中国人の日本観一魯迅 - 奈良大学リポジトリ

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蘇:中 国 人 の 日本 観 一魯 迅
魯迅
中国人 の 日本観
蘇
日*
目
徳
中国人的日本双
魯迅
芳徳昌
要
旨
日 中関 係 史 始 ま って以 来 、 初 の 中 国 国 家 元 首 公 式 訪 問 と して、1998年11月
が 来 日 した。 日本 側 は、 国 民 や マ ス コ ミも含 め て 、 未 来 志 向 で、21世
、江沢民国家主席
紀 に向けての友好協力パ ー ト
ナ ー シ ップ の構 築 と充 実 に大 い に 期 待 して いた の に反 し、 中国 側 は過 去 の清 算 に重 点 を 置 き、 所 謂 歴
史 認 識 の問 題 に終 始 こだ わ った。 そ の 結 果 、 日中 友 好 の ム ー ドは盛 り上 が る ど ころ か す っか り冷 え切
り、 折 角 の訪 日 が感 情 的 に は 逆効 果 に な って し ま った 。
歴 史 認 識 は基 本 的 に は歴 史 の 真実 に よ る もの で あ るが 、 日 中関 係 の こ の100年
は戦 争 だ けで は な
い。 それ は確 か に重 要 な側 面 で あ る。 日本 が 深 く反 省 を し、 き ちん と お詫 びす る の は 当然 の こ とで あ
る。 しか し、 も う一 っ の交 流 の 側面 を 見 落 と して はな らな い。 日本 は 中国 の近 代 化 を 促 した 、 言 わ ば
触 媒 の役 割 を果 た した、 とい う評 価 す べ き側 面 で あ る。i
日中 関 係 の根 本 は国 民 感 情 で あ り、相 互 理 解 が そ の 基 礎 で あ る。 中国 国 家 主 席 訪 日 も一 っ の き っ か
け とな り始 ま っ た この研 究 の 目 的 は 、 中 国 人 の 日本観 を 調 べ る と こ ろ に あ る。 本 稿 で は魯 迅 の 日本 観
を 彼 の 一 部 の言 動 に よ っ て纏 め た。
現 代 中 国 文 化 の母 と も言 わ れ る魯 迅 は 明 治維 新 信仰 で 、 日本 を 中 国 の 鑑 と見 た。 彼 は20代
とい う
人 間 形 成 の決 定 的 な時 期 を 日本 で過 ご し、 藤 野先 生 とい う良 き師 に恵 ま れ た。 人 生 の最 後 の10年
は
上 海 で 内 山 完 造 や増 田渉 の よ うな友 に巡 り会 い 、 そ の 協 力 も得 て 大 活 躍 を した。 そ うい った 中 で 、 形
成 され た 彼 の 日本 観 は全 面 的 、 友 好 的且 っ 冷静 な もの で あ る。 概 ね 、 日本 人 は真 面 目 で あ る。 日本 人
は物 真 似 が う ま い と言 われ る が、 模 倣 は短 所 で は な い。 日本 も本 当 の こ とが 言 え る処 で は な い 。 満 州
事 変 ・上 海 事 変 以 降 、 そ の反 戦 姿 勢 は 明瞭 で あ る。 中 国 人 と 日本 人 は兄 弟 で あ り、 何 時 か は 相 互 理 解
が 出 来 る よ う に な るで あ ろ うが 、 今 は難 しい。 とい った よ うな と こ ろで あ る。
魯 迅 は晩 年 に至 る まで ・ 日本 の尽 光 を偲 び・ 日本 が懐 か し く・ 日本 と 日本 の友 人 に思 い を 寄 せ て い
た。
/S
1.所
1.中
国国家主席訪 日
1998年11月25日
謂歴史認識
一
か ら30日
に か け て 中華 人 民 共 和 国 江 沢 民 国 家 主 席 が 日本 を 訪 問 し
た 。 日中 国 交 正 常 化 及 び 日中 共 同声 明調 印26周
節 目 にな る年 だ けで な く、20世
年 、 日中 平 和 友 好 条 約 締 結20周
紀 も終 わ りを告 げ、21世
年 に当 た る
紀 と い う平 和 と発 展 の素 晴 ら しい
世 紀 に入 ろ う とす る時 だ け に、 世 の注 目 を浴 び た の は言 う まで もな い。 況 して や 中 国 国 家 元 首
平 成11年9月1日
受 理*教
養部
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奈
良
大
学
紀
要
第28号
日本 公 式 訪 問 と して は 日中関 係 始 ま って以 来 初 の こ とで あ り、 日中 両 方 、 特 に 日本 か ら大 い に
期 待 され た。 と こ ろが 、 そ の準 備 の段 階 か ら雲 行 きが 少 し怪 し くな って き た。 例 の戦 争 に対 す
る評 価 の 問 題 で あ る。 中国 側 が発 表 予 定 の共 同宣 言 に反 省 と謝 罪 の文 言 を入 れ う と言 って来 た。
訪 問 開 始 寸 前 の 外 相 同 士 の交 渉 を含 め た何 回 か の掛 け合 い で 解 決 したか に見 え たが 、 結 局 は国
家 主 席 に同 行 して 来 た中 国 共 産 党 中 央 委 員 会 書 記 処 曽慶 紅 書 記 の 通 告 で 善 処 出 来 なか った。 そ
れ で も、 実 質 的 に も気 分 ・雰 囲 気 的 に も訪 問 に は大 きな影 響 等 な く、 成 功 裏 に終 わ る で あ ろ う
と 日本 側 はた か を く くって い た よ うで あ る。
蓋 を 開 けて 吃 驚 仰 天 と は正 に この こ と を指 す の で あ ろ うが、26日
午 後 行 わ れ た小 渕 恵 三 首
相 との 会談 で、 江沢 民 国 家 主 席 は真 っ向 か ら戦 争 に就 い て次 の よ うに述 べ た の で あ る。1)
「歴 史 問題 に就 い て 、 中 日両 国二 千 年 の 関 係 史 を振 り返 って見 る と、 友 好 と協 力 が 主 流 で あ
る。 然 し、 近 代 に於 い て 、 日本軍 国主 義 は何 回 か 中 国 人 民 に多 大 な災 難 を もた ら した侵 略 戦 争
を起 こ した。 率 直 に言 って 、列 強各 国 の 中 で 中 国 に最 も被 害 を与 え た 国 は 日本 で あ る。 に もか
か わ らず 、 我 々 は侵 略戦 争 の責 任 は軍 国主 義 者 が 負 うべ きで あ って、 広 範 な 日本 人 民 も同 じよ
う に被 害 者 で あ り、 彼 ら と は仲 む っ ま じ く付 き合 い、 子 々孫 々仲 良 く渉 べ きで あ る と一 貫 して
主 張 して き た。 こ の既 定 の方 針 に変 わ りが あ る はず は な い。 但 し、 歴 史 問題 に於 け る前 向 きの
姿 勢 に は、 歴 史 を正 視 し、 そ れ を認 め る とい う前 提 が あ り、 これ は又 中 日共 同 声 明調 印 ・中 日
平 和 友 好 条 約 締 結 が 依 って成 り立 っ 重 要 な政 治 的 基 礎 の 一 っ で もあ る。」
一
こ こ に は既 に 日本 と 中国 の戦 争 責 任 に対 す る認 識 の 違 いが 現 れ て い るが 、 まだ そ う押 し付 け
が ま し くは聞 こえ な い。 そ れが 徐 々 に エ ス カ レー トして 行 くの で あ る。
「中 日国 交 正常 化 して か らの26年
を振 り返 って見 て、 日本 国 内 に は歴 史 問題 で事 を起 こ し、
歴 史 の 真 実 を 否定 す る、 甚 だ しい こ と に至 って は歪 曲 す らす る者 が 後 を 絶 た な い とい う事 実 を、
残 念 な が ら指摘 せ ざ るを 得 な い。 これ らは み な 中国 人 民 を含 む戦 争 被 害 国 人 民 の 感 情 を極 め て
ひ ど く傷 付 け、 中 日関 係 の 正 常 な 進 展 を 妨 害 して い る。」
「日本 軍 国主 義 の横 行 践 雇 は曽 て 、 中 日両 国 人 民 に災 難 を もた ら した し、 中 日の 伝 統 的 な友
好 関 係 は極 め て ひ どい損 害 を 蒙 った。 軍 国 主 義 は中 日両 国 人 民 の共 同 の敵 で あ り、 人 類 の平 和
と進 歩 の歴 史 に完 全 に逆 ら う流 れ で あ る。 日本 政 府 が こ れ に対 して 明確 な態 度 を 示 せ ば、 先 ず
日本 が 引 き続 き平 和 と発 展 の道 を進 む の に有 利 で あ り、 次 に 中国 を含 む周 辺 諸 国 の諒 解 と信 頼
を 得 られ る で あ ろ う し、 尚且 つ 日本 が世 界及 び地 域 で の積 極 的 な役 割 を更 に一 段 と果 た す こ と
が 出 来 るで あ ろ う。」
そ して 、 止 めを 刺 す よ うに、
「歴 史 問 題 を 解 決 す る カ ギ は 日本 に あ る。 日本 政 府 が 真 面 目 に経 験 と教 訓 を汲 み取 り、 歴 史
を否 定 し、 歪 曲 す る勢 力 を きちん と抑 え込 む よ うに望 む。」
と、 強 い 口調 で言 い切 っ た ので あ る。
そ れ に対 し、 小 渕恵 三 首 相 は
「日本 政 府 は こ こ に於 いて 再 度 中 国 に反 省 の念 を表 明 し、 お詫 び 申 し上 げ る次 第 で ご ざ い ま
す 。」
「政 治 家 と して、 自分 自身 の責 任 は感 じて お ります し、 日中両 国 の末 永 い友 好 親 善 に 引 き続
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蘇:中 国 人 の 日本 観 一魯 迅
き弛 まぬ努 力 を す るっ も りで ご ざ い ます 。」
と、 述 べ た よ うで あ る。2)
言 わ ば 自分 が呼 ん で来 た客 か ら もの す ご く叱 られ た 訳 で あ るが 、 果 た して ど ん な 気 持 だ っ
た の で あ ろ う。 一 介 の 庶 民 と して は理 解 に苦 しむ と ころ で あ る。
中 国 最 大 の全 国 紙 で あ り、 中国 共 産 党 中 央 委 員 会 の 機 関 紙 で もあ る 「人 民 日報 」11月2
7日 の一 面 の ト ップ記 事 が首 脳 会 談 で あ り、 題 は大 きな ゴ シ ッ ク体 で
「江沢 民 主 席 、 日本 首相 小 渕恵 三 と会 談
日本 政 府 再 度 中 国 侵 略歴 史 に就 き反 省 と お詫 び」
と書 か れ て お り、 そ の下 に少 し小 さ な ゴ シ ック体 の
「中 日、 平 和 と発 展 の た め の 友 好 協 力 パ ー トナ ー シ ップ の構 築 に 関 す る共 同宣 言 発 表 」
とい う題 が見 え、 宣 言 の要 旨 が掲 載 され て お り、 そ の 四つ の ポ イ ン トの一 っ が又 もや 中 国 侵 略
に対 す る 日本 の深 い反 省 で あ る。
とい う こ とは、 中 国側 の狙 い はむ しろ未 来 よ り過 去 に あ り、 展 望 よ り清 算 に あ った と い う こ
とで あ る。
同 日の天 皇 陛下 が催 され た 晩餐 会 の 席 上 、 天 皇 陛 下 は そ の御 挨 拶 の 中 で、 中 国 が 未 曾 有 の大
水 害 に見 舞 わ れ、 多 くの生 命 が失 わ れ た こ と に触 れ 、 国 家 主 席 を労 った後 に、 国 家 主 席 の仙 台
訪 問 に因 み、45年
前 、 皇 太 子 時代 の 講 書 始 の儀 で 魯 迅 の 「藤 野 先 生 」 と 「阿Q正 伝 」 を 習 っ
た と述 べ られ た。 テ レ ビで しか見 る機 会 が な いの で 、 詳 しい こ とは分 か らな い が、 そ の お 言 葉
とい い、 御 表 情 ・御 仕 草 とい い、 国 家 主 席 に大 変 お気 を使 わ れ、 最 大 の友 好 親 善 の お 気 持 ち を
示 さ れ た こ とに は 間違 い な い。
そ れ に対 して、 国 家 主 席 の挨 拶 は先 ず 「尊 敬 す る」 と い う、 普 通 この よ うな席 で は付 け る連
体 修 飾 語3)な
しの 「天 皇 陛 下 、 皇 后 陛 下 」 で始 ま り、 面 と向 か って軍 国主 義 批 判 を 始 め た の
で あ る。4)
「不幸 な こ と に は、 近 代 史 に於 いて 、 日本 軍 国 主 義 は対 外 侵 略 拡 張 の 誤 った 道 へ と突 き進 み、
中 国 及 び ア ジ ァ の そ の他 の国 々 の人 民 に多 大 な 災 難 を も た らす と同 時 に、 日本 人 民 も大 変 な 損
害 を蒙 った。 『前 の 事 を 忘 れ な けれ ば、 後 の事 の 師 とな る』。 この痛 ま しい歴史 的 な教 訓 を、我 々
は いっ まで も銘 記 す べ きで あ る。」 これ が 礼 節 の国 と も言 わ れ る中 国 の 国 家 元 首 が 盛 大 な 歓 迎
宴 で の挨 拶 で あ る。 本 当 に異 常 と言 わ ざ るを 得 な い 。
11月28日
、 早 稲 田大 学 で の若 者 に対 す る講 演 で は、 具 体 的 な デ ー タま で挙 げ て、 批 判 を
行 っ た。5)
「不 幸 な こ とに は、19世
紀 末、 日本 は軍 国 主 義 の侵 略 拡 張 の道 へ と突 き進 み 、1894年
の 甲 午 戦 争 で 中 国 の 領 土 台 湾 を 占領 した。1905年
領 した 。20世
紀30年
民 間 人 死 傷 者3500万
の 日露 戦 争 後 一 度 中 国 の旅 順 ・大 連 を 占
代 以 降 、 日本 軍 国主 義 は全 面 的 な中国侵 略戦 争を起 こ し、中国 は軍 人 ・
人 を 出 し、 経 済 的 な損 害 は6000億
米 ドル を超 え た。 この戦 争 は中
国 人 民 に多 大 な 災 難 を もた ら し、 日本 人 民 もひ どい 損 害 を 蒙 っ た。」
「正 しい歴 史 観 で以 て、 国民 と若 い世 代 を 導 くべ き で あ って、 如 何 な る形 で の軍 国 主 義 の 思
潮 や 勢 力 の 復 活 を 絶 対 に許 して は な らな い。」
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良
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東 京 記 者 ク ラ ブで の 記 者 会 見 で も、6)
「如 何 に正 し く歴 史 に対 処 す るか と い う問 題 は 日本 が これ ま で き ち ん と解 決 しな か っ た 問 題
で あ る。我 々 が 考 え る に は、 日本 が歴 史 に きち ん と した姿 勢 で対 処 し、 これ らの 人 々(常 に歴
史 を 歪 曲 し、 美 化 す る人 々)の 誤 った言 動 を抑 え込 み、 正 しい 歴 史 観 で 以 て 青 少 年 に対 す る教
育 を 強 化 し、 彼 らを 導 くこ と は中 日関 係 の末 長 い発 展 に有 利 で あ り、結 局 は 日本 に対 して も有
利 なの で あ る。」
と、 日本 の 言 論 の 自由 や 統 制 と い う制 度 及 び歴 史 教 育 の あ り方 に まで踏 み 込 ん だ の で あ る。
こ こ まで 言 わ れ た の で は、 訪 問 が成 功 し、 日中 関係 に好 影 響 を与 え る はず が な い し、198
3年 に両 国 政 府 が 確 認 した 「平 和 友 好 、平 等 互 恵 、 長 期 安 定 、 相 互 信 頼 」の 日中 関 係 四 原 則7)
に は程 遠 い 。 事実 、 江 沢 民 国 家 主 席 訪 日以 来 、 世 論 も国民 感 情 も中 国 に対 して は冷 却 化 して き
て い る◎
何 故 に国 家 元 首 公 式 訪 問 を 利 用 して、 歴 史 の清 算 の挙 に 出 た の か、 そ れ は国 内 政 治 の 必 要 か
らな の か、 そ れ と も 日本 の 更 な る援 助 を引 き 出す た め な の か は本 稿 の 問 う と こ ろで は な い。
2.歴
史 の 真 実 と認 識
歴 史 の 真実 は一 っ しか な い けれ ど も、 それ に対 す る認 識 は認 識 す る者 の立 場 ・観 点 ・方 法 の
違 い に依 って そ れ ぞ れ異 な り、 千 差 万 別 で あ る。 例 え ば、 江 沢 民 国家 主 席 は中 国 従 来 の 見 解 に
則 って、 極 一 握 りの軍 国主 義 者 と広 範 な人 民 とを区 別 し、 戦 争 の責 任 は前 者 に あ り、 後 者 に は
な い ど ころ か被 害 者 で もあ る と言 って い るが 、 この よ うな歴 史 観 、 或 い は 階級 観 は 日本 で は必
ず し も通 用 す る と は限 らな い。 そ れ で 、 国 家 主 席 が前 者 だ け を批 判 す るっ も りで いて も、 後 者
、は 自分 自身 の こ と と受 け止 め て い る ので あ る。
「多 くの犠 牲 を 出 した戦 争 だ け に誰 か が責 任 を 負 わ な けれ ば な らな い。 や は り、A級
戦犯 に
責 任 を負 って も ら って」8)
と、 野 中広 務 官 房 長 官 は話 して い るが 、 これ は 中国 を始 め ア ジア諸 国 との こ とを考 慮 した上 で
の発 言 で あ り、 一 般 国民 に受 け入 れ られ る と は限 らな い し、 現 に即 反 論 が 出 て い る。9)
「いわ ゆ る歴 史 問 題 につ い て、(イ)日
本 が 過 去 の一 時 期 、 中国 との関 係 に お い て軍 国 主 義 と
い う誤 った道 を歩 み、 中 国 を は じめ とす る ア ジァ の人 た ち に多 大 の損 害 を与 え て しま った こと、
(ロ)こ れ に対 し、 大 多 数 の 日本 人 は 申 し訳 な く思 い 、 また そ の よ うな 国 策 に対 す る厳 しい 反
省 の上 に立 って、 戦 後 、 営 々 と平 和 国 家 の 王 道 を歩 ん で きた こ と、 これ は 間違 い の な い と こ ろ
で す。」1①
と、 谷 野 作 太 郎 中 国駐 在 大 使 が 言 って い る と こ ろか ら もそ れ が分 か る。 批 判 が厳 し けれ ば 厳 し
い程 、 大 多 数 の 日本 人 の心 と プ ラ イ ドは傷 付 き、 謝 罪 を再 三 に亘 って要 求 す る と、っ い 「何 回、
又 ど うや って謝 れ ば気 が済 む の だ ろ う」 と思 い、 追 い詰 め られ た気 持 に な って しま うの は当 然
で あ る。 これ で は友 好 も何 もあ った もの で は な い。 結 果 的 に は反 感 を買 うだ け で あ る。
歴 史 の真 実 一 っ取 って も 日中双 方 に は まだ まだ 食 い違 いが あ る。 先 の戦 争 で の 中 国死 傷 者 の
人 数 に しろ、 経 済 的損 害 に しろ、 今 まで の言 い方 が ま ち ま ち で 、11)ど れ が 真 実 な の か は分 か
らな い。 い わ ゆ る南 京 大 虐 殺 事 件 に して も然 り、 あ っ た の は事 実 で あ る よ うで あ るが、 そ の 人
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数 に就 い て は確 定 出 来 な い のが 現 状 で あ ろ う。 そ れ で も、 この100年
を振 り返 って 見 て 、 日
中 の 間 に何 回 も戦 争 が あ った こ とを否 定 す る者 はい な い で あ ろ う。 それ らの戦 争 は全 て 日本 が
仕 掛 け、 日本 が 加 害 者 で あ り、 中国 は被 害 者 で あ る と い う こ と も事 実 で あ ろ う。 そ の意 味 に於
いて は、 日本 が 深 く反 省 し、 きち ん と謝 罪 す る の は当 た り前 の こ とで あ る。 但 し、 歴 史 の 真 実
は それ だ けで は な い。 戦 争 は一 側 面 で あ り、 表 で あ り、 も う一 っ の側 面 、 裏 が あ る とい うこ と
を見 落 と して は な らな い で あ ろ う。 結 論 か ら先 に言 うと、 そ れ は 日本 は 中国 近 代 化 の 触 媒 、 そ
れ も正 触 媒 とい う役 割 を果 た して きて い る と い う真 実 で あ る。 そ の意 味 に於 い て 、 中 国 は感 謝
ま で は しな くて もよ い に して も、 日本 に対 して あ る程 度 の理 解 を示 す べ きで あ ろ う。要 す るに、
歴 史 の真 実 を全 方 位 か ら眺 め る と同 時 に、 相 手 の認 識 を努 力 して理 解 しよ う とす る姿 勢 が 必 要
とい う こ とで あ る。
19世
紀 末 か ら20世
紀 初 頭 にか けて は、 日清 戦 争 と 日露 戦 争 を起 こ し、 日本 は台 湾 を 占領
し、 満 州 を勢 力 圏 内 に置 い た。1906年
に設 立 され た南 満 州 鉄 道 は鉄 道 ・炭 鉱 ・製 鉄 所 ・商
業 ・土 地 の経 営 等 一 大 コ ンッ ェ ル ンを形 成 し、 教 育 ・衛 生 ・一 般 行 政 ・外 交 ・警 察 に ま で手 を
伸 ば し、 満州 を 支 配 したが 、 後 に新 中国 の重 要 な工 業 基 地 にな った の も事 実 で あ る。 この 間 、
中 国 か ら大 勢 の 留 学 生 が 日本 に派 遣 さ れ、 ピー ク時 に は1万 名 を 超 え た 。 康 有 為(1858∼
1927)、
梁 啓 超(1873∼1929)、
駆 者 が 日本 に何 回 乃 至10何
孫 文(1866∼1925)等
多 くの近 代 化 の 先
回 も渡 り、 活 動 して い る。 日本 は中 国 近 代 化 の幕 開 け に貢 献 した
訳 で あ る。
第0次 世 界 大 戦 ・21箇
条 要 求 と 「五 四 運 動 」 の時 期 に は、 日本 は そ の勢 力 を東 蒙 ・山 東 半
島 ・江 西 省 くん だ りま で伸 ば す が 、 ヨー ロ ッパ 文 明 ・近 代 思 想 の導 入 及 び普 及 も殆 ど 日本 経 由
で あ った し、のマ ル ク ス主 義 さえ も同 じで あ る。 筆 者 の本 務 校 で あ った上 海 の復 旦 大 学 の元 学 長
で、 す ぐ隣 に住 ん で い た 陳望 道 氏 は 日本 語 版 か ら 「共 産 党 宣 言 」 を訳 した の で あ る。 中 国 共 産
党 の創 設 者 陳独 秀(1879∼1942)も
∼1975)、
周 恩 来(1898∼1976)、
魯 迅(1881∼1936)、
郭 沫 若(1892∼1978)等
蒋 介 石(1887
数 多 くの 中 国
現 代 の代 表 的 な 政 治 家 ・知 識 人 はみ な 日本 留 学 経 験 者 で あ る。 日本 は中 国近 代化 の啓 蒙 に役 立 っ
た と言 って も決 して 過 言 で は な い。
この100年
の 前 半 に於 いて 、 日本 は朝 鮮 ・台 湾 ・香 港 ・シ ンガ ポ ール ・東 南 ア ジア ・中 国
へ と戦 火 を 交 え て 行 き、 言 わ ば軍 事 立 国 を 目指 した訳 で あ るが 、 結 果 的 に は多 大 な犠 牲 と同 時
に、 イ ンフ ラ ス トラ ク チ ャー が整 備 さ れ、 教 育 が 普 及 した 。 後 半 に於 いて は、 ほ ぼ 同 じル ー ト
か ら、 っ ま りNIES・ASEANか
ら中 国 へ と経 済 の 高 度 成 長 を押 し進 め て行 った 。 言 うな
れ ば貿 易 立 国 で あ る が、 そ れ だ け又 中 国 を 含 む ア ジ ア地 域 の本 格 的 な近 代 化 を リー ドした と も
言 え る。 江 沢 民 国 家 主 席 の言 い方 を振 って 言 え ば、 「中 国 を 含 む ア ジ アの 近 代 化 の カ ギ は 日本
に あ る」 とな るか も知 れ な い。
人 種 ・文 化 ・思 想 ・風 俗 ・慣 習 の 類 似 性 か ら言 って、 中国 に と って、 日本 は欧 米 ・ロ シア よ
り近 い。 大 国 外 交 重 視 の 中 国 が 近 年 他 国 と結 ん だ パ ー トナ ー シ ッ プの 性 格 か ら もそれ が分 か る。
中米 は 「建 設 的 な戦 略 的 パ ー トナ ー シ ップ」 で あ り、 中 ロ は 「戦 略 的 な 協 調 パ ー トナ ー シ ップ」
で あ るの に対 して 、 中 日 は 「友 好 協 力 的 パ ー トナ ー シ ップ」 で あ る。 日本 は欧 米 諸 国 と価 値 観
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を 共有 す るが 、 中 国 の 価 値 観 を理 解 出来 るの は 日本 を置 い て 他 にな い。 そ う言 え ば、 この 「価
値 観 」 とい う言 葉 さえ 、 中 国 に と って は そ れ ま で聞 き慣 れ な い 言葉 で あ っ た。 単 純 極 ま り無 い
階 級 観 に置 き換 え られ て しま い、 考 え は硬 直 し、 思 惟 は枯 渇 状 態 に陥 って い た。 先 進 国 に な る
に は先 進 国 の 近 代 化 した産 業 ・農 業 ・科 学 技 術 ・経 営 管 理 を 学 ば な けれ ば な らな い の は言 うま
で もな いが 、 そ れ よ り も っ と大 事 な の はそ れ らを生 み 出 した 体 制 ・法 律 ・シス テ ム、 そ して価
値 観 を 学 び、 身 に付 け る と い う こ とで あ る。 即 ち、 価 値 観 の 衝 突 ・融 合 で あ る。 そ の よ うな価
値 観 も含 めて 、 ヨー ロ ッパ 文 明 ・ア メ リカ 文 化 を 直接 導 入 出 来 る よ うに な った現 在 で も、 日本
の窓 口的 ・仲 介 的 役 割 は変 わ らな い。 日本 は中 国 が 目指 す 近 代 化 ・先 進 国 化 の鑑 ・手 本 で あ る
だ けで な く、 一 番 の貿 易 相 手 国 、 大 事 な投 資 国 で もあ る。 で あ るか らこ そ、 な お一 層 日中 関係
に時 々響 く、 「歴 史 認 識 」 の よ うな 「雑 音 」 が気 に な る訳 で あ る と も言 え る。
3.国
民感情が根本
日中 関 係 が良 好 の時 は過 去 の こ と は言 わ な い、 水 に流 す 、 過 ぎ去 った もの は過 去 の もの と し
て 、 前 向 き に、 未 来 志 向 と言 い、 摩 擦 が 起 こ った 時 は未 来 を見 ず に、過去 の教訓 を汲 め、 反省 ・
謝 罪 しろ と言 う。 或 い は裏 の側 面 で あ る交 流 は人 民 が 進 め 、 表 の側 面 で あ る戦 争 は軍 国主 義 者
が や った とい う単 純 な割 り振 り方 で は問 題 解 決 にな らな い し、 何 時 ま で経 って も 日中 間 の 真 の
相 互 理 解 ・相 互 信 頼 ・友 好 協 力 の 関 係 は結 ば れ な いで あ ろ う。
政 治 家 は、 い い場 合 は国 益 を 第一 位 に置 き、 悪 い場 合 は私 利 私 欲 ・党 利 党 略 ば か り考 え る。
ど ち らにせ よ、 環 境 ・情 勢 に 目を 向 け過 ぎ、 物 事 を 打 算 的 ・便 宜 的 に と らえ が ち で あ る。 中 国
共 産 党 の元 総 書 記 で あ った胡 耀 邦 氏 が 何 時 ど こで 話 した か は忘 れ た が、 政 治 家 に と って 、 昨 日
の友 が今 日は敵 で あ り、 今 日の敵 が 明 日 は又 友 で あ る こ と は 日常 茶 飯 事 で あ る と言 っ た の を覚
え て い る。 そ れ か ら、 政 治 家 は建 前 と本 音 を よ く使 い分 け る。.と言 うよ り も、 往 々 に して 本 音
を隠 し、 建 前 だ け を言 う。 真意 を 測 りか ね る。 日中 関 係 を こ の よ うな政 治 家 に任 せ っ ぱ な しに
して お い た ら、 大 変 な こ とに な る。 国 民 一 人 一 人 が 責 任 を 自覚 し、 積 極 的 に 関係 構 築 に取 り組
ま な けれ ば な らな い◎ そ れ で、 国 民 感 情 が 一 番 の ポ イ ン トに な って くる訳 で あ る。
聞 き慣 れ た言 葉 に 「親 日派 ・反 日派 ・知 日派 」 或 い は何 々 「家 」 とい うの が あ るが 、 中 国 で
は、 特 に 「親 日派 」 に は 日中戦 争 の 陰 騎 が 重 な り、 裏 切 り者 の意 味 の 「漢 好 」 と同 義語 で あ る。
親 日 とは、 日本 とな る とべ た 褒 め す る こ とで あ り、 反 日 と は、 日本 を毛 嫌 い す る こ とで あ ろ う
が、 全 体 的 な国 民 感 情 と して は多 少 ク ール な方 が 理 想 的 で あ り、 「派 」 或 い は 「家 」 と して は
「知 日」 が 一 番 望 ま しいが 、 何 しろ人 間 の感 情 、 人 の心 の こ とで あ るの で 、 強 要 は 出来 な い。
以 上 、 序 に して は多 少 長 くな った が 、 こ の テ ー マの 勉 強 をす る契 機 とな った だ けで な く、 中
国 の国 民 を代 表 す る国家 主 席 の 日本 観 の 一 部 と も な るの で 、 記 した次 第 で あ る。
これ か ら色 々 な 中国 人 の 日本 に対 す る感 情 ・心 、 っ ま り日本 観 と で も言 え るよ うな も の を見
て 行 くっ も りで い るが、 そ れ は何 々 派 とか 何 々 家 とか と い うふ うに簡 単 に分 類 す るの で は な く
(事実 、 そ れ は不 可 能 で あ り、 非 科 学 的 で もあ る)、 種 々 様 々 な 日本 観 を調 べ、 な るべ く整 然 と
纏 め た い と思 って い る。
蘇:中 国 人 の 日本 観 一魯 迅
H.魯
1.魯
7
迅 そ の人 と 日本 との係 わ り
迅 の評 価
筆 者 は30何
年 間魯 迅 の 最 後 の10年
の住 ま い の近 くに住 ん で い た の で、 よ くそ の お 墓 の あ
る虹 口公 園 に遊 び に 行 った し、 記 念 館 も旧居 も何 回 も見 学 して い る。 但 し、 研 究者 で は な い の
で、 魯 迅 を ど う見 る と聞 か れ た ら、 一 っ は 日本 と の関 係 が密 接 で あ った とい う こ と と、 も う一
っ は毛 沢 東 の評 価 の通 りで あ る と しか 答 え られ な い で あ ろ う。
っ ま り毛 沢 東 が1938年10月
の 講 演 で 話 した、12)
魯 迅 は 「中 国第 一 等 の 聖 人 だ 。 孔 夫 子 は封 建 社 会 の聖 人 だ が、 魯 迅 は新 中 国 の 聖 人 だ 。」 魯
迅 精 神 とは政 治 的 な遠 大 な 見 識 、 闘 争 精 神 、 犠 牲 的 精 神 で あ る。
そ れ か ら1940年1月
に発 表 した 論 文 「新 民 主 主 義 論 」 中 の次 の評 価 で あ る。13)
「魯 迅 は中 国 の文 化 革 命 の主 将 で あ り、 か れ は偉 大 な 文 学 者 で あ っ た ば か りで な く、 偉 大 な
思 想 家 、 偉 大 な革 命 家 で あ った 。 魯 迅 の背 骨 は も っ と もか た く、 か れ に は奴 隷 の根 性 や へ っ ら
い の態 度 が い さ さか もな か った 。 これ は植 民 地 、 半 植 民 地 人 民 の も っ と も貴 重 な性 格 で あ る。
魯 迅 は文 化 戦 線 で全 民 族 の 大 多 数 を 代 表 して 敵 陣 に突 入 した、 も っ と も正 しい 、 も っ と も勇 敢
な、 も っ と も断 固 と した 、 も っ と も忠 実 な、 もっ と も情 熱 的 な、 空 前 の民 族英 雄 で あ っ た。 魯
迅 の方 向 こそ 中華 民 族 の 新 文 化 の 方 向 で あ る。」
そ れ は正 に そ の通 りで あ るが 、 これ は あ くまで も進 化 論 か ら階 級 論 へ進 み 、 官 吏 ・地 主 ・紳
士 の階 級 の 出 自に反 逆 して 、 プ ロ レタ リア階 級 の仲 間 入 りを し、 「聖 人 ・主将 ・偉 大 な文 学者 ・
思 想 家 ・革 命 家 ・民 族 英 雄 」(更 に、 毛 沢 東 は 「旗 手 」 と も言 って い る)に
な っ て か ら の魯 迅
で あ り、 又 ど こか血 が 通 わ ぬ 抽 象 的 な 魯 迅 像 で もあ る の で、 そ れ ま で の魯 迅及 び そ の作 品 並 び
に具 象 的人 間魯 迅 を理 解 す る に は何 か ぴ ん と来 な い と ころ が な きに し もあ らず で あ る。
日本 に来 て、 色 々 な本 が 自由 に読 め る よ うに な って 、 そ の不 足 感 を徐 々 に補 う ことが 出来 た。
特 に、 李 長 之 の 「魯 迅 批 判」 に は大 い に共 感 を覚 え た。
「人 は、 生 きな け れ ば な らな い
これ が か れ の基 本 観 念 で あ る。 だ か ら こ そ 、人 び と の 死
を忘 れ る こ とが で きな か った の で あ る。そ の 目で見 、感 じ、身 に受 け た生 命 へ の圧 迫 と傷 は、数 知
れ な か った。傷 あ と の悲 しみ の な か で、時 に は麻 痺 を装 わ ざ るを得 な い こ と さえ あ っ た。」14)
「頑 迷 な農 民 性 につ い て、 魯 迅 ほ ど知 り尽 く して い る者 は いな い。 曖 昧 さ、 改 革 へ の 逡 巡 、
愚 鈍 、 奴 隷 根 性 な どに対 す る描 写 に は、 魯 迅 の魂 が 、 余 す と ころ な く奥 深 く、 細部 に まで 滲 み
わ た って い る。」15)
「進 化 論 的 、 生 物 学 的 な、 人 は生 きな け れ ば な らな い と い う人 生 観 、 さ げ す み と あ ざ け り を
バ ネ に した感 情 、 加 え て 堅 固 で、 執 拗 こ の うえ な い反 抗 性 、 これ こそ魯 迅 の 真 骨頂 で あ る。 環
境 が彼 の性 格 と思 想 の輪 郭 を形 成 した が 、 み ず か ら も環 境 か ら出路 を 見 出 し、 使 命 を に な っ た
の で あ る。」16)
「人 間 の環 境 は、 人 間 の事 業 を制 約 す る。 だが人 間 の性 格 は、逆 に人 間 の環 境 を選 択す る。 ……
そ の代 表 と して魯 迅 を あ げ る こ とが で き るだ ろ う。」17)
8
奈
良
大
学
紀
要
第28号
「魯 迅 が0人 の詩 人 で あ る こ とに疑 いを さ し は さむ 余 地 は な い。 そ して思 想 面 か らみ れ ば、
一 人 の 戦 士 にす ぎな い。」18)
「魯 迅 の精 神 の深 部 に 横 た わ る もの が 粗 忽 、 無 味 乾 燥 、 荒 涼 、 暗 黒 、 脆 弱 、 疑 い 深 い、 腹 を
立 て や す い こ とだ と して も、 だ が それ 故 に、 永 遠 の詩 人 、 時 代 の戦 士 た りえ た こ と に疑 い を さ
し は さむ 余 地 はな い。」19)
鋭 い 観 察 力 、 研 ぎ澄 ま した神 経 、 繊細 な感 受 性 、 堅 忍 不 抜 の意 志 、 不 擁 不 屈 の 精 神 、 「苦 痛
と暗 黒 よ り外 な い 一 種 の 人 生 観 」20)の持 ち主 、 そ れ が 魯 迅 で あ る が、 生 涯 民 族 の 危 機 を 憂 い、
国民 性 を 恨 ん だ 。 愛 す れ ば こそ 憎 む、 この こ とを魯 迅 ほ ど実 行 した 中 国 人 は他 に い な いで あ ろ
う。 そ の 魯 迅 が 果 た して 日本 を ど う見 て い た か とい う こ とは誰 で も興 味 と関心 を持 つ で あろ う。
2.魯
迅 と 日本
魯 迅 は1902年20歳
の時 、 留 学 生 と して 日本 に派 遣 され、 最 初 は東 京 の 弘 文 学 院 で、 次
に仙 台 医 学 専 門 学 校 で 勉 強 した。 筆 者 は幼 少 期 の10何
年 間 を仙 台 市 内 の 魯迅 の 下 宿 先 に近 い
荒 町 で 過 ご し、 後 に は東 北 大 学 の客 員 教 授 を務 め た こ と もあ るの で 、 な お 親近 感 を 感 じる訳 で
あ るが 、 魯 迅 は東 京 に いた 時 親 友 の許 寿 裳 に対 し、 「よ く次 の三 つ の お互 い に 関 連 の あ る 問 題
に就 い て 話 を した 。 一 つ は、 理 想 的 な人 間 性 とは果 た して ど うい う もの か 。一 っ は、 中 国 の国
民 性 の 中 で 最 も欠 乏 して い る もの は何 か。 一 つ は、 そ の病 根 は ど こ に あ る か 。」21)魯
迅 が医
学 を専 攻 し、 又 そ の た め に ドイ ツ語 を習 い始 め た の もみ な 明治 維 新 を 経 て、 近 代 化 に成 功 した
日本 に倣 う、 所謂 明 治 維 新 信 仰 と同 時 に、 或 い は、 とい うよ り、 日本 を通 して ヨ ー ロ ッパ 文 明
を学 び 、 中 国 の 民 族 危 機 を 救 うた めで あ る こと は明 らか で あ るが、 結 局 は体 よ り心 、 肉 体 よ り
精 神 、 中 国 人 の 精 神 の 改 造 ・国 民 性 の改 造 が 喫 緊 且 つ 重 要 と悟 り、 文学 の道 に転 じた。20歳
代 とい うの は人 間 形 成 ・人 生 観 確 立 に と って 、 一 番 大 事 な時 で あ るが 、 そ れ を魯 迅 は 日本 で体
験 した の で あ る。
魯 迅 が 「藤野 先 生 」22)で は っ き り と 「と もか く この 時 、 こ の場 所 で、 私 の考 え は変 わ っ た」
と言 って い る通 りで あ るが 、 も う一 つ 大 事 な こと はつ ま りそ の藤 野 先 生 の こ と で あ る。 「な ぜ
か、 私 は今 も って事 あ る ご と に先 生 の こ と を思 い 出す の で あ る。 私 が 師 と仰 ぐ人 の なか で も、
先 生 は私 が 大 きな 感 銘 を 受 け、 大 き な励 ま しを あ た え られ た人 の一人 であ る。」 「いっ も夜 にな っ
て疲 れ が 出 、 ひ と休 み しよ うか と思 うと き、 顔 を上 げ て、 灯 りの 中 の先 生 の浅 黒 い 痩 せ 形 の顔
が、 今 に もあ の抑 揚 の あ る 口調 で 話 しか けて き そ うに な る の を見 る と、 私 は俄然 良心 に 目覚 め、
勇気 が 満 ち て く るの を 覚 え る。 そ こで 、 や お らた ば こに火 を っ け、 『正 人 君 子 』 の輩 の 憎 悪 の
的 とな って い る文章 を書 きっ ぐの で あ る。」 この件 を 中学 校 の 国 語 で 始 め て 習 って 以 来 何 回 読
ん だ こ とで あ ろ う。 そ して 又 、 魯 迅 記 念 館 ・旧居 で 藤 野 先 生 の写 真 の前 に立 ち、 或 い は朱 筆 で
添 削 さ れ た魯 迅 の ノー トを 見 る度 に、 筆 者 は胸 が 突 き上 げ られ、 自ず と直立 不動 の姿 勢 にな り、
頭 が下 が り、 目頭 が 熱 くな るの で あ る。 熱 血 漢 で あ る藤 野 先 生 も然 る こ とな が ら、 魯 迅 の藤 野
先 生 に対 す るそ の気 持 も この 上 にな く美 し く、 崇 高 で 、 これ は魯 迅 と 日本 の関 係 を一 番 端 的 に
現 して い る もの で あ る。
魯 迅 が50歳
に な った1931年
の3月 か ら12月
まで の10ヶ
月 間、 毎 日午 後3、4時
間
9
蘇:中 国 人 の 日本 観 一魯 迅
魯 迅 は当 時30歳
だ った 増 田 渉 に著 書 「中 国 小 説 史 略」 や 小説 「晒 城」、 「彷 程 」 等 に就 い て講
義 を し、 質 問 を受 けた 。 彼 が 帰 国 して か ら も二 人 の 間 の文 通 は魯 迅 が 亡 くな る寸前 まで続 いた。
そ の 時受 けた 印 象 を 増 田 渉 は後 に 「魯 迅 の印 象 」 とい う文 章 に して 出 して い る が 、23)人 間 魯
迅 を そ の 風貌 ・顔 付 き ・言 葉 遣 い ・手 振 り ・物 腰 ・身 な りか ら人柄 ・性格 ・性 癖 ・気 質 ・趣 味 ・
家族 ・交友 関 係 ・思 想 ・仕 事 等 に至 る まで 実 に多 方 面 に亘 って詳 細 に記 述 した 文 章 は他 に類 を
見 な い。 「文 章 で見 る魯 迅 と、 直接 話 しあ って い る と き の魯 迅 と で は、 ち ょ っ と勝 手 が ち が う
よ うな 気 が した。 深 刻 め いた 顔 っ きや 言 葉 づ か い を せ ず、 い っ も軽 い ユ ー モ ア を と ば して ニ コ
ニ コ して い る気 の お け な い人 で あ っ た。 一 し ょに 向 か い あ って い て、 緊張 感 な ど は私 は感 じた
こ と はな か った。 文 章 にみ る皮 肉 や 毒 舌 は影 さ え な く、 む し ろ子 供 の よ うに天 真 な人 柄 で あ っ
た 。」 そ れ は確 か に魯 迅 は誠 実 で温 和 な人 で あ る に は違 い な いで あ ろ うが 、 そ の半 面 、 相 手 が
日本 の 友 人 で あ っ た ので 、 気 を 許 した と ころ が あ った と い う こ と も否 定 出来 な い で あ ろ う。
「魯 迅 全 集16」24)に
掲 載 され て い る増 田渉 宛 の58通
の手 紙 の 内、 署 名 は 「迅 」 が19通
、
「堕 落 文 人 」 と誰 か か ら罵 られ、 そ れ を 振 っ て 魯 迅 が 自分 で 付 け た 「階 洛 文 」 と い う名 前 の
「洛 文 」 が29通
で あ る。 とに か く苗字 抜 きの 名 前 だ けで の署 名 が48通
、83%を
占 め、 二
人 の 間 の 信 頼 ・親 しさが 分 か る。
李 長 之 が 言 う25)魯 迅 の 「精 神 発 展 上 、 頂 点 に 達 し」、 「健 康 で 生 気 に 溢 れ て い た 」 段 階 と
「国 民 性 へ の攻 撃 を ふ た た び 開始 し」、 「反 封 建 文 化 の使 命 が、 い っそ う明 確 に 反 帝 国 主 義 の 闘
争 に転 化 して い る」 段 階 と を合 わせ た最 後 の10年
、 内 山 完 造 は魯 迅 と刎 頸 の 交 わ りを した。
魯 迅 は毎 日の よ うに彼 の経 営 す る内 山書 店 に通 い 、 必 要 とす る書 籍 等 を そ こか ら取 り寄 せ、 言
わ ば そ こを 情 報 収 集 の窓 口 に した。 人 に会 った り、 連 絡 を 取 っ た りす る時 もそ こを拠 点 に した。
内 山 完 造 は魯 迅 と そ の家 族 の健 康 ・生 活 上 の面 倒 を 見 ただ けで な く、 国 民 党 政 権 の圧 迫 か ら魯
迅 を守 り、 魯 迅 も又 内 山完 造 に 「全 幅 の信 頼 を お い て い た」。2s)魯 迅 の 身 辺 に危 険 が 迫 っ た 時
は隠 れ 家 を 捜 した り、 自分 の家 に 引 き込 ん だ り して 、 彼 を守 り通 した。 も しも内 山完 造 とい う
日本 人 が い なか った ら、 魯 迅 一 生 の 中 で一 番 大事 な 活 動 や 闘 い は 出来 なか っ たで あ ろ う。
魯 迅 の絶 筆 と な った の は 内 山完 造 宛 の手 紙 で あ っ た し、「意 外 な こ とで 夜 中 か ら又 喘 息 が は じ
め ま した。… … お 頼 み 申 します 。電 話 で須 藤 先 生 に頼 ん で 下 さ い。早 速 み て 下 さ る様 に と。」27)
と頼 ま れ、 急 いで 駆 け付 け、 危 篤 に 陥 った 魯 迅 を 見 守 り、 「完 造 が疲 れ や しな い か と許 広 平 が
余 り心 配 す る の で、 完 造 は夜 中 の十 二 時 頃 、 い っ たん 家 に帰 る こと に した。 … … 『y"ぐ来 て く
だ さ い。』 … … 駆 けだ した 。 完 造 は臨 終 に五 分 お くれ た。 顔 も手 もあ た た か い 、 そ れ な の に 呼
吸 は絶 え、 脈 も とま った ま ま で あ る。 『僕 の病 気 は ど うな って い るの だ ろ う』 魯 迅 の 声 が 完 造
の耳 の 中 で駆 け ま わ って い た。」28)
仕 事 ・勉 強 ・生 活 と言 い、 自分 及 び 母 親 、 妻 子 の身 の安 全 ・病 気 と言 い、 魯 迅 は中 国 人 で は
な く、 日本 人 に頼 って い た訳 で あ る。 心 を 許 せ る の も、 そ れ は一 部 の 日本 人 で あ るか も知 れ な
い け れ ど も、 兎 に 角 日本 人 で あ る。 この 事 実 を果 た して ど う見 るべ きで あ ろ うか 。
い ず れ に せ よ、 魯 迅 の一 生 は 日本 と切 って も切 れ な い 関係 に あ るの で あ る。
奈
10
良
大
学
皿.日
1.日
紀
要
第28号
本 は鏡
本人は真面 目
魯 迅 は1936年3月
、 内 山 完 造 著 「生 け る支 那 の姿 」 の 中国 語 版 訳 者 宛 の 手 紙 で は っ き り
と29)
「日本 の国 民 性 は た しか に立 派 で す 」
と認 めて い る し、 満 州 事 変 直 後 の1931年11月
に も、 鋤
「排 日の最 中 に あ って、 私 はあ え て 断 固 と して 中 国 の青 年 に忠 告 を 一一っ さ しあ げ た い。 そ れ
は、 日本 人 は私 た ちが み な ら うだ け の価 値 あ る もの を い っぱ い持 って い る、 とい うこ とで あ る。
例 え ば、 自分 の本 国 や 東 三 省 につ い て、 彼 ら は平 常 か らた くさ ん の書 籍 を 出 して いて
目下 投 機 的 に 出版 され た も の は除 くべ きで あ るが一
ただ
外 国 に 関 す る もの は、 も ち ろん な お さ ら
言 う まで も な い。 私 た ち 自身 何 が あ るか。 墨 子 を飛 行 機 の元 祖 とな す 以 外 に、 中 国 は四 千 年 の
古 い国 で あ り なが ら、 こ う した うだ っ の あ が らな い た わ ご と以 外 に、 い った い何 が あ る とい う
のか 。」
と書 いて い る。
内 山 完 造 の記 憶 に よ る と、 魯 迅 は病 床 に あ った あ る 日、 彼 に こ う語 った そ うで あ る。31)
「僕 は寝 て い るあ い だ に発 見 した よ。 そ れ は中 国 四 億 の人 民 が 『馬 馬 虎 虎 』 と い う病 気 に か
か って い る こ と だ。 こ の病 気 を治 さ な い 限 り、 中 国 を救 う こ と はで きな い 。 だ が 、 日本 に は こ
の病 気 を 治 す 特 効 薬 が あ る。 そ れ は、 日本 人 の 真面 目な態 度 だ。 だ か ら、 日本 の全 部 を排 斥 し
て も、 こ の薬 だ け は買 って こ な け れ ば な らな い。 今 度 の病 気 が 治 った ら、 僕 は そ う言 うつ も り
だ。」'
亡 くな っ た内 山書 店 店 員 の鎌 田誠 一 の た め に書 い た墓 記 に も、32)
「勤 勉 に して しか も実 直、 兼 ね て 絵 の 事 を 修 め、 燦 然 た る成 果 を挙 げ ぬ。」
と記 して い る し、1932年11月
北 京 輔 仁 大学 の講 演 で は、 中 国 の 青 年 や 学生 が 真 に 「抗 日」
か 否 か は別 と して 、た だ単 に 「抗 日」関 係 の バ ッチ を持 った り、軍 服 姿 の 写 真 を 残 し、訓 練 服 を 家
の中 に置 き、処 分 す るの を忘 れ た り して 、日本 軍 に捕 らえ られ て い く こ と に就 いて 触 れ 、 認)
「い った ん 日本 軍 に探 し出 され れ ば 、 そ れ も命 を失 う もと に な ります 。 こ の よ う な青 年 が 殺
され ます ので 、 み な は大 い に不 平 を 鳴 ら し、 日本 人 は残 酷 す ぎ る と思 い ま した 。 しか し、 これ
は ま っ た く気 質 の ちが い に よ る もの で す。 日本 人 が ま じめ す ぎ るの に、 中 国 人 が ふ ま じめす ぎ
るの で す 。 中 国 の こ とが らは往 々 に して看 板 を か か げ れ ば そ れ で成 功 とい う こ と に な ります 。
日本 人 はそ うで は あ りませ ん 。 彼 らは 中国 の よ うに芝 居 を や るだ け、 とい うの とは ちが い ます。
日本 人 はバ ッチや 訓 練 服 が あ る の を見 れ ば、 必 ず 彼 らを ほ ん と うに抗 日 して い る人 間 と思 い こ
み、 む ろん 強 敵 だ とみ な します 。 こ ん なふ うに ふ ま じめ な者 が ま じめ な者 とぶ っ か れ ば、 ど う
した って ひ ど い 目 に あ い ます 。」
と、 話 して い る。 当 時 に して も、 現 在 に して も、 実 に考 え られ な い こ とで あ る。 日本 は満 州 事
変 か ら上 海 事 変 、 次 か ら次 へ と中 国 に食 い入 り、 な お虎 視 眈 々 と次 の獲 物 を 狙 って い る し、 中
蘇:中
11
国人 の 日本観 一魯 迅
国 全 土 に は反 日 ・排 日 ・抗 日の怒 号 が響 き渡 って い る時 に、 大 勢 の若 気 の至 りの学 生 を前 に し
て、 よ く も こ こまで 言 え た もの で あ る。 魯 迅 だ か ら こそ 出 来 た ので あ る。 そ の意 味 で は今 の 政
治 家 は そ の足 元 に も及 ぼ な い。 階級 観 に よれ ば 、 先 ず 敵 か 味 方 か 、 そ れ で、 も し も敵 で あ った
ら、 そ の全 て が悪 に な り、 敵 の 何 か を 一 っ で も褒 め さえ した ら も う 「階 級 的立 場 」 の 問 題 に さ
れ、 地 獄 行 きで あ る。 筆 者 が 中 国 プ ロ レタ リア文 化 大 革 命 中 に0度
「日本 に行 って み たい な あ。」
と口 を滑 ら し、 「帝 国 主 義 的 傾 向 あ り」 とい う レ ッテ ル を貼 られ た こ とが あ る。
魯 迅 の こ うい った 日本 人 観 は始 め か ら あ っ た も ので は な い。 日本 留 学 へ行 く前 か ら、 日本 は
明治 維 新 を経 て、 ア ジア で 真 っ先 に近 代 化 に成 功 し、 西 洋 諸 先 進 国 と匹 敵 出来 る国 と見 られ 、
そ れ は 日本 人 が優 秀 で、 努 力 した せ いだ と い う見 方 が 一 般 的 で あ り、 魯 迅 もそ う思 って い たか
も知 れ な い けれ ど も、 事 実 は 鋤
「こ こ数 日向 こ うの 学 生 社 会 に もか な り入 って ざ っ と推 察 して み ま したが 、 そ の 思 想 、 行 為
は決 して わ が震 旦 の青 年 の上 に出 る も ので は な い と敢 え て断 言 しま し ょ う。 た だ 社 交 が 活 溌 な
点 で は連 中 の方 が うわ手 で す 。 楽 観 的 に考 え る な らば、 わ が黄 帝 の魂 は あ るい は絶 祠 の た め に
餓 え る こ とに な らず に す む で し ょうか 。」
「学 校 の勉 強 は暗 記 に うる さ い ば か りで思 索 を要 しませ ん 。 い く ら も勉 強 しな い う ち に 頭 が
こち こち にな って し まい ます 。 四 年 たて ば お そ ら くで くの坊 み た い に な って し ま うで し ょ う。」
と、 仙 台 医学 専 門学 校 に入 って 間 もな く語 って い る よ うに、 日本 人 を 大 して評 価 も して い な い
し、 中 国 の 国 民 性 を そ う悪 く も言 って い な い。 や は り長 年 に亘 って、 日本 ・日本 人 を 知 り、 培
わ れ た の で あ ろ う。
2.模
倣は短所ではな い
中 国 は 日清 戦 争 に負 け、 中 華 思 想 が崩 壊 し、 日本 を最 早 朝 貢 国 等 と思 う こ と は出 来 な くな っ
た ば か りで な く、 日露 戦 争 に もな ん と勝 った の で、 日本 に 倣 わ な けれ ば な らな い と い う風 潮 に
はな って も、 日本 を 多 少 馬 鹿 にす る と ころ が な きに し もあ らず で あ った 。 そ れ は当 時 も今 も同
じで あ る。 そ の現 れ の 一 っ が 所 謂 模 倣 、 物 真 似 の こ とで あ る。
明 治 維 新 まで は、 中 華 文 明 に倣 い、 中国 文 化 を導 入 し、 政 治 ・法 律 ・産 業 ・技 術 ・宗 教 ・文
化 ・文 字 、 衣 食 住 全 般 に亘 って、 中国 に右 に倣 え を した。 明 治 維 新 以 降 は、 脱 亜 入 欧 し、 ヨー
ロ ッパ 文 明 に倣 っ た。 それ は そ れ で成 功 した か も知 れ な い が 、 と にか く日本 に は 日本 独 特 の 文
化 等 あ ま りな い と い うのが 中国 人 の一 般 的 な 見方 で あ る。 現 在 で も、 日本 の技 術 は進 ん で お り、
例 え ば家 電 製 品 も性 能 が 優 れ て お り、 精 巧 で あ るけ れ ど も、 ほ とん ど欧 米 、 特 に ア メ リカ の 真
似 を して い る に過 ぎ な い と誰 し も思 って い る。 そ れ が 原 因 して 、 清 末 民 国 初 と違 い、 今 は世 界
中 ど こへ で も行 け る よ うに な った の で、 優 秀 な 留学 生 は先 ず 米 国 を 目指 す よ うに な って い る。
言 葉 は悪 いが 、 お こ ぼれ が 日本 へ と言 って もい い くらい で 、 出 世 し、 功 成 り名 を遂 げ、 帰 国 し
てか ら も、 欧 米 留 学 経 験 者 は 幅 を利 か せ て い るの に対 し、 日本 留 学 経 験 者 は ど ち らか と言 う と
小 さ くな って い る。
人 を馬 鹿 にす る人 ほ ど馬 鹿 で あ る と言 う よ う に、 「中 国 は、 一 貫 して いわ ゆ る 『排 他 政 策 』
を と って き た。 … …鉄 砲 と大 砲 に よ って 表 門 を 打 ち破 られ て か らは、 さ らに、 続 け ざ ま に壁 に
12
奈 良
大
学
紀
要
第28号
頭 をぶ っ け て、 現 在 は何 事 に よ らず、 『届 け る』 政 策 に な った。」35)
と、 魯 迅 は 中国 の鎖 国 的 な方 針 に鋭 い メ スを 入 れ 、 そ れ よ り大 事 、 強 調 す べ きな の は 「も って
こ い政 策 」 で あ り、
「我 々 は、 頭 を っ か い 、 視 野 を 広 く し、 自分 で持 って こな け れ ば な らな い 。 … … 我 々 は、 あ
る い は使 用 し、 あ る い は放 置 し、 あ るい は破殿 す る必 要 が あ る。 … … しか し第 一に、 その人 は、
着 実 で 、 勇 敢 で 、 識 別 の力 を具 え、 非 利 己 的 で な け れ ば な らな い。 持 って こない か ぎ り、人 は、
自 ら新 しい人 間 にな れ な い。 持 って こな い か ぎ り、 文 学 芸 術 は、 自 らを 新 しい文 学 芸 術 に して
い くこ と はで きな い。」 と、 書 い て い る。
こ こで も う一 つ 大 事 な の は この 「も って こい政 策 」 に イ デ オ ロギ ーを 絡 ませ て は な らな い と
い う こ とで はな か ろ うか 。 中 国 に共 産 党 政 権 が 出来 た 当 時 は所謂 ソ連 一 辺 倒 政 策 を と った。 学
校教 育 で言 え ば 、小 学 校 か ら大 学 まで 、 国 語 や 中国 史 を除 き、 全 て ソ連 の 教 科 書 を 使 用 す る よ
うに し、 外 国語 もそ れ まで の 英 語 を 廃 止 し、 ロ シア語 に変 え た。 英 語 の教 員 も習 い なが らロ シ
ア語 を教 え た。 と ころ が 、 ソ連 が 「修 正 主 義 」 化 し、 中 ソ関 係 が悪 化 して か らは一 斉 に それ ら
を廃 棄 し、 急 い で 自分 で 教 科 書 を 作 り、 外 国 語 教 育 も英 語 に切 り替 え た。 ロ シ ア語 を 教 え て い
た教 員 は又 紙 屑 か ごの 中 か ら英 語 の ペ ーパ ー を拾 い上 げ、 忘 れ か け た英 語 を教 え る よ う に な っ
た。 結 局 は ど の外 国 語 も身 に付 か ず 、 教 育 全 体 の レベ ル ダ ウ ンを招 い た。 文 化 ・社 会 ・経 済 ・
政 治 、 み な然 りで、 何 十 年 と堂 々巡 りば か り して 来 た。
魯 迅 が1929年1月
に、 蕗 谷 虹 児 の 画 選 を 中 国 の 読 者 に一 っ の小 さ な鏡 と して紹 介 した こ
とが あ るが 、 日本 は正 に 中 国 の 「鏡 」 な の で あ る。
「日本 の翻 訳 界 はた い へ ん 豊 富 で す 。 適 切 な人 材 が多 く、 読 者 も少 な くあ りませ ん。 したが っ
て 有 名 な作 品 に は ほ とん ど翻 訳 が あ りま す。 わ た しの 考 え で は、 ドイ ッ以 外 、 他 国 の作 品 を紹
介 す る の に熱 心 な の は、 お そ ら く 日本 で し ょ う。 た だ し、 ソ連 の 文 学 理 論 の紹 介 は さい きん大
きな 欠 点 が あ り ます 。 … … した が って、 日本 語 に頼 るだ けで は不 十 分 で 、 ソヴ ィエ ト ・ロ シア
文学 を 研 究 した けれ ば 、 ロ シア語 が わ か った ほ うが よ ろ しい 。」ss)
そ の ロ シ ア語 を 習 う に も、 日本 語 が分 か った方 が便 利 な の で 、 先 ず3、4年
日本 語 を習 うべ
き と提 唱 して い る。 そ の 魯 迅 自身 、 日本 留 学 時 代 に、 日本 語 の 外 に ドイ ッ語 の 勉 強 に力 を入 れ
た の は周 知 の通 りで あ る。
二 っ の外 国語 の 関係 に就 いて 、 魯 迅 は更 に次 の よ うに言 って い る。 訂)
「わ た しの考 え は、 日本 語 は論 文 が読 め れ ば そ れ で よい と い う こ とで す 。 彼 ら は 紹 介 す る の
が早 い か らで す。 文 芸 を 読 む の は労 多 く して 功 少 な し、 です 。 … … しか も我 々外 国 の 読 者 の労
力 に酬 い る偉 大 な創 作 はあ り ませ ん。 … … 欧 州 に は大 作 品 が あ りま す。 ど う して、 日本 語 を 学
ぼ う とす る精 力 を も って、 西 洋 の言 語 を 学 ぼ う と な さ らな い の です か。」
日本 を あ くま で ヨー ロ ッパ の窓 口 と位 置 付 け して い る こ とが 、 次 の話 か ら も分 か る。 認)
「日本 で は、 近 ご ろ は特 に厨 川 白村 の よ うな人 を み ま せ ん。 … … 随筆 の 類 も時 に 出 版 され ま
す が 、 読 ん で み て も大 抵 浅 薄 で味 が な く、 あ って もな くて も よ い もので す 。 要 す る に、 社 会 と
文 芸 の よ い批 評 家 は み あ た りま せ ん。」
日本 の 外 国 紹 介 の姿 勢 に 問題 が な い訳 で はな い。 魯 迅 の 批 判 は痛 烈 で あ る。39)
蘇:中 国 人 の 日本 観 一魯 迅
13
「日本 人 は中 国 語 の文 章 を読 む の が比 較 的 に容 易 で す が 、 彼 らの著 作 を読 む と や は りで た ら
め が多 い。 上 海 に きて半 月 もす る と本 を だ し、 ル ー レ ッ ト賭 博 、 私 娼 、 とい った 類 の こ と を書
き、 中国 は ど こ もか し こ も、 打 っ、 買 うの 天 国 だ と い わ ん が ば か り。」
そ れ で も全 体 か ら言 う と、 日本 は外 来 文 化 の 吸 収 ・消 化 が全 方 位 で、 迅 速 で、効果 的で あ る。
魯 迅 は1934年8月
に発 表 した 「子 供 の 写 真 の こ と」 と い う雑 感 の 中 で、 次 の よ う に喝 破 し
て い る。40)
「そ の 師 が我 々 の 仇 敵 で あ ろ う と も、 我 々 は師 か ら学 ぶ べ きで あ る。 わ た し は 、 こ こで 、 現
在 、 人 々 が 触 れ たが らな い 日本 を と りあ げ よ う。 日本 が 、 模 倣 が うま く、 創造 に乏 しい こ とは、
中 国 の 多 くの 論 者 が 軽 蔑 して い る。 しか し、 彼 らの 出 版 物 と工 芸 品 を見 る と、 早 くか ら中 国 を
凌 駕 して い る。 『模 倣 が う まい』 の は、 決 して 短 所 で は な い とわ か るの で あ る。 我 々 は 、 そ の
『模 倣 が うま い』 こ とを学 ぶ べ きで あ る。 『模 倣 が う まい』 こ と に、 創 造 を 加 え た な ら、 な お さ
らよい の で はな か ろ うか 。 さ もな け れ ば、 た だ、 『痛 恨 して死 ぬ』 だ け な の で あ る。」
3.日
本 も ま だ 本 当 の こ とが 言 え る処 で は な い
「魯 迅 全 集16」
に 内 山完 造 宛 に書 い た手 紙 が10通
載 って い る が、 ど れ を 読 ん で も心 が 温
ま る。 東 京 へ一・
時 帰 国 した 内 山 完 造 宛 に、1932年4月13日
、41)
「書 店 に も毎 日行 きます が、 も一漫 談 な どが あ り ませ ん 。 矢 張 りさ び しい で す 。 あ な た は何
時上 海 へ い ら し ゃい ます か?こ ち か らは早 く帰 え る様 に の ぞ ん で居 り ます。 熱 心 に。」
と書 き、 そ の2週 間 後 に又 、42)
「北 四 川 路 も毎 日毎 日賑 くな って来 ま した。 と こ ろが 先 生 なか なか 帰 え っ て 来 ま せ ん 。 漫 談
は戦 争 よ り も永 い よ うで す。 そ れ は実 に驚 いて 仕 舞 い ま した。」
と書 き送 って い る。 も う寂 しい、 待 ち 遠 しい、 首 を 長 く して待 っ ど ころ か、 恨 む よ う に して ま
で相 手 を急 か して い る。 魯 迅 が 内 山 完 造 に こ こ まで 深 い愛 情 を抱 い て い た とは驚 か され る ばか
りで あ る。
魯 迅 が 北 京 へ 行 った ら、 着 い た そ の 日の 夜 に す ぐ内 山 完 造 宛 に手 紙 を認 め、43)
「御 贈 与 下 さ った 蒲 団 を 母 親 に差 しあ げ ま した、 非 常 に よ ろ こん で 厚 く御 礼 を 申 し上 げ る よ
うに と い い ま した か ら謹 ん で伝 言 致 しま す。
私 は汽 車 の な か に よ く食 い、 よ く睡 む りま した か らご く元 気 に な って居 り ます 。」 と 御 礼 を
言 い、 元 気 で あ る こ とを知 らせ て い る。 実 に身 内 以 上 で あ る。
二 人 の間 は又 本 当 に 明 る く、 言 葉 遣 い もユ ー モ ア に富 ん で い る。 魯 迅 は面 と向 か って は何 時
も内 山 完 造 を 紹 興 弁plLりの あ る上 海 弁 で 「老 板 」 と呼 ん で い た そ うで あ る が、 そ の ニ ュ ア ンス
は 「旦 那 」 よ り も む しろ 「おや じ」 に近 い よ うで あ る。
候 文 で 手 紙 を 書 いて は、 末 尾 に 「御 令 閨殿 下 に よ ろ し く御 伝 言 被 下 度 。」44)と 書 い て い る と
こ ろ等 、 本 当 に微 笑 ま し く、 これ が か の 「横 眉 冷 対 千 夫 指 」(眉 を横 た え て 冷 や や か に対 す 千
夫 の 指)、 「寸 鉄 人 を 殺 し、 一 刀 血 を見 る」 鋭 い魯 迅 と同 一 人 物 で あ るか と疑 う く らい で あ る。
や は り李 長 之 や 増 田渉 の魯 迅 観 の方 が真 実 に近 い と言 わ ざ るを 得 な い。
そ して 、 そ の1932年4月13日
の手 紙 に な ん と非 常 に重 要 な こ とが 書 か れ て い るの で あ
奈
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良
大
学
紀
要
第28号
る。
「私 か ら見 る と 日本 に も未 、 本 当 の言 葉 を い うべ き処 で は な い ので ち ょ っ と気 を 附 け な い と
皆 様 に飛 ん だ 迷惑 を か け るか も知 りませ ん 。」
っ ま り 日本 に も言 論 の 統 制 、 検 閲 制 度 が あ る と い う こ とで あ る。45)
「日本 で は、 な る ほ ど階 級 闘争 を語 る こ とを 禁 止 して い るが 、 世 界 に階 級 闘争 が な い とは言 っ
て い な か った が 、 中 国 で は、 世 界 に は、 実 は、 い わ ゆ る階級 闘争 は な く、 み な マ ル ク スが 捏 造
した の だ と言 う。 … … 日本 は、 確 か に書 籍 ・雑 誌 の禁 止 、 削 除 を して い るが、 削 除 の 箇 所 は、
空 白を 残 して 読 者 が 一 眼 見 て そ こは削 除 さ れ た とわ か るよ うに した。 中 国 で は、 空 白を 残 す こ
とを 許 さず 、 必 ず 、 っ づ け な くて は な らな い か ら、 読 者 の 眼 に は、 や は り完全 な 文 章 の よ うに
見 え 、 ただ 作 者 が 意 味 不 明 の わ け の わ か らぬ こ とを言 って い るだ けで あ った。」
当 時 か ら して 中 国 の方 が ひ ど か った し、 現 在 日本 で は憲 法 で言 論 統 制 ・検 閲 が 禁 止 され る よ
う にな っ た の に対 し、 中 国 は 旧態 依 然 ど ころ か政 権 交 代 で更 に0段
と悪 化 した。 増 田渉 に 「魯
迅 と 日本 」 と い う文 章 が あ る が、 そ の 中国 語 版 ⑥ と言 った ら、 誤 訳 だ けで な く、 勝 手 に 削 除
した り、 す り替 え た り、 そ れ が そ う長 く もな い文 章 な の に、 な ん と50力
箇 所 以 上 に上 り、 見
る も無 惨 な姿 で あ る。
勿 論 何 もか も中 国 の方 が ひ ど い とい う こ とで は な い 。
「日本 の一 切 の左 翼 作 家 の な か で 、 現 在 転 向 して い な い の は二 人 だ け し か 残 って い ま せ ん
(蔵原 と宮 本)。 お二 人 は き っ と驚 か れ て、 彼 らは 中 国 の 左 翼 が 頑 強 で あ るの に 及 ぼ な い と考 え
られ る と お もい ます が 、 もの ご とは比 較 して か ら論 じな けれ ば な り ませ ん 。 彼 らの と ころ の圧
迫 の手 段 は、 ま こ と に組 織 的 で手 ぬ か りが な い の で す 。 彼 ら は ドイ ッ型 で 、 精 密 で 周 到 で す。
中 国 が これ を真 似 る と状 況 は ち が って きま す。」47)
こ の よ うな体 制 ・制 度 と は直 接 関係 な しに、 日本 人 の 慣 習 と して 、 魯 迅 はい くっ か 挙 げ て い
る。
そ の一 つ は、 日本 人 は軽 々 し く意 見 を言 わ な い とい う こ とで あ る。
「日本 の二 人 の画 家 は返 事 を くれ るか も しれ ませ ん が、 ふ っ うの社 交 辞 令 的 な も の だ ろ う と
お もい ます 。 彼 らに あ っ て は、 作 家 と批 評 家 は分 業 で 、 ご く親 しい 友 人 で な い か ぎ り、 か るが
る し く意 見 を のべ な い ので す 。」⑧
「彼 らの習 慣 は我 々 と異 な り、 非 常 に遠 慮 深 い ので す 。 か るが る し く発 言 しま せ ん。 そ れ で 、
真実 の
社 交 的 で は な い批 評 を うけ よ う と して も、 そ れ はで きな い の で す。」49)
も う一 つ は、 日本 人 は結 論 を好 む とい う こ とで あ る。
「これ も 自分 の発 見 で な く内 山 書 店 で 漫 談 を 聞 いて 居 た と き に拾 っ た もの だ が 日本 人 程 結 論
を 好 む 民 族 、 即 ち議 論 を聞 か うが、 本 を読 ま うが若 し遂 に結 論 を 得 な か っ た ら ど う して も気 が
す ま な い民 族 は、 今 の世 の 中 に頗 る す くな い ら しい と云 ふ こ とで あ る。」so)
「彼 らが、 急 い で結 論 を求 め るの は、 実 行 を 急 ぐか らで あ る。」51)
結 論 を 求 め 、 実 行 を急 ぐこ と は、 真 面 目 さ の現 れ で もあ り、 性 急 の一 言 で 片 付 け た り、 一 笑
に付 して しま っ た り して は い け な い。 そ れ に対 し、 中 国 人 は何 人 か集 ま る と、 す ぐと りと め も
な い 四方 山 話 を 始 め 、 タバ コ を吸 い、 お茶 を飲 み な が ら何 時 ま で も続 け る。 何 事 を や る に も、
蘇:中
15
国 人 の 日本 観 一魯 迅
「慢 慢 地 」(ゆ っ く り と)、 実 に のん び り して い る。 そ れ を 悠 久 な歴 史 を 持 っ 大 国 の 国 民 性 とす
る の は怠 け者 の言 い逃 れ に過 ぎず、 全 くの お 門 違 いで あ る。
4.中
国 唯一 の 出路 は民 族 革 命戦 争
魯 迅 の評 価 或 い は魯 迅 文学 の 本 質 に 関 す る見 解 や説 は幾 つ もあ るが、 魯 迅 の 「人 間 と して の
性 質 の善 良 さ に っ い て は衆 評 が一 致 して い る」52)し、魯 迅 が 「正 義 感 の 強 い 、虚 偽 の 憎 悪 者 」53)
で あ り、 「孫 文 が 革 命 の父 と呼 ば れ る よ うに、 魯 迅 は現 代 中 国 の 国 民 文 化 の母 で あ る」54)こ と
に誰 も異 論 は な い で あ ろ う。
そ の魯 迅 の 日本 と中 国 の 間 に起 こ りつ っ あ る戦 争 に対 す る態 度 に も議 論 はあ る まい。確 か に、
1931年9月18日
か ら30日
まで の 日記55)を 捲 って み て も、 内 山書 店 に本 を 買 い に行 っ
た り、 愛 児 海 嬰 の 満2歳 の誕 生 祝 い で 建 人 弟 を呼 ん で来 て飲 ん だ り した とか、 或 い は26日
は
「旧暦 中 秋 と い う、 月 、 は な は だ良 し」 とい う よ うな 「中 秋 」 の名 「月 」 に 関 す る 記 載 は あ っ
て も、 満 州 事 変 に は片言 隻 語 も触 れ て い な い。1932年1月28日
辺 りの 日記56)に
は さす
が に上 海 事 変 の こ とが記 され て い る。28日
「午 後 、 付 近 きわ め て騒 然 とす。」、29日
に遭 う。 終 日、 銃 声 、 砲 声 を 聞 く。」、30日
「午 後 、 一 家 全 員 で 内 山書 店 に避難 す 、 衣 服 数 着
を携 帯 す るの み。」、 そ して、2月1日
手 紙 は、1932年2月22日
「戦 火
か ら5日 まで は なぜ か 「失 記 」 とな って い る。
許 寿 裳 宛 の 手 紙 に次 の よ うな こ とを書 い て い る。57)
「この た びの 事 変 は、 ま こと に思 い もよ らぬ もの で 、 突 如 と して 火 線 に陥 り、 血 ぬ り の 刃 が
途 を ふ さ ぎ、 飛 び く る丸 が 室 に 入 る とい う こ と に な り、 ほ ん と うに命 は旦 夕 に在 り と い った腹
づ も りを しま した。 二 月六 日に 、 や っ と内 山 君 が 方 法 を講 じて くれ、 妻 子 を ひ きっ れ 英 租 界 に
入 る こ とが で きま した。 書 籍 文 具 は一 っ も も って こなか った け れ ど も、 大 人 も子 供 も幸 い に っ
っ が な く、 ま ず は御 安 心 くだ さい。」
二 っ の事 変 を起 こ した 日本 を 呼 ぶ に も ほ とん ど、 「侵 略者 」 とか 「帝 国 主 義 」、 「軍 国主 義 」、
「フ ァシ ス ト」 呼 ばわ りせ ず 、 普 通 の呼 び方 を して い る。
「日本 が 、 遼 寧 、 吉 林 二 省 を 占領 して以 来 、 … …」(1931年11月30日)58)
魯 迅 自身 が書 い た の か ど うか は確 定 出 来 な いが 、 一 応 魯 迅 の 名 で1933年
に発表 され た
「同 志 小 林 の死 を 聞 いて 」 と い う文 章 で は、59)
「日本 ト支 那 トノ大 衆 ハ モ トヨ リ兄 弟 デ ア ル。 資 産 階級 ハ 大 衆 ヲ ダ マ シ テ 其 ノ血 デ 界 ヲ エ ガ
イ タ、 又 エ ガ キ ツ ツ ア ル。」
とな って い る。 そ れ に対 し、 「魯 迅 全 集10」
の原 注 は 「日本 フ ァ シ ス ト政 府 」 と 決 め っ け て
い る。
「あ る国 が、 青 島 か ら撤 兵 した と き、 あ る人 は、 万 民 傘 に 名 を っ らね る こ とを 『メ ン ッ が あ
る』 と思 った の で あ る。」(1934年10月)60)
1936年4月
号 の 「改 造 」 誌 に発 表 され た 日本 語 で 書 か れ た 「私 は人 を だ ま した い」 と い
う文 章 で は、61)
「昨年 の秋 か冬 、 日本 の 水 兵 が … … 」
「日本 の方 は 『事 変』 の 云 ふ の を す く ら しい」
16
奈
良
とな って い るの に 対 し、 「魯 迅 全 集8」
大
学
紀
要
第28号
の 原 注 は 「日本 侵 略 者 」 と呼 ん で い る。
北 京 輔 仁 大学 で の 講 演 で も、 「日本 兵 」 や 単 に 「日本 人 」 と い う表 現 を して い る。62)
「私 は そ の と き、 日本 兵 が 戦 いを や め た の を見 て もど って きた の で す が、 しか し突 然 ま た緊
張 しま した。 … … 日本 人 に して み れ ば、 この よ うな時 節 で す か ら、 中国 人 は き っ と中 国 を救 う
こ とに み な忙 しい の だ と思 い こん だ ので あ って、 中国 人 が あ ん な に も遠 方 の 月 を 救 い に い こ う
と は、 考 え て もみ な か った の で す 。」
だ か ら と言 って 、 魯 迅 が 親 日的 だ とか と言 お う と して い るの で は な い。 これ に は確 か に何 ら
か の感 情 な り意 識 な りが 働 い て い る に は間 違 い な いで あ ろ うが、 魯 迅 の反 戦 の 姿 勢 ・態 度 は明
瞭 で あ る。
「い ま中 国 の革 命 的 政 党 が全 国 人 民 に 提 出 した抗 日統 一 戦 線 の政 策 はわ た し は 見 た 、 わ た し
は支 持 す る、 わ た しは無 条 件 に こ の戦 線 に加 入 す る。 そ の理 由 は、 わ た しが、 一
一人 の 作 家 で あ
るば か りで な く、 一
一人 の 中 国 人 だ か らで あ る。 そ の政 策 は、 わ た しに と って は、 非 常 に正 確 だ
と認 め る。 わ た しが この 戦 線 に加 入 して も、 もち ろん 、 使 用 す る物 は や は り一 本 の 筆 で あ り、
で き る こ と はや は り文 章 を 書 き、 翻 訳 をす る こ とで あ る」63)、
「民 族 革 命 戦 争 の大 衆 文 学 は、 決 して義 勇 軍 の戦 い や 、 学 生 の請 願 デ モ … … 等 々 の 作 品 を 書
くこ とだ け に 限 定 され るの で は な い。 … … 現 在 、 中国 の最 大 の 問題 、 万 人 共 通 の 問 題 は、 民 族
生 存 の 問 題 で あ る… … あ らゆ る一 切 の生 活(食 事 や睡 眠 を含 む)は 、 み な この 問 題 とか か わ り
が あ る。 た とえ ば 、 食 事 は、 恋 愛 と無 関 係 で差 し支 え な い わ け だ が、 現 在 の 中 国 人 に と って は
食事 も恋 愛 も、 す べ て 日本 侵 略 者 に い く らか関 係 が あ る。 そ れ は、 満 洲 と華 北 の 状 況 を 見 れ ば
明 らか で あ ろ う。 中国 の唯 一 の 出路 は、全 国 一 致 して 日本 に あ た る民 族 革 命 戦 争 で あ る。」 的
これ は1936年7月
、 魯 迅 の病 中 口授 し、0・V・
が筆 録 した もの で あ る が 、 「日本 侵 略
者」 と言 って い る。
同 じ く魯 迅 が 口授 し、0・V・が筆 録 した 同 月 の 別 の 書 簡 で 、魯 迅 は次 の よ う に言 って い る。65)
「あ の着 実 に、 大 地 を踏 み しめ て、 現 在 の 中 国 人 の 生 存 の た め に血 を流 して奮 闘 して い る人 々
を 同志 と して持 ち 得 た こ と は、 自 ら光 栄 だ と思 って お りま す。」
そ れ よ り半 年前 の 手 紙 で 魯 迅 は、
「義 軍 の記 載 は読 み ま した。 この よ うで あ って こそ 戦 士 と称 す る こ とが で き、 私 の よ うに 筆
を弄 ぶ 人 間 を 漸 塊 させ ます 。」ss)
と 自 ら書 い て い る。
5.相
互 理 解 は 難 しい
魯 迅 と 日本 人 の 交 際 、 交 流 は多 い方 で 、 特 に内 山完 造 ・増 田渉 等 は長 年 来 の知 己で あ ったが 、
全 体 か ら言 って 日本 人 との 付 き合 い は難 しい と魯 迅 は晩 年 に至 るま で思 って い た 。
「自分 の考 で は地 位 、 殊 に利 害 さへ違 へ ば 國 と國 との 間 は云 ふ まで もな く、 同 國 人 の 間 で も
相 互 に 瞭解 しに くい の で あ る。」67)
「名 人 と の面 会 もや め る方 が よ い。 野 口様 の 文 章 は僕 の い うた全 体 をか い て い な い 、 書 い た
部 分 も発 表 の た め か 、 そ の ま ま書 いて 居 な い。 長 与 様 の文 章 は も う一 層 だ。 僕 は 日本 の作 者 と
蘇:中
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国 人 の 日本 観 一魯 迅
支 那 の作 者 との意 思 は 当分 の 内通 ず る事 は難 しい だ ろ う と思 う。 先 ず 境 遇 と生 活 と は皆 な違 い
ます 。」ss)
当時 、 日本 は 中国 は政 治 ・経 済 ・社 会 ・文 化 全 般 に亘 って停 滞 し、 ヨー ロ ッパ 諸 国 に大 変 遅
れ を取 って しま った、 「中 国 は弱 国 で あ るか ら、 中 国 人 は当 然 低 能 児 で あ 」 る69)と い う よ う
な 中国 ・中国 人 蔑 視 の風 潮 で あ った。 両 国 の 国 民 の間 に この よ うな壁 が立 ち はだ か って い た の
で は相 互 理 解 は不 可 能 に近 い。
但 し、 「若 し も永 く或 る土 地 に生 活 し、 そ の土 地 の人 民 に接 触 して 殊 に そ の人 民 の魂 に ふ れ 、
且 つ そ れ を感 得 して眞 面 目 に考 へ て 見 れ ば 、 そ の國 を瞭 解 す る こと は あ な が ち 出事 な い こ とで
もあ る ま い。 … … 自分 の考 で は 日本 と支 那 と の人 々 の間 は きっ と相 互 に は つ き り と瞭 解 す る 日
が来 る と思 ふ。 昨 今 新 聞 に は又 盛 ん に 『親 善 』 とか 『提 携 』 とか 書 き立 て て居 るが 、 来 年 に な
っ た ら又 ど ん な文 字 を な らべ るか 知 らん けれ ど も、 兎 に角 今 は其 時 で な い の で あ る。」70)
相 手 の 「魂 に ふ れ、 且 つ そ れ を 感 得 して 眞 面 目 に考 へ て 」 始 めて 、 相 互 理 解 が 可 能 に な る。
相 当難 しい こ とで は あ るが、 「千 里 の行 も足 下 に始 ま る」 とい う よ う に、 倦 ま ず 弛 ま ず 努 力 す
れ ば必 ず や そ の 日が到 来 す る。
魯 迅 が 日本 の生 物 学 者 西 村 真 琴博 士 の た め に書 い た 「題 三 義 塔 」 とい う詩71)で
も 「劫 波 を
度 り尽 く して兄 弟 在 り、 相 逢 い て一 笑 す れ ば恩 仇 混 ばん 」 と歌 って い る。
増 田渉 が帰 国 す る時 に、 魯 迅 は 「日本 の 風 光 を しの び、 私 が 東 に帰 るを見 るに っ けて も自分
の若 か り し 日の こ とを憶 ふ」72)と い う意 味 の送 別 の詩 を書 い て い る し、 又 日本 に 赴 く友 人 の
た め に書 い た詩 に も、 「頭 を もた げ て東 方 に浮 か ぶ雲 を 眺 め て い る と、 夢 に ま で 見 た 日本 の 風
土 と友 人 の こ とが想 い起 こ され る」73)と い う意 味 の文 句 が あ る。
魯 迅 は、 この よ うに、 若 か り し頃7年
もい た 日本 が いっ ま で も懐 か し く、 日本 と 日本 の友 人
に思 い を寄 せ て い た の で あ る。
註
1)人
民 日報 、1998年11月27日
2)同
上。
3)安
、1面 。
藤 正 士 ・小 竹 一 彰 編 、 原 典 中 国 現 代 史 、 第8巻 、 日 中関 係 、 岩 波 書 店 、
1994年12月
、293ペ
ー ジ。
楊 尚 昆 国 家 主 席 の天 皇 皇 后 歓 迎宴 に お け るあ い さっ(全 文)は
「尊 敬 す る 日本 国 天皇 皇 后 両 陛 下 」 で
)
4
始 ま って い る。
) ) ) )
にU 瓜U 7響 8
同1)、6面
。
人 民 日 報 、1998年11月29日
、1面
。
同上 。
同3)、215ペ
ー ジ。
)
0σ
毎 日 新 聞 、1999年(平
同 上 、2面
、25面
読 売 新 聞 、1999年(平
成11年)8月7日
、1面
。
。
成11年)
8月7日
、5面 。
10)日
中 月報 、 第228号
、社 団 法 人 日中 協 会 、1999(平
11)岩
波 講 座 現 代 中国 別 巻② 現 代 中 国 研 究 案 内 、 岩 波 書 店 、1990年8月
・11)年5月
、18ペ
、322ペ
ー ジ。
ー ジ。
18
奈
良
大
学
紀
「中 国 の 軍 隊 と 人 民 が う け た 損 失 は1000万
500億
要
第28号
人 以 上 で あ り、 財 産 の 損 失 額 は ア メ リカ ドル で
ドル を こ え て い る 。」
12)増
田 渉 ・松 枝 茂 夫'・ 竹 内 好 、 魯 迅 案 内 、 岩 波 書 店 、 昭 和31年10月
13)毛
沢 東 選 集 、 第 二 巻 、 外 文 出 版 社 、1968年5月
14)李
長 之 著 、 南 雲 智 訳 、 魯 迅 批 判 、 徳 間 書 店 、1990年5月
15)同
上 、23ペ
ー ジ。
16)同
上 、25ペ
ー ジ。
17)同
上 、84ペ
ー ジ。
18)同
上 、203ペ
19)同
上 、228ぺ0ジ
、511ペ
。
21)許
寿 裳 、 我 所 認 識 的 魯 迅 、 人 民 文 学 出 版 社 、1978年6月
迅 全 集3、
学 習 研 究 社 、 昭 和60年11月
、169ペ
23)増
田 渉 、 魯 迅 の 印 象 、 講 談 社 、 昭 和31年7月
24)魯
迅 全 集16、
、7ペ
。
ー ジ。
ー ジ。
27)同24)、600ペ
ー ジ。
泉 譲 、 魯 迅 と 内 山 完 造 、 講 談 社 、1979年6月
29)同24)、608ペ
、289ペ
ー ジ。
ー ジ。
30)魯
迅 全 集10、
31)内
山 完 造 、 魯 迅 の 思 い 出 、 社 会 思 想 社 、1979年9月
、324ぺ0ジ
32)魯
迅 全 集8、
学 習 研 究 社 、 昭 和59年11月
ー ジ。
33)魯
迅 全 集9、
学 習 研 究 社 、 昭 和60年6月
34)魯
迅 全 集14、
学 習 研 究 社 、 昭 和61年8月
学 習 研 究 社 、 昭 和60年6月
迅 全 集15、
学 習 研 究 社 、 昭 和60年8月
37)同
上 、394ペ
ー ジ。
38)同36)、166ペ
ー ジ。
、344ペ
、460ぺ0ジ
。
、35ペ
ー ジ。
、439ペ
ー ジ。
ー ジ。
ー ジ。
41)同24)、484ペ
ー ジ。
42)同24)、485ペ
ー ジ。
43)同24)、500ペ
ー ジ。
44)同24)、534ペ
ー ジ。
45)同32)、180ぺ0ジ
。
献 彪 、 林 治 広 編 、 魯 迅 与 中 日 文 化 交 流 、 湖 南 人 民 出 版 社 、1981年8月
増 田渉 作 、林 換 平訳 、 魯 迅 与 日本 。
47)同36)、524ぺ0ジ
48)同36)、479ペ
。
ー ジ。
49)同36)、496ぺ0ジ
。
50)同32)、302ペ
ー ジ。
51)同32)、501ペ
ー ジ。
52)竹
内 好 、 魯 迅 、 未 来 社 、1983年2月
53)同
上 、52ペ
54)同
上 、174ペ
ー ジ。
55)魯
迅 全 集18、
学 習 研 究 社 、 昭 和60年11月
56)同
上 、413ペ
ー ジ。
57)同34)、552ペ
。
ー ジ。
39)同36)、274ペ
46)劉
、421ペ
ー ジ。
36)魯
40)同32)、98ペ
ー ジ。
ー ジ。
。
学 習 研 究 社 、 昭 和61年5月
26)同23)、137ペ
35)同32)、52ペ
ー ジ。
ー ジ。
22)魯
28)小
、21ペ
ー ジ。
20)同12)、195ペ
25)同14)、31ペ
、196ぺ0ジ
ー ジ。
、8ぺ0ジ
。
ー ジ。
ー ジ。
、391ペ
ー ジ。
。
。
蘇:中 国 人 の 日本 観 一魯 迅
58)同30)、
421ペ
ー ジ。
59)同30)、
437ペ
ー ジ。
60)同32)、
149ペ
ー ジ。
61)同32)、
544ぺ0ジ
62)同33)、
461ぺ0ジ
63)同32)、
595ペ
ー ジ。
64)同32)、
664ペ
ー ジ。
65)同32)、
661ぺ0ジ
。
66)同36)、
554ぺ0ジ
。
19
。
。
67)同50)。
68)同24)、
584ペ
ー ジ◎
69)同22)、
173ペ
ー ジ 。
70)同32)、
303ぺ0ジ
71)同33)、
204ペ
ー ジ ◎
72)同23)、
140ペ
ー ジ 。
73)同33)、
527ぺ0ジ
。
。
提要
1998年11月,中
国 江 洋 民 国 家 主 席 坊 同 了 日本 。 迭 是 日中 美 系)i始 以来,中 国 国 家 元 首 第 一次 正 式 坊 日。
日方,包 括 国 民和 媒 介 在 内,熱 烈 期 望 双 方 都 以展 望 未 来 的 精 神 建 立 与 充 実21世 妃 的 友 好 合 作 伏 伴 美 系。 但
事u:,中
方 把 重 点放 在 以史 力 釜上,始 ≦
冬強 凋所 凋 坊 史 汰 沢 同題 。 最 終 給 日中友 好 代 獄 波 了冷 水,感 情上
早 致 相 反 的皓 果 。
JJJ史杁 沢 基 干1」J史
事 実,迭 是 不言 而 喩 的 。迭100年 的 日中美 系不 只 是 哉 争 的 一面,迩 有 交流 的 一面 。 日本
1立核 深 刻 反省 井 謝 罪 。但 其 同吋,日 本 也 促 遊 了 中 国 的現 代 化,起 了触 媒 剤 的作 用,迭 点 庇 給 以 足 移地 坪 粉 。
日 中美 系 的根 本 是 国 民感 情,相 互 了解 是 其 基 石
出。 迭 研 究 項 目 的 目 的是'凋査 分 析 中 国人 的 日本 双 。本 文 根
据 魯 迅 的 一部 分 言 行 来 旧 納 他 的 日本 規 。
魯 迅 被 称 力現 代 中 国文 化 之 母 。 他 信 仰 明治 錐 新,充 分i"明
在 一生 中具 有 決 定性 意又 的20到27歩 留学 日本,遇
治 錐 新 后 的 日本,訊
力 中 国泣 引 力 借 釜 。他
到 了 良 師 藤 野 先 生 。 人 生 最 后10年 在 上 海 又 与 内 山 完 造 、
増 田渉 等 錆 成 知 己。 他 与 故人 升展 頑 強 地 哉斗 中也 得 到 了他 幻 的 巨大 元 私 的 帯 助。 長 期 形 成 的他 的 日本 規 是 全
面 的、 友 好 的 、客 規 的 。 他杁 力 日本 人 是 杁真 負 責 的。 人伯 悦,日 本 人 根 会 模彷 而 加 以軽 祝 。 其 実,模 彷 不 是
短 赴 。 日本 也 不是 什 広 都 能悦 的 国家 。 九 ・一八 事 変 、 一 ・二八 事 変 后 的 恣 度 也根 明碗,他 是 反対 哉争 的。 中
国人 和 日本 人是 兄 弟,恵 有 一天 能 迭 到相 互 了解,可 是 現在 迩 不 是 吋 候,根 困唯 。
魯 迅 対 日本 抱有 深 厚 的 感情,到 晩 年 都杯 念 日本 和 日本 朋友,迭 是 最 可 宝貴 的。