31 ゴリアテがダヴィデに勝つために 対反乱作戦― ― 川島 朗伸 (赤木研究会 4 年) はじめに Ⅰ ゴリアテとダヴィデの戦い 1 非正規戦争 2 ゲリラ戦 3 対反乱作戦 Ⅱ ゴリアテはなぜダヴィデに負けるのか 1 利害の非対称性と内部要因 2 戦略の相互作用 Ⅲ ゴリアテがダヴィデに勝つために 1 民主主義国が非正規戦争で勝つために 2 寛容な COIN ドクトリン 3 イラク戦争における戦略の相互作用 おわりに はじめに 弱肉強食は世の常である。それは国際政治においても例外ではない。2500年前、 トゥキディデス(Thucydides)は『戦史』においてそのことを指摘した。有名な 「メロス人との対話」の箇所で、彼は強者アテネをして、弱者たるメロス島の人々 に対し次のように語らしめた。「強者と弱者の間では、強きがいかに大をなしえ、 弱きがいかに小なる譲歩をもって脱しうるか、その可能性しか問題となりえない 1) のだ」 。この脅迫に屈することなく、メロス人達は勇敢にもアテネに刃向かっ 32 政治学研究49号(2013) たが、結局滅亡の道をたどった。優勝劣敗、それが国際政治の本質であり、リア リズムの要諦である。 他方で、弱者が強者を打ち負かした事例も枚挙に暇がない。なかでも『旧約聖 書』のサムエル記に出てくる、ダヴィデ(David)とゴリアテ(Goliath)の故事は 有名である。羊飼いの少年ダヴィデは、重武装の巨人ゴリアテをわずか 1 個の石 で撃ち殺したという2)。ダヴィデの手には一振りの剣もなかったとされる。この 故事はきわめて示唆的である。すなわち、石(非正規戦法)をもって戦う弱者に 対して、強者が剣(正規戦法)をもって対する場合、弱者が勝利する可能性があ るのだ。 第二次大戦後、第三世界では革命戦争・民族独立戦争が多発した。なかでも第 一次インドシナ戦争(1945-54年)、アルジェリア戦争(1954-62年)、ベトナム戦争 (1960-75年) 、ソ連・アフガン戦争(1979-89年)のような事例では、ゲリラ戦を展 開する弱者が、軍事的・経済的・技術的に優位な強者に対して、勝利を収めてい る。21世紀に入ってからも、アフガニスタン戦争(2001-)やイラク戦争(2003-11 年)では、非正規戦争を展開する弱者に対して、米国は苦戦を強いられている。 非正規戦争(irregular warfare) や非対称戦争(asymmetric warfare) を展開する 弱者に対して、なぜ強者は勝利することができないのか。あるいは強者はどのよ うな手段をとれば勝利できるのか。このような問いに対する研究は、日本ではな されていないようである。そこで本論では、米国の先行研究を紹介しつつ、上記 の問いに対する解答を提示したい。 本論はまず「強者たる民主主義国は非正規戦争に関与すべきでない」と主張す る。それでも「万一、それに関与せざるをえない場合、民主主義国が寛容な対反 乱作戦(COIN: counter-insurgency) によって自国民の支持、および反乱地域の民 衆の支持と心(hearts and minds)を獲得できなければ、その勝利の可能性は低い」 と主張する。 米国はベトナム戦争で残虐な COIN を採用し、自国民と南ベトナム人民双方 の支持を失ったために、撤退を余儀なくされた。他方、イラク戦争では初期の占 領政策には失敗したものの、米軍の増派と寛容な COIN を遂行した結果、治安 の安定化に成功している。 本論の構成は次の通りである。Ⅰでは議論の前提として、非正規戦争・ゲリラ 戦・対反乱作戦について確認する。Ⅱでは「なぜ強者が弱者に負けるのか」につ いての理論を、米国での先行研究をもとに紹介する。Ⅲでは寛容な COIN の有 33 効性を検証すべく、ベトナム戦争・イラク戦争について論じる。 Ⅰ ゴリアテとダヴィデの戦い 1 非正規戦争 ( 1 ) 非正規戦争 戦争の相関関係(COW: Correlates of War)プロジェクトによれば、1816-2007年 に 起 き た 戦 争 の 数 は655で あ っ た3)。 そ の う ち 正 規 戦 争 あ る い は 通 常 戦 争 (conventional war)と呼ばれる国家間戦争の数は、わずか95(14.5%)にすぎなかっ た。それ以外の560(85.5%)は反乱(insurgency)や内戦(civil war)、非国家主体 (non-state actor)が関わるような、非正規戦争だった 。 4) 非正規戦争は曖昧な概念である。その意味は正規戦争から逆に規定される。さ らに類似概念も多々あり、議論のうえでの混乱も甚だしい5)。そこで本論では差 し当たり、非正規戦争を次のように定義したい。すなわち、非正規戦争とは、陸 上権の獲得をめぐって、非国家主体・非正規軍・非正規的な戦法のいずれかが関 わるような戦争の総称である。以下ではこの定義にいたった過程を明らかにする。 ( 2 ) 戦 争 カール・フォン・クラウゼヴィッツ(Carl von Clausewitz)は『戦争論』で、戦 争には 2 種類の理念型(絶対的形態・制限的形態)が存在すること、また戦争とは 他の手段をもってする政治の継続に他ならないことを指摘した6)。 クラウゼヴィッツは戦争を彼我の決闘として捉えた。決闘(戦争)の本質は、 相手に我が方の意志を強要すること(強力行為)である。そして相手も我が方に その意志を強要しようとするため、彼我の間で交互作用が生じ、これは極度に達 せざるをえない。ここから絶対的戦争という概念が導き出される。絶対的戦争の 究極目的は、相手の戦闘力を殲滅して無力化させ、我が方の意志を強要すること である。ただしこれは理念型であり、実際には現実による修正が加わって、戦争 は制限的戦争となる。これが 2 種類の理念型、理論上の絶対的戦争と現実におけ る制限的戦争である。 そして戦争が絶対的戦争にいたるのを抑制し、制限的戦争ならしめる最も重要 な要素として、クラウゼヴィッツは政治を挙げるのである。戦争が政治的な目的 を達成するための手段にすぎないとされるのはこのためである。 34 政治学研究49号(2013) ( 3 ) 陸上戦力 我が方の意志を相手に強要するための究極的な手段が、軍事力である。軍事力 の本質は強制力であり、それは陸上・海上・航空戦力によって構成される。なか でも陸上戦力は、国家(または集団) が所要の陸上権(国土領有権、資源保護権、 人民支配権)を獲得・維持するための手段である。そして、その本質的な機能は 次の 4 つである。すなわち、①人間の支配、またその手段としての陸地の支配、 ②統制支配に対する拒否、③相手の統制支配、意志の抑制、④国内・国際の安定 化への寄与。 ①人間の支配に関して、「決定的な役割を果たすのは陸上戦力である。……人 間を支配するには、生活基盤である地域を占領し、資源の使用を統制・支配して 居住住民を権力下に入れなければならない。陸上戦力は、土地に張り付くこと (占領・確保)が可能な戦力であり、他の戦力では代わりえない」 とされる。② 7) 統制支配に対する拒否に関して、「国の領域に対する相手国の支配を拒否しよう とする場合に、最終の軍事力は陸上戦力である。相手国は、我の陸上戦力を(決 戦によって) 撃破または無力化しない限り、……(人間を) 支配することができ 8) ないからである」 。 ( 4 ) 正規戦争 一般に、正規戦争あるいは通常戦争とは、国家同士が正規軍を用いてする戦争 のことを指す。すなわち、その交戦主体は国家であり、国家が用いる手段は正規 軍である。 正規戦争という概念は優れて近代的である9)。近代以降、国家(state)が成立 するとともに初めて正規の国軍が発足した。マックス・ウェーバー(Max Weber) によれば「国家とは、ある一定の領域の内部で正統な物理的暴力行使の独占を (実効的に)要求する人間共同体である」 とされる。1648年のウェストファリア 10) 条約によって、凄惨な宗教戦争(三十年戦争)が克服されるとともに、主権国家 が登場した。国家は内戦の再発を防ぎ、域内の平和を維持すべく暴力の独占を 図った。それは具体的には警察と常備軍によって担われることになり、警察が国 内治安、常備軍が対外防衛の任にあたった。この常備軍が、いわゆる正規軍であ る。 正規戦争の典型は、17-18世紀のヨーロッパ王朝戦争、19世紀から第一次大戦 までの国民戦争である。この間、戦争を戦えるのは国際社会において承認された 35 国家のみであるという原則が貫徹していた。そして国軍のみが戦争の正統な担い 手であると位置づけられ、国軍同士の戦闘のルールが定められた(古典的な戦時 国際法)。 ( 5 ) 非正規戦争 近代ヨーロッパにおいては、国家間による正規軍を用いた戦争こそ、正規戦争 であるとみなされてきた。さらに正規軍は、戦時国際法に則った正規戦法をとる ことが想定されていた。すなわち交戦主体・交戦手段・交戦手段がとる戦法とい う 3 つの指標のうち、いずれかが非正規的なものであった場合に、それは非正規 戦争であるとされたのである。つまり非正規戦争とは、非国家主体・非正規軍・ 非正規的な戦法(ゲリラ戦・テロ11)など)のいずれかが関わる戦争の総称である といえる12)。 なお、非正規戦争も正規戦争と同様、政治的な目的を達成するための手段であ ることに変わりはない。ジェームズ・キラス(James D. Kiras)は非正規戦争に含 まれるものとして、クーデタ・テロ・革命・反乱・内戦の 5 つを提示している13)。 これらに共通する政治的な目的は、既存の政治秩序を転覆し、陸上権を奪い取る ことである。 したがって非正規戦争とは、陸上権の獲得をめぐって、非国家主体・非正規軍・ 非正規的な戦法のいずれかが関わるような戦争の総称である。 2 ゲリラ戦 ( 1 ) ゲリラ戦 ゲリラという語はよく使われるが、その意味は曖昧である14)。また同義語・類 義語も多く、用語上の混乱も甚だしい15)。そこで本論では議論を明確にするため、 同義語であるゲリラ戦(guerrilla war)16)、パルチザン戦(partisan war)17)、遊撃 戦18)を、総じてゲリラ戦と呼ぶことにする。ゲリラ戦とは非正規戦法の一種で あり、これに従事するものをゲリラと呼ぶ。 ゲリラ戦・対暴動の研究者であった市川によれば、ゲリラ戦とは次のような戦 法である。すなわち、 武力において劣勢、生産にあっても薄弱な国家や民族の一部が、広範なる 民衆を組織し、その基盤の上でホーム・グラウンドの利点を十分生かして優 36 政治学研究49号(2013) 勢なる外国または内国の軍隊および警察などに対し、長期にわたる持久・消 耗の戦略を展開、もって相手をして奔命に疲れさせ、その弱体化をはかるも のである。それとともに、自己力量の拡大につとめて、あるいは援軍の到来 や敵本国の急変事態の生起などの外部情勢・条件に期待をかけるか、いずれ にしろ、何らかの情勢変化をたのんで、結局において決戦に転じ(自分自ら でもよい)国家・民族の存立または自国既成政府とその勢力(とくに実力行使 機能である軍隊・警察) の転覆・崩壊を達成しようとする特殊な方式の戦い である19)。 多くのゲリラ戦には共通する原理・原則が存在する20)。 ゲリラ戦によって追求される政治目的は、陸上権の獲得である。彼らは既存の 権力を駆逐して、陸上権を奪取することを望んでいる。ゲリラがゲリラ戦に訴え ざるをえないのは、軍事的・経済的・技術的に劣弱で、正規軍を組織できないた めである。そのため彼らは民衆の支持と心を獲得し、民衆をゲリラとして取り込 む必要がある。こうして増強されたゲリラ部隊はやがて正規軍化される。正規軍 の存在なくしてゲリラが勝利することはできない。ゲリラ部隊のみで敵正規軍に 正面攻撃を行うことは自殺行為である。 ゲリラは自己保存のために決戦を回避するので、その戦いは必然的に持久戦・ 消耗戦となる。局部の失敗によって全体が崩壊を来すようなことはなく、降伏は ありえない。彼らは小部隊・軽装備で行動し、神出鬼没である。高度な遊撃性に よって敵の後方を攪乱し、敵部隊や補給線、連絡線への奇襲・破壊を行う。ゲリ ラは軍服を着用しないため、民衆と見分けがつかない。 ゲリラは民衆や外部勢力が提供する避難場所・聖域に潜伏する。それがない場 合には山地や荒地、ジャングルの根拠地に潜む。ゲリラにとって民衆や外部勢力 からの物的・政治的な支援は不可欠である。 ( 2 ) 祖国防衛型ゲリラ戦 ゲリラ戦は時代区分によって、祖国防衛型と革命戦争型とに大別することがで きる。前者はスペイン独立戦争から第一次大戦終結までによくみられたもので、 正規軍が決戦に敗北した後に最後の手段としてとられることが多かった。後者は 毛沢東によって確立された。まず前者について論じる。 近代的なゲリラ戦の嚆矢はスペイン独立戦争(1808-14年)にみられる21)。イギ 37 リス正規軍に支援されたスペイン人民は、フランス占領軍に対してゲリラ戦を展 開し、ナポレオンによる征服の軛を脱した22)。また1812年のナポレオンによるロ シア遠征は、ロシアの厳しい気候(冬将軍)、および広大な国土を利用した焦土 作戦とゲリラ戦によって打ち破られた23)。 クラウゼヴィッツは『戦争論』で「国民総武装」という章を設け、スペインと ロシアでみられた現象について論じている24)。彼は国民総武装の力を一定程度は 認めるものの、あくまで主戦敗北後の最終手段、あるいは決戦以前の補助手段と して位置づけている25)。 この他、第一次大戦終結までの主要なゲリラ戦の例として、アメリカ南北戦争 (1861-65年)や、ボーア戦争(1899-1902年) 、アラブの假乱(1916-18年)が挙げら れる。アラブの假乱は「アラビアのロレンス」ことトーマス・エドワード・ロレ ンス(Thomas Edward Lawrence)の活躍で有名である26)。 ( 3 ) 革命戦争型ゲリラ戦 ゲリラ戦を革命戦争と結びつけたのは共産主義者達であった。 レーニンは1906年の「パルチザン闘争」と題する論文において、共産ゲリラが とるべき戦闘の形式を示した。ただし彼のいうパルチザン闘争とはテロ・強奪・ 略奪を意味し、革命戦争の全幅を意味したわけではなかった27)。 ゲリラ戦理論の発展に寄与したのは毛沢東である28)。彼は抗日戦争の最中、 「中 国革命戦争の戦略問題」や「抗日遊撃戦争の戦略問題」 、 「持久戦論」を著し、ゲ リラ戦を革命戦争に不可欠なものとして位置づけた29)。正規戦では日本軍に勝て ないことを自覚していた毛は、迅速な兵力の集中・分散によって敵の弱点に奇襲 攻撃をかけ、速やかに撤退するような遊撃戦こそが日本への対抗手段になると論 じた。また日本に対して短期間で勝利することはできないため、抗日戦は持久戦 になるとした30)。毛の描いた持久戦のシナリオは 3 段階説と呼ばれる31)。第 1 段 階は「敵の戦略的侵攻、我が方の戦略的防衛の時期」、第 2 段階は「敵の戦略的 保持、我が方の反抗準備の時期」、第 3 段階は「我が方の戦略的反抗、敵の戦略 的退却の時期」である。遊撃戦は、最初の 2 段階において中国側の戦力増強の時 間を稼ぎつつ、日本に消耗を強いるための手段となる。戦力の増強が進み、ゲリ ラ部隊を正規軍部隊に転じた第 3 段階では正規戦が主となり、遊撃戦は補助的な ものとなる。 遊撃戦・持久戦を遂行するためには、住民からの支援が欠かせない。毛はゲリ 38 政治学研究49号(2013) ラを魚、民衆を海に譬えてその重要性を指摘した。住民はゲリラに補給と避難場 所を与える基地であり、根拠地を築いて民衆を抗日で組織化する必要があると説 いた。また奇襲攻撃の前提条件は、住民が遊撃部隊の行動を敵に知らせないこと であるため、広範な民衆の支持を勝ち取ることで、敵の目と耳とをできるだけ封 じなければならないとされた32)。 第二次大戦後、アジア・アフリカの植民地国や低開発国では、共産主義の思想 的影響の下に独立運動や反帝国主義闘争が盛んとなった。そのなかで数多くのゲ リラ戦がみられた。例えばギリシア内戦(1946-49年)、フィリピンにおけるフク バラハップ(抗日人民軍)の闘争(1942-57年)、第一次インドシナ戦争(1946-54年)、 マラヤ共産党の闘争(1948-60年)、キューバ革命(1953-59年)、アルジェリア戦争 (1954-62年) 、ベトナム戦争(1960-75年)、ソ連・アフガン戦争(1979-89年)など である。 この中で毛沢東の理論に依拠しつつ、自国の特徴にあわせたゲリラ戦を展開し たのが、キューバ革命を率いたエルネスト・ゲバラ(Ernesto Guevara)と、イン ドシナ戦争を戦ったヴォー・グエン・ザップである33)。ゲバラはキューバ革命で の経験と、毛沢東理論の研究をもとに『ゲリラ戦争』を著した。これは毛式ゲリ ラ戦のラテン・アメリカ版である34)。ゲバラは、民主主義が確立されていない独 裁国家においては、ゲリラ戦による暴力革命は正当化されると主張する。また ザップの著した『人民の戦争・人民の軍隊』は、毛が示す持久戦の 3 段階説をベ トナム全土にわたって実行したことを、実際の状況と戦訓にもとづいて説明して いる。こちらは毛式ゲリラ戦のベトナム版といって差し支えない35)。 3 対反乱作戦 ( 1 ) 対反乱作戦 弱者が強者と同じ戦法で勝負すれば敗北するのは必定である。だからこそ弱者 は非正規戦法をとるのである。こうした弱者の戦法に対して、強者の正規軍が正 攻法で対抗した場合、敗北する可能性が高い。したがって非正規戦争においては、 強者も特別な戦法を採用する必要がある。その戦法が対反乱作戦(COIN)である。 COIN は以下の 3 つをその主要な標的としてきた。すなわち①反乱勢力、②反 乱勢力と民衆とのつながり、③民衆である。COIN においては反乱勢力とともに、 民衆もその主要な標的となるのである。この民衆をどう扱うかによって、COIN は残虐な COIN と寛容な COIN の 2 種類に分類することができる。残虐な COIN 39 の場合、ゲリラと民衆とのつながりを断つべく、民衆を強制収容所に隔離するか、 あるいは虐殺する。これは道徳的な観点からいえば最悪の手段であるが、費用対 効果の点からいえば最適な手段なのである。他方、寛容な COIN はゲリラと民 衆とのつながりを断つべく、民衆の支持と心をつかもうと試みる。寛容な COIN については、Ⅲの第 2 節に譲り、ここでは残虐な COIN について論じる。 ( 2 ) 反乱勢力の掃討 COIN に従事する軍隊(あるいは警察) の主要な任務は、敵ゲリラを掃討し、 その軍事的・政治的指導者を抹殺することによって反乱勢力を弱体化させ、治安 を安定化することにある。ゲリラや指導者の撲滅には、逮捕・投獄・国外追放・ 殺害・処刑といった手段が用いられることになる36)。 敵ゲリラ部隊は山脈やジャングル、荒地といったところに根拠地を構えている か、都市部に潜伏している。こうした地域では、機械化された大部隊はかえって 足手まといになることが多く、ゲリラの格好の標的となる。そのため COIN 側 も小規模の歩兵部隊をもって、ゲリラに対する索敵・掃討を行う必要がある。ベ トナム戦争においてアメリカ軍が行ったサーチ・アンド・デストロイ(search and destroy)、フェニックス作戦(Phoenix program)などが、ゲリラ掃討作戦の典 型である37)。 反乱勢力の掃討には空軍力の活用も欠かせない。ヘリや航空機による輸送・攻 撃作戦は、きわめて有効である。また近年、無人航空機(UAV: Unmanned Aerial Vehicle)や無人攻撃機(UCAV: Unmanned Combat Aerial Vehicle)による偵察・攻撃 作戦が、アフガニスタンやイラクで行われている。これは COIN 側に犠牲者を 出さずに敵の掃討が可能な点においては優れているが、誤認・誤爆によって民間 人に付帯的損害(collateral damage)を及ぼす危険性を孕んでいる。民衆の支持が 離反する可能性があるという点では、諸刃の剣である。 ( 3 ) 強制収容所 毛沢東はゲリラを魚、民衆を海に譬え、民衆とのつながりの重要性を強調した。 民衆は、ゲリラに補給や避難場所を提供する基地に他ならない。したがって COIN ではこのつながりを断ち、ゲリラを孤立させることが重要となってくる。 その際、神出鬼没のゲリラを相手にするよりも、逃げも隠れもしない民衆を相手 にしたほうが効率的である。 40 政治学研究49号(2013) 残虐な COIN では民衆を強制収容所に移住させ、ゲリラからの物理的な隔離 が 図 ら れ る。 ボ ー ア 戦 争 に お い て、 ホ レ イ シ ョ・ キ ッ チ ナ ー(Horatio H. Kitchener)率いるイギリス軍は、まず焦土作戦(家財の破壊・家畜の屠殺・穀物の 焼却)を展開して民間基盤を破壊し、次いで焼け出された45万人あまりのボーア 人女性・子供・老人を強制収容所に隔離した38)。この隔離政策は多数の犠牲を出 したものの奏功した。イギリスは同様のことをマラヤにおいても行い、反乱鎮圧 に成功している39)。 同様の事例はベトナム戦争においてもみられた。南ベトナムとアメリカは1962 年 2 月から戦略村計画(strategic hamlet program) に着手し、1966-70年にかけて 盛んに行った。多くの場合、爆撃によって住民を村から焼け出して戦略村に隔離 し、ベトコン(VC: Vietcong) への支援を断たせた。無居住となった地域は無差 別砲爆撃地帯とされ、苛烈な攻撃が加えられた。 ( 4 ) 虐 殺 魚と海を切り離せない場合、海を干上がらせる方法がある。それが虐殺であ る 。これは費用対効果の観点からいって、最も安上がりでかつ効果的である41)。 40) ただし COIN の手段としては、今日では滅多に用いられない。仮にこのような 残虐行為を働いた場合、COIN 側の正当性は地に落ちるであろう。国際社会はそ のような行為を許さず、介入してくる恐れもある。 しかし過去において、虐殺は圧政者や侵略者によってしばしば用いられた。例 えば古代の帝国においては、反乱行為を抑制するため、みせしめの一環として虐 殺が行われた。そのような事例は山ほどあるが、有名な例としては冒頭でも触れ た、アテネとメロス人のそれが挙げられる。メロスの男達は、アテネの軍門に下 ることを勇ましくも拒んだが、結局皆殺しにされ、残された女子供は奴隷として 連れ去られるという憂き目にあったのである42)。 反乱鎮圧の一環として民衆を虐殺することは、20世紀でもみられた。例えば、 日中戦争において日本軍が中国北部で展開した治安戦である43)。治安戦とは北支 の確保安定を任務とする北支那方面軍が、同じく北支の共産化を目指す中国共産 党勢力に対して展開した作戦であり、1940年 8 月以降に本格化した。これは共産 党の抗日根拠地に対して「燼滅掃蕩」、つまり燃えかすも残らないほど徹底的に 殺戮・放火・略奪を行い、民間基盤もろともゲリラの掃滅を図ったものである。 中国側は燼滅掃蕩作戦のことを三光政策(三光作戦) と呼び、恐れたという44)。 41 治安戦は1941年から強化され、1942年に最も大規模に実施され、共産党と八路軍 に大打撃を与えたとされる。 国家が反乱鎮圧のために自国民を虐殺した事例もある。例えばイラクでは、ク ルド人が1974-75年に反乱を起こしたが、それは暴力的に鎮圧され、多数のクル ド人が殺害されるとともに、アラブ人地域への強制移住を余儀なくされた。また 1991年にはイラク南部においてシーア派住民が反乱を起こしたものの、サダム・ フセインは彼らを抹殺した45)。 Ⅱ ゴリアテはなぜダヴィデに負けるのか 1 利害の非対称性と内部要因 ( 1 ) 利害の非対称性 前章で非国家主体・非正規軍・非正規戦法が関わる戦争のことを、非正規戦争 と定義した。他方で、交戦当事者間の非対称性に注目し、これを非対称戦争と呼 ぶ場合がある。 非対称戦争という語を有名にしたのは、アンドリュー・マック(Andrew J.R. Mack) である。彼は1975年の論文において、軍事的・技術的に優位に立つ先進 工業諸国が、なぜそれらに劣る植民地諸国や武装勢力に敗れるのかについて議論 した46)。彼は第二次大戦後に欧米諸国が敗北したインドシナ、アルジェリア、ベ トナムなどの事例をとりあげ、大国がいかにして、またなぜ撤退を余儀なくされ たのかについての説明を試みた。 マックが展開した議論は次の通りである。①主体間の力の非対称性によって、 それぞれの主体が紛争に賭ける利害(interest)にも非対称性が生じてくる。②こ の利害の非対称性が、政治的な脆弱性(political vulnerability) の非対称性をもた らす。③政治的な脆弱性の非対称性が、非対称戦争の勝敗を左右する。 ①弱者(反乱勢力) と強者(植民地本国あるいは外部勢力) との紛争において、 弱者は強者に対する侵攻能力を欠いているため、強者の生存に対して何らの脅威 も及ぼさない。そのため強者にとって紛争は限定戦争であり、それに賭ける利害 は相対的に低い。他方、強者は侵略・占領の脅威を直接弱者に投げかける。その ため弱者にとって紛争は生存を賭けた全面戦争となり、それに賭ける利害は相対 的に高い。 ②このような利害の非対称性は、政治的な脆弱性の非対称性をもたらす。政治 42 政治学研究49号(2013) 的な脆弱性とは、主体を構成する国民(民主制の場合)、あるいは競合する政治エ リート(権威主義体制の場合) が、その政治指導者の意に反して、彼に戦争の停 止を強いる蓋然性のことである。強者の低い利害は、政治的な脆弱性が高いこと を含意し、弱者の高い利害は政治的な脆弱性が低いことを含意する。 ③弱者が展開する持久・消耗戦は、強者が抱いていた早期の紛争解決という期 待を打ち砕く。それにより、反戦的な国民や強欲な政治エリートが政治指導者に 対して戦闘の停止を強いることになる。こうして強者は撤退を余儀なくされるの である。 要するに、力の非対称性が利害の非対称性をもたらし(強さ=利害の低さ)、そ れが逆に政治的な脆弱性の非対称性へとつながり(利害の低さ=政治的な脆弱性の 高さ) 、さらにそれが紛争の結果を決定するということである(政治的な脆弱性の 高さ=勝率の低さ)。逆もまた同様である(弱さ=利害の高さ=政治的な脆弱性の低 さ=勝率の高さ)。 ( 2 ) 内部要因 マックは政治的な脆弱性という概念を持ち出すことで、その論理過程に国内要 因という要素をすでに取り込んでいる。弱者にとって、紛争は生存を賭けた闘い であるため、それまで相争っていた国内勢力は団結する(「敵の敵は味方」)。その 際に大きな力を発揮するのがナショナリズムである。弱者の政治指導者はナショ ナリズムに訴えて全国民を動員する。他方、強者にとって紛争は限定戦争にすぎ ず、全国民の動員は不可能なばかりか、必要であるとすらみなされない。このよ うな強者の国内状況は、弱者にとっては格好の標的となる。弱者は軍事力で劣り、 決戦による勝利は覚束ないため、強国の国内というもう 1 つの戦場で、政治的な 勝利を得ようとするのである。すなわち、弱者は強国の政治的な脆弱性を突き、 その政治的な意志を打ち砕くことによって、彼らの軍事力の優位を無効化しよう とするのである。弱者は消耗・持久戦に持ち込んで、強者の国内に厭戦気分や利 害の対立(「大砲かバターか」)、道義的な議論等を引き起こして、その国民をして 彼らの政治指導者を屈服させ、政治的な意志を挫こうと試みるのである。 こうした政治的な脆弱性を醸成するのは、民主制においては国民であり、権威 主義体制においては競合する政治エリートであるとされる。マックは国家体制の 相違が非対称戦争の結果に及ぼす影響について、さほど重視しなかったが、この 相違を重視する議論も存在する。 43 一般的に、権威主義体制は民主制よりも政治的な脆弱性が低いため、非対称戦 争を戦いやすいとされる47)。権威主義体制の特徴としては以下のような点が指摘 できる。①対内・対外政策立案の権限は 1 人の人物、あるいは少数のエリートに 限定されている。②対内・対外政策の経過に関する情報が厳格に統制され、一般 人がそれを知ることは困難である。③対内・対外政策を批判し、その変更を求め る一般人は、投獄や拷問、死刑などの制裁を課される恐れがある。これらの特徴 は、戦争を遂行するうえで有利であるといえる。権威主義体制は、①戦争の正当 性に関する人々の認識を統制しやすいため、民主制よりも資源の動員が容易であ る。②戦場において兵士を恫喝し(「臆病者は処罰する」)、戦うことを強要できる。 ③権威主義体制下の兵士は、捕虜や戦闘地域における文民の取り扱いに関しての 戦争法を遵守しない可能性がある。捕虜を殺害した方が、資源を節約できるため である。④戦争の費用を負担した人々に対して責任をとる必要がないため、民主 制にくらべてより多くの兵士の死傷者数を許容できる。 他方、マックの理論に基づいて、現代民主主義諸国の政治的な脆弱性について 詳細に論じたのが、ジル・メロン(Gil Merom) である。彼によれば、民主主義 国は、勝利を保証する程度にまで暴力および残忍性の度合いを高めることができ ないために、ゲリラ戦を展開する弱者との紛争に敗北するという48)。なぜなら、 民主主義国は国内社会からの制約を受けており、犠牲をともなう戦争に市民が反 対するためである。国家と社会とは、人間の生命と尊厳に関する、功利主義的・ 道徳的な議論をめぐって対立している。この対立が極限を迎え、政治指導者の政 治的意志を打ち砕いたときに、民主主義国は紛争から撤退するのである。 メ ロ ン は 国 家 と 社 会 の 対 立 の 過 程 を、 手 段 へ の 依 存 度(instrumental dependence)、 政 治 関 与(political relevance) 、 規 範 意 識 の ず れ(normative difference)という 3 つの変数によって説明している 。手段への依存度は、国家 49) が資源を調達する際の社会への依存度合を、政治関与は、社会的な諸力が政策決 定に影響を及ぼす度合を、そして規範意識のずれは、犠牲の要求および残忍な行 為の合法性に関する、国家の立場と社会の立場との隔たりをそれぞれ示している。 メロンによれば民主主義国が長期にわたる COIN に敗れるのは、次のような場 合である。すなわち、手段への依存度が深いなかで、政治関与の度合いの高い市 民が、思想の自由市場(marketplace of ideas)を通じて国家と社会との間に規範意 識のずれを作り出すような場合である。 まず、対ゲリラ戦には多くの陸上兵力が必要とされ、国家は徴兵の必要にから 44 政治学研究49号(2013) れるために、手段への依存度は必然的に高くなる。そして戦闘によって兵士が死 亡した場合、国内の親族や反戦主義者は戦争に激しく反対するようになる。また 国家は費用対効果の観点から、残虐な手段、すなわちバーバリズム(拷問や虐殺) に訴えることで資源を節約しようと試みる。このバーバリズムは帰還兵や報道を 通じて、やがては国民の知るところとなり、道義的な議論が高まる。このような 状況下で、政治関与の度合いが高く、教養も兼ね備えた中間層が反戦の主張を行 い、それがメディアを通じて広く社会内に拡散する。そしてやがては社会の主張 する道義的な規範意識と、国家の追求する功利主義的な規範意識との矛盾が限度 を超え、政治指導者は紛争からの撤退を余儀なくされるのである。 彼はこの仮説をアルジェリア戦争とレバノンにおけるイスラエルの事例(198286年)、およびベトナム戦争の事例にもとづき、実証している。 2 戦略の相互作用 ( 1 ) 戦略の理念型 アイヴァン・アレグウィン・トフト(Ivan Arreguin-Toft) はマックの先行研究 を土台としつつ、非対称戦争の勝敗を左右するのは戦略の相互作用(strategic interaction)であると主張した 。彼の理論によれば、強者(strong actor)が弱者 50) (weak actor)と同様の戦略をとった場合には勝利し、異なる戦略をとった場合に は敗れる傾向があるという。 アレグウィン・トフトは戦略の理念型を次のように分類した51)。 攻撃戦略(主に強者が採用する): ①通常攻撃(conventional attack)、②バーバリズム(barbarism) 防御戦略(主に弱者が採用する): ③通常防御(conventional defense)、④ゲリラ戦略(GWS: guerrilla warfare strategy) ①通常攻撃とは、軍隊によって敵の軍隊を捕捉・殲滅し、敵の陸上権(住民、 領土、都市等)への統制を確保することである。戦勝は決戦によって、敵の物理 的抵抗能力を破壊することで得られる。攻撃側は防御側の戦略拠点(首都など) を奪おうとし、防御側はこれを阻止しようとする。 ②バーバリズムは政治的・軍事的な目標達成のために、非戦闘員に対して意図 45 的かつ組織的に危害を加えることである(例えば殺人、強姦、拷問など)。他の戦 略と異なり、バーバリズムは敵の交戦意志と交戦能力をともに破壊することを 狙っている。今日のバーバリズムの例としては、戦略爆撃や暴力的な COIN が 挙げられる52)。暴力的な COIN の場合、敵の交戦意志を挫くために非戦闘員への 報復行為がとられ、敵の交戦能力を破壊するために、住民は強制収容所に隔離さ れるか虐殺される。 ③通常防御とは軍隊を用いて敵の攻撃を阻止することである。 ④ GWS は敵との直接対決を避け、敵を消耗させる戦略である。GWS の攻撃 目標は敵兵士や資源、インフラなどであるが、その意図するところは敵の交戦能 力の破壊ではなく、敵の交戦意志を挫くことにある。GWS を展開するには聖域 (sanctuary)と住民からの支援が必要である 。 53) ( 2 ) アプローチの理念型とその相互作用 彼はこの 4 つの戦略を、そのアプローチの仕方によって 2 つの理念型に分類し た54)。 す な わ ち 直 接 ア プ ロ ー チ(direct approach) と 間 接 ア プ ロ ー チ(indirect approach)である。 直接アプローチ:交戦能力の破壊が目標 ①通常攻撃、③通常防御 間接アプローチ:交戦意志の破壊が目標 ②バーバリズム、④ GWS ①通常攻撃や③通常防御のような直接アプローチは、敵の軍隊を捕捉・殲滅し て交戦能力を破壊することにより、その交戦意志を無効化しようとするものであ る。他方、②バーバリズムや④ GWS のような間接アプローチは、敵の交戦意志 を挫いて、その交戦能力を無効化しようとするものである。 そして強者と弱者が同様のアプローチ(same-approach interactions)をとった場 合55)、弱者の側が敗れる。このアプローチでは、強者の優位を中和し、弱めるよ う な も の が 存 在しないからである。他方、強者 と 弱 者 が 異 な る ア プ ロ ー チ (opposite-approach interactions) をとった場合 、弱者の側が勝利する。このアプ 56) ローチでは強者がその比較優位を十分に発揮できないからである。このような場 合、戦争は長期化し、時間が弱者の側に味方することになる。強者は速やかな勝 46 政治学研究49号(2013) 利を望んでおり、戦争の費用が増大することを嫌うからである。 ( 3 ) 仮 説 以上のような前提をもとに、アレグウィン・トフトは以下のような仮説をたてた。 仮説 1 :強者が直接戦略、弱者が直接戦略を採用した場合(通常攻撃 VS 通常 防御)、強者が速やかに、かつ決定的に勝利する 。 57) 仮説 2 :強者が直接戦略、弱者が間接戦略を採用した場合(通常攻撃 VS ゲリ ラ戦略)、弱者が勝利する 。 58) 仮説 3 :強者が間接戦略、弱者が直接戦略を採用した場合(バーバリズム VS 直接防御)、強者が敗北する 。 59) 仮説 4 :強者が間接戦略、弱者が間接戦略を採用した場合(バーバリズム VS ゲリラ戦略)、強者が勝利する 。 60) 以上の 4 つの仮説は、次のような仮説に要約することができる。 仮説 5 :強者が弱者と同様のアプローチをとった場合は勝利し、弱者と異な るアプローチをとった場合は敗れる傾向がある。 ( 4 ) 検 証 以上の仮説を検証するべく、アレグウィン・トフトは数量研究と歴史的な検証 を行った61)。 まず1816-2003年の187年間に起こった202の非対称戦争のデータをもとに数量 分析を行い、仮説の有効性を検証した62)。分析のカギとなる変数は戦略の相互作 用(STRATINT)である。STRATINT が紛争の結果(OUTCOME)に影響を与えた かどうかが、クロス分析によって検証された。 次に彼はコーカサスにおけるロシア帝国の戦い(1830-59年)、ボーア戦争、第 二次エチオピア戦争(1935-45年)、ソ連・アフガン戦争、ベトナム戦争をとりあげ、 事例研究を行った63)。 ( 5 ) 結 論 彼が行った検証の結果、戦略の相互作用と非対称戦争の結果には関連性があり、 47 それは統計学的に有意であった64)。結果によると、強者が弱者と同様のアプロー チをとった場合、76.8%の割合で勝利した。また弱者が強者と異なるアプローチ をとった場合、63.8%の割合で勝利した。したがって、弱者が異なるアプローチ を採用した場合、同様のアプローチの場合と比べてその勝率は約 3 倍となる。こ れは仮説 5 の妥当性を支持するものである。 歴史的な趨勢からいって、異なるアプローチの相互作用および弱者の勝利は増 加傾向にある。異なるアプローチがとられた割合は、1800-1849年に起きた34の 非対称戦争のうちの5.9%、1850-1899年に起きた69の非対称戦争のうちの10.1%、 1900-1949年に起きた31の非対称戦争のうちの21.1%、1950-1999年に起きた38の 非対称戦争のうちの21.1%である。 以上のことから次の 3 つのことがいえる。①強者は異なるアプローチをとった 場合に敗北しやすい。②異なるアプローチによる紛争は、同様のアプローチのそ れとくらべて長期化する。③異なるアプローチの増加は強者の敗北を増大させて 来た。 なおマックやメロン、アレグウィン・トフトの理論以外にも、交戦当事者間の モチベーションの相違や外部からの援助、リアリストの説明、SWORD(Small Wars Operational Research Directorate) モデルなど、みるべき理論は多々あるが、 紙幅の都合により割愛する。 Ⅲ ゴリアテがダヴィデに勝つために 1 民主主義国が非正規戦争で勝つために ( 1 ) 不介入あるいは寛容な COIN マックが提唱した利害の非対称性理論では、弱者との戦争は強者の生存を脅か さない。そのため強者のモチベーションは低く、長引く紛争の費用がそれによっ てえられる利益を上回った場合には、国民や政治エリートが政治指導者に撤退を 迫るのである。 メロンはマックの議論を土台に、民主主義諸国に的をしぼって議論した。メロ ンによれば、残忍な COIN によって反乱勢力とその支持基盤である民衆を全滅 すれば、強者は勝利できる。したがって、虐殺は費用対効果の高い、理想的な手 段であるとされる。しかし、第二次大戦以降、民族自決の機運やナショナリズム の高揚、人道上の観点から、このような残虐行為をとることは難しくなっている。 48 政治学研究49号(2013) 国際社会からの圧力と同時に、自国内からの反発も強まる一方である。民主主義 国の場合、言論が統制されておらず、メディアが戦場での残虐行為を活発に報道 するために、国内の世論は容易に反戦に転じうるのである。 以上の議論を総合すれば、民主主義国が非正規・非対称戦争を戦うことは、政 治的・経済的に高くつくということである。民主主義国は、残虐な COIN を遂 行できず、国内・国際世論に縛られている。こうした状態で戦った場合、戦争の 費用がそれから得られる利益を上回る可能性が高い。したがって、民主主義国は 自国内の反乱(内戦)鎮圧は別として、非正規・非対称戦争に積極的に関わるべ きではない。 しかしながら、民主主義国が非正規・非対称戦争との関わりあいを避けようと しても、敵がそうしてくれるとは限らない。むしろ敵は自身の非対称性を武器に して、戦いを挑んで来るだろう。加えて冷戦後、地域紛争や内戦が頻発するよう になった。このような紛争は、非正規戦争へと容易に後退するものであるが、人 道的な観点から民主主義国が介入せざるをえない場合もあろう。したがって、非 正規・非対称戦争に巻き込まれるリスクを考慮して、民主主義国はそれに対する 備えをしておく必要がある。特に米国は、その通常戦力が圧倒的であるがゆえに、 また人権を重視する外交姿勢のため、非正規・非対称戦争に関与する可能性がき わめて高い。 アレグウィン・トフトによれば、残虐な COIN は今日においては逆効果であ るという。残虐行為は、反乱地域の住民から憎悪を買い、それがさらなる抵抗を 招く可能性がある。さらにメロンの理論によれば、民主主義国の国民は、民衆に 対する残虐行為を容認しない。したがって民主主義国がとりうる・とるべき手段 は、反乱地域の民衆および自国民の支持を得られるような、寛容な COIN なの である。以下では米国が残虐な COIN を採用して敗北したベトナム戦争につい て論じ、寛容な COIN が必要とされる理由を明らかにしたい。 ( 2 ) ベトナム戦争の敗因 戦争終結から30年以上たった現在でも、ベトナム戦争に対する研究者の評価は 定まっていない。福田によれば、ベトナムでの敗因については対立する 2 つの見 方 が あ る と い う65)。 第 1 の 見 方 は、 米 陸 軍 の ハ リ ー・ サ マ ー ズ(Harry G. Summers, Jr.) らが主張するもので、敗因は米軍にではなく、誤った戦略目標を 設定し、不必要に軍事作戦に介入した文民指導層にあり、仮に米軍が北ベトナム 49 軍との正規戦に集中していれば、戦争には勝てたとする立場である。ただし北ベ トナムへの侵攻は中国の軍事介入を招き、全面戦争に発展する恐れがあったため、 そのオプションを実行することは政治的には困難だった。他方、第 2 の見方は、 南ベトナム解放民族戦線(NLF: National Liberation Front) に対して、米軍が正規 戦争あるいは残虐な COIN を用いていた点を批判している。本論では、第 2 の 見方を支持する。当時、ベトナム人のナショナリズムは、抗日戦争や第 1 次イン ドシナ戦争を通じて高まっていた。米軍によるサーチ・アンド・デストロイや残 虐な COIN は付帯的損害を生み、南ベトナム人の支持を失い、潜在的な協力者 をも失う結果となったからである。米軍および南ベトナム政府の正統性の失墜は、 南ベトナムの存続という米国の政治目的を達成不可能にした。 第二次大戦中、ベトナム共産党のホー・チ・ミンによって指導された抗日戦争 を通じて、ベトナム人はナショナリズムに目覚めていた66)。ホーによって1946年 に建国されたベトナム民主共和国は、ベトナム統一を達成すべくフランスに対し て第一次インドシナ戦争を挑んだ。1949年にフランスはバオ・ダイを元首とする ベトナム国を建国するも、フランス人がベトナム人の支持と心を獲得することは 困難になっていた。1954年 4 月、ディエンビエンフーでの決定的な敗北を機に、 フランスは撤退を決定した。同年 7 月、ジュネーブ停戦協定によってベトナムは 北緯17度の軍事境界線を境に、南北に分断された。北ベトナムはホー率いるベト ナム共産党が統治し、南ベトナムには米国の支援によってゴ・ディン・ディエム を首班とする南ベトナム、すなわちベトナム共和国が建国された。米国がフラン スの後を継いで南ベトナムを支援したのは、ドミノ理論のためである。米国は南 ベトナムの崩壊が東南アジア全体の赤化につながり、それがひいては日本やヨー ロッパに波及することを恐れたのである。他方、北ベトナムには中国やソ連が援 助を行った。1960年12月には北ベトナムによって NLF(通称ベトコン)が結成され、 南ベトナムでの要人暗殺が開始された。またラオス・カンボジア領内で、南北ベ トナムを結ぶ補給線ホー・チ・ミン・ルートの建設が始まったのも、この頃であ る。南ベトナムではディエムが政権を私物化し、政治腐敗が広がっていた。これ は南ベトナム国民の反発を招いたため、米国はクーデタを画策し、1963年11月に ディエムは暗殺された。この後、南ベトナムでは1965年 6 月までの間にクーデタ が13回、内閣の交代が 9 回起こった。 1964年 8 月のトンキン湾事件を機に、米国はベトナムへの軍事介入を決断した。 1965年 2 月、北ベトナムに対する大規模な北爆によってベトナム戦争が始まった。 50 政治学研究49号(2013) アレグウィン・トフトによれば、ベトナム戦争は 4 つの戦略の相互作用を含んで いた67)。すなわち、①バーバリズム VS 通常防御、②通常攻撃 VS 通常防御、③ 通常攻撃 VS ゲリラ戦、④バーバリズム VS ゲリラ戦である。 ①は1965-68年にかけて生じた、米軍の北爆(ローリング・サンダー作戦)と北 ベトナムの通常防御の相互作用である。米軍による北爆は、北ベトナムに NLF への援助を思いとどまらせるために行われた。米軍は北ベトナムの非戦闘員に対 する殺傷を意図的かつ組織的に遂行したため、これはバーバリズムである。他方、 北ベトナムは米軍の爆撃を、ソ連から援助された戦闘機やレーダー網・地対空ミ サイル群の設置によって阻止しようとしたため、通常防御である。この相互作用 は異なるアプローチのため、北ベトナムが勝利した。米国国防長官だったロバー ト・マクナマラ(Robert S. McNamara)は北爆が無意味であったことを認めている。 ②は1965-69年にかけて生じた、米軍・南ベトナム軍の正規戦と北ベトナム軍 の正規戦の相互作用である。度重なる戦闘において、米軍は北ベトナム正規軍お よび NLF の正規軍部隊を圧倒した。この相互作用は同様のアプローチであるた め、米国が勝利した。北ベトナム首脳は正規戦が自殺行為であることを悟り、戦 術・戦略を転換した。戦術面では、米軍および南ベトナム軍に至近距離から攻撃 をしかけることで、その支援砲撃や航空支援を封じた。また戦略面では、NLF によるゲリラ戦を重視するようになった。 ③は1965-73年にかけて生じた、米軍の通常攻撃(サーチ・アンド・デストロイ 作戦)と NLF によるゲリラ戦の相互作用である。米軍は索敵(サーチ)のために ジャングルに入り込み、発見した敵を戦術航空支援および火砲による圧倒的な火 力で攻撃(デストロイ)した。作戦の成否は敵兵の死傷者数(ボディ・カウント)、 投下爆弾のトン数、制圧した部落数によって測られた。ボディ・カウントは昇進 の基準にもされたため、住民保護よりも敵の殺害が優先された。ナパーム弾や枯 れ葉剤による無差別攻撃や、歩兵部隊による残虐行為は、非戦闘員への付帯的損 害をもたらし、南ベトナム人からの支持は失われていった。また、ソンミ村での 虐殺事件等は米国で報道され、米国内の反戦活動が激化した。この相互作用は異 なるアプローチであるため、北ベトナムが勝利した。米軍はサーチ・アンド・デ ストロイからバーバリズムへと戦略を転換した。 ④は1965-73年にかけて生じた、米軍のバーバリズムと NLF によるゲリラ戦の 相互作用である。米軍は 2 つのバーバリズムを実行した。すなわち、戦略村計画 とフェニックス作戦である。戦略村計画は南ベトナムの民衆を部落から強制退去 51 させ、要塞化された戦略村に移住させるというものである。これによって、NLF の諜報・補給網は大打撃を受けたが、米国の国内世論はこれに反発した。さらに、 それまで米国や南ベトナムを支持していた南ベトナムの民衆も、NLF の支持に 回 っ た。 次 の フ ェ ニ ッ ク ス 作 戦 で あ る が、 こ れ は 中 央 情 報 局(CIA: Central Intelligence Agency) 、米軍特殊部隊、南ベトナム治安当局によって遂行された、 NLF 指導者の暗殺作戦である。これによって南ベトナムにおける NLF の指揮系 統は壊滅的な被害を受けたとされる。この相互作用は同様のアプローチであるた め、米国が勝利した。 1968年のテト攻勢によって NLF が壊滅的な打撃を受けたため、これ以降、北 ベトナムは正規軍による正規戦へと戦略を切り替えた。他方、テト攻勢は米国の 国内世論に衝撃を与えた。ジョンソン大統領がベトナムの情勢は有利に展開して いると国民に説明していたにもかかわらず、サイゴンの米国大使館がゲリラに よって占拠される事態を招いた。米国民は政府とその政策に対する不信感を強め、 反戦運動が激化した。メロンによれば、反戦運動を主導したのは、黒人、聖職者、 大学生であったという68)。黒人は前線での死亡率が高く、公民権運動の高まりも あって、反戦の流れが強まった。また学生は徴兵される可能性が高まったため、 戦争に強固に反対した。 以上のように、米国は南ベトナム政府の正統性を確立することに失敗し、残虐 な COIN によって南ベトナムの民衆の支持を失い、さらには国内での支持も失っ たために、撤退を余儀なくされたのである。 2 寛容な COIN ドクトリン ( 1 ) ダヴィッド・ガルーラの『対反乱戦』 前節で論じたように、残虐な COIN はもはや反乱の安定化には逆効果である ことが分かる。したがってここではもう 1 つの手段、すなわち寛容な COIN に ついて論じる。 寛容な COIN ドクトリンの古典は、1964年にフランスの軍人ダヴィッド・ガ ルーラ(David Galula)が著した『対反乱戦』である。彼の著作は米国および本国 フランスでも長らく忘れ去られていた。しかしイラクとアフガニスタンでの失敗 から、米軍が COIN の再検討に迫られた際に、にわかに脚光を浴びた。2006年 に改訂された米陸軍のフィールド・マニュアル(FM: Field Manual) 3 -24「対反 乱作戦」においては「執筆に最も影響を与えた著作」として紹介されている69)。 52 政治学研究49号(2013) ガルーラは中国における国共内戦やギリシア内戦、インドシナ戦争を間近で観 察し、アルジェリア戦争で実際に COIN に従事した経験をもとに、そのドクト リンを作り上げた70)。彼が参考にしたのは毛沢東の革命戦争理論である71)。ガ ルーラは、毛がゲリラを魚に、民衆を海に譬えたことを逆手に取った。彼は魚と 水を切り離すこと、すなわち「反乱勢力を民衆から永続的に孤立させる」ことが COIN 成功の要諦であると指摘した72)。 ガルーラは民衆の支持と心を獲得することで、ゲリラを孤立させようとした。 たとえある地域においてゲリラを撃破あるいは駆逐したとしても、その地域に民 衆の支持があればゲリラは再び活動を再開できるからである。したがってゲリラ を相手取るよりも、その土地に根付いた民衆に作戦の焦点を当てた方が効率的で ある73)。民衆の支持を獲得すべく、兵士は宣伝者、ソーシャル・ワーカー、土木 技師、教員、看護師、ボーイスカウトの役割も果たすべきであるとされている。 ( 2 ) デイヴィッド・ペトレイアスの FM 3 -24「対反乱」 2006年12月15日に公表された米陸軍の FM 3 -24は、約20年振りのドクトリン 改訂となった。改訂に尽力したのが、デイヴィッド・ペトレイアス(David H. Petraeus)である。彼は空挺とレンジャーの資格を有し、プリンストン大学で博 士号を取得した学者戦士である。2003年のイラク戦争では第101空挺師団の司令 官として、バグダッドの陥落に貢献した。その後イラク第 2 の都市モスルの占領 に尽力した。彼は解体されたイラク軍の軍人を警察に取り込み、住民による自治 組織を発足させた。モスルの人々は彼のことをダヴィデ王と呼んだ74)。イラクの 戦況を憂えていたペトレイアスは、教育・訓練やドクトリン作成を担当するコン バインド・アームス・センターの司令官に2005年に就任したのを機に、COIN ド クトリン改訂に着手した。 こうして改訂された FM 3 -24は、COIN の主要目標を「現地政府の正統性を 75) 確立し、効果的な統治を行うこと」 であると規定する。大抵の場合において、 民衆の大多数は中立あるいは受動的であり、現地政府や反乱勢力を積極的に支持 していない場合が多いとされる。そのため、この多数派に働きかけて、いかに積 極的な支持者を民衆のなかに増やしていけるかが COIN 成功のカギとなる。し たがって民衆の保護が最優先とされ、反乱勢力に対する軍事作戦とともに、民衆 に焦点を当てた政治的・社会的・経済的なプログラムが重視されている。 FM 3 -24は軍事力の重要性を認めつつも、それはより包括的な COIN 戦略の 53 なかに統合された場合にのみ効果を発揮すると指摘している76)。FM 3 -24は COIN における軍事力のパラドックスとして、いくつかの例を挙げている77)。例 えば、「行使する武力が大きいほど、その効果が逓減する」場合がある。これは 過度な軍事行動が民間人に付帯的損害を与え、敵のプロパガンダに利用されると いうことである。武力行使は適切な規模で、かつ敵軍事力に限って選択的になさ れなければならない。次は、「部隊の防護を高めるほど、かえって安全でなくな る」というものである。これは部隊が基地に閉じこもって民衆との接触を断てば、 反乱勢力に主導権を奪われるということである。部隊はパトロール等を通じて民 衆との接触を保つべきである。また、「敵のテロやゲリラの奇襲に対して、時と して何もしないことが最善の対応となる」場合がある。なぜなら敵はこちらが過 剰に反応し、群衆への無差別発砲や、民衆に対する虐殺を行うことを期待してい るためである。さらに、 「撃たないことが COIN の最大の武器となる」場合がある。 これは敵の掃討後、弾丸や砲弾よりも民衆にばらまくドルと投票用紙が、より重 要になるということである。対反乱作戦が COIN(硬貨・金)と呼ばれる所以で ある。 寛容な COIN において、軍は攻勢・防勢・安定化の 3 作戦をそれぞれ同時並 行で行う78)。これら 3 作戦は状況に応じて、適切に使い分けられる必要がある。 攻勢・防勢作戦によって反乱勢力を掃討しつつ治安を確保し(Clear and Hold)、 安定化作戦(Stability Operations)によって、民衆の安全確保・統制、水道や電気 といった基本的なサービスの提供、統治機構の再建、経済復興、インフラ整備な どに努め、民衆の支持を勝ち取らなければならない(Build)。地域の治安が悪い 場合には、これらの任務は COIN に従事する兵士が行わなければならないが、あ る程度の安定化が達成された場合には、文民がこれに代わるのが望ましい。 文民と軍人との協力は、COIN の成功にとって不可欠であり、FM 3 -24は第 2 章でそのことを詳細に論じている79)。米軍には米国の文民省庁、他国の政府機 関、国際機関、NGO、民間企業、現地政府といった様々なアクターと協力し、 他のアクターの活動を積極的に支援することが求められる。COIN の成功のため には各アクターの活動・努力の結集(unity of effort)が不可欠である。 また FM 3 -24は第 3 章において、COIN のあらゆる局面におけるインテリジェ ンス(Intelligence) の重要性を指摘している80)。COIN においては、無人偵察機 に よ る 偵 察 も さ る こ と な が ら、 人 的 手 段 に よ る 情 報 収 集(HUMINT: Human Intelligence)がより重視される。的確なインテリジェンスによって誰が敵なのか 54 政治学研究49号(2013) を識別しなければ、「見えない敵に拳を振り回して、無駄にエネルギーを浪費す る盲目のボクサー」になりかねない81)。また敵に対するのと同様に、民衆に対す るインテリジェンスも不可欠である。COIN においては民衆と接触し、民衆の心 を知ることが必要である。また民衆の心をめぐる戦争においては、現実そのもの よりも、民衆が現実をどう認識しているかがより重要である。したがって、民衆 の意識に働きかける情報作戦により、現地政府の正統性を高め、反乱勢力の権威 を失墜させることが目論まれる。 3 イラク戦争における戦略の相互作用 ( 1 ) 通常攻撃 VS 通常防御 本節では、寛容な COIN である FM 3 -24が実際に適用された事例としてイラ ク戦争をとりあげ、その有効性を検証する。アレグウィン・トフトの戦略の相互 作用の理論を筆者なりに適用すれば、イラク戦争は以下の 3 つの戦略の相互作用 を含んでいたと考えられる82)。すなわち、①通常攻撃 VS 通常防御、②通常攻撃 VS ゲリラ戦、③寛容な COIN・増派(サージ)VS ゲリラ戦である。 ①は2003年 3 月20日から 5 月 1 日にかけて生じた、米軍のイラク攻撃(コブラ Ⅱ)とイラク軍の通常防御の相互作用である。米軍はコブラⅡという作戦計画に もとづき、巡航ミサイルと航空機による空爆と地上部隊の連携攻撃によって、イ ラク軍およびその重要な指揮系統や拠点を破壊した。米軍の目標はサダム・フセ イン政権の打倒であり、それは開戦から20日後の 4 月 9 日に、米軍がバグダッド を攻略したことによって達成された。他方、イラク側はイラク正規軍によって首 都をはじめとする重要拠点を防御していたため、通常防御であった。この相互作 用は同様のアプローチであるため、米国の圧倒的な勝利に終わった。 ブッシュ大統領は 5 月 1 日に戦闘の終結を宣言した。ただし、最低限の火力で 必要な目標のみに攻撃の的をしぼったため、潜在的な反乱分子(イラク軍人など) は自己を保全し、無傷のまま地下に潜伏することができた83)。さらにコブラⅡで は、攻撃作戦にのみ重点が置かれ、戦勝後の安定化段階(フェイズⅣ)について はほぼ白紙の状態であった。そのため米軍はバグダッド陥落直後に発生した、大 規模な略奪行為を止める術を持たなかった。略奪行為によって秩序は失われ、米 軍に対するイラク国民の期待は失われた。貴重な美術・骨董品から、果ては電柱 まで略奪されたため、電気を供給することができなくなり、生活が破壊された。 イラクは気温が高いため(夏の平均気温は摂氏48度にもなる)、エアコンや冷蔵庫 55 は生活に必須であり、電気の再供給に手間取った占領軍への信頼は失われた。 加えてイラク占領軍政府であるイラク暫定統治機構(CPA: Coalition Provisional Authority)の失政が追い打ちをかけた。CPA は手始めにイラク社会の脱バース党 化を行なった84)。バース党員は公職から追放され、イラク再建の要となるはずの 3 万から 5 万人の教養エリート層が路頭に迷うこととなった。次に CPA はイラ ク正規軍の解体を命じた。これによって、戦闘のプロ約30万人が武装したまま路 頭に投げ出された。彼らの多くは米軍の保証を期待していたため、その怒りは大 きかった。こうした元バース党員や元イラク軍人は、やがて反乱側にまわった。 略奪への無策とこれらの失政によって、米国は解放者ではなく、駆逐されるべ き占領軍として憎悪された。 ( 2 ) 通常攻撃 VS ゲリラ戦 ② は2003年 5 月 1 日 か ら2007年 1 月10日 に か け て 生 じ た、 米 軍 の 通 常 攻 撃 (サーチ・アンド・デストロイ)と反政府勢力によるゲリラ戦の相互作用である。 反政府勢力は主として以下の 3 つのグループに大別できる。すなわち、イラク のアルカイダ(AQI: Al Qaeda in Iraq)をはじめとする国外のムジャヒーディン(イ スラム聖戦士) 、スンニ派武装勢力、シーア派武装勢力である。彼らはそれぞれ 85) に異なる政治目的を有していたが、唯一共通していた目的は、米軍をイラクから 撤退させることであった。そこで彼らは非正規戦によって米軍の死傷者数を増や し、米国内の世論を変化させることによってその目的を達成しようとした。反政 府勢力は小火器やロケット推進グレネード(RPG: Rocket-Propelled Grenade)によ る攻撃、自爆テロや即席爆発装置(IED: Improvised Explosive Device)による攻撃 を行った。 これらの攻撃によって米軍の死者は増大した。米国国防省によれば、米兵の戦 死者は2003年の開戦から同年末までは319人であったが、2004年から2006年には 年間平均で約700人にまで増大した86)。米国のギャロップ調査によれば、米国が イラクに軍隊を派遣したことは間違いであったと考える人は、2003年 7 月には 23%にすぎなかったが、2004年 7 月には50%、2005年 7 月には46%、2006年 7 月 には56%に達した87)。米軍の撤退に関しては、2003年 8 月は増派・現状維持派の 合計:部分的・前面的撤退派の合計が51:46(%)だった。2004年 9 月には56: 39とほぼ変らなかったが、2005年 8 月には43:56と後者が逆転し、さらに2006年 4 月には33:64と撤退派が増加している。イラク戦争開戦の根拠とされた大量破 56 政治学研究49号(2013) 壊兵器が発見されなかったことの影響も否めないが、米国民はイラク戦争の正当 性に疑問を持ち、米軍の撤退を望んでいる人が増えていることが分かる。 また反乱勢力の攻撃によって治安が悪化し、米軍と現地政府の正統性が失墜し た。 1 週間に発生する暴力事件の件数は、2004年 4 月から2006年 3 月頃までは、 おおむね600件前後であったが、2006年 4 月頃から800件を超え、同年10月には約 1,600件となった88)。さらに、民間人の年間推定死者数は、2003年の7,300人から、 2004年に16,800人、2005年に22,000人、2006年には34,500人に達した89)。このよ うに、米軍は民間人の保護に失敗していた。米軍自身の攻撃作戦が、民間人死傷 者数を増大させていたことも否めない。 米軍がゲリラに対してとったのは、ベトナム戦争においてみられたようなサー チ・アンド・デストロイ作戦だった。米軍は火力に頼んでゲリラを掃討したため、 住民に対する付帯的損害も大きく、支持が損なわれた。 この相互作用は異なるアプローチのため、反政府勢力側が勝利した。なお2006 年 2 月20日にサマラで発生したシーア派のアル・アルカリ・モスク爆破事件を境 にシーア派・スンニ派間の抗争が激化し、イラクは内戦状態に陥った。 ( 3 ) 寛容な COIN・増派 VS ゲリラ戦 ③は2007年 1 月10日から2011年12月にかけて生じた、寛容な COIN・増派と反 政府勢力によるゲリラ戦の相互作用である。アレグウィン・トフトの理論では、 強者がとる間接戦略には本来バーバリズムが想定されている。すなわち虐殺・強 制収容所による残虐な COIN である。これは敵の交戦能力・交戦意志をともに 破壊するため、非常に効果的である。しかし、米国がこのような手段に訴えるこ とは国内政治的に不可能である。またナショナリズムが高揚している今日におい ては、こうした手段に訴えることは逆効果である。したがって、米国がとりうる 手段は次のようなものとなる。まずゲリラのみを正確に殺害して地域を安定化さ せる。その後、寛容な COIN によって民衆の支持と心を獲得しつつ、現地政府 の正統性を高めていく。現地政府の正統性を確立し、民衆とゲリラを心理的に隔 離することでゲリラを孤立させ、その交戦能力・意志を破壊するという手段であ る。残虐な COIN と比較して、寛容な COIN を遂行するためには多くの兵員が 必要とされる(そのために増派が必要となる)。さらに寛容な COIN は長期化する 傾向がある。兵員数の増加と紛争の長期化は国内世論の反発を招く恐れがあるた め、政治的なリスクが高い。そこで早期に現地政府へ権限を委譲し、撤退するこ 57 とが必要となってくる。したがって寛容な COIN は諸刃の剣でもある。 イラク情勢の悪化を受け、ブッシュ大統領はイラク戦略の転換を迫られていた。 そこで彼は2007年 1 月10日に約24,000人の米軍をイラクに増派し、今後は米軍が 敵掃討後の地域に留まり、安定化作戦に携わることを発表した。また新たなイラ ク駐留多国籍軍司令官には、COIN を知悉したペトレイアスが任命された。ペト レイアスはイラク駐留米軍の戦術を次のように変化させた。まず、米軍とイラク 治安部隊は市街地に小規模な前線基地を多数設置し、歩哨によるパトロールを 行って住民をゲリラから保護した。こうして住民の信頼を勝ち取ったことで、情 報提供が増えた。これらの情報と、HUMINT や UAV による監視から得た情報を もとにゲリラのネットワークを特定し、暗殺作戦が行われた。また対立勢力間の 和解促進や、反乱勢力の政治プロセスへの取り込みも実施した。復興面では、イ ラク政府と協力し、電気や水道等の基本サービスの提供、民間投資の促進、職業 訓練、少額ローン整備、雇用創出等に努めた90)。 増派によって必要な数の兵員を確保し、ペトレイアスが寛容な COIN を遂行 したことによって、イラクの治安は劇的に改善された。月毎の民間人の推定死者 数は、2007年 1 月には約3,500人であったが、2008年 1 月には600人にまで低下し ている91)。年毎のそれは、内戦の激しかった2006年の34,500人から、増派後の 2007年には23,600人、2008年には6,400人にまで減少した。死傷者数は現在にいた るまで減少傾向にあり、2012年 7 月時点のそれは531人である92)。また 1 週間に 発生する暴力事件の件数は、2006年 9 月以降は1,400件から1,600件前後のペース で推移していたが、2007年 8 月には1,000件に低下し、2009年 9 月以降はおおむ ね200件以下を保っている93)。米兵の戦死者数も、2006年下半期は411人、2007年 上半期は528人であったのが、同年下半期は236人、2008年上半期は173人、同年 下半期には48人にまで減少した94)。2007年 7 月に現地調査を行ったブルッキング ズ研究所のマイケル・オハンロン(Michael E. O’Hanlon) らは、住民保護を重視 する米軍の作戦が成功していることを認めた95)。 このことから、この相互作用においては米国が優勢であったと評価することが できる。 ただし、この急激な治安の回復については、米国内で論争が起こっている。 COIN 批判派は、治安の改善は増派や COIN によってもたらされたものではない と指摘する。ジアン・ジェンティル(Gian P. Gentile)によれば、シーア派のサド ル派民兵マハディ軍が停戦に応じたことや、経済的な見返りを与えて、スンニ派 58 政治学研究49号(2013) を味方につけたことが大きいと指摘している96)。スンニ派は反政府活動に劵み疲 れ、AQI の過激な思想や行動に対して反発を強めていた。そこで米国はこれらス ンニ派内の不満分子をイラクの息子達(SOI: Sons of Iraq)として組織した。SOI の兵士には 1 人あたり月300ドルが支払われた。そして SOI は AQI に対して蜂起 したのである(アンバールでの覚醒など)。他方、増派・寛容な COIN と SOI 蜂起 の両者が相乗効果を生み、治安の回復につながったとする研究もある97)。この研 究によれば、増派・寛容な COIN のみ、あるいは SOI の蜂起のみでは治安を回 復することはできなかったという。いずれにせよ、COIN が必要条件であったこ とに変わりはないといえる。 2008年までにはイラクの治安はどうにか改善された。オバマ大統領は、2009年 2 月の演説で、2010年 8 月までにイラクに駐留する米軍戦闘部隊を撤収させ、 2011年12月までに完全撤収を目指すという出口戦略を発表し、それを忠実に実行 した。しかし、イラクではなお、予断を許さない状況が続いている。なおアフガ ニスタンにおける不朽の自由作戦は、現在も進行中である。アフガンでも、イラ クと同様の増派・寛容な COIN が遂行されている。オバマは2014年末までにア フガンからの完全撤退を目指しているが、依然として先行きは不透明である。 おわりに 本論では、民主主義国が非正規戦争で勝つためには、なるべくそれに関わらな いことが第一であると主張した。かつてスペイン人民とともにナポレオン軍を苦 しめたイギリスのウェリントン公は、「偉大なる国は、小さな戦争をすべきでは ない」と語ったとされる98)。それでも万一、非正規戦争に関与せざるをえない場 合に、民主主義諸国がとるべき手段は、寛容な COIN である。もちろん、それ も諸刃の剣ではあるが。 クラウゼヴィッツは絶対的戦争を制限的戦争ならしめる要素として政治を挙げ たが、仮に政治が戦争を制限せず、むしろそれを助長した場合にはどうなるので あろうか。例えば、イラク戦争の政治的な目的は、開戦するに足る十分な正当性 を持っていたのか。またゲリラ戦は、戦闘員と非戦闘員との区別をなくし、戦争 を絶対的戦争へと近づける。これに対抗する側は、ゲリラと民衆とを区別する術 を持たず、残虐な手段をとらざるをえない場合が多い。したがって、ゲリラ戦 VS COIN はさながら宗教戦争のような様相を呈するのである。それはかつて、 59 国家が暴力を独占することで防ごうとした戦争であった。このような戦争で最も 被害を蒙るのは、民衆である。 本論ではゲリラ戦が提起する道徳的・国際法的な問題に関しては取りあげるこ とができなかった99)。またアフガニスタン戦争における COIN の評価は、今後の 課題である。 「強者と弱者の間では、強きがいかに大をなしえ、弱きがいかに小なる譲歩を もって脱しうるか、その可能性しか問題になりえない」 。ただし、 「窮寇は追うな かれ100)」 。 1 ) トゥーキュディデース『戦史 中』(岩波文庫、1966年)353-354ペイジ。 2 ) 池田裕訳『サムエル記』(岩波書店、1998年)88-97ペイジ。 3 ) Meredith R. Sarkees and Frank R. Wayman, Resor t to War: 1816-2007 (Washington, D.C.: CQ Press, 2010). 4 ) 655の戦争のうち、植民地反乱が60( 9 %)、帝国主義戦争(国家 VS 非国家主体) が102(15.5%)、内戦が308(47%)、非国家主体が関わる戦争が90(14%)だった。 5 ) 非正規戦争の類似概念としては、非対称戦争、低劣度紛争(LIC: Low Intensity Conflict)、戦争以外の軍事作戦(MOOTW: Military Operations Other Than War)、 安定化作戦(Stability Operations)が挙げられる。 6 ) カール・フォン・クラウゼヴィッツ『戦争論 上』(岩波文庫、1968年)28-63 ペイジ。石津朋之編『戦争の本質と軍事力の諸相』(彩流社、2004年)36-46ペイ ジ。 7 ) 防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』(かや書房、1999年)153ペイジ。 8 ) 同上、153-154ペイジ。 9 ) 石津『戦争の本質と軍事力の諸相』158-169、198-222ペイジ。 10) マックス・ウェーバー『職業としての政治』(岩波文庫、1980年) 9 ペイジ。 11) 一般的に、ゲリラ戦とテロとの違いは以下のようである。①ゲリラ戦は戦争の しきたりに従って戦い、正規軍に対する補助的なものであり、非戦闘員には手出 ししないのに対して、テロは非戦闘員・戦闘員の区別なしに無差別的に攻撃する 傾向がある。②ゲリラ戦では、領土・領域の支配・維持を第一に考えるのに対し て、テロは相手への心理的効果を第一に考える。③ゲリラ戦では、戦闘行動に携 わる要員の数が部隊単位で行動するのに対して、テロの場合少人数である。安部 川元伸『国際テロリズム101問』(立花書房、2011年) 4 - 5 ペイジ。 12) 3 つの指標から正規戦争・非正規戦争を分類すれば、次の 8 通りが考えられる。 正規戦争は彼我いずれも、①国家主体・正規軍・正規戦法の場合である。他方、 非正規戦争は彼我のいずれかが以下の場合である。②国家主体・正規軍・非正規 戦法、③国家主体・非正規軍・正規戦法、④国家主体・非正規軍・非正規戦法、 60 政治学研究49号(2013) ⑤非国家主体・正規軍・正規戦法、⑥非国家主体・正規軍・非正規戦法、⑦非国 家主体・非正規軍・正規戦法、⑧非国家主体・非正規軍・非正規戦法。 13) David Jordan, et al., Understanding Modern War fare (New York: Cambridge University Press, 2008), pp. 226-291. 14) 近年では、発生の予測が難しいような、都市で局地的に短時間だけ降る豪雨の ことを、ゲリラ豪雨と呼ぶ。 15) 同義語・類義語としては、反乱行為、擬似軍事行動、内戦、非正規戦闘、革命 戦闘、ゲリラ闘争、レジスタンス、レンジャー、コマンド、第五列活動など。 16) ゲリラは、スペイン語の Guerra(戦争)に由来し、1808年から数年間続いたナ ポレオン軍のスペイン侵入に際して、現地住民達によってなされた武装抵抗に対 して、これを表現するのに、それが小戦争、小規模戦争の意味合いからそう呼称 されたことに始まる。それが後年、スペインに限定されることなく使われるよう になり、別働隊や非正規部隊に属する者の意に転化した。市川宗明『反ゲリラ・ 対暴動論』(原書房、1968年)128ペイジ。 17) パルチザンは、ラテン語の Parti(党派)を語源とし、san をこれに加えることで、 徒党を組んだ暴徒のことを指して使われた。この名称は、1812年のナポレオンに よるモスクワ遠征に際して、苦戦する自国軍を助けてこれに抵抗したロシア農民 に対して、ラテン民族である仏軍将兵が彼らのことをそう呼んだことに始まると される。同上、128-129ペイジ。 18) 遊撃戦は本来、中国語であって、1927年以降の国共内戦および対日戦争過程に おいて、中国共産党の解放地区軍民の間で用いられた言葉である。同上、129130ペイジ。 19) 同上、132ペイジ。なお、邦人によるまとまったゲリラ戦・対反乱作戦論は、市 川の研究以外に見当たらなかった。ゲリラ戦を通史的に概観できる著作としては、 アーサー・キャンベル『ゲリラ―その歴史と分析』(冨山房、1969年)。 20) 市川とキャンベルを参照。また、カール・シュミットはゲリラの指標として① 非正規性、②遊撃性、③政治関与、④土地的性格を挙げている。ただし、シュミッ トは技術工業的進歩によってゲリラの遊撃性が高められる結果、ゲリラはその場 所確定を喪失するだろうと述べている。「機械化されたゲリラはその土地的性格 を失い、もはや単に、強力な世界政策を遂行する中枢(センター)のための、移 動および交換可能な道具に過ぎない」。このような指摘は、 9 .11テロを実行した 「テロリスト」に驚くほど当てはまっている。カール・シュミット『パルチザン の理論―政治的なものの概念についての中間所見』(筑摩書房、1995年)35-51、 145-170ペイジ。 21) 古来より、ゲリラ戦のような非正規戦争はみられたが、ここでは論じない。な お近代的という意味は、ナポレオンの組織した近代的な軍隊に対抗した、という 意味においてである。非正規戦争は、正規戦争の定義から逆に規定される。 22) スペイン人民のゲリラ戦については、キャンベル『ゲリラ』10-34ペイジ。 61 23) トルストイはロシア農民のパルチザン闘争を高く評価している。レフ・トルス トイ『戦争と平和』(新潮社、2005-2006年)を参照。 24) カール・フォン・クラウゼヴィッツ『戦争論 下』(岩波文庫、1968年)66-76 ペイジ。 25) クラウゼヴィッツによれば、国民総武装を有効ならしめる主要条件は次のよう なものである。①戦争が防御者の国内で行われること。②戦争が防御者側におけ るただ 1 回の破局によって決定されるものでないこと。③戦場が広大な面積を占 めていること。④国民の性格が国民総武装という手段を支持すること。⑤防御者 の国土が地形的に断絶地に富み、接近が困難なこと。なおこのような地形は山地、 森林地域あるいは沼沢地によって形成されることもあれば、また耕作の性質に よって生じることもある。同上、68-69ペイジ。 26) トーマス・エドワード・ロレンス『知恵の七柱』(平凡社、2008-2009年)を参照。 また同書をもとに制作された、デヴィッド・リーン監督の映画「アラビアのロレ ンス」は映画史に燦然と輝く名作である。 27) キャンベル『ゲリラ』99-101ペイジ。 28) 毛沢東のゲリラ戦理論に関しては以下を参照。戦略研究学会編『戦略論体系⑦ 毛沢東』(芙蓉書房出版、2007年)。福田毅「米国流の戦争方法と対反乱(COIN) 作戦―イラク戦争後の米陸軍ドクトリンをめぐる論争とその背景」『レファレン ス』706号(2009年11月)77ペイジ。福田毅『アメリカの国防政策―冷戦後の再 編と戦略文化』(昭和堂、2011年)54-55ペイジ。市川『反ゲリラ・対暴動論』 158-169ペイジ。キャンベル『ゲリラ』376-401ペイジ。 29) 毛沢東の主張の要点は以下のようである。①ゲリラ活動は革命的性質の戦争に あっては、必然的な部分をなす。ゲリラ活動は戦争の一形式として考えられては ならず、総力戦の一段階・革命的闘争の一側面として考えられねばならない。② 政治的な終極目標なしには、ゲリラ戦は失敗せざるをえない。その政治目標が人 民の願望と一致しないならば、ゲリラ戦は失敗せざるをえないように。③ゲリラ 戦は基本的には大衆から機動力をえるものであるから、ゲリラ戦は大衆によって 支えられるのであり、もしも大衆の共感と共同活動から離れるならば、存在でき ず、栄えることもできない。④ゲリラ部隊はすべて、政治的軍事指導者を持たね ばならない。⑤ゲリラ戦術は警戒・機動性・攻撃を基礎としなければならない。 ⑥交戦の進行中に、ゲリラは次第に正規軍と接触を持って行動する正当な軍事力 に発展していく。⑦ゲリラ戦争を認めるが、それを孤立的に扱う見解は、この形 式の戦いが持つ潜在能力を正しく評価しない見解である。キャンベル『ゲリラ』 101-102ペイジ。 30) クラウゼヴィッツおよび毛沢東によれば、作戦は「敵の撃滅」と「自己の保全」 という 2 つの側面を有し、いずれを主たる目的とするかによって「決戦」と「持 久戦」に大別される。決戦の特性は彼我ともに決戦の意志を持ち、可動的である 場合はもちろん、一方が決戦を回避しようとしても、他方が可動的で強制しうる 62 政治学研究49号(2013) 場合には成立する。持久戦の特性は決戦を回避し、または延期しようとするもの であり、一般的には劣勢軍の優勢軍に対する作戦である。また、持久戦は一般に は決戦に従属する作戦であることから、主作戦に従属した支作戦正面の作戦(地 域的関係)と、主作戦上において決戦に転移するまでの作戦(時間的関係)等が ある。防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』。 31) 戦略研究学会編『戦略論体系⑦毛沢東』231-241ペイジ。 32) 福田『アメリカの国防政策』54ペイジ。 33) ゲリラ戦の指導者の経歴には、興味深い共通点がある。それは彼らが職業軍人 ではなかったという点である。ゲバラは医学部の出身で、ザップは歴史教師だっ た。毛沢東も小学校の国文教員をしていたことがあった。またロレンスはオック スフォードを卒業し、中東で発掘・調査にあたっていた考古学者だった。 34) 市川『反ゲリラ・対暴動論』169-177ペイジ。エルネスト・チェ・ゲバラ『ゲリ ラ戦争―キューバ革命軍の戦略・戦術』(中央公論新社、2008年)。 35) ヴォー・グエン・ザップ『人民の戦争・人民の軍隊―ヴェトナム人民軍の戦略・ 戦術』(中央公論新社、2002年)。 36) キャンベル『ゲリラ』432-477ペイジ。市川『反ゲリラ・対暴動論』181-206ペ イジ。Gil Merom, How Democracies Lose Small Wars: State, Society, and the Failures of France in Algeria, Israel in Lebanon, and the United States in Vietnam (New York: Cambridge University Press, 2003), pp. 41-42. 37) 詳細については本論のⅢの第 1 節を参照。 38) キャンベル『ゲリラ』39-63ペイジ。岡倉登志『ボーア戦争』(山川出版社、 2003年)130-155ペイジ。Merom, How Democracies Lose Small Wars, pp. 38-41. 39) キャンベル『ゲリラ』198-241ペイジ。 40) Merom, How Democracies Lose Small Wars, pp. 35-37. 41) Ibid., pp. 42-46. 42) トゥーキュディデース『戦史 中』364ペイジ。 43) 治安戦に関する研究は以下を参照。防衛庁防衛研究所戦史室篇『北支の治安戦 1 ・ 2 』(朝雲新聞社、1968-1971年)。笠原十九司『日本軍の治安戦―日中戦争 の実相』(岩波書店、2010年)。波多野澄夫・戸部良一編『日中戦争の軍事的展開』 (慶應義塾大学出版会、2006年)189-248ペイジ。謝幼田『抗日戦争中、中国共産 党は何をしていたか―覆い隠された歴史の真実』(草思社、2006年)。 44)「三光」とは中国語で「焼光、殺光、搶光(焼き付くし、殺し尽くし、奪い尽く す)」の意である。笠原『日本軍の治安戦』19-22ペイジ。 45) Merom, How Democracies Lose Small Wars, p. 37. 46) Andrew J.R. Mack, “Why Big Nations Lose Small Wars: The Politics of Asymmetric Conflict.” World Politics vol. 27, No. 2 (Jan 1975): 175-200. Accessed October 21, 2012, http://www.stanford.edu/class/polisci211z/2.2/Mack%20WP%201975%20 Asymm%20Conf.pdf. 63 47) Ivan Arreguín-Toft, How the Weak Win Wars: A Theory of Asymmetric Conflict (New York: Cambridge University Press, 2005), pp. 7-10. 48) Merom, How Democracies Lose Small Wars, p. 15. 49) Ibid., pp. 14-24. 50) Arreguín-Toft, How the Weak Win Wars, p. 18. 51) Ibid., pp. 29-33. 52) アレグウィン・トフトが想定しているのは残虐な COIN である。なお残虐な COIN については、Ⅰの第 3 節を参照。 53) 聖域には物理的なそれ(沼沢、山地、ジャングルなど)と政治的なそれ(曖昧 な国境線や、友好的な国家が支配する国境線など)とがある。住民は戦闘員に情 報や補給、保護を与える。 54) Ibid., pp. 34-38. 55) 直接 VS 直接、間接 VS 間接。すなわち通常攻撃 VS 通常防御、バーバリズム VS ゲリラ戦略。 56) 直接 VS 間接、間接 VS 直接。すなわち通常攻撃 VS ゲリラ戦略、バーバリズム VS 通常防御。 57) この相互作用においてはいずれの主体も、決戦での勝敗が雌雄を決するという 認識を共有している。そして物量の差を埋めあわせるものがないため、強者は迅 速かつ決定的に勝利する。Ibid., p. 38. 58) 間接戦略(ゲリラ戦、テロ、非暴力抵抗)に携わる戦闘員は、実戦のとき以外 は非戦闘員と見分けがつけられない。結果的に、強者は作戦中に非戦闘員を負傷 させあるいは殺害することになり、それが弱者のさらなる抵抗を生むこととなる。 また間接戦略においては時間が最も重要な価値であり、弱者が聖域や住民からの 支援を期待できる限りにおいて必然的に長期化する。非対称戦争において、紛争 の長期化は弱者を利する。Ibid., pp. 38-39. 59) 間接攻撃戦略は、防御者の抵抗意志を挫くことを目的としている。今日、戦略 爆撃や経済制裁などがその主要な手段となっている。この相互作用の論理はどち らにも展開可能である。ドゥーエやミッチェルは、人口密集地や工業地帯への攻 撃によって、敵国民に政府への反発を強めさせることにより、敵国の行動を変化 させうるとした。他方、付帯的損害による非戦闘員(特に子供)の負傷や死は、 戦争に対して中立あるいは反対していた国民を心変わりさせ、政府に加担させる ことにもなりうるのである。以上のことを踏まえつつも、このような相互作用は、 ( 1 )長期化する傾向がある、( 2 )バーバリズムにいたる傾向がある、( 3 )第 二次大戦後のナショナリズムの高揚からみて、バーバリズムは軍事的・政治的に 逆効果となりうるということから、強者が敗れる。ここで注目すべきは、アレグ ウィン・トフトが今日におけるバーバリズムの有効性に疑義を唱えている点であ る。Ibid., pp. 39-41. 60) 間接防御戦略は強者の自制を前提としている。強者が自制を取り払った場合、 64 政治学研究49号(2013) ゲリラともども民間基盤も根絶やしにされるため、弱者は敗れる。強者の COIN 戦略はゲリラの聖域と民間基盤とを破壊し、ゲリラの交戦能力も破壊される。し かし、先ほども指摘したように、今日においてバーバリズムが軍事的・政治的に 逆効果であることはアレグウィン・トフトも認めている。Ibid., pp. 41-42. 61) Ibid., pp. 43-44. 62) コーディングにあたって、アレグウィン・トフトはある紛争において、一方の 主体の正規軍と人口の半数が、他方の正規軍と人口の全体を 5 対 1 かそれ以上の 割合で上回った場合、それを非対称紛争であるとみなした。また、強者が正規軍 を用いて弱者のそれを捕捉または殲滅した場合を通常攻撃、弱者の正規軍が強者 の正規軍の攻撃を阻止した場合を通常防御とみなした。さらに強者が非戦闘員に 対して無差別攻撃を加えた場合、すなわち付帯的損害を認めたうえで、戦況に何 らの影響も及ぼさないにもかかわらず戦略爆撃を実施した場合をバーバリズム、 弱者が会戦を避けつつ強者の正規軍に損害を課す場合をゲリラ戦略とみなした。 紛争はまず 4 つに分類され(直接―直接、直接―間接、間接―直接、間接―間接)、 その後 2 つのアプローチに分類された。 63) Ibid., pp. 48-199. 64) Ibid., pp. 44-47. 65) 福田『アメリカの国防政策』57-61ペイジ。 66) Arreguín-Toft, How the Weak Win Wars, pp. 144-152. 67) Ibid., pp. 152-157. 68) Merom, How Democracies Lose Small Wars, pp. 231-237. 69) United States, The U.S. Army/Marine Corps Counterinsurgency Field Manual: U.S.Army Field Manual No. 3–24: Marine Corps War-fighting Publication No. 3–33.5 / foreword by David H. Petraeus and James F. Amos. University of Chicago Press ed. / foreword by John A. Nagle; with a new introduction by Sarah Sewall (Chicago: University of Chicago Press, 2007), p. xix. 70) 彼 の 生 涯 は 次 の 論 文 に 詳 し い。Ann Marlowe, David Galula: His Life and Intellectual Context (Strategic Study Institute, 2010). Accessed January 11, 2013, http://www.strategicstudiesinstitute.army.mil/pubs/display.cfm?pubID=1016. 71) 本稿のⅠの第 2 節ゲリラ戦の毛沢東に関する記述を参照。 72) David Galula, Counterinsurgency War fare: Theor y and Practice (New York: Frederick A. Praeger, 1964), p. 77. 73) ガルーラによれば COIN の具体的な作戦は、次のような段階を踏むとされる。 ①適正規模の正規軍をもって、武装した反乱勢力の主力を撃破あるいは駆逐する。 ②反乱勢力の反撃に耐えうる規模の分遣隊を残して、対反乱軍の主力は別の地域 に移動する。分遣隊は民衆が住む村や町に駐屯する。③民衆との接触を確立し、 民衆とゲリラの接触を断つべく、その行動を統制する。④その地域における反乱 勢力の政治組織を破壊する。⑤選挙によって新たな地域指導者を確立する。⑥そ 65 の地域指導者に具体的な任務を与えて、その適正を検査する。不適格者は交代さ せ、優秀な者にはあらゆる支援を与える。また自衛団を組織させる。⑦これらの 指導者を組織・教育し、政治運動の中核となす。⑧反乱勢力の残党を撃破する。 Ibid., pp. 107-135. 74) ボブ・ウッドワード『オバマの戦争』(日本経済新聞出版社、2011年)33-37ペ イジ。United States, The U.S. Army/Marine Corps Counterinsurgency Field Manual, pp. xiv-xvii. 75) United States, The U.S. Army/Marine Corps Counterinsurgency Field Manual, pp. 14-24. 76) Ibid., pp. 53-54. 77) Ibid., pp. 47-51. 78) Ibid., pp. 34-36, 151-197. 79) Ibid., pp. 53-77. 80) Ibid., pp. 79-135. 81) Ibid., pp. 41-42. 82) イラク戦争については次の文献を参照。ジョージ・パッカー『イラク戦争のア メリカ』(みすず書房、2008年)。パトリック・コバーン『イラク占領―戦争と抵 抗』(緑風出版、2007年)。ギデオン・ローズ『終戦論―なぜアメリカは戦後処理 に失敗し続けるのか』(原書房、2012年)336-408ペイジ。福田『アメリカの国防 政策』208-261ペイジ。Thomas R. Mockaitis, Iraq and the Challenge of Counterinsurgency (Westport, Connecticut, London: Praeger Security International, 2008). 83) フセインはバース党の軍人および彼の親衛隊員からなる非正規戦部隊を創設し、 米軍およびその補給線に対する攻撃を命じていた。彼らの存在は、米軍の占領期 において脅威となった。Mockaitis, Iraq and the Challenge of Counterinsurgency, p. 94. 84) イラク人口およそ2,600万人のうち、アラブ人が75-80%を占め、残りをクルド 人が占めていた。また国民の97%がイスラム教を信仰していた。そのうち6580%がシーア派で、20-30%がスンニ派だった。フセイン政権下ではスンニ派か らなるバース党が実権を握っていた。フセインはクルド人、およびシーア派に対 して弾圧を行ったため、民族間・宗派間の反目は救いがたい状況にまで悪化して いた。米国の占領以前に、イラクは国家としての一体性をすでに失っていたので ある。フセインは秘密警察による弾圧を行うことで、国家としての体裁を保って いた。Ibid., pp. 58-77. 85) ブッシュ政権はフセインとアルカイダの関係性を 1 つの理由に挙げ、イラク戦 争を始めたが、そのような関係性はなかった(2008年 3 月13日に、米国防総省は フセインとアルカイダとの直接的な関係を示す「決定的な証拠は見つからなかっ た」とする報告書を作成した)。しかし皮肉にも、米国のイラク侵攻が各国のイ スラム武装勢力をイラクに結集させた。イラクは「テロ支援国家」であるシリア 66 政治学研究49号(2013) やイランと国境を接しており、イスラム過激派は容易にイラク国内に潜伏するこ とができた。Ibid., pp. 105-106. 86) 福田『アメリカの国防政策』246ペイジ。 87) Gallup Poll of Iraq, accessed January 11, 2013, http://www.gallup.com/poll/1633/ iraq.aspx. 88) Department of Defense, Measuring the Stability and Security in Iraq (June 2010), p. 28. Accessed Januar y 5, 2013, http://www.defense.gov/home/features/iraq_ reports/index.html. 89) Michael E. O`Hanlon, Ian Livingston, Iraq Index: Tracking Reconstruction and Security in Post-Saddam Iraq, Jul 2012, p. 3. Accessed January 5, 2013, http://www. brookings.edu/about/centers/saban/iraq-index 90) David H. Petraeus, “The Landon Lecture at Kansas State University.” accessed January 11, 2013, http://ome.ksu.edu/lectures/landon/past.html. 91) O’Hanlon, Iraq Index: Tracking Reconstruction and Security in Post-Saddam Iraq, p. 3. 92) Ibid., p. 3. 93) Department of Defense, Measuring the Stability and Security in Iraq (June 2010), p. 28. 94) 福田『アメリカの国防政策』257ペイジ。 95) Michael E. O’Hanlon, Kenneth M. Pollack, “A War We Just Might Win.” New York T imes, Jul 30, 2007. Accessed Januar y 11, 2013, http://www.nytimes. com/2007/07/30/opinion/30pollack.html?pagewanted=all&_r=0 96) Gian P. Gentile, “A(Slightly)Better War: A Narrative and Its Defects.” World Affairs, 171-1 (summer 2008): 57-64. 97) Stephen Biddle and Jeffery A. Friedman, Jacob N. Shapiro, “Testing the Surge: Why Did Violence Decline in Iraq in 2007?” International Security Vol. 37, No. 1 (summer, 2012): 7-40. 98) コバーン『イラク占領』13ペイジ。 99) こうした議論に関しては以下を参照。マイケル・ウォルツァー『正しい戦争と 不正な戦争』(風行社、2008年)。 100) 戦略研究学会編『戦略論体系①孫子』(芙蓉書房出版、2001年)92ペイジ。
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