「 白人奴隷」

「白人奴隷」
を商品としたヨーロッパの海外進出
ヨーロッパが全世界に出て行った本来の動機が知識欲と探検への情熱であったというのは、
美しいお伽話である。
当時の自分たちの優れた文化を他の諸国に普及したいがために海を渡って出かけていった
というのも、美しいお伽話である。
キリスト教が探検旅行の原動力であったというのも、美しいお伽話である。
どこにいるかも分からない異教徒の魂を救済しなければならないという使命感に駆り立て
られて、大洋航海船の建造に莫大な資金を用意する支配者がいるだろうか。
見知らぬ土地へ危険な航海を決行する船長がいるだろうか。
その危険な航海に船員となって雇われる船乗りがいるだろうか。
全ては欲得だけだった。
近東、インド、東南アジア、中国、日本といった古い文化の中心地に比べて、中部及び北
部ヨーロッパはかつて荒涼とした貧しい土地だった。このことは今日なかなか想像し難い。
ヨーロッパは惨めにも貧しい大陸だった。
その事実はいくら壮大な大聖堂を建設しても覆い隠すことはできなかった。
貧困は人の罪ではなかった。それはこの地域の恵まれない気候風土のせいだった。
夏至の時期でさえ、ドイツでは真昼の太陽が日本の冬の太陽より弱いほどである。
だから中部・北部ヨーロッパでは夏涼しく、冬がおそろしく長い。
人々は苦労して自然から穀物を奪い取らなければならなかった。
生活は、寒さ、湿気、雪、秋の霧、そして冬の暗闇との戦いだった。
いかに中部・北部ヨーロッパが貧しかったかは、オリエントからヨーロッパへ流入してきた
商品とヨーロッパが近東に届けることのできた商品とを比較してみるとよく分かる。
オリエントからは、樟脳、サフラン、大黄、タンニンなどの薬品、鉱物性の油や揮発油な
どが輸入された。最も渇望されたのは、いうまでもなく砂糖や胡椒、グローブ、シナモン、
ナツメグといった各種の香辛料だった。胡椒は一時期貨幣の役目をしていたこともあった。
グローブの香辛料は胡椒の三倍の値段だった。様々な染料も輸入された。
繊維製品では生糸と麻で、高級絹織物やビロード、金糸、銀糸も持ち込まれた。
アジアを原産地とする宝石、珊瑚、真珠。高価な陶磁器も運ばれてきた。
これに対してヨーロッパが納入できた商品リストはささやかで、簡単だった。
羊毛、皮革、毛皮そして蜜蠟である。この他にはほとんど何も、地中海の向こう側の人た
ちを魅了できるものをヨーロッパは提供することができなかった。
オリエントとのヨーロッパの交易は慢性的な赤字だった。ヨーロッパ人は、ヨーロッパ外
の地域から購入したものは全て、金、銀で支払わければならなかった。
何トンもの金・銀がアラブ商人の懐に消えていった。
しかしヨーロッパ上流階級の人々のオリエント商品への渇望は、貪欲で飽くことを知らな
かった。需要の増大に反比例してヨーロッパの金・銀の貯蔵量は減少していった。
そこで、何世紀にもわたってアジアへの輸出のために特別な商品が用意されたのだった。
その商品とは、ヨーロッパ人の奴隷である。
この商品については、ドイツの一般的な歴史書にはほとんど記されていない。
私が調べた限りでは、他のヨーロッパ諸国の歴史書にも記載されていない。
時折、キリスト教徒の男奴隷、女奴隷が北アフリカのサラセン人のもとへ売られていった、
と恥ずかしそうに触れられていることがあるだけである。
そしてこういった指摘は大抵、野蛮なサラセン人の海賊が悪人で、可哀想なキリスト教徒
はさらわれたのだという印象を受けるように書かれている。
1
しかし真実は、奴隷はヨーロッパのオリエントへの主要な輸出商品の一つだった。
なぜならば、ヨーロッパは奴隷以外に商品価値を持ったものは何も提供できなかったから
である。
中世初期に、北部のヴァイキングがロシアの川筋に沿って黒海まで南下してきた時、奴隷
は、極北の国で捕れる毛皮に次いで主要な商品だった。彼らはアルメニアの黒海沿岸で、胡
椒とシナモン、絹織物、ビロード、真珠、宝石、そして北欧では常に渇望されていた砂糖な
どを買い、奴隷を売り込んだ。この利益の多い生きた商品の交易は、キリスト教徒だったア
ルメニアを繁栄させ、この地域を最強の国家へと発展させたのである。
「奴隷(スレイブ)」は、語源的に「スラブ人」と同じである。大掛かりな奴隷狩りが行われた。
ポーランドからボルガ河に沿ってウラル山脈にいたるロシアの平原で、ヨーロッパの奴隷
狩り専門家たちによって、スラブ人の男女が捕らえられたのである。
一四五三年頃にコンスタンチノープルがオスマン・トルコによって征服されるまでは、特に
ジェノヴァの商人たちが奴隷貿易を行なっていた。ジェノヴァの船で運ばれる奴隷の大群は
ダーダネルス海峡を通り、そこから、今日のレバノンへと流れ込んでいった。
この奴隷貿易をヨーロッパの歴史の本では、上品に黒海貿易と記述している。
ヴェネチアの商人たちは、ダルマチア沿岸、ペロポネソス半島、クレタ島、ナクソス島、
その他行ける所があればどこからでも、生きた商品をさらってきた。
ヴェネチア、フィレンツェ、そしてトスカーナ地方の富の蓄積は奴隷売買によるところ大
であった。奴隷は古代シリア王国の首都アンティオキアと、今日のレバノンの港町ティルス
を経てダマスカスやバグダッドへ売られていった。そこには大きな奴隷市場があった。
北アフリカ沿岸の豊かなサラセン人の町でも白人奴隷、特に女奴隷は金貨と交換に売られ
ていた。
コンスタンチノープルが陥落し黒海貿易が途絶え、ダーダネルス海峡の通行がトルコによ
ってコントロールされるようになると、ヨーロッパ奴隷市場での奴隷の価格は急騰した。
ヨーロッパ内部でも、何世紀にもわたって奴隷売買は盛んであった。
一五〇一年に南イタリアのカプアが占領された時、男は全員殺され、
女はローマの奴隷市場で売買された。
たびたびの戦争で占領され、略奪されたヨーロッパの多くの都市の住民たちも同じような
運命に遭った。一五五〇年頃、チェニジアの首都チェニスだけで、約三万人のヨーロッパ人
男女の奴隷がいたことが記録に残っている。全てキリスト教国のキリスト教徒によってどこ
かで捕らえられ、縛られ、猿ぐつわをかまされ、王侯貴族や特権聖職者、富豪たちが競って
求めているオリエントの贅沢品と交換するために運ばれて行ったのである。
ヨーロッパのいくつかの民族が海洋国家となったそもそもの動機は、決して遠い異教徒た
ちの魂を救済するためでも、キリスト教伝道の任務を遂行する内なる衝動のためでも、文化
的優越感のためでも、その優越感から導き出された、非ヨーロッパ民族をヨーロッパの文化
によって幸せにしたいという願いのためでもなかった。大航海時代を生み出した原動力は、
自然に呪われたヨーロッパ大陸の貧しさを克服したいという願望だった。
「あなた方は行って、子孫をふやし、大地を征服しなさい」
この神の言葉を彼らは見事に実践したのである。
今日、ヨーロッパ人のダイナミズムとよくいわれるものは、元を正せば彼らの絶望と怒り
の産物である。彼らが渇望している香辛料、絹、染料、薬、陶器、そしてインドや遠いアジ
アの国々の宝石や珊瑚と引き換えに、彼らから金・銀、そして白い肌の女性を奪い取ったアラ
ブ人に対する激しい怒りの産物なのである。
「驕れる白人と闘うための日本近代史」
ドイツ語原著 松原久子 著 文春文庫
第九章 高潔な動機 「白人奴隷」を商品にしたヨーロッパの海外進出 より抜粋
2
白人奴隷の話
近世ヨーロッパの奴隷制度
大昔から奴隷がいたことは誰でも知っている。紀元前十八世紀頃に定められたハムラビ法
典にはバビロンの奴隷について詳しく明文化されているし、古代ギリシアにもいろいろな身
分の奴隷がいて、その数は自由市民の四倍に達したと推定されている。紀元六十年頃ローマ
の人口は二百万人だったと言われているが、奴隷はその半分を占めていた。帝国拡張と共に
征服した地方から連れてこられた捕虜や、自国民の中の犯罪人、浮浪者、孤児なども奴隷と
なって誰かの所有に帰した。所有主が彼らの生殺権を握り、家畜や家財道具と同じく奴隷の
売買権を持っていた。
奴隷と言えばアフリカから駆り集められてアメリカ大陸へ連れて行かれた黒人を思い浮か
べるし、その数は十九世紀末の奴隷廃止まで三百六十年間に約一千三百万人を越えているが、
ヨーロッパの内部でも奴隷制度は許容された、おなじみの社会慣習であった。日本ではこの
ことはあまり知られていない。キリスト教を奉じ、博愛主義を社会理念とするヨーロッパ人
は自由を謳歌していたかのように思い込んでいる。
特にイベリア半島では、イスラムを奉じるアラブ民族とキリスト教徒の間に宗教戦争が絶
え間なく、お互いに捕虜を奴隷としたために、ローマ時代からの奴隷制度はずっと途切れな
く続いていた。スペインのフェルディナンド王が自国のイスラム教徒を捕え、選りすぐった
百人余りを奴隷としてローマ法王インノセント八世に送り、法王はこれら奴隷を教皇庁内の
大司祭たちに分け与えたことはよく知られている。十五世紀末のことである。これはヨーロ
ッパのキリスト教徒がイスラム教徒を奴隷にした例であるが、キリスト教徒が同じキリスト
教徒を奴隷としてイスラム圏へ売り込んだことは余り大きな声では語られない。
すでに十世紀から十一世紀頃、北から下降してきたヴァイキング(主としてスウェーデン人)
は、バグダッドの王室やビザンチン帝国と貿易関係を結び、毛皮と白人奴隷を売り込んでい
た。奴隷狩りは主としてボルガ河畔に沿ってウラル山脈に至るロシアの平原、ポーランドな
ら ち
どにおいて盛んであり、スラブ人の男女、特に女性が村々から拉致されたので、スラブ人す
なわち slav は slave を意味するようになった。ロシアの貴族や富豪たちは、奴隷販売から得
られる巨利に満足し、これを大いに奨励して財政の足しにしたことは言うまでもない。
イスラム圏に毛皮と白人奴隷を売った金で、ヴァイキングはアジアから運ばれてきた貴重
品――絹、香料、砂糖など――を買い込んだ。これらはヨーロッパの王侯貴族、教会の権力
者、そして一握りの富豪たちが競って求めた高価な品物であった。貿易の成り立ち、すなわ
ち需要と供給の原則に沿ってみれば、ヨーロッパ人がアジアから求めた物は生糸、絹、木綿、
珊瑚、真珠、ルビーやサファイアなどの数々の宝石、磁器、染料(藍、紅、紫、茜草、サフラ
ン黄、ミョーバン、硫黄)、香料(胡椒の実、桂皮)、医薬品(香油バルザム、樟脳、下剤に用い
る大黄、タンニンなど)、揮発油、鉱物油、砂糖などとリストは限りなく続き、逆にヨーロッ
パ人が売ることのできた品は、毛織物、皮製品、毛皮くらいで、後は金銀で支払わねばなら
なかった。金銀流出は財政の窮乏を招く。この穴埋めに奴隷が当てられたわけである。
ジェノア・ヴェニス商人の奴隷売買
一四五三年オスマントルコによってコンスタンチノーブルが征服されるまで、イタリアの
ジェノア人がヴァイキングに取って代わった。ヨーロッパと小アジアとを隔てるダーダネル
ス海峡はジェノアの奴隷船で混雑し、奴隷はそこからレバンテ(今日のシリア、レバノン、パ
レスティナ、イラク、ヨルダン)に売られた。黒海貿易というのは白人奴隷貿易のことであっ
たと言っても過言ではない。その見返りにジェノア商人はアジアからの貴重品を買い込んだ。
ジェノア人ばかりではない。ヴェニスの商人たちも奴隷狩り専門家たちにダルマチア沿岸、
ペロポーネソス半島、クレタ島などの村々を襲わせ、女たちを拉致して素早く船に連れ込み、
ダマスカスやバグダッドのハレムに売り込んでいた。ヴェニス、フローレンス、そしてあの
美しいイタリア中部、トスカナ地方の富の蓄積が奴隷売買によるところ大であったことは、
ちょうど一世紀後にイギリスがアメリカ大陸へ黒人を売ることによって富を蓄積したのと類
似している。
北アフリカ沿岸に栄えたサラセンの都市や町々でも白人奴隷、特に女奴隷は高く売れた。
男奴隷は有名なルネッサンスのガリー船を漕ぐために鎖に繋がれて使われたり、あるいは鉱
1
山で危険な仕事につかされた。イタリア各地やスペインの奴隷市場には、アルメニア人、ロ
シア人、ブルガリア人など東ヨーロッパから連れてこられた白人奴隷が売買の対象となった。
ヴェニスの華麗な宮殿や教会、トスカナ地方の見事な美術建築は、古代アテネやローマのそ
れと同じく、奴隷売買によって支えられていたことは注目に値する。ある調査によると、一
四一四年から二三年までの十年間に、ヴェニスだけでも一万人以上の奴隷が売られている。
奴隷競売も定期的に行なわれ、投資会社も整備され、すべてが大きな組織によって動かさ
れていた。このノウハウが後に大西洋横断奴隷売買の基礎となるのである。この点でイギリ
スはヴェニスから多くを学んでいる。
一四五三年コンスタンチノーブルが陥落し、ダーダネルス海峡はトルコ軍により封鎖され
たため黒海貿易は次第に寂れていった。しかし奴隷制度はヨーロッパでまだ生きていた。例
えば南イタリアのカプアが一五〇一年に占領された時、男は皆殺しにされ、女はローマの奴
隷市場へ連れてこられて売りさばかれたことが記録に残っている。
さまざまな戦乱の挙句、あちこちの町が略奪にあったが、捕虜はてっとり早く奴隷に売ら
れることが多かった。売る先は富み栄える地方、すなわちイスラム圏であった。一五五〇年、
北アフリカのチュニジアには約三万人のヨーロッパ人男女が奴隷として働いていたと言われ
る。すべてヨーロッパのどこかで捕虜になり、あるいはヨーロッパ人の奴隷狩りによって拉
致され、鎖に繋がれて売り込まれたのである。
有色人種の奴隷化
しかしこのあたりから、白人奴隷は歴史から姿を消していく。スペインやポルトガルによ
る大航海時代の到来である。ポルトガルは最初、北アフリカのアラブ人を通して黒人を奴隷
として買っていたが、アラブ人に相当の仲介料を支払わねばならず高くついたので、自らア
フリカへ出かけて駆り集めるようになった。アフリカの喜望峰を回ってインド洋に出、ゴア
を占領してからはインド人、マレーシア人、中国人などを奴隷として使役した。長崎でもポ
ルトガル商人は若い日本人男女を安く買い込み、船腹に満載してアジアのポルトガル領や本
国で売りさばいたが、当時のヨーロッパ奴隷市場が社会慣習として定着していたので、国も
教会もそれを殊更問題にすることはなかった。スペインが奴隷の輸入を禁止したのは一八三
六年であり、ポルトガルの場合はそれよりもっと遅れて一八六九年であった。
十六世紀から十七世紀にかけてスペイン、ポルトガル、イタリアからいわゆる南蛮人の神
父たちが日本へ宣教にやってきたが、彼らの祖国では教会容認のもと、大量の奴隷が使役さ
れていたのである。
一五八七年、秀吉が九州で「伴天連追放令」を出した時、その理由のひとつに、ポルトガル
人が日本人男女を買い込んで、長崎からポルトガル船に積み、奴隷として海外へ売る習慣を
指摘している。それに対し神父側は「日本人がポルトガル商人に男女を売るからだ。それを禁
止すればよい」と答えている。秀吉は「奴隷売買は日本ではとっくの昔に禁止されている」と述
べたが、当時の日欧社会の相違を見る上で興味深い話である。
スペインやポルトガルを追いかけるようにイギリス、オランダ、フランスが植民地化に乗
り出し、激烈な地球の陣取り合戦が始まる。
東方貿易で栄えたイスラム圏が衰退の道を辿り始めるのと反対に、ヨーロッパは進んだ航
海術と最新最強の軍事力によって全世界に出かけ、アメリカ新大陸をはじめ、世界の各地を
植民地化していった。そのため昔から欲しかった物――絹、綿、砂糖、宝石、香料――など
を直接植民地から持ち帰ることが可能になった。毛皮と白人奴隷を売る必要がなくなったの
である。
それどころか、植民地の鉱山開発、原始林伐採、砂糖、煙草、綿花、コーヒーなどのプラ
ンテーション労働のために必要な労働力を求めて、有色人種の奴隷化に精を出すようになっ
た。奴隷狩りによってアフリカの村々は壊滅状態となり、大西洋横断中に大量の死者を出し
たが、組織化された黒人奴隷船は巨大な利益をもたらし、その多くはイギリス国内の運河、
工場、鉄道建設費にあてられた。
白人奴隷の存在は信じがたい大昔の記憶の底に沈んでいったのである。
「言挙げせよ日本―欧米追従は敗者への道」 松原久子 著
第五章 欧米に対する誤解と崇拝 より抜粋
2
参考文献
日本の知恵
ヨーロッパの知恵
松原久子
一九六二年夏、ヴァティカン宮殿に於てローマ法王ヨハネス二十三世と父松原宏整との懇談
の際主題となった日本の古歌
わけ登る 麓の路はことなれど
「国際人への道」のために
同じ高嶺の月を見るかな
細川隆元
従来、遥か彼方の異国情緒感覚ぐらいでしか、日本を見ていなかったヨーロッパ人は、そ
の経済進出に伴った貿易摩擦など、彼等の生活に何らかの影響を及ぼすに到り、不本意なが
ら、日本への関心を無視するかあるいは、嘲笑の類では済まなくなってしまったようだ。
しかし、ヨーロッパ人の日本および日本人に対する知識はあまりにも幼い。
だいたいヨーロッパ人というのは、自分たちが文明、文化の伝達者、中心者であるという
世界観しか持ち合わせていない。しかも、自分たちと拠って立つ所の違う異質な文化(彼等が
こういう呼び方をするかどうか)に対する不審感とか猜疑心は、我々の想像を絶する。受け付
けない。馴染まない。
私もヨーロッパのことは知悉しているが、彼等は、自分たちの利害、本質に抵触してくる
と、絶対に譲らない。話し合いも一筋縄ではいかない。妥協がまず無い。とことん自我を通
す。日本人のように何か共通項を探し出して、“まあまあ、このあたりで”という言葉は出
てこない。これは、筆者も述べておられるが、度重なる侵略、苛烈な宗教闘争、それにもま
して、厳しい自然環境に於ける自己防衛から出た知恵であろう。
日本人のように、単一民族、敵からの侵略も無く、四季の変化に恵まれ、行雲流水に身を
委ねても生きていける我々には、理解し難いところである。
これらを、近世の黎明ともいうべき、信長の生きざまから始まり、鎖国下の江戸時代まで
を、同時代のヨーロッパとともに歴史的事実を例証としてあげ、その対比の上に、現在の日
本人とヨーロッパ人の本質を明解にしている。
私もこの中で、新しい事象をいくつか発見するとともに、ヨーロッパ人にとっては、奇妙
な国としてしかイメージされなかった日本に、現代でも十分に通ずる為政者の存在したこと
や、鎖国という特殊条件下にありながら、その文化水準の高さに驚嘆したことと思う。
本書は、始めドイツ語で出版され、日本と日本人に対する誤解と偏見に満ちたヨーロッパ
人へ、その素性を明らかにした「日本人論」の本であるが、私はこう考える。
ヨーロッパ人にやたらおもねる日本人、白人コンプレックスという虚妄の意識にまだ囚わ
れている日本人、そういう諸君へのヨーロッパ人とのつき合い方の実用書であり、そして、
勇気と誇りと自信を持って頑張れ!の書である。
これはまさに、二十五年に及ぶ欧米生活と、日本文化への深い造詣に裏づけられた、本当
の国際人、松原久子氏ならではの傑作である。
日本の知恵 ヨーロッパの知恵■目次
「国際人への道」のために 細川隆元 ――――― 1
日欧の谷間で(序にかえて) ――――― 4
1
一章
竹林の知恵 ――――― 7
ヨーロッパ人の「日本人論」に異議あり ――――― 7
「こより」にみる日本人の調和感覚 ――――― 8
行雲流水はヨーロッパでは不可能 ――――― 9
「負けて勝つ」、竹林の知恵を生活の場で応用 ――――― 10
二章
銀の国・日本 ――――― 11
異文化に対する拒絶反応が強いヨーロッパ ――――― 11
「まねる」から「まなび」が外来文化吸収法 ――――― 13
「金銀」に対する価値観の違い ――――― 14
三章
あの世の力 ――――― 16
宗教の政治介入は日欧の悩みだった ――――― 16
「レリギオ」はさまざまに展開する ――――― 16
他力本願の思想が庶民をひきつけた ――――― 18
「破門」の権限を確立し、死後の世界を掌握 ――――― 19
四章
近世の黎明 ――――― 20
人間信頼の現世主義 ――――― 20
政教分離を断行し、宗教活動を保証 ―――――21
信教の自由は信長から始まる ――――― 22
五章
ヨーロッパの苦悩 ――――― 24
キリスト教教義から解放され、人間の大切さを見直す時代へ ――――― 24
製紙と印刷技術の発達がもたらしたもの ――――― 25
白黒をつけたがる思惟は、宗教戦争による ――――― 25
自然科学はなぜヨーロッパに芽生えたのか ――――― 27
六章
ローマ法王の影 ――――― 28
「異教徒の魂を救うため」という大義名分にかくれて ――――― 28
布教と貿易の結合は、一貫したバテレンの政策 ――――― 30
「祖先崇拝」と「死者は神の支配下」のギャップ ――――― 31
七章
バテレンの心遣い ――――― 32
イエズス会士の運命の転換 ――――― 32
バテレンたちに理解できない信長の現実的な世界観 ――――― 33
八章
衝突の兆 ――――― 35
秀吉の寛容性と見識あるキリシタン対策指令 ――――― 35
日本人も奴隷として海外へ連れ出された ――――― 36
九章
外からの導火線 ――――― 37
秀吉は追放令遂行の具体的手段を示さなかった ――――― 37
追放令の根幹は、国外権力が支配者を越えることへの危惧 ――――― 38
布教のためなら宣教師の処刑も逆利用 ――――― 39
2
老獪な虎 ――――― 41
十章
絶対主義政権を確立した家康 ――――― 41
国際外交の構想と朱印船の活躍 ――――― 42
十一章
西洋文明の楽屋裏 ――――― 43
植民地化を展開するヨーロッパ ――――― 43
職人の伝統技術を見直す科学者たち ――――― 44
科学的思考法に抵抗を示すヨーロッパ ――――― 45
民間信仰の根強さ――魔女狩り、幽霊、占星術 ――――― 46
日本は経済的、技術的、精神的にも安定した国 ――――― 47
十二章
「大迫害」の真相 ――――― 48
禁教令後の日本とヨーロッパの「弾圧」の差異 ――――― 48
朱印船によるバテレン密航の発覚 ――――― 50
十三章
予言の謎 ――――― 50
カトリックの教義と天文学 ――――― 50
キリシタンの悲劇 ――――― 51
十四章
禍福の回舞台 ――――― 52
イギリスは貿易にはげみ、資本を蓄積 ――――― 52
スペインは商工業者を失い、生産力が低下 ――――― 53
オランダは新商法、新技術で進出 ――――― 53
イタリアはギルドが強く、国際競争に不振 ――――― 54
日本は生糸輸入で金、銀、銅の流出がはげしい ――――― 54
農工商のいき詰り ――――― 55
十五章
日本の巷・群なす人々 ――――― 55
日本の都市発展の水準は世界一 ――――― 55
「技術は悪の根源」の観念がぬけないヨーロッパ ――――― 56
日本人は“旅慣れ”“早耳”民族 ―――――57
十六章
五人組の波紋 ――――― 58
日本人は二つの自己を使い分ける ―――――58
ヨーロッパ人は一匹狼の強烈さが理想 ――――― 59
日本では譲歩は敗北を意味しない ――――― 59
ヨーロッパでは譲歩は自滅につながる ――――― 60
「恥」感覚に対する日本とヨーロッパの違い ――――― 60
十七章
上下の風情 ――――― 61
集団に従わなければ生きられない ――――― 61
ギルドの意識をかえた大工場化 ――――― 62
なぜヨーロッパでは仕事に生甲斐を見出せないのか ――――― 62
日本に育たない労資憎悪関係 ――――― 63
江戸時代の人間関係が企業に生かされている ――――― 64
3
一所懸命の哲学 ――――― 65
十八章
「売ってやる」「買わせていただく」の思想――ヨーロッパ ――――― 65
「売らせていただく」「買ってやる」の思想――日本 ――――― 66
日本では想像できない知性の交流 ――――― 67
鎖国下でも知的水準は向上 ――――― 67
東西の親子夫婦 ――――― 68
十九章
時代とともに「familia」の意味の推移 ――――― 68
日本も「親孝行」の概念が変わってきた ――――― 70
異常体質の後遺症 ――――― 71
二十章
白人に対する思いもよらぬ感情と論理の中絶 ――――― 71
ヨーロッパの複雑な壁とそれへの抵抗 ――――― 73
鎖国二百年間のヨーロッパを知らない日本人 ――――― 75
日本の精神風土に根を張る虚妄の意識 ――――― 75
二十一章
相互理解の糸口 ――――― 76
史実の裏側を直視してつき合う国――ヨーロッパ ――――― 76
積極的で寛容性があり前向きな国――アメリカ ――――― 77
今、ここに生きる姿勢の国――日本 ――――― 78
参考文献 ――――― 79
日欧の谷間で(序にかえて)
この本は一九八三年秋、ドイツ語で出版し、各界に大きな波紋を巻き起こし、英訳、仏訳、
蘭訳、その他十数カ国語への翻訳が予定されている。その前に母国語で出版し、日本の読者
にお見せする機会を得たことは幸いである。
日本の経済発展によりヨーロッパ人は、これまでのように日本を無視して過すことが不可
能になった。
ヨーロッパこそ世界の中心であり、白人こそ文明の頭脳であるという世界観が崩れるとこ
ろまではいかないにしても、何となく動揺し始めたことは、ヨーロッパ人にとって面白くな
いことであり、その腹立たしさをそのまま日本人に投げつけるのも当然のなりゆきであろう。
しかし、それが「当然」であってよいのだろうか。宇宙時代の今日、ヨーロッパ人はいまだ
にそのような傲岸な反応しかできないのだろうか。また日本人はそういう反応をヨーロッパ
の自壊作用以外の何ものでもないと憐れみつつ、せっせと輸出を続ければよいのだろうか。
なるほどヨーロッパでも、政府の要人や大企業のトップは、面白くない気持ちを押え、腹
立たしさを隠し、何らかの手を打って日本との摩擦を少なくしよう、乗り越えようと努力し
ている。
またもともと日本に好意を寄せ、生け花や根付け、枯れ山水の庭や浮世絵などに情熱的な
関心を抱き、自分なりに金と時間をかけて日本趣味を培っている人々もいるし、生涯の夢で
あった日本旅行を遂に実現させて、今日の日本を体験し、スライドや八ミリを持ち歩いてあ
ちこちのサークルで紹介したり、小さな講演会を開いて「誰も知らなかった日本」を語り続け
ている人たちもいる。
言うまでもなく、専門的に日本文化を研究し、「紫式部日記における変形否定の論理」とか、
4
「寛政重修諸家譜に顕著な旗本系譜の特色」あるいは「日本の主要産業生産指数と産業別雇用
者数の推移にみられる関連」などの論文を専門誌に発表し、数人の学生を前に講義している一
握りの学者が存在することも事実である。
しかし、大半は、自分たちが人類の中心であり、文明の頭脳であるという世界観に甘んじ
てきたために、世界市場を制覇するかにみえる日本商品の量の凄さに圧迫され、その商品の
背後にあるより優秀な技術をみせつけられ、失業をせまられ不安を感じるのみでなく、誇り
を傷つけられた腹立たしさを、次のような希望的観測でもって何とかまぎらわしている。
日本人はもともとうまく猿真似を続けて早急に成り上がった民族で、どうせ成り上がり者に
つきものの思い上がりと浪費で首をしめるだろう。わんさと団体でヨーロッパへやって来て、
超一流ホテルを占拠し、ヨーロッパ人すら手の届かない高級品をわっと買い占めて帰って行
くのをみてもわかるし、終末毎にヨーロッパの最高ゴルフコースを占有してはばからない日
本商社の欧州駐在員達をみてもうなずける。また日本人が無理をしてやっと成上がっている
ことは、日本からの報道――たとえば中学生の暴力や自殺、荒涼たる入試地獄――でも明白
だ。次の世代は無気力で浪費に慣れ、もう駄目だ。それでもまだ世界の舞台から消えないよ
うなら、何らかの制裁を加えざるを得まい。歴史を動かし、歴史を决定する使命は、分家の
アメリカを加えても、要するに自分たちにあり、日本人のような成上がり者にはない。
今日ヨーロッパ人の心の底に流れる日本人へのこういった真情は、ヨーロッパ人が何代に
もわたって受けてきた教育に因ることはいうまでもない。家庭、学校、教会、社会により知
らぬ間に次のような価値体系が形成されてきた。
第一に、古代ギリシャ人、ローマ人、西ヨーロッパに住む民族など、ヨーロッパ文化の創
造に役だった民族がもっとも優秀であり、この歴史こそ世界史であり、世界史とは自分たち
の祖先の歴史である。
ルネッサンスや宗教改革は当時のヨーロッパにとってはたしかに重大な出来事であったが、
ヨーロッパにとって重大なことは、あまねく世界にとって重大だと信じて疑わない。音楽一
つをとってみても、ヨーロッパの音楽こそ世界の音楽であり、他はいろいろな部族の鳴物で
ある。ヨーロッパの衣装が「ノーマルな」人間の着るものであり、あとは民族衣裳に過ぎない。
ヨーロッパの美術が美術であり、中国や日本の美術は中国学、日本学の中で片隅に飾られ
ている。ヨーロッパの言語が普遍的言語であり、英独仏語をマスターした者が世界の教養人
とみられ、日本語や中国語のできる者などは変わり者に過ぎない。
第二は、イスラム圏に入るアラビアの国々で、数学、医学、天文学の高度な発達と、アジ
ア諸国との貿易独占により、文化的にも経済的にも、さらには軍事的にもヨーロッパを圧迫
し、十五世紀頃までヨーロッパの先生であった国々。この方の歴史は苦々しい思いでさっさ
と学び、ある種の尊敬と敵意を感じている。
第三に、フン族、モンゴル族のように大軍の洪水でもってヨーロッパをひと呑みにしよう
とした怪しからん民族で、これには今でも恐れを抱いている。
第四が、日本のように古い歴史や文化らしきものを持つとはいえ、世界的価値からは程遠
く、結局わけのわからない異様な民族。これも貿易摩擦が激しくなるまでは、異国情緒に包
まれた不可思議な国であり、同時に自分たちの生活の基本には何ら触れることのない無害な
国であったために、警戒心も競争心も抱くことなく話題にできたわけである。それも時折、
何かのついでに報道するくらいで、その口調も神秘的か嘲笑的、ともかくサムライあり、新
幹線あり、座禅をしているかと思うとハラキリもする。という具合に、歴史や風土から抜き
取った現象を、自分たちの基準でもって勝手に組み合わせ、奇妙な姿に変えてしまう。天皇
陛下がジェット機のタラップを降りて来られるシーンがドイツのテレビ画面に映れば「この
男が天皇である。天皇は日本人の神である。日本人はこの男に朝夕礼拝し、喜んで命を捧げ
る」などの真面目くさった解説が流れる。知識階級がこの程度であるから、ましてや大衆の日
本に関する無知や誤解のひどさは、微笑ましいとでも思わなければ、こちらがくたくたにな
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る。
ここ二十年以上続いている西独のテレビ番組の中に、毎週日曜正午から一時間にわたり時
の国際政治・経済・社会問題を各国代表が討論する全国番組がある。「ニューヨーク・タイムズ」
や「デイリー・テレグラフ」「フィガロ」「ル・モンド」「タス通信」などの西独特派員が主に出演し、
ドイツ語で火花を散らす。問題に関心がある時は日本代表としていつも出演してきたが、最
初の頃は討論の激しさそのものよりも、視聴者が局に寄せる手紙や電話の言い分に驚いたも
のである。放送局のたっての希望に従って着物で出た私に関し、「ゲイシャは最高の教育を受
け、花を生け、茶を立て、俳句を作り、舞いを心得、日本文化の粋であると聞いているが、
ドイツ語もできることが証明された。サインを頼んでも失礼にならないであろうか」「あらゆ
る教養を備え、特に政界事情に詳しいのがゲイシャであるが、彼女はまさにその通りであっ
た。しかし、顔も首も手もうす茶色なのは日本の伝統から外れている。メーキャップ係をち
ゃんと指導してほしい。なお、髪型もあれでは本ものとはいえない。花を飾り、かんざしを
八本刺すのが本ものである」
おいらん
また江戸時代の何とかという有名な花魁が使ったという黒地に金箔のかんざしを送って次
回出演を応援してくれたおばあさんもいた。
こういったイメージの日本がある日突然、生活の基本に触れるところで脅威となった。そ
れは自分たちの歴史が世界史であり、世界は自分たちの指揮棒によって動くと信じていた
人々にとっては、まさに突然の脅威であった。
あれよあれよと見ているうちに脅威は去るどころか、しっかりと根を張って市場を占めて
いた。
これがヨーロッパの一国ならば、あるいは分家のアメリカならば、誰も驚きあわてふため
くこともないし、それほど腹立たしくもない。それはなぜか。お互いの素性がわかっている
から。
従って「またか」とか「ああ、やったな」とは思うけれど、「猿真似をして成上がった」とは思
わない。
要するにヨーロッパ諸国とアメリカの中に日本人がペコペコしながら入ってきて、始めは
露店で安物のカメラや、すぐにこわれるおもちゃなどを売っていた。素性もわからず、奇妙
な顔つきで、何を話しかけてもにこにこと頷くばかり。自国の歴史や文化について堂々と語
ることはなく、祖先がいかなる考えをもって、どのような技術を発達させ、何を創造し、何
を築き、そこから何を受け継いだかを認識していないようだ。認識するにも結局何もないの
であろう。だからただせっせと店を拡張し、造り、売り、知らぬ間にヨーロッパやアメリカ
は種々の分野で店じまいを余儀なくされ始めた。
この素性の知れない、真似の上手な、成上がり者のお蔭で。
数年前から日本国内でも、日本を海外に知らせる必要性が強調されてきた。その場合、外
国ではサムライやゲイシャは知っているが現代の日本を知らないから、その方を紹介するべ
きだという声が高い。ところが武士や芸者にしても、その歴史的意義や役割は何もわかって
いないのである。たとえば徳川幕僚の組織の知恵は今日の官僚世界にいかに受け継がれてい
るか、日本の官僚はなぜ優秀なのか、武士の倫理や心情は現代日本にどのような形で生きて
いるか、武士がヨーロッパの騎士に比べて遥かに長く文化の担い手であったのはなぜか、な
ど、ヨーロッパ人の心の中にある問いに、日本人は答えてこなかった。芸者にしても、ここ
に表現された日本人の色好みや性観念が、ヨーロッパの場合とどう異なり、それはなぜか、
今の日本の性生活や美意識はどう変わってきたか、など、とり上げ方次第で神秘な、あるい
は滑稽なチョンマゲ国のイメージが消え去って、歴史的秩序と重みをもった日本が認識され
てくる。今の日本はなるほど、そういった過去から生れてきたのか、自分たちと大して変わ
らないじゃないか、という認識である。
日本の過去が異国情緒に充ちたなよなよときれいな、あるいは野蛮な、ともかく異様な部
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族現象として見られているところへ、いきなり現代日本の高度な技術や、複雑な産業組織と
それを動かす人間群を紹介することは、とんでもないことである。そんな現代を「一夜のうち
げ
に」出現させた日本人が不気味にみえ、奇怪至極でなおさら解せない。解せないながらも、日
本人がこそこそと西洋技術の猿真似をしていた記憶は強く、そうやって成上がった奴らだと
いうことに落ち着く。
「真似」はヨーロッパ人の考え方によると「盗み」と同義語である。日本人は自分たちの過去
から現代を生み出したのではなく、よそから盗み取って小手先上手につくり上げた、まこと
によろしくない民族ということになる。
このあたりの事情を知ってか知らずか、ヨーロッパへ来る日本人はだいたい次のように申
し上げる――「明治維新までの日本は未開国であったが、ヨーロッパのお蔭で文明というもの
に接し、科学技術を導入し、今日の日本を築くことができた。たとえばドイツ医学のお蔭で
日本人は命拾いをした」やたらに後進性を強調し西洋に感謝申し上げる。日本にいる時は考え
もしなかったことが、本場に来て大きな白人たちにとりまかれると気おくれがして何となく
口をついて出る。また日本人のくせで、お世辞を言えば相手が喜んで「いやいやとんでもない」
と応じるように思い込んでいるのだが、ヨーロッパ人には通じない。「そうだろう。全くわれ
われのお蔭だろう」と尊大に頷き、文明の猿真似をして成上がったことを日本人自身が白状し
たと信じるのである。
「そういう頑固爺だからどんどん遅れてしまうんだ、身から出たサビだ」といった調子の講
演をヨーロッパで行い、聴衆を罵って意気揚々としている日本人もたまにある。これは一見
勇敢で日本人には胸のすく行為かも知れないが、反発を誘うのみで説得力は全くない。おま
けに敵意を植えつけるだけである。
ヨーロッパ人は自分たちが意識している以上に、歴史という躍動体を大切にする。相手の
歴史の水準が自分たちと同じであるとわかった場合にのみ、相手をパートナーとして受け容
れ、尊敬する。尊敬の念なくして本当の理解は育たない。日本人が長い長い歴史の中で何を
学び、何を体験し、その結果何を大切にするようになったのか、何を侮辱し嘲笑するのか、
いかなる死生観をもち、なぜ働くのか、いかなる論法に参り、どういう情緒に動かされ、何
を美しいと感じるのだろうか、ヨーロッパ人の場合はどうだろうか。
歴史的事実を例証として、こういった問いかけに答えていくことが日本人の急務である。
経済発展により、うさんくさそうにじろじろ眺められている日本は、堂々と、そして真摯に
自分の素性を語らなければならぬ。日本は数百年前にはどんな国であったのか。政治は、経
済は、社会は、科学技術は、ヨーロッパと比べてどういう水準にあったのか、どこから現在
が出てきたのか、よそから学んだ面があるとしても、学ぶことのできた素地は日本人の過去
の知恵にあったことを、例証しなければならない。
ヨーロッパ人に日本の素性を語るためにこの本を書いた。日本人にとって当り前のことが、
ヨーロッパとの比較においてみた場合、こういうふうに提示できるのかという一例である。
一章
竹林の知恵
ヨーロッパ人の「日本人論」に異議あり
ヨーロッパの新聞、雑誌、書物、テレビなどが「日本人」を話題にする時、その多くが一八
六八年という年に異常な関心を寄せる。日本人はこの時まで中世的生活に甘んじ、田畑を耕
し魚をとり、寺を建て種々雑多の工芸品を造る以外、別にこれといって特筆すべき能力のな
い民族であったが、この年になってたちどころに後進性からの脱出を決意し、近代生活に突
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入したと述べている。一八六八年までの日本人はおよそ二世紀余りにわたって世界から身を
隠すことに努めてきたが、ようやく国の扉を開け、西洋文明の眩いばかりの栄光に打たれ、
腰を抜かし、長らく冬眠していたことを悔い「何百年も遅れてしまった。これから西洋の後を
びっこ
跛を引きつつ歩くなんて御免だ」とつぶやき、途端に西洋文明を真似ようとする恐るべき活動
を開始した。紡績機械や溶鉱炉のつくり方、鋼鉄の生産方法、蒸気機関車や電気エンジンの
組み立て方、造船技術、鉄道に伴う鉄橋やトンネルのつくり方、電信網の張り方や郵便物の
送付方法、会社、銀行、学校のつくり方など、かねて日本人の経験範疇になかったこれら一
切の西洋文明を、すばしっこく歯を食いしばって真似ることにより、日本人は西洋諸国に追
いつくほどになったという説明をもって、ヨーロッパ識者の「日本人論」が始まっている。
こういった日本人論を書く人々が日本の歴史を知らないというよりも、文明というものの
形成過程について全く無知なのではないかと私はかねがね思っている。彼らは、たとえばヨ
ーロッパに近代が訪れるまでに何百年の準備期間が必要であり、どれほど多くの人間の思考
と叡智の蓄積があったかを省みたこともないのだと思う。幸いにして日本は、江戸時代に鎖
国という状態にありながら、知性の洗練度においても、複雑な政治経済社会の組織能力や生
産力においても独自の高度な発達を遂げ、人々のエネルギーは発想の転換を求めて膨張して
いた。その長い準備期間と知性の貯蔵があったからこそ、同じように長い年月と知性の重み
をもったヨーロッパの文明を、主体的に受け止めて消化することができたのである。
トルコ皇帝もペルシャ皇帝も、ヨーロッパ文明を採り入れて、立ち遅れた自国の近代化を
計ろうとして失敗した。それは、その国民のほとんどがその必要性を理解するだけの精神的
態度を欠き、それを受け容れて使いこなすだけの知的能力を養っていなかったからである。
西洋文明が異質だから肌に合わなかったのではなく、水準が違っていたのである。一つの民
族に今までの後進性から即刻足を洗って最新の文明を採り入れよといってもできるものでは
ない。毛沢東下の中国やソ連下の衛星諸国がそのいい例である。近代化を遂行するためには
国民の精神的態度と知的能力がすでに何世紀にもわたって磨かれていなければならない。
「こより」にみる日本人の調和感覚
さて、それでは日本人とはいったいどういう民族なのか。私の場合、長らくヨーロッパに
住み、毎年日本やアメリカへ行き、いやおうなしに日常生活の中で比較を迫られてきた。そ
こで、まず身近な例をとってお話したい。
この間、京都のある「そば処」で山かけそばを注文し中身をほぼ平らげた頃に、ふと見ると
もなしにどんぶりの底を見たところ、こよりが一本浮いていた。お茶のおかわりを持ってき
た給仕に「これは食べられないでしょうね」と冗談まじりに話しかけると、「いやあ、すいませ
ん」とぺこりとお辞儀をするなり、両手でどんぶりをおしいただくようにして奥へ走り込んだ。
入れ替わりに主人がとんで来て、「いやあ、えらい気色悪い思いさせまして。ゆでる時に入っ
てしもたんや思いますねん。充分気いつけてますにゃけどすいませんなあ。同じもん、おか
わりさせていただきますさかい、こらえておくれやっしゃ」と何度も腰をかがめ、あたふたと
奥へ去って行った。
思いがけなく二杯目の山かけそばを前にして、同じようなことがドイツの食堂で起った場
合――たとえばグラタンの中に短い髪の毛が一本混っていたとか、サラダの裏にちょっぴり
泥がついていたとか、丸焼きされた鶏のお腹から小石が出てきたなど、どこにでもたまにあ
る食堂側のミス――客と営業主との間でどんなやりとりが行なわれ、どういう結果に終わる
かを思い浮かべてみた。私自身の何回かの体験だけでなく、ドイツ人客が文句を並べた場合
も入れて、ほぼ次の筋書き通りにことが運ぶとみて差支えなかろう。もちろん食堂にもピン
からキリまであるが、くだんの「そば処」と店の大きさ、古さ、客筋、値段などにおいて匹敵
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するようなドイツの食堂を例に引くことにする。
呼んでもおいそれとはやって来ない給仕をやっとのことでつかまえる。髪の毛なり泥なり
小石なりを見せる。「わたしがやったとでも言うのですか。わたしはただ注文の皿を運んだだ
けです」とか、「食べる前に言うべきです。手をつけた以上そっちの責任ですよ」とか、「それ
はあなた自身の髪の毛でしょう」とか、「それくらいで騒がなくたって、死にゃしませんよ」と
か、もっとも好意的な答でも「コックに報告しておきます」であり、間違っても謝ったり主人
を呼びに走ったりはしない。それでも強いて主人を呼んでもらって、ことの次第を説明すれ
ば、「それで、あなたは今何を要求しているのですか」と開き直る。「以後気をつけてほしい」
などと言おうものなら、「我々は常にベストを尽くしている。しかしながら人間は完璧ではな
いことくらいわかっているでしょう」と答えて堂々と客を見返す。「償いのためにもう一度同
じ品を持ってきなさい」と言えばちゃんと持って来るが、その分もきちんと請求する。
それほどがめつい。おまけにえらそうな屁理屈を言う店は客足も遠のいてしまうだろうと
思いきや、どの店もみなこの調子だから客もそういうものだと思って、よほどのことがない
限り、やって来る。よほどのことというのは汚れたナフキンを出したり、注文していない料
理を持ってきたり、注文してから一時間たってもまだ持って来ない場合などで、客は奮然と
して怒り、給仕もきっぱりと弁明しつつ、それでも渋々と客の言うことを聞く。
人出不足のためにこうなったとか、みなが裕福になり、ちょっと探せば仕事がみつかるの
で人間が横着になったためだと説明する学者は多い。が、それはヨーロッパという限られた
文化圏のみをみて論じていることで、たとえば同じように物があふれ、仕事のみつかる日本
で「そば処」はいくらでもあるという事実をどう説明するか。客が文句を言う前にさっさと謝
り、少々の痛手を被っても客の気持ちを優先させてことを解決していく態度をどう説明すれ
ばよいのか。客の御機嫌を取り結んでまた来てもらおうとする卑屈な営利主義に他ならない
という人もある。また、それほどまでしなければ客が来なくなるほど料理の腕が劣るので、
経営者として誇りや自信もない証拠だという人も多い。
しかし、そういう見方をしている間は、日本人の本質はわからない。それは、いたずらに
ことを荒立てて皆が気まずくなる前に、なるべく穏やかにおさめたいという「なごやかさ」へ
の希求と、少々のことは我慢しなければならないという、内に働く自制心である。これは何
も店の主人ばかりではなく、客の方も喧嘩腰で突っかかって弁償をせまるようでは、たとえ
言い分が正しくても恥かしいこと、大人げないことだと周囲は思う。
調和が崩れそうになると、日本人はほとんど無意識にそれを食い止めようとして歩み寄る。
その場合、立派な理論や難しい法律ではなく、柔らかな物腰ややさしい言葉が調和を回復す
る決め手となる。もちろん、横着で屁理屈をこね、自分の非を認めない日本人も多くなった。
しかし、彼らとて利害関係のある自分たちのグループ――職場とか友人仲間――ではやはり
「日本人的」に行動している。前に述べたドイツの給仕や経営者の例に見るようにヨーロッパ
人は、自分は故意にやましいことはしていないから、非難は頑としてしりぞけるというしぶ
とい態度を、いつ誰に対してもいささかもひるむことなくとるのである。そのうえ、できれ
ばついでに、相手をぐさりと刺して顔色一つ変えず、気分もいっこうに悪くならない。こう
いう体質からは、たいていの日本人はほど遠いのである。
行雲流水はヨーロッパでは不可能
うんぬん
私はここでこの決定的な違いを云々し、両者の善悪優劣を論じようとは思わない。それ以
前に人間は生物学的存在であり、その土地の自然条件にもっとも上手に対応したものが生き
残っていくという厳正な真理を想い出してみたい。ドイツやスイス、オーストリアや北フラ
ンスに住んで、始めの頃は四季の流れは日本と何ら変わりはないとぼんやり考えていたとこ
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ろ、五月に雪が降ることもあれば、七、八月に暖房しなければとても過せない年もあった。
かと思うとコートもいらない二月や、毎日氷雨の降り続く十月や十一月もよくあった。もち
ろん春になれば花盛りで日も次第に長くなるが、陽光は必ずしも強くならない。何週間も初
冬のように寒寒としているかと思うと、桜がたっぷり一ヵ月間咲きっぱなしの年も珍しくな
い。要するに自然は全くあてにならない。こうなるであろうと見込んで信頼し、自然にすが
って生きるなどはとんでもないことである。
日本でも異常降雨量や降雪量が記録され、梅の狂い咲きや長すぎる花冷えが伝えられるが、
それでも春夏秋冬は必ずやってくる。春風はなま暖かく湿気を帯び、夏の陽光はさんさんと
輝き、秋空はからりと高く、冬は乾燥して寒い。自然のリズムを信頼して生きても大丈夫な
のだ。少々狂いがあっても根底から裏切られることはない。それどころか、素直に自然のふ
ところに抱かれ、自然と共に生きれば非常に楽である。
ヨーロッパでは、特にその中央を占めるドイツでは、自然のふところに抱かれるといって
も、日光はだいたい一年の半分ばかりは月光のように弱々しく、(北海道の最北端がイタリア
のミラノとほぼ同緯度である)海や河や湖の水は冷たく、芝生や土の上にじかに横たわろうも
のならたちまち風邪を引いてしまう。その土地から本来とれる食物は海の幸山の幸はおろか、
憐れなほど種類も少なく単調である。空気は夏でも夜になれば肌寒く、秋口から北極の寒冷
前線が張り出してきて容赦なく骨の髄まで凍らせる。裸で自然のふところに抱かれ、無心に
なってさらりと自然の真只中にとけ込むという態度は、日本の自然だからこそ可能であり、
またそういう天真爛漫な自然との対し方が人間にもっとも大きな利益をもたらすのである。
ヨーロッパでは、行雲流水を志し、無念無想の境地に遊び、素直に淡々と自然にとけ込ん
で生きることは死を意味することである。ヨーロッパ人の生み出した自然との対決方法はだ
から生き残るための知恵である。そして、その知恵は自然とは無関係に見える現代生活の中
にも、反応の習性となって残っている。それは決して相手に任せず、信頼せず、おいそれと
相手の言う通りにならずに、まず疑惑の目で底意を確かめるという習性である。この不信に
根ざした油断なき防衛意識がヨーロッパの抵抗力である。
また日本より遥かに貧弱な自然ではあるが、かといって砂漠地帯のように不毛で荒涼とし
ているわけでもないので、こちらがひとつの距離をもって注意深く観察し、入念に準備し、
執拗に働きかければある程度の利用価値は生れてくる。人力を圧倒する地震も台風もないか
ら、自然を畏敬するとか自然の前にひれふすという情感は薄く、それより何とか自分のため
にそれを使いこなそうとする。
人間関係においてもこの図式は容赦なく働く。人に利用されるようなぼんやりでは駄目な
ので、相手のすきを狙って叩きつける闘争的態度が臆面もなく培われる。もちろん人により
上手下手の違いはある。
またそういうふてぶてしい闘争心が性に合っている人もいるし、生まれつき気がやさしく
て、そうしたものがどうしても身につかない人もいる。身につかない人は常に叩かれて苦し
む側にまわり、やさしさの原理が機能しない社会で途方に暮れるのみとなる。
聖書の中の山上の垂訓にある「柔和なる者、憐れみある者、心の清き者」などは幸いである
どころか生存の場がないほど攻撃的な社会である。キリスト教の影響については後に詳しく
述べるが、ともかくヨーロッパ社会では、その場その場で相手を徹底的にやり込めて自分を
通さねばならないのだ。
「負けて勝つ」、竹林の知恵を生活の場で応用
ここでは「負けて勝つ」という日本社会の原理は通用しない。負けて勝つということは、和
たお
やかさをなかば生理的に希求し、そのために優しさ、柔らかさ、嫋やかさといった要素を機
10
能させることで、ちょうど台風に対する竹林のようなものである。その場はしなやかに頭を
垂れ、負けたかのように見せておき、台風が去るとまたはね返ってさらさらと葉ずれの音を
させる。決して頭を垂れっぱなしにしているのでもなく、台風の猛威にへし折られるのでも
ない。日本人は、この竹林の知恵を生活の場でほとんど無意識に応用し、それを第二の天性
にさえしてしまっている。襲いかかる自然の猛威――台風や津波や地震――は瞬間的であっ
て必ず終わりがあるために、人間が一時的に負けてもなんとか生き残ることは可能である。
またそうする方が結局勝ちというわけである。ヨーロッパにはそういった自然はないかわり
に、どこまで下がるか予想できない気温と、いつ果てるともわからない冬が人間を打ちのめ
そうとやってくる。一時的にしろ負けてはおしまいなのだ。否、一時的に負けるなどという
風流な遊びは許されないのである。そんな余裕はない。その場その時の隙を狙って勝たねば
ならないのである。
なるほどヨーロッパだと思うことがある。何か問題が起った場合、柔らかく優しく相手の
情緒にすがるように口をきくと、相手は必ずこちらを叩きつけてくる。ますます尊大に頑固
に意地悪につっかかってくる。もちろん気心の知れている友人や知人ではなく、店員、給仕、
銀行や郵便局の窓口、市役所職員、駅員、ホテルのフロント、劇場や映画館の窓口など、こ
ちらが一市民として接する人々の反応である。反対に、ふてぶてしく厚かましく一歩も譲ら
ない姿勢で自分の立場に関してのみ理路整然と口をきけば、相手はこちらに隙がないと見て
闘争心を引込め、冷静に応待してくる。
日本では似たような場合、やんわりと包むように、子守唄のように話せばそれを叩きつけ
てくる相手はまれである。こちらのやさしさが感染して相手も多少態度を和らげる。頭ごな
しに理屈を並べれば物事は滑らかに運ばないことが多い。またその場は、台風の吹き荒れる
ごとく言わせるだけ言わせておいて、結局こちらの言い分は何も変えないという手を使う。
それぞれが日本人同士なりヨーロッパ人同士なら、このあたりの呼吸はよくわかっている。
どのような武器をいつ出すか、どう引込めるかという生活の中での駆け引きは、上手下手の
違いはあれど幼い頃から知らぬ間に吸収していくものである。ところが、日欧間の接触が外
交辞令や花束贈呈を越えて濃厚さを増してくると、必然的に利害関係も生じ、勝負をつけね
ばならぬ場面も多くなる。日本人はずるくて卑怯だとか、本心を見せずにうじうじと煮え切
らないとか、慇懃無礼だとか、合理的思考に欠けているなどという噂は、このあたりの呼吸
がお互いにわかっていないために生じることがほとんどである。
これは、ヨーロッパ人が理性を尊ぶのに日本人は感情を優先させるからだとか、前者が合
理的思考を貫くのに後者は情緒に溺れるからだとかいうような、使い古された図式では説明
できない。そうではなくて、いつ、どこで、どういう理性の使い方をするか、どこでいかな
る感情が働くかという習性の違いであり、この習性は何世紀にもわたって、まず自然との関
わり合いの中で培われてきたものであり、それは日欧の間で大きく異なるものなのだ。双方
とも、それぞれの自然との関わり合いにおいては充分に合理的なのである。
二章
銀の国・日本
異文化に対する拒絶反応が強いヨーロッパ
東西ドイツ間の国境線は、東独側の張り巡らした鉄条網と監視塔により冷酷なほど確かと
なった。だが、西欧諸国間の国境線は、林や草原、山や河、または村のはずれにあって、そ
の土地の者以外にはなかなかわからない。たまたま出入国管理人が旅券をちらりと見たり、
めんどくさそうに「さっさと通れ」と手真似で示すので、「ああ、隣の国へ入るんだな」と意識
11
するだけのことである。このように、ヨーロッパの国々は地理的に無防備である。いつ、ど
こからでも侵入できる。誰が侵入するかといえばまず隣国。ヨーロッパ人の意識の中で隣国
は脅威である。常に防備怠りなく警戒の目を四方に注ぎ、同時に隙ありと見れば種々の大義
名分をかざしてこちらから侵入し、少しでも領土と住民をぶん取って権力を増そうとする動
きの連続であった。
この動きは強力な国家権力成立前の遥か昔から存在した。ゲルマン諸民族の大移動に伴う
暴行、虐殺、占領はもとより、のべ三回にわたるユーラシア中央部からの騎馬民族大侵入に
よるゲルマン諸部族の壊滅、混血、そして征服。ローマ帝国崩壊から十二世紀までのヨーロ
ッパ未開時代における暴力の蔓延と、それをイスラム圏に向けて組織した十字軍遠征。宗教
改革に伴って全ヨーロッパに波及した宗教のための狂暴な殺し合い。オスマントルコ大軍の
侵入と占領。ざっと眺めただけでも、ヨーロッパ人は自国の歴史が始まる前からすでに征服、
被征服の繰り返しの中で生きてきた。
今でもドイツには「スエーデン人が来る」という慣用句がある。それは十七世紀初め、三十
年戦争の頃、スエーデンのグスタフ王が軍隊の移動に伴う兵糧運搬費を節約するため、兵士
たちに、侵入した地域の住民から掠奪して生命をつなぐように命じたことから起っている。
飢えた大軍がいっせいに町や村々に侵入し、根こそぎ掠奪し、暴行、殺害、放火をほしいま
まにした過去がまだ傷痕を残しているのだ。その頃のオランダの国際法専門家フーゴー・グロ
ティウスは、法により戦乱の悲惨さをくいとめようと努力したことで知られているが、彼で
さえも、捕虜を処分することや老人や女子供を戦闘者として扱うこと、占領した地域を掠奪
や破壊により懲らしめることは合法的だと認めている。だから、三十年戦争で各国の軍隊が
入り乱れたドイツでは、結局二百万人の住民が生き残ったに過ぎない。ヨーロッパはどこも
時を異にして似たりよったりの血なま臭さであった。
近代国家がそれぞれ防衛組織を確立してから以後も、国境線は絶えず動き、国籍も大量に
変わった。それは第二次世界大戦終了まで、何回かの幕切れをはさんで延々と続き、戦闘殺
戮を身をもって知らない町はヨーロッパでは少ないと言われるまでになった。
今日のヨーロッパ人を見て私がどきりとするのは、彼らの魂の内側にまでこびりついてい
る自己防衛姿勢と、よそ者に対する疑惑の念、拒絶反応、あるいは堂々たる敵意である。よ
そ者というのは一見すぐそれとわかる異人種や異民族ばかりではない。自国民でも知らない
人にはたやすく気を許さない。それは自国のある地方が隣国とひそかに同盟して自国民を裏
切ったり、友好関係を結んでいた国が条約を一方的に破棄したり、自国をとりまく国々が知
らぬ間に虚々実々の駆け引きを行なっていたことなどがざらにあり、状況次第で人心はいく
らでも変わるものだという教訓が、歴史のゴミ箱の中に溢れているからである。
このような環境に何世紀もの間息づいていれば、侵入者や征服者に対する反感と、必ずい
つか仕返しをしてやるという敵愾心を内面に培ってきて当然であるが、同時に、異質の文化
に対する不審感や猜疑心も今日のヨーロッパ人に受け継がれている。異質の文化は必ず征服
者が押しつけた文化であり、憎らしい文化である。もちろん、国際化の激しい今日、ヨーロ
ッパの日常生活には異国情緒に充ちた室内装飾品や料理、アクセサリー、外来語や外来知識
が入り込んではいるが、それは自分たちの本質には触れない無害な時点にあると思われてい
る限り無抵抗に受け容れられているのであって、心の中では外来文化に対して常に武装し、
自分たちの習慣に合うか否かを不審の目で吟味し、懐疑的な態度を保ち続ける。また、自己
流をおいそれとは捨てない。ヨーロッパ人にとって見知らぬ物はすべて悪い物である。それ
は奇異な、異質の、自分に合わない物である。
しかし、外来文化の中にはより優れた技術、役立つ知識、うっとりするほど美しい物があ
って、ヨーロッパ人といえどもそれを自分のものにしたいと思うことがある。しかしながら、
そういった欲望はおくびにも出さないでおいて暗黙の内に取り入れ、取り入れた後で、「よく
調べてみるとこんなものはもともと我々の文化の中にも一つの要素として見出される」とか
12
何とか言って正当化せずには気がすまない。そういった正当化のための用語はヨーロッパ各
国の倉庫につまっている。やすやすと感心して嬉しそうに異文化を受け容れたとは絶対に思
われたくないし、そういう「面目丸つぶれ」には耐えられない。異文化を受け容れることは自
にが
国の文化を裏切り、自国のアイデンティティを失うことだという苦い歴史的経験がついてま
わるのである。だから自己流はたとえ時代おくれだとわかっていても捨てられないという心
理的重荷を負っている。
「まねる」から「まなび」が外来文化吸収法
これとは全く違った地理的環境に置かれているのが日本である。ユーラシア大陸の東の果
て大海の中にちらばる四つの島と四千近い小島から成る日本国は、隣国朝鮮とは海をへだて、
その海もドーヴァー海峡のごとく泳いで渡れるような静かな小さなものではなく、もっとも
短距離間でも百五十キロメートルに及ぶ。波は荒く、嵐や台風もやってきて、昔から何隻の
船が消えていったかわからないほど危険であった。こうした地理的条件のお蔭で、日本人は
ただの一度も異民族の征服や彼らによる圧政を体験せず、二千年余りを過してきた。
もちろん、古来大陸から多くの氏族が日本へ渡って来たが、彼らは日本人に改宗を迫った
り、少しでも抵抗すれば根絶やしにするような野蛮きわまる征服者としてではなく、大陸の
豊かな洗練された文化をお土産に日本へ帰化し、日本の風土にとけ込んでいった。日本から
も危険な旅を敢えて行ない、大陸へ渡って隋や唐の先進文化を学び、帰国後、政治、社会制
度、天文、宗教、医薬、文学、芸術、建築、農業技術など、いろいろの分野に大きな影響を
与えた人々も多い。
このように平穏で恵まれた環境に住む日本人にとって、モンゴル来襲は恐るべき大事件で
ジンギスカン
フビライ
あった。十三世紀空前の大帝国を建設した元の忽必烈は、ヨーロッパに侵入した成吉思汗の
孫であるが、彼は日本の征服をはかり、一二六八年以来度々使者を送って服従を迫ったが、
鎌倉幕府は返書を出さず、九州の防備を固めさせた。一二七四年十月、元・高麗の連合軍三万
余、船艦九百余隻の大軍は対馬を襲い博多湾に上陸した。巧みな戦法と新兵器、すなわち猛
烈な騒音と火花を発する武器を自在に用いて日本軍を退却させた。ところがたまたま暴風が
吹き荒れ、海流や土地の気象に不慣れな侵入軍は撃退された。その後、莫大な国防費を使っ
て警備をますます厳重にし、兵力を増強した日本に向って七年後の一二八一年六月、大軍十
四万余、船艦四千四百隻が再び博多湾に侵入、またも暴風の助けによって侵入軍を壊滅させ
ることができた。この大自然の威力を当時の日本人が「神風」と呼んだのも当然である。
この国家的規模による防御と戦闘のため、幕府の財政は極度に疲弊し、民衆は困窮したけ
れども、異民族による圧政を体験することなく、異文化を押しつけられたり、なぶりものに
されることなく、昔からやってきた通り、日本人だけの生活を日本流に続けることができた
のである。もちろん日本にも権力闘争に始まるさまざなな形の国内戦はあったが、それはい
わば日本人同士の内輪喧嘩で、ヨーロッパ人の歴史的体験とはその悪辣残忍さや規模の大き
さにおいて、全く比較にならない。町毎に幾重にも堅固な城壁をめぐらし、要所に監視塔を
築いて互いに敵視し合ったヨーロッパの幾世紀と、城壁といえば大名のお城のことだと思っ
ている日本との違いである。だから今日でも日本人は見知らぬ他人にも割合虚心坦懐に情報
を与える。ヨーロッパ人のようにお互いに用心深く、心を許した友人、知人以外の一切の他
人から常に自分を守るという気構えがない。銀行や市役所などで何かを申し込んで待ってい
ると、係の人が大声でこちらの名前を呼び上げ、金額なりその内容なりを説明するが、ひや
りとしてあたりに気を配るのは私のみで、他の日本人は別に気にもとめない。悪への限りな
い可能性と同居しているという意識が日常の中で希薄である。
外来文化を目前にしても本能的に警戒したり拒絶反応を示す日本人はまずいない。それど
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ころか、何でも触ってみなければ気のすまない子供のように、その未知なるものを自分の頭
と手で把握しようと、裏返してみたり分解してみたり、たたみ直してみたりして熱中し、そ
のうちに飽きてぽんと捨てるかと思うと、改良して日本化し日本の流れに乗せてしまう。ま
た学術思想でも何でもやたらに有難がり、本国では誰も意図しなかったような高尚深遠な解
釈を与えて信奉するし、特に英米仏独からの知識は大切に記録し、時あるごとにその出所を
強調するし、日本の文化人や芸術家は「日本のサルトル」だの「日本のルノアール」だと評され
れば当然讃辞と受取る。だからといって自国の文化を裏切ったとか、日本人としての誇りに
傷をつけたという意識は全くない。「日本人は自分のアイデンティティを見失ってしまったの
ではないか」などと考えるのはヨーロッパ人特有の気苦労である。
めまぐるしいほど何でもとり入れようとする日本人のエネルギーは、憎らしそうに歯ぎし
りしつ外来文化を横目にみてなかなか手を出さず、手を出せば威信にかかわるとやせ我慢し
ているヨーロッパ人の内的葛藤とは対照的である。ヨーロッパ人にとって他から、特に異文
化圏から「学ぶ」ということは文化的敗北を意味し、自分の劣等性を天下に白状したことにな
り、そんな赤恥をさらすくらいなら死んだ方がましなのである。日本人は昔から何事も自分
より優るものがあれば、まずそれを師匠にいただき、あるいは手本として、何から何まで「ま
ねる」ことによってそのものを次第に自分のものにするという「まなび」方をしてきたので、こ
の日本的学習の伝統は今日でも根強く生きている。自分より優るものが外国品であっても、
それを真似て、すなわち学んで、いつの間にか自分のものとすることは日本人の沽券に関わ
るどころか面目を施すことになる。これは前述の通り、外来文化接取に際し屈辱的体験を持
たず、心に傷を負っていないからである。
「金銀」に対する価値観の違い
ヨーロッパとの接触は、十六世紀中葉、ポルトガル商人が、種子島に漂流した時から始ま
るわけであるが、この事件を今日のヨーロッパ人は次のような笑い話にしている――「日本人
はそれまで見たことも聞いたこともない武器を携えてやってきた白人に恐れおののき、あた
ふたと平伏して、大名は自分の娘と金銀を差し出し、その魔法の筒と取り替えてくれと乞い
願った」
この笑い話は、日本人の鋭敏な本質を感知せず、無害で滑稽な土人とみている点で非常に
ヨーロッパ的である。日本人はそれまで東南アジアの諸地域で貿易をしてきた関係上、大砲
を備えた何十隻もの商船艦隊からアジア海域に出没し、変わった人相と風采の男どもが恐る
べき新兵器を駆使してマラッカを征服し、威力を増していることは伝え聞いていた。これら
危険な船舶がアジア海域に出没し始めたのは、彼らの幾人かが種子島に漂流するよりも三十
数年も前のことであった。だからこそ、漂流した船の中で何はさておき、音に聞くその新兵
器に目をつけ、重要性をみてとり、使い方を学んで実物を金銀できちんと買い上げている。
これがもし逆であったならば、ヨーロッパのどこかの海岸に侵入した異様な顔つきの漂流
者などは容赦なく殺し、船の中に金銀宝物はないかと探していたはずだ。鉄砲伝来の報がち
ょうど戦国時代で群雄割拠していたためもあって、またたく間に国中に拡がったが、二挺の
兵器を眺めてぶるぶる震えていたのではなく、日本人はまずその製造技術の謎を解くことに
専念し、一年後には早くも製造開始、その後大量生産を行うだけの実力を養っていた。だか
らこそ、武力と暴力でおびただしい諸民族を征服し、さらに世界制覇を目指していた当時の
ヨーロッパ人にも、日本にはちょっと手が出なかったのである。日本を植民地化することが
不可能であった事実とその原因を、ヨーロッパの歴史が正しく伝えていたならば、今日の日
本に対する認識ももう少し的を得たものになっていたであろう。
マルコ・ポーロの「東方見聞録」に出てくる黄金の国ジパングは十三世紀末以来ヨーロッパ
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人の夢をかき立て、後にコロンブスをはじめ多くの探検家に、未知数であった大洋航海遂行
の動機を与えた。
そして黄金の国ジパングは実在した。それはマルコ・ポーロが勝手に空想したわけではなく、
火山地帯から成る日本列島の岩石群には古来、貴金属が豊富に貯蔵され、外国貿易にはふん
だんに金を用いていた。取扱われる金銀の量について中国商人から聞き及んでいたマルコ・ポ
ーロは、ジパングの宮殿も大通りも金塊でできているとヨーロッパ的理想郷を描き出した。
それは日本人の趣味からは遠いため、日本にそんなものはなかったが、おびただしい金銀が
存在したことは地質学上の事実であった。
金が不朽であるために古代ギリシャ以前から永遠とか不変不滅という連想を与え、それを
所有することは「永遠」にあやかることだとヨーロッパの人々は信じていた。特に王侯貴族に
とってより多くの金銀を所持することはより大きい権力とその永遠性を意味した。また実際、
多くの金銀を用いて大軍を養う力があれば、人民を敵の侵入から守る力があることになる。
こうして金銀に対する飽くことなき所有欲は地中海から全ヨーロッパに浸透し、また所有す
る金銀を宮殿や王冠、室内装飾や首飾り、腕輪や指輪によって誇示し、不変的権力の在りか
を明確にし、同時に保護する力のあることを人民に示して安心感を与えてきた。キリスト教
の教会もその教義が不変であり、不滅であることを示すため、祭壇や祭器をはじめ、信者の
目につくあらゆる場所に、あくどいばかりに金銀を使った。
日本人にとっても金銀はまぶしく美しいもの、貴いものであったが、生命に賭けてもかき
集めて所有することにより、身が不滅になるのだとは考えなかった。日本各地の古い神社は
ひわだ
檜皮ぶきの屋根、檜造りであるが、それは不朽を意図しているのではない。不滅を保証して
いるのでもない。恒常不変を語っているのでもない。それは限りなく生々流転していく大自
然の一点であり、生命そのものである。それはまたどこかで、無常とか栄枯盛衰という情感
に通じ、日本人はそういった情感に支えられて生きてきた。金箔をほどこした金閣寺や、安
土桃山時代の華麗な金銀細工、金蒔絵、金屏風、金襴、金箔の部屋、黄金の茶室なども、金
きら
そのものに絶対不滅の価値をみて信奉したというよりも、金の煌びやかな美しさを紙や布や
木材との調和の上に活かして鑑賞したといった方が当っている。
もちろんその頃の支配者は観賞用とは別に、金銀を贈答用あるいは貨幣として貯蔵し、そ
のために盛んに鉱山開発を行なった。特に金銀が国際貿易の「ドル」であることがわかって以
来、別の意識で扱うようになっていた。しかし、だからといって金銀所有が身の不滅につな
がるという信仰もなく、見知らぬ国々へ出かけて貪欲に金銀を獲得しようという気もなかっ
た。
軍事組織と航海術においてヨーロッパ諸国を凌ぐポルトガルとスペインが国家の財政的援
助のもとに世界に乗り出し、ローマ法王は世界の所有者のごとく地球を東西に二分して、そ
れぞれこの二国にその領有権を与え、西回りの途についたスペイン人が極悪非道なやり方で
アステカ帝国やインカ帝国の市民を殺戮し、国を絶滅させて莫大な金銀を本国に運んでいる
ことなどは、当時の日本人は知る由もなかった。
その頃日本人はのんびりと海外貿易を行ない、すべて銀で支払っていたが、その輸出銀の
量だけでも全世界産額の三割に達し、十七世紀初頭には五割にまでのぼった。ということは、
スペイン人がアステカとインカを亡ぼしてまで奪い取り、本国に運んで豪奢を極めるために
使った銀の量は、日本人が平和貿易に自ら支出していた銀の量よりも少なかったのである。
世界史上における日本の位置がいかに重要であったかは明白であるが、ヨーロッパ人は今日
にいたるまでこの史実を知らない。なぜならば、それだけ豊かな日本を征服し植民地化して
金銀を奪い取ることができなかったからであり、それは日本が社会、軍事の全般にわたって
強大であったために手がつけられなかったからである。当時ヨーロッパ人がわざわざ日本ま
でやって来たのは、せめて貿易によって貴重な「ドル」を稼ごうとしたからで、日本に金銀が
乏しければ、事態は大きく変わっていたであろう。
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三章
あの世の力
宗教の政治介入は日欧の悩みだった
その頃、日欧ともに同じような問題を抱えていた。それは宗教の政治介入である。今日ヨ
ーロッパでも日本でもこの問題はどうもピンとこなくなったが、中近東のイスラム圏に目を
転ずれば、宗教が政治に介入し、教義が政策そのものを形作り、坊さんが民心を掌握してい
る状態がいかに重大な問題であるかが明白になるであろう。
中世から近世に移りゆく頃、日本でもヨーロッパでもそれぞれの宗教的権威が徹底的に世
俗化し猛威を振っていたが、それに対する反動が次の時代を創造していく。
ヨーロッパでは華麗な王侯生活をおくり、軍隊を擁して政治力を発揮するローマ法王への
不満と、堕落したカトリック教会全般に対する憤怒の念から宗教改革の火の手が上がり、新
教が生れ、新旧キリスト教の勢力争い、そして村から町、町から国、国からヨーロッパ大陸
に浸透したもっとも残酷な宗教のための戦争。日本では仏教各派、特に天台宗総本山の世俗
化と政治介入。それに浄土真宗本願寺教団と全国統一を目指す政治権力との激烈な衝突およ
び闘争であった。
それらがどのように始まり、どういう終末をみたかは、それぞれの宗教の内容と大きく関
係し、その後の社会の形成に決定的な影響を与えている。
「レリギオ」はさまざまに展開する
ラテン語の「レリギオ」という言葉は「宗教」と訳されているが、その原義は「結合を回復す
る」という意味で、この世とあの世、肉体と霊魂、把握できるものと不可測的なもの、あるい
は自分と神的存在の結びつきを取り戻すということである。人間はいつの時代にもこの目に
見えぬ神的な何かに思慕の念を抱き、畏敬と恐怖を、希望と不安を感じ、神的なものについ
て想像をめぐらしてきた。
例えば古代ギリシャ人は、神的なものは多種多様な姿をしていると考えた。この神々は人
間的特徴を持ち、人間のすぐ近くに住み、毎日の生活に関係して人間を助けたり罰したり妬
んだりした。どの神も不死ではあるが全知全能ではなかった。
日本の神々も不死ではあるが全知全能ではなく、陽気で楽しげな神々や厳しく怒りっぽい
神神がいて、太陽や月、海、河、森、畑、山、火山、岩、嵐、雨などにも神々がいて、人間
の日日の営みを助け、あるいは人間に祟って病気や死を招くと信じられた。人々はいつも神々
の存在を実感し、お願いし、鎮魂の祭りを行なった。これらの諸神は次第に歴史上の偉大な
人物の霊と共に、神道の神々となって今日も日本人の信仰の中に生きている。
ヨーロッパにも人間を呪ったり助けたりする種々の神々がいた。しかし、一神教であるキ
リスト教がそれらの古い神々を追い払い、教会は抵抗する者を武力で徹底的に改宗させた。
キリスト教が入ってくると、その神が絶対であり、すべて存在するものはこの唯一の神に
服従することになった。人間は旧新約聖書に啓示された神の言葉を理解して、地上にこの神
の支配を実現することがレリギオ、すなわち聖なるものに近づく一歩となった。
ゲルマン民族の神々へのかつての信仰はいろいろなぬけがらとなって今も残っている。た
とえば家を新築する際、棟木に常緑樹の枝をつけ、五色の吹き流しを結ぶ。大都会でも村で
も同じようにやっている。これは本来その土地の神々に感謝し、守ってもらえるようにと祈
って大工たちが行なったものであった。また夏至や冬至の日には今でも野良で火を上げ、大
晦日から元旦にかけては花火を盛んに打ち上げるが、元来は悪霊退治の魔よけであった。ク
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リスマスツリーとしてキリスト教の中に取り入れられた常緑樹が、冬至の日に豊作を感謝し
て北欧の太陽神に捧げられていたことは周知の通りである。
さてここで現在のヨーロッパ人の宗教へのかかわり方をざっとみてみよう。ヨーロッパ人
は生れた時に洗礼を授けられ、知らぬ間にキリスト教徒になり、公文書によれば新旧いずれ
かに属することになっているが、教義と真剣に取り組んで日常生活の指針にするとか心の糧
にするという人は稀であり、日曜毎に教会に行くのは人口の〇・一パーセントにも充たない。
学校では新旧キリスト教に分れて「宗教教育」という授業を行ない、それぞれ自分の宗派の教
義こそが絶対に正しいことを強調するために、お互いを敵視して喧嘩や殴り合いになること
もあり、何のための宗教教育なのか局外者にはわからないといわれる。最近になってこの課
目は必須ではなくなり、また高校卒業条件に入れなくともよいことになったため、授業をさ
ぼる者が増えてきたが、やはりこの課目が優秀であることは就職や進学に際し暗黙のうちに
プラスになると言われている。
社会人になってからも公文書には新旧いずれかに属することになっており、所得税の十分
の一は自動的に教会に回され、国教として君臨する新旧両派の経営に当てられる。これも最
近になって脱退可能の法律が通り、新旧いずれにも属さないことを税務署に届け出て公文書
に「無宗教」と明示すれば、その人の所得税の十分の一は教会に回されない。しかし、履歴書
をはじめ、一切の関係書類には所属宗教名を記さねばならないため、多くの人々は脱退から
生ずる出世への隠然たる悪影響を心配して、やはり新旧いずれかに属している。言うまでも
なくどの世代にもいかなる社会層にも一握りの人道主義者がいて社会改善や隣人援助に心を
くだいているが、それは教会の外で、キリスト教とは直接関係なく行なわれていることが多
い。
要するに教会があまりにも長い間社会を規制し人心を牛耳ってきたために、「もう結構だ
よ」という気持ちが人々の心の中にあり飽き飽きしているのが実状である。
このように今日のヨーロッパ人はキリスト教に対しても無関心となったが、それでも千年
余りの間に隈なく掘りかえされた一神教的風土は、ヨーロッパ人の心の中に一つの痕跡をく
っきりと残している。彼らが崇高な神的な、あるいは不可解な何ものかを想像する時は、全
世界を創り支配する全知全能の神に焦点が絞られる。この神以外の何ものかを仰ぎ、崇高さ
を感じることはどこか後ろめたい。自分は異端であるという意識がつきまとう。かといって
ヨーロッパ人は仏教についても何も知らない。スリランカから日本まで旅すれば、坊主頭に
卵の黄身のような色の衣を着た無表情な僧侶の一列行進をカメラにおさめることが可能だく
らいに思っている。またもう少し学のある人は禅とか瞑想とか悟りという言葉を知っており、
神秘で謎めいた教えだと思っている。
また次第に仏教に魅かれて信仰に入ったとしても、それを大声で言うことはあまり賢明な
ことではない。あくまで宗教を「研究」しているのであって、仏教にしろ何にしろ他宗に入る
ようではまともな人間とはみられなくなる。
この傾向は宗教の自由を謳いつつ隠然と存在する。大新聞社や放送局のスタッフでそのた
めに左遷された人を時折みかける。これは一神教の風土では避け難い宿命のようなもので、
ユダヤ教徒迫害をいつでも可能にする素地もここにある。
また世の中が不景気になると真先に出稼ぎ労働者に対する風当たりが強くなるのは当然で
あるが、その中でもイスラム教徒であるトルコ人労働者が嫌悪され排斥されるのも偶然では
ない。毎日一定の時間がくると道の上に小さな手織りの絨毯を敷き、マホメットのメッカの
方角に向って土下座して祈禱するトルコ人の姿を一般のキリスト教徒は嘲笑の目で眺めてい
るが、それは日本人の私には驚くべき発見である。祈りつつ何度も頭を地につけるトルコ人
の姿は私の目には尊いものに見え、思わずこちらも頭を下げて邪魔にならぬように足早に通
り過ぎるが、石でも投げつけんばかりの雰囲気を漂わせてじろじろ見つめている通行人の目
は憎悪に充ちている。
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他力本願の思想が庶民をひきつけた
仏教は唯一絶対なる神とか、全知全能の創造主という原理を認めない。そういった具体的な
神があるかないか、どんな性格や力を有しているかなどを問題にして議論する時、すでに真
理は去って、心は固定し、囚われ、執着していると説く。世の初めとか終わりについて、世
界や人間の創造について、仏陀は語らなかった。弟子たちがそういった問いを投げかけた時、
彼は沈黙を守った。仏陀が悩み抜いたのは、神的なものがどういう意志をもち、どんな能力
があるのかというよりも、自分の心があらゆる葛藤のとりこになって、自己の内なるものが
自己に背く、だから高きを渇望しつつ欲に囚われ、おびえ怒り悲しみ迷っているという人間
の側の現実であった。いかにして己れの心を己から開放し、何ものにも乱されない無の境地
うんぬん
に入るかが仏陀の中心テーマである。彼は神的なものの本質を云々するのではなく、人間の
心から煩悩を滅し尽すことと、そのための実践道を説いた。
仏教が中国から朝鮮を経て日本へきた時は仏滅後、すでに千年を過ぎており、インドから
カシュミール、カラコルム、チベットとシルクロードの旅を続けた後だった。仏陀は神格化
され、衆生を救おうと誓った諸仏の願の力にすがる民衆の心が反映して、多くの仏を生み、
菩薩たちが信仰され、厄除けの呪術や吉凶占いの要素もまぎれ込んでいた。
こういった内容の仏教は、日本古来の神々を排斥、迫害、あるいは根絶するようなことは
なく、人生の不安と恐怖を取り除く霊験あらたかな祈禱仏教として日本の風土に入っていっ
た。初めは天皇や貴族、そして次第に武士や庶民に信仰され、それぞれの要請に応えてさま
ざまな宗派ができ、何千という寺が全国に建てられ、土地や財産の寄進を受け、制度化し、
本来の宗教的権威を基にして世俗的野心を拡張していった。
「国家権力が衰えるほど、宗教権力がはびこる」という慣用句がヨーロッパにあるが、日本
の戦国時代は政権の空白を突いて、有力な仏教各派が人心をとらえ、経済的軍事的威力を思
ねごろ
う存分展開した時代である。たとえば堺より南にある根来の真言宗僧兵たちは、種子島島主
がポルトガル人から買い上げた例の鉄砲二挺のうち一挺をいち早く入手して、製造方法を学
ぶほどに軍事に執心し、厖大な地域を支配し、その威力は天下に知れ渡っていた。また京都
の東北、東山連峰の頂点に当る比叡山は、八世紀末より天台宗総本山として幾多の名僧を出
したが、広壮な寺領自衛のために早くから私兵を置いた。これが急速に増え、暴力をもって
強訴するので悪僧と呼ばれた。天皇はじめ公家も幕府も、比叡山の伝統的権威の前に尻込み
し、祟りを恐れて僧兵たちのなすままになっていた。
一方浄土真宗は各地方の農民層に浸透し、おびただしい門徒の組織化が進み、その勢力の
強い地域では盛んに一揆が起った。もちろん支配者や高利貸資本に対抗する一揆は、自営農
民を中心とした村の団結の強い地方では、すでに十五世紀初めから起っており、次第に激化
して戦国大名の争いにまき込まれていったので、必ずしも浄土真宗門徒のみが起したわけで
はないが、後者には、門徒の頂点に君臨し、宗教的権威をもって門徒を大規模に動かす本願
寺法主がいて、戦国時代の大詰め、全国統一を完成しようとする政治権力に真向から対決し、
根強い抵抗を示した。
その力は何であったか。
仏陀は具体的な死後の世界について語らなかった。しかし、人間にとって最大の不安と恐
怖が死である以上、来世思想がインドから中国そして日本へ渡った仏教の中に大きな位置を
占めていたのも当然であろう。地獄極楽を眼前に見るがごとく描いて死への恐怖を取り除き、
この世での生き方次第で死後に行く世界が決まるという思想は、ユダヤ教、キリスト教、イ
スラム教にも顕著であるが、仏教の極楽は浄土と呼ばれ、完全な知恵を象徴する無量の光と、
大いなる慈悲を象徴する無量の寿を備えた阿弥陀仏がいて、すべてのものを救う。ここには
苦悩なく、幸せと安らかさのみが充ち充ちている。生前この仏を拝し、一日に六、七万遍念
仏を唱えると、無智愚鈍の凡夫も仏の力によってこの素晴らしい世界に生まれ変わることが
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できる。これが浄土教の信仰である。
しかし、早朝から夜更けまで働いている大多数の庶民にとっては、念仏の時間などは見出
せなかった。そこに現れたのが浄土真宗である。この開祖は阿弥陀仏への信仰心のみが極楽
往生の鍵だと説いた。念仏の回数ではなく、この仏にすがる心のみ。また人間の行ないの良
し悪しによらず、いかなる悪人といえども阿弥陀仏を信ずる心を持ったならば、仏の慈悲に
よって浄土に行くことができると説いた。人間の絶対的無力に裏打ちされたこの他力本願は、
各地方の農民層に徐々に拡がり、十五世紀中葉、門徒を村々の講によって末寺毎にしっかり
と団結させ、本願寺教団の下に組織した優秀な法主により、急激に力を増していった。
「破門」の権限を確立し、死後の世界を掌握
ところがここに大きな危険が内蔵されていた。阿弥陀仏を信じさえすれば救われるという
ことは、阿弥陀仏以外の諸仏や神々は無益無用だと解釈できる。ここに仏教諸宗や神道に対
する軽蔑、嘲笑、否定の態度が生れ、浄土真宗勢力の増強と共に、一神教の風土にのみ特有
の宗教的不寛容がはびこり始めた。これら排他的な門徒群にとりまかれた他宗の寺院は、ほ
とんど浄土真宗に転宗か廃寺の憂き目をみるに到った。また信心のみにより救われるという
ことは、信心さえすれば後は何をしようと浄土行きは保証されているというので、酒や賭博
にふけり、年貢未納に始まる大名への反抗から一揆に発展していった。
もちろん一揆は農民門徒だけの力で遂行されたのではなく、その膨大な数と組織を自分の
出世のために利用しようと計る土地の武士たちが門徒となって、農民を軍事的に指導したの
である。そして講が単位となって経済的負担を果していった。
これら農民、武士、土豪、末寺僧侶たちの一大組織を統治する教団の法主は、門徒統制の
必要上、「破門」という権限を自分の手に確立した。これが信者に与える精神的経済的打撃は、
今日でもカトリック教徒ならば身にしみてわかるであろう。ヨーロッパの場合と同じく、破
門された者は村八分にあい、生計が立たなくて死ぬより仕方ない。日本ではそれでもまだ他
宗を信ずる地域があり、そこへ逃亡することも考えられたが、逃げようとすれば逃げ道をふ
むけん
さがれて殺害された。また死んでも無間地獄に落ち永久に苦しまねばならぬ。
破門の理由は、本願寺の教え以外を信じたり、本願寺への毎年の納金を怠ったり、本願寺
の命令に背いた場合であって、たとえば一揆を起こすことが教線拡張に不利であるとみなさ
れた間は、一揆を堅く禁じ、背いた者は破門された。本願寺への納金は、凶作や疫病のいか
んにかかわらず容赦なく取り立て、納めることができない者は破門をもって処罰した。同時
に破門を取り消しにする権限も法主にあった。後生御免は死人にさえ適用された。宗教改革
前のカトリック教会が天国地獄を武器にして存分に暴威をふるったのと不思議なくらい似て
いる。言うまでもなく、法王や法主が直接一人一人を破門したり免罪するのではなく、各地
域の司祭なり僧侶を動かし、それらを見張って暗躍する目付役たちが暴威をふるったのであ
る。
浄土――阿弥陀仏が無量の知恵と光に充ちて存在する安らかな美しい世界。この仏を信じ
さえすれば誰でも行ける世界。法主や僧侶の仲介を必要とせず、信仰によって無条件に行け
る世界。それはここにおいて破壊された。浄土真宗開祖の教えは根底において消滅し、阿弥
陀仏の大慈悲にすがる捨身の信心は問題ではなくなった。浄土へ行くのも地獄へ落ちるのも、
本願寺法主次第となった。
こうして死後の世界を掌握した法主は、膨大な門徒の組織の上に君臨し、安定した経済力
に支えられ、一大政治勢力として全国的拡張を計っていった。
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四章
近世の黎明
人間信頼の現世主義
一五六八年、織田信長が京都入りを遂に実現し、日本史に近世の黎明を告げた。
戦国の世に城主の子として生れ、十七歳で父の跡を継ぎ、絶え間ない情報収集と綿密な計
算と、鮮やかな行動力によって、幾つもの戦争を勝ち抜いたこの覇者は、また同時に次の時
代を開拓し創造していくだけの卓越した能力を備えていた。それは過去百年の間に破壊され
忘却され、あるいは育成されたさまざまな潮流の中から、取捨選択する鋭敏な感覚と不敵な
実行力であった。
現世をみつめて燃え続けた信長の政策の核心は、ルネッサンスのヨーロッパに見られるご
とく、人間信頼に立脚したこの世主義であり、家柄や身分を越えた人間そのものの才能と実
力謳歌であり、それを可能にするための商業活動の奨励であった。諸国の関所撤廃、楽市楽
座、鉱山の開発、通貨の統一、運河や堤防、橋の整備、道路の拡張などにより、まず交通と
商業の発展を計り、これを全国的規模にまで拡大していこうとする方向を示した。
そのために都市が発達し、商品流通が盛んになり、貨幣経済に彩られた都市文化が花咲き
始めた。その文化は町衆、特に京都や堺の豪商や上層町人を中心とした明るく開放的な、活
力に充ちたもので、能、狂言、漆器、陶器、お伽草子や閑吟集、襖絵、絹織物、刀剣や鏡や
面などの発達であった。茶室はまた当時のサロンとして独自の展開をみ、建築や造園も新し
い視角を呈示した。京都の人口は三十万近く、同時代有数の都ベニスやパリの倍に近かった。
ルネッサンス期のイタリア上層商人が、都市化と商業に支えられた文化を生み出し、舞踏、
音楽、美術、建築、家具や絨毯、ステンドグラスの窓などに創造性を発揮し、生活を享受し、
社交を発達させたのと同じである。
ただしここに見落としてはならない重大な違いがある。それはルネッサンス文化の担い手
が、読み書き計算を基礎にして経済力を築いた商人であり、騎士や封建諸侯ではなかったと
いう点である。ライン河を船で渡ると古いお城が次々に現れるが、中世の頃そこに住んでい
た騎士達は武装してライン河畔におり来たり、どっさり積荷して河を下る船を襲って食料そ
の他日常品を奪い取り、いち早く姿を消すのが常だった。「盗賊騎士」すなわち海賊ならぬ河
賊であった。商人や船大工はだから河賊たちを恐れ憎んでいた。そういった騎士はしかし十
五世紀頃には存在理由を失い、戦争のある時には、農村の次男以下、耕作地をもらえない貧
農が臨時に兵卒として雇われるようになり、その雇い主は商才にたけた専門家で、戦争を始
めようとする王や貴族と掛け合って、値のいい方に兵力を売った。だから兵卒の身分や地位
は低く、主君への忠義心などは育たなかったが、封建諸侯やその家来たちも、武術や狩猟に
長じ、所有地の生産力に頼って保守的文化を形成してはいたが、学問一般を重んじる気風に
欠けていた。字の書けない諸侯も多く、読み書きの専門家を雇っていた。新しい経済知識を
学んで実際に応用するとか、法律を考案作成して官僚群を統治するとか、学問に重点を置く
という傾向が少なかった。
封建諸侯の理想は武術を磨き、華やかな服装を競って仕合いを行ない、広大な土地で狩り
を楽しみ、城内で宴を張り恋にふけり、思う存分消費することであった。だから交易、金融、
教育、技術の分野を開拓して新しい都市文化を創造していった上層商人たちに遅れを取り、
彼らの文化水準を理解することも、その豊かさを利用することもできなかった。諸侯たちの
保守的文化を尻目に、それとは別のところでルネッサンスの都市文化は開花し、商人は都市
経済に支えられて政治力を発揮した。諸侯たちは、いくら武術や狩りに優れていても商人た
ちを精神的に把握することができず、したがって彼らを政治的に支配することは無理だった
のである。商人たちはその後も有力な商業都市をヨーロッパ各地につくり、内政に関しては
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自治独立を保ったが、一応、皇帝や王の支配下にあった。
信長は戦国時代に終わりを告げた武将であったのみならず、次の時代を創造していく能力
を備えていた。彼は荒廃した京都を再興するために、広大な土地を所有する寺社から納税さ
せ、西陣の商工業者を諸役免除をもって厚遇し、当代随一の貿易港堺を直轄地とした。これ
は武力による自治制の破壊、市民生活の壊滅などと日本の歴史家は言っているが、皇帝や王
の支配下にあって一定の税金を支払いつつ、内政に関してはある程度の自治を保っていたヨ
ーロッパの商業都市とほとんど変わりはない。堺の豪商たちは信長の武力に屈服したのでは
なく、彼に矢を向けて闘ったのでもなく、彼と手を握って直轄地となりつつ、商業を発展さ
せることができると判断したのである。それは信長が都市文化の最先端をいく上層町人を、
政治的にも精神的にも把握するだけの力量を備えていたからである。
やせぎすで長身、端正な細面に鋭い瞳のこの覇者が、都市を舞台に斬新な生活感覚を育て
ていく町衆たちを畏縮させるのではなく、躍動させるだけの開放的で豪胆なヴィジョンを持
っていたのである。それは、今、ここに生きる生命力の肯定であり、人間の可能性への挑戦
であった。彼は現状をおさえ、裏側の情報をつかみ、明細に計画し、俊敏に行動していった
が、その白熱のような生命感は、死後の世界に縛られ、あるいは悪霊の祟りを信じて生きる
中世的意識構造とは対照的であった。
だからこそ、あの世を武器に人心を握り、それを利用して政治勢力と化した比叡山天台宗
や浄土真宗教団にとって、信長は脅威であり、彼らの生存の土台を崩す大敵であった。この
男が国内統一を完成すれば、広大な寺領を砦に治外法権を確立し、強訴し、呪詛し、政治介
入を行なってきた伝統が危険にさらされる。それを未然に防ぐため、比叡山は反信長一味を
かくまったり、信長に反旗を翻す大名を援助して前後から邪魔をし続けた。信長は山門が中
むね
立を守れば没収した山領も返すが、軍事介入を続けるならば山上山下焼き討ちにする旨、最
後通牒を出した。
古くから歴代天皇の崇敬厚く、都の守り神として仰ぎ見られたこの山の宗教的権威を笠に
着た山門は、高笑いと共に信長への反撥の態度を明らかにし、統一を妨害し続けた。信長は
期を狙い、ある暁に不意討ちをかけ、最後通牒を文字通り実行したのである。
比叡山麓山頂の寺社は一時に炎上し、古代からの仏像、書物、経典、中国やインドからの
宝物書画などはほとんど灰燼となった。山内の僧俗男女数千人が殺戮され、八世紀から続い
た仏教王国の砦は壊滅した。その後の比叡山は自ら法則を定め、僧侶の道徳的水準を高めて
宗教本来の使命と任務に立ち返っていった。
政教分離を断行し、宗教活動を保証
一方浄土真宗本願寺教団の法主は全国の門徒群に激を飛ばし、法敵信長と戦えと命じ、闘
わぬ者は破門にすると布告した。また戦死する者は必ず浄土へ行けると保証し、ここに十年
余りにわたる信長対法主の凄じい戦争が全国的規模で繰り広げられた。直接の動機は当時本
願寺のあった大坂の石山が、水陸の便もよく軍事的経済的にも重要であるため、信長が本願
寺の開け渡しを迫ったからであった。しかし、もっと根深いところにこの長く激しい戦いを
持続させる真の原因があった。
それはその頃までに築かれていた法主の将軍的性格と、教団の一員となってその力を借り
て出世を計ってきた武士門徒の運命が、信長政権の確立によって破滅に到るからであった。
ここで信長を打ちのめさなければ、自分達の政治生命が消えるからであった。それはもはや
法燈を守るなどという信仰の問題ではなく、それを大義名分にかざして農民門徒の憎悪を煽
り、闘争心をかりたて、信長を破って教団の政治勢力を守ることであった。
常に兵士六、七千人を手元に置く法主は、各地の門徒群に刻々と命令し、まだ信長に降っ
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ていない大名たちと手を結び、武器、特に鉄砲の大量注文を続々行ない、ゲリラ戦術をもっ
て こ
て信長を手子ずらせ窮地に落とし入れ、行く手をはばんで政治的統一を妨害した。そうして
十年の歳月が流れ去った。
その間信長は各地の門徒群を撃破していったが損害も大きかった。あの世の運命を賭けて
闘う狂信的な門徒の力は恐ろしいものであった。法主の最後の頼みの綱は広島地方の大名の
水軍であったが、信長は大型の艦船七隻を造らせて海上封鎖を行ない、食料の補給を遮断し
た。信長の着想によるこの船は、鉄砲の弾丸が通らないよう鉄で造られ、幾つもの大砲を積
んでいたが、これは世界最初の鉄船であった。鉄船はヨーロッパでも十八世紀に入ってから
初めて建造された。信長は法主をようやく攻囲し、孤立させ、遂に降伏させた。
ここでヨーロッパ人ならば当然、浄土真宗教団を徹底的に壊滅させるべく次の処置を取っ
たことであろう。すなわち法主をはじめ全国の武士および農民門徒を殺戮し、本願寺やその
末寺を邪宗の巣として全面的に破却し、邪教である浄土真宗を信ずることを今後一切禁止し
たであろう。敵の宗教を悪魔の教えとして根こそぎ破壊しなければ気のすまないヨーロッパ
人の精神風土からみれば、それは当然の処置である。
しかし、信長は天皇に仲介を依頼し、法主の顔を立てて平和のうちに大坂を去らしめたの
である。そればかりではない。法主の宗教活動の自由と末寺の僧侶および門徒の安全を保証
し、没収した領園や寺領を返し、この宗派が今後財政的に成り立つようにという考慮を忘れ
なかった。ただ一つの交換条件は、宗教が二度と再び政治に介入しないことであった。
信長自身は浄土も地獄も信じない冷徹なリアリストであったが、それを信じそれに救いを
求めて生きる者を否定したり、根絶しようという傲慢さは全く持ち合わせていなかった。彼
が最後まで激闘した目的は、あの世を恐れる人間の心理を掌握して政治勢力と化し、戦闘殺
戮をほしいままにして憚らない宗教教団を純粋な信仰の世界に立ち返らせることであった。
神仏や信仰の否定ではなく、それへの復帰を可能ならしめたのである。
信教の自由は信長から始まる
政教分離が中世から近世に移りゆくこの時点ですでに行なわれ、しかも一つの宗派も根だ
やしにされなかったという史実は、その後の日本人の意識構造に決定的な影響を及ぼしてい
る。それは今日たとえば首相や大臣が何の宗派に属しているのかという、ヨーロッパやアメ
リカでは重大な問題が、日本では問題にさえならないし、また万一文部大臣が浄土真宗の信
者であっても、学校の教科書がこの宗派を贔屓目に扱うようにはならない。国民の意識を大
きく左右する日本放送協会の会長が禅宗なのか新興宗教に凝っているのか誰も気に留めない
し、あら探しの好きな週刊誌もこの問題には無関心である。それは自分の属する宗派の教え
や信仰の内容は自分の内なる問題であって、人に押しつけたり、職場を通して広めなければ
ならないとは思わないからである。
西ドイツ国営放送の会長がカトリックか新教かによって、番組の内容に当然大きな差が生
じ、たとえばカトリックの会長ならば旧教の教会が断固として反対している人工妊娠中絶に
ついて視聴者に影響を及ぼす番組を作るとか、新教の会長ならば新教側が力説する男女のあ
り方についての討論番組を増やすとか放送時間帯を考慮するなど、旧教的あるいは新教的傾
向を番組の数、内容、配置によっていくらでも強化していく。また新旧両教会は教会の政策
なり長期計画を体得した腹心のスタッフを局内の重要ポストにつかせるよう陰に日なたに働
きかけ人事を大幅に決定する。人々の関心がキリスト教から離れていけばいくほど、教会の
圧力は増し、キリスト教を根底から批判する番組は編集の段階で削り取られる。同時に他宗
をあまり誉めるような傾向も微妙に押えつけられるし、科学技術に信頼を持つ気配が濃厚に
なるとそれを阻止するべく、文明の悪とそれを「生み出した」科学技術に抗議するドキュメン
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タリーを作る。牧師が聖服を着てテレビの画面に現れ時事問題を取り上げて教訓を垂れる。
これも日本ではまず考えられないことである。
それは戦後の新憲法が信教の自由を謳っているからだというような近視眼的説明では間に
合わない。明治以来の国家神道に対する反動として押し出された新憲法の信教の自由よりも
遥か昔、四百年前に、信長によって、宗教は政治に介入しないこと、信仰の内容は問わない
ことの二つの基本線が引かれていたからこそ、その後、宗教勢力の政界における横暴が阻止
され、その結果日本人は、宗教教団に対する嫌悪や怨恨の情を育む必要もなく、また自分の
宗派のみが絶対に正しく、他はすべて邪教だから滅亡させねばならぬという排他的な思惟方
法も育たず、仏教的世界観は、神道の人生観と融合して、静かな地下水のように日本の風土
をうるおすことができたのである。
一人の日本人が神道と仏教の二つの宗教に同時に属し、結婚式は神式、葬式は仏式でやる
のも珍しくないというようなことを、日本を訪れるヨーロッパのジャーナリストや文化人は
必ず本国へ通信するが、それは一神教の排他性と自己正当化に慣れたヨーロッパ人にはどう
してもわからない感覚なのである。また結婚相手を選ぶ時、お互いの宗教は問題にならない
し、所属する宗教名を聞かれても即座に答えられない日本人もいるというような事実は必ず
報道される。ヨーロッパでは、現在でもカトリックに属する者が新教の相手と結婚する時は
特殊な、少々異様な、もの好きなこととしてみられるからで、大反対する親も多く、教会の
許可もなかなか得られない。特に旧教側は、そういった「混血結婚」を許して挙式する条件と
して、生れる子供はことごとく旧教の洗礼を受けさせること、すなわち旧教勢力を子供によ
って確保することを誓わせる。そんなのは嫌だという人は教会から正式に脱退しなければな
らない。それは社会的にも相当の勇気を要することである。所属する宗教は結婚に際し、国
籍などより重要視される。女性を対象とした世論調査で「あなたが人工授精すると仮定して、
精子の選択が可能ならば何を条件にするか」という質問に対し、「夫と同じ人種と宗教」と答え
た人が八割を越えていた。人種というのはわかっても、それと同じ比重を宗教に置くのは日
本人には不可解である。
日本人は宗教に無関心だと言われる。また現世利益を願う低次元の宗教心しかないといわ
れる。一回きりの人生が少しでも都合よくいくようにと、無病息災、家内安全、商売繁盛を
祈願することがなぜ低次元なのかは別として、そのような切実な問題を大ぴらに、誰に恥じ
ることもなく祈ることが憚られるようなキリスト教社会では、人々は自己欺瞞におち入り、
心の中で何かがいつも抑圧されて、精神分析医の待合室を占めるようになる。人口に比例し
た精神分析医の数は、日本に比べて遥かに多く、患者は増加の一途をたどっている。もちろ
ん種々の原因があるが、世界平和を願い人類愛を唱え、創造主に感謝し謙虚になれと教えら
れる一方、現世利益を願うことが低次元の宗教心だという不文律が西欧社会にあって、これ
が民衆の心を歪め、あるいは逆立ちさせていることは事実である。ヨーロッパでも皆自分の
健康、家族の安泰、職場での昇進そして自分と家族の長寿、すなわち現世利益を願う気持ち
がもっとも切実であることには変わりない。しかし、そういった気持ちは高尚な宗教心から
程遠い利己的な低次元の世界に属するといわれてきたために、表立って口にすることができ
ない。ドイツ、スイス、オーストリアの文化団体、経営者団体、あるいは大学などで講演す
る時、この矛盾に触れると必ず大きな反響がある。質疑応答は講演そのものより長くなるの
が常である。それは立派な教義体系やきれいごとでは片付かないようなヨーロッパ社会の底
に潜む矛盾である。
日本人は確かに現世利益を堂々と祈願する。正月や祭りの時の参拝もこの祈願で一杯であ
る。と同時にレリギオ、すなわち未知なるものに憧れ、不可解な力を恐れ、神々しい何かに
触れたいという人間の根源的願望は、日本人の中に生きている。それは神社仏閣を訪れた時
ばかりとは限らない。日没を眺めたり、バッハを聞いている時、あるいは近親者の死に接し
たり、自分が大病した時、何かに祈るような気持ちになる人は多い。
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ただし、その祈る対象が唯一絶対の父なる神でなければ本当の信仰ではないという規制は、
日本社会のどこにも存在しない。八百万の神々や仏や菩薩がいっぱいいて、自分の思うまま
に選べばよいし、別に選ばなくてもよい。何か自分にはわからない偉大な力というだけでよ
い。日本では、宗教は人間のために存在するのであって、人間が宗教のために生きているの
ではないからである。
五章
ヨーロッパの苦悩
キリスト教教義から解放され、人間の大切さを見直す時代へ
天国と地獄を武器にキリスト教会が全面的かつ徹底的に人心を支配したヨーロッパの中世
社会は、当時の世界にあって、もっとも沈滞し、文盲と暴力のはびこる未開地域の一つであ
った。戦争に従事し掠奪して生存する者、祈る者、耕す者の三層から成り、生産力は低く人
口も少なく、商工業は未発達、都市は芽生えなかった。学問は新旧約聖書の解釈、すなわち
神学一辺倒で、教会の手に握られていた。
それに比べお隣りのイスラム圏は黄金時代を誇り、東方貿易を独占して豊かな生活を享受
し、強固な軍事力をあまねく拡張していた。大学や研究所では、代数、幾何、物理、化学、
天文、解剖学を含む医学、薬草学、法律、政治、論理学、形而上学、倫理、言語学、文学、
神学などさまざまの分野が研究され、地球儀を使って地理教育を行ない、地球の大きさを計
算し、天文台を作り、航海術を究め、また外来と入院の両患者を扱う病院を設立していた。
同じ一神教を奉じながら、キリスト教文化圏との差はあまりに大きく、ヨーロッパは羨望
と焦燥の念にかられざるを得なかった。何とかしてイスラム圏に追いつき、できることなら
追い越そうとする競争心が、当然のことながらヨーロッパの識者を支配した。しかし、全知
全能の神をいただき、その教義の中に一切の真理が体系づけられているはずなので、他から、
特にイスラム文化から学ぶ必要を認識することは、キリスト教の敗北を意味した。そのため、
ヨーロッパ人は何とか貧困を克服して豊かになりたいという欲求と、あの世の至福を売り物
に専制抑圧を続ける教会との間に立って、何世紀もの間苦しみ、その苦悩の底から近世を生
み出したのである。
その一つの潮流がルネッサンスに象徴される人間礼讃の文芸復興である。それは神がすべ
てであり、人間は無価値であるという教会の教義が、万人に浸透した社会に対する反抗であ
り、人間の大切さを見直し、人間の能力への自信を回復し、あの世への準備から断絶して現
世を見つめる心の転換である。それを可能にしたのが一つにはイスラム圏に保存されてきた
ギリシャ・ラテンの古典文化であった。アラブ人はギリシャ、ペルシャ、インドなどからおび
ただしい書物をアラビア語に訳し、哲学、文学、科学の伝統を大切に守ってきた。これを少
しずつラテン語に訳し、キリスト教が生れる前の古典文化の素晴しさ、幅の広さに触れ、驚
嘆し、そこへ復帰することによって、神学的世界観から解放されたわけである。
と同時に、地中海貿易を発達させ、イスラム圏の東方貿易からのおこぼれをいただき、少
しずつ経済力を貯え、都市を形成し、政治力を養い、教育も宗教教育万能から世俗のことに
重点を置くようになった。この人間主義はベーコンやデカルトにみられるように、その後啓
蒙思想としてヨーロッパ各地にいろいろな形で根を張り始めたが、それは中世の教会専制を
前提として初めて理解できることである。人間は教会から思考内容も感情も一切を監督され
るべきではなく、自分で考える能力をもった存在であり、神に対してさえも自律性を保ち、
思考の自由領域をもっているという、今日ではわかり切ったことが、当時は革命的な響きを
もって人々に受け容れられた。またこの人間主義は、大衆を教育するのではなく、限られた
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階級の哲学であり、経済力の裏づけを必要としたことはいうまでもない。
製紙と印刷技術の発達がもたらしたもの
見落としてならないことは、こういった思想の伝達に必要な書物であり、書物を作るため
の製紙業と印刷術の発達であった。紙は中国人の発明で、包装紙、書用紙、便所の紙などす
べて中国のみで作られ、七世紀までおよそ八百年間、製紙技術は中国人の独占するところで
あったが、八世紀になって、サマルカンドにいた中国人捕虜からアラブ人が習得してダマス
カスに持ち帰り、広まった。アラブ人がスペインを征服した折、バレンシア地方に製紙技術
を伝え、十三世紀になってヨーロッパではようやく製紙業が営まれるようになった。中国人
は手で漉いたが、ヨーロッパでは水車のエネルギーを利用して大量生産を行ない、十五世紀
末にはイギリスでも習得し、十六世紀中葉にやっとロシアに伝わった。
印刷術も中国人の発明であるが、十五世紀中葉ドイツではるかに能率の高い技術が考え出
され、十五世紀末にはヨーロッパ全土に広がった。
宗教改革も、製紙と印刷というこの両技術が普及していたからこそ可能であったといえよ
う。ローマ法王庁の精神的堕落と政治力の発揮に伴い、教会は富と権力の巣となり、司祭そ
の他の聖職は売買され、犯した罪は金で取り消され、天国行き切符も金で入手でき、礼拝は
豪奢を極め、形式にのみにこだわり、教義はますます複雑化して神学は人心を抑圧し、司祭
の仲介を経なければ人生何一つ自分で解決できないという状態に対して、不満を爆発させた
のがルターであった。「聖書に帰れ」という彼の叫びは、聖書そのものを坊さんを通さずに自
分で読めということであるが、聖書を大量印刷する技術が前提にあってやっとできたことで
ある。ドイツ語だけで一万四千冊が作られ、その他十七ヵ国語に訳された。
もちろん当時はほとんどが文盲であり、読み聞かせてもらうのであったが、十六世紀中葉
にはドイツの半分は新教になっていた。新教もしかしながら、宗教が政治勢力として社会を
支配することには何ら疑問を投げかけていない。それどころか、少しでも多くの領土を新教
勢力下におくために、さまざまな工夫がなされ、生れた子に洗礼を授けて宗旨を定めること
などは、聖書のどこにも要求されていないにもかかわらず断行し、これに従わない親たちは
容赦なく死刑に処せられた。
また領主が新教になれば領民も自動的に新教とならねば許されず、領主がまた旧教に帰れ
ば領民も旧教になった。個人の考えとか意思などは省みられず、権威への服従をモットーと
する中世的精神構造が、対象をすりかえて存在し続けた。宗教改革者はみな自分の教義のみ
が救いをもたらすとして、それに従わない者を根こそぎ弾圧し、その不寛容性は募りに募っ
た。
白黒をつけたがる思惟は、宗教戦争による
これに輪をかけたのがローマ法王庁の反撃である。一千年間続いた独占的地位をそう簡単
に奪われてはたまらない。異端者を迫害し、訊問し、拷問し、有罪の判決を行って町の広場
で焚刑に処した。異端という悪魔の弟子を殺すのであるから残虐であればあるだけ神に奉仕
することになり、憎悪は讃美され、死体をもさらに痛めつけねばおさまらなかった。それほ
どまでしなければいたたまれないという旧教と新教の相違は何か。簡単に言えば、旧教は司
祭なり司教の仲介、すなわち坊さんの仲介なしでは神の御心はわからないし真理も体得でき
ないというのに対し、新教は一人一人が神の言葉であるところの聖書を読んで神の意志を知
ることができるという。だから旧教では坊さんを介したあらゆる礼拝儀式が不可欠で、それ
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を通してこそ正しい信仰が培われるし、定期的に坊さんのところへ行って告白することも義
務づけられ、何を信ずるべきかという教義の内容も次々に教会が定める。たとえば処女マリ
アからイエスが生れたこと、磔にされて一旦死んだイエスが生き返って昇天し神の横に座っ
ていること、最後の審判の日には死者が一斉に甦って神の審判を受けること、マリアは生き
たまま昇天しているなどの基本的教義以外に数え切れないほどの教義があり、その通りを信
じなければ「正しい信仰」をもっていることにならない。「正しい信仰」以外のすべては不正で
あり悪であり邪であるという大前提があるため、不正や悪や邪と闘うことが使命となる。勝
手に聖書を読んで祈っているような横着者は神の御心に反するから絶滅しなければならない
し、旧教以外の真理はないのであるから、旧教以外のやり方で神に近づくのは異端であり、
異端は悪魔の弟子であり、それと闘って殺害するのは神の栄光を強めることになる。
新教側も同じく「正しい信仰」は唯一つという大前提の上に立っていて、新教こそが唯一の
正しい宗教であるから、旧教を叩かねばならない。新教内部にも多くの派があり、聖書の中
の一語の解釈について争い、お互いに自分の解釈のみが正統であると主張して譲らないため、
闘争は広がる一方であった。早くローマから決別し英国国教を確立していたイギリスのみは
静穏を保ち、政治をととのえ、経済力を築き、次の世紀の飛躍に備えていた。イギリスはま
た迫害された者の逃亡先きとなった。
この宗教改革と宗教戦争の一世紀は、戦術や軍需産業を大きく発達させたが、精神面にも
鮮明な形跡を残した。それは自分の属する宗教のみが絶対に正しく、それ以外を邪と決めつ
け、邪を根底から壊滅させねば自分に忠実でないとする心の動きである。この思惟方法は宗
教に無関心となった今日でも、ヨーロッパ社会に、否、キリスト教社会にくっきりと生きて
いる。宗教をイデオロギーなり思想なり、考え方なり、生活習慣と置き換えればそのまま今
日に通じる。
そのため討論があらゆるレベルで、またあらゆる分野で火花を散らす。共通点を見出すた
めの討論ではなく、相違点を強調し、自分があくまで正しく、相手はダメであることを筋を
通して論ずるのである。容赦なく、あらゆる角度からあらゆる点を突き、事実をもって例証
し、づけづけと皮肉や風刺を交え、ダメと言われた方もあげ足を取って限りなくやり返す。
それができない人間は腰抜けでつまらない人間であり、討論の相手からも馬鹿にされる。反
論が凄じければ手応えのある人間だとみなされる。聴衆もまるでボクシングの試合見物のご
とくもっとやれやれと応援する。日本のいわゆる座談会や話し合いと異なるのは、お互いの
相違点をみつけることである。ヨーロッパ人にとって同じ考え方、あるいは似たような意見
は退屈で、当事者の方も腰が入らないが、聴衆も居眠りしてしまう。同じ点はさて置き、少
しでも異なる点をぐいぐい拡げてひっくり返さねばならぬ。そこで当り前のことだと誰もが
思うような、
あるいは見過していたような領域が突然現れて、全く新しい発想が可能となる。
なま
生いきなへそ曲がりが相手の地位や肩書きを越えてつっ込んでいけば大喝采となる。
日本人からみると、何かそうすることによって相手の気持ちを害したり、友好関係に傷が
ついて、まとまる話も御破算になるのではないか、もういい加減で妥協するというか、少々
の違いは黙認して仲良くする方が無難だという気がする。ところが、自分が絶対に正しいと
信ずる社会では、相手も当然自己正当化を行なうものと思っており、手応えを期待している。
反論されて傷つく度合いが日本人より遥かに低いのである。と同時に、事実をつきつけて例
証し、堂々と貫けば、相手はなるほどと納得していい気持ちになり、例証した人に対する信
頼の念を増す。それはビジネスの話に限らず、むしろビジネスを離れた領域で機能すること
で、日本の欧州駐在員やその家族が心得ているべき重要事である。
日本人同士ならばビジネスの話以外、別にこれといって議論することもなく、食事を共に
したり飲んだりゴルフやテニスをする方が親しくなれる。ヨーロッパでは、特に宗教改革発
祥の地ドイツではそういうわけにはいかない。もちろんそれも悪くはないが、本当の理解や
いつまでも変わらない信頼の念は湧いてこない。毒にも薬にもならない奴だということは、
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無害だけれど結局つまらん人間だということで、論争による知的勝利や敗北につながらない
から物足りない。たとえば日本人は働き過ぎだといわれれば、戦前戦後のドイツ人の勤勉ぶ
りを指摘し、ドイツ人はなぜ働くのが嫌になったかを問いつめ、ギリシャやスペインの歴史
から民族のエネルギーの波について例証し、アメリカの場合を引用し、将来人類はどこに行
くのかという方向に論議していけば数時間はあっという間に過ぎて、考え方の角度を楽しむ
ことができる。そこでお互いに人間の幅がみえ、奥行きが見通せるようになってくると、友
人として離れ難く感じられ、ビジネスを越えた関係が築かれていく。
そんなのは肩がこってたまらんという人は何かの特技――空手とか三味線、小唄、囲碁な
ど――日頃から親しんできた技芸を紹介するのもよい。日常、自分にとっていいこと、役立
つこと、愉快なことは他人にとってもいいにきまっていると信じて親切心を発揮する西洋人
の間では、誰かが何か新しいことを披露してもそれをあつかましいとか自画自賛だとして軽
蔑したりうるさがる傾向が少ない。うるさがる神経がお互いに鈍い。
一般に自画を自賛することは当然で、自賛できないような自画は価値がないのである。だ
から大声で自賛しなければ亡びてしまう。日本流の遠回し自賛、あるいは自分はつまらない
ものだという否定の自賛は通じない。
要するに自己流が勝つか相手が通るか、白黒正邪をその場その時にはっきりさせねば落ち
つかない。新旧どちらのキリスト教が正しいか、そのために殺し合うという、ヨーロッパに
おいてもっとも凄じい一世紀が、今も、さまざまな形で、あらゆる陰影をもって生きている。
西独放送が「四国八十八箇所」をテーマにテレビ映画を作ることになった時、その調査のた
め日本へ行った私は、まず父に相談したところ、「あれは真言宗だから東寺へちょっと行って、
お遍路さんことなど聞いてきなさい」と神社の宮司である父は喜んでさっさと紹介状を書い
てくれた。下調べが終わっていよいよ高松へ飛び、順番にお寺を回り始めると、土地の人々
が熱心に説明したり、一緒に途中まで行ってくれるので、「あなたも真言宗ですか」と聞くと、
「いえ、私とこは平和会という新興宗教でな」「うちは浄土宗でございます」という具合で、お
遍路さんたちも町内の人が行くので一緒に来たという人が多かった。
京都に帰って父から「何を感じたか」と問われ、「同じ仏教でも座禅の気迫とは違って、何か
いい加減な信仰みたいに思うけど――」と答えると、「祈願する真剣さは同じだ。それに優劣
はない。八十八の寺の前に立てば、何百年もの年月、巡礼が念じたその想いが伝わってくる
はずだ」と言われ、キリスト教社会に住み、知らぬ間に白黒正邪優劣の思惟方法に感染してし
まっている自分自身に気付いたわけである。旧教のくせに新教をも認めるような、あるいは
誉めるような発言をすれば、人格の誠実さが疑われ、信頼性が失われ、「裏切り者」と言われ
る社会に比べ、日本はまた何と次元の異なった、寛容な社会なのだろうか。
だからまた、日本の近世は自然科学の爆発的誕生を見なかったのである。
自然科学はなぜヨーロッパに芽生えたのか
永遠不変の真理をその教義体系の中に包含すると主張し続けたキリスト教会は、その教義
をまた唯一絶対として何世紀もの間、人々の心の中に叩き込んできた。ところがここに教会
側の重大なあやまちが潜在したのである。それは形而上の概念ばかりでなく、形而下の現象、
つまり目に見える物理的現象についても絶対不変の真理を有していると主張してきたことで
ある。人間は神の姿に似せて創られ、その人間の住む地球は大宇宙の中央に位置し、静止し、
そのまわりを太陽、月、惑星、その他多くの星が回転しており、この宇宙の法則は神の意志
により定められていて、永遠不変であると言い切ってきたことである。
これはイエスの教えとは無関係に、教会がギリシャの異教徒であるアリストテレスやプト
レマイオスの説を神学の中にとり入れ、永遠の真理だと銘打ってきたのであるが、あまりに
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も長い間、あまりにも断固として主張し、キリスト教の絶対性を裏づける神の意思として規
定してしまったために、自ら落とし穴を掘ったような結果となった。
というのは、神の創造した天体を実際に、具体的に観察してその偉大さに触れたいという
当然の希望と、また本当にその通りであるのか確かめたいという証明の欲求が、中世から近
世に移りゆく頃にあちこちで芽生え、まず天文学、力学が誕生し始めた。ところがキリスト
教教義の内容にいささかでも反する観察の結果を、法王庁がだまって見ているはずがない。
完全な神の真理を体系づけていると称する教義に、少しでもひびがいくことは、そこから無
限に疑惑が広がっていくことになる。
七十歳に近いガリレイを宗教裁判にかけ、拷問道具をみせびらかし、「邪説」を捨てよと脅
迫して教会の権威をやっと保った法王は、コペルニクスが唱え、ガリレイが証明した地動説
を急速に広める役を心ならずも果たすことになった。ガリレイほどの大学者の生命をおびや
かして平然としている教会に対し、人々の激昂がおきたからである。ガリレイの沈黙を最後
に、イタリアに花咲いた学問は消滅し、その伝統は急速に新教領域へ移っていった。
日本では宗教の世界観が動かすことのできない永遠の真理として叩き込まれ、それに反す
る観察なり意見を持ち出すことが「不信仰」であり、「劫罰の対象」であるとして殺害されたこ
とは一度もない。だから生命の危険を承知で、不動の教義体系にぶつかって反論しようとす
る刺戟が存在しなかった。危いとわかっていながら、隠れて何十年も同じ疑問と取り組み、
天体観測を続け、知性を磨き、権威の鼻をあかしてやろうというへそ曲りが育たなかった。
たとえ大きな発見をしても、支配者の権力によって粉みじんに打ちのめされ、そのために人々
が初めてその発見の内容に革命的な意味を見出して広めるということがまれであった。
また中世を支配した仏教は、目に見える物理的世界の法則を信仰の内容として人々に強制
したことはなかった。一瞬の存在である人間が把握するには、大宇宙はあまりにも無限であ
ると説いてきた。だから「地球は太陽のまわりを回っている」とある日、ある学者が言い出し
たとしても、仏教権威者はその男を引きずり出して責め道具をつきつけ、「お前の邪説を引込
めねばこれだぞ」と脅迫し、場合によっては町中で焚刑に処し、仏教の教義をしゃにむに通し、
人々はそのため、一せいにその学者の説に注目して、それからそれへと発展させる伝統が根
をおろさなかった。
だからといって、自然科学的思考法が、日本人に異質であるとはいえない。
物理的現象の形而上学的説明を、絶対正しい真理としてあまりにも長い間押しつけられた
ために、不満と疑問がつのり、何とか手さぐりでも事実に根ざした自然法則を打ち出さなけ
れば、もう我慢できなくなるという、内からの燃えるような激しい動機が日本に存在しなか
ったというだけである。
「証明もされなければ解決の見通しもない大問題をあれこれ思弁するより、自分の目で確か
め、自分の手で試すことのできる事実の方に注目する」というガリレイの言葉は、ローマ帝国
崩壊から近世に到るまでの一千年間、キリスト教会がその神学をもって人心を徹底的に支配、
抑圧した歴史からの冷静な訣別であり、同時に新しい時代精神の具体的な示唆であった。
六章
ローマ法王の影
「異教徒の魂を救うため」という大義名分にかくれて
ヨーロッパの冬は長く、食物の種類は貧弱で、塩以外これといった調味料はなく、イスラ
ム圏を通して何とか購入できた胡椒や香料は、王侯や富豪以外手も出ない高価なものであっ
た。
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「胡椒味のきいた一皿」とは、豪奢を極めた料理とそれが許されるだけの財力を意味し、羨
望と尊敬の念をもって見られた。
イスラム圏の東方貿易にあずかったイタリアの都市や南フランスはそれでもまだよかった。
北へ行くほど調味料は値を上げ、民衆は話に聞く以外実際に口にしたことはなかった。百姓
ほふ
たちは食料の少ない長い冬に備え、家畜を屠り、ハムやソーセージにして貯蔵し、大切に少
しずつ食べ、結婚式などにふるまったが、いくらかでも何らかの調味料の入ったものほど上
等で、うす塩の大味がふつう用であった。
強大な軍の力を誇るイスラム圏を越えて、直接アジア諸国に手を伸ばすことは無理だった。
しかしながら欲しい物は欲しい。生活必需品である調味料ばかりではない。インドやセイロ
ンの美しい宝石、中国人のみがその製造法を心得ている磁器と、輝くばかりに鮮やかな絹、
それにマルコ・ポーロ以来伝説となっている日本の金銀、これら当時のヨーロッパにおいて、
王侯貴族の権威を強化するために誰もが競って求めた品々は、すべてアジアにあった。ベニ
スの商人がバグダッドへ出かけ、高い関税を払って買ったそれらの品々を、次にヨーロッパ
で売りさばく時には法外な値段になり、長い目で見れば、どうしてもアジアへの別のルート
を探し出す必要に迫られていた。陸を渡ることが許されないのであるから、海路を探し始め
た。
それはまず支配者たちの悲願であり、造船と航海術、軍備、天文地理測量などの発達を、
国費を注いで奨励し、あらゆる艱難を乗り越えて喜望峰からインド洋に出る航路を遂に見出
した。そうしてアジア海域へ進出したポルトガルの武装艦隊は、各地でイスラム教徒と闘い
つつ、ゴアをはじめ占領できる港は次々に海から乗っ取り、植民地を築いて目的の品物を獲
得し、ヨーロッパへ持ち帰っては莫大な収益をあげていった。
人間のやることはいつの時代でもそう変わらない。物が欲しい。同時にその物の存在する
領域に持続的影響力を確立したい。それが本音である。だから大金を投じ時間をかけて努力
する。それを美化し、崇高な理想を謳い上げて、「自由主義を守るため」とか、「資本主義に闘
いを挑む」というのはタテマエに過ぎない。
当時はそれが「異教徒の魂を救うため」であった。救ってもらいたいと誰も願っていないに
もかかわらず、教会は続々と宣教師を送った。それほどまでに異教徒の魂が心配だからでは
ない。少しでも多くの民族をキリスト教勢力下において支配するためである。それは魂を支
配することによって、政治的、経済的支配を確立しようというローマ法王庁の一貫した勢力
拡張政策であった。宣教師は西回りでも東回りでもヨーロッパの艦隊が出没するところには
必ず現れて、原住民に改宗を迫った。と同時にキリスト教以外のいかなる宗教も邪教である
から、壊滅させねばならぬという断固たる闘争心に燃えていた。もちろん情深い親切な宣教
師もあった。しかし、それは占領軍の中にも情深い将校や親切な兵士がいるのと同じで、占
領され、「教化」されるという原住民の運命には変わりはない。そのため、アフリカ、インド、
南北アメリカ、メキシコをはじめ、キリスト教のいく先々で悲劇は絶えなかった。
日本へきたキリスト教については今日西洋の歴史はほぼ次のように述べている。「最初は非
常に歓迎され盛んに広まっていったが、突然日本人はキリスト教に対し、わけのわからない
憎悪を抱き、ヨーロッパ文化の優越性に不安を感じ、劣等感にかられて世界から身を隠すこ
とに決めた。その前に野蛮にも宣教師を迫害し、追放し、禁教して鎖国に到った」
この史観は史実に基づいて立てられているだろうか。
新旧キリスト教が闘争を繰り広げていたヨーロッパで、法王にのみ服従を誓ったイエズス
会は、優秀な人材を得て、旧教勢力挽回活動を目覚ましく展開し始めていた。新教側からは
もっとも憎悪され、目的のためには手段を選ばぬエリート結社として恐れられていた。フラ
ンシスコ・ザビエルはこの精鋭隊の草分けであり、アジアへ宣教に出た最初のイエズス会士で
あった。一五四九年彼が九州の南端、鹿児島について以来九十年間、九州は日本における宣
教の中心となった。
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スイスほどの大きさで亜熱帯に近い気候、火山脈が走り、肥沃な土壌と豊かな海岸線に恵
まれ、千五百ばかりの小島に囲まれたこの南西の島の人々は、南蛮船と南蛮人を歓迎した。
ザビエルの予想通り、日本にはキリスト教の宿敵イスラム教が渡来していなかったため、宣
教師に暴力をふるう者は一人もいなかった。それどころか、領主たちは何の疑いももたずに
喜んで布教許可を与え、人々はザビエル自身驚くほど素直に彼に対応し、あらゆる質問を投
げかけ、想像もできない遥か彼方から、わざわざ日本人救済のために来たというバテレンた
ちに感嘆した。
二年三ヵ月の日本滞在中、ザビエルはどうすれば日本をキリスト教化できるかという立場
から、日本人と日本社会を観察した。軍備において日本はヨーロッパと同水準にあるため、
軍隊をもって征服する望みは抱かない方がよい。それより心に訴え、納得させれば、この上
しもべ
なく忠実な下僕になるから、もっとも頭のいい神父を送れと結んでいる。彼はまた中央から
全日本に広めることが効果的とみて京都へ行き、天皇か将軍に会って布教許可をもらおうと
したが、戦国の世はそれどころではなかった。堺に国内の金銀のほとんどが集中し、富裕な
港であり、ここに商館を設置すればポルトガル国王の利は大であるとも報告している。
布教と貿易の結合は、一貫したバテレンの政策
「イエスの軍隊」イエズス会士は、布教に献身的であり、そのためには飢えも寒さもいかな
る犠牲も省みなかったが、同時に仏教を偶像崇拝の邪教であると排撃し、仏陀は人を迷わす
悪魔であり、坊主どもの悪徳は限りなく、浄土は悪魔の巣であると強調しているが、キリス
ト教に内在する傲慢さと排他性は宣教活動の上に次第に明確に現れて、僧侶や仏教徒の反撥
も特に京都で激しくなっていった。
もし十六世紀中葉のヨーロッパに、どこからともなく見知らぬ宣教師が現れて、自分の唱
える宗教のみが正しく、キリスト教などは新旧ともにイエスという悪魔を拝む偶像崇拝に過
ぎないとこきおろしたならば、人々はその場で袋叩きにしたであろう。
当時九州にいた宣教師たちは他宗を罵倒するくらいでは飽き足らず、キリシタンたちに命
じて神社仏閣を大規模に破壊させ、御本尊を奪ってこさせて教会で炊事の薪とし、その食事
が特別美味であったことを意気揚々と本国の仲間に報じているが、キリシタン三大名に命じ
てその領内の寺社を焼き払わせ、神官や僧を追い払い、神領や寺領を教会領にしたことも、
神の栄光の拡大として報告している。キリシタン三大名は、ローマから巡察師ヴァリニャー
ノが来日した時、寺社破壊をやめさせてほしいと嘆願したが、それは無理な願いであった。
同じキリスト教でさえも新旧敵味方に分れて互いに殺し合っているヨーロッパから、はるば
る異教徒の国日本へ来たのは、日本人を改宗させるばかりでなく同時に、異教を根絶すると
いう尊い使命を負っていたために、妥協は許されなかった。
もちろんイエズス会士たちは、ヨーロッパが新旧二勢力に分れて闘っている現状について
はおくびにも出さず、ヨーロッパの諸侯は領民と同じ宗教であるために平和に治まっている
むね
旨を説いて、キリシタン大名下の領民は強制的にキリシタンにした。領民一人一人の内なる
決断を大切にするのではなく、世俗権力による押しつけを堂々とやらせたのである。
当時大小二十七人の領主が九州にいたが、南蛮貿易の利を与えることを交換条件に、いわ
ばエサとして改宗を迫り、入信しない大名の港には船を入れないという布教と貿易の結合は、
ザビエル以来バテレンたちの一貫した政策であった。日本人は南蛮貿易を歓迎し、その文物
を珍重し、すべて金銀で支払った。後にこの貴重な日本市場から追い出されることになった
南蛮商人は、宗教をセットにして売りつけようとするバテレン達の先棒をかついだわけで、
石油が欲しければイスラム教に改宗せよというのと同じである。
いかなる手段に訴えてもキリシタンの頭数を増やし、社寺を破壊し、教会を建て、長崎港
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を開設して貿易を行ない、その利益を布教に当て、次々に優秀なバテレンを迎え、キリシタ
ンは一つの勢力となり始めた。しかし、それだけでは日本人を内側から変質させることはで
きなかった。日本人を内側から支えている核心とは何であろうか。
「祖先崇拝」と「死者は神の支配下」のギャップ
それは祖先との関係である。自分の親や祖先は死によって永久に離れてしまうのではなく、
死後も自分のことを心配し守ってくれる。だから感謝し、お願いし、その霊を祀って大切に
する気持ちである。生死の断絶ではなく死後も影響力を持ち、守りもすれば祟りもする。そ
こから種々の祭祀が生れ、日常の中に根をおろした。
ヨーロッパでもキリスト教が各民族を改宗させる前には、「祖先崇拝」がその信仰の中心を
占めていた。死者の霊魂は生前住んでいた家、またはその近くに留まり、生者を守り、生者
が死者への供物を怠ったり祭りを疎かにすると不幸が起きる、きちんとすればいいことがあ
ると信じられていた。ドイツ語で「嗣子」を意味する Erbe の古語は erfa であり、「先祖に供え
物をする」が原義であると言われる。死んだ親に喜んでもらい、守ってもらいたいという自然
な感情から発生したこの信仰は、キリスト教がヨーロッパに広まり始めると、根底から破壊
された。人間は生者も死者も無力であり、親でも何でも子孫を守るなどという力はなく、何
の救いにもならぬ。死者は神の支配下にあり、神に裁かれる存在である。そんな存在に祈る
などは邪教であるとして弾圧した。
その結果、死者に対する生者の心情は根もとにおいて変質され、祖先への祈りを形に表し
た習俗はほとんど絶滅した。古くは、先祖の墓は住居の近くにあったが、これをみな教会の
まわりに集めて支配下に置き、家とは別にした。今でも貴族の邸の中や城の一画にチャペル
があるが、これはもとは祖先の霊を祀ったところで、対象がマリアや聖人と取りかえられて
残存している。
今日ヨーロッパ人が墓地を訪れると、熱心に掃除をし、花を飾り、ローソクをともし、旧
教ならば教会に頼んでミサをあげてもらい、家の中には写真を置いて想い出すけれども、死
者に対しなにかにつけ祈り、供え物をしてお願いし、報告して感謝するという心情は亡びて
しまった。自分のことを生前もっとも心配してくれた父に、苦しい時は知らぬ間に祈ってい
るという人があったとしても、それを口にすることは大いに憚られる。死者を想い出すのは
よいが、祈りの対象とすることは異端であり、それはあまりにも激しい迫害の的となってき
たために、ヨーロッパ人の心の中で、長い間に何かが踏みつぶされたのである。
また祈る心情は習俗として形に表われ、社会に受け継がれることによって生きてくる。日
本ではこれにまつわる年中行事は豊かであり、死者は毎年特定の日々に自分の家に帰ってく
る。その日々の終わる時、山々には送り火が輝き、川や海にはローソクをともした小舟が流
れる。
十六世紀後半、キリシタンが一つの勢力となり始めた頃、バテレンたちがもっとも心を砕
いたのは、いかにして祖先崇拝をやめさせ、唯一絶対の神のみを崇拝させるかということで
あった。その一歩として、キリシタンに先祖の位牌をバテレンの前で焼き払わせた。また墓
をこわし、悪魔の土をかき乱す必要を説いた。ヨーロッパへの実況報告は、キリシタンの勇
気を誉める勝利の言葉で充ちている。
当時ヨーロッパでは、悪魔が人の体内に入る、すなわち悪霊がつく時には、教会で司祭が
聖水をかけ、香をたき、十字架を当てがって悪霊を追い出し、特別祈禱を行なうのが常であ
った。九州のバテレンたちも、キリシタン式邪霊退治を盛んにやって、それが仏教の呪文よ
りずっと効果のあることを、種々の例をあげて真剣に報告しているが、これらの報告をじっ
くり読んでいくと、法王の精鋭隊は優れた知能と高い教養を持ち、神学的討論に慣れ、封建
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諸侯とも優雅に交わる能力を有していたにもかかわらず、精神的には中世を一歩も出ていな
いことが明白になってくる。
イエズス会士はルネッサンスの人間礼讃や理性の発見、ガリレイに結集されるに到った科
学的思考法など、当時ヨーロッパを転倒させ、開眼させ、そして躍動させた近世の精神的潮
流からは程遠い人々であった。彼らは法王によるカトリック教会の独占支配を再現しようと
する断固たる戦士であった。見事な話術もあらゆる学識も、ニュアンスに富んだ外交も、そ
の目的遂行のために使うのであって、人間の理性や思考の自由そのものを尊重する気は毛頭
なかったのである。
だから教育にもっとも力を注ぎ、十七世紀始めには五百以上の学校をヨーロッパに建て、
学問の先端をいったにもかかわらず、イエズス会士は後の啓蒙主義哲学者たちから、思考の
自由を踏みにじる最大の敵として、ヨーロッパ全土において叩かれたのである。
七章
バテレンの心遣い
イエズス会士の運命の転換
仏僧の反対にあって京都を追われ、また舞い戻ってきたイエズス会士にとって、信長の入
京と彼から与えられた布教免許状は、運命の転換であった。ザビエル以来の願望はここにか
ない、日本の中央、京都において天下の覇者の庇護のもと、公認されて布教できるのである。
信長の好意と南蛮人に対する関心は、かけがえのない宝であり、バテレン達が全力を傾けて
この宝を守ることに努力したのは当然であった。信長がバテレンと親しく語り合ったという
事実は、キリシタン宗そのものの価値を引き上げ、怪しげな宗教ではないという信用を深め、
信者の増加に役立った。
都においてバテレンたちは寺社を破壊したり、御本尊を盗んできて炊事の薪に使うことは
遠慮し、学校を建てて教育に励み、学識と節操と清貧をもって人々に感銘を与えた。天台宗
をはじめ仏僧たちの横暴と堕落に慣れてしまった都の人々にとって、病人や貧民のために働
く一握りの異国人の姿は尊いものとして映ったであろう。
平和になった都は人口も増加して、当時のヨーロッパの大都市ナポリ、ローマ、ベニス、
ミラノ、パリ、リスボンなどをはるかに越え、西陣では五千台の織機が目も鮮やかな絹地を
織りなし、陶器や漆器、金屏風や金属品が次々に生産され、二階建の民家が並び、人々はよ
うやく生活を享受し始めていた。バテレンたちはキリシタン大名高山右近や一般信徒の寄付
で立派な三階建の南蛮寺を建立し、布教の本山として、また都の名所の一つとして、日本の
風俗になじんでいった。
バテレンたちがもっとも留意したのは、身体や衣服、住居の清潔ということであった。布
教にとってマイナスとならぬよう、この点にくれぐれも注意を勧告した巡察師ヴァリニャー
ノの言葉も、また会士たちの報告に繰り返しみられる日本人の清潔さに対する驚きも、当時
のヨーロッパの衛生状態を間接的に伝える役割を果している。ヨーロッパ人は自分たちの文
明が常にもっとも優れ、他はそれを学ぶべきだと今でも信じているが、衛生状態を文明の一
つのバロメーターとすれば、十八世紀までのヨーロッパは日本に比べてはるかに劣り、後進
地域であった。
王侯貴族はもとより一般にいたるまで、衣食住の不潔さとそのことへの無関心は、ペスト
の定期的大流行をみ、一三四八年発生から一六七〇年まで三百年余りにわたり何千万もの人
命を奪った。特に都市人口のペストによる死亡率は四〇~六〇パーセントの高さであった。
衛生設備皆無のため、井戸水がまず不潔を極め、ごみや人間と動物の排泄物が道路や裏庭に
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つまれて悪臭を放ち、猫より大きいどぶねずみがどの家にも少なくとも百匹はいて、人間に
は蚤や虱がわいており、靴のまま入る家の中は寒さのため窓や戸を開けず、通風悪く、ベッ
ドには何人もが暖め合ってざこねするのがふつうであり、と同時に入浴の習慣がなかった。
肉体に関心を持ち、洗ったり手入れしたり裸になって暖まることは自分の身体に対する興味
を起こすことになり易いので魂にとって危険であるとされ、特に性への関心は悪魔の仕業で
あるとして教会は性そのものを徹底的に罪悪視した。正式に結婚して子孫をつくるためにの
み許される行為であった。だから肉体そのものからなるべく目を遠ざけ、霊魂救済に全力を
尽す人が有徳の人であった。この教会の影響は日常の隅々にまで浸透していた。華やかなベ
ルサイユ宮殿や、それを模して建てられた各地の宮殿は、便所と風呂のないことが特徴であ
るが、男女とも貴族たちは宮殿のまわりで用を足し、香水を発達させて体臭と闘った。
ヨーロッパにおいて、衣食住の清潔さが大切だと思われ出したのはずっと後のことである。
それはさまざまのケースを観察し、衛生がいき届いた所では病気の発生が少ないという事実
に気付いた後である。特に分娩後の妊産婦の衛生が大事で、清潔にしていれば死をまぬがれ
る率も大きいという証明がなされ、衛生観念が急速に広まった。それまでは病気も死も神の
意志であるという教義を信じ、死後、霊魂が安らかに天国へ行けるように、ひたすら永遠を
慕って短い一生にに甘んじていた。その反動で、衛生観念の重要性が発見されると今度は極
端に何でも消毒し、自然であることと未開であることを混同してしまったが、最近はそのい
き過ぎにあちこちで気付き始めた。
ともかく産業革命前のヨーロッパでは死亡率が高く、特に都市は活気を呈していたとはい
え、それは地方から流れてくる絶え間ない人口洪水のお蔭であって、でなければ非衛生状態
のために、大きな墓場となったと多くの学者が指摘している。ミラノのある医者は一六三〇
年、次のように記している。
「半死半生の群衆が気が狂ったように押しかけてきて、町中でも教会前でも、銭を与えずに
は通ることができない。一人にやれば百人がたかってきて、その腐臭はどうにもならぬ。道
ばたには死人や病人がごろごろしている。ベニスでも教会の入口は毎朝死人で埋まる。夜中
うろついたあげく、空腹と寒さのため、黄色になって死んでいる。田舎では、悪臭を放つ人々
が口一杯に草を入れ、歯は地面に入り込んだまま死んでいる」
同じような記録は所を異にしてずい分あるが、このような後進地域からはるばる日本へ来
たヨーロッパ人は、悪霊救済や神の恩恵を説く教養高いイエズス会士でも、当然蚤や虱をわ
かしていたのであなどなれ、その風習を改めなければならなかった。
みそぎ
祭りの前に禊を行ない、身体を清潔にしてこそ神々にまみえることができる神道の観念で
は、身を清めることは心を清めることに通じ、神々を迎える神棚や井戸の中、カマドのあた
ならわし
りや家の隅々を清潔にすることは古くからの習であった。日本人の清潔感は近代医学や衛生
観念の生れるよりも遥か昔から培われており、水の豊かさと、火山脈地帯の温泉に恵まれ、
清潔にすることが可能であったし、気持ちが良いと思われた。そして一種の倫理感にまで発
達した。神道は悪魔の教えだと罵倒することに夢中だったバテレンたちは、日本人の清潔感
の底に流れているものに気づく余裕がなかった。
バテレンたちに理解できない信長の現実的な世界観
それでは信長はなぜバテレンたちを厚遇したのか。政治勢力と化した仏教各派に激烈な闘
いをいどんでいた彼は、一握りの異国人がわざわざ日本へ来て、日本人のために働き、宗教
本来の使命に徹しているのを好感をもって眺め、それを助けることによって仏僧へのみせし
めとし、またバテレンのキリシタン大名に対する影響力を利用したことは明らかであるが、
それだけならば何度も身近に招く必要はない。
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信長はこれらヨーロッパ人に親しみを感じ、彼らのもたらした新しい知識の背後にある、
怒濤のような社会の動きに気付いていたのである。アフリカ、インド、中国、インドシナ、
南北アメリカそしてヨーロッパという世界の大陸と大海を描いた世界地図一つを見ても、こ
れを描くに到った知識の範囲の広さ、豊かさ、考え方の尺度の違いを感じ取ったのである。
それは信長ほどの理性の鋭さと、頭脳の弾力性をもった人間には、大きな魅力であった。
また地球が丸いということも、信長をはじめ当時の日本人には全く新しい知識であった。
これはすでに古代ギリシャで知られ、イスラム圏では九世紀には自明の理であり、十四世紀
にヨーロッパでも知られ、教会は地球が平板で天が半球であるという教義をすりかえて、地
球は丸いこと、しかし、あくまで天体の中心にあって静止し、太陽以下さまざまの星が地球
のまわりを回転するのが神の摂理であると主張した。それをイエズス会士も当然主張し、天
体の運行や現象を、非科学的でありながら、それなりに筋を貫いて説明することによって、
神の意志に結びつけた。
当時の日本人に印象深かったのは、バテレンたちの論理の展開方法であった。天体の説明
であろうと地球儀であろうと、水ももらさぬ論理を立て、それだけ聞けば完全に筋が通って
いるという弁証法であった。その構造的な積み重ねによる証明法は、中世の神学において神
の存在や摂理を証明するために用いられ、高度に発達した領域であった。イエズス会士はそ
の伝統を存分に利用した。それに加え、当事全世界を発見したヨーロッパ人の実績が、バテ
レンたちの言うことにも権威を与えたのは当然である。
信長は天体の説明は説明、神は神として切り離して話を聞いている。彼はまだまだ限りな
く知ろうとしたであろう。西洋を動かす知性の源に触れようと追求したであろう。「彼は善き
理性と明晰な判断力を有し、パードレらと親しく語り、種々質問して約二時間引き止めた。
パードレらは霊魂の不滅、デウスの唯一なること、神仏の偽なることについて語る機会を得
た。彼は大いに注意してこれを聴き……その後数日を経て、突然住院に来たり、パードレら
がその来着を知らぬ間にすでに内に入っていた。わが住院が清潔であり、整頓しているか見
るために、不意に来訪したことは疑いない。彼は不整頓と不潔の敵であった。パードレ・オル
ガンチノはこのことを承知していたから、常に不意に備え、欠点を見られることのないよう
注意していたのである……信長は住院の最上層に昇り、時計を見、また備え付けのクラボお
よびビオラを見て両方とも弾奏させ、これを聴いて喜んだ……我等の主が彼に光明を授け、
数回注意して聴いた真理を悟るに至らしめ給わんことを」
伝統的権威を打ち破り、次々に新機軸を政治に反映し、啓蒙時代の王や貴族にみられるご
とく合理的解明と現実的世界観に魅かれ、現世を見つめて燃え続けた信長の面前に、ヨーロ
ッパ人が現れた。彼らは異なった知識を持ち来たった。しかし、学問そのものの自律性を認
めない人々であったために、学識を手段として隙を狙い、相手を自宗に引き入れんとする心
遣いがあまりにも強かった。彼らは雄大な、近世城郭の先駆、豪華絢爛たる安土城に何度も
招かれ、
「ポルトガルからインドを経て日本へ来るまでに見たすべての宮殿や城も、この城の壮麗さ
の前には色褪せてしまう」と書きながら、またその座敷に座って、金地に極彩色で描かれた花
鳥山水をはじめ、中国の故事や仏教、儒教、道教にちなんだ人物画を見ながら、「驕慢なるこ
の男の心をデウスに服従させる」にはさらにどういう手を打つべきかを思いめぐらし、同時に
この支配者の好意をうまく育てて布教に利用することを考えていた。
だから彼らは何百年も時代を先取りしたような信長の宗教観も死生観も、またそこから湧
き出る生への苛烈な挑戦も理解することができなった。
人間五十年 下天のうちをくらぶれば
夢 まぼろしの如くなり
ひとたび生を得て 滅せぬもののあるべしや
この歌を愛誦した信長が、死の淵を覗き見ながら一回きりの生に打ち込んだ姿は、今日の
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ヨーロッパ人にとって信じ難いほどの近代性をもって迫ってくるが、当時は、「デウスの恩恵
に浴せない尊大な異教徒」に過ぎなかった。
八章
衝突の兆
秀吉の寛容性と見識あるキリシタン対策指令
信長の死は突如としてきた。
一五八二年夏、信長から広島地方平定を命ぜられた秀吉はまもなく援軍を仰ぎ、光秀が一
万余りの兵を率いて加わることになった。信長はわずかの側近と共に京都で夜を明かし、近
く出陣することになっていた。光秀は軍備を信長に見せるためと偽って夜中に兵を京都に向
け、信長を急襲した。逃れることは不可能とみた時、信長は自ら火を放ち、闘いつつ炎の海
に包まれて消えた。四十九歳であった。灰燼の中に彼の刀が一振り残っていたと言われる。
信長の死により京都はもとより堺、安土その他各地で大混乱が生じ、光秀が頼りにした諸
侯は皆彼から離れていった。この男が二十五年も仕えた主君を殺害した動機は、重なる恨み
しぎゃく
を晴らすためだとか、天下を取りたかったためだといわれているが、それにしては弑逆後の
そそのか
政策は皆無に近い。仏教勢力から唆されたとの見解も成り立たないとはいえないが、誰も彼
を表立って支援していない。急変を隠して敵方と速やかに和睦を結び、機敏に京都へ駆せ帰
った秀吉は光秀を一蹴し、敗走中の光秀は土民の槍にかかって殺された。この後、秀吉が信
長のあとを継ぐことになった。
秀吉とは誰か。彼は百姓の子で、幾年もの流浪の末やがて信長に仕え、草履取りから次第
に出世してもっとも有能な武将の一人となった。利口で機知に富み、信長の気質をのみ込ん
で明るく仕えた。ナポレオンと同じく底から這い上がって遂に最上位まで出世した。彼は実
に醜い顔つきだったようで、目がとび出て色黒で小柄だったが、ユーモアに充ち、華やかな
服装を好んだ。信長の政策を首尾一貫して実行し、全国を平定し、生産力を高め、金銀の産
出に力を注ぎ、国内および海外貿易を振興させた。それは近世封建制の基礎づくりでもあっ
た。馬鹿なことに晩年朝鮮出兵を行ない、七年間焦げついて失敗に終わったが、終結を見ず
に六十三歳の時、桃山城で病死。
つゆとをち つゆときへにしわかみかな
なにわのことも ゆめのまたゆめ 松
という辞世をのこした。
イエズス会士にとっては十六年間の秀吉時代は、もうこれまでのような黄金時代ではなか
った。最初秀吉は大坂城に彼らを招き、城の近くに教会用の敷地を提供し、伝道に屈託ない
態度であった。それから四年たった一五八七年、劇的な転回が起った。ことの次第を理解す
るため、九州へ行ってみよう。
九州ではまだ大名たちが抗争を続けていたのでこれを平定するため、秀吉は三十万もの大
軍を率いて悠々と出陣し、闘わずに勝ち、博多に立ち寄り、戦勝祝いに来た各界代表に謁し、
長崎からとんで来たイエズス会の副管区長クエリヨに、上機嫌で博多の教会再建を許した。
博多は十三世紀に蒙古の大軍が侵入したあの神風の地であるが、すでに七世紀から大陸との
外交や貿易の中心地であり、多くの帰化人を登録したところでもある。この歴史的要地に教
会再建を許したのは、秀吉がまだキリシタンに好意を持っていたことを示している。それか
ら彼はひとしきり各地からの情報を収集し、初めて直接土地の実状に触れる機会を得た。
その折、京都では想像もできないバテレンやキリシタンの状態を知ったのである。秀吉は
即刻、クエリヨに詰問状をつきつけた。「大名がキリシタンになった時、なぜその領民もキリ
35
シタンになるべく強制するのか。なぜ日本の諸宗と融和せず、寺社を破壊し焼却するのか。
なぜポルトガルの船が日本の少年少女を奴隷として国外へ連れ去るのを知らぬふりでみてい
るのか」
クエリヨは秀吉に答えて「パードレたちが日本人を力の限り改宗させるのは当然だが強制
したことはない。キリシタンになった日本人が自ら寺社を破壊したのである。ポルトガル人
が日本人を買うのは、異教徒である日本人が売るからで、それを国法で禁止すればよいであ
ろう」
こう答えたクエリヨについては、仏教徒が海中の孤島に必死で隠しておいた多数の仏像を
探し出し、キリシタンを指揮して一切を焼き払わせた戦士として、ヨーロッパへの報告に詳
しく描写されている。また古い仏像の首に縄をかけ町中を引き回して「処罰」したり、仏教征
伐に苦心した人物である。
秀吉がクエリヨの答を受け取ると即刻、一五八七年六月十八日と十九日に指令を出した。
これが日本歴史の道程を変えることになった最初の一歩である。この二つの指令は日本人の
世界観をよく表しているので、要約して述べよう。
第一の指令は、「バテレン門徒になるのは一人一人の心次第であって、上から押しつけるの
は不当であるから禁止する。キリシタンは、他宗を排斥し、他宗寺院をつぶして自宗勢力の
拡張を計る浄土真宗と同じであるが、信仰を上から押しつける点で、もっと脅迫的である。
キリシタンに自らなって、他宗と相容れるならば少しも問題ではない」
当時のヨーロッパにおいて、支配者が宗教に対する寛容性と見識をこれほど自然に述べた
文書は、私の知る限りでは一枚もない。一五八七年頃のヨーロッパは宗教改革とその反撃で
狂信的闘争に明け暮れ、三十年戦争でやがて殺される人々はまだ小さい子供か、生れる前で
あった。フランスのバーソロミュー夜半における新教徒の皆殺しは、やっと十五年前に終わ
ったところであり、オランダ中に、スペインの宗教裁判が繰り広げられて焚刑は日常茶飯事
であった。レッシングの詩劇、「賢者ナータン」が書かれて、寛容性の必要を謳い上げるのは
二百年も後のこと、十八世紀になってからである。
第二の指令は「日本は神国であるのに、キリシタン国から日本に合わぬ教えを伝えたのは怪
しからぬ。神社仏閣を打ち壊させたのは前代未聞のことである。バテレンは自分たちが正し
いことをしていると信じているが、日本の宗教心に合わないから、日本を去るべきである。
二十日のうちに帰国せよ。それまでにバテレンたちに危害を加える者は処罰する。貿易は今
後ともどんどんやってよい。誰でも仏法の妨げをしないものは日本へ自由に来てよい」
ヨーロッパの精神史を少しでも知り、ヨーロッパ人の他人種他宗教に対する見方を味わっ
たものは、秀吉のこの「バテレン追放令」がいかにナイーブでお人好しで純朴であるかに気付
くはずである。秀吉はこの追放令により、宣教師がさっさと宣教をやめて日本を去ると信じ
ていたようだ。また宣教師の干渉なく貿易が続けられると思っていたらしい。
秀吉がここに述べていること――国に合わない政治運動や宗教活動を禁止し、それを行な
う外国人を国外に追放する――は今日どこの国でもお互いに当然の権利として認め合ってい
る。
今日、はっきり言えば二十世紀の後半から、この秀吉の言葉は国家主権の発動として国際
的に承認されている。しかし、十六世紀末にはヨーロッパ人が日本の国法や指令に従うなど
と考えるのは全くの幻想であった。日本の主権などは眼中になく、自分たちの意志が法律で
あった。
日本人も奴隷として海外へ連れ出された
奴隷の件について秀吉は、「日本人を買い取って海外へ連れ出すことは厳禁する。日本国内
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での人身売買はとっくに禁止されている」と結んでいるが、彼をはじめ日本人は、当時ヨーロ
ッパに多数の農奴が存在し、また他民族を奴隷として売買するのは大昔からの伝統であるこ
とを知らなかった。アメリカ大陸発見後、その伝統が新しく甦り発展している最中であり、
ヨーロッパ人の征服した地域はどこであろうと有色人種の男女をかき集めて奴隷にすること
に熱中していた。黒人奴隷の一人をバテレンたちが信長に贈ったことは有名であるが、その
皮膚が黒いので信長は不思議がって大きなたらいに水を入れさせ、黒人を丸裸にしてごしご
きん
し洗わせた。それでも相変わらず黒いのでそういう人間も世の中にはいるものと納得し、近
じゅ
習の一人に加えて可愛がった。
日本は征服もされず植民地にもならなかった。しかし、中央政権の目の届かない九州で、
特にイエズス会に寄進された長崎で、日本人が二十年近く奴隷としてヨーロッパ人の手に渡
っていたのである。鎖につながれて船腹に押しこめられた少年少女は、航海中にずい分死亡
し、生きのびた者は南アジア各地、南米、メキシコ、ヨーロッパへ売りとばされ、天正少年
遣欧使節もそれら日本人奴隷を目撃している。
キリスト教徒の間では奴隷は見慣れた存在であったが、日本では鎖につながれて労働に従
事する人間の姿はどこにもなかったので、イエズス会は日本へ来る南蛮船を取り締まるよう
本国に重ねて要請し、一五七一年長崎開港の年に国王ドン・セバスティアンが日本人奴隷は禁
むね
止する旨、法令を出したが何の効果もなかった。日本人奴隷の数に確証はないが、彼らの状
態についてはリスボンの図書館にいくらか資料が残っている。それは十九世紀後半、人道的
見地から批判するようになったのとは異なり、家畜として扱っているため、悲惨さはさらに
強烈である。
神の救いを説き、あちこちに学校を建て、フリュート、ビオラ、ハープ、チェンバロなど
の楽器を弾くことも教えて、崇高な美しさを奏でたバテレンの祖国の暗い影が、日本にも及
んでいたのである。
九章
外からの導火線
秀吉は追放令遂行の具体的手段を示さなかった
ヨーロッパの支配者ならば、当時あれこれ言っているよりも、異国の宣教師とやらをさっ
さと捕えて町中で首を斬り、それで一切を片付けてしまったのである。そのことを誰よりも
よく知っていたバテレンたちは、最後が来たと思ってお互いに告白を行ない死の準備をして
いたところ、その心配はないことが「バテレン追放令」で明確になり、出発する船がないとい
う口実で六ヵ月の猶予を願い出、秀吉はそれを聞き入れた。彼らはその後様子を見ながら時
を稼ぎ、寺社の破壊活動は見合わせ、キリシタンの間にかくまわれつつ布教を続けた。イエ
ズス会の記録によると二百二十人の会士が日本に在住し、そのうち三人は京都に潜伏、あと
は主として九州のドン・プロダジオ(有馬晴信)の領内にいた。
京都の中央政府はこれら外人宣教師の数も居所も知らず、その動きを調べて登録する必要
さえ感じず、追放令を遂行するための具体的手段も何らこうじていなかった。秀吉は高槻の
キリシタン大名高山右近の領地を点検、寺社の破壊と領民の強制キリシタン化に驚いて、信
仰か大名の地位かどちらかを捨てよと命じた。右近は信仰を取り、加賀の国の前田家を頼っ
て追放の身となった。
秀吉の法令はキリシタン自身に大きな動揺を与え、バテレンにあくまで忠誠を誓い援助を
続けるものと、即時離れていくものの両極があったことは当然で、また今まで怒りを押さえ
ていた仏教徒たちが、教会を破壊したり住院に放火することも重なった。あちこちの学校も
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閉鎖された。追放令の出た時九州には十二万余りのキリシタンがいたとイエズス会の記録に
あるが、信仰を強制されていた人々は急速に離れていった。
日本政府から大迫害を受け、信仰の自由をもぎとられ、あらゆる困難と危険にさらされて
むね
いる旨をバテレンたちはヨーロッパへ報告し続けているが、「残酷極まる迫害」はまだどこに
も起っていなかった。一人の宣教師も殺されておらず、投獄されておらず、外出禁止さえ言
い渡されていない。また破壊焼却されたおびただしい数の寺社や仏像神体についての責任を
問われることもなかった。
これが反対ならば、今日ヨーロッパの歴史には何と書かれているのだろうか。たとえば十
六世紀末、シシリー島の港にひょっこりと一握りの仏僧が上陸し、その地方の住民に仏陀の
教えを説き、キリスト教は邪教であるから教会を焼き払わねばならぬと煽動し、寺を建て領
主を改宗させ、その援助で港をつくり、その辺一帯を所有し、十字架やマリアや聖人の像を
叩き割って焚いた精進料理に舌つづみを打ち、仏僧の配下にある貿易船が毎年来て、ヨーロ
ッパにない物を持参し、人々は競ってそれを買い、船が去る時にはイタリアの村々で安く買
い集めた少年少女を鎖につないで乗せて行ったとしたならば、である。
イエズス会の報告によると、秀吉の発令の動機は、彼が九州でキリシタンの美少女たちを
手に入れようとした時、彼女らが貞節を守って拒絶したために憤怒し、怪しからん教えを広
めたバテレンどもを追い払うことにしたと伝えている。情欲をほしいままにできなかった酋
長の突飛な怒りとして扱う以外、秀吉の指令に明白な追放原因を分析し、反省するだけの真
面目さがなかったのである。その真面目さは相手を同等と認識した時点で初めて現れるが、
改宗させねばならぬ、自分たちより幾段も下の異教徒と見ている以上、その酋長の言うこと
など本気で取り上げる必要はなかった。
また今日の日本人学者のうちには、一夫多妻制や売春、男色の禁止など、キリシタン性道
徳が日本人の伝統的社会習慣に合わず、そのため、妾をもつ上層階級や男色を行なう僧侶か
ら煙たがられ、排斥され、禁教に到る本質的要因の一つとなったと説明するものもあるが、
歴史を知っているヨーロッパ人ならば、この説明を聞いて笑い出すのみである。ヨーロッパ
の王侯貴族のうちで、教会の唱える性道徳を守ったものはまずいないし、各地の修道院や僧
院は男色の巣であったし、町の売春宿やその区域一帯が教会の所有になっていた例はいくら
でもあり、ローマには、法王、大司教、司祭の落胤が多かった。
ヨーロッパでも、宗教や倫理と、社会の伝統的風習の間には大きな隔たりがあり、人々は
それを承知の上で説教を聞き、裏木戸をうまくくぐり抜けて生きてきた。日本の支配者たち
も、キリシタンの性倫理に振りまわされ、それが守れないからとバテレン追放に踏み切るほ
ど馬鹿正直ではない。
追放令の根幹は、国外権力が支配者を越えることへの危惧
それでは秀吉のみたキリシタンの危険とは何であったか。
それは当時のヨーロッパ各国の支配者が見た危険と全く同じである。すなわち、ローマに
拠点を持つ国外権力が、一国の支配者の権力を越えて国を動かす危険である。キリシタンの
教えによればデウスが現在から未来永劫にわたる主であり、この世の主君はその前には何の
権威もない。主君の命令がデウスの命令と異なる時は迷わずデウスに従え、という神への絶
対服従は、具体的にはその神を代表するローマ法王への服従であり、その権威は遠く日本の
外にあって日本人を把握し、日本社会を動かすわけである。
当時日本人が主君よりも、神という名の外からの力に従うようになり、それが一つの勢力
となった時、かつての浄土真宗以上に恐るべき存在になることを秀吉は見抜いたのであった。
この洞察に基づいて彼はバテレンを追放しようと決意したが、この外からの力は、今日の日
38
本人学者たちが考えているような反封建的勢力などではなく、反国家的勢力であり、まさに
このためにヨーロッパでも、各国支配者とローマとの勢力抗争は中世からえんえんと続いて
いた。
法王直属の精鋭隊イエズス会は、一糸乱れぬ軍紀に服し、法王の権力拡張のためには手段
を選ばないのであるから、特にエリザベス王朝の英国ではイエズス会を厳禁し、禁を犯して
侵入して来るバテレンは残酷極まるやり方で殺戮されている。その数は何百人にものぼり、
国をあげての断固たる抵抗は遂にローマの勢力を打ち払い、宗教的平和を確保した。十八世
紀にはポルトガル、スペイン、フランス、ナポリなど旧教の国々でさえ、イエズス会を禁止
し国外追放に処し、これらの国家権力者の言を入れて、法王クレメント十四世自身、この会
を全世界的に禁止し、十九世紀初頭ピオ七世が禁止を解いてもなお、多くの国々がイエズス
会の活動を禁止してきた。
それは秀吉が看破した通り、国民が最後には国に忠誠を誓うのではなく、法王に服従する
ことを義務づけられるからキリスト教国でさえ危険視され、弾圧されたのであった。
事実、秀吉の「バテレン追放令」から八ヵ月後、法王は日本に司教区を創設、初代司教を任
命し、追放令などは堂々と黙殺し、すべての日本人を神の前に導くようにとバテレンたちを
激励している。
今日でもこの問題は形を変えて国々を脅かしている。教会のかわりに、地上のどこかに拠
点をもち財力に支えられている革命イデオロギーの秘密結社なり、国際スパイ網を考えれば
明瞭である。そういった国際的規模をもつ勢力の意図するところが、国の目的と相反する場
合、支配者は、封建君主であろうと民主主義の首相であろうと、当然何らかの手を打たずに
はおかない。今日ではどこの国でもこれを取り締まる法律があり警察がある。
布教のためなら宣教師の処刑も逆利用
秀吉は教会領となっていた長崎を没収し、直轄地とした。日本の国土の一部が公式に外国
人の所有に帰していたことは、宣教の真意と背後勢力につき一般に不安の念を強くした。長
崎領を失ったバテレンたちは憤怒の手紙を矢つぎ早に送り、日本に信仰の自由なく、キリス
ト教は迫害されるから、この上はスペインの軍事力を駆使して日本を攻撃、征服あるいは一
部占領して日本人を改宗させるべきであると、具体的戦略を述べている。
ちょうどその頃、法王の援助でつくられたスペインの無敵艦隊は英国を侵略して旧教勢力
下に引き戻そうとやって来たが、英国の海岸近くで惨敗し、姿を消した。博多に侵入したモ
ンゴル大軍の場合と同じく、大嵐が吹いて小さな英国軍を助けたわけだが、しかし万一、英
国が負けていたならば、日本征服の計画は夢ではなかった。メキシコのアカプルコから太平
洋を越え、五十年もの月日をかけてフイリッピンを征服し植民地化したほどの戦略的実績と
息の長さをもっているスペイン人にとって、日本がいかに遠い国であっても大した障害では
なかった。要するに、当時外国艦隊の威力を発揮して日本人を脅かし、その揚句おとなしく
させて言い分を通そうとしたバテレンたちが、具体的戦略計画と海陸地図をスペイン国王に
送ったという史実が重要なのである。
一方、秀吉はじめ日本人は、南蛮人が布教さえしなければ自由に入国滞在することに異存
はなかった。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのではなく、坊主も商人も珍しい文物を携えてやっ
て来るのは大歓迎であった。外人に対する恐怖も劣等感も排斥気分も全くなかった。外人に
よって実際に占領もされず、痛い目に会っていない日本人は何の警戒心もなかった。
その頃イエズス会の巡察師ヴァリニャーノはヨーロッパから帰った遣欧使節をつれて公使
の資格と服装で秀吉に謁見したが、その折の一行の華麗な服装はたちまち都の人々の心をと
らえ、カッパや短いズボン、ボタンのついたシャツ、つばの広い帽子、金の十字架のネック
39
レスなど何でも南蛮流が大はやりだった。それは十八世紀のフランスで突如として中国趣味
がはやり、十九世紀中葉には日本趣味が熱病のように人々を捕えたのと同じであるが、それ
よりもまだ無邪気に広範囲に南蛮趣味が浸透した。
そうこうしている間にフイリッピンからフランシスコ会士たちが使節と名乗って、バテレ
ン追放令の出ている日本へ来て中央に住み、秀吉に、イエズス会士が布教を続けているが、
むね
その背後には国をとろうとする計画がある旨を密告。イエズス会はちょうど遣欧使節に感謝
した法王から日本伝道独占権をもらい、そのための財政的援助を確保したところであり、他
の修道会に縄張りを荒されるのは心外であったから、即刻司教のもとで総会を開き、司教自
ら京都へおもむき、フイリッピン使節と称するスペイン人どもは実は危険極まりない坊主で、
布教によって日本を征服するつもりだと秀吉に密告。お互いの告発内容があまりに似ている
いぶか
ので訝しく思っている秀吉のところに、サンフェリペ号事件が報告されるに到った。
それは四国の太平洋岸に漂着した七百トンのガレオン船で、フイリッピンからメキシコへ
荷を満載して航海中であった。秀吉の五奉行の一人増田長盛に水先案内フランシスコ・デ・サ
ンダが世界地図を見せ、わが国王はまず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると軍隊を送っ
て信者と内応し、国土を征服するから、太陽の沈むことなき領土を獲得するのだと語った。
それから数週間して一五九六年暮、秀吉は突如大坂と京都にいたフイリッピン使節、実は
フランシスコ会の宣教師六人、日本イエズス会士三人、彼らをかくまった日本人信者など二
十六人を逮捕させ、長崎で処刑することにした。この思いがけない事態をみて長崎のイエズ
ス会本部は実に鮮やかな活動を開始した。まず奉行に願い出てふつうの刑場でなく、港や海
を一望のもとに見おろせる西坂の丘で処刑すること、斬首でなく磔にすることの二条件を承
諾させた。
秀吉がキリシタンを怯えさせ懲らしめるために意図した処刑を、イエズス会は見事なやり
方で逆手に利用し、信者を鼓舞する一大劇に演出し直したのである。イエスが十字架にかけ
られたゴルゴダの丘を彷彿させる場所での二十六人の磔の光景は、キリシタンを怯えさせる
どころか反対に恍惚の境地に追いやり、教祖イエスのように自分も死にたいという殉教熱を
高めた。彼らは死体も着衣も残らず聖宝として持ち帰り、これを機としてフイリッピンから
殉教を夢みる宣教師が続々日本へ侵入、その熱は病的に高揚していった。教えのために殺さ
れた者は必ず天国へ行けるというキリシタンの信仰は、日本側が厳しく出れば出るほど強ま
り深まり、天国行きを保証してくれる殉教の地は宣教師の憧れとなった。しかも磔にしてく
れるのである。ヨーロッパを血で染めた異端退治も宣教師迫害も、殺す時は焚刑であり、磔
にして死者に栄光を与えるような馬鹿な真似はお互いにしないのが常識であるが、日本では
磔が栄光に輝く死に方だという宗教に根ざした不文律はもちろんなかった。
ずっと後になって、日本が鎖国を終える頃、ローマ法王庁はこの時の二十六人を聖人の列
に加え、二十六人の聖人を殺すような「野蛮極まる行為」を日本人に想い出させ、開国後、イ
エズス会以下旧教の宣教師たちが活動しやすい地盤を日本につくることを忘れなかった。ま
た宣教師の中には日本の大学で日欧関係やキリスト教について講義する時、史実を曲げて伝
える人も時折みかけられた。秀吉時代の日本人がいかに残虐であったか、宗教の自由や個人
の人格についての認識がいかに欠如していたか、どこまで国際性に欠けた偏狭な島国根性の
持主であったかなどと強調するのが常であり、それを聞いた日本人も即座に恐縮して恥入る
ようになった。それがまた進歩的で国際性豊かな人間であるかのごとく勘違いしてしまった。
この傾向は今日まで続いている。
当時、侵入者を探し出して捕え、強制送還する体制は全く整っていなかった。限りなく続
く海岸線を日夜見張るだけの準備もなかった。またこれら外人宣教師はいくらでも日本人信
者の間にかくまわれた。その総数は不明であるが、一人として殺されていない。日本側は手
を焼き始めていた。そのうち秀吉は一五九八年死亡、政局の真空を突いて政争が始まり、バ
テレンたちの活動も自由になった。
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一六〇〇年、新教に属する最初のヨーロッパ人がオランダのリーフデ号で九州に漂着。法
王はこの時に当り、イエズス会に限らずすべてのバテレンたちが協力して日本宣教に当るよ
う勧告し、ヨーロッパを血でぬった新旧キリスト教の闘争はさらに形を変えて日本へ持ち込
まれることになった。
十章
老獪な虎
絶対主義政権を確立した家康
一六〇〇年に日本人に周知の徳川家康が天下を掌握した。彼の意思はその時から二百六十
年間、日本を形作り、その影は今日まで薄れていない。慎重さ、打算、取り締り、組織力を
連想させ、時代にもその刻印が押された。家康は忍耐強く出番を待ち、政権を取った時はす
でに五十九歳であった。信長の下では従順な信頼に足る協力者であり、秀吉の下では五大老
の筆頭であった。彼は背が低くがっちりと肥って頬がふくれ、丸いさがり目であったが、如
才なさと老獪さを合わせ持ち、すべてに用心深かった。偶然にまかせず沈着にあらゆる糸を
たぐり決断の時を待った。辛抱強い虎であった。家康には秀吉のようなナイーブさや人情味
は少なく、信長の炎のようなひらめきや生命を賭けた激烈さはなかった。
家康は一六〇三年に天皇から将軍に任命され徳川時代が始まった。江戸、すなわち今の東
京に幕府を開いたので江戸時代とも呼ばれる。彼には多くの女性があった。大奥と呼ばれる
男子禁制の妻妾の居所が江戸城内にあって、画然とした身分や地位がそれぞれに与えられ、
召使いたちにも上下の差があり、きめのこまかい管理が行なわれた。家康は女性の家柄の良
さや教養の高さ、美しさや華やかさにはあまり魅かれず、健康な男子を生みそうな若い後家
を主として妾にした。彼女たちはヨーロッパの貴族たちのような社交の場を持たず、外交の
ために表に出て才能を発揮する習慣もなく、世界中どこにでもある女同士の妬みや競争も大
奥の中で隠然と、凄じく展開し、政治に関しては裏側から間接に影響を及ぼした。
家康は財政管理の天才であり、自分と自分の子孫のためにその才能を老練に発揮した。金
に対する執着はヨーロッパ的で、二十三トンの金と二百トンの銀を倉に集めて子孫に遺した。
また日本中でもっとも豊かな土地を直轄し、その面積は国土の四分の一にのぼった。大小の
貿易港も直轄され、千五百キログラムの生糸をはじめ莫大な数の織物や香木を集めた。財力
において当時の世界で有数とみなされる家康は、軍事力においても揺るぎない地位を築き、
日本全国を完全に掌握した。大名たちに領地を分け与え地方行政に当らせ、彼らの軍事力と
経済力を統御して絶対主義的政権を確立した。
このように、日本はすでに十七世紀初頭に政治経済軍事の全般において、一国として統一
され、機能しており、その後この統一が崩れることなく現在に到っている。絶対主義政権の
確立は家康より遅れてフランスのルイ十四世に見られるが、ドイツなどはまだ封建諸侯の数
がおびただしく、彼らの権力が強過ぎて、一国としての統一も全国市場の形成も十九世紀後
半になるまで不可能であった。「同じ日本人同士」という感情はあっても、「同じドイツ人同士」
というのは全くピンとこないし、誰でも吹き出すのは当然である。
家康は将軍の地位を二十六歳の秀忠に継がせて世襲の基礎を固め、自分は大御所として駿
府に住み、揺ぎない政権を末永く持続させるにはどういう処置を取ればよいかという、世界
中の支配者が考え抜いた問題とじっくり取り組んだのであった。徳川家の将来を企画し、そ
の結果、日本の未来を形成することになった。彼が意図せず、また予知しなかったことは鎖
国であった。江戸幕府の創建者家康は、自分の死後二十三年過ぎてその孫が鎖国をしなけれ
ばならなくなるとは夢にも思っていなかったろう。家康は彼の政治体制が内側から崩される
41
ことなく、また外圧に強いことを知っていた。新教徒であるヨーロッパ人との接触により、
ヨーロッパの力関係とその植民地の様子について本当の情報を得ることのできた最初の支配
者であり、当時の国際経済機構における銀の国・日本の地位をつかんだ政治家であった。世界
の民族の交流における金銭と力の関係を見抜くだけの狡猾さを持ち合わせていた。
国際外交の構想と朱印船の活躍
彼がバテレンたちの激しい反対と中傷にもかかわらず、外交顧問として側近に加えた英人
ウイリアム・アダムスやオランダ人ヤン・ヨーステンは新教徒の技師で、貿易と布教を明確に
割り切って考えることのできた最初のヨーロッパ人であった。旧教に対しまた法王に対して、
特にイエズス会士に対して憎悪と敵意を抱く彼らは、ヨーロッパの新しいもう一つの勢力で
あった。旧教徒のアジア貿易における地位を覆し、特に対日貿易の巨利を少しでも自分たち
の方にまわすべく活躍し、家康に助言を惜しまなかった。
当時国際貿易の舞台である東シナ海はポルトガルが独占し、長崎へ来る南蛮船はヨーロッ
パの珍物を売りにくるよりも、日本人の熱望した中国生糸を持参し日本銀と交換することに
よって六倍もの利をあげ、東洋貿易の「ドル箱」となっていた。海禁策を実施中の明政府が日
本と直接貿易せず、ポルトガル領マカオ近くにある広東でのみ生糸の輸出を黙認していたた
めで、日本の海賊船に対する抵抗でもあった。家康は堺、京都、長崎の有力な豪商たちで仲
間を組織させ、ポルトガル船の積荷生糸の買い取り価格を決定させ、一括購入させた。もち
ろん彼自身先買権をもち、原価で買い取り、残りを全国の輸入商人たちに売った。これで各
地から集まってくる日本商人同士の競争による価格のつり上げを防ぎ、それまで売りさばき
を行なっていたバテレンやキリシタンを排除して、彼らの財源に大きな打撃を与えた。
江戸初期、日本は年間約六十トンの生糸をポルトガル船から輸入し、それとほぼ同じ重量
の銀を支払っていた。三十年たって鎖国が近づいていた頃、日本は年間約百二十トンから百
四十トンもの生糸を輸入していたが、ポルトガル船からはそのうちたった六トンを買い入れ
たに過ぎない。これは日本人がアジア海域で中国生糸を安く買い付けるようになったためと、
オランダ人の進出によりポルトガルが不振になったためためであった。日本の貿易総額は
年々伸びていた。
一六〇九年以来オランダは通商許可を得、無条件自由貿易の特権を享受した。九州の平戸
に商館を設置した。三年後にイギリスもここに商館を置いたが長続きせず、それから十年た
って閉館した。双方とも自国の物資を売ることに力を入れるのではなく、中国生糸の仲介を
主としていた。オランダ人はとにかく辛抱強く何とか商売を続けた。というのも国際貿易に
不可欠のドルである銀は本国でもまた東インド会社設立地域でも産出されなかったので、日
本の銀が頼りであった。彼らは東アジアにおける海軍力を増強し、世界最新の軍備と技術を
誇り、ガリレイの望遠鏡でポルトガル船をみつけると乗っ取るか沈没させ、六年間に約百五
十隻の船を消失させた。またメキシコからフイリッピンへ銀を山積みしてくるスペイン船を
つかまえ、銀を強奪し、マニラあたりにくる中国船から生糸を剥奪して平戸で銀とかえた。
台湾南部を占有し、マラッカからポルトガル人を追い出し、しまいには友好条約の切れたイ
ギリスとも闘って勝ち抜いた。この間、日本に対しては終始礼節を尽し、いかなることがあ
っても日本市場を守ることに懸命であった。年間七十万グルデンを占めるこの市場は、オラ
ンダのヨーロッパ以外の地域における貿易総額の三分の二にのぼったのであった。
家康は政権の座についた当初から国際外交の構想を抱き、各国とまず公式外交を結ぶこと
によって日本人の海外貿易を発展させ、同時にそれを管理しようとした。この平和通商主義
は政権の経済的基盤を強化する一策で、朱印船制度に具体的にあらわれている。朱印状は要
するに渡航許可書であり正式の日本貿易船であることを政府が認めた保証書でもある。海賊
42
船と区別され相手国の配慮を受けた。その後三十年間に三百六十通もの朱印状が下付されて
いるが、高価なこの証書を入手できるのは京都や堺、大坂や江戸の豪商であるため、貿易統
制であったと見る向きも多い。しかし、当時のヨーロッパ諸国でも、勝手に船を仕立てて海
外へ行くなどはもっての他で、領主なり国王なりの許可書が必要であり、同時に納税義務を
負わされていたので自然に範囲は狭くなった。朱印状は貿易管理とみる方が妥当であろう。
当時朱印船は何を積んで海外へ渡り、何を買い取って帰ってきたのだろうか。行く先々で
違いはあるが、買った物は原料――生糸、木綿、皮、錫、鉛、砂糖、香木――であり、売っ
た物は加工品――銅や鉄の用具、屏風、蒔絵、扇子、傘などの工芸品、それに食料品――で
あった。そのパターンは今も変わらない。
当時の日本人はすでにアジア諸国の市場調査を行なって各地の需要を知り、また生糸を安
く入手するルートを探して歩き、見つけ次第買い占めてしまうので、スペインやオランダが
日本へ輸出する生糸が減少し高騰するため苦情が出て日本人に自主規制を迫っている。オラ
ンダ人が自国のデンハーグに送った山のような書類は、貿易の強敵日本をどうするかが主題
であるが、日本人の集中豪雨的買い占めや売り込みはその頃からすでに国際問題になってい
たようである。
ともかく外交による平和通商主義を貫き、経済発展と資本の蓄積を計り、確固たる政権を
存続させてポルトガル人、スペイン人、オランダ人、イギリス人の進出して来た国際舞台へ
どんどん乗り出して日本の主権を守り抜くことは当然であると、家康は信じていた。
十一章
西洋文明の楽屋裏
植民地化を展開するヨーロッパ
ヨーロッパ人は一般に自分たちが大昔から科学技術において世界の先端をいき、他民族は
何とかそのおこぼれをいただいて今日に到ったと信じており、それを機会ある毎に強調する。
日本人は十九世紀後半に受けた西洋文明のショックから間もなく立ち直ったとはいうものの、
西洋は大昔から進んでいたというショックの副作用的意識からはまだ解放されていない。だ
から秀吉や家康の頃、すなわち十六世紀末から十七世紀初め頃のヨーロッパも科学技術や医
学において、日本とは比べものにならぬほど進んでいたと錯覚している。またその頃日本へ
来たバテレンや商人や航海士たちが、まるで科学技術庁の派遣した代表団であったかのよう
に思い込み、彼らが日本人に伝えたものは遥かに次元の高い知識であったと信じて疑わない。
だからその高い次元の文明に触れ、恐れをなして尻込みし、とてもついていけないという劣
等感から鎖国に到ったと言われても、そうかも知れないと頷いている日本人がいる。
秀吉から家康時代のヨーロッパを見てみよう。そこで顕著なことは、ヨーロッパ人が幾つ
もの大砲を備え完全に武装した帆船を造るだけの技術を養い、その艦隊を駆使して世界の海
を渡る航海術を発展させ、相手が弱いとみれば海から攻撃を続けて港を占領し、植民地化す
るのだという断固たる意思を持っていたことである。
これはまずヨーロッパ人同士が幾つもの戦争を繰り返しながら鉄砲を改良し、地中海から
大西洋を渡って北海に到るルートと海軍を発達させ、南と北の船を折衷させて能率の高い船
を造り出し、お互いに占領し、また占領されながら常に攻撃的な精神風土を培い、イスラム
圏を通らずにアジアへ抜ける海路を探そうという執念の結晶であった。
中国人の発明した火薬を武器に使用したのはフロレンス軍で十四世紀初頭のことであり、
次第にヨーロッパ中に広まり、英仏間の百年戦争で大いに改良され、ジェノアやベニスの地
中海商船隊は鉄砲を備え陸上戦の知識を次々に船の軍備に応用した。ペストによる人口の大
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量喪失は労働力、特に船員不足をきたし、少しでも能率と耐久力のよい船をなるべくわずか
の人数で動かし、しかも優秀な攻撃力を持たねばならぬ必要から船も絶え間なく改良された。
その背後に、自分たちの存在を世界中に押し広めようという自己拡張の意思が一貫して通っ
ていた。
この執拗な意思が、たとえば十五世紀に七回にわたって遠洋航海を成し遂げた中国人に欠
けていたのである。中国人はすでに四世紀にペナン、セイロンへ出かけ交易し、五世紀には
ユーフラテス河口まで足を伸ばし、十四世紀にはさらに船を発達させてインド洋を貿易と外
交で占めるに到ったが、十五世紀にはボルネオ、フイリッピン、コーチン、アフリカのモガ
ンディッシュまで約三十ヵ国を百隻余りの船で歴訪、明皇帝の贈物を届け、気候や土地や住
民について観察し、そのまま帰途についた。この事実を引用する今日の西洋の識者でさえも、
中国人の遠洋航海の意図がわからないと述べ、なぜ中国の旗を港にかかげて占拠しなかった
のか、なぜ自分たちの文明を植えつけて広めなかったのか、何のためにそれほど高度な航海
技術を磨き、莫大な金をかけたのかと疑問を投げかけているが、まさにこの攻撃的姿勢と断
固たる征服欲がアジアに欠けていたのである。
中国人は天文学や地理の知識もこの上なく豊かで、早くから羅針盤も持ち、航海術をいく
らでも発展させる可能性を充分持ち合わせていたが、ただその技術を駆使し兵器を積んで、
何が何でも見知らぬ土地を探し出し、そこに太古から住んでいた人々を攻め落とし、殺戮し、
土地を奪い取り、産物を自国に運ばねばならぬ必要を感じなかった。八世紀にアジア海域に
進出して植民地を作ったアラブ人は、十三世紀には朝鮮(シラ)や日本(ワクワク国)を訪れ、十
五世紀には中国と共に世界最高の造船および航海術を誇っていたが、限りない征服欲に燃え
てはいなかった。また中国人やアラブ人の背後には、征服を支援し、金を投資し、海外遠征
隊を国家的規模をもって保護する支配者がなかった。
このことは十一世紀に北アメリカの東海岸に来た最初のヨーロッパ人、ヴァイキングにつ
いても言える。スカンジナビア半島から大西洋を渡り、北米との間を何度も往復した彼らは
後援者のないまま自然消滅している。
職人の伝統技術を見直す科学者たち
七章で述べたように、教会が絶対真理として人心に叩き込んできた神の摂理を自分の目で
確かめ、解明したいというやむにやまれぬ欲求から、観察を基にした天文学、実験を基にし
た物理学が誕生したが、それはちょうど江戸初期、一六〇〇年頃からケプラーやガリレイに
よって徐々に軌道に乗せられ、十七世紀中葉から主として新教諸国で認められるようになっ
た。教会に反感を持つ王や貴族たちが望遠鏡を備えつけて天体観測を行ない、権威を失った
教会に拍手を贈る姿が目立った。当時の天文学者の雄、ティコ・ブラへを保護し激励したデン
マーク国王は有名である。
「宇宙は神のようではなく、時計のようだ」というケプラーの言葉が象徴しているように、
何でも観察し計算し実験して証明し、普遍性を正当化するという化学的方法は、この頃から
ヨーロッパで開拓された。ルネッサンスにもなかった方法である。ルネッサンスの科学は哲
学と同じで、不変とか永遠を論じ、問題解決に機械や道具を必要とするなどは考えもしなか
った。思弁が中心で、実際に手を使うこと、身体を動かすことは俗なこととされた。すなわ
ち技術は低いことで職人に任せておけばよいとされた。一方、職人はだいたいのルールと勘
に従い仕事をし、親方の経験を受け継いだ。だから科学と技術は交わることなく、科学者は
上等で、技術屋すなわち職人は下等、建築家は上等で大工は下等であった。医者も内科は上
等で外科は下等とみられた。ルネッサンスの医者は古代ギリシャの医者ガレンの書をアラビ
ア語の注で読み、土星と金星の近づく年には疫病が出るからそのためペストが流行すると説
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明していた。
何世紀もの間、科学は頭の中だけで永久不変の真理を追求していたのである。十六世紀末、
ケプラーやガリレイによって職人の手にあった技術が見直され、手を使うこと、物を作るこ
とは科学者の沽券にかかわるどころか、真理の発見過程において不可欠だと思われ始めた。
ガリレイはベニスの大道職人から学ぶところ大であったと述べているが、彼自身有名なガラ
ス工であり、ガラスの性能に通じ、天体観測に必須の望遠鏡を造り出した。顕微鏡、温度計、
晴雨計、真空管など種々の道具が次々に考案され、空間や時間、空気や光線を測量し地球の
面積を計算し、光学や化学が誕生し始めた。一方、職人の文盲も少しずつ減少し、時計や羅
針盤などの精密機械を作ることにより科学者に近づき、十七世紀から十八世紀まで両者が歩
み寄った下地の上に、初めて産業革命が可能になった。
科学的思考法に抵抗を示すヨーロッパ
科学的思考法は、しかしながらヨーロッパ社会になかなか根をおろさなかった。
航海や造船や軍備に役立つ限り、すなわち実生活に応用できる限り研究も結構であったが、
根本的な思考法としては一般に理解されなかった。理解を阻む基盤は長らく社会に培われて
いた。第一にアリストテレス以来の古代ギリシャの学問的系統がルネッサンスで再発見され
て知識人に深く浸透し、ガリレイなどの実証的方法とは相容れなかった。それは今日まで変
わらない。ギリシャ・ラテンの古典的教養を誇る人文学的ヨーロッパ人は、科学的思考法にな
じめない。これは驚くべき事実であり、私自身、その事実の前に戸惑ったものである。ギリ
シャ語やラテン語で古典を通読し、自在に引用する能力を持った者が教養人とみられるのは
当然としても、その同じ人間が物理化学や先端技術の重要性を全く認識していなくても教養
人、文化人として立派に通るのである。むしろ、科学的思考法なり技術の存在を否定するく
らいでないと指導的教養人とは見られない。人々の意識を左右し形成する放送局でも、局長
や部長は新しい技術導入を嘲笑したり皮肉ったりするのが常であり、エレベーターや電話や
電子機械の前でどのボタンを押せばいいのかわからないというポーズを取る方がさまになっ
ていると見られ、そんな手先のつまらない技術に頭を使わないことが数段上等の人間と思わ
れる。
近代技術や医学や自然科学は生活水準を引き上げ、人間の寿命を伸ばし、自然現象の幾つ
かを解明したけれども、人間の魂に触れ、人生の価値を左右することはできないという信念
があって、この信念は教養人の中に深く根を張っている。と同時に魂は生活水準や寿命や自
然現象など、要するに人間の肉体に関する諸事よりも遥かに重要であるから、魂に豊かさを
与えてくれる神秘な美しい古典の方が自然科学や技術よりも価値高いと思うのである。日本
人の私などは、別にそのような区別をする必要を感じないし、何が魂のためになり、何が身
体のためになるか、魂と身体とどちらが重要か、自分は終局のところどちらを取るのである
かなどと考えない。それはヨーロッパの教養人からみれば中途半端であって、本当は自然科
学や先端技術について無関心であることを誇りにするくらいでなければ文化人の中には入ら
ない。実際は無関心というよりむつかしくてわからないのであるが、わからないような異質
なものは敵視するのがヨーロッパの伝統である。敵視し邪悪視する。科学者は文化人から敬
遠され、お互いに不信の念を持って反目し合っている。ハイゼンベルクのように科学者であ
って同時に哲学者であり、しかも音楽家であるというような場合は例外的に文化人の仲間に
入れられる。
こういった文化人たちが指導者的地位を占めている社会では化学の本質は理解され難く、
その使い道を見失いがちである。何かというとすぐに「自然に返れ」という叫びが反響し、衣
食住の自給自足を理想とし工場生産を敵視し、純朴な昔に帰って魂の価値をとり戻せという
45
風潮が流れるが、その場合、きまって科学技術の存在を罪悪視する。科学技術を駆使する人
間の倫理を問わず、科学技術そのものを邪悪視するのがこれら第一のグループの特徴である。
第二に教会がそう簡単に退いて沈黙するほどお人好しではない。科学者は聖書の言葉に照
らし合わせて批判されるのがふつうであったが、今日では文明のもたらす諸悪の責任を負わ
されている。新旧キリスト教とも、化学の発達によって教会の権威が少しづつ失われていく
ことに対し、常に警戒し防御政策をとっている。
第三に民衆は九割近くが農業に従事し、早朝から夜更けまで働いてやっと食べていた。ほ
とんどが文盲で、十九世紀以後でもスペインやイタリアでは七十五パーセントが文盲、フラ
ンスやベルギーで四十五パーセント、もっとも進んだイギリスでさえ三十五パーセントは読
み書きとは無縁であった。ましてや江戸初期から中期に至る頃はヨーロッパの大半が文盲で、
科学とは関係のない世界に住んでいた。生活に必要な知恵は親から子に伝え、小さな改良を
行ない、風車を使ってリボンに型を入れたり、皮に模様つけをしたり、油をしぼったり、銅
板に彫りつけた格言や町の風景画を複製したりした。産業革命までのヨーロッパは日本と同
じく、人間や動物のエネルギーを主軸として社会が成り立っていた。教会は新旧ともに神へ
の服従を説き、人間がいかに無力であるかを強調し、自分の頭で考えて決断する訓練は全く
なされていなかった。それどころか、新旧とも狂信的な闘争の真っ最中であり、お互いを絶
滅させることに熱中していた。
民間信仰の根強さ――魔女狩り、幽霊、占星術
ちょうどこの時期に何百万人もの人命を焚刑にふした中世の魔女狩りが、またもや流行し
始めた。それは科学的思考法や理性に信頼を置こうとする啓蒙主義の潮流と平行線を辿って
たた
同時期に起っている。魔女狩りは、人間が他の人間に祟って禍いを起こすという民間信仰に
根ざしていた。人間は生きていても死んでからも無力で、親でも赤の他人でも、人に祟った
り人を守護する力はないと何世紀もの間、教会は教え続けてきたが、やはり祟ったり呪った
りする悪い方の力は民間信仰の中に生存し続け、村や町に禍いがあったり変死人が出ると、
あの人が呪ったからだと言うわけで、憎まれ者や妬まれ者がやり玉にあげられ、裁判にかけ
られて衆前で焼き殺された。多くは老女であったが、三歳の子供から壮年男子、妙齢の女性
といろいろであった。焼き殺された人の財産の半分は裁判官が、あとの半分は土地の領主が
巻き上げたので支配者にとってもなかなか良い収入になった。
教会も魔女は悪魔の弟子であるから見つけしだい火あぶりにしなければならぬと教えた。
悪魔は火であるから、それを壊滅するには聖なる火をもって焼き殺すのが妥当であると神学
的説明を与えた。司教が裁判官の場合もあれば、司教自信が魔女として告発され殺された場
合もある。村から村へ回って密告者からあげられた魔女たちを裁判にふす「魔女狩り裁判官」
とその助手の姿は、十七世紀のヨーロッパでは見慣れた風景であった。これは啓蒙主義者た
ちによって批判され、徐々にやめになったが、教会側からは主としてイエズス会士たちが全
力を尽してやめさせたことは特筆すべきであろう。教会が魔女狩りを応援する以上、人間に
呪う力があることを認めたわけで、これは人間無力という教会の前提に反している。だから
この恐るべき風習は禁止すべきであるとして教会に働きかけた。
幽霊の話はヨーロッパにも沢山ある。死んでも恨んで化けて出るほど人間の気力はどこか
に残るという民間信仰である。ヨーロッパの民衆はこの信仰が教会側からは迷信と言われ、
科学者たちからは証拠不充分で相手にされず、それでも今日まで言い伝えてきたし、心の隅
で信じている。ぎっくり腰になると、「魔女の矢に打たれた」と表現するが、ものごとがうま
くいかない時にも「魔女に呪われているから」と言うのは日常語である。人間無力と教えられ
ても、どこかに呪ったり祟ったりする人間がいるという信仰は民間に根強く生きている。
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また不治の病を患ったり交通事故に会うなど、現代の医学、科学をもってしてもどうにも
ならない現象を未然に知ろうとする民衆の願いは、今もって占星術を隆盛にしている。十七
世紀中葉まで、すなわち科学的思考法が知られるようになるまで、王侯貴族はお抱えの占星
術者から未来を予言されてことを決していた。天文学を兼ねていたこれらの学者は天文学一
本にするか、占星学者として蔭にまわるかのどちらかになったが、占星学の方は科学者から
相手にされず、教会から迷信といわれつつ、今でも民間に深く根を張っている。
医学も十七世紀頃はまだ多分に形而上学的要素を持ち、英独仏伊は周期的なペストの大流
行と闘いつつ原因究明に必死であったが、想像に絶する非衛生状態は病気の蔓延を助長し、
発病と同時にペストハウスへ運んで隔離した上、死ぬのを待って土葬にしたが、なるべく深
く埋めるように医者が支持した程度であった。バイキンももちろんまだ発見されていない頃
であり、麻酔もないのに激痛に耐えて手術を受ければ、手術道具や医者、患者についている
バイキンのために死亡率は高く、十九世紀中葉になって近代医学が誕生するまでは、幼児死
亡率は六十パーセントであり、ともかく十歳までに半分以上が死んでいたのである。
家康時代のヨーロッパは、だから科学、医学といっても序の口にあり、日本が鎖国をして
から後、主として新教諸国で開拓され、急速に発展していった。そして産業革命を通して科
学技術は無理矢理に日常生活の中に入り込み、それまでの人間の歴史を根本的に変革した。
しかし、だからといって科学的思考法がヨーロッパ人の第二の天性になったと結論するのは
間違いである。相変わらず教会は実証的思考法に不信と疑惑の目を注ぎ、文明の諸悪は科学
の責任であると主張し、古典的教養を誇る文化人は教会とは別のニュアンスをもって科学的
思考法を軽蔑している。大衆はわからない。ただ科学技術の恩恵にはいやおうなしに誰もが
浴し、その危険にも晒されているわけである。
日本は経済的、技術的、精神的にも安定した国
それでは十七世紀始めの日本の技術的レベルは各分野においてどの程度だったのか。
造船について言うならば、日本人は当初、遠洋航海に適した丈の高い船を用いていなかっ
たし、南蛮船はその船の構造や内部のデザインを日本人に見せないよう努めていた。しかし、
漂流船でも何でも日本の船大工は微に入り細にわたって調べ上げ、ポルトガル船やオランダ
のリーフデと同じ三百トンくらいの朱印船を造るようになっていた。鎖国前には七百トンも
の大船を造り、フイリッピンのスペイン政府もメキシコ航路に日本製の船を注文している。
日本人はスペインよりも安く、しかも良質の船を造ると古い記録に残っているが、それは偶
然ではない。地震の多い日本で、寺の本堂や五重塔を建ててきた大工の知識と経験は、揺れ
る船体を造る上に貴重な宝となった。木材のかみ合わせ方と突張り加減によって地震や高波
を平気で乗り越える物体を造り出す技術である。六〇七年に建立の法隆寺の五重塔は世界最
古の木造建築として今もその美しさと安定性を失っていない。
江戸初期の日本には金鉱六十、銀鉱四十余りが存在し、国際貿易の「ドル」にこと欠かなか
った。朱印船はアジア各地に日本からの加工品を売り込み、原料を輸入して市場を広げてい
った。各地に日本町ができ、海外移住の日本人も増えつつあった。日本の刀鍛冶は弾力性に
富んだ、しかも強靭な鋼を造ることにおいて当時の世界に比類がなかった。ヨーロッパでは
二十世紀になってやっとこれだけの質の鋼を製造するようになったことは、今日の専門家の
一致した見解である。日本人のこの鋼に対する知識と経験は刀ばかりでなく鉄製品すべてに
言えることであった。また銅を扱う技術は八世紀中葉建立の奈良の大仏を見れば一目瞭然で
あり、寺鐘の鋳造はヨーロッパの教会の鐘造りと同じく完璧を極め、大砲製造にもその知識
が応用されたのである。
当時の日本人がまだ使いこなせなかったのは水先案内の技術であるが、それを学ぼうとす
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る意欲と頭脳はいくらでもあった。
見渡して見て、家康が歴史の舞台に登場した十七世紀初めの日本は、経済的にも技術的に
も拡張発展の気運にあり、民衆は寺社の抑圧に悩むこともなく、仏教各派の闘争で日本中を
血に染めることもなく、魔女狩りと称して密告し合い殺し合うこともなく、またペストに襲
われて町全滅の不気味さを味わうこともなく、当時の世界でもっとも安全な豊かな生活を始
めようとしていた。
十二章
「大迫害」の真相
禁教令後の日本とヨーロッパの「弾圧」の差異
家康の禁教令は一六一二年四月、江戸、京都、大坂、堺、長崎において、一年後には全国
に及んだが、その理由は秀吉と同じであり、ここに繰り返して述べるまでもなかろう。
ただし、禁教令発布と同時に今日の日本人学者のいう「大弾圧」はどこにも起こっていない。
バテレンたちは国外へ追放されるべく先ず長崎へ船で運ばれ、各地の教会は焼却あるいは取
り壊され、日本人信者は転宗を迫られた。これはヨーロッパの支配者からみれば全く何をや
っているのか解釈に苦しむような冗漫な処置である。彼らが禁教令を発した場合は、それと
同時に皆殺しを貫徹すべくあらかじめ準備を完成するのが常識であり、発令と同時に軍隊か
特別警察が禁教令の対象になる人間の寝込みを襲って捕え、形式上の裁判にかけ、どんどん
殺害した。やっと命からがら国外へ逃れ得た者は幸運であった。いったん捕えられたならば
棄教しようが転宗しようが容赦なく殺戮された。スペイン国王による国内のユダヤ教徒およ
びイスラム教徒迫害は世紀を揺がす大規模なもので、主として熟練工や商人であった。これ
らおびただしい数のスペイン人は全国津々浦々から引きずり出され、焼き殺された。生きな
がらえた避難民はヨーロッパ全土と北アフリカに広がった。これら異教徒のうちには祖父の
代からすでにキリスト教に改宗していた者も多かったが、それは「本もの」のキリスト教徒で
はないから信用できないという理由で殺された。
パリにおけるバーソロミュー夜半の新教徒皆殺しはカタリナ王妃の命令で事前に新教徒を
リストアップし、発令と同時に不意打ちをかけて家々から引きずり出し、徹夜で殺し続けた。
地方の新教徒のうちには幸いにも英国に逃げのびた者が多かった。オランダやドイツからも
旧教に迫害されてやっとの思いで英国へ逃れた新教徒が数知れずあった。プロイセンが国づ
くりに精出していた頃は、迫害されたフランスの新教徒を大歓迎で受け入れ、これら莫大な
数の職工の技術導入を行なって手工業を発展させたが、受け入れてくれる国を探して彷徨す
る避難民の姿はヨーロッパの歴史を通して、別に目を見張ることもない当り前の光景である。
それは宗教のためばかりではない。政治思想の弾圧から逃れて亡命した知識人は多く、た
とえばスエーデンへ逃亡したデカルトやプロイセンへ落ちのびたボルテールは有名である。
フランス革命やロシア革命から逃れて全ヨーロッパに散った貴族、アメリカやフランスへ逃
れたドイツの知識階級、英米へ流れて行ったヒットラー政権下のユダヤ人など、あげていけ
ば限りがないが、身一つでも逃れ得た者は幸いで、発令と同時にその場で捕えられて殺され
るのが常識である。
それは現代に近づくほど技術的にも完璧を極める。史上ただ一つの例外はルイ十四世が十
七世紀後半フランスに新教を認めない法令を出した時、新教徒は殺されず国を去る恩恵に浴
した。この「寛大な」処置を受けたフランス人は約百万人余りで、当時のフランスの人口は千
九百万であった。この膨大な数の国外追放者は裸一貫でヨーロッパ全土へ流浪の旅に出た。
家康の禁教令が出てから、バテレンたちや数十人の日本人信者がマカオやマニラに去るま
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でには、ゆったりと二年半の歳月が流れ、その間一人のバテレンも殺されていない。それど
ころか彼らは日本中に潜伏してキリシタンを指導し、国外追放になったのは一部に過ぎない。
みずさかずき
また高山右近をはじめバテレンについて国外へ去った者は水盃で別れを告げ、身分に応じた
身まわり品もきちんと整えて船に乗っている。
その前に長崎で数千人のキリシタンがバテレンの指導のもとに示威運動を続け、暴君の野蛮
な迫害に耐え、信仰の自由なき日本で殉教するのだと気勢を上げている。禁教令の出た後、
何週間も白昼の市内で堂々と繰り広げられるこの示威運動はヨーロッパでは決して見られら
い風景である。
バテレンについて国外へ行くのは嫌だという大多数のキリシタンは仏寺へ行って転宗を認
めてもらえば、それ以上どういう迫害も受けることなく日本に住み続けることができた。転
宗しない者は種々の拷問にかけられ、転宗を誓った途端に許されている。
ヨーロッパの異端に対し浴せかけられた拷問はこれとは本質的に違っている。邪教を信じ
たために捕えられた者が教会による苛酷な拷問の末、非を認め、正統の教義に帰ると誓えば
恩赦と称して焚刑に処した。一度悪魔の手に渡った魂を聖なる火で清め、地獄のかわりに天
国へ行かしてやるためである。と言うことは、一度捕えた以上は神学的理屈をつけて、どっ
ちにしても殺すのである。この無慈悲で無恥なやり方は歴史を通して一貫している。それが
教会であろうと世俗の支配者であろうと、ナチスのユダヤ人大虐殺に到るまでのヨーロッパ
の権力者は、相手が謝り非を認め、白状し全財産を差し出して命乞いをしても、ともかくお
となしく出れば出るほど吊し上げ、あげくの果てには残忍極まる方法で壊滅させた。
こういう権力のあり方なので、竹林の知恵はヨーロッパでは育たない。頭を垂れて許しを
乞えばますます蹴られて最後には殺されるのである。だからヨーロッパ人は生きのびるため
に別の知恵を見出し、培ってきた。それは先ず捕えられないようにする工夫である。迫害を
受けたのはだいたいユダヤ教徒、イスラム教徒、新教徒であるからこの少数派に属さないこ
とがもっとも安全であり、と言うことはカトリック教徒として教会に充分寄付をし、教会に
可愛がられるようゴマをすり、村なり町なりで変な目立ち方をしなければよいのである。旧
教に属さない者はいついかなる迫害にも耐えるようにそれぞれのグループの力を強化し、決
して気を許さず、支配者の動向を機敏に感知して禁教令の出る前に逃げる工夫をする。でき
れば外国に財産の一部を隠し、いざという時の逃げ先きを確保する。
また新教下のイギリスでさえもその一派である清教徒が迫害されてアメリカへ逃げなけれ
ばならなくなったように、いつどこから迫害が起るかわからないから、どこへ渡っても生き
のびられるだけの図太い神経と頑健な身体を育てる。そして迫害が始まれば自ら密告して権
力に媚び、身を守る知恵は、属している宗教に関係なく誰もが持っている。その知恵を使う
か否かは良心の鋭さによる。民主主義の現代では法律の知識を充分に駆使して自分の行為を
正当化し、決して自分の非を認めないことが生きのびる知恵である。
日本の学者たちは「大迫害」とか「大追放」と言いながら懸命に背伸びをしているが、日本のキ
リシタン政策は世界史的にみれば到底迫害の仲間には入れてもらえない。なるほど九州で凄
まじい拷問を行ない、潜伏バテレンを賞金づきで探し出して同じく拷問にかけているが、彼
らが転宗を誓えば許している。キリシタンを鼓舞した最高指揮官、イエズス会管区長フェレ
イラはその一例である。彼は転宗してその後十七年間長崎に住んでいた。日本の「大迫害」は
ヨーロッパの無慈悲さと断固たる粉砕の意志を欠いており、だからこそ、いくらでも新しい
バテレンがマニラやマカオから潜入しキリシタンの間に潜伏した。そして一六一六年まで一
人の宣教師も殺されていない。
のどか
これをエリザベス朝のイギリスと比べればその長閑さ、なまぬるさに気付くはずである。
イギリスでは国をあげてイエズス会士を捕え、残虐極まるやり方で片っぱしから殺害し、僅
かの間にその数は数百人にのぼった。だからさすがのイエズス会士もイギリス行きは敬遠す
るようになった。
49
日本の学者の唱える「大殉教」は何万人ものキリシタン殺戮を想像させるが、一六一二年の
禁教令発布から鎖国後の一六四二年までの三十年間に、バテレンとキリシタンを合わせ六〇
二名が殺されたに過ぎない。東北から九州まで日本各地で処刑されたキリシタンやバテレン
たち、拷問の末に死んだ者、「元和の大殉教」と称される五十五人もすべて含めての話である。
これがヨーロッパで起ったことならば地方史の中にさえ入らないが、宗教的に寛容な日本社
会では、この三十年間のキリシタン政策は前代未聞の凄惨さを帯びて不気味に輝いている。
朱印船によるバテレン密航の発覚
家康の死後、幕府も次第にいら立ち始め、不安にかられ、朱印状を持った日本人の公式貿
易船である朱印船でさえも、平山事件の示すごとくバテレンの密航に使われていることが証
明され、船長平山がキリシタンであったためにバテレンたちの計画に加担することになった
とはいえ、朱印船でさえも信用できないという実感を強めることになり、一方、旧教徒を中
傷するオランダ国王の数々の親書も影響して、少しずつ鎖国に傾き出した。ローマ法王は日
本宣教の草分けフランシスコ・ザビエルを聖人の列に加え、日本人キリシタンに呼びかけ、命
を捨てて信仰を守れと激励した。禁教、しかし、貿易振興という日本の基本線をどこまでも
無視してかかる旧教徒の勢力に対し、幕府は港の制限と外国商人の取り締り、日本人の海外
渡航制限とその禁止、在外日本人の帰国の禁止という具合に鎖国に向かっていったが、その
一歩一歩を辿ってみれば当時の為政者の途方に暮れた姿が浮き彫りになる。それは全く異質
で不気味な、狂信的な意志に対しなすすべを失った姿である。国法を犯した者を処刑すれば
ますます殉教熱を煽り、寛大に扱えばどこまでも図に乗る。どちらにしても食いさがってき
て離れない。結局国を閉じ、身を引くより仕方ないという決断に当事者は追い込まれていっ
た。
十三章
予言の謎
カトリックの教義と天文学
鎖国は世界史上に稀な政策であった。海岸線を見張り、中国人に開いた長崎とオランダ人
に居住を許した出島以外は一つも窓がなく、日本人が国外へ出かけたり帰国することは一切
許されず、海の彼方に躍進する気持ちはそれ自体すでに怪しいとにらまれ、拡張発展の気運
は萎んで、閉ざされた内側で日本人同士小さくまとまるようになった二世紀は、日本人の国
民性に深い傷痕を残した。
鎖国を遂行するに当って最後の決め手となったのが島原の乱であるが、この乱には昔から
一つの謎がつきまとっている。一六三七年晩秋、天草・島原のキリシタン三万余人が突如武器
を取って立ち上がり、原城に籠って幕府軍十二万余に抵抗し、五ヶ月後にようやく鎮定され
たが、熱烈なキリシタンが厳しい禁教に耐えられず蜂起したとか、重税と苛政に対し領民が
一揆を起したという説明だけでは釈然としないことがある。それはキリシタンが乱を起す遥
か前から堅く信じていた奇蹟の話である。
一六一二年この地方に住んでいた一人のイエズス会士が、これから二十六年たつと世の終
わりがくるとキリシタンたちに予言し、その時には炎に包まれた彗星が天空に現れ、町も村
も林も畑も焦土と化し、すべての人間は死んで地獄に落ちる。ただ一つの救いは額の上に十
字を描きキリシタンであることを大声で告白して立ち上がること。その時に神に選ばれた美
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少年がキリシタンを指揮し、恐るべき世の終わりからつれ出してくれる。
謎というのは二十六年という明確な数字である。その根拠は何か。今日までこのバテレン
の予言は真面目に取り扱われていない。いいかげんな想像か迷信だとされている。
ケプラーの師でデンマークの天文学者ティコ・ブラヘは旧教側からみれば呪うべき異端で
あったが、詳細な観察を基にして、一五七七年に現れた彗星は地球から程遠く、月の軌道の
まだ向うを通ったという事実を発表した。彗星の軌道を初めて測量し、またくるかも知れな
いと推測した。このブラヘの論文は有名であった。実際、三十年後の一六〇七年に煌々たる
彗星が再び現れた。ハレー彗星である。
島原で一六一二年に予言をしたバテレンは一五七七年と一六〇七年に現れた彗星が同じも
のであると思い込み、それからなお三十年後の一六三七年か三八年にまた現れると判断した。
その年は一六一二年から数えて二十六年後に当る。科学の花形であった天文学は教会の教義
が事実に合っていないことを次々に暴露したため、教会の権威を取り戻そうと立ち上ったイ
エズス会士は、この重要な分野を敵方にのみ任せず自分たちも天文学の論文をどんどん研究
していた。
ここで面白いことは二十六年後に現れる彗星が世の終わりを告げるというバテレンの言葉
である。カトリックの教義によると、彗星は気流と炎に包まれて地球の大気圏内を通るから、
地球に悪影響を及ぼす。したがって不吉の前触れを意味した。これは動かし難い真理として
教義の中に組み込まれていた。プラヘが、彗星は地球の大気圏内ではなく、その遥か彼方を
通るので地球には何の影響もないことを証明して、カトリック教義を台無しにしたが、それ
でも相変わらず不吉の前触れとして信じられていた。信長の死の数日前にも異様に光る彗星
を見たという記録がイエズス会報告書にあるが、島原のバテレンは彗星に関するこの教義と、
最新の天文学の考察、すなわち彗星は一定の時期を経てまたくる可能性があるという考察を
組み合わせて、二十六年後の世の終わりを予言したわけである。
キリシタンの悲劇
信心深いキリシタンはこの年が近づくにつれ不安と動揺にかられて仕事も手につかず、待
ち切れなくなって立ち上がった。彼らの講であるコンフェラリアの長が号令を下し、美少年
天草四郎を先頭にキリシタンの符号を叫び蜂起した。その数は三万余、そのうち女子供が一
万余りいた。彼らは勇敢に闘ったが次第に追いつめられ、原城に籠り、幕府に頼まれたオラ
ンダ軍は海上から攻撃した。
キリシタンは飢餓に耐えて天空をみつめ、炎に包まれた彗星が現れて世の終わりが訪れ、
彼らのみは救われて神の恩寵に浴するという奇蹟の到来を待った。しかし、空はどこまでも
透明で静かで何のしるしも現れなかった。
子供たちが、続いて女たちが餓死していった。一六三八年二月のある日、城は深閑として
全員が死んでいた。その中には、この信心深い素朴な人々の自殺行為を招来したイエズス会
士はもちろんいなかった。一人のバテレンも加わっていなかった。
五ヵ月間キリシタンと闘った幕府はバテレンの予言も、蜂起したキリシタンの奇蹟の信仰
も知らなかったし、知っていたとしても一笑にふしたであろう。しかし、世の終わりを信じ、
すべての滅亡を信じ、その際の神の救いを信じる者にとっては、このバテレンの予言は恐る
べき力を有していた。重税に耐えられないという経済的理由や禁教に反抗する宗教的理由も
もちろん存在したが、それよりもずっと深いところでキリシタンをとらえていたのがこの予
言であった。だから彼らは立ち上がり闘ったが、それはキリシタンであるが故に救われると
信じていたからで、戦闘力は狂信的であった。
幕府が十二万余の兵を動員し、五ヵ月を費してようやく鎮定した時、キリシタンに対する
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懸念が深刻化したのは明白である。そしてオランダ人が常に幕府に注進していたように、ス
ペインの艦隊がフイリッピンなりメキシコからやって来てキリシタンと呼応すれば事態は収
拾のつかないものになると判断したのも当然である。
こうして日本は国の安全を守るために鎖国という重大な政策を取るに到った。秀吉の「バテ
レン追放令」から実に五十数年、半世紀余りが過ぎていた。
十四章
禍福の回舞台
イギリスは貿易にはげみ、資本を蓄積
鎖国後、日本の安全を脅かす事態は起こらなかったので鎖国は不要であったという結果論
は無意味である。それよりも鎖国によってせっかく発展していた造船術もいき詰りとなり、
平和外交によって開拓した海外市場へ日本の加工品を直接売りに行くこともできなくなり、
日本の経済も技術も国際競争の舞台を失って次第に足踏みしていった事実の方に注目したい。
まずその頃のイギリスと比べてみよう。産業革命を起し、世界最強の海軍を持ち、植民地
による大英帝国を築いて明治の日本人を圧倒したイギリスは、日本が鎖国に入る前後はどん
な状態だったのか。断固としてローマ法王から訣別し、潜入してくるバテレンを容赦なく殺
害し、修道院を全廃してその広大な土地を国王が没収し下級貴族や地主に売り払った。彼ら
はヨーロッパ大陸の貴族とは異なって商売をあなどる気風がなかったので、土地からの収入
を盛んに海外貿易に投資した。もともと海の幸山の幸に恵まれず、自給自足は無理で貿易に
頼らねばならぬ必然性から貴族をはじめ一般が大陸との取り引きに精を出し、バルト海や地
中海方面はもとよりロシアにも市場を開拓し早くから商業資本に目覚めていた。雨量が一年
中平均して多くしかも寒いため、毛足の細かい柔らかい上等のウールができるので、輸出品
のトップは原料としてのウールやその加工品であった。この目玉商品は東インド会社を設立
して常夏の東南アジアに進出してからは役立たなくなったが、ヨーロッパ全土や北米カナダ
にはその後ずっと輸出した。
十七世紀中葉ロンドンの人口は二十五万人、こぞって貿易にはげみ、イギリスの全人口八
百万人は各地で農業や手工業に携わっていた。しかし、それだけならばヨーロッパ諸国との
激しい競争に打ち勝つことはできない。金銀銅の地下資源に恵まれ過ぎた日本人には、イギ
リス人がどれだけこの国際貿易の「ドル」の入手に苦労したか想像もつかない。いくらウール
を売って金銀に換えても今度はその金銀で必要な物を買わねばならない。メキシコから銀を
満載してスペインへ帰航中のスペイン船を何とか襲うことができればその銀を剥奪していた
が、英国王の奨励のもとに行なったこの海賊行為も究極的解決にはならなかった。
イギリスが大切な金銀を差し出して大陸から買わねばならなかったのは先ず大砲で、国に
銅がないために仕方なかったが、そのうち豊富にある鉄に着眼、鉄を使って大砲を作る技術
を考案、質は劣っても遥かに安い鉄製大砲を続々製造して輸出するほどになった。またエネ
ルギー資源および造船材料としての木材が不足し年毎に高騰してきたことに気付き、造船用
の木材はスカンディナビアから安価で輸入し、エネルギーは木炭の替りにこれまた豊かに地
下に埋蔵されていた石炭を使用することにした。石炭は十二世紀から知られていたが硫黄臭
が強烈で敬遠されていた。
結局必要にかられ仕方なくあれこれと石炭活用法を工夫し、暖房用ばかりでなくビールや
楝瓦、石鹼やガラス製造にも石炭をエネルギーとして使うようになり、鉄と石炭の扱い方に
精通し、溶鉱炉を開発、工場を拡大し労働力と資本を集中させて生産性を上げ、輸出を伸ば
していった。
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一方国王は科学者を保護し、王室アカデミーの活動を支援し、科学的思考法の一般化に努
力した。それはあの世の救いを最終目的として生きる旧教の生き方を捨て、今の世に集中し
懸命に働くことによってこの世に楽園を築こうというプロテスタント的生き方を実行するこ
とであり、その場合にもっとも役立つのが科学的思考法であると判断したからである。その
結果民間では何でも観察し計算することが流行し、数学的論理を現象の解明に使い始め、そ
の際の副産物として統計学の発展をみ、国家予算という観念が初めて浮き彫りになった。そ
れは世界資源や人口、生産高や消費高の計算につながり金融に応用され、ロイズなど海上保
険会社が生れ、五十余りの貿易会社が設立された。軍備と造船の発達が相まって世界中に出
かけようという気運が高まった。もちろん植民地をつくれば奴隷売買を大規模に行なって資
本を蓄積していった。
当時のイギリス産業にもっとも重要な役割を果したのがヨーロッパ大陸からの避難民であ
った。狂信と殺戮の一世紀は各国からおびただしい数の逃亡者を出したが、その多くは職人
や金融業者であり、イギリスでは国王をはじめ民間が彼らをどんどん受け容れてナマ身の技
術導入を行なった。本国で印刷術、ガラス製造、絹織物、製紙業などに携わっていたこれら
避難民はイギリスの未開拓分野に貢献してお礼をし、中産階級の幅を広げていった。この人
間資産こそがイギリスの飛躍の土台となったわけだが、これを受け容れるだけの強靭さと寛
容性がイギリス側に育っていたとも見ることができる。こうして物を造る層が膨大な商人階
級と共に資本を蓄積し、貴族たちはそれを応援し、国王は国費の多くを海軍に注ぎ、拡張発
展気運は社会に充ちていた。そして十八世紀後半ワットの蒸気機関がエネルギー革命を行な
うまで、種々の分野の種々の要素がモザイクのように積み重ねられていった。
スペインは商工業者を失い、生産力が低下
イギリスと対照的なのがスペインである。ユダヤ教徒やイスラム教徒を一世紀かかって迫
害し、商人および職人層を失ったスペインは、ペルーやメキシコを征服して莫大な金銀を掠
奪し本国へ運んでいたので購買力はすごかった。しかし、商工業層を迫害して国内の生産力
が極度に低くなってしまったため、あらゆる加工品をヨーロッパ諸国に発注し金銀を湯水の
ように支払った。「ロンドンに思う存分織らせよう。オランダに働かせよう。フロレンスに絹
を染めさせ、フランダースに麻布を作らせ、メキシコに毛皮をととのえさせ、こうして全世
界はマドリッドに商人を派遣しマドリッドは女王のごとく君臨する。世界中は女王に奉仕し、
女王は誰にも奉仕しない」(アルフォンソ・ヌニエツ・デ・カストロ 一六七五)
このスペイン貴族の誇らしげな言葉は当時の状態を反映しているが、逆に言えば、働くこ
とを軽視し、奉仕されることに慣れてしまったスペイン人のお蔭で、英国をはじめヨーロッ
パ諸国の手工業が発展し、金銀もその方へ流れたので、ベニスのある大使が言ったように、「ア
ステカやインカの金銀は雨が屋根の上に落ちるごとくスペインに降り注ぎ、そのまま流れ去
った」のである。そのうちに植民地が次々に独立し金銀も簡単にこなくなったが、長年の人工
的繁栄で農民はとっくに土地を捨て、人々は贅沢に慣れ、学校の数が不必要に増加して法律
や神学が盛んとなり、官吏と司祭が洪水のように出て、企業家や職人の恐るべき減少と反比
例し、ヨーロッパの田舎となってしまった。乞食や浮浪者の群が目立ち、多くは南米やメキ
シコへ移住していった。
オランダは新商法、新技術で進出
スペインと異なり、イタリアには商工業を軸とする都市が栄えたが、十七世紀日本が鎖国
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をする頃には落ち目となっていた。その原因はイスラム圏の東方貿易のおこぼれにあずかっ
てアジアの調味料や絹をヨーロッパ諸国に売りさばいていたのがポルトガル、スペイン、オ
ランダ、英国のアジア進出により不振となり、自国の産物であるガラス製品や絹織物、木綿
布地をヨーロッパ諸国に売っていたが、ギルドが強くて価格その他の条件を一律に決定し、
競争を止めてしまったため、新しく乗り込んできたオランダに市場を奪われていった。もっ
ともいい例が木綿布地で、イタリア製品は良質で色、柄ともに伝統を誇り高価であったが、
オランダ製品は鮮明な色彩と大胆な柄で非常に安かったのでまたたく間にヨーロッパ中に広
がった。長年働くことに慣れ、資源もないオランダは次々に新商法と新技術でのし上がり、
アムステルダムは当時世界一の港となっていた。日本の金銀銅、中国の茶と磁器、フランス
やドイツの酒、イタリアの絹、イギリスのウール、ブラジルのコーヒー、インドネシアの調
味料、メキシコの銀、その他鉄砲、ダイアモンド、砂糖など、すべてこの港で価格が決定し
ヨーロッパ各国へ売りさばかれていった。
イタリアはギルドが強く、国際競争に不振
イタリアは多くの熟練工と優秀な商人クラスを抱えながら、かつての大繁栄から遠ざかっ
ていった。それは社会一般が豊かで安定した生活に長らく慣れ、自分たちが最高であるとい
う優越感に浸って技術革新をやらず、教会は科学者を迫害し科学の芽をつみ取り、人々は科
学的思考法の価値を見抜くことができず、伝統にすがり、ギルドが強くて国際競争に耐える
柔軟性に欠け、一方莫大な官僚群の支配が社会の隅々まで徹底してしまったので、いかなる
行政改革も失敗に終わり、人々は長い間の豊かな生活から一歩でもさがることは絶対に嫌が
り、三世紀早く「イギリス病」にとりつかれて治らなくなってしまった。
日本は生糸輸入で金、銀、銅の流出がはげしい
日本は鎖国以来中国人とオランダ人から長崎で生糸を買い入れ、その代価はもちろん金銀
で支払った。生糸以外には木綿、皮、毛織物、砂糖などが輸入リストにのっているが、中国
人は日本からいくらかの魚介類、干物と海草、オランダ人は醤油と磁器を安く買った。醤油
は調味料の高価なヨーロッパでウースターソースやマギの素となって上等の料理に使われ、
磁器は王侯や豪商たちがやっと入手できた貴重品であった。
ヨーロッパではマルコ・ポーロ以来磁器製法の秘密を知ろうと必死であったが、どうしても
わからず、そのため中国や日本の磁器は王侯貴族たちの財産目録中に重要な位置を占めてい
た。饗宴の席で使ったばかりでなく磁器の超自然的力を信じて競って買った。毒殺が日常茶
飯事であった各国の宮廷で、毒を入れた飲み物は磁器の中では効力を失うとか、毒を入れた
磁器はぽんと割れるといういい伝えのためであった。
もちろんオランダ人はヨーロッパにおける磁器の高価さについて日本人にしゃべりまくる
ような馬鹿な真似はしなかったので、日本人は言われるままに年間何十万個もの食器や花瓶
を二束三文で売り払っていた。十八世紀になってドイツのマイセンでようやく製法の秘密を
発見して以来ヨーロッパ各地で造られ、日本からの輸出はぐんと減った。
と言うことは銀の支払いが増えたわけで、いくら豊富な貴金属でも減少の度合いがひどく、
幕府は銀流出の制限や禁止政策をとり、その替りに金や銅を流出した。オランダの東インド
会社は社員の給料を日本の金で支払ったが、会社つきの牧師は恩給として計三十五キログラ
ムの純金をもらったことを故国に報告している。十七世紀末でも日本は毎年二千五百キログ
ラム余りの金を流出していた。
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要するに、輸出はしれていて、ほとんど生糸の輸入に終始し、すべて金銀銅で支払い、日
本の地下資源である貴金属はとり返しのつかない流出を続けたわけである。ちょうど地中海
沿岸の国々が何代にもわたって森林を伐採し、建物や暖房や料理に使ってしまったのと同種
同質の軽率さである。
一方、オランダ人も中国人も日本の金銀が目当であり、金銀がなければ決してわざわざ日
本へはやって来なかったであろう。金銀はいつまでたっても全世界に通用するが、生糸は百
年もすればクズになる。実に贅沢な買い物を続けたものである。幕府の定めた通り大名たち
はそれぞれの家柄や格式にふさわしい服装を守ることに心掛け、大名出費の増大を意図して
法制化された参勤交代で互いに激しい競争を行なったため、生糸はいくらでも必要であった。
農工商のいき詰り
国内市場は江戸・大坂間を主軸として目覚ましく発達したが、蓄積された資本は国内の投資
にとどまり、商人階級の活躍の場は狭小で、彼らの才能と金融知識を重んじる風潮が育たな
かった。彼らの力量が国の興亡を左右するという認識が生れなかった。生れる前に海外貿易
は閉鎖されてしまった。これはイギリスの場合と対照的である。手工業はその洗練さにおい
て極限に達したが、出口を見失って次第に停滞気味となった。農業生産は一六〇〇年から一
七〇〇年までの百年間に二倍となったが、春先に雨が多いと害虫の集団発生により稲は荒さ
れ凶作となり、五割近い年貢はとうてい納められず餓死する者が年により二百万人を越えた。
ヨーロッパでも凶作の年には餓死はふつうであったが、救いが一つ残されていた。アメリカ
やカナダへ移住することであった。一八四五年のじゃが芋の不作はこの植物特有の流行病に
よるもので全ヨーロッパを襲い、アイルランドだけでも百万人を越えるアメリカ移民を出し
ている。鎖国中の日本では国外へ逃れるなどという可能性は皆無で、それどころか自分の村
を去って町へ逃げることすら困難であった。百姓一揆は江戸中期以後百五十年間に千五百件
以上起っている。
間引きは全国に広がり堕胎は武士階級にまで及んだ。今日土産品としてどこでも売られて
いる「こけし」人形はもともとは消された子の冥福を祈って親が作ったのが始まりで、悲しく
眠りについた赤子の表情が当時の農村の実状を物語っている。
日本は国の安全を守るために鎖国を行ない、二百年余りもその政策を貫いたが、ちょうど
貨幣経済の発展時期に当たったために、海外市場を失うことにより輸出が大幅に減少して経
済にいき詰りがきた。このマイナス面は鎖国に際して考慮されなかった。というのも、イギ
リスとは異なり、日本は自給自足が可能な国だったので貿易に頼らねば生きていけないとい
う認識が培われていなかった。暖流と寒流の交叉点にあって海の幸に恵まれ、火山脈地帯の
土地は肥沃で陽光は強く、山の幸に恵まれ、木材は豊富で暖房の必要はほとんど無く、世界
の銀の半分を所有し、外国と貿易しなければ生存不可能という状態は昔から一度もなかった
ので、鎖国に際しても経済面を天秤にかけて熟慮するだけの歴史的経験に欠けていた。
十五章
日欧の巷・群なす人々
日本の都市発展の水準は世界一
外に向うエネルギーがぴたりと止められたとはいえ、閉ざされた内側で三千万人の日本人
がなすすべを失い、ぼんやりと戸口にしゃがみ込んでいたわけではなかった。江戸中期まで
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生産は伸び、都市はますます発達し、社会は活気に溢れて人々の創造力は華やかに展開した。
一七〇〇年頃江戸はすでに百万近い人口で、アムステルダム、ウイーン、ミラノ、ベニス、
ローマ、マドリッド、リスボンはその頃十万余り、もっとも大きいロンドン、パリ、ナポリ
の三都市でさえ三十万には充たなかった。一七五〇年になると江戸は同時代のヨーロッパで
は想像もつかないような百五十万近い大都市となった。ヨーロッパの都市の人口は一八三〇
年以後、工業化が進んで人口が農村から流入して以来初めて百五十万となった。
もちろん人口が多いからといってそれがそのまま都市の発展水準を表しているとはいえな
い。スラム街が無気力にあてどなく広がり、絶望と頽廃の匂いに充ちた大都市は世界にいく
らでもある。
江戸をはじめその頃の大都市はそういう性格からは程遠い。もともと山が多く、今日でも
国土の十七パーセントしか使えないという地勢のため、早くから海岸線に沿った平坦地に人
口が集中して都市が開け、京都、大坂、堺という政治経済文化の中心地と、新しく幕府の置
かれた江戸との間は一層の発展をみた。これら大都市の生活感覚と生活様式が国の先端をい
ったのは、同時代のパリがフランス文化を形成したのと同じであるが、フランスの場合はパ
リだけが異様に不均衡な発達を遂げ、あとは田舎だったのに対し、日本では、東西の都市が
引張り合うような関係で発展した。京都の人口は三十五万、皇室は昔からの伝統と権威をこ
の町に与え、豪商や金融業者が勢力を持ち、絹織物など種々の手工業はますます洗練された。
堺は海外貿易の挫折と共にかつての繁栄は見られなくなったが、それでも十七世紀頃はまだ
人口七万で、当時のハンブルグ、ケルン、ブラッセル、マルセイユなどより遥かに大きかっ
た。大坂は経済や交通の要地で、殊に米、魚、青物市場は全国から商人と金融業者の集中を
招き、江戸に次ぐ大都市であった。
ヨーロッパでは運河による物資運搬の完成したパリ、ドナウ河畔のウイーン、港に面した
ロンドンやナポリは多くの人口を養うことができたので都市として発達したが、一般に土地
が痩せ、気候に恵まれないため、五千人余りの小さな町が五十キロメートルほどの間を置い
て点在した。百姓達が麦類やかぶらを荷馬車に積み、一時間四キロメートルの道のりを五、
六時間走って町へ売りに行くのが常だった。十八世紀中葉アメリカ大陸からじゃが芋の苗が
移植されるまでは、どこも非常に惨めな不安定な食料事情で、餓死寸前の百姓は町か軍隊に
逃げ込んだが、軍隊は栄養失調のため疫病に襲われやすく、町では職人の見習いにもしても
たむろ
らえず、極貧の日雇いになって屯していた。ロンドンのような都市はそういった貧民達が犯
罪の巣を作り、夜は危険で出られないので、社交や種々の催しは日中行なっており、犯罪を
取り締まることができなかった。
「技術は悪の根源」の観念がぬけないヨーロッパ
産業革命によりそれまでの生産形態が根本的に変革され、大量の人口を養うことが可能と
なり、鉄道が敷かれて多くの都市ができるまではヨーロッパ人はロンドンやパリを除けばほ
とんどが都市生活とは無縁であった。そのため、都市生活に慣れる期間が日本人より遥かに
短いことは注目に価する。狭い空間に一緒に住み、すばやく行動し、斬新さを歓迎する能力
を日本人は早くから養ってきているわけで、大勢の中でさっさと行動することに慣れ、それ
を苦痛とは思わず、また人間関係において大声で叫ばなくとも自分を通すという術を心得て
おり、団体行動が上手である。自己意識が強いことを誇りとし、個人主義が日常生活の哲学
であると自認するヨーロッパ人は都市の淋しさ、荒涼さ、人間関係の冷酷さ、味気なさにつ
いて盛んに嘆き、不平を並べ、くたくたになっているのは気の毒であるが、それは都市生活
の歴史が浅く、多くの他人の中での自己の通し方に慣れていないため、お互いがハリネズミ
のように年中とげを見せ合い、ちょっとしたことでもチクチクバリバリと刺し合って傷つき
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合っているからである。
またヨーロッパにおける都市化は産業革命による工業化に伴って起ったので、都市化と工
業化はヨーロッパ人の頭の中では一つになっている。これは非常に重要なことである。工業
化によって狂気のように農村人口が町に流れ、ふくれ上がって都市となり、大衆労働者を収
容するバラックがその大半を占め、都市とは悲惨な、不潔な、非人間的なものだという観念
が生れ、そういった状態に人間を落とし入れたのは機械工場であるから、技術は悪であると
いう信念が多くのヨーロッパ人の頭の中に植えつけられ、それが今でも強く根を張っている。
人間関係の冷たさ、都市文明の諸悪は技術にあり、技術が進歩すればそれだけ人間性も失わ
れると思っている。十九世紀中葉あちこちに鉄道が敷かれ、ヨーロッパ人が初めて汽車に乗
った頃、それまでの馬車とは比べものにならぬ速さだったので、こんな物に乗ると魂がつい
ていけず身体から出て後に残ってしまうといって騒いだが、機械に対する不安と疑惑の念は
今も非常に強い。
それは先端技術の高度なメカニズムに素人はとてもついていけないという不安ではなく、
技術というものは悪の根源だという、悪そのものに対する不安である。これはヨーロッパで
発生したエネルギー革命が超人間的な速度で工業化と都市化を押し進めたため、人々は無理
矢理に機械というものに直面させられ、意識の方がついていけなかったのである。だから自
分達の意識を検討するよりも技術そのものに責任を転嫁したわけである。自分たちの文明が
最もすすんでいるという優越感をもって他民族に対応するのとは裏腹に、その文明の支柱で
ある技術には不安と疑惑を抱き続ける。
日本人にとっては、都市化は工業化とはまだ何の関係もない時代に起り、非常に進んでい
たので都市生活に慣れる期間がヨーロッパ人よりずっと長く、その後明治になって工業化が
始まり、電車や電気が都市生活を便利にしたので機械化そのものに恐怖の念を抱いたり、そ
れから逃避しなければ人間性が崩れ去るとは考えなかった。都市生活のテンポに反感を抱い
たり、駅や目抜き通りの群衆に恐れを感じたり、網の目のような交通機関と自動式切符売場
を憎悪したり、淋しさを機械のせいにする人は稀である。それよりも、ほとんどの日本人は
見渡す限り人影一つないような所にいつまでも一人いる方が淋しくて、ぽんと押せば何でも
出てくる便利な所で大勢でわいわい騒いでいる方が安心する。週末でも店が沢山並び、人が
ぞろぞろいる賑やかな所へ出かけて愉しみ、寛ぐのは別に変わり者の証拠ではない。
日本人は都会人である。もちろん都会のもつ底なしの恐しさや淋しさを日本人はよく知っ
ている。しかしそれが工業化のせいだ、先端技術のせいだとして機械に汚名を着せようとは
思わない。公害なども工業化そのものが悪いというより、それを充分に管理することを怠っ
た政府と工場に責任があると考える。
日本人は“旅なれ”“早耳”民族
江戸時代は都市化と並び交通が非常に発達したが、江戸を中心に五街道と呼ばれる五本の
長距離道路があり、中でも江戸大坂間を結ぶ東海道には一七〇〇年頃すでに一日三千人が馬
や駕籠やわらじで旅を続けていた。年間のべ百万人である。今日、新幹線に乗る外国人は一
時間に何本も走るヒカリの乗客数に肝をつぶし、「一九六四年以来日本人は突如として自国を
見て歩くようになった。それまでは水田とわら屋根と松並木があるだけで旅は簡単にできな
かった」と広重時代から一足飛びに新幹線になったような報道を真剣に行なっているが、日本
人は一般にヨーロッパ人よりずっと早く旅に慣れ、団体で名所旧跡を訪れたり寺社詣に出か
けることはそれほど稀ではなかった。また商人は江戸大坂間を頻繁に往復し、酒、油、醤油、
畳表などの運搬には海路を直航し、陸路の三分の一の時間で安く賄った。この船旅人口を合
わせると年間二百万人以上が江戸大坂間を動いている。
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東海道ばかりでなく他の四街道も非常に繁栄し、小さな宿場町が点々と並んだ。これに加
えて参勤交代による人口の大移動が二世紀半にわたり江戸と全国の城下町との間に起った。
それは大名統制策の一つで大名は一年おきに江戸に住み、四月を交代の時期としてそれぞれ
の領地へ帰り、その間江戸の邸には妻か嫡子を残し、二千人から三千人の家来を置き、二年
から五年おきくらいに領地の家来と江戸詰を交換し、道中はこれまた大名の位により最低百
人から時には二千人もの家来をつれて家柄格式を守り、莫大な出費を続けた。これは大名財
源の窮乏化を招き、その負担は容赦なく百姓にかかったが、江戸の繁栄、交通網の発達、中
央と地方の文化交流には絶大な役割を果した。毎年二十五万から三十五万の武士が全国を旅
していたわけで、これは世界に類のない贅沢な現象である。
ヨーロッパではその頃、貴族や豪商、学者や司教は国々を旅したり、数年間居住地を離れ
ることもあり、また徒弟は袋一つでヨーロッパ中を歩き回って有名な親方に弟子入りし、新
しい技術を学ぶ習慣であったが、何といっても気候に恵まれず、戦争や疫病が多く、追いは
ぎがどこにでもいて旅には危険がつきまとった。また関所が各町の入口にあって旅券を調べ、
通行税を取ったので一日旅しても非常に高くついた。これは特に商人にとっては大きな障害
であった。
旅により見聞を広めるばかりでなく、新聞を読んで最新情報を得、世間の傾向を広く知っ
て話の種を増やすのは近代生活の特徴とされているが、江戸や京都には十七世紀からすでに
ニュース速報紙があり、絵入りで火事、殺人、心中、洪水、歌舞伎の新出しもの、芸者の評
判、化粧や髪型の新傾向など、何でも人の知りたいことを粘土に刻んで焼き、ざら半紙に印
刷、後には木彫りとなった。これはあちこちの街頭で盛んに売られ、好色の濃度に応じて禁
止もされた。政治関係と外国事情についての報道はもちろんなかったが、日本人の早耳と近
代生活への順応性は江戸の二百年間に充分培われていた。
ヨーロッパでもっとも進んでいたイギリスでは十八世紀後半に初めて新聞が出て、議会討
論やニュースをのせ、現在の新聞の原型を彷彿させるが、日本では、この瓦版の伝統は明治
になって衰微し、形を変えて週刊誌などに甦っている。
十六章
五人組の波紋
日本人は二つの自己を使い分ける
日本人は団体行動が好きでヨーロッパへ来ても買い物から食事から見物まで何でもグルー
プで行なうため、団体人であると言われる。勝手のわからない外国ばかりでなく自国でも群
をなし、集団で何でもやるために、自己が全く未発達であると言われる。自分の考えをはっ
きりさせる前に属する集団の動静を感知して素早くそれに合わせる傾向は確かに日本人の間
に強く育っているが、それでは自己がないのかと言えば、誰でもちゃんと内部に持っている。
ただその自己主張の仕方が日本人の場合非常に特殊なニュアンスに富んだ発達をしたために
外からはわかりにくいのである。
豪壮な邸宅に人を招いても拙宅というし、拙著と言いつつそれを書いた本人はこんな立派
な本はまたとないくらいに思っているし、他人は著者がそう思っていることを承知していて
お世辞の一つも言うくらいはふつうである。またとない立派な本だと著者自身があらゆる機
会をとらえて強調し、他人はその本を実際に読んで感心しない限り誉め言葉はそうたやすく
漏らさないのがヨーロッパである。
日本では企業においても自分の考えを通そうとすれば、ヨーロッパのように会議の際に突
然立ち上がって力説し、居並ぶ面々を見据えるようなことをしても効果なく、あるいは逆効
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果で、会議の前に根まわしが必要であり、根まわしの際の人脈とそのタイミングが大切であ
ることくらいは常識である。
要するに日本人は自己が未発達どころか、江戸時代からの都市生活と激しい競争のうちに、
恐るべき自己を発達させ、表向きと内部の二つの自己を使い分けることに慣れ、何とか自分
を通していく複雑な道を開拓してきた。その際、集団から一人離反すること、集団に一人で
対抗すること、集団とは対照的な行動を打ち出すことはなるべく避けて、あくまでも集団の
中で不協和音を発しないように気をつけながら自己主張を行なうのである。
ヨーロッパ人は一匹狼の強烈さが理想
ヨーロッパ人もよく観察していると結局同じであり、自分の属する集団が一つの方向を辿
っている時、その流れに逆って、あるいは流れから離れて自己主張のできる人は、たとえそ
のけ
れがどんなに正しくても実に少ない。人間は群棲動物なので除者や余計者扱いされることは
嫌であり、群と行動を共にするのが当然なのである。一匹狼になるには東西ともに一人でや
っていける特技や才能を持ち、叩かれてもびくともしない神経と性格を備え、やたらに左右
を窺わなくとも賢明な決断のできる野人でなければ続かない。
ただしヨーロッパ人の場合は一匹狼の強烈さが理想なので、それだけの素質も能力もない
大半の人間までが盛んにその格好を真似、強がりを言い、周りの連中とは異なった堂々たる
人格の持主であるかのように自分でも思い込んでいるだけのことである。それは日常の人間
関係の中で拒絶反応や防御反応として表われる。ドイツ人がいつも口にする言葉の中に「馬鹿
にされてたまるもんか」とか「ぺっちゃんこに叩かれてなるもんか」とか「あちらの好きなよう
にはさせるもんか」というのが多いが、それほど誰もが自分の集団に対し目を光らせ、警戒心
をとぎ澄ませ、自分を集団の波から守ろうとかかっているわけで、「妥協する」とか「譲歩する」
あるいは「順応する」「従う」「適合する」という言葉はその言葉自身すでに情けない敗北を意味
し、誰もそんな敗者にはなりたくない。だから集団に従ったのではなく自分の考えで行動し
たのだという格好をつけることに苦心する。
日本では譲歩は敗北を意味しない
日本では譲歩、順応、適合、妥協という言葉を聞いて敗北を感じる人はまずいない。むし
ゃくしゃしながら何とか適合の道を開くことが勝利に通ずると思っている。克己心による順
応がよいことだと社会から承認されている。だから日本人は集団行動が上手であり、甘え合
い、助け合い、制御し合いつつ小さな空間で何とか一緒に過す能力を養ってきた。
鎖国後、幕府がキリシタン取り締りと犯罪防止のために五人組制度を実施したが、これが
江戸時代を通して庶民に徹底し、明治になってもまだ二十年間存続した。この制度が日本人
の集団行動能力を良きにつけ悪しきにつけ練磨したことは疑いない。日本中、町でも村でも
近所隣り五家一組が組合を作り、組長を選び、お互いに助け合い、犯罪発見、告発を行ない、
連帯責任を負い、訴訟の時には保証人、立会人となった。そのため民事訴訟を起すことはま
ず皆無で、その前にそれぞれの組長がゆっくり話し合ってことを片づけた。同時代のヨーロ
ッパには弁護士が医者と同じく開業していたが、日本ではその必要がなく、この傾向は今日
まで続いている。人口に比例した弁護士の数はアメリカやヨーロッパの三十分の一であるが、
一生弁護士というものにお目にかからずに死ぬ日本人は多い。その代りに調停という制度が
非常に進んでいる。傷めつけられた自尊心、妬み、野心、劣等感など、争いが起きるまでの
もつ
人間関係の縺れをほぐすことが調和を回復するきめてだと考えるからで、そういう感情の葛
59
藤は法律では解決できない。要するに人間同士の摩擦や軋轢、衝突や闘争は人間社会につき
もので、起った以上なるべく円滑に、誰が悪いとは決定せずに解決しようというわけである。
ヨーロッパでは譲歩は自滅につながる
西洋社会では、闘争の全くない平和に充ちた神の国が本来の姿であると信じているため、
争いが起ると、それは神の国を妨げようとする悪魔のせいで、その悪魔に使われている人間
を探し出して罰すれば平和が戻ってくるという論理の上に法律が成立している。だから裁判
所の役目は誰が悪人であるかを決定して罰することである。そのため、争いが起った時には
当事者は断固として自分の無実を主張し、決して譲歩せず、どこまでも自己正当化を貫かね
ばならない。相手に対する思いやりや和解の心はこの上なく危険である。
ひ
もっともいい例は毎日のように起る交通事故で、突然子供が車の前を横切ったので轢いて
しまったとしよう。車からとびおりて集まって来た人々を押しわけ、子供を抱き上げ、やっ
て来た救急車と共に病院へ走ったり、後から見舞いに行ったり、子供の両親に「すみません」
などと言ったら大変なことになる。自分が不注意だったことを認めたと解釈され、どこか後
ろめたいので心配するのだと判断され、裁判では責任を追求され、保険は払ってくれず、子
供の入院費はもとより万一身体障害者になれば一生生活費の何割かを払わされる。突然子供
が駆け込んで来たことが証明済みでも、全く無実であるとは思われないのでいつまでも尾を
引く。だから子供を轢いたと思った瞬間、棒きれでも見るように冷淡に見下ろして、集まっ
てくる人々に向い「そいつが悪いんだ。私は無実だ。両親がほったらかしだからいけないんだ。
何というひどい迷惑をかけられるのか。全くたまらない」とがんがん怒鳴らねばならぬ。そし
てやって来た警察にひややかに事情を述べ、子供の両親との連絡は弁護士にやらせ、病院に
運ばれた子がどうなったかなどという心配は一言でも漏らしてはならない。それは自分に迷
惑をかけたひどい奴として最後まで通さねばならぬ。間違っても見舞いに行ってはならない。
「聖書を読み、それを実行しようと純真に考えて大きくなったので、社会に出てから何もか
も新しく学び直さねばならなかった。でなければとうてい生存できない」とある新聞記者が私
に語っていたが、同じ声はあちこちから聞く。
聖書なんか知らない日本で、ある男が突然とび込んできた子供を轢いてしまった時、彼の
驚き慌てた反応は人間の自然な反応として受け取られる。警察も両親も保険会社も裁判官も
万一この男が「この野郎、迷惑をかけやがって。何というひどい子供だ。親も親だ。私の責任
ではない」とあくまで言い張ったら、たとえ技術的に過失はなかったとしても、人間的に許し
難いと思うだろう。それは人間として恥かしいことだという感覚が社会にある。
「恥」感覚に対する日本とヨーロッパの違い
ヨーロッパ社会では「恥」の感覚は性については大いに存在するが、社会的倫理観としては
薄い。法律にさえ触れなければ何をしたって恥かしいとは感じない。他人を傷つけ侮辱し脅
迫し、騙し、自分の権利だけを主張しても平気であり、そういった厚顔無恥の徒は社会のあ
かっぽ
らゆるレベルを闊歩している。これを規制する恥の観念が未発達である。それは世間が見て
いるから恥かしいという気持ちばかりでなく、実際に見ていなかったとしても内に働く規制
としての恥も未発達である。
隣人愛だの博愛は未開発国を助けるスローガンとして使われるだけで、日常多くの人間が
摩擦、葛藤を繰り広げる中では何の役にも立たない。複雑な利害関係のからんでいる時に、「隣
人を愛せよ」と言われても、人は従わない。最も肝要な時に人を内部から規制する力にはなら
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ない。なぜならば、利害関係の生じている時、相手を愛するということは、自分が損をする。
あるいは身を亡ぼすことにさえつながるから、誰も本気で取り合わない。だからヨーロッパ
社会は傍若無人で冷酷極まりない人間に対し、その人間が法律に触れるようなことをしてい
ない限り、全く無力である。
日本はその点ちょうど過渡期にある。伝統的倫理観としての恥は社会の隅々にまで浸透し
ている一方、西洋的権利の主張、法による白黒決着が相当強くはびこり始めている。何年か
かっても、莫大な弁護士費用を払っても「出るところへ出て」闘い、権利を獲得することは当
然であり、この勇気が今まで日本人に欠けていたのだと言われている。確かにそういう面も
ある。しかし、同時に、社会的倫理観としての恥は誰も気付かないうちに、どんどん廃れて
いく。そんな感覚は不用になる。
また日本では恥の観念や世間の目という意識を逆に利用して、まあまあ主義で相手を泣き
寝入りさせ、その隙に乗じて自分の法的権利を獲得するという悪質の「恥知らず」も増えてい
る。
古いゲルマン民族はキリスト教に改宗させられる以前、自分たちの神々を奉じていたが、
同時に社会倫理としての恥の観念を育てていた。たとえばいろいろ条文化しなくともいった
ん口約束したことは、「言葉を相手に渡した」ことになり、それを守らなければ神々も聞いて
いて恥かしいことをしたわけで、世間から笑い者にされても仕方なかった。ところがゲルマ
ンの神々は亡ぼされ、それまでの社会倫理は無力となり、キリスト教と共に入ってきたロー
マ法による契約の思想がそれにとって代った。だから改宗させられた支配者は必死で法律を
学び、人情や恥の観念を介入しない几帳面で公正なかちかちの法律執行者となり、民間もそ
れを学び今日に到っているが、それはあくまで自分たちの中から生まれ出たものではないか
ら不自然である。誰もがそれを感じ、嫌でたまらないが、かといっていまさら恥を知る社会
に戻ることもできない。
十七章
上下の風情
集団に従わなければ生きられない
さて日本人が集団行動に慣れ、集団でものすごい力を発揮するのは稲作民族のためであり、
田に水を引くことから田植え、稲刈りまでの緻密な共同作業を二千年間繰り返している間に
日本民族の性格が形成されたという説がある。それはもっともであるが、その説の続きがあ
る。すなわちヨーロッパ人は日本人とは対照的にもともと狩猟を主とし、それぞれの生存は
個人の能力にかかっており、共同作業を必要としなかったので個が優先し、その独立独歩の
個が便宜上集まって社会を形成したという見解である。これはとんでもない誤解であるが、
このヨーロッパ人に関する誤った説は日本人学者が言いふらしたものらしく、日本人の間で
相当広く信じられている。
日本人が稲作を始めた弥生時代以前からゲルマン民族はすでに農耕生活を主軸とし村落を
作っていた。その遺跡が今でも時々発見される。麦刈りも脱穀ももちろん村中が力を合わせ
てやるのが常であり、乳牛や羊の群を見張り、その番をするのも村単位。スイスやオースト
リアでは夏の間アルプスの草原に牛や羊と共に寝起きし、毎朝乳をしぼりチーズを作ったが、
この仕事も一人一人がやっていては食べていけないため、村中の牛なり羊なりをまとめ、村
内の当番が手分けしてつれていった。その間他のグループは田畑を耕すなり草を刈るなりし
た。ハムやソーセージにしても村中が共同で家畜を殺し、肉を切り、詰め込んだり、共有の
大釜で煮たり、村の燻蒸装置で何ヵ月もかかって燻製にした。これらの道具は個人ではとて
61
も高くて買えなかった。副業としての狩猟も遊びや趣味でやっているのとは異なり一人では
なく村中の男が日を定め、協力して真剣に行なった。収穫の祝いも村中が寄り合い、飲み食
い、ゲームや踊りやスポーツに興じた。
どの農家も家長とおかみさんが中心となり、絶対権力を行使し、子供や親類や使用人を指
導し、家の中での身分に従い仕事を受け持った。農民はヨーロッパでも人口の八割以上を占
めていたから、二千年余りの村落共同生活がヨーロッパ人に共同精神を植えつけたのは当然
で、また集団が個に優先することは常識で、従わないものは生きてゆけないことくらい誰で
も知っていた。
ギルドの意識をかえた大工場化
町では商人も職人もギルドを形成し、それぞれ定められた区域に代々住んでいたから、今
でも職業名は通りの名前として残っている。このギルドに属さない者は勝手に営業できなか
ったし、ギルド内の厳しい規制に従わねば除者にされた。ギルドは外に向っては非常に排他
的であった。産業革命によって大工場生産が一般化するまで、すなわち幕末の頃まで、ヨー
ロッパでも家内生産を単位としていたから、親方とおかみさんを中心に家の中には徒弟や見
習い、子供や親類がぞろぞろ一緒に住み、役割に応じて早朝から夜更けまで働いていた。親
方とおかみさんは衣食の面倒をみたり病気の時に世話をするかわりに、絶大な権力を有し
種々の体罰を与え、干渉し、勘当した。家督は農村と同様、長男のみに譲る習慣だったので
次男以下は家の使用人になるか、他家へ見習いに出るかを親方がきめた。女子は女中奉公に
出るのがふつうであった。ともかく親の職を継ぐか、それに似た身分の範囲で仕事を探し、
親方とおかみさんの監視の下で共同生活と共同生産を行なっていた。
産業革命後、こういった村やギルド内の小さな共同生活から突如として大工場へ吸収され
た職人や農夫はそれまでの固定した身分や役割を見失うと同時に、それまで培われてきた協
力精神を一気に踏みにじられたのである。というのは大工場の方では史上始めてそれ程大量
の労働者に面し、家畜か奴隷のように扱う以外に扱い方の史的経験がなく、十六時間近く働
かせ、夜は工場直属のバラックにざこねさせ、栄養価のないどろどろのスープを与え、体力
の続かない者はたちどころに追い払った。そこでは村やギルドのように皆に知られた名前を
持った一人の人間ではなく、無名の労働力であった。譲歩とか適合、妥協の精神は労働者に
とって致命傷となることが次第にわかってきた。だからそういった精神を封建的な遺物とみ
なし、新しい大工場生産形態の中ではあくまでも自分たちの権利を主張しなければ利用され
るばかりであった。そこに労働組合が生れ工場主との闘争が開始された。
なぜヨーロッパでは仕事に生甲斐を見出せないのか
この基本線は今日まで少しも変わっていない。もちろん労働組合の要求に応じ、労働条件
や賃銀や有給休暇日数はどんどん改良されたが、多くの企業側が社員を見る目は変わってい
ない。社員はいくらでも交換可能な部品であって、その部品の価値は賃銀なり月給によって
弁済ずみだという見方である。西洋社会の大企業は軍隊と同じ組織を持ち、同じ精神で動か
されている。企業のトップは参謀本部であり、権限は上から下へ放射状に動き、決断は一切
上部で行ない、下部はそれを盲目的に実行するだけである。上部は一切を知っており、下部
は何一つ知らされない。もちろん戦争の時には戦略を兵士の一人一人に説明して承諾を得、
反論を聞くような馬鹿はなく、極秘のうちにやり遂げなければ効果がないが、平時の仕事場
でこのやり方を続けると社員は命令遂行者以外の何者でもなく、自分が企業内で何のために
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どういう役割を果し、その結果はどうなっているのかを知らされないのであるから、企業と
一体になる気持ちは湧いてこない。自分の力を出し切って仕事をしようという励みは出てこ
ない。また一人の人間として性格や才能を知られ、任され、信用されていないので企業への
愛着も持てない、現場で種々の改良を考え、それを提案して採用されるシステムもないから、
仕事そのものに熱意が持てない。
だから西洋社会では仕事に人生の価値を見出すなどは稀であり、自分と家族を養うために
仕方なく働いているだけで、本心は、週末や休暇や職場外にあるクラブ活動の方に向ってい
る。テニスをはじめボーリング、サウナ、ハイキング、盆栽つくり、コーラス、切手収集、
その他三千以上のクラブが各都市にあって盛んに活動している。
毎日の仕事に人生の価値を見出すという人は極くわずかで、芸術家、自由業、個人経営者、
学者、マスメディアの担当者、出版関係者、そして企業や官庁や政界において責任ある地位
につき権力を振うことのできる人々など社会全体からみれば一握りの人材が仕事に生甲斐を
感じている。これらの例外を除く大半は、いくらでも交換可能な部品としてどこかに附着し、
契約以外の仕事は断固として拒否し、一分でも損しないように最大の注意を払い、少しでも
手取が多くなることと休暇日数の増加を願い、仕事から開放されるやいなや家族や友人やク
ラブのつき合いの中で自分を回復するのである。そこで初めて希望や不安、淋しさや誇りを
もった一人の人間として扱われるが、それはあくまで仕事にはつながらない。自分の能力を
出し切って一つの仕事を成し遂げ、評価される持続的、能動的な喜びにはつながらない。だ
から人生のほとんどの時間を嫌々ながら過し、時計を見ては仕事を敵視し、一分でも早くそ
こから逃げ出すことばかり考えて過す人がわんさといる。
最近はアメリカの影響を受けて会社を代ることが流行してきたし、マスコミもこの現象を
「転職の自由」とか「自己主張の勇気」と称し、あたかもその「自由」や「勇気」が昔からのヨーロ
ッパ人の本質であったかのように宣伝しているが、実状は「自由」をかざして次の会社へ移っ
たからといって、部品であることには変わりないため、少々給料は上がっても前より生甲斐
を感じるとは限らない。大げんかをして次に移り、ますます不満の募っている人は多い。住
宅難はひと頃よりましになったが、それでもたとえばケルンからハンブルグへ引越すとすれ
ば家探しや子供の学校のことで一年はごたごたする。ドイツなどでは地方毎に学期の長さや
始まる時期が異なり、誰も移動したがらない。だからむしゃくしゃしながらやはり同じ会社
に留まって、週末や休暇のために働いている人が実に多い。
またたとえ忠実に二十年間つとめても、ある日突然よそから入ってきた人間が上司となり、
その上司がまだ若かったり肌が合わなかったりで、それまでの職場に嫌気のさす人も多い。
給料の点でも外から入ってきた者の方が上だということは度々あり、会社に愛着を持つ者ほ
ど裏切られた思いは強い。
日本に育たない労資憎悪関係
日本人は一生一つの会社にしがみついて、叩かれても蹴られても奴隷のように従順に働く
ことしか知らない仕事中毒患者で、個人の自覚がないとか、自己が未発達であるとか、自己
主張の勇気に欠けるとか、自由を謳歌していないなどとヨーロッパのマスコミは書き立てて
いるが、西洋的企業のあり方と人間の扱い方が万一現在の日本に移植されたならば、日本人
はそんな所では一日も働かないであろう。
明治政府によって大工場制が取り入れられ、紡績をはじめ鉄鋼、石炭、造船など多くの工
場ができて、西洋式に企業が運営され出すと、労働者は不平不満を募らせ次々にストライキ
が起った。それは長時間低賃金のひどい労働条件と首切りに対する怒りが人々を立ち上がら
せたのであるが、彼らが意識しないところにもっと根本的な不満があった。それは現在西洋
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社会を占めている不満である。人間として扱われず、人間の内部に潜む集団への愛着やそこ
で評価されたい野心や、わかってもらいたい苦労のあり所を一切無視して、ただ働かせるだ
けの企業に対する不満であった。それから何十年もの間企業側と労働者の敵対関係とその闘
争は繰り返され、第一次世界大戦の際の輸出増大による景気回復で闘争も少々下火になった
が、戦後の反動で失業者の群を出し、ロシア革命の成功に勢いを得た階級闘争がまたもや激
しく続いた。当時一年以上持続した内閣はなく、暗殺は珍しい現象ではなくなった。そして
軍が権力を握って満州事変から第二次大戦に突入した。
敗戦後、社会党が一時政権を取り、ストライキは日常茶飯事であった。一方、空腹を充た
すために灰の中から小さな集団が寄せ集めの材料で何かを造り始め、その結果、自転車や電
気パン焼き器や下着が少しずつ出まわり、これら小さな集団の中に芽生えた人間関係が労資
関係という西洋的対立関係から足を洗い、もっと人間的な職場を作っていった。それは下が
上に対し常に敵意や恨みを抱き、上は下を不信の目で見るというお互いに居心地の悪い、無
駄の多い、永久憎悪関係ではなく、仕事が面白く生甲斐となるような組織作りであった。
ヨーロッパでも戦後同じく灰の中から小さな会社が生れ、皆が心を合わせて無我夢中で働
き、何とか寒さと空腹を凌いだが、その時期を越えて復興に向った時、西洋的精神が甦った。
組合は労働時間の短縮、給料の値上げを叫んで闘争を続け、労資敵対関係が再現した。これ
は西洋社会の権力のあり方を見れば当然である。いったん権力を持った者は容赦なく無慈悲
に冷酷にそれを駆使する。
この権力のあり方はまず絶対専制を続けたキリスト教教会が不平不満の徒を殺戮し、一千
年間権力の模範を示したので、その伝統はそのまま世俗支配者に受け継がれ、どんなに小さ
な民間の集団でもその中で権力を手にした者は似たりよったりの使い方を真似るようになっ
てしまった。権力とは本質的に冷酷無慈悲なもので、人の弱みにつけ込んで叩きつけると誰
でも思っており、だから権力と聞けば反抗闘争の身構えを示す。その身構えが労働組合の根
本にある。
江戸時代の人間関係が企業に生かされている
日本企業のシステムの特徴については、すでにいろいろ報道されているが、企業内組合は
企業に尻尾を振って可愛がられようとする犬に過ぎないとか、企業が表向きに格好をつけて
組合と呼んでいるだけで実は企業のわら人形だとか言われている。それは大きな誤りである。
組合の要求内容や交渉の激しさ鋭さを知らぬ者の憶測である。西洋の組合幹部との根本的相
違は、日本の企業内組合の幹部は、その企業の一員であって、自分の企業の財政状態に応じ
た要求を行なうことである。また市場競争から落伍しそうな非能率的な設備を改良せよとか
投資せよと言うような、西洋の組合が考えもしない要求を行なうのも、会社と同じ船に乗っ
ているという自覚からである。
これら各組合の幹部は西洋のように企業とは別に一つの総合団体を成しているのではない
から、各企業の経済状態の違いはそっちのけでともかく総合的方針にのっとった要求の貫徹
を行なって手柄を立ててみせる必要がない。その手柄のお蔭で、一律要求にはとてもついて
いけないヨーロッパの多くの企業は心ならずもつぶれてしまった。
江戸時代に発達した商工業は千人くらいの店員を持つ専門店や、家内工業より大きいマニ
ファクチャーを生み出し、当然人間関係も複雑になっていた。その中で長続きした所は皆店
員なり職人を雇い入れる時に充分注意して人材を探し、いったん雇い入れたならばその店の
者として主人やおかみさんが人情をもって世話をし、人数が多くなれば小さな部を作って部
の長が何でも面倒をみるように計っている。また皆が寄って話し合い現場で気のついた新案
を出し合い、衆知を集めること、むやみに働くのではなく、才覚を働かし、その働きに応じ
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てボーナスを与え、社内に一種の銀行をもうけて低利で金を貸し高利で預かるように工夫し
ている。
上下の区別は当然重んじられながら、結局上に立つ人間のあり方が西洋と異なるのである。
もちろん嫌な主人もあったが、無慈悲な絶対専制的主人は一時的に富を積んでも人望を失っ
て長続きしなかった。少々人使いが荒くても、使用人の心を知った情け深い主人は慕われた。
この江戸時代に培われた企業内の人間関係は結局信用に根ざしており、現日本の企業内の
人間関係にいろいろな形で受け継がれている。
十八章
一所懸命の哲学
「売ってやる」「買わせていただく」の思想――ヨーロッパ
日本のデパートで買い物をしたことのあるヨーロッパ人は口を揃えて店員の親切さ、礼儀
正しさを誉め、特に女店員のやさしさに驚嘆し、自国のデパートへ出かけるのが嫌になった
と述べるが、確かにヨーロッパの店員の態度は概してつっけんどんで不機嫌で無愛想で、売
場の商品に関する初歩知識もほとんどなく、そんなことには無関心でありながらやたらにい
らいらつんつんして立っている。でなければ客を頭ごなしに叱りつけるか訓戒する。ほとん
どが巨大なる中年女性で、それも各売場に一人か二人しかいないので品物についてたずねた
くともなかなかつかまらない。ヨーロッパではデパートは小売専門店より下に見られ、店員
の質も劣るのが常識で、きちんとサービスされつつ買い物を愉しみたい人はまず服装を整え
て顔馴染みの小売専門店へ行き、お得意客として気前よく金を払えばよいのである。目を見
張るような高価な服装でもなく、店の常連でもなく、一種の尊大な風格もなく、ただぶらり
と入って来てあれこれ品物を出させ、決心がつかなくて買うのを見合わせようとすれば、店
の者は不快さをありありと表わして犬でも追い払うばかりの剣幕となるか、怒りをやっと押
えて冷やかに見送る。
早くから商業精神に目覚め、客の扱い方についても一応気をつけるイギリスやオランダ、
イタリアやスイスなどではこういう傾向は目立たないが、それでも日本から帰ったばかりの
人は「どうしてヨーロッパでは皆がつんつんといら立っているのか不思議です。もう一度日本
へ行って商店街を歩いてみたい」と言う。日本では小売店にしろデパートにしろ、物を売る側
の心構えと客に対する姿勢が根本的に違うのである。その背後には江戸時代からの長い伝統
がある。
すでに見てきたようにヨーロッパにはパリやロンドンなど幾つかの例外を除けば都市はな
く、小さな町が点々として、鉄道の敷かれる前は交通の便も悪く、土地に生産される麦類、
じゃが芋、青物、ビール、麻、毛織物、皮などの日用品以外の商品はそれほど出まわってい
なかった。だからいろいろのコネを使って国王や領主から営業権をもらうことのできた者は
商人ギルドをつくり、遠くからやっと絹、木綿、磁器、貴金属、調味料、砂糖、茶、コーヒ
ー、オレンジ類を仕入れ、自分の町で販売したが、品物に限りがあり「売ってやる」「買わせて
いただく」という関係が不文律となった。店の方は品物の質と希少価値を武器に堂々と客をよ
り分け、相当の身なりをして召使いの二人もつれて入って来るような客でなければ売ってや
らなくとも商売は充分成立した。
今世紀初めデパートが一般化して商品は急速に出まわってきたが、それは小売店の老舗よ
り質の劣る大衆向き商品で、そこの店員は努力して売り上げを大きくしても給料は同じであ
ったから客の扱いなどに心を使う者はなく、自分の店の品を売るという意識は毛頭育たなか
った。また企業主も上手に何回も破産すれば相当の私財を貯めることができたから、どんな
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ことがあっても成功させねばならぬという献身的なところが少なかったし、そのうちアメリ
カあたりへ渡って一攫千金というのも夢ではなかった。そのため、店員と運命を共にしてい
るという気持ちがなかった。
今日、デパートなどの店員を教育することは不可能である。たとえばドイツでは四年間以
上勤続の人間はやめさせることができない法律であるから、四年間は上司のいうことに一応
従っておいて、その期間が過ぎればがらりと横着を極め、職場や家庭のいざこざからくる不
快さをそのまま客にぶつけたり、ろくに返事をしなかったり、おつりの額を間違えて客から
注意され、むっとして残りを投げつけんばかりの勢いで渡しても平気であるし、別に刑法に
触れるようなことをしたわけではないから上司も知らん顔である。それでもまだ出勤して来
るのはよい方で、デパートの店員に限らず、事務所の女秘書でも、工場の倉庫係でも解雇さ
れない身分になると有給休暇はもちろんのこと、医者から病気証明書をもらえばさらに六週
間の休みが取れて、六週間の終わる一日前に出て来て三日間働き、またもや病気証明書を出
してさらに六週間休み、給料はきちんともらうという法律の裏をかいた「ずる休み」が増える
一方である。正直に働いているのは損になる。
「売らせていただく」「買ってやる」の思想――日本
江戸時代の日本の都市は海陸交通網の発達と相まって驚くべき消費経済の中心となり、生
産力の発達を促し、物が出まわり、商人同士の競争を高め、そこで生き延びるためには上手
な仕入れと販売がきめてとなり、次々に新商法を打ち出すばかりでなく、もっとも大切なの
は客であるという意識が常識となった。「売らせていただく」「買ってやる」という関係が不文
律となった。客の年齢、服装、身分、態度に関係なく、礼儀をもって対し、心の中で客につ
いて何と思ってもそれを露骨に表わして馬鹿にしたり、嫌味の一つも言ってみたり、叱りつ
けるなどはもっての他だと考えた。何一つ買わなくても店に入ってまた出て行っただけで客
は客であり、長い目で見て腰低く対応した。
また店の大小に関係なく店員はそれが自分の店であるという気持ちをもって働いたが、企
業主が初めからそれだけの心くばりを忘れず、店員を人として扱ったからである。
江戸時代に誕生し、爛熟した商人哲学は現代のデパートにも小売店にも生き続けている。
デパートのように大きい規模をもつ所では売場毎にまとまって、上が実際に模範を示しつつ
下を引張り上げていくが、権力を悪とみなし、本質的に冷酷無慈悲なものとみなすヨーロッ
パ人から見れば、こういった上下関係は理解し難い。うまく働かそうという魂胆だろうとか、
その手には乗らないぞと思う。忠節を尽し信用しては裏切られてきたので、そもそも上下の
秩序を憎んでいる。日本人は人間社会にある上下幾段もの階段を無視したり、それの存在そ
のものを破壊しなければならぬとは考えない。どれだけ悪口を言っても足りないほど憎らし
い上司もいる。しかし、それはある特定の上司の人格が気にくわないのであって、階段の存
在そのものが悪いというのではない。一つの階段を破壊すればすぐに別の上下秩序ができる
ことを長い歴史をみて知っているから、階段を崩すよりも、下をいたわり、かばい、理解し、
導くことのできる上司を育て、その言うことを聞いて働き、学び、経験を重ねて、自分もや
がて一段ずつ上へ登るよう競争した。江戸時代には商人のための塾が次々にでき、実用的科
目と同時に商人哲学とも言える人生観や倫理を学んだ。
この広い意味での学習能力と、学ぶことを良いことだとする伝統は、江戸時代には日本中
の庶民に広がっていた。寺子屋と呼ばれる教育の場は仏僧、神官、儒者、老農などが自発的
に開いたもので、上からの命令によるものではなく、村や町の子供たちも自発的に通って手
習い、読み書き、珠算を学んだ。これら教師たちの手になる教科書は三千種を越え、商人、
職人、農民の職業意識を高め、土地の歴史地理を知って実用に役立てた。六歳から十四歳の
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間に頭脳の訓練を行ない、学ぶことに慣れ、それも一人ではなく三十人、所によっては三百
人の庶民の男女子供が集まって学習競争をしていたことは当時のヨーロッパには例のないこ
とである。
日本では想像できない知性の交流
ヨーロッパでは限られた少数の人々の高等教育が早くから進んでおり、十三世紀初め、都
市の勃興と共に大学が生れたが、ボロニアやパデュアの場合は学生のギルド、パリは教授の
ギルドが大学と呼ばれ、まず神学、そして法律や医学が講じられ、一定の講義を聞いた者は
医者なり弁護士として営業する許可証を与えられ、インチキ医者や自称弁護士と区別された。
宗教改革後、特に新教領域では領主が学校を建てて貴族の子弟に新教の神学、法律、医学、
哲学などを学ばせた。哲学から数学、物理、化学が分れて独立した。だから大学にはそれを
建てた王や貴族の名前がついており、そこで学ぶことを許された者は非常に限られ、卒業後
その領域の官吏、医者、弁護士、学者となった。ただし、ヨーロッパの場合は医者は医者同
士、科学者同士の交流が盛んで、ラテン語による論文発表を通して最新の研究を知り、お互
いに競争する機会に恵まれた。これは鎖国中の日本では想像もできない知性の交流であった。
また学問が国の発展の軸であることを見抜いた王は、王室アカデミーの財源を増やして盛
んにエッセイ・コンテストを行ない、人口、貿易、道路工事、刑法などの実際問題について民
間の関心を促した。公共図書館は十八世紀中葉イギリスに誕生、十八世紀末には全国に一千
近い図書館があった。
鎖国下でも知的水準は向上
日本でも社会の要求に応じ、中央の官吏養成機関は大学として早くも古代に整備され、貴
族の子弟四百人が中国の古典、日本史を中心に九年間の教育を受け、八世紀末にはますます
盛んになった。また比叡山や各地の本山、禅寺では仏教や中国の古典が講じられ、江戸時代
に入って幕府は江戸に、各大名はその領地に学校を建て、儒学をもって武士の子弟を教育し、
中央、地方の官吏を養成した。それ以外に武士の地位を捨て、市中で学塾を開いて儒学、国
学を講じた学者も多いし、芭蕉のように俳諧の道を開くことによって多くの弟子を感化した
り、浄瑠璃作者となって演劇というジャンルを通し大勢の市民に影響を与えた近松は有名で
ある。
医学、薬草学、数学、天文学、兵法などを講じた学者は江戸時代を通して枚挙にいとまが
ないが、数学の関孝和はライプニッツより十年早く行列式論を創始、幾何においても正多角
形理論を開拓、門弟によりさらに発展したが、ヨーロッパのように物理学や他の学問との交
流、討論、共同研究による応用発展がなく、秘法に終わった。一方オランダ人から購入した
書物を中心に蘭学が栄え、江戸と長崎では通詞の専門学校が多くの子弟を教育し、華岡青洲
は一八〇五年世界で初めて麻酔剤をつくり麻酔による手術に成功したが、その後、塾を開い
て多くの門弟を育てた。高島秋帆は長崎で海外の形勢、特にナポレオン戦争により一段と発
達した軍備に着目、国防を心配する余り自発的に私財を投じてオランダから四百挺近い鉄砲、
兵書を購入、門弟三百人を抱え、幕末の兵学および鉄砲・大砲鋳造の基礎をつくった。
三千万人の人間が出口のない閉ざされた社会で二百年もの歳月を過していれば、窒息する
か、眠気に襲われて怠惰となるのがふつうである。学習能力は衰え、知的水準は急速に落ち
て、熱意をもっていた者も次第に諦めと放棄に傾いていく。しかし、鎖国下の日本人は違っ
ていた。底辺に到るまでの各層が競って自ら学習能力を身につけ、官僚、軍人、企業家、商
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人、科学者、技術者、教育者となるべき人材が充分に育っており、新しい西洋の知識を貪欲
に吸収し学ぼうとする幅広い層が待ちかまえていた。
しかし、江戸時代に磨かれた企業内の人間関係のあり方や、商人の客に対する姿勢は西洋
流にはならなかった。社会がより複雑になり、先端技術を駆使する現在でも、それを動かす
人間関係は日本流である。ヨーロッパ人がわからないとかついて行けないとか羨ましいと感
じる日本はちょうどこの時点にある。
十九章
東西の親子夫婦
時代とともに「familia」の意味の推移
ヨーロッパ人は個人主義者であり、結婚相手も親や周囲の干渉なく自由に選んできた。選
ぶ基準は家柄や金や地位に迷わされない純粋な愛であって、結婚後は核家族を作りプライバ
シーを大切にしてきた。年とった親の世話などは社会福祉が発達しているので一切国にまか
せ、この上なく設備の整った養老院に年に一度顔見せに行くくらいで、親子の関係は非常に
あっさりしている。
日本人はだいたいこういうイメージをヨーロッパ人について抱いている。根も葉もない絵
空事だと片づけてしまうわけにはいかないが、実状に照らし合わせて見るとどうもおかしい
ことに気付く。何かの宣伝文句のようだと思う人もあろう。けれども悪い気はしない。だか
らわざわざ訂正しないだけのことである。しかし、この通りのヨーロッパ人を見つけること
は現在でもむつかしい話である。一九五〇年代にさかのぼればこんな人はどこにも存在しな
かった。第二次大戦を経て人々は経済復興に懸命であり国力もまだ低く、国が老人の世話を
するという思想も経済力も育っていなかった。それよりも国や他人の厄介になるのはみっと
もないという気持ちが強かった。また結婚相手を選ぶのは確かに愛情からであったが、生活
や子育てに必要な環境を考慮し、一生の安全を計算に入れることは当然で、生涯を賭けた愛
情と立派に両立していた。
十八世紀の末まで、すなわち産業革命の波がドイツに押し寄せてきて、それまでの生産形
態を根本から覆すまでは、家族を意味する Familie という単語はドイツ語になかった。とい
うことは今日ふつうに知られている親子夫婦兄弟のみからなる集団はその頃にはまだ存在し
なかったのである。
ラテン語の familia はもともと house を意味し、家屋とその中に住む集団の双方を指した。
その集団は親子、夫婦、兄弟などの血縁ばかりでなく非血縁者も含めた生存および生産共同
体であった。家督は長男が一人で継いだ。自分の家を所有する者のみが支配者から結婚を許
され家族を構成することができたので、他の弟妹は使用人として一生未婚で家に置いてもら
うか、他家に奉公するか、修道院や尼寺へ入れてもらうか、兵士となった。と言うことは、
町でも村でも未婚の人間の数がおびただしく、人口増加を押える一手段であった。また結婚
の許された長男でも結婚平均年齢は三十歳、その妻は二十八歳であり、親が死ぬまで待つ例
も多かった。そうやって婚期を遅らせることにより子供の数を押え、やっとどうにか食べて
いけたのだが、幼児死亡率が五割のため、皮肉にも自然に人口制限が行われていたわけであ
る。
また結婚相手を決めるのも当人ではなく、町ではギルドであり、商人は商人同士、職人は
職人同士で営業範囲や資金の大きさを比較し、両家のつり合いを考え、経済的にプラスかマ
イナスかを熟慮の上決定した。相当の店の長男はそれにふさわしい店の娘でなければ周囲も
本人も承知しなかった。それだけの娘ならば嫁入り道具にどれだけの金をかけるかも事前に
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細かく交渉した。シーツと枕カバーを何枚、ふきん何十枚というリストは各地に残っている
が、木綿が高価な輸入品であるヨーロッパらしい嫁入り仕度である。その他磁器の食器幾揃
え、銀のナイフ・フォーク・スプーン何人分と上には上があった。農家ならばお互いの耕作地
の大きさ、収穫高、牛や羊の総数がものをいい、話を決定した。それは社会全体が少しも油
断のならない経済状態にあり、戦争や疫病、不作や餓死は常に身近に起り、同時に生産性に
限りがあったため、少しでも家全体にプラスとなる相手を選ぶべく関係者は真剣であった。
好きとか嫌い、恋とか愛の感情が本人同士の間にあるか否かは問題でなかった。一生未婚を
運命づけられた大多数の人間に比べれば、結婚を許されるだけでも有難かった。そうして家
督を継ぎ、嫁と力を合わせて家の者を指導し、早朝から夜更けまで働いてやっと皆が食べて
いけた。
家の者は主人とおかみさんに対し絶対服従を守り、どんな小さなことでも干渉を受けた。
家屋の構造と暖房設備をみれば、一人一人のプライバシーなどという観念はまだどこにも生
れる余地のないことが明らかになる。家長が夫婦であることは町でも村でも必須であり、相
手が早死すれば即時次の相手を探す習慣であった。たとえば男三十歳、女二十八歳で結婚、
当時は産褥熱で死ぬことが多いから二人目、三人目をもらい、彼女たちが八人の子を生み、
そのうち四人は死亡、残りの四人のうち長男以外は奉公に出すか家の使用人にする。女子は
どこかの長男のところへやるべく交渉する。他にまだ従兄弟や叔母や非血縁者がおり、みな
が主人とおかみさんの号令によって働く。主人が若死しても、その妻がすぐに次を探し、小
やもお
作人などと結婚すれば笑い者になったから、やはりそれだけの田畑をもった寡男か長男と結
ばれて耕作地を増やした。その場合年齢の差は問題にされなかった。
東ヨーロッパでは親子三代、親類、使用人など合わせてふつう二十人から三十人が一つの
家に住み、生産に携わっていたが、西ヨーロッパでは親子三代一つ屋根の下というのは歴史
を通して例外の部に属する。二代以上同居は経済的に不可能で、特にイギリスや北フランス
では五パーセントもいない。これは八世紀頃から三圃式農業が行なわれ、耕地の三分の一は
常に一年間遊ばせて土壌の生産力を回復させなければ物が育たなかったためで、じゃが芋を
移植してからやっと少し楽になったことは周知の通りである。
親が普通以上に長生きだと息子はなかなか結婚できなかった。
それに比べ貴族や都市の富豪は経済的余裕があったから結婚時期も非常に早く、相手の家
柄、財産、政治勢力などを親や周囲が熟慮の末、息子や娘たちをそれぞれ少しでも良い条件
で結婚させ、勢力の増強を計った。この場合でも愛情から結婚するのは例外で、時には本人
がまだ幼い間に親が決めた。そのため、結婚と遊びを使いわけ、公の席には夫婦で出かけ、
愛人や妾は遊び相手になった。この方には時間をかけ、愛の表現などに磨きをかけた。
ずっと後になってから、すなわち十九世紀中葉、この分離を批判する声が文学者や哲学者
の間に高まり、性のモラルを問い、遊びを不潔とし、愛こそ結婚の前提であると言い始めた。
それはエネルギー革命により社会がすでに大変動し、工場制により突然多くの職場ができ、
大衆が食べていけるようになったためで、familiaいそうろう
という語義も「親子による血縁関係」すなわ
ち家族を示すように変わってきた。ぞろぞろいた居候的使用人も労働者として働きに出て、
工場のバラックなり都市のアパートに住むようになり、「借家住まい」という新しい身分が現
れた。二十世紀初めには彼らのほとんどが結婚できるようになった。
居候の出ていった家の中には親子夫婦のみが一緒に寝食を共にするようになり、食物は次
第に普及し、医学の発達により特に幼児死亡率が半減し、衛生観念がいき渡って寿命も少し
ずつ延び、親子夫婦が長期間共に生活するという史上初めての現象がみられるようになった。
経済的にゆとりが出てお互いの人柄や性格、心理の動きや感情の起伏に注目する時間が多く
なり、性格が合うとか嫌だとか言い始め、相手を選ぶにも長年顔つき合わせて人生を共に送
ることができる相手かを検討する必要が出てきたわけである。
と同時に男が一人外で働いて家族を養うことが可能になったので、男女それぞれ別の役割
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を果すようになった。それで相手に抱く期待もそれまでとは異なり、女は必ずしも金持ちの
娘でなくともやさしく従順な性格がよいとか、顔形がきれいでないとうんざりするとか、男
は何より安定した職についていることが大切だとかと言われるようになった。これは生産形
態の大変動と、延びた寿命のために生活条件が一変したためで、これに合う哲学がもてはや
されてきた。たとえば女の性は夫の世話と子育てにあるとする良妻賢母哲学が流行し、辞書
や雑誌も、男は一日中外へ働きに出かけ、女は一日中家を守るのが大昔からの自然の法則で
あると謳い上げた。最近になって家庭内の機械化とさらに延びた寿命のため、一日中家にい
ても退屈でノイローゼ気味で、経済的必要性とは無関係に外に働きに出る女が増え、自己の
能力を発見し開拓していく女でなければ無価値であるという哲学が流行するようになった。
また親は死ぬまで子供と同居し、病気になってももちろん子が世話をしたが、二十世紀後
半になって少しずつ国が子供のかわりをするようになっていった。とは言うものの、現在身
体の不自由な親のところへ朝夕に出かけて掃除、買い物、料理の世話をしている人は予想外
に多く、親子の情のこまやかさに私は驚嘆している。
よく日本人は親を誰よりも尊敬するとか、親のためなら何でもするとか言われるが、現在
の日本はドイツやスイスに比べて遥かに「姥捨て」傾向が強い。
日本も「親孝行」の概念が変わってきた
日本の家は昔から親子数世代同居がふつうであった。農工商に携わる人はヨーロッパと同
じく家が共同生活と共同生産の場であった。ところが江戸時代の武士は大名から俸禄をもら
う月給生活者であり、嫡子のない時は禄を取り上げられてお家断絶になったので、この悲劇
的事態を防止するための哲学が生れた。父系による家の継続を何よりも大切にし、家長権の
絶対性、長幼序列、男尊女卑は当然の結果であった。この武士社会の倫理は明治民法により
家族制度として日本人全般にいきわたり、終戦後廃止されて、今度は個人を基本とした新民
法が実施された。
経済状態の改善とも相まって現在は核家族化が進み、なるべく老親から遠ざかって遺産だ
けはちゃんと取ろうとする子供が増えてきた。この傾向は息子に強く、独身の時とがらりと
変わることも珍しくない。だからヨーロッパでは誰でも「持つべき者は娘なり」といって娘が
生れると喜んできたが、この経験を日本人もヨーロッパ人より一足おくれて味わっている。
日本には今でも経済的負担を子供にかけねば老後生活が送れないという親がかなりいるこ
とはヨーロッパとの相違である。ヨーロッパには老後生活を支える三つの柱がある。老後と
は六十五歳の停年を迎えてから死ぬまでの自分および妻の生活で、妻一人残った場合もその
死まで支払われる。その一つは必要最低限の社会保険料で主として労働者などに適用され、
二つ目は国家や地方公務員、あるいは会社員に国、地方自治体、会社から毎月支払われる年
金、そして三つ目は個人でかける生命保険料である。これらの三つはもちろん本人がまだ働
ける間に積み立ててきた金で、免税の対象になるので誰もが一所懸命に少しでも多く積み立
てるわけである。同時にその積み立て金の一部は雇用者、すなわち国、地方自治体、会社が
持たなければならないことに法律で定められており、雇用者が実際に支出する額は月給より
も遥かに大きくなっている。途中から入ってきた者のためにも雇用者は積み立てねばならな
いが、ぐんと額を減らしてもよいことになっているので、職場を度々代る人は年金も少なく
なる。たとえば国家公務員が途中でどこかの企業に転職したような場合、あるいは一つの企
業から別の会社に代った場合は、年金が減ってもいいという覚悟が必要である。また近頃は
芸術家など種々の自由業の者にも老後保証を考えるよう国が呼びかけている。老後は子供に
金銭上の面倒をみてもらおうかとあてにしている親はほとんどいなくなった。
日本では親には孝行せよとか、血を分け合った兄妹は仲良くとか、親類だから助け合えと
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いう血縁の強調が先に立つ傾向があり、少しも懐かしくない兄妹や、ろくに知らない親類や、
あまりいい想い出もない親に対し、血縁だから助けるのが当然という押しつけをやりかねな
い。ヨーロッパでは第一に共通の祖先につながるという意識と、第二に必ずしも血縁でなく
ても生活や生産を共にした人という意識が歴史を通して並存してきており、葬式や遺産相続
などでは第一の方が断然優先するが、ふつうは第二が大切になっている。血縁だから仲良く
助け合わねばならぬという感覚は薄く、仲良い例ももちろんよくあるが、一生口をきかなく
とも誰も不思議に思わない。親の場合も、親孝行という言葉は全く使われないし、両親とも
健康の間は子供は遊びにいったり共に休暇を過すけれども世話などはしない。片親になって
も一人でやっていける体力のある間はそれを誇りにして一人でくらし、子供に頼らないし愛
情を要求しない。
病気になったり身体の不自由なお年寄りになってしまった時、初めて子供が世話をする。
子供がなかったり、遠くに住んでいる場合、ねたきり老人でも病院や養老院へ入るのが嫌な
人は自宅で時間制の看護を受ける。看護料が高くて払えない老人は無料奉仕にあずかること
ができる。たとえばドイツでは、男は十八歳になると徴兵検査を受けねばならないが、無抵
抗主義者や戦争反対者で、兵隊としての訓練を受けることは断固として拒否すると言う人々
は、一年半にわたって民間奉仕をやらされる。その一つが身寄りのない寝たきり老人の世話
である。
「親孝行」という言葉は子供から奉仕を要求する響きがあり、強制された奉仕はどこかに無
理がある。そうではなくて、幼い時からずっと自分を可愛がり、叱ったり教えたり、数々の
想い出をつくってくれた人が今は老い、かつての体力を失い、病に倒れてしまった時、今度
は自分が全力を注いで助けるのは当然で、そんなことは世間や親から強制されなくとも自然
にできることである。「親孝行」という言葉を知らないヨーロッパ人が、世間から強制されな
いからこそ自発的にこまごまと親の世話をするのは不思議ではない。
二十章
異常体質の後遺症
白人に対する思いもよらぬ感情と論理の中絶
日本滞在を終えてブラッセル行きの飛行機に乗り、うとうとしているとやたらに煙草の匂
いと煙が鼻をついた。禁煙席をとったはずなのでおかしいと立ち上がって周囲を見渡すと、
すぐ後の日本人乗客が吸っていた。五十歳半ばの夫婦で、二人とも紫がかった眼鏡をかけ、
夫の方は灰色の長髪、ピエール・カルダンのサイン入りデザインシャツに皮ひものネクタイ、
妻はきれいに染めあげた茶色の髪をおかっぱに切り、ディオールのボタンつきスーツに金の
ネックレスといういでたちで、二人揃って煙草を指の間にはさみ、洒落たインテリという感
じで座っていた。
「すみません。そこは禁煙席になってますから……」と話しかけた。夫婦とも私の声が聞こ
えないのか申し合わせたようにゆっくりと吸い込み、もうもうと煙を吐いた。「あの、禁煙席
では煙草は吸わないことになってるんですが……」と少し声を大きくしてもう一度話しかけ
た。
「うるさいねえ、あんたは何だ。こっちの金で吸うのに文句言いやがって。どこで吸おうと、
どれだけ吸おうとこっちの自由だよ」と優雅な服装に似合わぬ野卑な顔つきで私を怒鳴りつ
け、立て続けにスパスパと吸った。妻の方も応援のつもりか口一杯の煙をふうっと吐き出し
ニタリと笑った。そこで私は通りかかったスチュワデスをつかまえ、ことの次第を説明する
と彼女は即座に夫婦づれの横に立ちはだかり、その席で吸うことは違反だからやめなさいと
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高飛車に命令した。でっぷりと肥った二十歳そこそこのベルギー人スチュワデスの一言に、
夫婦はおとなしくうなずき、声も出さず、あわてふためいて火を消した。アンカレッジで全
スチュワデスが交代したにもかかわらず、夫婦揃って禁煙を守り、三度ばかり後ろの方の喫
煙席へ立っていってそこで吸った以外、遂に煙草には触らなかった。
制服を着た日本人やアジア人のスチュワデスが注意したとしてもこの同じ日本人夫婦はこ
れほど従順な反応は示さなかったであろう。一言やり返してふてくされるか、空いている喫
煙席を探させて移るか、吸うことをやめるにしてもゆっくり一本くゆらせた後で渋々やめる
であろう。
白人の前ではそんな余裕がないのである。言葉が駄目というだけでなく、白人に向って言
い返すだけの度胸がないのである。たとえ流暢に外国語ができたとしても、日本語で日本人
を怒鳴りつけるような極くふつうの感情が白人を前にすると跡切れてしまい、こわさも手伝
ってあわてふためき、怒鳴りつけるどころか反対に早く向うの言う通りにしようとあせるの
である。そうやって御機嫌を直していただいて何とか仲間に入れてもらい、問題なく通り過
したいのである。日本人はおとなしくて御し易いというのはヨーロッパのホテルや「日本語話
せます」の看板が出ている高級店、交通業者の一致した意見であるが、その同じ日本人が日本
人だけになると、今度は白人を馬鹿にした表現を用いる。「奴らはてんでなってないよ」とか
「どこの馬の骨だかわかるもんか」とか「君、駄目じゃないかと叱りつけてやると盛んに恐縮し
ていた」などはよく聞く台詞であるが、自分の感情を押えてこわごわ従ってきた者のせめても
の強がりである。
これは通りすがりの観光客ばかりでなく、欧州観察と称する代議士連にしても、何かを調
べに来た官庁の役人にしても、また商社や銀行、大使館や領事館の駐在員にしても大学関係
者にしても、もっとも多いタイプで、言いたいことを押え、言うべきことを見失い、言わな
くともよいお世辞を並べ、自分をはじめ日本人一般の欠点を白状して謝り、ヨーロッパ文化
のあれこれを讃嘆して感謝し、ともかくやっと通り抜けてきた後ほっとして、急に怒濤のよ
うに「奴ら」の悪口が溢れ出る。悪口というよりは、「何々大臣にこういう点を一言注意してや
ると、非常に有難がっていた」とか「何々社長にこのことを教えてやると、すみませんと頭を
かいていた」などの類いで、御本人はさぞかしそうしたかったであろうと同情しつつ聞くこと
が多い。ちなみにヨーロッパ人は人に教えることは得意であり慣れているが、他人から何か
を教えられたり注意されることは大嫌いで、ましてや素直に感謝したり悪びれたりはしない。
「そういう考え方も状況のいかんにより可能であるかも知れぬ」とか「じっくり調べ、確認する
までは何も言えぬ」くらいが最上の礼儀を尽した答えであり、通常は必ず数倍くらい反論する。
虱でもわいていなければ頭は搔かない。
また時々、「いやもう可愛がられてねえ。少しも放してくれないんで弱っちゃってね」と悦
に入っている人もいる。恋人の話かと思って聞いていると研究室の上司のことであったり下
宿のかみさんの話で、飼い犬のように見えることも知らず吹聴する。
時折商社マンなどで商談の席上反論するなり、自社の主張を叩きつける人もあるが、相手
はそれですぐ納得するどころかそのまた反論を行ない、えんえんと巻き返してくるので食事
も喉を通らずくたくたになったという例もよくある。日本人はだから一対一では飲み食い談
ずることは無理なので、向うが一人で来る時はこちらは二人で出かけ、協力しつつビジネス
ランチを終えるようにしないと身体が保たない。このように日本人の多くは白人を前にする
と、日本人同士の場合には思いもよらなかったような感情のとちりや論理の中絶を経験し、
ふだんの自分を見失い、当り前の人間関係から外れて狼狽し、あるいは卑下し、やたらに大
げさなジェスチャーを繰り返すかと思うと、かちかちになったり追従笑いを続ける。
それにはいろいろの心理的な原因が重なっているのだが、もっとも一般的なパターンは、
相手に自分の価値を認識させたいという当然の願いがありながら、それがどうも達成できず、
達成するための方法がわからなくてまごつき、あせればあせるほど当てがはずれて慌てるの
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である。日本人が自分の価値を認識させたい場合、肩書きや出身大学名を名乗り、海外へ来
たのは誰々の命令によるとか、こちらの誰々から招かれたためだという事実を述べ、その誰々
はなるべくえらい人、えらい役所や企業、あるいは有名大学であれば相手は尊敬の念を抱い
てくれると信じている。だから念を入れて繰り返す。残念ながらこれはヨーロッパ人に対し
てはあまり利き目がない。第一、他人から命令されたり呼びつけられて動くような人間はろ
くでなしにきまっていると思われる。自分が来たくて来た、ところで何をやりたいのか、そ
れはなぜなのかを自分自身の願いとして熱意をもって語らなければ駄目である。第二に、後
楯となる公の権力をちらつかせても反撥をかうくらいで尊敬はされない。ヨーロッパ人の権
力に対する態度や感じ方を知ればそれは当然である。それより、食事でも家具でも、親子関
係でも教育でも、何でもどんどん話題にして質問を発し、知的な運動を展開する方が人間の
中身がわかって、相手も知らぬ間に認識を新たにする。
そうやって場数を踏み、修業の末、なんとかこなしていく人ももちろん多くなった。その
修業の大変さは実際にヨーロッパの各地で生存競争を行ないつつ利害関係を体験しなければ
わからない。何かの催し物や学会に十日ばかり出席してお客様扱いを受け、日欧文化交流を
地でいったと有頂天になっている人をときおり見かけるが、そういったお祭り騒ぎは日常の
厳しさからの息抜き、あるいは誰もがよそいきの顔をしている晴れ舞台であって、有頂天に
なる方がナイーブでおめでたいのである。
ヨーロッパの複雑な壁とそれへの抵抗
それではヨーロッパに住んで実際の困難はどんなところにひそんでいるか。これはパリやロ
ンドン、ハンブルグやデュッセルドルフでよく見かけることであるが、たとえば私の知人に
日系大商社の社長とその家族がいて次のような体験を聞かせてくれた。彼等は町の一等住宅
地に邸宅を借り、その家主一族とはベートーヴェンの交響曲を通して急速に親交を深め、娘
のピアノ演奏会、家族の誰彼の誕生祝い、クリスマス休暇などには家族ぐるみで招待し合う
ほどの仲となった。ところが社長の一番下の息子がローラースケートで邸宅一階のサロンの
床板をメチャメチャに傷つけてしまった。それは木材を小さな三角形に切って合わせた模様
の広がる高価な床であった。それを発見した家主はその日のうちに社長を裁判所に訴え、も
ちろん弁護士を通して床板破損弁償金の請求、契約違反による即時立ち退き等々、音楽を通
しての国際理解も友好関係も床板のためにあっという間に粉砕されてしまった。
「契約を楯にとり、たかが子供のしたことぐらいで大袈裟に裁判に訴え、本社に知れたらど
うなるか考えてもくれない。床板はきちんと新しく直すと言っても信用しない」というのが社
長の言い分であった。あれほど親しくしていたのに掌をかえしたやり方で恥かしくないのか、
もう少し相手を信用してまかしてもよさそうなものだと日本人なら当然感じることであろう。
ところが家主の言い分は、「あれほど親しくして信用していたのに邸宅の貸借契約を破り、床
板を破損するような不法行為を平気で子供にやらせる人物は、それをきちんと元通りに直す
と言っても信用できない。だから即刻、法的手段に訴えて確実に弁償金を取らねば不安であ
る」と言うのである。
これは契約に対する日欧の感覚の違いに因ることは明らかだが、もう一つ、所有物に対す
る日欧の感じ方の相違が大きな原因なのである。所有物と訳されているドイツ語は Besitz つ
まり自分の全身を賭けて占拠すべきあるいは守るべき物なので、どすんとその上に座り込ん
で執拗に確保する権利と義務があるわけで、その際の真剣さ、一指も譲らぬ厳しさは日本人
には異様に見える。もちろん、欲深かでけちんぼうで手に負えない日本人もいる。しかし、
そうやって断固として握り続けても地震や台風で一物残らず消え去るという体験をしてきて、
そういった体験の記憶を伝えてきて、日本人は所有物に対し非常にあきらめが早い。全身を
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賭けて守り、傷つけば断然元通りになるまでがむしゃらに闘うという精神は養われるはずが
なかった。それに比べヨーロッパでは所有物は自然の猛威にさらされることは少なく、戦争
や強盗その他人為によって失われる以外、守ろうと必死になれば確保できた。また貧弱な自
然と、無防備の地形にあって所有物のみが生命をつないでくれた。それを守ろうとするのは
当然で、「恥も外聞もない」はしたない行為だとは誰も思わない。せっかくの親しい間柄をこ
わしたくないけれども、自分の所有物を台なしにしてしまった人間とはもう親しい間柄では
なくなったわけで、それでもなお、交際を続ける必要があるかどうかは場合により異なる。
家主にしてみれば、邸宅を借りたい人はいくらでもあるし、音楽を通して得る友人知人は別
にこの日本人家族に限らない。それより床板弁償を法的に裏づける方が大事である。必ず弁
償すると謝っても、いつまでに、いくらの金を払うかなどを文書にこまかく結晶させてくれ
る弁護士の立ち会いがないと不安である。訴えることが社長の東京本社に影響するなどとは
想像もできない。誰でも訴えたり訴えられたりしていて、会社とは関係ない。
客観的に、第三者の立場に立ってこんなふうに家主と社長の一件を語っている私自身も、
二十数年前、ヨーロッパ生活駆け出しの頃は途方に暮れたり憤慨したり、あっけに取られた
り、寒々とした想いにかられたり、やたらに感激したりしたものである。一つ一つを掘り下
げて原因を究明し、なるほどと自分が納得するまで時間は驚くほど長くかかった。アメリカ
にいた頃は、人々が相手の立場をさっと呑み込んでユーモアと勘を盛んに働かせるので、精
神的に特別苦労することもなく、いささか甘え気味であった。日本演劇史を同年輩の学生た
ちに講義し、かたわら西洋のお芝居を次々に勉強し演じ、ニューヨークやサンフランシスコ
の劇場で演出のお手伝いをやって過した四年間は、専門分野ではあっと驚嘆したり、ははあ
と意外な発見をすることは度々だったが、人間関係において常に自分自身であり得たし、く
たくたになるまで心理戦を展開したことはない。ヨーロッパに住むようになって調子が狂い、
自己喪失感に襲われ、五年間は非常にあがいた。この折にアメリカとヨーロッパの圧倒的な
相違にぶつかり、その原因を探っていくうちにヨーロッパとは何か、そして日本はどこに位
置するのかを問い始めた。アメリカについては次章にゆずるが、ヨーロッパには言葉以前の
壁がある。それは幾重にもわたって築かれていて、ある部分はもうとっくに崩れていたり、
うす汚く色落ちているのだが、壁の重みはやはり存在する。それは長い歴史を通して知らぬ
間に培われたものの見方であり、権力のあり方、人の扱い方であり、他人種他民族との対し
方である。だから人間のあらゆる悪を体験して何度もどん底に落ちながらまた這い上がって
生き続ける強靭さと、美しさを褐仰する真摯な態度と、どこまでも懐疑の目を向ける知の伝
統が混合していて、実に複雑な壁である。
日本の長い歴史と伝統を背負ってこの壁に向う者は、懐かしくなるほどわかる気持ちと、
底知れぬ抵抗感との両極を往復するようになる。一対一どころか、五、六人の意地悪い批評
家の前で矢継早の質問に答え、揚げ足を取ったり皮肉をばらまく彼らを納得させるだけの表
現力を貯えた今日でも、私はこの両極間を往復している。時にはうろうろして自分を見失う。
だから日本人のどぎまぎした姿は他人事ではない。
日本語で日本人と語る時も、外国語でも、そのユーモアも知性も人柄も同じという人物を
私は一人だけ知っている。元弁護士の遠藤毅氏である。この人はフランス語も堪能で、パリ
の蚤の市をドイツ人大勢と歩いていた折、真正面からばたんとぶつかってきたフランス人に
向いとっさに「おお、同僚、御苦労だね。この辺はもう片づけたよ」と言ったので、ぶつかっ
す り
た方は顔色を変えてさっさと逃げた。フランス人の掏摸だった。八十余年の人生の半分以上
をヨーロッパで過し、職業柄もっとも堂に入ったドイツ語を駆使する遠藤氏の日本語はまた
端麗で、豊かな語彙に支えられている。日本人はちょっと数年外へ出ても日本語がおかしく
なると思いたがる。それが海外生活を送った証拠のように思い込み、わざわざ怪しげな日本
語を使ったり、やたらに外国語をはさんでみる癖がある。もう外国語に慣れてしまったので
日本語などより楽なのだと言いたいのかも知れないが、それはもともと日本語の土台がなっ
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てないことを示すのみである。本当に泳ぐことのできる人は十年泳がなくとも水中に入れば
身体が自然に浮くように、母国語が当り前に出てくるはずである。
鎖国二百年間のヨーロッパを知らない日本人
鎖国が日本人に与えた影響はふだんはあまり気にとめる必要もない。西洋社会に入った時、
その文化や人間に対面した時、初めて二百年の異常体質からくる後遺症に思い当たる。閉ざ
された島国が全世界であり、日本人以外の人間と生活を共にしたことはなく、同時に外人は
いてき
夷狄とか紅毛、毛唐であって「ふつうの」人間ではなく、そんな者の住む海外へ出かけような
どと考えるだけでも祖国を裏切ることになって死刑に処せられた。たとえ漂流船でも近くに
行くことは禁止され、その乗組員は不気味で異形で恐しい存在であった。しかし、その恐し
さは自分たちの肌で体験した恐しさではなく、日本の国法を無視した狂信的バテレン達に関
する言い伝えから出てきた気味悪さであった。だから残酷な征服者に対する憎しみや怨みに
つながらない、空想的、お伽話的恐しさであり、魂に深く刻まれた敵意ではなかった。
開国後、がらりと転回して西洋のすべてを謳歌することになった。それまで気味悪かった
外人は日本人より一段上等の人種であり、常に理性に基づいて行動し、人道主義者で博愛精
神に充ち、華やかで高尚で進んだ文化をもっていると信じた。その仲間に入れてもらおうと
必死の努力を惜しまなかった。実際、鎖国二百年間に西洋は大きく動いていた。キリスト教
の狂信を克服し、科学的思考法を打ち立て、科学技術のお蔭で社会は豊かになり、少しずつ
人間らしい生活ができるようになっていた。医学の発達により幼児死亡率もうんと減り、衛
生観念もゆきわたり、ようやく「進んだ」状態になっていた。イエズス会士をはじめ日本へや
って来た宣教師たちは旧教新教ともに日本の国法に従ったし、寺社を焼き払ったり仏像を盗
んで薪にすることもなく、布教と貿易をセットにして活躍することもなく、日本の少年少女
を奴隷として海外へ連れ出すような例もなかった。それどころかキリスト教社会では当時最
後の奴隷を開放し、高らかに人間の平等を謳っていた。宣教師たちは学校を建て、他宗を罵
倒することなく人々を感化するほどに成長していた。
しかし、悪の原理が西洋から消え去ったわけではなかった。十九世紀末、文明開化に日本
人が酔っていた頃、オーストラリアへ移住した白人は原住民を狩猟の対象にし、教会はそれ
を神学的に正当化した。神は自分の姿に似せて人間を創ったが、それは白人を創ったのであ
ってオーストラリア土人のごとき醜悪な人間は神を侮辱する獣であるから絶滅するのが神の
意志だと言うわけであった。アメリカ・インディアンも同じ運命にさらされ、その悲劇はすで
に歴史となった。中国の阿片戦争も、安政の不平等条約も、同じ白人優越感と、その拡張発
展のためには手段を選ばずの精神に支えられていた。日本人は西洋の悪の根源を見据える暇
もなく、度胸もなく、ただどこか心の中にうっ積していく憤懣を次第に国粋主義の流れに託
して、遂に敗戦を体験した。
日本の精神風土に根を張る虚妄の意識
今日、日本人は世界中どこへでも気軽に出かけ、また各都市に駐在し、仕事をし、他国人
にも慣れ、終戦までの世界観は笑い話になった。しかし、白人を善悪両面をもった、一人一
人教養程度も能力も異なる当り前の人間として扱っていない。いまだに崇拝の対象か好奇の
的である。
西独テレビのカメラマンや録音係をつれて日本へロケに行くといつも体験することだが、
シナリオを書き演出する日本人の私は立入禁止を言い渡される国宝や重要文化財の建物の中
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に、カメラマンである白人は丁重に招き入れられるし、企業や官庁からの土産品はカメラマ
ンたちに渡されるのであって、日本人の私は「ちょっと、その通訳さん」くらいに扱われるの
が常である。別に土産品が欲しいと言っているのではない。同じ仕事に来ている者を白人だ
からというので区別し、白人にはなるべく良い印象を与えて帰ってもらおうと特別の配慮を
するところが日本独特だと言うわけである。これはヨーロッパではあり得ないことで、自国
の女性が数人の日本人をつれてくれば、まず日本人を外に立たせて自国の女性とことを運ぶ。
外国に住む日本人は日本人同士かたまって一つの閉ざされた社会を作り、土地の人々との
交流が少ないことは世界中に知られているが、これも他国人を逆の意味で別扱いしているわ
けで、彼等と日常つき合うのは気骨が折れるから馴れ合った日本人同士になってしまう。前
述の家主と社長の床板破損事件に見られるように、言葉の困難を越えて交流したにもかかわ
らず、思いがけない目に合って茫然自失している例も多い。だから触らぬ神に祟りなしで、
外国に住んでもなるべく土地の人々との深い親交を避け、肩のこらない気楽な、無難な日々
を過そうとする。
こうして外人を別扱いする一方、彼らの日本に関する見解には敏感で、割合素直にそれを
受け容れる。自国の歴史、特にその影の部分を知らないヨーロッパ人が「自由」だの「平等」だ
の「個人主義」だのというスローガンをふりまわして日欧文化の比較をしても、日本人は敢え
て反論することもなく受け容れる。
それは外人崇拝のためばかりではない。宗教戦争を体験しなかった幸せな日本人は、白黒
正邪決着のために生命を投げ出して戦う習性を持たず、ましてや言論の力で反対者をやり込
めなければ、自分が許せないという論争への厳しさを育てなかった。
それよりも日本の精神風土には、一種の根深い虚妄の意識があって、この意識が反論やそ
こから生ずる論争を、もういい加減のところで葬ってしまうように思う。がんがん必死にな
って論議してみたところでそれとは無関係に一切は過ぎてゆくという無常感が日本人の中に
あって、一つの見解に対し反論また反論を行なって納得のいくまで構造的に積み上げていく
知性の伝統を育てないように思う。
二十一章
相互理解の糸口
史実の裏側を直視してつき合う国――ヨーロッパ
宇宙時代の今日地球は小さくなり、そこに住む民族は情報網によってつながれ、お互いの
喜怒哀楽もその原因も即刻わかるようになった。だからといって理解に根ざした信頼や友情
が世界に充ち、各国が仲よくやっていくように人類そのものが変化したわけではない。一旦
利害関係が生じ安全が脅かされるようになれば、わかってくれていたはずの友人も友人では
なくなるのが世の常である。
ましてや日欧関係のようにお互いがいまだによくわかっていない場合、経済的均衡が少し
傾くと即座にその微笑関係にひびがいく。ヨーロッパ人は日本人の驚くべき過去の歴史を知
らず、何でもただ神秘化しあるいは滑稽化し異国情緒をもって眺め、それに合う範囲でのみ
日本や日本人を受け容れてきた。日本人は一応西洋史を学び、主な史実を知ってはいるが、
日本との比較において展望する習慣がまだ育っていないために、どちらかというとヨーロッ
パを崇拝し、史実の裏側を直視するまでに到らなかった。これは危険なことである。一度利
害関係がこじれ始めるともともとよくわかっていなかったためにお互いに背負い投げを食わ
された気持ちになる。そして非難排斥が始まり、どうせ「奴ら」にはわかるはずがないという
敵意に変わっていく。
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はばか
だからこの本は日欧関係の最初から現在に到るまでのお互いの強さと弱さ、光と影を憚る
ことなく見つめてきた。その際ヨーロッパ人の多くが気のついていないヨーロッパの影の部
分を私は強調してきた。別にヨーロッパに怨みがあるわけではない。ヨーロッパは私の第二
の故郷であり私の仕事を真剣に支えてくれる読者が各国に数え切れないほど住んでいる。ま
た、お互いの悩みを語り合い、心を許し合った友達もずいぶんいる。お世話になった人々も
多い。素晴らしい思い出を綴れば限りない絵巻となろう。ただ、そういった私情とは別に、
ヨーロッパの影の部分をはっきりさせておかないと光の美しさがわからない。貧弱な自然と
無防備の地形と残酷な宗教にもかかわらず、それを克服して近代を生み出したヨーロッパの
偉大さが本当にはわからない。
積極的で寛容性があり前向きな国――アメリカ
ヨーロッパを問題にする時、当然出てくるのがアメリカである。ヨーロッパ人はアメリカ
を自分たちの分家だと思っており、それも人生経験の浅い分家で、科学技術は進んでいるら
しいが精神的深みも重厚さもない国で、金持ちというだけがとりえだと思っている。ヨーロ
ッパからアメリカに行くと言っても誰も尊敬しない。確かにアメリカは二百年そこそこの歴
史しか持たず、ヨーロッパで食べていけないか、宗教、政治思想、人種の違いのために迫害
された者が移り来たった国である。各都市の美術館にはヨーロッパの絵画彫刻が溢れ、コン
サートホールにはヨーロッパの音楽が鳴り響き、図書館にはヨーロッパの古典が並び、学校
ではヨーロッパを無視して通ることはできない。
それにもかかわらずアメリカはヨーロッパとは土台からして違い、権力のあり方も人間の
扱い方も金銭や成功に対する感覚も大きく異なっている。たった二百年の歴史は逆に言えば、
古代や中世を持たないわけで、従って初めから、ヨーロッパ人が苦心して発達させた化学技
術の最新の部分を持ち込んできて社会を形成することができ、豊かな資源に恵まれ、貧困や
文盲に悩まされることも少なく、無限の可能性に向って前進できた。過去を捨て、政治や宗
教権力に脅かされない人生を始めるために移ってきた人々の国であるから、お互いに一種の
寛容性が存在した。自己主張の仕方もヨーロッパ人のようにその場その時に相手を叩きのめ
した上で自分を通すのではなく、自己の立場を一応はっきりさせつつ相手の立場にもなる。
妥協もする。負けて勝つ余裕もある。ただ利害関係が複雑になると弁護士を使う。人口に比
例した弁護士の数はヨーロッパをさらに上回る。
外国人を警戒したり疑惑不信の目で見ることは日常全くと言っていいほどない。それは国
として征服された体験がない上に、移民は一定の比率に従って今も世界中から受け容れてい
るので、あらゆる人種に慣れ、中西部の田舎でも人見知りをしない。道を歩いていると「アレ
ン街はどの辺かしら」と日本人の私に聞くのもふつうだし、図書館では隣りの人が英語のスペ
ルでも語義でも聞く。ドイツではドイツ語で書いた私のエッセイを高校の国語の教科書にの
せ、大学では私の小説をテキストに使っているが、これは文章そのものを充分に検討した結
果の処置であって、一外国人として道を歩いている時に私に何かをたずねた人はまだ一人も
いない。
アメリカ人の外来文化に対する態度もヨーロッパとはがらりと異なる。何でも大歓迎で、
それも理論から入らず気軽に自分でやってみる。そうしているうちに全く新しい把握の仕方
でアメリカ文化を創っていく。アメリカは世界の政治、経済、化学の中心であるばかりか、
現代絵画、建築、音楽、文学、演劇、映画、そしてあらゆる学問の中心地である。それは迷
わず何でもやってみる精神から出た行動力である。同時にアメリカの傾向は、犯罪の手口に
してもアルコールや麻薬中毒にしても何でも世界中に伝染する。
アメリカで重要なのは教会の役割である。ヨーロッパでは新旧キリスト教は国教として君
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臨し、教会は国民の税金で経営されているが、アメリカでは初めから宗教は国から切り離さ
れており、教会財政は信者の自発的寄附によっているから、教会に対しヨーロッパ人のよう
な嫌悪や怨恨の情を持っていない。教会から迫害された歴史的体験がないので、宗教はいい
ものだと思っている。大統領をはじめ庶民が「神の守りあれ」などという句を日常盛んに口に
するが、これがヨーロッパ人の神経に触れ、嘲笑の種になる。
最初の移民である英国の清教徒たちは神学を弄んだり天国を渇望して生きるのではなく、
現在を一所懸命生きること、実際に労働して生きることこそ神の意志であると信じていた。
労働を善とし、労働の結果としての金や名誉や成功を善として肯定する。おおっぴらに肯定
するのは卑しく下品なことだとは思わない。同じキリスト教でも聖書のどの句を強調するか
により人生観はがらりと変わる。ヨーロッパでは何百年にもわたり労働は神の与えた罰であ
るという創世記の個所が叩き込まれてきた。アダムとイブは神にさからって禁断の実を食べ
たので、働かなくてもよい楽園から追い出されることになり、神は田畑を呪い、「これからは
この呪われた田畑で手に汗して労働し食べていかねばならぬ」と言い渡した。だからヨーロッ
パ人はどうしても働くことを苦役と感じ、労働は神の呪いだという観念を背負っている。手
に汗して働くことは神の与えた罰であるから、何の心配もなく苦労もせず楽園を遊歩してい
る状態に戻りたいと心のどこかで渇望する。要するにそのようなエデンの園に生きることが
人生の理想であり、自分の全力を傾けて何かを生産すること創り出すこと、そのために苦労
し犠牲を払うことは理想ではない。それは必要に迫られてやることで、ゆとりができてくる
と楽園志向型となる。
アメリカ人はよく働きよく遊ぶ。競争が激しく、少しでも出世しようという意欲に充ちて
いる。長い休暇を一度に取る人は珍しい。その意味でアメリカは非常に前向きの国である。
今、ここに生きる姿勢の国――日本
日本は長い歴史を持ちながらアメリカに通じるところがある。前向きの姿勢、というより、
今、ここに生きる姿勢である。日本の神々は田畑を守り、種蒔きから刈り入れまで一所懸命
働いて生産に携わる人間を祝福する。日本の年中行事は神々を迎える正月に始まって、その
守りを願い感謝し、ますます健康で働けるように神々の祝福を待つ行事で一杯である。現在
ではそんなことを意識して年を送る人は少なくなった。しかし、今でも日本人は元気で働け
るのは有難いことだと思うし、年寄りで身体が不自由でもないのに遊んでくらすというのは
理想ではない。何か一つの任務なり使命なり役割のない人生はつまらないと思う。打ち込め
る自分の仕事を持つ人は幸せだといわれる。そうして今、ここに生き、死んでも生きている
者の近くに帰ってくる。日本人はこの世中心である。
昔、私は子供の頃、勉強部屋の窓からいつも京都の町を見渡し、空想に耽った。町の向う
に聳える比叡山に登ればきっと世界が見えるにちがいないと思っていた。山頂につれていっ
て欲しいと父にせがんだ。
父は私をおんぶして広い境内の砂利の上を歩いていった。松の香りが充ちていた。
木影を踏んでさくさくと父は歩いていった。
いつしか頂上に辿りついて、父と私は世界を見ていた。遥かな国々の白い波打ち際が月光
の下に広がっていた。
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村上直次郎訳 柳谷武夫編輯 イエズス会日本年報上下 東京 1969
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■著者紹介
松原久子(まつばら・ひさこ)
京都市出身。1958 年国際キリスト教大学人文科卒業後、
ペンシルヴァニア大学修士課程修了。
西独ゲッティンゲン大学にてヨーロッパ文化史専攻。1970 年日欧比較文化史において博士号
取得。ドイツペンクラブ会員になり現在にいたる。本書の原著「WEGZU JAPAN」(日本への
道)は 25 年間の海外生活と比較文化史を基礎にした日本人論、1983 年秋に西独で出版された。
日本の知恵 ヨーロッパの知恵
1985 年 2 月 25 日=第1冊発行
著者=松原久子
発行者=押鐘冨士雄
発行所=株式会社三笠書房
ISBN4-8379-1266-4-C0095
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