日本の航空業界とアメリカにおける航空規制緩和

1998 年度望月ゼミ進級論文 E07-0832H 野崎 誠
日本の航空業界とアメリカにおける航空規制緩和
序章
第 1 章 隆盛を誇った航空業界に今何が起きているのか
1.石油ショック以降の目覚ましい躍進の秘密とは
2.順風から一転、逆風に曝される航空業界の憔悴
3.格安航空券に翻弄される航空業界
第 2 章 新展開を迎え迷走するJAL
1.公家集団「JAL」
2.「運輸省と一体」と言われる理由
3.民営化後に待ち受けていた過当競争の世界
4.収益の柱「国際線」が抱えるこれだけの問題点
第 3 章 国内線を牛耳るANA の強みと弱み
1.JAL と立場を逆転した ANA の次の一手
2.協力しなければ独占路線のチケットは渡さない
第 4 章 2 強に追いつきたいJAS の決断
1.国際線確保も空回りする JAS の実態
2.国際線進出のタイミングがバブル崩壊と重なる
3.航空憲法廃止時に最初のチャンスを逃す
4.JAS の 1 番のウィークポイントとは?
5.「生産性なら 1 番」の JAS が浮上するには?
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第 5 章 アメリカ圏の航空業界は規制緩和に揺れる
1.規制緩和に伴い 269 社が乱立する
2.大手 3 社の寡占化、系列化の流れに集約される
3.世界最強の CRS 復活に賭けるアメリカン航空
4.世界一周航路を復活させたユナイテッド航空
5.パンナム買収で 3 強の一角に躍り出たデルタ航空
6.アジアとの関係が深いノースウェスト航空
7.再建策で明暗を分けた US エアー、コンチネンタル航空
終章
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序章
先ず、何故僕が昨年の進級論文のテーマであった「大蔵省」から畑違いの航空業界・
航空規制緩和等の問題を取り上げたかというと、第一に幼い頃から飛行機が大好きで
あった事、そして来るべき就職活動を目前に控えて自分が、どういう仕事に就きたいか
を考えてみた結果、迷う事無く、幼い頃からの憧れであった航空業界に入りたいと思う
様になりました。
ならば、出来る限り業界分析をする事は言うまでもなく、自分の学生生活の集大成と
いってはおこがましいですが、その航空業界に関して自分なりに論文という形に是非
残しておきたいと思いました。
この航空機という乗り物は確かに、電車や自動車、船舶などの移動手段のひとつで
はあるが、僕はある意味でそれら一般の移動手段とは一線を期した、明らかにタイムマ
シーンであると思わざるを得ない。
例えば、そのスタイル。
今現在、活躍しているボーイング 747-400 はそのウイングレットやSUD(Stretched
Upper Deck)等、数個所の変更が見られるものの、その基本デザインは今から約30
年近く前の物である。
それにもかかわらず、その豊かな造形と太いラインがもたらす力強い風格は約 30 年
近く経過した現在でも一向に古さを感じさせる事はない。
これが今から 30 年前の自動車の場合ではどうであろうか?
現在の自動車のモデルチェンジの周期は以前に比べて比較的延長されつつあるが、
基本的に 4 年おきであり、ニューモデルが一端登場してしまうと以前のモデルは急に
古臭く見えてしまう。
それが 30 年前となれば、もはや言うまでもない。
そういう意味でも、航空機のデザインは時代の最先端を行っているという言葉にも納
得がいく。
又、飛行機の特徴はそのスピードであり、A 地点と B 地点の移動を線と線でなく点と
点に変えた事である。
東京∼ホノルル間は船ならば約 7 日間も要するが飛行機に乗ればたったの 7 時間
であり、新幹線が登場する前の東海道線の特急ならば東京∼大阪を 7 時間かけて結
んでいたのである。
要するに、かつての東海道線の特急列車が東京・大阪間を走っていた時間と、ハワイ
迄の主要時間は全く同じなのであり、少なくとも時間距離にして、旧東海道線時代の
東京・大阪と、現代のジェット旅客機による東京・ホノルルは等置可能なのである。
とすれば、理論的には、かつて旅行者が東京から大阪に向かう時に感じた「速さ」
(あ
3
るいは「近さ」
)と、今のジェット機旅客がホノルルに対して感じるそれとが、同じであると
いう事である。
そしてこの飛行機というひとつのカプセルの内に入った瞬間から、人間の知覚のスケ
ールは一挙に拡大するのである!!
高度10,000メートルというのは、人間の身長の約6,000倍という事であり、視界は
その2乗であるから36,000,000倍に広がった事になるであろう。
又、音速に近い900Km の巡航速度は人間の徒歩の時速4Km を上回る事250倍
に近い。
要するに、人間の知覚にとって飛行機というのは時間と空間の転換装置なのであり、
他の移動手段とは一線を期す、明らかにタイムマシーンの一種であると言わざるを得
ないのである。
序章といいながら、随分と私自身の飛行機に対する思い入れを等々と書いてしまっ
た事に今、気づいたのでここで元に戻る事にします。
さて、日本には周知のように JAL、ANA、JAS という3社の主要な航空会社がある。
それぞれに生い立ちに差があるが、1952年の航空主権回復以降40年間、政府・運
輸省の保護・舵取りのもとで成長し、幾度かの政策の変更を経て、86年からはようやく
徐々に自由化の時代に入って来ている。
特に、86年3月の全日空の国際定期便進出、87年11月の日本航空の民営化は航
空業界を語る上で忘れない日であった。
その意味で日本の航空業界というのは、自由競争時代に“遅れてきた青年”である。
実際、アメリカの航空業界は、78年から急激な自由化の波に揉まれ弱肉強食を繰り
返しているし、ヨーロッパの航空会社は、生き残りを賭け戦国時代に突入している。
アジアや中東、オセアニア、中南米の航空会社も、野性味とフットワークを兼ね備え
たグローバル思考のしぶとい相手である。
世界的な景気低迷で3社とも業績は芳しくない。
しかし、航空需要が衰える事は決して無いという背景がある限り戦略は無尽蔵である。
そんな中で日本の航空業界は、今どうあるべきなのか?
また、どういう道を進むべきなのか?を以下、検証していきたいと思う。
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第1章 隆盛を誇った航空業界に今何が起きているのか
1、 石油ショック以降の目覚ましい躍進の秘密とは
日本の空を始めて飛行機が飛んだのは1910年(明治43年)
。
1922年(大正11年)には大阪(堺市)と徳島の間に初めて定期航空路が開かれ、そ
の後、東京、福岡、朝鮮半島、中国大陸と航空航路が開設されていくが、太平洋戦争
の為に中断することとなる。
52年、講和条約によって航空主権が回復されると、政府は翌53年10月に「日本航
空会社法」のもと国策会社として日本航空を特殊法人として設立。
日本航空第1条に「日本航空株式会社は、国際路線及び国内幹線における定期航
空運送事業ならびにこれに付帯する事業を経営する事を目的とする株式会社とする」
と規定した。
又、中小の航空会社が合併を繰り返し、全日本空輸、東亜国内航空(現、日本エア
システム)等が設立された。
その後、70年(昭和45年)の閣議了解と72年(同47年)の運輸大臣示達で「日本航
空は国際線と国内幹線、全日空は国内幹線、ローカル線および近距離国際チャータ
ー便、東亜国内航空はローカル線と一部幹線を運行する」と3社の業務分担が定めら
れた。
これが「45・47体制」あるいは「航空憲法」と呼ばれる物で、その後十数年の間、日本
の航空政策の基盤となり、運輸省の指導による3社の安定的な成長を促した。
航空政策に新展開が訪れたのは85年。
アメリカの規制緩和の波を受け、日本としても国際社会の一員として競争社会に立ち
向かっていくべく、航空事業の見直しの必要に迫られ、同年12月の閣議で「45・47体
制」の廃止が決まったのである。
翌86年6月に運輸政策審議会の最終答申が出るが、その考えの基本は「新たな航
空事業の発展期に対して、企業間の競争を通じて利用サービスを充実し、経営基盤
を強化し、国際競争力を付けていこう」というもの。
具体的には、①国際線の複数社制、②日本航空の完全民営化、③国内線の競争の
推進―の3本の柱を基本として、主要3社の経営強化をより推進することになる。
これにより、87年11月に日本航空が完全民営化され、86年3月に全日空、88年に
日本エアシステム(88年4月、東亜国内航空から社名変更)が国際定期便を運行する
事となった。
3社の誕生、事業規模の拡大に日本政府・運輸省の果たす役割は絶大で、航空業
界の発展は国の政策によるところが大きいのである。
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ちょっと振り返ってみると、我々はつい10年前に、日常的に飛行機に乗ったであろう
か?
国内移動の場合でも鉄道が多かったはずだ。
それが今では、JRとの運賃格差が縮まり、かつ主要都市間の航空便数が増えた事で、
「時間的な事を考えると飛行機を利用する」とういう人が多くなってきている。
先に書いたように、飛行機の最大のメリットはスピードなのである。
国際線の発展に関しては、ビジネス、慣行両面で飛躍的に航空需要が拡大した事が
大きい。
ビジネスの分野では日本企業の国際化や貿易の増大、外資系企業の参入が航空需
要を促した。
新人社員研修や優秀な営業マンのインセンティブ旅行に、ハワイや東南アジアが選
ばれるのは当たり前の光景となってきた。
加えて、物流面で、例えば我々が何気なく食べているウナギやエビは、新鮮なうちに
東南アジアから大量に成田空港に運ばれているし、半導体、VTRなども世界各地に
航空運送されている。
成田空港や韓国、台湾から近距離にある福岡空港の輸出・輸入総額ともに年々、増
加しており、観光の分野では、ハネムーンはもちろん、家族旅行や学生の卒業旅行に
至るまで海外へと足を伸ばすようになってきた。
ヨーロッパやアメリカ、アジアの各国から来る外国人観光客の数もうなぎのぼりだ。
航空業界はこうした数々の追い風により、特に70、80年代に入って急成長を遂げて
いくのである。
こうして今日、日本の航空業界の発展には、以上の要因だけではなく、やはり国の政
策面での力が大きかった。
まず、日本航空を育て、それから全日空と日本エアシステムを一人前の会社のレベ
ルに引き上げた。
かつて、運輸業界といえば船と鉄道が主だったのに、今は航空なしでは運輸業は語
れなくなるまでになった。
日本が経済発展をして国民が豊かになったことやジャンボ機など航空機そのものの
技術的な発展と共に、日本という国が海に囲まれていて自動車や鉄道では海外に出
られないというのも幸いしたのではなかろうか。
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2.順風から一転、逆風に曝される航空業界の憔悴
1970年のジャンボ機導入以来、3社とも航空機のハイテク化・大型化を進めたことと
折りからの海外旅行ブームや円高も重なり、順風満帆に成長してきた航空業界も、ここ
に来て少々雲行きが怪しくなってきた。
他の産業同様、バブル経済の破綻、景気低迷の影響をまともに受けているのだ。
90年代に入り、そうして追い風が向かい風と変わってきた原因はやはり91年1月の
湾岸戦争である。
景気が悪化し始め、燃料費が高騰し国際線の乗客が遠のき、ファーストクラスはガラ
ガラという状況になってしまったのだ。
こうした状況により、世界の国際・国内定期輸送量はマイナス成長が続き、特に日本
の主要3社は国際線の収益が悪化しているのが特徴である。
湾岸戦争での需要落ち込みを回復したと思えたが、ちょうど世界的な景気低迷が重
なり、収益源のファースト、ビジネスクラスの利用者が減り、値段の安いエコノミークラス
へと流れたが、エコノミーでは元が取れないのである。
それで、特に路線収入で国際線が70%を占める日本航空が大きな痛手を被り、国
内線が85%の全日空と95%の日本エアシステムが比較的傷が浅くて済んだという事
である。
この結果、日本航空は日本の会社でありながら国内の経済動向より国際的な景気低
迷や円高に左右されるという宿命を持つ事が分かる。
3.格安航空券に翻弄される航空業界
世界的な傾向であるが、英国航空やシンガポール航空など一部を除いて航空会社
の収支が非常に悪化してきている原因のひとつは、H・I・S等に代表される格安航空
券の流通である。
サンマが豊漁だと漁師は海に捨て、キャベツが出来過ぎると農家ではそのままトラク
ターで潰してしまう“豊作貧乏”というやつだ。
若干ニュアンスは違うが、航空会社も似た様な状況にある。
需要はそんなに減っているという事はなく、ボーイング社の試算によると、低成長下で
も今後5%の需要増が見込まれるという。
不調といわれる国際線でも、ファーストクラス、ビジネスクラスの利用率が下落している
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ものの、エコノミーは増加しているのである。
原因として、仕入れコストの下落によるアメリカの航空会社などの安売り航空券の乱
発が世界のチケット相場に影響を与えており、それは海外旅行専門紙「AB・ROAD」
などに掲載されている格安ツアーの利用航空会社は必ずといっていいほどアメリカ系
の航空会社である事からも見て取れる。
又、国際線だけでなく、国内線もチケット業者などにより値下げが行われている。
これは、需要の伸びを航空座席提供の伸びが上回っているためであり、路線の開拓
や増便、ボーイング747−400やエアバス320などのハイテクジャンボ機投入による座
席提供が皮肉にもチケットの値段を下げ、経営を圧迫する事になっている訳である。
企業においても、経費節減などで出張費が手控えられ、かつてはファーストクラスを
利用していた不動産や証券会社の幹部がバブルの崩壊でエコノミーをりようするように
なった。
飛行機は満席でなくとも飛ばなければならない。
ならば、少しでも飛行機の座席を埋めようと、ダンピングをしてでも航空券を売るように
なり、
「空気を乗せて飛ぶよりは、原価を割ってでも人間を乗せて飛んだほうがいい」と
良く言われるが、格安航空券はこうした理屈の上に立っている。
一般に飛行機の座席利用率は、キャンセルなどを考え70%を上回れば「ほぼ満席」
といえる。
現在、日本航空の日本発国際線のシェアは20数%であり、この原因は「国際線なら
ば安心して乗れる JAL」という神話の崩壊、つまりユナイテッド航空やノースウェスト航
空、さらに東南アジアや中近東の航空会社の格安航空券が大量に流通している点に
あるといえよう。
又、国際線の供給シェアにおいても、外国航空会社が着実に増加しつつあるの対し、
日本航空のシェアは下落する一方であり、その原因は、格安なチケットを多く出せる航
空会社にシェアを奪われたと考えて差し支えないであろう。
こうした運賃値下げ競争の流れに対し運輸省は、
「同一路線同一運賃」を基本とし、国
際線は IATA(国際航空運送協会)が決めた運賃を各航空会社が運輸省に申請し認
可してきた。
しかし、国際線ではその実態が実勢運賃に合わないため91年秋、先ずヨーロッパ線
で国際航空運賃弾力化として団体割引運賃に一定の幅を設定する「ゾーン制」を導
入した。
これまで運輸省や日本航空あるいは JTB などは、この格安航空券について「学生な
どの一部の人が利用するのみ」と高を括っていたが、一般のビジネスマンにまで流通
するように至り、ようやく本腰を入れて対応を始めたのである。
かつて、チケット販売は旅行代理店に任せっきりで、自分達で航空券を売る努力をし
ていなかったが、現在では個人向けの割引運賃制度も導入されインターネットでチケ
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ットを購入する事まで可能になった。
さらに H・ I・ S だけでなく JTB や近畿日本ツーリストといった大手旅行代理店まで
もが格安マーケットに本格的に参入、格安市場は膨れるばかり。
“格安指南”の本も続々と出版され、好調な売れ行きを示しているという。
第 2 章 新展開を迎え迷走するJAL
1.公家集団「JAL」
とかく危機意識、コスト意識に欠ける JAL などと揶揄されるが果たしてその実態は如
何な物であろうか?
「公家」という言葉を知っていても、その実態は知らない。
JAL は「お公家様の集団」と呼ばれているらしい。
真意のほどは分かりかねるが、ありていにいえば、やんごとなき家柄に生まれ、おん
ば日傘で育てられたお坊ちゃんお嬢ちゃんが、これという悩みも無く青春時代を送り、
日本航空の就職試験を受けたら合格して、それが当然のような顔をして入社する。
そんな連中の集合体といった意味なのか。
「JAL の営業マンはコーヒーの伝票を取らないで、客が伝票を取る。ANA の営業マン
はまるで百人一首をしてるかのように猛烈な勢いでコーヒー伝票をもぎ取る。
」という茶
飲み話がある。
「JAL が他の会社から営業マンを引き抜く事があっても、JAL の営業マンが他の会社
に引き抜かれた話は聞いたこがない。
」という笑えない話もある。
営業マンといえば客に頭を下げてナンボの商売である。
それが、どうやら JAL の営業マンには当てはまらないのかもしれない。
当然自分が支払うべきコーヒー代を払おうともしないで平然としている営業マンはで
は、確かに雇う気などしないであろう。
簡単に言えば「頭の下げ方を知らない」だけなのである。
又、最近は少しは無くなったのかもしれないが、特に日本航空においては自民党の
国会議員や運輸省の役人の息子・娘が多く入社しており、就職に関して運輸省関係
者のコネは当たり前で、運輸族や運輸省と何らかの関わりのある人達が日本航空で働
くという構図が出来ており、これならば運輸省と馴れ合いになってしまうのは避けられ
ない。
もちん、先ほどの笑い話は多少の尾ひれががついているので話半分としておいたほ
うがいいのであろうが、
「JAL はお公家様の集団」と言われると妙に納得してしまう。
お公家様は品が良くて常識に疎い。
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人が良いから出し抜けを食らいやすい。
つまり、世間の感覚とは少々ズレがある。
それは ANA のしたたかさと比べれば一目瞭然である。
2.
「運輸省とJAL は一体」と言われる理由
JAL のエコノミークラスは、その9割を旅行代理店に販売委託している。
エコノミークラスが捌けるか捌けないかは旅行代理店しだいと言う訳である。
こうなると JAL と旅行代理店は一蓮托生、と言うよりも旅行代理店におんぶに抱っこ
の状態と言える。
JAL が「エコノミークラスを売って欲しい」と旅行代理店に依頼し、旅行代理店は「分
かりました」と言ってチケット販売に全力を傾け、そしてチケットを売りさばいた結果、客
席は埋まり、JAL の売り上げは上がる。
販売力でいえば、JAL は旅行代理店の足元にも及ばない。
それでも何故か JAL はふんぞり返って旅行代理店を見下している。それもさも当然
のように。
このネジレ現象は、元を正せば運輸省の航空行政に端を発している。
「日本航空大事」―これが運輸省の基本的なスタンスである。
JAL の誕生以来、航空行政は JAL を中心に展開してきた。
「JAL は日本の威信回復のシンボル」とばかりに運輸省はナショナルフラッグキャリア
として大切に育て、JAL の成長を全力で後押しした。
これが「運輸省と JAL は一心同体」と言われる所以である。
こうして、国の期待を一身に背負い、運輸省の庇護の下で、JAL は世界へと羽ばた
いて行った。
アメリカに行くのにも JAL、ヨーロッパに行くのにも JAL、アジアに行くのにも JAL。
海外へ旅立つ人達は好んで JAL を利用した。
それは、JAL に乗れば日本語が通じると言う安心感があったからである。
JAL がパンナムより割高であろうと、少々時間帯が悪かろうと、そんな事は日本人にと
ってどうでもいい事であった。
鶴のマークの飛行機に乗る!!それが日本人のステイタスシンボルであった。
心優しい日本人を乗客にしていた時代の JAL は、実に生き生きしていた.
.
.
.
.
というか
ノンビリしていた。
なにしろ、国からお墨付きを頂いた「独占路線」である。
お公家様には左団扇が良く似合う。
営業マンは何もしなくても良い。
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遊んでいても旅行代理店のほうから駆けつけてくる。
当時の JAL は国際線で50%のシェアを占めていたので、50%持っていれば恐いも
の無し、正にやりたい放題である。
それでも育ちの良さが邪魔をして無茶はしない。
JAL が無理難題を押し付けなくとも、旅行代理店は必死になって JAL のご機嫌を伺
う。
JAL の座席を数10席確保すれば、旅行代理店は1年間は遊んで暮らせた時代であ
る。
本来なら JAL は旅行代理店に頭を下げて航空券を売ってもらう立場であり、旅行代
理店はコーヒーどころか銀座あたりで美味しいお酒を飲ませてもらっても不思議の無
い立場である。
しかし、JAL が国際線を独占していた時代には、旅行代理店が JAL の顔色を伺い、
JAL が踏ん反り返っているのが一番自然な様であった。
又、民営化以前の JAL と旅行代理店の不思議な関係として、JAL が国際線を独占し
ていた当時、多くの新入社員の大半は「営業ほど美味しい商売はない」とばかりに営
業職を希望した。
一般の会社で営業職と言えば、最前線で体を張り、身も心も削ってギリギリのところで
商売をする最もハードな職種と言う位置づけがある。
営業マンで顔の青白い物はいなく、最近の学生に多く見られるのは「営業だけはやり
たくない」と言うタイプである。
ところが JAL だけでは事情が違い、皆が営業マンになりたいと言うのである。
当然これには裏がある訳で、営業マンの仕事が普通の営業マンのそれとは全く違っ
ていたのである。
旅行業界にはゴルフ好きが異常なほど多いという。
それは、JAL にゴルフ好きの社員が多いため、JAL に取り入ろうとする旅行代理店の
担当者が「右へならえ」でゴルフを始めたのをきっかけに、ゴルフにのめり込んでしまう
からだという。
土曜、日曜にはゴルフ場が混んでいるため落ち着いてプレーできないと言う事で、接
待ゴルフはもっぱら平日を選んで行われ、こうして旅行代理店の担当者を平日ゴルフ
に付き合わせる事が、JAL の営業マンの主な仕事では大きなウェイトを占める事になる。
まさにゴルフ好きにはこたえられない仕事であるが、バブル崩壊後は少々風向きが変
化し始め、社内に「平日ゴルフ禁止令」が出されたのである。
それにしても、禁止令が出されたと言う事は、それだけ平日ゴルフが社内に浸透して
いたという証明でもある。
JAL が国際線を独占していた時代には、旅行代理店は一様に
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JAL のコンピュータ予約システムを利用していた。
と言うよりも、国際線を運行していたのは JAL1社だったため、使わざるを得なかった。
旅行代理店が国際線のチケットを予約・販売すると、それがどこの航空会社のチケッ
トで、どのくらい売れているかがすべてコンピュータにインプットされるため、この情報
は100%JAL に筒抜けになる。
JAL の営業マンが端末を叩くと、旅行代理店の販売状況が表示され、
「なんだ、ここは
あまりチケットを売ってないな」という会社には、即座に電話でチェックが入る。
旅行代理店は何はさて置き、JAL のチケットを売るために東奔西走する。
つまり、コンピュータ予約システムは利用者に対するサービスであると同時に、旅行代
理店を通じた情報収集機能も兼ね備えており、さらに旅行代理店を自分の意のままに
操る非常に重要な代物であった訳である。
在庫のきかない商品を扱っている以上、閑散期のチケットを何とか売りさばきたいとい
うのが JAL の思い。
一方、旅行代理店は何とかしてゴールデンウィークとか年末年始の座席を手に入れ
たいと思っている。
そこでどうするかというと、旅行代理店は JAL の期待に応えるため、必死になって閑
散期のチケットを売りさばこうとする訳であり、そして閑散期のチケットを沢山売りさばい
てくれた企業に対しては、報酬として稼ぎ時の座席を優先的に売る。
これが端末を独占していた時の強みであったが、JAL の端末支配も1990年代になり
他のエアラインが参入してきてからは、以前のように思う様にはいかなくなった。
3.民営化後に待ち受けていた過当競争の世界
JAL が完全民営化したのは1987年。
前年の7月20日には、それまで国内幹線しか飛ばなかった JAL の飛行機が初めて
地方路線(東京∼鹿児島)を飛んだ。
それが約11年前の事である。
51年8月1日、旧日本航空が設立され、資本金は1億円、本社は中央区銀座、現在
の銀座日航ホテルのある場所である。
同10月20日には、東京∼札幌、東京∼三沢∼札幌、東京∼大阪、東京∼名古屋
∼大阪、東京∼大阪∼福岡、東京∼岩国∼福岡の路線の免許を取得する。
そして10月25日には戦後初の国内民間航空が営業開始となり、マーチン202もく星
号が就航した。
基本運賃は、東京∼札幌10,200円、東京∼大阪6,000円、大阪∼福岡5,520
円、東京∼福岡11,520円であった。
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当時、旅行代理店は阪神電鉄、日本通運、日本交通など7社しかなかった。
やがて、ANA や JAS の誕生と共に、JAL は国内では幹線だけを飛ばし、ナショナル
フラッグキャリアとして世界の空を駆け巡るようになった。
JAL の独占状態が終わりを告げたのは86年。
ANA の国際定期便第1号がグアムへ就航したのが新たな時代の始まりとなった。
ANA は国際線に進出する一方で、国内線でも圧倒的な強さをキープしていた。
気が付いてみれば ANA は国内線で揺るぎ無い地位を獲得し、既得権を守る一方で
JAL の牙城の国際線を新たな舞台としてターゲットを定めてきた。
寡占状態に置かれた国内線とは打って変わって国際線は規制緩和が猛烈な勢いで
進み、過当競争の時代に突入していく。
こうして JAL は微妙なポジションに立たされる事になった。
過当競争に巻き込まれた国際線が門前の虎とするなら、ANA に圧倒的なシェアを握
られた国内線はさしずめ 後門の狼であった。
国内線の1日あたりの便数格差
JAL
ANA
JAS
函館
秋田
小松
広島
松山
長崎
熊本
大分
宮崎
鹿児島
3
5
0
2
4
0
2
4
2
2
6
2
2
6
0
2
4
3
2
3
3
2
2
4
1
6
2
2
5
3
国内線の1日あたりの便数格差を羽田の地方路線で見ると上の図表のようになる。
この様に国内線を ANA に支配された結果、国内線供給シェアは ANA45.7%に対
して、JAL はその半分の22.9%、JAS20.8%となっている。
JAL としては、これを何とか3分の1以上に持っていきたく、その突破口がダブル・トリ
プル路線への参入であった。
JAL の売上高は90年度の1兆1189億円をピークに、91年度1兆1146億円、92年
度1兆340億円、そして93年度には9823億円と一兆円を大きく割りこみ、91年度は6
0億円、92年度は538億円、93年度は261億円と3期連続して経常赤字となった。
この様に91年以降業績が大幅に悪化した原因は言うまでもなく JAL の収入の約7
0%を占める国際線収入の落ち込みであり、危機意識の欠如、今迄のぬるま湯につか
っていた JAL の怠慢である。
業績低迷の打開策として、JAL は緊急収支改善策と構造改革に取り組んできた。
投資の大幅な削減による償却費・金利負担の軽減、空港関連費用の圧縮、関連会
社の構造改革推進等によるコストの削減、人員の大幅削減(22,000人から17,000
人へ5,000人削減)
、賃金制度見直しによる人件費の抑制、コストの外貨化などが構
造改革のポイントである。
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しかし、構造改革を実現するまでに時間がかかるため、緊急収支改善策としてベース
アップやボーナスの大幅抑制、管理職給与の抑制、役員報酬の削減を実行した他、
投資の抑制、一部資産の売却により有利子負債残高を減らし借入金依存度を低下さ
せ、財務内容の健全化と資金調達の安定化を図ってきた。
こうしたコスト削減策と全社一丸となった増収施策により、94年度は売上高1兆353
億円、経常利益28億円と復活の兆しが見えてきた。
95年8月12日、JAL は国内線全線で78,398人を運び、1日の搭乗旅客数の新記
録を達成した。
さらに8月20日、今度は国際線全線で1日に40,118人を運び、これも過去最高記
録を更新するという朗報が相次いだ。
そして95年度(96年3月期)の業績は、好調さを反映した数字がズラリと並ぶ。
売上高は1兆1159億円で、史上最高を記録した90年の1兆1189億円に限りなく近
づいた。
経常利益も43億円となり、5期ぶりに営業利益を計上した。
しかし、黒字計上の実態は、決算対応による物なのである。
経常損益の推移を見ると、91年度はマイナス60億円、92年度はマイナス538億円、
93年度はマイナス261億円、94年度は28億円の黒字に転換した。
ところが実際の経常損益は、92年度が約900億円、93年度が約1050億円、94年
度でも約700億円、そして95年度は約300億円の経常損失になっている。
つまり、史上最高に近い売り上げを記録した95年度でもなお、約300億円の決算対
応をしており、累積損失は489億円にも上る。
さらに有利子負債8261億円と、あの住専真っ青の負債も抱えている。
もうこうなってしまったら、
「国鉄清算事業団」ならぬ「日本航空清算事業団」を作るしか
ない。
航空会社3社の業績(1995年度)
売上高(億円)
経常利益(〃)
経常利益率(%)
JAL
11,159
43
0.38
ANA
8,459
168
1.98
JAS
2,975
1
0.03
3社合計
22,593
212
0.9
4.収益の柱「国際線」が抱えるこれだけの問題
JAL の収益の柱はもちろん国際線であり、国際線の旅客収入がそのまま売上高に反
14
映される事になる。
それは JAL の国際旅客収入の推移と売上高の推移を見れば明らかである。
その国際線だが、JAL にとっては頭の痛い問題が決して少なくない。
例えば、ダンピング問題であり、コストの問題である。
JAL が指摘するように、日米間では日本企業2社に対して外国企業が10社、日欧間
では日本企業2社に対して外国企業は23社が参入している。
ここまでくると、もはや競争原理うんぬんを超越して供給過剰を招いてしまう。
アメリカの航空会社は自国に圧倒的に有利な日米航空協定を盾にして続々と日本に
参入してきており、その結果、日米間に横たわる太平洋にユナイテッド航空やノースウ
ェスト航空、デルタ航空などの飛行機が日本人を日本からアメリカへ大量に運ぶ事に
なり、限られた乗客の獲得競争が熾烈を極めるようになった。
供給過剰になれば、待っているのはダンピングである。
旅行代理店の端末には外資系航空会社の安い運賃が表示される。
それに比べて JAL の運賃が高い時には、外資系航空会社のチケットを販売する。
旅行代理店は昔のように「それでも JAL を売らなければ…」とは思わない。
すでに JAL の国際線のシェアは25%前後になり、その威光は完全に薄れてしまった。
英会話をたしなむ日本人は「べつに JAL に乗らなくても」快適な空の旅を楽しむ事が
出来る様になった。
国際化が進む中で日本人の生活環境も変わり、同時に飛行機に対する意識も「憧れ
の乗り物」から「A 地点から B 地点へ移動するための足」に変わってきた。
それを目の当たりに思い知らされたのがは、他ならぬ、ナショナルフラッグキャリアとし
て国際線を独占し続けた JAL であったのはなんとも皮肉な話である。
日本航空があのパンナムの再来かといわれるのはこの為である。
こうして JAL は無風状態から過当競争の嵐の中に放り出され、否応無しにダンピング
の洗礼を受ける事となった。
これ以外にも、円高による国際競争力の低下、ドル先物予約の失敗による2000億円
もの累積損失以外に JAL の足を引っ張る材料には事欠かない。
(JUST 社問題)
1991年1月、JAL がヤマト運輸と共同出資をしてスタートさせた日本初の国内貨物
専門航空会社、日本ユニバーサル航空(JUST)であるが採算が合わないため1年9ヶ
月で早々と運航休止に追い込まれたのだが、JAL は免許だけは更新していた。
そして96年になって免許を失効して、いまは JUST という会社が残るだけとなった。
本来ならば、JUST は2年前に運行を中止した時点で終わった会社であるが、JAL の
経営サイドは「免許は絶対に失効させてはいけない」と免許にこだわり、免許を失効さ
せないためにわざわざ外国人パイロットを雇って、給料を支払っていた。
15
乗員が居ないと免許は認められないからであった。
ただそれだけの目的で雇われたパイロットは、実際には空を飛ぶ事など1度も無く、9
6年になると免許も失効し、2年間の努力が無駄に終わった。
免許を無くした今では、貨物を積んで飛ばそうにも飛ばせられない JUST という、17
億円の赤字を抱えた会社だけが残っている。
(HSST 社問題)
リニアモーターカー開発会社として、52億円を投資して HSST 社を設立して、それを
1度は1億3000万円で売却し、再び34億円を投資して新会社を設立し、96年度には
黒字化するはずだったが、実際は何も手が付いていない有り様である。
(シティー・エアリンク社問題)
シティー・エアリンク社は国内初のヘリコプターの定期便として87年に開設された。
翌6月には成田∼羽田間のヘリコプター定期旅客便が就航し、89年3月には成田∼
横浜、羽田∼横浜の2路線の開設が認可され、3月25日に運行を開始した。
そして89年10月27日には開業以来の乗客数が1万人を突破したが、その後は利用
率が低迷を続け、91年12月に運航休止となり、解散に追い込まれている。
整理損益は13億円。
(エセックスハウス問題)
84年10月、日航開発はニューヨーク・マンハッタンの「マリオット・エセックスハウス」を
1億7500万ドルで取得した。
歴史と伝統のあるホテルだけに、89年には改修工事を行っている。
この費用が5400万ドル。
すでに、87年の監査報告書でも「支払い資金にも毎年不足する状況に有る」と、ホテ
ル取得の失敗が指摘されている。
稼働率100%でも赤字が続くというのであるから、何をかいわんやである。
しかし JAL は資本金200ドルで PWC というトンネル会社を作り、アメリカで資金調達
を行い、エセックスハウスへの投資を止めようとはしなかった。
この資金調達の際の金利が12%の高利であった。
こうして累積赤字がかさむなか、JAL はマンハッタンでホテル経営を続けている。
(J−AIR 問題)
ジェイ・エアーの前身は「ジャルフライトアカデミー」という、89年に設立された、乗員
訓練を目的とした会社である。
当時、朝日航空というコミューター事業運営会社が広島∼松山∼大分を結んでコミュ
ーターを飛ばしていたが、採算が合わず、撤退する事になった。
といっても、自治体としては補助金を出していた関係も有り、簡単に潰す訳にはいか
なかった。
そこでJALに泣き付いて、押し切られたJALはコミューター事業を引き継ぐ事になっ
16
た。
そして91年4月、ジャルフライトアカデミーは「J−AIR」と名称を変えて、運行を開始
した。
しかし、収益体質は改善しないまま時は流れ、96年には累積赤字が16億円に達し、
JALが責任を持って処理する事となった。
問題というか、あきれてしまうのは、経営サイドがジェイ・エアーを引き受けた時から5
年間の累積予想を16億円∼17億円と想定して、
「予定通りの累積が出ている」と発言
した事にあった。
こうした事以外にも、リゾート開発、シティホテル建設、そして自社ビル建設と、金利の
かさむ事業に次々と手を出し続けるなど、経営の足を引っ張る要素が目白押しである。
ドル先物予約の失敗に付いて組合から質問された時に、会社サイドは「良かれと思っ
てやった事だから失敗じゃない」と開き直ったという。
責任を取ら無くても良いのなら、経営者の資質とはいったい何なのか。
今、JALに不安な風が吹いている。
第3章 国内線を牛耳るANAの強みと弱み
1.JAL と立場を逆転したANA の次ぎの一手
航空会社と旅行代理店はお互いに持ちつ持たれつの関係にある。
旅行代理店が閑散期のチケットを沢山売ってくれれば、その見返りとして航空会社は
ゴールデンウィークやお盆や年末年始のプラチナチケットを優先的に回す。
つまり、チケットを販売する主導権は旅行代理店が握っており、航空会社は旅行代理
店に頭を下げる立場にあるのだが、実際には航空会社が旅行代理店を力で抑え付け、
旅行代理店は常に航空会社の顔色を伺いながら商売をするというように、両者の立場
は完全に逆転している。
これは今に始まった事ではない。
JALが日本企業の中で唯一、国際線を飛ばしていた時代から続いている事である。
JALは国際線のコンピュータ予約システムを利用して旅行業界の首根っこを押さえ込
んでいた。
国内でそれと同じ事を行える立場にあるのはANAを他に置いてない。
ドル箱路線は軒並み手中に収め、独占路線もナンバーワン。
国内シェアは常に50%前後をキープ、JALとJASが束になってもかなわないほど圧
倒的な支配力を持つのがANAである。
17
いくらJALが「国内路線3分の1以上」を熱望しても、運輸行政に大改革が起こらない
限りANAの牙城はビクともしない。
ダブルトラッキング、トリプルトラッキングの参入基準が緩和されても大勢に影響はな
かった。
今回の幅運賃においてはANAが完全にリーダーシップをとった形で進み、JALのは
かない抵抗も空しく、ANAはほとんど無傷でやり過ごした。
2.協力しなければ独占路線のチケットは回さない
ANAの地盤は揺るがず、旅行代理店との関係においても断トツの強さを誇っている。
しかし、そこには強者の奢りが見え隠れする。
「特に、地方に行けば行くほどANAは威張っている」という声もある。
ダブルトラッキングやトリプルトラッキングなどの競合路線であれば、旅行代理店はA
NAのチケットにこだわる必要はない。
しかし、ANAの独占路線ではそうは行かない。
ANAが座席を割り当ててくれなければ旅行代理店はお手上げである。
こうした力関係を背景にしてANAが高飛車に出たケースが表面化したのは、96年3
月の事であった。
95年末、ANAは新潟の旅行会社に対して、
「目標が達成できないときには、新潟∼
札幌線の座席配分を止める事もある。
」と通告した。
この発言には、地元の旅行会社にハッパをかけてANAの新潟支店の営業成績を上
げようという狙いがあった。
95年末の時点で新潟∼札幌線はANA337便が9:00、ANA339便が、4:55に新
潟空港を出発するANAの独占路線であった。
新潟におけるANAの独占路線は札幌線のほかにも、函館線、名古屋線、福岡線な
どがあり、大阪線はJASの独占路線になっている。
この様にANA抜きでは語る事の出来ない新潟空港が、96年の3月末に滑走路を25
00メートルに延長した。
それと共に、JALとANAがホノルル行きのチャーター便を運行する事になった。
これが事件の導火線となる。
ホノルル行きのチャーター便はANAも利用できる代わりにJALも利用できる。
どちらの航空券を売ろうと、それは旅行代理店の勝手である。
ところが、ANAは旅行会社にこう言って圧力をかけた。
「
JALの航空券を売る旅行会社には、新潟∼札幌線の座席を卸さない」
18
つまり、ANAの航空券だけを売れ、そうでなければ独占路線のチケットは回さないぞ、
というわけである。
これは圧力を通り越して、完全な恫喝である。
困ったのは旅行会社であり、それを聞いて怒ったのはJALであった。
日本旅行業協会の新潟県地区会はANAに対して「制裁は止めて、我々の自由意志
で売らせて欲しい」と要望書を提出した。
JALも3月12日に抗議した結果、ANAは「有利な立場を使って不当な販売をした」と、
無茶なゴリ押しを認めた。
今回の件に関して運輸省は「この問題は新潟に限った事」と例外的な物として位置づ
けたが、この事件は例外どころか氷山の一角にすぎず、過去にもこれと似たような事件
が何件も起こされている。
88年7月、JALの東京∼松山線(1日2往復)が開設された。
JALが乗り入れるまでは、ANAがこの路線を独占していた。
そこへ入り込んだものの、チケットは全く売れなかった。
最初は時間帯や便数に原因があるよ思っていたJALは、やがてANAの手口に気づ
く。
ANAは東京∼大阪線を独占路線として握っている。
これは東京線と並ぶドル箱路線であり、この大阪線を利用して「JALのチケットを売る
なら、大阪線の座席は売らない」と揺さ振りをかけてきた。
ANAに逆らうわけにはいかない。
こうして松山の旅行代理店は悔しさを噛み殺しながらANAのチケットを売った、という
エピソードが残っている。
この様に国内線では圧倒的な強さを見せるANAであるが、では国際線では如何な
物であろうか。
86年3月3日、ANAの国際定期便がグアムに向けて飛び立って行った。
夢にまで見た国際線就航第1号便であった。
同7月16日には東京∼ロサンゼルス線、7月26日には東京∼ワシントン線を開設し
た。
日本人を乗せたANAの飛行機が、太平洋を超えてアメリカの土を踏んだ記念すべき
国際線就航元年であった。
悲願の国際線進出から12年目の現在、ANAは世界25都市に40路線を開設するま
でになった。
95年度の国際線旅客数は前年比31%増の229万3140人、旅客収入は同23%増
の1389億5800万円となった。
この右肩上がりの数字を見た限りでは、いかにも着々と軌道に乗りつつある様な印象
を受けるが、実際は苦戦の連続と言ったほうが正しい様である。
19
寡占状態の中で自分の意のままの商売が可能な国内線と異なり、ダンピング競争の
なかで熾烈なサバイバル合戦が続く国際競争を勝ち抜くのはそんなに甘くない。
それをANA自らが立証してみせたのが「フルリクライニングシート」の導入である。
96年6月18日、ANAは国際線のファーストクラスに日本初のフルリクライニングシー
ト「The Fu
l
l
f
l
a
t Sea
t
」を導入すると発表した。
新型シートは180度リクライニングし、完全なベットになる。
つまり、座席をベットにしても後ろの乗客の足にも被さらないうえ、前の客の頭にもぶ
つからないだけの面積を1つの座席が占めている訳である。
ファーストクラスの利用客はこの新型シートをベットにして長旅の疲れをあまり感じ無く
て済むようになる。
随分結構な話だが、常識として客が沢山居れば座席のピッチは詰めるものだが、AN
Aはそれと全く逆の事をやっている訳で、それは言い換えれば、それだけ客が乗らな
いという事を意味している。
ファーストクラスが常に満席に近い状態であれば何も手を加える必要など無かったが、
実際には空席が目立ち、ファーストクラスの座席が「座って欲しい」と泣いていたのであ
る。
そこでANAはこう考えたに違いない。
「どうせ客が少ないのなら、いっそ座席を倒してベットにしてしまえ。その方が利用客
にも喜ばれる」
もちろんANAにすれば「客が乗らないからフルリクライニングシートにした」とは口が
裂けても言えないところである。
そこで記者会見でフルリクライニングシートの快適さをアピールし、サービスの充実を
前面に打ち出した新聞広告を掲載したのである。
しかし、どんなにきれいごとを並べようと、行き付く先は「苦肉の策」という結論でしかな
い。
この事例1つとっても、ANAの国際線は大変な辛酸をなめてきた12年だった事が分
かる。
現在ではスーパー早割りなどの割引き運賃サービス、又、普通運賃の値下げが行わ
れたが、値下げされた路線はいずれも競合路線であり、JALとの意地の張り合いで下
げざるを得なかった面があり、それでいて結局は横並び運賃で落ち着いてしまったの
である。
早割にしても繁忙期では座席数が限定される、特割りはピークの時間帯を外したもの
という具合に、利用客の立場に立った運賃設定とは言い難い。
その極め付きは、東京∼富山(1日6往復)
、東京∼高知(同5往復)
、東京∼山口宇部
(同5往復)
、東京∼岡山(同4往復)などのドル箱路線に全く手を付け無かった事であ
る。
20
国内線のリーダーシップを握るANAが競争促進にこれだけ消極的では、利用者は
救われない。
運輸省はJALとANAの利権獲得合戦の調整役としてではなく、利用客の立場に立
って国内線全体の見直しをしてもらいたいものである。
それをしない限り、ANAは石にすがり付いてでも自分の利権を死守しようとするに決
まっている。
これでは何の為の免許制度なのかが問われてくる。
世間から批判されなければ腰を上げようとしないANAが、初心に戻ってヒコーキ野郎
の集団になる日は2度と来ないのであろうか。
第4章 2強に追いつきたいJASの決断
1.国際線確保も空回りするJAS の実態
国内航空3社をたとえると、JALはおっとりした「殿様」
、ANAは抜け目のない「商人」と
言われるが、じゃあJASは何にたとえられるかといった時に、ピンと来るような言葉が出
てこない。
つまり、JALとANAと比較するにはあまりにも所帯が小さすぎて比較できないのであ
る。
1995年3月時点における各社の規模を比較してみると以下のとうりである。
日本の定期航空企業の概要
区分
航空会社
日本航空
(JAL)
全日本空輸
(ANA)
日本エアシステム
(JAS)
日本アジア航空
(JAA)
日本貨物航空
(NCA)
日本トランスオーシャン航空
(JTA)
会社概要
(1995年3月31日現在)
設立
1953
資本金
1883億2384万円
機数
119機
職員数
20,679人
1952
721億3930万円
123機
14,416人
1971
234億8650万円
78機
5,504人
1980
43億1000万円
8機
879人
1978
216億円
7機
568人
1967
45億3720万円
17機
806人
21
エアーニッポン
(ANK)
日本エアコミューター
(JAC)
合計
1974
54億円
40機
1306人
1983
3億円
21機
344人
413機
44,510人
ちなみに、1995 年度(96 年 3 月期)のJAL、ANA、JASの各社の決算
は次のとうりである。
主要 3 社の 1995 年度決算(96 年 3 月期)
JAL
ANA
JAS
売上高
1 兆 1159 億 3100 万円
8459 億 7300 万円
2975 億 9900 万円
経常利益
43 億 9600 万円
168 億 3600 万円
1 億 7000 万円
国内航空会社は最初にJALありき。
それをANAが追いかける形になっているが、3 番手のJASはどうあがいて
も 2 強の足元にも及ばないのである。
つまり、このままではJALとかANAを相手にするどころではなく、下手
するとエアニッポンに抜かれかねないのである。
国内線では不採算路線ばかり押し付けられ、社員は薄給にもかかわらず国民
の付託に応えるべく頑張って飛行機を飛ばしているという、いってみれば健全
な会社といえなくもない。
そのエアニッポンが、福岡∼台湾に国際線を飛ばしている。
それが、国際旅客数 1 万人という数字になって現れているのである。
どんな路線であろうと、とにかく形だけでも国際線に進出しているのは紛れ
も無い事実である。
JASは国際線で 26 万人を運んでいる。
しかし、その実態はというと、実にお寒い限りである。
2.国際線進出のタイミングがバブル崩壊と重なる
85 年 12 月に「航空憲法」が廃止されると共に、遂に東亜国内航空にも国際線進出
への道が開かれる事となった。
86 年 9 月には、初の国際チャーター便を大阪∼ソウルで実施したのを皮切りにして、
国際定期航空便運行に向けてのデモンストレーションが続く。
22
そして、88 年 4 月、いよいよJAL、ANAに続く第 3 勢力として、世界の空を駆け巡る
日がやってきたのである。
しかし、この時点でJASの国際線には赤信号が点滅していた。
バブルが崩壊して日本経済が瀕死の重症に陥ってしまったのであった。
国内航空会社は軒並み業績を悪化させていた。
3.航空憲法廃止時に最初のチャンスを逃す
91 年から 94 年までのJASの業績は次のとうりである。
JASの売上高及び経常利益の推移(91 年∼94 年)
91
92
93
94
年
年
年
年
売上高
2667 億 4600 万円
2721 億 1400 万円
2715 億 200 万円
2808 億 3200 万円
経常利益
33 億 4400 万円
マイナス 48 億 2500 万円
マイナス 126 億 8900 万円
マイナス 30 億 5200 万円
この様なJASの業績低迷の原因を象徴するのは、あまりにも早い国際線からの撤退
であった。
94 年 6 月 1 日には東京∼ホノルル線を、95 年 4 月 1 日には東京∼シンガポール
線を、それぞれ休止してしまった。
東京∼シンガポール線は開設して 5 年目、東京∼ホノルル線にいたってはわずか 3
年目の降伏宣言であった。
この原因として、まず挙げられるのはデイリーでなかった事である。
旅行代理店としては、JASのフライトを使ったツアーを作りたくとも作りにくくてしょうが
ない。
これが商売にならなかった原因である。
デイリーでなければ客は乗ってくれないというのは。航空業界の常識である。
さりとて、JASにデイリーにして赤字を承知で飛ばし続ける事が出来るほどの体力も無
い。
結局「無い袖は振れない」という事になって、JASはハワイとシンガポールからの撤退
を余儀なくされた。
そして、現在JASの国際線は、東京∼ソウル線と、95 年 10 月に開設した関西∼広
州線の 2 路線でけとなってしまったのである。
国際線に進出した時のJASの高揚感は一体、どこへ行ってしまったのであろうか。
「給料は安くて、そのくせ 1 日の離着陸回数は 1 番多い。生産性ナンバーワンはJA
23
Sで決まり」という笑えない話がある。
この様な低迷の責任を、すべてJASに押し付けるのはあまりに酷である。
なぜならば、航空会社 3 社の命運は運輸省が握っているため、運輸省のサジ加減ひ
とつでJASが一気に浮上する可能性もある。
しかし、JASはすでに最初のチャンスを逃しているのである。
それは「航空憲法」と呼ばれた「45・47 体制」が廃止された時であった。
「45・47体制」では、JALは国際線と国内幹線、ANAは国内幹線とローカル線およ
び近距離国際チャーター便、JASはローカル線と一部幹線を運行するという具合に、
3 社の体力に見合った業務分担がなされた。
JALはナショナルフラッグキャリアとして颯爽と世界の空を駆け巡り、ANAは日本の
空を制覇していった。
そしてJASはというと、未だ国内線の完全ジェット化もままならない状態であった。
4.JASの1 番のウィークポイントとは?
「45・47 体制」の廃止と共に航空 3 社の業務分担が見直される事になる。
新航空政策のキーワードは「規制緩和と自由化」であり、JASにとってはまさに千載一
遇のチャンスであった。
86 年当時のJASはどんな立場にあったのか、JAL、ANAと比較すれば一目瞭然で
ある。
1986 年当時の航空 3 社の比較
路線数
旅客数
旅客キロ
売上高
営業利益
1 路線あたり便数
1 旅客あたり旅客キロ
JAL
99(国内 13)
1,376万人
(国内806万人)
373億9500万㎞
(国内68億1200万㎞)
8240億円
(国内1716億円)
192億円
(国内)3.7
2718㎞
24
ANA
73
2,416万人
JAS
67
907万人
190億3800万㎞
57億300万㎞
4649億円
1493億円
155億円
3.2
788㎞
76億円
2.5
629㎞
(国内845㎞)
1 旅客あたり収入
42,196円
17,497円
15,215円
(国内17,705円)
1 路線あたり旅客収入
(国内)110億円
58億円
21億円
従業員数
20,367人
10,782人
3631人
総資産
8029億円
5851億円
1680億円
自己資本
1402億円
1742億円
85億円
自己資本比率
17.5%
29.8%
5.1%
売上高では、JALはJASの5.5倍、自己資本ではJALが16.5倍、ANAが20.5倍
と、財務内容に格段の差がある。
この要因として挙げられるのは、アンバランスな路線配分である。
路線では明らかにうまみのある路線と、そうでない路線があり、また、JASがいかに不
採算路線を飛んでいたかは、国内旅客数上位路線を見ても分かる。
JALは国内13路線で806万人を運び、1716億円をうりあげていた。
JASはJALの5倍の67路線で907万人を運び、1493億円しか売り上げる事ができな
かった。
それは、JALとANAがうまみのある路線を押さえ、
JASがうまみの無い路線ばかりを配
分されたからに他ならない。
路線配分によって各社の将来は自ずと見えてくる。
それだけに、新航空政策に賭けるJASの意気込みは並々ならぬものがあった。
航空会社3社の路線別状況
(うまみのある路線)
・区間距離501㎞以上
JAL100% ANA82.9% JAS51.5%
・年間100万人以上の乗降旅客数のある空港間を結ぶ路線数の割合
JAL100% ANA49.3% JAS25.4%
・1路線あたりの年間旅客数30万人以上の路線の占める割合
JAL61.5% ANA42.5% JAS13.4%
・1日5便以上運行している路線の占める割合
JAL20.0% ANA24.3% JAS16.7%
(うまみのない路線)
・区間距離300㎞以下の路線が占める割合
JAL0% ANA7.1% JAS19.7%
・YS−11が主要機材となっている路線の割合
JAL0% ANA12.9% JAS48.5%
25
・1路線当たりの年間旅客数10万人以上の路線が占める割合
JAL7.7% ANA39.7% JAS56.7%
・1日2便以上運行している路線の占める割合
JAL46.7% ANA46.7% JAS62.1%
国内線旅客数上位路線
東京∼札幌
東京∼福岡
東京∼大阪
東京∼沖縄
大阪∼福岡
東京∼鹿児島
大阪∼札幌
東京∼小松
大阪∼鹿児島
大阪∼沖縄
JAL
40.4%
42.5%
50.1%
54.0%
48.9%
0%
46.2%
0%
0%
50.5%
ANA
48.3%
43.2%
42.4%
46.0%
51.1%
75.6%
53.8%
100%
87.4%
49.5%
JAS
11.3%
14.3%
7.5%
0%
0%
24.4%
0%
0%
12.6%
0%
5.
「生産性なら1番の」JASが浮上するには?
86年の「45・47体制」の廃止を受けて、新航空政策が明らかにされ、JALは民営化
され、新たに国内高需要ローカル線に参入する事になった。
ANAは念願の国際線進出が現実のものになった。
そしてJASは国際線、国内幹線への参入が認められた。
国内幹線に飛行機が飛ばせる。
国際線にも進出できる。
JASにとっては願ったり叶ったりの様に見える新航空政策であったが、世の中はそん
なに甘くはなかった。
JALやANAと比較すると需要の少ないローカル線が圧倒的に多く、路線構成や競
争力には大きな格差があり、又、今まで述べてきたとうり不採算路線が圧倒的に多い
ために財務内容もJALやANAとは比べ物にならない程悪く、東亜国内航空の発足以
来、1度も配当を行う事が出来ない。
国内線ではANAに大きく水をあけられ、国際線では開設後間もなく、ホノルル線とシ
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ンガポール線から撤退してしまった。
そして、あれから10年経った今でもJASは2強の影すら踏む事は出来ない。
一言で言って、JASの悲劇は、良い路線が無い事に尽きるのである。
一応、形式的に幹線に入れてもらったが、ローカル線は惨澹たるものであり、幹線以
外のローカル線の売り上げランキングのベストテンにJASの路線は、資料で示したとう
り、ただの1つも入っていない。
東京∼大分の、JASにとってのドル箱路線がやっと20位前後に顔を見せる程度であ
るから、あとは推して知るべしである。
現在のように、採算性の無い路線を山ほど抱えている限り、JASの浮上は難しいであ
ろう。
そのなかで、JASの社員は安月給にもかかわらず歯を食いしばって頑張っている。
それが、生産性ならJASが1番という皮肉な形で現れているのである。
ましてやこれから、外国勢力が続々と日本に上陸してくるため、JASの雲行きは一層、
厳しくなる事が予測される。
その外国勢力、とくにアメリカのメガキャリアは自由化をどう乗り切って体力をつけたの
か、またこれから日本が段階的に行っていこうとする本格的な意味での航空規制緩和
を約10年以上も前に行ったアメリカのケースを見ていきたい。
第5章 アメリカ圏の航空業界は規制緩和に揺れる
1.規制緩和にともない269社が乱立する
日本の航空業界の激変は、海外、とくにアメリカの自由化への圧力や、航空業界の
規制緩和(Deregu
l
a
t
i
on)の影響が大きい。
その象徴的な出来事が、1991年12月4日のパンアメリカン航空の倒産であった。
アメリカ連邦裁判所は、
「パンナムの再建は困難」と判断し、同社は64年の歴史に幕を
閉じる事になったのである。
パンナムにとっては、88年12月にイギリスで起きたテロリストによる爆破も不幸であっ
た。
乗員乗客と住民計270人が死亡、97年7月10日、ニューヨークのブルックリン・アメリ
カ連邦地裁の陪審は、パンナムの安全確認の義務を怠ったとして過失を認める評決
を下している。
しかし、何よりパンナムの経営悪化はナショナルキャリアとしての奢りにあったというの
が多くの関係者の意見。
世界的な景気変動に大きく左右される国際線が主体であった事も経営基盤を圧迫し
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た。
国内路線に弱い日本航空が「第2のパンナムか」といわれる所以でもある。
パンナムはすでに91年1月に破産法第11条(日本でいう会社更正法)の適用を受け
ていたので、関係者は「やっぱり再建は無理だったか」と倒産自体に衝撃は少なかっ
たものの、アメリカの規制緩和の波が日本へも広がるとの実感を誰もが強く抱く事とな
ったのである。
ここで簡単にアメリカの規制緩和の歴史を振り返ってみると、1978年当時に当時の
カーター政権下で実施され、以後80年代前半までの第1段階、後半の第2段階、90
年代の第3段階の3つに分ける事が出来る。
第1段階では、安売り航空運賃などなりふり構わぬ価格競争と新規参入が促進され
た時代。
アメリカの航空業界は規制緩和以前は36社だったが「航空企業規制緩和法」が施行
されると269社もの会社が雨後のタケノコのごとく乱立し、新規航空会社が格安の運賃
で大手の顧客を獲得していく。
金融界もこうした果敢なベンチャー企業を積極的に支援する。
そして結局、大手も当然のごとく運賃を下げ、価格競争が激しくなっていくのである。
多数の新規航空会社によりアメリカの航空供給量は飛躍的に増えたが、80年代後半
な第2段階では、大手航空会社による市場支配戦略と合併・買収・統合による寡占化
が進んでくる。
大手は資金力にものを言わせて、ハブアンドスポークシステム(ハブとは自転車の車
輪を支えるスポークの放射状の中心部をいい、そのように拠点空港から路線を伸ばす
システム)やCRS(コンピュータによる旅券予約販売システム)の開発で対抗し、競争
で敗れた中小航空会社が合併・統合されていくのである。
又、見逃してはならないのが、この時期。極端な価格競争の影響からか事故が多発し
ている点。
バリュージェットなどはその典型的な例である。
老朽化した飛行機や安物の中古機材、規制緩和による人員合理化で安全面が疎か
になったためである。
当時、コンチネンタル航空、ユナイテッド航空は安全基準違反の運航で罰金を払い、
イースタン航空は刑法の適用を受け、苦闘の末、91年に解散している。
2.大手3社の寡占化、系列化の流れに集約される
第3段階に入った現在では、メガキャリアと称される国内航空から出発したアメリカン
航空、ユナイテッド航空、デルタ航空の3社による市場支配と系列化が進んでいるのが
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特徴である。
湾岸戦争による燃料費の高騰と需要の大幅減、景気低迷が重なり、新規航空会社は
ほとんどが消滅してしまった。
こうしてみてくると、自由競争を促したアメリカの規制緩和とは何だったのか。
弱肉強食といってしまえばそれまでだが、意外に問題点も多いのである。
確かに、航空規制緩和は航空への旅客シフトというメリットを発揮したが、いま淘汰さ
れた現状はきれいに整理されたというよりは、掻き回された末に弱みが露呈したままと
いった感じが強い。
安売り競争では毎日の様に運賃が変わり、路線の多い長距離のほうが需要の少ない
短距離より運賃が安いということがざらになった。
そこで結局、強力なCRS網を持つ大手3社の寡占化が進んだという事である。
また、経営不振によるレイオフや賃金カット、倒産による失業者の増大という社会的な
問題をも生み出した。
安売りに走った運賃問題では、91年8月に「航空大手9社の談合による運賃値上げ
を問う」集団訴訟(クラス・アクション)が起こされる始末。
原告側が代表する利用者客数1250万人と推定されるから、史上最大の集団訴訟で
ある。
なにやら、航空規制緩和の行き付く先を暗示しているようである。
こうした事態を解決すべく、91年に入ってアメリカ政府は大手航空会社の寡占を防ぐ
「航空競争力強化法案」を打ち出している。
同法案では特に外貨の導入を、
「アメリカ航空会社に対する外国人持株規制を25%
から49%に引き上げ、投票権のある株式については従来の25%規制を継続するが、
投票権の無い株式(優先株)と合計し、最大で49%まで認める」と決めており、今後は
海外の航空会社を交えて一層の企業提携やグローバル化が進むと見られ、つい最近
ではアメリカン航空とJALの広範囲に及ぶ業務提携が発表されている。
現在各社とも経営状態は芳しくはないが、この様な変遷を経てアメリカの航空業界は
次の4つのグループに分かれてきている。
①メガキャリア………・アメリカン航空、ユナイテッド航空、デルタ航空
②多額の負債を抱えるが生き残る会社………ノースウェスト航空、USエアー
③破産法第11条の保護下にある会社………コンチネンタル航空、トランスワールド
航空(以下TWA)
、ミッドウェー航空、アメリカンウェスト航空
④独自の戦略を歩む会社・・・・・・・・・サウスウェスト航空、アラスカ航空、ハワイアン航
空など中短距離輸送に特化している中小企業
次に、簡単に主な会社の現状を紹介していきたい。
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3.世界最強のCRS復活に賭けるアメリカン航空
アメリカ最大のメガキャリアであるアメリカン航空は1934年の設立で日本への乗り入
れは87年5月、本拠地ダラスからの直行便であった。
アメリカ、中南米、ヨーロッパと世界280都市以上のネットワークを持つ。
TWAのロンドン線を取得し、シカゴ∼ロンドン線を持たないユナイテッド航空に対抗、
湾岸戦争の後遺症から立ち直り、需要を伸ばしている。
航空予約システムの「セーバー」は、端末台数が世界一の8万8000台もあり、航空・
旅行に関する情報量では世界最強だったが、このほど英国航空、KLMオランダ航空、
アリタリア航空などヨーロッパ9社が加盟する「ガリレオ」と、ユナイテッド航空系の「アポ
ロ」が合併、端末数では「セーバー」にやや劣るものの売上高では世界最大のCRS誕
生となり危機感を強めている。
対抗措置としてエールフランス、ルフトハンザ・ドイツ航空系のヨーロッパ最大システム
「アマデウス」と提携をしていく模様。
また、限界に来ている価格競争に対してサービス面ではニューヨーク∼ロサンゼルス
間のビジネスクラスを増やし、ファーストクラス並みの座席の大きさとするなど工夫を凝
らしてきている。
4.世界一周路線を復活させたユナイテッド航空
「空の一周10年ぶりに復活」92年8月、ユナイテッド航空が93年2月10日より世界一
周路線の運航を始めると発表。
世界一周航路はパンナムが運航していた時以来10年ぶりである。
同社はパンナムの太平洋線やロンドン線を買収しており、具体的な形で顧客還元を
実施したといえよう。
ユナイテッド航空は、アメリカ国内、メキシコ、カナダ、太平洋・大西洋横断、南太平洋、
東南アジアに展開するアメリカ第2の航空会社。
83年4月に日本に乗り入れて以来、ニューヨーク、ワシントン、ロサンゼルス、シカゴ、
ヒューストンなどアメリカの主要都市に直行便を運航している。
又、同社の航空機はこれまでほぼボーイング社製で占められてきたが、先ごろヨーロ
ッパエアバス社の「A320」を購入すると発表。
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EUの経済的発展を見据えて、ヨーロッパ市場をにらんだ政治的な戦略と見られてい
る。
独自のサービス「マイレージプラン」では、飛行マイルを加算する事で割引チケットの
特典が付き、うちのゼミの望月教授もよく利用されているらしい。
このサービスは利用者に非常に好評で、日本のエアラインがこぞって真似をし始めて
いる。
又、アメリカ国内に限り飛行中に電話で買い物が出来るカタログショッピング「ハイ・ス
トリート・エンポリューム」を実施している。
僕も以前、利用した事があるが、本当に必要最小限のサービスしか提供しないという
感じで、ドリンクなどのサービスが終了すると、さっさとフライトアテンダント達はハッチ
近くにたむろし、タバコを吸い始め、
「僕がポストカードをくれ」と言っても探そうともしな
いで、
「もうありません」などと言われた。
僕自身、あまり良い印象は無い。
5.パンナム買収で3強の一角に躍り出たデルタ航空
先ごろオリンピックが開催されたアトランタを本拠地とするアメリカ3位のデルタ航空は、
アメリカ運輸省調査による顧客満足度で17年間連続トップを維持している。
このサービスの質の高さと経営戦略の歯車がおおむね合致しているのが強み。
アメリカの航空業界はここ10年間、大量解雇、倒産の嵐が吹いたが、そんな中でデ
ルタ航空は財務力に優れ給与水準も高く、労使関係も良好。
ただし、92年中にパートタイマー4000人を一時解雇するなど、世界的な航空不況下
において人員削減からは逃れられそうも無い。
アメリカン航空やユナイテッド航空が積極果敢な経営をするのとは対照的に、デルタ
航空の社風は南部特有の保守性からか、慎重で地道だ。
しかし91年のパンナム買収では、ここぞと言うところで思い切った決断を見せた。
デルタ航空は、パンナムの大西洋路線全線、フランクフルト空航の使用権、アメリカ東
北部のシャトル便と航空機45機のリース権を獲得し、一気にアメリカン航空、ユナイテ
ッド航空を急追、3強の一角に躍り出たのである。
これにより大西洋線のシェアでは、英国航空に次いで第2位となり、アメリカン航空や
エールフランスを上回った。
特にパンナムの「フランクフルト・ハブ」を獲得できた意義は大きく、EU 市場に確固た
る基盤を築いたと言える。
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だが、パンナムの資産買収で借入金が膨らんでおり、ジワリとデルタ航空の経営にの
しかかってきている。
日本への乗り入れは87年と比較的新しいが、
「デルタを予約すれば、アメリカを知り尽く
したも同然です」と訴え、アメリカ247都市へ週20便のフライト、アメリカへ入ると1日47
00便のネットワークの利便性を強調するなど強化策を次々と打ち出しており日本航空
とも得意客優遇制度で強力関係を築いている。
6.アジアとの関係が深いノースウェスト航空
アメリカ4位のノースウェスト航空は、日本への乗り入れが1947年と古く、日本航空も
発足時はノースウェスト航空から機材とパイロットを借り、運航責任を取ってもらってい
た程である。
日本とアジアとの関係が深く、アメリカとアジア・太平洋間の輸送ではアメリカでトップ
である。
現在、日本地区の社員数は900人を超えて中途採用も活発だが、北アメリカ地区で
は92年10月2日に約480人が解雇された。
ところで、ノースウェスト航空と言えばつい最近までニューヨーク∼大阪∼シドニー線
の「以遠権」問題で運輸省ともめていた。
以前の日米航空協定では、到着国を経由して第3国に運航する権利である「以遠権」
の不平等が目立ち、アメリカから日本へはほぼ無制限なのに、アメリカ向けは原則的
に禁止されていたためである。
ノースウェスト航空のニューヨーク∼大阪∼シドニー線は、運輸省が「大阪∼シドニー
間の利用者と貨物を全体の50%以下に抑える」との条件付きで認可した路線だが、
実際には大阪∼シドニー間のみの利用者が多い時で90%を超えていた。
以前の日米航空協定に従うとあくまでニューヨーク∼大阪線がメインで、大阪∼シド
ニー間は付属線であるはずだったが、どう考えても大阪∼シドニーへの利用客が多く
見込め、ノースウェスト航空が最初から大阪からシドニーの利用客を当てにして開設し
た感が強い。
この問題では、運輸省は何度もノースウェスト側に警告をしてきたが、日米関係への
配慮から強硬措置が取れず、現在は黙認の形となっている。
ところで、ノースウェスト航空は92年から制服の新調や、ビジネスクラスの食事を高級
化したりとサービス充実に余念が無く、機材においては B747機全機に新 AV システ
ム「ワールドリング」を導入、多彩なテレビ番組を楽しめるようになっている。
又、運航面においては KLM オランダ航空と運賃や運航で一体経営をしている。
しかし、このノースウェスト航空の悪しき評判は、何と言っても「事故」が多い点である。
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エンジンが飛行中に落下したり、火を噴いたり、又、いったん離陸して故障が見つか
り引き返してきたり、この様に離陸できるだけましなぐらいで、離陸を途中で中止する事
さえ多々あるのである。
この為、我慢の限界に達した運輸省はノースウェスト側に整備の徹底を指導し、アメリ
カ当局にも指導を要請している。
確かに、コスト面が厳しいためと言っても安全に対するコストは削ってはならない。
7.再建策で明暗を分けたUS エアー、コンチネンタル航空
アメリカ5位前後の US エアーは数年前まで業績は良かったが、89年より赤字が続い
ている。
その原因は、87年に買収した西海岸に展開するパシフィック・サウスウェスト・エアライ
ンと南東部と東部を拠点とするピードモント・エビエイションの2社の負債が多額なため。
現在、不採算部門を縮小するなど大胆な合理化計画を進行中。
一方で保有機をこの4年で3倍近くの433機(91年末)に増やし、拠点の東部地域を
拡大するなど着々と再建策を進めている。
英国航空とともに TWA のヨーロッパ路線やセントルイスの営業拠点の買収計画を発
表し、英国航空と併せ年間乗客輸送量が8000万強の世界最大の航空会社になる模
様。
US エアーは日本への直行便は未だないが、全日空と業務提携している。
その内容は、全日空の東京∼ワシントン線からオーランド(フロリダ)
、シャーロット(ペン
シルベニア)
、ピッツバーグへの接続提携。
全日空が、どの空港のどの航空会社のどの時間帯が開いていて、どうすれば接続が
スピーディにいくかを検討した結果である。
コンチネンタル航空もアメリカ第 5 位前後につけているが、再建は微妙。
日本からはグアム、サイパン、ハワイを主要マーケットとしており、需要は好調。
新潟や岡山など地方都市からのグアム、サイパン線を新たに狙っている。
ただし、90 年末からは、会社更正法の適用下でノースウェスト航空、アメリカの複合
企業のマクサーム、カナダのエア・カナダ、メキシコの航空会社、メキシカーナ
・エアラ
インズの大株主らに加え、92 年 9 月にルフトハンザ・ドイツ航空が買収に乗り出してい
る。
コンチネンタル航空はヒューストンが拠点で、ハブを置いており、アメリカ国内のネット
ワークは強い。
同じく、会社更生法適用下の TWA の場合は、国内国際とも路線を縮小中。
特に、92 年 3 月に開設したばかりのニューヨーク∼モスクワ線は、デルタ航空とアエ
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ロフロートに敗れわずか 7 ヶ月で撤退した。
英国航空と US エアーのグループが買収構想を打ち出している。
又、先ごろ従業員総数の約 1 割にあたる 2800 人を一時解雇すると発表、苦しい状
態が続いている。
さらにアメリカの中小航空会社では、ハワイアン航空がホノルル線を主体に 91 年 5
月に日本に乗り入れている。
アメリカウェスト航空の場合は、91 年 2 月に日本へ乗り入れたものの、ノースウェスト
航空の傘下に下っている状態だ。
以上のように、アメリカでは 78 年の航空規制緩和によってアメリカン航空、ユナイテッ
ド航空、デルタ航空の 3 大メガキャリアによる市場支配が形成されつつある。
力量をつけた 3 社はヨーロッパやアジア・太平洋路線へも果敢に参入してきているの
が現状である。
この 3 社の攻勢ぶりは、今後の世界的規模で進展すると思われる航空自由化の重
要なケーススタディとなろう。
終章
今迄、見てきた様に、現在の日本の航空業界は大変な時代を迎えている。
日米航空協定の合意という好材料はあるものの、アメリカをはじめとする外国勢力の
日本進出は今後、ますます増加していくものと予想される。
これに伴い、各社は外資系エアラインとの業務提携などによる生き残りに必死で、つ
い最近、日本航空はメガキャリアであるアメリカン航空との共同運航に合意し、これは
業界最大規模の業務提携である。
本来、航空業とは以前のように、特別なものではなく飛行機さえもっていれば誰でも
運航できるはずのものであるが、あまりにも厳しい運輸省の規制により、今迄、日本の
航空業界に新規参入する者はいなかった。
しかし、H・ I・S 等が主体になったスカイマーク・エアラインが近いうちに就航する予
定あり、東京∼札幌間を現行運賃の半額にすると言い出したのだ。
これは徐々に、運輸省が自由化に向けて舵を切り始めた事の証明でもあり、遂に、運
輸省は 99 年に航空運賃を自由化する事を決定したのである。
これにより、現行運賃の大幅な値下げ競争が繰り広げられる事が予想され、我々、利
用者には願っても無い限りであるが、ここで思い出さなくてはいけない事がある。
それは約 10 年前にアメリカで規制緩和による整備コスト圧縮のため多発した航空機
事故である。
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今現在、日本の航空業界はアメリカの 10 年前のそれと非常に似ている。
アメリカで起こった事は、10 年後日本で起こるという格言があるが、住専問題や銀行
の不倒神話の崩壊などは、すべて約 10 年前にアメリカにおいて発生している。
今回こそ絶対に、このジンクスを回避しなければならず、決して安全面に関するコスト
を引き下げる事はしてはならない。
今後、日本の航空規制緩和の成り行きが注目される。
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