65th anniversary The history of SAN-ETSU サンエツ金属 65年の歩み 新たな一歩を踏み出すとき 高岡本社工場 砺波本社工場 砺波本社事務所棟 大連三越精密部件工業有限公司 CONTENTS ■創立65年史の刊行について ……………………………………………3 コラム ■祝 辞 ………………………………………………………………………4 ・坂根家と伸銅業 …………………… 9 ■サンエツの歩み ……………………………………………………………7 ・三越金属が塩田(えんでん)経営?…11 Ⅰ 創業期(昭和12年∼昭和20年)……………………………………8 ・社名と社章(その1)………………13 Ⅱ 復興期 ① ②(昭和21年∼昭和35年)……………………………10 ・映画「伸銅物語」と「若いブラスの歌」…15 Ⅲ 高度成長期 ① ② ③(昭和36年∼昭和46年)……………………14 ・ 「時の人の幼き日」も登場…………17 Ⅳ 三菱商事傘下期 ① ②(昭和47年∼昭和56年)…………………20 ・チューリップの教え………………19 Ⅴ 更生会社(昭和56年∼昭和59年) ………………………………24 ・ブリと青木社長……………………21 Ⅵ 上場会社となるまで ① ②(昭和59年∼平成5年)………………26 ・北陸金属の歩み……………………23 Ⅶ 現代 ① ②(平成6年∼平成14年)…………………………………30 ・社名と社章(その2)………………27 ■目で見るサンエツ ① ② ③ ………………………………………………34 ・株式会社サンエツ精工について…31 ■いまを支える顔 ① ② ③ ④………………………………………………39 ・大連三越精密部件工業について…33 ■資 料 ……………………………………………………………………46 お読みいただくときの注意 1.本誌中の人名につきましては、敬称および敬語は省略させていただきました。 2.数字につきましては原則としてアラビア数字を使用しました。 3.年号は日本年号を使用しました。 4.役職名および年齢はその当時のものになっています。 2 創立65年史の刊行について サンエツ金属株式会社 代表取締役社長 釣谷 宏行 65年史の刊行に際しまして、第10代の社長として、ご挨拶を申し上げます。 さて、この度、65年史を刊行いたしますのには、2つの理由がございます。 ひとつは、当社が、これまでお世話になった方々に対する感謝の気持ちを忘れないためです。サ ンエツ金属は、現在、日本最大の黄銅棒メーカーであると同時に、日本最大の黄銅線メーカーで、 名古屋証券取引所市場第二部に上場しています。また、プレシジョン工場も保有し、世界シェア 90%を誇るカメラレンズ着脱部品のマウントなど、鍛造加工と切削加工による精密部品を大量に生 産しています。さらに、中国の大連には、100%子会社の大連三越精密部件工業有限公司と大連保 税区三越金属産業有限公司を展開しております。今話題の、環境に配慮した鉛レス合金BZシリーズ でも、他の追随を許さない最高水準の技術力を証明しています。しかし、当社がここまで、成長す るのには、65年の歳月と、実に多くの、お客様、株主様、お取引先様、地域の皆様、そして先輩社 員の皆様の、絶大なるお力添えがあったことを忘れてはなりません。こうした方々には、お亡くな りになったり、ご高齢の方もいらっしゃるようになり、記憶の風化や資料の散逸が懸念されており ました。そこで、今回、65年史の形で、永久に保存させていただくことにいたしました。 ふたつめは、65年間に培われた貴重な教訓の数々を、これからの企業運営に活かすためです。当 社のこれまでの歴史は、まさに波乱万丈の65年間でして、これを、きちんとまとめることさえでき るならば、今後に予想される激動の時代を乗り切るための、格好の道しるべになるものと期待して おりました。この目的を達成するためには、きれい事の羅列ではなく、赤裸々な事実の開示が不可 欠です。広範な資料収集と訪問による事情聴取には、特に力を入れました。調査の過程では、歴史 上の発見もありました。これまで、当社の起源は、昭和12年の阪根伸銅株式会社設立にあるとされ ており、そこから起算すると65周年に当たるわけですが、実は、その前身として、伏見伸銅合名会 社の存在が明らかになり、本当は、90年を超える歴史を持つ企業であることが分かりました。また、 これまでタブー視されてきた、労働組合との凄まじい闘争の繰り返し、業種特性である原料相場の 乱高下の実態、そして商社金融から間接金融を経て直接金融に至る金融手段の変遷についても、誤 解を恐れず、真実を、ありのまま記述するように努めました。この65年史は、当社の社員にとって の、大切な鏡として、折に触れ、活用して参ります。 末になりましたが、この65年史の編集を通して、本当にたくさんの方々のおかげで、今日のサン エツ金属が存在していることを、あらためて実感いたしました。これからも、感謝の心を忘れず、 歴史の教訓を活かして参る所存ですので、当社関係各位におかれましては、ご指導、ご鞭撻のほど、 よろしくお願い申し上げます。 3 サンエツ金属株式会社様には創立65周年を迎えられまし て、まことにおめでとうございます。 ひとくちに65年と申しますが、それは半世紀以上の長い 歳月であり、伸銅業界も戦争を含む幾多の困難に見舞われ た時期でもありました。今日の貴社のご発展は常に最新鋭 設備の導入にて近代化に心がけ、コスト低減を図られてこ られました結果によるものと存じます。今や黄銅棒・黄銅 線の分野では品質、生産量とも業界を代表するリーダーと して、業界発展のために大変貢献されておられます。あら ためまして、敬意を表するものでございます。 現下の厳しい経済環境の中にあって、日本の産業界全般 に更なる国際競争力の強化が求められております。日本企 業も世界の製造国中国へと盛んに生産をシフトしておりま すが、サンエツ金属株式会社様も、いち早く中国へ大連三 越精密部件工業有限公司を設立し、精密部品の切削、鍛造 祝辞 お取引先の方々より 加工を行われておられます。正にその先見性に富む感覚に は感服いたす次第でございます。 弊社とは、終戦直後の昭和22年頃と記憶いたしておりま すが、当時の前身三越金属工業株式会社様の時にお取引を 開始させていただきました。早や55年になりますが、主力 製品の黄銅棒は優れた快削性と、JIS規格を上回るユーザー の要求に対しても極めて細やかな対応をしていただき好評 を得ることができ感謝いたしております。また、最近では 他社に先駆けて、完全鉛フリーの快削黄銅合金(BZ3)を 市場に投入なさるなど、新製品開発においても、その高度な 技術力でユーザーの期待に応えていただいております。 厚く 御礼を申し上げます。 これからもこの65 周年をまた新たなる 出発点とされまして、 釣谷社長を中心に 100周年に向け更な る発展飛躍をされま すことを心から祈念いたしましてお 祝いの言葉とさせていただきます。 春田産業株式会社 代表取締役社長 春田 英男 4 サンエツ金属株式会社様が、記念すべき創立65周年を迎 えられましたことを、こころよりお祝い申し上げます。 創立65周年まことにおめでとうございます。 市原金属産業は、古くからサンエツ金属様にはお世話 御社におかれては、昭和12年の会社設立以来、常に積極果 になっております。御社は、常に黄銅棒・黄銅線業界ト 敢に事業展開を推し進め、今日の業界ナンバーワン企業として ップの生産量を確保し、黄銅棒の製造範囲も2ミリ∼ の地位を確固たるものとなさいました。 150ミリと幅広く、さまざまな分野に製品を供給されて 御社と佐藤金属とのお取引は、昭和30年代の前半に始ま います。また、最新鋭の間接押出機を設置され、中国・ りました。砺波工場が稼働して後、お取引量は年を追うごと 大連などにも進出しているグローバルかつユニークな企 に増大し今日に至っております。この間の、佐藤金属の社業 業であります。さらに、黄銅棒メーカーとしては数少な 発展への御社のご貢献に、従業員一同深く感謝いたしており い上場会社でもあり、豊富な資金力をもとに、着々とそ ます。この場をお借りいたしまして、厚く御礼申し上げます。 の経営基盤を固められております。これらのことは、釣 ひとくちに創立65周年と申しますが、御社はその間、一 谷圭介会長様、釣谷宏行社長様の優れたマネジメント力 貫してより高きを求め、業界のリーダーを目指し、また、平 と、歴代役員ならびに社員各位のご精進、ご努力の賜も 成5年12月の名古屋証券取引所市場第二部に上場なさること のと、敬意を表する次第です。 でその地位を不動のものとされるに至りました。その輝かし ちなみに、弊社の東部支店(静岡県浜松市)は、御社 い歴史は、日本の黄銅棒・黄銅線業界の範となるものであり の販売子会社だった東西伸銅販売株式会社の浜松営業所 ます。業界の先陣を切って中国の大連に進出し、更に近年中 の譲渡を受けたものであります。弊社の東部支店(譲渡 国における業容を拡大なさる等、その進取の精神は、65周 時は浜松支店)発足後は、浜松、静岡方面の販売にも努 年を迎える現在も、いささかも衰えることはありません。 めております。 今日、日本経済は未曾有の不況に直面し、また、製造業の 空洞化が著しく進行いたしております。しかしながら、この 今後ともサンエツ金属様のますますの発展をお祈りい たしております。 ような逆風の下にあっても、釣谷会長、釣谷社長の下、全社 員のみなさまが一丸となることで、サンエツ金属は更なるご 発展をとげられるであろうことを、確信いたしております。 当社といたしましては、サンエツ金属製品の拡販になお一 層注力し、共に幸多き未来を実現すべく、今後とも取り組ん で参る所存です。 重ねて、御社のま すますのご繁栄を祈 念し、お祝いのこと ばとさせていただき ます。 佐藤金属株式会社 市原金属産業株式会社 代表取締役会長 代表取締役会長 市原 陽一郎 5 先輩の方々からの祝辞 この度サンエツ金属株式会社が創立65周年を迎えられ、 社史が発刊されることに対し心からお喜びとお祝いを申し あげます。 このたびサンエツ金属株式会社が創立65周年を迎えられ ましたことを衷心よりお祝い申しあげます。 サンエツ金属は、昭和12年阪根伸銅として創立、昭和18 顧みますに、私は昭和21年6月に入社いたしました。当 年関東通信金属に改名、昭和22年に三越金属工業に、そし 時は小矢部川と国鉄新湊線に挟まれた約3,000坪の敷地に、 て昭和59年に現在のサンエツ金属に改称され、65周年の記 元パルプ工場の古い木造の工場と2階建の事務所がありまし 念すべき今日を迎えられました。 た。また当時の新湊線は窓のない貨物車輌しかなくそれで 通勤したものです。 この長い年月の間、幾多の難関を乗り越えて今日の繁栄を 享受して来られましたことはまことに慶賀にたえません。こ 入社後約1年間は副資材の購買を担当していました。昭和 れは偏に釣谷圭介会長をはじめ、釣谷宏行社長を中心とする 22年10月東京出張所が開設され赴任いたし、主として営業 経営陣ならびに社員各位の一丸となってのご努力とご精進の 活動を担当してから約40年間、諸先輩はじめ各方面の方々 結果に他なりません。 に大変お世話になりましたことに改めて感謝申し上げます。 この65周年を記念して発刊されます「サンエツ金属65年 その間いろんな事態に遭遇いたしましたが、特に忘れら の歩み」記念号に、沢山の諸先輩方がいらっしゃるのに、寄 れないのは昭和56年3月末残念ながら会社更生法を申請す 稿のご依頼をいただきましたことは、私にとって誠に光栄に るに至り、従業員はじめ各方面に多大なご迷惑をお掛けし 存じます。 たことです。 私は昭和31年に三越金属工業に入社し、昭和39年1月より 澤田法律管財人と再建に努力して参りました処、幸いシ 調査部が新設され、浜井部長の下で社内報「さんえつ」の発 ーケー金属㈱の社長であられた釣谷圭介会長(現)を事業 行に携わりました。その後、発行責任者は辻部長になり、昭 管財人としてお迎えすることができました。釣谷氏の斬新 和45年からは総務部に管轄が移り、見村、笹島、重村、池 な経営方針と強力な行動力の下、労使一体となり早期に更 田、二口の各部長が担当されました。この様に責任者はめま 生会社の終結ができ、北陸金属工業㈱からの営業譲渡を受 ぐるしく変わる浮き沈みの大変な時代でもありました。昭和 け、新生サンエツ金属㈱として業界で確固たる企業基盤が 47年私が三越伸銅販売へ転出するまで編集を担当しており 築かれましたことが今日の繁栄をもたらされたものと心か ましたことが、今では懐かしい思い出となっております。 ら敬意を表するものであります。 さらに第二創業期に入り株式を名古屋証券取引所に上場 日本は今や政治も経済も大変な時代に入っておりますし、 経営環境もより厳しさを増しております。65周年という会 されました。そして将来展望の下、多様なニーズと品質向 社にとって歴史的な節目を迎えられましたが、今後とも会長、 上に応えるため積極的に設備投資をされました。今や我が 社長を中心に全社一丸となって総合力を発揮され、ますます 国の黄銅棒・線では量、質とも業界トップ企業に躍進され 立派な会社に成長され、よりよい歴史を築いていかれますよ ましたことは、役員、従業員の皆様の多大なる努力の賜物 う心から念願いたします。 と敬服いたしております。 どうか創立100周年に向かって釣谷宏行社長の下、若い 経営陣によって更なるご繁栄をされますよう心から祈念申 しあげまして、お祝いの言葉といた します。 6 元サンエツ金属専務取締役 元三越金属工業調査課長 河原 正夫 越前 敏雄 サンエツの歩み 1937→2002 65th anniversary The history of SAN-ETSU Ⅰ 創業期 <昭和12年∼昭和20年> 1.会社創立・阪根伸銅時代 (1)会社の誕生 2.関東通信金属時代 (1)軍需工場として再出発 昭和12年(1937年)の年の瀬 第2次世界大戦が激しくなった昭和 も押し迫った12月25日、東京府 18年、経済は軍需経済主導となって 東京市江戸川区逆井(さかさい)2 いた。当時海軍では電波兵器の製造に 丁目28番地に一つの会社が誕生し 伸銅品を必要としていたが、種類が多 た。「阪根伸銅株式会社」と名付け い割には量が少ないので、供給してく られたこの会社から、サンエツ金 れる伸銅工場に不自由していた。佐世 属株式会社の歴史が始まる。資本 保海軍工廠造兵部長であった堀内多雄 金の30万円は、京都の名門、坂根 少将は「無線会社と合同で電波兵器用 弥兵衛の出資であった。 実 は こ の 会 社 に は 前 史 が あ る。 初代社長 坂根弥兵衛 (昭和12年∼18年在任) 堀内多雄少将 の伸銅会社を作れ」と、主力軍需会社で あった東洋通信機株式会社の木口時次 我が国では古くから伸銅品は主に 郎社長に提案した。木口社長は関東進 関西で生産されていた。当初その製法はすべて手作りだっ 出を狙っていた大阪の阪根金属商工株 たが、明治初期より次第に水力を利用するようになり、京 式会社(阪根伸銅合名会社が発展)の篠 都の白川、鞍馬、宇治等で水車による伸線、伸板の製造を 塚貞勝社長に協力を要請し、坂根弥兵衛 行うようになった。坂根家では家業として京都で阪根伸銅 の同意を得て阪根伸銅株式会社を再編 合名会社を経営していたが、八代目弥兵衛は明治末期(正 し、新会社に衣替えすることになった。 確な年月は不詳)に京都の伏見で電力を利用して伏見伸銅 こうして当社は 東洋通信機㈱ 社長 木口時次郎 合名会社を設立した。弥兵衛はこの会社を大正9年に名古 昭和18年12月1日、社名も関東通信 屋に移し名古屋伸銅合名会社とし、さらに昭和3年、関東 金属株式会社と改め再出発した。資本 大震災後の関東での業容拡大を目論み東京へ移した。この 金30万円の内、50%を東洋通信機㈱、 会社を基に設立したのが阪根伸銅株式会社であった。(京都 残りを阪根金属商工㈱、安立電気㈱、 の阪根伸銅合名会社はその後大阪に移され、後の富士伸銅 (住友金属鉱山伸銅の前身)となる。) 坂根弥兵衛が出資した。再出発時の社 長は青柳宗重(55)(東洋通信機㈱海軍 会社の場所は低地帯で雨が続くと出水し、周囲は民家が 第2代社長 青柳宗重 (昭和18年∼21年在任)顧問・少将)であった。実務の担当者 密集していた。経営の実務は弥兵衛の養子坂根鉄之助が当 として、昭和19年1月、阪根金属より たった。黄銅の棒・線・板を製造していたが、創業時既に 田中源一(33)が業務部副長として着任 月産二百数十トンを生産し、業界でも確固たる地位を築い し、工場部門は坂根鉄之助常務(後の ていた。しかし、昭和12年に起こった日中戦争を契機に経 阪根商事㈱社長)、営業・事務部門は 済も戦時体制下におかれ、銅業界も統制時代に入り、経営 田 中 源 一 の コ ン ビ で の 経 営 体 制が 確 は苦戦を強いられた。 立した。 業務部副長 田中源一 創立時の阪根伸銅㈱全景 8 創立当時の工場内 サンエツの歩み 1937→1945 製造品目は黄銅の棒・線・板で、主 な納入先は東洋通信機、安立電気であ った。経営は順調に推移し、従来の工 場では手狭になり発展性がないので移 転先を物色し、群馬県の館林に約1万 坪(3万3,000平方メートル)の土地 を求めて、工場拡充の準備を進めた。 常務 坂根鉄之助 その最中、昭和20年3月10日、東京 大空襲に見舞われ、工場は焼失し、生産は完全に停止した。 ここに当社は第一の転機を迎えたのである。 昭和18年当時の社員 (服装が時代を感じさせる) (2)戦災そして高岡へ 当時の情勢としては当社の復興は軍の強い要請であった。 筆頭常務に昇格(昭和20年2月)していた田中源一は軍需 省にかけあい工場復旧疎開命令を出させ、移転先探しに奔 走、長野県や新潟県にまで足を延ばした。同じく被災した 東洋通信機㈱の疎開先を探していた木口社長(当社の取締 役を兼務中)は、前年に富山海軍監督長に着任していた堀 内多雄少将にも斡旋を依頼した。これに対し堀内少将は軍 が捕虜収容所の候補地のひとつとしていた休業中の樺太木 材製紙株式会社の工場(高岡市吉久。現在は、伏木港港湾 道路用地として売却済)を推薦した。木口社長は早速現地 当社のあゆみ 業界の動き 1937 昭和12年 12月●阪根伸銅株式会社として 設立 1943 昭和18年 12月●商号を関東通信金属株式会 社に変更 1945 昭和20年 3月●東京大空襲により、工場焼 失し、生産完全停止 6月●軍需省の工場復旧疎開命令 により、富山県高岡市吉久 (現本社所在地)に工場を 移転 を視察したが、通信機工場より伸銅工場に適していると考 え、田中常務に使用することを勧めた。田中常務は現地を 視察のうえ、所有者と交渉し、ここに移転先として高岡の 地が確定した。 空襲の被害は工場設備だけでなかった。家を焼かれ、親や ●坂根家と伸銅業 我が国の歴史では、永く政治、文化の中心は京都であった。 妻子を失った従業員も多かった。田中常務は、工場焼け跡に 多くの産業も京都周辺で起こり、やがて大阪、東京へと産業 茫然自失の態で佇むこれらの従業員を叱咤激励し、小岩にあ の中心地は地方に移っていった。 った自宅の向かいを宿舎とし、移転作業を陣頭指揮した。昭 伸銅業も京都で起こった。銅業界で坂根家といえば、京都 和20年6月、焼け出された機械や工具、原料や半製品を約 の伊東家(現伊東伸銅所)とともに屈指の歴史を持つ家系で 50輌の貨車に積み、高岡の吉久へ移転した。従業員の中か ら会社と運命を共にする意気込みのある者約20名(女性を 含む)が、着の身着のまま付き従った。列車が上野駅を発っ たとき、 「東京から脱出できる」と一様にホッとしたという。 ある。宝歴年間(1751年頃)、大阪の阪根家とともに丹波、 山家(やまが)より京都に出て、既に名字帯刀を認められ、 徳川幕府の許可を得て銅座を営み、以来代々「弥兵衛」を名 のり銅・真鍮・地金を扱ってきた。 「黄銅の歴史」(森本芳行著)によると江戸時代(1800 年)の真鍮屋仲間の名前書(名簿)に、真鍮仲買仲間として 「寺町綾小路(あやこうじ)下ル町 富士屋弥兵衛」と弥兵 衛の名前が載っている。また明治16年刊行の「都の魁(さ きがけ)」にも地金商の部に「綾小路麩屋町(ふやまち)角 坂根弥兵衛」と記録されている(阪根商事株式会社「創立 40周年記念誌」より) 。 本文にあるように、京都にあった阪根伸銅合名会社が大阪 に移りやがて富士伸銅㈱となる。大阪にあって何故「富士」 なのか疑問だが、江戸時代の屋号の「富士屋」が由来と推定さ れる。その富士伸銅が住友金属鉱山伸銅となり、平成12年4 月にサンエツ金属は、同社の黄銅線事業の営業譲渡を受けた。 これも因縁と言えよう。 発祥地の現姿(東京都江戸川区平井2丁目19番∼22番) 9 Ⅱ 復興期① <昭和21年∼昭和30年> 1.北陸の地に根を下ろす (1)生産再開 移転先高岡は、水豊かで田には稲穂がそよぎ、戦時下と は思えぬのどかさであった。工場予定地には、国鉄(現J R)新湊線を挟んで約7,000坪(2万3,000平方メートル) の土地と、小矢部川沿いに2階建て事務所と平屋建て工場 が各1棟あった。移転した従業員は源平町の平野様宅を宿 工場焼失を報じる新聞 (昭和23年1月30日北日本新聞) 舎(終戦後は吉久に寮を購入し移転)に共同生活をした。 生産開始までの間、焼け残った黄銅棒で作ったキセルや条 で作った急須や湯沸かしを売り、糊口をしのいだ。 作業は東京から運んだ機械の据え付けから始まった。大 阪の阪根金属は足りない機械を提供し、不足していたロー ル職人を社命により派遣した。こうして昭和21年2月、銅 線の引き落しから生産を開始した。立釜より引かれる銅線 の上がり具合を、皆が感慨ひとしおの気持ちで見守った。 以後6月にはるつぼ炉熔解にて糠型(ぬかがた)鋳造も稼 働、夏頃までに棒・線・板とまがりなりにも全品目の稼働 を開始した。また昭和22年3月に低周波誘導電気炉が稼働 し、 板が金型製法に転換した。設備近代化の第一歩であった。 (2) 関東通信金属から三越金属工業へ 焼失後、一夜明けた工場 全に再開するのは同年12月であった。建設資金は同和火災 昭和21年12月に代表取締役に就任した田中源一常務 金沢支店の尽力により支払われた保険金を中心に、運転資 (36)のもとへ阪根金属やその取引先の社員が幹部社員とし 金は相談役に就任していた堀内多雄の尽力で受けた日本興 て集まってきた。また、生産開始の前後から地元の採用者 業銀行富山支店からの緊急融資等で賄った。 も多くなり、いつまでも高岡の地で関東通信金属ではふさ わしくないだろうということで、社名の変更が図られた。 新社名は、阪根金属の小関徹雄専務の発案で三越金属工 また、昭和24年5月、当社は国家総動員法にもとづく物 資調整令違反の嫌疑を受け、多額の付加税を課せられる事 態も発生した。 業となった。「三越(さんえつ)」は越前、越中、越後から きており、疎開企業ではなく、名実共に北陸の地に根を下 (4) 基礎固め ろす決意を内外に宣言することにもなった。この意気込み 話は前後するが、生産が軌道に乗ったので、自社直接販 は、正式に新社名に改めた日、昭和22年の5月25日を 売体制の整備に着手した。昭和21年10月高岡駅近くの桜 「会社創立記念日」に指定したことにも表れている。 馬場に高岡営業所(初代所長森徳郎(28))を開設した。銅 線は瓦つなぎ用として、板はキセルや急須の材料として地 (3)工場焼失 気銅など原料や副資材、電力等の調達には割当切符の入手 日の工場火災である。夜8時半頃製品倉庫から出火、「倉庫 が必要であった。このため昭和22年10月東京出張所(所 内の電気器具などの製品を全焼し隣接工場にも延焼、計2 長は阪根金属の松浦出張所長が兼務)を開設、駐在員とし 棟552坪を全焼、9時半鎮火した。損害は2,920万円、原 て赴任した河原正夫(22)は製品販売と割当切符の入手に商 因は倉庫内の暖房用ストーブの煙突の過熱」(北日本新聞1 工省(現経済産業省)鉱山局へ日参した。引き続き、昭和 月30日付)とみられた。当日は田中源一専務(22年10月 23年12月に大阪出張所(初代所長岩崎安弘(26))を開設、 就任)以下役員が全員出張中の惨事で、生産活動は完全に 名古屋方面も統括させ、ここに製品の販売網、原材料の調 ストップした。 達網の基礎が確立した。なお、高岡営業所は昭和22年12 「起きたことは仕方がない。一日も早く再建だ!」焼け跡 に集まった従業員を前に急遽帰社した田中専務の声が響く。 10 元でも結構な需要があった。厳しい統制経済下にあって電 新生三越金属に思わぬ災難が起きる。昭和23年1月28 月15日に「富源商事株式会社」(代表取締役森徳郎、資本 金19万5,000円)として分離独立した。 空襲を経験した従業員の機転で、消火活動中水がかからな 一方工場では生産技術の確立に着手した。生産開始当初 いよう守ったロールは健在だった。旬日を経ずに生産出荷 は棒・線は「東京組」、板は「大阪組」の職人芸で生産して を開始したが、火災前より立派な工場が完成し、生産が完 いた。その後阪根金属から技術幹部が参加し、昭和25年、 サンエツの歩み 住友電工出身の萩原博(42) 当社のあゆみ が取締役として加わること 業界の動き 1946 昭和21年 で近代化を促進し、 早くも昭 和26年9月には日本工業規 格(JIS)表示工場の許可を 取得(棒・線)、技術的にも一 流企業の仲間入りを果たした。 昭和26年11月30日に 開催された臨時株主総会で 田中源一(41)が代表取締役 1946→1955 執務中の堀内多雄常務 社長に就任し、新たに代表取 締役常務として萩原博(製造・技術担当)、堀内多雄(56)(総務 担当)の2名が就任、これに木口時次郎が取締役会長(非常 勤)となることで経営体制が確立した。 この時期、日本経済は戦後の混乱と不況を経て復興へと 向かっていた。伸銅業界も昭和24年に割当切符制が廃止さ れた。このような中で当社も生産規模は当初月産100トン を超せなかったものが、昭和30年には月産250トンにま で伸び、資本金も昭和20年の30万円から昭和27年には 2,500万円に飛躍した。筆頭株主は阪根商店であったが 50%を割り、田中源一や木口時次郎ら役員や取引先の持株 比率が増加した。 2月●移転先にて本格的に生産を 再開 10月●高岡営業所を開設 1947 昭和22年 5月●商号を三越金属工業株式会 社に変更 10月●東京都中央区に東京出張所 を開設(昭和34年1月営業 所に昇格) 12月●高岡営業所を分離独立さ せ、富源商事株式会社を 設立 1948 昭和23年 1月●失火により、工場焼失し、 1月●日 本 伸 銅 協 会 創 立 総 会 生産停止 (28日) 12月●全工場復旧工事完了、全般 10月●日本伸銅品問屋組合連合 にわたり生産再開 会設立 ●大阪府大阪市南区に大阪出 張所を開設(昭和25年10月 23年度生産量7万601トン、 営業所に昇格) 従業員数1万5,884人 6月●指定生産資材割当規制改正 1949 昭和24年 で伸銅品、裸電線など割 当切符制廃止 9月●伸銅品、電線、非鉄金属の 故屑など統制価格廃止 1951 昭和26年 9月●日本工業規格表示工場に許 可される 3月●伸銅業、合理化促進業種に 1952 昭和27年 指定 1953 昭和28年 11月●私設保税工場の指定を受ける また業界活動では昭和23年の日本伸銅協会の創立に理事 会社として参加している。 (5)労働組合の結成 昭和21年の労働組合法の制定により、全国各地に労働組 合が組織された。当社でも昭和22年5月関東通信労働組合 として結成された(組合長荒浜才吉)。中央組織との関係で は昭和26年7月に全国金属労働組合(全金)に加盟してい る。また、昭和28年11月には業種別組織の全国伸銅労働 組合連合会(全銅連)にも加盟した。全国金属労働組合の ●三越金属が塩田(えんでん)経営? 高岡で操業を開始した昭和21年はじめ頃は、終戦直後の 混沌とした時期であらゆる物が不足していた。原料や副資材 掲げる先鋭な思想や理論は当社の若い労働組合役員に新鮮 の入手には相当の困難があった。当時鋳造工場の脱酸用に塩 で強烈な影響を与えた。全金加盟がその後の当社の労働組 を使っていたが、割当配給の量では不足した。そこで不足分 合の方向性を確定づけたと言っても過言ではない。 を補うため、雨晴海岸に「関東通信㈱雨晴製塩所」を開設し 全金や全銅連への加盟をめぐっては、大阪の富士伸銅労 働組合の影響が大きかったと言われている。 た。2名の専従者をおき、日夜塩の増産に励んだ。できたの は赤黒い岩塩のようなものであったが、脱酸用には十分であ った。もちろん従業員も物不足で困っていた。そこでできた 塩の一部が従業員にも食用として分配された。昭和24年頃に なり塩の配給が十分に受けられるようになると、雨晴製塩所 は閉鎖された。 また、当時残業者には雑炊(ぞうすい)が出された。配給 米では足りないので庶務課では米の調達に苦労した。ある時、 氷見の村で大量に米が入手できた。陸路より海上輸送が安全 と考え、船で吉久に向かったところ、伏木海上警察署の警戒網 にひっかかりあえなくヤミ米は没収となった。新聞に社名が 出ないよう警察に頼み込むなど苦労の連続であったと言う。 昭和23年メーデーに初参加した労働組合 11 Ⅱ 復興期② <昭和31年∼昭和35年> 2.着実に発展の基盤を築く 昭和20年代に経営体制の整備と、生産、販売体制の基礎 づくりに着手した当社は、昭和30年代に入りその動きを加 速した。 (2)4段圧延機導入をめぐって この芝浦共同工業製4段圧延機の導入は当社にとり因縁深 いものとなる。まずこの圧延機は「出物」であった。当時高 岡市の有力企業であったアルミの北陸軽金属工業㈱(新日軽 (1)生産設備の近代化 ㈱北陸製造所の前身)は事業拡大を図って4段圧延機を2基発 まず、棒・線設備では昭和31年 注したが、その後の社内検討で1基キャンセルとなったもの 12月に、川副機械製の「1,500 が、当社に紹介されたのであった。この経過の中で北陸軽金 トン水圧押出機」を設置した。 属工業での発注責任者であった竹平政太郎専務(当時)は同社 これにより従来の糠型製法より を退職し、新たに三協アルミニウム工業を設立することになっ 押出製法へ画期的に転換した。 たと言われている。 (後に竹平氏は高岡商工会議所会頭として その後昭和32年には棒用に抽伸 昭和57年の当社危機に際し重要な役割を演じることになる。 ) 機と低温軟化炉を、線用に仕上 当社にとり4段圧延機の導入は突然であった。資金手当に 伸線機を設置し、さらに翌昭和 窮した田中社長は、原料地金で取引のあった三菱商事富山支 33年には棒用にストレートテン 店に要請し、必要資金1億3,600万円の融資を受けた。この パーを設置し、品質、数量両面 融資こそ、その後永きにわたって三菱商事が当社の経営に関 における発展の基礎とした。 与する遠因となる。 条用設備でも大きな進展があ った。昭和32年1月に自社開発 のスラブ(鋳塊)の「半連続鋳 造機」を設置し、鋳塊の大型化 による品質の安定と生産性の向 上を図った。同機の設計は萩原 常務の勧めで三宝伸銅より転じ 当社カタログ第1号 た辻昭治(30)が当たったが、国 内最初の連続鋳造機で業界で注目されるところとなった。さ らに、昭和35年4月に、芝浦共同工業製の「280φ4段圧延 機」を導入した。これに昭和36年に設置した「ローラーハー ス式連続軟化炉」 、自社製「連続酸洗装置」が加わり条用設備 昭和30年代の高岡駅前 での一流企業の仲間入りを果たした。 また昭和32年秋からアルミ合金の生産にも着手し、一部製 品化も果たした。しかし1基の押出機を黄銅とアルミの押出 に併用するには品質上問題があり、撤退を余儀なくされた。 (3)諏訪金属の設立 一方販売網の整備では、昭和31年11月に諏訪金属㈱(田 中源一社長、資本金150万円)を設立した。当時、諏訪・岡 谷地区は光学器械やオルゴール等の精密工業が盛んであった が伸銅品の専門問屋はなく、当社を含め専ら東京からの出張 販売で対応していた。出合四郎営業課長(38)の市場調査の結 果を受け、当社は他社に先駆け販売拠点を設けることとした のであった。設立に当たっては地元販売先の感情を考慮し、 当社の営業所でなく地元の名前を冠した別会社とした。 (4)規模の拡大 会社の規模も拡大した。昭和31年に木造モルタル塗りの新 事務所を建設、正面入口を加越能軌道(現万葉線)側とし、 昭和32年8月には資本金を1億円とした。同年の定期採用者 は大卒・高卒・中卒含めて32名を数え、従業員数は臨時工を 新設された1,500トン水圧押出機 12 含め400名を突破した。また経営陣では昭和31年5月に北陸 サンエツの歩み 1956→1960 小矢部川からみた工場全景 銀行出身の松井庄一郎(59)が常務として加わり、昭和33年5 月に堀内多雄が退任するという大きな変動があった。 一方労働組合は昭和31年から「春闘」を全銅連で統一的に 取り組むようになった。また、昭和35年の日米安全保障条約 の改定期に向けての全国的な反対運動の盛り上がりの中で、 全金の方針に従い政治課題にも取り組むなど、会社の枠を超 えた活動が増えてきた。このような中、昭和33年4月に釣正 一副委員長(35)が新湊市議会議員に当選した。幹部の地方政 界への進出は、その後の労働組合の活動方針の中で選挙対策 (集票活動)が大きな比重を占めるようになるなど、少なから ぬ影響を与えたと思われる。 当社のあゆみ 業界の動き 1956 昭和31年 11月●販売子会社として、諏訪金 属株式会社を設立 12月●川副機械製1,500トン水圧 押出機を導入 1957 昭和32年 1月●自社開発による黄銅条の半 連続鋳造機を設置 1958 昭和33年 5月●棒工場に自社開発によるス トレートテンパーを設置 1959 昭和34年 1960 昭和35年 4月●黄銅条設備の充実を図る(芝 浦共同製4段圧延機、ローラ ーハース式条連続焼鈍炉、 自社製連続式酸洗装置) 1月●伸銅業労働災害統計調査を 実施 4月●電気銅初の外貨割当輸入 実施 4月●全国伸銅工業組合設立 10月●第1回伸銅品生産調整実施 7月●伸銅品輸出振興会発足 この時期忘れられないのは昭和33年4月の労災事故であ る。当時スクラップの選別作業は自社で行っており、その作 業中混入していた異物が暴発し、女子従業員2名の貴重な人 命が失われた。 ●社名と社章(その1) 関東通信金属の社名を改めるとき、田中源一社長には一つ の腹案があった。それは「北日本伸銅株式会社」であった。 田中社長は筆頭株主の阪根金属小関専務の了解を得るべく大 阪へ出張した。小関専務は早速辞書を取り出し、「三越金属」 が良かろう、と応えたので、田中社長は北日本伸銅を言い出 せないままになった。帰社後役員会で新社名が了承された。 社章については、阪根伸銅時代、関東通信金属時代にどん な社章を使用していたかは、残念ながら記録に残っていない。 三越金属になり最初に制定された社章は下図のように三本線 の輪の切れたところにカタカナで「エツ」とはいったもので あった。「三エツ」と社名をもじったデザインで、かつてよ く使われた方式だが、カタカナになっているのがナウい。何 新装なった事務所と正面入口 時制定されたかは定かではないが、昭和23年のメーデーに 参加した労働組合の隊列の先頭にこの社章を書いた看板があ ること(11ページ写真)を見ると、多分社名変更とともに 定められたのだろう。 次に定められたのが三本線の輪の中に「S」をいれたもの であった。三越のSの字体に工夫がこらされている。制定は 新社名10年目の昭和32年で、昭和59年8月まで使用された。 会社創立記念慰安会で人気絶頂の松山恵子ショー (昭和36年) 昭和22年∼昭和31年 昭和32年∼昭和59年 13 Ⅲ 高度成長期① <昭和36年∼昭和40年> 1.順調な業容拡大のなかで 戦後15年を経て、我が国は「高度経済成長期」に入り、 神風が吹く」といわれた相場頼みの業界体質に当社も影響 一路拡大路線を進む。当社の業容も拡大を続けるが、内部 を受けていたことが背景となっていた。このためともすれ に病巣も芽生えていた。この時期の初期対応の遅れが会社 ば職場における効率化に向けた地道な努力をなおざりにし の根底を揺るがすことになっていく。 がちになり、労働組合の分不相応な要求にも安易に応じが ちになった。一方労働組合は昭和36年5月に県下の4労組 (1)三菱商事との取引基本契約書の締結 で全国金属労働組合富山地方本部を結成しその委員長組合 当社と三菱商事との取引は昭和29年9月頃から始まって となり、総評(日本労働組合総評議会)の拡大や三井三池 いた。黄銅の条と線を製造するには大量の電気銅と電気亜 争議に代表される労働運動高揚の中で当社の労働組合もそ 鉛が必要で、当社の製造規模拡大につれ、三菱商事富山支 の影響を強く受け、活動を先鋭化させていった。「春闘」や 店ではトップクラスの取引先になっていた。4段圧延機の 夏、冬の「一時金」交渉の際には争議行為として会社正門 資金の融資を受けるに当たり、昭和36年5月26日付で同 に組合旗が立ち、組合員ははちまき姿で就労し、時間外労 社との間で取引基本契約の確認書、根抵当権設定契約書、 働拒否やストライキが頻繁に行われるようになっていた。 および債権債務相殺契約書が取り交わされた。 この病巣は昭和37年7月期決算(当時決算期は7月31日) で一気に顕在化し、9,900万円の経常赤字を出した。会社 (2)近江伸銅の設立と拠点の整備 この頃関西地区には切削加工品等の「挽物業者」が数多 幹部は事態を憂え打開策を模索していた。昭和37年1月に 製造課長代理に昇進した二口光興(36) は、初めて出席した く立地しており、そこでは旧来の糠型製法による棒が好ま 管理職会議で「こんなことをしていては会社が潰れる!」 れ、一定量の需要が存在していた。田中社長は押出機導入 と発言し物議を醸した。田中社長は により遊休になった糠型ラインを有効活用しこの需要の開 「会社はそんなに簡単には潰れないよ。 」 拓に当たろうと図った。そこで需要地に近く開発の遅れて と諭す一方、対応策の策定を命じた。 いた滋賀県水口町で用地を取得し、工場建設に当たった。 二口光興を中心に若手管理職の手で人 当初当社滋賀工場とする案もあったが、現地で採用する従 員再配置を内容とする再建計画が策定 業員の感情も考慮し、糠型棒専用の別会社、近江伸銅㈱ された。作成年に因み「37計画」と (田中源一社長、資本金1,500万円)として昭和36年8月 呼ばれた計画の完全実施を目指し会社 に設立した。 また、東西の営業所では受注体勢の拡大と強化を図るた 第3代社長 田中源一 (昭和26年∼46年在任) 幹部が職場説明に入ったが、労働組合 の強い抵抗にあい、実施できなかった。 め、取引製品問屋の組織化に着手した。昭和36年に「東京 社長はじめ役員、管理職層の危機感の欠如がここでも露呈 三越会」、「大阪三越会」を相次いで結成し、また相場変動 した。こんな中、昭和38年初頭この地を襲った「38豪雪」 が激しい中で原料の安定購入を図るため「東京三越原友会」、 が追い討ちをかけ、会社の機能は完全にマヒした。同年7 「大阪三越原友会」を結成し協力を求めた。 月期決算では1億7,000万円の経常赤字を出し、遂に債務 超過に陥った。なお、この会社決算の実態は一部の幹部段 (3)棒・線設備の強化、連続生産化 押出機の導入の効果を生かすため、昭和38年7月に自社 階に止めおかれ、従業員はおろか、融資を受けている三菱 商事や取引銀行にも秘せられた。 開発による棒・線ビレットの半連続鋳造機を設置した。さ らに39年12月に連続伸線機(AH-6、CD-550)、連続抽 伸機(CM)が設置され、棒・線の品質安定と生産性の向 上が図られた。この結果昭和40年には月産平均900トン (棒290トン、線380トン、条230トン)に達した。従業 員は500名を数えていた。 (4)しのびよる破局と「37(さんなな)計画」 順調に業容を拡大する陰で病巣が生まれていた。品質と 生産性の向上を目指し次々と設備投資を行いながら、一方 で従業員数も増加して、期待した収益上の効果は十分得ら れないまま推移していた。これは右肩上がりで拡大を続け る需要を背景に、市況性の強い銅を原料とし「十年に一度 14 屋根まで雪に埋もれた「38豪雪」 (高岡工場、屋根の雪おろしが仕事だった) サンエツの歩み 当時の出勤風景 (高岡工場正門、自転車と電車通勤が主力だった) 1961→1965 当時使用していたカタログ (5)社内報「さんえつ」の発刊 当社のあゆみ 昭和39年1月の組織 1961 昭和36年 6月●三菱商事株式会社と取引基 本契約締結 8月●糠型製法による黄銅棒専業 メーカー近江伸銅株式会社 を設立 1963 昭和38年 7月●自社開発による棒・線ビレ ットの連続鋳造機を設置 1964 昭和39年 12月●線および棒の連続式生産シ ステムが稼働する(連続伸 線機(AH6)、多頭連続伸 線機(CD-550)および連 続抽伸機導入) 改編で誕生した調査部 より社内報「さんえつ」 が発行された。目的は 「従業員とその家族を含 めた会社との一体感、 融和を図ること」であ った。会社として現状 を打開する施策の一環 業界の動き 9月●映画「伸銅物語」完成 3月●伸銅品市況回復。黄銅棒に 始まり板、管へ波及 でもあった。これに対 して一部の労働組合活 ●映画「伸銅物語」と「若いブラスの歌」 動家と呼ばれる従業員 からは、「あれは会社の 社内報「さんえつ」創刊号 古代から人間生活に不可欠な金属でありながら、伸銅品は 紙爆弾だ」との執拗な 一般に認識されておらず、「伸銅品」の用語自体が理解され 干渉が入ったが、担当の越前敏雄係長(32)と社内報編集委 ていなかった。日本伸銅協会では広く社会に周知することが 員会の執念ともいえる頑張りで毎月16∼20ページ建てで 発行されていった。会社の機関誌として、従業員・家族の 急務と考え、昭和34年に協会内にPR委員会を設けた。PR 誌の発刊等とならんで、オールカラーのPR映画「伸銅物語」 が制作された(昭和36年)。監督・古賀聖人、撮影・岸寛身、 親睦の場として確実に役割を果たした。(一部中断期間を挟 音楽・古関裕而と劇場映画並みで、フィルムも35ミリ(通 み昭和53年1月の128号まで続く) 常は16ミリ)で当時としては画期的な作品であった。また 発刊間もない「さんえつ」に社葬の記事が二つ載った。 一つは昭和39年3月13日会社構内踏切で起きた労災事故 である(当時高岡工場は拡張の結果、鉄道線路を挟んで建 っており、構内に踏切があった)。フォークリフトで構内運 挿入歌として「若いブラスの歌」(作詞・和田隆夫/作曲・ 古関裕而)がつくられ、当時「喜びも悲しみも幾歳月」で人 気のあった若山彰が歌った。初めての伸銅品のコマーシャル ソングであった。一番の歌詞は、 若いそよ風 ブラスと呼んだ 搬中であった米林八良さん(32) が列車に巻き込まれ死亡し ブラス ブラス ブラス たのであった。もう一つは昭和40年2月27日木口時次郎 あまいムードの 素晴らしさ 会長(74)が逝去された。東京池上の本門寺で行われた当社 胸のブローチ ルージュのケース 創立の功労者の葬儀の模様が伝えられている。 みんな輝く ブラスカラー ブラス ブラス 夢も楽しい 伸銅品 いかがですか? 15 Ⅲ 高度成長期② <昭和41年∼昭和46年> 2.高度経済成長のかげりと当社の混迷 (1)販売拠点の拡大 三菱商事との関係が強まると同時に同社を窓口とした営 業展開が進み、九州地区、浜松地区にも広がった。この中 で昭和42年3月に浜松営業所を開設、同年4月には大阪営 業所を翌43年5月には東京営業所をそれぞれ支店に昇格さ せ、続いて44年7月に名古屋支店を開設し販売網を強化し た。この営業展開は焦付き債権を生んだが、田中源一社長 はそれらの販売先を次々と配下に納め当社のネットワーク に組み込んでいった。しかしこの一見積極的に見える営業 政策は人材の拡散と、不良債権の蓄積を生み、当社の体力 東京三越会の慰安旅行 (昭和42年) を弱めることにもなった。 電による黄銅条の連 (2)景気変動と「43計画」 高度経済成長のかげりで昭和40年は深刻な不況に陥った 続焼鈍について」 (辻 が、41年に入り「神風」が吹いた。産業界全般の需要回復 昭治、日南田敏衛共 に加えベトナム戦争の激化で銅価格が暴騰し、市中電気銅 同研究) が選ばれた。 のトン当たり価格が一時85万円になり、製品価格も暴騰し ま た 、昭和44年の た。当社は41年7月期決算では3億2,700万円の経常利益 叙勲で田中源一社長 を上げ、債務超過を一気に解消した。しかし銅価格の落着 は伸銅工業の発展に きと共に収益は再び悪化し、42年以降経常赤字と債務超過 尽くしたとして、藍 が続いた。年間金利負担は2億円を超えていた。 綬褒章の受章の栄 昭和42年5月25日、三越金属工業に改称して20周年を 日本伸銅協会伸銅技術研究会 第1回技術論文賞表彰状 に浴した。 祝う式典が高岡市民会館で盛大に行われた。挨拶に立った 田中社長は「のんびりムード」を打破し「生産目標を達成」 し「自らの職場は自らで守れ」と訴えた。 (3)幻の「岐阜川辺工場」と砺波工場 深まる経営危機の中にあって当社は2,500トン押出機を 中心とした黄銅棒の新鋭工場を建設し、拡大した生産力で 事態を打開しようと図った。労働組合の影響が及ばず、ま た消費地に近い土地でというのが条件であった。 昭和43年中頃その候補地として岐阜県加茂郡川辺町が挙 がった。関西・東海地区の市場への近さに魅力を感じた当 社と、地域の活性化を目指す町当局の思惑が一致し、調印 寸前まで進んだ時、木曽川で工場排水によるアユの大量死 が発生した。候補地は飛騨川沿岸であり公害防止上問題が あるとして、当社から白紙に戻した。真の理由は、従業員の 昭和42年5月の創立記念慰安会 配置転換をめぐる労働組合の反対と資金調達問題であった。 代案として砺波市太田地区と富山新港工業団地が挙がっ また同年12月に資本金を2億円に増資した。この増資で たが、太田土地改良区の協力姿勢と地価の関係で砺波市 田中源一が筆頭株主(7.5%)となり、阪根商店が株主名簿か (現在の砺波本社工場の場所)に決まった。昭和44年夏であ ら姿を消した。代わって取引先で、当社が経営に深く関与 った。 していた大阪の大幸商店や関係会社の近江伸銅、諏訪金属等 が持株を増やした。また、三菱商事も株主(2.5%)となった。 当社は翌43年、事態の打開を目指して新計画(「43計画」 ) 16 (4)砺波工場建設の難航 昭和44年9月会社は砺波工場建設計画と、 月産2,150トン を策定したが、またもや労働組合の強い抵抗に合い、実施 計画を併せ発表した。設備の総投資額は13億円で、 大半を に至らなかった。 三菱商事からの融資に依存する計画であった。 明るいニュースもあった。昭和42年11月、日本伸銅協会 昭和45年2月1日、 会社は砺波工場建設事務所(委員長萩原 伸銅技術研究会の第1回技術論文賞の一つに当社の「直接通 博、事務所長辻昭治)を発足させ、本格的な建設作業を開始し サンエツの歩み 1966→1971 砺波市太田地区の工場建設予定地 (見渡すかぎりの田んぼであった) た。また富山県や砺波市との公害問題での折衝も開始し、 45年6月砺波市及び庄川沿岸漁業協同組合連合会と覚書を 締結、9月には高岡市、新湊市、小杉町、大門町、大島町 との間で公害防止に関する協定書を締結した。 一方で建設阻害要因も起きた。4月に農地転用許可前の 着工が明らかとなり、建設工事が7月まで中断となった。 これは建設工事を急ぐ当社の焦りと、砺波市の工場進出に 対する事務処理経験の 不足の結果であった。 また、当社は労働組合 に対し高岡、砺波両工 場の人員配置計画と労 砺波工場通電式でスイッチを押す田中社長(昭和45年8月10日) 働条件変更計画を提示 した。計画をめぐる労 ●「時の人の幼き日」も登場 働組合との協議は翌46 社内報「さんえつ」は社員の親睦を 年1月「職場交渉」方式 図るために、社員やその家族をできる で始まった。 だけ多く登場させる工夫をした。定番 この間、労働組合内部 として人気のあったのは社員の「リレ でもいたずらに時間を費 ー訪問」、社員の家族の「ママさん登 場」 、「ぼくもわたしも小学一年生」な やす従来路線に危機感を どがあった。「ぼくもわたしも…」は 抱いた一部組合員から幹 小学校入学当時の 本木克英監督 部批判が巻き起こった。 砺波工場の建設作業 毎年3、4月号に、その年小学校に入 学する社員のお子さんを紹介する企画 で写真とアンケートからなっていた。 愛らしい写真とエピソードに皆ほのぼのとした気分を味わっ た。昭和45年3月号のこの欄に本木克英君が載っている。そ う!今映画「釣りバカ日誌」の監督として時の人となってい るあの本木監督の幼き日である。父親の克明さんは当時原料 課長代理だった(後に取締役)。 ちなみに紹介アンケートによると、克英君は「動物や怪獣 に興味をもち体重、身長、出身地などに詳しく」、良いクセ は「自分の見たいテレビを見終わるとスイッチを切って『な がら族』にならないこと」、悪いクセは「夜中、母親のフト ンにもぐり込んでくる」こと、となっている。さて、本木監 督は覚えているのかな? ここで紹介されたお子さん達は皆さんもう親の世代になっ ておられます。 庄川漁連との公害防止協定調印式(昭和45年6月22日、砺波市役所) 17 Ⅲ 高度成長期③ <昭和41年∼昭和46年> (5) 「農協会館事件」 たがやがて涙とともに同意した。ここに操業開始直前の砺 企業内組合の枠を超え、政治色を強めてきた労働組合の 活動方針をめぐって組合員内部に不満と不安が芽生えてい 波工場の三菱商事と同和鉱業への売却が決まった。 2月25日の取締役会で承認された売買契約書の内容は、 た。労働組合結成当初の組合員や、社外と接する機会の多 価格は建設価格に6億円上乗せした19億3,200万円、支払 い事務所や営業部門の組合員を中心に運動方針転換を求め いは両社に対する債務額との相殺条件であった。 る動きが起きてきた。この動きは昭和45年9月の組合執行 砺波工場売却を知らされた労働組合は、売却に抗議して 委員選挙に係長2名(菅谷與一郎、佐野恒誉)が当選する 直ちに同工場を占拠すると共に、当社の破綻が間近と見て ことに表れた。砺波工場建設をめぐる組合執行部の対応も、 退職金債権確保のため吉久、砺波両工場の有体動産の仮差 より不安を募らせるものとなった。2名の執行委員を中心 押を行った。砺波工場の周囲に支援の労働組合の組合旗が に約40名の組合員が高岡市農協会館の会議室に集まり労働 林立した。のどかな田園地帯に突如現れた異様な光景に太 組合の現状を話し合い、対応を協議した。この会合の様子 田地区の住民は仰天した。しかし3月末の当社の資金ショ は一部の出席者から漏れ、即日労働組合執行部の知るとこ ートによる倒産の危機という現実に直面し、労働組合は田 ろとなった。執行部は「労働組合分裂策動だ」として翌日 中源一社長から経営危機を招いた「謝罪」と、「生産活動の から厳しい巻き返しが始まった。出席メンバーは次々組合 正常化に努める」との一札を取り、工場占拠と仮差押を解 事務所に呼び出され、事情聴取を受け「反省」を求められ 除した。建設事務所は閉鎖され、砺波工場は売却された。 た。2名の執行委員と中心メンバーと目される組合員には 「反組合分子」のレッテルが貼られ査問委員会の厳しい査問 (7)内整理(ないせいり)と希望退職募集 と、扇動された組合員による「吊し上げ」が始まった。出 当社は内整理案を作成し、昭和46年4月28日債権者会 席者の中にはいたたまれず退職する人まで表れた。主立っ 議を開催した。ここで19社の債権者に対し債務の30%免 たメンバーは会合して、善意の組合員からこれ以上犠牲者 除、50%棚上げを求め、承諾を得た(返済計画は継続審議)。 は出せないとし、2名の執行委員は辞任して動きを終息さ 同時に労働組合に人員削減を柱とした再建計画を提示した。 せた。こうして労働組合改革を求める運動の芽は摘まれた。 こうして6月に「第1次人員削減案」が実施された。骨子は ①工場の人員を542名から490名に削減する、②支店営業 (6)砺波工場の売却と混迷 昭和45年9月30日の定時株主総会で、松井庄一郎、萩 所は分離し新会社を設立する、③関係会社への出向者は除 籍する、であった。 原博、浜井清一の取締役3名が退任し、新たに矢坂正之 その後、同年9月債権者会議に提出した再建計画に基づ (北陸銀行出身)、植原金造(非常勤・三菱商事)が就任し く「1,550トン生産、360名体制」案が提示され、12月 た。新任の取締役により、永らく秘せられていた経営実態 に至り原案どおり実施、完了した。この間労使交渉は難航 が三菱商事の知るところとなった。また、起死回生策であ し、希望退職者募集や指名解雇などが行われ社内は騒然と った砺波工場の建設が予定より大幅に遅れたことは致命的 した雰囲気であった。 であった。昭和46年1月、三菱商事は「砺波工場の売却資 金で資金繰りをつけることによる三越金属の延命」策に同 意することを当社に迫った。田中社長は突然の話に絶句し (8)青木社長の就任 昭和46年6月30日開催の臨時株主 総会で田中源一社長が取締役会長に、 後任社長に青木育郎(49)が就任した。 青木社長は三菱商事本店非鉄金属部 次長からの転身であった。また三菱 商事より中島是明、三菱金属より重 村文雄、若松志広が顧問として着任 第4代社長 青木育郎 した。そして同年11月5日付で田中(昭和46年∼48年在任) 源一は取締役会長を辞し、会社を去った。 この年7月2日、当社の東京、大阪、名古屋各支店と浜松 営業所が三菱商事の手で新たに三越伸銅販売株式会社(資 本金1,000万円、代表取締役森徳郎)として設立され、7 砺波工場を占拠した労働組合 (カベには県内他社の労働組合旗) 18 月23日には三菱商事と同和鉱業に売却された砺波工場が北 陸金属工業(資本金4,000万円、社長隈部鵬)として設立 サンエツの歩み された。なお11月に当社より58名が同社へ転社した。ま た、富源商事、諏訪金属、近江伸銅、関西金属等の関係会 社は全て三菱商事の手にわたった。 1966→1971 当社のあゆみ 業界の動き 1967 昭和42年 3月●浜松営業所を開設 4月●大阪営業所を支店に昇格 9月●伸銅品製造業、中小企業近 代化促進法の対象業種と なる 1968 昭和43年 1969 昭和44年 1970 昭和45年 5月●東京営業所を支店に昇格 7月●名古屋支店を開設 2月●富山県砺波市太田地区に 100,000㎡を取得し、砺波 工場の建設に着手 2月●完成間近の砺波工場を三菱 10月●業界、自主減産態勢 商事株式会社および同和鉱 業株式会社に売却 6月●三菱商事株式会社より青木 育郎社長就任 ●支店、営業所が分離し、三 越伸銅販売株式会社として 独立。富源商事株式会社、 諏訪金属株式会社および近 江伸銅株式会社等子会社も 三菱商事株式会社に売却 さらに、当社は9月17日付で80%の無償減資を行い資 本金を4,000万円とした。当社の発展を支援していただい た株主各位の信頼を裏切り、多大なご迷惑をおかけするこ とになった。 こうして当社は従業員360名の、販売部門を持たないメ ーカーとして再スタートすることになった。 1971 昭和46年 細棒工場内部 ●チューリップの教え 砺波平野に春を告げる行事にチューリップフェアがある。 今や散居村と並んで、全国的に知られており、田んぼ一面に 絨毯を敷き詰めたような光景は、テレビや映画にもたびたび 始業前の体操 (高岡工場事務所前) 登場する。そのチューリップフェアが、当社の砺波進出を手 荒く歓迎した。 昭和45年4月、この年もチューリップフェアは華々しく開 会した。来賓として会場を訪れた中田幸吉富山県知事は咲き 誇る各種のチューリップに気分を和ませ、満ち足りた気持ち になったが、一つ心に引っかかるものがあった。それは富山 から来る公用車が太田橋にさしかかった際、中田知事の目に 飛び込んできた庄川左岸の田んぼの中を忙しく動き回るブル ドーザーの姿であった。会場に居合わせた砺波市の幹部に尋 ねると、「あれは高岡の三越金属です。今度砺波に進出する ことになったんです!」と誇らしげな答えが返ってきた。怪 訝に思った中田知事が県庁に帰り、関係部局に問い合わせた ところ、農地転用の許可申請が未提出であることが判明した。 知事は直ちに工事の中止を命令した。 不正を許さないかのように凛と立つチューリップがもたら 昼の休憩時間にバレーボールで気分転換 (高岡工場製造事務所横) した教訓である。 19 Ⅳ 三菱商事傘下期① <昭和47年∼昭和56年> 1.破局への道 (1)360名1,550トン体制の発足 (2)景気の急回復と押出機の故障 昭和47年1月再建計画に 昭和47年7月、「日本列島改造論」をひっさげた田中角 基づく「360人1,550トン 栄内閣の誕生を契機に、景気は急ピッチで回復した。不況 体制」が352人でスタート カルテルの申請を検討していた伸銅業界も一転して旺盛な した。この月開催の臨時株 需要に沸いた。翌48年11月石油危機が加わり、「物不足」 主総会で代表取締役社長青 となり価格が急騰、12月には黄銅棒の市中価格がキロ 木育郎のほか、代表取締役 805円にまで跳ね上がった。この景況は再建に踏み出した 専務に矢坂正之、取締役に 当社にとって「神風」であった。月間生産量は1,600トン 出合四郎、中島是明、若松志 から1,700トンと高水準で推移し、一時は需要に追いつけ 広、重村文雄の新体制が発足 ない状況であった。その結果昭和48年7月期決算では売上 インタビューに答える した。株主構成も筆頭株主 高70億2,200万円、経常利益3億2,400万円を計上し、 青木育郎社長 に三越伸銅販売㈱(15.7%) 49年7月期決算では売上高107億3,100万円、経常利益 がなり、三菱商事にわたっ 11億1,500万円と、三菱商事も驚く史上空前の利益を記 た旧関係会社の持株を含めると三菱商事が実質的に33%の 録した。これにより累積赤字を一掃するとともに棚上げ債 株主となった。田中源一は株主名簿からも姿を消した。 権も商社(三菱商事、日商岩井)分を除き弁済を完了した。 青木社長は新体制への従業員の力の結集に腐心した。復 その最中、48年3月28日押出機の主シリンダーの後端 刊された社内報「さんえつ」の役割は大きかった。社長が 付近にクラックが生じる事故が発生した。主要設備の事故 たびたび登場し会社の方針を伝える一方で、職制改革や貸 だけに影響は大きく11月の復旧までに10%の操業ダウン 付金制度の新設等の施策を相次いで掲載し、会社が生まれ を余儀なくされた。当社はこの機を捉え懸案の設備投資を 変わったことを印象づけた。また、各種の座談会を企画し、 行った。押出機の油圧水圧併用駆動への改造(能力1,800 多くの従業員を登場させ率直な意見交換の場とした。 トンに)、鋳造の700キロワット炉の新設を中心に2億 新体制にとり再建計画に基づく債権者会議の成否は重大 7,000万円を投じ素材部門を強化した。 問題であった。 社内にも活気が戻った。高岡市民会館での創立記念式典が 会議は昭和47 復活し、職場対抗のボウリング大会や野球大会が行われた。 年5月、昭和 また、49年4月に高卒新入社員が5名入社した。 48年5月、同 年11月と3回 行われ、返済 計画の作成に 入った。 記念すべき 「さんえつ」No.100発刊 職場対抗ボウリング大会 社長声明を載せた社内報「さんえつ」 20 職場対抗野球大会 サンエツの歩み 1972→1981 当社のあゆみ 1972 昭和47年 1973 昭和48年 1974 昭和49年 押出機の修理・改造 (3)景気急変し再び債務超過に 「狂乱」状態からインフレ激化に陥った景気を沈静化させ るために、政府は昭和49年に入り総需要抑制策を打ち出し た。このため同年夏以降景気は急速に悪化し、一転して深 1976 昭和51年 刻な不況状態に陥った。伸銅業界は49年12月に政府に不 況業種指定を申請し、50年1月に雇用調整給付金支給対象 1977 昭和52年 業種に指定された。当社も一時は生産能力の40%までに生 1978 昭和53年 産量を抑制せざるを得なくなり、50年1月より6月まで従 業員の一時休業制度を採用し、雇用調整給付金を受給する 1980 昭和55年 措置を採った。この結果昭和50年7月期決算は売上高45 億9,700万円、経常損失5億2,900万円。51年7月期は売 上高66億9,800万円、経常損失5億6,500万円となり、 1981 昭和56年 業界の動き 1月●排水処理施設設置等公害防 止施設を整備する 4月●伸銅品(銅・黄銅の板・条 4品種内需)の不況カルテ ル申請→需要増・市況好転 のため取り下げ 3月●押出機が故障(12月1,800ト 8月●黄銅棒メーカー「黄銅棒の 販売価格の決定について」、 ンに能力アップし復旧) 公正取引委員会事務局審査 5月●青木育郎社長退任し松崎武 部の立入調査受ける 社長就任 11月●伸銅品価格は需要ひっ迫・ 銅原料価格の高騰から暴騰 (12月市中:黄銅棒キロ805円) 7月●700Kw溶解炉導入による鋳 1月●伸銅品(黄銅棒・銅管など) 造工場の集中化 の輸入増加 5月●石油危機後の不況突入、伸銅 品の受注激減(49年の生産 は前年比23%減の59万トン) 12月●伸銅品製造業、不況業種指定 →雇用調整給付金指定業種に 3月●中小企業団体法による黄銅 棒の不況カルテル実施 9月●松崎武社長退任し出合四郎 社長就任 3月●黄銅条の生産販売を停止 5月●全伸工、黄銅棒共販部を設 置(62年3月まで) 3月●東西伸銅販売株式会社より 要員の移籍を受け再び製販 一体体制をとる 3月●富山地方裁判所高岡支部に 1月●黄銅棒製造業、雇用調整給 「会社更生手続開始の申立」 付金制度の業種指定 を提出 再び債務超過に陥った。 ●ブリと青木社長 昭和46年三菱商事や三菱金属から着任した役員のうち、青 木社長と、若松取締役は単身赴任であった。永らく「社長」と いえば「田中社長」であった社員は、青木社長の登場に戸惑っ た。直前までアメリカ三菱商事に勤務されていただけあって、 細身の背広姿と随所に英単語が混じる会話には高岡では見られ ないスマートさがあった。単身赴任では寂しかろうと、幹部社 鋳造職場 員の中には休日に麻雀の相手にマンションを訪れる者もいた。 着任されて初めての冬、ある社員が青木社長にブリを1本お 歳暮に贈った。休日の時間を持て余していた青木社長、「よ し!一つ捌いてやろう。 」と、ブリをバスルームに持ち込んだ。 出刃包丁を持ち捌きにかかったが、小型とはいえ、ブリはブリ。 脂がのっていてヌルヌルするし、身が締まっていて刃が立たな い、悪戦苦闘すること小1時間、遂にギブアップ。近くの魚屋 に電話して助けを求めた。魚屋の主人がマンションを訪れたと き、バスルームに、出刃包丁を持ち、返り血に顔や衣服を染め た青木社長が仁王立ちしていた。これを見た魚屋の主人は一瞬 絶句したと言う。 青木社長が高岡を去るとき、忘れられない思い出として語っ た実話である。 第一製条工場内部 21 Ⅳ 三菱商事傘下期② <昭和47年∼昭和56年> (4)三菱商事の役員引き上げ 偏向」派は少数派に転落していった。新執行部は当社をめ 昭和48年5月、青木社長は三菱商事 ぐる環境の変化に注目した。最新鋭の設備を備えた旧砺波 非鉄金属第二部部長に転出し、後任社 工場は北陸金属工業として資本金6億円を擁し三菱商事の 長に松崎武(52)(三菱商事非鉄金属本 「直営」状態にあり、三菱商事にとっては当社の存在意義は 部付)が就任した。当社は昭和52年7 薄れた。そのうえ三菱商事は当社から役員を引き上げた。 月期に入ると、月次数千万円の赤字を 三菱商事の支援なしには当社の経営が成り立たないのは誰 計上し続けた。三菱商事は伸銅業の不 の目にも明らかだった。執行部は「三菱商事を引きとめて 採算性を知り深入りを恐れ、当社プロ 第5代社長 松崎 武 おくこと」に活動の焦点を絞った。そのためその後の戦術 パーの幹部に「労使一体となった自助 (昭和48年∼52年在任) として組合旗の掲揚やはちまき就労等三菱商事を刺激し、 努力による赤字体質脱出策」の策定を 撤退の口実となるようなものは一切採らなくした。これは 命じ、当社経営から撤退することを模 上部団体全国金属労働組合富山地方本部の指導でもあった 索し始めた。 とみられる。執行部の交代により政治色の強い運動方針は 昭和52年9月30日開催の第34期定 時株主総会で松崎武社長以下三菱から 変わったが、全金加盟のままであったので、上部団体の影 響力はむしろ強まった。 派遣された取締役は全員退任し、後任 取締役にプロパーの出合四郎、二口光 第6代社長 出合四郎 興、上谷卓朗(以上重任)、本木克明 (昭和52年∼56年在任) (新任)の4名が就任し、出合四郎 (6)黄銅条の撤退と184名体制 昭和53年3月7日、当社は「当社の現状と今後の経営計 画について」を発表した。出合社長以下プロパーの経営陣 (59)が社長に就任した。この株主総会は労働組合による妨 が三菱商事から求められた「自助努力による赤字体質脱出 害を恐れ、密かに周到な準備をし、初めて社外(高岡商工 策」であった。骨子は①競争力を失った黄銅条から撤退す ビル)で厳戒のもとに開催された。 る、②コスト引き下げと生産性を上げるため月次1,200ト 株主構成も変化した。筆頭株主は大幸商店(6.5%)となり、 ン生産、人員184名体制とする、③労働条件を変更する、 三菱商事系の持株は20.5%に低下した。三越伸銅販売の持 であった。三菱商事はこの計画を労使一体となって完全実 株の大半は同社と当社のプロパーの役員に分散された。 施することを条件に今後の支援協力を約した。三菱商事に とっては当社の商権確保が目的だった。労働組合の対応は 早かった。計画は3月31日に労働組合との合意(労働条件 の変更は継続審議)が成立し、4月に実施に移された。こ れにより156名にのぼる従業員が会社を去った。また、当 社創業以来の生産品目であり、設備の改良の中で幾多の技 術成果を生み、当社の生産技術の進歩に貢献した黄銅条の 生産が停止となった。 (7)自主販売体制の復活 業績悪化の中で多額の累積赤字を抱え、金利負担が大き くなり、収益を圧迫していった。会社が自立体制を採るた 当社を訪れた三越伸銅販売の一行 (昭和48年10月15日 本社前庭にて) めには金利負担の軽減は不可欠だった。また、激しい需要 変動の中で受注量は落ち込んでいた。当社はシェアの低下 に注目し、その原因を東西伸銅販売(52年6月三越伸銅販 (5)労働組合の変化 労働組合内部でも変化が起きていた。会社方針に反対す る形の労働組合運動を展開することで、結果として砺波工 22 売より改称) を窓口とした間接販売にあると考えた。そこで、 赤字体質脱出には自主販売体制が不可欠であると三菱商事 に提言した。 場の売却と大量の人員削減をもたらした労働組合執行部の これに対し三菱商事は昭和55年1月、21億6,000万円 指導方針に、一般組合員から厳しい批判の声が起きた。世 の債権を棚上げし、金利の支払いを免除するとともに、自 間では「労働組合が強くて労使紛争の絶えない会社」との 主販売のため東西伸銅販売より、当社が指名した河原正夫 評価が形成されていった。この声を受け組合執行部の「政 ほか3名の当社への転社を認めた(このうち河原正夫、尾島 権交代」が起きた。社会党員等を中心とした「政治(選挙) 徳昭は取締役に就任)。ここに自立体制の条件がそろった。 サンエツの歩み 1972→1981 (8)第2次石油危機と自立体制の破綻 自立体制の確立に協力した三菱商事は資金繰りでも自立 を求めた。自立体制の条件を整備した出合社長は地元金融 機関に支援を求めたが、永らく商社金融に依存してきた当 社に対し金融機関側は冷淡だった。このとき第2次石油危 機が発生する。電力料単価の倍化と石油関連商品価格の急 騰からコストが跳ね上がった。一方では受注をめぐる過当 競争で加工マージンは低下しており、せっかくの金利免除 も効果なく再び赤字基調に転落した。 新たな事態に直面した当社は三菱商事と金融機関に再度 資金支援を要請した。三菱商事の担当者は伸銅品部門以外 の出身者に代わっており、対応はクールだった。昭和56年 2月二口光興総務部長は部下の横田邦夫課長と吉川潔係長 に万一に備え会社更生法適用の申請を密かに準備するよう 命じた。出合社長と二口部長は一縷(る)の望みをかけ三 菱商事と折衝を続けたが、資金支援は拒否された。やむな く3月30日出合社長は富山地方裁判所高岡支部に対し会社 会社更生法適用申請を報じる新聞 (昭和56年3月31日北日本新聞) 更生法の適用を申請し、同日15時受理された。「三越金属 事実上の倒産!負債総額50億円」、ニュースは県内と業界 を駆けめぐった。 ●北陸金属の歩み (3)改善への努力 昭和53年2月に隈部社長が退任し、後任の代表取締役に松原 寛司専務が就任した。また、昭和55年同和鉱業が経営から撤退 した。 会社の川下作戦として昭和53年秋頃から中古フリクションプ レスで鍛造テストを開始した。問屋等からの反対で一時中止し たが、昭和55年頃に再開した。ニコンよりカメラマウントの冷 間鍛造の要請があったのはこの頃であった。 (1)会社設立 昭和57年7月、第1号鍛造機を導入し、カメラマウントの量 北陸金属工業㈱は昭和46年7月23日に設立された。設立時の資 産を開始した。月間売上2,000万円を目指した。また、昭和58 本金は4,000万円で、三菱商事、同和鉱業、三菱金属が株主であ 年6月にはCNC自動旋盤第1号機を設置し、フレアナットの量産 った。社長は隈部鵬(くまべ・ほう 三菱商事)であった。三越金 を開始した。月間売上は600万円を目標とした。 属からは、辻昭治ほか管理職クラス5名、山本文雄ほかスタッフク ラス9名、一般職57名が断続的に転社した。また、三越金属が砺 波工場要員として現地採用し、自宅待機させていたメンバーも加わ った。別に、萩原博が技術顧問として就任した。 (2)業容の発展 操業を開始したのは昭和46年12月であった。原料仕入、製品販 加工品生産の基礎が形成された。 (4)三菱商事の方針転換 三菱商事の伸銅業に対する経営方針に変化の兆しが表れた。 昭和57年9月に自社で販売部門を持つことが提起され、辻昭治 外1名が東京に赴任した。 昭和57年末には三越金属工業へ吸収させる動きが表れた。昭 売は三越伸銅販売㈱経由となった。昭和47年3月には資本金を6億 和58年6月資本金を20%減らし4億8,000万円とした。また、 円に増資し、昭和48年4月には、早くも日本工業規格(JIS)表示 秋には三越金属の釣谷社長が非常勤取締役に就任し、役員会に 工場の認定(銅及び銅合金棒)を取得した。 出席するようにもなった。 業容は順調に拡大し、昭和49年9月期には10億円を超える空前 (5)サンエツ金属へ の利益を上げた。しかしその後の総需要抑制政策の中で受注が減少 昭和59年9月1日、会社は事業の全部を新生サンエツ金属へ営 し、昭和52年3月時点で6億9,000万円の繰越損失を計上するに 業譲渡した。取締役の辻昭治は退任し、廣瀬省吾以下60名が転籍 至った。 した。 昭和50年7月には社内報「ほくりくきんぞく」が発刊されている。 会社は清算作業に移り、昭和60年1月5日清算を完了し解散した。 23 Ⅴ 更生会社 <昭和56年∼昭和59年> 1.更生手続開始決定から終結まで (1)更生手続き開始決定 昭和56年3月30日に当社の財産保 うによっては日本一になれる。」と判断し、就任を決意した。 しかし、シーケー金属の役員達はリスクを恐れ反対した。 全管理人に選任された澤田儀一弁護士 釣谷圭介は当社の労使の幹部と別々に会い、協力体制を取 (39)は、直ちに最大の債権者である三 り付け、正式に就任を受諾した。 菱商事に対し事業継続と更生手続き開 始決定を得るための協力要請を行った。 この要請に三菱商事は、次のように回 昭和57年9月30日富山地裁高岡支部は釣谷圭介を管財 人に選任し、釣谷管財人は新たに管財人代理に武部敏元 (シーケー金属専務取締役)を選任した。 答した。①原則として当社との取引に 澤田儀一法律管財人 関与しないが、経過措置として約1年 (3)更生計画作成と認可決定 間は取引関与を行う。②退職金資金及び運転資金のため買 澤田儀一管財人は昭和57年 掛金は支払い、担保株券を返還する。③金融機関から融資 9月30日、富山地裁高岡支部 を受けるため工場財団の根抵当権を一部分割譲渡する。④ に対し当社の更生計画案を提出 当社の商権を尊重しこれを侵さない。 した。 続いて保全管理人は黒字体質化の実現のため大幅な人員 その内容は以下のようなもの 削減を基本とする新体制の確立を提案し、5月25日に労働 であった。①事業は伸銅品の生 組合と次の通り合意に達した。①月間生産量を850トンと 産販売に徹し、当面の4年間は する。②人員を91名減員し85名とする。③職制機構の簡 月産850トンとし、その後逐 素化を図る。④労働条件の変更(1日実働8時間、年間稼働 次拡大する。②債務の弁済につ 日287日。昭和56年度の昇給と一時金ゼロ。退職金規程 いては、更生担保権および優先 の減額改定)。 更生債権については3年目から こうして昭和56年6月9日更生手続開始決定がなされた。 認可を受けた更生計画案 分割で全額支払うが、一般更生 澤田弁護士が引き続き管財人に選任され、澤田管財人は管 債権については大口2件からは約80%の免除を受け残額を 財人代理に河原正夫を選任した。また、出合四郎、二口光 3年目から20年目まで分割弁済し、その他は1年目から3 興は会社を去った。 年目までに現金で分割弁済する。③株主の権利の変更は、 現行資本金を全額無償消却(10%の株主補償金を支払う) (2)釣谷圭介管財人の選任 し、新たに新株600株(1株価格5万円)を発行する。こ 澤田管財人は直ちに新体制実現のため希望退職者を募っ の内400株をシーケー金属に割当てる。④会社の役員は代 た。「今辞めれば退職金があるが、残れば保証されない」、 表取締役釣谷圭介、取締役は澤田儀一、武部敏元、河原正 雪崩を打って希望者が殺到した。ゼロから出直そうと決意 夫、監査役は海道俊雄とする。なお、債権総額は更生担保 した83名が残った。新体制がスタートした。 権5億600万円、優先更生債権900万円、一般更生債権 事業継続のためには事業管財人の選任が不可欠であった。 36億900万円、合計41億2,600万円であった。 澤田管財人は関係方面に打診したが、「労務倒産した三越金 更生計画は債権者各位の同意を得て、昭和57年12月1 属」に県内の事業家は尻込みした。また、製品販売先と主 日に認可決定された。また、同年12月20日三菱商事の有 原料仕入先のほとんどが首都圏や関西であり、地元経済界 する更生債権がシーケー金属に有償譲渡された。釣谷圭介 との繋がりが薄かったのも災いした。候補者が現れても皆 はシーケー金属の社運をかけ、当社の再建に当たることに 辞退された。困惑した澤田管財人は県の商工労働部や高岡 なった。 市にも推薦を依頼した。管財人選びが 暗礁に乗り上げかけた頃、若手経営者 釣谷圭介事業管財人 24 (4)更生手続き終結に向けて として評判のシーケー金属の釣谷圭介 釣谷管財人のもとで再建が始まった。新体制移行により 社長(47)が高岡商工会議所の竹平政太 就業時間や賃金など労働条件が大幅に変更していた。これ 郎会頭に呼ばれ、「高岡の有力企業を見 が再建の制度的基礎となった。釣谷管財人は就任直後から 殺しにするな。いざとなったら力にな 収益力の高い細棒・線を中心に設備投資を実施した。破産 るから君やりたまえ。」と勧められた。 の危機のある更生会社での投資は無謀とも思えた。伸銅業 釣谷圭介は早速伸銅業について調査し 界は不況下で生産制限カルテルを敷いていたが更生会社は た。その結果伸銅業は横這いだが、不可欠な産業であるこ 対象外であった。この設備投資が昭和58年春からの需要回 とがわかった。釣谷圭介は、「中小企業向きであり、やりよ 復にマッチし、再建の物質的基礎となった。一方釣谷管財 サンエツの歩み 人は就任に当たり①労使一体、②時代に負けるな、③能力 1981→1984 日、富山地裁高岡支部は当社の更生終結を決定した。 に挑戦、の方針を示し、全従業員と昼食を共にしながら個 こうして当社は再び一般会社として蘇った。20年間の更 別面談し、自らの経営理念を訴えた。この行動は倒産の屈 生計画を1年9カ月で実行するという稀にみるスピード終結 辱を味わった従業員の共感と信頼を呼び、再建への爆発的 であった。 エネルギーを引き出した。これが再建への精神的基礎とな った。釣谷管財人はまた、「みんなで稼いでみんなで分けよ う」と従業員に株主になることを勧め新株200株を割当て た。ほとんどの従業員が株主となっていた。 こうして当社は順調に利益を計上していった。 再建途上でのつかの間のレクリエーション (5)更生計画の変更と終結 三菱商事の手で経営されてきた北陸金属工業は、2,500 トン複動式プレスを持つ東洋一の設備を誇ったが、景気変 更生の終結を報じる新聞 (昭和59年8月2日北日本新聞) 動の荒波にもまれていた。昭和49年3月期に10億円の経 常利益を上げたが、56年3月期、57年3月期と経常赤字に 転落して呻吟していた。三菱商事は、自らが見捨てた三越 金属の経営に効果を上げている釣谷圭介の経営手腕に注目 当社のあゆみ した。昭和58年春、三菱商事は釣谷社長を本店に招き、北 陸金属への経営参加を打診してきた。釣谷社長は様子を見 ることとし、9月に同社の非常勤取締役に就任した。そし て59年に至り北陸金属の営業の全部譲渡方式により当社へ 経営を移すことで合意が成立した。この方式の前提として 当社の更生終結が条件となった。 更生終結には更生計画を変更し、債務を完済することが 必要条件となる。当社は59年3月に第1回目の変更をし、 大口債権者である日商岩井㈱に一部繰上げ弁済、残額免除 を取り付けた。続いて6月に第2回目の変更をした。骨子は ①更生担保権者北陸銀行と優先更生債権者には全額一括繰 上げ弁済する、②一般更生債権者のうちシーケー金属以外 には弁済残高を一括弁済する、③更生担保権者及び一般更 生債権者であるシーケー金属には15年分割弁済とし、第1 回目(昭和56年)の弁済額のうち6,000万円を株式にて 弁済する、であった。当社はこの弁済資金捻出のため工場 西側用地を北陸亜鉛㈱および伏木海陸運送㈱に売却した。 業界の動き 1981 昭和56年 6月●富山地方裁判所高岡支部よ り「会社更生手続開始決定」 6月●通産省、黄銅棒不況カルテ を受け法律管財人として、 ル認可 澤田儀一が就任 1982 昭和57年 9月●釣谷圭介が事業管財人に 就任 10月●黄銅棒製造業、中小企業近 12月●「会社更生計画認可決定」 代化促進法に基づく近代 を受け釣谷管財人が代表取 化、構造改善業種に指定 締役社長に就任 1983 昭和58年 4月●株式80万株(1株額面50円) 無償にて消却 ●新株式600株(1株額面50,000 円)を発行 1984 昭和59年 6月●更生計画変更の認可を受 け、シーケー金属株式会社 以外の債権者に対し、更生 債務を一括して繰上げ弁済 7月●シーケー金属株式会社に対 し、更生債務の一部を繰上 げ弁済 8月●富山地方裁判所高岡支部よ り「更生終結決定」を受ける 変更された更生計画の実施状況を見極め、昭和59年8月1 25 Ⅵ 上場会社となるまで① <昭和59年∼昭和63年> 1.新生サンエツ金属の躍進 (1)新生サンエツ金属の誕生 ジの統一)の先駆けであった。同日午前9時、砺波工場前 で行われた銘板除幕式には、釣谷圭介社長の英断で同日付 で名誉顧問に就任した田中源一の13年振りの姿があった。 (2)業容の拡大 不死鳥のように蘇った新生サンエツ金属の誕生は業界に とって驚異であった。細棒と線の高岡工場、中太棒と管の 砺波工場。高付加価値の高岡工場、量産型の砺波工場。そ 第7代社長 釣谷圭介(昭和57年∼平成6年在任) 更生終結に先立ち昭和59年7月16日に当社と北陸金属 工業との営業譲渡契約書が締結された。骨子は①北陸金属 工業は昭和59年9月1日をもってその営業の全部を三越金 属工業に譲渡する、②譲渡財産の対価は17億4,400万円 とする、③支払方法は15年分割払いとし、金利は年2.5% とする、④北陸金属工業の従業員は全員三越金属工業が引 砺波第2工場地鎮祭 継ぐ、であった。金利を含めると譲渡対価は21億2,700 れぞれの持ち味を発揮し、一躍業界3位の地位を占めるよ 万円となった。 うになった。(棒の1位三宝伸銅13.3%、2位東洋金属(現 当社は8月24日に臨時株主総会を開催し定款の変更と役 キッツ)12.6%、3位当社10.9%。線の1位吉田工業 員の増補を行った。これにより社名を「サンエツ金属株式 24.3%(自社消費)、2位富士伸銅(現住友金属鉱山伸銅) 会社」と改めること、取締役は澤田儀一と海道俊雄が辞任 15.2%、3位当社11.7%)営業譲渡の効果は初年度の昭 し、シーケー金属より西村幸彦、久保圭史が加わり、増員 和60年9月期決算にはっきり現れ、売上高158億600万 された3名には廣瀬省吾(北陸金属取締役)、尾島徳昭、渋 円、経常利益5億7,700万円となり、前期の両社の合計利 谷和憲が就任することが決まった。北陸金属には既に東西 益額を81%上回った。月間平均生産量は3,390トンに達 伸銅販売が合流しており、ここに昭和44年当社が描いた構 した。釣谷社長はまた積極的な設備投資を行った。昭和60 想が復活実現することになった。 年12月に砺波工場に第2工場を建設し、細棒の生産体制を 当社は営業譲渡日の9月1日を期して社名変更とともに社 強化し、62年には高岡工場鋳造にビレット外削装置を導入、 章を改め、イメージカラーとしてライトブルーを採用し、 63年11月には砺波工場に4型CMラインを設置した。さら 名刺、封筒、社旗に使用するようにした。C.I.(企業イメー に、将来構想としては、当時「砺波集中計画」も浮上した。 新生サンエツ発足 直後の慰安旅行 (和倉温泉) 26 サンエツの歩み (3)釣谷圭介社長倒れる 1984→1988 当社のあゆみ 昭和59年11月6日釣谷圭介社長が脳出血で倒れる事態 が発生し、社内に激震が走った。社内で来客と応対中であ ったため直ちに救急車で高岡市民病院に搬送し手術を受け られたのが不幸中の幸いであった。 釣谷社長はリハビリ後、大きな後遺症も無く1年後に業 務に復帰した。 9月●北陸金属工業株式会社より 営業の全部譲渡を受け、砺波 工場とする。商号をサンエ ツ金属株式会社に変更する 1985 昭和60年 12月●砺波工場に第二工場を建設 し、細棒の生産体制を強化 1987 昭和62年 8月●高岡工場の鋳造ビレットを 全面外削化 昭和63年11月16日、当社は加工品開発部を独立させ、 (菅谷與一郎社長)を設立した。当社の加工品への進出は旧 北陸金属が昭和53年頃中古鍛造機でテスト打ちをしたこと 生産量、初めての100万トン 大台記録。米国に次いで世界 第2位の伸銅品生産国に 1984 昭和59年 (4)サンエツ精工の設立 全額出資(2,000万円)の子会社、株式会社サンエツ精工 業界の動き 1月●通産大臣、黄銅棒製造業の 構造改善計画承認 7月●中小企業等協同組合法に基 づく全国黄銅棒協同組合を 設立(7社参加、対象地 区:全国) 1988 昭和63年 11月●砺波工場に4型CMラインを 設置し、黄銅棒生産体制を 強化 に遡る。その後57年5月に第1号鍛造機を導入し、カメラ マウントの製造を開始した。サンエツ金属になり川下作戦 ●社名と社章(その2) を強化した結果、昭和63年時点でカメラマウントの国内シ 三越金属工業が北陸金属工業から営業譲渡を受けることに ェアーは90%近くを占め、フレアナットその他へも進出し なったとき、釣谷圭介社長が一番気を付けたのは、社員の融 ていた。当社として一層の拡大を図るため分社化したので 和であった。「旧三越」、「旧北陸」で対立が起きないよう人 事配置や、役職への発令も不公平にならないよう気を配った。 あった。 社名と社章も同じだった。釣谷社長は社名を三越金属工業か ら改めることを決め、新社名について譲渡実行前に両社の管 理職にアンケートした。中には「三越」の「さん」と明るい 太陽の「SUN」とで「株式会社サンメタル」、社長のイニシ ャルで「ケーティー金属株式会社」などユニークなものがあ ったが、「永年のブランドイメージを生かしながら、斬新さ を出す。 」と言うことで、今の社名に落ち着いた。 社章についてはプロのデザイナーが作成した候補作から釣 谷社長が選んだ。「3枚の羽根は高岡工場、砺波工場と親会社 のシーケー金属を表し、三者が協力し発展するよう躍動感を イメージしている。 」ことを意図している。 イメージカラーも釣谷圭介社長の発案だった。「業種が地 味だからせめて明るく、名刺だけでも目立とう。」とライト サンエツ精工設立記念神事 ブルーに決め、社旗や封筒も一新した。営業譲渡実行日の秋 晴れの日に相応しい、新会社の船出であった。 (5)飛躍を目指して 昭和63年6月、田中源一名誉顧問が波乱に富んだ77年 の生涯を閉じた。葬儀は高岡の光慶寺で社葬として執り行 われた。葬儀委員長の釣谷圭介社長は当社の事実上の創立 者の霊前に弔辞を捧げ、その労をねぎらい、今後の当社の 発展を誓った。 釣谷社長はまた当社の更なる飛躍のため、人事構想をめ ぐらせた。昭和63年6月、高岡高校時代の同級生で北陸銀 行融資部長の藤巻義大良(54)を当社の代表取締役副社長と して招いた。また11月には同じく北陸銀行より箭原康二郎 (51)を常務取締役管理本部長として招聘した。釣谷社長は また幹部養成も図った。若手部課長クラスから委員を選び 二次にわたる経営企画委員会を組織し、会社の将来構想の 新しくなったサンエツの社章と名刺、封筒(現在も使用) 立案を諮問した。 27 Ⅵ 上場会社となるまで② <昭和63年∼平成5年> 2.パブリック・カンパニーを目指して (1)会社再建論から第二創生期論へ った。最初に問題となった 昭和63年10月藤巻義大良副社長は、管理職会議におい のはシーケー金属に対する て「サンエツの背負った二つの十字架」について発言した。 「長期未払金」であった。 「会 当社は旧更生債務6億8,900万円と、営業譲渡対価14億 計学的に見て更生債務であ 6,400万円、合計21億5,300万円の債務を抱えている。 り、これがある限り更生終 一方自己資本比率は10%未満であり、収益弁済をしながら 結していない。」との名証の 自己資本の充実を図らねばならない厳しい宿命を負ってい 見解に愕然とした。これは ることを指摘したのであった。そして何時までも「会社再 一般債権であるとの当社の 建」を言うのでなく、「第二創生期」として株式上場も視野 主張は容れられなかった。 に入れて臨むよう訴えた。 当社は直ちにシーケー金属 平成元年1月15日第二次経営企画委員会(加治廣司委員 に対し繰上弁済を申し入れ 長)はレポート「第二創生期にむけて」を発表し、その中 た。ディスカウント幅をめ で①設備と財務の抜本的改善のためパブリックカンパニー ぐり若干時間を要したが、 を目指す、②棒・線のトップ企業となり棒のシェア25%を 平成2年2月弁済を完了し 目指す、ことを提唱した。 た。この相談の中で「法的、 「パブリックカンパニーを目指す」が社内の合言葉となった。 会計学的に見て問題ないこ と」の審査原則が確認でき、 (2)上場準備委員会の結成 サンエツ金属株式上場の 記者発表を伝える新聞 (平成5年11月23日 北日本新聞) その後の判断基準となった。 昭和61年頃から日本経済は持続的な好況を続けていた。 続いて公正取引委員会問題が起きた。平成元年9月27日 上場企業は新株やワラント債の発行で大量の資金調達をし、 朝、本社に同委員会の立入調査が入り、翌2年4月26日排 規模を拡大していた。一種の株式上場ブームが起きていた。 除勧告がなされた。棒の価格カルテルの疑いであった。黄 当社でも、昭和63年12月山一証券から資本政策の提案 銅棒業界としては2度目(1回目は当社は対象にならず)で を受けた。当社は上場を念頭におき同月センチュリー監査 あった。これも申請までにケリを付けることを求められた。 法人と監査契約書を締結し、平成元年2月に山一証券を主 同年8月から11月まで営業本部を中心に対応作業が続い 幹事証券に指名した。事実上、上場準備はスタートした。 た。平成3年2月6日同委員会より「通知書」が出され、3 上場準備の第1弾として社員持株会結成に取りかかった。 資本政策の第三者割当増資の受皿とするためであった。社 月28日課徴金(8,190万円)を支払い終結した。 次に株式の額面金額が問題となった。昭和58年2月の新 員持株会(横田邦夫理事長)は平成元年4月に結成された。 株払込で当社株式の額面金額は1株5万円となっていた。上 全職場への教宣活動のなかで上場への気運がいよいよ盛り 場株式の主流は1株50円で、株式の流通性を考え当社も 上がっていった。続いて5月11日上場準備委員会(藤巻義 50円に変更することにしたが、現行法では1株額面50円 大良委員長)が結成された。上場審査のための社内体制づ の休眠会社に吸収合併され、その後社名をサンエツに戻す くりと書類づくりを具体的に推進する組織で、委員は社内 方法しかなかった。しかしそんな都合のよい会社はおいそ 各部門から選抜された。勿論「本業掛持ち」であった。平成 れとは無かった。ようやく高岡市の北銅商事を紹介され、 元年6月20日当社は資本政策に基づく第三者割当増資(発 作業に入り、平成3年4月1日をもって合併した。 行株数2,500株、1株価格35万円)を実施した。シーケー 金属が620株、社員持株会が457株等45者が引受けた。 最後に懸念していた問題が浮上した。筆頭株主で38%を 所有するシーケー金属が非上場会社であることだった。株 (3)名古屋証券取引所事前相談と条件整備 当社は上場申請先に店頭登録でなく審査の厳しい名古屋 証券取引所(名証)を選んだ。また、最短距離による上場 を目指した。上場への必要条件を満たすと平成4年7月が最 短の申請時期であった。その一点に向け準備を開始した。 サンエツ版“プロジェクトX”のスタートであった。 そのため藤巻準備委員長は名古屋証券取引所に対する事 前相談を積極的に行った。当社の実態を正確に述べ、申請 後問題となりそうな点を事前に潰しておこうとしたのであ 28 上場申請書と添付資料 サンエツの歩み 1988→1993 式市場では西武グループ等が子 山田係長から「年内上場可」の情報が入った。藤巻準備委員 会社を上場させ資金調達してい 長以下委員は文字通り手を取り合って喜んだ。後はスケジ るケースが発生し、問題となっ ュール闘争であった。11月22日臨時取締役会で「株式上 ていた。平成3年8月各証券取 場に伴う新株200万株発行」を決議し、本社で記者発表し 引所は「子会社上場の運用につ た。 「サンエツ金属株式上場」ニュースは県内と業界を駆け いて」と題する通達を発し、 めぐった。藤巻義大良は後日当社の上場の目的を次の4項目 「親子会社の上場はまず親会社 に整理した。①企業イメージのアップ、②金融機関借入依存 から」とした。このままなら万 からの脱却、③準備作業を通じての人材育成、④財務体質を 事休すであった。しかし名古屋 強化し不況抵抗力をつける。というものであった。 証券取引所の通達には「平成4 年3月期を最終事業年度とする申 平成5年12月27日名古屋証券取引所で当社の上場セレ 新株式発行届出目論見書 モニーが行われた。河合一郎理事長から釣谷社長に上場認定 請を除く」となっていた。事前 書が交付された。公開初日の初値は1株1,730円、 出来高は68 相談の過程で当社の実態を熟知していた名古屋証券取引所 万4,000株であった。 の好意と解釈し、感激した。正にオンリーワンチャンスで あった。 (4)上場申請と審査 バブル景気は陰りを見せたとはいえ当社の平成4年3月期 決算(平成元年に決算期変更)は9億7,900万円の経常利 益を上げていた。4月に入り申請資料の作成に着手した。 数字が確定してからの作業は休日返上であった。7月14日、 釣谷社長は名古屋証券取引所に対し上場申請を行った。同 所は審査担当として上場部の鈴木吉隆部長、山田隆史係長 を当てた。 上場審査が始まった。申請書類に基づき質問書が出され、 名古屋証券取引所河合理事長から上場認定書を受ける釣谷社長 その回答書に対し後日ヒアリングする方式であった。ヒア リングは8月7日、24日、9月10日、18日と4回行われた。 当社のあゆみ 業界の動き 質問書(約110項目)から回答書提出まで1∼2週間の強 行軍であった。回答書の総ページ数は1,000ページをゆう に超えた。この年の7∼8月は準備委員はじめ関係管理職は 臨戦態勢を敷いて対応した。審査は最後に9月29日鈴木部 長と山田係長が来社し、 社長面談と工場実査により終了した。 (5)上場まで 平成4年11月、上場決定を待つばかりになったとき、株 式市況低迷により新規上場がストップとなった。ソニーミ ュージックの大型資金調達が引き金となったのだった。事 態は平成5年に入っても好転しなかった。3月の決算期をま たいだため6月 28日再申請とな 1988 昭和63年 12月●センチュリー監査法人と監 査契約締結 1989 平成元年 4月●社員持株会結成 5月●上場準備委員会結成 6月●第三者割当増資実施(発行 株数2,500株、1株価格35 万円) 9月●公正取引委員会事務局審査 部の立入調査を受ける 1990 平成2年 2月●シーケー金属に対する旧更 生債務を繰上弁済 3月●砺波工場第2工場増設 1991 平成3年 4月●株式の額面金額変更のため サンエツ金属株式会社(旧 北銅商事株式会社)と合併 1992 った。夏以降よ 1993 うやく市場が動 き出したがテン ポは遅かった。 10月19日、名 古屋証券取引所 9月●黄銅棒メーカー、「問屋向 販売価格の決定・異形棒形 状増し値の決定について」、 公正取引委員会事務局審査 部の立入調査受ける 生産量124万2,000トンの史 上最高、米国を抜いて世界 一に。しかし平成4年以降は 再び第2位が続く 平成4年 7月●名古屋証券取引所へ株式上 10月●雇用調整助成金の業種指定 受ける 場を申請 平成5年の輸出通関量20万 平成5年 2月●砺波工場に西ドイツ製の横 852トンで過去最高、以後 型連続鋳造装置を設置 7年まで記録更新 11月●臨時取締役会で「株式上場 に伴う新株200万株発行」 決議 12月●名古屋証券取引所に株式上場 上場を記念して配られたテレホンカード 29 Ⅶ 現代① <平成6年∼平成11年> 1.国際化の流れの中で (1)藤巻社長就任 平成6年6月29日、高岡富士観ホテル別館万葉閣におい て株式上場後初めての定時株主総会が開催された。上場に より資本金は22億3,750万円となり、株主資本比率は 63%を超え、株主名簿には947名が名前を連ねるように なっていた。筆頭株主のシーケー金属の持株比率は26.9% となった。議長席に着いた釣谷圭介社長は、11年前の更生 会社であった当社の社長に就任した日 を思い出してか、感無量の面もちで出 席株主にお礼を述べ、企業責任を果た 大連三越精密部件工業有限公司 すことを誓った。また、釣谷社長はこ の総会を契機に代表取締役会長に就任 大連三越は平成8年5月操業を開始した。山本に加え、河 し、後任社長には藤巻義大良代表取締 合範諭(26)が駐在員として現地従業員を指揮し、会社運営 第8代社長 藤巻義大良 役が就任した。また、尾島徳昭副社長 (平成6年∼11年在任) が代表取締役となった。 に当たった。 また同じく海外戦略として、当社は平成7年3月より2年 間マレーシアのリーフン社と「技術供与契約」を締結し、 (2)間接押出機の導入 同社の黄銅棒プラント立ち上げを指導した。 伸銅業界は上場会社となったサンエツ金属の戦略に注目 した。当社は株式上場時の新株発行により34億2,569万 (4)ISO9002の取得 円の資金調達を行っていた。当社はこの資金を懸案であっ た「設備の強化による棒・線のトップシェアー化」を目指 す戦略に振り当てた。 設備投資の中心は砺波工場の増築と3,350トン間接押出 機の導入であった。当社には砺波工場と高岡工場にそれぞ れ1基の押出機を有していたが、何れも直接押出機であり、 設置・改造後20年以上経過していた。そこで、間接押出機 を導入することで素材の内部欠陥をなくすと共に、押出能 力を飛躍的にアップさせ棒のシェアーを25%以上にまで高 経済の国際化の中で品質保証の国際規格であるISO9000 めようとしたのであった。既に砺波工場では、前年に横型 シリーズの認証取得が脚光を浴びてきた。当社では株式上 連続鋳造装置を設置しており、準備はできていた。 場直後に課題として提起されたが、本格的な取得への取り 間接押出機は平成7年2月より稼動した。 組みは平成9年になる。直 接 の き っ か け は 間 接 押 出 機 の 導入であった。4月に取締役技術本部長兼品質管理部 (3)中国への進出 長であった日南田敏衛(58)を常務に昇格させ、ISO9000 当社は、平成6年12月12日、子会社サンエツ精工を出 取得担当に任命した。日南田を中心に1年半の準備期間を 資人として、中国遼寧省大連市に大連三越精密部件工業有 経て、平成10年12月24日、砺波工場の全製品を対象に 限公司(董事長釣谷圭介、総経理山本文雄)を設立した。 「ISO9002」の認証を取得した。黄銅棒・線の専業メーカ 伸銅業界では初めての中国進出であった。 ーとしては業界初の快挙であった。 釣谷圭介会長は、社長時代より中国に対し特別の思いを 持ち進出を目論み、平成4年には中国室を設け情報の収集 に当たらせていた。 30 (5)住鉱伸銅との営業譲渡契約締結 バブル経済崩壊後の日本経済はその後遺症の修復に四苦 平成6年11月に中国大連市の経済使節団が富山県を訪問 八苦していた。これまで聖域と見られていた証券・金融機 した。当社はこの機を捉え、使節団を砺波工場に招き、一 関の破綻も相次ぐようになってきた。このような中で当社 気に大連市への進出を発表した。直ちに専務の山本文雄 は、株式上場前後に行った大型設備投資の効果が需要の停 (54)を中国室長に任命し、会社設立の準備に当たらせた。 滞により十分発揮できぬまま、一方では減価償却費負担の 山本文雄は砺波工場やサンエツ精工の設立に携わっており、 急増に遭遇していた。業績も平成9年3月期から平成12年 新規プラント立ち上げのベテランであった。 3月期まで4期連続の経常赤字を余儀なくされた。 サンエツの歩み 1994→1999 大連三越精密部件工業の社員 当社のあゆみ 住友金属鉱山伸銅との提携を伝える新聞 (平成11年9月2日 日本経済新聞) 1994 平成10年秋、業界の会合に出席していた藤巻社長は隣り に座った住友金属鉱山伸銅㈱の田村詔男社長から両社の線 部門の統合構想を耳打ちされた。黄銅線部門では両社が1、 1995 2位のシェアを占めていたが、住鉱伸銅では収益力の低下 を懸念していたのであった。この打診に対し当社は、線の 1996 6月●釣谷圭介社長が代表取締役 会長に就任し、後任社長に 藤巻義大良が就任 12月●中国に大連三越精密部件工 業有限公司を設立 平成7年 2月●砺波工場第2工場を増設し 3,350トン間接押出機を設置 平成8年 平成6年 トップシェア化の基本線にのり素早く対応した。統合後の シェア率の件で公正取引委員会への事前相談を重ねた後、 平成11年9月1日に「基本合意覚書」を、同12月20日付 で「営業譲渡契約書」を締結した。その要旨は次のような ものである。①住鉱伸銅は大阪事業所のワイヤカット母線、 ロッド素線を除く黄銅線・黄銅棒の事業をサンエツ金属に 譲渡する。②譲渡財産の対価の総額を5億円とする。③従 業員の一部を引継ぐ。なお、「覚書」に基づき当社は同年9 月19日に、住友金属鉱山伸銅㈱を割当先とする50万株 (発行価額3億円)の第三者割当増資を行った。 2月●高岡工場にフィンランド製 の引上連続鋳造装置を設置 1998 平成10年 12月●砺波工場の全製品を対象に ISO9002の認証を取得 1999 平成11年 9月●住友金属鉱山伸銅㈱を割当 先とする第三者割当増資 (発行株数50万株、発行価 額3億円) 10月●藤巻義大良社長が辞任し後 任社長に尾島徳昭が就任 12月●住友金属鉱山伸銅㈱と営業 譲渡契約締結 1997 業界の動き 4月●通産大臣、黄銅棒製造業の 構造改善計画承認(4月17 日から平成13年度末まで5 年間で実施) 平成9年 1月●伸銅品・銅地金の輸入関税 3%に引下げ 4月●伸銅材料知的基盤整備事業 スタート 住鉱伸銅からの営業譲渡は平成12年4月1日付で実施さ れた。同社から25名が当社に移籍した。 ●株式会社サンエツ精工について (6)尾島社長就任 株式会社サンエツ精工は昭和63年11月16日に設立され 平成11年10月31日、任期半ばに た。サンエツ金属は「川下作戦」として加工品開発部を設け、 して藤巻義大良社長が一身上の都合で 切削加工品や鍛造加工品の開発を手がけていた。しかし、全 辞任し、11月1日付で後任社長に代表 社売上の中に占める比重は僅かなため経営管理の目が届かな 取締役副社長の尾島徳昭が昇格し、副 くなりがちであるため、釣谷圭介社長が分社による活性化を 社長に山本文雄が就任した。尾島社長 求めたのであった。設立時の資本金は2,000万円で、代表取 の就任最初の仕事は、労災死亡事故へ 第9代社長 尾島徳昭 締役会長は釣谷圭介が兼務し社長には菅谷與一郎が就任した。 (平成11年∼12年在任) 業況は業界のほぼ全量を制覇したカメラマウントを柱とし 平成11年11月5日午後11時、高岡工場鋳造職場の550 て順調に推移し、サンエツ金属の製造する黄銅素材を月間約 の対応となった。 キロワット低周波誘導炉で熔湯噴出事故が発生し、従業員 2名が被災した。このうち戸井稔さん(58)は、6日午後0時 37分、熱傷性ショックで死亡されたのであった。 葬儀は8日に社葬として執り行われ、全従業員列席の下、 200トン消費するようになった。また、平成7年からは大連三 越精密部件の直接の出資母胎として、同社の技術立ち上げを 支援するなど、サンエツグループでの役割を果たしたといえる。 その後、平成14年10月1日、サンエツ金属のプレシジョ ン工場となっている。 再発防止を誓った。 31 Ⅶ 現代② <平成12年∼平成14年> 2.シーケー・サンエツ・グループの一翼を担って (1)釣谷宏行社長就任とグループ経営 西暦が2000年を迎え、気分も一新した平成12年、当社 も新しい時代を迎えた。6月29日に開催された株主総会と 取締役会において尾島徳昭社長が代表取締役副会長に就き、 後任社長に釣谷宏行(41)が就任した。その他の役員にも大 幅な異動があり、取締役では加治廣司が退任し、酒井秀志、 上坂美治、川本良明、田村詔男が就任、監査役は箭原康二 郎、中村晴夫が退任し、横田邦夫、岩田次雄が就任した。 釣谷宏行社長はシーケー金属社長を兼務したままであった。 また、取締役の酒井(常務)、上坂はシーケー金属より、川 本、田村(非常勤)は住鉱伸銅からの参加であり、監査役 新たなサンエツを紹介する グループ案内と新合金カタログ の横田はサンエツ精工専務からの復帰、岩田(非常勤)は 北陸銀行取締役高岡支店長であった。 釣谷宏行社長は就任早々から大車輪で行動を開始した。ま 展開した。「BZシリーズ」の開発は業界紙や地方紙に直ち に発表され、「サンエツのBZ3」は鉛レス黄銅棒の代名詞 ず取組んだのは①肥大化した職制機構の簡素化、②人事の異 ともなった。なお、日南田敏衛はBZ3の発表を見届けた後、 動と若返り、③外部委託業務の内製化、であった。会社は丁 役員定年(63)による退任時を半年残し、平成12年12月31 度「当社の団塊の世代」(昭和16∼17年生まれ)の定年退 日付で、取締役を辞任した。 職期を迎えていた。釣谷社長はこのため、積極的な新規採用 とシーケー金属との人事交流を実施した。(新規採用者平成 13年19人、14年34人、15年24人(予定)) また、平成12年10月には、定款上の本社と機能上の本社 を分離し、砺波工場への本社機能の移転集約を断行した。 さらに、グループ経営のバックグラウンドとして、就業規則 の変更(13年4月)と、親睦会の結成(14年1月)も行っている。 (3)創立65周年記念事業 平成13年6月27日開催の定時株主総会を期に尾島徳昭 副会長が取締役を辞任し、相談役(非常勤)に就任した。 総会では取締役に新たに横田邦夫(常務)、釣谷伸行(14 年4月常務)を選任し、横田の後任の常勤監査役に川崎駿 一を選任した。 平成13年9月の経営会議において、釣谷宏行社長は明年 (平成14年)は当社創立65周年に当たるので、3つの記念事業 を行うことを提起した。記念事業は①記念ハワイ旅行(全額 会社負担) 、②砺波工場事務所棟・厚生棟建設(建設委員長酒 井秀志) 、③65年史誌の刊行(編纂委員長横田邦夫)であった。 ハワイ旅行は平成14年6月12日∼16日(3泊5日)で、 シーケー金属と合同で行われた。6月12日午後6時(現地 時間)戦艦ミズーリー号の甲板特設ステージで行われたパ ーティーで挨拶に立った釣谷宏行社長は先人の労苦に敬意 高岡の国泰寺における新入社員研修会 (参加者54名) (2)新合金の開発と業界活動 を表し新たな世紀での発展を呼びかけた。 砺波工場の事務所棟・厚生棟は、鉄骨造、3階建、耐火 建築物で延床面積2,454平方メートルの規模で、砺波工業 釣谷宏行社長は、業界活動に対しても、独自性を堅持し つつも、積極的に取組んだ。黄銅棒業界では、環境問題重 視の流れの中で鉛レス黄銅棒の開発が焦眉の課題となり、 各社はその開発競争にしのぎを削っていた。当社では、日 南田敏衛常務がかねてよりライフワークとして研究してき ていた。この研究成果がようやく陽の目を見るときが来た。 新たに上坂美治が研究に加わり、平成12年11月、「スーパ ー鉛レス黄銅棒BZ3」と名付けて発表し、他社を一歩リー ドした。その後の「BZシリーズ」の基礎となった。釣谷社 長はその手法の一つとして、積極的な情報開示、PR作戦を 32 戦艦ミズリー号の甲板特設ステージであいさつする釣谷宏行社長 サンエツの歩み 2000→2002 当社のあゆみ 2000 平成12年 創立65周年記念ハワイ旅行 を施工業者として、平成14年5月21日に起工式を行った。 工事は順調に進み10月20日に入居した。 65年史誌は 「サンエツ金属65年の歩み」 と題され、 平成15 年1月刊行のはこびとなった。 (4)サンエツ精工との合併 平成14年6月29日開催の定時株主総会を期に、中道幹 夫専務、野村義明常務が退任した。また、尾島徳昭相談役 (非常勤)も任期満了により退任した。永年当社の営業の第 一線で指揮を執った幹部の総退陣であったが、釣谷伸行営 業本部長、川辺寛副本部長の両常務にしっかり引き継が 4月●住友金属鉱山伸銅㈱より黄 銅棒・線の事業の営業を譲 受ける 6月●尾島徳昭社長が退任し後任 社長に釣谷宏行が就任 10月●本社機能を砺波工場へ集約 移転 11月●新合金「スーパー鉛レス黄 銅棒BZ3」開発発表 2001 平成13年 1月●名古屋営業所再開設 5月●サンエツ精工の建屋増築し、 精密部品事業を砺波へ集中 6月●高岡工場で2,500トン押出機 稼働 2002 平成14年 1月●サンエツ親睦会結成 2月●中国に大連保税区三越金属 産業有限公司を設立 5月●高強度鉛レス黄銅BZ7発売 6月●創立65周年記念ハワイ旅行 をシーケー金属と合同で実施 7月●自動車・家電業界用鉛レス 黄銅BZ5発売 10月●株式会社サンエツ精工を吸 収合併 ●創立65周年記念事業の一環 として砺波工場に事務棟・ 厚生棟を建設 2003 平成15年 1月●記念誌「サンエツ金属65年 の歩み」刊行 業界の動き 3月●黄銅棒製造業の第2次構造 改善事業終了 ●全国伸銅工業組合解散 5月●黄銅棒政策委員会発足 れた。また、取締役の田村詔男が退任し、後任に竹内政 彦(非常勤・住鉱伸銅㈱常務)が就任した。 平成14年10月1日を期して当社は子会社㈱サンエツ精 工を吸収合併した。サンエツ精工は昭和63年創立以来、当 社の川下部門として鍛造・切削部品の製造販売に携わり、 ●大連三越精密部件工業について 名 称 大連三越精密部件工業有限公司 収益を計上してきていた。釣谷宏行社長就任後、山本文雄 所在地 大連経済技術開発区東北二街43号 副社長を同社の社長とし、子会社に対する一元管理を行っ 投資額 4億円(うち資本金2億8,500万円) てきたが、グループ経営をさらに発展させるため、合併の 出資者 サンエツ金属株式会社 運びとなった。合併後は当社のプレシジョン工場として事 設 立 平成6年12月12日 業を継続している。 営業範囲 非鉄金属の鍛造、切削加工品の製造並びに販売 (輸出比率50%) 面 積 土地10,062㎡、建物3,686㎡ (5)新たな発展を誓って 代表者 董事長 釣谷圭介 昭和12年12月、東京で誕生した当社は65年の風雪に耐 副董事長兼総経理 山本文雄 え、今、全国2,739社(平成14年12月6日現在)の取引 大連三越精密部件の設立構想は、平成6年11月4日、大連 所上場会社の一員として、業界にありては黄銅棒、黄銅線 市の李永金副市長(現市長)を団長とする経済使節団が砺波 の国内トップ企業として、また、カメラマウントのトップ 企業としての地位を築くに至った。 釣谷宏行社長曰(いわ)く、今や「三越(サンエツ) 」は、 越前、越中、越後の三越ではない。「規模の優越」、「技術は 卓越」、「業種を超越」の3越である、と。 これまで当社に在籍した従業員は約2,000名にのぼるだ ろう、これらの諸先輩の労苦を偲びつつ、貴重な歴史から 工場を訪れた際に発表された。第1期工場建設を終え操業開 始されたのは、平成8年5月1日であった。発足当初の従業員 数(現地採用者)は約30名で、日本からは総経理の山本文 雄と補助員の河合範諭が駐在した。(平成14年10月1日現在 の在籍者78名) 現在の業況は月産70万個、月商2,500万円で、直近の平 成13年12月期決算(中国の決算期は12月31日)では日本 円換算で、売上高2億6,600万円、経常利益3,200万円とな っている。 教訓を学び、新たな歩みを続けよう。 33 目で見るサンエツ① サンエツいまむかし 昭和48年高岡本社工場 戦前の工場内 平成12年高岡本社工場 昭和39年運動会 昭和40年稲荷祭 昭和41年創立記念慰安会 昭和30年頃の工場内 昭和20年∼31年高岡本社正門 昭和31年∼平成11年高岡本社正門 34 小矢部川から見た高岡本社工場 平成14年高岡本社工場 平成14年サンエツ親睦会設立総会 昭和40年頃の高岡条工場 現在の高岡線工場 平成14年親睦会との定期懇談会 昭和40年頃の高岡線工場 財務省より刊行された当社の有価証券報告書 平成13年4月制定の規程集 現在の高岡本社正門 35 目で見るサンエツ② サンエツのいま 左から、砺波第1工場、砺波第2工場、厚生棟、事務所棟 砺波本社新社屋 砺波本社内の食堂 砺波本社内の大会議室 36 砺波本社内の浴室 社宅 砺波工場細棒工程 砺波本社工場 プレシジョン工場 プレシジョン工場内部 プレシジョン工場内部 37 目で見るサンエツ③ 関連会社 シーケー金属㈱本社 シーケー金属㈱本社工場 大連三越精密部件工業有限公司 大連保税区三越金属産業有限公司 支店・営業所 東京支店 名古屋営業所 38 大阪支店 いまを支える顔① <従業員一覧> 高岡工場・発送課 北陸営業所・生産管理部(高岡)品質管理部(高岡)設備部(高岡) 野寺啓之 佐伯アサ子 清水 勝 高木勝夫 堺 照実 中島昭博 中戸宏樹 吉村大輔 清水裕視 森山悦郎 米田克二 吉久与志雄 一守 忠 (高岡本社工場事務所棟) 屋敷浩二 酒井洋志 浦田一義 清原慎二 高岡工場・鋳造課 浅川良仁 中山 真 谷 倫代 小林史明 吉田磯嘉 八木節夫 山田泰雄 本元 治 高井和治 古谷正樹 浜田徳則 山口憲治 高岡工場・押出課 中平輝明 若杉真次 竹田尚史 江下 仁 谷畑 実 古本賢治 高井 進 岩井卓也 野上裕也 樋口弘行 市井良一 塚原 潤 村本 悟 大谷洋子 草 健治 (高岡工場2,500トン直接押出機) 39 いまを支える顔② <従業員一覧> 高岡工場・加工課 林 康宏 藤井次政 大江辰治 西川冨美枝 苗加智博 大山勝也 古本芳子 能松秀典 萬谷三郎 西部睦子 松平忠志 丸池清治 山本広茂 長田義之 森田吉成 川島 勝 有澤武男 村本 司 (高岡工場ループ炉2号機) 洲崎明夫 佐野憲一 松本清治 太田 昇 森田哲司 中山 朋 国崎勇人 上関裕二 干場一博 堂島隆宏 小山内幸彦 澤田典広 安田章泰 梅田誠一 宮 政喜 岩佐能也 折田智基 和田俊男 管理部・生産管理部(砺波担当) ・ 受注センター 上 清乃 野村誠司 (砺波本社事務所) 40 得能順子 岡崎美奈 坂田かおる 原田玲子 吉田哲郎 金森義晴 横田邦夫 山本文雄 道方恵子 池田清朗 五十里佳子 若杉和秀 設備部(砺波担当) ・品質管理部(砺波担当) ・技術開発部 菅原秀明 永沢秋夫 串田賢三 上坂美治 森田茂樹 酒井秀志 林 弘一 辻亮 川本良明 中井進弘 菅谷清聖 奥山正典 石灰三治 森 美里 砺波原料センター・砺波工場・鋳造課 斉藤和照 西 久和 上田武夫 才田 貢 村田真吾 末本繁夫 新田崇誠 石崎 隆 狩場雅則 米林正秀 平塚邦弘 山崎 直 田島鉄也 久郷将舗 曲 正信 甲勝 吉久健治 砺波工場・鋳造課 苗加 隆 河原松浩 中 雅裕 中川慎一 山本隆裕 江田幸広 金子倫之 牧田圭介 寺田弘樹 吉田新平 谷井悠喜 中村 保 平井千登志 黒越信僧 山崎浩平 保前正勝 41 いまを支える顔③ <従業員一覧> 砺波工場・押出課・ダイス管理課 酒井瑜理雄 (砺波工場3,350トン間接押出機) 能松正邦 末永興司 土田和男 森田明裕 宮脇秀夫 屋根秀雄 能松新一 砺波工場・加工2課 植原悟之 塚田克宏 虎井誠司 大井美穂 宮部美昭 市山和寛 森 康真 高畑 匠 原田孝之 道端泰雄 鷲塚勝宏 窪田 誠 網 茂和 棚田修三 松田 実 長坂俊弘 島次ゆか 尾田英公子 42 伊勢隆弘 源 亮二 折橋寛幸 福田佳丈 丸池大介 伊藤和彦 前田和範 守井裕明 寺口紘平 金子益大 岩井美明 石村靖幸 安念良倫 門嶋勝昭 浅倉久和 石崎淳史 柴田克志 水口秋子 砺波工場・押出課 千代剛史 中村友幸 中野邦夫 林 光治 開口泰宏 久々江清和 渕崎 宏 高井直人 村田広司 網谷多加史 中田智文 米山 豊 (砺波工場製品倉庫) 砺波工場・加工1課 本領幸雄 安念義久 石黒雅彰 竹脇健太郎 生地茂樹 松岡達也 松中 剛 渋谷康裕 魚 弘志 立田博秋 大坪勝二 沢田利秋 西部友規 片山拓郎 本郷剛紀 矢野宏明 飯田和子 斉田芳枝 松本繁典 吉岡誠一 城田里津子 上野 愛 (砺波工場クーリングテーブル) 森孝 釣 光弘 吉田政貴 前田和幸 川西康子 嶋田匡志 西部大介 佐藤元哉 釣井昭啓 谷内嘉達 竹田和寛 古沢芳雄 松本賢一 関 幹夫 (砺波工場コイル置場) 43 いまを支える顔④ <従業員一覧> 砺波工場・発送課・加工1課 魚 世志治 岡田信堅 棚辺 洋 山田武士 江崎末広 砺波・加工1課 河合範諭 若村英嗣 市川勇一 赤池邦晴 河原和夫 坂口あつ子 西地庄平 安居剛志 武田仁志 城宝 嵩 石黒富三 プレシジョン工場 長森史晃 荒木清一 村田朋之 関 由美子 折橋早苗 飯田崇尋 山岸 穣 佐々木 勝 田辺たか子 中尾 京 三輪良信 林 貴浩 杉本 多 古林伸章 青山正恵 本多義夫 権田 顕 大江宏樹 山田吉春 安達英子 片野英成 川田 崇 山崎むつ子 菅野昌美 林 英隆 摺出寺健雄 平野大介 水越正子 野坂康則 44 中島洋子 菅原美和子 塚田恵理 上野美里 浜 昭夫 干場行子 滝口和代 村岡朝子 社外役員 竹内政彦(取締役) 川崎駿一(常勤監査役) 岩田次雄(監査役) 名古屋営業所 竹平和男(監査役) 新事業推進センター 渡辺宣行 山崎仁郎 川辺 寛 大阪支店 奥田雄一郎 松本真由美 東京支店 加藤雅之 高田裕巨 尾田 泉 鍜冶和広 並木栄子 稲垣久雄 米島弘毅 森 高志 釣谷伸行 45 資料 <役員在任年表> 昭和 氏 名 12 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 坂根弥兵衛 * * * 坂根鉄之助 青柳 宗重 * * * * 篠塚 貞勝 木口時次郎 片岡 憲一 小屋 良吉 柴田弥兵衛 小林 哲夫 水本 綱義 藤村 秀穂 田中 源一 * ** * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 萩原 博 * * * * * * 堀内 多雄 * * * * * * 坂井 良樹 寺山 周次 松井庄一郎 鹿嶋 清 田村 通治 中野 俊司 森 徳郎 * 笹島 義郎 出合 四郎 * * *** * * * * 浜井 清一 見村 金治 河原 正夫 青木 育郎 * * * 植原 金造 * * 矢坂 正之 * * * * ** 吉川 多聞 中島 是明 若松 志広 重村 文雄 坂井唯四郎 松崎 武 * * * ** 池田 正也 斉藤 敏雄 土谷 譲司 二口 光興 上谷 卓朗 谷口 正俊 本木 克明 今泉 修三 尾島 徳昭 平成 氏 名 56 57 58 59 60 61 62 63 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 河原 正夫 尾島 徳昭 * * * * * * ** 澤田 儀一 釣谷 圭介 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 武部 敏元 海道 俊雄 西村 幸彦 久保 圭史 広瀬 省吾 渋谷 和憲 藤巻義大良 * * * * * * * * * * ** 箭原康二郎 山本 文雄 中道 幹夫 菅谷與一郎 中村 晴夫 竹平 和男 横田 邦夫 加治 廣司 川辺 寛 野村 義明 日南田敏衛 会 長 米田 克二 副会長 釣谷 宏行 * * * 社 長 酒井 秀志 副社長 川本 良明 専 務 上坂 美治 常 務 田村 詔男 取締役 岩田 次雄 監査役 釣谷 伸行 川崎 駿一 * は代表取締役 竹内 政彦 46 資料 <データで見るサンエツの推移> 項 目 単位 年 昭和 25 30 35 40 45 50 55 60 平成 1 5 10 13 売 上 高 (単位:億円) 200 ※ 150 100 ※ ※ 50 0 ※ ※ 資 本 金 (単位:億円) 20 15 10 5 0 総 資 産 (単位:億円) 120 90 60 30 0 年間生産量 (単位:千トン) 70 60 ※ 50 40 ※ 30 20 10 0 ※ 従業員数 (単位:人) 700 600 500 400 300 200 100 0 項 目 単位 決算期 5 10 15 20 25 30 ※決算期変更のため通年の数値とは異なります。 なお昭和47年∼昭和58年の年間生産量および従業員数は北陸金属工業との合算になっております。 35 40 45 50 55 60 実線の途切れている部分は推定値 47
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