日本史 世界史 社会科 - 江川剛史 公式サイト

第二次世界大戦年表 [日本史 世界史 社会科]
江川剛史(編集)
世界大戦の事実を学んだ上で、この先を生きてください。
[第二次世界大戦の年表 (1939 年)]
9月1日
ナチス・ドイツのポーランド侵攻(現地時間・午前 4 時 45 分)。ドイツ空軍(Luftwaffe)はポーランド国
内のいくつかの目標を攻撃。
同空軍はワルシャワ、ウッチ、クラクフへの都市爆撃も開始。
これらの攻撃の 5 分以内に、ドイツ海軍(Kriegsmarine)は、戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインに、
自由都市ダンツィヒのポーランド軍の輸送拠点・ヴェステルプラッテへの砲撃を命令(ヴェステルプ
ラッテの戦い(英語版))。
(だが、この砲撃はポーランド軍の反撃に遭う。) 現地時間午前 8 時 00 分までには、
ドイツ陸軍(Heer)部隊は、公式の宣戦布告の無いままモルカ近郊に進撃。
スイスおよびノルウェー、ならびにエストニア、ラトビアおよびリトアニアのバルト三国が中立を宣言。
イギリス(United Kingdom)政府は国軍に総動員令を発令。同時に、ドイツ空軍の攻撃からの避難
計画に着手。
9月2日
イギリスおよびフランス、共同で最後通牒を送付。
ドイツ国防軍(Wehrmacht)部隊のポーランド領内からの撤退を要求。
イタリア王国の総統ベニト・ムッソリーニが中立を宣言。
アイルランドの大統領ダグラス・ハイドが中立を宣言。
スイスが国軍に総動員令を発令。
イギリス、直ちに「国民兵役法」を制定し、完全徴兵制を施行する。これにより、18 歳から 41 歳まで
の男性の国内居住者が全て召集される。
自由都市ダンツィヒがドイツに併合される。
9月3日
イギリスがドイツに宣戦布告。イギリスの首相ネヴィル・チェンバレンが午前 11 時 15 分(現地時間)
に BBC ラジオで声明。
最後通牒におけるドイツ国防軍のポーランドからの撤退期限が午前 11 時(現地時間)に過ぎたた
め、「我が国はドイツとの戦争状態にある」と述べる。
その数時間以内にオーストラリア、ニュージーランド、英領インド帝国もドイツに宣戦布告。
フランス政府は午後 12 時 30 分(英国夏時間)、同様の最後通牒の期限が午後 3 時(英国夏時間)
に切れると表明。
フランスがドイツに宣戦布告。
イギリスの宣戦布告から数時間以内に、グラスゴーからモントリオールに向かっていたイギリスの旅
客船アセニア(英語版)号が、
アイルランドの北西沖 400km(250 マイル)にて、U ボートすなわちドイツ海軍潜水艦の U-30 から、
魚雷攻撃を受ける(「アセニア号事件」)。
1
アメリカ人を含む乗客乗員 112 名が死亡。「大西洋の戦い」が開始。
アメリカ合衆国、中立を表明。大統領フランクリン・ルーズベルトがラジオ放送にて。
9月4日
ニューファンドランド、ドイツに宣戦布告(現地時間・午前 8 時)。
イギリス空軍(Royal Air Force)が、ヘルゴラント・バイトのドイツ艦隊を急襲。イギリス軍による最初
の攻勢。
キール運河の西端ヴィルヘルムスハーフェンに停泊中のドイツの重巡洋艦、アドミラル・シェーア
が攻撃を受ける。
イギリス軍機はこの攻撃で数機が撃墜されたが、ドイツ艦は 3 発被弾したものの全て不発に終わる。
大日本帝国、ヨーロッパ情勢への中立を表明。
イギリス海軍本部(Admiralty)、経済戦争の一環として、ドイツへの海上封鎖の開始を告知。
アメリカ海軍、大西洋で哨戒行動を開始(「中立パトロール」)。
9月5日
南アフリカ連邦の首相 J. B. M. ヘルツォク(英語版)、中立宣言に支持が得られず、党幹部会で
退陣に追い込まれ、副首相ヤン・スマッツに交替。
アメリカ合衆国、公式に中立を宣言。
9月6日
南アフリカ連邦の新首相ヤン・スマッツ、ドイツに宣戦布告。
戦闘機の同士討ちにより、イギリス空軍に大戦で最初の死者(バーキングクリークの戦い。
ポーランド南部のクラクフ、ドイツ陸軍の地上部隊に占領される。ポーランド軍は総退却。
9月7日
フランス軍、ドイツ南西部でザール攻勢を開始。ザールブリュッケンの近郊に進軍。
イギリス、国民登録法を可決。身分証明書(ID カード)が導入され、政府による全ての国民の統制
が認められる。
9 月 8 日 - イギリス政府、商船の護衛のため、護送船団方式(convoy system)を復活させると発表。
同時に、ドイツの海運の全面的な封鎖も告知。
9 月 9 日 - フランス軍のザール攻勢、この日までに軽防備のドイツ領内をおおよそ 13km(8 マイ
ル)進軍し、Warndt の森の地雷原で膠着状態に陥る。
9 月 10 日 - カナダ、ドイツに宣戦布告。
9 月 11 日 - 英領インドの総督リンリスゴー侯、州政府の自治を認める新インド統治法の施行を、
参戦を理由に無期延期。
9 月 12 日 - フランス軍のモーリス・ガムラン大将、ドイツ領内への進軍停止を命じる。
9 月 15 日 - ポーランド軍、同国南東部のルーマニア国境付近にて、英仏軍の到着までの徹底抗
戦を決定。
2
9 月 16 日
ドイツ国防軍、ポーランドの首都ワルシャワの包囲を完成。
フランス軍、ドイツ領内からの撤退を完了。ザール攻勢が終了。
9 月 17 日
ソビエト連邦のポーランド侵攻。独ソ不可侵条約の秘密議定書による。
ソビエト連邦軍はポーランド東部のビャウィストクおよび東ガリツィアを占領し、さらにカーゾン線に
達する(第五次ポーランド分割)。
イギリス海軍(Royal Navy)の航空母艦カレイジャス、アイルランド沖でドイツ海軍の潜水艦 U-29(英
語版)により撃沈。
大日本帝国陸軍、中華民国の江西省北部から湖南省に西進し、省都長沙を攻撃(長沙の戦い、
湘会戦または第一次長沙戦役)。
9 月 18 日
ポーランドの大統領イグナツィ・モシチツキおよびポーランド軍の最高指揮官・ポーランド元帥エド
ヴァルト・リッツ=シミグウィ、ポーランドからルーマニアに脱出。
ソビエト連邦軍、ポーランドのヴィリニュス(当時はポーランド領)およびブレスト=リトフスク(現ベラ
ルーシ共和国ブレスト)に到達。
ポーランド軍の潜水艦、エストニアの首都タリンから退避。
9 月 19 日
ドイツおよびソビエト連邦の両軍、ブレスト=リトフスク付近で合流。
ソビエト連邦、エストニアの首都タリンを海上封鎖。
ソビエト連邦およびモンゴル、ノモンハン事件で大日本帝国に勝利。日ソ国境紛争が終結。
9 月 21 日 - ルーマニアの首相アルマンド・カリネスク、極右の鉄衛団(Garda de Fier)に暗殺され
る。
9 月 24 日 - ソ連空軍、エストニアの領空を侵犯。エストニアの使節団はソビエト連邦の外交代表
ヴャチェスラフ・モロトフと協議。
モロトフは軍事的な恫喝により、エストニア国内にソビエト連邦軍の基地を要求。
9 月 25 日
ドイツで銃後対策が開始。第一弾として食料配給制度が始まる。
ソビエト連邦軍、エストニアとの国境付近に兵力を結集(戦車 800 両、軍用機 600 機、兵士 16 万
人)。ソ連空軍はエストニア領空の侵犯を続ける。
9 月 26 日
重砲による砲撃支援の下、ドイツ国防軍が大規模な歩兵部隊により、ポーランドの首都ワルシャワ
の中心部を急襲。
ソ連空軍の爆撃機、エストニアの首都タリンの上空で目撃される。
9 月 27 日
西部戦線におけるドイツ国防軍の最初の攻勢作戦。ジークフリート線のカノン砲(gun)で、フランス
3
のマジノ線後方の複数村落を砲撃。
アドルフ・アイヒマン、ユダヤ人の強制移送の責任者に。
9 月 28 日
ドイツ・ソビエト境界友好条約が締結。秘密議定書では、ソビエト連邦がポーランド分割の境界線
で譲歩し、代わりにリトアニアを勢力圏として認められる。
ソビエト連邦側代表モロトフおよびドイツ側代表リッベントロップにより署名。
ワルシャワ中心街のポーランド陸軍の残存兵および市民兵、ドイツ国防軍に降伏。
ソビエト連邦軍、ラトビア国境付近に兵力を結集。ラトビアはソ連機に領空侵犯される。
エストニア、ソビエト連邦との 10 年間の相互援助条約に調印。
ソビエト連邦はエストニアの独立を尊重することと交換に、エストニア国内に 3 万人の駐留する軍
事基地を獲得。
9 月 30 日
ドイツ海軍の重巡洋艦アドミラル・グラーフ・シュペー、ブラジル・ペルナンブーコ州の沖合にて、
同艦としては初めて商船を撃沈(被害艦はイギリスの貨物船クレメント号)。
独仏国境のフランス軍、ドイツの侵攻に備え、マジノ線まで後退。
10 月
10 月 2 日
ラトビアの使節団、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン書記長およびモロトフ外務人民委員と協議。軍
事基地を提供しない場合の占領を通告される。
パナマ宣言。(カナダを除く)全ての南北アメリカ諸国が、アメリカ大陸の周辺水域での交戦国の活
動を禁止(汎アメリカ安全保障水域)。
沿岸から約 480km(300 マイル)までの中立水域をアメリカ合衆国海軍が哨戒。
10 月 3 日
イギリス軍、ドイツの西部侵攻に備え、ベルギー国境に移動。
リトアニアの使節団、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン書記長およびモロトフ外務人民委員と会見。
スターリンは、旧首都ヴィリニュスのポーランドからの返還と引き換えに軍事基地を要求。リトアニア
側は甘受。
10 月 5 日 - ラトビア、ソビエト連邦との 10 年間の相互援助条約に調印。ラトビアは国内に 25,000
人規模のソビエト連邦軍の基地を提供。
スターリン書記長はラトビアの独立を尊重すると述べる。
10 月 6 日 - 日中戦争における長沙の戦い(湘会戦または第一次長沙戦役)で、中華民国が大日
本帝国に勝利。
10 月 7 日 - リトアニア、使節団を再びソビエト連邦に送る。ソビエト連邦は軍事基地の提供を再度
要求。
4
10 月 9 日 - ドイツがフランス、ベルギー、オランダおよびルクセンブルクへの侵攻準備に入る(「黄
色作戦」)。
10 月 10 日
ポーランド軍の最後の残存兵力、ドイツ国防軍に降伏。
ドイツ海軍首脳部、ヒトラー総統にノルウェーの占領を進言。
イギリスのチェンバレン首相、ドイツのヒトラー総統からの和平提案を拒否。
リトアニア、15 年間のソビエト・リトアニア相互援助条約に調印。ソビエト連邦はリトアニア国内の基
地に 2 万人の兵士を駐留。
(代わりに、秘密議定書に基づきポーランド領の旧首都ヴィリニュスはリトアニア領に戻る。)
これにより、全てのバルト三国がソビエト連邦の勢力圏に入る。
10 月 11 日 - この日までに推定 15 万 8,000 人のイギリス軍がフランスに上陸。
10 月 12 日
アドルフ・アイヒマン、オーストリアおよびチェコスロバキアのユダヤ人をポーランドに追放開始。
フランスのダラディエ首相、ドイツのヒトラー総統からの和平提案を拒否。
フィンランドの使節団、ソビエト連邦のスターリン書記長とモロトフ外務人民委員と会見。
ソビエト連邦側は、首都ヘルシンキ近辺の軍事基地の提供、および若干の領土交換を要求。
10 月 14 日
イギリス海軍の戦艦ロイヤル・オーク、スコットランド沖のスカパ・フローにて、ドイツ海軍ギュンター・
プリーン大尉の指揮する潜水艦 U-47 に撃沈される。
フィンランドの使節団、ソビエト連邦のスターリン書記長と再び会見。交渉があまりに長引くならば、
両国軍に「予期せぬ出来事」が起こり得ると告げられる。
10 月 16 日 - イギリス本国への最初の航空攻撃。スコットランドのフォース湾でいくつかの艦船が
狙われる。
10 月 18 日 - 最初のソビエト連邦軍がエストニアに進駐。この間、12,600 人のバルト・ドイツ人(ドイ
ツ系エストニア人)がエストニアから出国。
10 月 19 日
ポーランドの一部が正式にドイツに編入される。
ポーランドのルブリンに最初のユダヤ人ゲットーが設置される。
10 月 20 日
フランス軍部隊、マジノ線の宿舎およびトンネルに籠城。「まやかし戦争」(Phoney war)の常態化。
イギリス軍、マジノ線と水路の間隙に沿って新たな要塞を建設。
カトリック教会のローマ教皇ピウス 12 世、司教への教書(回勅)にて、人種差別と独裁政治を強く非
難。
10 月 27 日 - ベルギー、中立を表明。
5
10 月 30 日 - イギリス政府、ドイツがユダヤ人および反ナチ派を収容する強制収容所を建設して
いるとの報告を発表。
10 月 31 日 - ドイツ国防軍のエーリッヒ・フォン・マンシュタイン中将、フランス侵攻計画(「マンシュ
タイン計画」)を立案。
予想されていたベルギーではなく、アルデンヌの森を通過。
11 月
11 月 1 日
ポーランド回廊を含むポーランド領の一部がドイツに併合される。
ソビエト連邦、ポーランド東部の占領地域をソビエト連邦のウクライナおよびベラルーシに併合。
11 月 3 日 - フィンランドとソビエト連邦、再び新たな国境について協議。フィンランド側はスターリ
ン書記長の目的を疑って、領土問題での譲歩を拒否し、防衛線を堅持。
11 月 4 日
アメリカ合衆国で新たな中立法が通過。イギリスおよびフランスは現金取引に限り、兵器の購入を
認められる。アメリカの孤立主義者は「暴挙」と非難。
シーメンス社に勤務するドイツの物理学者、オスロのイギリス大使館に匿名の手紙を送り、現行お
よび開発中の兵器技術の情報を提供。
11 月 8 日 - ドイツ・ミュンヘンのビアホールにて、ヒトラー総統が偶然にイギリス空軍の爆撃を受け
たが無事。ミュンヘン一揆の記念祭で演説中に。
11 月 13 日 - フィンランドとソビエト連邦、交渉決裂。フィンランド、(独ソの密約により)ソ連の勢力
圏とされる疑いを懸念。
11 月 14 日 - ポーランド亡命政府、イギリスのロンドンに移転。
11 月 16 日 - イギリスの一般市民に最初の死者が出る。ドイツ空軍の爆撃機によるスコットランド・
オークニー諸島への空襲で(被害者は James Isbister)。
11 月 17 日 - アイルランド共和軍(IRA)にイギリス・ロンドンでの爆弾テロ未遂の容疑。
11 月 20 日 - ドイツ空軍および U ボート(ドイツ海軍潜水艦)、イギリス・テムズ川河口への機雷敷
設を開始。
11 月 23 日 - ポーランドのユダヤ人、ダビデの星の腕章を付けるよう命令される。
11 月 24 日 - 大日本帝国、広西省(現・広西チワン族自治区)の省都南寧を占領したと発表。
11 月 26 日 - ソビエト連邦軍の砲兵、フィンランド国境付近を砲撃(マイニラ砲撃事件)。「フィンラ
ンドによるソ連兵殺害」への対抗措置として。
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11 月 29 日 - ソビエト連邦、フィンランドと国交断絶。
11 月 30 日 - ソビエト連邦、フィンランドと「冬戦争」を開始。
12 月
12 月 1 日
フィンランドの首都ヘルシンキがソ連空軍により爆撃される。
フィンランド軍が最初の 2 週間、冬戦争で南部国境付近の防衛線、マンネルハイム線に退却。
12 月 5 日 - ソビエト連邦軍、フィンランドとの冬戦争で、マンネルハイム線への大攻勢を開始。
12 月 7 日 - イタリア王国、再び中立を宣言。隣国のノルウェー、スウェーデンおよびデンマークも
冬戦争への中立を布告。
12 月 11 日 - ソビエト連邦軍、フィンランドとの冬戦争で、いくつかの戦術的敗北。
12 月 13 日 - 南アメリカのウルグアイの首都モンテビデオ沖にて、ラプラタ沖海戦が発生。
イギリス海軍の重巡洋艦エクセター、軽巡洋艦アキリーズおよび軽巡洋艦エイジャックス、ドイツ海
軍の重巡洋艦アドミラル・グラーフ・シュペーと交戦。
12 月 14 日
ドイツ海軍の重巡洋艦アドミラル・グラーフ・シュペー、戦闘で大破し、モンテビデオ港に退却。
ソビエト連邦、国際連盟から追放。ソビエト連邦軍のフィンランド侵攻への対応として。
12 月 15 日 - ソ連陸軍、フィンランドのタイパレ(現ロシア連邦レニングラード州 Solovyovo)を急襲。
12 月 17 日 - ドイツ海軍の重巡洋艦アドミラル・グラーフ・シュペー、国際法に従い、中立国ウルグ
アイのモンテビデオ港から退去し、間もなく自沈。
艦長ハンス・ラングスドルフは抑留される。
12 月 18 日
最初のカナダ軍部隊がヨーロッパに到着。
ドイツ空軍、ヘルゴラント・バイトの戦いでイギリス空軍に勝利。
12 月 20 日 - ドイツ海軍の重巡洋艦アドミラル・グラーフ・シュペーの艦長ハンス・ラングスドルフ、
自決。
12 月 27 日 - 最初のイギリス軍インド人部隊がフランスに到着。
12 月 28 日 - イギリスで肉類の配給が始まる。
12 月 29 日 - フィンランド軍、年末にソビエト連邦との戦闘で勝利を続ける。これまでに多数の捕
虜および車両を拘束または鹵獲(ろかく)。 7
[1940 年]
1月
1 月 10 日 - ドイツ軍機がベルギーに墜落、メヘレン事件
1 月 21 日 - 浅間丸事件
2月
2 月 11 日 - 独ソ経済会談にて、第一次独ソ経済協定の延長決定及び独ソ通商協定締結
2 月 16 日 - イギリスとドイツが軍事衝突(アルトマルク号事件)
2 月 17 日 - ソ連、マンネルハイム線突破
2 月 22 日 - ドイツ、ヴィーキンガー作戦開始
3月
3 月 12 日
- フィンランドがソ連に和平交渉、モスクワ講和条約が締結され、冬戦争終結
- ソ連の傀儡政権フィンランド民主共和国崩壊
3 月 18 日 - アドルフ・ヒトラーとベニト・ムッソリーニが会談
3 月 20 日 - ドイツの水上機基地をイギリス空軍が爆撃
4月
4 月 5 日 - イギリス、ウィルフレッド作戦
4 月 8 日 - イギリスの駆逐艦グローウォームがドイツの重巡洋艦アドミラル・ヒッパーに体当たり(衝
角攻撃)を行う(トロンヘイム沖海戦)
4月9日
- ドイツがデンマーク及びノルウェーに侵攻(ヴェーザー演習作戦)、デンマークは無血占領
- オスロフィヨルドの戦い
- イギリスの R4 計画頓挫
4 月 10 日
- 第 1 次ナルヴィク海戦
- イギリスで MAUD 委員会設立
8
4 月 12 日 - イギリスがデンマーク領フェロー諸島を占領(ヴァレンタイン作戦)
4 月 13 日 - 第 2 次ナルヴィク海戦
4 月 14 日 - ドイツがイギリス・フランス・ノルウェーなどと大規模な戦闘(ナムソスの戦い)
4 月 27 日 - 連合国軍、ノルウェーより退却
5月
5 月 10 日
- ドイツがフランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻(黄色作戦)、まやかし戦争終了
- イギリスによるアイスランド侵攻
- エバン・エマール要塞の戦い勃発
- チャーチルが第 1 次チャーチル内閣組織
5 月 12 日 - この大戦初の大規模戦車戦アニューの戦い
5 月 13 日 - ドイツ、マース川渡河
5 月 14 日
- マジノ要塞陥落
- ドイツ軍機約 50 機がロッテルダム爆撃
5 月 15 日 - オランダ降伏
5 月 16 日 - ドイツ、AB 行動開始
5 月 20 日 - アウシュヴィッツ強制収容所使用開始
5 月 21 日 - 連合国軍がドイツに反撃(アラスの戦い)
5 月 24 日 - 連合国軍による史上最大の撤退作戦ダンケルクの戦い(ダイナモ作戦)開始
5 月 28 日 - ベルギー降伏
6月
6 月 3 日 - ドイツ空軍がパリを空襲
6 月 4 日 - ドイツ、ユーノー作戦開始
6月7日
- ノルウェー国王がイギリスに亡命
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- フランス空軍、ドイツを爆撃
6月8日
- ノルウェー沖海戦
- 連合国軍によるノルウェーからの撤退作戦アルファベット作戦完了
6 月 10 日
- イタリアがイギリス・フランスに対し宣戦布告
- ノルウェー政府降伏
- イタリア空軍、マルタを空襲
6 月 11 日 - フランス政府、パリの無防備都市宣言
6 月 12 日 - フランスとタイが仏泰相互不可侵条約調印
6 月 13 日 - 連合国軍のフランスからの撤退作戦サイクル作戦完了
6 月 14 日
- ドイツがパリに無血入城
- フランス海軍がイタリアを攻撃(ヴァード作戦)
6 月 15 日
- ソ連がリトアニアに侵攻
- 連合国軍のフランス撤退作戦エアリアル作戦開始
6 月 16 日 - フィリップ・ペタンがフランス首相に就任
6 月 17 日 - ソ連がラトビア及びエストニアに侵攻
6 月 18 日 - ド・ゴールの 6 月 18 日演説
6 月 22 日 - 独仏休戦協定締結
6 月 23 日 - シャルル・ド・ゴール、ロンドンにおいて自由フランス委員会(フランス語版)設立(自由
フランス)
6 月 26 日 - ソ連、ルーマニアに対してベッサラビア割譲を要求
6 月 27 日 - 伊仏休戦協定締結
6 月 28 日
- イギリス海軍・オーストラリア海軍とイタリア海軍が衝突(エスペロ船団の戦い)
- イギリス、MA3 作戦中止
- ルーマニア、ソ連の要求を受諾し、ソビエト連邦によるベッサラビアと北ブコビナの占領が開始さ
10
れる。
7月
7 月 3 日 - イギリス海軍がフランス海軍に攻撃(メルセルケビール海戦)
7 月 4 日 - 駐エチオピア帝国イタリア軍、スーダンへ侵攻
7 月 5 日 - イギリス、レバー作戦開始
7 月 9 日 - イギリス海軍・オーストラリア海軍とイタリア海軍がカラブリア半島沖で衝突(カラブリア沖
海戦)
7 月 10 日
- バトル・オブ・ブリテン開始
- 1940 年 7 月 10 日の憲法的法律採択、ヴィシー・フランス発足
7 月 16 日 - ヒトラー、イギリス本土上陸作戦アシカ作戦の最低条件を提示
7 月 19 日 - イギリス海軍・オーストラリア海軍とイタリア海軍が衝突(スパダ岬沖海戦)
7 月 22 日 - イギリス国会、ドイツの和平案を拒否
7 月 31 日
- イギリスのハリー作戦、クラブラン開始
- カリャリ空襲
8月
8月3日
- 英領ソマリランドでイギリスとイタリアが衝突(ソマリランドの戦い)
- ソ連、リトアニアを併合、リトアニア・ソビエト社会主義共和国成立
8 月 5 日 - ソ連、ラトビアを併合、ラトビア・ソビエト社会主義共和国成立
8 月 6 日 - ソ連、エストニアを併合、エストニア・ソビエト社会主義共和国成立
8 月 11 日 - ドイツがイギリスのドーバー及びポートランドを空襲
8 月 12 日 - ドイツがイギリスのレーダーサイトを爆撃
8 月 13 日 - ドイツ、イギリスへの航空攻撃作戦開始(鷲攻撃)
8 月 15 日 - イギリス南部でイギリスとドイツの空中戦(暗黒の木曜日)
11
8 月 24 日 - ドイツがホーンチャーチなどを大規模空襲
8 月 26 日 - イギリスがベルリンを空襲
8 月 30 日
- イギリス、ハッツ作戦開始
- 第二次ウィーン裁定、ルーマニア王国がハンガリー王国に南部トランシルヴァニアを割譲
9月
9 月 6 日 - ルーマニアでイオン・アントネスク・ホリア・シマによる、軍と鉄衛団の連立政権成立(ア
ントネスク・鉄衛団政権)
9月7日
- ドイツ軍機約 1000 機によるロンドン空襲
- クラヨーヴァ条約により、ルーマニアがブルガリア王国に南部ドブルジャを割譲
9 月 9 日 - イタリアがエジプトに対し軍事進攻
9 月 17 日
- イギリスのアウトワード作戦
- ドイツ、ゼーレーヴェ作戦延期
9 月 23 日
- イギリス海軍とヴィシー・フランス海軍が衝突(ダカール沖海戦)
- 日本、北部仏印進
駐
9 月 27 日 - 日独伊三国同盟調印
9 月 28 日 - イギリス、MB5 作戦開始
10 月
10 月 3 日 - ドイツ占領下のフランスで反ユダヤ法可決
10 月 4 日 - ヒトラーとムッソリーニが会談
10 月 8 日 - ドイツ軍がルーマニアへの駐屯を開始
10 月 12 日
- アシカ作戦事実上の中止
- イギリス海軍とイタリア海軍が衝突(パッセロ岬沖海戦)
- 自由フランス軍、ガボンへ侵攻
12
10 月 23 日 - ヒトラーとフランシスコ・フランコが会談(アンダイユ会談)
10 月 27 日 - ドイツ、大西洋及びインド洋にて通商破壊開始
10 月 28 日
- イタリアがギリシャへ侵攻、ギリシャ・イタリア戦争開始
- ヒトラーとムッソリーニが会談
11 月
11 月 5 日
- イギリスの HX84 船団がドイツに攻撃される
- ルーズベルトがアメリカ大統領に選出
11 月 8 日 - ギリシャ軍がイタリア軍に反撃
11 月 10 日 - イギリス、MB8 作戦開始
11 月 11 日
- タラント空襲
- オートメドン号事件
11 月 12 日
- イギリス海軍・オーストラリア海軍とイタリア海軍が衝突(オトラント海峡海戦 )
- イギリス、MB9 作戦開始
11 月 14 日 - ドイツがコヴェントリーを空襲
11 月 15 日 - イギリス、ホワイト作戦開始
11 月 20 日 - ハンガリーが日独伊三国同盟に加盟
11 月 23 日
- タイ・フランス領インドシナ紛争勃発
- ルーマニアが日独伊三国同盟に加盟
11 月 24 日 - スロバキア共和国が日独伊三国同盟に加盟
11 月 27 日 - イギリス海軍とイタリア海軍が衝突(スパルティヴェント岬沖海戦)
11 月 30 日 - ドイツ、ノルトゼートゥーア作戦開始
13
12 月
12 月 8 日 - エジプトに駐在していたイギリス軍がイタリア軍に反撃開始(コンパス作戦)
12 月 18 日 - ヒトラー、事例バルバロッサ発令
12 月 20 日
- ドイツ、シシリー島へ展開しイタリア援護
- イギリス、ハイド作戦開始
12 月 27 日 - ドイツ、ナウルを砲撃
12 月 29 日
- ドイツ、ロンドンを空襲
- ルーズベルト、炉辺談話発表
[1941 年]
1月
1 月 3 日 - イギリス軍がリビア駐在のイタリア軍に砲撃(MC5 作戦)
1月6日
- イギリス、MC4 作戦開始
- ルーズベルト、四つの自由提唱
1 月 10 日 - 独ソ不可侵条約更新
1 月 17 日 - コーチャン島沖海戦
1 月 20 日~1 月 23 日 - ルーマニアにおいて鉄衛団の反乱とブカレスト虐殺発生、鉄衛団は敗
北しアントネスク単独政権が成立
1 月 28 日 - タイ・フランス領インドシナ紛争に日本が調停申し入れ、両軍停戦
1 月 29 日 - 米英参謀会談開催
1 月 31 日 - イギリス、ピケット作戦及びリザルト作戦開始
2月
2 月 2 日 - タイ・フランス領インドシナ紛争の調停会議が東京で開催
14
2 月 3 日 - ケレンの戦い勃発
2 月 9 日 - イギリス、グロッグ作戦開始
2 月 14 日 - イギリス、伊領ソマリランドに上陸
2 月 23 日
- イギリス、アブステンション作戦開始
- 自由フランス、エリトリアへ侵攻
3月
3月1日
- ブルガリアが日独伊三国同盟に加盟、枢軸国入り
- 自由フランス、チャドを占領
3 月 4 日 - イギリスコマンド部隊、行動開始
3 月 16 日 - イギリス、ベルベラに上陸
3 月 24 日 - ロンメルがドイツの意向を無視し、イギリス軍拠点のエル・アゲイラを奇襲(ゾネンブ
ルーメ作戦)
3 月 25 日 - ユーゴスラビアが日独伊三国同盟に加盟
3 月 26 日
- ユーゴスラビアで親独政権に反対するクーデター発生、政権崩壊
- イタリア海軍、スダ湾急襲(巡洋艦ヨークの撃破)
3 月 27 日 - マタパン岬沖海戦
3 月 31 日 - ドイツアフリカ軍団がキレナイカにて攻勢
4月
4 月 1 日 - イギリス、ウィンチ作戦開始
4月3日
- ドイツアフリカ軍団、北アフリカ戦線でイギリスを破る
- イラクで親独派がクーデター
4 月 4 日 - イタリア、アディスアベバ放棄
4月6日
15
- ドイツ・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリアがギリシャ、ユーゴスラビアに侵攻
- ユーゴスラビアがソ連と不可侵条約締結
- ギリシャの戦い
4 月 10 日
- トブルク包囲戦
- ドイツの傀儡政権クロアチア独立国樹立
4 月 12 日 - アメリカ、グリーンランドへ上陸
4 月 13 日 - 日ソ中立条約調印
4 月 16 日
- 日米交渉正式に開始
- タリゴ船団の戦い
4 月 17 日 - ユーゴスラビア降伏
4 月 23 日 - ギリシャ降伏
4 月 24 日 - イギリス、ダンロップ作戦とセイリエント作戦開始
4 月 25 日 - ドイツ、リムノス島へ上陸
4 月 27 日 - ドイツ、アテネ入城
4 月 28 日 - ユーゴスラビアのドイツ第 2 軍司令官フォン・ヴァイクス、パルチザン対策強化
4 月 30 日
- ドイツ、トブルクを攻撃
- ドイツ、セルビア救国政府樹立
5月
5 月 2 日 - アングロ・イラク戦争勃発
5 月 9 日 - 東京条約調印、タイ・フランス領インドシナ紛争終結
5 月 5 日 - イギリス、MD.4 作戦開始
5 月 13 日 - ドイツ、戦時裁判命令発令
5 月 14 日 - パリ在住のユダヤ人が、フランス国内の強制収容所に収監
16
5 月 15 日
- ブレビティ作戦開始
- 日本政府、治安維持法改正
5 月 19 日 - イギリス、スプライス作戦開始
5 月 20 日 - クレタ島の戦い勃発
5 月 24 日 - デンマーク海峡海戦
5 月 27 日 - イギリス、バグダッドへ侵攻
6月
6 月 5 日 - イギリス、ロケット作戦開始
6 月 6 日 - ドイツ、コミッサール指令を発令
6月8日
- イギリス・自由フランス、エクスポーター作戦開始
- シリア・レバノン戦役
6 月 13 日 - イギリス、トレイサー作戦開始
6 月 15 日 - イギリス、バトルアクス作戦開始
6 月 22 日
- ドイツ、バルバロッサ作戦発動しソ連を総攻撃(独ソ戦、ミンスクの戦い)
- ドイツ、トナカイ作戦開始
6 月 23 日 - リトアニア臨時政府成立
6 月 24 日 - 青師団設立
6 月 26 日
- ソ連とフィンランドにおいて継続戦争勃発
- ドイツ、西ドヴィナ川の橋確保
- ソ連の駆逐艦がルーマニアのコンスタンツァを艦砲射撃
6 月 27 日 - ハンガリーがソ連に宣戦布告
6 月 29 日
- ドイツ、白金狐作戦開始
- イギリス、レイルウェイ作戦開始
17
6 月 30 日 - ドイツが日本に対ソ参戦要求
7月
7 月 1 日 - ドイツ、北極狐作戦開始
7 月 2 日 - ドイツ及びルーマニア王国がミュンヘン作戦発動
7 月 6 日 - 第一次スモレンスク攻防戦勃発
7 月 7 日 - アメリカ軍、アイスランドへ上陸
7 月 9 日 - ドイツ、旧国境陣地線(スターリン線)突破
7 月 10 日
- スターリンが統帥権掌握
- イェドヴァブネ事件発生
7 月 12 日 - 英ソ相互援助協定締結
7 月 15 日 - ウーマニの戦い勃発
7 月 16 日 - ドイツ、パリにてユダヤ人一斉検挙(ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件)
7 月 21 日
- イギリス、サブスタンス作戦開始
- ドイツ、モスクワを空襲
7 月 22 日 - イギリス、EF 作戦開始
7 月 23 日 - キエフ包囲戦開始
7 月 25 日 - アメリカが在米日本資産凍結
7 月 26 日 - イギリスが在英日本資産凍結
7 月 27 日 - オランダ領東インドが在蘭印日本資産凍結
7 月 28 日 - 日本、南部仏印進駐
7 月 29 日 - イギリス、スタイル作戦開始
7 月 31 日 - フィンランド、冬戦争で失ったカレリア地峡の奪還開始
18
8月
8 月 1 日 - アメリカ、日本に対し石油輸出を全面禁止
8 月 5 日 - オデッサの戦い勃発
8月9日
- 大西洋会談開催、大西洋憲章の調印
- モンゴルがドイツに宣戦布告
8 月 21 日 - イギリス、ミンスミート作戦開始
8 月 23 日 - 第一次キエフ攻防戦勃発
8 月 24 日 - ヒトラー、T4 作戦の中止を命令
8 月 25 日 - イギリス・ソ連がイランへ侵攻(イラン進駐)
8 月 26 日 - ヴィシー政府、自由地区を中心にユダヤ人一斉検挙
8 月 30 日 - ドイツ軍がネヴァ川に達する
9月
9 月 4 日 - ドイツ軍がレニングラード市内、またペレコープ地峡への砲撃開始
9月8日
- レニングラード包囲戦の開始
- イギリス、ステイタス I 作戦開始
9 月 10 日 - イギリス、ステイタスⅡ作戦開始
9 月 11 日 - ドイツ軍がドゥーデルホフの丘占領
9 月 12 日 - ロストフの戦い勃発
9 月 13 日 - ドイツ及びフィンランド、ノルトヴィント作戦発動
9 月 17 日 - イギリス・ソ連がテヘラン占領
9 月 19 日
- イタリアがジブラルタルへ攻撃開始
- ドイツ、キエフ入城
19
9 月 24 日 - セヴァストポリの戦い勃発
9 月 25 日 - イギリス、ハルバード作戦開始
9 月 27 日 - 駐エチオピアイタリア軍降伏
9 月 29 日
- 第 1 回モスクワ会談開催
- ドイツ、バビ・ヤールにて、一度に最多の犠牲者を出したバビ・ヤール大虐殺開始
9 月 30 日 - モスクワ攻防戦(台風作戦)開始
10 月
10 月 1 日 - アメリカ・イギリスがソ連に対し武器貸与約束
10 月 16 日 - イギリス、コールボーイ作戦開始
10 月 18 日 - 日本において東条英機が首相就任
10 月 19 日
- モスクワ全土に戒厳令発令
- 例年よりも早い冬の訪れにより、ドイツ軍の進攻止まる
10 月 20 日 - 第一次ハリコフ攻防戦
10 月 29 日 - ドイツ、クリミア攻略開始
11 月
11 月 9 日 - デュースブルク船団の戦い
11 月 10 日 - イギリス、パーペテュアル作戦開始
11 月 15 日 - ドイツ軍がモスクワ攻勢再開(秋季攻勢)
11 月 18 日 - 北アフリカ戦線でイギリス軍が反攻開始(クルセーダー作戦)
11 月 26 日 - アメリカ、ハル・ノート提示
11 月 27 日 - 日本政府がハル・ノートを最後通牒と認識
11 月 28 日 - エチオピアがイタリアから独立
20
12 月
12 月 1 日 - 日本、御前会議でアメリカ、イギリス、オランダに対し開戦を決定
12 月 5 日 - ソ連軍の冬季反攻開始
12 月 7 日 - 日本軍機がハワイ諸島に不時着(ニイハウ島事件)
12 月 8 日
- ワード号事件
- 日本、アメリカ海軍の真珠湾基地を奇襲(真珠湾攻撃)し、アメリカ・イギリスに宣戦布告
- マレー半島上陸
- ウェーク島の戦い
- フィリピンの戦い
- 香港の戦い
- グアムの戦い
- 太平洋戦争勃発
12 月 9 日 - 中華民国が日本・ドイツ・イタリアに宣戦布告
12 月 10 日
- マレー沖海戦、大艦巨砲主義が終焉を迎える
- 日本がルソン島上陸
- オランダが日本に宣戦布告
12 月 11 日
- 日独伊単独不講和協定締結
- ドイツがアメリカに宣戦布告
- 日泰攻守同盟条約締結
12 月 13 日 - ボン岬沖海戦
12 月 15 日 - 日本がペナン島占領
12 月 16 日 - 日本がボルネオ上陸
12 月 17 日 - 第 1 次シルテ湾海戦
12 月 18 日 - アメリカ、核兵器開発を決定
12 月 19 日 - イタリア海軍がイギリス海軍を攻撃(アレクサンドリア港攻撃)
12 月 22 日
- 日本がウェーク島上陸
21
- アルカディア会談開催
12 月 25 日 - 日本が香港占領、香港駐在のイギリス軍降伏
12 月 27 日 - ドイツ、U ボートによるパウケンシュラーク作戦開始
12 月 30 日 - ソ連、ケルチ奪還
[1942 年]
1月
1 月 1 日 - 連合国共同宣言調印
1 月 2 日 - 日本、マニラ占領
1 月 8 日 - 連合国軍、タイに攻撃開始
1 月 11 日 - 日本がオランダに宣戦布告
1 月 16 日 - イギリス、MF3 作戦開始
1 月 18 日 - ホルムの戦い勃発
1 月 19 日 - ファン・イムホフ号事件
1 月 20 日 - ドイツにおいて、ヨーロッパのユダヤ人絶滅に関するヴァンゼー会議の開催
1 月 24 日 - バリクパパン沖海戦
1 月 25 日 - タイがアメリカ・イギリスに宣戦布告
1 月 27 日 - エンドウ沖海戦
1 月 31 日 - イギリス・エチオピア協定、イギリスがエチオピアの独立を確認
2月
2 月 1 日 - アメリカがマーシャル・ギルバート諸島を空襲
2 月 4 日 - ジャワ沖海戦
2 月 8 日 - デミャンスク包囲戦勃発
22
2 月 12 日 - イギリス、MF5 作戦開始
2 月 15 日 - 日本、シンガポール占領
2 月 19 日
- 日本、オーストラリアへ空襲開始(ダーウィン空襲)
- アメリカ、大統領令 9066 号発令、日系人の強制収容開始
2 月 20 日
- バリ島沖海戦
- ニューギニア沖海戦
2 月 27 日 - スラバヤ沖海戦
3月
3 月 1 日 - バタビア沖海戦
3 月 7 日 - ニューギニア戦線においてポートモレスビーの覇権をめぐり日本とアメリカ・オーストラリ
アが衝突(ポートモレスビー作戦)
3月8日
- 日本、ラングーン占領
- 日本、東部ニューギニア占領、ニューギニアの戦い勃発
3 月 9 日 - ジャワ島駐在のオランダ軍降伏
3 月 22 日 - 第 2 次シルテ湾海戦
3 月 28 日 - イギリス、サン=ナゼール強襲
4月
4 月 5 日 - セイロン沖海戦
4 月 9 日 - 日本がバターン半島占領
4 月 18 日 - アメリカ軍がドーリットル空襲
4 月 19 日 - マッカーサー、西南太平洋連合軍司令官に就任
5月
5 月 1 日 - 日本、ビルマ占領
23
5 月 5 日 - マダガスカルの戦い勃発
5月7日
- マニラ湾、コレヒドール島のアメリカ軍降伏
- 珊瑚海海戦
5 月 10 日 - イギリス、MG2 作戦開始
5 月 12 日 - 第二次ハリコフ攻防戦
5 月 22 日 - メキシコが枢軸国に宣戦布告
5 月 26 日
- ガザラの戦い勃発
- ビル・アケムの戦い勃発
5 月 27 日 - イギリス・チェコスロヴァキア、エンスラポイド作戦決行
6月
6 月 5 日 - ミッドウェー海戦
6 月 10 日
- イギリス、ハープーン作戦開始
- 保安警察がリディツェ及びレジャーキにて村人を虐殺
6 月 12 日 - 連合国軍、ヴィガラス作戦開始
6 月 18 日 - ドイツ、トブルク要塞包囲
6 月 19 日 - 第 2 回ワシントン会談開催
6 月 28 日
- ドイツとソ連、東部戦線でスターリングラード攻防戦勃発
- 枢軸国軍、ブラウ作戦開始
7月
7 月 1 日 - 第一次エル・アラメイン会戦勃発
7 月 2 日 - アメリカ、ウォッチタワー作戦開始
7 月 16 日 - ヴェル・ディヴ事件発生
24
7 月 18 日 - 日本、ポートモレスビー攻略作戦開始
7 月 28 日 - スターリン、ソ連国防人民委員令第 227 号発令
8月
8 月 2 日 - イギリス、ペデスタル作戦開始
8 月 6 日 - 日本、遣独潜水艦作戦開始
8 月 7 日 - アメリカ、ガダルカナル島上陸
8 月 9 日 - 第一次ソロモン海戦
8 月 12 日 - 第 2 回モスクワ会談開催
8 月 16 日 - ドイツ、ヴンダーラント作戦開始
8 月 19 日 - ディエップの戦い勃発
8 月 21 日 - 日本軍によるガダルカナル島の飛行場奪還作戦イル川渡河戦勃発
8 月 22 日
- ドイツ、スターリングラード猛攻撃
- ブラジルが枢軸国に宣戦布告
8 月 24 日
- 第二次ソロモン海戦
- ラビの戦い勃発
8 月 31 日 - アラム・ハルファの戦い勃発
9月
9 月 12 日 - 日本、ガダルカナル島にて総攻撃
9 月 13 日 - イギリス・南ローデシア・ニュージーランド、アグリーメント作戦開始
10 月
10 月 12 日 - サボ島沖海戦
10 月 21 日 - シャーシル会談開催
25
10 月 23 日 - 第二次エル・アラメイン会戦勃発
10 月 24 日 - 日本、二回目のガダルカナル島総攻撃
10 月 26 日 - 南太平洋海戦
11 月
11 月 8 日
- 連合国軍、トーチ作戦開始
- カサブランカ沖海戦
- ターミナル作戦
11 月 10 日 - チュニジア戦線においてチュニス攻勢
11 月 10 日 - ドイツ、ヴィシー政権統治域の南フランスの占領を開始(アントン作戦)
11 月 12 日 - 第三次ソロモン海戦
11 月 19 日 - ソ連、スターリングラードで大反撃開始(天王星作戦)
11 月 20 日 - イギリス、ストーンエイジ作戦開始
11 月 22 日 - ドイツ、ドン川及びヴォルガ川より退却
11 月 25 日 - ソ連、火星作戦開始(第二次ルジェフ会戦)
11 月 27 日 - ドイツ軍の接収防止のため、ヴィシー・フランス軍多数の軍艦を自沈(トゥーロン港自
沈)
11 月 30 日 - ルンガ沖夜戦
12 月
12 月 6 日 - イギリス、オイスター作戦開始
12 月 11 日
- 枢軸国軍、赤軍に包囲された友軍の救出開始(冬の嵐作戦)
- 冬の嵐作戦を妨害するため、ソ連軍、小土星作戦開始
12 月 14 日 - エチオピア帝国が枢軸国に宣戦布告
12 月 31 日 - 日本大本営、ガダルカナル島からの撤退を決定
26
[1943 年]
1月
1 月 7 日 - ラエ・サラモアの戦い勃発
1 月 9 日 - 日本の傀儡政権、中華民国南京国民政府が、アメリカ・イギリスに宣戦布告
1 月 12 日 - イスクラ作戦
1 月 13 日 - ニコラエフカの戦い勃発
1 月 14 日 - カサブランカ会談開催
1 月 17 日 - イラクが枢軸国に宣戦布告
1 月 30 日
- ファイド峠の戦い勃発
- ヒトラー、スターリングラードのドイツ軍に玉砕命令
2月
2 月 1 日 - 日本軍、ガダルカナル島より撤退開始(ケ号作戦)
2 月 14 日 - スィディ・ブジドの戦い勃発
2 月 19 日
- カセリーヌ峠の戦い勃発
- 第三次ハリコフ攻防戦
3月
3 月 1 日 - ドイツ軍がルジェフから撤退開始(水牛作戦)
3 月 2 日 - ビスマルク海海戦
3 月 5 日 - ビラ・スタンモーア夜戦
3 月 10 日 - イギリス、チャスタイズ作戦開始
3 月 16 日 - マレスラインの戦い勃発
3 月 23 日 - エル・グェタルの戦い勃発
27
3 月 27 日 - アッツ島沖海戦
3 月 28 日 - アメリカ、カートホイール作戦開始
4月
4 月 5 日 - 連合国軍、フラックス作戦発動
4 月 6 日 - ワジ・アカリトの戦い勃発
4 月 7 日 - ボリビアが枢軸国に宣戦布告
4 月 13 日 - カティンの森事件の発覚
4 月 16 日 - チーニョ船団の戦い
4 月 19 日 - イギリス、ミンスミート作戦開始
4 月 22 日 - ロングストップ・ヒルの戦い (1943)勃発
4 月 26 日 - ドイツ、遣日潜水艦作戦発動
4 月 27 日 - 609 丘陵の戦い勃発
5月
5 月 6 日 - 連合国軍、バルカン作戦発動
5 月 8 日 - 連合国軍、レトリビューション作戦発動
5 月 12 日 - 第 3 回ワシントン会談開催
5 月 17 日 - イギリス空軍、ドイツルール地方のダム数基を破壊
5 月 29 日 - 日本軍、アッツ島で玉砕
6月
6 月 3 日 - アルジェにおいてフランス国民解放委員会成立
6 月 10 日 - 連合国軍がパンテッレリーア島侵攻開始(コークスクリュー作戦)
6 月 16 日 - イタリア、遣日潜水艦作戦発動
28
6 月 30 日 - 連合国軍がニューブリテン島やニュージョージア島へ攻撃、ニュージョージア島の戦
い勃発
7月
7 月 3 日 - イギリス軍機約 800 機がハンブルク空襲、ハンブルクの戦い開始
7 月 4 日 - 史上最大の戦車戦、クルスク会戦勃発
7 月 5 日 - クラ湾夜戦勃発
7 月 10 日 - 連合国軍がシチリア半島に上陸開始(ハスキー作戦)
7 月 12 日
- コロンバンガラ島沖海戦
- プロホロフカの戦い勃発
7 月 14 日 - ビスケーの虐殺
7 月 24 日 - 連合国軍がハンブルクを重爆撃
7 月 25 日 - クーデターによりムッソリーニが首相解任、幽閉
7 月 26 日 - コロンビアが枢軸国に宣戦布告
8月
8月1日
- 日本の傀儡政権、ビルマ国樹立
- アメリカ、タイダルウェーブ作戦実行
8 月 6 日 - ベラ湾夜戦
8 月 7 日 - 第二次スモレンスク攻防戦勃発
8 月 9 日 - イギリス軍機約 200 機がケルンを夜間空襲、ドイツはイノシシ戦法で対抗
8 月 17 日
- ケベック会談開催
- 第一次ベララベラ海戦
8 月 23 日 - 連合国軍がベルリンを重爆撃
8 月 24 日 - ドニエプル川の戦い勃発
29
9月
9月3日
- 連合国軍がイタリア半島上陸開始(イタリア侵攻、ベイタウン作戦)
- イタリアが連合国と休戦協定締結(イタリアの降伏)
9 月 8 日 - イタリアの休戦が公表される。ドイツ、アッシェ作戦によるイタリア占領を開始。
9月9日
- アメリカ、サレルノ上陸開始(アヴァランチ作戦)
- イギリス、タラント上陸開始(スラップスティック作戦)
- イランが枢軸国に宣戦布告
9 月 12 日 - ドイツ、ムッソリーニ救出(グラン・サッソ襲撃)
9 月 15 日 - ヒトラーとムッソリーニが会合
9 月 18 日 - 共和ファシスト党誕生
9 月 22 日 - フィンシュハーフェンの戦い勃発
9 月 23 日 - ムッソリーニを国家元首とするイタリア社会共和国樹立
10 月
10 月 4 日 - アメリカ、リーダー作戦開始
10 月 6 日 - 第二次ベララベラ海戦
10 月 13 日 - イタリア王国がドイツに宣戦布告
10 月 14 日 - フィリピン第二共和国樹立
10 月 18 日 - 第 3 回モスクワ会談開催
10 月 21 日 - イギリスの植民地支配からの独立を図り、自由インド仮政府樹立
11 月
11 月 1 日 - ブーゲンビル島沖海戦
11 月 3 日
- 第二次キエフ攻防戦
- ドイツ、ルブリン強制収容所でユダヤ人を大量殺害(収穫祭作戦)
30
11 月 5 日 - 東京で大東亜会議開催
11 月 6 日 - ソ連、キエフ奪還
11 月 9 日 - イタリア王国首相ピエトロ・バドリオ元帥がイタリアの降伏文書に署名
11 月 18 日 - イギリス、ベルリンを夜間爆撃
11 月 21 日 - ギルバート諸島沖航空戦勃発
11 月 22 日 - カイロ会談開催
11 月 24 日 - セント・ジョージ岬沖海戦
11 月 27 日
- アメリカ・イギリス・中華民国がカイロ宣言に署名
- 日本の病院船ぶゑのすあいれす丸がアメリカ軍の攻撃により沈没
11 月 28 日 - テヘラン会談開催
11 月 29 日 - ユーゴスラビアが独立宣言
12 月
12 月 4 日
- ユーゴスラビアが枢軸国に宣戦布告
- 第 2 回カイロ会談開催
[1944 年]
1月
1 月 1 日 - シリアがフランスからの独立を宣言
1 月 14 日 - コルスン包囲戦勃発
1 月 17 日 - モンテ・カッシーノの戦い勃発
1 月 20 日 - ソ連、ドイツからレニングラード市解放
1 月 22 日 - アンツィオの戦い勃発
31
1 月 24 日 - コルスン包囲戦
1 月 27 日 - リベリアが枢軸国に宣戦布告
1 月 30 日 - ブラザヴィル会議(フランス語版)開催
2月
2 月 1 日 - 赤軍、キンギゼップ・グドフ攻勢開始
2 月 2 日 - ナルヴァの戦い勃発、ナルヴァ橋頭堡の戦い
2 月 27 日 - アメリカ、ジニー 1 号作戦開始
2 月 29 日 - アドミラルティ諸島の戦い勃発
3月
3月8日
- 日本、インパール作戦開始
- ドイツ、マルガレーテ II 作戦を発動、ハンガリーの占領を開始
3 月 20 日 - アメリカ軍、エミラウ島を無血占領
3 月 22 日 - アメリカ、ジニー 2 号作戦開始
3 月 25 日 - カメネツ=ポドリスキー包囲戦
3 月 30 日 - イギリス、タングステン作戦開始
4月
4 月 1 日 - 突撃隊がアスクの虐殺を起こす
4 月 8 日 - 第一次ヤッシー=キシニョフ攻防戦勃発
4 月 9 日 - 第一次トゥルグ・フルモス攻防戦勃発
4 月 11 日 - ケルチ解放
4 月 12 日 - ポドゥ・イロアイェイの戦い
4 月 22 日 - ホーランジアの戦い勃発
32
5月
5 月 1 日 - イギリス連邦首相会議開催
5 月 2 日 - 第二次トゥルグ・フルモス攻防戦勃発
5 月 9 日 - セヴァストポリ周辺の枢軸国軍が降伏
5 月 17 日 - スターリン、クリミア・タタール人追放開始
5 月 18 日 - アメリカ、ワクデ島上陸
5 月 27 日 - ビアク島の戦い勃発
6月
6 月 3 日 - フランス共和国臨時政府設立
6 月 4 日 - アメリカ・イギリスがローマ入城
6 月 5 日 - 連合国軍、ノルマンディー上陸作戦直前の空挺作戦であるトンガ作戦開始
6月6日
- 連合国軍、ノルマンディー上陸作戦直前の空挺作戦であるシカゴ作戦、デトロイト作戦開始
- 連合国軍、史上最大の上陸作戦ノルマンディー上陸作戦(ソード・ビーチ・ジュノー・ビーチ・
ゴールド・ビーチ・オマハ・ビーチ・ユタ・ビーチ)開始
- シェルブールの戦い勃発
6 月 9 日 - 継続戦争にてソ連が攻勢(ヴィボルグ-ペトロザヴォーツク攻勢)
6 月 10 日 - 武装親衛隊がフランス、オラドゥール=シュル=グラヌで大量虐殺を行い、村が壊滅
6 月 13 日 - ヴィレル・ボカージュの戦い勃発
6 月 14 日
- ヴァンメルスー・タイペレ線(VT 線)をめぐりソ連とフィンランドが衝突(クーテルセルカの戦い)
- トルニオの戦い勃発
6 月 15 日 - アメリカ軍がサイパン上陸、サイパンの戦い勃発
6 月 19 日 - マリアナ沖海戦
6 月 22 日 - 短期間で大量の死者を出した、ドイツに対するソ連の大規模反攻バグラチオン作戦
開始
33
6 月 25 日 - タリ=イハンタラの戦い勃発
6 月 26 日 - イギリス、エプソム作戦開始
6 月 29 日 - 日本の貨物船富山丸沈没
7月
7月4日
- 日本、インパール作戦中止
- ヴオサルミの戦い勃発
- ソ連、ヴィープリ湾上陸作戦開始
7 月 7 日 - 日本のサイパン守備隊が玉砕
7 月 10 日 - アイタペの戦い勃発
7 月 13 日 - ソ連、リヴィウ=サンドミェシュ攻勢開始
7 月 18 日
- イギリス、グッドウッド作戦開始
- カナダ、アトランティック作戦開始
7 月 20 日 - ドイツ陸軍将校らによるヒトラー暗殺未遂事件とクーデター発生(7 月 20 日事件)
7 月 21 日 - ソ連主導によるポーランド国民解放委員会(ルブリン政権)設立
7 月 24 日 - アメリカ、テニアン上陸
7 月 25 日
- タンネンベルク線の戦い勃発
- イギリス・カナダ、スプリング作戦開始
- アメリカ、コブラ作戦開始
7 月 26 日 - イロマンツィの戦い勃発
7 月 30 日
- サンサポールの戦い勃発
- イギリス、ブルーコート作戦開始
8月
8 月 1 日 - ワルシャワ蜂起
34
8 月 3 日 - 日本のテニアン守備隊が玉砕
8 月 4 日 - アメリカ、スカベンジャー作戦開始
8 月 5 日 - カウラ事件
8月7日
- ドイツ、リュティヒ作戦開始
- ブレストの戦い勃発
8 月 8 日 - 連合国軍、トータライズ作戦開始
8 月 10 日 - 日本のグアム守備隊が玉砕
8 月 12 日 - ファレーズ・ポケットの開始
8 月 14 日 - 連合国軍、トラクタブル作戦開始
8 月 15 日 - 連合国軍、ドラグーン作戦開始
8 月 19 日 - パリ内のレジスタンスが蜂起
8 月 20 日 - ソ連、ドイツ・ルーマニアに対し第二次ヤッシー=キシニョフ攻防戦勃発
8 月 21 日 - ダンバートン・オークス会議開催
8 月 22 日 - 日本の貨物船対馬丸沈没
8 月 23 日 - ルーマニアにおいてミハイ 1 世のクーデター、アントネスク政権崩壊
8 月 24 日 - ルーマニア王国がソ連と休戦協定を締結。
8 月 25 日
- 連合国軍、パリ入城
- ルーマニアがドイツに宣戦布告
- ヴィシー政権崩壊
8 月 26 日 - ブルガリアが中立宣言
8 月 31 日 - ソ連、ブカレストに入る
9月
9 月 2 日 - ヒトラー、ギリシャの放棄を命じる
35
9 月 5 日 - ソ連、ブルガリアに宣戦布告
9 月 8 日 - ムーブルッヘの戦い勃発
9月9日
- ブルガリアでクーデターが起こり(ブルガリアクーデター (1944 年))、政権交代、連合国軍側へ
付きドイツへ宣戦布告
- ドイツ、ハウデーゲン作戦開始
9 月 10 日
- 連合国軍がドイツからル・アーヴル港の奪還開始(アストニア作戦)
- マキがドイツ軍捕虜を殺害
9 月 12 日
- ルーマニア、アメリカ・イギリス・ソ連三国と休戦協定締結
- 第 2 回ケベック会談開催
9 月 14 日 - ソ連、リガ攻略作戦開始、バルト海攻勢
9 月 15 日 - モロタイ島の戦い勃発 - ドイツ、タンネ・オスト作戦発動
9 月 17 日
- ソ連、タリン攻略作戦開始
- 連合国軍、マーケット・ガーデン作戦開始
9 月 18 日 - メスの戦い勃発
9 月 19 日
- フィンランドがソ連とモスクワ休戦協定締結、継続戦争終了
- ヒュルトゲンの森の戦い勃発
9 月 27 日 - ソ連、ムーンズント上陸作戦開始
10 月
10 月 1 日
- アーヘンの戦い勃発
- ラップランド戦争勃発
10 月 2 日 - スヘルデの戦い勃発
10 月 5 日 - ソ連、メーメル攻略作戦開始
10 月 6 日
36
- デブレツェンの戦い勃発
- カナダ、スイッチバック作戦開始
10 月 9 日 - 第 4 回モスクワ会談開催
10 月 10 日 - アメリカが那覇を大規模空襲(十・十空襲)
10 月 11 日
- ソ連、東プロイセンでドイツ国境突破
- トゥヴァ人民共和国、ソ連に併合
10 月 12 日
- 台湾沖航空戦勃発
- ロヴァニエミの戦い勃発
10 月 14 日 - イギリス、マナ作戦開始
10 月 15 日
- クールラント・ポケット形成
- ドイツ、ミッキーマウス作戦開始
- ドイツ及び矢十字党によるハンガリー王国のクーデター作戦開始。ハンガリー摂政ホルティ・ミク
ローシュ退位
10 月 16 日
- ハンガリー国成立
- 第一次東プロイセン攻勢開始
10 月 18 日 - 日本、捷一号作戦開始
10 月 20 日
- アメリカ、レイテ島上陸
- ソ連軍・ユーゴ人民解放軍、ドイツよりベオグラード解放
10 月 23 日 - 史上最大規模の海戦レイテ沖海戦勃発
10 月 24 日 - カナダ、ヴァイタリティ作戦開始
10 月 25 日 - 神風特別攻撃隊初の戦果、特攻開始
10 月 29 日
- イギリス、オブヴィエイト作戦開始
- ソ連、大規模なブダペスト攻勢
10 月 31 日 - ワルヘレン島の戦い勃発
37
11 月
11 月 1 日 - イギリス・カナダ、インファチュエイト作戦開始
11 月 3 日 - 日本、風船爆弾使用開始
11 月 12 日 - ソ連の支持で東トルキスタン共和国樹立
11 月 29 日 - アルバニア民主政府成立
12 月
12 月 16 日
- ドイツ、西部戦線において、最後の大反撃ラインの守り作戦開始
- グライフ作戦
- ザンクト・フィートの戦い勃発
12 月 17 日
- ドイツ、シュテッサー作戦開始
- パイパー戦闘団の攻撃
- マルメディ虐殺事件
12 月 18 日 - バストーニュの戦い勃発
12 月 29 日 - ブダペスト包囲戦勃発
[1945 年]
1月
1月1日
- ドイツ、第一次コンラート作戦、また、大鉄槌作戦、ノルトヴィント作戦開始
- シェノーニャの虐殺発生
1 月 2 日 - ニュルンベルクが連合国軍に爆撃される
1 月 6 日 - アメリカ、ルソン島攻略のためリンガエン湾に上陸開始(リンガエン湾上陸)
1 月 7 日 - ドイツ、第二次コンラート作戦開始
1 月 9 日 - アメリカ、ルソン島上陸
1 月 12 日 - ヴィスワ=オーデル攻勢開始
38
1 月 13 日
- ソ連による第二次東プロイセン攻勢開始
- ドイツ、ハンニバル作戦開始
1 月 17 日
- ドイツ、第三次コンラート作戦開始
- ソ連、ワルシャワ占領
1 月 18 日 - 日本、本土決戦を決定
1 月 20 日 - コルマールの戦い勃発
1 月 27 日 - ソ連、アウシュヴィッツ収容所解放
1 月 30 日 - マルタ会談開催
2月
2 月 4 日 - ヤルタ会談開催
2 月 9 日 - エクアドルが枢軸国に宣戦布告
2 月 13 日
- 連合国軍がドレスデン爆撃
- ソ連、ブダペスト解放
- パラグアイが枢軸国に宣戦布告
2 月 14 日 - ベネズエラが枢軸国に宣戦布告
2 月 18 日 - アメリカ、硫黄島に上陸
2 月 22 日 - ウルグアイが枢軸国に宣戦布告
2 月 23 日 - トルコが枢軸国に宣戦布告
2 月 24 日 - ソ連による東ポンメルン攻撃開始
2 月 26 日 - エジプトが枢軸国に宣戦布告
2 月 27 日 - レバノンが枢軸国に宣戦布告
3月
3 月 1 日 - サウジアラビアが枢軸国に宣戦布告
39
3月3日
- アメリカ、マニラ解放
- フィンランドがドイツに宣戦布告
3 月 6 日 - ドイツ、春の目覚め作戦開始
3 月 7 日 - アメリカ、ランバージャック作戦開始
3 月 9 日 - 日本、明号作戦開始
3 月 10 日 - アメリカ軍機約 300 機が東京大空襲
3 月 11 日 - フランスの植民地支配からの独立のため、ベトナム帝国樹立
3 月 12 日 - フランスの植民地支配からの独立のため、カンボジア王国樹立
3 月 13 日 - アメリカ軍機約 300 機が大阪大空襲
3 月 14 日 - イギリス、トランスポート作戦開始
3 月 17 日
- 日本の硫黄島守備隊が玉砕
- ライン川のレマーゲン鉄橋が崩落
3 月 18 日 - 九州沖航空戦
3 月 19 日 - アメリカ軍機 230 機が名古屋大空襲
3 月 21 日 - イギリス、カルタゴ作戦開始
3 月 24 日 - 連合国軍、ヴァーシティー作戦決行
3 月 26 日
- 日本、天号作戦開始
- アメリカが慶良間諸島に上陸(沖縄戦)
3 月 27 日
- アルゼンチンが枢軸国に宣戦布告
- イギリス、ビルマ占領
3 月 30 日 - ソ連、独領オーストリアに侵攻
40
4月
4月1日
- アメリカが沖縄本島に上陸
- 阿波丸事件
4 月 2 日 - ソ連・ブルガリアがウィーンへ侵攻(ウィーン攻勢)
4月5日
- ケーニヒスベルクの戦い勃発
- テッセル島でグルジア兵捕虜がドイツ兵に反乱(テッセルのグルジア人捕虜蜂起)
4 月 6 日 - 日本、菊水作戦開始
4 月 7 日 - 坊ノ岬沖海戦、戦艦大和沈没
4月8日
- 嘉数の戦い勃発
- ラオス王国樹立
4 月 11 日 - スペインが日本と断交
4 月 12 日 - ルーズベルト病没、ハリー・S・トルーマンが引き継ぐ
4 月 13 日
- ソ連、ウィーン占領
- ソ連、ザームラント攻略作戦開始
4 月 16 日
- ソ連がベルリン攻略開始(オーデル・ナイセの戦い・ベルリンの戦い)
- ゼーロウ高地の戦い
4 月 19 日 - クヴェードリンブルク祭具盗難事件
4 月 20 日
- ヒトラー、国防軍最高司令部や閣僚の避難を許可
- ソ連、ベルリンを砲撃
4 月 22 日 - ソ連軍、ベルリン市街に突入
4 月 23 日
- ソ連軍によるトロイエンブリーツェンの虐殺
- ベルリン市街戦勃発
41
4 月 25 日
- アメリカ軍とソ連軍がエルベ川付近で邂逅(エルベの誓い)
- ハルベの戦い勃発
- イタリア社会共和国崩壊
- サンフランシスコ会議開催
4 月 27 日 - コモ湖畔で民衆義勇軍、ムッソリーニを逮捕
4 月 28 日 - ムッソリーニ銃殺
4 月 29 日 - アメリカ軍、解放後のダッハウ強制収容所で職員・ドイツ軍捕虜等を虐殺(ダッハウの
虐殺)
4 月 30 日 - ヒトラー自殺
5月
5月1日
- カール・デーニッツらによるフレンスブルク政府樹立
- イギリス、ラングーン占領
5 月 2 日 - ソ連、ベルリン占領
5 月 3 日 - ブライブルクの虐殺発生
5月5日
- アメリカ軍とドイツ軍の一部兵士が共闘(イッター城の戦い)
- デンマーク解放
5 月 6 日 - プラハの戦い勃発
5月7日
- ランスにおいて、ドイツ国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル大将がドイツ軍の降
伏文書に署名し、ドイツが降伏
- ハンガリー国崩壊
5月8日
- ベルリンにおいて、ドイツ国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥が降伏文書を批
准
- ドイツの傀儡政権、スロバキア共和国・クロアチア独立国とベーメン・メーレン保護領崩壊
5 月 9 日 - ノルウェーのクヴィスリング政権崩壊
5 月 10 日 - 原爆目標選定委員会にて、原爆投下対象の日本の都市が決められる
42
5 月 12 日 - シュガーローフの戦い勃発
5 月 14 日 - ポリャーナの戦い勃発
5 月 15 日
- 日本によるフランス領インドシナ政府解体(明号作戦)
- スロヴェニアでの戦闘(ポリャーナの戦い)が終了し、ここをもって欧州戦線が終結する
5 月 16 日
- この大戦最後の水上戦闘ペナン沖海戦
- チェコスロバキア亡命政府がプラハに帰還
5 月 23 日 - デンマークが日本に宣戦布告
5 月 24 日 - 日本、義号作戦開始
5 月 25 日 - アメリカ軍機約 500 機が東京・山の手を大規模空襲
5 月 29 日 - アメリカ軍機約 620 機が横浜大空襲
5 月 31 日 - アメリカ軍機約 120 機が台北大空襲
6月
6月5日
- 連合国によるベルリン宣言
- アメリカ、バーニー作戦開始
- アメリカ軍機約 500 機が神戸大空襲
6月6日
- 亡命したノルウェー国王帰国
- ブラジルが日本に宣戦布告
6 月 11 日 - 沖縄の国吉にて大規模な陸戦勃発
6 月 19 日 - アメリカ軍機約 240 機が福岡大空襲
6 月 21 日 - アメリカ、沖縄を占領
6 月 23 日 - 沖縄における日本軍の組織的な戦闘終結
6 月 26 日 - ロンドン会議開催
43
7月
7 月 6 日 - ノルウェーが日本に宣戦布告
7 月 8 日 - 真夜中の虐殺発生
7 月 14 日 - 連合国軍が釜石を艦砲射撃
7 月 15 日
- イタリアが日本に宣戦布告
- アメリカ、室蘭を艦砲射撃
7 月 16 日 - アメリカニューメキシコ州で、長崎に投下されたファットマンと同型の原子爆弾を用い
た人類史上初の核実験起こる
7 月 17 日 - ポツダム会談開催
7 月 22 日 - 東京湾海戦勃発
7 月 26 日
- アメリカ・イギリス・中国の三国首脳名でポツダム宣言が発せられる
- イギリス、ストラグル作戦開始
7 月 28 日
- 大山口列車空襲事件
- 鈴木貫太郎首相、ポツダム宣言を黙殺するという発言を行う
8月
8 月 3 日 - 橘丸事件
8 月 5 日 - 湯の花トンネル列車銃撃事件
8 月 6 日 - アメリカ、広島に原爆投下
8月8日
- ソ連、日本に宣戦布告
- 筑紫駅列車空襲事件
8月9日
- ソ連、満州に侵攻(ソ連対日参戦)
- アメリカ、長崎に原爆投下
8 月 10 日
44
- 御前会議にて昭和天皇による降伏の聖断が行われる
- モンゴル人民共和国が日本に宣戦布告
8 月 11 日 - ソ連、南樺太へ侵攻、樺太の戦い勃発
8 月 12 日 - 麻山事件
8 月 14 日
- 大本営、攻勢の停止を命じる
- ソ連と中華民国が中ソ友好同盟条約を締結
- 葛根廟事件
8 月 15 日 - 日本、玉音放送・無条件降伏
8 月 16 日
- 日本の敗戦を受け、中華民国南京国民政府崩壊
- タイ、アメリカ・イギリスへの宣戦布告を無効と宣言
8 月 17 日
- スカルノらによるインドネシア独立宣言
- 占守島の戦い勃発
8 月 18 日
- 日本の敗戦を受け、満州国崩壊
- ソ連、千島列島を攻撃
8 月 19 日 - 日本の敗戦を受け、蒙古自治邦政府崩壊
8 月 22 日 - 三船殉難事件
8 月 23 日 - スターリン、日本兵捕虜のシベリア抑留を命じる
8 月 27 日 - 敦化事件
9月
9 月 2 日 - 戦艦ミズーリにて日本、降伏文書調印
45
[1946 年以降]
[1947 年]
2 月 10 日 - 連合国とイタリア・ハンガリー・ブルガリア・フィンランド・ルーマニアの講和条約が個別
に締結される。(パリ条約)
[1949 年]
5 月 23 日 - ドイツ連邦共和国(西ドイツ)成立。
10 月 7 日 - ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立。
[1951 年]
5 月 1 日 - 連合国と日本国との平和条約が締結され、日本占領の終了
7 月~11 月 - イギリス・フランス・アメリカなどが、ドイツとの戦争状態終了の宣言を行う
[1955 年]
1 月 25 日 - ソ連がドイツとの戦争状態終了の宣言を行う
[1956 年]
10 月 19 日 - 日ソ共同宣言により日本とソ連の戦争状態終結を合意
12 月 12 日 - 日ソ共同宣言発効
[1990 年]
9 月 20 日 - ドイツ最終規定条約調印、ドイツと連合国の講和が確認される
[1991 年]
3 月 15 日 - ドイツ最終規定条約の発効
46
[第二次世界大戦の背景]
第二次世界大戦の背景では、1939 年に第二次世界大戦が勃発した背景について説明する。
[概要]
ヴェルサイユ体制と世界恐慌
ヨーロッパでは、1919 年に第一次世界大戦のドイツに関する講和条約であるヴェルサイユ条約が
締結され、ヴェルサイユ体制が成立した。
ドイツやオーストリアは講和条約において領土の一部を喪失し、
その領域は民族自決主義のもとで誕生したポーランド、チェコスロヴァキア、リトアニアなどの領土
に組み込まれた。
しかしこれらの領域には多数のドイツ系住民が居住しており、
少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民の処遇の問題は新たな民族紛争の火種となる可能
性を持っていた。
また、ドイツはヴェルサイユ条約において巨額の戦争賠償を課せられた。
1922 年フランスが賠償金支払いを要求してルール占領を強行したことにより、ドイツでは社会不
安が引き起こされ、ハイパーインフレーションが発生した。
アメリカ合衆国は、1920 年代にはイギリスに代わって世界最大の工業国としての地位を確立し、第
一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。
しかし 1929 年、アメリカ経済は生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化によ
る雇用抑制と複合して株価が大暴落、
ヨーロッパに飛び火して世界恐慌へと発展した。
世界恐慌に対する対応として、英仏両国はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政
策を打ち出してこれを乗り越えようとした。
しかし、広大な植民地市場や豊富な資源を持たないドイツやイタリアではこのような解決策を取る
ことはできなかった。
両国の国民は絶望感と被害者意識をつのらせ、ファシズム、ナチズムの運動が勢力を得る下地が
形作られた。
[ファシズムの台頭]
ファシズムの政治体制が最初に形成されたのはイタリアにおいてである。
イタリアでは第一次世界大戦直後に経済が悪化し政情不安に陥っていたが、1922 年、ファシスト
党を率いるベニート・ムッソリーニがローマ進軍を行い、
国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ 3 世の協力もあって権力を獲得した。
世界恐慌の苦境に際しては、ムッソリーニは 1935 年のエチオピア侵略に打開策を求め、それが
元となってイタリアは 1937 年に国際連盟を脱退した。
ドイツでは 1933 年、ヴェルサイユ体制の打破とナチズムを掲げるアドルフ・ヒトラーが首相に就任、
翌年には総統に就任し独裁的権力を掌握した。
ヒトラーは経済的には軍備増強と公共事業により総需要を喚起し世界恐慌を克服した。
国際関係では、1933 年に国際連盟を脱退、1935 年にはヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄し
て再軍備を宣言、
1936 年にはヴェルサイユ条約で軍隊の駐留が禁止されていたラインラント地方に軍隊を進駐させ
た。
また、ファシスト・イタリアと関係を結び、同様に国際連盟を脱退していた日本との間にも日独防共
47
協定を結んだ。
その後これらの 3 国の関係は日独伊三国軍事同盟へと発展してゆく。
1931 年に関東軍の独断による柳条湖事件を契機に満州事変が勃発し、1933 年には国際連盟を
脱退した。
満州事変後、中国と日本とは一旦は停戦協定を結ぶものの、1937 年に盧溝橋事件が発生し日中
戦争が勃発した。
米英は日本の行動に反発し、日本は次第にナチス・ドイツへの接近を強めていった。
[宥和政策とポーランド問題]
英仏では、ナチス・ドイツの軍備拡張政策に対して、第一次世界大戦で受けた膨大な損害の反動
から国民は平和の継続を求め、
また圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦にドイツが対抗することを期待して、宥和
政策を取ることに終始していた。
ヒトラーは、ドイツ周辺の国々におけるドイツ系住民の処遇問題に対しては民族自決主義を主張し、
ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。
オーストリアには第一次世界大戦後ドイツとの一体を望む声がありながら、ドイツの力を殺ぐ目的
でサン=ジェルマン条約にて禁止されていた。
しかしオーストリア政府の反対にもかかわらず、1938 年 3 月オーストリア国民の熱狂的とも言える
支持のもとオーストリアを併合した。
次いでヒトラーは、チェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定めた。英仏との間ではヒトラーに
よる強引ともいえる要求と、
戦争を避けようとする宥和政策との間で駆け引きが続けられた。
1938 年 9 月に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドゥアール・ダラ
ディエ仏首相は、
ヒトラーの要求が最終的なものであることを確認して妥協した。
こうしてチェコスロバキア政府の意向は英仏独によって完全に無視され、チェコスロバキアは解体
され、ドイツはズデーテン地方を獲得しチェコを保護国とした。
しかしヒトラーの要求はこれにとどまらず、1938 年 10 月にはヴェルサイユ条約によりポーランドに
割譲されたポーランド回廊の回復に手をつけた。
英仏にとってミュンヘン会談が妥協の限界であり、ヒトラーにとってはミュンヘン会談での成功は更
なる要求への一歩でしかなかった。
ミュンヘン会談の合意を反故にされた英仏はここに至り、急速にドイツとの対決姿勢をみせること
になる。
1939 年、ドイツはドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、反共のナチス・ドイツとは相容れないで
あろうソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。
英仏はポーランドと相互援助条約を締結することによってドイツを牽制した。
ポーランド回廊に関する要求を頑として拒否し続けるポーランド政府に対して、ヒトラーは武力によ
る問題解決を決断、
1939 年 9 月 1 日、ドイツ軍へポーランドへの進攻を指示した。9 月 3 日英仏両国もドイツへ宣戦を
布告、ここに第二次世界大戦が勃発した。
48
[国際情勢]
ヴェルサイユ体制
第一次世界大戦後の世界情勢では、アメリカ大統領のウッドロウ・ウィルソンが提唱した十四か条
の平和原則に基づいて 1919 年にパリ講和会議が開かれた。
提唱国の日本とアメリカ、イギリス、イタリアと開催地のフランスの首脳を含む第一次世界大戦の戦
勝国の代表団が参加し、参加国間でヴェルサイユ条約が締結され、
翌年国際連盟を設立することを謳った「ヴェルサイユ体制」が成立した。
翌年、国際連盟が設立されたが、肝心のアメリカが議会の反対とヨーロッパの情勢の影響を受ける
ことを嫌ったため参加せず、
ソビエト連邦とドイツが敗戦国であるために除外されていた。
パリ講和会議における「民族自決主義」は不貫徹なものであったとはいえ、国際法の一部となった。
ヨーロッパ地域では、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ユーゴスラビア、ポーランド、フィンランド、エ
ストニア、ラトビア、リトアニアはこの時に独立を認められた。
アジア・アフリカ地域では、イギリスは 1921 年に長年支配下にあったイランを、1922 年にエジプト
を独立させている。
このことからヴェルサイユ体制は単なる列強の論理の具現ではないと言える。
ただ、旧ドイツ植民地及びオスマン帝国の領土を委任統治の名の下、事実上、保護国化したこと
に加え、国境線は人為的なものであったことから、
第一次大戦以降の民族問題は、より複雑で錯綜したものとなった。実際、イギリスとフランスはサイ
クス・ピコ協定に基づき、オスマン帝国の領土を二分した。
シリアとレバノンはフランスの委任統治領となり、イラク、トランスヨルダン、パレスティナはイギリスの
委任統治領となった。
また、南西アフリカ(現在のナミビア)は、南アフリカ連邦の委任統治領へ、南洋諸島は、日本と
オーストラリアの委任統治領となった。
また、戦後英仏から戦争責任を問われ報復の対象となったドイツは敗戦国の中でも特に巨額の賠
償金を課せられたうえ軍備を制限されすべての植民地が没収された。
このためドイツでは社会不安によるインフレーションを招いた。
[新たな植民地獲得]
第一次世界大戦のヨーロッパの戦勝国は、国土が戦火に見舞われなかったアメリカに対し多額の
債務を抱えることになった。
その後債権国のアメリカは未曾有の好景気に沸いたものの、1929 年 10 月にニューヨークの
ウォール街における株価大暴落から始まった世界恐慌は、
ヨーロッパや日本にもまたたくまに波及し、社会主義国であるソビエト連邦を除く主要資本主義国
の経済に大きな打撃を与えた。
この世界恐慌を打開するため、植民地を持つ大国は自国と植民地による排他的な経済圏いわゆ
るブロック経済を作り、
植民地を持たない(もしくはわずかしか持たない)国々は新たな植民地を求めるべく近隣諸国に進
出していった。
例として、前者はイギリスのスターリング・ブロック、フランスのフラン・ブロックである。
後者は 1930 年代の日本による中国大陸での権益確保と事実上の傀儡政権である満州国の設立、
イタリア王国によるエチオピアの侵略やドイツによるオーストリアの無血占領(併合)が挙げられる。
また、後者においては、経済の停滞による政情不安によりファシズム的思想の浸透やそれにともな
49
う軍部の台頭がみられた他、
この時期における人種差別的志向の台頭が顕著なものとなった。
[石油資源を巡る思惑]
第一次世界大戦で本格化した飛行機の戦争利用、塹壕戦を打ち破る戦車等新兵器の開発は内
燃機関の発達と共に急速に進展した。
又、従来石炭を用いていた部分も多かった軍艦も重油を使用するようになった。兵器の進化に
よって軍隊は石油なしには成立しない状況になったといえる。
これまでの国力を測る人口や工業力にとどまらず、石油資源の確保は重大な問題となり、
イギリスやアメリカ、オランダ等の国内外に石油資源を持つ国家がそれを外交手段として用い始め
たが、
ドイツ、イタリア、日本などいわゆる持たざる国家にとっては石油の備蓄と産出地の獲得が死活問
題となった。
そのためこれらの国々は海外に資源の確保と維持を求めた。特に日本の場合に開戦時期を決め
る大きな要因となった。
[海軍軍縮の破棄]
イギリスとドイツによる建艦競争は第一次世界大戦の一因ともなったが、第一次世界大戦後も各国
は大規模な建造計画を推進した。
しかしながら建艦競争は各国にとって経済的に大きな負担であり、海軍の軍縮は列強にとって避
けることのできない問題であった。
アメリカ・イギリス・日本を中心とする主力艦(戦艦・空母)に関するワシントン会議に始まり、補助艦
艇に関するロンドン会議を経、
各国は「海軍休日」ともいわれる日々を送った。
しかし、特にロンドン軍縮条約の結果に大きな不満を持った日本海軍では統帥権干犯問題が発
生し、
最終的には第 2 次ロンドン会議には参加することなく条約期間の終了に伴う廃棄通告で海軍休
日は終わりを告げた。
無条約時代となった 1937 年より再び建艦競争が始まった。
アメリカは「第 2 次ヴィンソン案」により海軍力 25 パーセント増強、「第 3 次ヴィンソン案」により同
11 パーセント、
さらに「スターク案(両洋艦隊法)」により同 70 パーセント増強という大規模な建艦計画を矢継ぎ早
に打ち出した。
日米海軍力比は急速に悪化して昭和 16 年度の対米 80 パーセント超から昭和 19 年度中に同 25
パーセントの劣勢に陥ると予測された。
軍縮条約破棄によりかえって日米の軍事バランスは悪化し、アメリカの建艦計画に追随しきれない
日本海軍は深刻な危機感を抱いた。
日本海軍内では、戦力バランスが完全に不利になる前に対米開戦すべきという議論が持ち上がり、
太平洋戦争の開戦時期を決定する上で大きな要因の一つとなった。
50
[ヨーロッパ各国の情勢]
ドイツ
1932 年に行われた選挙でアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は第 1
党の地位を獲得し、
そして 1933 年 1 月ヒトラー内閣が成立、2 月のドイツ国会議事堂放火事件で共産党勢力の駆逐
に成功すると、
翌 3 月には全権委任法を制定、ヴァイマル憲法を停止させた。
ヒンデンブルク大統領亡き後、ヒトラーは国家元首(総統)となり完全に権力を掌握した(ナチ党の
権力掌握)。
ヒトラーはナチスによる画一的な全体主義国家の建設を推進し(強制的同一化)、軍事国家を構
築していった。
経済的には秘密裏に押し進めた軍備増強と、国内の失業者を救済するための公共事業で需要を
喚起することにより、経済回復に成功している。
しかしこの経済回復もヒトラーにとっては軍再建のためのものにすぎなかった。
ヒトラーは『我が闘争』にあるようにヨーロッパにおける地続きの領土がドイツ民族を養うために必要
だと主張しており(東方生存圏)、
1937 年 11 月 5 日の総統官邸秘密会議でもその意見を強調している(ホスバッハ覚書)。
1933 年には世界軍縮会議と国際連盟を脱退している。1935 年にはヴェルサイユ条約の軍事条
項を破棄して徴兵制を施行し(ドイツ再軍備宣言)、
1936 年にはヴェルサイユ条約で軍隊の駐留が禁止されていたラインラント地方に軍隊を駐留させ
た(ラインラント進駐)。
同年、国際連盟を脱退したイタリアとの関係を強化した。この関係は『ベルリン-ローマ枢軸』と称さ
れ、後の枢軸国の由来となった。
また同様に国際連盟を脱退していた日本との間にも防共協定を結んだ。その後これらの 3 国の関
係は日独伊三国同盟に発展することになる。
また、ヒトラーは民族自決主義を唱えてに周辺諸国内のドイツ民族居住地域の併合政策を推しす
すめた。
手始めに 1938 年にドイツはオーストリアを軍事的恫喝を背景に無血併合(アンシュルス)した。
次いで、ドイツ民族による政治運動が高まっていたチェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定
めた。
この問題を調整するために開催されたミュンヘン会談でネヴィル・チェンバレン英首相やエドゥ
アール・ダラディエ仏首相は、
ドイツによる要求が最終的なものであることに妥協し、譲歩を行ったが(宥和政策)、ドイツの要求
はそれではとどまらず、
ドイツはズデーテン地方を獲得、チェコを保護国にした(ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解
体)。
1939 年にはヴェルサイユ条約によりポーランドに割譲されたポーランド回廊の回復に手をつける
ためにドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、
反共のナチス・ドイツとは本来相容れないはずであったソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。
51
[イタリア]
第一次世界大戦においてイタリアは宿願であった未回収のイタリアと呼ばれる地域の回復を狙っ
て連合国側に参戦した。
しかしダルマチアのすべてを獲得することは出来なかったため、イタリアはヴェルサイユ条約に調
印せず退席した。
国民からは「名誉無き戦勝」と呼ばれ、詩人のガブリエーレ・ダンヌンツィオがフィウーメを武力で
占領する事件が起こるなど、不満が鬱積していた。
戦後急速に経済が悪化し、右派、左派を問わず様々な政治勢力が主導権を握るべく対立し政情
不安に陥っていた。
その後ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党がローマ進軍により権力を得て、反対勢力を排斥
していくのに長くはかからなかった。
また、元首であるヴィットーリオ・エマヌエーレ 3 世は、ムッソリーニの政権奪取よりムッソリーニと
ファシスト党に対し友好的な態度を取り続けていただけでなく、
積極的にその統治に協力していた。
当初イタリアとドイツの関係はオーストリア問題をめぐって、ムッソリーニの友人であるドルフース将
軍がナチスによって暗殺されたことや、
ムッソリーニ本人がヒトラーの人間性を軽蔑していた事などにより良好な関係ではなかった。
しかし 1935 年にストレーザ戦線が成立して2ヶ月で崩壊するなど、
イギリスの宥和政策とフランスの対独強行政策による足並みの乱れがイタリアの英仏に対する不
信感を生み、
イタリア領ソマリランドに隣接するエチオピア帝国への侵攻によって第二次エチオピア戦争が開始
されたことによりイタリアが国際連盟を脱退したことが、
同様に脱退したドイツと接近するきっかけとなった。
1936 年 10 月に二国間でいくばくかの合意が行われた。この時ムッソリーニは「ベルリン・ローマ枢
軸」の成立を唱えたが、実質的な条約は結ばれていなかった。
しかしその後も日独伊防共協定、1939 年 5 月 22 日の鋼鉄協約(en:Pact of Steel)の締結などで
両国の関係は強化されていった。
その一方イタリアは戦争に積極的ではなく、第二次世界大戦勃発は、ムッソリーニにとっては誤算
だった。
そのためイギリスと根気強く交渉を続けていたが、1939 年 9 月 1 日のヒトラーのポーランド侵攻が
きっかけとなり米英との交渉は決裂、
ムッソリーニは更に枢軸関係強化へと傾倒していく。
[ローマ教皇庁(後のバチカン市国)]
1861 年のイタリア王国成立以来教皇領を失ったローマ教皇庁は、世俗国家からの宗教国家への
脱皮を打ち出してきた。
第 1 次世界大戦後の『ヴェルサイユ体制』に関しては「平和のようなもの」(ピウス 11 世)と批判的
であった。
ムッソリーニ政権が誕生するとラテラノ条約を結び長年の対立を解消、バチカン市国となった。
主権国家となった教皇庁は各国との外交を活発に行う一方、社会主義政権を非難する一方でドイ
ツ中央党を通じてドイツのナチス党に接近した。
そしてドイツ国内のカトリックの保護とカトリック信徒のナチスの忠誠を認めるライヒスコンコルダート
が締結されることになる。
その後ナチスがユダヤ人などに対する人種差別政策を行うとそれを非難した。
52
日本の皇太子裕仁親王がバチカンを訪れた際にはそれを歓迎し、日本との国交樹立を模索した
が、
日本国内での「キリスト教アレルギー」の世論のなかで立ち消えとなった。
なお、日本は 1942 年に昭和天皇の判断でバチカンと国交を結ぶことになる(『昭和天皇独白録』)。
[オーストリア]
1930 年代に首相の地位にあったキリスト教社会党のエンゲルベルト・ドルフースは隣国ドイツの影
響で急速に浸透してきたナチスを強く軽蔑していた。
彼はオーストリアこそが真のドイツの中心であると考えていた。このため、国内では極右組織の護
国団と手を組んで社会民主党やナチス勢力と対峙させ、
対外的にはイタリアのムッソリーニと同盟を結んでナチス・ドイツの南下を防止しようとした。
1934 年、彼は 1934 年の内乱を起こして社会民主党を禁止してオーストロ・ファシズムと呼ばれる
神聖ローマ帝国を範とした独自の独裁体制を樹立した。
社会民主党の状況を目の当たりにしたオーストリア・ナチスは危機感を抱き、
1935 年にクーデターを起こしてドルフースの暗殺には成功したが、政権奪取そのものには失敗し
た。
後継者のクルト・シュシュニックは、ドルフースの路線を継承したが、
今度はヒトラーが直接シューシュニクに圧力をかけてナチスからの閣僚入閣と護国団の排除を行
わせた。
1938 年にシューシュニクが国家の独立存続の是非を問う国民投票を行う決定をすると、
ヒトラーは極秘にムッソリーニの了解を得ると軍隊をオーストリアに侵攻させ、
首都ウィーンを占領してシューシュニクを逮捕した。
ヒトラーは直ちにウィーンに乗り込んでドイツ軍を背景に組閣したオーストリア・ナチスの領袖ザイス
=インクヴァルト新首相と併合条約を結んだ(アンシュルス)。
[チェコスロバキア]
第一次世界大戦中に出現した新国家であるチェコスロバキアは、ボヘミア、モラビア、スロバキア、
カルパティア・ルテニアの各地域を統治していた。
しかし領土のうちズデーテン地方にはドイツ人が多数居住し、ドイツとの間に紛争をかかえていた。
また、ポーランドとはテッシェン、ハンガリーとはスロバキア、カルパティア・ルテニアの領有権を巡
る争いがあった。
このためチェコスロバキアは周辺諸国から孤立していた。
チェコスロバキアはユーゴスラビア王国、ルーマニア王国と小協商を結成、さらにフランスと連携し
て対抗しようとした。
ドイツにナチス政権が誕生するとズデーテン問題は顕在化しミュンヘン会談が開かれる。
これによりズデーテン地方をドイツに割譲することと、その他の係争地の割譲協議が定められた。
チェコスロバキア国内の民族運動は激しくなり、ドイツによるボヘミア・モラビア併合、スロバキアの
独立、ハンガリー・ポーランドへの領土編入を招くことになった。
[スペイン]
1936 年に勃発したスペイン内戦では、ファシズムのドイツとイタリアがフランシスコ・フランコ・バハ
モンデ率いる反乱側に、
航空機や戦車などをはじめとする最新兵器を貸与するなど積極的に物資的支援を行い、
また反ファシズムであるマヌエル・アサーニャ大統領率いる共和派の人民戦線をソビエト連邦が支
53
援したことで、
同内戦は第二次世界大戦で使用されることになる兵器の実験場の様相を呈した。共和政府には
世界中から義勇兵が参加したが、最終的にはフランコ率いる反乱軍が勝利した。
[フランス]
フランスは第一次世界大戦の戦勝国であったものの、西部戦線の主戦場となったため国土は荒
廃し甚大な損害を出した。
そのためその総てをドイツに賠償金として負わせようとした。また中東欧においてはチェコスロバキ
ア、ユーゴスラビア、ルーマニアと小協商を成立させ、
ドイツやハンガリーを牽制しようとした。さらには普仏戦争によって失われたアルザス・ロレーヌにと
どまらず、
1923 年にはルール地方にもベルギーとともに進駐した。
1936 年にはレオン・ブルム人民戦線内閣が成立した。ブルムは大規模な公共事業を行う一方、
軍事産業にも多くの予算を投入して国防を充実させつつ不況からの脱出を図った他、労働運動
の急進化を牽制しつつ、
週 40 時間労働制、2 週間の有給休暇制といった労働政策の充実を進めた。しかし、これらの政策
は不況脱出につながらなかった上、
その後は政治的混迷期が続き、隣国スペインで行われた内戦など、再度戦争の足音がヨーロッパ
を覆って来たにも拘らず本格的な戦争への準備はなされないままであった。
[イギリス]
第一次世界大戦の戦勝国であるものの莫大な戦費の負担や植民地の独立、もしくは独立運動の
激化などで痛手を負ったイギリスは、
その反動で国民は平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦
にドイツが対抗することを期待して、
ナチスが政権を握り、軍備拡張政策を取るドイツに対しては宥和政策を取ることに終始していた。
また、イギリスは海軍力が制限されることを前提として 1935 年 3 月のドイツ再軍備を黙認し、
同年 5 月には英独海軍協定(en:Anglo-German Naval Agreement)を結んだことで、事実上再軍
備とヴェルサイユ体制の崩壊を容認した。
その後、ミュンヘン会談においてのナチス・ドイツの要求を最終的なものとしてヨーロッパの平和を
維持したとおもわれたが、
ナチス・ドイツによるポーランドへの要求を目の当たりにし、宥和政策による平和維持は崩壊した。
イギリスとフランスはポーランドとの相互援助条約を締結しナチス・ドイツ拡張の阻止を表明した。
[ソ連]
ウラジーミル・レーニンの死後、独裁的な権力を握ったヨシフ・スターリンは、政敵レフ・トロツキー
の国外追放を皮切りに、
反対派を次々と粛清し徹底的に排除することで独裁体制を確かなものにし社会主義路線を確立
した。
大粛清時には処刑や強制収容所での過酷な労働などによって、一説には 1200 万人以上の人が
粛清された。
そのために内政は混乱し、ミハイル・トゥハチェフスキーら有力な赤軍指導者の多くが粛清され軍
備が疲弊していたこともあり、
54
他国との軍事衝突に対しては消極的であった。
そのような状況下でスターリンは、軍事強国であるドイツとの対立を回避しながらポーランドやバル
ト 3 国、
フィンランドなどを手に入れるために、「天敵」とまで言われたドイツのヒトラーと 1939 年 8 月 23 日
に独ソ不可侵条約を結び世界を驚かせた。
[ポーランド]
第一次世界大戦の結果として再び国土を回復したポーランドは、ユゼフ・ピウスツキの指導の元新
たな国家建設を進めていた。
ドイツとソ連という二大大国の間につくられた緩衝地帯の一つとして重要な場所に存在したが、
バルト海への土地を確保するためにドイツを分割してしまう立場となった。
また、国内にも多くのドイツ人をかかえることとなった。このことはドイツにとって領土獲得への口実
を生み出させた。
1939 年にナチス・ドイツから領土問題を含めるさまざまな圧力が加えられ、同年 8 月 25 日にイギリ
ス・フランスに対して相互援助条約を締結した。
後年判明するのであるが、1939 年にドイツとソ連の間で締結された独ソ不可侵条約の付属秘密議
定書での取り決めによって、ポーランドの分割が合意されていた。
[ハンガリー]
第一次世界大戦でハプスブルク帝国が崩壊し、ハンガリーはオーストリアから分離してマジャル人
が主体の王国を成立させた。
トリアノン条約により新たなハンガリー国家の領土はハンガリー王国の歴史的地域より縮小し、
マジャル人が住民の多数を占める地域がルーマニア王国(トランシルヴァニア地方)やセルボ・ク
ロアート・スロヴェーヌ王国
(その後のユーゴスラビア王国、ヴォイヴォディナ地方)に割譲された事は、ハンガリー国民にヴェ
ルサイユ体制への不満を抱かせた。
1920 年から摂政として国王不在のハンガリー王国を統治したホルティ・ミクローシュは旧領の奪回
を目論み、
ヴェルサイユ体制の打破で利害が一致するドイツに接近した。
[スイス]
1920 年 5 月の国民投票の結果、スイスは、国際連盟に加入していたが、集団安全保障の理念に
基づく国際平和の維持を試みた国際連盟の試みは、
1933 年のドイツと日本による脱退で破綻した。さらに 1934 年のソ連の加盟は、スイスに国際連盟
への不信感を植え付けた。
1918 年以降、スイスと共産党率いるソ連の関係は険悪だったからである。
また、1935 年のイタリアによるエチオピア侵略は、スイスにとって悩みの種を増やした。
国際連盟はイタリアへの経済制裁を決定したが、スイスは自分の首を絞めかねない経済制裁に参
加を拒否し続けた。
1937 年のイタリアの国際連盟脱退は、スイスの立場が決定的に苦しいものとなった。
国際連盟にとどまり続けることは中立の立場が失われることになりかねない。
1939 年 5 月、国際連盟に対して、「絶対中立」への回帰を承認させた。
このような情勢の中、第二次世界大戦を迎えることとなる。
55
[アジア各国の情勢]
[日本]
第一次大戦(日独戦争)の勝利により、日本は山東半島の旧ドイツ権益を獲得したが、それを話し
合ったパリ講和会議では、
中国大陸の門戸開放政策を主張する米国と対立(また日本は欧米に対し、人種差別撤廃要求を
したことで米英と対立)した。
また、シベリア出兵における日本の積極的な軍事行動へ不信感を持った列強諸国との中国大陸
における利権の対立などから、
日英同盟を望まない米国の思惑、人種差別撤廃要求を破棄された日本の欧米への不信感、日
英双方国内での日英同盟更新反対論などを背景に、
ワシントン会議が開催され、日英同盟が解消。ここから日本は列強国と徐々に離れて行き、孤立し
はじめていく。
日本国内では第一次世界大戦の戦勝国として民主化(大正デモクラシー)と英米との協調外交と
を指向していたが、
第一次世界大戦が終結しまもなくヨーロッパ経済が平穏を取り戻すと、戦勝国であり同じく国土に
直接的な被害を受けなかったアメリカと同様に、
戦争特需による好景気を謳歌していた日本の経済はまもなく不況に陥り、さらに世界恐慌がそれ
に拍車をかける事となった。
工業の後進性から欧米とは対等な市場競争が難しい日本は、自由貿易だけでは利益を確保でき
なかった。また、昭和恐慌下で地方・農村部の疲弊が進んだ。
しかし、「憲政の常道」の原則の下で政党間の対立に明け暮れ、政治腐敗のはびこる国内の政党
政治はこれら内外の諸問題へ十分な対処を行うことができず、
国民の信用を失いつつあった。さらにロンドン海軍軍縮会議に端を発した統帥権干犯問題の再
燃、
また 1932 年には海軍将校らが犬養毅首相を射殺した五・一五事件や、
1936 年に皇道派の青年将校が斎藤実内大臣と高橋蔵相を射殺した二・二六事件が起こり、政党
内閣は終焉にいたった。
1931 年に関東軍の独断による柳条湖事件を契機に満州事変が勃発し、1932 年に傀儡国家満州
国を成立させる。
日本の大陸の利権拡大を良しとしない列強国との対立から、ついに 1933 年には国際連盟を脱退。
1937 年には盧溝橋事件をきっかけとして日中戦争(支那事変・日華事変)が勃発。第二次上海事
変以降華中にも飛び火し日本政府の予想とは別に発展していった。
「支那事変」は、この後事変と呼べないほどに戦闘は激化し軍部の予想さえも外れて短期間での
収拾が見込めなくなった。
結果、近衛文麿内閣は 1940 年に東京で国際博覧会と同時に開催される予定だった、
東京オリンピックの開催権を 1938 年 7 月 15 日の閣議決定により返上するなど、軍部の要求から
国民総動員で臨戦体制を固めてゆく。
1939 年 9 月のドイツのポーランド侵攻後、1940 年中頃には同盟国のドイツ軍がフランス全土を占
領したことに伴い、
日本軍はフランス領インドシナへ進駐したものの、この進駐にアメリカやイギリス、さらに本国をフラ
ンスと同じくドイツに占領されたオランダなどが反発し、
これらの国々と日本の関係は日に日に険悪さを増していった。
1941 年 4 月、ドイツの対ソ侵攻計画を予見してこれに対抗するため日本に急接近していたソビエ
56
ト連邦に対し、日本政府は日ソ中立条約を締結する。
[満州国]
満州において日本は 1906 年に国策会社である南満州鉄道を設立し、これ以降日本は中国大陸
の北部(満州)における権益を急速に固めることになる。
その後、1931 年に勃発した満州事変などのそれまでの軍事行動の結果として、中国大陸北部を
中心とする土地をさらに占領し、
1932 年には元首として清朝の愛新覚羅溥儀を執政とした満州国を建国していた。
上記のような日本の行動に抗議する中華民国は国際連盟に提訴し、
国際連盟はイギリスの第 2 代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長にするリットン調査
団を派遣する。
当時、蒋介石率いる中華民国は度重なる内戦により治安が悪く、緩衝材としての満州国の必要性
があることからリットンは日本の満州における特殊権益は認めたが、
満州事変は正当防衛には当たらず、形だけでも満州を中華民国に返すように報告書に記した。
その後 1933 年 2 月に行われた国際連盟特別総会においてリットン報告書(対日勧告案)が採決
され、賛成 42、反対 1(日本)、棄権 1(シャム)の賛成多数で可決された。
可決の直後、松岡洋右日本全権は「このような勧告は受けいれることができず、もはや日本政府
は国際連盟と協力する努力の限界に達した」と表明し、その場を退席した。
松岡は帰国後国民の盛大な歓迎を受けた。その後日本は国際連盟を離脱し、
1936 年には日独防共協定をドイツとの間に結ぶなどイギリスやアメリカなどと対決する姿勢を鮮明
にしてゆく。
[中華民国]
1937 年に始まった日中戦争における日本軍との戦いに苦戦していた中国国民党の蒋介石率い
る中華民国は、
日本軍に対抗するために、内戦状態にあった中国共産党とともに抗日民族統一戦線である国共
合作(第二次国共合作)を 1937 年に構築する。
また、蒋介石とそのスポークスマン的存在であった妻の宋美齢は、日本の中国大陸における軍事
行動に対して懸念を示していたアメリカと急速に接近した。
その後中華民国軍において空軍の教官およびアドバイザーを務めていたアメリカ陸軍航空隊のク
レア・リー・シェンノート大尉は、
日本の航空戦力に対抗するための「アメリカ合衆国義勇軍」を設立する際、
蒋介石と親しく親中的な考えを持っていたフランクリン・ルーズベルト大統領がこれを公認、支援し
た。
[南京国民政府]
日中戦争の勃発に伴い、日本との徹底抗戦を主張する中華民国の蒋介石に対して、
日本の近衛文麿首相は「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とした近衛声明を出し、自ら和平の道を閉
ざした。
その為に日本は蒋介石に代わる新たな交渉相手を求め、日本との平和交渉の道を探っていた汪
兆銘を擁立することとした。
そして、汪兆銘は日本の力を背景として、北京の中華民国臨時政府や南京の中華民国維新政府
57
などを集結し、
蒋介石とは別個の「国民政府」である「南京国民政府」を 1940 年に設立し、日本との協力体制を
築いた。
[タイ]
これまで欧米列強の圧力に屈すことなく独立を堅持していたタイ王国は、フランス保護領のラオス
王国の主権やカンボジア王国のバッタンバン、
シエムリアプ両州の返還を以前からフランスに求めていたが、
1940 年 6 月にプレーク・ピブーンソンクラーム首相は日本とフランスとの間に相互不可侵条約を締
結し、中立政策を取った。
しかし、まもなくドイツがフランスを占領し親独政権であるヴィシー政権が成立すると、
ヴィシー政権と同じく親独政策を取る日本軍がヴィシー政権下のラオスとカンボジアに進駐すれ
ば、
フランスに対する領土返還要求を実現することが不可能になると見て、9 月にはラオスとカンボジ
アに対する攻撃を加え始めた。
1941 年 1 月にはシャム湾でもタイ海軍とフランス海軍の軽巡洋艦が交戦する事件が発生し、これ
を見た日本は 5 月に泰仏両国の間に立って居中調停を行い、
フランスにラオスのメコン右岸、チャンパサク地方、カンボジアのバッタンバン、シエムリアプ両州を
タイに割譲させた。
その後、日本軍が 12 月 8 日未明の対連合諸国参戦の 1 時間前にイギリス領マラヤのコタバルに
上陸し、マレー半島を北上してタイ南部へ進出した。
このような状況下でもタイ王国は中立を堅持していたが、12 月 21 日に日本との間に日泰攻守同
盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となった。
[イギリス領インド]
イギリス領インドのスバス・チャンドラ・ボースやラス・ビハリ・ボースなど独立運動家の幾人かが、
宗主国と対立する日本やドイツなどと結託する姿勢を取るなどして宗主国の政府に揺さぶりをかけ
続けた。
[アメリカ領フィリピン]
1898 年からアメリカの植民地となっていたフィリピンは、独立へ向けた運動が活発化しており、
これを受けてアメリカ議会は 1934 年にタイディングス・マクダフィー法で 10 年後のフィリピン独立を
承認し、
翌 1935 年にアメリカ自治領政府(独立準備政府、フィリピン・コモンウェルス)を発足させ、大統領
としてマニュエル・ケソンを就任させた。
しかしながら完全独立に向けた具体的な方針は一向に固まらず、多くの独立運動家からは不満
の声が上がっていた。
[その他のアジア諸国(植民地)]
第二次世界大戦前において、日本とタイ王国、中国大陸の中華民国の支配区域を除く全てのア
ジア諸地域は、
日本とイギリス、フランス、オランダ、ポルトガルなどのヨーロッパ諸国、およびアメリカの植民地支
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配下に置かれており、その動向は全て宗主国の政府に握られていた。
このような状況下に置かれていたため、日本や欧米諸国の植民地下に置かれていたこれらの
国々の国民や地元政府の意思は、
第二次世界大戦への参戦に対しては直接的には大きな影響力を持つものとはならなかったが、
欧米諸国の植民地においては、
数世紀の長きに及ぶ植民地支配に対する反感に基づき、オランダ領インドネシアや、上記のイギ
リス領インド、
アメリカ領フィリピンなどでは当時から独立の声が高まっており、いくつかの国では独立運動指導
者による組織的な独立運動も起こっていた。
[その他の各国の情勢]
アメリカ合衆国
第一次世界大戦の戦勝国の一国であるアメリカは、ヨーロッパが戦場となっている間に世界の工
場として活動し、国土が戦火による破壊を受けなかったことにより、
1920 年代にはすでにイギリスに代わって世界最大の工業国としての地位を確立した。
戦後の好景気を背景として、国内には国家財政の安定に対する絶対的な信頼と楽観主義が広
がった。
しかし 1929 年、アメリカ経済は生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化によ
る雇用抑制と複合して、
ニューヨーク証券取引所における株価が大暴落、ヨーロッパに飛び火して世界恐慌へと発展し、
資本主義諸国を中心とした世界各国に経済的・政治的混乱を広げるきっかけとなった。
また、このような状況下で、職を失い社会に対する不満が蓄積した白人によるアフリカ系や日系ア
メリカ人などの有色人種に対する人種差別は、
州政府に半ば黙認された形で活動を行っていたクー・クラックス・クランの台頭や、排日移民法の
施行などの人種差別的な政府方針に後押しされますます増加した。
また排日移民法は、この法律に狙い撃ちされた日本をひどく刺激することになった。
こうした中、恐慌による経済的混乱を打開することができなかったハーバート・フーヴァーに代わり、
修正資本主義に基いたニューディール政策を掲げて当選した民主党のフランクリン・D・ルーズ
ヴェルト大統領は、公約通りテネシー川流域開発公社を設立。
フーヴァー・ダム建設などの公共投資増大による内需拡大政策や農業調整法、全国産業復興法
を制定し、
さらに諸外国における戦争に参戦をしないことを公約の一つとして掲げ、三選をはたした。
[中央アメリカ諸国]
1930 年代の中央アメリカ諸国の政治動向としては、往々にしてファシズムがもてはやされ、
グアテマラのホルヘ・ウビコ政権などムッソリーニに影響を受けた小物独裁者の独裁政権が多数
出現した。
しかし、こうした政権は 1939 年に戦争が始まると主要取引先だったイギリスとアメリカの顔を立てる
ためにファシズム色を薄め、
1941 年 12 月に日本が真珠湾攻撃を起こすと、アメリカに先立って枢軸国に宣戦布告をするような
政権が殆どだった。
59
[南アメリカ諸国]
南アメリカ大陸においては、いまだヨーロッパ諸国や日本、アメリカなどの強国の植民地が、
その多くを占めるアジアやアフリカ大陸と異なり当時そのほとんどが独立国となっていたが、
旧宗主国であり国民の多くを占める移民の出身元でもあるヨーロッパ諸国と経済的、政治的つな
がりの強い国が多かった。
その中でもコロンビアやブラジル、チリなどでは航空産業や鉄鋼などの基幹分野において、ドイツ
系企業やドイツ系移民が経営する企業が中心的な地位を占めていた。
しかし、1930 年代に入りナチス党率いるドイツによる脅威がヨーロッパで高まる中、地理的に近い
ことなどから南アメリカを「自国の裏庭」と考えるアメリカは、
それらのドイツ系企業に対する乗っ取りや政府による接収を行なわせることによって、それらのドイ
ツ系企業からドイツ人を追放させ、
基幹分野においてのアメリカの影響力を維持した。
[アフリカ諸国]
アフリカ諸国も、日本とタイ王国を除くアジア諸国と同様、全てイギリス、イタリア、フランス、スペイ
ン、ベルギーなどのヨーロッパ諸国の植民地であり、
戦前からいくつかの国で地元国民による組織的な独立運動が行なわれていたアジア諸国の植民
地とは対照的に、
イタリアの植民地であったエチオピアなどいくつかの国を除き、ほとんどの国で戦前には組織的な
独立運動が起こらなかったこともあり、
国民や地元政府の意思は第二次世界大戦への参戦に対してはなんら影響力を持つものとはなら
なかった。
[オーストラリア]
日露戦争後の日本の興隆を目の当たりにしたイギリス連邦の自治領であるオーストラリアでは、
日本を有望な市場と見る一方、軍事的な脅威であると言われるようになった。そのため日英同盟を
歓迎しつつ、独自の海軍の建設を進めてきた。
大恐慌以後はイギリスのブロック経済に組みこまれることになった、オーストラリアは最後の仮想敵
国、日本に対して組織的な諜報活動を行う一方宥和政策を推し進めた。
さらに第一次世界大戦でドイツが敗北し、ドイツ領南洋諸島の宗主権が戦勝国の日本に移される
際には、
サモアやニューギニア東北部などの赤道以南の諸島は例外とされオーストラリアやニュージーラン
ドの支配下に入った。
オーストラリアはイギリスの軍事力に依存しつつ、赤道を生命線に安全保障政策を構築していった。
また仮想敵国の一つドイツがなくなったためオーストラリアの安全保障は対日本政策が中心となる
ようになった。
[第二次世界大戦の原因]
第二次世界大戦の原因のひとつとして反戦主義と行き過ぎた宥和政策があげられる。
イギリスやフランスは第一次世界大戦の損害を教訓に、戦争を回避することに尽力した。
結果的にミュンヘン会談にてチェコスロバキアの国家主権は踏みにじられ、ドイツの拡大を増長し
た。
会談からイギリスに帰国したチェンバレンは戦争を回避した英雄としてメディアに報道された。
チャーチルは著書『第二次世界大戦回顧録』のなかで、「第二次世界大戦は防ぐことができた。
60
宥和策ではなく、早い段階でヒトラーを叩き潰していれば、その後のホロコーストもなかっただろ
う。」と述べている。
一方でイギリスやフランスは世界恐慌の影響で戦争を行うだけの経済力がなかったのも事実であ
る。
またの宥和政策はドイツに対抗して軍備を増強するための時間稼ぎであったとする見方もある。
当時、まだ電撃戦に必要な戦力を持ち得ていなかったナチス・ドイツに対してチェコスロバキア併
合を許したことは、
企業・人口をという国力を増強する一大資源を与えたということにおいて連合国にとっては大きな
失敗であったことは間違いがない。
戦争が勃発しドイツがポーランドに注力している間も、イギリスやフランスは長らく防衛を行うばかり
でドイツに侵攻しなかった(ファニーウォー)。
この背景も根強い反戦主義にあり、戦線の拡大を招いたと批判される。
他方反共主義を挙げることもできる。当時のヨーロッパにはソ連に続き共産主義革命が伝播する
のを恐れる反共主義が根強く、
共産主義が拡大するよりはファシズムが拡大する方がましである、ファシズムと共産主義が共倒れ
になれば良い、という論調が幅をきかせていた。
またドイツのヒトラーの奇跡と呼ばれる世界恐慌からの驚異的な立ち直りを目の当たりにし、
ナチスやヒトラーに肯定的感情を抱いていた政治家は国家を問わず決して少なくなかった。
チャーチルが他の政治家にナチスの危険性を問いたときも、
厭戦感が蔓延しており財政危機に瀕していたイギリスにおいて彼らは全くチャーチルに共感しな
かったという。
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[第二次世界大戦の参戦国]
第二次世界大戦の参戦国(Participants in World War II)では、第二次世界大戦に参戦した連合
国と枢軸国、および主要な中立国を列挙する。
1945 年には当時世界に存在した国家の多くが連合国として参戦した。
イタリア王国、ルーマニア、フィンランドなどは敗北が明白になったり、
国土を連合国軍に占領されたりしたために、連合国側に立場を変えた(枢軸国から離脱した国
家)。
トルコやアルゼンチンは、大戦中の大半にわたって中立を維持したが、末期には参戦した (1945
年の新規参戦国)。
またスペインなど、中立であっても何らかの形で戦争協力を行った国や、戦争被害を受けた国も
存在する。
[連合国]
1939 年
ポーランド侵攻
・ポーランドポーランド第二共和国(9 月 1 日)(1939 年 10 月 6 日に全土が占領され、以降はポー
ランド亡命政府が抗戦継続)
・イギリス連邦(9 月 3 日)
・イギリス
・オーストラリア
・ニュージーランド
・フランス共和国(9 月 3 日)(1940 年 6 月 22 日、ヴィシー政権がドイツ・イタリアと休戦して離脱)
・ネパール(9 月 4 日)
・英領ニューファンドランド(9 月 4 日)
・南アフリカ連邦(9 月 6 日)
・カナダ(9 月 10 日)
・チェコスロバキア亡命政府(10 月 2 日)
1940 年
北欧侵攻
・デンマーク(4 月 9 日のみ)(1940 年 4 月 9 日~1945 年ドイツの占領下)
・ノルウェー(4 月 9 日)(1940 年~1945 年、本土はドイツの占領下となり、ノルウェー亡命政府が
抗戦継続)
フランス・ベネルクス侵攻
・ルクセンブルク(5 月 10 日)(1940 年 5 月 10 日に本土が占領され、以降はルクセンブルク亡命
政府が抗戦継続)
・オランダ(5 月 10 日)(1940 年 5 月 15 日に本土が占領され、以降はオランダ亡命政府が抗戦継
続)
・オランダ植民地
・オランダ領東インド
・ベルギー(5 月 10 日)(1940 年 5 月 28 日に本土が占領され、国王が降伏。以降はベルギー亡
命政府が抗戦継続)
・ベルギー領コンゴ
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・自由フランス(1940 年 6 月より。1944 年にフランス共和国臨時政府に発展)
ギリシャ・イタリア戦争
・ギリシャ(10 月 28 日)(1940 年 4 月 23 日に軍がイタリア王国に降伏。以降はギリシャ亡命政府等
(ギリシャ内戦)が抗戦継続)
1941 年
ユーゴスラビア侵攻
・ユーゴスラビア王国(4 月 6 日)(1941 年 4 月 17 日に全土占領。以降ユーゴスラビア王国亡命政
府等が抗戦継続)
ソビエト連邦侵攻
・ソビエト連邦(6 月 22 日)
・ウクライナ・ソビエト社会主義共和国(国際連合原加盟国)
・白ロシア・ソビエト社会主義共和国(国際連合原加盟国)
日本軍の攻撃開始
・パナマ(12 月 7 日)
・アメリカ合衆国(12 月 8 日)
・コスタリカ(12 月 8 日)
・ドミニカ共和国(12 月 8 日)
・エルサルバドル(12 月 8 日)
・ハイチ(12 月 8 日)
・ホンジュラス(12 月 8 日)
・ニカラグア(12 月 8 日)
・中華民国(12 月 9 日)
・フィリピン・コモンウェルス(12 月 9 日)
・グアテマラ(12 月 9 日)
・キューバ(12 月 9 日)
1942 年
・メキシコ(5 月 22 日)
・ブラジル(8 月 22 日)
・エチオピア帝国(12 月 14 日)
1943 年
イラク(1 月 17 日)(1941 年 3 月 31 日~5 月 30 日はイギリス・イラク戦争でイギリスと戦闘)
ボリビア(4 月 7 日)
コロンビア(7 月 26 日)
イラン(9 月 9 日)(1941 年からイギリス軍・ソ連軍の軍事介入を受ける。イラン進駐 (1941 年))
ユーゴスラビア民主連邦(12 月 4 日)(テヘラン会談によって承認されたパルチザン政権)
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1944 年
・リベリア(1 月 27 日)
・ペルー(2 月 12 日)
・アルバニア臨時政府(10 月 26 日)
1945 年
・エクアドル(2 月 2 日)
・パラグアイ(2 月 7 日)
・ウルグアイ(2 月 15 日)
・ベネズエラ(2 月 15 日)
・トルコ(2 月 23 日)
・エジプト(2 月 27 日)
・シリア(2 月 27 日)(フランス植民地。1942 年以降自由フランス統治。1944 年に独立宣言。)
・レバノン(3 月 1 日)
・サウジアラビア(3 月 1 日)
・アルゼンチン(3 月 27 日)
・チリ(4 月 11 日)
[枢軸国から離脱した国家]
以下の国々はかつて枢軸国の一員であったが、戦局の悪化により連合国側と休戦し、その後枢
軸国側と交戦した。
ただし連合国共同宣言には署名していない共同参戦国という扱いであった。
戦後、これらの国は敗戦国として講和条約パリ条約を締結した。
・イタリア王国
・ルーマニア王国
・大ブルガリア公国
・フィンランド
・ハンガリー臨時政府
[枢軸国]
・ナチス・ドイツ
・イタリア王国 - 1943 年に降伏
・大日本帝国
・ハンガリー王国
・ルーマニア王国
・大ブルガリア公国
・フィンランド
・タイ - 1945 年に宣戦布告と日泰攻守同盟条約を無効とし、戦後枢軸国扱いを受けなかった。
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[枢軸国の傀儡政権とみなされ、講和せず消滅した国家]
・イタリア社会共和国 - 枢軸側としてイタリア北部に建国。1945 年に消滅
・スロバキア共和国
・クロアチア独立国
・フランス国
・満州国
・蒙古聯合自治政府
・中華民国南京国民政府
・ビルマ国
・ベトナム帝国
・ギリシャ国
・フィリピン第二共和国
・ノルウェー国
[主な中立国]
・アイルランド - 両陣営から参戦を要請されたが、拒否している。ただし、数万人の義勇兵がイギリ
ス軍に参戦した。
1941 年にベルファストやダブリンがドイツ空軍によって空襲を受けている。(ベルファスト空襲、ダ
ブリン空襲)
・アフガニスタン王国
・アンドラ
・イエメン王国
・サンマリノ - 1944 年 6 月 26 日に連合国の誤爆を受けた。9 月 17 日にドイツ軍が占領、同日から
20 日にかけてサンマリノの戦いが発生、
これに勝利した連合国によって約 2 ヶ月間占領された。
・スイス - 領空はしばしば両陣営の航空機による侵犯が行われ、戦闘が発生している。
1944 年 4 月 1 日に行われたルートヴィヒスハーフェン・アム・ラインへの空爆では、約 40 名の死者
を出している
(第二次世界大戦におけるスイスへの空襲)(第二次世界大戦下のスイス)。
戦後、ナチスの隠し資産が銀行に多数保管されていたことが判明し中立違反であると非難され、
1952 年に旧連合国側に対して賠償金を支払っている。
・スウェーデン - 冬戦争に義勇軍を派兵したものの、大戦では中立を維持した。
・スペイン - フランス降伏後に中立を放棄し、中立義務を負わない非交戦(en:Non-belligerent)を
宣言し、
大戦中期まで情報提供(ミンスミート作戦)や義勇軍派兵(青師団)などで枢軸国に協力する準枢
軸国的存在であった。
しかし枢軸国の勢力が低調となると中立に回帰した。1945 年 4 月 12 日に日本との国交を断絶す
るも宣戦布告はせず、
満州国と中華民国南京国民政府との国交はそのまま維持された(第二次世界大戦下のスペイン)。
・チベット - 連合国から援蒋ルートとして使うための領土の通過を打診されたが、拒否している。
・ポルトガル - 英葡永久同盟に基づき、アゾレス諸島の利用権を連合国に提供している。
しかし、海外領土の東ティモールは日本軍および連合国によって占領されている。
・バチカン - ローマ空襲 (第二次世界大戦)の際に一部建物に被害を受けている。
65
・モナコ - 1942 年 11 月にイタリア王国によって占領され、1943 年のイタリア降伏後はドイツによっ
て占領されている。
連合国によるフランス解放後の 1944 年 9 月以降、大公子レーニエ(のちの大公レーニエ 3 世)が
フランス軍に従軍し、アルザス地方などで戦闘に参加している。
・リヒテンシュタイン - ナチズム勢力が増大していたが、総選挙を無期限延期してナチズム化を防
いだ。
[その他]
1941 年 6 月 25 日にトゥヴァ人民共和国、8 月 9 日にモンゴル人民共和国がドイツに対して宣戦布
告しているが、
両国はソ連と相互の両国以外に承認されておらず、連合国共同宣言に署名できなかった。トゥ
ヴァ人民共和国は戦時中にソ連に併合されている。
大韓民国臨時政府 - 1941 年 12 月 9 日に日本およびドイツに対して宣戦布告しているが、国家と
しての承認はどの国も行っていない。
戦後、臨時政府の法統を継ぐとしている大韓民国政府は、連合国の一員であるという扱いを求め
たが、
連合国共同宣言に署名していないとしてアメリカ政府に承認を拒絶されている(1951 年 7 月 19 日
付エモンズによる会談覚書)。
アイスランド共和国はアメリカによる占領中の 1944 年 6 月にデンマークから独立している。大戦中
を通じてアイスランドの港湾や基地は連合国によって利用された。
フランス植民地の各政府は対応がかなり異なるが、徐々にヴィシー政権から自由フランス側へと
移っていった。
中部アフリカの植民地は早い段階で自由フランス側についたが、
フランス領インドシナ政府は仏印進駐によって日本軍の占領下にあったため、1945 年冒頭まで親
枢軸国であった。
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[第二次世界大戦の影響]
第二次世界大戦の影響の項目では、第二次世界大戦の結果により各国・地域に起きた大きな変
化を記述する。
ヨーロッパ
マーシャルプランへの不参加をソビエト連邦が表明して、更に参加を希望していたチェコスロバキ
アなどの東欧諸国に圧力をかけて不参加を強要させた。
9 月には東欧や仏伊の共産党によりコミンフォルムを結成し、西側に対抗する姿勢をとった。これ
によりヨーロッパの分裂が決定的になった。
ヤルタ体制の中で東欧諸国は否応なく、ウィンストン・チャーチルが名づけたところの「鉄のカーテ
ン」の向こう側である共産主義体制に組み込まれることとなり、
ドイツという共通の敵を失ったソビエトとアメリカ合衆国は、その同盟国を巻き込む形でその後
1980 年代の終わりまで半世紀近く冷戦という対立抗争を繰り広げた。
また、フランスやイギリス、ソビエトなどの主要連合国はアメリカに倣い核兵器の開発・製造を急ぐこ
ととなり、
後に成立した中華人民共和国やインド、パキスタンなどがこれに続いた。
ヨーロッパ全域
二度の世界大戦の原因の一つとして挙げられるのが、
ザールラント(ドイツ領、戦間期は、自由市)及びアルザス・ロレーヌで産出される石炭及び鉄鉱石
をめぐっての争いであった。
そのため、石炭、鉄鉱石を共同管理することによって、戦争を回避する目的で、1951 年に、欧州
石炭鉄鋼共同体(ECSC)が結成された。
1958 年にベネルクス(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)、イタリア、西ドイツ、フランスが欧州経
済共同体(EEC)、欧州原子力共同体(EURATOM)が結成され、
1967 年に拡大、発展する形で、EEC、ECSC、EURATOM と欧州共同体(EC)に統合した。
EC は、1973 年に、デンマーク、イギリス、アイルランド、1981 年に、ギリシャ、1986 年には、スペイ
ンとポルトガルが加盟し、12 か国体制へ発展した。
EC は、1993 年 11 月 1 日のマーストリヒト条約欧州連合(EU)に発展した。
2007 年 1 月 1 日には、旧東欧圏であるルーマニアとブルガリアが加盟し、27 か国体制へと発展を
遂げた。
ドイツ
ドイツ軍(ドイツ国防軍、武装親衛隊などを含む)の無条件降伏を受け、連合国はドイツに中央政
府が存在しないと宣言し(ベルリン宣言 (1945 年))、
米英仏ソ 4 国による占領統治が行われた(連合軍軍政期 (ドイツ) )。また旧首都ベルリンについ
ても 4 か国の分割統治下となった。
しかし占領政策を巡って米英仏の西側連合国とソ連の対立が激化し、1949 年には西側連合国の
占領地域にドイツ連邦共和国(西ドイツ)、
ソ連占領地域にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立、ドイツは東西に分断されることとなった。この
分断状態は 1990 年まで続くこととなり(ドイツ再統一)、
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ドイツの戦争状態が正式に終了したのは同年にドイツ最終規定条約が締結された時であった。
領土の喪失
第一次世界大戦後も領有していた東プロイセンやシュレジエン、ドイツが回復した旧ドイツ帝国の
領土であるダンツィヒやポーランド回廊など、
オーデル・ナイセ線以東の広大な旧ドイツ東部領土を喪失した。
また大戦直前に獲得したクライペダ(メーメル)もソ連構成国リトアニア・ソビエト社会主義共和国に
返還された。
ミュンヘン協定は無効となり、ドイツ人居住地域のズデーテン地方はチェコスロバキアに返還され
た。
大戦中から戦後にかけて東・中欧の喪失地域からドイツ人は追放され、大量のドイツ避難民がドイ
ツ国内に移動する中で多くの死者が出た(ドイツ人追放)。
この他、大戦中にドイツが併合した地域は、フランス(アルザス・ロレーヌ)・デンマーク(北シュレ
スーウィヒ)・ベルギー・ルクセンブルクの諸国にそれぞれ返還された。
西部のザールラントは自由州として分離され、フランスの管理下に置かれたが、その後、1957 年
に住民投票で西ドイツに復帰した。
ナチス政権が併合したオーストリアはドイツの被占領地域から分離され、1955 年のオーストリア国
家条約でドイツとの合併は永久に禁止された。
戦犯裁判と非ナチ化
世界を戦争の渦に巻き込んだアドルフ・ヒトラーは敗戦直前に自殺。残虐行為を実行した親衛隊
の長官ハインリヒ・ヒムラー、
ナチス政権下の宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスも同じく自殺し、残されたヘルマン・ゲーリングなどナ
チス首脳部の一部は、
連合軍による国際軍事裁判(ニュルンベルク裁判)によって裁かれ、
ゲーリング、リッベントロップ外相、ヴィルヘルム・カイテル元帥ら 12 名に絞首刑の判決が下された。
また各占領地でも独自に裁判が行われ、特にニュルンベルク継続裁判等が著名である。
占領地ではナチスの影響を排除する非ナチ化の政策が推し進められ、
政軍の関係者以外でもマルティン・ハイデッガーやレニ・リーフェンシュタールといったナチ協力者
も非ナチ化裁判の対象となり、活動を禁止された者も数多くいた。
高官の国外逃亡と責任逃避
終戦直前にアドルフ・アイヒマンなどの多くのドイツ政府高官が、
自らの身を守るためにドイツ国内外のナチス支持者やバチカンの助けを受けスペインやアルゼン
チン、チリなどの友好国に逃亡し、そのまま姿を消した。
その一部はその後イスラエル諜報特務局や、「ナチ・ハンター」として知られるサイモン・ヴィーゼン
タールなどの手で居場所を突き止められ、
逮捕された後にイスラエル政府などによって裁判にかけられたものの、残る多くは現在に至るまで
逃げおおせ、姿を消したままである。
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賠償
賠償金は課せられなかったが、変わって現物と捕虜の労務による賠償が課せられた。
特にソ連は戦争により被った膨大な被害に対する賠償として、自国占領地域で工業施設・インフ
ラなどの解体・移送を行ない、捕虜の強制労働も極めて大規模に行った。
このことが東ドイツの発展を阻害し東西ドイツの経済格差を生み出す要因となった。
また、ダイムラー・ベンツやクルップ、メッサーシュミットなど、ドイツの戦争遂行に加担し、強制労働
に駆り出されたユダヤ人を利用した企業は、
膨大な賠償金の支払いを課せられることになった。中でも特にナチス政府と密接な関係にあった
IG・ファルベンインドゥストリーは解体された。
オーストリア
1938 年にドイツによって併合(合邦)されたドイツとは分断され、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の
4 か国によりオーストリア全土が分割占領された。
これとは別に、首都のウィーンもドイツのベルリンと同じく上記の 4 か国により分割占領された。
ただし、ドイツとは異なり、ナチス政権下のドイツによる併合により消滅していた中央政府が復活し、
第二共和制が発足して、文民統治を維持した。
その後、冷戦の激化にもかかわらずオーストリア政府は国家統一の維持に成功し、1955 年のオー
ストリア国家条約により主権を回復した。
ドイツへの併合に協力しナチス政府の高官となった元首相アルトゥル・ザイス=インクヴァルトは、
連合軍による戦争裁判・ニュルンベルク裁判で裁かれ死刑になった。
冷戦終結後、国家分断の危険から遠ざかるにつれて、ナチスの併合を結果的に歓迎し、
多くのオーストリア人がそのままドイツ軍の一員として戦争行為に加担したことに対する戦争責任
について問い直す動きが見られた。
ギリシャ
1942 年から内戦状態になり(ギリシャ内戦)、終戦後はイギリスとソ連の秘密協定によって西側の
勢力下に置かれようとしていた。
その後はアメリカ合衆国の支援の下、軍事独裁政権が成立、国王が亡命、1974 年にキプロスで
のクーデターが失敗し、
その余波で軍事政権が崩壊、国民投票によって君主制が廃止、共和制に移行した。冷戦期には
北大西洋条約機構に加盟した。
イタリア
領土の喪失
第一次世界大戦で獲得した「未回収のイタリア」のうち、トリエステは国連管理下の自由地域となっ
た(トリエステ自由地域)。
その後、1954 年に半分以上を占める南部地域がユーゴスラビア(現在はスロベニアとクロアチア-この時にリエカ(フィウメ)を獲得--)、
トリエステを含む北西部がイタリアの管理下に置かれ、1975 年に正式に割譲された。
エーゲ海東部のドデカネス諸島をギリシアに割譲した。
参戦前の 1939 年に宣言したアルバニア併合は無効とされ、アルバニア社会主義人民共和国の
独立が完全に回復された。
戦争中にイギリス軍に占領されたトリポリ、キレナイカ、ソマリランド等のアフリカ植民地を放棄し、こ
れらの地域はイギリスの委任統治領になった。
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共和制移行
コミンテルンの活動と、ファシズム独裁への揺り返しから共産主義的な雰囲気が支配していた
1946 年に行われた共和制移行を問う国民選挙によって、
その政権奪取よりファシスト党とそれを率いるムッソリーニに対し友好的な態度を取り続けていたウ
ンベルト 2 世は廃位され、国外追放となり、
サヴォイア家のイタリア王国は終焉を迎え共和制に移行した。
なお、新たに制定された憲法で、元国王であるウンベルト 2 世およびその直系男子のイタリア再入
国を禁止する条項が制定された。
この条項が破棄され、「元王族」となったサヴォイア家のメンバーがイタリアに再び入国できるように
なるまでには 50 年以上の年月がかかった。
フィンランド
1939 年に発生したソビエト連邦からの侵略(冬戦争)においてカレリア地方などを喪失したフィンラ
ンドは、1941 年 6 月からふたたびソ連と戦った(継続戦争)。
フィンランドはドイツとは同盟関係にない「共同参戦国」と主張していたが、国内にドイツ軍を駐屯
させるなど共闘関係が存在していた。
しかしドイツ軍が敗勢となると、フィンランドは講和に傾くようになり、1944 年 9 月 19 日にモスクワ休
戦協定を締結してソ連と休戦、1947 年のパリ条約で講和した。
冬戦争によって喪失したカレリア地方の割譲が確定した。
ソ連に対して三億ドル相当の賠償金を支払う(フィンランドの第二次世界大戦の賠償)。
1948 年にはフィンランド・ソ連友好相互援助条約を締結し、事実上の同盟関係を形成する。ただ
し政治体制は民主主義体制であり、これはフィンランド化と称される。
ヘルシンキ郊外ポルッカラがソ連に租借されることとなった。
リスト・リュティ元大統領ら親独路線の責任者が国内で裁判にかけられた(フィンランドの戦犯裁
判)が、有罪となった被告も早い段階で釈放されている。
イギリス
イギリスは第二次世界大戦を通じて約 11 億ポンドの海外資産をすべて失い、戦争が始まったとき
7 億 6 千万ポンドであった対外債務は、
終戦時には 33 億ポンドに膨れ上がったこともあり、イギリス経済は疲弊した。
追い討ちをかけるかのように、日本の敗戦から 2 日後の 8 月 17 日、アメリカ合衆国はレンドリース
法を停止して対英援助を打ち切った。
窮地に陥ったイギリス政府は戦後復興のため、1945 年 12 月に英米金融協定に調印したが、これ
により大英帝国内部の特恵関税制度が否定され、
経済面から大英帝国の崩壊が始まった。イギリス経済の疲弊により植民地を維持することが困難
になり、また各地の独立運動も相まって、大英帝国は崩壊した。
ミャンマーなどを除く元植民地の多くは、その後もイギリス連邦の一員としてイギリスとの絆を保って
いる。
日本の敗戦によりシンガポール、マレー半島や香港などの日本の占領下に置かれた植民地がイ
ギリスの手に戻り、前記の 2 地域は 1960 年代に至るまで、
香港は 1997 年に至るまでイギリスの植民地であった。
インドは戦後もイギリスによる統治がしばらく続いたものの、独立運動の激化により 1947 年 8 月 15
日に独立した。
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敗戦国のイタリアがトリポリ、キレナイカ(共に現在のリビア)、ソマリランド(現在のソマリア)等のアフ
リカの植民地を放棄し、
これらの地域はその後しばらくの間イギリスの委任統治領になった。
フランス
自由フランスを母体の一つとするフランス共和国臨時政府は憲法制定作業を行い、1946 年から
第四共和政がスタートする。
ヴィシー政権は崩壊し、首班のフィリップ・ペタン元帥は逮捕され死刑判決を受けたが、その後ド・
ゴールにより終身刑に減刑された。
また、多くの対独協力者が投獄されたり死刑となった。
モロッコやアルジェリアなどのアフリカの植民地を回復したが、戦後のフランスの国力低下に伴い、
そのほとんどが独立することになる。
本土がドイツに占領された後より、事実上日本の影響下にあったフランス領インドシナのベトナム
では、
日本の降伏直後に独立運動指導者のホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の独立を宣言したが、
植民地支配復活を狙うフランスとの間に第一次インドシナ戦争が起こり、ベトナム戦争の遠因とな
る。
ソビエト
ヨーロッパ地域
ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。
旧東プロシアのケーニスベルクとその周辺は、カリーニングラードと改称し併合した。
開戦前に併合したエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国への支配、ルーマニアから獲得し
たベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を復活させた。
上記の新領土内の非ロシア人の住民を追放して、ロシア人などを入植させる国内移住政策が進
められた。
進駐したソ連軍の軍事的な恫喝により、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ルーマニア、ブル
ガリア、ハンガリーなどに親ソ共産政権を樹立し、
衛星国とし影響下においた(東側諸国)。
バルト三国
ロシア革命後に独立を果たしたエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国は独ソ不可侵条約に
基づき、ソ連軍が一方的に進駐し、
その圧力の下で、1940 年にソビエト連邦に強制的に併合された。
その後はドイツ軍の占領下に入るなどしたものの、大戦終了後に再びソビエト連邦に併合され、追
放・処刑された三国の住民の代わりに、
多くのロシア人が流入し居住することになる。
エストニア、ラトビアの国境も変更され、ソ連の一共和国になった。
再度の独立は冷戦後の 1991 年まで待たねばならず、ロシア系住民の処遇問題、エストニア、ラト
ビアはロシアと国境問題を抱えることになった。
71
極東地域
日本領の南樺太(サハリン南部)を占領し、さらに日本降伏後の 1945 年 8 月 18 日から千島列島
へ侵攻し、色丹島・歯舞群島を 9 月 5 日までに占領した。
1946 年 2 月 2 日に、これら南樺太および千島列島の領有を宣言する。
なお、これに対して日本は公的には認めておらず、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の北方領
土については日本の領有を主張し、
南樺太と得撫島(ウルップ島)以北については帰属未確定としている。
日本が旧満洲に持っていた各種権益のうち、関東州の旅順・大連の両港租借権や旧東清鉄道
(南満州鉄道の一部)の管理権の継承を中華民国に認めさせた。
これは中華人民共和国の成立後、1955 年まで続いた。
ポーランド
1939 年にソ連に占領された東部地域は回復されず、そのままソ連領に編入された。その代償とし
て、ポーランド回廊をドイツから回復した上、
オドラ川(オーデル川)およびニセ川(ナイセ川)以東の旧ドイツ領やダンツィヒ自由市(現在のグダ
ニスク)を併合し、
ポーランド領土は大きく西方へ移動した(回復領)。失った東部領は新たに得た西部領の 2 倍に
及び、
東部領から追われたポーランド人が旧ドイツ領から追放されたドイツ人のかわりに西部領に住み
着く人口の大移動が起こった。
その後、この新たなドイツ=ポーランド国境(オーデル・ナイセ線)の承認が、戦後に成立した西ド
イツ政府の大きな政治課題となった。
また、国連の総会のポーランドの代表権問題が生じ、当時はソ連が支持するルブリン政権とアメリ
カ・イギリスが支持する亡命政権の二重権力状態にあった。
その後に亡命政権の閣僚の三分の一を入れ、連合政権を作る事で妥協が図られた。
その後、ソ連の強い軍事的な影響力の元に共産主義系の勢力が政府の実権を握り、亡命政権系
の政治家は逮捕されたり亡命に追いやられた。
チェコスロバキア
ドイツにより解体状態だった国家が再建され、ズデーテン地方も回復した。なお、この際に起こっ
たドイツ人住民の集団追放はその後の西ドイツとの関係に影を落とした。
ドイツの保護国だったスロバキアはチェコと一体となった共和国に復帰した。ハンガリーに奪われ
た南部の領土は回復したが、
カルパティア・ルテニアはソビエト領(現在のウクライナ)として併合された。
当初、共産党系と非共産党系の閣僚を含む政府が成立したが、ソ連軍の圧力の下、非共産党系
の政治家は次々と暗殺、処刑あるいは辞任に追い込まれて、
1948 年に事実上の共産党の単独政権が成立し、その後、ソ連型社会主義をモデルにした国家政
策が急速に進められた。
ハンガリー
パリ条約によりウィーン裁定によるブラチスラヴァを含むスロバキア南部やルテニア、第二次ウィー
ン裁定による北トランシルヴァニア、
ユーゴスラビア占領によるヴォイヴォディナ等の獲得は敗戦により無効とされ、サン=ジェルマン
条約による領域へと復活した。
72
大戦中の臨時政府からハンガリー第二共和国が成立したものの、
占領軍であるソ連軍の後押しにより 1947 年にはハンガリー社会主義労働者党の一党独裁による
ハンガリー人民共和国が成立し、ソ連の衛星国となった。
ルーマニア
パリ条約により大戦中にドイツやイタリアの圧力で割譲した北トランシルヴァニアは回復したものの、
ベッサラビア・北ブコビナ(ソ連)、南ドブロジャ(ブルガリア)は回復できなかった。1947 年に王政
は倒され、共産政権ルーマニア人民共和国が成立した。
ユーゴスラビア
戦争中にハンガリーへ割譲した北部地域を回復した。
第一次世界大戦後にイタリアに併合されていたリエカ(フィウメ)やイストリア半島を占領し、後に併
合した。
連合国側に参加していたユーゴスラビア王国亡命政府は復帰できなかった。
ポルトガル
中立国ではあったが、オーストラリア軍、次いで日本に占領されていた植民地の東ティモールは
撤退により回復された。
1943 年から連合軍に使用許可を出していたアゾレス諸島のラジェス航空基地は引き続き連合国
軍、ひいては NATO 軍の重要拠点として利用される。
またマーシャルプランの対象国となるなど連合国の支援を受け、戦後しばらくの間好調な経済を
維持する。
また、大戦中を通じその地位が保全されたマカオとインドのゴアも、引き続き植民地として統治して
いくこととなった。
スペイン
中立国ではあったが、親枢軸姿勢が災いし、欧州経済共同体への参加も認められなかった。
フランシスコ・フランコ体制は各国から白眼視され、ほとんど孤立に近い状態となった。
1946 年 12 月の国際連合総会決議で関連国に断交が勧告され、アメリカやフランスは大使を召還
した。
第二次世界大戦中に併合したタンジェはふたたび国際管理都市に戻った。
アルバニア
1939 年にイタリア(ムッソリーニ政権)が強行した併合が取り消され、独立を回復した。
ユーゴスラビアと同様、パルティザン闘争によって自国領土の大半を解放したアルバニア共産党
(1948 年からアルバニア労働党)によるアルバニア人民共和国が成立し、
王制が廃止されてエンヴェル・ホッジャが指導する社会主義政権が成立した。
その後、ユーゴスラビアとの関係が悪化して 1948 年に国交を断絶し、ソ連との関係を深めた。
また、ギリシャ内戦で敗れた共産主義ゲリラのギリシャ民主軍 (EDS) に出撃拠点を提供し、その敗
退後はメンバーの亡命を受け入れた。
ルクセンブルク
1867 年以来の非武装中立政策を正式に放棄し、西側諸国の一国として安全保障体制に参加す
ることになる。
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スイス
大戦中は、中立を維持していたスイスだが、スイスの中立にも負の側面があったことを否定するこ
とができない。
1 点目は、ホロコーストから逃れたユダヤ人の亡命問題と財産の返還の問題である。2 点目は、ド
イツによる略奪金塊問題である。
大戦中に 30 万人に近い亡命者を受け入れた。スイスの人口に比較すればかなりの人数の亡命
者を受け入れた形であるが、
他方で、「救命ボートは満員だ」として、ユダヤ人の入国を認めなかった。その人数は亡命が認め
られた数が 21,858 人であったのに対して 24,000 人が断られた。
大戦中にドイツは、中立国を中心に各国と金塊の取引を行ったが、その約 8 割はスイスとの取引
であった。
問題は、金塊の出所であり、すでに 1941 年の段階で、占領下においたベルギーからの略奪品で
あろうという情報が広まっていたにもかかわらず、
スイスは 1943 年までドイツの金を受け取り、スイスフランと交換していた。
事実上、スイス中央銀行は略奪金塊の「洗浄装置」の役割を果たしていた。
この他にも、スイス領の町をドイツ領の町と間違えられたためにスイスの一般市民がアメリカの爆撃
機により誤爆されたことが挙げられる。
この誤爆では、死者 40 人、負傷者多数を出したという。
バチカン
大戦中はバチカンは中立を維持していた。しかし大戦勃発直前に教皇に登位したピウス 12 世は
ドイツのホロコーストを黙認したと非難されることがある。
イスラエルはピウス 12 世はユダヤ人を保護したとして評価しているが、
「教皇がナチス政権下のドイツを非難していればホロコーストの犠牲者は少なくなったはず」との声
も根強い。
さらにピウス 12 世は死後ヨハネ・パウロ 2 世によって列福されたことが、さらに波紋を呼んでいる。
また、大戦終結時に多くのナチス党員がドイツから逃亡するのに対して、バチカンが有形無形の
援助を行ったとの証言がある。
スウェーデン
スウェーデンは、ドイツのチェコスロバキア併合を目の当たりにした頃から危機意識を強め、ス
ウェーデン社会民主労働党政権の元で大規模な軍備の増強を行っていた。
すでにスウェーデンは、ナチスの台頭によって開戦は避けられぬものと考えていた。
1939 年にナチスは、スウェーデンとデンマーク、ノルウェーに対し不可侵条約を申し入れたがス
ウェーデンとノルウェーは拒否する。
1940 年、ドイツが不可侵条約を破棄し北欧に宣戦布告(北欧侵攻)するとスウェーデンは他国へ
の援助を一切拒否し、武装中立を貫いた。
しかし戦後、スウェーデンの中立は利己的なものとして非難されている。開戦期には、枢軸国寄り、
後期は連合国寄りである。
もっとも単なる中立ではなく、両者に対する和平交渉仲介も行った。
武装中立政策を取っていたものの、第一次世界大戦時と同様義勇軍を組織していた。
なお、戦火に見舞われた近隣のデンマークやノルウェー、フィンランドのレジスタンスを匿うと同時
にユダヤ人を保護したことはその後大きな賞賛を受けた。
武装中立化においてスウェーデンは、50 万人の国民軍を形成することに注力した。これによって
74
ナチスの侵攻を食い止めることを意図した。
しかしスウェーデン政府は、上記の通り、ドイツに対する義勇軍を黙認し、デンマーク、ノルウェー、
フィンランドに対するレジスタンスの保護及び支援を行い、
ドイツの敗勢以後は連合国との連係を強め、最終的には連合軍の勝利に貢献した。
ただしこの中立は、初期にはドイツに譲歩し、後期は連合国の要求に応じるなど中立性に欠ける
ものとして、戦後、国内外から非難された。
大戦期にスウェーデン政府は外交交渉を頻繁に行った。対戦初期、ドイツの侵攻に対し、ナチス
党の上層部と面識のある元探検家スヴェン・ヘディンをドイツへ派遣し、
直接ヒトラーからスウェーデン侵攻の意図が無いことを確認させることに成功した。
大戦末期には大日本帝国と連合国に対するスウェーデン外務省仲介による和平交渉も行ってい
る。
また、スウェーデン王家の一族であるスウェーデン赤十字社副総裁フォルケ・ベルナドッテを通じ
て、ヒムラーと和平交渉も行っている。
さらにフィンランド救済のためにソ連との和平交渉仲介も行われたが、結果的にスウェーデンの和
平交渉はすべて失敗に終わった。
1944 年にはラウル・ワレンバーグによるユダヤ人救出も行われた。
スウェーデンの軍備拡大は必ずしも対ドイツを対象としたものではなく、中立を宣言した様にドイツ
に対し敵愾心を持っていた訳ではなかった。
戦争開始時点では、ソ連のフィンランドに対する圧力に重点がかかっており外交にもそれが優先
されていた。
ソ芬戦争においては、ドイツの支援の元、フィンランドとの軍事同盟が構想されていた。
しかしソ連の抗議によって破談する。ドイツが北欧侵攻を開始したことでスウェーデンは中立を余
儀なくされたのである。
しかし大戦後は、伝統的な武装中立に回帰し、対ソ連への外交戦争が開始されるのである(ノル
ディックバランス)。
スウェーデンの外交戦略はすでにドイツではなく、戦後の東西冷戦に向けられていたのである。
デンマーク
ドイツによる侵攻を経験したデンマークは戦後、中立政策から、集団安全保障に安全保障の方針
を切り替えることになった。
その時にはスウェーデンの外相ウンデーンの提唱したスカンジナビア軍事同盟に共鳴したが、ス
ウェーデンが設立の意思がないことが分かると、北大西洋条約機構に加盟した。
しかし、これはデンマークの安全保障を補完するものであり、対米追随を意味するものではなかっ
た。
デンマークの安全保障はいわゆるノルディックバランスと呼ばれるものである。
ドイツ占領中アメリカの保護下にあったグリーンランドは返還された。またアイスランドは独立した。
ノルウェー
ドイツの侵攻を受けたノルウェーは従来安全保障を英国に依存していたが、第 2 次世界大戦後は
アメリカに依存するようになった。
北大西洋条約機構にも加盟し、西側諸国の一員になった。しかし、ソ連を刺激しないように国内に
米軍基地をおかず、さらに非核政策をとるなど他の北欧諸国同様、
ノルディックバランスと呼ばれる中立政策を志向した。
ドイツによる占領中、ヒトラーが「ノルウェー人は純粋なアーリア人種である」と唱えたため、「レーベ
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ンスボルン政策」がとられ、
多くのノルウェー人女性とドイツ軍人との間の混血児が生まれた。ノルウェー政府はそれに対し隔
離政策など迫害政策をとった。
後にノルウェー政府はこの政策を「過ちである」と謝罪賠償した。
トルコ
1946 年 8 月にソ連が黒海から地中海を通る要衝であるボスフォラス海峡とダーダネルス海峡の管
理をトルコに要求したために、一時的にソ連との対立が激化した。
しかしその後にはソ連が要求を取り下げたので米ソ対立は緩和していった。
東アジア
中華民国では、国内の対立を抗日という同一目標により抑えていた中国国民党と中国共産党の
両勢力が、再び内戦状態(国共内戦)となり、
アメリカが政府内の共産主義シンパの策動を受け中国国民党への支援を縮小したこともあり、ソビ
エトの支援を受けた中国共産党勢力が最終的に勝利した。
その後中国共産党は 1949 年に北京を首都とした中華人民共和国を建国し、中国国民党は台湾
島に逃れることとなる。
一方朝鮮半島では、領土分割され支配権を放棄し撤退した日本に替わり、38 度線を境に南をア
メリカやイギリスをはじめとする連合国が、北をソ連が統治することになり、
その後それぞれ「大韓民国」と「朝鮮民主主義人民共和国」として独立を果たす。
しかし、ソ連のスターリンから承認を受けた金日成率いる北朝鮮軍が 1950 年に突如、大韓民国に
侵略を開始。ここに朝鮮戦争が勃発することになる。
なお、開戦後 50 年以上経った現在も南北朝鮮の間の戦争は公式には終結しておらず、大韓民
国側に立つ国連軍と北朝鮮との間での一時的な休戦状態が続いている。
日本
敗戦後直ちにイギリス、アメリカ、フランス、ソ連などを中心とした連合国諸国による占領が開始さ
れ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が東京に置かれた。
当初は連合国諸国による日本の分割統治計画があったが、ソ連と中華民国は省かれ、日本本土
は実質的にはアメリカを中心にアメリカとイギリスの 2 国による占領が行われた。
GHQ による間接統治のもと、新憲法制定、農地改革、財閥解体などの大規模な改革が行われた。
サンフランシスコ講和条約の発効により、日本はソビエト連邦、中華人民共和国など共産諸国を
除く連合国との講和が完了し主権を回復した。
しかし同時に締結された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(日米安保条約)により、
米軍の駐留はその後も継続することとなった(在日米軍)。
領土の喪失
日清戦争以後に獲得した海外領土を全て失うこととなり、関東州租借地を中華民国(中国、以下
同)に返還した。
台湾・澎湖諸島における実効支配を喪失し、中国による統治が開始された。
韓国併合以降の朝鮮半島の実効支配を喪失し、アメリカ・ソ連軍両軍による分割占領状態になっ
た。これが 1948 年以降の南北分断、そして 1950 年の朝鮮戦争につながっていく。
委任統治後に併合を宣言していた南洋諸島の実効支配を喪失し、アメリカによる信託統治に移行
した。
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沖縄戦によりアメリカ軍に占領されていた沖縄本島をはじめとする沖縄諸島(大東島・沖大東島を
含む)や先島諸島(尖閣諸島を含む)
そして奄美群島は、日本の潜在的主権を維持したままアメリカ軍政下に入った。1972 年までに全
ての地域が日本に復帰した。
しかし沖縄返還後も、沖縄県をはじめとする日本各地にアメリカ軍基地が残り犯罪や騒音など多く
の問題を起こしている。
小笠原諸島・火山列島・南鳥島・沖ノ鳥島もアメリカの施政権下に入った。
これらの地域では一部の欧米系住民以外の民間人居住を認めなかったが、1968 年に日本に復
帰した。
南樺太・千島列島の実効支配を喪失し、ソ連による統治が開始された。ただし、日本政府は法的
にはこの地域の帰属を未確定と主張している。
また、日本政府は千島列島南部の国後島・択捉島について、日露和親条約により平和的手段で
領有が確定していた固有の領土と主張し、
北海道の属島である歯舞群島・色丹島とともに支配を続けるソ連に対して返還を強く求めることに
なった(北方領土問題)。
戦犯問題
1946 年には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、
戦争犯罪人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A 級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B 級)、
虐殺など人道に対する罪(C 級)としてそれぞれ処断された。
また日本国内だけでなく日本以外のアジア各地でも裁判が行われ多くが処刑された。
勝者が敗者を裁くという構図のもと、きちんとした証拠も弁護人も不十分なまま、杜撰な手続き、
裁判中の度重なる通訳のミスや恣意的な裁判進行などにより、
処罰・処刑(偽証罪が無かったため私怨による密告だけを元に処刑されたものがほとんどとする意
見もある)が行なわれたと言われ、批判されている。
その一方でこの裁判を全否定することは、戦後日本が築き上げてきた国際的地位や、
多大な犠牲の上に成り立った平和主義を破壊するものとして、東京裁判を肯定(もしくは一部肯
定)する意見もある。
また、もし日本人自身の手で行なわれていたら、もっと多くの人間が訴追されて死刑になっただろ
うとする説もある。
この裁判で処刑された人々が、「昭和殉難者」(国家の犠牲者)として靖国神社に合祀されることと
なり、
後にこの扱い(特に A 級戦犯)を巡って議論を引き起こすことになる(靖国神社問題、A 級戦犯合
祀問題)。
戦時賠償・抑留問題
対戦国や植民地下に置いた諸国との戦時賠償については、日本国との平和条約の締結以後、
国家間での賠償が進められた。
満洲国瓦解時にソ連軍により約 60 万人もの日本軍将兵が捕虜となり、違法にソ連領土内で強制
労働させられその多くが栄養失調や凍死で死亡した(シベリア抑留)。
この他中国残留孤児・残留婦人問題、在日アメリカ軍基地等の問題が現在も残っている。
敗戦時に残存した艦艇の多くは外地からの引き上げに使用されたほか、多くの水上戦闘艦がソ連
や中華民国、アメリカに賠償艦として渡った。
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また作戦用航空機のみでも約 7500 機、陸軍機と併せると 1 万機以上の作戦用航空機が敗戦時
に残存していたが、
これらの航空機は連合国軍により研究用の一部が持ちさられた後に破壊された。
近隣諸国との関係
日本は「アジアの列強植民地の解放」という名目で、当時欧米列強諸国の植民地であったマレー
半島やシンガポール、中国大陸などアジアのほぼ全域に進出、
欧米列強諸国の植民地政府を廃止し占領、軍政下においた。また、占領地のなかのいくつかの
地域については、日本に友好的な指導者を後押して独立させた。
しかし戦争当初の目的として資源確保のためにこれらの地を占領した日本にとって、
それまでの宗主国の持っていたような資源・資産面など対植民地での優位な状態を保つことが出
来ず、
これらの地においては軍政の名において当初の目的以上に搾取することを余儀なくされ、各地に
人的・資源的に過酷な状態を招いた。
日本はこれらの国々に戦後賠償としての意味合いも含め、政府開発援助(ODA)を行うことになる。
なかでも、第二次世界大戦以前から統治・戦争状態が長かった後に戦勝国となる中華民国に代
わり現在中国大陸を統治する中華人民共和国や、
現在中華民国の統治下にある台湾を別として大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国といった当時、
併合した国や保護下においた地域にその後できた三国との間に対しては遺恨を残すことになった。
朝鮮民主主義人民共和国以外では戦時賠償問題が国際法上既に決着している一方で、これら
の国の国内事情も絡んで、
現在でも歴史認識などの問題で日本側が非難されることが多く、中華人民共和国、大韓民国、朝
鮮民主主義人民共和国では激しい反日教育が行われており、
反日教育の内容もねつ造が指摘される。
韓国と北朝鮮は中国と違い、親日派に対しては現在でも制裁をする事がある。
例えば北朝鮮で親日派は終身収容所送りで、韓国では親日派は社会的に抹殺され、
2005 年に歴史問題、竹島問題や小泉首相の靖国参拝などで反日感情が高まった際には、
日本統治時代の親日派の子孫の財産を没収する親日反民族行為者財産の国家帰属に関する
特別法や、
日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法の制定など、反日的政策が実行されている。
日中戦争で戦場となった中華民国は常任理事国になったが、後に中華人民共和国にその権利
が継承された。
常任理事国となった中華人民共和国は、中華民国の国連復帰に拒否権を行使している。2005 年
の中国における反日活動で日中間で摩擦が生じた。
皇室制度
天皇制を維持するか否か(国体問題)は、連合国占領軍の大きな課題であったが、
長年の間多くの国民の支持を受け続けていた天皇制を廃止すると逆に占領統治上の障害が生じ
るとして、
連合国内の一部の反発を退け、北東アジアにおける共産主義の伸張を食い止める目的もあり、
天皇制は維持されることに決定され、昭和天皇の戦争責任も追及されずに終わった。
上記の決定に伴い、昭和天皇は統帥権の放棄を行うなど戦前に儀礼的に就いていた全ての地位
から退き、新たに「国民の象徴」という地位を持つことになった。
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天皇制こそ維持されたものの、アメリカの指導により華族制度が廃止され、また、直系の皇族以外
は皇族としての地位を失う(臣籍降下)ことになった。
1910 年の日韓併合と同時に日本の王公族となった李王家の継承者である李垠は、これに合せて
臣籍降下され事実上李王家は廃絶された。
その後大韓民国が設立された後も李承晩大統領の妨害などもあり王位に戻ることはなかった。
新憲法
連合国軍最高司令官総司令部のマッカーサー総司令官の指示、決裁の元、
アメリカ人がその大勢を占める総司令部の民政局長であるコートニー・ホイットニーらの手によって
新憲法の草案が作成された。
それを基に日本政府案が作られ、帝国議会での審議を経て、1946 年 11 月 3 日に「日本国憲法」
として公布された。
アメリカはこれ以前にも影響下に置いた中南米の国々に、アメリカにとって有利な内容を含む憲法
を半ば強要したことがあり、
日本国憲法の制定もこれに倣ったものだとの見方がある。
また、日本国憲法が軍隊廃止条項をもつことから、冷戦時代は日米間の軍事協力に不都合なも
のとなり、
冷戦後には国連などによる国際協力体制で軍事力の行使を含む平和維持活動を求められた際
に問題となっている。
このため冷戦時代より、この憲法が日本を不当に押さえ込む「押し付け憲法」と考え、
改憲により「自主憲法」に変えようという主張・勢力が成立当初から存在したが、
近年では自由民主党や民主党の保守系議員の一部を中心にその動きが盛んである。
一方、日本社会党などの左翼政党はこれを軍備放棄の政策として歓迎
(日本共産党は 1960 年代まで自主軍備や天皇制反対の立場から憲法改正を主張)、
現在でも社会民主党、日本共産党などは護憲を主張しており、これらの間で「憲法改正論議」が
冷戦時代から現在にかけて議論されている。
満洲国
満洲国は 1945 年(康徳 12 年)8 月 9 日のソ連軍の侵攻後に、事実上の宗主国である日本が連合
国に降伏したため瓦解し、
その後、中国東北部の支配権はソ連の占領を経て中国に返還された。
皇帝である愛新覚羅溥儀は 8 月 17 日に退位し、その後日本へ逃亡する途中に、奉天飛行場に
おいて、愛新覚羅溥傑、恭親王などとともにソ連軍に捕らえられ、
その後 1950 年に中華民国の国民党政府ではなく、ソ連と友好的関係にあった中華人民共和国
の中国共産党政府に引き渡され戦犯として服役した。
中華民国
清代以来日本が租借していた関東州を全て回収し、崩壊した満洲国に代わり満洲全土での主権
を回復した。
ただし、同盟国であるソ連の要請により、旅順・大連両港や旧東清鉄道の租借権が改めて貸与さ
れた。
フランスから広州湾租借地の返還を受けたが、イギリス領や同国租借地を含む香港はイギリス支
配に復帰した。
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なお、マカオは中立国のポルトガル領であったことのみならず、租借地や戦争で奪い取った地で
ないこともあり、ポルトガル領のままとなった。
日清戦争で失った台湾島、澎湖諸島の主権を日本から回復した。
しかし、当時国共内戦を戦っていた中国国民党による過度な大陸への物資輸出と大陸からのイン
フレ波及により、台湾経済は混乱した。
また、中国国民党は日本人に代わる特権階級として振舞い、台湾島住民の排斥と役人の腐敗が
横行した。
中華民国政府による急速な中国化政策の推進は、台湾島住民との間に緊張を高めた。
こうして 1947 年に二・二八事件が発生し、国民党により約 28,000 人もの本省人が殺害・処刑され
た。
上記のように、終戦以降連合国および戦勝国としての正式な地位は、
日中戦争(支那事変)から長い間日本軍に対しての戦いを続けていた中国国民党の蒋介石率い
る中華民国にあった。
しかし戦後 4 年経った 1949 年に、ソビエト連邦の支援の下国共内戦に勝利した中国共産党が北
京に中華人民共和国を樹立し、
敗北した国民党は中国大陸から台湾島に遷都した。
その後冷戦下で東西両陣営による政治的駆け引きが行われた末に中華民国が 1971 年に国際連
合から追放されたことで、
戦後 20 年以上の時を経て、戦勝国と国際連合の常任理事国としての地位を「中華人民共和国」
が引き継いだ。
東南アジア
東南アジア地域では日本軍を排斥した欧米各国が植民地に対する支配の回復をはかったが、
様々な要因により、大戦後に多くの東南アジアの植民地は独立を果たした。
タイ
第二次世界大戦以前より独立国であったタイ王国は、日本軍との一悶着の末、枢軸側として参戦
したが、
その裏では在米タイ公使館のセーニー・プラーモートがピブン政権と絶縁し東南アジア向けの反
日放送を行ったり、
ピブン内閣の実力者プリーディー・パノムヨンらが在日大使館を中心に日本内外に広範なスパイ
網を構築し、
情報提供によって米軍の日本本土空襲を支援するなど、連合軍側への鞍替えに向けた活動も
行っていた。
これはいわゆる「自由タイ」抗日運動として知られている。
自由タイはタイ国内ではピブーンによって半ば公認された活動となっていき、日本の敗戦の色が
濃くなると、
また日本と結んだ条約で内政が悪化するとピブーンは 1943 年首都を日本軍の影響が少なく、
陸軍の部隊のあるペッチャブーンに移転する計画を秘密裏に画策、民族主義的な思想の持ち主
であったルワン・ウィチットは 1943 年 10 月 30 日外相を解任され、
代わりに自由タイのメンバーとして知られていたディレークが外相に任命された。
1945 年 8 月 16 日、プリーディーが摂政の立場で「対英・対米への宣戦布告は無効であった」との
宣言が出された。
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こうしたタイの二重外交は戦後、アメリカの政策と相まって成功しアメリカはタイを敗戦国とすること
を避けた。
一方で、イギリスはほとんど敗戦国として処理したといえる。イギリスは終戦時、速やかに平和条約
を結ぶことは拒否、
さらに米を賠償させた上で翌年の 1946 年 1 月 1 日にようやく平和条約を結ぶことを許した。
また、タイ王国は戦時中に回復したフランス領インドシナの一部、イギリス領マレーおよびビルマの
旧タイ領土を再びフランス、イギリスに取られた形となった。
しかしながら、連合諸国による本格占領とこれに乗じた植民地化を免れ、続いて独立国としての立
場を堅持することになった。
フランス領インドシナ
日本から独立が与えられていたフランス領インドシナ(ベトナム)では、日本の降伏直後に、
ベトナム独立同盟会(ベトミン)がインドシナ共産党の主導下で八月革命を引き起こし、ベトナム帝
国からの権力争奪闘争を各地で展開した。
その後、9 月 2 日に、ホー・チ・ミンがハノイでベトナム民主共和国の建国を宣言した。
ところが、旧植民地の再支配を謀るフランスは独立を認めず、9 月末にはサイゴンの支配権を奪取
したことで、ベトミンと武力衝突した。
その後、ベトミンはフランスとの交渉による解決を試み、1946 年 3 月にはフランス連合内での独立
が認められた。
だが、フランスはベトナムが統一国家として独立することを拒否し、コーチシナ共和国の樹立など
ベトナムの分離工作を行なった。
これにより、越仏双方が抱く意見の相違は解決されず、同年 12 月にハノイで越仏両軍が衝突した
ことで、第一次インドシナ戦争が勃発した。
オランダ領東インド
オランダ領東インド (インドネシア)では、日本の軍政に協力していた独立派が日本の降伏直後に
スカルノを大統領とするインドネシア共和国の独立を宣言し、
再植民地化を目指すオランダとの独立戦争に突入した(インドネシア独立戦争)。
この戦争には、元日本軍将兵、約 2,000 名が義勇兵として独立軍に参加している。
インドネシアの国営英雄墓地では、その戦争により戦死した約 1,000 名の日本軍将兵が埋葬され、
6 人の日本人が独立名誉勲章(ナラリア勲章)を受章した。
ドイツの占領を受けて疲弊していたオランダにとって、この戦争は大きな重荷になり、また植民地
に強硬に固執する姿勢は国際世論の支持を失った。
結果、1949 年 12 月のハーグ円卓会議により、オランダは正式にインドネシア独立を承認した
(ハーグ協定)。
イギリス領マラヤ
イギリスはマレー半島に居住する各民族に平等の権利を与え、シンガポールを除く海峡植民地と
イギリス領マラヤ諸州からなる「マラヤ連合案」を提示した。
華僑とインド系住人はこれに賛成したが、マレー人には不評で、その結果、ダトー・オンを党首と
する形で、統一マレー国民組織(UMNO)が結成された。
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イギリスは、1946 年に発足したマラヤ連合との間で 1947 年にマレー人の特権を認める連邦協定
を結び、1948 年にマラヤ連邦が発足した。
しかし華僑はこれに不満で、同年主として華僑からなるマラヤ共産党の武装蜂起が始まった。
だが、マラヤ共産党の弾圧、その後各民族系政党が集まった(UMNO、マレーシア・インド人会議
(MIC)、マレーシア華人協会(MCA))
アライアンスの結成と独立の準備は着々と進んでいった。1955 年 7 月の総選挙で圧倒的な勝利
を収め(52 議席中 51 議席をアライアンスが占めた)、
1957 年 8 月 31 日にマラヤ連邦はマレーシアとして完全独立を果たした(詳細は、統一マレー国
民組織を参照)。
一方、シンガポールは戦後イギリスの直轄植民地となり、その後は自治国となり完全独立をめざす
こととなった。
サラワクと北ボルネオ(現在のサバ州)も戦後イギリスの直轄植民地となり、段階的に自治の供与
が始まった。
多大な石油資源を持つブルネイは保護領のままで、その独立は 1980 年代まで持ち越されること
になった。
アメリカ領フィリピン[編集]
戦前、独立に向けての準備が進められていたが、日本の占領によって日本の傀儡政権が誕生す
る。
終戦後に再びアメリカの統治下に戻され、その後 1946 年 7 月 4 日にマニュエル・ロハスを初代大
統領にフィリピン共和国として独立を果たした。
しかしアメリカ軍基地が国内に残され、多くのアメリカ資本が居座るなどアメリカの影響は大きい。
南アジア
イギリス領インド
イギリスは戦後もしばらくの間はインドを統治し続けたが、大戦によりイギリスの国力は疲弊し、大
英帝国を維持することが出来なくなった。
また、マハトマ・ガンディーやジャワハルラール・ネルーらインド国民会議派が指導する独立運動
の激化、
並びにヒンズー教徒とイスラム教徒との間の宗教対立にイギリス政府は耐え切れなくなったことも
相まって、
アトリーは 1947 年 2 月 20 日、インドから 1948 年 6 月までに撤退することを決断し、ルイス・マウン
トバッテンを最後のインド総督として派遣した。
マウントバッテンはネルー達に、ヒンズー教徒が多いインドとイスラム教徒が多い東西パキスタンに
分割独立する案を受諾させ、
また藩王国が印パに所属する過程が円滑に進むように、イギリス連邦に加盟することまでも受諾さ
せる事に成功した。
そして、アトリーが当初宣言した予定より 1 年早い 1947 年 8 月 15 日、イギリス領インドは、ヒンズー
教徒が多いインドと、イスラム教徒が多い、
パキスタンに分割独立した(東パキスタンを構成するバングラデシュは 1971 年、パキスタンより独
立した)。
しかしこの様なイギリスの都合に合わせ性急に行われた分割独立が、
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その後のインドとパキスタン両国の間における対立を引き起こし、その後も両国は対立を続けるこ
とになる。
オーストラリア・ニュージーランド
イギリスの植民地である両国は安全保障をシンガポールを拠点とするイギリス軍に依存していたが、
マレー作戦およびシンガポール陥落以後に、オーストラリアが日本軍にダーウィン空爆やシドニー
湾攻撃などの被害に遭ったことを受け、
安全保障のパートナーを宗主国の英国からアメリカに変更。ANZUS が成立する。
中東・北アフリカ
イスラエル
オスマン帝国領をイギリスとフランスで分割したサイクス・ピコ協定によってパレスチナはイギリスの
委任統治領となった。
1929 年に始まった第 5 アリヤ(パレスチナへのユダヤ人の移住)は、雨垂れ式であったが、
ヒトラーが権力の座についたことで、1933 年から 36 年の 4 年間で、164,267 人のユダヤ人が合法
的に移住した。
その結果、パレスチナにおけるユダヤ人人口は、40 万人に達した。そのことが、土着していたアラ
ブ人との対立を招く結果となった。
ホロコーストとアトリー政権の親ユダヤ政策が、パレスチナの混迷をさらに招く形となった。
1945 年 8 月、トルーマンは、アトリーに書簡を送り、ホロコーストで生き残ったユダヤ人 10 万人の
パレスチナ移住許可を求めた。
イギリスは、フランスとは異なり、パレスチナの委任統治を継続したが、パレスチナの治安情勢の悪
化とエクソダス号事件によって、委任統治を放棄することを検討しだした。
1948 年 5 月 16 日、イスラエルは、独立を宣言。同時に、第一次中東戦争が勃発した。
イスラエルは、国連決議で割り当てられた領域より広い領域の確保に成功するとともに、この戦争
がパレスチナ難民問題を生み出す契機となった。
サウジアラビア
イギリスの後援で造られたヒジャーズ王国を滅ぼして、アラビア半島を統一した国家であり、
この国の石油資源は、1933 年に設立された石油会社を介してアメリカの資本の支配下にあった。
ヨルダン
1950 年まではトランスヨルダンという国名であって、1946 年に独立したものの、外交・軍事の実権
はイギリスにあり、
イスラエルと同時期にイギリス・フランスの委任統治領として成立した国家であったが、
1950 年に占領していたヨルダン川西岸を自国領にすると宣言し、その後国名をヨルダンと変えた。
イラク
イラク王国はイギリスの委任統治領から 1932 年に独立したものの、
国内でのイギリス軍の移動の自由が認められイギリスによる石油資源の支配が行われているなど
外交・軍事の実権はイギリスにあった。
これに対しアラブ民族主義者はイギリスからの独立を企てドイツに接近した。
国内は乱れ、1941 年 3 月末にはついにアラブ民族主義者の軍幹部が決起し親英派の国王側近
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が追い出される事態となった(1941 年イラク政変)。
しかしイラクでの利権喪失とイラクの石油が枢軸国の手に落ちることを恐れたイギリスは軍を侵攻さ
せ、
1 か月余りの後に再びイラクを占領した(イギリス・イラク戦争)。以後、第二次大戦後までイラクはイ
ギリス軍の占領下に置かれ、
ヴィシー政権支配下のシリアへの侵攻と、イラク同様にドイツ側に落ちる恐れのあったイランへの
侵攻はイラクから行われた。
第二次大戦後もイラクは英米の同盟国として振舞い、ソ連を封じ込めるバグダッド条約機構の一
員となるものの、
1958 年にアラブ民族主義の青年将校によるクーデターが勃発し共和国が誕生し、王室は滅ぼさ
れた。
イラン
1941 年、ソビエトとイギリスは親独国家であったイラン帝国に侵攻し、北半分をソ連軍、南半分をイ
ギリス軍が占領し、
ソ連に対する軍事物資援助のルートとした。しかし終戦後、ソ連軍がなかなか撤退する気配を見
せなかったので、
イラン政府が 1946 年 1 月にソ連軍の撤退を求めて国際連合安全保障理事会に提訴した。その
後翌年にソ連軍は撤退した。
しかしこの結果、アゼルバイジャンの地方政権が半年後に崩壊してしまう契機となった。
レバノン
第一次世界大戦終了後、サイクス・ピコ協定により、シリアとレバノンはフランスの、ヨルダンとパレ
スチナはイギリスの委任統治領となった。
だが、第二次大戦中、本国フランスがナチス・ドイツに占領されたこともあり、独立の準備が進んで
いたシリアやレバノンは、フランスからの独立を模索することとなる。
ビシャラ・アル・フーリーが中心となり、1943 年にフランスからの独立を達成し、自由経済政策を推
進し、レバノンは経済的な繁栄を誇った。
しかし、1948 年、ユダヤ人の手により、イスラエルが建国されると同時に勃発した第一次中東戦争
により、アラブ側は敗退を余儀なくされ、
10 万人規模のパレスチナ難民がレバノンに流入した。このことが、レバノンの各宗派間のバランス
の上に成り立っていた政治運営を困難にさせた面は否定できない。
また、各宗派間の対立が周辺諸国(シリア、イラン、イスラエル)の介入を招き寄せる結果となり、現
在の混迷の原因もこの大戦に起因している。
エジプト
エジプトもイスラエルと同様にイギリスの委任統治領にあり、1922 年にイギリス側の一方的独立宣
言と 1936 年イギリス・エジプト条約により形式的に独立に近づいていたが、
スエズ運河一帯にはイギリス軍が駐留し、元来エジプト領だったスーダンの統治をめぐってイギリ
スに従属的立場に置かれていた。
しかし、1956 年ガマール・アブドゥン=ナーセルはスエズ運河の国有化を宣言、英仏イスラエルの
三カ国はナセルの行為に反発し、第二次中東戦争が勃発した。
米ソ両大国の英仏イスラエルに対する反発により、エジプトはスエズ運河の国有化に成功しアラブ
地域の盟主の地位を確立した。
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南北アメリカ
その全てが連合国、もしくは中立国であったラテンアメリカ諸国は、ブラジルのみが連合国の一員
としてヨーロッパ戦線に派兵を行ったが、
その本土が直接戦争による被害を受けることはほとんどなかった。
戦後においては、共産主義思想の浸透を懸念したアメリカが、ただ「反共産主義的である」という
理由だけで中央アメリカのグアテマラやニカラグア、
西インド諸島のキューバ、ハイチ、ドミニカ共和国、ブラジル、チリ、アルゼンチンなどの多くの軍事
独裁政権に対し経済的、政治的な援助を行った
(PBSUCCESS 作戦、ピッグス湾事件、チリ・クーデター、コンドル作戦)。
それだけではなく、そもそもこうした政権の成立の過程にもアメリカ合衆国による介入がある場合が
殆どだった。
その結果、冷戦の終結によってアメリカがこれらの軍事独裁政権に対する援助を中止した 1990 年
代初頭までの長きに渡って
(1959 年に起きたキューバ革命によって社会主義政権になったキューバを除いた)ほとんどのラテ
ンアメリカ諸国の国民は、
腐敗した軍事独裁政権下で不安定な政治と富の独占、そしてそれがもたらす貧困にあえぐことと
なる。
アメリカ合衆国
戦中、国家主導の軍事増産が経済回復をもたらし、景気刺激政策が定着していった。
しかしミリタリー・ケインジアン・エコノミーというようにきわめて軍事色が強くなった。
同じ時期に軍や官僚機構と癒着し、1950 年代に「軍産複合体」と批判されるような構造を作り出す
こととなった。
日本占領
日本の占領を連合軍の中で中心的に行い、アメリカにとって有益となる占領政策を行った。
連合軍による日本占領の終了後もアメリカ軍基地を数多く残し、また、政財界に大きな影響力を堅
持するなど日本を実質的な影響下におくことに成功した。
イタリア上陸時にアメリカ軍がマフィアを使ったように、暴力団を占領下における左翼勢力を押さえ
込むための暴力装置として活用し、
そのことによって暴力団に大きな資金が転がり込み、勢力を飛躍的に伸ばす結果を生んだ。
日本領土である沖縄や小笠原諸島、奄美群島をアメリカ軍の施政権下に置いた。
撤退した日本軍に代わり朝鮮半島の南部を占領した。大韓民国の独立後も朝鮮戦争期を経て現
在に至るまで同地域にアメリカ軍基地を残したままである。
フィリピン統治
日本の場合と異なりこちらは左派色の強い抗日ゲリラがアメリカの支配にも抵抗するがアメリカはこ
れを激しく弾圧する。
戦前から植民地として統治していたフィリピンにおいても日本と同じくアメリカ軍基地を残した他、
多くの権益を残し政財界に対し大きな影響力を残した。
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太平洋諸島統治
日本による委任統治後に併合を宣言していた南洋諸島を日本が放棄し、アメリカによる信託統治
に移行した。
ミクロネシア連邦は 1986 年に、パラオは冷戦後の 1994 年に独立。グアムや、サイパンを含む北マ
リアナ諸島などはその後もアメリカの統治下にある。
1898 年以降自治領としていたハワイ諸島の実効支配を戦争終結後も続け、1950 年には州に昇
格させた。
この結果 19 世紀末にアメリカに侵略されたハワイは完全にアメリカに組み込まれることになった。
マフィアとの協力
連合国軍のイタリア上陸時における、イタリア系マフィアの現地協力組織による連合軍に対する情
報提供や後方支援の他、
アメリカ国内の港湾地域における対スパイ活動と引き換えに、アメリカ当局が当時アメリカ国内に
収監されていたイタリア系マフィアの指導者の多くを減刑、
もしくは釈放したことにより、戦後それらの組織がアメリカ国内で大きな力を持つことになった。
第二次世界大戦年表 [日本史 世界史 社会科]は、
クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植 ライセンス (“CC BY-SA”)
GNU フリー文書利用許諾 (“GFDL”) です。
一部、文字が表記出来ない為、不完全な文もあります。
専門的な内容は、他の書物も合わせて参考にしてください。
この本は、改変しないのであれば、
自由に配布することが出来ます。
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