「宗教学通論」資料:ビデオ『キリスト教 至愛の道』

宗教学通論資料:ビデオ(キリスト教)
「宗教学通論」資料:ビデオ『キリスト教──至愛の道』
参考文献)
教科書第 1 章第 3 節「キリスト教」pp.27-47.
S.F.ブラウン『キリスト教』青土社、1994 年、2200 円
S.F.ブラウン+ Kh.アナトリオス『カトリック』青土社、2003 年、2200 円
S.F.ブラウン『プロテスタント』青土社、2003 年、2200 円
このビデオは、活気を失い、期待されることがなくなりつつある西欧のキリスト教の現
状と対照的な、ラテン・アメリカの現実の生きた教会の様子を紹介することから始め、そ
こでの社会改革と人権擁護に携わった人々の殉教からキリスト教の何たるかを語ることか
ら始め、イエスの生涯、ユダヤ教世界の中にその一派として登場した当時のキリスト教か
ら現代までの歴史(原始教会、位階制の確立、初期の東方教会、ロシア正教、ローマ・カ
トリック教会、ルターの宗教改革とプロテスタント諸教会の成立、近代以降の状況、現代
の課題)を、それぞれの教派における現在の礼拝などの活動の様子を映像で紹介しつつ、
大まかに辿っている。
スラムの人々の教会、原始キリスト教の面影、キリスト教の本質──導入
[ラテン・アメリカ、エルサルバドル共和国(人口約 600 万人、その 93 %がカトリッ
ク教徒)の首都サンサルバドルにあるスラム、ラ・チャクラの映像。]キリスト教の本質
が、ここに見出せる。ヨーロッパでは現在、多くの人がキリスト教を過去のものと見て、
これに背を向けている。彼らはキリスト教を官僚機構、虚飾、性をタブー視し、女性を蔑
視するものと見なしている。サンサルバドルにも同じ傾向がある。しかし、下町の貧困地
区ラ・チャクラにおいては、キリスト教は大きな希望である。ここでは教区司祭であるイ
エズス会士ダニエル・サンチェスがキリスト教そのものを体現している。彼は 15 年間に
わたって彼らを身体的・物質的にも世話をし、魂のために祈りを捧げてきた。それは人民
の集会、人民教会なのである。ここでの聖職者は、聖職者と信徒という2つの階層からな
る教会の司祭というよりも、むしろ信仰共同体の奉仕者である。この国は、最も犯罪率の
高い国の一つであり、毎日のように数人が殺害されているが、サンチェスは人々との関わ
りのなかにいて、特に身の危険を感じることはない。
この教会は原始キリスト教を思い起こさせる。コリントの教会でパウロがそうしたよう
に、ここでは皆に発言する権利が与えられている。女性も自分の経験を語り、聖書を自分
のための書物であるかのように読む。皆がともに祈り、歌い、聖体を拝領する。自分を神
の民とする人々の教会がここにある。この教会ではキリスト教の信仰が実践的でなければ
ならないということも当然である。つまりキリスト教の信仰は、弾圧や搾取を決して正当
化してはならず、それらの克服を目指さなければならない。神への奉仕である礼拝と人間
への奉仕、つまり、典礼と社会への関与とは表裏一体なのである。[Cf.「解放の神学」を
めぐる問題。]
しかし、軍事政権の下で社会改革と人権擁護のために活動した人々は危険にさらされた。
大司教オスカー・ロメロは、教会という体制のなかで育ったものの、極度に貧しい人々と
の接触のなかで、抑圧された人民の権利を積極的に擁護する人間になり、ミサの最中に凶
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弾に倒れた。彼の活動は、プロテスタント神学者ディートリヒ・ボンヘッファー、アメリ
カの市民権運動の指導者マーティン=ルーサー・キング牧師、ポーランドのポピエルシュ
コ神父の活動に比されるもので、そこにキリスト教の本質がある。共通点は強固な信仰を
もったキリスト教徒だったこと、暴力を用いずに隣人のために力を尽くしたこと、残虐な
暴力の犠牲になったことである。
こうしたことにより、彼らはナザレのイエスと同じような人生を送ったことになる。こ
れらのことからキリスト教の本質を見ることができる。それは、偉大な理論でも、一つの
世界観でも、教会制度でもなく、ただ単に「イエス・キリスト」なのである。キリスト教
徒とは、自分の人生を歩む上でイエス・キリストに倣おうとする人のこと。言葉と行いで
イエス・キリストを拠りどころとしていないならば、キリスト教的とは呼びえない。
サンサルバドルで 1989 年 11 月 16 日、イエズス会の 6 人の教授が修道院である決死隊
によって虐殺された。彼らは誰も殉教者になろうと思っていたわけではなく、平凡な人間
で、真摯なキリスト者だった。神の愛と隣人愛を実践していた。
イエスの人生・行い・教え
山上の垂訓、イエスの教えと言葉、福音は、彼の人生、行動と分けることはできない。
イエスは教会の設立を説いたのではない。当時の為政者の体制との対立。政治犯として十
字架上で死に、それがキリスト教のシンボルとなった。復活の信仰の発生。これが、ユダ
ヤ教、イスラームとの分裂を生んでしまったのは宗教史の悲劇。
ユダヤ教やイスラームとの共通点
初期のキリスト教徒はユダヤ教の枠内にあり、ユダヤ教と対立してはいなかった。3つ
の宗教には違いよりも共通点が多い。(1)神に対する信仰。アラビア人のキリスト教徒は
神を「アッラー」と呼んでいる。[(2)歴史的思考、つまり宇宙の周期的循環ではなく、
神の創造から世界と人間の生の完成へと向けられた思考を展開していること。](3)何れ
も偉大な預言者によって特徴づけられていること。(4)聖典宗教であること。さらに(5)
共通の根本倫理を有していること。
原始教会とパウロの伝道
初期のキリスト教徒にとって、ユダヤ人以外のキリスト教徒も律法ハラハーを守るべき
かどうかということが問題になった。異教徒への伝道を使命としていた使徒パウロがこれ
に否定的に答えた。彼はギリシャ的教養をもった国際感覚豊かなユダヤ人であった。ユダ
ヤ人以外のキリスト教徒はそれ以後、宗教的律法から解放された。
ユダヤ人キリスト教徒は、エルサレムの没落後、中心を失い、東方に逃れ、アラビア、
エチオピア、バビロニアに移り住んだが、異端として弾劾されることになる。ユダヤ人以
外のキリスト教はパウロの伝道の旅によって驚異的に拡大・普及する。アンティオキア、
エフェソ、コリント、フィリピ、ローマへと。
コンスタンティノープル(第二のローマ)──教会の分裂と東方正教会の成立
しかし、パウロの 2 世代後にはすでに位階制ができていた。3 段階の職制の位階制。こ
の枠組みでは、新約聖書、信仰告白、典礼、建築などのすべてがギリシャ的だった。コン
スタンティヌス皇帝がキリスト教を公認したことで、迫害されていた教会は、国家教会と
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なった。その象徴がユスティニアヌス皇帝が 6 世紀に建てた聖ソフィア聖堂である。コ
ンスタンティノープルは第二のローマとなり、エルサレムに代わってキリスト教世界の中
心地となった。
イエス・キリストは神の位置にある全能の支配者と理解されている。イエスの名におい
て、皇帝は専制君主として国家だけでなく教会も統治した。皇帝は全世界の教会を包括す
るという会議を招集し、イエスが人間であり神であるという教義と三位一体の教義を決議
し、これらが正統信仰の基準になった。11 世紀には独裁的傾向をもつようになったロー
マ教会とビザンティン教会との間に分裂が生まれ、相互破門するに至った。
モスクワ(第三のローマ)──ロシア正教
ビザンティンはトルコ系イスラーム教徒によって占領され、同じ時期、ロシアはタター
ル人から解放される。これによりモスクワのクレムリンがロシア帝国の宗教的・世俗的中
心地となり、皇帝座、府主教座、後には総主教座となった。この教会[聖マリア永眠大聖
堂の映像]は皇帝専制時代のロシアの中心的教会だった。有名なトルストイに対する破門
宣告もここで出された。ビザンティンでは国家と教会の調和が取れていたが、ロシア・モ
スクワでは次第に国家が教会を完全に吸収するようになった。王座と総主教座が同じ高さ
にあることで、表面的には皇帝と総主教が同等であるように装われた。
モスクワはロシア正教会の中心になり、ロシア的なものはすべて正統で、そうでないも
のは異端であるという疑いがかけられることになった。
共産主義の中断後、ビザンティン的な華麗さで教会は再興された。教会全体は、マリア
とキリストの生涯を描いたフレスコ画でいっぱいである。支柱には正教会キリスト教の殉
教者が 135 人描かれている。しかし、共産主義革命が国家だけでなく、教会にも向けられ
たのは、教会が皇帝による専制政治体制の礎であり、支柱であったということによる。
しかし、正教会側から、レーニンによる改革がスターリンの下で殺人的テロの政治体制
に変わってしまったという正当な批判が出され、その結果、数千人の聖職者が逮捕され、
流刑に処された。数千の教会が焼かれ、閉鎖され、数百万の人々が収容所列島に送られた。
1989 年、正教会が復興し、すべての教区教会でロシア正教の復活祭が祝われた。イコ
ンの崇拝は、東方教会で発展したもの。このような民衆の宗教運動は、教会位階制組織や
皇帝からは好まれなかったが、修道僧たちがこれを支持した。最初の数世紀は偶像崇拝と
して禁じられていたものが、その後結局定着した。聖画像の前にはろうそくやランプが灯
され、線香が供えられ、信徒は聖画像に口づけし、跪いて拝む。聖画像論争が 100 年以
上続いた。東方教会では十字架上のイエスよりも復活したイエスの方が典礼における中心
的な位置を占めている。復活したイエスは、永遠の命の希望の偉大なしるしである。典礼
は司祭の和睦の口づけと聖体拝領とで締めくくられる。ぶどう酒の中に浸されたパンがス
プーンで信者に分け与えられる。
東方正教会についてのまとめ
東方正教会とローマ・カトリック教会との相違。正教会は多くの点で原始キリスト教の
姿を留めている。ローマ教会のような中央集権的な指導体制をもっていないし、司祭に結
婚を認めている。聖体拝領では信者にもパンだけではなく、ぶどう酒も与えられる。正教
会はさまざまな政治体制、特に最近 70 年の共産主義体制の下での迫害に耐え抜き、数千
人もの殉教者を出しながらも存続してきた。それは、荘厳な典礼と聖歌のおかげであり、
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それは西欧の人間をも感動させる。
しかしそれでもなお原始キリスト教との相違は極度に大きい。普通の信徒が宮廷的な荘
厳さをもった正教会の典礼のうちに「キリストの聖餐」の面影を見出すことはできない。
国家と結びつくことも原始キリスト教会には無縁のことであった。これらは今日の正教会
が立ち向かわなければならない課題である。正教会は典礼、説教、学校の授業で、キリス
ト教のメッセージ、福音そのものを語らなければならない。さらにローマ・カトリック教
会との和解も重要な課題。
ローマ・カトリック教会
エルサレムの没落後、ローマが教会の首位権をもつようになった。聖サビーナ礼拝堂を
有するローマ教会は、当初はまだ権威主義的中央集権的な組織ではなかったが、法と秩序
とを強調し、組織力や現実の政治に対する感覚を持っていた点は、ローマ的であった。ロ
ーマでは教会がユダヤ教から生まれたことが常に意識されていたが、次第に異教徒の教会
に取って代わられた。ローマではラテン的な神学、教会規律、典礼が定着した。長い間一
般に使われてきたギリシャ語の代わりに、当時の民衆の言語であるラテン語が定着して行
った。コンスタンティヌス皇帝以後、ドーム屋根の教会堂はまだ建てられなかったが、祭
壇と司教座を中心とする新たな大教会堂が建設された。原始キリスト教では宗教的な感謝
祭であったものがミサ聖祭へと発展して、次第に盛大な祝いが行われるようになった。
ローマ帝国の政府がコンスタンチノープルに移って以後、ローマの司教は西方にできた
権力の真空状態を有効に利用し、より強大な権力をえて、その権力を教会から国家にまで
拡大した。自らの権威を正当化するため、重要な使徒であるペトロとパウロがローマにい
たという事実を利用した。二人はローマで処刑され、そこに埋葬されていた。古代教会に
とってのペトロの信仰の意味は、教会がペトロ、つまり岩のように堅い信仰の上に立つべ
きだということであったが、ローマの司教は自らがペトロの正当な後継者であると主張し
た。かつてペトロに面と向かって反論したパウロの意義は失われ、ペトロは教皇の権力に
根拠を与える役割のみを担わされた。教皇の地位の象徴は、三重冠、教皇の印鑑用の指輪
(漁夫の指輪)、盛式服。サン・ピエトロ[聖ペトロ]大聖堂で行われるペトロ祭ではペ
トロ像が飾られる。ガリラヤの漁夫の後継者は都市と全世界に命令を下す教会の首長とな
った。[前教皇ヨハネ・パウロ二世の映像、ちらっと当時のラッツィンガー枢機卿、現在
のベネディクト 16 世の映像も。]絶対主義的で君主主義的な性格をもつ教会という考え
は、キリスト教の誕生から 1000 年間は見られなかった。中世の最盛期、グレゴリウス7
世在任中に初めてこのような教会観が確立され、革命的な新たな教会法ができた。それに
よれば、教会全体は教皇を中心に構成され、教皇は教義と実践面で拘束力をもって福音を
解釈する一切の権利をもっている。このようにして一つのパラダイム・シフトが起こった。
カトリック教会は新たなローマ帝国であった。このことは、ペトロ祭で全世界から集まっ
た、新たに大司教に任命された者に与えられる「パリウム(大司教肩衣)」授与式に象徴
的に見られる。それを与える資格は教皇にのみある。中世の最盛期以来、カトリック教会
は中央集権的で法的に根拠づけられた性格をもつようになった。教皇はすべての教会に対
して法的な首位権を求めているが、現在も東方教会はこれを拒否している。聖職者の権力
が一般信徒よりも上になっている。教皇と皇帝や近代国家との闘争が引き起こされた。婚
姻の禁止はすべての聖職者に対する規定であり、西方教会に多くの問題を起こした。
第二ヴァティカン公会議は、教皇の絶対主義によって崩壊した教会の統一の回復と古代
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教会に見られた司教団と教皇との共同性を主張したが、その成果は慎ましいものであった。
この公会議以降、東方正教会の代表が教皇の行う典礼に参加するようになったが、聖体拝
領は共同で行われていない。ローマ教会の権力への要求が障害となっている。
キュンクは 7 年間ローマで勉強し、ローマを内から知るようになった。彼は教皇制を
さまざまに批判しているが、すべて牧会的奉仕は、それが福音の精神で、私利私欲を捨て
て行われるならば、使徒ペトロの模範に従うことが有益であると確信していると言う。教
皇制が少なくとも西方教会の内部で、団結、統一、自由の獲得に偉大な功績を残したこと
は否定できない。この点でもローマ的体制は東方教会に見られる教会同士の緩やかな結び
つきよりも効果的である。教皇が信仰深い人物であるときは、道徳的な権威としていつで
も全世界の人々の良心に語りかけることができる。しかし多くのカトリック教徒自身がロ
ーマ的体制は常に原始キリスト教の福音、教会的秩序から逸脱して発展してきたと、ロー
マ教会側の権力に対する要求を批判している。中世の最盛期以来、ローマ的体制の否定的
側面が明らかになってきた。批判されているのは次の3点である。(1)教義と道徳の問題
で見られる権威主義的態度と無謬説[infalibilitas papae]、(2)後見人として細かな問題ま
で、信徒と聖職者、教会を監視していること、(3)絶対主義的権力体制はもはや過去の遺
物以外の何物でもないということ。この権力体制はガリラヤの慎ましい漁夫であったペト
ロよりもローマ帝国の皇帝にふさわしいものであると。このような批判は 500 年以上に
わたって叫ばれている。
宗教改革とプロテスタンティズム:信仰のみ(恩寵のみ)、万人司祭主義、聖書主義
マルティン・ルターの宗教改革は、免罪符[贖宥状]をめぐる闘争に端を発した。彼は
福音への回帰、民衆の理解のための聖書のドイツ語訳を主張した。当時、伝統や法や権威
が無数に存在したが、ルターはキリスト教徒にとって基本的拘束力をもつ普遍的な基準は
キリストの福音のみであると考えた。神にとりなしてくれる無数の聖人や仲介者がいたが、
ルターにとって仲介者であり、聖書の中心であるのは、十字架上のキリストのみであった。
[ここから万人司祭主義も帰結する。]当時、教会は信者が魂の救済を得るための無数の
敬虔な善行も規定していたが、ルターはパウロに従って、人間は行為によってではなく、
信仰のみによって得られる恩寵、神の恵みによってのみ正しい者と認められると考えた。
これによって、再び、新たな形態のキリスト教が確立され、新しい教会が誕生した。こ
れは世界情勢へも影響を与えた。すなわち、ラテン・アメリカはカトリックに留まり、北
アメリカはプロテスタントになった。新たな形態の教会は、中世的位階制ではなく、牧師
が礼拝に参加する人々とともに信者の共同体を形成する。ドイツでは教会の讃美歌を通し
て宗教改革が急速に広まった。キリスト教徒の自由という福音は今日まで青少年に人生の
確固たる拠りどころを与え続けている。ルター以後に始められた儀礼として「堅信礼」が
ある。これは信仰をかためるための式で、これによって完全に教会に受け入れられ、これ
からの人生の旅路のために聖書の言葉を受け取る。祈祷と按手が行われ、信徒はその後初
めて聖餐式に加わる。しかし、この教会には分裂の傾向が内在している。最初期に既に聖
餐式をめぐる分裂が生じた。ルター派と、ツヴィングリやカルヴァンに率いられた急進的
な改革派との分裂がそれで、改革派はジュネーブから始まり、聖画像なども否定する立場。
さらにイギリス国教会、自由教会派が分裂。(何れも、第二ヴァチカン公会議までローマ
教会が拒否していたのとは異なり、聖体拝領の時にパンだけではなく、ぶどう酒も受け取
ることを信者に認めているが。)
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宗教学通論資料:ビデオ(キリスト教)
マルティン・ルターは基本的に正しかった。信仰義認の考え方、信仰によってのみ正し
い者と認められるという教説と敬虔な行為によって正しい者と認められるという教説とが
基本的に一つのものであることを[キュンクは自分の博士論文において]確認したが、こ
のことにはカール・バルトなども同意した。義認の教説に関する統一声明が、ローマ教会
とルター派世界連盟との共同作業として公にされた。キュンクは実践的一致の実現を望ん
でいる。宗教が対立する時代は終わった。カトリック教会は第二ヴァティカン公会議以来、
ルターが望んでいたことを実現してきた。聖書を重視すること、聖祭で民衆の言語を使う
こと、一般信徒が宗教的活動に参加すること、制度を非中央集権化することなどである。
しかし聖職者の独身規定の問題を解決するためには、福音主義化を集中的に行っていく必
要がある。逆にプロテスタント教会には、カトリック的な幅広さが必要である。プロテス
タント教会は地域主義が強すぎ、相変わらず分裂していく傾向があり、多くの「教皇」が
出現している。
〈啓蒙主義と近代化〉という課題
この両教会は、分裂の 200 年後に始まった啓蒙主義と近代化という重大な課題に直面し
ている。それはヴィッテンベルクやローマにおいて始まったものではなく、フランスやオ
ランダ、イギリスに端を発したものである。それを具体的に実現しているのがアメリカ合
衆国。
自由の女神像は、約 100 年前、フランスからアメリカに贈られたもの。自由を人格化し
たもので、両国が協力して戦った独立戦争と、フランス革命からアメリカ人が遺産として
受け継いだものとの記念。フランスとアメリカの革命の重要な成果は、人権宣言:良心、
言論、宗教の自由、主権在民、自由宣教、権力分立、財産不可侵である。中世のキーワー
ド:教皇と教会。宗教改革のキーワード:神の言葉。近代のスローガン:理性、進歩、国
家。そのスローガンの下で実現した近代哲学、自然科学、工業などの分野の革命は、国家
と社会の民主主義革命で完成した。さらに近代化自体の相対化もまた近代から生じた。そ
して、今や、ヒューマニズムへの要求が新たに強まっている。
平和と地球倫理──まとめ
グローバル化時代の課題。地球倫理。「文明の衝突」は避けられうる。避けられないと
主張する人々の考え方は表層的で、文化間の共通性を見落としている。宗教には紛争を引
き起こす要因があり、それが利用されている現状があるが、同時に平和をもたらす要因も
少なからずある。イザヤの「剣を打ち直して鋤とする」という言葉。イエスの言葉、「平
和を実現する人は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。
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