日宇地区 - GMOとくとくbb

日宇地区
日宇地区の“よかところ”
○豊かな自然とすばらしい景観
○人情味に溢れふれあいが多い
○交通・買い物の利便性
地区の概要
佐世保の中心部に近く交通の要衝でもあり、通勤者などが暮
らすベッドタウン的な地域として発展しました。
地区内には小学校 3 校、中学校、高等学校、高等専門学校が
あり、学園都市的性格も持っています。
①「日宇」という地名の由来は…
日宇湾は昔、
今の日宇川に沿って猫山ダムあたりまで細長く入
ひ うみ
り込んでいて、潮の干満でできる見事な景観から「干海」と呼ばれるようになったのが「日宇」の語源であると
い りふね や し き
ひ わたし
わ た せ
されています。黒髪小学校の北に、
「入船屋敷」「干 渡 」「渡瀬」などの地名が残っていることからも、海水が今
の黒髪神社付近まで来ていたと考えられます。
②日宇に人が住み始めたのは…
烏帽子岳、福石、天神、東浜、日宇駅前などでは、縄文・弥生時代に人々が生活していたことを示す、石斧や石
鏃(石の矢じり)がたくさん発見されています。
③「日宇地区」とは…
昔の日宇は大変区域が広く、東は早岐との境にある田の浦の中央から、西は旧戸尾小学校の上にある峰の坂ま
せき
ふ
せき
ぞく
か く い だけ
ぶ んすいれい
で、そして北は烏帽子岳と隠居岳の分水嶺(*)までありました。
*雨水を異なった水系に分ける山の峰々
1899(明治 32)年に日宇村となり、1902(明治 35)年に佐世保に市制が施行されると、まず一部が市に編入され、
1927(昭和 2)年に日宇村全部が編入されました。
[上記文面の参考元は「日宇郷土史家徳永繁氏著『干海』」となっています]
人口
日宇地区の人口の推移
1965(昭和 40)年 1985 (昭和 60) 年
21,113人
28,764人
2005 (平成 17) 年
28,350人
2011(平成 23)年 ※ 2011 年のみ年末、他は 10 月 1 日の時点
27,554人
お出かけスポット
日宇川の流れ
自然がいっぱい
烏帽子の山並みの東端
の隠居岳。そのふもとを源
流とする日宇川は、全長約
5.5 ㎞。この間、両岸に広
がる町々が、
旧日宇村時代
からのわがまち日宇・黒髪
地区です。上流には「隠居
の森遊歩館」
という施設が
あり、野生動物のはく製
や、植物の標本が展示してあります。
また、少し下って黒髪大橋の周辺には猫山ダムの公園が
あり、ここは桜の名所で眺めも良く、ウォーキングや親水
池での水遊び、ホタル狩りも楽しめます。
充実した公園
日宇地区には大小 48 の公園があり、その中でも
規模が大きい
「も
みじが丘中央公
園」は 1995(平成
7)年に開設しま
した。広さは
2.9ha、遊具広場
とナイター設備
のあるグラウン
ドでは、昼間は中学校のスケッチ会場や幼稚園の遠
足の場にもなっていて、
夜はナイターでソフトボー
ルの試合などが行われています。普段も、親子連れ
などの明るい声が聞こえています。
しらたけ
白岳神社
ご と う これ あき
日宇地区の鎮守様として白岳神社があります。1578(天正 6)年頃、日宇・佐世保の監視役であった後藤惟明(平
あま てらすすめ お お み か み
い ざ な ぎ の みこと
戸領主松浦隆信の三男)が創建したと伝えられます。日本人の総氏神様である天 照 皇大御神の両親「伊弉諾 尊 」、
い ざ な み の みこと
す さ の お の みこと
「伊弉冉 尊 」と弟「素戔嗚 尊 」をお祀りしてあります。
に いなめさい
私達の心のふるさととして初詣や宮参り、また、神社による祈年祭や新嘗祭等がおごそかに行われています。
行事
ふ りゅう
木場浮 立
木場浮立は、1690(元禄 3)年に西有田の龍泉寺から、三川内地区の横手などを経て伝わったとされる農民の雨
かね
乞いや豊作祈願の行事です。道中囃子で練り歩く大名行列、笛や鉦、太鼓による庭浮立、そして獅子舞などが演
じられます。
長崎県の無形民俗文化財で、毎年 4 月に上木場の資料館グラウンドで公開発表会が行われています。
歴史・史跡
東浜町の最南端付近の淀姫神社の周辺は、先史時代の石器の材料だった黒曜石の原産地です。
1319(元応元)年の古文書に、日宇小次郎入道や日宇弥五郎入道など「日宇」姓の武士が出てきます。
と ねり
こ れあ き
戦国時代にこの地を治めた日宇舎人が、白岳町の松尾神社や青蓮寺を建て(後藤惟明が創建した説もある)、
こ れあ き
後藤惟明が 1577(天正 5)年に松尾山に城を築き、また白岳神社を建てたと言われています。
江戸時代の日宇村は今よりもずっと広く、平戸往還(街道)も通っていました。
鎮守府設置以降、急速に海軍関係者の住宅地として開発が進み、市制施行などに伴い分割されて、1927(昭
和 2)年に佐世保市の一部となりました。
佐世保炭鉱ボタ山崩れの慰霊碑
日宇地区にはかつて安部鉱業所佐世保炭鉱がありました。1955(昭和 30)年 4 月の集中豪雨で、下木場にあった
そのボタ山(*)が崩れ、炭鉱住宅 9 棟が埋没し、死者 73 名、負傷者 5 名を出しました。事故現場に一周忌に建て
られた慰霊碑があります。 *採掘で出た質の悪い石炭、岩石、泥を炭鉱の近くに積み上げたもの
民話
ねこ山
さむらい
四百年ほど前のことたい。日宇に山本入道という 侍 の住んどった。二人に子どものなかせいもあって、
ねこ
こ
か わ い
入道夫婦は一匹の猫ば飼うとった。その可愛がりようはたいへんなもんやった。
いのしし
その頃、近くの山に一匹の大きな 猪 のおって、田畑の作物ばあらし、村人たちば困らせとった。村人か
た い じ
ら頼みこまれて、入道は猪退治ばすることになった。
満月のある夜、入道は計画どおり猪退治に出かけようとした。猪は、毎夜、湯田の尾池に水ばのみに来る。
つま
ところが、お産ば目の前にした妻は、
「どうも今夜あたりお産が始
まるごたるです。女中も里帰りでおりませんけん、今夜だけは、家
におって下さい。」と頼んだ。しかし、入道は「なあに、すぐ帰って
くるけん。」と言い残して、出かけた。
さ ん け
夜中、妻は産気づいた。難産やった。苦しい息の下から、しきり
に入道の名ば呼んだ。
一方、湯田の尾池で、猪の来るのを待っとった入道は、予定の時
刻ば過ぎても、現れんので、いらいらしとった。そこへ、はたはた
という足音。
げ じ ょ
いっしゅん
はっと思って、弓を取り直した入道の目に映ったとは女の姿。そいも、自分の家の下女やった。一 瞬二
重写しに、お産で苦しむ妻の姿の頭ばよぎった。
しかし、次の瞬間、入道は、「おかしか。」と思った。「下女は、里帰りでこっちにおらんはず、さてはう
たぬき
わさにきく 狸 のしわざでは。そんぎんた、まず、この狸ば片づけてくれよう。」こうつぶやくと、入道は、
うった
前後の考えもなく矢ば放った。女は、必死で何かば 訴 えようとしとった。
い
ばってん、入道は二の矢三の矢ば立て続けに射かけた。最後の矢ば放った時、「ギャー」の一声とともに
か
女の姿はかき消えた。入道はえものの方に駆けていったばってん、その姿はなかった。
か な た
やみ
ばってんそこには、多量の血の流れ、血は何かばさそうように、点々と彼方の闇に消えていっとった。入
ふ か で
道は、「こいは、相当に深手、そがん遠くまでは逃げられんやろ」とあとば追った。
えん
やがて、ふっと気がつくと、何と自分の家の縁先に立っとるとやなかか。
ざ し き
不吉な予感の走った入道は、夢中で座敷に飛び込んだ。そこには、妻が産後の出血の中で、すでに虫の息
やった。
けんめい
かいほう
入道は懸命に介抱し、妻はやっと一命をとりとめた。
ほっとした入道が、座敷の床下ば探してみると、そこには、矢のささったままの猫の死体のあった。
そいから間もなく、入道は家の近くに猫ばまつるほこらば建てた。
村人はだれ言うともなく、この山ば、ねこやまとよぶごとなったということたい。
佐世保弁翻訳:永江義一さん イラスト:木寺十郎さん[「ふるさと歴史めぐり」に掲載]