静岡県立大学附属図書館 国際関係学部 橋川裕之 先生 レオナルド・ダ・ヴィンチ 著 斎藤泰弘 訳 『レオナルド・ダ・ヴィンチ絵画の書 』 谷田図書館 720.4/V75 岩波書店 出版 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-15 19年)の主著ともいうべき書物の全訳がついにわが国でも 刊行されました。レオナルドと聞けば多くの人は「モナ・リザ」を始めとする数々の印象的な絵画 を思い浮かべるでしょうが、これは絵画ではなく書物です。ただし、彼が生前に刊行したものでは なく、晩年の愛弟子フランチェスコ・メルツィがレオナルドの死後、彼の膨大な手稿の中から絵画 に関連する文章を寄せ集め、印刷本としての刊行を希望しつつも諸般の事情から果たせず、19世 紀に入ってようやく刊行されたという、いわくつきの書物です。レオナルドは生前からフィレンツ ェ出身の天才画家として注目を集め、その清新な作品群は今日にいたるまで非常に高い評価を受け ています。とくに「モナ・リザ」を展示するルーブル美術館の一室は毎日、何千、何万もの巡礼者 をその前に引き寄せる巡礼スポットのような観を呈しています。 そうした人気と評価にもかかわらず、レオナルドの『絵画の書』は何世紀もの間、手稿のままイ タリアの図書館の片隅に放置されていたのです。そうなってしまった理由は、本書の訳者、斎藤泰 弘氏が「解説」で指摘するように、本書の異教的な性格にあると思われます。たとえば、レオナル ドは第 8章において、明らかに聖女マリアを「女神」と同一視する記述を残しています。たしか にキリスト教徒がマリアを神の子イエスの母として、あたかも女神であるかのように崇める現象が 見られるとしても、キリスト教の教義としてはマリアはあくまで人間であり、彼女を「女神」と呼 ぶことは正統教義からの明白な逸脱となります。キリスト教は三位一体の一神教であり、多神教で はないからです。また彼は第 33章において「神や霊魂の本質」に関する議論を真の科学とは異な る「混乱した科学」と表現しています。つまり、レオナルドは古代以来、連綿と続いてきたキリス ト教神学を意味のない科学として切って捨てるかのような評価を下しているのです。こうした記述 を読む際に忘れてはならないのは、レオナルドが、いまだキリスト教の価値観が強固かつ支配的で あり、正統な教義や慣習に反すると見なされた人々が異端者として厳しく非難される社会に生きて いた、ということです。こうした記述は、レオナルドの自由な思考と異端的傾向をうかがわせる貴 重な証拠といえます。 レオナルドは日々何を考えながら創作に向かっていたのでしょうか。彼は自らを、絵画を、この 世界をどのように理解していたのでしょうか。『絵画の書』は一人の天才の心のひだに分け入るた めの第一級のテクストです。レオナルド、そしてイタリア・ルネサンスに興味がある方にはぜひと も読んでほしい一冊です。
© Copyright 2024 Paperzz