Title ニーチェの「永遠回帰」について Author(s) 古田, 耕作 Citation [岐阜

Title
ニーチェの「永遠回帰」について
Author(s)
古田, 耕作
Citation
[岐阜大学教養部研究報告] vol.[11] p.[270]-[276]
Issue Date
1975
Rights
Version
岐阜大学教養部第2外国語 (Faculty of General Education, Gifu
University)
URL
http://repository.lib.gifu-u.ac.jp/handle/123456789/46014
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ニ ー チ エり 「永遠 回帰」 に つ い て
古
田
耕
作
岐 阜 大 学 教 養 部 第 2 外 国 語
( 1975 年 9 月 30 日 受 理)
Von der =Wiederkunftslehre Nietzsches
K osaku F URuTA
大宰治が死んだ と き, 中島健蔵も哀惜の文章をかいた。 「こ こを過ぎて悲 しみの町」, これ
が大宰は好 きだ 9 だ。 大宰が こ うい う気持か ら一歩ふみだ して, た と えばニーチ ェの 「これ
が人生だったのか, さあ, もう¬度」 という言葉を好きになってくれたら良かったのに, と(「
大宰 と しては, 彼の人生は一度だ け で もや りきれなか った のに, 「も う 一度」 な ど とは無
理 な注文 であろ う。 中島 もそれを承知 の上でかいて い る。二
ニーチ ェ も苦 しみかたは違 う が, 大宰 と 同 じ く , や り きれな い人生を生きた。 ニーチ ェが
考案 した人生肯定の処方誂は, 彼のや りきれな さ を克服す るためであ った。 「健康への意志
か ら私は私の哲学を つ く りだ した」。 「病人はペ シ ミ ス トた る権利がな い」。 独断的にいえば 。
「 これが人生だ っ た のか, さ あ , も う 一度」 と い う宣言は ニ ーチ ェ の肉声ではな い。 『 ツ ァ
ラ ツス ト ラ』 と い う楽劇を 自作 自演す る こ と に よ って のみ, ニーチ ェは, こ の人生肯定, 人
生讃美の七 リ フを歌 う こ と がで きた。 だが歌は結局の と こ ろ, 歌であ っ て現実ではない。 こ
のセ リ フ は 「永遠回帰」 思想の一表現 であ るが, 「永遠 回帰 」 が 肉眼 と な り肉声 と な るな ら
ば, 人間は人間で な く な っ て 「超人」 と な る。 人間 と し て の ニ ーチ ェ に と っ て 「永遠回帰」
は現実で はない。 これは彼の哲学的 「仮説ム
」 にす ぎない。 「永遠 回帰」 と い う立場を とれば,
世界 と人生の風景が ど う変 るか, 人間の生 き方が ど う変 るか。 これにかんす る思想の, 感情
の, 意志 の実験を ニーチ ェは試みた。 ニーチ ェみずか ら 「実験哲学」 と名づけて い る。
人間 と し て のニ ーチ ェ に と っ て人生 は一度でた く さ んだ っ た。 それに もかかわ らず ( む し
ろ , それ故に) 哲学者 う ーチ ェ は 「永遠回帰」 を語 った。 楠正成は 7 回生 まれ変 っ て南朝に
つ く す , と誓 った と い う が, ニ ーチ ェ は 7 回や70回ではな く , 無限回の同一の人生を ほ っす
る こ と に な る。
こ の 「永遠回帰」 と 「権力への意志」 と を組み合わせて , 伝統的意味での体系的な哲学を
構想す る こ とは可能であろ う6 ニーチ ェ七 しん, こ う い う哲学のも く ろみ とか 目次を書 きの
こ して い るが, こ のも く ろ みは挫折 し , 大量の断片がのこ さ れて い る。しその後, ニ ーチ ェに
代 っ て,
こ う い う 「ニーチ ェ哲学」 の構築 , 解明, 解釈のた めに, さ ま ざ まな努力がな され
て きた。 それはそれな りに意義があろ う。 だが人間 ニ ーチ 土の視界は 「 ニーチ ェ哲学」 の視
界 よ り もず っ と広い。 「 ニ ーチ ェ 哲学 」 か らはみ出 し落ち こ ぼれ る多 く の観察 と体験の記録
があ る。 そ して 「ニーチ ェ哲学」 の例証 と されてい る ニ ーチ ェ の箇 々の断片的言説 も, も と
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ニーチ ェの 「永遠回帰」 について
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のひ と り立 ち の断片 と し て生 き返 ら さ れ る こ とがで き る。 要す る に ニーチ ェ の思想は , 講壇
哲学的意味での 「哲学」 と し て眺め られ る よ りは, 「 ゲ ーテ の哲学 」 とか 「モ ンテ ーニ ュの
哲学」 とか 「論語の哲学」 とかい う意味で の, 広い意味で の哲学 と して眺め られるのに向い
てはいないか。 こ の よ う に眺め るな らば ニーチ ェ の存在意義は批評家 ニーチ ェ にあ る。 文明
批評 , 文芸批評 , 音楽批評 , 人間の心理 と行動にかんす る鋭利な観察, 一種のイ デオ ロギ ー
論 と も い うべ き諸値価の批判。 批評家 と して のニーチ ェ は現代において も, そ の意義を 失 っ
て いな い。 「 ニ ーチ ェ 哲 学」 が批評家 ニ ーチ ェ の根拠地で あ る と か, ニーチ ェ の批判 のやい
ばの製造所であ る とか, 誤 り考 え られて きた。 現代か らみる な らば, 「 ニ ーチ ェ 哲学 」 は 二
- チ ェの周辺的現象であ っ て, 哲学史的関心の対象で しかあ りえない。 「権力への意志」 も,
そ の ト ゲ ト ゲしい ヒ ス テ リ ッ クな調子を 適当に調髪すれば , 「生 の哲学」 とか 「 プ ラ グマチ
ズム」 の仲間であ る。 「永遠 回帰 」 は, そ の薬味で あ る。 しか し要す るに歴史の波の下に沈
んで し ま った過去の遺物にす ぎない。 こ う い う ニーチ ェ評価を前提に した上で , 「永遠回帰」
に照 明を 当て てみた い。
十
『こ の人を見 よ』 において 「永遠回帰」 のイ ンス ピ レーシ ョ ン的着想が回顧 さ れて い る。
「さ てい よい よこれか ら 『 ツ ァ ラ ツス ト ラ』 の来歴を話そ う。 この作品の根本概念, すなわ
ち永遠回帰の思想, お よそ到達 し う るか ぎ りの最高の肯定の定式-
, これは1881年 8 月に
で きた ものであ る。 これは一枚の紙切れに走 り書 き さ れ, 『人 と 時 と のか なだ6000フ ィ ート』
と付記 されてい る。 あの 日私は シルヴァ プラ ーナの湖に沿 って森を い く つか通 り抜けて歩い
て行 った。 ス ール レイ の近 く に ピ ラ ミ ッ ド型を して そびえて い る 巨大な岩があ り, 私はそ こ
で立 ち止ま った。 そ の時 こ の思想が私に到来 した のであ った」 ( 川原栄峰訳, 理想社)。
古典文献学者で あ っ た ニ ーチ ェ は, ピ タ ゴ ラ ス派に も , これ と似た よ う な思想があ っ た こ
とを知っていて, 『生にたいする歴史の利と害』 の中で言及していると)だが, それは軽い意
味で の知識で しかなか った。 これ と反対に シルヴァ プ ラ ーナの体験は強烈な実感であ った。
この奇妙な実感を追体験す る こ とはニーチ ェ以外の人間に と って 不可能であ り, かつそ の必
要 も な い。 要す る に, これは ニ ーチ ェ に と っ て のみ人類史的な重大事件で あ っ た。 キ リ ス ト
教信仰の崩壊に よ って人生の究極的意義が消滅 し ( だ と ニーチ ェは思い) , こ の意義 を 失 う
た状況にたい して, いかに し て適応す るか, または, いかに して人生の意義を再建す るか,
こ う い う飢渇感が ニーチ ェ の 「固定観念」 と な って い るが, 「永遠 回帰」 は こ う い う飢渇に
こた え る, いわば 「啓示」 で あ った。 こ の 「啓示」 は, まず 『悦ば し き知識』 において次の
よ う に語 られ る。
●
●
●
●
●
「最大の重 し。
二
も し或 る 日, も し く は或 る夜 な り, デ ーモ ンが君の寂寥 きわま る孤独
『お前が現に生
の果 て までひそかに後を つけ, こ う君に告げた と した ら, ど うだろ う,
き, また生 きて きた こ の人生を, い ま一度, いな さ らに無数度にわた って, お前は生 きねば
な らぬだろ う。 そ こに新たな何ものもな く, あらゆる苦痛とあらゆる快楽, あらゆる思想と
嘆息 , お前の人生の言いつ く せぬ巨細の こ と ど も一切が, お前の身に回帰しなければな らぬ。
しか も何か ら何 まで こ と ご と く 同 じ順序 と脈絡に した が っ て,
されば こ の蜘蛛 も, 樹間
のこ の月光 も, また こ の瞬間 も , こ の自己 自身 も, 同 じ よ う に回帰せねばな らぬ。 存在の永
遠の砂時計は, く りかえ し く りかえ し巻 き戻 され るー
じく ! 』
それ と と もに塵の塵であ るお前 も同
これを 耳に した と き, 君は地に身を投げだ し, 歯 ぎ し り して, こ う告げた デー
モ ンを呪わないだ ろ うか ? それ と も君は突然に怖 るべ き瞬 間を 体験 し , デ ーモ ンに 向かい
『お前は神だ , おれは一度 も これ以上に神的な こ と を 聞いた こ とがない ! 』 と答え るだ ろ う
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か。 も し この思想が君を 圧倒 した な ら, それは現在あ るがま まの君 自身を変化 さ せ, おそ ら
く は粉砕す る であろ う。 何事を す るにつけて もかな らず , 『お 前 は, こ のこ と を, い ま一度 ,
いな無数度にわた っ て, 欲す るか ? 』 と い う問いが, 最大の重 し と な って君の行為にの しか
かるであろ う ! も し く は, こ の究極の永遠な裏書き と確証 と のほかには もはや何 ものを も欲
しないた めには, どれほ ど君は 自己 自身 と人生 と を愛惜 しなければな ら ないだ ろ うか ?
……」 ( 信太正三訳 , 理 想社)。
ニーチ ェは 「永遠回帰」 と い う奇怪な思想を 堂 々と提出す るわけにはゆかなか った。 たぶ
ん世迷い ご と だ ろ う が , と い う前置 きが必要で あ っ た。 幻覚か も知れないデーモ ン, 迷妄 じ
みたそのさ さや き, こ う い う舞台装置が不可訣であ った。 こ う して 「永遠回帰」が語 られる。
も し もデ ーモ ンのさ さ や きが真理である と した ら , 人間の人生観 , 生きかたが, いかに重大
な影響を うけ るかが, それに と もな う喜び と恐怖 と と もに語 られる。 そのさ いに, その状景
を構成す る 「月光」, 「 ク モ」, 「それを みつめ る 自己 自身」 と い う イ メ ージが, かな り効果を
あげて い る。
丿
尚 『悦ば し き知識』 につ づ く 『 ツ アラ ツス ト ク』 ぱ, ニ ーチ ェ のい う こ7と く 「永遠回帰」 が
根本概念にな って い る。 「永遠 回帰」 と い う思想へ と ツ アラ ツス ト ラが 「成熟」 してゆ く ,
これが こ の作品の骨格 と な っ て い る。 こ の思想が近づ く と ツ アラ ツス ト ラは何度 も尻込みす
る。 こ の思想に直面す る と ツ アラ ツス ト ラは気絶 した り, 虚脱状態にな った りす る。 こ う い
う も った いぶ った演出の も と に 「永遠回帰」 が語 られ る。 「権力への意志」 も 語 ら れ る。 か
つまた 「永遠回帰」 や 「権力への意志」 とは結びつかない ( 結びつけ る必要のない) ニーチ
ェ 自身の人間観察 も , ち りばめ られて い る。 しか し結局 , ツ ァ ラ ツス ト ラは 「永遠回帰」 を
ものにす る こ と はで きなか った。 欣求 し, 賛美 しただけだ った。 『ツ アラ ツス ト ラ』 (竹 山道
雄訳 , 新潮社) か ら 引用 し よ う。
「か く の如 きが人生であるか。 いざ !
いま一度」 (幻影 と謎)。
「か く て, こ の月光の中に匍 う ゆるやかな る蜘蛛, こ の月光そ のもの, さ ら に, 城門の中
に坐 して永遠 の事物について相囁 く われ と な ん じ,
こ れ ら す べ て は, す で に一度在 り し
ものではないか ? 」 ( 幻影 と謎)
「お X, 人間 よ !
り きー
。/
深 し。/
深 き夢 よ り、 われは 目醒めぬー
そ の悲哀は深 しー
と。 /
! 』」 ( 賤
心せ よ じ 之 深 き夜半 は何を か語 る ? /
。/
快楽は
。/
世界は深 し。/
哀傷 よ り深 し。/
さ あれ、 す べての快楽は永遠を食 うー
「われは眠 り き。 われは眠
。六
白昼が思 え る よ り
悲哀はい う, 滅びゆけ
深 き、 深 き永遠を 斐 う
)。
「われはい ま死 し, 消滅す る。 一瞬に して, われ牒虚無であ る。 肉体 と 同 じ く , 霊魂 も不
滅にはあ らず。
さ あれ , われが絡み合わ さ れた る諸因の結び 目は回帰す るであろ う。 たたび創造す る で あろ う !
そはわれをふ
われは永劫 回帰の諸因に属す る。
ふたた びわれは来た る。 こ の太陽 と共に, こ の大地 と共に , / こ の鷲 と共に , こ の蛇 と共に
。 しか も, 一つの新 し き生へ, よ り よ き生へ, あ るいは似た る生へ と来た るにはあ らず。
ふたたびわれは永劫に, これ と 同一の生に回帰する。 最大な る ものに於て もー
る ものに於 て もー
。 最小な
。 か く し て, ふたたび一切の事物の永劫回帰を説教す る。
ふたたび, 大地 と人間の正午について語 り, ふたたび人間に超人を布告す る」
(快癒
者)。
「等 し き も めの永遠回帰」 と い う思想は, そ の内容か ら見れば馬鹿げた も ので あ る。 が,
3
ニーチ ェ の 「永遠回帰」 について
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この思想に賭け られ注がれた ニーチ ェの情熱が, これ らの文章に活力を あたえ, 散文詩 と し
て眺めれば, ( 詩の剤訳は可能か, とい う問題は素通 りす る こ とに して) , ある程度, 鑑賞に
たえ る。 ただ し , これ らの引用文は散文詩的表現 と して 『ツ アラ ツス ト ラ』 の最良の部分に
属してはいない。 なお, さい ごの長い引用は, ツ ァ ラ ツス ト ラが語 りえなかったこ とを, ツアラ
ツス ト ラ を愛する動物たちが語った ものであ って,
「永遠回帰」 の思想内容を, ほぼ示 している。
このほかに ニーチ ェは遺稿の中で も 「永遠回帰」 について語 っている。 なお, 遺稿か らの
引用は理想社版 ( ボイ ムラ ー版に よ り原佑訳) の 『権力への意志』 の番号をつけ る。 「永遠
回帰」 思想を 展開す るためのニーチ ェ のプ ラ ンを 眺め よ う。
「永遠回帰。 一つ の予言。
1.
こ の教え, お よびそ の理論的前提 と 結論 の叙述。
2.
こ の教え の証明。
●
3.
■■
㎜
,
●
この教えが信仰 さ れる こ とか ら生ず る帰結の推測」 ( 以下略, 1057)
ニーチ ェは 「永遠回帰」 を 科学に よ って証明で き るか も しれない と考えた。 ニーチ ェ に よれ
ば 「エ ネルギー恒存の原理は永遠回帰を要請す る」 ( 1063)。 も う少 し く わ し く 言 う と ,
「世
界を , 一定量の力 と して , また一定数の力の中心 と して考え る こ とが許 さ れ る とすれば , ( 中
略) こ のこ とか ら結論 されるのは, 世界は, そ め生存の大々的な さ い こ ろ遊びを つづけなが
ら も, 算定 し う る一定数の結合関係を通過 し なければな らな い と い う こ と で あ る。 無限の時
間の う ち であ ら ゆる可能な結合関係がいつ力ヽはいち ど達成 さ れて いたはずであ る。 それのみ
ではない, それ ら は無限回達成 さ れて いた はずで あ る。 しか も, あ らゆ る結合関係 と そ の直
後の回帰 と の問には総 じてなお可能なその他すべて の結合関係が経過 したにちがいな く , こ
れ ら の結合関係のいずれ もが同一系列の う ち で生ず る諸結合関係の全継起を条件づけ てい る
ので あ るか ら , こ のこ と で, 絶対的に同一 な諸系列の円環運動が証明さ れているはずである」
( 1066)。これが 「証明」 と いえ るか。 無限の時間, 有限の力, 有限の力の有限の組み合わせ。
こ う い う 概念 に依存 し た 物理学めいた推論。 プ ラ ト ンの対話篇にで も 出て きそ う な推論。
ニーチ ェの推論が物理現象の次元で通用す る と して も, これを生命現象, 意識現象, 文化現
象へまで適用 し よ う と い う無理。 また無限大, 無限小を処理 し よ う とすれば, た と えば数学
で も , それな りの適切な概念装置を考案せねばな ら なか った こ とへのニーチ ェ の無理解。 リ
ールは, ニーチェは空間も無限であることを忘れていた, と批判するク)ところが現代物理学
に よる と宇宙 は有限であ る ら しい。 だが現代物理学が ニーチ ェの 「証明」 を裏づけ るわけで
はなかろう 。 他方, 熱力学の第二法則に よる と , エ ネルギーの過程は可逆的で ない, つ ま り
光は熱Iを生産するが, その逆は起らない。 「回帰」 は起らない?)要するに, ニーチェによる
「永遠回帰」 の 「証明」 は反論す るに価 しないめであ る。 こ の 「証明」 のために ニーチ ェは
自然科学をじっく りと学習しようかとも思っだj)この計画は実現しなかったが, いずれ, や
●
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●
●
●
つて も無駄で あ る。 「永遠 回帰」 が 「すべて の可能 な仮説の う ち の最 も科学的な ものである」
( 55) と い う 断言 も空 し い願望に過 ぎな い。
科学 に頼 って 「証明」 を探 した り しないで, 「権力への意志」 の哲学を使 っ て, 「永遠回帰」
を主張 したほ うが, い く らかま しだ っ たか も知れ な い。 じ じつ ニ ーチ ェはこの方法を使った。
これ しか方法がなか った とい って よい。 「 いか に し て 認識は可能であるのか ? おのれ 自身
につい て の誤謬 と して, 権力への意志 と し て, 迷妄への意志 と して であ る」 (617)。 「権力へ
の意志」 が哲学に よれば, いかな る認識, いかな る哲学 , いかな る世界観 も, いずれ「虚構」,
「迷妄」 で しかない。 それの真偽は問題ではな く , それが 「生」 に有用であ るか否かが問題
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にな る。 「永遠 回帰」 は , ニーチ ェ に と っ て の理想的人間を 「育成」 す るのに有効であ る。
「虚構」 , 「迷妄」 を 承知の上で 「T
永遠回帰」 を択び と る こ と , こ のほ うが, 科学に 「論証」
を 求める よ りは筋が通 ・つてい る。
とはい う ものの, 同 じ く 「虚構」 にす ぎない と して も, あ る個人, あ る集団が本気で信奉
で き る 「虚構」 も あ り, それが無理な 「虚構」 もあ るのだ。 どんな 「イ ワタ の頭」 で も勝手
き ままに信奉で き るわけではない。 シルヴァ プラ ーナの体験が強烈であ ったにせ よ, かつ ,
それが ニ ーチ ェの飢渇にた い して適切無比であ った にせ よ, 「永遠 回帰」 に たい して ニーチ
ェは半信半疑であ った と しか思えない。 これ も溺れる者の ワラだ ったのではあ る まいか。
ニーチ ェ の飢渇に。たい して , そ して この飢渇に こた え るべ き 「永遠回帰」 の効能にたい し
て照明を あ て よ う。
「 『形而上学』 と 宗教のかわ りに永遠回帰論 ( これは育成 と精選の手段である) 」 ( 462)。
「極端な立場は中庸の立場 に よ っ て解消さ れないで , これ また極端な , しか し逆の立場に よ
って解消される」 (55夕
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ニーチ ェにと っては, 尨而上学は宗教の一変種であった。 宗教は, ニーチ ェの実感からい
って , キ リス ト教で代表 さ れる。 キ リネ ト教の魅力 と効能は ニーチ ェの頭に最後 まで焼 きつ
け られて いた。 信仰を失 った ニーチ ェは 「中庸の立場」 に安住で きない。 必死のあがきです
が りつ こ う と したが 「永遠回帰」 であ る。 いわば信仰の代用品である。 キ リス ト教は人生に
「重心」 を , 意味を あたえていた。 そのための概念装置は, ほぼ次のよ う な ものであ った。
まず神が世界 と万物を 「創造」 した。 「最後 の審判」 がその しめ く く りであ る。 ひ と りひ
と りの人間は 「霊魂不滅」 であ るが, こ う い う人間の行いは細大 も ら さず神の 目に見えてい
て, 「最 後 の審判」 で収支決算がな される。 人間は愚かで怠惰で罪深い存在であ って, つ ま
り 「原罪」 か らのがれ られない。 そ の一方, 人間は, あ らゆる被造物の中で特権的被造物で
あ って , 人間 と神 とを媒介す るイ エ ス ・ キ リス ト と い う 存在 も人間のかた ちを していた。 時
代に よ り, 宗派に よ って, いろ いろ の変化はあろ うが, これが概念装置の大体の骨格である。
これに よ って , ひ と りひ と りの人間が, 世俗的評価 と は別次元の, 絶対的な意義を もつ こ
と にな る。 人間は神の前でぱ無に等 しいが, こ う い う卑少な人間の, どんなに さ さ やかな善
悪で も, 神は見て い る。 人間が動物の一種であ るか ぎ り, 人間はいつで も 「 よ こ し まな」 行
動に よ っ て誘惑 され , ま よいの種はつ きない。 しか し , どんな さ さいな善悪の決断 も, いわ
ば個人の心の中での神 と悪魔 と の決戦なのであ る。 こ うい う信仰があれば, 世間の鈍感 も,
世間の誤解 も耐え しのぶ こ と がで き る。 ニーチ ェ に よれば,
「道徳は出来そ こ ないの者 ど も
がニ ヒ リ ズムにおち いらないよ うにふせ,ぐが, それは道徳が, 各人に無限の価値を , 形而上学
的価値を あたえ, こ の世の権力や階序のそれ と はそ ぐわない或る秩序の う ちへ と組みいれる
こ と に よ ってであ る」 ( 55)。 ご う して 「生 きがい」, 「重心」 がで き る。 「神 の後光 のつ いた
道徳」 のおかげであ る。 「キ リ ス ト教 的道徳解釈」 に よ っ て支え られた外的な , かつ内的な
道徳の効能である。 「キ リ ス ト教的世界観」 の実体的な中心は 「キ リス ト教的道徳解釈」, つ
ま り 「神 の声 と して の良心」 にあ った。
し
道徳は人間集団 と と も にあ る。 血縁集団, 擬制的血縁集団, 小 さ い地域集団か ら大 きい地
域集団へ と道徳の通用す る範囲は拡 がってゆ く。 道徳は違反されるこ と もある。 しか しその場
合に も, 違反す る と い う意識が もたれ る こ と に よ っ て, 道徳の存在が承認 され てい る。 二人
以上のア ウ ト ・ ローが集団を 組めば, 仲間だけ にた い しては道徳がで き る。 道徳の外的, 内
的規制力は, 集団が小さ いほ ど, かつ集団の成員の連帯感が濃密であるほど強い。 人類全体に
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ニーチ ェ の 「永遠回帰」 について
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お よぶ道徳意識, 人類は一家族 , これは真実であ る。 だがいぜん と して夢で も あ る。 遠い異
郷の異人種の理不尽な苦悩にたい して , 身近な人間にた いす るほ どの強い道徳的反応は起 り
に く い。 「旅 の恥 はか き捨て」 とか 「都市 国家の模範的市民が夷秋の地では大悪党」 と い う
のは, いぜん と して現実である。 他方, 道徳が時代に よ り地域に よ って変化 してい る こ と も
事実である。 かつ階級社会におけ る支配体制のイ デオ ロギーと し て の道徳 , こ の現象 も問題
を複雑に して い る。
だが要す るに , 道徳はモ ーゼの 「十戒」 の よ う な 「神の掟」 ではな く , つ ま り宗教的起源
ではな く , 社会的起源を もつ。 そ して , 人間が 「人類 と い り種」 の成員TCあるが故の 「生物
的起源」 も , たぶん , 考 え られねばな らな いだ ろ う。 こ の問題は , これで片づいたわけ では
ないが, 基本的には こ の方向で解明さ れる のではあ る まいか。
と こ ろ で , こ の よ う な 「中庸な」 道徳観で はニ ーチ ェは満足で きない。 道徳の非宗教化 。
「道徳の自然化」 を 叫びなが ら も , ニーチ ェは , こ の よ う な な まぬるい道徳感に安住で きな
いで , 「逆 の , 極端 な 立場」 へ まで , つ つ走 って し ま う。 「永遠 回帰」 へ , そ し て 「権力へ
の意志」 の 「貴族道徳」 。 「奴隷道徳」 と い う袋小路へ。 ど う し 七, こんな こ と にな るのか。
その事情を追体験す る こ とは困難であ る。 キ リス ト教の魅力 と威力, いわば 「神の後光」 の
残像がニーチ ェの視野を 支配 しつづけたのだ , と で も言 ってお く しかある まい。 ゲオル ク ・。
ルカーチのいうごとくニーチェは「宗教的無神論者」 であるy)アンドレ・ヂードの見るごと
くニーチェは「プロテスタント内部の一運動」 である」)ニーチェの相棒であるドストエフス
キー も, 「神 が な い な ら , い っ さ いは許 さ れて い る」 のではある まいかとい う懐疑に苦 し んで
いた。 ニーチ ェや ドス トエ フ スキーの飢渇 と懐疑, これが, 人間観察 , 自己観察において彼
らの 目を鋭利に したが, 同時に観察の ( と く に問題の解決方法の) ゆがみの原因と もな って
いる。 彼 らか ら教え られ る こ とは多い。 だ が , うか うか と彼 らの尻馬には乗れないのである。
世界観と しての 「永遠回帰」 , その 「後光」 のも とにて永遠回帰」 の道徳が歌われる。 「わ
れわれが も う一度生 き る こ と を 慾 し , かつ 永遠にそ の よ う に生 き る こ と を 慾す る ご と く に ,
生きることこ だがツァラツストラさえも, 「永遠回帰」 へま分は「成熟」 できなかったので
あ る。
ニ ーチ ェは, ニ ヒ リ ズム状況について述べなが ら書いてい る。 「そのさ い最強者 と し てお
のれを証明す るのは誰であろ うか ? 足 るを 知 る こ と こ の う えな き者 , いかな る極端な信仰箇
条を も必要 と しない者, 偶然や無意味の大部分を許す のみな らず愛す る者, 人間については
その価値を 相当割引 き して考え る こ と がで き るが, こ のこ と に よ っ て卑小にな り弱化す る こ
と のない者であ る」 ( 55)。 そ して ニ ーチ ェ は設問す る。 こ の時 「 ニーチ ェ哲学」 よ り も大 き
い 「人間 ニ ーチ ェ 」 が顔を だす。 「そ う し た 人 間 は永遠 回帰を どの よ う に考 え る で あ ろ うか
? 」 ( 55)。 答えは予想 さ れて い る。 そ のよ う な 「最強者」 は 「永遠回帰」 のご と き 「極端な
信仰箇条」 を笑殺す る。 そ して ニーチ ェ のい う 「最強者」 でないわれわれに と って も 「永遠
回帰」 は無用であ る。
「 これが人生だ った のか, さ あ, も う一度」。 「運命への愛」 ( amor fati)。こ う い う名文句
は 「永遠回帰」 の哲学か ら解放 して独立 さ せれば よい。 要す るに , 刻 々の現実を 大事に し ま
し ょ う, ひがんだ り逃げ腰にな った り しないで精一杯だたかい ま し ょ う, と い う ご く あ りふ
れた ( ただ し困難な) 心構え のた めの掛け声 と思えば よろ し い。
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276
古
田
耕
作
註
基本的な ニーチ ェ解釈にかん して , かつ , さ ら にそ の基礎 と もい うべ き 「 ニーチ ェへのア プ ローチ の態
度」 にか しんて , Crane Brinton ( Nietzsche ; Harvard Univ.
Press 1941, Harper Torchbooks
1965) か ら多 く を 教え られた。 こ の 「態度」 とは, ニーチ ェ の発言を処理す る場合に , つねに 自己の 「実
感」 と, の落差を 意識す る こ と で あ る。 これに よ っ て , ニーチ ェを 利用 した 自己催眠 と も い うべ き 「 ニーチ
ェ崇拝」 にお ち い ら ないですむ。 勤勉で愚劣な ニーチ ェ研究書の大群は, 自己の実感を忘れた こ とか ら発
生 して いる。 戯画化 していえば, 禅の師家の発言を引用 して , それをそ っ く り賛美 し肯定 して,
「ゆえに
生 と死は同一であ り, 故に……・」 と推論 してゆ く のと 同 じ愚劣 と滑稽の状景。 そ の 1例は芳賀檀氏の 「 二
- チ ェ論」 ( 理想社1963年) であ る。
Crane Brinton 以外に, 下記の諸著か ら, 基本的な ニーチ ェ解釈について ↓それぞれ若干の留保を も っ
て ではあ るが, 教え られた。
Alois Riehl ; F riedrich Nietzsche; F rommans V lg.
Stuttga.rt, 190 1 .
F r iedrich Georg JUnger; Nietzsche; V ittorio K lostermann V lg,
W alter K aufmann; Nietzsche; Meridian Books,
Eugen F ink; N ietzsches Philosophie,
(1)
記憶 に よる。 記載文献を 調査中。
(2)
A. Riehl ( 前掲) 143頁。
K ohlhammer V lg. ,
(3)
A. Rieh1146頁。
(4)
Udo Rusk6r; Nietzsche in der Hispania,
(5)
F rankfurt a. 皿 , 1949 .
New Y ork, 1956 .
Stuttgart,
1960 .
190頁, Franke Vlg, Bern und Miinchen 1962、
Hans Weichelt; Zarathustra-Kommentar 347頁 ( 矢 島洋吉 「 ニ ヒ リ ズムの論理」 福村出版1975年 。
78頁)。
(6)
原佑 氏の訳を 修正。
(7)
Georg LukacstDie Zerst6rung der Uernunft. 286頁, Aufbau-Vlg. Berlin, 1954
卜
(8)
ア ン ド レ ・ ヂ ー ド ; プ レテ キス ト, ア ソ ジ ェ ルヘ の手紙。
(9) A. Riehl . 152頁。
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