1998年8月30日 主日説教 『骨と肉がついた信仰の人』 説教:チョウ

1998年8月30日
主日説教
『骨と肉がついた信仰の人』
説教:チョウ・ヨンギ牧師
本文「エゼキエル37章1節~10節」
37:1 主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれ
た。そこには骨が満ちていた。
37:2 主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多く
の骨があり、ひどく干からびていた。
37:3 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私
は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」
37:4 主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことば
を聞け。
37:5 神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を
吹き入れるので、おまえたちは生き返る。
37:6 わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に
息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」
37:7 私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大き
なとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。
37:8 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかり
おおった。しかし、その中に息はなかった。
37:9 そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。
神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつ
けて、彼らを生き返らせよ。」
37:10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き
返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。
今日は皆さんと共に「骨と肉がついた信仰の人」という題目で御言葉を分かち合いたいと
思います。
エゼキエルが幻のなかで或る谷間を行き巡っていると、干からびた多くの骨が谷間にあふ
れ、散らばっていました。死んでかなり経ち、太陽の光で乾ききってしまって息は全くあ
りませんでした。
ところで主が「人の子よ。これらの骨は生き返るこれらの骨に預言して言え。干からびた
骨よ。主の言葉を聞け。神である主はこれらのことができようか」と言われると、エゼキ
エルが答えました。「神、主よ。あなたがご存知です」それで主は命令されました。「骨
にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは
生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの
中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろ
う。」
皆さん、この話しは、捕囚で捕らえられ望みを失い、干からびた骨のように挫折したイス
ラエルがもう一度復活し、自らの国に戻って国を回復することを預言した偉大なドラマで
した。しかしこの話しはまたアダムの罪によって死に絶え干からびた骨のようになった人
間が、もう一度復活し新しい命を得、生き返ることを教えている教訓があるとも言えるの
です。
第一に、私達がまともな信仰を持つためにはまず体の中に骨が完成されなければなりませ
ん。人は骨がなければ人ではないでしょう。骨が折れれば不具者になってしまうように、
信仰生活を人と比較してみるならば、その中に完全な骨がなければならないのです。
ここで骨とは神様が下さる十戒と律法を言います。私達のからだの中に骨がまともにあれ
ば、不具者にはならないのですが、骨が折れていれば不具者となって自由に行動すること
ができず、正常な生活をすることができないのです。
このように神様の十戒と律法が私達の信仰生活にあって骨なのです。この骨がまともであ
れば、まともな人となり、骨が不完全ならば不具者になるのです。
「詩篇119篇105節」には『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』
とあり、また「箴言6章23節」には『命令はともしびであり、おしえは光であり、訓戒の
ための叱責はいのちの道であるからだ。』と記されています。
しっかりとした体の骨のように、信仰の人格のなかに神様の十戒と律法がしっかりとなけ
ればならないのです。
皆さん、十戒と律法とは何でしょうか。私達は十戒をよく知っているでしょう。「自分の
ために偶像を作ってはならない」「それを拝んではならない」「あなたの神の御名を、み
だりに唱えてはならない」「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」「あなたの父と母
を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「あなたの
隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」「あなたの隣人の家を欲しがってはならな
い」がそれです。
これが私達の信仰の骨格の中心的骨なのです。そして他の様々な律法は体の小さな骨にあ
たるのです。体には大きな骨があり、そこに小さな骨がつながって完全な形態を成してい
るように、私達の信仰生活に十戒の骨がしっかりとあり、天国の様々な教えと律法の骨が
つながれて、完全な形態を成せば、信仰が立つことができるのです。
「申命記30章15節、16節」には『見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、
死とわざわいを置く。私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、
主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、そ
の数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地
で、あなたを祝福される。』と記されています。
骨がない人は人ではないように、十戒と律法をもたない信仰は信仰ではありません。その
ような信仰はシャーマニズムであって祝福してくださいと叫ぶ呪術と迷信に過ぎないので
す。
エゼキエルが幻のなかで人間が生き返るためにはまず骨が完全につながれたように、信仰
の人格が生き返るためには、その根本である十戒と律法の骨がつながれて、しっかりと立
たなければならないのです。どんなに私達が教会を建て、熱心に通い、主よ、主よ、と叫
んだとしても、骨のある信仰、十戒と律法がわたしたちのうちに完全に立てられて、十戒
と律法に従って立つ信仰生活になっていなければ、その信仰生活は不具者の信仰生活であ
り、本当に困った信仰生活、敗北した信仰生活になってしまうのです。
エゼキエルが幻のなかで見たその干からびた多くの骨は、まさに律法と十戒であるのです。
これが合わさって人の形となったように、私達の信仰の人格のうちに立法と十戒の骨が完
全に立てられるとき、正しい信仰を持つことができるのです。
第二に、完全な信仰には、骨に筋と肉をつけなければなりません。骨だけあれば、それは
人とはなり得ないでしょう。皆さん、生物学室に行けば、骨ばかりの人形が立っています
ね。それは人ではありません。それは人の形をしているだけです。律法と十戒だけをもて
ば、信仰の形態はもっていても完全な信仰にはなり得ません。その骨の上に筋が付き、そ
して肉がついて皮膚が覆ったときに人となることができるのです。
このように預言者エゼキエルが幻において見たものは、まず骨が互いに全く結ばれた後に
は、その骨の上に筋が覆い、そしてその上に肉と皮が覆って完全な人間の形態を作ったも
のでした。信仰の人格である十戒と律法のみでは完全な信仰の人とはなり得ません。十戒
と律法は人間の過ちと罪を指摘し、罪に定めることによって、人は自らを失い絶望に陥っ
てしまうのです。十戒だけ、また律法だけあってそれらに照らされれば、私達はとうてい
それによっては信仰生活をすることができないので、全く落胆し挫折するしかないのです。
自分を失い、ついに私は決して十戒と律法をもっては生きていくことができないのでやめ
てしまおうというふうになるのです。
それゆえ十戒と律法のみを持ってしては、信仰を持つことができません。はだかの骨ばか
りがあっても、それで人にはなれないのです。
それゆえ皆さん、律法に必ずイエスキリストの恵みが覆わなければならないのです。人間
は厳しい十戒と律法を成し遂げるためには、恵みの筋と肉でもって守られなければならな
いのです。十戒と律法の厳格な要求を包んでくれる恵みの肉は、まさにイエスキリストの
十字架の祝福なのです。イエス様は十字架で釘打たれ、十戒に背き、律法に背いたすべて
の罪を主は代りにみな負ってくださり、その罪値をみな返済してくださいました。10年、
20年、30年、40年、50年間犯してきた罪のみを返済してくれたのみならず、一生涯の罪を
主は十字架でみな返済してくださったのです。ですからそれゆえに私達をいつも赦しと愛
と勇気の柔らかい肉で包んでくださるのです。
「エペソ人への手紙1章7節」には『私たちは、この御子のうちにあって、御子の血によ
る贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることで
す。』と記されています。
イエス様の恵みの肉が私達を包まなければ、十戒と律法の骨が外に飛び出して、痛くて生
きていくことができません。十戒が私達を咎め、律法が私達を裁けば耐えられません。し
かし十戒と律法の骨があるけれども、その骨をイエスキリストの恵みが包んでいます。イ
エスキリストの恵みが筋となり肉となり皮となって覆っているので、私達がうっかり罪を
犯してもイエス様の恵みが覆ってくださるのです。イエスキリストの恵みと愛が十戒と律
法を包んで、絶えず赦され、絶えず覆ってくださることによって、信仰生活をすることが
できるのです。そのときに完全な信仰の人格をもつことができるのです。律法主義になれ
ば、律法は常に裁き、常に咎め、常に罪に定めることによって罪悪意識に苛まれ、神様の
前で顔をあげることができず、そのまま膝をかがめて、狼狽し、敗北するしかないのです。
しかし律法が咎め、十戒が私達を裁くときにイエスキリストの血潮が私達を覆い、赦し、
愛してくださり、その恵みの筋で、恵みの肉で、恵みの皮で、覆ってくださることで、私
達は律法をもっていながらも、イエスキリストの恵みで生きていくことができるのです。
私達のうちにある骨は堅いものです。骨にじかに触れば痛いです。痩せおとろいた人同士
が一緒にいれば、骨が互いにあたります。バスに乗るときや列車に乗るとき、横にがりが
りの人が立っていれば、本当にあたると痛いです。骨がしょっちゅうあたらるからですね。
夫婦のあいだでも一緒に暮らしながら、ひとりが骨々していたなら一緒にはいられません。
それは骨があたって痛いからです。骨だけあれば痛いのです。律法だけあれば痛くて我慢
できません。
律法主義者達はすべての人を非難し、評論し、裁き、判断するために、痛くて耐えられま
せん。しかし恵みは包んでくれるのです。弾力のある肉で包んでくれ、筋で包んでくれ、
皮膚で包んで柔らかくしてくださるのです。
それゆえ律法と恵みがともにあれば、信仰生活ができるのです。律法のみをもってしては、
完全な信仰の人格が作り上げられません。恵みのみをもってしも骨のない信仰生活になる
ので、痛くて耐えられません。十戒と律法が必ずあるところに、恵みの肉につつまれて、
このような信仰生活がはじめて真の信仰生活になるのです。
「テモテ第2の手紙1章9節」には『神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召し
てくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによ
るのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたもの
であって、』と記されています。
骨のない人は人とはなり得ず、骨が完全でなければ完全な体となり得ないように、十戒や
律法を自分のうちにはっきりと保っていない信仰生活は信仰ではなく、十戒や律法に背い
て過ごせば、本当の信仰生活にはなりません。骨が折れ、外に飛び出した人のようです。
「マタイの福音書5章17節~19節」には『わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するた
めだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まこ
とに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決して
すたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの
一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小
さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉
大な者と呼ばれます。』とあります。
それゆえイエス様ご自身も決して律法や十戒を廃棄されようと来られたのではなく、律法
や十戒を恵みによって包んで完成させるために来られたのです。律法と十戒の骨々の上に
主が恵みの筋と、肉と皮膚で覆って、完全なる信仰の人を作るためにイエス様が来られた
のです。
ですから骨だけあれば人間ではないように、十戒と律法だけをもっては信仰の人ではあり
ません。骨を覆う肉があってこそ、人間になるように、十戒と律法を覆うイエス様の恵み
があってこそ、完全な信仰の人格になるのです。
「ヨハネの福音書1章17節」に『というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みと
まことはイエス・キリストによって実現したからである。』と記されています。
それゆえモーセが与えた律法の上にイエスキリストの恵みで包まれなければなりません。
律法がない、すなわち、骨がなくては形をなさないのです。律法の上にイエスキリストの
恵みが覆えば完全なる信仰の人格になるのです。
しかし私達がここで知らなければならないことは、骨があって肉で覆われたからといって
人間になるのではないということです。エゼキエルの幻を見ると、骨が集まって人間とな
り、その上に筋が覆い、肉が覆い、皮膚が覆って完全な人間になっても、以前生き返って
はいないのです。
皆さん、私達の信仰が律法の骨がありイエスキリストの恵みの肉が覆っているからといっ
て、信仰の人になるのではありません。それに息が入ってこなければならないのです。
エゼキエルが息に命じて吹いて来いと言ったので、人の内に息が吹いて来たのでその人々
は生き返り立ち上がって大きな軍隊になったように、私達も律法の骨の上にイエスキリス
トの恵みの肉を着れば、次に聖霊の息を受ければ、霊的な人として生き返るようになるの
です。律法だけあっても信仰とはなりません。恵みだけあってもそれは信仰ではありませ
ん。律法の上に恵みを着たところに、聖霊の息が入ってくればまことの信仰の人になり得
るのです。
皆さん、預言者エゼキエルが見たように、骨の上に肉が覆い、完全な人間の形をもっても、
まだ生き返りはしませんでしたね。ただ息に命じて体に入れと言ったときに、生き返って
起き上がりました。私達の信仰も律法と十戒をもって恵みの肉で包み、信仰の人の姿をと
ったとしても、聖霊の息で満たされなければ、いわば生きているとは言っても死んだ信仰
だということです。
今日多くの人々が教会に行ったり来たりします。律法を良く守ります。イエスキリストの
十字架の恵みをこころに抱いて生きています。しかし伝道もせず着実な信仰の息と喜びが
ありません。なぜでしょうか。それは聖霊を受けていないからです。皆さん、聖霊を受け
なければなりません。
ニコデモがイエス様を探して来ました。ニコデモは律法主義者でした。彼はユダヤ人だと
いうことで十戒と律法をもっていたので、いわば骨だらけの人間だったのです。骨だらけ
の人間がイエス様のところに来ましたから、イエス様は彼を見て何と言われましたか。
「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見る
ことはできません。」ニコデモは本当に驚きました。私がこの歳でどうやって母親の腹の
中に入ってもう一度生まれることができるだろうか、理解できなかったのです。しかしイ
エス様がニコデモに言われたことは、骨だけをもっては決して信仰の人格になることがで
きない。主が与えてくださる恵みを受けて肉をつけ、次には聖霊が入ってこなければなら
ないということを言われたのです。聖霊によって新しく生まれなければ、霊的に生き返ら
ないのです。
エゼキエルが見ると多くの骨がつながって肉が付き皮膚がついても、やはり死んでいまし
た。生きている人間ではありませんでした。息が入ってきて軍隊になったように、私達も
律法をもち恵みを受けても聖霊がこられてこそ天の御国と通じることができるのです。
それゆえ私達は聖霊様をつねに認め、お迎えし、頼って聖霊に満たされた生活を切に求め
なければならないのです。聖霊の息が入っていればまことの信仰生活をすることができる
からです。
それでは聖霊が来られて真実な生活をするようになれば、どのようになるのでしょうか。
そうゆう人は霊的に生き返り、今や霊的世界との交わりができるようになるのです。皆さ
ん、この世界で霊的に死んでいる人は天の御国について全く知りません。父なる神とイエ
ス様と聖霊様について語っても全く理解ができません。それは霊的に死んでいるからです。
しかし今や霊の息が入って来て生き返れば、父なる神とその御子イエス様を知り信じる信
仰生活をするようになるのです。
「ヨハネ第一の手紙5章19節~20節」に『私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の
支配下にあることを知っています。しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私
たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すな
わち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのち
です。』と記されています。
私達が聖霊によって生き返れば聖霊は父なる神を紹介してくださり、御子なるイエスキリ
ストを信じ分かるようにしてくださり、霊の世界のなかに入って父と子とともに天の御国
の親族とされるのです。そして霊の人になれば、神様の御言葉を食べて生きる人になりま
す。この世で霊の人になる前には肉体の糧だけあれば十分だったのですが、聖霊によって
生まれ変わって霊の人になれば、霊的な糧を渇望するようになります。肉体の糧のみを食
べていては生きて行けません。ですから霊的な人は神様の御言葉を慕い、神様の御言葉を
いつも食べる人であるのです。
「テモテへの手紙第二3章16節~17節」には『聖書はすべて、神の霊感によるもので、教
えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きの
ためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。』とあります。それゆえ主の御言
葉が私達を完全に成長させ御心通りに育ててくださるのです。
そして聖霊が入って来て霊的な人になった人は、その人生全体の根本的な目的が天の御国
とその義を求める人生となるのです。第一にしなければならないことを第一にし、あとで
することはあとでするように、天の御国の義をまず求め神様を切に慕い、この世でなされ
るすべての人間的な事柄はアクセサリーとして生きていくのです。名誉、地位、権勢、富、
栄華というものはみなアクセサリーであって、目的ではないのです。目的は神様の国とそ
の義を求める人になることです。そして霊的な人になれば続けて霊的な変化が起こり、成
長するようになるのです。
「エペソ人への手紙4章13節」に『ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関す
る知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達す
るためです。』と記されています。
ですから私達が日々信仰が少しずつ成長して、信仰と希望と愛が育ち、義と平安と喜びが
溢れて大きくなるのです。そしてこの霊的な人の究極目的は父の国、父の家、天国に行く
ことが最終的な目的となるのです。
それゆえ意味もなく教会を行ったり来たりするのが信仰生活ではありません。この世でイ
エス様を信じない人々はエゼキエルがその幻で谷間で見た骸骨と同じです。全く干からび
て死に絶え息がなく、散り散りばらばらになった骸骨は、全くその形を成していません。
しかし私達がイエスキリストを信じるようになれば、一番先にこの骨々が人の形を成した
ように、心の中に神様の十戒と律法を知るようになるのです。神様が私達に与えてくださ
った十戒と律法をはっきりと分かるときに、信仰が形をとるようになるのです。そこに十
字架で釘打たれたイエスキリストの血潮によって筋をつけ、肉が生じ、皮膚がそれに付け
られて、恵みによってふんわりと十戒を包むのです。
それゆえ今や罪を犯しても赦されます。つまずいてもイエスキリストの恵みの肉が柔らか
く包んでくれるのです。それにもかかわらず私達は律法をもち十戒に戻って骨のあるしっ
かりとした信仰をもつ必要があります。そこに聖霊の息が吹いてきて聖霊様が私達ととも
におられることによって、聖霊が私達を天の御国の親族としてくださり、父と子と聖霊と
の交わりに入れてくださり、御言葉のうちに、奇跡のうちに、恵みのうちに生き、永遠の
天国に希望をおき、生きるようにしてくださるのです。
「ルカの福音書24章36節~43節」を見れば、イエス様が復活され弟子達に突然現れて驚い
たことが書かれています。そのときにイエス様自ら彼らの間に立たれて言われました。
『彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。すると、イエスは言われた。「なぜ取
り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を
見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨
はありません。わたしは持っています。」イエスはこう言われて、その手と足を彼らにお
示しになった。それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっている
ので、』
皆さん、イエス様が弟子達に現れなされたときに彼らは全く幽霊だと思いました。しかし
イエス様が自らその手を触ってみなさい、わき腹に手を入れてみなさい、幽霊は骨と肉は
ないが、私はあなたがたが見ているように骨も肉もあるではないかと言われ、主は重大な
教訓を私達に教えてくださいました。
皆さん、骨も肉もない信仰は幽霊信仰です。それは悪霊の信仰であり、間違った信仰です。
私達の信仰には必ず骨があり肉がなければならないのです。本当のイエスキリストの弟子
は、「見なさい、私には骨があり肉があるではないか」と言われたように、真の信仰は
「見なさい、本当の信仰は、十戒と律法の骨があり、イエスキリストの恵みと愛の肉がつ
いているではないか、そして聖霊がうちに働いておられるではないか、それゆえ私は幽霊
ではない」というものです。
今日多くのイエスを信じる人々が幽霊のような信仰を持っています。その信仰生活に骨が
ありません。律法と十戒が抜けてしまっています。律法と十戒がない信仰はシャーマニズ
ムであり、巫女礼拝信仰です。ただ祝福だけくれというものは、倫理と道徳のないシャー
マニズムです。
私達の信仰生活に心と体のなかに完全に十戒と律法の骨がはっきりとなければなりません。
その骨のまわりにイエスキリストの尊い赦しと愛の肉と皮膚で包まれれば、それで骨と肉
が合わさってはじめて、思いのまま活動できる正常な人格者となり、そこに聖霊様が来ら
れて住んでくださり、感化と感動を与え、導き、天国の民として神様と交われるようにし
てくださるのです。
ですから皆さん、私達が口先だけで主よ、主よと言わないで、今日この時間に私の体に十
戒と律法の骨が折れたり飛び出したりしていないかよく調べてみて、生活において神様の
十戒と律法を熱心に守って生きる信仰生活をしなければならないのです。倫理と道徳を犯
した信仰は信仰ではありません。どんな社会とか国家も倫理と道徳が崩れれば、その国家
の形態も崩れ、社会の形態も崩れます。キリスト教会はキリストの十戒と神様の律法を犯
してしまえば、教会が崩れてしまうのです。信仰の人格が崩れてしまうのです。それは信
仰ではありません。本当の信仰は私達が自らのうちに着実にその十戒と律法の骨を完全に
立て挙げて、イエスキリストの恵みで包まなければならないのです。つまずけば赦され、
折れればまた立ててくださり、倒れればまた起こして立たせてくださる、そのようなキリ
ストの愛と恵みが私達を包んでくれているので、律法の骨格のうえに立って、恵みに助け
られることによって、崩れ倒れても、また起き上がり健全に生きていけるのです。
このように私達に聖霊が臨まれて、父なる神と子なるイエスと聖霊との交わりを与えられ、
聖霊と共に御言葉を読み、礼拝をささげることによって、この地で生活しながら天の御国
の民として霊的な人生を生き、神様と共に歩むようになり、神様のすべての不思議としる
しと力を信じることによって体験し、神様の民として生きていけるようになるのです。
―祈り―
愛に満ちた聖なる私達の父なる神様、
私達はこの地で生きながら口では主よ、主よ、と言ってイエスを信じていると言いながら、
キリストの香りを少しも放てずにいる時が多いです。父なる神様、多くの主を信じる人々
が不貞腐敗の温床になっているとも言います。主を信じる人々でもこの世で罪を犯し、誤
った道を歩んでいる人も多くいます。干からびた骨のような信者がどれほど多いか分かり
ません.エゼキエルが見た谷間の干からびた多くの骨のような信者達があまりにも多いの
です。そのような人は生きていると言っても死んだも同然です。
父よ、多くの骨が完全に合わさって人のかたちとなったように、十戒と戒めが私達の体の
骨となるようにしてください。完全に私達のうちで十戒の骨が立てられますよう助けてく
ださい。そしてイエス・キリストの恵みの肉を着るようにしてください。イエス・キリス
トの赦しと愛と勇気と力を与えるその肉が骨を包み覆って皮膚がそれを覆い、完全な信仰
生活ができるように助けてください。
律法があり恵みがありモーセがありイエス様がおられる信仰生活をするように助けてくだ
さい。そのなかで聖霊の火が臨むように助けてください。聖霊の恵みが溢れるように助け
てください。聖霊によって神と共に生き交わる私達になりますよう助けてください。そう
して正しい信仰の人として生き主が来られる日には喜んで主の前に立ち、天の御国に入る
私達となるように助けてください。イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン