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平成20年度
広場のあしあと
せっつ・スクール広場協議会
国語部会
算数・数学部会
平成20年度
広場のあしあと
せっつ・スクール広場協議会
国 語 部 会 講師 大阪教育大学 住田 勝 准教授
算数・数学部会 講師 京都産業大学 牛瀧 文宏 准教授
国語部会
1
2
3
4
算数・数学部会
5月23日
今年度のプロット概論
(金)
「ごんぎつね」を題材に
7月30日
小学校教材を構造的に読む
(水)
「注文の多い料理店」
8月22日
中学校教材を構造的に読む
(金)
「猫」
9月26日
(金)
1
2
3
構造的読みを促す主要発問を考える
(中学校編)
4
「走れメロス」
5月30日
摂津型小中連携教育の
(金)
推進と算数・数学
7月18日
「つなぐ」ための教材、問題、
指導方法を考える
(金)
8月22日
①
「つなぐ」ための教材、問題、
指導方法を考える
(金)
9月26日
(金)
②
活用力について考える
「全国学力・学習状況調査」を
使って
構造的読みを促す主要発問を考える
5
10月29日
(小学校編)
(水)
「注文の多い料理店」
5
10月24日
新学習指導要領解説
(金)
「算数編」「数学編」から
研究授業に向けて
■平成20年度せっつ・スクール広場協議会メンバー
国 語 部 会:近藤拓哉・下野将志(味舌小)、萩原美穂(味生小)
樽見厚子・加納朋子・藤原光雄(三宅柳田小)
門田倫子(鳥飼西小)、本町有紀奈(鳥飼東小)
岡部寿子(第三中)、橋本知(第四中)
片山数馬(第五中)、荒木智雄・青島貴子(学校教育課)
算数・数学部会:一圓真由美・八木則子(味舌小)、鳴川仁美・原真由美(千里丘小)
山口峰子・森脇里佳・杉野正貴・関口麻子(摂津小)
山内綾子(三宅柳田小)、松原吉隆(鳥飼北小)
前川友美(第一中)、田角沙織(第二中)
井口かおり・竹盛照正(第四中)、若狭孝太郎・小原理乃(学校教育課)
24
◦摂津の教育のすがた
せ っ つ ・
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ル
広
国 語
部
会
第
1
回(H20.5.23)
場
協
議
会
「今年度のプロット概論」:「ごんぎつね」を題材に
作:新美南吉
配付資料
住田:どうもこんにちは。
まずは学習指導要領が改訂されました。まだ施行そのものは先
ですが、その先行きの事を思った時にこういうことを今年はや
ったほうがいいんじゃないかと思ったことを、いくつかの、今、
私が関心を持っている事、考えている問題意識と関連づけてお
話することで、「じゃあ、それに向かっていこうかな」という
ところをみなさんと共有できたらと思っています。
☆ 学習指導要領の改訂
⇒ 僕がスクール広場で話してきた「構造的な読み」に重なって
きた
住田:要はこうなんです。
新しい学習指導要領
去年のスクール広場でずっと喋ってきた「構造的にちゃんと
読もう!」「構造的に読む力の欠如がいろんなところに現れて
いるよ!」っていう話に乗ってきた。
学習指導要領の文言の中に、しっかりと入ってきた。
「構造を踏まえた読み」「構造を踏まえた作文」
「構造を踏まえたスピーチ」「構造を踏まえた話し言葉」
といった要素がすべてに。
さらに「自分で考えて、自分の考えをまとめて」というよう
な文言も。
例えば・・・、(新旧対照表をもとに)
①中学校学習指導要領。
中学校が実は顕著。中学校が顕著になれば、必然的に小学校
がそれに引きずられて変わっていく。
一番最初に目に入った〔第一学年の目標〕:
旧来の第一学年の目標(1)
「自分の考えを大切にし、目的や場面に応じて的確に話したり
聞いたりする能力を高めるとともに、話し言葉を大切にしよ
うとする態度を育てる。」
新指導要領:どっと分量増
(1)話すことで「目的や場面に応じ、日常生活にかかわるこ
となどについて…」
その次なんです⇒「構成を工夫して」という言葉が入りました。
当たり前なんですが、当たり前の文言が入った。
その下の作文・書くことに関するところに、同じように「構
成を考えて」という言葉が出てきた。
結局、「構成を考えて表現しよう」という、「言葉の構造をし
っかりコントロールする力」を中学校一年生の段階で求めてい
くということです。
②それに向かって、小学校がどういうふうに変わっていくのか。
例えば、高学年「第5学年及び第6学年」2「内容」C「読むこと」
「読むことの能力を育てるため、次の事項について指導する」
旧:ウ「登場人物の心情や場面についての描写など、優れた
叙述を味わいながら読むこと。」
新指導要領:分量増
エ「登場人物の相互関係や心情、場面についての描写をとらえ、
優れた叙述について自分の考えをまとめること。」
これは、一歩進んでると思うんです。
「これいい文章だな。ここがいいな。」と思いながら味わいま
しょう。
⇩
「各学年の目標及び内容」
摂津の教育のすがた◦
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国 語 部
会
第
1
回(H20.5.23)
それについて自分の考えをまとめさせようとしている。つ
まり、
「どこがいいのか」、「なぜいいのか」、「どういうところがい
いと言えるのか」ということを叙述に即して、表現に即して、
あるいは人物の相互関係に即して、子供たちが自分の考えを
まとめるようにしましょうねって書いてあります。
この「自分の」、「自分の考えを」、「自分で意見を」というよ
うな文言、かなり大事なところに肝のようにポンポンと入って
きた。
主体的に自分の頭で考えて、自分で判断し、その根拠となる
ものは作品の表現である。
↓
「作品の表現がこうなっているから、だから僕はこういうふう
に考えるという論証」
を、それぞれの子供たちに求めていくというスタンスが明確
になった。
国語教育において、今まで一生懸命、自分なりに実践を積み
重ねて意識的にやってきた先生が誰でもやってることではあ
る。
「根拠をあげて、どこにその理由があるの?」「それをちゃん
と挙げて、あなたはそれについてどう思うの?」ということを
子供たちに求めていくというのは、別に特別なことじゃなくて、
やらなきゃいけないこと。なんだけど、学指導要領の文言にあ
まり明確に書いてなかったというのが実情かもしれない。
だから、そうしなければなかなか言葉の力が伸びないという
実態に即して、学習指導要領の文言がやっと追いついたという
ふうに考えるのがいいのかなと今の所思っています。
このように学習指導要領が新たに踏み込んだところが、実は
ここに出てきた構造的に読むということが核になったことだと
思う。
「構造をちゃんと捉える力というものがベースにならなければ
自分の考えはまとめられない」わけだから、
↓
「自分の考えをまとめるということは、その根拠となるものを
掴むことができる」ということになる。
その根拠となるものをどう扱うか
作品の中にある、「構造」、「仕組み」、「仕掛け」というものを
捉えて、それを子供たちが発見して「おっ!」と思っていく
瞬間を、授業の中でどうやって作っていくかという課題に。
③その上に底上げされた中学校
例えば、取り立てられた言語活動の具体例:
中学校三年生あたりだと「自分で小説や評論文を取り上げて
批評する」なんて事が。
∥
「義務教育の終着点」
「批評」などという言葉が中学校の学習指導要領が出てきた
りするんです。どうするんだろう(笑)
批評と言っても、
「僕はこれを読みました。これはこういう
点でこうだと思います。」というようなことを言っていくんだ
と思いますけども。子供たちが主体的にテクスト、物語や説明
文と関わりを持ちながら、それについて自分の考えを論理的に
かっちりと表明していくように義務教育の終着点は作られてい
くようになってくる。
④小学校教師の自覚
一番の印象は、
26
場
協
議
会
中学校がかなり高度化されている。
↓
それにあわせて小学校の中で、そこにつながるように底上げ
が少しずつしてある
↓
そこに一種の段差のようなものが一瞬生まれる。
(前の教科書でしか小学校時代を過ごしていない子供たちが中
学校に新しい学習指導要領で学ぼうとする過渡期の何年間か
が一番しんどくなる。それは一瞬なので是正されるが、)
↓
そのために小学校の先生がその事を意識して、新しい学習指
導要領の過渡期に向けて、ぐっと底上げするようにやってい
く必要があるんじゃないか。
つまり、構造的読解力というものについて、自覚的に、取り
組んでいくことが必要になるだろうというのが僕の考えです。
☆「構造的に読む」:「ごんぎつね」を例に
住田:抽象的な話ばかりしててもだめなので、今日は具体的に、
おなじみ「ごんぎつね」で。
これまで私がよくどこかでいっぱい書いている部分を使いなが
ら、ちょっとそれから僕もいろいろ考えを変えたり考え直した
りしてきましたので、そういうものを使いながらお話していこ
うかなと思います。まず、・・・
1.「なる力」と「見る力」
構造的に物語や説明文における読解力を、次の4つのフェー
ズ(段階)で捉えてみましょうというモデルなんです。
《今日、僕がお配りした資料》
一つは、「書いてある事がわかる」という力ですね。
Ⅰの領域:「内容を読み取る力」
=「近づく力」(読者が接近していく力)→同化体験
登場人物に「なる」力
書いてある事がわからなかったら困りますよね。だけどこう
いう言い方をしてみようかと思うのですが、書いてある事がわ
かるっていうのはテキストや説明文、文学作品というものに対
して「読者が接近していく力」だろうと。だからそこに「近づ
く読み」って書きました。だからもう、内容を読む力と書かず
に僕はこれ以降、「近づく力」と書きます。
つまり、近づかなければ読めないわけですよね。近づいて物
語や説明文の世界にぐっと接近していかなかったら、読めない
わけです。つまり、物語や説明文は自分のリアルなものに、自
分にとって切実なものにならなければ読むっていう営みは起こ
ってこないんですね。
だから、子供たちをどうやって世界に近づけるか。あるいは
子供たちは何とかして物語に近づこうとする。それが物語を楽
しむために必要な力ですよね。
つまり、「ごんぎつね」を読んだ時に、あたかも自分がごん
ひょうじゅう
になったかのような気持ちになって兵十と出会い、兵十との間
に交流が生まれるという、うなぎをとってきてしまうというこ
のドラマを、「わが事のようにハラハラドキドキしながら過ご
すという時間が持てるかどうかっていう力」があります。
この近づく力と対をなすようにⅡの領域。
Ⅱの領域:「構造を読む力」
=「距離を取る力」(読者が接近していく力)→異化体験
登場人物や構造を「みる」力
私はこれを「距離を取る力」、これがいわゆるⅡ「構造を読む」
ということなんです。
わざと言葉を選んだんですが、反対の方向向いてますよね。
接近することと距離を置くこと。こういうイメージで追ってほ
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国 語
部
会
第
1
回(H20.5.23)
しいのですが、自分がある世界に入り込んで、あたかもごんに
なったかのような気持ちになって、ごんが経験する事をわが事
のように感じているという状態はすごい接近してますよね、物
語について。でもその世界がどんな作りになっているのかって
いうのは接近しすぎると見えないわけです。だから、それはど
んな世界かというのを見るためには、いったん距離を置かない
とだめなんです。
絵と一緒です。部分に入り込んで部分の事を「わぁ」と思っ
てたら、全体が見えなくなる。そのときは距離をとればいいん
です。はいじゃあ、下がって下がって、距離をとって全体の印
象を見てみましょう。そしたら見えてくる関係が。これとこれ
はこんなふうに支えあっている。これとこれはこんなふうに背
きあっている。これとこれはこういう繋がりがでているってい
うことがわかるかもしれません。
Ⅰ「なる」力(近づく力) 逆方向だが、
関わり合っている
Ⅱ「みる」力(距離を取る力)
近づくことと距離を取るってことというのは反対の営みで
す。物語に接近して入り込んでわが事のように感じることなん
です。従来それを、僕は誤解されるとあれなんですが、その純
粋同化体験と読めるかどうかわかりませんけども、国語教育の
世界では同化体験を目指す読みというふうに言われたこともあ
ります。つまり、入り込んで同化する。もうシンプルに動詞の「な
る」という言葉で言うんですけども。「なる力」を育てましょう。
これ人物に寄り添うときに一番わかりやすいことですね。ごん
ぎつねになってみましょう。ごんぎつねなれるのはどうしてか
というと、ごんぎつねのすぐそばに近づいていって接近してい
くから。別に人物になるだけじゃないですよね。その世界のリ
アリティ。「あぁ、なんか川が流れてる音が聞こえてきた。雨
がざぁざぁ降ってる音も聞こえてきた。」全部の感覚、どんな色、
どんな世界、どんな幅の川というのをイメージできるというの
も近づかないとわからないことですね。
でも、川を挟んで兵十とごんというものがどんなふうな関係
を結んでいるのかというのは、ここからちょっと距離をとって
みないとわからん。ごんになりきってたら見えない事がいっぱ
いあります。それが「距離をとる力」です。異化体験というの
はそれを、それから距離をとって自分としてそれを眺める。自
分として眺めたときに見えてくる。だからこれを「見る」とい
います。「見る」という一つの動詞で書いたりします。
僕はね、僕の言葉ですよ。「なる力」と「見る力」
、二つの力
があるだろうと。そして重要なのは「なる力」と「見る力」が
関わりあってるということです。僕が最近よく書くのはこんな
矢印でこれがぐるぐる回る感じです。「なる力」と「見る力」
はぐるぐる回ってるんじゃないのかなと。
場
協
議
会
「穴の中にしゃがんでいるごんは、しゃがんでいるんだけど、
どんな気持ちかな?ごんの気持ちをちょっと考えて発表して
みてください。」
という発問で切り込むとします。それがいい切り込みかは別で
すよ。でもよくなされていると思います。
そうすると子供たちは、しゃがんでいるごんに近づいていっ
て、それを僕は「近づく」と言います。そう言われることで、
ごんの立場に近づこうとして、「ごんはこんな気持ちだと思う。
雨が早くあがらないかなあ思っていると思う。外に出たいなあ
と思っている。」ということを言うかもしれない。もっと上手
に「村に出かけて行っていたずらがしたいと思っている。」とか、
「それができないからすごくつらくなっている。」とか、深い事
をいう子もいるかもしれません。
「さあ、しゃがんでいるごんの気持ちを、ごんになって語っ
てみてください。」という、たったそれだけの発問で子供たち
がすっと近づいて、それを見事にやってのけるというシーンは、
小学校のクラスにあると思います。
でもね、それは全員じゃないと思うんです。できない子もい
ると思うんです。だってそれは、子供たちに大変なことを課し
ているからです。
ごんじゃないのになんでごんになれるんですか? ごんでも
ないのになんでごんの気持ちがわかるんですか?
ですよね。他人の気持ちなんかわからないですよね。わかっ
た気になっているだけですよね。
でもそれはわかった気になって、「これはこうだと思います」
って言えたら、それはそれでいいんですけども。正直にわから
ん。「ごんの気持ちわからん」というのもひとつの反応だと思
うんです。
入れない子もいます。入れる子もいます。入れない子をどう
やって近づけるかというのが、少なくとも小学校における物語
教材を読む上では、かなり大きなハードルになります。
どうするか?
「そんなな、ごんの立場にまだ君は立ててないから、もっとご
んになりなさい。ごんの立場に立って!はい、ごんになって!
3回ぐらいずっと思い浮かべて!」
こんな呪文を子供に投げかけてもたぶん、いつまでたっても
ごんとの距離は縮まらないですよね。
つまり、ごんは自分じゃないわけですから。では、どうする
かなんです。近づくために近づけようとしてもだめだっていう
ことは、「もっと近づいてごらん。まだ君、距離があるからも
っと近づかなきゃだめだよ。」でも、どうやって近づいたらい
いかわからないから、近づけないんですよね。だって、ごんは
僕じゃない。
2.具体例①:「ごんの気持ちになるためには」
「ある秋の事でした。二・三日雨がふり続いたその間、ごんは
外へも出られなくて、あなの中にしゃがんでいました。」
「ぐるぐるまわる」ってどういうことか、ちょっと具体的な
ことを話しながら。
例えばですね、どこがいいかな。第一段落④「ある秋の事で
した」ここからいきましょうか。
「二・三日雨がふり続いたその間、ごんは外へも出られなくて、
あなの中にしゃがんでいました。」という表現を子供たちが読
むとします。小学校4年生が読みます。
これを読むときに子供たちに、例えばこんなふうに切り込み
ましょうか。
摂津の教育のすがた◦
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国 語 部
会
第
1
回(H20.5.23)
どうしたらいいか?「あえて距離をとってみないか」という
話です。
つまりそれは、行動に着眼をさせるから、もっと近づけない
ということ。
たとえば、こういう切り口はどうでしょう。
「ごんってどんな人物?この物語の中でごんはどんな人物とし
て描かれていますか?ということを、第一場面を読んだ範囲
で考えてみて。」
これは、実は今の発問をする前に子供たちはやってる事だと
思うんです。「その中山から、少し離れた山の中に」というこ
こに、実はごんぎつねの「人物設定」が述べてある。
例えば、近づけない子供たちが、あえて近づくためには距離
をとるために、ごんの人物設定とか、
「ごんってどんな人?この発問で調べて。ごんがどんなふうな
人物として設定されているか調べて。」
これはごんになる必要がないんです。ごんの人物としての要
素がどのように仕組まれているかということを、確認するため
の問いです。
そしたら、子供たちは何を探すであろうか。ごんの人物、ど
んな人物設定になってるか。設定と言う言葉は使わなくてもい
いですよ。
「ごんはどんな人物として描かれていますか?」そ
うすると「その中山から少し離れた山の中にごんぎつねという
きつねがいました。ごんはひとりぼっちの小ぎつねで…」と読
み始めながら子供たちは探していきます。
いろいろ出ると思うんです。なかなか力の弱い子は、全部べ
たっとここを線引いていくと思うんです。全部が設定だから。
「その中で一番大事な言葉は何やろう?」
という、やっぱりそれはぎゅっと絞り込んでいきたい。煮詰
めていきたいんです。「一番大事なのは何?」「なぜそれが大事
なの?」そこは、甘くしちゃだめだと思うんです。全部がいい
ではなくて、「全部大事なんだけど、中でも大事なのは何か?」
とやっていくと、たぶん煮詰まっていくと、
「ひとりぼっちの
小ぎつね」が残るやろう。
「ひとりぼっちの小ぎつね」という設定、大事ですよね。
「おれと同じひとりぼっちの兵十か。」『ひとりぼっち』とい
うのがキーワードになります。ひとりぼっちのごんぎつねが、
兵十もおれと同じひとりぼっちになった、もしかしたら、兵十
がひとりぼっちになったのは自分がうなぎを取ってきてしまっ
たからじゃないのか、というようなことも含めて、兵十をひと
かせ
りぼっちにしてしまったことが、ひとつの枷になり、十字架と
なって、ごんの言わば連綿と続く償いの日々が始まるわけです。
だから「ひとりぼっち」というキーワードは、この物語のプ
ロットの中に絶対出てくる、大事な柱になってくる概念だった
りします。
という意味で、これ出てくるだろう。だって、小ぎつね、小
さいきつね。どういうことやろう?まだ未熟な、完成されてい
ないこぎつねが、なんでひとりぼっちなんやろう?お父さんど
うしたんやろう?お母さんどうしたんやろう?というひとつの
関係が出てきます。
もうひとつは、
協
議
会
もそれは、べたっと横にパラレルに置くんじゃなくて、
「これ
どう関係するの?」って聞きたいわけです。
子供たちに、ごんという人物の設定を、僕だったらそんなふ
うにかなり強引にひっぱってでも作っていきます。
これ実際、僕、授業を見たんですが、子供の中ではすっと繋
がらないんですよ。意見が二つに分かれるんです。
「ごんはひとりぼっちの小ぎつねやから、さびしかったんや。」
「きっとさびしい存在なんや。」こういう可哀想な人なんやと
思う子と
↕
「いたずらばかりしました」で、「夜でも昼でもこんなことし
てるやん。いたずら好きの悪いやつやねん。」と言う子の、二
つに分かれるんですよ。
でも分かれたらおもしろいと思うんですよね。その授業でね。
ほんまにどっちやろうという議論しながら、
「これとこれってどう関係するんやろうか?」
「【ひとりぼっち】
と、ひとりぼっちの【いたずら】って、関係するんやろうか?」
というようなことを議論しながら、「これは関係するの?ど
う?」ということをディスカッションする中で、子供たちは気
づいていきます。
「ひとりぼっちであるということが、いたずらの原因ちゃう
か。」「さびしいから、かまってほしくていたずらするんじゃ
ないか。」
というようなことに授業は練り上げていく事ができるんです
ね。
例えばこれは、あくまでこの物語の中で設定されているごん
ぎつねについて語られた言葉を手がかりに、ごんという人物設
定をみんなで確認していく作業です。これは絶対確認しておき
たいんです。ある程度の範囲でぎゅっと立ち上げておきたい。
立体的に。
そして、さっきの質問戻りましょうか。「ごんは、このしゃ
がんでいる穴の中でどんな気持ちになっていると思う?」
この人物設定がなぜ必要か?それはごんがどんな立ち位置に
いるのかをはっきりさせるってことです。
「ごんがどんな背景を持ち、どんな立ち位置にあり、どんな苦
悩を抱えた存在として、この物語の出発点にいるのか」とい
うことを確認しておかないと、ごんがどんな気持ちでしゃが
んでいるか答えられないはずなんです。
それをすっと答えられるような子も出てくるよ、「いたずら
しにいきたいけど行けないからつらい。」ってすっと言える子
もいるよと言いましたけど、それができるわけです。これがち
ゃんと読めるから、すっと読めるから、意識しなくても読める
子はいる。
だからといってそれは全員のものではないということです。
「いたすらばかりしました」っていうのに線を引けたらいいな
と思うんですね。
「どんないたずら?」って聞いた時に、
「こんなの、こんなの、
こんなの」ってあがっていけばいいんで、その具体例を除いた、
いたずらばかりしましたというのが、子供たち発見できたらお
もしろいなと思うんです。
それを黒板に書いていきますよね。いろいろ書いていく。で
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場
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国 語
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会
第
1
回(H20.5.23)
その作品の「構造としての人物設定」というのをいったん
全員で確認、全員というか、特に力の弱い子は確認した上で、
「さあ、そのようなごんが、二・三日雨が降り続いたその間、
外へも出られなくて穴の中でしゃがんでいました。どんな気
持ちやろうなぁ?」ってやったら、言える言葉が増えるんじ
ゃないですか?ごんに近づく方法を持ったんじゃないです
か?
ごんに近づくとは、ごんがどのような苦悩をかかえた存在な
のかという事を物語の設定として知るというだけでもかなり変
わってくるんです。
「こんな人やから、きっと、うずうずしてる。」「いたずらがで
きないから、なによりも辛いはずや。」「きっとさびしさが募
ってるんじゃないか。」
というようなことを言いながら、子供たちは色んな話を知っ
ていくような気がします。つまり、
わ~っと近づけるために、一旦、人物設定をはっきりさせよ
うと距離を取ってみる。距離を取って、改めてごんはどんな
気持ちやろうと聞いてみる。
授業のプロセスでこれをしっかり押さえた上でその発問をす
ればいいんですよ。
あえて今それを分けるために別々にしてみたんですけど、普
通はこれをおさえておいて、「どんな気持ちやろうな?」困っ
ている子に、「ごんってどんな人物だったっけ?さっき、前の
時間にやったけど。」って。振り返らせるわけです。そしたら「あ
っ!そうか。ごんはきっと何かいたずらしたいって思っている
はずだから…」というふうに入っていくことができます。
3.具体例②:「も」の意味を探る
もう一つ、これは僕のおなじみの方法なんですが、
「ごんは外へも出られなくて」
↓
「外へ出られなくて」と、「外へも出られなくて」は、どう違
うの?
っていう。
摂津デビュー作なんですけどね、これ。私が外でこのことを
言った最初が摂津市でもあったんですが。外へも出られなくて、
「も」があるのとないのとではどう違う?
例えば、
「この表現比べてみようか。」=これもひとつの、距
離をとる状態ですよね。
ちょっと離れてみる。
「『も』っていう言葉の使い方に注目してみよう」というの
をやれば、
↓
子供たちはさらに言葉を費やすでしょうね。
これを説明するためには、「外へも」と「外へ」は、比べる
とこんなことがわかってくるという話をしてる時に、子供た
ちはさまざまにごんの気持ちを語っちゃうわけです。
↓
「外へも出られないってことは、ましてや村になんか出かけら
れない」ということなんです。
「あぁ村に出かけて行きたいのに外にも出られないや、辛いな
ぁ。」っていうふうに言うかもしれない。あぁなるほど。
↓
外にも、外にすら出られないんだから、「せめて外に出たいの
になぁ。」「新鮮な空気外で吸えたらいいのに、もう、この何
か二・三日の自分の体臭で充満したじめじめした穴の中嫌や
わぁ、と思ってるかもしれない。」
⇩
場
協
議
会
それは「ここ、こんな表現になってるな、なんでやろう」
という構造への着眼を一個ポンと投げかけることで、距離を
とらせることで、
↓
「こんな気持ちがそこにはにじみ出てる」、「この文はこんなふ
うに読める」というところに、
∥
ごんという人物アプローチするための道筋、手立てをまたひ
とつ与えることになるわけです。
実は、そういうことなんじゃないのかというのが、僕の仮説。
☆教師が背中を押す・ぐるぐる回す
そういうことってなんだ?
授業とは、近づけるために距離を取らせることなんです。
ずっと距離を取らせるわけです。距離を取ってみた時に見え
たものを手がかりにしてもういっぺん近づいてみる。「見えて
きた。ごんの気持ちが見えてきた。ごんの置かれた状況がも
っと見えてきた。物語の世界がくっきり見えてきた。」もっと
見るためにちょっと距離を取ってみる。
∥
「これとこれ、どういうことなのか?」
「これ、なんでこうなってるんやろうか?」
↓
実は「教師の働きかけるポイント」はこっちなんじゃないか。
これを子供が自然とやっていることもあるし、もちろん教師
が「じゃあごんになって考えてみて」という働きかけをするん
ですよ。するんだけど、それをそっちからでは突っ込みようが
ないわけです。「もっとごんなってごらん。もっと、がんばっ
て近づいてみようよ。」なんていう励ましは向いてないわけで
す、ごんじゃないんだから。でも、
「これはどういうことやろう?」
「なんでこうなってるんやろう?」
⇒ここが関与できるわけなんです。
ここに教師の切り込み口 =「これとこれ、比べて考えさせ
たら、絶対子供たち何かつかむぞ」という確信のある教材研
究があって、教材研究のポイントがまさに、子供たちの読み
を変えるであろう構造をちゃんと発見しておいて、それを子
供たちにポンと「これなんやろう?」と指差す事ができたら、
子供たちはより深い同化体験をしていくだろう、と。
∥
距離をとるためだけの構造ではないわけです。
「構造が見え
たからこそ、子供たちはより深く詳細に近づいていけるんだ」
というのが僕の理屈なんです。
それでこれを初めからできる子もいるわけです。「物語の仕
掛けはこうなってる。」「この言葉は前にもでてきたから、僕は
こう思います。」なんてことを2年生で言える子もいる。大半の
子は言えない。これができるというのはなかなか難しいと思う
んです。
で、僕がさっき言ったように、
これをするのは教師の仕事なんです。
教師が授業の中でポンと投げ込んで、いや、子供たちにとっ
て理解できない事言ったらだめですよね、子供たちの近づく力
を活性化するために有効であろうと判断できるものを、適宜、
いいタイミングで持ち込むことで子供たちがこの円運動を自在
にやっていく、その時の力を後押しをするのはこっちのポイン
トやと。こっちで背中を押してやることでぐるっと回れる。ま
た背中を押してやる事でぐるっと回れる。そんなイメージなん
ですよ。
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第
1
回(H20.5.23)
Ⅰ「近づく力」
教師が 背中押す
ぐるぐる
回す Ⅱ「距離を取る力」
たぶん、
2年生から3年生の半ばぐらいまでは、
「ここをかなり力強く押す」
教師が、子供たちが気づかないであろうさまざまな構造へ目
を向けさせるための、「背中を押す力」を強くしないといけな
いと思うんですよ。
で、だんだん4年生の終わりにかけて、つまりごんぎつねを
読むあたりにかけて、これを押す力が小さくても済むようにな
ったらいいなと思うんです。
そんなにうまくはいかないんですけどね。でも、子供たちが
物語を読む時の着眼すべき構造のあり方というものについての
感受性を持ってくる。例えば、「誰の目から見てるの?」とい
うことを確認しなくても、「今、ごんの目から見てるから」と
いうことを言えるようになる。そうして、「ここにも同じ言葉
が対比的にでてきた」「これとこれ比べてみよう」「比べて思っ
たこと言います」ということが言えるようになってくる。
理想形を今言っているので、現実的には色んなハードルがある
のをわかった上で言ってるんですけども、2年生からそういう
ことを先生が強く背中を押しながら、そのことによって豊かな
近づく読みの対比が成立している子供たちは、だんだんその背
中を押された、その押され方というのを内面化していくんじゃ
ないか。
例えば、さっき言ったように、
「も」がでてきたら絶対見逃
さない子供になってるんじゃないだろうか。「先生この「も」
はなんかあるよね」という事を言いながら、「僕はそれをこう
考えました」というようなことが一人でできるようになる。
ということは、
4年生の終わりに、
⇒ 理想的には高回転運動というか、近づいたり遠ざかったり
しながら、自分の読みをどんどん深めていく。構造を踏まえて、
自分の物語体験の内実を豊かにしていけるような読み方が、
一定のレベルでですよ、一定のレベルで自律的にできるよう
になるというのを目標にできないかなと思うんです。
これができたところで、ひとつの物語、説明文でも一緒なん
ですが、
「読む力の第一段階、基礎基本段階の完成」なんじゃないかな
と思うんです。
つまり、
「書かれている言葉を、物語の仕掛け仕組みに照らしながら、
意識しながら、それを根拠にしながら自分の読みを変容して
いく一定レベルの自律的な学力」
∥
「基礎基本」
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「ある秋のことでした」という言葉を聞いた時に、「あっ!先
生!こっから物語始まるんじゃね。」って言える子供って、4
年生の終わりにはほしくないですか?
∥
ここまでが「設定」なんやっていうのをわかることを期待し
ながら読める子供。
「ある秋のことでした」みたいな表現は、子供たちが読む教
科書教材の中でも何回も出てくる表現です。そこまでに物語の
基本設定が書いてあるわけです。「いつ」「誰が」「どこで」「ど
んな事をしたのか」、という物語を読む上で踏まえておかなけ
ればいけない基本的なことが書いてある。ここには、どこで、
「中
山という所」で「お城がある時代の話」、で、「ごんぎつねって
さびしさゆえにいたずらを犯してしまう、そういう背景を持っ
た人物だよ。」この3つぐらいのことを言ってあるわけです。
その3つは絶対おさえておかなあかんのです。
その3つをひとつの基本事項として持ちながら、
↓
「ある秋のことでした。」という幕が上がる瞬間を迎える
のがこの話の正しい読み方だと思うんです。
「ある秋のことでした」から始まっていく。「雨が上がるとご
んはほっとして穴から這い出ました。」というふうに入ります
ね。
5.具体例④「ほっとして」が2回出てくる! この一場面を読んでいる子供たちが、できたらですね「雨が
上がると、ごんは、ほっとしてあなからはい出ました。」とい
う幕開けを読んだときに、同じ第一場面の一番最後に、「ごん
はほっとして、うなぎの頭をかみくだき」っていう、『ごんは
ほっとして』というのが2回出てくることを絶対気づいてほし
かったりするわけですよね。
ひとつの場面にふたつ、同じ言葉が2回使われてあるという
ことは、
↓
絶対それは比べたり、つなげたりして考えなさいという作品
の構造ですよね!
考えなきゃいけないですよね絶対!
「ごんはほっとして、うなぎの頭を噛み砕きやっとはずし
て」。じゃあ、この「ほっとして」と「雨が上がると、ごんは
ほっとして」は似てるけど違う、全然違う。
⇒ということを議論できるような学力ほしくないですか?
というようなことです。
※「平成19年度摂津の教育のすがた」より
同じ言葉が出てきたら比べないと!【何が同じで、何が違う
か?】
うなぎ事件の始まりのところ
うなぎ事件の終わりところ
じめじめした穴の中の鬱々か とんだ災難と気持ち悪いぬる
らの解放感
ぬるからの解放感
なんじゃないかなと思うんです。
「いたずらするぞ!よ~し!」 ひどい目にあった(>_<)
わくわく!(^^)!
4.具体例③「ある秋のことでした。」=ここから物語の幕開け
じゃぁ、どんな構造がどの教材にどんなふうに出てくるか。
具体的な教材を取り上げなきゃ言えないわけですね。それは色
んなパターンがあり得るわけです。
でも、例えばですね。
それは、「ほっとして」が2回ある。その関係を考えてみよう
という構造を踏まえることで、この場面の中でごんが最初から
最後にむけて、場面の最初と最後にかけて、どんなふうに気持
ちを変化させていったのか、体験を変化させていったのかとい
う、ごんにより近づくための距離をとる読み方になるというこ
とですね。
それが一定レベル子供たちの中で自律的な運動としてできあ
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がっていくということを私はイメージして、今、お話をさして
もらいました。
これが第一段階。最初の円が、最初のループができあがるプ
ロセスだと思います。
配布資料のモデルを解体して別のものにしようとしてるんで
す。この資料の同心円モデルは古い、僕の中では古くてバージ
ョンアップしようと思って。で、この近づく力と距離を取る力
の間でひとつの円ができあがるような学力が四年生までにでき
たらいいなというイメージです。
6.中期:小5年~中1年 = ここから物語の幕開け さて、その次の話ですが、つまりこれは途中なんです。中学
校三年生までの話をしなきゃいけないので、四年生までの話を
しました。
いわゆる小中一貫9年間のカリキュラム活動の時によくある
パターンに倣って、四年生までをひと区切り、前期というふう
に捉えて、今、前期のところまでの話をしたんです。一年生か
ら四年生まで。五年・六年・中一を中期というふうに考えて、
中二・中三を後期というふうに考えるっていうのがあったんで
すが、今度の指導要領が、中学校が一年・二年・三年と分かれ
ましたので、一応そんな考えで。
さっきの図をもうちょっと違うものに書き換えます。
NEWバージョン
NEW
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ごんのことを見つめている自分がいるという、ないまぜの体験
をするってことが、西郷竹彦のいう共体験論なのですが。その
二重性というのをいきているわけです。あたりまえですけどね。
これを便宜的に書いているだけで、これは二重に起こっている
わけですよ。そういう体験を濃密にして「物語の世界の自分に
とってのリアル」と、「それがどう作られているのかが見える」
この二つのことが、子供の中であい矛盾するようで、協調して
いるっていう不思議な事が起こっていると思うんですね。「な
っている自分」と「見ている自分」の二つが統合されているわ
けですから、かなり複雑なことが起こっているはずなんですが。
さて、そうこうしているうちに、なかなか、例えばごんぎつ
ねを読んだときに、ごんぎつねの仕組みの凄さみたいなものに
気づき始めますよね。つまり、ごんの気持ちを探るために構造
を見ていた子供たちは、その構造そのものの、面白さ、巧みさ、
叙述の優れている点、工夫されている点に気づき、気づくに決
まってますよね。気づくように促していかなければならないん
ですけど、そういうことが起こってきます。
7.具体例⑤「うなぎ」と「いわし」
「第一場面」と「第三場面」は親戚
ちょっと具体的なことを。例えばなんですが、これは僕が前
から色んなところで喋ってるんで、先生方にもやっていただい
たことあるんですが。67ページ(東京書籍:第一場面中盤)。
ここらへんをやると面白いんですけどね。
「しばの根や、草の葉や、くさった木ぎれなどが、ごちゃご
ちゃ入っていましたが、でも…。」「が」「でも」二重逆説。こ
れとこの後のものが、ごんの中でものすごく、際立った対立を
もって認識されているということを表しますよね。そっちはご
ちゃごちゃ入ったごみなんですよね。それに対して所々白いも
のがきらきら光っている。きらきら光っているものはごんにと
ってもの凄い興味のある関心のあるものだ。「…きらきら光っ
ています。それは太いうなぎの腹や、大きなきすの腹でした。」
この「きらきら光っている」という言葉と、似たような言葉
がもう一箇所で出てきますよね?探して下さい。
ちょっと変な図なんですが、
「自分」と「作品」というもので、
円を描くことにしました。これが、
「私」が作品の世界に近づく、
作品から遠ざかって距離をとる。人物になる、人物を外から見
る。「自分と作品の対話」というモデルでいたいんです。さっ
き僕が説明した事と同じなんですが、こんな図で書いてみまし
た。近づいたり離れたり、近づいたり離れたりしながらできた
らいいね。これを自分の自律的な力でできるようになったらい
いね。これがさっきまでのモデルです。
四年生以降に子供たちが経験することって、実は、この外に
もうひとつの円ができるってことじゃないかなと思うんです。
この外側にできるのは、「作者」と「読者」の間をめぐるも
うひとつの、僕のそこにお配りしたモデルでいう第三、第四の
要因の間で、もうひとつ違うレベルの交流っていうか、円運動
みたいなものが生まれるというのをイメージしています。ちょ
っとその説明をしなければならないのですが。
どういうことかっていうと、内側の円で作品を見て、作品の
「あぁこんな仕組みになってる、だからごんはこんな気持ちな
んや。」「この作品、こういうふうになってる。」というふうに、
物語の中に読者がどっぷり入りつつ、入ってるシーンと離れて
るシーンというのが、段々区別なんかつかなくなるわけですよ
ね。人物になりつつ、ごんでありつつ、ごんでない自分がいる、
住田:下野さん後で聞くからね。君は復習ですからこれ。去年
喋ったことですからねっ!
下野:いや、わかりません。
住田:こ れ僕の定番のネタなので、何回かは喋りますけども、
下野さんが今覚えてない事に、本当にショックを受けて
います。(笑)
去年出てない人で、見つかったという人どうぞ手を挙げ
てください。早いもん勝ち。似たやつ探して下さい。
「き
らきら光っているきすの腹やうなぎの腹」これとよく似
た表現。よく似たですから、ぴったり一緒ではないです
よ。はいどうぞ。
藤原:
「ぴかぴか光る」ですか?
住田:ぴかぴか光る何ですか?それ。
藤原:いわし。
住田:いわしなんです。そうです。思い出した?
下野:いや、今ね、僕も同時ぐらいに見た。(一同爆笑)
住田:あっ、そうですか。同時ではなく、ちょっとでも遅れた
ら去年は何だったのかって話になりますもんね。よかっ
たです、同時で。辛うじて保たれました。
第三場面の「いわし売りは、いわしのかごを積んだ車を
道ばたに置いて、ぴかぴか光るいわしを両手でつかんで、
弥助のうちの中に持って入りました」のところです。
【きらきら光るうなぎ】⇔【ぴかぴか光るいわし】
これ僕、実際授業でやったんですね。去年2月にあるクラス
を借りて授業をさせてもらったんですよ。その時に「この『き
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らきら光るうなぎ』とよく似たとこ探して。」一生懸命探しだす。
その前の日にそのクラスの先生の六場面の研究授業があって、
その次の日に僕がそのまとめの授業を1時間やらせてもらった
中でやるので、もう六場面まで全部頭の中に入ってますから、
わーっと探しだして「見つけた!」ってなりますよね。
「見つ
けた!ほんまや似てるな。」【ぴかぴか光るいわし】【きらきら
光るうなぎ】これを並べて書いて板書して。「さあ、これはど
う繋がってるの?」って議論をしました。「これは、ごんの気
持ちを考えよう」とか、「兵十との関係がどう、まぁこれはち
ょっと関係ない」とか、ごんの気持ちだけをどう考えるかとい
う営みとはちょっと角度が違う営みです。でも、共通してるの
はごんが興味を持っているのは、ピカピカしてたりキラキラし
てたり、光っているわけです、とにかく。ごちゃごちゃしてた
りごみではないんです。ごんの目線のルールをちゃんとわかっ
ていくと、この二つが浮かび上がってきて。「何でこんな似た
表現があるんやろう」っていうような議論ができてきます。
そんなふうに考えると実はいろんなことがあって、例えば、
そのうなぎが出てきた後に、ごんは首にうなぎを巻きつけたま
ま穴に向かって駆け戻るわけですね。69ページ(第一場面の
最後のシーン)見てください。
この「ふり返る」という表現がいわしの後にも出てくるでし
ょ?(73ページ、第三場面中盤)
【うなぎ事件あと】
「ほらあなの近くの、はんのきの下で、ふり返ってみましたが、
兵十は追っかけてはきませんでした。」
↕
【いわし事件あと】
「とちゅうの坂の上でふり返ってみますと、兵十が、まだ、
・・・
小さく見えました。」
「ふり返る」という動詞はこの物語のなかで2回出てきます。
いわしの後と、うなぎの後です。
つまり、ウナギを首に巻きつけたまま逃げて、穴に戻って振
り返ったのと、ウナギを裏口から投げ込んだ後、途中の丘の上
で振り返る。2回ふり返ってます。じゃあこの「ふり返る」を
比べることができますね。「うなぎ」「いわし」「ぴかぴか」「き
らきら」「ふり返る」「ふり返る」。
もうちょっと言うと、びくを置いたままどっかいっちゃうん
ですよね、うなぎの時。だからうなぎを首に巻きつけるような
事件になっちゃった。いわし屋も、ぴかぴか光るいわしを置い
たままどっかに行くからいわし事件が起こっちゃうわけですよ
ね。
第一場面
第三場面
うなぎ事件
いわし事件
きらきら光るうなぎ ぴかぴか光るいわし
繰り返し
どちらもごんの興味
を惹きつけたもの
うなぎの入ったびく
いわしを道ばたに置 同じ
を置いておいたすき
いたすきに、さっと シチュエーション
に、さっと
ふり返る
いたずら
兵十を傷つけた
ふり返る
兵十
追いかけてこない
「うなぎ事件」のつ
ぐないに、「いわし
事件」を引き起こし、悲しい因果
さらに兵十を傷つけ
た
今、僕がいくつか拾いだしたやつを子供が丹念に拾い出すほ
どの時間がなかったのでそこまでしなかったんですが、丹念に
拾いだせば、
一場面と三場面が「うなぎ」と「いわし」を中心に、
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すごくよく似た言葉で、同じように作られているということに
気づけます。
気づいてほしいわけです。気づいたら「なんで似てるんやろ
う?」ってこと考えられますよ。「なんでこんなふうに似てる
ように作ったんやろ?」
「これなんかあるで!」と、例えば子
供が言い始めたら、たぶんそれは、この内側の円じゃなくなっ
てる。
「これなんかあるで、一場面と三場面こんなふうに似てるん
や。」「これなんの関係があるんやろう?」と思ったときに、そ
れはこのような仕組み=【ぴかぴか光るうなぎ】と【きらきら
光るいわし】という似たものを対比させることで、「なんかし
ようとしてるでこの人!」
この人が何してるかは結局わからんかもしれません。子供に
とってはなかなか難しくて辿り着けんかもしれんけど。「これ
なんかありそう」と思った瞬間に、「ごんの気持ちがわかる」
とか「兵十との関係が見える」以上のところで、「この人、何
か仕掛けてきてる」。間違いなく、その「きらきら」と「ぴか
ぴか」をそんなふうに対比的に置いたのは作者なわけですよね。
作者について読者は何も知らない。つまり、新美南吉が何者で
あるかを知る必要はないんです。何にも知らないけども、
「この人は、間違いなくこの言葉とこの言葉を重ねあわせるよ
うに、読者の中に響きあうように置いたんや!」ってことを
発見したときに、
↓
「何でこんなことしたんやろ?」「これってどんな意味がある
んやろ?」っていう発想を、子供たちが授業の中でしたとし
たら、
∥
それは間違いなくこの「外側の円」なんです。
「読者」として「作者」の表現を意味づけようとする営みなん
です。
答えは出ないですよ、たぶん。僕の授業でも子供はなかなか
苦労して、
「じゃ、くらべてみよう。何が一緒?」「どっちも魚」
「ほんまやな、魚やな。何が違う?」「魚の種類が違う」「そう
やな…」
これどうしようと思いながら、僕は困るわけですね。「魚の種
類は確かに違うけど。なんやろ?なんやろ?」こんなふうに言
ってたんですね。「これって、ごんにとってどう違うん?」「ご
んにとってうなぎはどういう存在?」「ごんにとっていわしは
どういう存在?」って言ったら見えてくる。
それは「いたずらの場面」と「つぐないの場面」というふた
つのこの物語の中のキーワードと結びついた表現と対になるよ
うな、対比的になるようにやってるんだというところを、子供
はなるほどと気づけるようなレベルで言葉を引っ張り出せたん
ですけど。そう思いながら、苦労しながらなんですけど。その
セッションって、まとめだからできるんですよ。その途中途中
でやるのは難しいかもしれないんですが。こうやって作品の中
の人物や気持ちや状況を詳しく知って、「おぉすごい」、そのた
めに構造をやろうって、こういうところで使ってもいいですが、
それとは違う角度の発問ですね。もうひとつってどういう意味
があるんやろう。
8.具体例⑥:「第二場面」と「第四&第五場面」も親戚
巧みな「第二場面」➡ まず3つに分けてみると
そんな取り組みはいっぱいできて。例えばですね、こんなふ
うに考えると一場面と三場面が親戚の場面だってことがわかり
ますね。似てるんです。
「似たもの同士を探そう」ってことになれば、例えば二場面
ってなんだろう?二の場面っていうのは、一の場面と違うこと
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があります。それはごんがほとんど何もしないっていうことで
す。一の場面はうなぎを首に巻きつけて兵十のところにいたず
らひっかけて、うなぎ事件っていう、兵十に対する働きかけの
場面ですね。三場面はその償いのためにいわしを投げ込む、く
りや松つたけを持って行くという償いを一生懸命やります。つ
まり、いろんなことをします。
だけど二場面は何もせんのです。何もしないっていうか、見
て動き回るけども兵十に対しては何も働きかけない場面です。
二場面って、実は自分がやったいたずらの結果を知る場面なん
ですよね。二場面は、非常に巧みにつくってあります。二場面
はひとつの場面だけど、3つの場面に分ける事ができます。子
どもには絶対3つに分けさしておきたいのです。分けとかない
けません。
「十日ほどたって」時間の表現があって、「ごんが、弥助とい
うおひゃくしょうのうちのうらを通りかかりますと」っていう
場所があります。「時」と「場所」っていう始まりができます。
次はどこかっていうと、次のページの「お昼が過ぎると」これ
時間の言葉ですよね。「ごんは、村の墓地へ行って、六地蔵さ
んのかげにかくれていました」場所の表現。最後は「そのばん、
ごんはあなの中で考えました」時と場所。時と場所っていう節
目を設けると、時間でも分けれる、場所でも分けれる。つまり、
穴、墓地、村という3つの場所で。「十日ほどたって」「お昼が
過ぎると」「その晩」という3つの時間表現です。いずれもぴた
っと3つに分かれます。
もっというと、この3つの部分の最後は「兵十のうちのだれ
が死んだんだろう。」「ははん、死んだのは兵十のおっかぁだ。」
「ちょっ、あんないたずらをしなけりゃよかった。」っていう3
つのかぎカッコで終わってるんですね。「そう思いながら頭を
引っこめました。」もあるんですが、事実上ごんのつぶやきで
終わるんです。見事にこれ、3つの節目を際立たせるように作
ってあるんです。
そして最初のかたまりはごんが疑問を持つ場面ですよね。
「誰
が死んだんだろう?何が起こったんだろう?」2番目はその答
えを知る場面ですよね。問いを持ち、その答えを知って最後反
省する、思うんですよね。「あんなことしなけりゃよかった」。
※巧みに作ってある第二段落
時
場所
場面
つぶやき
① 十日ほどたって 弥助のうちのうら 疑問を持つ 「だれが」
② お昼が過ぎると 村の墓地
答えを知る 「ははん」
③ その晩
考える
あなの中
「ちょっ」
問いを持ち、答えを知り、考えるこの3つの部分からなった
場面があったとすれば、これの親戚をこの物語の中から探せる
わけです。二場面以外のところにこれと同じ構造のものがでて
きます。
それは四場面と五場面です。という話も復習なんですけども。
下野さん覚えてますか?
下野:
「はい。」
住田:それは覚えてたんですか。四場面と五場面見てください。
四場面はまさに兵十と加助の話を聞いて。「えっ、俺の話し
てる」「俺がやってることについてなんか言ってる」「えっ、続
き聞きたいな」問いを持つというのではおかしいですけども、
続きが聞きたい、もっと知りたいという気持ちが生まれて四場
面が終わるんですよね。
で、五場面は、「ごんはお念仏がすむまで井戸のそばにしゃ
がんでいました。」って書いてありますね。これは六地蔵さん
の影で隠れて待ってるのと同じですよね。
で、その答えを知るんですよね。加助に「神様だよ、神様に
お礼を言うがいいよ。」って言われて、「そうだとも」「うん」
ってそれを知った、兵十がどのように思ったかを知る場面。
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そして、その結果「ちぇっ」じゃないですね、
「へぇ、こい
つはつまらないな。」「おれがくりや松たけを持っていってやる
のに、そのおれにはお礼を言わないで、神様にお礼を言うんじ
ゃあ、おれは、引き合わないなあ。」ということを思うわけです。
ちょうど二場面がひとつの場面で持っていた要素を、四場面
と五場面に分けながら再現してるわけです。同じように。
だけども、つまりそういう意味ではここもごんは知って考え
る。
「疑問を持ち」「知って」「考える」ということをやってる
だけの場面で、兵十に対しては何もしていません。でもここは、
いわば三場面の償いに対して、その償いの結果をごんが受け止
めて考える場面ですね。一場面のいたずらの結果を知って、そ
れをもとに考えるのが二場面でした。それと同じ関係が、三と、
四と五の関係にあるということです。三という償いに対して、
四、五があるというふうに繰り返されてるわけです。つまり、
六場面からなるこのごんぎつねという物語が、五場面までふた
つの系統にきっちり分かれるわけです。「ごんが兵十に何かを
仕掛ける場面」、「その結果を知って反省をする場面」、2つに分
けれる。
※「平成19年度摂津の教育のすがた」より
きっちり「関係性」が作られているということ。
ということに、子どもがもしも気づくとすれば、なかなか難
しいんですが、すごいなと思いますよね。「わぁこんなふうに
作ってあるんだ」「なんでこんな似た場面がでてくるんやろ
う?」「なんで二場面と四、五場面は似た構成になってるんや
ろう?」っていうことを考える。
9.外 側のループ:「より責任のある、自律性のある私」という
ものが育っていくプロセス。
「なんでやろう?」と思ったときには、やっぱり作者の事を
考えてるわけです。
「作者がなんでこんなことしたんやろう?」と意識した時に、
⇒ 実は「読者としての自分」というのが出てくるんです。
それは、「こんなことを考えてる、こういうことを考えてい
るこの人が、何でこんなことをしてるんだろう?」ということ
を一生懸命考えながら読んでいるわけですよね。
つまりそれは、書き手として読んでいるわけです。
「作者として」読者が一生懸命読んでるわけです。
この「作者として読む」っていう、何かまたわけのわからん
ことを言ってるのですが、これって大事ですよね。
「スピーチ」の場合こういうことです。
⇒「聞き手として話す」ということです。
今の小学生のやるスピーチの中で最も欠けている能力。
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第
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回(H20.5.23)
「聞き手として話す」「聞いてる人のことを考えながら話す」
っていう選択肢を去年の学力テスト、六年生対象にやったやつ
だよ。日本全国であわせても2割ぐらいしか答えられてない。
ほとんどの小学生は、聞き手のことを考えながら話すというこ
とについて意識がないんです。小学校高学年で求められるスピ
ーチは、「相手がちゃんと自分の話を理解してるんかな?」と
いうことを意識しながら話すってこと。つまり、
「相手意識を
持ちながら表現できる」ってこと。
これを「作文」にしたら、
⇒「読者のことを考えながら書けるかどうか」です。
ひっくり返すと、
「読解」
⇒「作者の事を考えながら読めるかどうか」
小学校六年生の段階ではやっぱり求められるであろうなと。
作者の事を考えながら読者が一生懸命考える中で生まれてく
るのが、「読者と対峙する、読者と渡り合う、読んでいる私」
ってことになる。俺はこう読む。
「俺」というものが強く意識
されるのは、俺じゃないその向こう側にいて自分にものすごい
工夫された表現をぶつけてくる「作者」という誰かなんですよ
ね。見たこともない、会ったこともない、話なんかしたことも
ない。しかも、物語の向こう側にうっすらぼんやりと見えてく
るような誰かのことを思ったときに、初めて「私」ってものが
どんどん鍛えられていくわけです。もちろん繋がってるんです。
ここでいう内側の自分っていうものと全く別なわけじゃないけ
れども、
「より責任のある、自律性のある自分」ってものが、
「私」ってものが育っていくプロセス。
↓
作品の中に入って、
「俺はごんはこうだと思う、ああだと思
う」「ごんはこうしたらいいのに」という主体性が更に深まっ
て、
「こんな表現にはこんな意味がある」
「これはすごいと思う」
↓
ここがさっきの学習指導要領の話をした時のことにぴった
り重なりますよね。
「人物の相互関係や優れた表現を吟味して、
それを自分なりに考えをまとめる」ということで自分の考え
を述べることが出来るのです。
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がある。何でこうなっているのだろう?」と考える場を作るの
がこのライン。これを組織することで、
「これはこうに違いない」
という自分の意見が生まれてきます。
さっきは近づけるために遠ざかって行きましょうということ
だったのですが、子どもを作者に近づけるための発問。「なん
でこうなっているんや?」「ここにこんな秘密があるに違いな
いと思う」ということを語り始める授業。どっちに働きかける
かなんてどうでもいいのですが。そんなことが起こっていけば
良いなと思ってます。
10.具体例⑦:「第六場面」前段(イントロ)
物置からと母屋から
それで、具体的な話をしようと思うのですが、僕がさっき授
業したクラスがあったと言いましたが、その前の日にある研究
授業がありました。僕はその先生の授業を全部ビデオ撮りして、
学生にビデオ起こししようかなと思うくらい、この先生の「ご
んぎつね」の授業を見たいと思ったのですが、その研究授業は
六の場面を扱いました。だいたい研究授業は六の場面になるん
ですが。
「その明くる日もごんはくりを持って、兵十のうちに出かけ
ました。兵十は物置でなわをなっていました。それで、ごんは
うちのうら口から、こっそり中へ入りました。」というのは前
の時間にやっているのです。そういうふうにしてくださいと言
ったのです。
この前の時間のときに、ここを読んだ時に子どもはこんなふ
うに言うわけです。
「これは三場面の頭と反対になっています。」
という意見がもう出ています。三場面の頭に兵十の家に初めて
出かけていった時の絵があると思います。その時にどうなって
いるのかと言うと、72ページ。「おれと同じ一人ぼっちの兵十
か。こちらの物置の後ろから見ていたごんはそう思いました。」
兵十はどこにいますかね?井戸のところにいるわけですね。井
戸は二場面を読めば分かるのですが、「表に赤い井戸のある兵
十の家の前に来ました。」つまり、母屋の前に井戸はあるわけ
です。兵十が母屋にいて、それを物置の影から見ているという
構図が三場面の頭です。それに対して六場面の冒頭のところに
あるのは、その反対、兵十が物置にいて、母屋の側にごんがい
るという構図です。
⇩
それは作者のことを思わなければ絶対にできないことなの
です。
外側のループが、6年生の段階で子ども達に求められてい
くというのを、今、表したつもりです。
↓
つまり、
「読んでいる私を育てる、読者を育てる読解指導」で
ないとダメで、そこを目指すためにはどうしても内側の円が
4年生までに完成し、それをしながら少しずつ向こう側にい
る作者のことを子ども達にチャレンジさせていくような授業
が小学校高学年でいくつか仕組まれていくべきでしょう。
高学年にならないとやってはいけないという意味ではないで
すよ。もっと前からどんどんやればいいんですが、子ども達が
ああだこうだ言える様にかなり自分の力で評価できるようにな
るのが高学年ではないのかなと思うのです。
作者に近づくために、今度は逆なんです、(さっきの近づけ
るために遠ざかるというのとは逆に)
読者が作者に近づくために、
⇒「何でこんなことしたのだろう?」「こうなっているのは
なんでやろう?」という疑問を与えていく。
例えば、「一場面と三場面と同じようにピカピカとキラキラ
34
兵 十
ご ん
初めての償いのための訪問
母 屋
物 置
最後の 償いのための訪問
物 置
母 屋
このことを子どもはもう気付くわけです。そういうふうにな
っている作品の構造が分かるわけです。でも、4年生の3学期、
かなり鍛えられた、何も言わなくても自分で気付ける子ども達
なんだけど、授業記録を見ますと、
「ここは反対になっている
から、兵十とごんの立っている場所が逆になっているから重要
だと思います」と言うのです。つまり、こういう意味です。
「何
かあると思います」と言っているに等しいのです。「じゃあ何
があんの?何が重要なん?」と聞いてもその子は答えられない
んです、まだ。つまり、「モヤモヤ何かあるぞ。何かあるけど
こうだとは言えない」「それは何だ?」というのを取り上げて、
次の授業でみんなで考えることをやったんですけどね。
「これは償いの最初の日やな。くりや松たけを持っていった
償いが始まった最初の日の表現と、この日はなんや?六場面の
頭やな、償いの最後の日やんなあ。」例えば最初にそういうヒ
ントを与えた時に、子どもの中でグッと繋がってきたりします。
それ以上言葉にすると難しいのですが、最初と最後を違う形で
書いた、「新美南吉さんこれ考えてるやん」といような発想を、
子どもはその授業の中で持っていたのです。これ前段。
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11.具体例⑧:「第六場面」展開部Ⅰ 内側の円を回す
さて、その授業は、その次の表現からになります。
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一つの授業の中で、内側の円をキューッと固めていくシーン
と、これを外にポイッと跳ね飛ばして外でもう一段考えるシ
ーンが、ちゃんと構成されてた授業
ターニングポイント
「そのとき、兵十は、ふと顔を上げました。」
この時に、先生は冒頭でこう言います。
「このところで、視点のことで気付くことありますか?」
いうのが伏線になる授業なんです。そしたら子ども達はすぐ
に「視点が変わっている」と。正確には視覚が変わっているん
です、視点は語り手と一緒ですから。そんなことはこの場面で
はあまり重要じゃないんですが、
視覚がごんから兵十に変わっている。
↓
ということは、本日の「学習の目当て」
= 今までごんの気持ちを考えてきたけど、ここは視点が兵十
に変わっているから、「今日は、兵十の気持ちを考えないとあ
かんな」
といった、兵十に寄り添う学習が始まります。
その授業の中で見事に、
「『この前ウナギを盗みやがったあのごんぎつねめが』の【め】
が、あの第一場面の『盗人ぎつねめ』の【め】と一緒だから、
兵十はごんを、うなぎのことで恨んでいて、それがここに現
れていると思います。」
∥
作品の構造を踏まえて、兵十の気持ちに近づいていくという、
内側の円が見事に出来ていく
という授業が前半戦にきます。
「ここにこう書いてあることは、ここに繋がっていて、ここ
と比べると、こんなことが分かります。」「おや?これはこんな
ところに繋がっていく」というようなことを、子どもたちは、
言葉を手がかりに、具体的に根拠を上げながら、グルグル内側
の円を回す授業が大半続きました。これが展開部Ⅰです。
12.具体例⑨:「第六場面」展開部Ⅱ 外側の円にチェンジ
展開部Ⅱが用意されていました。さっきのが終わった後です。
「みんな、今まで兵十の気持ちを一生懸命考えてきたね。見え
てきたね。」
「さて、少し質問を変えるんだけど、何で視点が変わったんや
ろか?」「『今までごんの視点で五場面まで来たのに、なんで
ここで視点変わったのだろう?』というのを班で話し合って
みてください。」
そこで子ども達は班で学習を始めました。そのとき、それ以
降、子ども達のムードが変わっちゃうわけです。今までは「兵
十の気持ちを探るぞ」という内側の円です。だけど、今の質問
は「何で視点が変わったのか?」という外側の円です。少なく
とも子ども達の反応はそうなりました。
一番シンプルで、中身はあんまりないけれど、典型的な反応
はこうでした。「作者は…作者はから入るわけです…作者は、
読者である僕たちに、ごんの気持ちだけでなく兵十の気持ちも
伝えたかったからだ。
」読みとしては全然深くないのですが、
まあそうでしょう。なるほどなあ。そして言葉の使い方が変わ
るわけです。子ども達が使う解釈が,、「ごんが兵十との関係で
こいう気持ちだから」ではなくて、「作者が僕たちにこういう
ことがしたかったからだと思う」という反応が、その発問をき
っかけで出てきたわけです。
つまりこの内側の円から外側の円へモードが切り変わったわ
けです。
だったんです。
そこでこんなのも出ました。五場面の終わりは「へぇ、こい
つはつまらないな。このおれにお礼を言わないで神様にお礼を
いうんじゃおれ引き合わないなあ。」と言っていました。つま
りは「僕のことに気付いて欲しい。兵十に分かって欲しい」と
いうごんの気持ちがあることが分かって、子どもは言ってるの
ですが、そこで、六場面というのは、「分かって欲しいという
ごんの願いが叶う場面だと思います。」うん、そうだね。で、
「六の場面が、ごんの願いが叶う場面だとすれば、兵十の視点
にしておかないと、兵十が『お前だったのか』と心を変化す
るプロセスが描けないから、視点が変わっているんだと思い
ます。」
という意味のことが子どもから出てきました。
つまり、ごんの視点のままでは「お前だったのか」という発
見が物語の構造上できません。
「それを深く描くために、兵十
がごんの存在に気付き、自分にくりや松たけをくれていたのが
ごんであったことに気付くシーンは、兵十の視点からしか描け
ないのだ。」とその子は言うわけです。つまりそれは、物語の
仕掛けが、作者のどのような意図によって、どのような戦略に
よって描かれているのかを説明し直した言葉でした。
あるいはこんな意見も出てきました。「この物語は、一場面
のごんが兵十と出会う場面から始まる。」思い出してください。
最初の出会いの場面。「ふと見ると川の中に人がいて何かやっ
ています。分からないから近づいて行きました。兵十だな、は
りきり網…」ここに張り付いたハギの葉っぱまでクローズアッ
プしていって、そこからウナギ事件が起こっていくところから
始まるのです。
「この物語は、兵十がごんと出会うところから始まります。い
たずら者で孤独な気持ちを抱えてそれを紛らわすためのいた
ずらばかりしていたごんが、兵十との出会いで思いがけずう
なぎをとってきてしまってうなぎ事件を引き起こし、そのこ
とが原因でおっかあを死なせてしまったという過ちをしてし
まったとことがきっかけになって、その償いを始めていき、
その償いの中でごんがどんどん変わっていく話です。」
五場面の最後では、兵十と友達になりたい、友達になれれば
いいなと思い、物語の頭から五場面までに兵十との出会いをき
っかけにしてごんが変わっていく物語が構成されている。然る
に六場面というのは、その逆に、今度は兵十がごんと出会って、
いつも自分にくりや松たけを持ってきてくれる、この村でただ
一人の理解者であることを知らないまま殺してしまうという過
ちを犯すところから、兵十が、この物語にはそれ以降書かれて
いないけれども、どんどん変わっていく物語が始まるところな
のではないか。
つまりこの物語は、
「ごんが兵十と出会って変わる物語」と「兵
十がごんと出会って変わっていく物語」という二つの物語が
繋がっているお話なんだ。
↓
その繋ぎ目が、「ふと顔を上げました。」この視点の切り替わ
りなのだ!
という子どもも出てきました。
このレベルはどのレベルでしょうかということなのです。
これは「外側の円」が描かれている読みだと思うんです。
一場面の「ふと見ると川の中に人がいて…」と、六場面の「そ
の時、兵十がふと顔を上げました。と、きつねが家の中に入っ
たではありませんか。こないだうなぎを盗みやがったあのごん
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ぎつねめが。」というこのプロセスは、同じではないか。その
立場が変わっているだけではないか。つまり二つの出会い。兵
十を、ごんが初めて認める場面と、今度は兵十が、ごんを家の
中で認める二つの場面が、同じような言葉で、違う視覚から書
かれている。 これこそが、その子の根拠なわけです。その構造を根拠にし
ながら、この物語の、二つの鏡になったような相似形の一方が
一方と出会って変化していく物語のつなぎ目が、この視点の切
り替わりなんだという解釈を、その子は見出していきました。
13.二つのモード:内側の円と外側の円
これが、私が、今日申し上げたお話の根拠です。
その授業を見たときに、内側の円と外側の円があると思った
のです。
一つの授業の中で、内側を成立させていく営みと、その外側
で子ども達を考えさせる営みが、見事に有機的に繋がりながら
授業として進行する、そういう授業を僕、見ることが出来たん
です。それが僕の今年の出発点です。
それをもっと具体的に色んな教材の中でやっていきたいと思
っています。
二つのモードがあります。作品の中に構造を見出してそれを
自分の解釈に利用していく、作品の中身の理解のために利用し
ていくプロセス。第一に、それは4年生までに培われていなけ
ればならないだろうし、出来ていない場合はそれをしっかりフ
ォローしながら、出来るだけその外側に、どこかで飛び出す。
「何
でこんなになっているのだろう?」
「作者はどういうつもりでこう書いたのでしょうか?」など
という、作者還元主義を奨励しているわけではありません。「作
者はどういう思いなのでしょうか?」というあの典型的な発問
は、僕は無効だと思っていますから、作者という言葉は一言も
必要ないと考えています。
「何でこうなっているの?」「これはどんな意味があるの?」
その構造の意味を問い正した時に、子どもたちの幾人かは、あ
るいはその構造次第では、さっき言ったように、「なぜこの五
場面と六場面の視点が変わるのだろう?」といった瞬間に、外
のループが生まれるわけではないかな、と。それは「作者が、
読者である私たちに、こんなことを仕掛けようとしたからでは
ないか」
「この作品はこういう風に作られているんだよ」という、
子ども達はさっきの作業を行って、あたかも自分が作者になっ
たかのように、作者として読む。作者として読者の自分の解釈
を述べていく、というようなことを見事に展開していくわけで
す。
それが、例えば今、4年生の教材でやりましたけれども、5
年6年の中で一定鍛えられて、自分のその作品の向こう側にい
る作者のことを考えながら読める読者に育っていって、中学校
にあがっていくわけです。
14.中学校
中学校で別に新しいことが加わっていくわけではありませ
ん。だけども中学校の教材は去年も言いましたけれども、その
テーマ、それからモチーフが、読者である自分の立ち位置をど
んどん切り崩していくような刺激的なものが多いわけです。そ
れが小学校教材にないわけじゃないんだけれども、たぶんその
濃度が濃くなってきて、つまり「自分を問いただす」、ここを
鍛えていくという要素が、中学校教材のモチーフを見ていくと
多いと思います。
そして中学生というのは、正にこここそ、読む、作者との対
話を通じて自分自身を、自分の判断で、自分の頭で考える「私」
というものを、どんどん鍛えて行くという営みになるんじゃな
いかなという僕のイメージです。中学校というのは、小学校6
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年までにだいたい出揃っている。僕がこう書いているのは「自
分」「作品」「作者」「読者」という4つの要素ですね。
先にお配りした資料の、この4重円を解体して、別の形にし
ただけなんですが、それを使いこなしながら、これを自在にグ
ルグル回しながら、私の判断、私の思い、私なりのまとめ方と
いうというものを鍛え上げていく。 力点は外側に移っていくという風に思います。もちろん、だ
から心情、気持ちを考えなくていいというわけでもないし、構
造やらなくてもいいわけじゃないし、
「この構造はこういう風に
なっているな」
「作者こういうつもりだったんじゃないかな」と
いうことでやらなきゃいけないですよ。それをくぐりながら、
それを自分はこんな風に評価する、吟味する、こういうところ
良いと思う、だって中3の活動の中で批評しなきゃいけないわ
けですから。
「批評しなさい、作品の構造を踏まえて、それを自
分の解釈に利用しなさい」ということが出てくるわけですから、
学習指導要領の文言として。つまりは、これまでに培ったこう
いう反応形式を使って、
「私の判断、私なりの意味づけ、私なり
の思いっていうのをちゃんと、真っ当に誰かに向かって表明す
る力を持ちなさい」ということが、たぶん新しい学習指導要領
が読者に求めていく、子どもたちに求めている中学校3年生段
階の到達点じゃないかなという、イメージを持ってください。
15.まとめ
イメージなので、まだ実践的にも、指導要領の文言的にも、
十分僕の中では落ちてないです。かっちりはしてないけど、今
年中の様々な研修を始めるときの出発点は、こういう構造化で
どうだろうか、内側の円で鍛えるシーンと、外側の円をグルグ
ル回すシーンと、指導案を作るときに、ちょっとそれを意識し
て、
「グルグル回す」って、比喩ですよ、あくまで。グルグル
回すっていうのは別に何かを回すわけでなくて、シーンとして
子どもたちの反応形式を2つの極と考えたときにそれを行った
り来たりしながら、反応を変えていくっていうことです。それ
を授業を見ながら「あ、いま内側の円が回り始めた」っていう
ような比喩で捉えたときに、何か見えないかな、授業研究して
も面白くないかな、教材研究するときに「ここでこんなことで
きたらいいな」「これ、作者と子どもを向き合わせるときの良
い発問になるね」っていう発想で、何か問いを考えられないか
なと思うわけです。
今年の国語部会のプロットは、「構造的読みを促す主要発問
を考える」という風になっていきます。で、その中から一つ何
かこう小学校教材でやりましょうっていう流れになっていく感
じもしますが、研究授業やりたいです。
その研究授業指導案を作るときにも、この発想です。
これは、
1.「寄り添わせる発問」なのか、
2.「距離をとって構造を捉えさせることで、もういっぺん寄
り添わせるための深める発問」なのか、
3.「作者と子どもたちを向き合わせるための発問」なのか
という色分け。
それが上手く組み合わされてひとつの流れの中に構成された
ときに、たぶん、構造的な読解を促す国語の授業、物語でも説
明文でもいいんですけど、授業っていうのが成立するかなとい
う気がするので、それを考えるためのいくつかの試算、4つの
小円って考えていたものを2組ずつ絡め合いながら、近づいた
り遠ざかったりするイメージで、作り直したのがこれでありま
す。これを土台にしながら、具体的な教材をそういう発想で分
析してみたり、取り立てて授業案を作るような営みを持ってき
たりということが出来たらいいというのが今年の僕の考えてい
るところであります。
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「注文の多い料理店」:小学校教材を構造的に読む
作:宮沢賢治
荒木:今日は小学校教材『注文の多い料理店』について、簡単
に一言ずつ。
藤原:登場人物の気持ちの動きや行動パターンをみて、深く読
めばすごく現代・未来と共感できるようもっていけるんじゃな
いかなと。扉の言葉=読み取る方と騙す方を傾向的に捉えて、
両方の立場から自分を見直してみるみたいなことが。
本町:今考えなきゃいけないこと、動物の命の大切さとか、も
うちょっと子供たちにも考えてほしい。読んでて楽しいけど、
やっぱり振り返らなきゃいけないことがたくさんあるなと。
加納:表現、工夫とか意図に着目しながらいくと、もっと深み
が出るのでは。どっぷりと物語の中に入ってスリルを味わうだ
けでなく、一歩引いて客観的に見ることが、第二番目の楽しみ
かな。そこで、細やかな表現に気付かせたい&子供が紳士の自
己中心的な行動や考えを客観的に分析できたら。宮沢さんがこ
の物語に込めた思いを考えられたら。
下野:今まで2回やった。「風がどーっと吹いてきて」はファン
タジーの世界と現実の世界の境目になっているという感じで。
じゃあ何で2匹の犬がその前に死んでしまったのか、何で二人
の紳士は平気やのに、専門の鉄砲うちがまごついてしまうのか
というのを考えながら。後、最初の「風がどーっと吹いて」は
紳士が自然を軽視しているような場面で、その後は紳士が軽視
される、対比な関係になってるのかなって。もう一つ紳士の変
化は、最初は「拾円も」買って帰ったら十分でお金の価値が高
く他の人は低いけど、最後は「拾円だけ山鳥を買って帰る」っ
てお金の価値が下がってて、紳士の価値観も変わってるという
意味で対比な関係になっているのでは。
紳士も騙してるし、読者も騙して、「2匹の犬は死んでしまいま
した。」と本当は死んでないのに、「専門の鉄砲うちも、ちょっ
とまごついて」と、紳士の二人が大丈夫なのにまごつく訳ない
から、紳士も騙してどっかに行くっていうのは、自然に関わる
側の鉄砲うち、犬、山猫、山とかが、自然をなめている紳士に
復讐していく話なんかなと。最後にお前ら腹減ったやろと団子
を猟師があげたんかなと。
近藤:初めて読んだらどんどん先を読みたくなる物語で引きつ
けられるけど、それだけじゃなく仕掛けがあったり、宮沢賢治
の人間に対する皮肉のようなもの感じられるのが、すごくおし
ゃれというか、味わいがある。「拾円も買って帰ったらいい」と、
その一連の出来事が終わった後に「拾円だけ山鳥を買って帰り
ました」で変わってるが、二人の紳士はお金に対する、お金だ
けじゃなく何かが変わっているようにも取れるが、結局この「紙
屑のようになった顔がもどらなかった」で、この二人の紳士の
人間的なものがぺらぺらやというような感じもして引きつけら
れる。
橋本:生徒に読ませるにあたって、どういうことを、どこまで
わかってほしいのかということが、みなさん抱えているところ
で。人間に対する賢治独特の表現で作っている。
荒木:引用の「と」がなく漫才の掛け合いみたいに、若い紳士
のAのセリフ、Bのセリフ、行動描写の繰り返し。全体リズム感。
ちょっと気になったのは、初めの方部屋の描写細かいが三枚目
くらいからあまり細かく言わなくなる。これは、5年生の2学
期ぐらい?
加納:3学期。
荒木:これは難しい?やっぱり授業をするとなると。
近藤:面白い。子供らは食いつく。オノマトペとか、筆者の人
となりというか。
住田:どこから読むか…。やっぱり、
1.冒頭部
「二人のわかいしんしが、すっかりイギリスの兵隊の形して」
という書き出し
⇒全部繋がってくる。
↓
成金主義の、東京者の、鼻持ちならない、自然をリスペクト
しない人物設定
=イメージの方向付け
「若い紳士」って言い方もあるイメージを作る。「若い」のに
こんな格好をしてるなんて=金持ち。若いのになんか六本木ヒ
ルズに住んでいるような人達を思い浮かべても。たぶん構図的
にはそう。
つまり、鼻もちならない、ある種の成金主義的な要素と繋が
ってくる。「なぜ若い紳士じゃないといけないのか?」=検討
できる。身なりも卑しからず、若くて、紳士で、すっかりイギ
リスの兵隊の形をして。そこに、71ページ(東京書籍)に挿
絵があって、こんなちょっとサイバーな絵じゃないだろう(笑)
とか、いろんな挿絵があるけど、おそらくこれが大正年間が始
まったくらいの、狩猟ファッションとしての最新モード。イギ
リスの兵隊の格好=世界に冠たるもっとも進んだ素敵な服だっ
たんだろうという一つのイメージ。「ぴかぴかする鉄砲を」=
たいして使ったことないであろう真新しいのを担いで「白くま
のような犬を2ひき連れて」、なんかこう外国の4WD車、ハマ
ーかなんかを乗り付けてみたいな感じの、僕のイメージ(笑)。
わざわざイメージを方向付けて解釈していくと、この冒頭自
体が、宮沢賢治がどういう人物としてこの二人の若い紳士を描
こうとしてるのかっていう方向性がはっきりしてくる。
「だいぶ山おくの、木の葉のかさかさしたとこを、こんなこ
とを言いながら、歩いておりました。」
「だいぶ山奥」⇔「二人の若い紳士のぴかぴかしたイギリス
風の」=ある種コントラスト。「東京」でなければ。「東京もん
がだいぶ山奥の木の葉のかさかさしたところにいる」という設
定から始まる。二つの世界が衝突するという解釈も。宮沢賢治
が、東京から失意のもと田舎に帰って書いた。東京、近代化に
対してさまざまな思いを抱えているということも考えられる、
そんな冒頭文。
で、この「ぜんたい、ここらの山はけしからんね。」山の中
に分け入って無事に帰ってこようと思ったら、土地のことをけ
なしてはいけない。私たち日本人が昔から、特に山に住む人は、
土地褒めをしなきゃ。山の神様を怒らしちゃいけない。「鳥も
けものも一ぴきもいやがらん。何でも構わないから、早くタン
タアーンと、やってみたいもんだなあ。」の言い方の中に、い
わばそれを読んでいる私たちの中にある違和感というか、この
人物はいったいどういう立場なんやろう?。「けしからん」「居
やがらん」「なんでもいいからタンタアーンと」と重ねられて
いく中に、さっきどなたか言っておられた命の軽視だったり、
自然に対して軽んじてるようなスタンスというものが見えてき
て。それを受けて紳士Bが「しかの黄色な横っぱらなんぞに、二、
三発おみまいもうしたら、ずいぶん痛快だろうねえ。くるくる
まわって、それからどたっとたおれるだろうねえ。」でもっと
鮮明に。生き物へのリスペクトのない、尊敬の念のない、にわ
か仕立ての狩人、狩人ならざるただの遊戯的な発想で生き物を
狩る主人公たちっていう人物像を作ろうとしてるわけですね、
このセリフ自体が。そういう人物イメージを読者の前に差し出
すここまでが、おそらく冒頭。状況設定、どんな場所でどんな
人物が出てくるか。
2.「だいぶの山おく」
その次、「それはだいぶの山おくでした」この「だいぶの山
おく」っていうのを読んだ時に「ああ、先生2回目や!」って
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気づけるかどうか。
冒頭述べたのを、わざわざもう一回仕切り直している。もう
一度冒頭のところでいった「だいぶの山おくでした」という一
文をいれて、下野さんがこの辺になぞを感じているところ。「な
ぜこうなっているのか?これにはどんな意味があるのか?」ど
う考えるのか明確なことはわからないが、この辺からおかしな
ことが起こっている、ある意味では。どこかにいってしまった
案内の鉄砲うちは最後に出てくる。「だんな~」って言って再
登場。
その次に、「それに、あんまり山がものすごいので、その白
くまのような犬が、二ひきいっしょにめまいを起して、しばら
くうなって、それからあわをはいて死んでしまいました。」
この順序性
鉄砲うち退場 →白熊死亡
↓ 物語の最後のところにもっていく
白熊のような犬が突入 →その後世界がごろごろごろっと変わ
る →最後に専門の鉄砲うち登場 ⇒この順序
中学校教材の『空中ブランコ乗りのキキ』と同じ順序性。冒
頭の人物の出し方と、退場のさせ方が対話しているような感じ。
ここから出来事が起こり始めるが、その出来事は、要は紳士
たちが二人きりになってしまう怖さ。彼を導き、守ってきたも
のたちが一つ一つ消えていく。丸裸になったところで本格的に
不思議な世界が現れるようになっている。
で、たたみかけるように「実にぼくは、二千四百円の」、「ぼ
くは二千八百円の」その最初にイメージした成金主義な人物、
命に対してまったく憐みや、ある種人間的な感情をもたない人
物。かなり強めるかのようにそれをお金に換算して「損だ」と
言って憤慨している様子が描かれることで、読者は明確に「な
んやこの人は」と思うような感情が起こりつつ、「ぼくはもう
もどろうと思う。
」「さあ、ぼくももどろうと思う。」ときて、
気味悪くなってきたから帰ろう。「なんかおかしいね。」という
ふうに。
3.「十円も」と「十円だけ」
それをやった上でさっきの、下野先生と近藤先生から指摘さ
れた「もどりに、昨日の宿屋で、山鳥を十円も買って帰ればい
い。」という表現をして、それも結末のところでもう一回「十
円だけ」というかたちで繰り返される。これも謎。
ただ「十円も」という表現はどう理解したらいいのか?ぼく
は「も」にうるさいんですが。それは当然「十円だけ」ってい
うのも検討しないと。それはどういう変化なのか?
下野:子供らにお土産を十円、計算したら今の1万ぐらいで、
1万円も買って帰ったら十分やろうっていうのは1万円の価値
が高くて子供らの価値は低い。1万円も買ってかえったら、1
万円ってすごい額だからあいつら十分やろう。で、1万円だけ
っていうのは、逆に1万円の価値は、子供たちにお土産を買っ
て帰りましたが、ほんまはもっと買って帰ったらいいんやろう
けど、1万円だけっていう1万円の価値が下がっている。「子供
ら待ってるやろうけど、1万円だけ買って帰ろう」っていうのは、
お金の見方も違うし、買って帰る相手への見方も違うんかなと
思ったり。
荒木:相手に対する思いの量?
下野:思いの量と、相手の見てる位置というか。
住田:そもそも、その比喩の事例が、どうなんだか(笑)
近藤:あと、「1万円も」は1万円より高い気がする。1万円も
買って帰るねんからええやろ…。最後に「1万円だけ」山鳥を
買ってっていうのは意味が理解できない。お金自体は初めと変
わってない、減らしたわけでもない。だから、もしこんな目に
あったんなら、もうちょっと反省してお金が変わってもいいん
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だが、金額は変わってない。「だけ」と「も」だけが変わってる。
下野さんとちょっと違うが、1万円だけ買って帰ったのなら、
やっぱりなんか金持ちみたいな、お金いっぱい持ってるから1
万円、たった1万円だけ、なのに1万円だけ買って帰った…。「だ
け」は、今の時代僕らがよく使う「だけ」なのか、1万円しか
っていう「しか」なのか、ただ1万円分っていうぐらいの意味
しかないのか、「だけ」の意味がよくわからない。
橋本:このいろいろあった後の「十円だけ」っていうのは、十
円以上いっぱい持ってるけれどもという。最初の「十円も」は、
十円ぐらいでいいやろう、十分やろうというニュアンス。例え
ば、千円持ってる中での十円ぐらい買っときゃ、十円もありゃ
まあええやろう。最後の「十円だけ」は千円中の十円なんだけど、
その十円だけはいろいろあったけどとりあえず十円だけ買おう
かというニュアンスの表現。猟師、二人にとっては自然どうこ
うで十円の価値が変わったかどうかはわからないが、最初の十
円っていうのは軽い気持ちの十円で、最後の十円はちょっとだ
け最後に買っとこうかというような。千円持ってるし五百円買
うなんてたいそうなことはいいから、十円にしとこかなってい
う意味かと。
藤原:結局はこの若い紳士がやりたいことは格好つけ、自慢だ
け。だから、自慢するにはとにかくもう切り上げて帰って、山
鳥さえあったらいい。それなら十円ぐらいあったら十分。だか
ら十円ぐらい買って帰ったら自慢話できて「おれこんなことや
ってんで」ってええ格好できる。で、最後の方は格好はつけた
いから、ここはもう離れて東京帰って、自分のアウェイじゃな
くてホームで自慢したいから、とりあえず十円だけ買ってそれ
でも格好つけれたなという感じの「だけ」かなと。
住田:これ比べて考えようとしたときに、子供が悩むところか
な。だからやっぱり「それだけ」っていう限定だけの意味でと
らえるのか他に方法があるのか?語学的には?
「買った」自体はどっちも一緒。気持ちがたぶん違う。だけど
目的は一緒だ。結局、釣りの後に魚屋さんに寄って魚を買って
帰るのと同じで、ひとつの格好つけなんだということをおさえ
た上で、だけど、気持は大分違うよねっていう。それは「だけ」
と「も」に現れてるというふうに追っかけて比べさせるのかな?
でもあまり違わないような、難しい。結局この二人は何があっ
ても変わらへんと。この二人が改心して、何か反省して違う人
間になる話ではないということをむしろ強調する仕掛けにもな
るかなと思ったりして。
荒木:誰かがレジメに書いていた「結局変わらへん」
下野:結局、変わらへん。変わったのは「紙くずのようになっ
た二人の顔だけ」それは戒めみたいな感じでっていう話がよく
あるような気がするから。でもどうなんか?この紳士のお金に
対する価値観と、他の人に対する価値観、最初はうさぎも買っ
て帰るとも言ってるから、人に対するものと、お金や自然に対
するものがちょっとだけ変わったのかなと思う。最初の見た目
重視でぴかぴかした鉄砲を持ってる紳士と、あとこの最後の紙
くずのようになった顔というのは、逆において書いてるのかと。
荒木:でもある意味では、お腹ぺこぺこで、こんなひどい目に
あったんやから、初めに思ってたよりもっとようけ買ってもい
いところを、でも初めに思ったとおり「十円だけ」って、そう
いう捉え方する子もいる。
住田:最初に言ったとおり十円だけっていう意味?十円買って
帰ったらって言ってた通り十円だけ、あん時とほんまやっぱり
変わってへんなっていう読者の声をどこかで聞きながら二人
が、ただくしゃくしゃになった顔だけは戻らない、刻印されて
いる。でも宮沢賢治自身はこの二人の改心をまったく期待して
いないというお話になるとも言えるかな。
私もちょっと「だけ」と「も」を言葉の意味で、「も」が副助
詞でどうでっていう、ちゃんと調べて吟味しないと。ここは実
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第
2
回(H20.7.30)
際5年生の授業される先生に子供の反応とかを聞いてもらいな
がら。どうですか?
加納:子供ここに気付いたんですけど、深まらなかった。自分
の中でも曖昧だったので。
住田:ちょっと言葉が難しいので、大学生なら考えさせるが、
小学生には、生活の中で使わないことはないけどピンときにく
い対比かなと思いながら。
4.「風がどうと吹いてきて、
草はザワザワ、
木の葉はカサカサ…」
というあの呪文
=ここがファンタジーの入り口か? ⇒「だいぶの山おく」
からが「のりしろ」
この呪文が繰り返されるのと同時に明らかに何か世界が変わ
るという印。風が吹いてきたら変わるわけですね。長崎源之助
の『つりばしわたれ』や、いろんなファンタジーものの中で使
われる世界が変わる時の記号切り口。『風の又三郎』でも風が
使われている。まさに『風の又三郎』なので。そういう風の描
写というものが、明確に世界が変わって「どうもはらがすいた。
さっきから横っぱらがいたくてたまらないんだ。」という声で、
ふと振り返るとそこに「そのとき、ふと後ろを見ますと、りっ
ぱな一けんの西洋造りのうちがありました。そしてげんかんに
は…」と。だから風が吹いて二人が会話をする。その後にもう
いっぺん見ると、そこに一つの世界が現れて、建物が出てくる。
いわばこの会話を待ってからこの建物が作られた感じ。はじめ
から西洋料理店が用意されているのではなく、「ああ何か食べ
たいなあ。食べたいもんだなあ。あっ!ちょうどいい」ってい
う感じで二人を誘い込むための罠なわけで、「ちょっと1曲カラ
オケ」と思ったら、ふとみるとそこにカラオケ屋さんが建って
るとか、「一杯飲みたいな」だったら飲み屋さんだったかもし
れないし。というつまりこの不思議な山猫の魔法が通用する不
思議な世界の中に二人が入った後で、その言葉にふさわしいも
のというか、二人の欲望、要望に応えるものをすっと用意され
て、後ろを振り向くともうそこにあるということですね。この
言葉とその後、出てくるものとの関係ですね。そこで密接に繋
がってると思うんですが。
でね、いわゆるファンタジーの構造分析というものを考えて
いく上では、これは明らかに「風」のところが入口出口。これ
入口のところ。いわゆるトンネル。ここで別世界に変わる印が
明示されている。
ところが、不思議自体は「それはだいぶの山おくでした」か
ら始まっている。これをどう考えるか?このズレみたいなもの
を、みなさんで検討してもらえますか。この意味を。
下野:専門の鉄砲うちも2匹の犬もみんなグルで、山の神様み
たいな人達もグルで、これ前置きなんですよ。とりあえず、鉄
砲うちから隠れようみたいな。2匹の犬も死んだふりしろって。
「風がどうと吹いてきて、草はザワザワ…」っていうのは、や
っぱり山が仕掛けてるっていうか、たんに猫とかじゃなくて、
山とか自然全体が仕掛けてるから木とか木の葉っていうのが来
るんやろうなと思って。それで最後に終わった後に、ちょうど
いいところで都合良く出てくるし、死なへんぎりぎりのところ
で何事もなかったように出てくるし。猟師は専門の鉄砲うちは
腹へってるの知ってるのか団子までくれるし、これはどう見て
も…なんか。」
荒木:だから、70ページの「だいぶ山おく」からすでに、こ
いつらを懲らしめる、ファンタジーの世界に入ってるっていう
こと。
下野:全体的にファンタジーだけど、
「風がどうっと吹いてきて」
から、お仕置き開始、作戦開始みたいな。最後もその風でお仕
置き終了みたいな。
藤原:そこは、さっき住田先生がちらっとおっしゃった「山の
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議
会
神様に対してすごく失礼だ」が、ちょっとヒントになったが、
確かに「風が」からは山猫の悪さというか、ひょっとしたら山
の神様の悪さというか、ちょっと締めたろかという感じちゃう
かなと。山の神様的にはちょっと締めたろか。山猫の力を借り
て。そのためには鉄砲うちと犬を黙らしといて、でもいざとな
ったら「これぐらいでええやろ」というところで犬も解放して、
猟師さんも解放して、これぐらいで勘弁しといたろかみたいな
ところかなと。
住田:素敵な意見でました。
荒木:で、藤原先生は、山の神が怒りから、怒りの世界は70
ページから始まると?
住田:終わりの所に注目してほしい。P.86、87あたり。「風
がどうと吹いてきて、草はざわざわ…」この繰り返しの2回目
がある。
この2か所を頭の中において、専門の鉄砲うちとか、2匹の白
熊がどうなったかを、ちゃんと図式に割る
風が吹く前に猟師はどっかに行き、犬は死ぬ。最後は、この
白熊のような犬は風が吹く前にやってきてる。ばーっとすべて
のものが消えうせた後に、風がぶわっと吹いて、そして「だん
なぁ」って。この順。 専門の猟師の動きってややこしい。後の方は特に。だけども
その風の位置が、世界が、山猫軒が二人の前ににゅーっとあら
われてくる前に風が吹き抜ける。そこから前はそういう不思議
なことは起こらず。だけれども犬が消えたり、専門の鉄砲うち
がどこか行ったり。その前の方から少しずづ山の不思議は始ま
っていて、従来問題になりうるのは、死んだはずの2匹の白熊
のような犬が、なぜもういっぺん出てくるか?っていうのは子
供たちからの初発の感想にでるやろうし、教材研究してる時も
必ず問題になってくることだが。それが不思議なこと、本当は
死んでないのに死んでるように二人に思えるような不思議な世
界に二人が入り込んでいることの証拠。まだ、山猫の魔法の世
界にいる二人、ガタガタガタガタ震えているところに白熊のよ
うな犬が入ってきて、バンといってそれを壊して消してしまっ
た後で、この世界が終りっていうサインが出てくる。
つまりこれは、現実の中に不思議が入りこんで始まって、不
思議の中に現実が入り込んできて終わり。色分けをすると、二
つの世界がある。それが混ざっている。
「のりしろ」のように
混ざっている部分が作ってあるのはこの作品の特徴かな。
それが白熊の登場と風の関係でだいたい説明がつく。登場、
退場というふうに。二つの世界の重なりあいの所に、のりしろ
のような重なり合った部分が設けてあるっていうところが、今
の、ぐる説が。
5.白くまのような犬と鉄砲うちは、山猫あるいは山の神様と「ぐ
る」か?
⇒ 山・自然側と都会人の間の調停者
本当に「ぐる」でいいのかってことも考えてほしい。山の神
様というものがいたとして、その使いか…、実は『どんぐりと
山猫』という作品の中では、山の神の位置に山猫がいる。男の
子の所にハガキが来て、要は山の神様山猫から、どんぐりかな
んかたちの裁判の決裁してほしいみたいな手紙がくる。その王
様として山猫が君臨しているっていう不思議な世界が描かれて
いたりする。まさに山の神様の位置にちっさな山猫がいるとい
うのが宮沢賢治の世界の一つ読み方としてはあるので。その世
界とこの紳士たち、都会から来たピカピカの鉄砲をもったイギ
リスの兵隊ふうを持ったものが、鋭く対立して一方が一方を食
っちゃおうとする話だと、間違いないんだけども、白熊のよう
な犬と専門の鉄砲うちがどういう位置取りをするかを考えとい
た方がいいかなと思うんです。山の方で、「ぐる」ということ
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でいいですか?そうすると割と簡単でいいんですが、でも、そ
うすると「なぜ最後助けたのか?」ってなる。
下野:最後は何事もなかったかのようにして、終わる仕組みと
いうか。
住田:何事もなかったかのように終わることに意味があるの?
荒木:下野説は、だからぐるになって懲らしめて、まぁそろそ
ろええかって言うて。
住田:もうこのぐらいにしといたるわっていう感じで。
藤原:山猫みたいなそれよりは寛大なんだけど、ちょっと戒め
たろかみたいな、山の神様みたいに。
山の神様の意志か、あるいは何かの超自然的な力がかかって、
猟師も犬も・・・・。
住田:それが最終的に山猫の紳士たちへの復讐劇で終わらなか
ったってところ、復讐なのか、懲らしめなのか、攻撃なのかわ
かりませんけども、取って食っちゃおうという設定が達成され
なかった意味も考えどころ。あと一歩のところでうまくいかな
い。だから面白いんだが。その時にそれを打ち破るものとして
白熊のような犬が飛び込んできて世界を壊しちゃう。そして「だ
んなあ」といって随分遅れて専門の猟師もやってきて、要は二
人を救う立場になる。
これはすごい図式的な理解なんでつまらないが、山がいる、
山っていうか、自然と都会っていう二項対立があるとすると、
たぶん専門の鉄砲うちと犬たちっていうのは、その中間にある
存在かな。媒介してる存在かなっていう気もする。だって、案
内の鉄砲うち。都会の紳士たちを山に連れてくる役割、案内す
る役割。そしてお金で買われて貨幣経済の中に組み入られつつ、
しかし猟犬として必ずしも人間の側だけに属しているとも言え
ない。だけども完全に山の側とも言えない。そういう存在が中
間的にあるんわけです。
なんでこの中間的なものがあるかというと、たぶん宮沢賢治
の視点というか立ち位置が、そこだろうと思う。完全に山の側
に立ってるわけじゃない、だけども山の事をちゃんとリスペク
トしてそこともちゃんと付き合いができる理想郷というものが
作れないかなというものを持ってた人だと思うので。『なめと
こ山の熊』という作品で、熊を殺す猟師が出てくるが、それは
自分が生きるためにやむなく、まさにやむなく熊の命を取るっ
ていうことをなりわいとする。その独白というか思いというか
葛藤みたいなことが、ひとつのテーマになってくるような作品
があったりする。とすると、『なめとこ山の熊』の猟師と専門
の鉄砲うちがイコールだとは言えないが、そんなふうなことが
全然描かれてないので情報がないんだけども、少なくともこの
紳士たちとは違う立ち位置に立っている性格付けがされたもの
だ。そういう猟師、山に入って「痛快だろうね」っていう撃ち
方はできない。お前の命を貰わなければ自分は生きていけない
んだっていう山とやり取りをしながら、繋がりを持ちながら、
山から命を貰いながら生きていく人々っていうものを描いて
る。たぶん、宮沢賢治が山の傍の里に住む、山里に住む人を視
点というものを大事にしながら最終的にこのいけすかん好まし
からざる都会の紳士たちが、山の神様にさんざん懲らしめられ
た挙句に山里の中間にいて、人の世界と山の世界を繋ぐ役割を
演じている存在に救われるっていうお話が一番心地よいかな
と。宮沢賢治にとっても描きたい世界なんかなとも思いながら。
そういう分析を僕はしていた。
では、三者ある。二個対一じゃなくて、それを繋ぐ存在とし
てこの変な動きをする犬や専門の鉄砲うちというものを置くと
うまいこと整理がつくんじゃないかなと。だから最後に殺され
て食べられて終わる話じゃなくて、さんざんな目にあってくし
ゃくしゃになったまま、いわば体に山のメッセージを刻みつけ
たまま、山をなめんなよって刺青を入れられたような状態で都
会に送り返される紳士。それをいわば、山や山の神様側と間を
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取り持ちながら都会人を助けていく里の人たちっていう調停者
として現れる。調停者という言葉も5年生で使えない言葉だが、
両者のぶつかり合う二つの世界を調停するものとしての第三者
というのがこんな感じかなと思ったりしながら読んでいた。
ちょっとその辺の整理っていうのは難しい側面もあるし、実
に小さいことだけど、でも今、下野先生から出てきたような、
「紳
士たちはこう、山猫はこう、じゃあこの専門の鉄砲うちは何や
ねん?この白熊のような犬はどうやねん?」っていう「この人
達はどうなんや?どういう立場なんや?」という人物設定を人
物関係の中でとらえる学習というものは、しっかり子供たちに
意識させてて読んでいきたいですね。
そうするとやっぱり、「ぐるや」っていう派もでてくるやろ
うし、
「いやこれは紳士に飼われた犬やから、だから手先やねん、
だから助けたんや。」「じゃあ専門の鉄砲うちはどうやねん?こ
れもお金で雇われてるからか?」というような議論をしつつ、
人物の関係を読んでいくってことが必要な部分かなと思うんで
す。
6.「WILDCAT HOUSE」って =「さぬきうどん」じゃダメな
の?
さて、「食べたいな」でレストランが現れるところ。出てき
たのが、数寄屋造りの料亭じゃないところがみそですよね。レ
ストラン、西洋料理店「WILDCAT HOUSE」。なんでこうい
う設定でしょうか?なんでこういう設定?
近藤:紳士らが引きつけられる。
住田:なぜこれ、うどん屋じゃだめですか?さぬきうどん、手
打ちではだめですか?
近藤:紳士たちがこういう人らやから、うどん屋よりは洋食の
ほうが引きつけられる。
住田:そうですね。だからこの冒頭から続く作られたイメージ
= イギリス、ぴかぴか、成金。この『注文の多い料理店』が作
られた時代性もあるんですよね。まさにその文明開化、その西
洋文明に対して邁進する日本、近代日本の新興に対してそれに
対して乗り遅れた人たちとか、その中で疎外されていった人た
ちの側にたぶん宮沢賢治はいて、だから西洋的なものを自分は
受け入れつつ、憧れつつなんだけども、それに対してこういう
二人の紳士の典型的な人物を通して、まさに罠をしかける言葉
としてこういうレストラン、西洋料理、WILDCAT HOUSE。
WILDCAT HOUSE ってそのまま直訳したら、山猫の家なんで
すけどね。それってものすごく面白いなって思うんですけど。
7.紳士は、なぜ二人?
山猫軒という札が出ている。で、入っていく。二人の対話、
またこれ重要。
何で二人?っていうことも考えたい。だって、二人であるこ
との必然性ってこの物語にあるんですかね?一人じゃ困る?何
で?
橋本:見栄が張れないし、この人らの希薄な関係、希薄な人と
の関わりが描けない。
住田:希薄な関係ってどういうところですか?
橋本:例えば、「二千四百円の損害・・・」、「でも二千八百円
の損害だ」って、でもこれ本当に二千八百円の損害かはわから
なくて、この人が二千四百円っていったからちょっと高めに言
ってみたとか。だから「僕はもう戻ろうと思う」っていうんだ
けど「寒くはなったし腹は空いてきたし」って理由をつけてみ
たりとか、きっとお互いに意識し合って、その結果罠にかかる
し、二人の方がいいかなと。
住田:なるほどね。どうですかね?この人物設定。紳士A、紳
士B。AもBも便宜的に順番にABAB、どっちもどっち、二人で
ひとつ、二個一。逆に言うとある意味では掛け合いの中で出て
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くる相対的な差は見えるが、A・B性格付けは設定されていな
い物語。
二人の物語をやる時に例えば、2年生『がまくんとかえるく
んのお手紙』のがまくんとかえるくんという「でこぼこコンビ」、
がまくんが必ず問題定義をして、それを一生懸命かえるくんが
サポートして、ぼけとつっこみみたいな関係。この物語のAさ
んBさんは、たぶん入れ替わってもいいし、ある意味では二個一。
でも必要なのは「対話」二人が対話で物語を進めていく必要
がある。「これはどうしてなんだろう。」「いや、これはこうな
んだよ。」「えっここ、なんでこうなってんの?」「それはねこ
ういうことなんだよ。」必ず解説する人が決まっているとは限
らない。だけども、疑問を持ち、要は目の前に現れたドアを「何
これ」と疑問を持ち、それを「これはね」と自分なりに解釈し
ていく。問いを持ち解釈し、意味づけて、要は自分たちの中で
合理化していくプロセスっていうのを描くには一人じゃできな
い。対話体でなければ。
これ無意味だが、三人の物語だったら?三人目はおかしいよ
ってみんな言い始めるかも。三人って、二人の対話を聞きなが
ら相対化して、メタ認知して「ちょっとお前ら間違ってるで」
とかを三人目が言いはじめかねない。三人だったら文殊の知恵
でこの罠を打破することができたかもしれない。だけど二人は
都合よく状況を問い立て、それに対する自分勝手な解釈をやり、
それがさっき言って下さったような西洋かぶれと見栄と欲のつ
らがはった認識世界の中に生きているから、そこの罠を突破で
きない状況がどんどんどんどん重なっていくわけです。
8.ディテイルにもこだわり
例えば、「二人はげんかんに立ちました。げんかんは白い…」
これは二人の視点から書かれている。二人の眼に映ったもの。
「げんかんは白い瀬戸のれんがで組んで、実にりっぱなもん
です。」客観的に語り手が語っているようでありながら「実に
りっぱなもんです」っていうのは「評価の言葉」が入ってきま
すよね。評価してますよね。「うわぁ、実に立派だなぁ」と二
人が思っているってこと。それが白い瀬戸の煉瓦で組んである
っていう大変豪華な素材だと思う、よくわからないけど。つま
り、豪華で金のかかっている大変立派な物だということ。「そ
してガラスの開き戸がたって、そこに金文字で」っていう、そ
の成金主義の二人の心をくすぐるものが次々そこに作り込んで
あるということ。それを見て「おお、なかなか、なんて立派な
扉なんだ、何か金文字で書いてある。豪華な感じするな」
9.「決してごえんりょはありません」= ただ(無料)?
そういう呟きが入りながら「どなたもどうかお入りください。
決してごえんりょはありません。」という言葉が書いてあると
いうこと。それを目にするわけです。
「二人はそこで、ひどくよろこんで言いました。「
『こいつは
どうだ、やっぱり世の中はうまくできてるねえ、きょう一日な
んぎしたけれど、今度はこんないいこともある。このうちは料
理店だけれどもただでごちそうするんだぜ。』」と、ここを考え
たい。僕はよくわからないから。「どうもそうらしい。決して
ごえんりょはありませんというのはその意味だ。」という解釈
に、すとんと落ちた人?「決してご遠慮はありません」=ただ
でご馳走してくれるって意味・メッセージだって思った?僕は
そう読み取れなかったから。
どうですか?「二人がそう思ったって書いてあるので、二人
はそう思ったんや、俺はそう読めんけどな。やったーただやと
思う?君たち。
」って子供にふったらどうなのか。ここは仕掛
けなのかそれとも現代とはちょっと違う使い方でご遠慮、遠慮
という言葉が、お代、お支払というような意味で使われた用例
があるのかどうかが悩ましいなと。だけど、こういうのはその
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意味だという言い方がダイレクトに「ああなんだ、ただなんだ」
といくというよりも、二人が解釈してそういう意味に到達して
るっていうのを感じさせるので、とすると、なんかいきなり最
初の第一関門からすごい解釈するな、「飛ばすな」この二人は
と思わせるような姿だなと。
青島:遠慮はいりませんじゃなく、ありませんに引っかかった。
ありませんって言われたら、何のかまいもしませんよみたい
な・・・。
住田:ほお…。「いりません」と比べて。ご遠慮はいりません
でしょう、普通。「どなたもどうかお入りください。決してご
遠慮はいりません。」と書かれてたら「遠慮しなくていいんだ」
というのは、遠慮の持ち主は誰かということ。「ご遠慮はいり
ません」と言われたら、あなたのご遠慮は必要ありませんって
いう。入ろうかなどうしようかな、ちょっと敷居が高いからや
めとこうかなという客の側の遠慮をいりませんよという意味に
なるが、「ありません」というふうになったらどうやろう。ご
遠慮は誰のもの?
下野:レストラン側
住田:ということになる。遠慮は私たちはしませんよと。だから、
今日はちょっとご遠慮くださいなどという気持ちは存在しな
い。ウェルカム、来てくださいという意味になるかな、どうな
んやろ。「決してご遠慮はありません」、なんか謎めいてる。は
っきりしたことは書いてない。深読みして後から読めば、「ど
なたもどうかお入りください」あなたはちょっと困ります、あ
なたは好みじゃないので入らんといて下さいというような、よ
り好みは私は全然しませんよと言ってるような感じ。どんな人
が来ても食べちゃうよっていうメッセージのようにも読める。
後から読むとそれがわかってくる。振り返ってここまで戻って
きた時に少なくともただとは絶対思わんかったけど。「遠慮は
いりません」だったらわかるっていうところになってくるのか
な。
10.扉の表と裏 : 裏側に本音があるのは世の中の常
ちょっと見てください。「そのガラス戸のうら側には…」中
に入りました。「金文字でこうなっていました。」同じく金文字
です。「ことに太ったお方ややわらかいおかたは、大かんげい
いたします。」
「二人は大かんげいというので、もう大喜びです。」
と書いてありますね。その時に、扉の表側の言葉を見てくださ
い、そして裏側の言葉を比べてみてください。ただ、この扉1
枚だけで比べても難しければ2枚目の扉も比べてみてください。
2枚目は水色のペンキ塗りに黄色の、水色に黄色じゃあんま
り目立たんなと思うけど。「当軒は注文の多い料理店ですから
どうかそこはご承知ください」というのが、2枚目の表です。
それを開けて入ったら「注文はずいぶん多いでしょうがどうか
いちいちこらえてください。」さあ、この2枚を比べて、表と裏
を比べたらどんなことがわかりますか?
住田:ここまできたら3枚目、4枚目も重ねて考えてみてくだ
さい。
僕の感覚、僕だけじゃなくよく言われるが、表には、まとも
かどうか、裏と比べるとちょっとまともなことが書いてある。
裏はそれから比べると一歩本音に踏み込んだことが書かれてあ
る。
「鉄砲と弾を置いてください」は裏に書いてある。「とんがっ
たものはここに置いてください」は裏に書いてある。「耳にも
よく塗りましたか」は裏に書いてあるんです。「いろいろ注文
が多くてうるさかったでしょう。お気の毒でした。もうこれだ
けです。」ってこれも裏に書いてある。
つまり、裏を見て二人がやっと気づくのです。
で、最後の一枚は表にもうはっきりと「いや、わざわざご苦
労です。たいへんけっこうにできました。さあさあおなかにお
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入りください。」という、もう掛詞は入ってるものの、あから
さまな、「さあ、食べますからどうぞ来て、カモンカモン」と
いう言葉で締めくくられる。最後の1枚なんて見え隠れのない、
だんだんそっちの方へ剥き出しになっていくんだけれども表と
裏、表と裏という構成の中で、表に誘い込むというか注文が書
いてあるんだけれども、表の注文の方が「もっともだ」と思わ
せる要素がちょっと強くて、裏に山猫の本音があるわけです。
当たり前ですね。表に本音はないわけです、裏側に本音がある
んです。という一つのメタファーとも暗喩的な関係ともあって、
それに気づいてみるとかなり面白い。扉の表と裏。表と裏のリ
ズムの中で。
11.三枚目の扉は要注目: 完全に読者にネタばらし=同化拒否
そして、1枚目をクリアして、2枚目が水色、黄色。3枚目見
ましょうか。「ところがどうもうるさいことは、また戸が一つ
ありました。そしてそのわきに鏡がかかって、その下には長い
えのついたブラシが置いてあったのです。戸には赤い字で…」
この戸はどんな戸か全然書いてない。書いてないが、ここだけ
かな?扉の様子が、赤とも青とも全然書いてない。
荒木:結構書いてないですね。
住田:書いてないですね。
荒木:次に黒い戸が出てきますけど、それ以外はあんまり。
住田:そうですか。書いてないですね。じゃあ、そうでもない
んだ。
ここの3枚目の扉は要注目です。物語の世界が単純な繰り返
しじゃなく、一段階発展してしまう。なぜか?「そこで二人は、
きれいにかみをけずって、くつのどろを落しました。そしたら、
どうです。ブラシを板の上に置くやいなや、そいつがぼうっと
かすんでなくなって、風がどうっと」⇒風がでてきましたよ。
風は実は2回ではなく、3回あるんです。同じ繰り返しじゃな
くて、ここにもう一回出てくる。
「風がどうっと部屋の中に入ってきました。」
⇒実はここで、完全に読者へ「ネタばらし」がされる
これは罠だ、何かおかしい。そんなことは初めからわかって
る子供もいるけども、「ここで牙をむいたか!本格的におかし
なことが起こっている!」等ここが普通じゃない世界だってこ
とをわかったぞっていうところ。ところが、「二人はびっくり
して、たがいに寄りそって、戸をガタンと開けて、次の部屋へ
入っていきました。早く何か温かいものでも食べて、元気をつ
けておかないと、もうとほうもないことになってしまうと、二
人とも思ったのでした。」という時に、これを同化的に読める
かどうかですよ。読者が。「ほんとだ、何か食べないと大変な
ことになっちゃう。何か食べたいよう」って思うかどうか。た
ぶんそこで読者は、「何言うてんの?」って思う。もちろん二
人に寄り添って何か考えようとすることをやめなくてもいいけ
ども、何か二人の気持ちに寄り添うというよりも、「二人は何
でここに気付かないんだろう?」「こんなあからさまな証拠が
でてきたのに、なぜ二人は起こっている事柄に気付かないんだ
ろう?」そしてまた、その流れの中で、戸の内側に「鉄ぽうと
たまをここへ置いてください」⇒「置いちゃダメだよ!それ自
分を守る唯一の武器やぞ、置いちゃあかんで!罠やで!」だっ
てここに山猫のあからさまな意思表明がされる。その前にこれ
は罠ですっていう印が示される。「今起こっていることは、罠
でございます」ということが読者の前に見事にあらわされて、
その後「鉄砲をここに置いていきなさい」というはっきりした
メッセージがセットで出てくるのが3枚目の扉。つまりこれ以
降、これ以前もそうだが、読者は二人にもう寄り添えなくなる。
二人に寄り添いながら読んでいた子供も、なんか二人に寄り添
っていく読み方ではだめなんじゃないかなということを感じ始
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めるのがこういう表現じゃないかと思う。
今、僕、さらっと読んだが、77ページの1行目の一文はもの
すごく重要な表現。=「戸の内側に、また変なことが書いてあ
りました。」これは見逃せないですよ。変なことが書いてあり
ましたとは、誰が変だと言ってるのか、誰が判断してるのか。
それは紳士ではない。変なことが書いてあると思ったら従わな
いはずだから、二人は気づいてない、二人は変だと思ってない。
なぜなら「なるほど、鉄ぽうを持ってものを食うという法はな
い。」と思っている。でもそれは、語り手によって「変なこと」
っていう価値づけがされる。
「紳士二人が納得して言う目線」と「それは変なことやぞと思
ってる目線」がずれていく。
↓
この辺から物語は、読者が二人の紳士に距離を取りながら、
二人の紳士のことを外側から眺めながら評価吟味する「異化
の視点」から読むように促されていく仕掛けになっていく
この辺がおさえられていれば、この物語をどんなふうに読ん
でいけばいいのかということの基本線が、かなり明確になって
いくと思うんですけど、いかがでしょう?僕はその辺がポイン
トだと思うんです。何か気になるとこは?
下野:僕の中では、「また変なことが書いてありました」=紳
士の視点。その後も「どうか帽子と外套と靴をおとり下さい」
っていうのも「どうだ、とるか」って一回ためらってるけど、
二人いるから納得してしまう。「なるほど、鉄ぽうを持っても
のを食うという法はない」と変なことは書いてあるが、でも、
「い
や、よほどえらい人がしじゅう来ているんだ。」っていうので、
僕も「あっそんなものか」と思って…。一人だったら納得しな
いところも二人だからどんどん納得していくというか。
荒木:僕は、この風が吹くところが大変気持ち悪くて、レジメ
には「ここはいらないのでは」と書いた。でも、よくよく考え
たら、今先生のおっしゃったネタばらしって言うのはなるほど
なと思う。
橋本:僕も下野先生に似てるが、この時代に西洋料理店に入っ
て行くというのは、西洋料理店の事「俺は知ってるで」と、お
互いにアピールしたい。その中で不思議な事も起こるけども、
例えばさっきの3回目の扉の風がどうっと部屋の中に入ってき
た後に二人はびっくりしたとあるけども、たがいに寄り添って
二人は行っちゃう。二人はある程度、ちょっと変やな、何かお
かしいなっていうのはあるけども、二人で止められないという
か、見栄とか都会人としての感情の中で、どちらも止められず
逆に悪い方向に進んで行くということを書いてるのかなと。
住田:なるほどね。「変だ」とは思って、冷静に考えれば「や
ばいんちゃう」って思えることも、二人でっていうところがひ
とつのフィルターっていうか目隠しみたいになって無視され
る、あるいは、なぁなぁになっていく。
「こうやでこうやで」「なるほどなるほど」って落ち着かせてい
くんですよね。
加納:人間の周りに流されやすい一面とか、見栄っ張りなとこ
ろ、汚いところを変だとは思いつつも進んでいく…、一人だっ
たら絶対に自分でも帰ってるだろうし、一歩踏み出せないとこ
ろを二人だからこそどんどん進んでいく人間の汚さをすごく描
きたいんだろうなと思ってて。
住田:下野先生が言われるように変なことと思いつつもそれを
当人たちも変なこと書いてあるわって何度も何度も思うんやけ
ど、それは二人の会話の中で「変じゃないんや、そういうもん
なんやな」というふうに落ち着いていくプロセスを何回もやっ
ていく。その中の一つだから、これは二人の視点に沿っててい
いんじゃないかと。
近藤:
「変なことが書いてありました」=語り手が言ってる。
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そのすぐ後に「見ると、すぐ横に黒い台がありました。」って
語り手が言ってるから。ということはこの紳士に寄り添ってる
という状態だから、語り手が「紳士が変なことが書いてあった
と思ってる」というような構成だと思う。紳士は変なことやと
思ってるけど、二人いることで、あとは人間関係というかお互
い見栄っ張りなことで、おかしいと思いながらもどんどんどん
どん進んで行ってしまう。自分は本当は戻りたいし怖いってな
ってきてるけど進んでいってしまうような状況というか、人間
の愚かさみたいな。
藤原:最初はもうこれは作者が何か言うてるんかなって思った。
こことちょっと関連性あるか? 75ページの後ろから2行目の
「どうもうるさいことは」似てる、同じ関係で使っている。そ
れは作者でもあるし、登場人物、一番隠してる底の底の気づい
てる本人が言わせているんかなと思いました。
住田:そうですね。「どうもうるさいことは」→「うるさいっ
て誰が思ってんねん?」って。この辺だと登場人物の紳士も、
「ま
たあるのか」っていう感情を持ってるし、それは語り手が登場
人物をくぐって語ってるようなところ。この辺は、登場人物の
二人の眼を通して、語り手がずーっと実況中継的に進んでいく
構造。1枚めくると何があった、何があったっていうことを二
人をアイカメラの様にして進んでいくっていう作り。
まさしくそうなんだけど、何かこの3枚目の扉のところの風と
二人の様子ってところから、やっぱり、読者に向かって強く語
り手が働きかけているような気がするんですけどね。
青島:変なことが出てきても流れていくのは、きっかけのとこ
ろから、タダでご馳走してもらえるとか、ちょっとおいしいこ
とあるかもしれへんというのが根底にあって。
12.この三枚目の扉の読み方 = 5年生からの読み
4年生までの同化的読み ⇒ずれ・違和感
住田:なぜ、僕がここを強調したいか。
冒頭のところで二人の紳士がどんなふうに描かれてるかを丹
念に見た ⇒好ましからざる人物。たぶん読者にとって「この
人大好き」って思えないような人物だったりする。丹念に読む
と。
ふぁーっと読むと初発の感想で、「なんかひどい目にあって
かわいそう、この二人」っていう感想を書く子もいる。初発の
感想だから。同化的に読んでいって、「はらはらどきどきして
最後くしゃくしゃになって紙屑みたいになって顔が戻らなかっ
たなんて、かわいそうな目にあった気の毒な紳士や」って感想
を持つのもあり。つまり、べたっとその人物に寄り添って読み
切る読み方。 ⇒それは実は4年生までに子供たちに求めてい
た読み方。人物に寄り添って、気持ちに乗っかって、その人物
が見ているもの、聞いているもの、感じているものを我がこと
のように感じなさいというふうに同化的に読ませてきたはず。
だけどこの作品は読み進めていくうちに、「どうもこの人物
いけすかん、あかんのんちゃう」とか「こんな人物嫌やな」とか、
距離を取るようにどこか促してくる。
作品の構造は、1枚1枚二人の紳士のアイカメラで追っかけ
るように開けて行くドラマの作りみたいなおもしろさから寄り
添わざるをえない。寄り添わざるを得ないけど、寄り添いたく
ないというジレンマの中で、常に二人の目線から事態を捉えて
意味付けながら、この物語の世界を立体的にとらえながら、で
もそれに対して批判的なというか、ずれながら解消化しながら、
子供たちが言葉を、二人に対する感想を、二人に対しての異化
的な言葉・コメントを付けていくという読み方が、少なくとも
この3枚目の扉の前後、表裏のやりとりの中で「えーなんで気
づかへんの?明らかに怪しいよな。この二人気付かんのんやあ」
「なんで気づかんのだと思う?」
「欲に目がくらんでるから」
「お
腹が空いててなんでも食べたい、意地汚いからだ」とか、ちょ
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っと距離をとった評価をこの辺から作っていけば、同化するだ
けではないもう一方のラインをかなり意識的に、二人を評価、
吟味する目線で読んでいくようになるんじゃないかなと。同化、
人物に近づいていく、寄り添って近づいていくラインをこの作
品は一方で求めつつ、それから距離を取るように促していく、
距離化する、距離を取りなさいよというメッセージを同時に発
してくる不思議な物語だなと。この近づくことを求めつつ、距
離を取ることを求めるっていう在り方っていうのが、ある意味
で高学年5年生の子供たちが今まで読んできた物語とはちょっ
と違う対応の仕方を求められていくところになるんじゃないか
なと思います。だから、5年生教材としてやっとく値打ちがある。
5年生教材の特質なんかなと思ったりする。
13.第1回でやった図 = 外側の円を回す(5年生からの読み)
前、第1回でやった図 ⇒ 物語を読む力=それに接近してそ
れにぎゅっと入り込んでいく力 + 距離を取っていく力 と描き
分けた図
作品に近づくっていうは人物に近付いていって紳士になって
考える。「なる」を立てる。紳士が見たものを一緒に扉を開け
ながら紳士と同じような気持ちになっていくという営みを含め
たプロセス。
一方で、それは、常に、紳士との距離を取って見つめる。「こ
の二人どんなやろう?」「ブラシがぼうっと消えたのになんで
この人らそんなことを問題にしてないんやろう?」という距離
をとる読み方というのが常に要求される。それはいわば、作品
に接近したい、作品から距離をとったりするという読み方の中
でだんだん物語のきめというか造りというのが読者の中に作り
上げられていく。
『ごんぎつね』なんかの物語は、距離をちょっと取って構造
を吟味する。言葉と言葉のつながりとか、繰り返されてる言葉
とかを発見すると、もっとごんの気持ちがわかり始める、もっ
とごんに近づくことができると僕はそういうふうに説明した。
この『注文の多い料理店』なんかだと距離を取ることと、近づ
くように作品は一方で求めて、それに乗っかって、人物に寄り
添ってみようとするんだけども、必ずその違和感とか、
「この人、
俺、嫌やな」とか、「この人と俺、イコールじゃない、この人
の立場に立ちきれない」という違和感を糧にしながら距離を取
ってみた時に、なんでこのわかりやすい罠とか、この言葉をこ
んなふうに曲解できるんだろうかというような、さまざまな子
供のつぶやきですよね。「おかしいな」「なんでやろう」みたい
なことの方がたぶん強調される物語。近づいていって、「次ど
うなるんやろう」「なんだろう」っていうことがハラハラドキ
ドキする同化的な読みの言葉よりも、もちろんそれは初発では
たくさん出るんだけれども、寄り添って読めば読むほどこっち
が距離を取って紳士たちに対して、読者としていろんな言葉を
意味づけていくっていうことがなされていくんだろうなって思
う。
で、紳士たちに対していろいろあれこれあれこれ思っていく
うちに、もうひとつ外側に宮沢賢治さんが見えてくるんじゃな
いかなって、宮沢賢治さんがうっすら見えてくるんじゃないか
なという気がする。宮沢賢治さんが顔を出してくる。それは、
そういうふうな扉を1枚1枚用意してるから、別に宮沢賢治さ
んって言葉を使わなくてもいい。そういう語り手をそういうふ
うに語らせて、設置して、言葉を組み立てて、扉の表と裏の言
葉を組み替えたりなんかしながら、読者に「気づけよ。この二
人は罠にはまろうとしてるぜ」ってこの二人と同化し続けたら
ダメだよっていうメッセージを発してくる物語の仕掛けを仕組
んだ宮沢賢治さんの言葉の工夫に子供たちは気づき始める。そ
の時に、実は、宮沢賢治さんに立ち向かう一人の読者としての
立場、立ち位置っていうのが作り出されていく。本当の意味で
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物語の読者として自覚を持っていくっていうのが、また作品の
向こう側に、書いている人物の事を思いながら考え始める。
つまり、「なんで3枚目に不思議なこと書いてあるのか?もう
ちょっと隠しておけばいいのに」荒木先生が「これはいらんや
ろう」ってレジュメに書いた。「これはいらんやろう」ってい
うのは、何でいらんと思いはったんですか?
荒木:私、初発の感想だったんで…。それは、さっき言ってた「お
かしいやん」ていう違和感を生むからですね。
住田:だからその違和感はもうちょっと先で味あわせちゃった
らいいの?そんなに3枚目ぐらいの早い段階でばらしちゃった
から?
荒木:そうです。
住田:という感覚なんです。荒木先生のその読みは実は作品が
こうなっていく、3枚目でブラシがぼうっと消えたよというこ
との意味を考えた。そしたら「これもっと後の方がよくないか」
「ここでそんな山猫のもくろみというか、この仕掛けは罠だと
いうことをあからさまにする様な言葉はない方がいいんじゃな
いかな」「俺やったらそうせえへんのに」っていう。実は荒木
先生が宮沢賢治さんの立ち位置をくぐって、そこで「俺やった
らこうするのに」
「これはない方がいいな」という感想を持った。
それは「この二人の人物ってこんな人だな」というのと全然違
う反応。「この二人の人物なんか金の亡者みたいで嫌やわ」と
いうのは、作品に対して自分があるイメージを持ってるという
反応なんだけども。人物をくぐって「俺この人が嫌いやわと」
いう反応するのがこの位置だったら、「俺やったらここで、3枚
目のところで、この作者はこれは罠だということを読者に匂わ
せることをやってるんだけども、俺はそれいらんと思うんやわ」
と、読者としての思いを持つ反応をした事例になるんかなと思
う。つまり、いったん荒木先生は宮沢賢治になったわけです。
宮沢賢治になってそこをくぐり抜けて荒木という一人の教師と
しての自分ならこうするということを思ったわけです。それは
単に好みではなくて、この作品の狙いとか物語全体をくぐった
上でもっと後の方がいいんじゃないか、こういう出し方ってど
うなんだろうというふうに考えたわけです。
そうはならない可能性もある。「なるほどこういうふうにし
てんだ、こんな意味があるんだ」と僕は思った。ここでネタば
らしをすることで、読者に「もう人物と寄り添わなくていいよ。
人物と距離を取りながら読むと面白いよ」っていうことをメッ
セージしてくれてるって。「なるほどうまいなぁ」って僕だっ
たら思うわけです。 それは、その部分をどう吟味し、評価するかの読者の評価の
仕方なので、人それぞれかなり変わってくる。この作品から出
てくる印象、自分がこの人物になれへんなぁ、なんでこんな人
らなんやろ、嫌な人らやなぁ、もっとちゃんとすればいいのに、
何でこのこと気づかへんねやろう。とかいうようなさまざまな
距離をとる反応がでてくる向こう側で、さらに作者が仕組んで
いるもくろみっていうものを子供たちが気付いて、作者はこう
いうことをやろうとしてるんだなということを、なかなかでな
いかもしれないけども、「作者こんなことやってる」「宮沢賢治
さんこんなふうにやってるわ。それはすごい面白いと思う、な
かなかうまいと思う」というような反応を引っぱりだしていく
のが、やっぱりこの授業をやる上でちょっと狙っていかなきゃ
いけないところかなぁと。
それはさっき言ったように、白熊のような犬の出方とか、鉄
砲うちの現れ方と風の位置とか、風の持つ意味とか、いくつか
切り込み口がある。
「これ何でこんなんなってるんやろう?」
「こ
れどんな意味があるんやろう?」って子供たちが考えるシーン
があるとすれば、それを考えることが「宮沢賢治さんは」って
ことを一言も言わなくても子供たちは宮沢賢治になってるわけ
です。「風がなぜこの箇所とこの箇所にあるのか」「ここからこ
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の作品は不思議な世界に入る、だけど白熊のような犬とかは、
ちょっと前から不思議なことがもう、何かこっから本格的なん
やけど、これ助走やねん」とか、「ちょっと予告編みたいな形
で不思議は始まってるねん」って子供が言ったらパーフェクト。
そういう説明をしようとすることが、実はここの作者の位置を
くぐり抜ける。「それお前どう思う?」「いやぁ、なかなか面白
かった、でも・・」そのことを受け止めて何かの言葉で表そう
とすることが外側のこの二重のループを描く読解のモデルを考
えようとしてるんですけども、そこに繋がってくるかなって。
そしてこの『注文の多い料理店』っていうのは、そのことを
やるのにすごく適した教材じゃないかなと思うんです。扉とい
う明確な読者に働きかける仕掛けが何枚も何枚も出てきて、そ
こに言葉があって、言葉の意味付けができる。言葉を手がかり
に、これは何で違和感があるんやろう?だってな、「ご遠慮は
いりません」だったらともかく「ご遠慮はありません」ってお
かしくないか?という言葉を比べたりしながら意味づけをし
て、どうも怪しい、おかしいということをやっていく。1枚目
がその「ご遠慮はありません」ですよね?後はわりと具体的な
注文だが、最後のあたりはもう一回、掛詞っぽい、言葉遊びぽ
いことが仕掛けられる。「たいへんけっこうにできました。さ
あさあおなかにお入りください。」とか「料理はもうすぐでき
ます。十五分とお待たせはいたしません。すぐ食べられます。」
というようなところに、もういっぺん冒頭のあたりで、その間
は具体的にこうしてください、こうしてくださいっておかしな
注文だけれども、メッセージとしてはあまり揺れのないものが
ある。ところが、最初の「ご遠慮はありません」っていうとこ
ろと最後あたりの2枚ぐらいが持つ掛詞なのか、別の解釈を可
能にするような扉の言葉、かなり揺れる言葉ばかり。揺れると
いうか、解釈をいかようにでもする。いかようにでもすること
で、面白い、という事実とか、書かれているメッセージ内容で
「ん?」と思うところじゃなくて、メッセージの方法で「ん?」
と思わなきゃいけないというところなんですね。書いてあるこ
とが何でこんなこと言うんやろ?ではなくて、この言葉どうい
う意味やねん?、こういう意味にもとれるやんかというような
ところがやっぱり言葉の学習と相まって、あるいは言葉への感
覚を持ってる子供たちにとっては、かなり知的に面白い。
つまり、情緒的に二人に寄り添って、すごい恐怖の体験を
一緒にするっていうのも、二人の陥ってる状況に対してある
距離を取りながら、言葉遊びの仕掛けを読み解いて「ふーん、
おもしろいね」っていうのも。それを読み解いていくうちに
宮沢賢治さんのメッセージが見えてくる、このことを通じて
何が言いたいのかが見えてくるっていう作品になってるかな
って思うんですけど。
どうですかね、下野さん。
下野:僕が小学校の頃に初めて読んだ時のことを思い浮かべた
ら、何かあやしいなと思いながらも二人の言ってることにつら
れて、「そういうことなんか、そういうことなんか」っていっ
て結局、騙され続けた覚えがある。でも、作者は二人の紳士も
最後の山猫もそうだが、わかってしまうように言ってしまう。
紳士をおちょくりながら、それと同時に読者も最初は騙しとい
て、ちょっとおちょくり気味に「おまえはいつわかんねや」と
いうような感じで書いてるんかなと思ってしまいました。
住田:じゃあ今はおちょくられてたなというふうに思ってるん
ですか?
下野:はい、僕が、そうなんかなって、よく考えたらヒントは
いっぱいあるのに。この二人の紳士と同じように「鉄砲を持っ
てものを食うという法はない。」って、あぁ、そうやなって「よ
ほど偉いひとが始終来ているんだ。」あぁ、そういうことやっ
たんかって思わされて。最後は完璧に、あぁ、なんか自分もち
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がうかってんやぁって、ぱって気付かされて。
住田:そうか、小学生そうなんかな?一本線で読み続けるんか
な?最後のところまで読み続けるんかな?中学生やったらこれ
明らかに違いますよね?
橋本:まぁ、そうでしょうね。
住田:もうなんか、仕掛けを楽しむみたいな。騙される二人を
対象化して読むということをし始める。5年生ってどうですか
ね?僕は5年生はそれなりに適応力でき始めるし、それを一人
で読んだら下野さんみたいに一直線で読むかもしれないけど、
授業の中でみんなでいろいろヒントを出し合いながら、先生が
当然ある切り口を与えながら読んでたら、「うわ、こんなこと
に気付かへんの、おかしいやろ」というふうな読み方になるこ
とが意味があるから5年生なのかなって。
これを一本線で読むしかないんだったら、学年上げないと。
それこそ中学生に上げないと。6年生で読んだり中1で読んだ
り、上げないと子供にはこの作品の面白いところが読みきれて
ないということになる。別にそこで紳士たちを相対的に見なけ
れば、面白くないんだって決めつける気はないが、国語教材と
して5年生の教科書にあるってことは、1年2年3年4年と積み
上がってきた、要は同化を中心として構造を丹念に読みながら、
同化して寄り添って読むという読み方を安定して獲得するって
いうのを4年生までの目標とイメージすると、同化だけじゃな
い。同化するためには必ず物語を対象化して見て、比べたり繋
げたりするポイントを見つけないと同化できない。構造的な読
解をしなければ4年生「ごんぎつね」読めない。ということを、
つまり内側の円を丹念に作っていくの段階が4年生までで、そ
の向こうにいる作者の巧みな仕掛け、仕掛けてるなぁみたいな、
ある意味ではっきり意思を持った書き手みたいなことと出会っ
ていくのが5年6年の課題だなと僕は思ってる。だから5年にこ
れがあるような気がする。だから、途中であからさまなネタば
らしをして、「お前らわかってるやろ?この二人騙されてんね
んで」というラインでこれ以降を読んでみてくださいというこ
とを明示してくる。だからそういうことをもっと隠蔽してわか
りにくくする小説家もいると思うし、そういう仕掛けもあるが、
わりと結構わかりやすいわけですよ。冒頭からしてこの二人に
は近づくなと言ってるわけです。この二人には近づかへんやろ、
お前ら。この二人は異化して読まなあかんねんでっていうよう
な人物として描き、でも必死で子供は今まで身につけた方法で
二人の人物の眼から寄り添って共感しながら読もうとするわけ
ですよ。それを裏切っていく物語。その裏切りをちゃんと授業
の中で取り上げて、そういう見方を新しく学ぼうねと。今まで
はそういうのなかった。でもこれからは人物にべったりじゃな
い読み方もあんねんやねっていうことを子供に説明してもわか
らないから、物語の体験の中で実感させる。この二人の紳士に
対しての思いを語らせる。紳士の思いを代弁するんじゃなくて、
紳士のことお前らどう思う?どう考える?これどうすべきだと
思う?自分だったらどうする?二人とは違うよね。っていう差
を、身を引き離す、引き離して引き離して、距離を取って距離
をとるってことをやらせながら、子供たちが紳士たちに対する
スタンスを対象化していく、とれるような指導をする中で、同
化だけではない読みを作っていくことが課題なのかなと。そこ
を準備しとかないと中学校に繋がらない。中学校の小説は、べ
ったりはりついてたら読めない作品ばかり。仕掛けてくる、言
葉が。その仕掛けに対する感受性。で、何をしようとしてるん
だこいつはっていう書き手に対する書き手の、さっきの菊池寛
のことなんかでいえばものすごく短い凝縮された中でピシピシ
っと緩みなく言葉の仕掛けを仕込んでいかないと短い短編小説
は描けないわけですから。そういう物への目配りをするための
助走路を5年生からも付けていく。荒木先生にまとめていただ
きましょうか。
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荒木:えー、それは難しいです。でも、僕も別になんのひねり
もない素直~な人間ですから、はじめに読んだ時は、すーっと。
おかしいなと思いながら、まぁいっかとか、そのまま同化的に
ちょっと変やなって思いながら読んで、最後にさっきのはあれ
やったんか!と気づくとか、もう一回読んだ時に気づくとか、
別にそれはそれでいいと思います。その方が作ってる側の人も
「へへへっ」と、初めから全部ばれたら作者も面白くないみた
いなところもあるかなと。トラップがいっぱいあって…
住田:そうですね。最初はあまりトラップに引っかからないけ
ど、もういっぺん読み直したらいくつもひっかかってくるんで
すよね。だからこれ、総合的に読むのに適している。「一読総
合法」が向くのか、向かないのかという話になってくる。一読
的に読んだ時に、これはその次どうなるどうなるって1枚1枚
扉をめくっていく読み方をやる時にすごくフィットして盛り上
がる。その時に今言った、一読した時にはハラハラドキドキ、
もうまさにアドベンチャーのように二人の人物に寄り添って読
む読み方が強調されるが、もう一回読んだ時におかしいぞって
気づいてくところで、「おかしいぞ」を一読の中でやれるかど
うかっていうとこがみそ。その一読で引き立て、活性化される
アドベンチャーの側面と物語の仕掛けを対象化して眺めて発見
していくことの距離化というもののバランスをどうするか考え
なきゃいけない。加納先生が3学期にこれを授業される時に、
どんなふうに?
加納:去年はこれ、一読(総合法)でやったんです。
住田:どうでした?
加納:でも、私の発問の仕方が、
「このページで『おかしいやろ』
ってところをどんどん線引いてごらん」だったんで、近づくと
いうよりもそっちばっかりで進めた記憶が。1ページ目から「先
生、この中でおかしなところ3つ見つけた」そしたら子供ら「俺
4つ見つけた」とか。最初からガンガンおかしいおかしいで高
めていった授業だったんですけど。
住田:なるほど、なるほど。それは一つの手ですね。自由に読
ませるんじゃなくて、ある意味では方向性が決まってる。「お
かしいところ捜そう」おかしなところを見つけることが、ここ
でいう距離をとって仕掛けを発見するときのひとつの授業にな
るってことですよね。だいぶじゃあ、子供たちは紳士と距離を
とりながら読むという読み方をしていたわけですね。
加納:だからもう、それこそ授業の中で、「この紳士あほやぁ」
とか「何考えてるかわけわからへん」とかそんな、マイナスな
紳士像が最初から固まってしまって…
住田:なるほどね。そこらへん悩ましいな。なんか、いっぺん
騙されてみたいなと思ったり。
加納:そこらへんが抜けてたなと。
住田:トラップにいっぺんかかって、「ん?これおかしいよ、
先生」って言う。子供たちが途中でおかしなところがあるって
気づいていくというのが面白い。まあ、そうやっていけば絶対
いけるなと思いながら、下野先生が子供のころそうであったよ
うな読み方を、子供が素朴なうちにしてしまう4年生までの読
み方です。4年生まで徹底的に練習してきたことというか、勉
強してきたことが生きながら、だけどこの表現が見つかった時
に違和感とか「おかしい」ということが子供からでてきて、そ
れを軸に、「じゃあ、おかしなところ点検してみようか」みた
いな読み方になったり、「おかしなところがあるんやな、そう
いうところを視点にしていこうか」っていうのを子供の側から、
なんかこれはそういうふうにして読まなきゃいけないんじゃな
いかみたいな意識が出てくると面白い。今年はじゃあそれにプ
ラスαバージョンで。どうやってそういうふうに導くか、課題
がふりかかりますね。
一読だからだめってことはない。その前のところと繋いだり
した時に見えてくるとか、前との繋がりさえ保障されると一読
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でもそれはできると思うけど。全体を見た時にもう一回見直し
てやる授業が効果的かと思う。それじゃ一読じゃねえじゃねえ
か、もう一回読んでるじゃねえかって言われるかもしれません
が、でもそれはやってもいいと思う。最後の立ち止まりを読ん
だ時にもういっぺん今まで出てきた場面と繋がるところを探そ
うみたいな読み方をしたら、たぶんもう1段深まると思う。仕
掛けがみえてくる。
荒木:ほか、言い残したことは?
藤原:一つ、何で「ただでごちそう」とあるのに、後で78ペ
ージ、黒い戸の金物全部ここに置けというところで「かんじょ
うは帰りにここではらうのだろうか」
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荒木:矛盾してる。
住田:この部分立ち止まりで読んだ時に、「先生最初ただだっ
て言ってたよな、この人ら」ていうのと、「ちょっと戻ってみ
ようか」っていう繋がりができる。一読でやった場合、このこ
こしか読んでないっていうケースがあって他のところと繋がり
が持てる子は力がある子だが、そういうのが出てきた時に読み
返しと繋ぎ合いっていうのができるといいなと思う。ただ、こ
れ解決しないですけどね。あん時はそう思ったけど、こん時は
そう思ったんだっていうふうに変化したねって言うしかないん
ですが。気づきたいところですね、ここはね。
せっつ・スクール広場協議会 国語部会 研究授業のお知らせ
平成21年 2 月17日(火) 6 時間目 三宅柳田小学校にて
「注文の多い料理店」
授業者 加納朋子先生(三宅柳田小)
◎広場の参加者以外の方も是非ご参加下さい!
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「走れメロス」
:中学校教材を構造的に読む。(中学校編)
作:太宰治
荒木:今日は「走れメロス」です。中学校ですね。このスクー
ル広場は、一昨年くらいから小中連携を意識しています。小学
校と中学校でお互いに繋ぎ合いながらどう見ていくというのを
強く意識しているところです。「走れメロス」は中二の三学期
くらいにやることが多い教材です。大体どこの会社の教科書に
も載っていますね。定番中の定番ということでございますので、
中学校の先生を長くされている方は、何度も扱ったことがある
教材だと思います。小学校の先生には、是非この中学校の長文
を見ていただいて、小学校の日頃の授業にも生かしていただけ
たらと思います。よろしくお願いします。
本町:この話は中学の時に私も習った記憶があって、王様の邪
知暴虐、卑劣さに対してのメロスの正義感が書かれているので、
メロスの性格や考えから、人を信じる気持ちであるとか、友と
友との間の信実は一番の大切な宝物なのだということを子ども
達には勉強して欲しいと思いました。
加納:うまくまとまっていたいのですが、読んでいて一文一文
が短くて勢いのある文章だなと思いました。読みやすいがため
にどっぷりとメロスと同化してしまって、正義とか信実とか愛
とか綺麗事だけではなく、人間の本来の汚い部分、揺れ動く部
分が、すごくうまく表現されていて、読んでいて共感が持てる
物語と思いました。特に中二というのは色々と揺れ動く時期な
ので、この教材がこの時期に組み込まれているのかなと思いな
がら読んでいました。気になる表現としては、何で「走るメロス」
ではなくて「走れメロス」なのかなと思いました。ただ「メロ
スは激怒した」というところが二回、冒頭と七十九ページの下
の二十四行目に出てきて、その間で何故激怒したのかというの
かを二重の書き表し方をしているのかと感じました。「あ、気
付いた」と思いながら、でもそれが何に繋がるかまでは分かり
ませんでした。
藤原:僕は、太宰作品はメロスしか読んでいなかったので、改
めて作者はこの作品にどんな気持ちを寄せているのかなという
のを調べながら読んでみました。概観としましては、メロスの
激しい心情、強さと弱さ、正と悪との対立や葛藤というのがあ
りますが、そういうところが軸かなと思います。調べていくう
ちにいただいた資料で中学校の学習のポイントの中に、結婚式
の最中とかをそれ頼りにして、こんなふうに心が動いたかとか
いうのが書いていたのですが、フォン・シラーの「人質」とい
う詩を翻訳したものをもとにして太宰治が書いたというのが分
かったのですが、その時に翻訳した人が原文にはない箇所があ
って、メロスが故郷に帰って妹を結婚させる場面、村を出てか
らのんびりと市に向かう場面、盗賊に襲われる場面、途中で力
尽きてしまう場面、刑場で再会する場面、メロスに緋のマント
を捧げる最後の場面、これが太宰が加えた場面なので、まさし
く読み取りは太宰が意図的に加えた場面をもとに読んでいくと
いうことになっていくのかなと思います。つまり、この作品は
太宰の術中にはまりながら読まれていく感じがしまして、どん
な風にこれが実際に使用されているのかなということを楽しみ
にしてきました。
個人的には王がなぜ人間不信になったのかということが書か
れていないので、それは推測の域だと思いますがそれが分から
なかったのと、メロス自身も激しい感情を持っていて、王の残
虐に怒りながらも自分が王を亡き者にしてしまうという理論の
おかしいところですね。最終的には人間の本質はみんな同じで、
要はそのバランスで、メロス自身はそのバランスが良くて、最
後はセリヌンティウスとの約束を果たすのですが、その辺のバ
ランスが違うだけで、最後に私も仲間に入れてくださいみたい
なところがあり、何かみんな同じ質で描かれているのかなと思
いました。ついでにこの際「お伽草子」を太宰治が書いている
ので読んでみたのですが、これは本当にパロディになっていま
して、メロスなんかはよっぽど毒々しくパロディとなっていま
して、こぶとりや浦島太郎なんかもあったのですが、本当にヒ
ーローである浦島太郎とやカチカチ山のウサギが翻弄されてい
るので、こんなのを子どもが読んだら大変だろうなと思いなが
ら、メロスも改めて見ながらそういう作者との関連を踏まえな
がら見ていきたいなと思います。
青島:私も「走れメロス」は久しぶりに読みまして、まず単純
に思ったのは中学校の教材は、非常にたくさん熟語が出てくる
なと改めて感じました。中身については、まず冒頭のある部分
に、前、ある資料を読んだ時に物語の冒頭にも人物像であると
か背景というのが書かれているので詳しく読むべきポイントだ
ということでしたので、それを意識して読みましたら、ここに
もたくさん書き連ねてあるなということを改めて感じました。
そう思うと私自身も読みが浅いので、ここの冒頭はどこで切れ
るのかという切れ目がはっきりしないままメロスだけのことだ
けではなく、周りの人たちのことにも触れながら、周りの人の
詳しい状況もだんだんと絡んできて、冒頭といってもどこまで
がピシッと分かれるか悩みました。メロスの心情ももちろんで
すが、特に私が引っ掛かった表現は、非常に葛藤している様子
であるとか、最初面白いと思ったのが、王と出会った時に非常
に怒りの気持ちをもって接していたのにも関わらず、会話文を
見ていくと「与えてください」とか「・・・します」というふ
うに丁寧な口調になっているところは意思の強さが出ているの
かなと思ったり、途中の妹の結婚式のところでは未練の情が出
てきたり、そこに打ち勝って困難にも乗り越えていく姿である
とか、そこにまた葛藤の場面が出てきてというのが非常に人間
らしいところなのだなと思いました。最後のところで八十九ペ
ージに清水が湧き出ているというのが一つポイントとなって、
またメロスの心が強くなる部分や、王様ディオニスについても
先ほど藤原先生もおっしゃっていましたが、きっと過去に何か
あって、本当は信じたいのだけれども信じることができなくて、
どこかメロスにそういうところを見せてくれという願いもあっ
ての最初の冒頭のメロスとのやりとりだったのだろうなと感じ
ました。あと、以前この国語部会で、中学校の教材の芥川龍之
介の「トロッコ」を扱った時に、物語の展開と作者の人生とが
絡みあっていたことに大変納得した部分がありましたので、
「走
れメロス」にも太宰治の生き方に繋がって物語が組まれている
のかと思いました。
荒木:太宰治というのは「人間失格」とか「斜陽」とかどちら
かというと滅び行くというようなイメージがある中で、この作
品だけは極めてポジティブであるというのが昔から私の印象で
あります。まずとにかく文体が歯切れ良いとかリズムが良いと
いうか一文が短い。一文を短くしてテンポを上げてそれなりに
長い文でもテンポがあるんですね。出だしはみんな短いのかな
と見ていたら、例えば「メロスはその夜、一睡もせず十里の道
を急ぎに急いで、村に到着したのは、明くる日の午前、日はす
でに昇って・・・」というように、この講壇調みたいな非常に
リズムが良いというのが一つ思うところです。それから冒頭が
「メロスは激怒した」で最後は「勇者は赤面した」というとこ
ろの対、ここは非常に印象に残るところです。それから初めの
「メロスは激怒した」が二回続き、その次「メロスは単純な男
であった」というところの断定調、この辺のところです。今ま
で授業をしてきた中で、大体扱っているのは初めのところでメ
ロスの紹介がかなり詳しくテンポ良く並んでいるところす。要
するに授業で言っているのは、メロスの考え方とディオニスの
考え方の対比みたいな表を書かせたりというのはよくやります
ね。
それからメロスの葛藤があるということと、立ち直るところ
ですね。大体キーワードとして線を引かせるのは初めのところ
で、必ず線を引かせるのは、メロスの考えが「人の心を疑うの
は最も恥ずべき悪徳だ」というところ、八十ページですね。そ
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れから王様ディオニスのところは「人間はもともと私欲のかた
まりさ」という二つをよく並べたり、テストに出したりします。
それから八十九ページのところで、
「義務遂行の希望」とか「我
が身を殺して名誉を守る希望」とか「信頼に報いなければなら
ぬ」とかこの辺をキーワードに色々やりますね。その次の九十
ページ「真の勇者」とか「正直な男」とあるのですが、大体一
番の話の山は、どこにもっていくかというと、私は九十二ペー
ジの加納先生のレジュメにありましたね、「私は何だかもっと
恐ろしく大きいもののために走っているのだ」ここを一番の山
にしました。その後は加納先生も書いてあった、その下の「わ
けの分からない大きな力」というのもあるのですが、この「何
だか恐ろしく大きいもの」これをなんとなく感じてくれたら良
いなというそんな気持ちで授業をしていたような気がします。
片山:中学校でもなかなか難しく理解しにくい言葉が多いので
すが、この「走れメロス」の流れに沿っていけば、そんなに分
かりにくいということはないので、子ども達も分かり易いかな
と思いますが、出てくる一つ一つに関しては、正義とか信実と
か愛とか友情というような道徳的な部分があって、それぞれが
感じやすい。だから全てが同じようなとり方ではなく、対立す
るような意見も出てくる。どの場面でもそういう可能性がある
面白い教材かなとは思います。何度かやっていますから、とり
とめてこれというのではなく、もうみんな分かっているという
ような感じで劇とかでもやったりしても面白い、みんな分かっ
てくれているというような感じです。メロスの話一つとっても
先ほども対立すると言いましたが、必ずしも良いものというふ
うには描かれていない。見方によっては結構わがままというか、
結婚させるところでも自分の言いなりにもっていくし、見方に
よっては善人であっても、善人というのは結局、人を自分の思
いどおりにするというところがあるともいえます。今日は住田
先生の新しい解釈とか岡部先生の意見も聞いて考えを新たにし
たいと思っています。
萩原:久しぶりに読んで、とても納得した部分があったのです
が、どう書いて良いのか迷ってしまい、一人の人物に対して、
例えば王なら「邪知暴虐の王」とか色々な呼び方で書かれて、
メロスの気持ちの変化を見ても、色々な気持ちが書いてあると
思いました。このメロスは自分のことを偉い男と言ったり誇っ
てくれって、最初の方は自分を高めているような「真の勇者」
とかという言い方をしているのですが、だんだん心が変化して
きたところでは「裏切り者」「悪徳者」と言ったり、自分のこ
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とを書いている部分を見ても変化しているのが分かって、長い
けれど読みやすい物語だなと思いました。
岡部:三省堂の教科書では今の時期に扱う教材で、ちょうど今
授業をしている最中なのです。子どもが変わってきているとい
うのをあちこちで聞いているのですが、私も何度もこれをやっ
ていてすごく面白かったのが、先ほど荒木先生が「もっと恐ろ
しく大きいもののために走っているのだ」という部分がキーワ
ードだと言われていましたが、これを子どもがどう読んだかと
いうと、じゃあ友達はいいのか。人の命はいいのかと。友達は
どうするねん、と言う子がいまして、思うことがいろいろで面
白いなと思いながら取り組んでいるところです。それから、二
人同時に「ありがとう友よ」と言っている光景がどうも理解で
きないとか、この信実の「信」がなんでこの字なのかというこ
とをいつまでもこだわっている子もいます。今回は好きな場面
を選んで、ちょうど三年生が文化祭の劇の練習をしていますの
で、脚本を書かせているのですが、確かに話の筋はみんな追い
かけて読むことができるのですが、すごく何でやねんと思う部
分が子ども達にも大きいみたいで、納得いかないような形で話
を読み終わっている子はたくさんいるかなといったのが印象で
す。
荒木:というところですが、今日はどこを切り取るというのが
難しいと思います。
住田:考え方として長いものを短い時間で全部扱うことはでき
ませんので、焦点を絞っていくとすると、まずは冒頭について
検討したら良いかと思います。青島先生が冒頭に注目してみま
したというところがあって、それから加納先生が「激怒した」
というのが二回出てくるみたいな「注文の多い料理店」で「山奥」
が二回出てくるという発見に似ていると思いますが、つまり二
回出てくるという発見を例えば一つの手がかりにしながら、冒
頭部分についてあれこれ考えて言い合ってみたらどうかなと思
っています。小学校教材でいうと、例えば「つり橋渡れ」の冒
頭部分は時間軸がずれているわけですよね。「やーい。悔しか
ったらつり橋渡ってかけて来い。」という言葉があって事情が
あって、ということでした。ちょうど「メロスは激怒した」「あ
きれた王だ」「生かしておけぬ」というわけで、ここからもと
の時間に戻りますというふうにそれまでの経緯のようなものが
挟み込まれている。そういう構造になっているのです。これは
「走れメロス」で初めて出てくるわけではなくて、小学校でも
頻繁ではないにしろ、子ども達の読み物に出てこないわけでも
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ないものです。冒頭、インパクトのある一行目でいきなり「激
怒した」という言葉から入るということの意味を考えていくこ
とができるかなと思って、そういう意味では二個目の「激怒し
た」までを冒頭と考えたら良いのかなと思います。
そこからは具体的に事件が起こってきますよね。メロスが短
剣を持ってのそのそと王城に入っていくという、そこまでが要
はこの物語の背景であり、設定であったりが隠されているのか
なと思います。そういう意味では激怒した、「かの」の部分は
まだ語られていないのですが、邪知を持ち、暴虐なんだという
王様の性格が一方的にメロスの意識の中で、メロスにとって邪
知暴虐の王なのですよね。メロスが決意したわけですから、メ
ロスが決意したイメージの中で、ディオニスという、かの王は
邪知暴虐の王なのだということがこの言葉から浮かび上がって
きますよね。それで、「メロスには政治が分からぬ。メロスは
村の牧人である。」といったメロスの紹介になっていくという
ことですね。「笛を吹き、羊と遊んで暮らしてきた。けれども
邪悪に対しては人一番に敏感であった。」だからこんなことに
なっちゃったというわけですよね。この物語の主人公としての
メロスが持っておかなければならない性質というのがちゃんと
ここの「人一倍敏感」だからいきなりそう思っちゃうわけです。
「政治が分からない」から、いきなり短剣をもって入っていっ
ちゃうわけです。殺せと思うすごくシンプルで単純な思考回路
だというのがこの辺の情報で出来上がってくる。その次のとこ
ろについては先生方どう読まれますか。「今日未明メロスは村
を出発し、野を越え山越え、十里離れたこのシラクスの町にや
ってきた。」これって必要ですか。同じタイプの質問を重ねて
いきます。これって必要ですかねというタイプの質問を重ねて
いきたいと思いますが、これって大事ですか。物語の冒頭に必
要な情報でしょうか。
荒木:これはやはりこの間を必死で走るという仕組みですから
村と町が離れていないとこの物語は成立しないでしょう。
住田:その離れているのが、どのように離れているのかが必要
ですよね。はっきりこれくらいなのだということは読者は全然
意識できないと思います。後で効いてくる設定です。このセッ
ト、つまりA地点とB地点、シラクスと村という二つの地点を
メロスはどれくらいの時間をかけて移動するのかという舞台設
定なわけで、この物語の中で、ものすごく大事なわけですよ。
そこを色々な冒険をしながら困難に立ち向かいながら走ってい
くのですから、そういう情報がこういうところでパッとでてく
るわけです。これは「もう既に日が落ちて」という時間の経過、
多分ここと繋いで考えると「野を越え山越え、十里離れたシラ
クスの町に」未明に出発して出てきて、色々ぶらぶらしていま
すからこの間に三、四時間過ごしたのかも知れませんが、「も
う日が暮れて」というシラクスの村に未明に出発したメロスが
のんびりぶらぶらしているけれども、その薄暗がりのたそがれ
時の中で事件の発端を知るという流れなのです。それが「もう
日も落ちて」と書いていると、なんかラストシーンの日暮れに
向かって走るということの予告編のような感じもします。色ん
なことを考えながらこういう表現が冒頭のところにあるという
ことを最初は気付かないのかもしれないけれど、後から読み直
した時に「あ、ここにこう書いてあるのが大事だな。」という
ようなことに気づく仕掛けがあるのかなと思います。
「メロスには父も、母もない。女房もない。十六の、内気な
妹と二人暮らしだ。」大事ですね。これがあるからメロスは命
乞いをしなければならなくなるのです。「走れメロス」という
ドラマが生まれるのはこの妹の存在ですよね。この妹のために
こそ何とかしなければならないという重要な任務を帯びている
わけですよね。「この妹は、村のある律儀な一牧人を近々花婿
として迎えることになっていた。結婚式も間近」その準備のた
めにやってきたわけですよね。とても大事じゃないですか。そ
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んな簡単に王の暗殺なんて企てちゃダメじゃないですか。つま
りそれほど大事な妹のためにやってきたのに、その当初の目的
を忘れてはいないのでしょうが、激怒して「かの邪知暴虐を」
というふうになってしまうところを考えると面白いんですよ
ね。このこと自体が重なり合いながらメロスという人物への読
者である子ども達への接近の仕方というのが決まっていくわけ
です。
これが実はこの広場で前回にやった「注文の多い料理店」を
読む時に、出てくる二人の紳士という人物に対して何か好まし
からざる、シンプルに「なんだこの人」というとか思うような
作りにはなっていないのですが、その人物を考えていく時に、
メロスにだけ寄り添い同化するだけではない読み方をしていく
時の切り口を持っていたりします。読者を「婚礼の品々を買い
に行ったのに何してんねん。」と揺さぶった時に、ちょっとメ
ロスという人物に対して少し距離を置きながら読者は読むこと
ができるし、そうしていくとどんどん面白くなっていくと思い
ます。メロスにどっぷり入って、はらはらドキドキするだけで
はない物語。中学校二年生でそういった神話的な英雄譚をメロ
スと一緒になりながら成功に終わるという一つのハッピーエン
ドで終わる物語として読む必要はないと思います。だから分か
り易い表の筋のみではなく、裏の筋というのを当然中学生たち
は読んでいくし、そこを見事に仕掛けていくあたりの要素が仕
掛けとして面白いかなと思います。
その次です。大事なのは妹がいて、妹は婚礼が近いというこ
とと、次に出てくるのは竹馬の友セリヌンティウスです。これ
もここで述べておく必要がありますよね。つまりこれだけあっ
たら後はディオニスという存在が提示されればドラマが始ま
る。「久しく会わなかったのだから、訪ねていくのが楽しみで
ある。」という当初の目的があったわけです。それも果たさな
いうちに暗殺計画を実行してしまうんですよね。会っておけば
ひょっとしたら思い留まったのかもしれないし、止めとけと言
われたかもしれない。そういう意味ではセリヌンティウスとい
う人物の具体的な固有名詞で出てくる物語上の必然性はここだ
け読んでいくとないわけです。だけども後で必ず出てくる。必
ず出てくる時に唐突でないのにセリヌンティウスがいる。それ
を人質にしてくれというためには、彼と会うためにぶらぶら歩
いているということが、物語の設定の中では重要になってくる
わけです。そして「もうすでに日も落ちて、町の暗いのは当た
りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりではなく、
町全体が、やけに寂しい。のんきなメロスも、だんだん不安に
なってきた。いつもと違う」で、その次なのですが、こんなと
ころにこだわり始めると訳が分からなくて答えなんかないです
よ。答えがないのに引っ掛かるところというと、道で会った若
い衆を捕まえて「何かあったのか」と聞きます。一人目、何も
言いません。若い衆は首を振って答えなかった。しばらく歩い
て老爺に会い、今度は二段階で聞いています。言ったけど言わ
ない。三段階目、もう一度強く揺すぶってとやるのは何故でし
ょう。岡部先生、中学生がここを脚本で書く時にどうしますか
ね。
岡部:ここは割と一場面選んでいる子が多くて、この老爺は何
故言わないのだろうというのは出ていました。一回目で答えな
かったというのは言っています。
住田:若い衆はいらなくないですか。
岡部:若い衆は、子どもたちは無視していました。若い衆を書
いている子はいなかったと思います。いきなり老爺とメロスを
描いていて、若い衆は削除されていました。
住田:配役ですけれども、一人人材削減できますよね。それを
なかったことにする。でもそれをなかったことにできないはず
なのですよ。一番目に老爺がいてブンブンと振って、二人目が
若い衆で「実はね」と言っても良いのですよね。そうじゃない
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作り方になっている。何でかな、なのですが、そういうことを
実は多分演劇空間をもし作ろうとしたら、その場を一つのリア
リティのある、太宰の表現によって創り出されていようとする
世界をもしも演じようとするならば考えなければなりませんよ
ね。最初の人物は何の役割を果たしているのか。じゃあ一人で
いいやん、省略しましょう。ホンマにそれで良いんかいなと思
いながら、というそれが最初の人はこういう性格だったからと
いう意味ではないですよね。仕掛けですよね、この物語の。状
況がディオニスのいわば不信から生まれた悲劇的な暴政、暴虐
な暴君の有様を語る時の語らせ方として、一人ではなく二人、
しかも段階がある、最初は首を振って何も答えずに。多分メロ
スからすると、おかしいな、何で言わないのだろう。そして、
老爺であれば事情を深く知っているし経験深いし、生知に長け
ているだろうから何か聞けるだろうという期待を持って、もっ
と声を強くして質問した。メロスのこのおかしな状況に対する
興味、関心への高まりをこれで表していくわけです。
だからどういう人物だったかはあまり意味がない。意味はあ
るのですが、メロスの興味、関心の高まっていくためのドラマ
がやはり必要なわけですよね。だから若い衆も脚本には入れた
ほうが良いと思ったりするわけです。脚本にそれがないことの
意味があるのかということを考えていくことが、多分ここでの
物語の作り方として意味を持ってくるのだろうな。そういうと
ころを気付いていかせる、あるいはみんなで考える。メロスが
どういう気持ちになったかということから入る。なぜ二人に聞
かなければならなかったのか。結局答えたのは老爺だから老爺
だけで良いやん。と言うような揺さぶり方でやっていくと何か
見えるかな。そこに反応できる学力というのが多分構造の向こ
う側に太宰治を感じている。そういうふうに作ってあることの
向こう側に太宰治がいるわけですよ。一人じゃなく二人で、こ
の順序でこんな形でと言う言葉を選び取った人がいるという感
覚を持ちながら、対話していくということですね。
この時に先ほど岡部先生が言われた、脚本化するとかは結構
有効な方法だと思います。書き直すわけですよね。舞台監督と
してはこの青年はいらないと思います、いや、いると思います、
何で?というその発想自体がその人物を登場させて何かさせよ
うとしている作者体験、作者の立ち位置を子ども達に任せるこ
とになるというところがあるのかなという気がします。
今、先生方が思われたようなことを切り口に、冒頭部分のは
ばかる、小声で、わずかになどと言いながら王様が人を殺すと
いう事態が語られていくというのがありますね。冒頭部分がこ
んなふうにいくつかの要素が絡み合いながら、しかもどれもが
「走れメロス」というドラマが展開していく上での前提となる
一つの場面を形成していますよね。これが冒頭場面だというふ
うに言うことができるというわけですよね。メロスは単純な男
であった。これは多分「聞いて、メロスは激怒した。」「メロス
は激怒した。かの邪知暴虐の王を除かねばならぬと決意した。」
「あきれた王だ。生かしておけぬ。」対応していますよね。そし
てその次に「メロスには政治が分からぬ。」「メロスは単純な男
であった。」という、また仕切り直しで同じ階段を上っていく
ように始まっていく。そして、ここから最初のディオニスとの
対決が出てきます。
このディオニスっていわゆる暴君のイメージではないのです
ね。暴君はもっと残酷なことをしたり、乱暴を働くとかいうイ
メージがありますが、このメロスの前に、静かにけれども威厳
を持って登場する。ここで述べられるのは、メロスという政治
が分からぬ単純な思いつきで行動する軽薄なやからに対して、
重々しく色々なことを考えて、相手をしようとするすごく大人
の人を感じたりするのですね。別にこの人を好ましい人物と言
うつもりはないのですが。よくよく考え、考え抜く中で不信の
人となってしまうというような、メロスとの対話の中ではそう
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いう人物像のような気がするのです。そうすると、メロスは反
対で、この人は何も考えていないわけですよね。考えず行動す
る。正義を信じ、人を信じ、それに対してそこに信じられない
こととか裏切られることであるとか不信であることに対する苦
悩をメロスは持たない存在なのです。それに対して苦脳だけを
持っているディオニス、この両者は極めて極端な存在であるわ
けでして、この二人が対決する次の場面、この物語の場面設定
の次にある最初の状態のような気がします。極端なのです両方。
反メロスがディオニスで、メロスは反ディオニスなのですよ。
単に正義を信じ人を信じられないという二項対立ではなく、要
は色々な先生がおっしゃていたように、何があってこんなに人
間不信になったのだろうということは描かれないし、また描か
れる必要も多分ありません。個人的なある具体的な体験がある
からではなく、普遍的なわけです。人間は百パーセント信じら
れる人間もいなければ、百パーセント信じられない人間もいな
いというそのバランスの上にしか私たちはいないわけで、当た
り前なのですね。それを極端に両側に無理やり置いたのがこの
二人の人物だというふうに見えてきたりします。だからこの場
面をやる時に荒木先生や他の先生がされた表組みのような形
で、この両者がいかに違うように描かれているか、どう違うよ
うに作られているか、造形されているかというようなことを押
さえておくと、最後どうなったというところに行けるのかなと
いう気がします。
例えばこんなところですね。「疑うのが、正当の心構えなの
だと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。」というあた
りはすごく深いですよね。この後、まさに疑われても仕方がな
いことをメロスは散々にやっていくわけです。つまり正義の徒
であったメロスが、様々に不信の徒であるディオニスが言った
とおりのことをやっていくということがこの物語のクライマッ
クス直前のところの姿ですから、まさにそういう意味では本質
を言い当てている。メロスはそのことへの葛藤なく、信実、そ
して友情、正義といった価値をシンプルに信じている存在。す
ごくたちの悪い存在ですよね、メロスって。そこに巻き込まれ
たセリヌンティウスって本当に気の毒だなと思います。そして、
牧人とのショートカットの結婚となる妹も迷惑な話だなとも思
ったりもします。片山先生が言われた、善人がいかにひどいこ
とをするか、別にそんなことをパロディにしている感じではな
いのかもしれませんが、その正義の徒というのがいかにたちの
悪いものかということをメロスは体現しているかのような設定
だなと思ったりします。
この場面からそんなふうに作られているのではないかなと思
いながら、この三日間の猶予が出てきますね。この辺の面白い
ところを考えたいのですが、時間も限られているので、先に行
こうかと思います。今のように冒頭部分があって、その後に人
物が対峙される、メロスとディオニスという人物の鮮明な対話
による一幕。演劇的に考えると分かる。メロスとディオニスの
対話の一幕というものの中で、見事に二人の人物の設定された
立ち位置、その二つを押さえた上で動き始めるわけですよね。
メロスの出発という旅が始まるのが八十二ページの下の段、
「メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。メロス
はその夜、一睡もせず十里の道を急ぎに急いで、村へ到着した
のは、明くる日の午前、日はすでに高く昇って」とここからは
まさに時間の経過、たぶん中学校の先生方はこれを一つのタイ
ムスケジュールで押さえて、一体どういうふうにドラマが進行
するのかを子ども達と一緒に作っていくという活動をされるか
もしれません。そういうことをされると面白かったりするので
すが、その時に先ほど言った冒頭の設定というのがここと繋が
っていくというところですね。「メロスの十六の妹も、今日は
兄の代わりに羊群の番をしていた。よろめいて歩いてくる兄の、
疲労困憊の姿を見つけて驚いた。」となるわけですね。「無理に
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笑おうと努めた。町に用事を残してきた。明日、おまえの結婚
式を挙げる。早いほうがよかろう。村の人たちに知らせて来い。」
この辺に繋がってきますよね。つまりこの一晩かけて歩きに歩
いた、走ったのかな、走ったとしましょう、疲労困憊でよろよろ、
この全部がこの十里が決して楽な道でもなく、容易に行き来で
きる道でもないということを予告するかのようにあるわけで
す。この疲労困憊ということが強調されるような書き方の中で、
呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。なるほど、す
ごく厳しいわけですよね。目が覚めたのは夜だった。これで一
日費やしたわけですよね。最初の二十四時間を。「メロスは起
きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、事情があるから、結
婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿の牧人は驚き、それはい
けない、こちらにはまだ何の支度もできていない、ぶどうの季
節まで待ってくれ、と答えた。メロスは、待つことはできぬ、
どうか明日にしてくれたまえ、とさらに押して頼んだ。婿の牧
人も頑強であった。なかなか承諾してくれない。」
さて、今読んだところは必要ですか。とても大事ですよね。
こういうふうにドラマは作られていくのですよね。ここで「は
い、そうですか。」と言ってくれたらどんなに良いことか。そ
うならないように作ってあるわけですよね。いわば目的を阻む
ものをどう合理的に入れていくかでドラマというのは作られて
いくわけですよね。お話の作り方、みたいなものですよね。だ
から、「実直で律儀な村のある一牧人」、重要ですよね。どうで
も良いじゃないですか、という人じゃない人を婿にとろうとし
ているということが重要なわけですよね。やっと夜明け方まで
延々と説得しなくてはいけなくなった。そして真昼にようやく
結婚式を挙げた。というふうに時間が動きながら、その間色々
と片付けなければならないこと、乗り越えなければならない困
難がどんどんやってくる。そういうことを意識するとすごくい
らいらしたり、はらはらしたり、何か夢の中で目的地になかな
か着けないような、ああいうじれったい感じを読者は受けるよ
うに作ってあるのだなということが見えてきたりしますよね。
「新郎新婦の、神々への宣誓がすんだころ、黒雲が空を覆い、
ぽつりぽつりと雨が降りだし、やがて車軸を流すような大雨と
なった。」これはどう扱われてきましたか。
片山:洪水ですか。・・・
住田:繋がってきますよね。つまり雨の情景というのは後で洪
水となって立ちはだかるわけです。そこでいわゆる伏線です。
もう少しあって、狭い家の中でむんむん蒸し暑いのをこらえ、
その中で外に豪雨、中にはすごく暖かい、熱いかもしれません
がすごく幸せな楽しい世界といった一つのコントラストを見せ
ながら、この夜がずっと続き、一生このままここに居たいと思
う。この良い人たちと生涯暮らしていきたいと願ったというと
ころ、外の雨がなんとなく響き合うような感じがし、その内側
で盛り上がる。空が満天の星で晴れていたら違うかもしれませ
ん。そういうものに織り込められているが故に何かこの場の宴
席の良さみたいなものが、メロスを苦しめていくわけですよね。
おいおいって感じですよね。あなたの友達はあなたのためにと
いうのを差し挟めば、すごくメロスに対する一つの距離をとり
ながら子ども達は持つこともできるわけですよね。しかし、
「今
は、自分の体で、自分のものではない。ままならぬことである。
メロスは、わが身にむち打ち、ついに出発を決意した。明日の
日没までは、まだ十分の時がある。」これはメロスの内なる声
ですね。
「ちょっとひと眠りして、それからすぐに出発をしよう、
と考えた。そのころには、雨も小降りになっていよう。」とい
うのが実はメロスの出発を妨げる要素としてこの豪雨が、そし
てその後彼を阻むものとして、雨が彼を引きとめ、この村に留
めるように促す一つの要素として作用している。このものを見
ていくと見えてくる。そしてまた一眠りというのも、疲労困憊、
困憊、困憊。それが積み重なって、一眠り分かる、分かるけど
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良いんかな、寝て「長くこの家にぐずぐずとどまっていたかっ
た。」
「メロスほどの男にも、やはり未練の情というものはある。」
「おまえの兄の、いちばん嫌いなものは、人を疑うことと、そ
れから、うそをつくことだ。おまえも、それは、知っているね。」
ここにそれが出てくるわけですが、メロス自身がそれに負けて
しまう、という一つの要素をこの後見せるわけですね。「宴席
から立ち去り、羊小屋に潜り込んで、死んだように深く眠った。」
この繰り返し・・・。呼吸もせぬくらいの深い眠り。二回目の
眠りです。もう一回くらい眠りますかね。清水のところで。眠
りというキーワードを拾っていくと、また一つ繋がりのある表
現が出てくるのかもしれません。「目が覚めたのは明くる日の
薄明のころである。メロスは跳ね起き、南無三、寝すごしたか、」
こういうふうになっていくわけですよね。ぞっとするような夜
明けですよね。「いや、まだまだだいじょうぶ、これからすぐ
に出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。」この瞬間
にも冒頭に出てきた、「今日未明メロスは村を出発し、シラク
スの村にやって来て、ぶらぶら歩いて日暮れ時にセリヌンティ
ウスを訪ねようとして」というあの時間と完全にはまるように
なっているわけです。あの時、余裕を持って夜半に出発し、あ
の時よりも余裕を持って着けば楽々だというのではない、あの
時は余裕を持って歩いてきたのでしょうけれども、そこを早く
突破していかなければ、なかなか難しい状況になったというこ
とがこの辺で分かってきてしまう。「メロスは悠々と身支度を
始めた。」というのをもし、セリヌンティウスは実況中継のモ
ニター見たらどう思うんでしょうね。「悠々と」という辺りの
ところが多分仕組まれていますよね。いや。まだまだ大丈夫、
これから十分間に合う。これから間に合わなくなってくるのだ
な、ということを物語の仕掛けとしては持っているわけですよ
ね。「雨も幾分小降りになっている様子である。」という雨とメ
ロスの行動というのが緊密に繋がっている。「身支度はできた。
さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢のご
とく走り出た。」
もう一つ、着目しなければいけないことは話法なのですね。
三人称の語り手なのですが、「私は今宵殺される。」というふう
に、突然一人称になるわけですね。一人称的に三人称は振舞う。
これは鍵括弧をしてもいいようなところなので、メロスの内面
を語り手がメロスになったかのように語っていくということな
のです。だからこの辺は小学校の教材には多分出てこない。混
乱するから。「私は今宵殺される。」え、語り手?という混乱は
なくて、それがメロスの傍らにいる語り手がスッとメロスの内
面を一人称的に語るということを次々にやっていく。この辺の
どういうところがメロスの内面というか一人称的に語り、どう
いうところが突き放して三人称的に語るのかというところを見
ていくとひょっとすると面白いところが見えてくるのかなと思
ったりするのですよ。まだ僕は深くそこを分析していないので、
こういう時にセリフと語りがどんどん繋がっていくような、複
雑で多彩多様な語り方みたいなものと、それが繋がってくるの
かなと思います。「そうして私は殺される。若い時から名誉を
守れ。さらばふるさと。若いメロスは辛かった。」もう違うわ
けですよね。「私は今宵殺される。若い時から名誉を守り、若
いメロスは辛かった。」「若いメロスは辛かった」というのはも
う一人称ではないですよね。だけどメロスの内面を語っていく。
自分の招いたこと、覚悟したことと言いながらそれに対する辛
さ、後悔、複雑な様々な気持ちが出てくる。「幾度か、立ち止
まりそうになった。えい、えいと大声をあげて自身をしかりな
がら走った。」というふうに実は矢のように走り出たが、足が
止まっていく。それを止らせて行くのは、自分が死んでしまう、
今日殺されるという思いなのでしょう。自分が色々やりたかっ
た人生を振り返りながら様々なことに葛藤していく様子。メロ
スはこの事件以前は分かりませんが、そういう葛藤、メロスの
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葛藤というのは走り出して以降ずっと語られていくということ
なわけですよね。今まであまり何も考えず、葛藤もなく行動し
てきたメロスが、ようはこの事態に及んで初めてではないかも
しれませんが葛藤していく。考えながら、自分を揺さぶりなが
ら歩いていくということだろうと思います。「隣村に着いたこ
ろには、雨もやみ、日は高く昇って、そろそろ暑くなってきた。
メロスは額の汗をこぶしで払い、ここまで来ればだいじょうぶ、
もはや故郷への未練はない。妹たちは、きっとよい夫婦になる
だろう。わたしには、今、なんの気がかりもないはずだ。まっ
すぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要
もない。ゆっくり歩こう、ともちまえののんきさを取り返し、」
というふうに天気の変化、改善がメロスの未練と引き戻すベク
トルから解放して、これで間に合うという、すごく未練から切
り離された、ゆったりした気持ちにさせていく。だから雨とい
うのはメロスを村に引きとめ、留めようとする彼の未練、メロ
スの未練の気持ちと繋がったものとしてあるという感じがすご
くするんですね。
それで川がそれをせき止めている。最初の困難ですよね。こ
こまで実は雨によって引き止められたり、自分の若さゆえの後
悔や未練に葛藤しているというのを振り払ってやってきたメロ
スが最初に具体的に足止めを食らうのが、豪雨の氾濫ですね。
この最初に雨として、メロスにここにずっと留まっていたいと
いう気持ち、ちょっと寝てから行こうと思わせた雨が、次には
具体的に本流となって留める。少し話が飛びますが、もう一度
水という観点から言うと、雨というのが姿を変えてもう一度出
てきます。「ふと耳に清水の流れる音が聞こえた。そっと・・・」
これも水なわけですよね。四肢を投げだして「もう、どうでも
良い。」
「このまま悪徳者として生き延びちゃえ。」という最初の、
ディオニスの言ったとおりの人間のある本質をむき出しにし
た、うとうとまどろむ。三回目の眠りについた。メロスが目を
覚まし、それに力を与えるものとして、泉の水が出てきます。
これが物語の大きなターニングポイントになります。つまり引
き止め、大きな障害となっていた雨がもう一度今度は違う形で
もう一回出てくる。水の情景、水の描かれ方、雨、濁流、泉と
いう三点を置くと、その中でメロスはどういうふうに変容して
いくのかということを伝える時の一つの要素になるような気が
します。
話は変りますが、メロスを留めるもう一つの要素があります
よね。それは山賊です。八十七ページ上の段ですが、山賊を追
い払った後に「ついにがくりとひざを折った。立ち上がること
ができぬのだ。天を仰いで、悔し泣きに泣きだした。ああ、あ、
濁流を泳ぎきり、山賊を三人も撃ち倒し韋駄天、」つまりこの
二つが、二つの障害なのです。その雨が濁流となり、泉となっ
てもう一度メロスを掻き立てていく。そうするとこの山賊に当
たるのがもう一回くらい出て来るとしたら何でしょう。セリヌ
ンティウスの弟子が出てきますよね。濁流⇔泉、山賊⇔フィロ
ストラトス。人なんですよ。人で立ちはだかり、留め、でもこ
のフィロストラトスはもっと複雑かもしれませんが、もう走る
のはやめてくださいと言うのですから、そういう意味では「が
んばって走りなさい」という単純な存在ではありませんし、ひ
ょっとすると、あの方はこうでこうでした。あの方はセリヌン
ティウスが刑場に引き出された時どうだったかを伝えることで
最後のひと踏ん張り、メロスにエンジンをかけるというか、ブ
ーストをかける役割を演じているとすれば、山賊と同じように
人としてメロスの前に立ちはだかるのだけれども、メロスに最
後の一押しをする存在かもしれないという気はします。メロス
の前に立ちはだかり、止めようとする者がひっくり返って今度
は立ち上がらせ、走らせる一つの原動力として出てくるという
ことかもしれません。この、泉を一つのターニングポイントと
して反転していくのですが、ある意味泉までのメロスを、何故
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こういう書き方をしなければならないのでしょうか。藤原先生
でしたね、フォン・シラーの「人質」の翻訳と比較をしてくだ
さっていて、盗賊が出てこないのですよね。途中で力尽きる場
面もないんですよね。ということは、ずっとがんばって走って
いくということですか。それ重要ですよね。一度は悪徳者とし
て生きてしまおうか村人も私を追い返したりしないだろう。こ
れはないわけです原作には。これがあることの意味を考えると
面白いですよね。
青島:私はフィロストラロスが出てきたのをこの段階に及んで
も誘惑みたいに捉えてしまって、それもはねのけるメロスの強
さというのを感じたのですけれど、後押しというよりは誘惑と
とらえてしまいました。
住田:それはあると思います。僕も実はそう思っていて、最後
のフィロストラトスは山賊なんかに比べると圧倒的に強敵だな
と思うわけです。別に暴力を駆使するわけでもなく、物理的に
何かするわけではないですが、でももういいじゃん、間に合い
ません、あなただけ助かってくださいっていう誘惑って一番怖
い誘惑ですよね。だからそういう意味ではこれが一番、最後の
最後に迫ってくる、でもそれによって揺さぶられることのない
存在にメロスはなっているという意味では、「だから私は行く
のだ」ボーンと行くわけですよね。そこら辺が面白い。これを
学生と一緒に読んでいてその子達が演習発表で分析をしてきた
のですが、泉までというのは英雄が出てくる神話物語が崩され
て、剥ぎ取られていくプロセスだ、剥ぎ取られていく。メロス
が当初思っていた、愛と信実、正義、そのために私は身を殉じ
るのだという一つの神話的な価値、要はみんなが、それこそ正
義だ、それこそ友情であるといういわゆる誰もがあまり疑って
かからない道徳的なものを身に帯びた勇者としてのメロスが、
あっけないほど自分の内面の葛藤や未練、疲労困憊、困難に削
り取られるように丸裸になっていって、本当に最後に丸裸にな
るわけですよね。丸裸になって、分かり易い英雄性というのを
なくしてしまうというのが泉のところまでなのです。つまり、
いったんそこでリセットされる。そこから違うステージで、何
もなくなった中で、友のため、自分の正義のためにという自分
が持っていたような、頭で大した知恵もなく考えてきたような
ものが剥ぎ取られた後に、それでもなお、走らなければ何か大
きな恐ろしいもの、義務遂行、信頼されているということの意
味というような要は浪花節的にどこかにあるようなものではな
いものとして走り出す、メロスが一回死んで生まれ変わるかの
ような、違う人物になるというような見方をその子たちはして
いて、面白いなと思いました。
メロスという人物は英雄伝説に出てくるような、英雄として
揺るぎのないものが全部ダメになる、アウトになるところまで
をきちんと描いていて、ゼロになって、裸になったところから、
裸のいちメロスとして走り始めるドラマを後半に用意するため
に、盗賊も必要だし、力尽きて、疲労困憊して、英雄に似合わ
ぬ「ああ濁流を泳ぎきり、山賊を三人も打ち倒し、ここまで突
破してきたメロス。真の勇者メロスよ。今ここで力尽きて動け
ないとは情けない。愛する友はおまえを信じたばかりにやがて
殺されなければならぬ。お前は希代の不信の人間。まさしく王
の思うつぼだぞ。と自分を叱ってみる。」複雑なものですね。
「自
分をそういうふうに対象化してしかってみるのだが、もはや芋
虫ほども前に全身かなわぬ。勇者に不似合いなふてくされた根
性が、約束を破る心は微塵もなかった。神も照覧。私は精一杯
努めてきた。」「神も照覧」これ繰り返し出てきます。そういう
ものを担保にして、自分の正義なり正しさを言い訳しようとす
るメロスのいかがわしさが、最も凝縮して出てくるあたりだと
思います。それを勇者に不似合いなのが韋駄天、それを外から
評価する言葉として、いわゆる勇者からずれているぞ、勇者じ
ゃないぞということを強調するシーンがこのへんに作られてい
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るなと思います。その切れ目なく続く八十八ページ上の段、下
の段に繋がるというか、泉に至るまでの連綿と続くメロスの中
のある意味本質なのですが、最初のメロスからすると似ても似
つかぬひとつの堕落のような、それが実はメロスという人物の
本質だったのですが、それがむき出しになっていく、赤裸々に
なっていくプロセスというのが一番面白いところかなと思いま
す。ターニングポイントの後は私は面白くなくて、泉までのぐ
しゃぐしゃになっていくまでのメロスが一番好きなのです、私
は。それから、これもよく言われるのですが、九十ページの下
の段、
「道行く人を跳ね飛ばし、メロスは黒い風のように走った。
野原で酒宴の宴席の真っ只中を駆け抜け、酒宴の人たちを仰天
させ、犬を蹴飛ばし小川を飛び越え、少しずつ沈んでいく太陽
の」この辺を見ていくと、結構このお話の前半を繰り返してい
く。宴席、小川、全部矮小化されていますが、前半メロスがた
どってきたところをもう一度潜り抜けていく、「メロスは今は
ほとんど全裸であった」。
あと考えたいのは、最後に「お前らの願いは叶ったぞ、仲間
に入れてくれ。」とディオニスが言って終わりますよね。これ
どうですか。これは多分中学生から反応が出るのではないかと
思います。荒木先生どうですか。
荒木:やはり気持ち悪い。でも、一つは話の流れとしてディオ
ニスの心が変わる、メロスがディオニスの心を変えるというの
は話の中心であるいう点。群集に受け入れられる王になるとか、
ただ単に王が考え方を変えようかなと言って終わるよりは、こ
れくらいしてくれないと話の筋としてはどうかなとは思いま
す。
住田:ではそのことを考えおきながらですが、私が中学の時に
これを劇でちがうクラスがやるのを見たことがあるんです。だ
からすごく記憶が残っていて、みんながシーツを巻きつけて衣
装を作っていて、「あれやりてえ」と思って、頭の中そういう
ことしか考えられなかったので、翌年全然オリジナルストーリ
ーであの衣装をつけて演劇をやったのですが、僕が脚本を書い
て。そのきっかけになったのがこの「走れメロス」でした。そ
れはどうでも良いのですが、その「走れメロス」の中で一番印
象に残ったのがこの張り合ったところなのです。それは音を立
るまでやらなアカンやろみたいな。「刑場いっぱいに鳴り響く
音、音高く」と書いてあるので本当にそうしないとアカンと思
って本気でバーンと張り合っていたのですね。ここが一番グワ
ーンとくるのです。これって要る?かなり盛り上がるし、印象
にも残るし。ディオニスの前にあるんですよね。この儀式はな
んでしょう。
荒木:これは絶対要りますよ。この儀式がないと結末にはいけ
ないような気がします。お互いが自分が真の勇者ではないこと
を認め合うわけですから。
住田:そういうことですか。真の勇者でないことを認め合う儀
式。他の先生はどうでしょうか。加納先生どうですか。
加納:きれいな話で終わるのではなく、人の心の奥底にある汚
い部分をちゃんとさらけ出した上で友情と言っているから・・・。
荒木:生徒指導みたいですね。今正直に悪いことを全部吐き出
して新しく生まれ変わらなアカンよ。
住田:だからカミングアウトしなければならない。お前のこと
一度は疑ってん、ごめんなって。
荒木:人間には弱さがあるというのを前提に美しいものを・・・。
住田:それはそうじゃないですか。この物語にこれがここにあ
る意味とは何でしょうか。
荒木:これはこの物語の一番の山場ですよね。岡部先生どうで
すか。
岡部:子ども達はこの部分は嫌がります。
住田:何故ですか。
岡部:とても嫌がります。ありえへんって。
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住田:くさいからですか。
岡部:二人同時にひしと抱き合い、本当に同時なのですか。
・・・
住田:メロスがセリヌンティウスに「私を殴れ。力いっぱい頬
を殴れ。私は途中一度・・・」分かりますよね、僕らは。まさ
にメロスとくぐってきたので、メロスのまさに陥った魔の時間
をメロスとともに対象化をしたり、あれこれ考えながら一緒に
来たのでよく分かります。だからメロスが「殴ってくれ」とい
う言い方をするのはなるほどですが、セリヌンティウスが同じ
ように言うのは僕らは知らない話です。でもそれが岡部先生が
言っていたように「みんなそうやねん」「ありがとう、と二人
同時にひしと抱き合い、それからう嬉し泣きにおいおい・・・。」
この「二人同時にひしと抱き合い」というのが僕は重要だなと
思いますが中学生たちは嫌がるところだろうと思うところなの
ですが、演じようと思ったら。でもこのセリヌンティウスとい
うのがどんな人かというのはほとんど分かりませんが、
「そう
か分かった」と一瞬でそれを受け入れて、メロスは帰ってくる
と信じるそういう人物であると見えますよね。まさにメロスが
必ず帰ってくるということをセリヌンティウスもメロスが帰っ
てくるということを信じているという意味ではディオニスと対
極にいる存在なのか。そういうふうに考えて良いのか。それが
「お互い一度悪い夢を見た」「私も一度始めて君を疑った」とい
うことを開きあうことである意味同じになるんですよね。・・・
同じやねん。その同じというのは何かというと、分かり易くす
ると、疑うこともあるじゃんということだけでしかないわけで
すが、メロスとディオニスの最初の対決のところで描かれてい
たように、一途に信じるという大変暴力的な存在であるという
ことが分かって、その中にある、一途ではない疑いを持ち、嘘
をつきそうになり、不信の人であるということを自ら認めてし
まうような。引き出していく冒険がこの三日間の冒険であった
となった時に、それが人間の本質だということですよね。信じ
ることだけでは生きていけないがバランスをとりながら、信実
の人としてなるべく生きるように努力するという分かり易い話
です。それがセリヌンティウスとメロスが「俺もこう思ってい
たのだ」と開き合うということで抱き合う。一つになるわけで
す。
同じだ。それがディオニスが歩み寄るということは、ディオ
ニスは彼らの反対側にいたはずなのです。人の心は信じること
はできなという、反メロスだったのです。メロスは人の心を信
じることができるというディオニスと反対側にいたのです。極
端。だけどこの物語ではこの冒険を通じて、メロスは反対側が
極端なのがこの辺まで降りてくるのです。だって彼自身この三
日間が信じることができない実践だったのです。ディオニスは
ここに来たわけです、最後に。「私も仲間に入れてくれないか」
文字通りその抱き合っている、私もそこに、つまり極端だった
ものがこの冒険を通じて一つになる。それは最初に言いました、
信じられるところもあれば信じられないところもあるという、
分かり易い話になるのですが、それが三者の行動の中で映し出
されるのがこれかなと。最初メロスとディオニスはどうだった、
最後はどうなったという時にメロスがディオニスを説得し人間
の信実に気付かせ、人間を信じることのできる存在へと改心さ
せたというのは間違いではないのですが、やはり人は信じなけ
ればならいんだということをアピールして終わるだけのお話で
はない様な気がするのは、今の構図を僕が描いたからなのです。
両極端にいたものが真ん中に集まってくる話ちゃうの。何の説
明にもなっていませんが、これは素晴らしい友情の信実だとい
うことがあるのですが、そのメロスはそれを一度も揺るがすこ
となく帰ってきたわけではない、フィラストラトスも絶対・・・
と信じきっていたわけではない。俺も仲間に入れてくれ。人の
心は一点疑いもなく信じることができるのだとディオニスが思
って終わるだけでは多分ないのでしよう。その疑いの中で信じ
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るということはこういう奇跡を呼ぶことがあるのだなというこ
とを信じたのではないのかな。ややこしいかもしれませんが、
構造は全ての中学生が理解できると思います。こうだった、今
どうなっている、こうなったのかな。ディオニスをこっちに引
っ張り込んだのかという議論をしていくと、中学生でも「いや、
違うんじゃないかな。」メロスはそんな人物ではなかったから。
冒頭に出てくるような正直でいわゆる嘘とか不信を絶対に犯さ
ない。そのことだけは生涯かけて絶対守る。そんな人物ではな
かったということもくぐっている。その構図の中で三人が最後
一つになる。二人が抱き合い、私も仲間に入れてくれというラ
ストシーンの意味が出てくるのではないでしょうか。そうする
と、単に友情が不信の病に取り付かれた老人にもう一度信実を
取り戻させたのだけれど、友情の勝利というのとはもう少し違
う色合いというのが見えてくるのかなと思います。なかなか難
しい話なのですが、そんなふうに考えていたところです。これ
は荒木先生が言われた、
「勇者はひどく赤面した。」メロスは「激
怒した」「赤面した」対比やん。どんな対比ですか。
荒木:単純に意味的にはどうなのでしょう。メロスが真の勇者
になったわけでもないですし、お話の流れにしてはチャーミン
グなオチやなというふうには思いますが、どうでしょう。
萩原:感情はでも、・・・。
住田:多分、「激怒した」の時も顔を真っ赤にして怒ってるん
じゃないかというふうにしたら、この真っ赤顔とこの真っ赤な
顔どう違うって、しょうもない。だって僕は感情が違うのです
が、どちらの顔も赤い顔をしているのではないかということを
共通点として見出そうとしていたのですが。その激怒の顔から
最後に赤面の顔で終わる。でも、何でこんな終わり方。実は「一
人の少女が」というところに繋がっていくのですが、この少女
の話、「真っ裸じゃないか。マントを着るがいい。」これはどう
ですか。必要ですか。
荒木:映画を作るときはこういうのを必ずつけますよね。
住田:エンディングとしてはかなり良いですよね。緋のマント
ってなんでしょう。中学生なのでちょっと象徴的に「緋のマン
トって何」つまり、裸になったことの意味合いというのを先ほ
ど僕は強調して言いましたよね。それは単にいっぱい走ったか
ら全部脱げちゃったのではないんですよね。それは象徴的な意
味を持ってるんですよね。言わばメロスの虚飾としての英雄性
や勇者であるということの分かり易い表面的なものを全部取っ
払われた状況。それは泉以降の走りの中に出てくる「神様、私
はがんばったんです。でも出来ませんでした。」などといって
いたようなメロスから一枚むけた存在としてのメロスが信頼さ
れているというほかの存在の中に自分の関係を見出しても全力
でそれに応えなければならない、人間存在の丸裸なものになっ
たことを象徴する全裸の疾走だったわけですよね。意味がある
わけです。では最後のそれにマントを差し出し、これを着たま
えというのも何か意味を持たせないと、それこそ落ちないんで
すよね、お話が。と思って「緋のマント」ってなんだろうとい
うことなのですが、何か良いアイディアはないでしょうか。
荒木:まさに一回むき出しになったものを隠さないといけない
わけですよね。
藤原:ここが一番書きたいところじゃないかと言う人もいます
ね。
住田:シラーにはないですね。少女、可愛い娘さんはなぜ。品
の良い老婆ではダメですか。
荒木:やはり完璧にきれいになったラストシーン、友情とか信
実とかからもう一度りんごを食べてしまった人間に戻ってもら
わないといけないわけです。明日からまた普通の人間に戻って
いくわけですら。
住田:でも緋のマントってすごく特別なものだと思いますよ。
何故特別かというと、みんな緋のマントを着ていないから。み
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んなそんな色を普段着にしているわけじゃないでしょう、多分。
これは僕が中学校のときに見た演劇でみんな白い生成のシーツ
を巻きつけていたからというだけなんですけどね、イメージは。
そうすると緋のマントが映えるじゃないですか。
だから神話性というか勇者としての格がそこに加えられるニ
ュアンスなのかなと思います。だからいったん剥ぎ取られて、
似非勇者だったメロスが、似非であることをさらけ出して、一
旦死んで生まれ変わってやって来たことにふさわしい衣装が緋
のマントだったわけです。それこそが真の勇者という言葉にあ
たるのかなと思います。真の勇者とは不信の人を内包しつつ、
それと葛藤しながらなのですが、自分の存在と向き合うことで
何事をなす力強い存在。その少女なのですが、メロスに妻がい
ないということに関係あるのでしょうか。妹だけで親もいない。
最後に少女が衣を差し出して、この可愛い娘さんはと言って結
婚するのかな。それがオチなのかなというのはどうですか。中
学生はそんなことを言いませんか。
岡部:少女のセリフを考えている子はいました。マントという
のは子ども達にも特別なものというイメージがあって、だから
この場面というのは全く削除されないで採用されていますね。
最後に「メロス」じゃなくて「勇者」とあるのが好きですね。
女の子が出るのは喜んでいました。先生がおっしゃるようにほ
のぼのとしたものを感じているのでしょうね。・・・。
住田:英雄伝説完成。緋のマント、少女、勇者はひどく赤面した。
腑に落ちたようなオチのような感じですがどうですか。今の中
学生もそういうふうに感じるのかと思うと。
青島:自分がこうと思っているものだけではなく、時にはそれ
を隠してみたり抑えてみたりしながら進んでいかないといけな
い部分もあるのではないかなというひねくれたメッセージでは
ないでしょうか。
住田:それは日常生活に喚起するための。
荒木:これはやっぱり現実離れした冒険物語から最後は少し現
実に戻すというニュアンス。さっきは「緋」というのをどちら
かというと高級というより赤のいやらしさというそっち方向で
捉えたのですが、冒険物語から現実に戻ってというそんなふう
に思います。勇者も赤面するんだ。要するに食欲性欲睡眠欲を
全く頭から抜け去っていた英雄がここでやっと人間に戻しとい
た方がむすびがよろしいのではないでしょうか。
住田:
「あ、俺裸だった。」という終わり方をする。
荒木:そうです。
住田:それなんかのオチっぽいですね。形として落ちているの
ですが、自分としては緋のマントを掛けられて終わるというの
が意味ありそうな感じがしながらどんな意味だろうと思いなが
らモヤモヤしています。「続く」という感じもします。ここは
全然触れなかったけれど夜も眠れないというところはないでし
ょうか。僕の興味あるところだけを触れるというわがままな展
開をしてしまいましたので。
荒木:泉の前の独白部分はこんなに長さ要るんですかね。それ
が気になります。読めばスムーズに進みますが、これだけボリ
ュームが要るのかなと思います。「水が閃々と・・・」・・・。
住田:割とたくさん流れている。
荒木:ふと我に帰るまではこれだけの長さが要るということで
しょうね。
住田:これ、推移していますよね。この語りは。この語りの中
の推移とは「信じてくれ」とか言い訳言い訳で来て、「私は限
界だ。後を追うぞ。」と言っていて「生きちゃおうかな」とい
うプロセス、心を砕かれていくプロセスが見事に表す、走馬灯
のように、砕けていく心、なえていく心の変容、一人独白のよ
うな中でやっていく。この長さというよりもその推移のプロセ
スを押さえると。
荒木:逆にこの長さをズアーっと出すのはすごいなというふう
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に思いました。
住田:すごく力の入っているところですよね。「勇者に不似合
いなふてくされた根性が心の隅にすくった」から始まりますか
ら。
荒木:他の方、疑問に思われたことはありませんか。
岡部:CDで流したら35分くらいかかって、長いのですが何故
か「また聴こう」って言うんですね。寝れるわけでもないですし、
音うるさいから。少人数ですし。
荒木:朗読は前の出版社と同じですか。
岡部:以前はCDを使っていなかったのです。自分で読んでい
ました。音楽も入っていますし。
住田:BGMもあるんですね。濁流の音とか出るんですね。
岡部:濁流の音とかではなくてBGMですね。
住田:これは確かに語りのリズムはあって、講壇調に切れ続き
の優れた朗読に確かに引き込まれていくので面白いなと思いま
す。逆に中学生が指名音読していくとかなり苦労しますよね。
難しい。読めない。その辺の耳で聞く文体というものの面白さ、
心地よさのある作品ですね。
片山:脚本化させるというのは個人にさせているのですか。や
はり少人数だからというのもあるんですよね。
岡部:質問や感想を気軽にもらし、可愛そうだとか、こんな考
え簡単に変わるんかみたいなとか出てくるのはやはり少人数だ
から。
住田:脚本化するというのはすごく面白いと思っていて、僕は
学校演劇で見たというのとイメージが重なってくるのですが、
例えばさっき荒木先生が言ったこの長台詞、この独白を脚本に
するとしたら、メロスで、ダアーっとやれるかどうかなのです
よね。それだと演劇空間は持たないですよね多分。これどうす
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ると言った時にここだけで盛り上げて、そうすると影の声でセ
リヌンティウスを出したらどうかとか、ディオニスを出すとか
いうふうにしていくと実はそれが埋め込まれていますよね。
「セ
リヌンティウス聞いてくれ」「ディオニスの思うつぼだ」と対
話に組み替えていくと、影の声というのを舞台上に登場させて
も良いのですが、メロスの心象風景として、メロスの心が砕け
ていくプロセスに今までの人物が走馬灯のように現れて、メロ
スの弱さとか負の側面を引き出していく会話体に組み替えてい
くといけるのかなと思ったりします。例えばセリヌンティウス
との対話を作ってみようかとか、ディオニスの方がやりやすい
か。これは脚本として成立しているかどうかという、そういう
発想を持った時に、この長台詞が奥行きのあるものになってく
るのかなと思います。演劇化するとなるとそうしないと持たな
いかなと思います。延々としゃべったら「俺メロスやりたくな
い」とか多分劇にならないと思います。この長台詞を一人でや
れるというのは相当演技力があるでしょう。
荒木:ナレーターは無いようにやるのですか。
岡部:ナレーターだらけですね。
荒木:括弧書きのところ「夜が明けた」とかはナレーター無し
ですか。
住田:無いですね。ただ、基本的にはアクターが語りながら舞
台空間を作っていくので、ナレーターが次々と入ってきたら成
立しなくなりますよね。メロスが説明していくというやり方だ
ったり、そのことは面白かったり、割と分析を進めるのではな
いでしょうか。岡部先生がやろうとされていることを通じて僕
は今感じました。
荒木:他にないでしょうか。それではお疲れ様でした。
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