1 05-R-014 現代タイ国におけるイスラーム実践の変動に関する人類学的

05-R-014
現代タイ国におけるイスラーム実践の変動に関する人類学的研究
―イスラーム復興運動「Tabligh」と国家宗教制度、精霊信仰の相互関係から―
総合研究大学院大学文化科学研究科
小河
久志
Ⅰ.研究の目的
世界規模で広がったイスラーム復興の動きは、1980 年代初頭以降、ムスリムが少数派で
あるタイ国にも出現している。同国においてこの動きは、Tabligh をはじめとする海外から
のイスラーム宣教組織やマスメディアによるイスラーム復興思想の流入に影響を受けなが
ら、着実に進展してきた。それは、仏教的イデオロギーの色濃い国家宗教制度や土着の信
仰など、ムスリムを取り巻く「非イスラーム的」な生活環境との関係を通して近年、在タ
イ・ムスリム社会のイスラーム実践に変動、再編の動きを生じさせている。
しかし、タイ国のイスラームを扱った人類学・社会学分野の先行研究を概観すると、そ
の絶対数の少なさとともに、ミクロな事実の描写に拘泥するあまりそれらが置かれた広い
文脈を視野に入れていない。また、イスラームを当該社会の社会構造の前に無化する傾向
を指摘できる。つまり従来の研究は、今日生起するイスラーム実践の変動を、一面的にの
み捉える狭隘な視点を有してきたといえよう。
本研究の目的は、南部トラン県での長期定着調査をもとに、現代タイ国におけるイスラ
ーム実践の変動の姿を、ムスリムの置かれた社会的文脈との関係から明らかにすることに
ある。具体的にはまずイスラーム実践を、ムスリムによるイスラームの規範をめぐる解釈、
実践と定義し、それが表出する場として土着の信仰・儀礼に注目する。そこでは、同地に
介入する Tabligh と国家宗教制度という異なる宗教に依拠する諸システムが及ぼす影響を
加味することで、イスラーム実践の錯綜した姿を描き出す。この試みは、先行研究の批判
的な乗り越えとともに、2004 年初頭から続く南部でのムスリムによる武装闘争の理解とそ
の平和的解決を目指す上で不可欠な具体的事例を提供する意義ある研究と考える。
Ⅱ.研究の内容と方法
本研究は、以下の3つから構成される。第 1 に、タイ南部トラン県のムスリム漁村にお
ける長期定着調査を実施した。具体的には、①調査村における宗教行政や Tabligh という外
部諸力の活動内容とその展開プロセス、ならびにイマム(imam、導師)を中心とする既存
の宗教権威や船霊(maeyanan)信仰に代表される土着の信仰の概略、②調査村が在来の信
仰体系が存在する中で、外的諸力の提示する新たな価値観や実践様式にどのように対応し
てイスラームを実践しているのか、その相互関係のあり方、の 2 点を重点的に調査した。
第 2 に、Tabligh の組織構成、活動内容といった基本的事項を明らかにするため、地区拠点
モスクである調査村モスクとトラン県支部にて活動の参与観察と組織中心人物や参加者へ
1
のインタビューを行った。第 3 に、ソンクラー大学やトラン県庁など関連諸機関において、
ムスリムに関する文献・資料を収集し、その分析を試みた。そこから、在タイ・ムスリム
が持つ社会文化的背景とその現状、ならびに国家イスラーム行政の概略の理解につとめた。
Ⅲ.研究の実施経過
2005 年 8 月~2006 年 7 月にわたる助成期間に実施された研究の概要は次の通りである。
1)調査村での定着調査
①土着の信仰を中心とした宗教実践に関する民族誌的事例の収集
②Tabligh の活動内容、組織構成、ならびに上位機関との関係の把握
③村モスクの役割や上位機関との関係の把握
2)関係諸機関での聞き取り調査
①Tabligh トラン県支部にて組織構造、活動内容に関する聞き取り
②トラン県文化局、トラン県行政機構教育・宗教・文化局、ガンタン郡文化局にて
イスラーム行政についての聞き取り
③ソンクラー大学をはじめとする研究機関にて専門家と意見交換
3)関係諸機関での文献・資料の収集
①チュラロンコーン大学書籍部などにてイスラーム関連図書の購入
②ソンクラー大学をはじめとする研究諸機関にてイスラーム関連図書・資料の複写
4)上記調査で得られたデータの整理、分析
Ⅳ.研究の成果
1) 調査村
調査地は、タイ国の首都バンコクから南に約 864 キロメートル離れたトラン(Trang)県ガ
ンタン(Kantang)郡の北部に位置するM村である1。トラン県は人口約 60 万 8 千人で、
うちムスリムは全人口の約 20%を占める[Krom Kan Satsana 2000]。ただガンタン郡は、
仏教寺院数 11 に対してモスク数が 38 であること[National Statistical Office 2002]から
もわかるように、ムスリム人口は仏教徒人口に比して大差はない。
M村は、郡都ガンタン市から北に約 50 キロメートル離れたアンダマン海に面した漁村で、
村人の主生業は漁業。2004 年現在、世帯数は 149 世帯で、村人は全てムスリムである。
2) イスラーム行政組織
タイ政府はムスリムに対し、これまでその時代や政治状況に応じて様々な政策を実施し
てきた2。中でもアユタヤー王朝期の欽賜名チュラーラーチャモントリー
(chularatchamontri)の復活(1945 年)と、彼を頂点にムスリム個人を末端に置いた中
1
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タイの地方行政制度は上から県(cangwat)、郡(amphoe)、行政区(tambon)、村(muban)となっている。
1940 年代以降のイスラーム政策の概略は[橋本 1987]に詳しい。
2
央集権的なイスラーム行政組織の創設(1949 年)は、ムスリムの国家統治を加速化させる
ものであった。この行政組織は、上からチュラーラーチャモントリー、タイ国イスラーム
中央委員会(khana kammakan klang itsalam haeng prathet thai)、県イスラーム委員会
(kammakan itsalam pracham changwat)、モスク委員会(kammakan matsayit)の順
に構成されており、そこにおいてムスリムはモスクへの登録を義務付けられている。この
ヒエラルキーの設立が、モスクを通じた全ムスリムの動静の把握とその管理への試みであ
る点を考慮するならば、ムスリムと国家の狭間にあるモスク委員会は、イスラームをめぐ
り国家とムスリムが「直に」対面する場といえるだろう。以下、M 村におけるモスク委員
会について述べる。
M 村のモスク委員会は、15 名のモスク委員から構成されている。その内訳は、国から月
給が支給されるイマム、コーテプ(khoteb)、ビラン(bilan)の宗教三役の他、会計、教
育、登録、情報、モスク管理、Tabligh 担当の委員(各 2 名)である。彼らに課せられた任
務は、モスクの管理・発展とムスリム戸籍台帳(sapburut)の作成・保管である。同委員
会は現在、トラン県イスラーム委員会、トラン県(文化局)、トラン県行政機構(教育・宗
教・文化局)
、ガンタン郡(文化局)と関係を持っている。県イスラーム委員会は、県下に
あるモスク委員会の管理を主任務としているが、モスク委員選挙時(4 年に 1 回)にその運
営・監督に来る以外は M 村モスク委員会と殆ど関係を持たない。一方それ以外の 3 つの行
政組織は、宗教三役を対象とした宗教指導者セミナー(1 回/年)とイスラーム教師(to
khru)のためのイスラーム教育セミナー(1 回/年)の開催、モスク修繕費の申請受付と
支給、ラマダン時の村モスク訪問とプレゼント(干したナツメヤシ)の配布を別個に実施
している。このように上記諸組織は、モスク委員会に対してイスラーム支援の活動を中心
に行っており、強権的な統合策をとることはない。つまり両者の関係は、
「管理」よりも「放
任」的傾向が強く、少なくとも村レベルにおいてイスラーム行政は有名無実化していると
いえる。
3) Tabligh
Tabligh は、1926 年にイスラーム学者のマウラーナー・イリヤースにより北インドのメ
ワートで始められた「宣教」を活動の中心概念に据えるイスラーム復興運動である。宣教
活動において主体となるのは、在野の一般信徒である3。彼らは月 3 日、年 40 日、生涯 4
ヶ月という期間、10 人前後のメンバーから構成されるグループ(yamaat)を組み、国内外
に宣教の旅に出ることが義務付けられている。宣教活動では、滞在先のモスクを活動拠点
に、集団礼拝やイスラーム講話(bayan)、地区住民への勧誘(khusushi)、更には自己学
習など自己教化を目的とする活動を行う[中澤 1988:83-90]。Tabligh は現在、デリーに
ある本部を中心にその活動範囲を世界 80 カ国にまで広げている。
3
活動参加者は原則として男性に限られるが、配偶者と同伴の場合のみ既婚女性も宣教活動に参加するこ
とができる。
3
Tabligh がタイ国で活動を開始するのは、北部ターク県に宣教団がやって来た 1966 年と
される[Ardae 2000:164]。当時の活動の担い手は、主に都市部に居住するインドやパキ
スタン出身の南アジア系ムスリムであった。しかし、タイ経済の発展とともにタイ人参加
者は増加し、活動地域も都市部から地方へと拡大した。現在では、バンコクにあるタイ国
、地区拠点モスク
本部(markat prathet)を頂点に、県支部(markat changwat、31 県)
(hanko、各県に複数存在)、村モスク(mahanla、活動に参加する村に 1 つ)に至るヒエ
ラルキーを構築し、それを基盤に支持者を増やしている4。
M 村に Tabligh の宣教団がやってきたのは、ヤラー県から数名の信者が来村した 1980
年代初頭といわれる。この時、宣教団の誘いにのり隣のJ村へ 3 日間の宣教活動に赴いた 4
名の村人が、村で初めての Tabligh 参加者となった。それ以降、M村では、成人男性を中心
とする多くの村人が、頻度の差こそあれ Tabligh の宣教活動に参加している5。
M 村は、Tabligh ヒエラルキーにおいて hanko に指定され、近隣の 6 つの村を統括して
いる。村には、hanko の長であるチュロー(churo hanko、3 名)の他、8 つの役職(計 16
名)がある。
村レベルでの主な活動は、宣教活動の他に以下のものがある。
①村会議:毎日、アスル礼拝後(午後 3 時すぎ)に開催。活動内容と参加者の確認を行
う。
②hanko 会議:毎週火曜日のズフル礼拝後(午後 1 時すぎ)に M 村モスクで開催。hanko
内の各 mahanla から数名の担当者が集まり、トラン県支部からの情報の伝
達と各 mahanla の活動状況に関する報告がなされる。
:毎週水曜日のアスール礼拝後から hanko 内の mahanla の 1 つで
③村外宣教(khad 1)
行われる日帰りの宣教活動。活動内容は上記宣教活動のそれと同じ。
④村内宣教(khad 2):毎週木曜日に自村内で実施。活動時間と内容は③と同じ。
⑤markas 会議:毎週金曜日にトラン県支部で開催。県内各地からチュローはじめ多数の
メンバーが参加。ウラマ(urama)によるイスラーム講話や集団礼拝、宣
教活動に関する情報の伝達と各 hanko の活動状況の報告がなされる。
:年に 1 度、国内の所定のモスク(毎年変更)で開催される全国集会。イス
⑥ヨー(yo)
ラーム講話と集団礼拝が行われる。国内のみならず世界各地から参加者があ
り、その数は 10 万人を超える。
4) 土着の信仰
ここでは紙幅の都合上、数ある儀礼の中から以下の 2 つを取り上げ詳述する6。
4
他国を対象とした研究の多くは、Tabligh の特徴としてその組織性の低さを指摘している[cf.中澤 1988]。
参加者増加の背景には、小学校やモスク学校の設立、新聞や雑誌といったマスメディアの流入等にとも
なう読み書き能力の大衆化やイスラーム規範の浸透があげられる。
6 他にも「悪運洗浄儀礼(sia khro)
」や「祖先崇拝儀礼(phithi tayai, apnam khro)」といった儀礼が適
宜実施される。
5
4
a 船霊儀礼
船霊とは女性の精霊で、漁の安全や漁獲の多寡をつかさどるとされる。一般に船霊の宿
る船首部(hua rua)を踏んだり、船内で下品な言葉を使うことは、船霊の機嫌を損ねる行
為とされ慎まれる。漁民はまた、漁の成功を願い、新船進水式や船補修(年 1~2 度)の終
了日、新漁開始前日、漁具購入時や大漁時、逆に不漁の場合などでも船霊の機嫌をとるた
め頻繁に儀礼を行う。これが船霊儀礼である。儀礼は大抵、船内で行われる。大まかな儀
礼のプロセスは以下の通りである。まず、船首部に巻き付けてある色布を外し新しいもの
に取り替える。それから主に船主が、香粉を水で溶かした香水(nam hom)を船全体に右
回りにふりかける。その後、カレーや焼き魚といった料理が船内に並べられると、薫物と
して松脂(kammayan)7が焚かれ、イスラームの知識をもつ村人がドゥアー(dua、アッ
ラーに対する祈願。あるいは「食前に唱えるドゥアー」のように状況に応じた形で詠まれ
るクルアーンやハディースに由来する決まり文句)を唱える。この対象は、アッラーでは
なく船霊とされ、それゆえにドゥアーの代わりにイスラームとは無関係の呪文(khata)を
唱える者もいる。ドゥアー終了後、参加者は一斉に食事を始める。食事が終わると同一人
物が再度、呪文等を唱えながら揚げ米(khao tok)を船首部に投げつけて儀礼は終了する。
b 護紐
M村では、子供が産まれるとその子の腕や腰、首に綿糸から作られた紐(sen dai)を付
ける。これには、病気や悪霊から子供を守る効果があるとされ、子供はそれを着用するこ
とで健康に育つという。護紐はふつう生後まもない時期(大抵は生後 7 日目)に付けられ、
個人差はあるものの小学校低学年(約 10 歳)には取り外される。
護紐作成者には、イスラーム教師など高いイスラーム知を持つとされる村人や健康な子
供を持つ母親がなる傾向にある。その背景には、彼らに子供を健康に成長させることが出
来る特殊な力があるとする価値観を指摘できる。護紐は、市販されている綿糸を 2、3 本織
り込んで作られる。その際、作成者は、作り終わるまで、着用する子供の健康を祈る呪文
やドゥアーを唱え続ける。祈りの対象は、作成者により異なるが、祖霊(tayai)や土地神
(chao thi)、アッラーと多様である。護紐作成後は、作成者が紐を子供の腕や首、腰に付
ける。護紐作成者と護紐を付けられた子供の関係はふつう、子供を作成者のもとに「養子
に出す」
(hai lukliang)と表現される。しかし、法的な意味で養子に入るケースは少ない。
以上見てきた土着の儀礼は、香水や呪文といった呪術的道具の使用、並びにそれによる
現世での不安の除去や利益の獲得を目指す現世利益指向とを共有していた。これらは一般
に、一切の呪術的なモノを否定し、来世指向型の宗教であるイスラームと相反する実践と
いえる。
7
M村で松脂は儀礼の必需品である。松脂を焚くことで出る煙は、儀礼主催者の願いをアッラー(場合に
よっては祖霊や精霊)のもとに運ぶことを象徴するからである。このため、松脂を用いない儀礼は不完全
なものと見なされる。
5
5) イスラーム実践の現在
a 分断する村社会
上述のように現在のM村では、成年層を中心とする男性の多くが Tabligh の活動に賛同し
ており(以下、賛同者グループ)、その数は年を追うごとに増加している。しかし、その内
部は幾つかの要因により分派している。その要因の主たるものが、土着の儀礼をめぐる対
応に基づく差異である。そこでは賛同者グループは、イスラームの教えから外れるとして
上記儀礼を批判する派(以下、強硬派)と、それを容認または実践する派(以下、中間派)
の2つに大別される。以下各派について見ていくと強硬派は、一連の土着の信仰をイスラ
ームに反する悪行( bap )として否定する 8 。彼らの説明によると、「神はアッラーのみ
(phracao pen anlo ongdiao)」であり、ムスリムは船霊や祖霊といったアッラー以外の存
在を信じることは許されない。また現世利益指向のある土着の信仰は、来世指向のイスラ
ームに反するため忌避される。ここからは、規範からの「逸脱」に対する嫌悪と恐れが通
低していることが読み取れる。こうした特徴を持つ強硬派は、イスラーム規範を厳格に遵
守し、村における Tabligh の活動に中心的役割を果たしている村人から構成されている。彼
らの多くは、イマムやモスク委員といった村の公的イスラーム・リーダーでもある。他方
の中間派は、Tabligh の活動に賛同し時には熱心に参加しながらも、強硬派が全否定する土
着の儀礼を実践、あるいは実践しなくとも容認する村人から構成される。彼らは強硬派同
様、これら儀礼をイスラームの理念に反するものと認めている。しかし、日常生活におい
ても不可欠なものと見なし、強硬派のようにその全てを否定することはない。むしろ儀礼
遂行の際に、
「ドゥアーを詠唱しさえすればイスラームに反しない」とする論理を用いるこ
とで、儀礼とそれを擁護する自己を正当化する。このカテゴリーに属する村人は、M村に
おいて多数を占める。
M 村には、賛同者グループ以外にも Tabligh の活動そのものに批判的なグループ(以下、
反対者グループ)も存在する。このグループは、精霊信仰を中心とした「伝統知」の保持
者である老年層を中心に構成され、Tabligh の活動には一切参加しない。彼らは、クルアー
ンの中に Tabligh への参加を義務化する記述がないことを拠り所に、参加しなくとも悪行に
はならず、礼拝を中心とした村でのイスラーム実践でも十分に徳を得られるとする。むし
ろ Tabligh は、多くの時間と資金を費やすことで家庭生活に悪影響を及ぼすが故に、善行で
はなく悪行であると批判する。
これらグループや派は組織化されておらず、また日常生活において目に見える形で対立
することも殆どない。しかし、ひとたび土着の信仰や Tabligh を巡る語りが立ち現れると、
それを契機にこれまで見えなかった村人間のイスラーム実践の差異が表面化することにな
る。
M村ではまた、毎週木曜日の夜(kham wansuk:文字どおりには「金曜日の夜」を意味する)になると、
祖霊が村の子孫のもとに戻ってくると信じられている。この夜は、外出を控えて家やモスクで礼拝を行う
ことが奨励される。また各世帯では、来訪する祖霊をもてなす為にお菓子やお茶で小さな宴会(nuri)が
開かれる。現在までこの信仰は、慣習(prapheni)と見なされ批判の対象となっていない。
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b 多様なイスラーム実践
Tabligh 強硬派が、船霊儀礼をはじめとする土着の信仰に基づく儀礼を容認しない立場で
あることは先述のとおりである。しかし同時に彼らの一部は、批判の対象であるはずの儀
礼の執行役を担うという矛盾した役割も担っている。例えば船霊儀礼では、船霊への豊漁
祈願に際して強硬派メンバーが祈願のドゥアーを唱えたり、船体への香水の塗布などを行
っている。また彼らは、その豊富なイスラーム知識を買われ、護紐作成の依頼を受けるこ
とも多い。
こうした強硬派メンバーの矛盾した行為に対して、現在まで、中間派や反対者グループ
の村人から明確な形での批判はなされていない。その理由としてまず、これまで長年にわ
たり行われてきた土着の儀礼が、批判を受け若干の変更を加えられながらも存続している
ことへの村人側の安堵という心理的要素があげられる。まして反対者である強硬派の村人
が儀礼に参加すれば、儀礼は「非イスラーム的」なものと見なされることもなくなる。第
二に護紐の例からも明らかなように、高度なイスラーム知識を呪術的力と同義のものと見
なす価値観がM村社会に存在する点も見逃せない。これは一般の村人が、イスラームと土
着の信仰との差異をさほど重要視していないことを示している。また、強硬派内部におい
ても、媒介者として振舞うのがイマムをはじめとする公的な宗教権威の保有者であるため
か、彼らに対する批判は見られない。
次に彼ら一部の強硬派メンバーは、どのような背景、方法のもとにこのような矛盾する
行動をとったのであろうか。確かに土着の儀礼を「イスラームの規範に反する(phit lakkan
satsana)」として批判し始めたのは他でもない彼ら自身であった。しかし実際には、これ
ら儀礼は、イスラーム復興の動きが日常化した村人の生活においても依然として深く根付
いており、需要も高い。つまり、一方的にその中止を訴えるだけでは消滅するものではな
い9。ましてや批判を強めることで逆に、村におけるイスラーム知識人としての自身の威信
が低下する危険性すらある。こうした板挟みの状況に置かれた彼らは、イスラーム復興の
浸透と保身を同時に可能にする手段の1つとして、
「儀礼でドゥアーを詠唱しさえすればイ
スラームの教理に反しない」とする中間派の解釈を用いた。例えば船霊儀礼では、船主の
多くが祈願の対象を船霊に想定していることを知りながらも、自身がドゥアーを詠唱する
ことにより対象をアッラーにすり替える「儀礼のイスラーム化」を図っている。そこでの
彼らの解釈は、「船霊など諸精霊はアッラーの下位に位置するため、祈願は精霊ではなくア
ッラーに対してなされなければならない。祈願を受けたアッラーは、それを精霊に伝える」
というもので、アッラーへのドゥアーの必要性を強調する。同様の「すり替え」はまた、
護紐作成時にも見られる。
以上のような錯綜した過程を経て今日、M 村の村人は、自身が置かれた社会的状況を考
9
また批判を強めれば強めるほど、儀礼を「よりイスラーム的」なものにするために、儀礼執行役として
の強硬派の需要が高まるという結果になっている。
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慮した上でより自由かつ柔軟にイスラームを解釈、実践している。そこには、国家制度と
村の関係に見られるようなイスラーム統制の緩さも村人の自由な実践を許した要因といえ
る。
Ⅴ.今後の課題
以上本研究は、土着の信仰をめぐる村人の対応を Tabligh や国家の影響を踏まえて分析
することで、現代タイ国におけるイスラーム実践の変動の姿を明らかにした。しかし、主
に村レベルのイスラーム実践の把握につとめたため、国レベルでのイスラーム政策や
Tabligh の活動といったよりマクロな諸力を取り扱うことができなかった。今後は上記諸点
の理解を進めるとともに、それを本研究の成果と結び付けることで、在タイ・ムスリムの
イスラーム実践の変動・再編の様子をより動態的に理解したいと考えている。
【参照文献】
Ardae, Masakare. 2000. Naeu Khit Choeng Sufi Khong Klum Dawa Taplik Nai Cangwat
Chai Daen Phak Tai Khong Thai (タイ南部国境県におけるダッワ・タブリーグのスーフィ
ー思想様式), Master Thesis, College of Islamic Studies, Prince of Songkhla University.
橋本卓.1987.「タイ南部国境県問題とマレー・ムスリム統合政策」『東南アジア研究』25(2):
233-253.
中澤正樹.1988.
「JEMAAH TABLIGH:マレー・イスラム原理主義運動試論」
『マレーシア社
会論集1』:73-106.
(政府統計資料)
Krom Kan Satsana.2000. Raingan Kan Satsana Pracam Pii P.S.2542
(仏暦 2542 年宗教報告),
Krungthep:Krom Kan Satsana Krasuang Suksathikan.
National Statistical Office.2002. Statistical Reports of Changwat Trang 2002 Edition,
Bangkok:National Statistical Office, Office of the Prime Minister.
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