Title いじめを哲学する哲学・倫理学から教育現場へのアプローチ Author(s)

Title
いじめを哲学する哲学・倫理学から教育現場へのアプローチ
Author(s)
佐山, 圭司
Citation
北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 67(1): 117-128
Issue Date
2016-08
URL
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/8041
Rights
Hokkaido University of Education
北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第67巻 第1号
Journal of Hokkaido University of Education(Humanities and Social Sciences)Vol. 67, No.1
平 成 28 年 8 月
August, 2016
いじめを哲学する
哲学・倫理学から教育現場へのアプローチ
佐 山 圭 司
北海道教育大学札幌校倫理学研究室
Philosophische Betrachtungen über Mobbing in der Schule
Ein Beitrag der Fachphilosophie für die Schulpraxis
SAYAMA Keiji
Department of Ethics, Sapporo Campus, Hokkaido University of Education
概 要
いじめは,学校だけではなく,社会のいたるところに見られ,世界各地で問題になっている。
したがって,いじめの問題は,人間の本質に深くかかわっており,「人間とは何か」を問い続
けてきた哲学も,いじめの議論に何かしら寄与できると思われる。こうした観点から,本稿は,
大学で哲学・倫理学を教える筆者が,哲学や倫理学の知見を用いて,いじめ発生・発展のメカ
ニズムを解明しようと試みたものである。具体的には,いじめを,1)フィヒテおよびヘーゲ
ルの相互承認論を用いて,自我形成過程から,2)ニーチェの道徳批判およびフロイトの精神
分析を用いて,文化的・社会的存在としての人間という観点から,3)フーコーの権力論およ
び丸山眞男のファシズム批判を援用しつつ,
人間が作りだした社会制度との関連から,
考察する。
はじめに
教員養成大学で社会科教育講座に所属し,倫理学を教えている筆者にとって,将来教員になる学生に倫理
学の基本的な知識や考え方を教えることが,教科専門教員としての本務であると理解している。しかし,
2009(平成21)年度より本格導入された教員免許状更新講習では,現職教員の先生方に「最新の知識技能」
を教授するという重責を担うことになった。学校での教育経験のない者が,果たして経験豊富な現場の先生
方のニーズにどれほど(あるいは,そもそも)応えられるのかまったく自信がないのだが,大学で教えてい
る哲学や倫理学の知見を,少しでも教育現場に生かすことができないかと筆者なりに試行錯誤を重ねてきた。
そのうちのひとつの試みが,以下で論じる「いじめの哲学的考察」である。
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佐 山 圭 司
いじめにかんしては,これまでさまざまな立場からさまざまに論じられてきており,専門外の筆者が,い
まさら付け加えることなど何もないように思える。だが,いじめがこれほど社会問題化しているにもかかわ
らず,今なおいじめに苦しむ子どもやその保護者の方々,そしていじめ対応に苦慮する先生方がたくさんい
るかぎり,いじめ防止のためにあらゆる努力がなされるべきであろう。いじめ問題を専門としない筆者が,
あえていじめにかんする管見をこのような形で公表する理由もここにある。
本稿は,2009年以来,教員免許状更新講習で「いじめを哲学する」というタイトルで行ってきた講習の内
容をもとにしている。講習は,修了認定試験も含めて6時間で,いじめを包括的・体系的に論じることは不
可能である。また受講生のほとんどは,西洋哲学になじみのない各種学校の先生方であり,哲学史の専門的
知識の伝授を目指したものでもない。したがって,西洋の哲学者たちの見解を参照することで,いじめ発生・
発展のメカニズムを理論的に把握するための切り口をいくつか提供することが,
本稿のささやかな目的である。
序説 いじめとどう向き合うか――対応の難しさとアプローチの仕方
いじめを哲学的に論じる前に,議論の前提として,いじめ対応の難しさをここで確認しておきたい。言う
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までもなく,いじめは,悪質な人権侵害である。その意味で,憲法が定める「基本的人権の尊重」に反する。
「人権侵害とは大袈裟な」という異論があるかもしれないが,いじめが原因で不登校や心の病気,さらには
自殺に追い込まれる子どもが後を絶たないことを考えると,けっして大袈裟とは言えないだろう。
「人権侵害」
とみなされないのは,加害者の多くが「遊び」や「冗談」のつもりでやっていて,被害者の「人権」を踏み
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にじっているという意識に欠けているからである。権利意識を欠いた子どもたちに,なぜいじめがいけない
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かを指導しなければならないところに,いじめ対応の第一の難しさがある1。
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二つ目は,いじめ認定の難しさである。自分になされた侵害を「いじめ」と判断するかどうかは,被害者
に委ねられている2。セクハラやパワハラ同様,たとえ加害者が「冗談」「からかい」「愛情表現」でやったと
しても,被害者にとって「いじめ」と受け取られると,「いじめ」になる。とくに,年齢や力関係において
対等でないもの同士(教師と生徒,先輩と後輩,強者と弱者,集団と個,
「ふつう」の子とそうでない子など)
では,判断が難しくなる。それゆえ,第三者には「いじめ」と思えないことも,
「いじめ」と受け取られ,
「ふ
つう」の人間関係においてしばしば生じる摩擦や対立も,ときに「いじめ」とみなされる。反対に,DVに
おいてしばしばみられるように,第三者から見て明らかに「いじめ」と思われる行為を,被害者が否定する
こともある。また,子どもたちの間に生じたトラブルを「いじめ」とみなすことで,かえって問題が拡大・
紛糾してしまうこともある。「いじめられた」と思った子どもとその保護者が,「いじめた」とされる子ども
やその保護者にたいして,
「いじめ」という言葉を盾に,過度に攻撃的になることも少なくない。子供(保
護者)の被害者意識をどう取り扱うか,と同時に,加害者意識のない子どもや保護者にどう対応するか。こ
こに,いじめ対応の第二の難しさがある。
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三つ目は,いじめ発見の難しさである。いじめられていることを一番よく知っているのは,「被害者」で
あるが,加害者からの報復を恐れて,親や教師に相談できず,いじめがエスカレートするケースが多い。さ
らに問題を難しくしているのは,いじめの多様化・潜在化・匿名化である。いじめの多様化(とりわけネッ
1 ちなみに,憲法ですべての国民に保障された基本的人権を子どもたちがはじめて学ぶのは,
小学校6年生の社会科である。
2 文部科学省の「いじめの定義」でも,「個々の行為が『いじめ』に当たるか否かの判断は,表面的・形式的に行うことな
く,いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする」とされている。文部科学省ホームページ「いじめ問題など子供
のSOSに対する文部科学省の取組」(http://www.mext.go.jp/ijime/detail/1336269.htm)2016年6月24日閲覧
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いじめを哲学する
トを通じてのいじめ)により,加害者が特定しづらくなる一方で,誰もがいじめの対象になりうる流動性(加
害者と被害者が簡単に入れ替わる状況)が生まれている。
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最後は,いじめ制止の難しさである。いじめを制止できるのは,まずは被害者であるが,力関係で加害者
に劣った被害者が,自らやめさせるのは非常に困難である。それゆえ,頼みの綱となるのは,支援者(教師
や友人など)か,いじめの存在を知っている「第三者」であるが,支援者を得られない場合は,かなり厳し
い。というのも,この「第三者」は,多くの場合,中立的な存在ではなく,自分では手を下さなくても,面
白がって見ている「観客」と,見て見ぬふりをしている「傍観者」だからである。かりに「傍観者」のなか
に被害者に同情する者やいじめに批判的な者がいても,介入することによって自分がいじめの対象になるこ
とを恐れて,黙認せざるを得ない場合が多い。
こうしたいじめ対応の難しさをふまえたうえで,次にいじめを扱っている先行研究を参照しながら,いじ
めにたいするアプローチを考えてみたい。いじめの社会学的研究で著名な森田洋司は,「いじめとは,同一
集団内の相互作用過程において優位に立つ一方が,意識的に,あるいは集合的に他方に対して精神的・身体
的苦痛を与えること」
(森田 2010:95)と定義している。また,いじめの構成要素として挙げられているのは,
①力関係のアンバランスとその乱用(非対称的な力関係,優位-劣位関係),②被害性(精神的・身体的苦痛),
③継続性ないし反復性,の3点である(ibid.:70)。さらに,森田は,いじめが,被害者,加害者,観衆,傍
観者という4つのアクターから成り立っているとして,それを「いじめの4層構造」と名づけている
(ibid.:131-142)。いずれも,いじめ問題を考えるうえで重要な視点である。
いじめは遍在しつつも「不可避的な現象ではない」と考える森田(ibid.:74)に対して,いじめを人間が
人間にとって怪物になる「普遍的現象」と捉え,その心理・社会的メカニズムを解明しようとしたのが内藤
朝雄(内藤 2009)である。内藤は,「いじめ報道ブーム」が起こるたびに,マスコミに登場する「識者」た
ちの「愚かな発言」にみられる矛盾を,秩序の複数性という考え方(秩序の生態系モデル)によって解決し
ようとする(ibid.:14-19)
。内藤は,
「市民社会的秩序」(近代社会の民主主義的秩序)に,群生秩序(群れ
のなかで生み出される秩序)を対置し,群生秩序(「いま・ここ」のノリ)にもとづく行動によっていじめ
が引き起され,助長されると考えている(ibid.:31-48)。
森田や内藤が強調しているように,いじめは,学校やこどもたちだけの問題ではない。家庭や会社にもい
じめは見られるし,森田が報告しているように(森田 2010:10-26),いじめは世界各地で問題になっている。
だとすると,いじめは,民族や文化の違いを超えて,人間の本性に深くかかわっており,「人間とは何か」
という問いを一貫して追究してきた哲学は,いじめの議論に何かしら寄与できると思われる。そこで本稿は,
いじめを,人間の存在や,人間集団=社会のあり方から捉え直そうと試みる。具体的には,以下でいじめを,
1)自我形成過程から,2)文化的・社会的存在としての人間から,3)人間が作りだした社会制度との関
連から,考察する。
第一節 自我形成における排除と欺瞞
私が私になっていく過程,つまり人間が「自分らしさ」を見つけて,自我を確立していく過程,つまりア
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イデンティティの形成過程は,概してポジティブに理解されることが多い。もちろん,自我が肯定的なもの
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として確立していくかぎりは,そのように理解するのも当然であろう。しかし,そこにネガティブな要素は
ないのか?本節では,広い意味でのアイデンティティをめぐる哲学的議論に立ち返りながら,自我形成に原
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理的に付随する否定的側面に光を当ててみる。
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⑴ アイデンティティの探求――哲学史における自我同一性の問題
アイデンティティという言葉は,
「自分が自分であることの証明」などという日本語に訳すと分かりにく
くなるが,多くの人にとっては,IDカード(身分証明書)を通じてお馴染みのものであろう。言うまでも
なく,IDカードとは,そのカード所持者が本人であることを証明するものである。「あなたは,誰ですか」
と問われ,
「自分は,○○です」と言葉を尽くして説明してもなかなか信じてもらえなかったのに,IDカー
ドを提示すると,すぐに信じてもらえたという経験をした人もいるだろう。自分の力だけで自分であること
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を証明できず,パスポートや身分証明書といった,いわば自分以外の第三者の承認が必要だということは,
アイデンティティの問題を考えるうえで,非常に重要である。
そもそも,私たちは,自分であることを自分だけで説明できるのであろうか?そもそも,自分が何者であ
るか分かっているのだろうか?もちろん,自分の名前や出自,年齢や職業を語ることはできる。しかし,自
分がいったいどういう人間であるか,きちんと答えられるだろうか?答えに窮した際に思い出されるのが,
ソポクレスの悲劇で描かれたオイディプス王の話である。自分の出生の秘密を解き明かそうとするオイディ
プスは,自分が実父を殺し,実母と結ばれていたという衝撃的な事実を知り狂乱してしまう。フロイトが,
この悲劇からエディプス・コンプレックスという概念を生み出したのは有名であるが,こうした「じぶん探
し」の悲劇もアイデンティティの問題を考えていくうえで,非常に示唆的である。
よく知られているように,アイデンティティという言葉は,ユダヤ人のエリクソン(1902~1994)が,
「自
我同一性」の意味で用いて,一般に広まった概念であり,私たちが心理学や教育学で学ぶアイデンティティ
概念は,多かれ少なかれ彼に由来している。一方,哲学において,アイデンティティという概念は,ずっと
長い歴史をもつ。英語のIdentityは,「同一(the same)」を意味するラテン語idemから来ており,変化の中
にあって変わらないもののことである。その意味では,古代ギリシャのパルメニデスがいう「存在」にまで,
遡ることができる。
「存在」とは,
「見かけ」(現象)の背後にある「本質」のことである。分かりやすい例
を使えば,私たちが同窓会などに参加して,長い年月のうちに変わり果て,もはや誰だか分からなくなった
目の前の人物に,
かつてのクラスメートを見出すことができるのは,
この変わらない「何か」のおかげである。
同一性としてのアイデンティティは,近代以降,自我にむすびつけられ,自我の同一性として議論される。
もちろんそれは,
「われ思う,ゆえにわれあり」という言葉で有名なルネ・デカルト(1596~1650)によって,
自我が世界認識の起点にされたことと関係している。『方法序説』のなかで述べているように,彼は,確実
な認識をもとめて,すべてを疑い,疑いえない存在としての自我(自己意識)に行き着いた。だが,「自我
同一性」を考えるうえで重要な哲学者は,
「人格の同一性(personal identity)」を論じたジョン・ロック(1632
~1704)と,
「自我」を「統覚」の働きとして捉えたイマヌエル・カント(1724~1804)である。
ロックは,
生物としての人間と理性的存在としての人間を区別し,前者を人(Man),後者を人格(Person)
と呼んだ。前者の同一性が,身体の連続性によって可能になるのにたいして,後者の同一性を可能にするの
は,意識や記憶の連続性である。つまり,意識が人格的同一性を作るのであり,自我(self)は,意識に依
存している(Locke[1690]1975:331-348=1974:306-335)。他方,カントは,感覚を通じて外界から与え
られるさまざまな情報に統一をもたらす働きとして,自我を捉えた。彼によれば,あらゆる表象には,
「私
が考える」という思考作用が伴い,これによってはじめて認識が成り立つという。彼はこの働きを「統覚」
と呼ぶ。私たちが問題にしているアイデンティティといじめの関係を考えるうえで重要なのは,自我同一性
の成立を他者との関連でとらえたフィヒテとヘーゲルの議論である3。
3 議論が必要以上に専門的にならないよう,以下では自我のさまざまなレベル(たとえば超越論的自我と経験的自我)を
厳密に区別していない。また同様の理由で,現代における自我(あるいは人格)の同一性をめぐる議論にも立ち入らない。
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いじめを哲学する
⑵ アイデンティティ形成における他者の問題――「承認をめぐる闘争」といじめ
ヨーハン・ゴットリープ・フィヒテ(1762~1814)は,彼の哲学=知識学(Wissenschaftslehre)において,
自己を端的に定立する自我(Ich)から出発する。彼によれば,自我はもちろん,外界の世界も含めて一切
は自我によって基礎づけられる。しかし,自我にたいしては,自我でないもの(非我)が同時に反立される
という(Fichte[1794]1971:91-105=1997:90-107)。これを分かりやすく言い換えると,私は,私以外の
者の存在なしに,私であることはできず,私以外の者の存在を通じてはじめて私になるということである。
つまり,
「私は私である(Ich bin ich.)」という自覚(自己意識)に到達するためには,必ず他者(私以外の
者)を必要とし,他者との対立を通じて,私は,世界や自由を意識するというのである。「私は私である」
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という私のアイデンティティは,他者なしにはありえない。ここで提起されているのは,アイデンティティ
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形成における他者の問題である。
フィヒテは,
さらに自我と他者の関係を実践的な場面で検討している。
『知識学の原理による自然法の基礎』
において彼は,人間同士が互いの自由を認め合いながら共存していく条件として,
「相互承認(gegenseitige
Anerkennung)」を考える。つまり,互いを「自由な人格」として認め合うことが,自由な共同体の成立要
件となる。ここで重要なのは,フィヒテが,個体性=個性(Individualität)を「交互概念,すなわち他の思
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考との関係においてのみ考えられうるような,しかも形式的には,同等の思考によって制限されているよう
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な概念」
(Fichte[1796]1971:47=1995:65)と考えていることである。私の個体性は,つねに私と同じよ
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うな存在である他者との関係においてのみ考えられるのであり,それゆえに私の個体化(Individuation)は,
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私の社会化(Sozialisation)を前提とする。よって,自我は,対等な他者との相互承認を通じて,他の自我
と同時的に成立する。一方,他者を自由な存在と認める「承認」にもとづかない行為は,他者を「客体」と
して扱うことになる(Fichte[1796]1971:47=1995:65)。つまり,人間の承認関係は,物と物の関係であ
る自然のメカニズムと異なり,自由な主体の間に成り立つ相互主観的な関係である。
フィヒテの議論をさらに発展させ,
「承認」を実践哲学(倫理学)の原理にまで高めたのが,ゲオルク・ヴィ
ルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770~1831)である。ヘーゲルの承認論は,
「承認をめぐる闘争(Kampf
um Anerkennung)
」というキーワードで知られている。彼の議論の特徴は,フィヒテの承認論をホッブズ
(1588~1679)の自然状態論と結びつけることで,承認過程を「闘い」と捉えた点である。ホッブズは,近
代の自然科学の成果を踏まえて,人間を「物体」として捉え,国家や慣習・文化といったものから人間が解
放された状態=自然状態を想定する。彼によると,人間は自然状態において,相互への不信から敵対関係に
なり,最終的には「万人の万人にたいする闘い」という全面的戦争状態に陥るという。
ホッブズは言う。
「もしだれかふたりが同一のものごとを意欲し,それにもかかわらず,ふたりがともに
それを享受できないとすると,かれらはたがいに敵となる。そして,かれらの目的(それは主としてかれら
自身の保存であり,ときにはかれらの歓楽だけである)への途上において,たがいに相手をほろぼすか屈服
させるかしようと努力する」(Hobbes[1651]1968:184=1992:208)。ヘーゲルが,「精神哲学」の構想にお
いて出発点にするのは,ホッブズが描いているような,徹底的に他者を排除し,自己を貫徹させようとする
個人(個別的意識)である。自他の対立が顕在化するのは,あるものが誰に属するかという占有物をめぐる
争いである。ヘーゲルによると,法律によって所有権が確立・保障されていない状態では,自己の占有物に
対する侵害は,人格全体(名誉)にかかわる問題と受け取られ,生死を賭けた闘いに発展するという4。
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この闘いは,一方が自己の主張を暴力的に他方に認めさせることで終結する。つまり,主人と奴隷の関係
4 ヘーゲルの「承認をめぐる闘争」論は,1803/04年の精神哲学講義で登場して以降,さまざまなバリエーションがあり,
「精神哲学」の発展にともなって,体系上の機能や意義も異なってくるのだが,その異同については,ここで立ち入らない。
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(支配関係)が成立することで,一応の解決を見る。主人は,自らに奉仕する奴隷(自分より劣った者)に
よって承認されているが,これは一方的ないし不平等な承認にすぎない。歴史的経験から明らかなように,
主人と奴隷の関係は,遅かれ早かれ転覆しうる不安定な関係である5。それゆえ,一方的ないし不平等な承認
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によってもたらされる関係においては,支配される側はもちろん,支配する側も不自由である。なぜなら,
フィヒテやヘーゲルによれば,自由な共同体の前提となる相互承認は,対等な他者によってなされる必要が
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あり,自由とは共同的なものであるからである。
ここで,
「承認をめぐる闘争」論から,いじめ問題を考えてみると,いじめの原因あるいは背景として,
相互承認の不在
(もしくは一方的・不平等な承認)を挙げることができるだろう。ヘーゲルが考えたように,
人間の自己形成過程とは,平和的なものではなく,対立と排除をともなう暴力的なプロセスである。つまり,
おもちゃの取り合いから始まって,殴り合いのけんかまで,暴力を用いて自己を主張し,他者を否定しよう
とするのは,何ら異常なことではなく,個体化=社会化に付随する否定的側面である。もちろん,それによっ
て暴力の行使がけっして正当化されてはならないが,子ども同士の争いが,子どもの相互理解・相互承認に
とって重要であることを理解すべきである。問題は,一方的・不平等な承認にもとづく支配関係が成立し,
いじめに発展してしまうことである。相手を暴力的に制圧する,もしくは相手を精神的に貶めることで優越
感に浸るのは,
学校でのいじめにかぎらず,ドメスティック・バイオレンス等でよく見られるケースである。
実際,大人たちの関係においても,こうした方法によって,自己のアイデンティティを確立・維持している
例は少なくない。しかし,自分よりも劣ったと思う相手から,暴力あるいは恐怖心を利用して承認をかちえ
ても,けっして確固とした自尊心は得られず,かえって自分が支配している相手へ依存し,個人として自立
できなくなるように思える6。
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この議論にしたがえば,理想的な学級とは,子どもたちが互いを対等な存在として認め合っているクラス
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である。それは,クラスのみんなが同じになるということではなく,自他の差異(体格や性格や能力の違い)
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を自覚しながら,自他の同一性(自分と同じ人間であること)を認め合うことである。フィヒテの議論でみ
たように,個性化(他者との違いを意識して自分らしくなること)と社会化(自分と違った他者を同じ仲間
として認めて協調すること)
とは,
対立するものではなく,
相関的であることをあらためて強調しておきたい。
とすると,学級担任の役割は,クラス内の関係が,子どもたちの相互承認にもとづくよう配慮することで
ある。そのためには,クラス内の交友関係を把握し,一方的ないし不平等な関係が固定していないか,つね
に注意する必要があろう。クラス内で人間関係が形成されていく時期(進級時のクラス替え等)には,とく
に気をつけなければならない。そして,子どもたち同士の争いが,相互承認へとつながらない場合は,必要
に応じて積極的に介入して,支配関係の生成・固定化を防止しなければならないだろう。
⑶ アイデンティティ形成にともなう欺瞞といじめ
上の⑵では,自我同一性の成立を他者との関係から考察した。人間は,自己以外の他者を否定・排除して
自己を確立しようとするが,他者との関係のなかで自他の差異と同一性を認識することで,
「私は私である」
という自己意識に到達しうることが明らかになった。では,⑴でみた「意識あるいは記憶の連続性」につい
ては,どうだろうか?以下では,ロックが「人格的同一性」の条件とした「意識あるいは記憶の連続性」を
問題にする。この問題を考えるうえで取り上げたいのは,道徳との関係で人間の記憶を問題にしたフリード
5 暴力と抑圧にもとづく支配が永続しないことは,20世紀後半における宗主国と植民地の関係にも見て取れる。
6 『精神現象学』(Hegel[1807]1970:145-55=1998:129-38)においてヘーゲルは,支配関係のなかで主人が奴隷への依
存を深めるのに対して,奴隷が服従を通じて自立し,最終的に主奴の関係が逆転することを,印象的な形で描いている。
122
いじめを哲学する
リヒ・ニーチェ(1844~1900)である。彼は,人間が生きるうえで,忘却は不可欠であると主張する。
「最小の幸福においても最大の幸福においても,幸福をして幸福たらしめるものは常に一つである。それ
は忘却しうること(Vergessen-können)であり,あるいはより学者っぽく表現すれば,幸福が続く間,非
歴史的に感覚する能力である。」(Nietzsche[1874]1972:246=1964:104)
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「健忘(Vergesslichkeit)とは,浅薄な徒輩が信じるような,たんなる惰性力ではない。むしろこれは能
動的で,もっとも厳密な意味における積極的な抑止能力である。この能力のおかげで,およそわれわれに体
験され,経験され,摂取されるものが消化の状態(これを〈精神的同化〉と呼んでもよい)にあるうちは,
われわれの肉体的栄養,いわゆる〈肉体的同化〉が営まれる種々さまざまの全過程と同様に,意識に上らな
いでいるのある。」(Nietzsche[1887]1968:307=1967:377)
ニーチェによれば,人間は忘却する能力があるからこそ,過去のいまいましい記憶の重荷に押しつぶされ
ることなく,未来に向かって生きていけるのである。忘却は睡眠に似ており,忘却できない人間は,いわば
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不眠の人間である。その意味で,人間の記憶は,自分にとって都合の悪い事実の忘却のうえに成り立ってい
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る。もちろん忘れられるのは,嫌なことばかりではない。「忘恩は世の常」という言葉があるが,感謝すべ
き恩義も,それに見合ったお返しができず,精神的な重荷になってしまうと都合よく忘れられてしまう。
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ロックが言うように人格の同一性が記憶の連続性に依拠するとしても,その記憶が自己中心的かつ恣意的
であるとすれば,私たちのアイデンティティは,かなり怪しいものとなる。なぜなら,私が私と思っている
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ものは,すでに私自身によって歪曲された私だからである。この点を,さらに突き詰めたのが,忘却,夢,
失錯,強迫観念などを手がかりに,「無意識」を想定したジークムント・フロイト(1856~1939)である。
彼によると,私たちが「自我」や「意識」と呼んでいるものは,私たちの「精神」の一部にすぎない。私た
ちは,自分が認めたくない欲求や受け入れがたい感情を,無意識的に「抑圧」して意識の外へと押しやるか
らである。忘却,夢,失錯,強迫観念などは,こうした自我による「抑圧」と関係している(Freud[1917]
1992=2012)
。
このように自我は,苦痛を与える感情にたいして自己の心理的安定を図ろうと無意識的にいろいろなこと
を行っている。精神分析ではこの心理メカニズムを防衛機制と呼んでいる。さまざまな防衛機制のうちで,
いじめを考えるうえで重要なのは,
「投影(Projektion)」である。「投影」とは,自分のうちにあって自分
のものと認めたくない欲求・感情(たとえば「憎しみ」)を無意識的に他人に転嫁する防衛作用のことである。
たとえば,実際には自分が相手を憎んでいるのに,相手が自分を憎んでいると考えることである。歴史的に
見ても,ユダヤ人にたいする民族的差別のように,自分(たち)のアイデンティティをポジティブに保とう
とするために,自分の中にあるネガティブなもの(汚いもの,嫌なもの,不純なもの)を,特定の人間・集
団に押しつけることがしばしば確認される。子どもたちの場合であれば,
「ガリ勉」
「ぶりっこ」
「ださい」
「け
ち」
「きたない」「くさい」など,自分には認めたくない性質を具現した人物・集団を作り出し,いじめの対
象にすることを考えればよいだろう。弱い子,変わった子,社会的に不適応な子がいじめの対象になりやす
い理由もここから理解できる。教師としては,加害者に「いじめはいけない」とただ説教するだけではなく,
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こうした自我の防衛機制や,差別し排除する側のメンタリティをよく理解したうえで,いじめに向き合う必
要があろう。
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佐 山 圭 司
第二節 道徳・文化といじめ
いじめ防止の有効な手段として,しばしば道徳教育の充実が挙げられ,道徳を「特別の教科」として位置
づける際にも,そうした主張がくり返しなされた。そもそも,いじめを含めた非道徳的な行為は,道徳的な
教化によってなくす(もしくは減らす)ことができるのであろうか?たしかに文化や教養が高まれば,人間
は道徳的になると考える人々もいる。こうした啓蒙主義的楽観論に異を唱えているのが,先に登場したニー
チェとフロイトである。彼らは,文化や道徳に抑圧的な性格を見出す。とりわけニーチェは,私たちの社会
のもっとも基本的原理である正義や平等といった観念が,強者にたいする弱者の怨恨に由来していることを
明らかにし,人間主義的な道徳の欺瞞を暴露しようとする。
⑴ 弱者のルサンチマン(Ressentiment)としての正義や平等
ニーチェは,
「よい」「わるい」と判断する際に用いる価値基準,つまり善悪の基準を,その起源から明ら
かにする(これを彼は「系譜学」と言う)。「よい」行為(たとえば,お年寄りに席を譲るなど)とは,一般
的にその行為によって利益を受けた側から「よい」とされる行為のことだが,ニーチェによれば,「よい」
とは,かつては貴族・強者が自分たちに与えた価値であった。つまり,自分たちのように「高貴な」「強い」
者を「よい=良い(gut)
」と呼び,身分の低い卑しい者を,同情を込めて「わるい=悪い(schlecht)」と
呼んだという。ところが,キリスト教によって,価値が逆転させられ,「貧しく,病んで,卑しく,弱い」
者が,善人,すなわち「よい=善い」者になり,「豊かで,残忍な,強い」者は,悪人,すなわち「悪しき
=邪悪な(böse)」者とされた。弱者の側に立つ道徳を,ニーチェは,
「主人の道徳」にたいして,
「奴隷道徳」
と呼ぶ。彼によれば,平等や正義を求める要求は,弱者の「ルサンチマン(怨恨)」に由来するものであり,
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キリスト教とは,現実の世界で反抗できない弱者が,強者にたいして観念のうえで行った「復讐」に他なら
ない。弱者は,
「正義」という美名で,強者への復讐を正当化する一方で,同じように無力な弱者にたいし
ては,
「同情」する。ニーチェにとって,
「正義」や「平等」同様,
「同情」も生にとって否定的なものである。
「出る杭は打たれる」という言葉のように,優れた人は嫉妬の対象になりやすい。能力のある人は,しば
しば道徳的な観点から断罪され,一般人の水準に引きずり下ろされることがある。マスコミでもてはやされ
ている有名人が問題を起こす(あるいは大衆の気に食わない言動をする)と,突然「匿名」の大衆の激しい
バッシングにさらされることがあるが,それは弱者の反逆と言えるかもしれない。いじめとの関連でいえば,
「弱い子」
「変な子」だけではなく,クラスのリーダー的な存在が時としていじめの対象になるのは,平均
的な子による「ルサンチマン」として理解することもできよう。
⑵ 本能の「抑圧」としての文化
ニーチェは,人間の世界も,自然界と同様に,自然な状態においては「弱肉強食」であり,これを抑制す
ることは生の否定につながると考える。彼は,生の現実をリアルに語る。
「侵害,暴力,搾取を互いに抑制し,自己の意志と他者の意志とを同等に扱うこと。このことは,もしそ
のための条件が与えられてさえいるならば(すなわち,各人の力量や価値尺度が実際に似たりよったりで,
しかも彼らが同一の団体の内に共に属しているとすれば),或る大ざっぱな意味において個人間の良俗とな
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りうるだろう。だがこの原則を広くとって,できるならそのまま社会の根本原理と見なそうとするやいなや,
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ただちにそれは生否定への意志であり解体と頽落の原則であるというその正体を暴露するであろう。……生
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そのものは本質において他者や弱者を我がものにすること,侵害すること,圧服することであり,抑圧する
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いじめを哲学する
こと,厳酷なることであり,おのれ自身の形式を他に押しつけること,摂取同化することであり,すくなく
とも――ごく穏やかに言っても搾取することである」(Nietzsche[1886]1968:217=1967:271)。
ニーチェによれば,生きるとは,そもそも残酷なことであり,他者の抑圧と支配なしには成り立たない。
これを否定することは,生そのものの否定である。ところが,文化や道徳は,これを抑制しようとする。そ
こで外に向けられていた残酷さや破壊衝動は内へと向けられる。「良心の疚しさ」とは,このように内へと
向けられた暴力性であり,自己破壊である。その行き着く先は,苦悩の原因を自己に求め,自己を無(ニヒ
ル)にすることを目指す「禁欲主義」である7。
ニーチェのこうした見解に,フロイトも与する。文明社会に生きる人間は,さまざまな自然的衝動を断念
しなければならない。その意味で,文化は人間にとって抑圧的であり,人間は,文化のなかで「居心地の悪
さ(Unbehagen)
」を感じている。したがって,無礼講の飲み会などは,こうした抑圧から一時的に解放さ
れる機会である。社会的に許されない本能的な欲求を,社会的に評価される行為(文化・芸術的な活動など)
に振り向け,それによって充足を得ようとするのが「昇華(Sublimierung)」である。
⑶ 文化生活といじめ
私たちは,
「思いやりのある,温かい」態度や行為を「人間的な」という言葉で形容することが多い。し
かし,ニーチェによれば,むしろその反対の残酷さこそが,「人間的」だという。「苦悩するのを見るのは愉
快である,苦悩させることはさらに愉快である,――これは残酷な命題であるが,古く,強力で,人間的な
あまりに人間的な根本命題であり,おそらく必ずや猿ですらもこれを是認するであろう」
(Nietzsche[1887]
1968:318=1967:388)。私たち教師は,ニーチェのこの一文とどう向き合うべきだろうか?他人を苦しめて
喜ぶなど,
あまりに非道徳的で歪んでいると切って捨てるのはたやすい。学校や家庭で「他者への思いやり」
をきちんと育てれば,こんな人間が生まれるはずはない,と反論することもたやすい。さらに,ニーチェを
使っていじめを正当化するのか,と憤ることもたやすい。しかし,いじめがなくならないのは,いじめるこ
とに「喜び」を感じる子がいるからではないのか。それがいかに唾棄すべき「邪悪な喜び」だとしても,教
師としてはその現実から目をそらしてはいけないのではないか。
教育の世界(とりわけ幼児・初等教育)においては,子どもを「善い」あるいは「無邪気な=罪のない」
存在ととらえ,子どもを堕落させるのは大人たちの「悪しき」社会とみなすルソー主義的な考え方が,今な
お根強く残っているように思える。次節で検討するように,社会制度が子どもたちに与える影響は大きく,
それをすべて否定するつもりはない。しかし,ルソーが賛美する「良心」や「思いやり(同情)」も,ニーチェ
にとっては,大きな問題を孕むものである8。
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7 「外に向かって発散されないすべての本能は,内向する。――これこそ人間の内面化と私が呼ぶものである。これによっ
てはじめて,のちのち人間の〈魂〉と呼ばれるようになるものが,人間の内に生長してくるのである。……古い自由の本能
に対して国家的組織がおのれを防護するために築いたあの怖るべき堡塁――なかんずく刑罰がこうした堡塁の一つだが――
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は,野蛮で放縦で浮浪的な人間のあの本能すべてを追い退けて,これを人間自身の方へと向かわせた。敵意,残忍,迫害や
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〈良心の疚
襲撃や変改や破壊の悦び,――これらすべてが,こうした本能の所有者自身へと方向を転ずること,これこそ,
しさ〉の起源なのだ。外部の敵や抵抗がなくなったことから,いやでも習俗の圧しつけられるような狭苦しさと杓子定規の
状態に押し込められた人間は,心いらだっておのれ自身を引き裂き,責めたて,咬みかじり,かきむしり,いじめつけた。
……しかも良心の疚しさとともに,人類が今日なおそれから癒っていないあのもっとも重い不気味きわまる病気もはじまっ
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」
(Nietzsche[1887]1968:338f.
たのだ。すなわち,人間が人間たることに,自己自身たることに悩む,という病気である。
=1967:410-1)
8 筆者はルソーの教育論の意義を否定するつもりは毛頭ない。教員免許状更新講習においては,本稿のもとになった「い
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道徳教育の充実によっていじめを根絶しようとするのは,一見もっともな考え方である。しかし,ニーチェ
やフロイトが考えるように,規範の内面化は,それが文化生活を営むうえで不可欠であっても,人間の本能
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にたいする抑圧をつねに含むものである。したがって,文化や道徳の抑圧的側面にたいする理解なしには,
理想論で終わってしまうだろう。
第三節 社会構造といじめ
いじめが,一方でアイデンティティ形成にともなう排除や欺瞞と,他方で文化の抑圧的性格と結びついて
いるのであれば,文化や社会が存在するかぎり,いじめは存在することになる。だが,いじめを生み出しや
すい社会や集団の形態があるようにも思える。そこで,ここでは,社会の構造といじめの関係について考察
する。子どもたちにとっての「社会」とは,いうまでもなく学校である。したがって,いじめを考えるため
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には,学校という閉鎖的な空間の分析が不可欠である。
⑴ 規律と監視――監獄と学校
ニーチェから強い影響を受けたフランスの哲学者ミシェル・フーコー(1926~84)は,1975年に刊行され
た『監獄の誕生』のなかで,近代において確立した監獄制度,軍隊組織,学校制度,工場を分析し,それら
に共通するディシプリン(規律・訓練)の技術と手段を見出した。
ディシプリンの技術として最初に挙げられるのは,閉鎖的空間への配分である。そこで人間は,特定の場
所に「閉じ込め」られ,
「碁盤割り」の原則にもとづいて,機能的に位置を決定される。それは,席順・成
績順などの序列にしたがって置き換え可能である。そして,行動がコントロールされ,厳密な時間管理のも
と,行進の仕方や字の書き方など,規格化された行動が求められる。さらに,進度・到達度に合わせた段階
的なクラス分け等によって成長過程も組織化される。最後に,様々な力の組み合わせによって,教師は一人
ひとりではなく,全児童に同時に教えることが可能となる(Foucault 1975:159-199=1977:141-174)。
次に,ディシプリンのための手段としては,優等生による教師の補助,クラス内の「係」「班長」を通じ
て「階層秩序的な監視」を行い,遅刻,欠席,怠慢,反抗,言葉遣い,悪い姿勢,素行・成績不良,服装,
不潔,校則違反等にたいしては,褒美とセットで「規格化のための制裁」がなされる(優等生や劣等生であ
ることを示す肩章などが,かつては存在していたことを想起したい)。そして,「階層秩序」と「規格化」の
技術を結合させたものが,
「試験」である。フーコーによれば,伝統的権力(たとえば絶対王政の王権)が,
自らを誇示する可視的なものであったのにたいして,近代の諸制度を貫く規律的権力は,自らを不可視にす
ることで,服従者に自分を示すよう強制している。つまり,可視性の義務を課されているのは,服従者であっ
て,権力の行使において,可視性が逆転しているという。具体的に言えば,学生に試験を課す教師は,その
力量を試験されない(Foucault 1975:200-227=1977:175-197)。
近代の権力行使を象徴的に示しているのが,功利主義の哲学者ジェレミ・ベンサムが考え出した「パノプ
ティコン」という「一望監視施設」である。これは,監視される側からは見えない監視者によって監視され
る施設で,これが導入されると,従来の「見る-見られる」という双方向的な関係は,監視者による一方的
監視へと変わる。こうした監視体制により,規律の機能が,逸脱の防止から技能・効用の増大へと転換し,
先に見た閉鎖的管理がより幅広い管理になり,最終的には国家が細部にまで監視の目を光らせる管理社会に
じめを哲学する」とならんで,毎年「ルソー『エミール』から教育を考える」という講習を実施して,ルソーの教育思想の
現代的再生の可能性を検討している。
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いじめを哲学する
行き着く(Foucault 1975:228-264=1977:198-228)。
⑵ 抑圧の移譲原理――軍隊と学校
市民生活が隅々まで国家によって監視されていた時代として,私たちにとってもっとも分かりやすい例は,
戦中日本の軍国主義体制であろう。日本ファシズムを分析・批判した丸山眞男(1914~96)は,戦後まもな
く発表した論文「超国家主義の論理と心理」
(丸山[1946]2015:11-37)のなかで,軍隊組織を「抑圧の移譲」
「無責任体制」と特徴づけた。後年,この「抑圧移譲の原理」について彼は次のように説明している。「そ
れは日常生活における上位者からの抑圧を下位者に順次移譲して行くことによって全体の精神的なバランス
が保持されているような体系を意味する。……抑圧移譲原理の行われている世界ではヒエラルヒーの最下位
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に位置する民衆の不満はもはや移譲すべき場所がないから必然に外に向けられる。非民主主義国の民衆が狂
熱的な排外主義のとりこになり易いゆえんである」(丸山[1949]2015:180-1)。
フーコーが分析した軍隊と学校の等質性を考えると,丸山の指摘はいまなお示唆的である。いじめが,学
校内,家庭内におけるさまざまな抑圧を「上から下へと」(親から子へ,兄から弟へ,先輩から後輩へ,強
い子から弱い子へ)移譲したものであること。そして,移譲すべき対象をもたない子は,抑圧を外へ向ける
(家庭内で抑圧されている子は学校でクラスメートに,逆に学校で抑圧されている子は,家庭で,あるいは
近所の子に,といった具合に)
。さらに,水が上から下に流れるように,抑圧が下へ下へと移譲されるもの
だとすると,抑圧の由来は一義的に確定できず,行為者(いじめの加害者)に「責任感覚」が欠如していて
も不思議ではない。このことも,軍国主義体制と同様である。
まとめにかえて――いじめとどう向き合うか
最後に,免許状更新講習に参加された現職の先生方の声を紹介しながら,いじめとどう向き合うか考えて
みたい。講習では,これまで見聞きしたいじめの事例を,上で紹介した思想家の議論を用いて先生方に分析
していただくのだが,多くの先生方が,第三節で取り上げた丸山の「抑圧の移譲原理」を用いて説明してい
た。そのことは,民主主義国家として戦後再出発した日本が,ヒエラルヒーにもとづく社会秩序という点で
は,構造的にそれほど変化していないことを裏づけているように思える。他方,クラス内での相互承認の重
要性を認めつつも,ヘーゲルの「承認をめぐる闘争」モデルには疑問も寄せられた。ヘーゲルの議論の出発
点にあるのは,とことんまで自己主張する個人(個別的意識)であり,他者との否定的関係を耐え抜く強さ
をもつ存在である。ある先生のたとえで言えば,中にぎっしり空気が詰まり,たとえ強く踏まれても元にも
どる弾力性を備えたボールのような存在である。ところが,最近はきちんと自己主張できず,少しでも踏ま
れるとすぐに「ぺしゃんこ」になってしまう子が増えているという。つまり,今の子どもたちのアイデンティ
ティ形成の出発点をなすのは,自己肯定感で満たされた状態ではなく,むしろすでに否定性を抱えた状態だ
というのだ。そうだとすると,今の子どもの現実を反映したモデルを新たに構築する必要があるのかもしれ
ない。
また,おもに第二節で紹介したニーチェとフロイトの議論に関連して,「攻撃衝動が人間の本性に属する
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のであれば,いじめは結局防ぎようがない」という悲観的な意見と,「教師の努力にもかかわらずいじめは
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生じてしまうものなのだと分かって少しほっとした」という安堵の声が目についた。どちらも現場で日々奮
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闘されている先生方の本音なのだろうが,筆者としては,この両極の中間をとって,いじめに向き合うのが
よいように思える。つまり,本稿で論じたように,いじめに発展しうる排除や欺瞞,あるいは抑圧や攻撃性
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が,人間性や人間の成長過程に付随している以上,教師は,いじめはどこでも――とくに問題を抱えていな
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い「よい子」たちの集団のなかでも――起こりうるという緊張感をもたなければならない。と同時に,与え
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られた条件下で,教師の配慮と工夫――相互承認にもとづく人間関係づくりや子どもたちが学校生活で感じ
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るストレスを適度に解消・分散させる環境づくりなど――によって,いじめを防止ないし減少させるよう努
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めることが大切ではないかと思う。もちろん,すでに起きてしまったいじめについては,いじめが,なぜ発
生し,どうしてここまで持続・発展したのかを冷静かつ論理的に考察し,できるかぎり適切な対応を取るこ
とが重要であろう。本稿で取り上げた議論が,そうしたいじめ対応に少しでも役立つなら,筆者としては望
外の幸せである。
引用・参照文献
(引用箇所は,著者名と以下に掲げた文献の刊行年,および頁数で表記した。欧語文献の場合,著者名と原著の初版ととも
に使用したテキストの刊行年と頁数,そして翻訳の刊行年と頁数を示した。欧文の引用にあたっては,併記した邦訳を参照
したが,筆者の判断で変更させていただいた。)
内藤朝雄(2009)『いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか』講談社現代新書
森田洋司(2010)『いじめとは何か 教室の問題,社会の問題』中公新書
丸山眞男(2015)『超国家主義の論理と心理 他八篇』岩波文庫,古矢旬編
J.G. Fichte, [1794] 1971, Grundlage der gesammten Wissenschaftslehre, in: Fichtes Werke, hrsg. von I.H. Fichte, Bd.1, Walter
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『ニーチェ全集第10巻』所収,理想社,1967年)
Fr. Nietzsche, [1887] 1968, Zur Genealogie der Moral, in: Nietzsche Werke, hrsg. von G. Colli und M. Montinari, 6.Abt. 2.Bd.,
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『ニーチェ全集第10巻』所収,理想社,1967年)
(札幌校准教授)
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