福祉レジームの日韓比較 - J

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武川正吾 イ࡮ヘギョン編
『福祉レジームの日韓比較
―社会保障࡮ジェンダー࡮労働市場』
山地久美子
比較福祉国家論をめぐる研究で近年注目さ
レジームの研究である。東アジア福祉国家研
れているものに、家族に関する考察、ジェン
究とは、欧米中心であった福祉国家論の中
ダーへの視点、東アジアにおける福祉国家論
で、東アジアの特性に根ざす福祉国家論を検
の検討の 3 点がある。家族に関する考察とは、
討する必要性が指摘されるようになったので
福祉国家研究で「家族」が等閑視されてきた
ある。とくに、エスピン࡮アンデルセンが指
との批判から、家族の役割を重要視するよう
摘する 3 つの福祉レジーム(社会民主主義、保
になったということである。今日の比較福祉
守主義、自由民主主義)のいずれにも該当しな
国家研究に 3 つの福祉レジームの類型論を提
い第 4 のレジームの存在が、東アジアの福祉
示したデンマーク出身の社会政策学者である
体制をめぐる議論の中心となっている。
エスピン࡮アンデルセンは、福祉レジームの
本書の編者のひとりである武川は、東アジ
3 つの重要なアクターとして「国家࡮市場࡮
ア福祉国家研究における「福祉オリエンタリ
家族」を挙げてはきたが、家族についての考
ズム」を指摘している。武川のいう「福祉オ
察が十分でなかったと自らの著書で認めてい
リエンタリズム」とは、福祉国家研究におけ
1)
る 。ジェンダーへの視点についても同様で、
る①スウェーデン中心主義、②ユーロセント
アンデルセンの議論にはその視点が欠如して
リズム、③エスノセントリズムのことである
いたため、フェミニスト研究者と称されるセ
(1–2 ページ)
。それは、欧米の福祉国家研究者
インズベリーらによって「福祉国家のジェン
が用いる基準によって、その歴史や社会が深
ダー化」の必要性が指摘されるようになっ
く理解されていない東アジア域内の「異質
た。後述するが、本書のサブタイトルにもあ
性」よりも、西欧から見た同域内の「同質性」
るジェンダーは本書の中心的な議論のひとつ
に主眼がおかれた研究が行われ、
「儒教資本
となっており、これまでにないアプローチで
主義」
、
「儒教福祉国家」などの観点から考察
意欲的である。
が進められてきたことを意味する。武川は、
そして、欧米の福祉国家論で家族やジェン
東アジアの福祉国家を検討する上で、
「福祉
ダーへの視点の重要性が議論される一方で、
オリエンタリズム」を克服することの必要性
福祉国家論の中で注目を浴びはじめたのが、
を主張し 、本書を東アジア福祉国家の最初
東アジアレジーム論、あるいは第 4 のレジー
の比較研究であると位置づけている。
ム論と呼ばれる、東アジア諸国における福祉
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2)
2005 年から 06 年にかけて、本書を含む 4
アジア研究 Vol. 53, No. 1, January 2007
冊もの韓国福祉国家論に関する書籍が日本で
はしがき
出版された。まず最初に出版されたのは、日
序章 比較福祉国家研究における日韓比較
本と韓国の福祉国家研究である『韓国の福祉
国家࡮日本の福祉国家』(武川正吾࡮キム࡮ヨ
の意義(武川正吾)
Ⅰ 歴史
ンミョン編、東信堂、2005 年) であり、次に出
1 章 現代日本の社会保障の歴史―集
版されたのが韓国で熱い議論となった「韓国
権的社会福祉と分立型社会保険の展開
福祉国家性格論争」の日本語訳版、
『韓国福
祉国家性格論争Ⅰ』(韓国社会保障研究会訳、流
(藤村正之)
2 章 現代韓国社会福祉制度の展開―
通経済大学出版会、2006 年) である。そして、
経済成長、民主化、そして、グローバ
ここで評する『福祉レジームの日韓比較』が
ル化を背景にして(イ࡮ヘギョン)
著され、さらには『東アジアにおける社会政
策 学 の 展 開』(社 会 政 策 学 会 編、 法 律 文 化 社、
2006 年) が出版された。
『福祉レジームの日
韓比較』は社会保障制度の歴史、年金など、
すべての項目で日本と韓国の比較研究を試み
ている点において、ほかの 3 冊とは一線を画
したものとなっている。
武川は東アジア福祉国家比較研究の必要性
を 議 論 す る 中 で、
「東 ア ジ ア の な か の 多 様
性࡮異質性という現実が、同質的で斉一的な
東アジアという錯覚を生んだのである」(3
Ⅱ 年金
3 章 年金社会学の構想―日本の 2004
年年金改革(武川正吾)
4 章 韓国における政治変動と年金改革
(キム࡮ヨンミョン)
Ⅲ 福祉サービス
5 章 岐 路 に 立 つ 日 本 の 介 護 保 険 制 度
(平岡公一)
6 章 韓国福祉国家における福祉サービ
ス(ナム・チャンソプ)
Ⅳ 労働市場
ページ) と、これまでの東アジアレジーム論
7 章 日本における労働市場のサービス
への警告を発している。日本と韓国を対象と
化とグローバル化―大阪を事例とし
した研究の意義と必要性に関して、武川は
て(下平好博)
「日韓比較研究は日韓両国だけの問題ではな
8 章 韓国における新自由主義的改革と
い」(9 ページ)からだと明確にしている。堅
労働市場―トリレンマの観点から見
実な日韓比較研究が積み重ねられていくこと
た韓国福祉国家性格の再検討(ヤン࡮
によって、東アジア࡮モデル論への解決の糸
ジェジン)
口となるという、武川の主張には納得させら
Ⅴ ジェンダー
9 章 社会的排除の装置となった「男性
れるものがある。
*
それでは、ここで本書の内容をみていこ
稼ぎ主」型セーフティネット(大沢真理)
10 章 韓国福祉国家におけるジェンダー
う。 本 書 は 5 部 第 10 章 で 構 成 さ れ て お り、
とケア労働―福祉国家再編の新たな
すべての部において日本と韓国の研究者がそ
次元(チェ࡮ウヨン)
れぞれ担当࡮執筆している。章立ては次の通
りである。
終章 日韓両国における福祉国家の展望と
比較研究の課題(イ࡮ヘギョン)
書評/武川正吾 イ࡮ヘギョン編『福祉レジームの日韓比較―社会保障࡮ジェンダー࡮労働市場』
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武川は 5 つの領域(歴史、年金、福祉サービス、
を行い、第 2 章でイが韓国における社会保障
労働市場、ジェンダー)に区分して、これが日
制度の 60 年間を、権威主義的体制から民主
本と韓国の比較福祉国家研究にとって重要だ
主義への道程に焦点を置きながら考察してい
としている。この 5 つの領域が部ごとに論じ
る。いずれも社会政策研究であり、政治と福
られており、
「取り上げる領域の体系性を保
祉のかかわりについて検討を行ったものであ
とうと試みた」(9 ページ)点が十分に伺われ、
る。ここでみられるのは日韓の福祉政策の違
比較福祉国家論に関する日韓両国を対象とし
いよりも、むしろ、著者らの主眼の違いであ
た研究にとって、武川らが大きな道を開拓し
る。藤村が日本の社会保障制度の展開と福祉
たと言えるものである。
政策の内容や財政を検討し、今後の社会保障
しかし、5 つの領域すべてにおいて日韓両
制度への課題を提示しているのに対し、イは
国の検討がなされているものの、実際には両
韓国の社会保障制度が朴正煕政権期から盧武
国が持つそれぞれの固有の事情を考察するに
鉉政権期までの間にどう展開されたのかを政
とどまっている感がある。武川自らも「日韓
治的文脈から検討を行っている。また、イは
に共通の比較の基準を確立するまでには至ら
今後の福祉政策の具体的な提案をおこなって
なかった」(10 ページ)と述べており、書名に
いるが、それがエスピン࡮アンデルセンらの
もなっている「日韓比較」という目的が十分
議論を念頭において、
「生産的福祉」(金大中
に達成されたというには難があるかもしれな
政権から盧武鉉政権へ継承された福祉理念)のあ
い。その点も踏まえながら本書に関する考察
るべき姿を抽象的に明示するにとどまって
を進めてみよう。
いる。
なお、紙幅の都合もあるので、Ⅰ、Ⅱ、Ⅴ
福祉政策にとどまらず、日韓の政策研究を
の部にとくに絞って記述したい。おことわり
進める上で必ず触れなければならないのは民
しておくが、残りのⅢとⅣに掲載されている
主化の進展の違いであろう。韓国が権威主義
4 つの論文も、巧みな論考である点には他と
的体制から民主化されていく過程での福祉政
変わりがない。あえて絞るのは、Ⅲ(第 3 章
策の変遷を検討することは、日韓の比較研究
つい
と第 4 章) とⅣ(第 7 章と第 8 章) の場合、対
を進めるうえで必須の事項である。しかし、
になる 2 つの論文(章) がかなり異なった分
「歴史」の部でより重要なことは両国でそれ
野を考察しており、比較検討による論評が難
ぞれの社会保障制度が展開されていくなか
しいからである。Ⅲでは平岡が日本の介護保
で、その共通点と相違点を浮彫りにすること
険制度の課題を(第 3 章)、ナムが韓国の福祉
である。本書では、それがほとんど行われて
サービスの理念と制度化を(第 4 章)、Ⅳでは
おらず、残念である。これは、比較すべき共
下平が日本࡮大阪を事例にしたワークフェア
通軸のすり合わせが不足しているからであ
を(第 7 章)、ヤンが韓国の金大中政権時の労
る。藤村は福祉政策の展開や内容を検討した
働市場の柔軟化を(第 8 章)、それぞれ個別的
が、リが展開したのは歴代政権の政策決定過
に論じているという具合である。
程の検討であった。いずれかの手法に統一す
さて、Ⅰ(歴史) の部では、第 1 章で藤村
れば、日韓共通の軸を用いた両社会保障制度
が日本の 50 年にわたる社会保障制度の分析
の歴史を比較検討することが可能であったの
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アジア研究 Vol. 53, No. 1, January 2007
ではないか。このように考えると、Ⅰ(歴史)
性の領域といった二分法議論から、また、女
の部に限らず、他の部の領域(年金、福祉サー
性の有給労働市場における差別的な地位、非
ビス、労働市場、ジェンダー)についても、日韓
正規職の地位の低さといった視点から、それ
共通の軸を用いての検討が行い得ただろう。
ぞれ考察している。ここで日韓の共通の課題
Ⅱ(年金) の部で、日韓の共通点として検
として抽出されるのは、女性に偏っている非
討されているのが皆年金制度の確立と、財政
正規職の増加である。大沢は女性の非正規職
悪化に伴う年金制度改革である。日本は国民
の増加に伴う、社会保険の空洞化を一番の懸
年金(基礎年金) と厚生年金(所得比例年金)
念事項として挙げており、ここでは両国の女
の二階建て、韓国は国民年金(所得比例年金)
性が「脱商品化」できない構造の中に組み込
3)
の一階建てとなっており 、皆年金制度の確
まれていることを物語っていると言える。
立は日本が 1961 年、韓国が 1998 年にそれぞ
日本では、大沢や武川をはじめとする多く
れ成された。年金のしくみ࡮拡充の度合いの
の研究者により、福祉国家のジェンダー化の
違いを踏まえて、ともに合計特殊出生率が
必要性が議論され、福祉制度をジェンダーの
1.3 を下回る超少子化社会であり、平均寿命
視点から検討してきている。しかし、韓国で
の延長࡮高齢者の比率の増加を経験している
はリらによって、福祉国家のジェンダー化の
日韓の共通懸念は、給付水準の設定において
必要性が理念的に挙げられてはいるものの、
どう年金を減額するかにある。武川は 2004
韓国の福祉制度をジェンダーの視点から考察
年 の 年 金 改 革(日 本) を 第 3 章 で、 キ ム は
してきたものは皆無に近かった。それだけ
2003 年の年金改革(韓国) を第 4 章で、それ
に、チェがジェンダーの視点から、韓国のケ
ぞれ政策決定過程を中心に検討しているが、
ア労働を通して「ジェンダー平等な福祉国
ここで評者が関心を持っているのは市民団体
家」を議論したことは評価されてよく、今後
の役割が日韓両国では異なる点である。日本
の研究展開が期待される。
でも個別の福祉政策に対してロビー活動を行
最終章でイは「日韓の福祉国家比較研究の
う団体が存在するが、韓国にはより体系化さ
深化と体系化は、まさにこの『福祉オリエン
れた市民団体組織が存在し、政策決定過程に
タリズム』に対して知的な検討を加える事に
おけるその影響力は大変に大きい。市民団
なるだろう」(288 ページ) と、述べている。
体、さらには労働組合の役割の違いは日韓の
しかし、イは第 2 章の最後でエスピン࡮アン
社会政策を研究するうえで今後、重要性を増
デルセンやピアソンらの議論に依拠した結論
していくであろう。その意味で、第 3 章と第
を導きだしており、イだけでなく、ナム、ヤ
4 章を比較しながら読む意義は大きく、その
ン、チェも西欧の議論に依拠しているものだ
対照性が浮き彫りになってくる。
と評者には読みとれる。ここでは、はたして、
Ⅴ(ジェンダー)の部では、第 9 章で大沢が
武川の「福祉オリエンタリズム」からの克服
日本の「男性稼ぎ主」型セーフティネットを
という視点が本書執筆陣の共通の認識となっ
社会保障におけるジェンダー化として指摘し
ているのだろうかという疑問がわいてくる。
て、第 10 章でチェが福祉国家のジェンダー
これは、日本の新たな福祉モデルを模索し、
化を、公的領域と私的領域、男性の領域と女
「福祉オリエンタリズム」を克服したい日本
書評/武川正吾 イ࡮ヘギョン編『福祉レジームの日韓比較―社会保障࡮ジェンダー࡮労働市場』
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人研究者と、福祉制度の展開が急速に進み現
いる。それでも、福祉における家族の役割に
在も西欧࡮日本の福祉国家をモデルに自国の
関する踏み込んだ検討がなされていないの
福祉体制を検討している韓国人研究者との
は、福祉体制の総合的な考察にとっては残念
「福祉オリエンタリズム」に対する温度差が
なことである。家族を正面から検討してくこ
現れているのかもしれない。もちろん、日韓
とが求められる。
比較福祉国家研究でこのような難しさが根底
ジェンダーへの視点の重要性は前述したと
にあるものの、本書は日本と韓国の福祉国家
おりであり、ジェンダーを中心概念の一つと
を検討するうえで多くの知見を与えてくれる。
して検討している本書は高く評価されるべき
さらに、イは最終章で「その焦点に若干の
だろう。しかし、同時に、ジェンダーの議論
相違があるが、両国における社会福祉制度の
をもって家族の役割を明らかにすることがで
展開過程にみられる歴史的環境やタイミン
きるわけではない。ジェンダーの視点での議
グ、21 世紀に向けての挑戦と対応など、両
論と、社会保障機能としての家族࡮家族資源
国の相違と類似に関する多様な論点を含んで
の議論は別である。社会構造の中に組み込ま
いる」(284 ページ) と書いている。本書の全
れた社会保障機能としての家族=「福祉の担
体を通じて、両国の研究者による様々な視点
い手としての家族」
、そして、社会構造、家
にもとづく分析が展開され、いくつもの課題
族の中に組み込まれている「ジェンダーの役
が抽出されている成果を考えると、イがここ
割」は別のものであり、家族、ジェンダー双
で述べた総括にはうなずけるものがある。
方の視点からのアプローチが不可欠なので
*
ある。
ただ、必ずしも本書では触れられなかった
最後に、日本人の韓国研究者、韓国人の日
重要と思われる点がふたつあり、それらを今
本研究者があまり関わっていないことを指摘
後の検討課題として指摘しながら結びとし
しておきたい。武川は「これまで日本の研究
たい。
者が韓国の研究を引用せず、韓国の研究者が
そのひとつは、
「家族」である。最初に述
日本の研究を引用してこなかったという」(ii
べたように、家族は福祉国家論の中でも国
ページ) と指摘するが、日本には韓国の社会
家、市場とともに検討が必要とされているも
保障制度や福祉国家論についての研究蓄積を
のである。本書では家族についての言及が少
持つ研究者がおり、韓国でも同様である。日
なく、家族が 5 つの領域の中にも含まれてい
本の研究者が韓国社会研究を、韓国の研究者
ない。日本と韓国では、社会保障制度は個人
が日本社会研究を行うには十分に日韓におけ
化されておらず、世帯単位で設計されてい
る両国の研究は成熟しているはずである。こ
る。社会保障法上にも「親族」(家族含む)と
うした研究者のネットワークを活用すれば、
いう規定が用いられており、両国において
は、家族の概念が外すことのできない領域で
ある。武川、イ、チャン、大沢、チェらは、
「日韓共通の比較基準」を創出し、研究をよ
り深めることが可能となろう。
本書は、武川とイが中心となって日本と韓
社会保障制度や福祉サービスにおいて、家族
国の比較福祉国家研究の道筋を開拓した労作
が重要視されている現状について言及はして
である。武川が今後の研究を期待するように、
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アジア研究 Vol. 53, No. 1, January 2007
この成果を発展させていくためにも、より多
様な研究者の参加による踏み込んだ議論の展
開が望まれる。
(注)
1) 『ポスト工業経済の社会的基礎―市場࡮福祉国
家࡮家族の政治経済学』
、渡辺雅男࡮渡辺景子訳、
桜井書店、2000 年
2) 武川は前著『韓国の福祉国家࡮日本の福祉国家』
(2005 年、東信堂)の中で「福祉オリエンタリズム
の終焉―韓国福祉国家性格論争からの教訓」を執
筆し、日中韓の研究者の福祉オリエンタリズムから
の脱却の必要性を述べている。
3) 韓国では 2005 年 1 月に勤労者退職給与保障法が
制定(同年 12 月施行)された。これにより、多く
の企業が企業年金制度に加入することが予測されて
いる。
(東京大学出版会、2006 年 4 月 15 日、A5 判、
304 ページ、5,200 円[本体]
)
(やまぢ࡮くみこ 天理大学非常勤講師)
書評/武川正吾 イ࡮ヘギョン編『福祉レジームの日韓比較―社会保障࡮ジェンダー࡮労働市場』
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