1 司馬遼太郎「 司馬遼太郎「菜の花の沖」に見る 201204026 海商高田屋嘉兵衛、 海商高田屋嘉兵衛、ゴローニン事件 ゴローニン事件と 事件と北方領土問題 §1.高田屋嘉兵衛 高田屋嘉兵衛 海事研究家・ 海事研究家・大阪大学/ 大阪大学/神戸大学非常勤講師 神戸大学非常勤講師 野澤和男 (1)内憂外患の時代 (2)嘉兵衛の生涯 (3)嘉兵衛たちの乗った千石船 (4)嘉兵衛歴史探訪 (5)高田屋闕所と追賞・正五位、その後 §2.ゴローニン 2.ゴローニン事件 ゴローニン事件 事件 (1)背景 (2)ゴローニン事件と解決 §3.北方領土問題 3.北方領土問題 北方領土問題 ロナルド・ドーア氏の論評他/今後の期待 Нодзава Кадзуо 千石船“浪速丸”を背景に Такадая Кахая 高田屋嘉兵衛 Василии Михаилович Головнин Петр Иванович Рикордо 千石船の構造(西宮市郷土資料館) ゴローニン艦長 リコルド副艦長 2 はじめに •徳川時代中期後半 徳川時代中期後半、 徳川時代中期後半、日本は 日本は2つの国難 つの国難に 国難に見舞われていた 見舞われていた。 われていた。 「内憂外患」 内憂外患」即ち、「国内経済問題 、「国内経済問題と 国内経済問題と外国船接近」 外国船接近」である。 である。 •淡路島都志 淡路島都志の 淡路島都志の極貧農民の 極貧農民の子として一人物 として一人物が 一人物が生まれた。 まれた。高田屋嘉 兵衛である 兵衛である。 である。商品経済システム 商品経済システムが システムが回り始める時代 める時代に 時代に蝦夷地交易 に思いを馳 北前海商となった。 となった。また、 また、北方 いを馳せて廻船業 せて廻船業を 廻船業を志して北前海商 して北前海商となった 防備を 防備を進める幕府 める幕府の 幕府の要請で 要請で御用船頭となり 御用船頭となり蝦夷地国後択捉航路 となり蝦夷地国後択捉航路 開発、 物資 兵員輸送、 兵員輸送、官船建造・ 官船建造・漁場経営に 漁場経営に活躍した 活躍した。 した。 開発、物資/兵員輸送 •レザノフ レザノフ来航 レザノフ来航と 来航と露寇事件に 露寇事件に端を発するゴローニン するゴローニン事件 ゴローニン事件に 事件に巻き込 まれて露 まれて露ディアナ号 ディアナ号に拿捕抑留されたが 拿捕抑留されたが、 されたが、副艦長リコルド 副艦長リコルドに リコルドに協 力してゴローニン ゴローニン艦長釈放に 艦長釈放に導き日露友好関係を 日露友好関係を回復した 回復した。 した。 してゴローニン艦長釈放 •“ “あの時代 あの時代に 時代に生きた人間 きた人間の 人間の中では嘉兵衛 では嘉兵衛が 嘉兵衛が一番偉いと 一番偉いと思 いと思う。” と司馬遼太郎は 司馬遼太郎は語った。 った。 •“ “内憂外患” 内憂外患”の徳川幕政下、 徳川幕政下、北方領土の 北方領土の蝦夷地で 蝦夷地で嘉兵衛等は 嘉兵衛等は何 をなし、 をなし、何をどのように残 をどのように残したのかを したのかを考えるともに、 えるともに、200年後 年後の 年後の 現在、 現在、今だ返還されていない 返還されていない北方領土問題 されていない北方領土問題を 北方領土問題を再確認したい 再確認したい。 したい。 §1. .高田屋嘉兵衛(1769-1827) ポイント: ポイント: ・ “あの時代 司馬遼太郎談) あの時代に 時代に生きた人間 きた人間の 人間の中では嘉兵衛 では嘉兵衛が 嘉兵衛が一番偉い 一番偉い“(司馬遼太郎談 司馬遼太郎談) ・ 「菜の花の沖」とは何 とは何を示唆するのか 示唆するのか? するのか? ・嘉兵衛から 嘉兵衛から北方領土問題 から北方領土問題 3 ✈ 嘉兵衛が 嘉兵衛が活躍した 活躍した 国後、 国後、択捉の 択捉の海とは? とは? ゴローニン著「日本幽囚記」 岩波文庫訳本 高田屋嘉兵衛像 まず、 まず、嘉兵衛が 嘉兵衛が活躍した 活躍した国後 した国後、 国後、択捉の 択捉の海と関連事項を 関連事項を概観する 概観する. する. 4 §1. •嘉兵衛 嘉兵衛は「辰悦丸」に乗り国後島-択捉島航路➊を 嘉兵衛 開拓、択捉島に17ヵ所の漁場を開いた.(1799) •近藤重蔵 近藤重蔵は嘉兵衛の操船で択捉島に渡り、カムイワッ 近藤重蔵 カオイの高地に 「大日本恵土呂府」➋の標柱を立て日 本の領土であることを宣言.(1800) ▲JPG wwwなどから¥高田屋シンポ雑誌写真¥国後瀬戸海流図.jpg ●JPG wwwなどから¥高田屋シンポ雑誌写真¥大日本恵登呂府.jpg ■JPG wwwなどから¥高田屋シンポ雑誌写真¥北方探検図.jpg §3.北方領土問題 カムイワッカオイ サンフランシスコ平和条約 サンフランシスコ平和条約 第二条【領土権の放棄】 (c)日本国は、・・・・・千島列 島・・・・・・対するすべての 権利、権原及び請求権を 放棄する。 §2.ゴローニン事件 ゴローニン事件: 事件 国後島南端ケラムイ岬 ・1811年ゴローニンは幕府に捕縛 ・1812年高田屋嘉兵衛は露船に拿捕 図、出典:北方領土問題-Wikipediaに加筆 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9 6%B9%E9%A0%98%E5%9C%9F%E5%95%8F% E9%A1%8C 6 ➋近藤重蔵 近藤重蔵は択捉島探検にあたり原住民を威圧し畏敬の念を持たせるために、官船、随伴船に 近藤重蔵 日の丸を染め出した吹抜幟、武田信玄の旗印「不動如山」の旗を艫に立てること、さらに鎖帷子の 着用と紅白の指図旗をもって渡海することを幕府から許可をとった。択捉島北端カムイワッカオイで先住 ロシア人の残した十字架を引き抜き「大日本恵登呂府 大日本恵登呂府」と書いた標柱を立て領土宣言をした。 大日本恵登呂府 ↓市川左団次扮する重蔵が熊を投げ飛ばし標柱を建て直した1シーン.(芝居「山開目黒新富士」1893年) 山開目黒新富士 市立函館博物館 豊原国周画 出典:特別展 「豪商 高田屋嘉兵衛」資料(高田屋嘉兵衛展実行委員会) 2000年 8 (1)内憂外患 (1)内憂外患の 内憂外患の時代とは とは 高田屋嘉兵衛: 高田屋嘉兵衛:生きた時代 きた時代と 時代と国内外情勢 国内外情勢 ・ 嘉兵衛(1769-1827)は は徳川時代( ‐1868) )の中期後半に 嘉兵衛 徳川時代(1603‐ 中期後半に生きた。 きた。 ・ 当時の 当時の日本は 日本は、「内憂外患 、「内憂外患※ 」の時代であった 時代であった。 であった。※水戸藩主徳川斉昭が使用した言葉 1)内憂: 内憂:国内問題 ① 経済基盤動揺( 経済基盤動揺(財政逼迫、 財政逼迫、大災害頻発) 大災害頻発)→経済財政改革 ② 加えて、 えて、江戸の 江戸の人口増加/集中 人口増加 集中・ 集中・消費社会、 消費社会、物価上昇↑ 物価上昇↑ ③ 幕府政策能力低下→ 幕府政策能力低下→ 改革不成功 改革不成功 武士 武士→ 武士→商人の 商人の時代 2) 外患: 外患:国外問題 ① 外国船舶の 外国船舶の日本周辺出没 日本周辺出没 ←通商・ 通商・開国要求、 開国要求、略奪 ② ロシア: ロシア:オホーツク・ オホーツク・カムチャッカ南下 カムチャッカ南下 、 南下 、例 、例えば、 えば、 ①アダム・ アダム・ラックスマン来航 ラックスマン来航( 来航(大黒幸太夫返送) 大黒幸太夫返送) ②レザノフ長崎来航 レザノフ長崎来航: 長崎来航:拒否され 拒否され→ され→ 露寇事件→ 露寇事件→ゴローニン事件 ゴローニン事件に 事件に繋がる。 がる。 幕府は 幕府は蝦夷地防備 強化策に 強化策に神経過敏→ 神経過敏→ 大型船/船頭 大型船 船頭、 船頭、造船の 造船の必須 ?→海商 ●徳川時代と 徳川時代と嘉兵衛の 嘉兵衛の時代の 時代の位置付けを 位置付けを年表 けを年表でみる 年表でみる。 でみる。→ 西暦 将軍 政治 1603 家康1 家康 1江戸幕府開く 江戸幕府開 く 関連事項 家康征夷大将軍 1605 1623 1651 1680 秀忠2 封建国家の完成 家光3 幕藩体制成立と 家綱4 諸藩文治政治 綱吉5 1709 1712 1740 1756 1765 幕藩体制 に 揺 るぎ↗ るぎ↗ 火事、洪水、地震、米価騰貴 飢民多し 家宣6 ☂幕藩体制に 家継7 商人→貨幣経済、商品作物、富 ▼ 農民抗争、 農民抗争 、 百姓一揆(享保 百姓一揆 享保の 享保 の 飢饉)、 飢饉 、 打ち毀し↗ 吉宗8 ① 享保の 倹約令・上米 倹約令 上米上納等増税による財務再建、消火制度 上米 享保の 改革 米価騰貴・ 家重 米価騰貴 ・ 蓄米禁止大飢饉 ➌ 関東20 関東 20万農民一揆 20 万農民一揆 家治 1769 1770 1771 1772 1773 1775 1777 1783 1784 1786 家斉 1789 1791 1792 1798 1799 1800 1804 1806 1807 1810 1811 1812 1814 1821 1822 1823 1827 1832 1837 1839 家慶 ➊ ➋ 高田屋嘉兵衛 田沼意次 の 政治 ▼ 経済問題➶ 経済問題 ➶ 1639年鎖国断行、1635参勤交代、大船建造×、1637島原の乱 ●農本主義●交通/陸上・海上↑1619檜垣廻船初め 1657年江戸明暦大火 江戸明暦大火、 1638樽廻船初め 江戸明暦大火 外国船出没 1670-72 河村瑞賢西回 西回・ 西回・ 東回航路 東回 農業、産業↗ 商品経済発達 商品経済 発達 ↗、海運ニーズ↗ 歳0 ロシア船来航 1 ロシア 船来航・ 船来航 ・ 海防問題 ロシア船阿波に漂着 2 株仲間公認→営業税(運上、冥加)、専売、 3 海産物、貨幣制度→商業重視政策、→蝦夷地露交易調査 4 6 1778ロシア 1778 ロシア船蝦夷地来航通商求 ロシア船蝦夷地来航通商求 船蝦夷地来航通商求 松前氏拒否 8 14 ▼ 天明の 天明 の 大飢饉 大飢饉 浅間山噴火▼ 浅間山噴火 ▼ 撫民政策 蝦夷地開拓始める。田沼政治の粛清 15 ② 寛政改革 海防 17 寛政改革 松平定信 田沼ショック→寛政の打ちこわし ▼海防 倹約/義捐令,帰村令/囲米 社会政策重点,農村改革、本百姓維持 20 異学禁止 保守性が強く挫折 22 ラックスマン来航 ラックスマン 来航・ 来航 ・ 幸太夫帰国 幸太夫帰国 林子平海国兵談 23 近藤重蔵 29 近藤重蔵 「 大日本恵十呂府」 大日本恵十呂府 」 標柱 東蝦夷7年直轄 幕府エトロフ島海路船頭募集 30 国後31 国後 - 択捉航路開発 : 嘉兵衛辰鋭丸 ロシア大使 35 ロシア 大使レザノフ 大使 レザノフ長崎 レザノフ 長崎に 長崎 に 来航 フヴォストフ/ダヴィドス蝦夷地寇掠 37 嘉兵衛生まれる 嘉兵衛生まれる 奉公:和田屋喜十郎 大黒屋幸太夫アリュウシャン 大黒屋幸太夫 アリュウシャン漂着 アリュウシャン 漂着 網屋幾右門 ふさ ロシア人千島に来る 最上徳内 千島探検得撫島に至る 北方問題 北方問題 外国船渡来処置 ① ラックスマン・ 兵庫西出町ふさと結婚 ラックスマン ・ 幸太夫帰国 辰悦丸持船船頭箱館出店 官船5隻建造 蝦夷地定雇船頭・名字帯刀 箱館に造船所建造造船経営 ② レザノフ来航 レザノフ 来航 箱館大火救援活動新店舗下附 1807松前奉行置く・蝦夷地 蝦夷地を 蝦夷地 を直轄 1808間宮林蔵 樺太探検 41 42 嘉兵衛ロシア艦に捕らえられる 43 嘉兵衛 イギリス人来航 45 松前藩戻す 52 松前藩 幕府直轄断念大日本沿海ヨチ全図 ▼幕政転換→直轄領→松前藩 よってカヒは定雇船頭解嘱 53 シーボルト来朝 1825異国船打ち払い令 54 イギリス小笠原, 1829シーボルト事件,イギリス東蝦夷来航 58 西欧勢力の 西欧勢力の 圧迫 択捉場所請負御下命 ③ ゴローニン 千島に来航 ゴロウニン事件発生 ゴロウニン 事件発生 1830 1830 全国的大飢饉つづく 全国的大飢饉 つづく 1835 坂本龍馬生 大塩平八郎の乱 米モリソン号 ③ 天保改革 天保改革 水野忠邦 株仲間海産(商品経済統制)上知令(知行地直轄)幕府権力強化 1853 家茂 黒船来航ペリー 黒船来航 ペリー、 ペリー 、 ロシアプチャーチン 、 ロシアプチャーチン来航 ロシアプチャーチン来航 9 蘭リーフデ リーフデ号 リーフデ号 豊後へ(1600) 大飢饉 賄賂政治 船舶海運 リコルド/嘉兵衛ゴ救済協議 ☀ゴローニン事件解決 蝦夷地定雇船頭に戻る 大阪野田に別荘を建て 、病身の妻ふさを養生 嘉兵衛没 高田屋密貿易疑い 帰村→農村再建 金兵衛松前藩御用達 箱館を高田屋本店 10 内憂外患の時代と 時代と高田屋嘉兵衛の 高田屋嘉兵衛の位置付け 位置付け まとめ ➊幕藩体制の 家康( ‐)~4家綱 ‐) ■ 幕藩体制の確立: 確立:1家康 家康(1603‐ )~ 家綱(1651‐ 家綱 ) ■ ■外国船出没 ➋内部矛盾の蓄積と 綱吉(1680‐ ‐)~7家継 ‐) 蓄積と露呈: 露呈:5綱吉 綱吉 )~ 家継(1712‐ 家継 ロシア ロシア ①財政逼迫( 財政逼迫(金山銀山の 金山銀山の枯渇、 枯渇、長崎海外貿易赤字、 長崎海外貿易赤字、金銀流出) 金銀流出) ラックスマン レザノフ露寇事件 ②災害復興費: 災害復興費:明暦の 明暦の大火、 大火、地震、 地震、富士山噴火→ 富士山噴火→大飢饉、 大飢饉、一揆 ゴローニン事件 ・政策: 政策:綱吉① 綱吉①政治理念← 政治理念←儒教思想古い手法 ② ②財政改革: 財政改革:荻原重秀の 荻原重秀の貨幣改鋳→ 貨幣改鋳→流通増加→ 流通増加→インフレ インフレ 商品経済(物流) ・ 家宣 中途半端 家宣: 家宣:新井白石の正徳の治 新井白石 の時代に入る。 的確な 的確な経済改革無し 経済改革無し ∴大名、 大名、武士→ 武士→窮乏➹ 窮乏➹ ▼高田屋嘉兵衛 登場(1769-1827) 内憂 + 外患 ➌三大改革 ①享保の 享保の改革(8 改革 8吉宗1740)米価安定、 米価安定、倹約令 ▼田沼の 田沼の政治← 政治←重商主義的改革株仲間、 株仲間、干拓、 干拓、貿易 貿易 ②寛政の 寛政の改革(松平定信 改革 松平定信1788 )囲米、 囲米、棄捐令、 棄捐令、蝦夷地、 蝦夷地、朱子学 北方警備と 北方警備と経営 経営 1799:東蝦夷地直轄化 開発費膨大 警備と経営 ③天明の 天明の改革(水野忠邦 改革 水野忠邦1839 )株仲間解散、 株仲間解散、棄捐令、 棄捐令、綱紀粛正 失敗 ☀連立方程式の 連立方程式の解 ●商品経済発展 商品経済発展 ●海上輸送向上 海上輸送向上 目標 目標 商人≒ 商人≒幕府 11 ➊何故、 何故、商品経済が 商品経済が発展したのか 発展したのか? したのか? ▼徳川初期: 徳川初期:武断政治、 武断政治、経済統制→ 経済統制→権力強化、 権力強化、徳川600万石、金銀山直轄・鎖国(貿易独占) 米中心の 米中心の社会: 社会:適度な 適度な流通体制で 流通体制で十分だった 十分だった。 だった。街道、 街道、海路整備( 海路整備(角倉了以) 角倉了以) ▼徳川中期以降: 徳川中期以降: ①江戸の 江戸の繁栄: 繁栄: 参勤交代 : 参勤交代(1635) 参勤交代(1635) (1635) →妻子江戸在住、 妻子江戸在住、 人口増加 人口増加↗ 人口増加↗ 購買力↗ 購買力↗ 蔵米 蔵米↗ 蔵米↗、生活物資↗ 生活物資↗、贅沢品( 贅沢品(貴重、 貴重、新鮮、 新鮮、珍味) 珍味)↗ ②商品作物の 商品作物の栽培: 栽培: 農業技術向上 : 農業技術向上 農業技術向上 Spiraling Spiraling 1)米生産力↑余剰米の販売↑2) 2)商品作物 1) 2)商品作物↑3)各地の特産物↑ 商品作物 その他技術向上:漁業、林業、鉱山、製塩→各地の特産物↑ 金肥 金肥(干鰯、干鰊、油糟などで生産↑) 金肥 ③物流ニーズ 物流ニーズの ニーズの加速→ 加速→輸送量増大 輸送量増大 with with 文化度向上による 文化度向上による物資 による物資、 物資、造営土木用木材 千石船 商品経済加速 千石船の 千石船のneeds、 needs、樽廻船、 樽廻船、北前舟→活発化 →商品経済 北前舟 商品経済 ※ 海運流通基盤の 海運流通基盤の完成: 完成:東回り 東回り/西回り 西回り航路の 航路の改良( 改良(河村瑞賢: 河村瑞賢:幕命、 幕命、1671,1672) 1671,1672 12 ➋何故、 何故、船舶輸送が 船舶輸送が発達したのか 発達したのか? したのか? 輸送量の 輸送量の増大 → 増大 → •大量輸送 大量輸送 大量輸送 ・高速輸送 高速輸送 ・ ・遠方まで 遠方まで輸送 まで輸送 輸送 ・ ・風の力で ・ ・少人数で 少人数で ・ ・少ない労力 ない労力 弁財船の構造 1石≒10尺(3乗)=278litre≒280litre=0.28㎥ http://shibayan1379.noblog.net/blog/k/10140607.html 米1石の重量=40貫=150kg、米1俵 =60kg ※貨車がない時代、大量の荷物 ▲1000石船 1000石船=150 石船 150重量 150重量トン 重量トン トン → 2500俵 2500俵 は陸路での輸送より、海路での 1500石船 1500石船=225 石船 225重量 225重量トン 重量トン トン → 3750俵 3750俵←→馬1900頭/馬子1900人 輸送の方が優れていた。江戸時 2000石船=300重量トン → 5000俵 代では、大きな輸送に街道を利 用することはなく、陸路:消費者に ▲乗組員: ~15人 人 乗組員:1000石船 1000石船で 石船で約14~ 直接渡る物資の輸送や遠距離を 行く旅人が 利用した。 △船のサイズ 865石船:全長×かわら長×肩幅×型深さ=29.9×13.4 × 7.4×2.4 in m (海の時空間展示) 1500石船: =36 × 16 × 8.9×2.8 in m (相似推定) ------------------------------------------------------------------ 備考:1石=10斗=100升=1000合 人間1人:3合/day=1,095合/年≒1石/年≒150kg /年=米2.5俵/年 ・・・(現)米代10万円/年 (2)嘉兵衛 (2)嘉兵衛 (1769-1827) )の生涯 生涯 → 年表 年表 13 司馬遼太郎談→ 司馬遼太郎談→“あの時代 あの時代に 時代に生きた人間 きた人間の 人間の中では嘉兵衛 では嘉兵衛が 嘉兵衛が一番偉い 一番偉い“と云った訳 った訳は? ●嘉兵衛 嘉兵衛は 年淡路島都志に 嘉兵衛は1769年淡路島都志 年淡路島都志に生まれた。 まれた。その生涯 その生涯を 生涯を①~⑥の時期に 時期に分ける。 ける。←年表 年表 ①極貧/ 極貧/苦労時代~ 苦労時代~自立(~24):11歳出稼 11歳出稼ぎ 歳出稼ぎ、新在家若衆組の 新在家若衆組の苛め、網元娘ふさ 網元娘ふさ、 ふさ、虐待、 虐待、 村抜け 村抜け、兵庫へ 兵庫へ、樽廻船水主、 樽廻船水主、おふさ出奔 おふさ出奔、 出奔、船大工町にて 船大工町にて所帯 にて所帯、 所帯、沖船頭、 沖船頭、北風荘右衛門貞幹と 北風荘右衛門貞幹と邂逅 邂逅 ②持船船頭として蝦夷地航海(~30) :辰悦丸1,500石船 1,500石船完成、 完成、北前船持船船頭として 北前船持船船頭として蝦夷地 として蝦夷地 交易、 交易、高田屋の 高田屋の屋号公称、 屋号公称、▲幕府東蝦夷地7 幕府東蝦夷地7年仮直轄化により 年仮直轄化によりエトロフ によりエトロフ島海路試乗 エトロフ島海路試乗の 島海路試乗の船頭募集、 船頭募集、応募 ③幕府御用船頭(~32) :蝦夷地御用御雇、 蝦夷地御用御雇、国後国後-エトロフ航路開拓 エトロフ航路開拓・ 航路開拓・近藤重蔵委託で 近藤重蔵委託で航海、 航海、 エトロフ漁場 エトロフ漁場開拓 艦船5隻建造/ 建造/回航、 回航、蝦夷地巡察船頭(高田屋総出) 高田屋総出)、蝦夷地定雇船頭、 蝦夷地定雇船頭、幌泉漁場請負 漁場開拓、 開拓、艦船5 、名字帯刀 産物売却 名字帯刀 開発費財政圧迫→独立採算 ④幕府東蝦夷地直轄・ 幕府東蝦夷地直轄・政商・ 政商・択捉経営(~41) :▲幕府の 幕府の直捌制度実施に 直捌制度実施に伴い、蝦 夷地御用取扱人( 幕府から 夷地御用取扱人(物産売捌方) 物産売捌方)にin 27名、造船所建造、 造船所建造、▲幕府 幕府から官船建造 から官船建造( 官船建造(45隻 45隻)の功績、 功績、ロシア来襲 ロシア来襲 時の兵員輸送で 松前商人暴利× 兵員輸送で功労賞、 功労賞、択捉場所請負命 択捉場所請負命じられる。 じられる。 事務経費が圧迫 。 ★ ★箱館の高田屋→大盛況(海運、造船、漁場開拓、売り捌き、インフラ・・・・) →☀高田屋全盛期 ⑤ゴローニン事件 ゴローニン事件とその 事件とその解決 とその解決(~45) :嘉兵衛手船観世丸で 嘉兵衛手船観世丸で択捉→ 択捉→箱館回航途中、 箱館回航途中、国後 島ケラムイ沖 ケラムイ沖でディアナ号 ディアナ号に拿捕、 拿捕、カムチャッカへ カムチャッカへ、約1年抑留、 年抑留、リコルドと リコルドと協議、 協議、ゴロウニン事件解決 ゴロウニン事件解決、 事件解決、 蝦夷地定雇船頭に戻る。 ⑥晩年まで(~52) :▲幕府、 まで 幕府、蝦夷地直轄支配を 蝦夷地直轄支配を断念→ 断念→松前藩に 松前藩に返す。 弟金兵衛 。 弟金兵衛、 弟金兵衛、松前藩御用達、 松前藩御用達、 箱館 箱館に 箱館に本店、 本店、 都志 、 都志に 都志に帰る。182 1827年没す。 復讐/嫉妬、怨恨による陰謀→1833年:高田屋闕所 。 14 嘉兵衛 (1769-1827)の年表 高田屋嘉兵衛と 高田屋嘉兵衛 と 幕府蝦夷地経営 年表 参考:高田屋は物申す(http://takadaya.d2.r-cms.jp/sitemap/)ほか 20120419野澤 西暦 年齢 出来事 関連事項 注 1769 ー 淡路 国津名郡都志本村 に生まれる。幼名菊弥 都志 1775 6 都志本村医師小出氏から読み書きを習う。船 に興味を持つ。都志川河口で潮 の 満干 を調べる 1772田沼意次老中 極貧/下積み/苦労時代 苦労時代 1781 12 家を出る。都志浦新在家の親戚弥右衛門方に寄宿漁業 を始める。和田屋喜十郎方で商売の手伝 1778ロシア船蝦夷地来航 極貧:都志→11歳で出稼ぎ→新在家若衆組 1789 20 都志浦新在家の 網屋幾右衛門二女ふさ と知り合う。 ●極貧苦労・努力時代 いじめ→網元娘おふさ おふさと恋仲→許されぬこと いじめ おふさ 1783 幸太夫ア リ ュー シ ャ ン 漂着 →いじめ として働く。 →虐待 虐待→村抜け→兵庫 兵庫 1790 21 兵庫 に出て堺屋喜兵衛方に身をよせ、樽廻船の水主 樽廻船 虐待 1792 23 兵庫西出町でふさ と世帯を持つ。水主から表仕になる。 1786徳内蝦夷千島探検 おふさ出奔 兵庫船大工町にて所帯をもつ。 1793 24 沖船頭 (雇われ船頭)になる。 ★北風荘右衛門貞幹と知遇 ラックスマン 来航 幸太夫 江戸一番樽廻船船頭 ●商品経済発達 1792ラックスマン来航 1795 26 和泉屋伊兵衛の船に乗り出羽国酒田(山形県)に航海する 北風荘右衛門貞幹 北風の湯/工楽松右衛門 1796 27 辰悦丸 1500石が完成。持船船頭 となり箱館に交易。高田屋の屋号公称●自立の途へ ロシア 脅威!! 北前船・持船船長 儲けのコツ、1000両/1航海 1799 30 ▲幕府東蝦夷地 東蝦夷地を7年仮直轄 仮直轄化 ▲幕府東蝦夷地経営 経営体制 幕府直々 東蝦夷地 仮直轄 エトロフ島海路試乗の 船頭募集 嘉兵衛応募 経営 幕府直 々 の 経営← 経営 ← 軍事的・ 軍事的 ・ 経済的 経済的 松前× 官民兼業、 幕府の 蝦夷地御用御雇 →幕府役人 近藤重蔵 知遇委託クナシリクナシリ - エトロフ 航路開拓 ▲エトロフ島開発の幕命を受け、兵庫で物資・資材・職人の手配を行う ●持船船頭→東蝦夷 民:船長、持船、海運、輸送販売、航路開発、 1800 31 近藤重蔵に従い辰悦丸 以下5艘でエトロフ島に航海、西海岸に17ヶ所の漁場を開拓 官:蝦夷地定雇船頭、蝦夷地巡察団先導輸送、 ▲幕府から蝦夷地開拓用の官船5艘建設の命を受けて兵庫に帰る。 ※ ※ 開発費用が幕府圧迫 艦船建造・回航、漁場開拓請負、漁業、 1801 32 官船5艘を箱館に回航 ウルップ島まで★幕府の インフラ開発 幕府 の 蝦夷地巡察に従う。嘉蔵→間宮林蔵樺太探検 幕府蝦夷地定雇船頭 、 幌泉漁場請負 を命ず。三人扶持、手当金27両、名字帯刀 ※ ※ 独立採算制に転換 所謂、政商 独立採算制 1802 33 エトロフ経営 インフラ開発:築港、造船所建設 エトロフ 経営 に従事:エトロフ島アリモイに築港する ▲幕府、蝦夷奉行(箱館奉行)→ 東蝦夷地を ●事業繁忙 1804 レザノフ長崎来航 艦船建造、兵員輸送 東蝦夷地 を 直轄地 船作事場(造船場)建設 レザノフ 長崎来航 1806 37 ▲幕府の 直捌制度実施に伴い、嘉兵衛 蝦夷地御用取扱人(物産売捌方)に指名 in 27名 蝦夷地御用取扱人物産売捌方 1806-07フヴォストス蝦夷地寇掠 1809 40 ▲幕府から官船建造(45隻) の功績、ロシア来襲時の兵員輸送で功労賞 南部津軽出兵高田屋 船 ▼レザノフ暴走→ 露寇事件 1810 41 ▲幕府から、エトロフ場所請負 高田屋全盛時代 エトロフ 場所請負 を命じられる。 ← ◆高田屋全盛時代 1812 43 嘉兵衛 、観世丸でエ→箱回航中、国後島ケムライ沖でディアナ号に拿捕 拿捕される 1811 ゴローニン事件 拿捕される。ゴローニン事件に巻き込まれる。 拿捕 される。 される 。 カムチャッカへ1811 ゴローニン事件 嘉兵衛、抑留生活 嘉兵衛/リコル ド:ゴローニン釈放の協議・尽力 ●ゴローニン事件 →解決 1814 45 ゴロウニン事件解決 根室場所を請負う。 ゴロウニン事件解決 嘉兵衛、再び幕府の蝦夷地定雇船頭に。幕府功賞金5両を下賜 ●晩年 ▼幕府蝦夷地直轄支配終了 箱館本店繁盛 1821 52 ▲幕府、蝦夷地直轄支配を終了 →松前藩復領.弟金兵衛松前藩御用達に。箱館に本店 1823 54 →都志▲幕府異国船打払令 幕府異国船打払令、 オランダ語訳 1832嫌疑、33闕所、没収 都志帰郷、灌漑事業 幕府異国船打払令 、 蘭甲比丹からオランダ オランダ 語訳「 語訳 「日本幽囚記」 日本幽囚記 」 入手、邦訳 出版 1827 58 没 する。 正5位 1869 冤罪、1911正 ➊ ➋ ➌ ➍ ➎ ➏ 1. 商品経済の 商品経済の発達初期 初期 ・・・海 ・・・海運輸送・・・・・・ 輸送・・・・・・ハー ・・・・・・ハード ハード・ソフト( フト(船舶・船頭・ 船頭・経営セ 経営センス)➹ 2. 幕府の 幕府の方針:蝦夷地警備 蝦夷地警備と 警備と直轄地独立採算経営 直轄地独立採算経営・・・ 独立採算経営・・・a)造船 ・・・ 造船・ 造船・海運ハード ハード・ソフトと フトと人材ニーズ➹ ーズ➹ 内憂外患 内憂外患に 内憂外患に対処できる 対処できる人 できる人的資本 的資本、社会資本 社会資本いずれも幕府には 幕府には欠乏 には欠乏or皆無 欠乏 皆無 皆無 ←蓄積してこなかった。 応募するが希望者がいない→ すべて嘉兵衛任せ 幕府 幕府ポテ 幕府ポテンシャル ポテンシャルの ンシャルの低下 3. 司馬 司馬 : 徳川幕 徳川幕政の衰亡の 衰亡の兆しをみた。 「 。 「嘉兵衛、 嘉兵衛、頼むからや からやってく ってくれぬか。金は出す。・・・」 ・・・」 15 質問1 質問1 国後・ 国後・択捉 高田屋嘉兵衛は 高田屋嘉兵衛は 何故、 何故、北前航路 を選んだのか? んだのか? 北前航路 1)蝦夷地航海を憧れ ていた。 2)同業者の競争が少 ない。 高田屋嘉兵衛等が 高田屋嘉兵衛等が活躍した 活躍した 北前船の 北前船の航路 http://www.psycross.com/story-of-ecchuya/page6.htm : (加筆) 17 土崎:辰悦丸建造地(司馬) ・西回り 西回り航路 場所請負人(1819) ・東回り 東回り航路 ➊・地乗り航法 航法 ・ ・沖乗り 沖乗り航法 Fig. 千石船の 千石船の航路と 航路と港 「菜の花の沖」に 登場する港 ➋・航海速度 ・ ・日数 18 ➊地乗りと 地乗りと沖乗 りと沖乗り 沖乗り ①地乗 地乗り 沿岸港を 地乗り:沿岸港 沿岸港を各駅停車的に航海、夜は港泊、日数がかかる。 各駅停車的 ②沖乗 沖乗り 遠海を海流に乗って一気に航海 沖乗り:遠海 遠海 漕帆兼用船から帆走専用船 帆走専用船として 帆走専用船として迅速化 として迅速化した。 迅速化 背景:耐航性向上/船体構造艤装の改良/航海技術の向上/船磁石使用 ➋航海速力と 航海速力と日数 新綿番船と 新綿番船と新酒番船( 新酒番船(初荷特急航海) 初荷特急航海)← 帆船レース到着の順番を競う → 賭の対象/その年の立値段決定 ・ ・新綿→1694年菱垣廻船 菱垣廻船荷主・問屋による管理下 新綿 菱垣廻船 ルート:大坂安治川口→浦賀 所要日数:50時間(平均速力7kt)1859年 ・ ・新酒→1730年樽廻船 樽廻船 が菱垣廻船から独立 新酒 10~11月、1818年以降12~2月新酒、寒酒嗜好 ルート:大坂安治川口(後西宮)→品川 所要日数:57時間(平均速力6.6kt)1790年 ▲通常の 通常の日数 日数 上方←→ 上方←→江戸 ←→江戸 江戸 ・菱垣廻船、樽廻船など定期航路船や城米、藩米の輸送船が航海 ・航海日数:ほぼ10日(700/10×24=2.9km/h=1.6kt…各駅・夜間泊含) 19 質問2 質問2: 嘉兵衛 : 嘉兵衛の 商品経済哲学は? 嘉兵衛の商品経済哲学は ➊ ➋ 合商社 総 動く ➌“菜の花の沖”の意味するところがここにある 意味するところがここにある。 するところがここにある。 20 ➊商品作物の 商品作物の増加と 増加と物流: 物流:農業技術の 農業技術の向上・ 向上・効率化による 効率化による商品作物 による商品作物の 商品作物の収穫増加 ・収穫➹ 収穫➹ 年貢米+余剰米 年貢米 余剰米、 余剰米、商品作物➹ 商品作物➹ 換金性高い 換金性高い作物→ 作物→換金 換金 ・各地の 各地の産物の 産物の流動← 流動←増産: 増産:北国の 北国の産物との 産物との交換 との交換、 交換、 ・ ・動物性肥料( 動物性肥料(干しか、 しか 、金肥) 金肥)が生産を 生産を向上させる 向上させる。 させる。 生産性向上 生産性向上と 消費者への分配 経済成長と 生活レベル 生活レベルの 向上 生産性向上と消費者への への分配 分配 → 経済成長と レベルの向上 嘉兵衛 嘉兵衛の 嘉兵衛 の人生目的: 人生目的: 儲け(射利) 射利) 追求だけではなく 追求だけではなく、 だけではなく、経済を 経済を廻し、社会 を豊かにすること。 かにすること。結果として 結果として儲 として儲けがついてくる。 けがついてくる。 大千石船1500石船 大千石船 石船「 辰悦丸」建造→ 建造→持船頭になる 持船頭になる. 両・・・1.5億円 ・・・ 億円 石船「辰悦丸」 になる.船価約1500両 北前船 両/1航海 航海・・・ 回 北前船の 北前船の収益約1000両 収益約 航海・・・年 ・・・年1回 1~ 航海( ~ 2航海 航海(1~2年)で持船 持船 → 荷主・ 荷主・販売会社・ 販売会社・船主・ 船主・船長 船長 沖船頭 両程度 沖船頭( 沖船頭(雇われ船頭 われ船頭) 船頭)では儲 では儲け微少 微少 20両程度 ➋動く総合商社← 総合商社← 物流の 物流の 促進 促進 ➌司馬“ 司馬“菜の花の沖”の意味するところは 意味するところは? するところは? 商品経済( 商品経済( 資本主義経済) 資本主義経済 )のしくみ のしくみ 淡路島の 淡路島の農家→ 農家→菜の花栽培→ 花栽培→菜種油→ 菜種油→ 樽詰で 樽詰で北前船に 北前船 に→各地で 各地で売買→ 売買→蝦夷 蝦夷 地売買→ 地売買→蝦夷地の 蝦夷地の暖房・ 暖房・ 照明→ 照明→蝦夷地商品の 蝦夷地商品の収穫向上→ 収穫向上→漁業増収( 漁業増収(鮭、鱈、 鰊・・・) ・・・)→肥料干鰯・ 肥料干鰯・金肥→ 金肥→各地で 各地で販売→ 販売→各地の 各地の生産増加→ 生産増加→淡路の 淡路の菜の花の 生産増加 ・・・・・> 生産増加 →菜種油生産量増加→ 菜種油生産量増加→spirally increase・・・・・ ・・・・・ 商品経済発展 →嘉兵衛の 嘉兵衛の“商品経済哲学” 商品経済哲学”が構想の 構想の底辺のところで 底辺のところで“ のところで“幕府の 幕府の蝦夷地開発・ 蝦夷地開発・経営” 経営”と繋がり、 がり、 嘉兵衛 嘉兵衛は 嘉兵衛は幕府に 幕府に不可欠な 不可欠な人物となって 人物となって取 となって取り込まれてゆく。 まれてゆく。 21 質問3 質問3: 嘉兵衛 : 嘉兵衛を 嘉兵衛を取り巻く人脈? 人脈? 徳は孤ならず ? 「時」と「人」に巡り合ったタイミング ったタイミングの タイミングの妙 高田屋嘉兵衛の 高田屋嘉兵衛 の 人脈 高田屋グループ 廻船業など 高田屋 グループ 廻船業など 兄弟6人(資格持船船頭) 嘉兵衛 北風荘右衛門貞幹 嘉蔵 工楽松右衛門 喜兵衛 和泉屋伊兵衛 金兵衛 栖原角兵衛 嘉四郎 白鳥勝右衛門 嘉十郎 白鳥新十郎 高田屋叔父 ・・・・ 堺屋喜兵衛(廻船業) ロシア人 彦助 リコルド 七兵衛 ゴローニン 又蔵 文五郎 金蔵 嘉兵衛の家族 妻おふさ 娘 くに 息子弥吉 幕府高官 松平信濃守忠明 蝦夷地取締 書院番頭 三橋藤右衛門成方 勘定吟味役 高橋三平重賢 松前奉行、のち越前守 ・・・・ 蝦夷地探検家 近藤重蔵 間宮林蔵 最上徳内 天文学者 伊能忠敬 当時の著名人(弟子筋などで間接的に繋がる) 大黒屋光太夫 1751-1828 伊勢沖船頭1782アムチトカ島漂流 麻田剛立 1734-1799 天文学者 高橋至時 1765-1804 天文学者 間重富 1756-1816 天文学者 工藤平助 1734-1801 医者、経世家 只野真葛 1763-1825 国学者、思想家 本多利明 1743-1821 数学者、経世家 23 質問4 質問4.嘉兵衛の 嘉兵衛の魅力は 魅力は? マルチ人間 マルチ人間 人間 民:企業家、 企業家、漁師、 漁師、船頭、 船頭、船主、 船主、荷主、 荷主、海運業、 海運業、造船業、 造船業、 官 幕府定雇船頭・ 定雇船頭・場所請負人・ 場所請負人・官船建造・ 官船建造・造船所、 造船所、兵員輸送 官:幕府定雇船頭 ・ ・漁場開発・ 漁場開発・移植・ 移植・インフラ インフラ 1. 貧しい環境 しい環境, 環境,体力/ 体力/知力↑ 知力↑・研究熱心・ 研究熱心・パイオニア精神 パイオニア精神 精神 2. 事業対象→ 事業対象→蝦夷地海運・ 蝦夷地海運・商品経済 商品経済 3.事業発展の 事業発展の転機/ 転機/展開方法 展開方法 4.商業資本→ 商業資本→産業資本= 産業資本=幕府に 幕府に重用 重用 5.柔軟性→ 柔軟性→幕府が 幕府が登用 登用 6.情報収集力→ 情報収集力→地域商品市況 地域商品市況 7 7.ヒューマニスト ヒューマニスト 8.交渉( 交渉(外交) 外交)手腕 手腕 ・ ・優れた船頭 れた船頭 船頭 ← 海難事故なし 海難事故なし・ なし・優れた企業理念 れた企業理念・ 企業理念・人間的魅力 (人徳) 人徳) ・ ・幕府高官の 幕府高官の信を得る人柄 )・子弟教育・ 子弟教育・慈善家・ 慈善家・貧者側に 貧者側に立つ=アイヌ撫 アイヌ撫 育 ・ ・クリーン クリーン (3) )嘉兵衛たちの 嘉兵衛たちの乗 った千石船 たちの乗った千石船 1)経緯一般 経緯一般 ●海運環境: 大船建造禁止令( 鎖国政策( 海運環境:徳川幕府の大船建造禁止令 大船建造禁止令(1635年 1635年)と鎖国政策 鎖国政策(1639年 1639年)により 日本船の海外渡航の機会が途絶えたが、国内海運 国内海運は 国内海運は発展した。 発展 ●海運/ 海運/水運の 水運のニーズ増加 ニーズ増加 商品経済の 商品経済の発展:農業技術向上 発展 農業技術向上 農業技術向上 2)商品作物↑ 商品作物↑ → → 海運/ 海運/水運の 水運のニーズ↗ ニーズ↗ 1)年貢米の回送:西回り、東回りで→大阪、江戸 2)日用雑貨、肥料:酒、木綿、油、醤油、紙、薬種 大阪←→江戸の幹線航路 3)大量の木材:造営や土木工事のための 4) 河川の開鑿:淀川、利根川、信濃川 ●航路開発と 航路開発と利用: 利用: ・西廻り航路:日本海沿岸の諸港から瀬戸内海を通って大阪・江戸に至る航路 ・東廻り航路:日本海沿岸の諸港から津軽海峡を通って江戸にいたる航路 河村瑞賢は幕府の年貢米回漕体制を確立した。 ・1670年に東廻り航路で奥州の幕領米を江戸に回漕、ついで、 ・1672年に西廻り航路で江戸に回漕 海陸一体化輸送 海陸一体化輸送:沿岸航行の結節点である河川の河口に大きな港を整備し、海 海陸一体化輸送 上交通と河川交通および陸上交通の一体化。 24 25 2)弁財船の 弁財船の発達 ▼種類:当初、弁財船 弁財船、二形船 種類 弁財船 二形船、伊勢船 二形船 伊勢船があった。(船首形状が夫々、水押造り、 伊勢船 箱置き、箱造り) その後、弁財船 弁財船が 弁財船が発達する 発達する。 する。 ▼弁財船: 弁財船 1)弁財形和船(菱垣廻船、樽廻船、北前船として使用) 弁財形和船 構造的にはフレームなどの骨格を持たず、板構造で釘やかすがいで強固に接合された 船である。船底にバー・キール(bar keel)のように深くなった部分が追 加され横流 れを防ぐ抵抗が増加するように工夫されたものもある。 2)帆走性能 2)帆走性能 帆走性能 江戸時代以前の和船では、追い風のみで帆走とし、向かい風の場合は強風下では風待 ち、微風時は大勢の漕手が櫓で推進したが、弁財形船では横風で一番早く進むように なり、風上にも少しは推進できた。これにより風待ち時間がなくなり水夫の数も減ら すことができて運航効率が向上した。これが弁財形船が江戸時代の海運輸送システム の中核となった理由といわれている。 3)弁財形船 3)弁財形船は洋式船に比べて平水中性能は優れるが波浪中の耐航性能が劣ると云われ 弁財形船 黒船来航以降の新しい船型を発展させる発端となる。 ※弁財船名前の 弁財船名前の由来: 由来 ・中世、運漕を司った弁財使の名称から、或いは、舳先船(へさきのある船)からという説. ・弁財天:人に財と福知を与え延寿と財宝を与える。天災、地変を除滅して戦勝をもたらす。 水を神格化 26 3)弁財船の 弁財船の形状と 形状と構造 帆柱:L×□×w=27m×75㎝×6t たいまつ柱 弁財船の 弁財船の艤装 B×Φ=19m×40㎝ 弁財船の航行 (出典:福井県坂井郡三国町 “みくに龍翔館”パンフレット 舵を上げる L×t≒ 10m×10㎝ http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2000/00200/contents/055.htm 千石船鳥瞰図 前部甲板(水 密) 23 28 板を敷く (水密甲板がな い) 出典:改訂船体各部名称図 (池田勝著:海文堂) 千石船内部図 西宮市郷土資料館展示模型 Bulworkもどき、装飾 29 船首楼もどき とりはずし可 Stemへの舷側板の 接続(四通り技法) そとども 曲りが急な 船尾船側 板厚≒4cm Stem 腰当船梁、 この後に帆がある。 1000石船で 20mH×18mB 織帆木綿帆布 工楽松右衛門帆 24反帆(1反=75㎝) 出典:千石船入門 (南波松太郎著:船・地図・日和山、 法政大学出版局、1984) Transom状蓋 36 デッキ 船首 船尾 轆轤(帆を張る) 神棚 菱垣廻船「 菱垣廻船「浪速丸」 浪速丸」 船倉 なにわの海の時空間にて (野澤撮影) 38 まとも( まとも(真艫) 真艫)走り 開き走り 右舷びらき 右舷びらき まぎり走 まぎり走り (詰開き 詰開き ) (風を左舷から受けると きは逆操作:左舷びらき) JigJig-Zagに Zagに航走する 航走する 船速 帆の両側に取り付けてある孕繩(手繩・ 両方繩・脇取繩)などを操作する. 帆 (まほ:真帆) (かたほ:片帆) 舵 風向 2)和船操船法 和船操船法 39 (4) 嘉兵衛の起業場所:兵庫歴史探訪 JR神戸駅 神戸駅 高速神戸駅 嘉兵衛献納船舶安全祈願の石灯籠 ➋鎮守神社 鎮守神社嘉 兵衛献納の船舶安全 祈願の石灯籠 七宮神社 ➊竹尾神社 竹尾神社 第二国道 川崎重工 能福寺 北風荘右衛門貞幹 海運倉庫辺り 海運倉庫辺り 船大工町 顕彰碑と由緒 (5)高田屋 高田屋闕所 高田屋闕所とその 闕所とその後 とその後: 「異国船との 異国船との密貿易 との密貿易」 密貿易」の嫌疑/ 嫌疑/冤罪/ 冤罪/追賞) 追賞) 42 1)発端 発端:嘉兵衛没してから四年後の天保二年(1831)松前藩主松前志摩守章宏は後継者高田屋金兵衛 発端 の雇船船頭重蔵以下12名の乗組員を“旗合せ(船標※) を船に立てた異国船との密貿易)”の容疑で逮 捕し、江戸幕府に報告した。 ※) ゴロ-ニン釈放に対する先代嘉兵衛へのリコルドの厚意によりロシア船と“船標密約”が結ばれた。山高印の小旗 を標識として自船に立てておけば、ロシア船は赤布を出して応え、高田屋の船には一切略奪行為をしないという密約. 2)判決 判決: 判決: 江戸幕府 : 江戸幕府、 江戸幕府、勘定奉行評定所の 勘定奉行評定所の判決内容: 判決内容:天保四年(1833) ➊密貿易はなかった。 ➋船標密約を秘密裏に金兵衛(2代目)の時代に引き継いだ。 ➌禁足が命じられた金蔵を大阪店に勤務させ乗船させた。 ➍金兵衛・嘉市父子が取り調べにあたり容疑を素直に認めなかった。 判決 判決: 判決:金兵衛の追放処分と船闕所(手船すべて没収、つまり、“高田屋取り潰し” ) 嘉市、重蔵以下水夫は応分の罰を受け、金蔵は無罪放免. 3)重罪 重罪となった 重罪となった要因 となった要因 要因 密貿易容疑が晴れているにも拘らず重罪となった裏面の要因として、松前藩(松前商人)による嫉妬・怨念による陰 謀が絡んでいたのではないかという説がある。松前藩の蝦夷地支配権は慶長九年(1604)家康から藩祖慶広にお墨 付三条(北海道、樺太、千島の独占的支配と商業的特権)で委ねられてきたが、 ①高田屋の 高田屋の台頭:幕府は蝦夷地を直轄化(松前藩は上地となり武州に代償地)し嘉兵衛を定雇船頭として場所請負 台頭 人(幌別、 択捉など)としたため、商業的特権が松前藩から高田屋に移った。 ②金兵衛の 金兵衛の奢侈:彼の時代になって屋敷、調度品等に松前藩領主をしのぐ不相応の奢侈贅沢を尽くしたため、これ 奢侈 に対する悪感情などが松前藩に累積し①に加えた怨念があった。 蝦夷地直轄支配を終了(1821)し蝦夷地支配と 特権を復権した松前藩は警察権限を持つに至り、船標密約事件を機に高田屋転覆を図ったことが推測される。 4)名誉回復 名誉回復( 名誉回復(赦免と 赦免と正五位追賞) 正五位追賞) ) 1869年(M2)函館総督府から赦免、 1880年(M13)太政大臣による採録と追賞金贈賜、1911年(M44)近 藤重蔵、間宮林蔵と共に正五位を贈賜された。以上によって、高田屋の名誉は完全に回復された。 44 §2.ゴローニン事件 ゴローニン事件とその 事件とその解決 とその解決 1)背景: 背景: ●アダム・ アダム・ラックスマン来航 ラックスマン来航( 来航(1792) 1792):第1回露国公式使節団 回露国公式使節団 ラックスマンは の命により、 ラックスマンは女帝エカチェリーナ 女帝エカチェリーナ2 エカチェリーナ2世(1729-96)の により、根室国に 根室国に大黒屋幸太夫 大黒屋幸太夫 注)ら3名(1782年 遭難)を送還し 送還し通商を 通商を求めた。 めた。将軍に 将軍に直接国書を 直接国書を渡すべく江戸湾入航 すべく江戸湾入航を 江戸湾入航を要求した 要求した。 した。(幕府は 幕府は入港許可証( 入港許可証(信 牌)を与え長崎に 長崎に行くように指示 くように指示したが 指示したが、 したが、箱館にて 箱館にて3 にて3 名を引渡し 引渡し露船は 露船は帰国した 帰国した。 した。江戸湾奥深く 江戸湾奥深く入航を 入航を希 望したロシア したロシアの ロシアの態度は 態度は幕府を 幕府を大いに刺激 いに刺激し 刺激し、蝦夷地、 蝦夷地、房総・ 房総・江戸湾等の 江戸湾等の海防強化を 海防強化を各藩に 各藩に命じた。 じた。 注)大黒屋幸太夫ら17人は1782年12月神昌丸にて伊勢白子から米その他を積んで江戸に向かう途中暴風に会い、8ヶ月後の翌年8月アリュー シャン列島アムチトカ島に漂着、難破した。その後仲間がつぎつぎと死没しながら、カムチャッカを経てイルクーツクに辿り着く。植物学者キリ ル・ラックスマン(アダムの父)の絶大なる支援を受け帰国嘆願のためペテルブルグに行く。エカチェリーナ女王に謁見して帰国が許された。 ●ニコライ・ ニコライ・レザノフ来航 レザノフ来航( 1804) :第2回露国公式使節団 回露国公式使節団 来航(1804) レザノフは の命により、 レザノフはアレキサンドル一世 アレキサンドル一世(1777-1825) 一世 により、ラックスマンが ラックスマンが持ち返った信牌 った信牌と 信牌と 親書を 。 津太夫ら 1804 津太夫ら(漂流若宮丸) 漂流若宮丸) を送還し 送還し日本との 日本との通商 との通商を 通商を求 親書を携えて長崎 えて長崎に 長崎に来航(1804 来航 1804-10/8着)。 めた。 めた。幕府はこの 幕府はこの正使節 はこの正使節に 正使節に極めて冷淡 めて冷淡に 冷淡に対応し 対応し、六ヶ月間も 月間も半軟禁状態で 半軟禁状態で港内に 港内に停泊させた 停泊させた 挙句、 挙句、 国書 、 国書、 国書、贈物の 贈物の未受理、 未受理、通商拒否、 通商拒否、再来航は 再来航は不可、 不可、即退去を 即退去を言い渡した。 した。 レザノフ 。 レザノフは レザノフは 激怒して 激怒してカムチャッカ してカムチャッカに カムチャッカに回航、 回航、その後 その後、蝦夷地襲撃を 蝦夷地襲撃を準備した 準備した。「 した。「私 。「私は日本を 日本を攻撃します 攻撃します。」 します。」と 。」と 皇帝へ 皇帝へ上奏文を 上奏文を送るが許可 るが許可の 許可の到着を 到着を待たずにフヴァストフ たずにフヴァストフ、 フヴァストフ、ダヴィドフに ダヴィドフに襲撃を 襲撃を命令した 命令した。 した。↓ ●露寇事件(1807 1807) 1807 :フヴァストフらによる フヴァストフらによるサハリン、 サハリン、クナシリの クナシリの日本人部落襲撃 →ロシアの ロシアの圧倒的攻撃は 圧倒的攻撃は幕府を 幕府を震撼させた 震撼させた。 させた。幕府は 幕府は全蝦夷地を 全蝦夷地を直轄とし 直轄とし、 とし、東北諸藩に 東北諸藩に臨戦 態勢を 態勢を命じた。 じた。 蝦夷地沿岸 。 蝦夷地沿岸の 蝦夷地沿岸の警備強化のため 警備強化のため奥羽諸藩 のため奥羽諸藩3000 奥羽諸藩3000人 3000人の出兵と 出兵と3隻の艦船建造➷ 艦船建造➷を 急ぎ、露船打ち 露船打ち払い令を出した。 した。 ➸ ➸ 嘉兵衛は 嘉兵衛は、兵員輸送、 兵員輸送、艦船建造を 艦船建造を命じられ、 じられ、仙台藩の 仙台藩の用達となった 用達となった。 となった。 45 ナジェージダ号 (視聴草より 国立公文書館) レザノフ持参の長崎入航許可書 (ラクスマンが入手した信牌) 出典:特別展 「豪商 高田屋嘉兵衛」資料(高田屋嘉兵衛 展実行委員会) 2000年 Николаи Петрович Резанов ナジェージダ号(Надежда:希望) L×排水量× 檣×帆×大砲×乗組 44m 450ton 3 32枚 24門 85人 レザノフ来航:幕末の砲艦外交(WWW) レザノフ: レザノフ:優秀な 優秀な官僚、 官僚、経営者、 経営者、不運な 不運な使節、 使節、狂った結末 った結末、 結末、客死 ニコライ・レザノフは皇帝アレクサンドル一世の信頼厚い宮廷侍従長であり、また皇帝を大株主とした極東 の独占企業である露米会社の経営者であった。その発展には日本との交易が不可欠である考え、使節の 派遣をロシア皇帝アレクサンドル1世に請い、親書を携えた遣日使節団として来日した。日本人漂流民の 津太夫一行を送還する名目でラクスマンが入手した信牌を携え世界一周航海艦隊の隊長としてナジェー ジダ号でペテルブルクを出航した。南米回り太平洋経由でカムチャツカへ到着、1804年(文化元年)9月に 長崎の出島に来航した。しかし、鎖国を旨とした幕府は交渉を諦めさせるべく出来るだけ冷淡に接し半年 間レザノフたちを出島に軟禁状態で待たせあげく翌年になって通商を拒絶された。レザノフは立腹してカム チャッカに帰るが、全権大使としての対面を侮辱され交渉が進展しなかった経験から「日本に対してはもは や武力をもって開国させる以外の方法はない」と皇帝に上奏し、部下のフヴォストフに命令を出し1806年に 樺太松前藩番所、1807年に択捉港ほか各所を襲撃した。(レザノフは帰途クラスノヤルスクで客死) ゴロー ニン艦長のディアナ号が千島の海に来航したのは幕府の北方防備が急速に高まった1811年のことである。 2) )ゴローニン事件 ゴローニン事件 46 ●発端: 発端:ロシア皇帝 ロシア皇帝は 皇帝はゴローニンに ゴローニンに①世界一周、 世界一周、②ロシア領内 ロシア領内の 領内の地理学的探検/測量 地理学的探検 測量、 測量、オ ホーツク港 ホーツク港への軍品 への軍品の 輸送を命じた。 じた。スループ艦 スループ艦「ディアナ号 ディアナ号」にて1807年 にて 年7/25KS出 出 軍品の輸送を 発、1809年 年9/23カムチャッカ カムチャッカ到着 年千島海域を カムチャッカ到着、 到着、1811年千島海域 年千島海域を測量 ➊ゴローニン事件 ゴローニン事件(1811 事件(1811~ (1811~1813) 1813)発生 : ①クナシリ南端 クナシリ南端ケラムイ 南端ケラムイ岬 ケラムイ岬に上陸して 上陸して“ して“水、薪、米”の補給を 補給を依頼した 依頼した。 した。 ②幕府警備士が 名を騙して捕縛 幕府警備士がゴローニン等 ゴローニン等7名 して捕縛注) 、松前奉行に 松前奉行に護送した 護送した。 した。 注)幕府は露寇事件の再来を疑り、給依頼を了承したと見せかけ上陸したところを絡め取った。 ③リコルド副艦長 リコルド副艦長は 副艦長はクナシリ南端泊港 クナシリ南端泊港でこの 南端泊港でこの非常事態 でこの非常事態を 非常事態を把握し 把握し奪回の 奪回の機会を 機会を探る。 ➋高田屋嘉兵衛が 年8/13) 高田屋嘉兵衛がリコルドにより リコルドにより拿捕 により拿捕(1812年 拿捕 ①観世丸(嘉兵衛船長 観世丸 嘉兵衛船長) 嘉兵衛船長)泊港近海を 泊港近海を航行中、 航行中、ディアナ号 ディアナ号(リコルド副艦長 リコルド副艦長) 副艦長)に拿捕注) され、 され、ぺトロパブロフスク・ トロパブロフスク・カムチャッキーへ カムチャッキーへ連行 注)ゴローニン艦長を助け出すためには日露間外交官としての幕府高官が必要であった。 ➌リコルド/嘉兵衛 リコルド 嘉兵衛の 嘉兵衛の協力体制: 協力体制:同室に 同室に居住させ 居住させゴローニン させゴローニンの ゴローニンの冤罪を 冤罪を説明し 説明し解決の 解決の 協力を 協力を乞う。嘉兵衛は 嘉兵衛はロシア語 ロシア語を習得。 習得。紆余曲折を 紆余曲折を経た約1年後、 年後、嘉兵衛は 嘉兵衛は下船し 下船し幕 府側に 府側にフヴォストフ・ フヴォストフ・ダヴィドフの ダヴィドフの襲撃は 襲撃は私的な 私的な襲撃であると 襲撃であると説明 であると説明、 説明、ゴローニンの ゴローニンの冤 罪を求めた。 めた。1813年 1813年10月幕府 10月幕府は 月幕府は承認し 承認しゴローニンと ゴローニンと嘉兵衛の 嘉兵衛の交換釈放が 交換釈放が成立した 成立した。 した。 ➍ゴローニン事件解決 ゴローニン事件解決の 事件解決の意義 意義 →✪強国ロシア 強国ロシアと ロシアと日本との 日本との戦争 との戦争が 戦争が回避できた 回避できた。 できた。 1) )日露関係の 北辺静平なり 日露関係の沈静化 沈静化 (文化11年1814魯人と界域を定め…是より後、露船復来らず、北辺静平 北辺静平なり。( なり 徳川15代史)) 2)嘉兵衛+ 嘉兵衛+政府高官の 政府高官の連携: 連携:高品質な 高品質な民間外交の 民間外交の力 3)ゴローニン著 ゴローニン著「日本幽囚記」 日本幽囚記」およびリコルド およびリコルドの リコルドの手記が 手記が日本とその 日本とその良 とその良さを世界 さを世界に 世界に紹介 4)日露交流の 日露交流の継続(カムチャッカの三山に3人の名前を命名) ニコライ堂:イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン 47 ディアナ号 高田屋嘉兵衛 リコルド副艦長 ゴローニン艦長 ディアナ号(Диана:ダイアナ) L×B×L/B×檣×帆×大砲×乗組 40m 9m 4.4 3 32枚 24門 72人 3) )今も続く日露友好 継続する友情:子孫の集い 嘉兵衛、ゴローニン、リコルドのそれぞれの子孫が約 200年の時を経て再会した。2006年、カムチャツカ州 政府はロシア地理学会の発案を受け、ナリチェヴォ自 然公園内の3つの山を 「ヴァシリー・ ヴァシリー・ゴローニン」( ゴローニン」(1333 」(1333m 1333m) 「ピョートル・ ピョートル・リコルド」( リコルド」(1205 」(1205m 1205m) 「タカダヤ・ タカダヤ・カヘイ」 カヘイ」(1054m 1054m) と命名した。 §3. .日本の 日本の北方領土問題の 北方領土問題の経緯と 経緯と現在 50 徳川幕府、蝦夷地探検家最上徳内、近藤重蔵、海商高田屋嘉兵衛らが拓いた北方四島は世界有数の良 漁場となり、昭和20年8月15日の時点で計3,124所帯、人口17,291人の島であった。しかし、ポツダム宣言 受諾直後、ソ連(現ロシア)により侵攻・領有され、サンフランシスコ講和条約(1951年9/9)で千島列島放棄 が明文化されて以来、現在もロシアの実効支配が続いている。数度の日露首脳会談が行われてきたが日 露の主張(日本:四島一括返還主張)は平行線を辿り約60年たった今も領土問題は未解決である。最近、 ロシアの北方四島に対する開発意欲が増し積極的行動が報じられている。日本政府は「不法占拠」という 空しい言葉の抗議に終始して戦略無き弱腰外交が問われている。以下に沿って概観したい。 ① ロシア・メドベージェフ大統領の国後島訪問(2010年11月1日) ②ロナルド・ドーア氏の論評:日本の北方領土問題への対応の悪さと決着へのヒント ③サンフランシスコ平和条約では千島列島の領有をどのように記載しているのか。 ④北方四島の領有権に関する日本外務省の見解と歴史的経緯 ⑤北方領土問題の経緯:年表 ⑥サンフランシスコ平和条約における「千島列島放棄」判決の根拠 (私的意見) 、 ⑦日本のとるべき方法(私案) 図の出典:北方領土問題-Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97% E6%96%B9%E9%A0%98%E5%9C%9F%E 5%95%8F%E9%A1%8C 51 ➊ロシア・ ロシア・メドベージェフ大統領 メドベージェフ大統領は 大統領は日露係争 の地“国後島” 国後島”を訪問 (2010-11/1) 菅政権は国会で、「弱腰外交」批判にさらさ れた。日本は北方四島の返還を叫んできた が最近では論理的交渉方法を模索せず、ひ たすら、「ロシアの不法占拠」と叫ぶ政治家の 不快な姿を見るたびに稚拙で危うい日本外 交に憤慨する国民は多い。日本の歴史家・ 政治学者・経済学者は歴史的経緯を謙虚に 分析し世論に問いながら戦略的解決法を模 索することを何故しないのか口惜しく感じる。 ➋ロナルド・ ロナルド・ドーア氏 ドーア氏の論評 論評 こんな折、日本の対応を見兼ねたのか英国 の政治学者ロナルド・ドーア氏の投稿記事 「時代を読む」が東京新聞(2012-2/20付)に掲 載された。日露係争の経緯、サンフランシス コ条約判決の誤解、日本の対露交渉の拙さ、 今後のとるべき方法などが明快に述べられ ており、「正にこれだ!」と溜飲が下がる論評 であった。(日本人は自国のためにこの種の 明解な論評を何故、書かないのか。) 朝日新聞朝刊(2010-11/10) 52 ロナルド・ ロナルド・ドーア氏 ドーア氏の論評: 論評: 日本の 日本の北方領土問題への 北方領土問題への対応 への対応の 対応の拙さと決着 さと決着への 決着へのヒント へのヒント (2012-2/20 東京新聞) 54 ➌サンフランシスコ平和条約 サンフランシスコ平和条約では 平和条約では千島列島 では千島列島の 千島列島の領有をどのように 領有をどのように記載 をどのように記載しているのか 記載しているのか。 しているのか。 53 サンフランシスコ平和条約 サンフランシスコ平和条約 平和条約 第二章 領域 第二条【領土権の放棄】 (a)、(b)・・略 (c)日本国は、・・・・・千島列島 千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主 千島列島 すべての権利 権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての すべての権利、 権利、権原及び 権原及び請求権を 請求権を放棄する。 放棄 ➍北方四島の 北方四島の領有権に 領有権に関する日本外務省 する日本外務省の 日本外務省の見解 日本の 日本の見解 見解 http://www.mofa http://www.mofa.go. mofaj/area/hoppo hoppo.html mofa.go.jp .go.jp/ jp/mofaj/area/ /area/hoppo/ hoppo/hoppo.html §1.定義の 定義の問題 問題 1)千島列島:北方四島は千島列島の中に含まれていない。 2)ソ連はサンフランシスコ平和条約に署名していない。同条約の権利の主張することが出来ない。 §2.協定違反 2.協定違反 協定違反 1)第二次大戦末期の1945年8月9日ソ連は当時まだ有効であった日ソ中立条約に違反して対日参戦 2)ポツダム宣言受諾後にも拘らず、8/28から9/1までに、択捉・国後・色丹島を占領、9/3から5日にか けて歯舞を占領。 上記に 上記に対するロシア するロシアの ロシアの見解はつぎのように 見解はつぎのように云 はつぎのように云われている。 われている。 §1.定義 1.定義の 定義の問題 問題 1)千島列島には国後、択捉が含まれていることは勿論のこと、歯舞、色丹も含まれている。 §2.協定違反 2.協定違反 協定違反 1)・・・・ 2)日本が降伏文書に調印する9月2日までは日本とソ連の間ではまだ戦争が続いていたというのが ロシアの立場 であり、降伏文書調印以前の占領は合法であるという立場である。 ➎北方領土問題の の時系列年表 北方領土問題 北方領土問題の の 経緯 北方領土問題 年 月日 1798 1855 1875 1905 内容 近藤重蔵「 「 大日本恵十府」 近藤重蔵 大日本恵十府 」 標柱」 標柱 」 日露通商条約 千島樺太交換条約 ポーツマス条約 ソ 連 の 行動 1941 8月 太平洋憲章 4月 日米開戦 1942 6月 ルーズベルト親書→St 1943 10月 モスクワ会談 11月 カイロ宣言(日本略奪島取上げ) 11月 テヘラン会談 St※要望匂わす 1944 12月14日 St→米大使ハリマン ※ 南樺太、 南樺太 、 千島列島領有要求 1945 2月 ヤルタ会談 ヤルタ 会談( 会談 ( 米英ソ 米英 ソ ) 戦勝権益の分割案 ソ 連対日参戦見返 りに ドイツ降伏後ソ 4月5日 8月9日 南樺太・千島諸島ソ連に降伏 1945 20120426 野沢和男 備考 日ソ中立条約 ↑ Roo→St親書2P 1 同盟国:領土拡張の考えはない 2 Ⅰ大戦後日本が奪取した領土返 南樺太を 南樺太 を返還 、 千島列島引渡す 千島列島引渡 す 日ソ中立条約を破棄通告 ソ連対日参戦 北海道東北部の占領要求は拒否 8月14日 ポツダム宣言受諾 8月15日 玉音放送 8月28日 北方領土エコシ占領 ↓ 9月1日 9月2日 連合国降伏文書調印 1946 1月29日 GHQ指令:南樺太千島列島H、S行政権〆 9月3日 ソ連:ハ占領 ↓ 9月5日 2月2日 自国に編入併合国有化 4月 有効期間 ↓ 1951 サンフランシス コ平和条約 コ 平和条約 日本は 日本 は 千島列島 を放棄 1951 10月 1955 衆院特別委 南千島は千島に含まれると発言あり。取り消された。 日ソ平和条約交渉始まる 2、4、重光/ダレス 日ソ共同宣言発効w/o領土問題 吉田全権:千島列島侵略奪取でない固有領土 1956 54 千島、 千島、樺太の 樺太の日本領有権の 日本領有権の経緯 55 ①日露通商条約( ) 日露通商条約(1855) 国境の定義:日本北限は択捉島、 ロシア南限はウルップ島を確認 ① ②千島樺太交換条約( ) 千島樺太交換条約(1875) 日本は千島列島( シュムシュ島~ウルップ島) をロシアから譲り受ける代わりに、ロシアに対 して樺太全島を放棄した。 ③ポーツマス条約 ) ポーツマス条約( 条約(1905) 日露戦争後のポーツマス条約において日本 は樺太(サハリン)の北緯50度以南全島の部 分を譲り受けた。 ② ③ 出典:外務省の見解 外務省:北方 領土問題とは.doc http://www.mofa http://www.mofa.go. mofa.go.j .go.j p/mofaj/area/ mofaj/area/hoppo /area/hoppo/ hoppo/ hoppo.html hoppo.html 56 ④ ※ ④サンフランシスコ平和条約 サンフランシスコ平和条約 平和条約 (1951年4月) 日本はポーツマス条約で獲得した樺太の 一部と千島列島 千島列島※に対するすべての権利、 権限および請求権を放棄 放棄した。 放棄 ▲日本の 日本の見解(前掲 見解 前掲) 前掲) ) 1)千島列島:北方四島は千島列島の中に含まれて いない。 2)ソ連はサンフランシスコ平和条約に署名していな い。同条約の権利の主張することが出来ない。 ❼サンフランシスコ平和条約 サンフランシスコ平和条約における 平和条約における「 における「千島列島放棄」 千島列島放棄」の根拠 ( 根拠 (私的感想 (私的感想) 私的感想) ①サンフランシスコ平和条約「千島列島放棄」判決の根拠が明らかでないが、よく言われるように、 ② 戦勝国の「領土不拡張」を旨とするカイロ カイロ宣言 カイロ宣言(第一次世界大戦以後に日本が奪取した太平洋諸島 宣言 の領土を剥奪する)を根拠とするものであれば、千島列島は日本固有の領土(千島樺太交換条約1875 により)である故、「放棄」の条項は正しくないことになる。吉田茂全権の主張(調印時にこれを指摘した が押し切られた。)や➋ロナルド・ドーアの論評はこれに沿うものである。 また一般的な評価もこれに近い。 ③さらに、ソ連(ロシア)が行った日ソ中立条約違反による対日参戦やポツダム宣言受諾後の北方四島 への侵攻領有などの問題が問われてきている。 実効支配しているロシアにとっても後味が悪いことで あろう。 57 ロナルド・ ロナルド・ドーア氏 ドーア氏の明快な 明快な論評は 論評は日本の 日本の指針となろう 指針となろう。 となろう。 日本のとるべき 日本のとるべき態度 のとるべき態度 1)政治家、 政治家、歴史家が 歴史家が歴史的経緯に 歴史的経緯に沿い、国際法、 国際法、倫理的観点か 倫理的観点か ら ら整理・ 整理・分析して 分析して主張 して主張を 主張を簡潔に 簡潔に平易にまとめ 平易にまとめ、 にまとめ、国民の 国民の意見も 意見も問う。 2)日本の 日本の世論のみならず 世論のみならず、 のみならず、世界の 世界の世論にも 世論にも投 にも投げかける。 げかける。 3)現住する 現住するロシア するロシア人 ロシア人の立場も 立場も考慮し 考慮し、お互いの接点 いの接点を 接点を見つける。 つける。 4)受け入れ可能な 可能な妥協点を 妥協点を設定する 設定する。 する。四島返還のみに 四島返還のみに固執 のみに固執すべきで 固執すべきで はない はない。 はない。社会科学、 社会科学、人文科学、 人文科学、自然科学の 自然科学の各見地から 各見地から両国 から両国が 両国が友好 に に共存共栄できる 共存共栄できる方法 できる方法を 方法を考えることも新 えることも新しい解 しい解のひとつである。 のひとつである。 )):本件に 5)今年3 柔道を説くプーチン( プーチン(道:Путь)) 本件に並々 今年3月現プーチン 月現プーチン大統領談話 プーチン大統領談話(柔道を ならぬ ならぬ熱意 ならぬ熱意を 熱意を持っている様子 っている様子である 様子である。 である。彼曰く 彼曰く“日露の 日露の各代表が 各代表がテー ブル ブルについて ブルについて” について”よーい、はじめ“ はじめ“で発展的に 発展的にディベートするのも ディベートするのも一案 するのも一案 いずれにしても、 この この長 この長い懸案事項、「 懸案事項、「不法占拠 、「不法占拠」 不法占拠」などという 安易な 安易な言葉で 言葉で物別れに 物別れに終始 れに終始するのは 終始するのは懲 するのは懲り懲りである。 りである。明快な 明快な論 拠と相互の 相互の立場を 立場を考えてすっきりした交渉 えてすっきりした交渉の 交渉の入り口に入り、早 期に解決してもらいたいものである 解決してもらいたいものである。 してもらいたいものである。 【まとめ】 まとめ】 fine 58 1. “あの時代 あの時代に 時代に生きた人間 きた人間の 人間の中では嘉兵衛 では嘉兵衛 が一番偉い 一番偉い”(司馬遼太郎談) : 海運商品経済を発達させ、蝦夷地防備に協力し、国後・エトロフ航 路開拓・漁場開発・経営、インフラ整備に尽力したマルチ人間 2.「菜 .「菜の花の沖」の意味: 意味: 商品の連鎖反応的循環、商品経済の発展が人々の生活を豊かに 3.ゴローニン事件 ゴローニン事件の 事件の解決: 解決: 日露関係を改善、日本を世界に紹介、人間の真心 4.嘉兵衛から 嘉兵衛から北方領土問題 から北方領土問題まで 北方領土問題まで: まで: : 連綿と続く歴史があった。歴史を再考し、筋道を示し、相手の立場 も考えてすっきりした交渉の入口に入ってもらいたい。四島の相互 平和的解決を期待したい。 参考文献: 参考文献: 1. 司馬遼太郎:菜の花の沖 全6巻、文春文庫 2. ゴローニン著、井上 満訳:日本幽囚記 全3巻、岩波文庫 3. 生田美智子:高田屋嘉兵衛、ミネルヴァ書房 4. 柴村羊五:北海の豪商 高田屋嘉兵衛、亜紀書房 5. 黒部 亨:高田屋嘉兵衛、神戸新聞総合出版センター 6. 須藤隆仙、好川之範:高田屋嘉兵衛のすべて、新人物往来社 7. 特別展 「豪商 高田屋嘉兵衛」資料(高田屋嘉兵衛展実行委員会) 2000年 8. 中川清治:史伝高田屋嘉兵衛、審美社 9. 加藤貞仁、鐙啓記:北前船 寄港地と交易の物語、無明社 10. 南波松太郎:船・地図・日和山、法政大学出版局 11. 石井謙治:和船Ⅰ、法政大学出版局 12. 石井謙治:和船Ⅱ、法政大学出版局 13. 須藤利一:船、法政大学出版局 14. 安達裕之:日本の船-和船編-、船の科学館 15. 船の科学館 資料ガイド10:菱垣廻船/樽廻船 16. 関西造船協会シンポジウム:菱垣廻船を通してみるなにわの昨日・今日・明日、2000 17. 山田淳一:江戸時代の航海物語、 18. 池田 勝:改訂 船体各部名称図、海文堂 19. 賀川隆行:崩れゆく鎖国、日本の歴史⑭ 集英社版 20. 和田春樹:開国-日露国境交渉:NHKブックス 21. 木崎良平:漂流民とロシア,中公文庫 22. 桂川甫周著、亀井高孝校訂:北槎聞略、岩波文庫 23. 井上 靖:おろしや国酔夢譚、文春文庫 24. 吉村 昭:大黒屋光太夫(上)、(下)、新潮文庫 59
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