女性は神の似姿として 創られていないのか

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第三部
証拠の真偽を問う
第九章
女性は神の似姿として
創られていないのか
私はインドネシアでオランダ植民地支配の末期に生を受けた。
私が、幼い子どもながら、白人としての身分階級についてどのよ
うに意識するようになったかを思い起こす時、かなり困惑を感じ
る。茶色の肌のインドネシア人や、いわゆるインド・ブランダス
と呼ばれていた混血の人たちと私は区別されていた。しかし、私
たちは家庭の中ではキリスト者として、すべての人間が平等だと
信じていた。私の両親はミッション・スクールで教えていた。ま
た私は、上流階級に属していることでの社会的満足感の高揚を思
い起こすことができる。人々を身分の高低で考える傾向は、すべ
ての人間文化の中に刷り込まれているようだ。
中世において男は自分が女より優れていると考えていた。それ
が世の現実だった。それどころか、いろいろなヨーロッパ人種は
それぞれの家父長制の伝統を持っていた。古代ローマ法の制度化
された男性支配が受け入れていたことは、家庭でも、政治でも、
ビジネスでも、芸術や学問の分野でも、男がボスであることを決
定的にしたのである。本当にすべて男の世界だった。
そのような情況下で女性叙階の問題はほとんど議論されること
がなかった。好奇心から女性叙階について言及している数少ない
神学的論文でも、この問題は男性優位に基づき、いつも葬り去ら
第九章
女性は神の似姿として創られていないのか
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れた。しかしながら、論争はしばしば聖書からの『証拠』によっ
て強化された。男のみが神の似姿として創られた故に、男が優れ
ていると。例えば、聖ボナベントゥラ(1217 〜 1274)は次のよう
に断言している。
男の性は叙階を受けるための必須条件である……なぜなら神
の似姿でなければ叙階を受けることはできない。この秘跡に
おいて人間はある方法で神に、もしくは神聖なものになり、
神の力に参与する。しかし『神の似姿』であるその性の故に
コリントの信徒への前の手紙 11 章にあるように、これは男
の特徴なのである。したがって、女は絶対に叙階されること
1)
はない。
トマス・アクイナスはもう少し慎重で、女も神の似姿として創
られたが、ある程度までで、神の真の似姿は男だという。
神の似姿の主な知的本性は男にも女にも見出される故に「神
は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造
された。男と女に創造された」(創世記 1:27)を付加した。さ
らに両性がひとりの個人に結合されると考えられるといけな
いから、アウグスチヌスが述べるように『彼ら』と複数にし
た。しかし、第二義的に神の似姿は女にではなく男の中に見
られる。というのはちょうど神がすべての被造物の始めであ
り終わりであるように、男が女の始めであり終わりであるの
だ。使徒パウロが「男は神の似姿であり光栄であるが、女は
男の光栄なのである」と言った時、彼はこのように言う理由
第三部
104
証拠の真偽を問う
を次のように挙げる。すなわち、
「男は女のものではないが、
2)
女は男のものなのだから」
。
イタリア、ヴェロナのウグッチオは 1188 年に、女ではなく男
が三つの理由で神の似姿なのだと書いた。第一に、神がすべての
ものの根源で、男は全人類の根源である。第二に、女はアダムの
あばら骨から作られ、その脇腹から生まれた。第三に、男は支配
する者である。「キリストが教会の頭であり、教会を治めるよう
に、夫は妻の頭であり、彼女を治める。これら三つの理由により、
男は神の似姿であり、女はそうではない。したがって男は従属の
しるしである女のようになるのではなく、自由と卓越のしるしな
3)
のである」
。
中世の知識人にとり構図ははっきりしていた。男女の差異を観
察して彼らは言う。男は自動的に監督の任をとる。彼は情況を理
解し、支配する。反対に、女は確かに彼に従属する者である。彼
女は夫に従う。夫が彼女に指示することだけをする。このように
男は自分の優位を保ち続け、そこに神ご自身が働かれるのを見る
のである。要するに、神は全世界の責任者で、その力強い意志で
すべてを治める全能の主である。このような神を反映しているの
は女ではなく男なのである。したがって、叙階を通して神を代表
する力が与えられているのは女ではなく男だけなのだということ
が妥当なのである。
後の教会が議論の根拠にしたグラチアヌス(1140)による影響
力のある法律書は、女が神の似姿に創られていないことを証明す
るためにアウグスティヌスと聖書を引用した。
第九章
女性は神の似姿として創られていないのか
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女はすべてにおいて男に従わねばならない故に、盲目的従属
に置かれている。アウグスティヌスが言うように「男におけ
る神の似姿は彼が唯一の存在として創られており、彼によれ
ば、神の代理者として神の支配権を所有しているのである」
。
したがって、女は神の似姿に創られていない。これは聖書が
言っていることである。「神がご自分にかたどって男を造ら
れた。神にかたどって創造された」。そこで使徒も言う「男
は頭を覆ってはならない。なぜなら、彼は神の似姿であり映
しであるから。しかし、女は神の似姿ではないから、頭を覆
4)
わなければならない」と。
教父たちは何を言ったか
予想できるように、ギリシャ教父とラテン教父にはある種の相
違がある。特に女に好意的であると知られていた訳ではないが、
キプロスのギリシャ教父エピファニウス(Epiphanius, 315 〜 403)
は、アダムとエバが神の似姿として創られたことを明言した。神
がアダムを直接ご自身にかたどって創られたことを主張し、エバ
はアダムのあばら骨から創られた。彼らの子どもたちも神の似姿
5)
であり、像である。
他方、ラテン語を話す北アフリカのカルタゴ出身のテルトゥリ
アヌス(Tertullian, 155 〜 245)は神の似姿を男のみに限定した。男
が女より神に近いのは神の似姿であるからだと言う。彼は男に罪
を犯すよう誘惑した女を『神の似姿である男』をダメにしたと非
6)
難したのである。
4 世紀のイタリア出身の偽アンブロシウス(Pseudo-Ambrose)が
第三部
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証拠の真偽を問う
次のように言う時、彼は中世の見解に先んじている。「女が男の
支配下にあり、何の権威も持っていないのに神の似姿などと誰が
主張できるのか。なぜなら、彼女は教えることもできず、裁判で
証人にもなれず、市民権を用いることもできず、裁判官にもなれ
7)
ず、明らかに支配権を振るうこともできないからである」
。
教父たちは彼らの論議を聖書のテキストを根拠として、男に支
配権を持たせ、男のみが神の似姿であると解釈したことでトーン
を和らげたと言えるであろう。
創造主の似姿
創世記 1:1-2:4 の天地創造の記述は、建築家である神による全
宇宙創造の起源に関するものである。当時、紀元前に人々が考え
ていた世界は大きな家のようなものであった。家の床は平らな地
球で、空は天井であった。太陽、月、星は昼夜を照らすものだっ
た。海の魚、陸の植物と動物、空を飛ぶ鳥は神が置いた家具で人
間のために備えた食物だと見なされた。
神の建設作業のクライマックスは人間の創造であった。全世界
は人間のために創られたので、人間は特別な存在だった。それは、
神に似せて創られたので特別であった。人間は論理的に考え、責
任ある行動をとることが可能だった。人間は神自身の姿を有して
いた。以下は原語のヘブライ語から文字通り訳された重要なテキ
ストである。
神は言われた「我々にかたどり、我々に似せて、人(アダ
ム)を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地
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女性は神の似姿として創られていないのか
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を這うものすべてを支配させよう。神は御自分にかたどって
人(アダム)を創造された。神にかたどって創造された。男
8)
と女に創造された」。
この引用箇所は様々に理解され得る。すなわち、この箇所を、
男だけが神の似姿として創られたと解釈するラビ的伝統が存在し
た。
『アダム』という語は『男』または『人間』と解釈すること
ができる。ラテン語の『ホモ』
、フランス語の『オム』
、英語の
『マン』のように。テキストは文字通り「神の似姿に彼を創った」
としているので、男のみと訳すこともできた。多くの祭司はこの
解釈を支持した。というのは、社会生活においても宗教生活にお
9)
いても男はその優越した地位を享受していたからである。最近ま
でユダヤ教徒の男性に共有されていた祈りは、女が劣等の地位に
あるとのラビ的解釈を表している。いわゆる 18 祈願の中で彼ら
は日に 3 回神に感謝する。「私たちの神である主よ、あなたは祝
福されますように。私を異邦人や奴隷、また、女に創られなかっ
た故に」
。
しかしながら、原文は異なった方法で読まれなければならない。
(イ)
『アダム』という語は明らかに集合的に使われている。これ
は明らかに次のように表現される。
「彼は男と女に創られた」
(ロ)男と女の両性が含まれていることは、他の被造物に対する
支配が男と女双方に明確に与えられているという事実からも
分かることである。
「神は彼らを祝福して言われた。産めよ、
増えよ……生き物をすべて支配せよ」。これこそが人間は創
造主としての神の似姿を反映しているとの意味である。
(ハ)創世記の平行記事からそれを示すことができる。
「神は人
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証拠の真偽を問う
(アダム)を創った日、神に似せてこれを造られ、男と女に
創造された。創造された日に、彼らを祝福されて、人(アダ
10)
。
ム)と名づけられた 」
(ニ)神が人を自分にかたどって創ったことをコメントした他の
11)
二つの旧約のテキストは、これを男と女双方に適用した 。
男の助手なのか平等なのか
第二の創造の話は男と女についての考え方に影響を及ぼした。
神がいかに男と女を創ったかを描き、普通、次のように注釈され
る。
人に合う助けるものを見つけることができなかった。主なる
神はそこで、人を深い眠りに落とされ、人が眠り込むと、あ
ばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、
12)
人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた 。
女性を卑しめた祭司伝承では、この聖書の箇所を男に依存する
女をあからさまに示すものとして説明する。男が最初に創られた。
女はその後、男の助け手として現れる。つまり、女は『男のあば
13)
ら骨』に過ぎない 。これは中世期からのものとして多くの意地
の悪い所見を導き出した。すなわち、「女はその多くの肉欲的忌
わしさから分かるように、男よりも世俗的である。最初の女が創
られる時に欠陥があったということを知らなければならない。そ
れは、脇腹の折られたあばら骨から創られたが、男と反対の方向
に折られたのである。この欠陥故に、彼女は不完全な動物なので、
第九章
女性は神の似姿として創られていないのか
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14)
いつも欺くのである 」
。
しかしながら、原文は女の地位に関してはるかに繊細で、公正
である。通常『あばら骨』(tesla)と訳されているヘブライ語は、
実際には『脇腹』を意味する。それは山の側面、天幕の側面、祭
15)
壇の両脇、神殿の門の両側、神殿の両側などを表す 。事実、聖
書には tesla が『あばら骨』と訳されている箇所は他にはない。
したがって、原文では神が片方の脇、すなわち、人間の半分を取
16)
り、エバを創ったのである 。
これは原始の人間は同時に男と女であったという古代の概念と
符号する。彼、彼女が種としての人間を表すことは、専門家たち
17)
には周知のことである。プラトンの記述 では、原始の人間はそ
れぞれ反対の方向を向いている二つの顔を持つと想像されていた。
その人間には四つの腕と四つの脚があった。創造主である神は二
つの性を造るのに、これを二等分し、それぞれに顔一つ、手足二
18)
本ずつを持たせた。ラビたちの伝統の中にも同種のものがある 。
以下がその創世記の訳である。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込
むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。
主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言っ
た。
「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉。これをこ
そ、女と呼ぼう。まさに、男から取られたものだから」。こ
ういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体と
19)
なる 。
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第三部
証拠の真偽を問う
この最初の概念の詳細は何であれ、聖書のテキストは明らかに、
女は間違いなく男と同等であると述べているのである。彼女は動
物のように、人が創られた後に別に創られたのではなかった。彼
女は真に『もう半分』
『私の肉の肉、私の骨の骨』だったのだ。
女の男への従属を教えるよりこのテキストは人間としての彼らの
20)
基本的な平等性を宣言しているのである 。
パウロのテキストについて
パウロは男と同等なものとしての女の新しい身分を、キリスト
における洗礼を通して得たものとして支持した。彼は明瞭に宣言
している。「もはやユダヤ人もギリシア人もなく……あなたがた
21)
は皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです 」
。しかしなが
ら、時々元ラビとして、昔の見解に逆戻りせざるを得なかった。
コリントの新しい共同体に書いた時、何人かの女たちがユダヤ人
の習慣であったベールを被るのをやめたことに狼狽した。学者た
ちには、なぜそれほどパウロがこのことを重要視したのか分から
ない。髪を乱して祈ることで、コリントの信者の女たちがヘレニ
22)
ズムの儀式を模倣したかのような印象を与えていたのだろうか 。
どんな理由にせよ、パウロは長々と議論する。彼の挙げた理由の
中に創世記解釈の古い祭司伝統が参照されている。
男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきで
はありません。というのは、男が女から出て来たのではなく、
女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのでは
23)
なく、女が男のために造られたのだからです 。
第九章
女性は神の似姿として創られていないのか
111
パウロのこの箇所は、後の伝統において、男のみが神の似姿で
女はそうではないとの創世記の解釈を確認するものとして取り上
げられたと考えられた。しかしながら、パウロのこの箇所にそん
な重要性を置くことが許されるのだろうか。
このテキストの教義上の重要性を評価するためには、その前後
関係を考えねばならない。パウロはエフェソで彼を訪れた何人か
のキリスト信者から祈りの時に恍惚境に入り、異言を語るなど制
24)
御しがたい情景があったことを聞いていた 。恍惚の一種の表現
として、ある女性たちはベールを取り、髪をほぐす誘惑にかられ
たのであろう。多分、彼女たちは東洋のある礼拝儀式での習慣の
25)
ように、腕を高く挙げ、頭を後ろに反らして祈ったのであろう 。
これが共同体の他のメンバーたちを慌てさせ、パウロはそれが秩
序と平和を乱す怖れがあるとして心配した。典型的にラビ的やり
26)
方で、彼は議論を始め、多くの理由を挙げる 。
- 「すべての男の頭はキリスト、女の頭は男……」(一コリント
11:3)
- 「女は誰でも祈ったり、預言したりする際に、頭に物を被らな
いなら、その頭を侮辱することになります。それは髪の毛をそ
り落としたのと同じだからです……」(同章 4 〜 6 節)
- 「男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物を被るべきでは
ありません。しかし女は男の栄光を映す者です」(同章 7 節)
- 「男が女から出たのではなく、女が男から出てきた」(同章 8 節)
- 「だから、女は天使たちのために頭に力のしるしを被るべきで
27)
す 」(同章 10 節)
- パウロの訂正:「しかしながら、種においては男なしに女はな
第三部
112
証拠の真偽を問う
28)
く、女なしに男はありません 」「女が男から出たように、男も
女から生まれ、またすべてのものが神から出ているからです」
(同章 11 〜 12 節)
- 「自分で判断しなさい。女が頭に何も被らないで神に祈るのが
相応しいのかどうか。男は長い髪が恥であるのに対し、女は長
い髪が誉れとなることを自然そのものがあなたに教えていない
でしょうか……」(同章 13 〜 15 節)
- 「この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのよう
な習慣は私たちにも神の教会にもありません」(同章 16 節)
パウロの主張と期待は女が共同体の集りに行く時、髪の毛を覆
うことである。彼はたくさんの理由を次から次に挙げ、自分でも
言い訳だと知っている。すなわち、これは宣言ではなく、一つの
限られた目的のための意見である。彼は自分で訂正し、彼の議論
に賛成しないでもよいといって、彼の個人的意見であることを暗
示している。
理由づけ
ここで、これをパウロの他の箇所と比較することができる。
実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちか
ら知らされました。あなたがたはめいめい、「わたしはパウ
ロにつく」
「わたしはアポロに」
「わたしはケファに」
「わた
しはキリストに」などと言い合っているとのことです。
第九章
-
女性は神の似姿として創られていないのか
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キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。
- パウロがあなたがたのために十字架につけられたのです
か。
-
あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。
-
クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を
授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。だか
ら、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言え
ないはずです。
- もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けまし
た。
-
それ以外はだれにも授けた覚えはありません。なぜなら、
キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためで
29)
はなく、福音を告げ知らせるためでありました 。
この箇所を分析するなら、パウロが主として心配したのはコリ
ントの信徒たちが共同体の中で分裂することであったことが分か
る。彼は自分の見解を議論する理由を述べているが、そうしなが
ら、それ自体あまり意味のない不条理な声明を出したのである。
彼は本当に誰にも洗礼を授けなかったことを感謝しているのだろ
うか。彼は霊に動かされて話していたが、二、三回言い直してい
る。
「もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けました
が、それ以外はだれにも授けた覚えはありません」。最後に、彼
はイエスが弟子たちに行ってすべての民に洗礼を授けるように命
令したにもかかわらず、洗礼を授けるために来たのではないとい
うパウロのこの箇所にはたくさんの理由づけがあり、これを教義
上の声明として解釈してはならないことは明白である。テトスへ
114
第三部
証拠の真偽を問う
の手紙に次のような一節がある。
実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多い
のです……。その者たちを沈黙させねばなりません……。彼
らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。「ク
レタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ」。この
30)
言葉は当たっています。だから、彼らを厳しく戒めて… … 。
書き手の主な目的はクレタの司教であるテトスが、やっかいな
ユダヤ人改宗者に対し毅然と振舞うようにさせるためである。し
かしながら、「この声明は真理を表すのか」という問いの後の、
クレタ人に対する厳しい非難は何なのか。これは霊感を受けて、
クレタ人がいつも嘘つきで、悪い獣、怠惰な大食漢だと語ったの
だろうか。クレタ人はギリシャ世界では嘘つきだと思われていた。
何かについてギリシャ語の
Crete 『白く』することは『嘘をつ
く』ことを意味した。プルターク(Plutarch)は「クレタ人に対し
て嘘をつく」という諺は「詐欺師を騙すこと、山師に偽金を支払
31)
うこと」を意味すると述べている 。ここで、熱い議論の中で語
られた理由づけを、教義上のことだと受け止めるべきでないこと
は当然ではないだろうか。
男が神のかたどりであり、女はそうでないというパウロの声明
にも同じことが言える。白熱した司祭の議論の中で、彼は引き下
がる。これに関する彼の本当の意向は彼がついに「自分で判断し
なさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが相応しいかどう
か」といったことで解明された。パウロの、男だけが神の似姿で
あるという言明は明らかに理屈であって、公の神学的主張ではな
第九章
女性は神の似姿として創られていないのか
115
い。
さらに、旧約のラビというよりは、はるかに真のキリスト教徒
であったパウロは、自分の議論の弱さにすぐ気がついた。訂正が
必要であった。パウロの時代は、今日私たちがコンピューターで
やるようにテキストを消して、そのある部分を削ることは不可能
なことで、どのみち、後で分かってしまうのであった。そこで彼
はこの問題の箇所の後につけ加えた。「いずれにせよ、主におい
ては男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男
から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神か
32)
ら出ているからです 」
。言い換えれば、パウロが度々その書簡の
中でやるように、彼は自分を訂正し言い直し『主において』(す
なわち、キリストにおいて)男と女は真に平等であると表現する。
二人は相互に依存し、それぞれ独自の方法で他からその存在を受
けている。パウロはここで古いラビ伝承を修正するが、不幸なこ
とにこの訂正は教会の伝統として取り上げられなかった。人々は
修正版ではなく、最初の文書を引用したのである。
今日では、どのようなカトリック神学者も女性は神の似姿では
ないとか、男性より神の似姿として劣って創られたなどと信じて
いる人はいない。そうであるなら、より高貴な身分というような
中世期の分類は崩れ落ちるはずである。もし女性も神の似像であ
るなら、女もリーダーシップを取ること、司祭的権威を用いるこ
とは可能である。しかし、女性は教えることを禁じられてきたの
である。