茶の花忌に-八木重吉生家を訪ねて

「茶の花忌に-八木重吉生家を訪ねて-」
秋
こころがたかぶってくる(と)
わたしが花のそばへいって咲けといえば
花がひらくとおもわれてくる
牧野信次
光
ひかりとあそびたい
わらったり
哭いたり
つきとばしあったりしてあそびたい
八木重吉(1898(明治31)・2・9~1927(昭和2)・10・26)没後八十
八年の「茶の花忌」に、彼の生家(現在 東京都町田市相原町大戸
4473)を恐らく20数年ぶりに訪ね、懐かしい方々との再会を喜び
合うことができました。初めに八木家の墓所に集まって墓前礼拝を
献げ、彼の愛唱讃美歌322番(神よ、おじかの谷川の・・・)を唱和し、
その後生家の前庭で美しい秋の花々に囲まれながら4人の講師方
の講話を拝聴し、また八木重吉の詩にメロディーを付した独唱があ
り、心なごむときを楽しむことが許されました。講話の題は、「『詩以
上の詩』加藤武雄の代読」「八木重吉の詩は何故人の心を打つか」
「八木重吉の詩碑をたずねて」「八木重吉愛好会の活動・詩碑の現
在」で、それぞれとても親しみ易く興味深い内容で、久しく八木重
吉詩集に触れていなかった私は、大いに魂を揺さぶられる思いが
しました。
きりすと
われにありとおもうはやすいが
われみずから
きりすとにありと
ほのかにてもかんずるまでのとおかりしみちよ
きりすとが わたしをだいてくれる
わたしのあしもとに わたしが ある
「キリストわれにあり」「われキリストにあり」そして「わたしのあしも
とにわたしがある」の三つのことばが私に迫ります。
「茶の花忌に―八木重吉の生家を訪ねて―」(Ⅱ)
牧野信次
素朴な琴
この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐えかね(て)
琴はしずかに鳴りいだすだろう
11 月 1 日(日)の週報に久し振りに八木重吉の生家を訪ねて、「茶の花
忌」の集会に参加したことを書きました。その場所は町田市の北端で八王
子市に近い町田街道沿いにあり、上に記した「素朴な琴」が詩碑として石
に彫られて立っています。私がかって37年間ほど町田市に在住し、教会
の青年や婦人方としばしば訪ね、また案内し、特に母屋に隣接する土蔵
の八木重吉記念館で生原稿の一次資料をじっくりと読めることが本当に大
きな喜びでした。重吉は農家の次男として誕生し、鎌倉師範学校(横浜国
立大学の前身)を卒業後、東京高等師範学校(英文科)に学び、その高師
時代後期に教会で受洗し、また内村鑑三の著作に感化されて真摯なキリ
スト者となりました。兵庫県御影師範学校英語科教師に赴任して、その頃
より詩作に励み、詩と信仰合一の生活を生き、25歳の時、18歳のとみ子
夫人と結婚。桃子と陽二が誕生。その後千葉県東葛飾中学校に転任、現
在の柏市に居住しました。28歳の時、肺結核を発病、茅ヶ崎で療養した
のですが、1年7ヵ月後の1927(昭26)年10月26日満29歳8ヶ月で召天。
数年後に桃子(14歳)と陽二(15歳)が病没、とみ子夫人が一人残されま
した。夫人は歌人吉野秀雄と戦後2年の重吉命日に再婚、重吉の詩作ノ
ートをずっと保管し、多くの方々の協力によって詩集を公けにされました。
今は八木家墓所にご一家が埋葬されています。
キリスト
キリストは生きてゐなさるとおもふと
からだがおどりだす
てくてくと
こどものほうへもどってゆこう