Salon d` AALA 17号

いつかは行きたいと願っていたエジプト観光を、昨年3月に、ようやく
実現させることができました。圧倒的なスケールの古代遺跡群、ナイル
の雄大な流れ、そして、一束の花を胸にいだいたツタンカーメンのミイ
ラなどなど、5000年の時空を超えたエジプトの不思議に引きずり込まれるような思いがしました。
そして今年の2月、エジプトで民衆蜂起が起こり、
「ハスの花革命」と呼ばれる大きな変化がおきました。
普通、エジプトを訪れる観光客は、過去の遺産が目的であり、現在の社会については関心が薄い場合が
多ようです。AALA会員としては、恥ずかしいことですが、私自身もそうであったと言わざるを得ま
せん。
カイロからアレキサンドリアへ向かう高速道路で目にした新築の高級住宅街は、ムバラク一派の不正蓄
財の象徴であったということを後で知りました。
ギザの広いピラミッド・エリアはラクダに乗って観光するのが一般的ですが、まだ10歳くらいと思わ
れる子どものラクダ使いも働いています。学校は行っていないらしく、いたずらは、子どもの特権とば
かりに、ラクダをわざと激しく上下させて、私たちを怖がらせて笑っていたのですが、あの子どもは今
どうしているでしょうか?
また、観光客が引き上げたため仕事がなくなったラクダ使いが、民衆に向かってラクダを突進させてデ
モ破りをしている映像を見ましたが、その後彼らは、どのような立場を取ったのでしょうか?
100万人の民衆が占拠したタハリール広場は、アラブ語で「解放」を意味するといわれますが、今
回の成功にふさわしい場所であったと言えるでしょう。
私たちのガイドだった、モハメッドさんは、アレキサンドリア大学卒の20代のたくましい男性でし
た。イスラム国家で、石を投げれば、モハメッドにあたるといわれるほど数多い名前だそうで、自分の
ことを、
「モーちゃん」と呼ぶようにと言っていました。彼の妹は医学部の学生だということでした。古
代遺跡を案内するときは、白いアラブ服に着替えていましたが、堂々たるアラブ人の風情をかもし出し
ていました。日本が大好きで、お金をためて、結婚したら新婚旅行にぜひ日本に行きたいと言っていた
彼は、あの革命の後、どのように生きようとするのでしょうか?
エジプトでは、19日に憲法改定を問う国民投票が実施されたという記事を読みました。
真に民主的な国家を作り上げるためには、まだまだたくさんの課題があるようです。
エジプトが民主的な住みやすい国を自分たちで作り上げていけるように、そしてあのすばらしい古代遺跡
がいつまでも大切にされるように、祈らずにはおられません。
奥
村
一
彦
起稿しようと思っていた矢先、3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生しました。地震、津
波そして原発の被害に遭われて今も過酷な生活を強いられている方々及び残念にもお亡くなりになられ
た方々に心からお見舞い申し上げ、私もできうる援助に尽力したいと思います。
ところで前回までの話題は、我が国では議論によって自分の主観的正義を客観化させる伝統がないとい
うものでした。私はこのたびの東日本大震災で、①原発の事故情報の提供が後手に回っている事実、②
原発の安全性を疑問視する意見、これは我が国では少数意見ですが、これを無視あるいは異端視してき
た事実があること、この2つの問題は、正義を客観化しようとしない、すなわち公開の討論により問題
を検討する動機が生じないことと関連があると考えます。
私たちは当初、地震・津波の猛威の影像に釘付けとなりました。しかし、菅首相は翌12日の午前6時
過ぎ、早くも被災地を視察すると称し福島原発に行きました。全被災地を回ったのではありません。こ
の時点で政府・東電は危機の程度を考量したはずです。従って、これからの対策も検討されたと思われ
ます。この時点で首相は海水の注入を進言した様ですが、東電は受け入れなかったと言われています。
私たちには、この時点での報道は限られており、1号機から3号機は緊急停止したこと、4号機以下は
定期点検中だったこと、電源車(私の聞いた言葉ですが)を用意して復旧にあたる予定というものでし
た。しかし、冷却装置が全部喪失したという原発にとって最も危険な事態が発生したという認識が得ら
れる報道はありませんでした。その後1号機に水素爆発が起こりました。しかし、建屋は飛んだが格納
容器は安全という報道がなされただけで、各建屋内の使用済み燃料棒が容器外のプールで冷却される構
造である事実は報道されませんでした。われわれが全貌を知るのはその後3号機の大水素爆発が起こっ
てからです。そこではじめて午前5時に首相が東電に出向き「統合対策本部」なるものを設置します。
定期点検中であたかも安全かのように報道された4号機も容器外にある燃料棒が冷却されず危険域に達
していること、燃料棒は冷却できないと炉心溶融というさらなる危険段階に現実に達するかも知れない
ことは相当後に知らされ、それから10キロ待避から20キロ待避が発せられました。
この一連の情報提供を跡づけると、電源車がすぐ来るというのは虚偽で、また使用済み燃料棒の冷却不
能の危険性は既に政府には分かっていたことですが、格納容器損傷以外に国民の関心が向いていないと
みると他は情報提供しない、さらに、数時間後あるいは明日にもほぼ確実に起こりえた水素爆発や炉心
損傷すら報道していないことがわかります。
「今現在」の状態は危険でないと言うばかりです。直近の「将
来」がどうなるという予測については「わからない、今頑張ってます」で押し通すのです。
これは、
「今のみ」に集中し、過去どうであったのか、すぐにでも起きる事態はなにか、を欠き、過去未
来から現在は完全に切り離された思考方法です。もし、冷却装置が地震と津波で全部喪失したことと早
期に冷却できなければ数日以内に水素爆発が起こると情報提供があれば、国民は対策に考えが及ぶわけ
です。どの程度の危機があるか、どういう対策が必要かは、病気で言えばまず正しい診断(危険度)が
なされて、はじめて治療方針(対策)が立つわけで、とにかく全面的な危険情報の提供は欠かせません。
もしかしたら危機情報も過大なものもあるかもしれません。しかし、科学はすべて確率の世界ですから、
例えば、情報の客観性判断のため10人の科学者を集めて討論し、そのうち7名が安全だろうという結
論を支持すれば、概ね安心して良いといえます。この客観化過程が欠如しているわけです。動機が生じ
ないのでしょう。しかし、未知のものを解明する場合であればあるほど討論は欠かせません。(つづく)
テ
ト
の
宴
西 山 正 一 郎
ベトナムからの留学生たちが、一同に集い、テトを祝うパーティーに参加した。AALAからは、私
のほかに、河辺、高畑の両氏も参加した。
まず驚いたのは、会場の熱気である。百名を容に越す若者が満ちあふれ、準備に余念がない。宴の準
備をしている女性たちに、料理の名前を訊ねてみた。ベトナム語で、丁寧に教えてくれたが、発音が難
しい。テトに欠かせない料理は、ミンテトという。ポークと青豆をもち米で包み、バナナの葉で巻いて、
長時間蒸しあげて作る。輪切りにされて皿に盛られた様は、大きめの海苔巻のようだ。他にも、ベトナ
ムのハムや春巻きなど、憶えきれないほどの料理が並ぶ。会が始まると、まず表彰式があった。訊けば、
詩のコンクールの表彰だという。ベトナムは詩の国でもあった。若者たちに囲まれて、テトの料理に舌
鼓をうち、ビールの飲みながら過ごす間に、私は、二〇代の若者に戻っていた。そうして思い出し
ていた。ベトナム戦争のことを。職場にベトナム人民支援のカンパ箱を置き、撃墜されたB52の
残骸で作ったジュラルミンの指輪をはめていた。そして、トンニャットベトナム。高揚した気分の
中で、時間の流れが逆流を始めた私は、いつの間にか、自作詩を朗読する舞台に立っていた。
ベトナムは詩の国 私も詩の朗読に加わった
通訳をしてくれたのは
睡蓮のようなチャウさん
博士論文が通ったチュン君
若者たちに囲まれて
建築工学を学んでいるユング君
私は二十歳の青年に戻っていた
B52のジュラルミンの指輪をしていた
そうしてトンニャット
ベトナム
アメリカを追いだしたら百倍も美しい国を創ろう
ホーチミンの言葉を思い出した
西山正一郎
2月20日、大阪で、バングラデシュのパキスタンからの独立に繋がる事件を記念しての
セレモニーがあり、招待を受けて参加した。
イギリスからの独立後、旧インドは、現在のインドと東西のパキスタンに分かれて独立した。
しかし、東パキスタンは、西の支配下にあり、言語も、パキスタンのウルドゥ語を強要されたため、
母国語であるベンガル語の使用を求めて、デモが起こり、四人が銃弾に倒れた。
この運動が、やがて、独立戦争へと繋がっていく。
この日は、この四人を含めた独立戦争の犠牲者を追悼する日である。
セレモニーは、まず、犠牲者への黙祷、献花に始まった。そして、犠牲者をたたえる詩や歌、
踊りなどがささげられた。私も、こわれて、自作の詩を朗読して、哀悼の意を表した。