ビートルズの政治学

The Extension Course of the BEATLES Part2
Instructor : Toshinobu Fukuya
(Ube National College of Technology)
The 2nd Session : The Politics of the Beatles
8/17 2006
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政治的発言を制約されていた初期のビートルズ
ビートルズのデビュー当時からのマネージャー、ブライアン・エプスタインは、ポップ・アイド
ルは政治に関しては中立でいたほうが無難であるという方針のもとに、4人のビートルたちに
対して政治的発言を控えるよう言いわたしてあった。その他、ビートルズはいろんな制約をエ
プスタインから受けていた。例えば、結婚の非公表、ステージ衣装の変更(皮のジャケットにブ
ルージーンズからイタリアン・スーツへの変更)などである。しかし、それらが、世界制覇を狙う
ためには必要なことだと理解していたビートルズの4人は、1965 年前半までは従順にエプスタ
インの方針に従っていた。
ポール、ジョージと打ち合わせをするエプスタイン
アルバム『ヘルプ!』(1965)のなかの「ヘルプ!」には、アイドルであることの重圧から解
放されたいという叫びが歌いこまれている。
Help! I need somebody
Help! Not just anybody
Help! You know I need someone
……
And now my life has changed in oh so many ways
My independence seems to vanish in the haze
But every now and then I feel so insecure
I know that I just need you like I've never done before
この歌は、映画『ヘルプ!4人はアイドル』(邦題)の主題歌であっただけに、マネージメント側
の意識とミュージシャン側の意識にズレが生じていた事実がアイロニカルに響いてしまう。ジョ
ンは『ビートルズ・アンソロジー』(1996)のなかで、「僕らはほんとうに『助けてくれ!』と叫んで
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いたのに、誰も気づいてはくれなかった」と言っている。
この頃までのビートルズは、インタビュアーたちがベトナム戦争についての政治的な質問
をしても、軽く受け流すのが常だった。「僕らの曲はすべて反戦歌だ」という 1964 年のジョンの
発言のように、ときには口を滑らせることもあったが、エプスタインの助言のもと、直接的な応
答は避けるようにしていた。
政治への意識の芽生えと諸活動
ベトナム反戦、社会矛盾、世代間の断絶などを歌いこみ、当時、アメリカの対抗文化
(counterculture)のカリスマ的存在になっていたボブ・ディランに、1965 年 8 月、ビートルズは
会った。転機が訪れたのはそのときであった。ディランは、「君たちの歌にはメッセージ性が感
じられない」と率直な意見を述べた。ディランを尊敬していたビートルズはショックを受け、以
来、政治意識の確立を心がけるようになって行く。
1965 年の後半、哲学者にして平和主義者、CDN(核兵器廃絶運動)の体現者でもあるバ
ートランド・ラッセルに、ポールは会いに行っている。このときラッセルはポールに、「ベトナム
戦争は非常に不正な戦争であり、帝国主義者の戦争である」と警告したという。1966 年の東
京での記者会見でも鮮明なやり取りがあった。「現在ベトナムで起こっている戦争についてど
のくらい関心を持っているか」という質問に対して、「僕たちは毎日それについて考えているん
だ。僕らはそれに賛成できないし、間違ったことだと思っている。僕らが大きな関心を持つこと。
それが僕らにできるすべてだ。それから、僕らがそれは正しくないことだと発言することもね」
とジョンが答えている。
そして芽生えつつあった意識を行動に移していく作業は、バンドとしての演奏ツアーを断念
した後、ジョンによって口火が切られる。かつて映画『ハード・デイズ・ナイト』(1964)において、
ビートルズの魅力をある種のペーソスを込めて描いたリチャード・レスター監督の『僕の戦争』
(1966)に出演したのである。この映画は、息もつかせぬカットの変化によるシュールレアリズ
ム的手法を用い、悲しい結末によって戦争に対する効果的な抗議を試みている。エピソードを
連ねた脚本、カメラに向かって延々と続くセリフなどは、冗長に過ぎる嫌いはあるが、戦争に
おけるこっけいな不条理性の核心はたちどころに伝わってくる。
『僕の戦争』からのワン・カット
ジョン演じるグリップウィードは、卑屈でとるに足らない労働階級出身のキャラクターであり、
そんな役を演じることは、偶像破壊にほかならなかった。しかし、それをジョンは自ら望んで行
ったのである。このジョンの行動は、アイドルであることへの決別でもあった。そしてそれは、
マネージャー、ブライアン・エプスタインへの決別をも意味していた。
時代の文脈のなかでこの映画を考えてみれば、1966 年頃のイギリスは、戦争批判をする
ことが厳しい社会批判を受ける時代であった。そのような状況のなかで、ジョンが反戦の意思
表示をしたことは、大きな意味を持っていた。アメリカに反戦の気運をもたらしたのはボブ・デ
ィランであったが、それを世界的規模にまで拡大したのは、紛れもなくジョン・レノンであった。
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対抗文化と超越瞑想(TM.: transcendental meditation)への傾倒
1967 年には、アメリカ対抗文化とのつながりを強く意識させてくれるアルバム『サージェン
ト・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を発売する。愛と平和をスローガンに掲げた、
当時のサンフランシスコを中心としたフラワー・ムーブメントと結びつくことによって、ビートル
ズは、時代のイデオロギーの象徴的存在になって行ったのである。スコット・マッケンジーの
歌う「花のサンフランシスコ」は、ヒッピー文化の雰囲気を鮮やかに伝えている。
If you're going to San Francisco, be sure to wear some flowers in your hair
If you're going to San Francisco, you're gonna meet some gentle people there
その愛と平和の精神をビートルズ流に伝えようとしたのが、世界初の衛星中継番組「アワ
ー・ワールド」への出演であった。5大陸26カ国の国営放送局の協力のもとに世界各地に生
中継されたこの番組の視聴者は、予想をはるかに上回る約5億人であったと言われている。
ここで歌われた "All You Need Is Love" は、ビートルズがはじめて発した政治的メッセージで
あった。日本では、詞の重要な一節 "There's nothing you can do that can't be done." に「不
可能なことなんて何もない」という対訳がつけられたが、それは間違いである。正しい意味は、
「できることがないはずのことのうちで、君にできることは何もない」である。争いで問題を解決
するなんてできるはずがない。だから、「君に必要なのは、愛こそがすべて」というメッセージ
なのである。おそらく訳者は、can の意味を「できる」という本来意味(root meaning)でしか捉
えず、「はずだ」という推量意味(epistemic meaning)を認識していなかったのであろう。
Love Is All You Need
自由を希求するヒッピー文化の精神性には同意を示したビートルズであったが、その退廃
的傾向にはなじめず、1968 年、さらなる独自の精神的高みを求めて、マハリシ・ヨギのもとで
瞑想を学ぶためにインドに旅立つこととなる。「対抗」文化が「退行」的側面を有していたこと
は否めない。
マハリシ・ヨギのもとに集ったビートルズ(ギターを手にしているのはドノバン)
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マハリシのもとで学んだ超越瞑想は、幾つかの混乱をビートルズにもたらしはしたが、少なく
ともドラッグの世界からビートルズを救い、現実社会へ連れ戻してくれた。そんななかで完成
したのがアルバム『ホワイト・アルバム』(1968)である。そのなかには、ビートルズ最強のメッ
セージ・ソング「レボリューション」が含まれている。
第二次大戦後に築かれた世界の構造の変化が具体的な変化を見せ始めていた状況のなか
で、この「レボリューション」は歌われた。中国では毛沢東によるプロレタリア文化大革命が始
まり、アジアを舞台にした資本主義と社会主義の対立はますます先鋭化していた。南北ベト
ナム間の戦いも実質的にはアメリカとソビエトの代理戦争の様相を強め泥沼化していた。アメ
リカでは、ベトナム戦争に意義を唱える者に刑事罰を適用する法案が提案されていた。
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ジョン・レノンのラブ&ピースの活動
1.ベッド・イン
1969 年、ジョンとヨーコはイギリス領ジブラルタルで結婚した。ベッド・インのそもそもの発
想は、どうせマスコミに追いまわされて静かなハネムーンなど楽しめるわけがないのだから、
その状況を逆手にとって世界平和に貢献しよう、というものだった。「結婚したばかりのジョン
とヨーコがベッドでハプニングをやる」と聞かされた記者たちは、興味しんしんでふたりのスイ
ート・ルームに足を運んだ。彼らは、ジョンとヨーコが新婚初夜を公開するのではないかという、
スキャンダラスな期待を抱いていた。だが、ふたりがやろうとしていたのは、ベッドでの平和的
デモンストレーションであった。
そのベッド・インの後、ホテルの部屋に機材を持ち込んでレコーディングされたのが、"Give
Peace a Chance"である。アコースティック・ギターを弾きながら歌うジョンのまわりで、スイー
ト・ルームをぎっしりと埋めた友人や訪問客たちがコーラスをつけた。日本版には「平和を我
等に」と邦題がつけられているが、少しメッセージの強さが薄められるタイトルになっている。
文法的には SVO1O2構造の第4文型であるから、思い切って「一度くらいは平和にも機会を与
えよ」と直訳したほうが、有史以来絶えたことのない戦争に対する嫌悪と、もういいかげんに
「平和に機会を」という切羽詰まった緊張感とが鮮明に伝わってくる感じがする。"a"の存在も
疎かにはしたくない。
2.バギズム
アムステルダム・ヒルトンでのベッド・インを終えたジョンとヨーコは、ウィーンに飛び、その
夜、オーストリア・テレビの番組において、ふたりで共作した前衛映画『レイプ』のプロモーショ
ンのための記者会見を行った。ふたりはそのとき、白い大きな布を頭からすっぽりと被ったま
まで質問に答えた。ジョンは、これは人種差別に対するメッセージを伝える行動であり、袋を
被ったのは「完全なコミュニケーションのため」だと述べた。誰かが意見を言おうとしたときに、
その人の肌の色や髪の長さなどの外見上のことに惑わされていては、本当のコミュニケーシ
ョンはできないと主張した。これが、ジョンとヨーコによって打ち出された「バギズム」(Bagism)
のコンセプトである。
ヨーコによると、「バギズム」は童話『星の王子さま』にでてくる「大切なものは目には見えな
い、心でしか見えない」という一節に影響を受けていると言う。ジョンは、BBC テレビに出演し
たときも、例えば黒人が仕事を探しにきたとしても、袋を被っていれば何色の肌をしているか
判らず、人種差別も偏見も生まれない、という趣旨のことを話している。ちなみにヨーコは、布
を被ってロンドンのウエスト・エンドを歩く自分の姿を映像に残している。
テレビに出演してバギズムについて語るジョンとヨーコ
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3.MBE 勲章返還
1965 年に、外貨獲得への貢献を理由に、ビートルズのメンバー全員に授与された MBE 勲
章を、1969 年、ジョンはエリザベス女王に返還している。
ビートルズが勲章を授与されたとき、多くの受勲者たち(多くは戦争での功績により受勲)
が、「ポップ・スターであるビートルズと同一視されるのは遺憾だ」と言って勲位を返還したが、
そのときジョンは、「戦争で人を殺して勲章をもらうより、歌で人をハッピーにするほうがましだ
ろう」と切返した。ジョンは、ある週刊誌のインタビューに答えて、「ビートルズは勲章をもらっ
た日にバッキンガム宮殿のトイレでマリファナを吸った」と発言した。実際にはそんなことはな
かったようだが、ジョンはわざとそう言うことで、不本意だった叙勲をジョークとして茶化そうと
したのかも知れない。"That's very John!" と思わず唸ってしまいそうになるエピソードである。
返還当日、ジョンは詰めかけた記者たちを前に、「ビートルズのためによかれと思って受け
た勲章だったが、気がついてみると、それは自分を偽り、魂を売りわたすに等しい行為だった。
今、その勲章を返すことで、平和のために魂を買い戻しているのだ」と述べた。
アメリカの報道陣に勲章を見せているビートルズ
4.ポスター・キャンペーン
1969 年、12 月 16 日、「戦争は終わる、あなたが望めば(WAR IS OVER! IF YOU WANT IT)
ハッピー・クリスマス・フロム・ジョン&ヨーコ」というメッセージが書かれた巨大な広告板が、世
界12都市でいっせいに掲げられた。
広告板は、ロンドン、ニューヨーク、ロサンジェルス、パリ、ローマ、ベルリン(まだ東西ベル
リンの壁があった時代である!)、アテネ、モントリオール、トロント、東京、香港、それにトリニ
ダード島ポート・オブ・スペインに設置された。都市によっては、"WAR IS OVER" をその国の
言葉に翻訳したものも作られた。
突如街角に出現した巨大な広告版
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5.カナダのトルドー首相との会見
広告板が各国に掲げられた直後、ジョンとヨーコはトロントへ向かう。このカナダ行きの目
的は、翌年計画していたトロント・ピース・フェスティバルについて発表することだったが、カナ
ダについた後でトルドー首相との会見が正式に決まった。
会見の最後に首相は、「ふたりのおかげで若者の未来に希望を抱くことができた」と言い、
ジョンは会見終了後、「トルドー氏のような指導者がもっといれば、世界は平和になるだろう」
とコメントした。
「体制側とのコミュニケーション」ができたことに、ジョンは大きな意義を見出した。ただ一方
的に「体制側をやっつけろ」と声高に叫ぶのではなく、意見は意見として真摯に耳を傾けようと
いう姿勢。ジョンのこうした一面は、ラブ&ピースの思想をより幅広い層に浸透させることにつ
ながって行く。
6.政治活動家たちとの交流
1971 年、ジョンとヨーコは、ロンドンからニューヨークへ移住する。一番の目的は、行方不
明になっていたヨーコの娘キョーコ(前夫アンソニー・コックスとの間の娘)を捜し出し、養育権
を得ることであった。
だがきっかけはどうあれ、ジョンは刺激に溢れるニューヨークの街にすっかり魅せられてし
まう。その刺激に触発されるかたちで、ニューヨーク移住後の 1971 年から 1972 年にかけては、
ジョンのラブ&ピースの活動が最も政治色を強めた時期であった。ジョンが進めていたさまざ
まな社会運動が、ニューヨークを本拠にする政治活動家たちと結びついて行ったのであった。
なかでもジェリー・ルービンとアビー・ホフマンは、ジョンの住むアパートへ足しげく通った。
ルービンもホフマンも、1968 年にシカゴで民主党の大会にあわせて反戦デモを指揮したシカ
ゴ・セブン(当初8人だったのでシカゴ・エイトとも呼ばれる)の一員として知られ、一般的には
過激派として恐れられていた人物である。ジョンがルービンたちにひかれた理由の一つは、
彼らがマスコミを最大限に利用する「メディア戦術」を展開していたことであった。一方、ルービ
ンは、「ジョンとヨーコのラブ&ピースは我々の運動と根っこは同じだ」と語った。
こうして、ジョンはさまざまな主義主張を持つ人たちと交友の輪を広げて行った。それを反
映するかのごとく、この頃のライブ演奏は、政治色を前面に出したかたちになっている。だが、
ジョンと急進派と言われるルービンたちとの結びつきは、ニクソン政府に危機感を与えてしま
うことになる。
遅進児のためのコンサート、「ワン・トゥ・ワン」におけるジョンとヨーコ
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7.フェミニズム
フェミニズムというと、なにやら女権拡張論のように聞こえるが、ほんとうのねらいは、男だ
から、女だからという枠から自分を解き放つことにある。男性優位主義がしみついた環境で育
ったにもかかわらず、ジョンがヨーコのフェミニズムを受け入れることができたのは、自分らし
さの追及という自らの姿勢と共通するものがあったからであろう。
ジョンのフェミニズムへのアプローチは、時代を先取りしている。女性が女性であるという
理由だけで、その能力を発揮する機会を奪われているのなら、男性もまた男性という理由だ
けで、かくあるべしという男性像にがんじがらめにされている。ジョンはおそらく、このことに世
界で最も早く気づいた男性の一人であったろう。1972 年に発表された「女は世界の奴隷
か」!は、男性の手によって書かれ、男性に対して歌われた最初のフェミニスト・ソングだと言
われている。ジョンとフェミニズムにのかかわりを示すわかりやすい例の一つに、ヨーコとの結
婚を機に、名前をジョン・ウインストン・レノンからジョン・オノ・レノンに変えたことがあげられ
る。
「女は世界の奴隷か!」のシングル・ジャケット
8.ヌートピア宣言
1973 年4月1日、つまりエイプリル・フールの日に、ジョンとヨーコは、想像上の国「ヌートピ
ア」の誕生を宣言した。
ヌートピアの市民権は、ヌートピアという国の存在を認めると表明する人なら、誰でも手に
入れることができる。ヌートピアには、領土も国境もパスポートもない。宇宙の摂理以外は、法
律も存在しない。国民全員が、国を代表する大使である。
架空の国ヌートピアのコンセプトは、アルバム『ヌートピア宣言』(1973)のなかの「ヌートピ
ア国際讃歌」という数秒間の無音トラックとして引き継がれる。無音の間に頭に浮かんだメロ
ディこそが、その人にとってのヌートピア国歌というわけだ。アルバム・カバーには、記者会見
で読み上げた宣言文も掲載された。
『ヌートピア宣言』のアルバム・ジャケット
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9.FBI との確執
ニクソン政権下のアメリカで、FBI(アメリカ連邦捜査局)は、ジョンに対する継続的な監視
活動を行っていた。その調査記録は全部あわせると重さ12キログラムという膨大なもので、
研究者の間では「レノン・ファイル」と呼ばれている。1994 年にはその重要項目を一冊にまと
めた『ジョン・レノン FBI・ファイル』が世に出ている。
ジョン・レノン・FBI・ファイルの表紙
ニクソン大統領
1971 年の終わりごろ、反体制文化人ジョン・シンクレアの釈放を求めるコンサートに、ジョ
ンがルービンのすすめで出演したことがあった。これを機に、FBI は、ジョンをルービンらの左
翼運動家と同一視し始め、調査を開始する。報告書には、ジョンの新曲「ジョン・シンクレア」
の歌詞や、「ジョン・レノンは、ニクソン政権打倒を目的としたツアーの仲間であるらしい」、「ジ
ョンは新左翼に資金援助している」などの記載が見られる。
1972 年2月には、FBI は、フーバー長官みずからニューヨーク、ロサンジェルス、サンディエ
ゴ、ワシントン DC の FBI 各支部に宛てて、「ジョン・レノンを調査せよ」と正式な指令を出すに
至っている。この頃ジョンは、北アイルランドの「血の日曜日事件」への抗議デモに参加しても
いるが、こうした行動は FBI によって逐一監視され、ファイルに記録された。
そしてその翌月には、1968 年にジョンが受けたドラッグ所持の有罪判決を理由に、アメリカ
国外追放が言いわたされる。FBI の介入は明らかであった。その後、裁判闘争に突入する。
ニクソンがジョンに対して妄想にも似た疑いの目を向け、執拗にアメリカから追い出そうと
したのは、大統領選で再び勝利をおさめたいがためであった。ニクソンは、再選のためなら手
段を選ばなかった。結果として自身の失脚を招いた「ウォーターゲート事件」は、その最たる
例である。ジョンに対しても幾度となく尾行、盗聴を仕掛けている。『ジョン・レノン・FBI・ファイ
ル』の著者ジョン・ウィナーは、この一連のニクソンの指示による FBI の行為を「ロック界のウォ
ーターゲート事件」と表現している。
今でも、「ジョンの死にはアメリカの国家権力が介在していたのではないか」という疑惑が
消えないのは、以上のようなジョンと FBI の確執ゆえである。
10.「イマジン」の普遍性
ベトナム戦争が泥沼化する 1971 年に発売され、当時の反戦歌の代表曲となったジョンの
「イマジン」は、1991 年の湾岸戦争勃発の際も反戦歌として歌われた。イギリス政府が放送自
粛を要請するほどの勢いがあった。さらに、2001 年9.11テロに対する報復攻撃がアメリカの
世論を支配したときも、「イマジン」は平和主義の旗頭的存在として機能した。今度はアメリカ
政府が放送規制をかけなければならなかった。これほどの長きにわたって生命力を持つ反戦
歌は、「イマジン」以外にはないと断言できる。
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