのジャーナリストとして活動を開始。中
部地区に軸足を置き、ビジネス航空を主眼として国内外の航空産業の取材記事を下記
のサイトにて発信中。
編集委員 柳井記
著者のサイト http://business-aviation.jimdo.com/
2010 NOV
69
奥貫 博
エアロバティックス関係では、この10月に第
1回全日本曲技飛行競技会が開催されました。
ル紹介がありました。このレースはワールド・
エアゲーム用に創設されたもので、興味深い競
将来的には FAI の国際大会等への、日本からの
代表を選考する場とすることも考えての開催で
すが、ブリーフィングの会場には43人もの愛好
技になることが期待されています。
エア・ナビゲーション・レースは、1グルー
プ4機の航空機がプログラムによって設定され
たコースを指定速度で飛行し、コースからの逸
者が集まりました。
米国からは経験豊富な審判員の来日があり、
ジャッジスクールの開催と共に、チーフジャッ
ジを勤められました。このような場で築き上げ
られた人の和は、将来の推進のための大きな力
となることでしょう。
脱、指定時刻からの誤差、及び、滑空着陸と通
常着陸の接地点の誤差がペナルティの対象にな
ります。
詳細につきましては、JAPA の FAI ジェネラ
ル・アビエーション担当に照会下さい。
◉ ロータークラフト(ヘリコプター)
◉ エアロバティックス(FAA-CIVA)
FAI の仕事は、競技会関係と記録の認証です
ので、今回はロータークラフトの記録関係を見
てみました。国内で一般的な R22は、カテゴリー
E-1b(離陸重量500-1000kg のレシプロエンジ
ン・ヘリコプター)ですが、そのカテゴリーの
記録は以下の状況です。
絶対高度:9076m(Cessna YH-41)
周回距離:1016.20km(Bell 47 G3)
航続距離:1176.79km(Bell 47 G3)
今年の CIVA(FAI エアロバティック委員会)
の総会は、ドイツ・デュッセルドルフの北30km
ほどのオーバーハウゼンで、11月6日(土)、7
日(日)の日程で開催されます。オーバーハウ
ゼンは、今年の FIFA ワールドカップで勝ち上
がったチームをすべて予想したタコのパウル君
がいた水族館があることで一躍有名になった町
です(関係ないですが……)。
総会の前には、各国のデリゲートで構成され
1000km 周回速度:118.05km/h
(Bell 47 G3)
500km 周回速度:119.07km/h(Bell 47 G3)
100km 周回速度:225.4km/h(RH44)
15/25km コース速度:226.96km/h(RH44)
るメーリング・リストにより、メールでの意見
交換が活発に行われます。今年大きな議論を呼
んだのは、チェコ共和国で行われたヨーロッパ
選手権(パワー・アンリミテッド)において、
3km コース速度:223.79km/h(RH44)
いずれも、ペイロード無しの最軽量状態での
非常に低レベルの選手が出場しており危険であっ
た、というものでした。この問題は、5日(金)
記録です。詳細につきましては、JAPA の FAI
ロータークラフト担当に照会下さい。
の非公式ミーティングで話合われることになっ
ています。このような問題が起こると、各国が
出場選手をどのように選んでいるかということ
に議論が及ぶことも予想されるので、日本にお
いても他の国と同じように国内競技会を開催し、
◉ GAC:ジェネラル・アビエーション(飛行機)
FAI のジェネラル・アビエーション部門か
ら、新しいエア・ナビゲーション・レースのルー
70
2010 NOV
そこでの勝者を選手として推薦するシステムを
早急に確立する必要があります。
開催予告
小型機操縦技術競技会
奥貫 博
国内ではまだ部分的な試行のみの FAI ジェネラルアビエーション競技ですが、その着陸競技に近
い内容の「小型機飛行技術競技会」が、11月に、九州の枕崎空港で開催されます。
単発機の操縦技術の中で、最も大切なもののひとつに着陸があります。
「自家用操縦士の飛行の安
全を確保するための基準」においても、離着陸については、一定の着陸経験を積み重ねるか、実技
訓練を行うことにより、自らの技量の維持に努めることが必要とされています。
また、単発機は、そのエンジンが故障してパワーを失ってしまったら、滑空で着陸するしかありませ
ん。これがきちんとできるか否かは生死を分けるほどの差があります。安全確実な不時着の技術は、乗
員乗客のみでなく、地上の人の死傷や財産等の損傷を避けるためにも必須のものです。従って、自分の
不時着技量を常に維持しておくことは、単発機の機長としての最も重要な責務であるといえるでしょう。
以上のような視点から、単発機の着陸技術に磨きをかけることを目的とした「小型機操縦技術競技会」
が、今年も九州の NPO 法人スーパーウィングスの主催によって実施されます。空の仲間が、機体持ちこ
み、または、現地での機体借用にて参加することが可能なものとしては、国内で唯一のものと思います。
この競技会では、通常着陸及び、エンジンアイドルでの滑空着陸の両方において、その着陸精度
と、安全確実な実行を競います。競技のポイントは、基本通りの実行が機内外から厳格にチェック
されることと、接地点の要求精度が厳しいことです。ペナルティ無しの区域は前後2 m 左右12m で
す(下図参照)。これは、競技としての意義もさる事ながら、本番の不時着を考えれば当然のことで
す。この競技において高得点を得るということは、そのまま、エンジン故障時の滑空着陸における
安全性が高いことの証明となるのです。
翌日には、FA200よるプライマリークラス・エアロバティックスの競技会が行われます。日頃の
練習と共に、競技を通じて反省と前進が得られるのは大変良いことと思います。競技は右下の図の
パターンで行う予定です。最低高度は1,500Ft です。技量の維持向上の練習等にご利用ください。
開催場所:枕崎飛行場(鹿児島県)
開催期日:平成22年11月27(土)AM 集合・準備 PM 着陸精度競技会 11月28日(日)AM 曲技飛行競技会
連 絡 先:NPO スーパーウィングス事務局 http://www.super-wings.com/
2010 NOV
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開催予告
第5回 航空気象シンポジウム
今年の航空気象シンポジウムは、飛行場周辺の気象について学んでいただくため、低層ウィンド
シアー、空港気象ドップラーレーダー・ライダー、庄内空港での乱気流観測などについて研究して
いきます。
【日 時】
平成22年11月29日(月) 午後1時から午後5時
【会 場】
東京国際空港第一旅客ターミナルビル ANA 講堂
主 催:社団法人 日本航空機操縦士協会 財団法人 航空交通管制協会 後 援:気象庁
72
2010 NOV
開催予告
㈶航空輸送技術研究センター
航空輸送における安全マネジメント・フォーラム
(安全文化を実践的に考える)
当財団では、航空安全の普及啓蒙活動の一環として、近年、安全マネジメントシステム(SMS)
をテーマに取り組んできております。
本年度はこの SMS の実施に欠くことのできない安全文化の発展と継続、報告する文化、公正な
文化に焦点をあて、国内外より講師をお招きして、フォーラムを開催します。
日 時:2011年1月28日(金) 10:30~17:15
会 場:日経ホール(東京都千代田区大手町1-3-7)
主 催:㈶航空輸送技術研究センター(ATEC)
後 援:国土交通省航空局(予定)
助 成:㈶空港環境整備協会
協 賛:㈳全日本航空事業連合会、㈳日本航空技術協会、㈳日本航空機操縦士協会
定 員:600名(事前登録制・参加無料)
*参加ご希望の方は ATEC ホームページ(http://www.atec.or.jp)よりお申込みください。
プログラム予定
開会の挨拶:㈶航空輸送技術研究センター
*同時通訳あり
理事長 村田 芳彦
講 演 1:Patrick Hudson 氏 オランダ・ライデン大学教授、デルフト工科大学教授
「安全文化の発展と継続について(仮題)」
― 昼 食 ―
講 演 2:Linda J. Connell 氏 NASA Ames Research Center ASRS 部長
「米国の自発的な航空安全報告システム(ASRS)(仮題)」
講 演 3:池田 良彦氏 東海大学法学部教授
「航空事故における【調査】と【捜査】の競合する問題
―原因究明を優先する社会をめざして―」
講 演 4:渡邊 良氏 国土交通省航空局監理部航空安全推進課 課長
「StateSafetyProgram と報告の文化について(仮題)」
閉 会
〈 問い合わせ先〉 財団法人 航空輸送技術研究センター(ATEC)
〒108-0073 東京都港区三田1-3-39
TEL:03-5476-5461 FAX:03-5476-8578
ATEC ホームページ:http://www.atec.or.jp
2010 NOV
73
開催報告
スカイ・レジャー・ジャパン 2010 in 福井
ジェネラルアビエーション委員会
スカイ・レジャー・ジャパン開催
今年で22回目を迎えるスカイ・レジャー・ジャ
パンが、2010年9月25、26日に福井県坂井市の
福井空港で開催されました。
今年は日本の航空100年にもあたり、各航空分
野からたくさんのイベント参加がありました。
そして来場いただいたお客様とともに空の祭
典を楽しみ、大盛況の開催となりました。
㈳日本航空機操縦士協会も構成団体として参
加し、多くの子供たち、航空ファンとともにイ
ベントを盛り上げました。
スカイ・レジャー・ジャパンの主な開催イベ
ントとしては、スーパーウイングス風船割り、
パラモーター編隊飛行、防災ヘリデモ飛行、ハ
ング・パラグライダー、ジャイロプレーン、マ
イクロライトプレーン、ラジコン飛行、クラッ
シック複葉機飛行、グライダー・モーターグラ
イ ダ ー 飛 行、 そ し て デ ィ ー プ ブ ル ー ス
READYFORFLIGHT!
74
2010 NOV
応援に駆けつけてくれたエアージャパンの CA さんもチ
ビッコたちに大人気!
EXTRA300による曲技飛行などが行われました。
そして JAPA ブースにおいては、パイロット
とキャビンアテンダントによる航空教室、ちびっ
こじゃんけん大会、ちびっこ模型飛行機工作教
室、ラジコンゲームコーナー、そして JAPA・
航空グッツ販売などが開催されました。
JAPA ブース開催ゲームイベント
スカイイベントを通じて
した。特にちびっこ模型飛行機工作教室は限ら
今年のスカイ・レジャー・ジャパンを通じて
印象に残った内容はスーパーウイングスによる
れた人数でしかできない特別感もありダントツ
の人気でした。
子供達は自分で模型飛行機を作った後、自分
風船割りと JAPA ブースでのちびっこ模型飛行
機工作教室でした。
スーパーウイングスによる風船割りは、普段
の好きな絵を描き好きなシールなどを貼って世
界に一つだけの自分の模型飛行機を作ってとて
も嬉しそうでした。
見ることが出来ないものを間近で見る事が出来
た為とても迫力を感じました。来場者の方はと
ても熱心に飛行機を目で追い、風船が割れた時
イベントを開催していない間も JAPA ブース
の前には、手作りで、ラジコン飛行機で遊べる
コーナーを用意していたため、常に JAPA ブー
に会場では一斉に拍手が起こりイベント中は会
場が一つになっていた印象を受けました。スー
パーウイングスとの記念写真も大盛況でした。
そして今年はブースを盛り上げようとたくさ
んのイベントを開催したところ多くの人が集ま
り、どのイベントも大人気のイベントとなりま
スの前には子供達や航空ファンで賑わっていま
した。
来場者の方は地元の子供たちや航空ファンな
ど、老若男女問わずたくさんの方が来場して下
さいました。反応としては、大人の方も子供と
一緒になり積極的にイベントへ参加していまし
た。
子供たちの中には将来パイロットになりたい
と言っていた子供たちもいました。このスカイ・
レジャー・ジャパンを通じて、年齢を問わず少
しでも航空業界へ興味を持ってもらうことがで
き、そして多くの子供たちに夢を与える事がで
きたと思います。
最後に、スカイ・レジャー・ジャパンを大い
に盛り上げてくださった、スタッフ、関係者、
そしてご来場いただいた多くのお客様に、この
場をおかりして厚く御礼を申し上げます。あり
がとうございました。
記念撮影開催
また空でお会いしましょう!
2010 NOV
75
開催報告
第1回全日本曲技飛行競技会
奥貫 博
10月9(土)、10(日)、11日(月)の3日間、
第1回全日本曲技飛行競技会が、ふくしまスカ
イパークを会場として開催されました。
この競技会は、曲技飛行パイロット及び曲技
用飛行機の増加を考慮し、曲技飛行競技の普及、
選手の技量向上と、安全確保の推進を図ること
を目指すものです。
この目的に沿って、初級のプライマリークラ
スとそのひとつ上のスポーツマンクラスの曲技
飛行競技を設定し、単なる競技のみではなく、
審判及び安全な曲技競技飛行のための講習を含
めての実施としました。
また、将来の曲技飛行日本代表選手を選考す
るため競技会のあり方、組織、運営等について
の意見交換等を実施し、曲技用飛行機の安全確
実な着陸技術を身に付けるための着陸競技会も
合せて実施しました。
この競技会は第1回全日本曲技飛行競技会と
しての実施ですから、その安全、確実かつ公正
な運営には多くの議論を要しました。
先ずは昨年の試行の関係者が中心となって実
行委員会以下の組織を作り、準備、調整等に当
たるとともに、必要な競技規則等の取りまとめ
を行いました。
また運航本部は、競技に係わる全ての人々に、
飛行場運航要領、空域、高度、滑走路、障害物、
地形、気象等の情報を提供し、競技の円滑な実
行を図るとともに、事故防止に必要な情報の周
知徹底を図りました。このようにして、競技会
実施に係わる運航の安全確保には、万全の体制
が敷かれました。
76
2010 NOV
実行体制
この競技会の主催は第1回全日本曲技飛行競
技会実行委員会、共催はスカイパーク新観光事
業実行委員会とし、大会名誉会長には福島市長
にご就任をいただきました。
実行委員会
委員長 奥貫 博
大会名誉会長
福島市長 瀬戸孝則
実行委員会 安全委員会
NPO 法人ふくしま飛行協会
理事長 斎藤喜章
以下運航本部構成委員長が兼務
実行委員会 運航本部
技能・安全
競技委員長
審判委員長
委員長
奥貫 博
鐘尾みや子
室屋義秀
内海昌浩(審判・技能)
高木雄一(IAC・審判)
三好恒紀(着陸競技) 青島信介(競技・広報)
後援:福島県県北地方振興局、福島市、NPO
法 人 ふ く し ま 飛 行 協 会、NPO 法 人
Super Wings、チーム・ディープブルー
ス、JNAC、WP Competition Aerobatic Team、 ㈳ 日 本 女 性 航 空 協 会、
㈳日本飛行連盟、㈲パスファインダー
事務局:㈲パスファインダー
オブザーバー:
・FAI Aerobatics 日本 Delegate
・FAI General Aviation 日本 Delegate
実行委員会の下には安全委員会及び運航本部
を置き、運航本部は、競技、審判、技能・安全
の3本柱での実行としました。
競技会は NPO 法人ふくしま飛行協会の斎藤
理事長以下の皆様の献身的なボランティア奉仕
を頂き、地域関連機関との調整や日本で初めて
の競技空域ボックスマーカーの設置から競技会
の運営までを支えていただきました。事務局の
㈲パスファインダーの室屋氏以下の皆様には、
航空局への曲技飛行競技に関わる調整、申請、
運営マニュアルの作成、表彰関係等、様々なお
骨折りをいただきました。
審判については、米国 IAC(International
Aerobatic Club)曲技飛行公認審判員の高木氏
に来日いただき、主審として審判員をまとめて
い た だ く と 共 に、 曲 技 飛 行 審 判 要 領 の 説 明
(ジャッジ・スクール)の講師として、曲技飛行
の審判内容を指導していただきました。この高
木氏の講習は、審判関係及び先進の米国の曲技
飛行競技全般の情報を含むものでしたので、非
常に参考になり、好評でした。
また世界の航空スポーツを統括する FAI(国
際航空連盟)のエアロバティックス日本デリゲー
トの植田氏、ジェネラルアビエーション日本デ
リゲートの高橋氏には、競技会の実施を観察し
ていただき、指導をいただきました。
このように、競技会の実施に際しては、しっ
かりした体制の元で、実行が図られました。
高木氏による審判員の指導
本部委員の役割分担等
競技会の準備及び実行に際しては、競技委員
長が2010年の曲技飛行競技規定科目、着陸競技
実施要領、大会規則、運航規定、実行組織、曲
技飛行競技参加選手の経験技量等確認様式等の
起案を担当し、運航本部各委員長の意見等の反
映の後、当日に望みました
審判委員長は、準備段階としての審判団の確
立、米国からの講師の調整、曲技飛行競技の採
点基準、採点シート等の準備のほか、曲技飛行
競技の実際の審判業務から結果集計までを実施
していただきました。
審判関係の委員の内海氏、高木氏は、米国 IAC
の、曲技飛行競技審査要領の部分を和訳され、
その内容を指導していただきました。
技能・安全委員長は、事務局長も兼ねていた
だき、運営マニュアルのとりまとめ、曲技飛行
競技参加選手の技量確認、曲技飛行競技セーフ
ティ・パイロットの要否判定、曲技飛行及び着
陸競技の実施スケジュール作成、曲技飛行競技
を安全確実に実施するための細部に関わる注意
事項等のブリーフィング、及び、当日の競技実
施可否の判断をしていただきました。
また審判判定に不服がある場合の陪審員の任
につきましては、経験のある適任者が存在しな
いことから、運航本部の3名の委員長の協議に
より対応することとして、実際に1件の判定を
選手及び関係者への曲技飛行審判要領の説明
行いました。
2010 NOV
77
準備及び調整事項
今回の曲技飛行競技会は、昨年の試行を経た
とは言え、初めての試みでしたので、曲技飛行
競技の規定課目は、先進の米国にならうことと
し、着陸競技は NPO 法人 Super Wings で実施
中のものを利用として、以下の順で準備を進め
㻞㻜㻜㻜㻲㼠
ました。
H21年
・11月:曲技飛行競技会の試行
・12月:開催に関する調整の開始
曲技飛行規定競技課目の調整
H22年
・1月:開催に関する調整
曲技飛行規定競技課目の設定
・2月:開催概要(案)の設定
・3月:開催案内⑴を PILOT 誌に掲載
・5月:開催案内⑵を PILOT 誌に掲載
競技飛行の要領解説を誌上公開
・7月:開催案内⑶を PILOT 誌に掲載
HP による申込案内を掲載
後援団体等の最終調整の実施
競技ボックスマーカー設置調整
・8月:予備エントリー締切り(8月末)
・9月:開催案内⑷を PILOT 誌に掲載
・9月:確定エントリー(9月15日)
競技ボックスマーカー設置完了
航空協会へのあいさつ
航空局への申請及びあいさつ
共催の福島市関係へのあいさつ
・10月:開催(10月9-11日)
曲技飛行競技に無くてはならないボックスマー
カーの設置については、現地山林の所有者との
調整等、時間を要する難しい問題がありました。
昨年の試行では2箇所のみのマーカーの設置と
せざるを得ない状況でしたが、今年は、調整の
結果、本来の4隅のマーカー設置が実現しまし
た。これは日本で始めて実現出来たことで、ふ
曲技飛行競技ボックスとマーカー
競技ブリーフィングと競技の実施
競技会には、曲技飛行競技計15名、着陸競技
9名のエントリーがあり、以下の内容のブリー
フィングを義務付けて実施しました。
・開催概要、運営組織
・開催エリア、飛行経路、曲技飛行許可空域
・曲技ボックス情報、障害物情報等
・競技課目(曲技飛行、着陸競技)
・競技機 離着陸・ホールディング経路
・競技会参加機、参加者の確認
・タイムスケジュール
・競技規則、運航規定
・曲技飛行審判要領
・曲技飛行競技会参加選手の確認事項
・気象説明
・飛行に際しての注意事項伝達
・競技飛行順序決定
競技会初日の9日(土)は朝から雲高に問題
があり、やがて雨が降り始めて飛行不可能な状
況でしたので、その時間を曲技飛行審判要領の
説明に充て、有意義な時間を過ごすことができ
ました。また、FAI の日本デリゲートからも、
くしまスカイパークの関係者の、大変な努力に
よるものです。また、同じく山林の中の空き地
を審判員席として用意し、大変な環境の中で審
この競技会の意義等の話をいただきました。
その後は競技飛行順序の抽選を行い、翌日の
競技に備えました。
翌10日(日)はブリーフィングの後、雲高の
回復を待ち、11時7分に最初の池江選手が離陸
判をしていただきました。
して、曲技飛行競技の開始となりました。
78
2010 NOV
午後は、再び天候偵察飛行の後、競技可能と
の報告を得て、13時12分に最初の機体が離陸し
ました。オーダーは昨日の点数の低い人からで
す。以降は順調に競技が進みましたが、FA200
は機材にトラブルとのことで、最初の選手のみ
の飛行となりました。
その結果、最後の機体の15時21分の着陸で全
競技飛行順序の抽選
各人の競技飛行の持ち時間は5分間です。離
陸から着陸までは15分と計画しましたが、次の
選手を空中待機させる方法で実施しましたので、
結果としては、14時31分に最後の選手が着陸し、
全15名の選手の競技を3時間24分で完了させる
ことが出来ました。1人平均14分弱の結果でし
た。
着陸競技は全9機の最初の機体の離陸が14時
41分、最後の機体の着陸が16時18分でした。1
機あたりの平均は、約11分でした。FA200が1
機のみでしたので、乗換えの時間があり、時間
を要しました。
その後曲技飛行競技を再開し、16時21分から
16時56分の間に3名の競技を実施した所で、そ
の日の競技は終了となりました。
最終日の11日(月)は、曲技飛行競技の実施
には、雲高に問題がある状況でしたので、着陸
競技を先行して実施することとしました。
この日の着陸競技は、3名が参加をキャンセ
ルし、計6名で実施されました。最初の機体の
8機の曲技飛行競技を終了させることが出来ま
した。8機で2時間9分、1機あたり約16分を
要しましたが、これは Extra200の乗換えに時間
を要したことによるものです。
これで、機材の都合で飛行をキャンセルした
人を除き、全員の2回の飛行が完了しましたの
で競技成立としました。計画では計3回の飛行
でしたが、予選と規定の、計2回の飛行の点数
の合計を以って、成績としました。
競技成績等
曲技飛行競技の初級のクラス1(プライマ
リー)は、Extra200で参加した谷川さんが80%
の好スコアで優勝。以下 FA200で参加の荒牧さ
んが2位、三好さんが3位でした。
FA200の荒牧さんは、初日の飛行で谷川さん
の Extra200に僅か0.2%の差まで迫る大健闘を見
せて、FA200でも十分に闘えることを示したの
ですが、他の2人と共に、機材の都合で2回目
の飛行が出来ず、残念な結果となってしまいま
した。
また、競技ルールの理解不足、あるいは不慣
れによる得点のロスも多く見られ、今後に課題
を残しました。
離陸は8時27分、最後の機体の着陸は9時40分
でした。6機で1時間13分、1機あたり約12分
の状況でした。
その後も雲高の回復を待ち、雲高の偵察飛行
の後11時20分に曲技飛行の最初の機体を離陸さ
せましたが、北西から流れてくる低い積雲が障
害となり、競技をキャンセルして着陸する事態
となりました。結局、午前の競技は無しとして、
午後からの開始としました。
クラス1曲技飛行競技に参加の FA200
2010 NOV
79
着陸競技優勝機の C172
クラス2曲技飛行競技優勝機のピッツ S2B
競技会の成果及び問題点
クラス2(スポーツマン)の競技は大変な激
戦模様でしたが、Pitts で参加のベテランの岩田
さんが2回目の飛行の得点を伸ばし、僅か0.4%
差の78.8%で逆転優勝を決めました。
2位は最年少の小幡さんでした。初日はトッ
プでしたが2日目の得点が伸びず、優勝には届
きませんでした。Extra200に乗るのは今回が最
初とのことでしたが、それを感じさせない元気
良い、将来が楽しみな飛行でした。
3位は昨年優勝の芦田さんでした。手堅くま
とめた73.4%の得点でしたが、僅かな乱れが減
点となって2位には届きませんでした。
以降、全員が高いレベルの得点でした。
特に地元から参加の青島さんは、2回目の飛
行は僅差で2位となるほどの実力があるのに、
初日の大きなミスが響いて、最下位の結果になっ
てしまいました。
曲技飛行競技の優勝には80%に近いスコアが
安全、確実、公正、を目指したこの第1回全
日本曲技飛行競技会でしたが、実行面における
様々な状況を人の和で解決し、無事に競技を終
了することが出来ました。
しかし、当日の気象、特に、北西風と共に発
生する積雲については、非常に神経を使う状況
でした。気象偵察の機体を飛ばせて実施可能と
の判断をしても、競技機が離陸した後に雲が発
生する状況もありました。
競技ボックスの直下の地上が1500FT、そこか
ら1500FT の間隔を確保した3000FT がボックス
の下限高度となるのですが、ボックスに発生す
る、あるいは流れてくる雲があることから、判
断が難しい面がありました。
規則では雲高5000FT と定めたものの、青空
を主体として積雲が散在する状況では判断が付
かず、結局、競技の必要高度を見極めた上で、
散在する積雲の雲底高度が4300Ft あれば競技可
必要になりますので、ミス無くまとめたものが
勝利することを、改めて認識させられる結果と
能との判断をして、確認飛行の後競技を実施し
ました。
なりました。
着陸競技は C172で参加した地元ふくしま飛行
協会の猪口さんが、見事に優勝を決めました。
当人は「地元の利」等と言って謙遜していまし
また、競技中に下限高度に接近した場合は、
高度回復のための1回の競技中断を公式に認め
ることで、安全の確保を図りました。
その他、ジャッジからは、競技エリアとジャッ
たが、安定した見事な飛行でした。
2位は、FA200で参加した熊本 Super Wings
ジの位置が近すぎるのでもう少し離すべきとの
意見もありました。また、曲技飛行の競技ボッ
の三好さん、3位は、同じく原田さんでした。
お二人とも、着陸競技優勝の常連なのですが、
ふくしまスカイパーク特有の、ショートファイ
ナルの風の読みは、地元の猪口さんには及ばな
クスが観客のラインから150m 程の位置に設定
されているため、競技ボックスからの観客側へ
の逸脱は問題との観察者の指摘があり、全員に
注意喚起をしました。
かったようです。
80
2010 NOV
おわりに
今回の第1回の競技会は成功裏に実施するこ
とができましたが、全日本曲技飛行競技会の究
極の目標は、この競技会を日本チームとして世
界選手権に参戦するための、選手選考の場とす
ることでしょう。
大活躍した JNAC の Extra200
その他調整事項等
今回の曲技飛行競技会は、競技飛行ボックス
のマーカーを設置しての実行でしたが、これは、
国内では始めて実現したものです。
曲技飛行競技用のボックスの設置は、飛行場
関係者を始めとして、まだまだ理解が得られな
い状況です。また1 Km 四方のエリアでの飛行
になりますので、地上への影響にも配慮が必要
となります。この日本では、曲技飛行の練習は、
河川、丘陵、海岸等の上空の十分な高度の場所
で行うことも必要でしょう。
競技会に不可欠な審判員の育成については、
今回、主審を務めていただきました米国在住の
高木氏からは「来年は知識と技量をさらに得て、
再びふくしまの地へ向かいたいと思います。」と
のありがたいメッセージをいただいていますが、
今回の高木氏の講習資料及び、WP Competition
Aerobatic Team の内海さん他の労作「曲技飛
行競技審査要領」をもとに、国内での審判員を
増やすことが急務であることは言うまでもあり
ません。
一方、底辺拡大の見地からは、より多くの人
が参加できる場とすることも必要です。その点
から、当面は、初級のプライマリークラスから、
上級までの数クラスを含めたものとしての実行
が必要と思います。
開催場所は、福島市のふくしまスカイパーク
を通じた地域振興の方針があり、唯一の曲技飛
行競技ボックスが存在する場所として、ふくし
まスカイパークが第一候補となるでしょう。何
人かが集まって、この地でトレーニングキャン
プを行うのも良いと思います。
今回の競技会は、難しい天候等、様々なこと
がありました。また、競技を、公平かつ安全で、
不満のないものとして実行することの難しさを
垣間見た気もしますが、その一方、全国からこ
れだけの人が集まり、力を合わせて、この競技
会を実行できましたことが何よりの成果であり、
収穫であったと思います。
競技会を支えていただきました福島市、ふく
しまスカイパークの皆様に感謝をしつつ、競技
選手、後援者、事務局、オブザーバー、スタッ
フの和を大切にしながら、次回以降のことを考
えて行けたらと思います。
曲技飛行競技の実行組織は、極めて重要な問
題です。日本の FAI 曲技飛行競技の統括団体が
中心となるのが本来の姿と認識し、これからも
調整を図って行きたいと思います。
先ずは、曲技飛行競技関係者のメーリングリ
ストを通じて、人の輪を作り、情報を交換しな
がら、曲技飛行と、以降の曲技飛行競技会のこ
とを考えて行きたいと思います。
入賞者の「地元発泡日本酒」ファイト
2010 NOV
81
第1回全日本曲技飛行競技会 曲技飛行競技の結果
実施日時:平成22年10月9日(土)~11日(月) 実施場所:ふくしまスカイパーク
審 判 員:高木(主審)鐘尾 内海 山崎 各務 梶 澤田 高野 大槻
結果集計:堀川(主務)佐川 尾越 スターター:赤間 加藤
実施状況:10月9日(土)は、午前中に審判ミーティング及び、全体ブリーフィングを実施。
午後は低雲高、低視程及び降雨のため競技は中止し、ジャッジスクールを実施。
10月10日(日)は、雲高の上昇を待ち、11時に開会を宣言、全選手の予選競技を実施。
その後の着陸競技の後、規定競技を3選手まで実施。
10月11日(月)は、雲高の上昇を待ち、13時に開会を宣言。No.4の選手から、規定競技
を実施したが、時間の関係から、この規定競技の完了を以って競技終了とした。
尚、FA200でエントリーした4名は、機材のトラブル等で規定競技をキャンセルした。
競技結果:
曲技飛行クラス1(予選・規定)
順位
1
2
3
4
5
6
7
氏 名
谷川敏郎
荒牧和弘
三好恒紀
山同輝和
原田 茂
高崎克也
狩家公一
予選
477.6
476.5
159.7
429.9
413.3
0.0
158.1
規定 合計
%
530.3 1007.9 80.0%
0.0 476.5 37.8%
275.5 435.2 34.5%
0.0 429.9 34.1%
0.0 413.3 32.8%
308.8 308.8 24.5%
0.0 158.1 12.5%
曲技飛行クラス2(予選・規定)
順位
1
2
3
4
5
6
7
8
氏名
岩田圭司
小幡重人
芦田 博
山田昌宏
佐藤洋一
渡辺睦生
池江俊博
青島信介
予選
1149.0
1170.0
1066.0
1030.0
1004.0
874.1
788.6
437.6
規定
1105.9
1071.3
1034.1
969.6
958.6
990.0
817.0
1093.3
合計
2254.9
2241.3
2100.1
1999.6
1962.6
1864.1
1605.6
1530.9
%
78.8%
78.4%
73.4%
69.9%
68.6%
65.2%
56.1%
53.5%
曲技飛行競技科目(曲技飛行クラス2の予選、規定、フリー競技は同一科目での実施とした)
曲技飛行クラス1(プライマリークラス)
曲技飛行クラス2(スポーツマンクラス)
競技は IAC(International Aerobatic Club)の
2010年の規定科目、及び、IAC のルールで実施
した。
Total K(Figure + Presentation)
スポーツマンクラス:143(137+6)
プライマリークラス: 63( 60+3)
82
2010 NOV
第1回全日本曲技飛行競技会 着陸競技の結果
実施日時
実施場所
滑走路
視程
QNH
10日 28.67inHg
11日 29.88inHg
H22.10.10-11
福島スカイパーク
32
10km 以上
風向
風速
横風条件
降水等
参加人数
10日 280-320°
11日 280-320°
10日 0- 5kt
11日 0-10kt
不該当
無し
9人
ペナルティ
順
位
氏 名
機 体
1
2
猪口 春生
原田 茂
C172
FA200
360度
滑空着陸
220
240
3
4
5
6
7
8
9
三好 恒紀
山同 輝和
高崎 克也
岩木由佳理
松浦 裕貴
佐藤 定好
荒牧 和弘
FA200
FA200
FA200
FA200
C172
C172
FA200
200
400
240
260
500
500
500
通常着陸
その他
合計
20
80
240
320
240
220
400
400
500
500
500
440
620
640
660
1000
1000
1000
特記事項
11日不参加
11日不参加
11日不参加
第1回全日本曲技飛行競技会 着陸競技
着陸競技は、パワーを使用したノーマル着陸と、エンジンアイドルの360度滑空着陸を実施。
接地点のペナルティは、FAI 方式で実施。また、
不正及び危険操作等防止のため、機内採点兼セー
フティ・パイロットの同乗を義務付けた。
2010 NOV
83
開催報告
◦ 航空安全セミナー開催報告
計器飛行証明を目指される方、取得後のリカレントを希望する方を対象に今回で4回目となるセ
ミナーを10月16日に開催いたしましたので報告いたします。
今回も事業用操縦士、自家用操縦士、航空隊など幅広い分野から12名の参加がありました。その
中には過去3回のセミナーに参加された方もいて、改めて「計器飛行証明」に関して関心が高いこ
とを知ることができました。
講師は過去3回セミナーを担当された小西正人会員にお願い致しました。小西正人会員は防衛省、
民間事業会社、定期航空で長年飛行され、セミナーの中ではその経験談なども混ぜながら講義され
ました。
今回は「チャートを徹底的に解説する!」と言うテーマのもと、AIP とチャートを使用しながら
のセミナーでした。まず AIP を使用し、計器飛行証明で知っておかなければならない用語やルール
を解説され、次に、それを踏まえてエンルートチャートやアプローチチャートの説明をされました。
チャートに関しては隅から隅まで細かい部分まで講義されました。講義中も質問が飛び交い、良い
雰囲気で講義が進みました。
次回は今年最後のセミナーとなりますが、11月20日、当協会会議室にて予定しております。
過去、参加された事の無い方はもちろん、訓練を始める前の訓練生や今まで熱心に参加されてい
る方も是非、次回の参加をお待ちしております。
以上
◦ 西日本支部だより
西日本支部
・神戸空港における胴体着陸事故で、神戸市と意見交換
8月23日、神戸空港で小型航空機による胴体着陸事故が発生しました。
国土交通省及び神戸市から操縦士協会に対し、小型航空機の運航の安全確保に関する文章が出さ
れました。
また神戸市から西日本支部に対し意見交換の要望があり、9月21日八尾空港において会合を持ち
ました。
会合では神戸市から文章の説明があり、また事故を防止する方策について意見を求められました。
操縦士協会と西日本支部では各種講習会・セミナーを通し安全運航に関する情報提供や注意喚起
を行っており、そのような教育が重要であること、管制の協力の必要性(管制官による無線や目視
によるギアダウンの確認)等について意見交換を行いました。
国土交通省及び神戸市からの文章、神戸市との意見交換の詳細については西日本支部ホームペー
ジ http://japawest.exblog.jp/ をご覧ください。
・訃報
9月26日、鹿児島県屋久島でヘリコプターによる事故が発生しました。
搭乗していた機長で西日本支部会員の谷川泰久さんと整備士の方がお亡くなりになりました。
谷川さんは以前西日本支部委員として西日本支部の活動にご尽力いただいていました。
ご生前のご厚情に感謝し、ご冥福をお祈りいたします。
84
2010 NOV
協会活動スケジュール
[活動報告]
-平成22年10月-
10月1日
航空局(東京・大阪)部外功労者表彰式
10月23日
航空気象委員会
典
ATS シンポジウム
10月3日
夢は叶う Yes, I can(航空教室)静岡
航空安全講習会(東京)(中部)
10月5日
外部講演(海上保安庁航空機安全対策委
10月24日
夢は叶う Yes, I can(航空教室)名古屋
員会)
10月25日
月次会計検査
10月8日
航空身体検査証明審査会
公益法人認定 WG
第259回理事会
ヘリコプター IFR 等飛行安全研究会
飛行場証明制度研修(航空機安全運航支
10月26日
ASI-NET 会議
援センター)講義:航空灯火と航空機運
10月27日
セーフティフォーラム2010(日本航空技
術協会)
航
10月9日
ATS 委員会
10月14日
CARATS 小型 WG
10月16日
航空安全セミナー
10月17日
調布空港まつり
10月20日
編集委員会
10月21日
GA 委員会
10月22日
運航技術委員会
10月28日
経理委員会
10月29日
フライトテスト委員会M分科会
三役運営会議
管制協会セミナー/管制懇親会
10月30日
ビジネス航空委員会(小型航空機 RVAV
10月31日
航空安全講習会(大阪)
講演)
流山市市民祭り(出張講座)
航空障害標識調整会議
[活動計画]
-平成22年11月-
11月20日
航空安全セミナー(GA)
CARATS 第3回小型航空機 WG
11月21日
広島西飛行場空港祭り
11月6日
GA 見学会(岩国基地)
11月22日
公益認定等認定委員会事務局個別相談
11月12日
第204回常務理事会
11月24日
航空局法人検査
ATS 委員会
11月25日
経理委員会
11月1日
編集委員会
11月2日
航空身体検査証明審査会
11月5日
11月13日
航空安全セミナー(北海道支部)
三役運営会議
航空安全講習会(沖縄)
学科試験対策講座
11月26日
航空大学校卒業式
11月14日
夢は叶う Yes, I can(航空教室)沖縄
11月27日
航空気象委員会
11月18日
機長養成講習会(大阪)
乗員養成検討委員会
11月19日
航空安全委員会
航空安全講習会(青森)
11月29日
航空気象シンポジウム
ヘリコプター IFR 等飛行安全研究会
2010 NOV
85
-平成22年12月-
12月4日
第16回スカイスポーツシンポジウム
12月17日
第205回常務理事会
航空安全講習会(東京)
12月18日
航空安全講習会(長野)
12月5日
夢は叶う Yes, I can(航空教室)福岡
12月19日
航空安全講習会(山口)
12月7日
航空身体検査証明審査会
12月20日
編集委員会
12月8日
第8回航空安全情報分析委員会
12月22日
経理委員会
12月9日
技量維持連絡会
三役運営会議
12月11日
ATS 委員会
運航技術委員会
航空安全講習会(岡山)
12月25日
航空気象委員会
12月14日
法務委員会
12月28日
仕事納め
12月16日
GA 委員会
1月22日
航空気象委員会
-平成23年1月-
1月4日
仕事始め、新年賀詞交歓会
1月5日
編集委員会
1月8日
ATS 委員会
1月23日
航空安全講習会(東京)
1月14日
第206回常務理事会
1月29日
沖縄支部総会・記念講演
1月15日
航空安全セミナー(気象)
1月30日
夢は叶う Yes, I can(航空教室)鹿児島
1月20日
機長養成講習会(東京または福岡)
航空安全講習会(大分)
事務局だより
PILOT・AIM-J 等確実にお届けするために、自宅・勤務地・mail box 等、変更された場合は速やかに
協会事務局までご連絡下さい。また郵便振替にて会費を納入いただいております会員の皆様には、便利な
口座自動引落による納入についてご案内致しますので、協会事務局までご連絡下さい。申込書をお送りさ
せていただきます。
~結婚祝金を給付しております~
正会員の方(60歳未満の方)が対象となりますが、結婚祝金を給付しております。
(給付額は20,000円)
給付申請には戸籍抄本1通(原本)、 振込口座の書類提出が必要となります。なお、 婚姻届の届出より
6ヶ月以内に申請いただくこととなっておりますので、 予めご了承願います。JAPA ホームページ
(http://www.japa.or.jp)会員限定ページより申請書をダウンロード出来ますので、是非ご利用下さい。
86
2010 NOV
平成22年度 航空功労者表彰
操縦士協会は、操縦士に関する表彰の推薦団体となっており、多年にわたり航空関係の業務で安全運航
に努められた方々を毎年推薦しております。今年度につきましては下記の方々が表彰されました。
(順不同・敬称略)
○国土交通大臣表彰:今年度受賞者は34名(航空機操縦士17名、
航空整備士14名、客室乗務員1名、運航管理者2名)が受賞さ
れました。表彰式典は9月21日「第58回空の日」に行われまし
た。また今回航空100年記念式典も同時に行われました。
(操縦士関係)
長江幸夫、野中邦敏、森田 猛、角城健次、三澤毅史、
青木秀夫、高原 博、若松伸一、藤田 整(以上 全日空)、
大和茂夫(エアージャパン)
、佐賀要二(エアーニッポン)
、
又吉松男(琉球エアコミュータ)
、渡辺 充、小井戸 弘(スターフライヤー)、
高井 学(オリエンタルエアブリッジ)、倉増和治(朝日航洋)、友枝正徳(朝日新聞社)
○航空局(東京・大阪)部外功労者表彰:表彰式典は10月1日に行われました。
・大阪航空局長表彰:見神嘉尊(川崎重工)
(東京航空局は表彰者なし)
○平成22年度航空関係者表彰:9月21日東京・航空会館にて行われました。
日本航空協会賞表彰及び FAI(国際航空連盟賞)伝達式
・FAI 賞(エアスポーツメダル)野村達夫
今回受賞された方々の中から、青木秀夫会員(大臣表彰)、野村達夫会員(FAI 賞)から受賞についての
喜びをいただきましたのでご紹介致します。
◆国土交通大臣表彰を受賞して~
青木 秀夫(全日本空輸)
今年度の航空功労者に選ばれ、栄誉ある国土交通大臣表彰を受章し、大変嬉しく
思います。選んで頂いたことは光栄で、今後も運航乗務員として、一日でも長く「乗
務」を続けて、
「空中職」のすばらしさを後輩の皆様に伝えていきたいと思います。
「男は黙って」と言わんばかりに、黙々と日々の乗務に従事して40年近くになり
ます。私は ANA に入社して、YS-11から B737、B767、B777の双発旅客機に終始
しました。飛行機のエンジンは2つですが、時代は双発機の長距離飛行を求めてい
て、B767では ETOPS(双発機による長距離運航)が始まり、東南アジアのバンコック、シンガポール、イ
ンドのムンバイへの飛行を経験しました。双発機の長距離飛行は飛行機の信頼性が高まり、運航は東南ア
ジアから北米路線へと拡大し、B777では日本-シカゴ、サンフランシスコ線に従事しました。
私の受章理由は長年の操縦士としての乗務に対してですが、最近まで乗務していた貨物航空会社での経
験を少し書かせ頂きます。
貨物航空会社では B767貨物機を使い、アンカレッジ経由でシカゴまで飛んで行きました。B767貨物機で
北太平洋を越えて、アンカレッジ国際空港に B767が到着した時は管制塔から質問が沢山来ました。コール
サイン、国籍、航空会社名、路線は何処から何処に行くのか? そして、Welcome to Anchorage. 大型機
の並ぶエプロンでは B767は誰もが小さいサイズと感じ、管制官も質問したのでしょう。
シカゴは世界最大の空港の一つで、6本の滑走路があり、到着経路を予想することはとても大変でした。
B767の着陸性能は全ての滑走路での着陸を満足しており、より多くの飛行機を効率よく離発着させる管制
2010 NOV
87
上の要求度が優先され、着陸する滑走路は毎回違っていました。更に、着陸後のタクシーは早口の指示、
滑走路を横断する毎にタワーに切り替えて滑走路横断の許可を必要として、複雑なので苦労しました。
この北米路線は週3便で運航を始め、日本を出発してアンカレッジ、シカゴを折り返す最大9日の乗務
パターンでした。各都市でインターバルは充分にありましたが、時差に加え乗務が昼夜行われ、質の良い
睡眠を取ることに一番気を配りました。
通常、外国人乗員との編成が行われ、クルー間のコミュニケーションは英語で、英会話の練習になりま
したが話題作りには苦労しました。9日の乗務パターンは、乗務、乗務外のリフレッシュ、食事の時間で
お互いの運航経験に加え、ゴルフ、ヨット、サーフィン、アクロバット飛行、車の再生と幅広い彼らの趣
味に感心しました。この路線は便数を減らし、3年ほどで無くなりました。でも、この路線での運航は、
厳しい冬季運航、強烈なタービュランス、巨大な積乱雲による迂回等、苦労が多かったこともあり、今で
は懐かしく思い出します。今回の受章に際し、諸先輩からのご指導、同僚からのアドバイス、激励があっ
たからこそと痛感し、深く感謝を致しております。
今までの経験を活かし、引き続き安全運航を命題として、一層の研鑽を積んでいきたいと考えております。
◆ FAI エアースポーツメダル賞を受賞して~
野村 達夫
自家用ライセンスを取得したときの嬉しさ感激を43年経った今も鮮明に覚えています。
当時は PA-28-140が私の訓練機で当然制限計器だけの装備による訓練が主流でし
た。念願のライセンス取ったあと早速一人で色々やってみたいことが有り、あると
き渓谷をぬって飛行していたら袋小路になり大慌てで急旋回をして反方位に戻った
り、またある時は急に天候が悪くなり知らない間に霧の中を飛行していて周囲が何
も見えない中地面がかすかに見えたところですかさず降下したらなんと目の前に団
地が出てきて、一目散でスパイラル上昇そして反方位に飛行し霧から抜け出ることが出来ました、この日
は特殊な気象状態の日で気象の重要さを改めて認識したときでした。
何れもまだ飛行時間が100時間を過ぎた昭和43年頃のことです。このような勝手気ままな飛行をしていた
時期事故を知ると“なぜなんだろ”と気かがりになるようになりました。安全に飛ぶには技量を上げなけ
ればならない、昭和40年前半の IFR はまだ AN レンジビーコンの時代、リンクトレーナーで IFR 取得を目
指すも難しくあえなく挫折。昭和54年偶然計器の学科に合格したので急いで実地試験に挑戦しました。日
頃より技量向上目的で訓練を100時間過ぎた頃から行っていたため PA-24アズテックにより比較的短時間で
合格することが出来ました。IFR 実地合格後、小型機事故の50%以上は悪天候による技量不足であるとの
持論に確信を持ち、IFR 訓練をすることで事故を相当減らせるとの信念を持つに至りました。しかも IFR
ライセンス取得はただの登竜門をくぐっただけのこと、VFR も同様に実際の悪天候はその経験をした人か
らの話しを聞くことが非常に大切であるとその後の経緯から常々思っていました。当時悪天候遭遇時の飛
行方法を唯一聞けたのが日本オーナーパイロット協会(現 AOPA-JAPAN)の故滝田耕造氏だけでした。
折しも運良く双発のターボプロップ機を所有したことから様々な気象との遭遇を幾度となく挑戦的に経験
することができこの経験を安全飛行に伝えたいと30年来心がけてきました。2001年突然千載一遇のチャン
スが訪れたのです。ある日故相原氏からお声掛けいただき共に航空局乗員課へ出向き当時係長の辻康二氏
から小型機の事故を無くすための活動をして貰いたいとの話しを受けたのでした。
それが今日の技量維持の始まりであり私にとっては長年抱いていた技量向上に関わる啓蒙のチャンスに
巡り合わせたのでした。この技量維持の発展には故相原氏、鈴木英明氏、その後を引き継いだ吉田徹氏、
齋籐幸雄氏を始め多くの JAPA 関係者そして他の4団体の方々の献身的な努力の貢献によるものです。
今回思いがけず技量維持の活動に対し FAI 賞を頂いたことを光栄に想うと同時に共に活動してきたメン
バー、そして受賞に尽力いただいた関係皆様へ感謝申しあげる次第です。
88
2010 NOV
当協会の FTD は国土交通省の「模擬飛行装置等認定要領」の規定による
<飛行訓練装置レベル3>に認定されています。
当機による訓練で FlightLogBook への飛行時間の記入が可能です。
FTD訓練を体験して
エアーセントラル株式会社
乗員部
神保 航一
JAPAFTD では大変お世
話になりました。
訓練では知識や技術だけ
でなくエアラインの考え方など幅広く教えて
いただきとても勉強になりました。
お蔭様で志望していた航空会社に入社する
ことができました。
学んだ事を活かして今後の訓練を頑張って
いきたいと思っております。
ありがとうございました。
≪訓練A≫FlightLogBook へ飛行時間の記入が可能です(技能証明が必要)。
メニュー
技量維持訓練
計器飛行(180日)
計器飛行訓練
会員
12,000
10,000
12,000
一般
16,000
14,000
16,000
訓練時間
FTD80分
FTD60分
FTD80分
※計器飛行(180日)の訓練は
60分からです。
追加は30分単位 5,000円です。
・技量維持訓練
航空局乗員課通達国空乗第2077号(自家用操縦士の飛行の安全確保について)にて推奨されている技量維持を行う訓練
・計器飛行(180日)
航空法施行規則第161条(計器飛行を行うために必要な最近180日の飛行経験)を満たすための訓練
・計器飛行訓練
全15回の訓練
≪訓練B≫FlightLogBook へ飛行時間の記入は致しません。
メニュー
ポイントレッスン1(飛行経験充足)
ポイントレッスン2(計器飛行訓練)
試験前訓練
体験搭乗
会員
8,000
10,000
8,000
4,000
一般
11,000
14,000
11,000
6,000
訓練時間
FTD60分
FTD80分
FTD60分
FTD30分
2010 NOV
89
飛行機大好きの子供とその友達親子と、夏休みにお昼を持って伊丹空港近くの公園に遊びに行っ
たときのものです。すごくいいお天気で、ANA の機体のブルーと白と、青空と白い雲のコン
トラストが最高に美しく、いい1枚が撮れました。
〈井上節子様の投稿写真です〉
通常ホノルル~成田線はミッドウェーの直上を通過するのですが、この時は、機長が機内放送
の後、左にバンクさせてミッドウェー環礁を見せてくれました。初めて空から眺めるミッド
ウェー島は、信じられないほど鮮やかな、マリンブルーに輝いていました。68年前の悲惨な戦
いが頭の中をかけめぐりました。
〈衣笠秀樹様の投稿写真です〉
90
2010 NOV
編集委員会では、PILOT 誌の表紙を飾る皆様からの航空機の写真を募
集しています。
尚、応募写真は編集委員会で審査の上、掲載いたします。
下記応募要領をご了承の上、ふるってご応募ください。
・写真はカラー・白黒・DigitalData を問いませんが、投稿者が撮
影されたものに限ります。撮影日時・場所・説明等の添書きも添
付してください。
尚、Digital 写真の場合はできるだけ大きな画素数で撮影したもの
として下さい。
・応募写真の取り扱いは日本航空機操縦士協会に属し、お返しでき
ませんのでご了承ください。
・PILOT 誌の表紙に採用させて頂いた場合、謝礼として2万円
(複数写真で表紙構成となった場合は分割)、表紙に掲載とならな
かった場合でも優秀な写真は本誌に掲載し薄謝を進呈いたします。
・住所、氏名、年齢、職業、電話番号、E-Mail Address 等を明記
してください。
※個人情報に関しては当協会で厳重な秘守扱いと致します。
送付・お問合せ先
社団法人 日本航空機操縦士協会 編集委員会
〒1050003 東京都港区西新橋1-18-14
TEL 03(3501)0433 FAX 03(3501)0435
E-mail:[email protected]
2010 NOV
91
編集後記
No.323 2010 No.6 NOV
て驚いた。名機といわれた戦前の機体は皆無、
さらに仮想の機体(HSTP)まで入っている。
どのような基準で選んだのだろうか理解に苦
ISSN 0389-5254
Pilotが作る隔月誌
PILOT
●去る9月21日、航空100年記念切手が飛行機10
種800円で発売されたが、選択された機種を見
2010 No.6 NOV
しむ。
(徳田)
●2002年9月号から始めたジェネアビ情報が、
連載50回になりました。継続が力になれば良
JAPAN AIRCRAFT PILOT ASSOCIATION
いのですが、国内ではまだまだ規模が小さい
ジェネラルアビエーションです。その安全と
健全な発展に少しでも貢献すべく、これから
も努力を継続したいと思います。 (奥貫)
●成田と羽田の発着枠が一挙に23万回(44%)
の増枠に。機種に制限があるものの自家用ビ
ジネス機も大歓迎と、外国機の飛来は年間1200
回ほどだが今後どれだけ増えるだろうか、着
陸料金、ハンドリング料金の値下げも含めて
のサービス向上と言えるのではないか。
(カレン)
●チリ鉱山落盤事故から33名の作業員が奇跡の
生還をした過程に、CRM の理想的な姿を見
ることができます。航空界とは全く違う世界
の出来事だと無視しないで、航空との共通項
を見つけ飛行安全に生かそうではありません
か。
(KEN)
●
“三つ叱って、五つほめ、七つ教えて子は育
JAPAN AIRCRAFT PILOT ASSOCIATION
今月の表紙は富士山静岡空港をローパスするセ
スナ525A サイテーションジェットです。直線
翼の採用により、プロペラ機からの移行でも操
縦が易しく、また、1000m 級の滑走路での運
航も可能な機体です。撮影は有賀弘行様です。
(奥貫)
違っていた。
「はやぶさ」の前面の大気が急激
に圧縮され高温になり、その熱からカプセル
を守る過程で光り輝いたとの事だ。 (T.A.)
つ”近頃はこの原則が忘れられている。
(RYU)
●6月13日に「はやぶさ」が光り輝いて地球に
帰還した。その光について誤解していた事が
●羽田発国際線定期便。三連休でホノルル行け
るかな。
(T.O)
●経費節減に揺れるパイロット誌!もしパイロッ
ト誌無かりせば?に思い悩む!
ある。大気との摩擦で光ったと思ったのだが
(編集長 蔵岡)
No.323 2010年 11 月号/平成22年11月発行
発行 社団法人 日本航空機操縦士協会
(Japan Aircraft Pilot Association)
〒105-0003 東京都港区西新橋1-18-14
落丁・乱丁本がありましたら
お取替えいたします
編集人 蔵 岡 賢 治
TEL 03-3501-0433(代) ホームページ URL http://www.japa.or.jp/
発行人 中 村 俊 治
FAX 03-3501-0435 E-Mail:[email protected] JAPAWEB:20101101
定価 800円(税込)
振替口座/00180-9-88490
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禁無断転載
2010 NOV
印 刷 株式会社プリカ
PILOT
No.323
2010 No.6
NOV
JAPAN AIRCRAFT PILOT ASSOCIATION