エバの罪の重荷を背負って - Womenpriests.org

第十一章 エバの罪の重荷を背負って
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第十一章
エバの罪の重荷を背負って
女性の叙階について神学的論争が始まったのは中世初期になっ
てからのことであった。この問題は通常たった 2、3 行で正当化
され、いつも簡単に片づけられていた。挙げられた理由は参考に
なる。1296 年のバイシウス(Baysius)裁判のギド(Guido)は次
のように述べている。
女は叙階を受けるに相応しくない。なぜなら、叙階は人々に
恵みを分配するためで、教会の完全なメンバーのために確保
されているからである。男だけが教会の完全なメンバーで、
女はそうではない。
さらに、女は罪の根源で、アダムは彼女によって騙されたの
で、呪いの根源であり、聖なる叙階は人々に恵みをもたらし、
1)
救いに導くので、女は救済の実際的動機とはなり得ない。
ギドにとり、女性は神の栄光を反映していないから教会の完全
2)
なメンバーではないのである。女性は呪いの根源である。これは
エバだけではなく、すべての女性に当てはまる。すべての女性は
罪に穢れていて、恵みを司ることなどできない。それはすべての
女性が伝染病に冒されていて、医者にも看護師にもなれないとい
うのと同じである。では、イエスの母であるマリアはどうなのか。
第三部 証拠の真偽を問う
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ギドには準備した答えがある。すなわち、「女は物理的に救いの
原因になり得る。つまり、アダムの肋骨から造られたので物理的
に男から出たのである。このようにして(すなわち物理的にのみ)
聖母マリアは救いの原因とならねばならなかった。女の性は私た
ちの救世主であるキリストがマリアから物理的に生まれたので、
3)
救いの物質的原因であったというのは正しい」
。
中世の神学者たちにとり、すべての女性は罪の呪いを受けてい
る。その結果、神は彼女を男に従わせることで彼女を罰し、そし
てこの罰は取り消すことができない。彼女は常に誘惑の永続的な
根源として警戒して扱われなければならないのである。男児を産
んだ母親が 40 日間不浄とされるが、女児の場合は 80 日間である
理由に関して、フランシスコ会の神学者シカルドスは次のように
答える。
「女児の場合二倍であるのは女の生は二倍呪われている
からである。彼女はアダムの呪いとまた『お前は苦しんで子を産
4)
む』という罰を身に帯びるのである」
。
そして教会法はこの呪いを公認した。
女は神のかたどりでない故に、頭を覆わなければならない。
これを権威への服従のしるしとして行わねばならない……。
なぜなら、彼女たちを通して罪は世に入ったからである。原
5)
罪故に従わねばならない。
教父たちの意見
初期のギリシャ教父たちは、エバの呪いが女性の上にあるなど
と考えていなかった。アンティオケアの聖イグナチオ(Ignatius,
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110 没)は、堕落は女を通してこの世に入ったが、救い主も女を
6)
通してきたのだと教えた。 聖イレネウス(Irenaeus, 140 ∼ 203)は、
悪魔は女を通して人類に勝ったが、同時にイエスの母マリアとい
7)
う女性を通して負けたのだ。 彼はアダムの方がエバよりもっと
責任があったと主張した。
二人のうちで、より弱い立場にあったエバを悪魔が攻撃した
というなら、私はその反対に、彼女が掟に背く男の助け手と
して登場しているので、彼女の方がしっかりしていたと答え
る。彼女は一生懸命蛇に抵抗してしばらく負けないように頑
張ってから、騙されて木の実を食べた。他方、アダムは何の
抵抗も拒否もせず、女から渡された実を口にしたのである。
これはひどい精神の薄弱、惰弱のしるしである。女こそ悪魔
による闘いに負けたのだから、赦されて当然だが、アダムは
個人的に神から命令されていたのに、女に屈したのだから赦
8)
されない。
このようなギリシャ人の声は、原罪におけるエバの役割の結果
として女性の従属的身分を証明し始めたラテン教父たちによって
間もなくかき消されてしまった。テルトゥリアヌス(155 ∼ 245)
は彼らの中でも最悪だった。彼の露骨な偏見は次のようなもので
ある。
すべての女はエバから受け継いだもの、すなわち、人類が最
初の罪と汚名の恥辱をより完全に償うために懺悔の衣を身に
まとい、エバのように嘆き、悔やみつつ歩き回らねばならな
第三部 証拠の真偽を問う
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い。
「お前は苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前
を支配する」あなた方一人ひとりはエバであることを知らな
いのか。あなたの性に関しての神の宣告は今に至るまで生き
ていて、罪悪感もまた生き続けなければならない。
あなたは悪魔の門!
「禁じられた」木を犯したのだ!
神の法を最初に破ったのだ!
あなたは悪魔があえて攻撃しなかったアダムを説得した女な
のだ!
あなたが神のかたどりである男をいとも簡単にダメにしたの
だ!
あなたが値する死のために神の御子が死なねばならなかった
9)
のだ!
ここでテルトゥリアヌスのことばを注意深く読む必要がある。
「あなたの性に対する神の宣告は今日まで生きている」
。彼はこれ
で何を言おうとしたのだろうか。神の宣告とは何だったのか。男
性の支配下にあって、キリストが来られたにもかかわらず、今日
までそれが続くとどうして言えるのか。女性がまだ男性の支配下
にあるからなのだ! 読者はローマ法の主張を覚えているだろう
10)
か 。女性は夫に所有され、彼の命令に従っていた。女性は公の
責任を担うことも、権威を行使することもできなかった。彼女た
ちは訴訟の証人になることも、代理を務めることもできなかった。
もしそうであるなら、神の罰はまだ女性の上にあるとテルトゥリ
アヌスは主張する。しかし、神は罪意識がないのに罰しはしない。
「あなたの性への神の宣告は今日にまで及んでいる。これは罪の
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呵責も必然的にずっと続く」ということである。したがって、す
べての女性は未だにエバの罪の呵責を背負っているのだ!
多くの教父たちはこのテーマを繰り返した。聖クリソストムス
「エバの罪はすべての
(Chrysostom, 344 ∼ 407)は次のように説く。
女にも影響を及ぼすのか。もちろんすべて性というものは弱く気
まぐれで、聖書は性について集合的に話す。すなわち、エバでは
なく『女が食べた』と言えば彼女個人ではなく、女全体のことに
なる。では、すべての女が彼女の過ちで罪を犯したのだろうか。
11)
然り、男ではなくすべての女が罪を犯したのだ 」
。
聖ヒエロニムス(Jerome, 347 ∼ 419)は、エバの罪は一人ひとり
の女に負わされていると繰り返し述べた。しかし、女は子どもを
産むか、より良いのは処女にとどまることによって、罰を免れる
12)
ことができる 。妻のテオドラと一緒に禁欲の誓いを立てた金持
ちのスペイン人ルキヌス宛ての手紙の中で、ヒエロニムスは彼の
妻は今や「男になった」「彼女は以前は暗闇の中であなたの伴侶
だったが、今は妹、以前は劣っていたが今は同等で、以前は女で
13)
あったが今は男なのだ」と言った 。したがって、テオドラは妻
として従属という神の呪いを受けていたという何とも奇妙な理由
づけがされた。禁欲で彼女は呪いから解放されて男になったので
ある。
聖書は何を言っているのか
創世記 3:1 ∼ 29 は、人類の始祖であるアダムとエバに関する神
話の中で、人間を取り囲む罪の状態を描いている。男と女双方が
ともに神に反逆する。二人とも罪を自覚し、恥じている。二人に
第三部 証拠の真偽を問う
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苦しみが罰として課される。テキストは典型的な人間の苦しみの
例を挙げる。男は荒れた地を耕し、穀物を作るために苦しみ、女
は産みの苦しみと夫による支配を耐えることになる。
神は女に言う。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
お前は苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配す
る」
。これを夫が妻を従属させ続けるための免許状と思ってはな
らない。これは事実の叙述で、罪の結果を記しているだけなので
ある。先進国では男は旱魃、病気、不況の真只中でも作物を作る
必要はないし、女も子どもを産むのに苦しむこともなく、夫に虐
められることもないだろう。これは今カトリックの学者が受け入
14)
れている解釈である 。
ユダヤ教のラビたちはこの箇所を女の罪と罰として解釈した。
これは、一テモテ 2:14 で、女が従属的役割に縛りつけられる理
由を聖書記者が提示するところではっきりと表れる。
なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られ
たからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女
はだまされて罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰
と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことに
よって救われます。
前章で示したように、これらの理由づけは女性たちがグノーシ
ス派に入ることを怖れる司牧的懸念の中で付加された。この箇所
が注意深く考えられた神学的な宣言でないことは明らかである。
エバの違反を理由に女性たちに罪を負わせることが、いかに不条
理なことか考えてみよう。
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- 父は子どもたちのゆえに死に定められず、子は父のゆえに死
に定められない。人はそれぞれ自分の罪のゆえに死に定められ
15)
る 。
- 旧約聖書でさえも完全な赦しを説いた。
「たとえお前たちの罪
が緋のようでも雪のように白くなることができる。たとえ、紅
16)
のようであっても羊の毛のようになることができる 」
。
- もしエバの背反が原罪の一部であるとしても (そうではない
、それは洗礼で潔められる。洗礼によって原罪はもとより
が)
すべての罪は赦されるからである。
- もし何かの罪がまだ女たちに付着しているなら、なぜ同じ罪
が男たちにも付着していないのか。神は人を分け隔てしないし、
17)
キリストにおいて男と女の差は消えてしまったのだ 。
それにもかかわらず、教会の公的な法は、女性が世に罪をもた
らした責任故に男に服従し続けなければならないことを固持した。
ここで教会法からの公のテキストを読みやすくするために、見出
しに意見をつけて提示する。
法的質問
女性は司祭を告発してもよいのか。
法的回答
できないようである。教皇ファビアヌス(Fabian)は主の司
祭に対し、彼らと同じ身分を持たない者と持てない者は告訴
も抗議も申し立てることはできないという。女性は司祭職や
助祭職の地位に挙げられることはない。この理由で彼女たち
は法廷で司祭に対し非難も抗議も申し立てることはできない。
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これは聖なる教会法に示されている。
私の意見
ここで論拠の一部として引用されている司祭職からの女性の
排除は先に述べた教会法と民法の両方に基礎を置く。彼が参
照している法とは、主として、女性はいかなる権威も持てな
いという原則なのである。
法的反論
しかしながら、旧約では裁判官になれる者は誰でも原告にも
なれたし、士師記でデボラが裁判官であったことが書かれて
いるように、女性は裁判官になっていた。したがって、しば
しば裁判官の役割を果たし、聖書のことばによって原告の役
割を果たした人たちをその役割から排除することはできない。
法的回答
今日(例えば新約時代に)恵みの完成を通して廃止された多
くのことが、旧約においては許されていた。それ故、たとえ
(旧約で)女性が人々を裁くことが許されていたとしても、
今日、女性がこの世にもたらした罪の故に、使徒パウロは注
意深く、謙な慎みを示し、男に従属し、服従のしるしとし
18)
て頭に被りものをするようにと女性たちを諭すのである 。
私の意見
要するに、女性はこの世に罪をもたらしたがために背負わさ
れた罪の故に、旧約では権威を持つことができたのに、新約
ではそれが許されない。これは、私たちがより完全な恵みの
時に生きているのにだ!
神学者として生きた 45 年間に私はこんなにも馬鹿げた、しか
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も歪められた考えに出くわしたことは滅多になかった。しかし、
上記のテキストは 1918 年まで教会の公の法律の書物であった。
これが女性を女性叙階から排除してきた理由づけだったのであ
19)
る。