■特集 東日本大震災――検死の現場から 仙台市若林区・荒浜沿岸。大津波の犠牲者が最初 期に確認された地だ。札幌市内の医師らが現地派 遣の要請を受けたのは、巨大地震発生翌日の3月 日。明けて 日早朝に出発した3人のチームは、 同 日 午 前 に そ の 地 に 降 り 立 つ。 そ れ か ら 2 日 間、 眼前の地獄絵に立ちすくむいとまもなく感情を押 し殺して取り組み続けたのは、犠牲者一人ひとり と向き合う作業だった。検死の現場で、医師たち は何を見たのか。 (小笠原 淳) 帰路未定、綱渡りの3日間 「 両 手 を 高 く 掲 げ、 強 く 握 り 締 め て いる。多くの犠牲者がそういう姿で 亡くなっていました」 その手は、何を掴もうとしていた のか――。地震発生直後の3月 日 午後、仙台・荒浜では2百人から3 百人の遺体が見つかったと報じられ ている。 大津波が町を襲う直前まで、住民 の多くは普段と変わらぬ日常を過ご していた筈だ。札幌市医師会が派遣 いうことはありませんから、ほぼ全 を つ く っ た の は、 1995 年 の 阪 関する協定を結んでいる。きっかけ 電話を受けた。 部長=は、同日夜に木工さんからの 山悠紀士さん( れた犠牲者のほとんどが溺水死、死 方メートルのアリーナに次々と運ば いた。 翌 朝、 自 衛 隊 機 で 丘 珠 駐 屯 地 を 発ったチームは、1時間ほどでいわ いで用意しました」 日午後4時ごろ 日、宮城県警察本部から検視医 の派遣を要請された仙台市医師会は、 亡時刻はいずれも 1 THE HOPPO JOURNAL 2011. 5 . した2人の医師は、安置所に運び込 まれた犠牲者の多くが普段着だった ことを記憶している。ついさっきま た。「 電 気 不 通 に よ り 情 報 収 集 不 可 」 の報を受けた直後、札幌市医師会は 各地の医師会に緊急連絡を入れ、対 策本部を立ち上げた。 札幌市医師会の事務局次長を務め る木工明さん( )は、北海道警察医 日。遅くとも午前 日午後には先の鈴木医師の了解を 得た。出発は翌 時には札幌を発っていなくてはな らなかった。 「 移 動 手 段 が ま っ た く 思 い つ か な い。 こちらからの空路も、着陸後の陸路 も。たいへん厳しい状況でした」 札幌市を通じて陸上自衛隊に同行 する許可を得たのは、出発前日の夕 で外で遊んでいたような姿の幼い兄 員 が 津 波 の 犠 牲 に な っ た わ け で す。 神・淡路大震災。協定書では、仙台 刻。派遣されたもう1人の医師・榊 弟姉妹、近所を散歩していたと思し それも、ごく短時間で」 「明日の朝8時半までに丘珠に来て )=羊ヶ丘病院外科 い軽装の老男性。互いに手を結び合 が 被 災 し た 場 合、 札 幌 が「 第 1 支 援 組、急 う母と子は、買い物に出かけるとこ ろでもあったろうか。 派遣された医師の一人・鈴木伸和 さん ( ) =ていね泌尿器科院長=は、 3日間にわたった検死 (死体検案) の 乗り換えて正午前に現場に着く。 て花巻空港に着陸、ヘリコプターに を送信している。その2時間ほど前 分に札幌宛て電子メール ◆ 午後5時 「 ま ず ご 遺 体 を 横 に 傾 け て、 大 量 の から同地にメールを送り続けていた と思われた。 水を身体の外に出さなきゃならな かった。亡くなってから水を飲むと この時点で、帰りのスケジュール はまったく決まっていなかった。 光景を思い起こす。 60 71 札幌市医師会への、唯一の返信だっ 09 11 札幌市医師会などが参加する 大 都市医師会は、災害時の相互支援に 14 2011. 5 . 11 会を通じて2人の医師に協力を打診、 61 13 12 10 13 震災発生 2 日後、自家発電の明かりを頼りに作業を進めた (3 月 13 日午後、宮城県利府町の総合運動公園グランディ 21) =榊山悠紀士医師提供 欲しい、と。検死の器具を 12 本 部 医 師 会 」を 務 め る こ と に な っ て 検死の現場から 仙台市に隣接する利府町の総合運 動公園「グランディ 」。3740平 「死亡時刻 3月 11 日 午後 4 時ごろ」 21 11 THE HOPPO JOURNAL 2 特集 東日本大震災 49 ■特集 東日本大震災――検死の現場から 極寒、空腹、疲労、余震… 「無心に手を動かしてる間はいいん です。待機中が辛い。県警の担当者 が犠牲者の衣服を脱がせて、泥水の 汚れを丹念に落とす。それから台に 乗せられるまでの待ち時間に、ほん とにいろいろなことを考えてしまっ て…」 溺れて亡くなったことは、確認す るまでもなかった。だが、そこを確 認して一人ひとりの検案書をつくら ないことには、埋葬許可を得ること が で き な い。「 精 神 的 に も 肉 体 的 に も ギ リ ギ リ の 状 態 が 見 て と れ た 」と、 事務局の木工さんは言う。 の繰り返し。先生たちにとっては相 氷点下に迫る時期、安置所ばかりか つさえ、現場は被災地。最低気温が 界 」と、 作 業 の 苛 酷 さ を 語 る。 あ ま のパンで空腹を癒した。 常食や県警にわけて貰った期限切れ 休憩時には、出発直前に手配した非 飲 料 用 に は 僅 か し か 確 保 で き な い。 当ハードな現場だった筈です」 宿泊地でも暖房は稼働していなかっ 体ぐらいが限 遺体のほとんどが水に濡れた衣服 をまとっていたため、仙台南署の警 た。初日はアリーナに電気が届かず、 急いでも1人1日 察官たちは脱がせるのに骨を折った。 自家発電の明かりを頼りに作業にあ 「 ご 遺 体 を 検 案 し て 書 類 に 記 す、 そ 運転免許証など身元を特定できる物 たった。 耳に今も残る。無論、地元・仙台の し ょ う 」と 呟 い た 声 が、 鈴 木 さ ん の いう。「たぶん家族は生きていないで をとれぬまま作業にあたっていたと 署の若い警官は、一度も同地と連絡 市に両親と妹が暮らすという仙台南 返る。 つ こ と が で き た 」と 鈴 木 医 師 は 振 り 「 作 業 中 は、 ま だ 心 理 的 に 平 静 を 保 所の検視台で黙々と作業を続けた。 医師会から駈けつけた6人が、6カ を眼にした。 不 幸 な 再 会 も あ る。 榊 山 医 師 は、 遺族が手ずから肉親を運び込む光景 大変な思いをされることになる」 しょう。現地の先生たちはこれから に身元の確認が難しくなってくるで なかった人たちは、時間が経つほど 豊平署管内で 年間に亘り警察医 を務めている榊山医師は、「どんなに から午後7時までの作業が続いた。 時に歯科医も加わり、毎日午前9時 所 に つ き 医 師 1 人 と 警 官 4、 5 人。 しておく必要があった。検視台1カ では身体的特徴や血液型などを記録 いた。 安置し、終了後には再び並ばせてお る2人の遺体を作業直前まで並べて 決まりだが、榊山さんは親子とわか さらには、肉親とともに命を落と した人も。検視台には1人ずつ、が きたと」 われ、わざわざ私たちの所に連れて 体 の 洗 浄 に 大 量 の 水 が 必 要 な た め、 加えて、頻繁に起こる余震。さら に、充分とは言えない食糧、水。遺 寝ましたよ」 やっていけました。夜も服のまんま ような防寒着だったから、なんとか 「医師会の防災服がスキーウェアの 「机上の訓練とは違った」。 シ ミ ュ レ ー シ ョ ン し て い た 筈 だ が、 大医師会の集まりで緊急時の動きは びにまとめて用件を伝え合った。 も、 実 際 に は ほ と ん ど 繋 が ら な い。 プレイ上で〝アンテナ3本〟であって う側の人びとも事情は同じ。気仙沼 肉親の安否が掴めないことでは、救 かさえわからない」 こにいるのか、生きているのかどう 「 故 人 を 特 定 で き て も、 ご 遺 族 が ど 被害を受けた地域は、あまりに広 過ぎた。 「遺族、どこにいるのか…」 を持っていない犠牲者が多く、検案 同業者たちも、医師であると同時に 「奥さんが車の中で亡くなってるの 体。札幌・名古屋・横浜の3 被災者だった。 を発見して、区役所に死亡届を出し 事務局の木工さんは、各方面との 通信手段に窮する時間を長く過ごし から 「 総 合 運 動 場 は ま だ 気 温 が 低 く、 ご に 行 っ た そ う な ん で す。 と こ ろ が た。頼みの綱の携帯電話は、ディス 何度か奇蹟的に電波を捉え、そのた 鈴木医師はかぶりを振る。それで も、手を止めることはできなかった。 遺体の状態もさほどひどくなかっ 『検案書がないと埋葬できない』と言 もの言わぬ被害者たちが、アリー ナに整然と並ぶ。その数、常に 体 10 日時点で海から回収できてい た。 苛酷な作業、「まだ終わらない」 全身に何カ所もの傷がある人、切 断寸前まで脚を骨折した人、頭部が 3 THE HOPPO JOURNAL 2011. 5 . 2011. 5 . THE HOPPO JOURNAL 4 誰もが、黙々と作業を進めることでやっと平静を保っていたという (3 月 14 日午前) =榊山医師提供 30 医師会の理事を務める鈴木伸和医師は、現役の警察医でも ある。作業を振り返って「精神的にギリギリだった」 14 検死(死体検案)は、遺体を恙なく埋葬するための作業でもある 44 50 13 ■特集 東日本大震災――検死の現場から 立ったか。実は、条件を絞っていく 「なぜ私と榊山先生に白羽の矢が 療にあたっている。 の院長として外来・入院患者らの治 鈴木医師も、平時はていね泌尿器科 も頭を悩ませることになった。3人 派遣に伴う調整作業に奔走した事 務 局 の 木 工 さ ん は、「 ど う 帰 る か 」に 助かりました」 が一手にやってくれたんで、非常に 立錐の余地がないほど混雑し、通路 で何度も検問に遭った。福島空港は 帰途、一般道を宮城から福島まで 2時間かけて南下した3人は、途中 が求められることになるでしょう」 に 茣 蓙 を 敷 い て 横 た わ る 人 た ち も。 揃って 券を手に、着たきりの防災服でエア 辛くも全員のぶんを確保できた航空 「 わ れ わ れ が 帰 る 時 点 で、 総 合 運 動 ドゥ機に搭乗、約1時間半のちに降 とんど偶然だったという。 日夜に帰札できたのは、ほ と対応できる医師は自ずと限られて くるんです。警察医の経験があるか どうかだけでなく、急に病院を抜け 体ぐらいのご遺体がありま 過去にも1日に6件の検死を手がけ と も に 現 地 に 赴 い た 榊 山 医 師 は、 決 し て 若 手 で は な い が 体 力 は あ り、 あるか…」 被災地で健康を保っていける体力が 体制も整ってません。札幌の医師会 期・亜急性期の患者さんに対応する なった方の検死ばかりでなく、急性 まだ終わりは見えてこない。犠牲に ど の チ ー ム が 現 地 入 り し て ま す が、 した。引き続き川崎や京都、大阪な 「 現 場 は 壮 絶 で、 精 神 的 な 負 担 が あ 伏せる。 もし、また要請が来たら――。鈴 木医師は「応じる自信がない」と眼を いほどに普段と変わらなかった。 り立った新千歳の光景は、空恐ろし 場には た実績を持つ。札幌医大で法医学を 語っていた。そうした声に耳を傾け 寡黙な遺体は、津波の猛威を雄弁に な要請に応じられる立場にあった。 身のほかに5人の常勤医がおり、急 勤務する豊平区の羊ヶ丘病院には自 補 者 と し て 登 録 は し て い る も の の、 移動手段や食事の確保が気がかり 「 作 業 の 準 備 は 前 日 に 整 え ま し た が、 掴もうとしていたのか――。 て息絶えた人びと。その手は、何を 検視医とて、すべてを知るわけで はない。高く掲げた両手を握り締め ◆ くしかないでしょう」 な現場であることは確かだけど、行 「 ま た 行 く 可 能 性 は 充 分 あ る。 苛 酷 一 方 の 榊 山 医 師 は「 請 わ れ た ら 行 くしかない」と、淡々と語る。 ると思います」 う一度声がかかったらたぶん躊躇す いっていう気持ちはありますが、も まりに大きい。なんとかしてあげた る検視医は、必ずしも自然災害の犠 普段から派遣に備えて待機している だった。そのへんを全部、木工さん 「犠牲者はほとんど即死と言っていい。津波の衝撃によ るショックも大きかったでしょう」と、榊山悠紀士医師 には、今後もいろいろな形での支援 て も 支 障 な い 体 制 が で き て い る か、 15 60 修め、警察医として1967年から 牲者に接した経験を多く持つわけで た だ、 そ れ は 飽 く ま で〝検 視 医 と し て 〟対 応 で き る と い う こ と に 過 ぎ 年から はない。 い現場に赴いた経験はなく、巨大な 年以上の経験を積んだ。 検 死 で 被 災 地 に 派 遣 さ れ る の は、 一般の開業医や勤務医だ。生存者の 自然災害の爪痕をまのあたりにする 陥 没 し て 脳 を 損 傷 し て い る 人 ――。 救急治療にあたるDMAT (災害派 のも初めてのことだった。 わけではない。今回仙台に向かった ない。無事に帰ることが保証されな 遣 医 療 チ ー ム )な ど と は 異 な り、 候 80 5 THE HOPPO JOURNAL 2011. 5 . 2011. 5 . 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