田森ものがたり絵図 〔解説版〕

田森ものがたり絵図
〔解説版〕
はじめに
田森地区は、庄原市の東端に位置し、東西に 7.75 キロメートル、南北に 7.33 キロメ
ートルの広がりをもち、面積 33.80 平方キロメートルの農村地帯です。
田森自治振興区は人口 778 人、321 世帯(平成 25 年 3 月末現在)で、粟田中、粟田東、
粟田北、粟田南、竹森の5つの自治会で構成されています。
「元気、輝き、温もりのある地域、田森」を地域づくりの目標と定め、自然との共生
で元気な地域づくりや伝統文化の薫る地域づくりなど四つの柱を基本にそれぞれ事業
活動に取り組んでいます。
「田森ものがたり絵図」は庄原市の「クラスター(ぶどうの房)のまち整備事業」に
基づき、昨年度「お宝マップワークショップ」を開催し、各自治会からの作成委員によ
り完成させたものです。
この「解説版」は、
「田森ものがたり絵図」を活用してもらい、それぞれの地域の「お
宝」を大切にし、自らの誇りとするとともに、地域の魅力を地域内外の人々に紹介し、
他地域の人々との交流を進め、世代を超えて地域の財産として共有してもらいたいと願
い、作成したものです。残された文献等を参考に編集したものですが、説明が不十分な
ものや諸説があるものなどいろいろあると思います。また、こうした名所・旧跡その他
の民俗や自然・文化などマップには掲載されていないものもまだまだあると思われます。
これらを含め引き続き検証整理し、地域のみなさんの貴重なご意見やご助言をいただき
ながら、来年度以降に「ガイドブック(仮称)」を作成してまいりたいと考えておりま
すのでご理解頂きますようよろしくお願いします。
平成25年12月
田森自治振興区
田森ものがたり専門委員会
-1-
第1章
地勢
1.田森の地形
「多飯が辻山」の麓の「井河内川」「森脇川」が「粟田川」となり、「東城川」に合
流するまでが「粟田」です。
粟田など東城町北半分の田畑の多くは、「鉄穴(かんな)流し」の跡地を利用したもの
です。中国山地では砂鉄を原料とするたたら製鉄が大正10年ごろまで行われ、明治
10年代には全国の鉄生産量の80~90%を占めていました。砂鉄は風化した花崗
岩類の岩石に多く含まれ、浸食平坦面、山麓緩
斜面が広く分布する東城町の北半分が代表的な
砂鉄山地となりました。
「鉄穴流し」は、砂鉄を取り出す古くからの
工法で、江戸時代中期、18世紀中頃以降盛ん
に行われるようになりました。
採取された砂鉄の量は重量で掘り崩された土
砂のわずか0.35%ほどで、そのため広い範
囲にわたって地形が改変されました。この跡地
が田畑に利用されたのです。
鉄穴地形は東城町の面積の14.1%、2,
673ha を占め、堀崩した土砂の量は、約2億
立方メートル、広島都市圏で昭和35年から6
0年までの間に行われた宅地造成により掘り崩
された土量に相当し、東京ドームの約160杯
分であったと推定されます。
空中写真と文献による調査で森・塩原・内堀・
加谷地区の4地区の自然耕地と鉄穴耕地の比率
が明らかにされていますが、この4地区では、
鉄穴地形の水田が全水田の56%、畑が全畑の
78%を占めています。この4地区と同様に鉄
穴流しが盛んであった千鳥、小串、粟田、竹森、
菅、田黒、川鳥、保田においても、この4地区
のそれと大きな差はないと推定されています。
東城町北半分の田畑の多くは、
「鉄穴流し」の
跡地利用であったということができます。
また、森脇から南下して東城川との合流点にかけては、粟田川により形成された河
岸段丘が見られます。現在の河床との差が5~10m、25m、50mの3段の段丘
が発達している地形が特徴的です。低位段丘が、森脇から比奈まで連続して分布し、
中位段丘は、小室、近光、沢田、追原、末政に断続して分布、粟田小学校の位置が代
表的な面と言われています。
粟田川流域は河岸段丘に開けた集落ということができます。
-2-
第2章
沿革
1.田森の名の由来
こそのしょう
田森地区は、もと東庄に属していた粟田、大飯庄に属していた竹森、そして姑蘇庄に
属していた森脇の三村に分れていました。竹森、森脇は廣島藩主の直領、粟田は國老
上田家の所領でしたが、明治になって明治12年(1879年)森脇村は粟田村と合
併、そして明治22年(1889年)町村制実施のときに粟田、竹森が合併し、田森
村になりました。その後、昭和33年(1958年)東城町に合併、また、平成17
年(2005年)庄原市に合併しました。
2.粟田の名の由来
ひ
ご
平安時代中期の貴族で、
「源氏物語」の作者、紫式部らの文学者を庇護するなど権勢
を誇った藤原道長の兄である藤原道兼の雅号に由来します。道兼は自らを「粟田殿」
かんぱく
と称して、
「粟田之関白道兼」と名乗りました。京都の今の東山区の一郷を領有してい
ななくち
て、京の七口の内、東の出入口、東山道、東海道に出入りする要所でした。「粟田口」
と現在でも言います。近くに旅立ちの神として信仰されている「粟田神社」がありま
す。その道兼の領有する荘園であるこの粟田の地が「鉄山豊富」なことから、自分の
雅名を名付けて「粟田」としたのでしょう。
たたら
かん
田森地区には、
「 鈩 跡」が「保光」
「長者山」
「鉄井谷」
「野田のはな」の4カ所、
「鉄
な
穴跡」が「隠迫」
「大川落」の2カ所あり、それに奈良時代から平安時代に操業した製
鉄用炭窯跡と推定される「八ツ目鰻型炭窯跡」があります。これは広島県では、三良
坂に2つあるのみで、これが県下における三番目の貴重なものです。また、たたら産
業の盛んに行われた場所として「たたら原」という地名もあります。これらのことか
ら「鉄山豊富」ということが伺えます。
第3章 神々の棲む里
田森地区には広島県神社庁に登録された神社として、
「朝倉」
「大守」
「土佐森」
「桜森」
「竹森八幡」「大井」「八雲」「簾戸」「世量」の9社があり、そのほか妙見神社、美穂神
社、金生神社、愛宕神社、石鎚神社、大山神社などがあります。
また、お薬師さん、お大師さん、お稲荷さん、観音さん、阿弥陀さんなどが祀られた
お堂と呼ばれる祠が少なくとも粟田に8ヶ所、竹森に10ヶ所以上あるといわれ、お地
蔵さんや、地神さん、荒神さん、水神さんなどとともに暮らしの中で古くから信仰され
ており、田森地区はまさに「神々の棲む里」といえます。
-3-
1.神社
(1)「朝倉神社」(旧称)天神社、星宮
祭神
くにのとこたちのかみ
いわさくのかみ
ねさくのかみ
ふ つ ぬ しのかみ
おおものぬしのかみ
おおくにぬしのかみ
おおやまづ
国 常 立 神、磐裂 神 、根裂神、経津主神、大物 主 神、大国主 神 、大山津
みの かみ
せ お り つ ひ め の かみ
たぢか ら お の みこと
く し な だ ひ め の かみ
おおなもちの かみ
たかおかみ のかみ
見神、瀬織津比売神 、 手 力男 命 、櫛名田比売神、大名持神、 高 龗 神 、
くらおかみのかみ
暗 龗神
例祭
由緒
10月13日(現在は10月13日に近い日曜日)
通常は朝倉神社と唱え、小室、近光、中郷一帯の産土社。社の傍らに御井
の渕という雌雄の渕があり、往古大旱魃の年、この渕に雨を祈るとたちま
ち星降り、衆人赴いてその地を探ると一つの奇石があり、潤雨ありて百穀
豊穣せしにより、この奇石を御神体とし、祈雨の神として祀ったと伝える。
(2)「大守神社」(旧称)大守大明神
祭神
お お な むちのみこと
すくなひこなのみこと
あいどのしん
大己貴 命 、 少 彦 名 命 、
(相殿神=神社の祭神のうち、主神以外のもの)
す さ の お の みこと
おおやまづみ のみこと
す せ り ひ め の みこと
さけ みず お
の みこと
さけ み ず め の みこと
須佐之男 命 、大山祇 命 、須勢理比売 命 、酒 美豆男 命 、酒 美豆女 命 、
うつくしくにたまのみこと
く し な だ ひ め の みこと
いち き し ま ひめのみこと
顕 国 玉 命 、櫛名田比売 命 、市杵島 姫 命
例祭 10月30日(現在は、10月末の最後の日曜日)
由緒 往昔この地に麻疹痘瘡が流行し、庶民が難渋した折、村田為助という者、
ある夜、出雲大社を勧請して祈念すると患者悉く平癒したと夢みたので、
これを里人に諮り、出雲大社の諸神を勧請し、大守大明神と称えたという。
(3)「土佐森神社」(旧称)土佐森大明神
祭神
た ぢからおのみこと
あ ま の う ず め の みこと
か
ぐ
つ ちのみこと
手力男 命 、天宇受売 命 、軻遇突智 命
例祭
由緒
11月10日(現在は11月10日に近い第 1 土曜日)
追原の産土神。大正5年、粟田芝下平の愛宕神社を合祀。社殿の葺替、修
復の際の棟札に導師として別当寺法恩寺の住職の名が見え、神仏習合時の
様子を窺える。
(4)「桜森神社」(旧称)桜森大明神
県道のすぐ傍らです。まず目を引く二本の欅の大木は、幹囲3.5mと4.4
m余り。銀杏は幹囲4.80m余り。見上げると境内への石段が続きます。
祭神
うけもちのかみ
あいどのしん
あ ま の う ず め の みこと
た か お か み の かみ
おおくにぬしのみこと
高尾加美神、大国主 命
例祭
あまのたぢからおのみこと
お お や ま づ みのかみ
保食 神 、
(相殿神)猿田彦神、天宇受売 命 、天手力男 命 、大山津見神、
10月9日
-4-
摂末社 風神社、若宮社、山王社
由緒 明治末まで当神社に神職として奉仕した栃木家の祖先である栃木藤左衛
門が伊勢亀山より故あって永禄年中(1558 年)に当地に移住し、天正年中
(1573 年)伊勢山田から豊受皇太神を勧請し、村民が産土神として崇敬し
現在に至ったと言い伝える。大正3年、愛宕神社、国司神社を合祀した。
(5)「竹森八幡神社」
境内には市指定天然記念物の 13 本の巨木があります。
ほ ん だ わ け の みこと
祭神
た ま よ り ひ め の みこと
おき ながたらしひめの みこと
たけ みかづちおの かみ
あ ま こ や ね の かみ
品陀和気 命 、玉依毘売 命 、息長帯比売 命 、建御雷男神、天児屋根神、
おおやまくいのかみ
ふ
つ ぬしのかみ
大 山 咋 神、経津 主 神
例祭
由緒
11月3日
大永2年(1522 年)竹森の名越孫太夫則常が山城国男山八幡宮(石清水八
幡宮)より勧請、廣田行光惣進太夫初めての神主となる。
(6)「大井神社」(旧称)大飯神社、半銅神社
絵馬が見られます。境内には銀杏の大木があります。
お お な むちのみこと
祭神
すくなひこなのかみ
おおやまづみのみこと
す さ の お の みこと
大己貴 命 、 少 彦 名神、大山祇 命 、須佐之男 命
例祭 10月13日に近い日曜日の次の日の午後
由緒 大井ヶ辻または大山という高山の中腹に半銅岩という銅に似た巨岩があり。
往古そこに降臨し給いて半銅神社または大飯神社と称したが、参拝に不便
なため現在地に遷座。明治初年、大井神社と称する。
(7)「八雲神社」(旧称)祇園社、天王社、(通称)ぎおんさん
た け は や す さ の お の みこと
祭神
く し な だ ひ め の みこと
か ね や ま ひ このかみ
す さ の お の みこと
建速須佐之男 命 、櫛名田比売 命 、金山毘古神、須佐之男 命
例祭 10月最終の日曜日
由緒 天王社はもと氏神であったが、往古内名の地に悪疫流行し、人々相諮り世
羅郡小国より祇園社を勧請し、新山に社殿を造営す。後年、天王社を祇園
社に合祀して祇園牛頭天王または雲神社と称し、疫病退散並びに牛馬の守
護神として遠近の人々の尊崇篤し。明治5年に八雲神社と改称する。
す
ど
(8)「簾戸神社」
祭神
ほ
す
せ
り のみこと
ことしろぬしのみこと
す さ の お の みこと
火須瀬利 命 、事代 主 命 、須佐之男 命
例祭 10月10日(現在は、10月13日に近い日曜日の次の日の午前
由緒 羽柴秀吉の水攻めで本能寺の変による織田信長の死を知らず切腹した備
中高松城主清水長左衛門の一族で備中豆木の城主清水蓮光なる者が、浪人
して森脇村に落ち、当社を造営したと伝えられる。
-5-
よはかり
(9)「世量神社」(旧称)三体妙見宮
神事の酒造りが有名です。前年に仕込んだ酒が澄むと年が良いとされ、量が多
いと豊作になるそうです。
祭神
あまのおもいかねのかみ
ふ
つ ぬしのかみ
ねさくのかみ
天 思 兼 神 、経津主 神 、根裂神
例祭
由緒
11月8日
弘治2年(1556 年)村の有力者、山田家によって造営勧請されたと伝えら
れている。例祭のとき、末社松尾神社に於いて世量酒を仕込み、前年仕込
んだ酒量の多少により来年の作物の豊凶を占う。
(10)「妙見神社」
(11)「美穂神社」
(12)「金生神社」
子授けや安産の御利益でも知られているそうです。
2.地神さん
自然石に「地神」と刻まれたものを東城をはじめとする高梁川流域ではよく見かけ
ます。「じじんさん」と称し、年に一回か二回、祭られています。でも、それがいつ
ごろ始まり、何のいわれで祭られているのか確かではありません。「東城町史」によ
ると、東城には72カ所あるといいます。田森には13ヶ所あり、他地域と比べて最
も多くあります。
①竹森・野田(明治 40 年建造)
②森脇 簾戸神社前(明治 21 年)
③井河内 大井神社前
④上小室(明治 9 年)
⑤小室(明治 12 年)
⑥朝倉神社前(明治 16 年)
⑦清実 県道路脇
⑧堀谷宍戸芳夫氏宅横 県道路脇(明治 17 年)
⑨西伊瀬 東地区自治館上旧道脇(明治 12 年)
⑩福永
⑪沢田
⑫追原 土佐森神社下
⑬末政屋敷田(明治 16 年)
比婆荒神神楽に「王子舞」(五行祭、幡分けなどとも称せられる)という演目が
ありますが、その脚本の最後の部分で「風神砂勝彦命(ふうしんすなかつひこのみ
こと)」なるものが登場し、それが「地神となる」と地神さんの由来を述べています。
「五行」の物語は、天地万物の主宰者である盤古大王が他界するとき、太郎、次
-6-
郎、三郎、四郎の四人の王子を呼び寄せ、それぞれに春・夏・秋・冬の季節や、色、
方角などの所務を配分します。ところが、そのとき后の宮は五郎王子を身ごもって
いました。父が他界し成長後の五郎王子は所務の配分を懇願し、四人の兄たちを訪
れますが、兄たちは願いを叶えず、合戦することになります。そこへ仲介役が登場
し、五郎王子には、四季の終わりに訪れる土用十八日、合せて七二日を配分し、中
央の王とし、円満に解決させる、という筋で、天地万物のすべては木火土金水の五
つの要素から成っているという五行相生説を解説したもので、語りを中心とした神
楽です。
この所領をめぐる争いの仲介役となるのが、備中神楽では「修者堅牢神」、比婆荒
神神楽では「文撰(もんぜん)博士」となっていいます。ところが、この台本では仲
介役は「風神砂勝彦命」で、それが、そこかしこにある「地神さん」ですよ、とい
うのです。
比婆荒神神楽では氏子さんに理解しやすいように、地方によって、最後に「風神
さん」の登場でなごやかに舞い終わる昔からの伝統があったようです。
地神さんを祀る地神祭は春秋の年二回の社日(年一回の所も多い)に設けられて
います。社日には土を動かしてはいけないという禁忌があります。この日は農作業
を休んで、講中が当屋に集まって(今では集会所)、神事やお供えをし、酒を酌み交
わす。きつい農作業の中で、農民が体を休め、憩う日となっています。江戸時代中
期の元禄期頃から始まったといわれます。
地神さんは、その土地に住む人々の守り神で、もめごとの仲介をしてくれる神さ
ん、ということになるのでしょうか。
3.荒神さん
文献によると、田森地区に「荒神名」が100カ所(粟田85,森脇7、竹森8)
もあります。
みょう
「 名 」というのは、中世の土地制度の根幹をなす組織で、年貢や公事の取得単位と
され、そこの有力者の「名主」が名田の管理・勧農など行っていました。
「荒神名」は
数戸から十数戸を単位とする地縁的な組織によって支えられていました。
「荒神」とい
うのは、別名「臍の緒荒神」ともいい、式年の大祭りを行うときには、各家で親類縁
者をもらさず招くのがならわしで、それこそ何らかのかたちで臍の緒がつながった老
若男女が一堂に会することになっていました。中世のどの時代かにムラが形成された
ころ、はじめて共同で祀った神さん(祖霊神)といえます。
荒神さんの祭りには、地祭り、神楽、大神楽があり、毎年どれかのお祭りは必ず行
う習わしです。2,3年に一回ぐらいは神楽を大組で行い、大神楽は33年目毎に4
こけらおと
日4晩にわたり大々的に行っていました。また、新たに家を普請したら、「 杮 落 し」
の神楽を行うこともあります。
地祭りには、「ごく」という小豆飯を炊き、「しとぎ」を上にかけて、それをわらす
-7-
ぼに入れて荒神さんにお供えし、お鏡餅、海の幸、山の幸など、祭壇を設けて供え、
神官を頼んで、氏神さん、荒神さん、ろっくうさん、水神さんなど、生活を守る神々
を迎え、御幣を切り、祝詞をあげてもらい、今年中いただいたお守りを感謝し、神々
なおら
に今日の一日を楽しく遊んでもらう祭りです。「 直 い」には、名中全員が集まって酒
を酌み交わし、組内の親睦にも一役買っています。
4.比婆荒神神楽発祥の地
比婆荒神神楽は、古代の神楽を受け継ぐ貴重な民俗芸能として、昭和 54 年 2 月 3
日、国の重要無形民俗文化財の指定を受けています。式年(33年)ごとに祖霊神・
守護神である本山三宝荒神に2日間にわたり、大神楽を奉納しています。また、各地
で夜通しの小神楽も行われています。
5.多飯が辻山と大山信仰
井河内と塩原との境に高くそびえる姿の真に美しい山は、地図の上には多飯が辻山
とありますが、頂上に牛の神大山さんが祀られているので、井河内では井河内大山、
塩原では塩原大山と呼んでいます。
この山には深谷という、大変険しい谷があって、昔よく放し飼いにした牛が転び落
ちて、死んだり大怪我をしたりしていました。そこで村の人が相談して伯耆の大山さ
んを勧請して守ってもらおうと、わざわざ伯耆の国まで出向き、ご分霊をいただいて
きて、石橋屋(屋号)にお祀りしました。
ところがそれ以来、不思議なことに、その家の倉に毎晩家鳴りがおこるようになっ
たのです。「こりゃあ大山さんのご機嫌が悪いけえじゃ。」みんな集まって話し合った
末、今度は高田屋の裏山の桜の木のもとに祠を建ててお祀りしました。それからしば
らくは何事もなかったのですが、高田屋で材木にするため祠のほとりの桜の木を切り
ますと、今度は高田屋に牛馬が死んだり難産するなど、まんが悪いことが続きだした
のです。「こりゃあいけん。大山さんはもっときれいで高いところが好きなんじゃろ
う。」村の人はまた相談して、とうとう大山さんを、この附近で一番高くてきれいな多
飯が辻のてっぺんにお祀りしたといいます。江戸時代の中頃の話です。
大山まつり(3月24日)の日には、大山さんのおかげを受けようと、周囲の村の
どの家からも牛をきれいに飾り、衣裳鞍をつけ、幟をたてて、この高い山に集まって
いました。日頃は人影もない山の頂上にも、この日ばかりは露店が立ち並び、大変に
ぎわったといいます。
また、この大山に登る途中に「半銅岩」とよぶ、かめを伏せたような形をした大き
な岩があります。もとは、足で踏むとぐらんぐらんする不安定な岩でしたが、昔ある
とき、2~3人の若者が「何が大山が知ったことがありゃあ」と面白半分にその岩を
押し転がしました。岩はもくれて落ちましたが、あまり下の方には落ちずに止まりま
した。
ところが、そのすぐあと、この大山の周りの村――井河内、塩原、内堀、所尾、千
鳥、森脇、小串、竹森、粟田の一帯に牛や馬の疫病が流行しはじめ、ばたばた死んで
-8-
いったのです。
「やっちもないことをしたもんよのう。こりゃあ大山さんが機嫌を損ねんさっとる
んじゃ。」こんなささやきが大きく広がっていきました。結局、庄屋が集まって話し合
った末、どの村からも元気のいい若者が大勢集まって、さんざん苦労しながら、
「半銅
岩」をようやくもとの位置に返したといいます。
6.金比羅道
伊瀬から哲西につながる道です。粟田の追原末政方面から保光伊瀬を経て、哲西の
金比羅(矢田のこんぴらさん)に通じます。県境の「釘折峠」にお地蔵様が、小さな
祠に奉られています。「右 はっとり 左 矢田こんぴら」と刻んであります。
7.摩利支天王
竹森の消防屯所近くにある夫婦滝には勝負事の神様があります
8.塞乃神
耳の神様として知られています。
9.足型大師堂
このお堂に祀られているのは弘法大師の右の足跡といわれています。かつて、たた
ら製鉄で栄えました。運搬は馬によるものでした。馬が足を痛めたときにもこの足型
で治ったことから、以来、足の守り大師として参拝が絶えなかったそうです。
10.猫地池の足型太師
こちらは弘法大師の左の足跡といわれています。あじさいが美しく咲く、猫地池の
東側、竹森林道の道路脇にあります。
第4章
寺院
1.大奥寺
山号を朝倉山と称し、慶長3年(1598 年)大奥開山徹通禅師が現在の地へ建立され、
本堂、庫裡、総門、地蔵堂、禅堂があります。また、秋葉権現、三宝荒神の鎮守2社
を祀ってあります。宗派は、曹洞宗です。
2.太山寺
千手寺奥の院で、正平23年(1367 年)に創建されたと伝えられ、千手寺の仏殿が
完成し、落慶法要が行われた頃とされています。本尊は十一面千手観音胎仏二体で、
一つは長尾隼人正一勝の守り本尊であったといわれています。俗界を離れた景勝地で、
安産に霊験が著しく、往時より、妊婦は必ずこの寺に詣り祈祷を受けるものとされて
いました。なお吟杖を曳く者が多く、春4月18日の縁日には、花供養が行われ多く
の参拝者でにぎわっています。山号を恵谷山と称し、宗派は曹洞宗です。
-9-
3.旧寺
(1)妙音寺跡
南区の末政集落が一望できる小高い丘にあったとされます。山号を金光山とい
い、大奥徹通禅師の開山と伝えられ、元和4年(1618 年)建立とされます。
(2)観音寺跡
祠があります。昔は寺子屋が近くにありました。山号を塔松山といい、大奥徹
通禅師の開山と伝えられ、慶長5年(1600 年)本堂建立の記録があるとされます。
第5章
古墳・城址
1.古墳
則常塚古墳
2ヵ所あります。
2.城址
城跡は、「朝倉」「詰丸」「貴船」「城殿山」「焚火山」と5カ所があります。
第6章
民俗・民話
1.弘法大師と粟田川(民話)
昔々、東城町の粟田の川で、一人の女がなっぱ(野菜)を洗っていました。たまた
まそこへ弘法大師が通りかかりました。
「すまんが、そこをちょっとのいてもらって、川を渡らしておくれでないか。」と
大師が女に頼みました。
しかし、女は薄汚れて風体のよくないお坊さんをじろっと見ただけで、「どっかよ
そを渡りんさい。わしゃ忙しいんじゃけえ。」というと、手を休めずなっぱを洗い続け
ました。
「そうか、お前は薄情な女よのう。そんなら、いっそのこと、この川を渡れんよう
にしてやろう。」そういうと大師は、いきなり川に入り、持っていた杖をひきずって川
上に歩いていきました。
それ以来、粟田の川はいくら巾がせまくても深く、巾がひろくて浅いところでも一
ヶ所は必ず深いところができて、歩いては渡れなくなったといいます。
2.八反坊(民話)
「江戸時代の初め、粟田に八反坊という人が住んでいました。八反坊は年貢の割り
当てや取り立てに当たっていた公事人といわれ、弱い百姓が分限者からいじめられる
ようなことがあると、いつも弱い人達に味方して助けていましたので、百姓達から大
変慕われていました。ところが反対に分限者達からは嫌われ、何とかして八反坊を亡
きものにしようと、あるとき無実の罪をでっちあげ庄屋に訴えました。庄屋もまた八
反坊を快く思っていなかったので、ある日、ありもせぬ罪を着せて獄に入れ、村人を
- 10 -
扇動せぬよう身を慎むよう迫りましたが、八反坊は聞きいれず、ついに餓死しました。
百姓達は、情深く、義に厚く、村人に慕われていた八反坊の遺言どおり、庄屋の家
のよく見えるこの地にていねいに葬りました。それから庄屋にはよくないことが続き、
絶えてしまったということです。
その後、お墓の上に祠が建てられ「八反坊」と呼んで、地元の人達が毎年お祭りを
続けています。
一時期『のろい』の神として恐れられていた時もありましたが、今は事業の成功、病気の全
快、その他困っている人達を助けて願いが成就することから、大願成就の神様として多くの
人に親しまれています。
そこから山裾を少したどっていくと、杉木立の奥に大きくはないが、りっぱな祠が見えます。
それが「八反坊神社」です。
「八反坊」の話には、庄屋の意にそぐわず、村人の立場に立ちきった「義の人」という側面と、
自らの呪いを成就させたという側面があります。その両面から、大願成就の神として祀られる
存在となったということなのでしょうか。
第7章
自然
1.桜の名所
(1)ふれあい村の桜
(2)井河内川桜並木
川沿いに連なる桜が壮観です。昭和45年8月の豪雨災害復旧を記念して植栽
されました。碑があります。
(3)花見山公園
(4)野呂の山桜
東城で一番開花が遅い山桜です。5 月中旬に咲くことが多いそうです。
(5)太山寺公園
桜のほか紫陽花やモミジなど四季折々に親しまれています。
2.花・巨樹の名所
(1)猫地池の紫陽花
(2)末政のこぶし
市天然記念物 粟田末政のこぶし(市天然記念物)県道から見上げる位置にあり
ます。春を告げる白い花が咲き誇ります。
(3)欅(ケヤキ)の大木
(4)長泥の樫の大木
広島和田金属工業(株)東城工場の近くを登ったところです
(5)伊瀬の柊の木
幹囲2.1m の柊の巨木がります
(6)観音寺跡の銀杏の大木
(7)森脇のエゾエノキ
- 11 -
市天然記念物 樹高約17m
(8)屋敷田の藪椿の大木
長い歳月を思わせる樹姿から勢いを感じます
(9)桜森の大百日紅
3.景勝地
(1)多飯が辻山
標高 1,040.3mの秀峰。数少ない町内の 1,000m級の高山の一つ。山頂付近に
は「フタリシズカ」の可憐な姿が見られ、晴れた日には遠く日本海や伯耆大山
が望める。
(2)夫婦滝
4.生態系
「モリアオガエル」の生息地
「オオサンショウウオ」の生息地
第8章
社会・産業
1.粟田小学校殉難慰霊塔
昭和9年3月24日、修学旅行で訪れた帝釈峡で殉難したに粟田小学校の卒業生の
慰霊塔。
2.大奥寺の大石燈籠
3.竹森トンネル
平成11年(1999 年)の竣工で延長 313mです。トンネルの東城側に和牛、小奴可
側に、こぶしの花がレリーフされています。広島県が起業した広域営農団地農道整備
事業東城地区により新設された農道で、田森地区内で唯一のトンネルです。
4.JR内名駅
ぽつんと佇む知る人ぞ知る小さな無人駅です。田森地区唯一のJR芸備線の駅です。
5.田森発電所
運転開始は昭和33年(1958 年)で出力100kwです
6.リフレッシュハウス東城・東城温泉
平成6年9月にオープンした温泉を利用した健康増進施設。水質はアルカリ性単
純泉で、神経痛、筋肉痛、関節痛等に効能があるとされています。源泉は、深さ 1,003
m、温度26℃で、平成2年に掘り当てた。
- 12 -
平成 25 年 12 月発行
編集
発行
- 13 -
田森ものがたり専門委員会
田森自治振興区
広島県庄原市東城町粟田 1715 番地 1