法然上人鍍仰会・発行

浄土 1162~岸 6 号(寄月 1 回 1 日発行)平成 B 牢 6 月 1 月発行昭和 10 年 5 月 20 日舞 3 橿郵便物認可
1996
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法然上 人鍍仰 会 ・ 発行
6日本テレコム
咲いたら、幸せ。
楽しい.嬉しい.
ちょっと切ない‘なつかしい。
いろんな話をしたり.聞いたり.
そんな何気ないことが.人と人との
悶い紳の第 一 歩.
それぞれの人の.それぞれのお話に
花を咲かせるお手伝い.
安い市外電話の .0088 です.
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三河の本多量まから家康の政昭結婚|こより議
筋頼7Jく公|こ嫁いだ貞松院ガ両親に符だされ
芝犬蛋子と紙入。寺号ともなった貞松院の
墓は当時では相当大きな墓だつだ。
山門は音は四闘門だつ
だという。門と本堂ガ
向き合う珍ら しい配置
になっている。
l官会員i
信長、嘉吉、家康!こ珍重されだといわれる名笛、一節切(銘・乃司
努〉は貞総院の寺宝。松平忠輝ガ家康ガら形見としてもらつだ縦笛。
122民l
諏訪湖畔の高島織の別名は「諏訪の浮織」。 寅松
院は高島藩の武土にも頻繁 lこ利用され、 部屋は
一間もある廊下ガあり 、 奇襲されてもやりが届
かない商取となっている。 また武者隠れや地下
への飯け道もある。
テレビの爆影場所にもな っ た甥。 隣の寺の
手伝いに向かう貞松院の山田和雄住聡。
一一本文 12ページ!こつづく 。
目次
カラーグラビア連載く名刺を訪ねて〉
…...........・写真=小堀祐二
わが身は凡夫なりと信ず…・....・ H ・....・ H ・-・・ 1 松島定宣
表紙は語る
3
8
野草・花ごよみ・...・ H ・....・ H ・..石井敏之 I3
選択の心を学ぶ・…....・ H ・........・ H ・...ジョアキン・モンテイ口 I4
名刺貞松院….....・ H ・-…....・ H ・-…....・ H ・....・ H ・-真山剛 20
御法言語に聴く....・ H ・....・ H ・....・ H ・.....・ H ・...・ H ・.....・ H ・....・ H ・ ...28
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i
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d ....・ H ・....・ H ・・・ H ・ H ・....・ H ・-…武田恵子
32
コラム……・………… ....・ H ・....・ H ・.....……....・ H ・-…………
4 I
日本という外国 ..........・ H ・-… H ・ H ・...シャウマン・ヴヱルナ-
42
コラム ・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
5I
j軟石の「こころ」を読む…… H ・ H ・-… ...・ H ・-今西順吉 52
コラム・...・ H ・・・ H ・ H ・....・ H ・....・ H ・-……....・ H ・...・ H ・.....・ H ・.....・ H ・ ...60
J フォーラム....・ H ・-…...・ H ・-… H ・ H ・...・ H ・....・ H ・...・ H ・....・ H ・ .
事務局便り
6
I
……...・ H ・.....・ H ・ H ・ H ・.....・ H ・..…...・ H ・.....・ H ・ H ・ H ・..… 68
編集後記...・ H ・.....・ H ・.....・ H ・.....・ H ・..…...・ H ・.....・ H ・ H ・ H ・....・ H ・ ...7 0
表紙題字=浄土門主
'1"' 村!ぷ隆俊 卜'
表紙燭影=石 J I' 敏之
アートディレクション=近 雌 卜問自11
7
法然上人償仰
身は
松島定宣
。
(浄土立宗の御詞)
なりと倍ず
(
念仏往生要義抄 )
一
O われ今浄土宗 を立 つるな趣は、凡夫の往生 を示 さんが ためなり
。
(二何故念仏の戸がたかくならぬのか
人皆悪人なり
今の世この時に、真に灯明となる教えは、
「智者の振舞をせずして只 一向に念仏すペ
。
法然上人の開示して下さった浄土念仏の教え
し」との、法然上人の御一生をこめての御泣
なり
である、かく信ずる者の一人として、法然上
訓をいただきながら、なかなか日称の 一行の
O世すでに末法
一
人鏑仰の縁があたえられたことは、無上の悦
生活にならぬのは、み教えが本当には信受さ
卒直に巧信を述べ、愈々法然
。
びであります
れていないからではないか、また法然上人が
。
上人を信じ共に念仏していきたいと思います
まったく 仰 せられなかったような念仏義が説
8
法f投J二人鍛仰
かれ、横行しているからではないのか、
えられています。
何故?どうして?一つは、かつては阿
。
一考
自他共に信じきれない、ために念仏
がに
称えられないのではないか、と忠われます
-3 法然上人の立宗
一、戒徳ならぶ者なし
と鐙仰され、弥陀の化身とまで思慕された法
世の人々から立第
然上人を越えるかの如き智者のふるまいによ
。
その並々なら
ね仰山労の小てわが身は尊き聖者の道にて
いの道を求められたのでした
信じ、諸の行業を修し」て、必死の思いで救
て実に 三十年の長きにわたって「諸の教法を
然上人でした。しかし御自身は、比叡の山に
。
一つは、私どもに凡夫の円党がなくな
。
はすくわれ心身である、と思いいたられまし
中で、実に徹底した「皆九夫の身である」と
の煩悩を 一つ残らず身にもっていて、その為
た
そして「わが身は食欲、嶋り、品川擬など
の信に立って、阿弥陀仏の本願の念仏、日称
に常に罪悪にまみれ迷い苦しんでいる凡夫で
。
の 一行こそが凡夫の生きる唯 一の灯明、であり、
。
多くの聖道諸宗 の他に、あえて新しく浄 t
て開示されたのでした
のみ教えをれ証なされ、釈尊出世の本懐とし
こそが必ず救われる教として選択本願の念仏
ある」との徹底した円党に立たれ、この凡夫
。
れて念仏を受けとり、説いたりすると、思い
この凡夫たることを円党せず、ここから外
いました
救いであると、生涯かけて説きすすめて下さ
法然上人は 一切の仏教を深く学び、行じる
りません
り、または弱い為ではないか、と忠われてな
いま
広がっているのではないか
って、念仏を受け t っている、思いあがりが
をいまは鎖仰する心がうすくなり、むしろ法
弥陀さまの化身とまで仰がれていた法然上人
と
あがりの、背師向立の勝手な念仏になり下り、
9
憂
。
只々このよき
師に随順して、み教えのままに念仏相続して
どの兵の九品の身であります
難行なるが故に聖道諸宗の教えには凡放され、
往生してこそ、この人の世に生れ出た悦びが
宗を別立なされたのは何故か。尊 いけれども
諸仏の紋いからも漏れて、濁世の聞に迷い苦
。
あり、甲斐があるといえましょう。
ひとえに、この身は凡夫なりとのれ党がなく、
何故そのような悦びに生きられないのか
しんでいる多くの人々の救いのためでありま
。
信じて円に称える、この円称念仏の易行ひ
した
とつで、生きる力と州内びが与えられ、この念 思いあがって智者のふるまいをして生き、法
然上人の生命と慈悲の、』もった教えを軽〈受
。
仏の道をゆけば、必らず光明の叶一界に往生で
けとっている為ではない でしょうか
、
きるとの希望を与えて、共に往生せんとの切
なる慈愛の思いからでありました。
(
三)法然上人の「九犬」とは
法然上人は、みずから「わが身は食間等の
最晩年のいわれなき流罪の苦しみも怨みと
煩悩をひとつ残らずそなえている身であり、
むな
言 い、私どもにも「先ずこのギを信ずペし」
せず、念仏の教えを誹誘し危難を加える者を
と
み教のいたるところで説いていられます
。
t
も「互いに順逆の縁虚しからずして一仏浄土
なして、
罪悪にして迷い苦しむ凡夫なりと深く信ず」
。
。
t
の友たらん」と願われたのでした 思うだに
感涙を禁じえないことであります
このように私たちと同じ凡忠の身
慈愛をこめてよハに作住宅せん」と手引きをし このところをしっかり信じ受けとらないと大
。
それを思い知られ刷ほ
。
法然上人の仰せられている「凡夫」とは、
念仏も巾せません
て下さる法然上人の教えに迎いえた、」とを、 悲の本願を仰信して往生を願う心も起きず、
。
この上なき幸せと悦ばずにはおれません 私
たちは凡夫であります
10
il波長 1 : 人鎖仰
貴賎
・
・同
聖者に対する平九普通の人という意、ではなく、
智者患者
あります
。
法然上人を心より鍍仰し、このt ころをみ
仏の教えの如く信受して、わが思い上りの心
。
'K ・右少の別なく、すべて煩悩をもっている
を払拭しましょう わが身は煩悩具足、罪悪
一切衆生のことです
又罪悪生死の身と
。
もの、のことであります
の九夫と信じ、み教えのままに、只一向に念
。
は、すべて悪行をなすのは煩悩によってであ
仏しましょう、共々にと切に思います
の灯明である
。
(問)法然上人の教えは
A、
の
1 世界人類
。
り、この煩悩が消滅しない限り常に惑を為し、
。
この身に影がそうているように、終
又罪を犯すおそれがあり、迷い苫しむ身であ
ります
生この身をはなれず、取ろうと思 っても取れ
今の我等は、八行年前の人間とは述う、知
。
識も学間もなく、社会も未発達の占い時代巾・
附とはちがい、人も陀の 小 も大いに進歩発展
者とは、この煩悩、円孜の執われを消滅され
。
ないのが煩愉であると教えられています 聖
、
た万で、私たちの分ではありません
している、念仏の教えなど時代遅れだ、人も
耳を傾けない、と思 っている者も決して少な
よって「口伝によらざれば往生の得分を失
うなり」と仰せられているこの口伝とは、わ
くはないかもしれません
をわが分、私への教えと頂戴していくのだ、
知り、この凡夫悪人にすすめ給うている教え
力のある人なら「附はすでに末法なり、人皆
人は汗くなっているのか、少しふかく考える
しかし果して、時代は良くなっているか、
。
が身が最下の罪人 ・煩悩具足の凡夫であると
という教えです そうでないと、思いあがっ
悪人なり」とのお 言葉が、身にしみでわかる
。
てみ教えを受けとりそこねて、往生というり
と思います
。
分を失うぞ、と誠めていられる懇切な教えで
11
次々と出ています。人聞は昔の人と比ぺて立
派になっている等とは、とても言えません。
この「浄土」の三月号に増上寺の藤堂御法
主も説いて下さっているように、空気、水そ
であります。
いがします。勿論他人ごとではない、自身が
より悪人(煩悩具足)になっているような思
です。
t
して大地まで、汚染されつづりています。昔
にはなかった こ
わが身を凡夫などと露思った、」ともなく、
学的知識、合理的計算などを駆使して人間の
えすすむべき時、ではない、でしょうか。
思い上りの信心を正し、生活を改めてととの
の教えを、しっかりとわが身に頂いて、己が
今の世、」の時、」そ、法然上人の「九夫往生」
みの使利、利得、発展、開発の名のもとに内
理性ある人間の特権と思い上って、人間の科
然の恵み、環境は年々に破壊され、汚染され、
私こそ凡夫なり、一切衆生九夫なりと信じ、
岐に大悲本願を仰ぎ信じて念仏の中に生きる
他の生物が次々と死滅しつつあること、そし
て遂には人間も生き難くなり、地球も破滅に
時、阿弥陀仏の摂取護念の導きを蒙って、わ
。
至る恐れさえ感じられてきています。原因は
自認する人聞が していることです
が身も世の中も、破滅をまぬがれ、ととのえ
t
智慧あり
法然上人の教えを灯明とし「共に皆凡夫」
られて参ります。
の自党を全世界に拡げて、力を合せて世界人
人間の智能の発達て出来ね事は何ひとつない、
ど人間の思いあがった悪世はないかもしれま
が期待されます。
と思っている者も少くありません。古来今は
ッ
類の危機に対応してゆく、そんな活動の出現
ト
『まつしまじようせん
J
F
布教師養成際産指師・常在指導員、
せん。
家庭や社会、 日々の政財界、官界等、
プクラスの知識ある方々、いやいじめ等の子
供の世界にまで、おぞましい汚濁の事件が
12
表紙は語る
野草花ごよみ
6月
•
スイカズラ
野にはえる本性のつる草。イE は写点のとおり 2 つ並んで
咲き、最初は円〈、後に此色くなるので、金銀花の別名
がある。名の由来は昔子供がこの花をちぎり、蜜を触っ
て遊んだことによる。ちなみに英名は JAPANESE
HONEYSUCKLE。
撮影場所埼玉県浦和市
もうひと花
イナ モリ ソウ(アカ村守)
山の州1*' こはえる炉陀主中:久;.持 3 -!Ck:1IIo筒形のイE
を 1-3 側つける . 名は牧野~Ii!牧制鑑によると 三 屯県必
tf.稲森山からきているそうである 。 いかにも I Li 1;;: らしい
感じの他物'T(ある
撮影場所
東京都高尾山
表紙 Photo/ 円巴 port
石井敏之
1
3
選択の心を学ぶ
ジヨアキン
モンテイ口
法然上人 t 干l、
法然上人と私との関係を問題にする場合に、
て成立したのである。
九六四年から始まったブラジルの軍政との関
して、社会の現実に対して深い疑念を持つよ
a
る。一つは、仏教との出会いが私の人生の巾'
係によって成立したものである。軍政がもた
社会の諸問題に対する問いというのは、一
心的出来事であって、その出会いにおいては
らしてきた極端な差別や支配関係を目の前に
まず、明確にしなければらないことが二つあ
法然上人からの影響が一番決定的なものであ
であり、もう一つは、この出
t
うになった。この二つの問いは、もちろん、
ったというこ
会いは詐い頃からの私の人生の問いから切り
きている現実の厳しさを自覚して、その現実
無関係のものではない。なぜなら、人聞が生
の苦悩を克服する歩みを前提としているとこ
私の人生の問いとしては、また二つのこと
離す、』との出来ないものだということである。
が挙げられる。一つは生死の苦悩に対する聞
ている私のあり方、そして現実社会における
ろで本質的な共通点があるように考えられる
生死の苦悩に対する問いは、私の父親の病
支配や差別関係が、仏教でいうコニ悪道」の
いであり、もう一つは、社会の諸問題に対す
気(私の十二、三歳の時)及び死(私の十七
全体を意味しているものであるように考えら
からである。無明 ・煩悩の存在として流転し
歳の時)から出発したものである。父親の死
れるのである。
る問いである。
守縁にして無明 ・煩悩の存在として流転して
分で応えられない聞いが自分の上で起きた、』
れるまでにも、仏教を求める長い歩みはあっ
始まったわけではなに法然上人の教えに触
法然上人の教えと私との関係は、早くから
とによって、自分以外の、自分の外の何かに
た。その出会いの主な契機としては、二人の
いる私が初めて問題になった。そのように自
聞くという必然性が、私の人生において初め
1
5
先生から受けた影響が、決定的なものであつ
み/
し、そして法然と親鰭との関係を考え直すよ
うになってみて、この主張の正しさを全面的
八五|一九八七年にかけて京都の大谷専修手
性ということを初めて教えていただいたとい
信楽先生によって、法然における念仏の実践
に認め、ざるをえなくなった。その怠味、ては、
院の学生であった頃、龍谷大学に信楽先生の
う気がする。
一人は、信楽峻麿先生であった。私が一九
話をよく聞きに行った。信楽先生は、称名念
もう一人は、袴谷憲昭先生である。私が袴
あった。その頃から先生のいわゆる「本党思
仏と信心とを切り離して、称名を単なる「感
『
想批判」及び「仏教における 信
』tgp
谷先生と初めて出会ったのは、一九八九年.で
対して非常に批判的であり、どちらか t
の関係」について学び、仏教の思想的立場に
謝の行」として姪小化する従来の真宗理解に
と称名念仏の実践性を非常に強調しておられ
ついて
その共通点を強調するものだと考えられる。
の念仏観は、法然と親鴛との相異点よりも、
践であるという了解に立脚しておられた。こ
る。袴谷先生の影響は、私にとって一番決定
主義的な考え方から完全に解放されたのであ
たと共に、従来の仏教学の本党思想的、円然
い仏教とは何かが私にとって明確になってき
n
大谷派のいわゆる「近代教学」の影響を強〈
的な思想的影響であるということは間違いな
いう
た。その中で、念仏と信心を二元的に兄る考
と「慧」との関係を学ぶことによって、正し
分の立場が明確になってきた。「信」
のであって、称名は信心の智慧の具体的な実
え方ではなく、「二程深信」とは称名の内政什な
E 了解不可能
受けていた当時の私にはほとん
『 元と仏教』 t
い。袴谷先生は、また、 道
本の中で法然と明恵t の忠想的対立について
いう
な主張であったが、心に残る主張であった。
けれども、最近の五年間、法然の思想を研究
1
6
ぽ持七人と私
論じ、法然における「選択思想」こそ仏教の
正しい立場、であると主張しておられた。つま
・
兵偽を明確に分別|判断することを意
り、仏教における智慧の正しいあり方とは、
正邪
で次のように述べている。
。
此の中に選択とは即ち赴れ取捨の義なり
先生から学んだのは、法然における「選択」
万であると確信するようになった。私が袴谷
ころまで進み、浄土教こそ仏教の正当なあり
の研究、及び法然と善導の関係を考え直すと
る。私は、袴谷先生のこの指摘主又けて議尋
であるということを主張しておられたのであ
ということ、である。そしてもう一つは、思忽
あり、諸行を選び捨てて称名念仏を選ぴ取る
る。一つは、行の次元の選択(就行立信)で
の「選択思想」には、また、二つの次元があ
び捨てることを意味するのである。法然のこ
り、兵なるものを選び取り、偽なるものを選
取る、選び捨てることを意味している。つま
ここで問題になっている「選択」とは選び
及び信心の判慧の立味、であったと考えている。
の次元の選択(就人立信)であり、仏性・如
味するものであり、「選択」と全く同質のもの
この 二点について教えていただいたことに深
来蔵を選び捨てて、「二種深信」を選び取ると
いうことである。
〈感謝している。
結論的にいえば、信楽先生は称名念仏の実
屯んじておられたが、私が二人の先生から学
義 』 の中、て「就人立信」について次のように
心
選択を展開していることは事実だが、『三
『 択集
法然が 選
』の小、て就行立信を中心に
んだことは、法然の中心思想である「選択」
述べている。
践性を強調し、袴谷先生は「信心の知円慧」を
なのであった。
『 択集
「選択」思想について法然は 選
』 の中
I
J
ある
「
二種深信」ということは、阿弥陀仏の
人につき(就)て信をたつ(立)といふ
四十八願との山会いにあ って円分を「凡犬」
、
私の立場から 善円
一えば、現実をそのまま受け
。
・と明らかに対立するものである
ままでの救いを説いている仏性・如米蔵忠必
人間に内在している悟りを認め、
悪道」の
三「
。
認識することを意味している その意味 ては、
。
(五
一 )は、出離生死のみちお(道多)は(多)
には聖道門、 こ には浄上門
として認識し、現実社会を「三悪道」として
。
しとい(云)へども、大きにわか(分)ちて
一一
あり 。一
なり(也)
就人立信の意味は忠想的な次元の選択であ
。
つまり、聖道門を選び捨てて、浄土門を
。
そして、選ぴ捨
ったかのように
入れることを仏教の智怠.であ
る
して説いている仏性 ・如米蔵思想(または、
「本党思想
)は、日本の仏教の最悪の伝言統と
」
てられた型道門の内森について法然は、また、
。
選ぴ取るという ことである
次のように述べている
人間の苦悩を「苦悩」として自党でき
。
ないで、「三 悪道 」
なる現実社会をそのまま肯
える
有時上人、予に語ての給はく、法相三論
定してしまうのは、
日
本仏教の日以も悪しき側
天台培厳兵 吾円
一怖心の諸大乗の宗、遍学し
面である
、
。
そ
『
して、この主張の証拠として法然は同じ 選
、
徹底した批判であると、私は考えている
想は、円本仏教のこうした伝統に対する最も
選び取る、」とを内容としている法然の選択思
「
三悪道なき国上」を
三悪道」を選ぴ捨て、「
。
悉明るに入門は異なりといへども、皆悌
Fh〆。
わり
一致
性の 一理を悟顕ことそ明す、所詮は
つまり、否定の対象になっている聖道門の
内容は、 「仏性 ・如来蔵」であるということで
1
8
wr.~ t入 k ヰL
。
択集 』 の小、て次のように述べている
犬れ同十八願に約して、 一往各々選択摂
取の義を論ぜぱ、第 一に無三悪趣の願と
は、視見するところのこ百 一卜億の上の
。
即ち其の
小に於て、或いは一悪
ニ 趣有るの国 t有り、
或いは 三悪趣無きの国上有り
三悪道有る免悪の国土を選捨して、立(の
。
三悪道無き芹妙の国土を選取するが故に
選択というなり
円分の無明 ・煩悩及び、人間社会における
差別や支配関係を選ぴ捨て、三 悪道なき国上
ぞ選取し続けることが、私にと っての選択思
。
。
私は今後、この道
想の意味であり、法然との出会いから学 んだ
ことのすべてなのである
を歩みし続ける決意をしている
(l) 袴谷憲昭
l
『道元
四五五 頁
と 仏教
』参 照
(2) 「法然上人 全 集 』 1= 二八 貰
(3) 同じ
じ
|
=
二
モンテイロ
八頁
(4) 同じ|七三三頁
(5) 閉
ジョアキン
。
SANTA
・
ジ ャネイ
駒沢大学
円 POHutLA
Hun
円
一九五五年ーアラ ジ ル|リオデ
。
一九八三年・
口市生まれ
-
大学心理学部卒業
一九八五年・来日
。
-現在、浄土真宗本願寺派僧侶
大学院生
1
9
註
真山剛
名活IJ を ,Ûiねる @
慎須賀のお寺に生まれだ山田住腸は五 i六
歳の頃から父と富山路めに出だという。ここ
に来芝のは昭和二十九年、二十九歳の時。
「なんでも鑑定団」というテレビ番組を見た。代々伝わる宝物に
どのくらい価値があるか、ということを鑑定の専門家たちが金額、て
ぶすという番組で、人気を集めている。他人の宝物に大いに興味を
価格だけを価値とする
t
、それこそ千円のテレフォンカードが何
。
示すのは、隣の芝生の青きがとても気になるのということか
万円もする時代だから、+門さは関係なしに稀少価値のあるものや人
。
気のあるものは、高値をつける人さえいれば宝物になるのだろうが、
こと由緒確かな年代物tなると別ものだ
。
浄土宗のお 寺 には徳川家
。
単に占いだけでは決められない価値があるからだ
阿訪れた寺院は長野県諏訪の貞松院
A1
との関係のあさからぬお寺が多いが、この貞松院も徳川家との関係
。
寺は・ともにこのお寺にお墓がある徳川・一家ゆかりの法名に関係がある
。
が深い 迎冬山貞松院月仙寺というのが正式名称だが、点松院と凡仙
。
月仙寺は家康の六
点松院は徳川家康による政略結賊て嫁いだ頼水公夫人(本多氏)
ったもの
の法名、貞松院殿輿誉英隆大姉からと
。
男、松平忠輝の法名、寂林院殿誉
心輝窓口仙大居士に関係がある
そしてこの 二人にまつわる宝物ぞはじめ、この貞松院にはいくつも
『 松院図録
貞
』 という
。
一冊の本に収ま っているが、この 寺
寺宝が残されている。二度の類焼と廃仏控釈をく十りねけ今に伝わ
る寺宝は
宝が貞松院の歴史そのものなのである
21
文禄 二年( 一五九三年)無符上人が閉山した頃は惑芸院と称して
。
理由は二代事ヱ忠恒公が、母公の恩徳に報いるため、母公
いたのだが、高島滞の初代頼水公夫人の没後、その名称を貞松院と
改めた
。
墓は当時としては相当おおきな石室の構えで、今
の遺志により、その廟所をこの寺に娃立、母公を中興開基と定めら
れたことによる
。
も川町下一の大きい墓で、栄枯の跡を物語るかのように、ひっそりと
持むしながら木堂衷にそのままの姿を残している
hnM
維h
はM
三万石の小様だが、その封地には、叩州街道と小仙道と
。
H点下諏訪の情もあり、国の要所にあたるまたその居城は、
のA流
現在は諏訪湖畔から数百メートル離れてしまったが、当時は諏訪湖
、
て、諏訪の
に浮いていた高島と呼ばれる島守利用して立てられた城
浮き城高島城とよばれた名城、である。
この地に家康のお戸がかりで嫁いだ貞松院殿だが、雪こそ少ない
。
ものの厳しい寒さの諏訪へ娘をやる両親の心は、およそ察しがつく
今も残る薙万、膳具、行器、そして天児、犬張子、紙入、重箱、火
である
。
とくに子供の厄除けのためといわれる天児や犬張子は晩年
鉢など、どれをとっても子を思う親の気持ちがこもったものばかり
の貞松院殿が、遠いお里、
三河の本多家を懐かしみ、両親を思いし
。
のぶよすがとして大切にされたに違いない
、
この貞松院殿が家脱の政略て諏訪に来たように、松平忠姉も当時
22
%がl を ,Jjねる @
主人ガ篭もつ芝岩窟1:1あり、 Eま芝寺
ヘ向かう途申には貞位院蔵の徳本上
ている。
この阿弥陀寺の本堂は数年前に
火事で焼失。 現在、長野の善光寺
の大材異の本堂を移築している最
中だ。 貞松院の山田住職は現在こ
の阿弥陀寺復興委員会の副委員長
(委員長は正光寺藤森;原信住職)
を務めている 。 全国から勧募し、
秋には本堂が完成する予定だとい
う 。 諏訪湖を望むこの道場に再ひ'
多くの修業者が集うことを山田住
職は願って止まない。
2)
の江戸幕府の基礎固めの犠牲者の一人で、母は茶阿の方といい家康
の六男である。文理両道に優れた忠輝だが、伊達政宗の娘を妻にし
岩窟は絶壁にある 。
たこと、大坂夏の陣の怠戦など表面的な理由もあるが、例えばキリ
場だ。 弾誓上人が篭もったという
シタン問題などのごとく、当時急速に進展した国際問題などが内而
寺同様、弾醤上人が聞いた念仏道
の理由で、幕落体制確立を急σ幕政の犠牲 tなって家康からは勘当、
で紹介した箱根の塔の沢の阿弥陀
兄秀忠からは改易処分を受け、伊勢へ配流、その後飛騨に流され、
れたこのお寺も、前号このページ
最後にこの諏訪に流されるという運命をたE った。政権安定のため
道を歩いて登ると唐沢山の阿弥陀
寺がある 。 回りを断崖絶壁で固ま
の止むを得ず勘当したものの家康の忠輝への肉親の情は深く、家康
貞松院から車で約十介。 急な坂
かに忠姉に与えている。これが貞松院の寺宝中の寺宝となっている
1
は日には出せない親の心を一管の笛に託し、生前の形兄としてひそ
唐沢阿弥陀寺
『
貞松院図録 、
+守宝の数々を収める
(
i
F
J
/ │
銘を乃可勢( のかせ)と称する 一節切(ひとよ Fり)の名笛である
この縦市は繊同
信長、盟臣秀士
円、徳川家康という
三人の天下人が珍
。
重した笛といわれ、県漆塗で、縮緬地に時、かきっぱた、松などの
、
倍以様の献紗に包まれ、萌黄金欄三葵文拘江の袋に入り 英の大紋
'Q
。
と織田信長白愛乃可勢、御笛と苦かれた黒漆塗の新に収められてい
っ
この笛を見せてもらったが、その竹の肉の厚さといい見事な節
っては、もう何をか況んや、である 。 こんな筒そ鑑定川に出
ぷりといい、本人眼にも風格を感じるし、信長、秀 士円 家 康と間い
てしま
したら、などと良からね忠いはす寸消えたものの、しばらく凡とれ
、
。
てしまい、 三 人の天ド人が恐らく数多くの殺裁の罪の深さをこの節
忠姉関係の寺 宝 はまだまだある
。
忠料の稀な筆跡とされる阿伐軸
て紛らせていたのか、などと夢想してしま った
の立川
t
詠んである
。
。
諏訪三万石の半分の
また 家 康の顧問的な役割
は、おそらく 当時の点松院の住職であろう老併の横に「
戸 をたてて
僧は入りけり秋の暮」
っ ている
ぞ果たした天海僧正からの書状も残
一万丘千石を持 って守られ高品城の南の九に幽閉されていた忠輝だ
。
それに対する返事の書状である
。
その内特は「お
が、何とか円分の身を赦免してもらうよう天海僧正に取り成しを頼
んだことがある
吋様(茶阿のト刈)がご存命ならまだしも・・:(中略)、とにかく気長で
2
4
名利を必ねる @
、
直しても直しても両線のいるお織ハ高島
減)に向いてしまうという獄向き地鼠は墓
柏崎の中にあり 観光名所になっている。
健康でいてください」というものだが、実はこの書状は忠輝に届く
前に滞の者がにぎりつぶしたという。生涯ついにこの書状を見ずに
死を迎えた忠輝の孤独な思い、察するに余りがある。
忠輝は行年九土二歳、て他界し貞松院に葬られた。その墓は点松院
の史跡のひとつとしていまも多くの人のお参りがある。
こうした貞松院殿、寂林院殿関連宝
の物のほかに寺伝関係、諏訪
家関係の宝物 t、貞松院の寺宝はまだまだ尽きない。寺伝関係の宝
る
。
一メートル五卜四センチと
軸寸で縦六メートル八トセンチ、横
物、ては前号、ても紹介した浄土宗の捨世派の徳本上人の大字名脱があ
いうもので、上人がこの地に念仏勧化に来たときに貞松院に治まり、
。
、る
』の大きな名号
この名サを境内にかけ、法を説いたといわれてい
郎のひとつで、同じ捨世派の蝉哲上人が聞いた所沢の
の軸は天下 三一
-e ・、
A7
。
。
徳本
阿弥陀寺の参道の途中にこの名号が彫られている また写本 『
上人行状記 』も稀観木として残っている
住職に話を聞いてみたのだが、この貞松院の膝史を聞くうちにや
。
。
はりれ然と寺宝の話につながってくる 第二十五世'となる山間和雄
住職は気さくに、」う話してくれた
「今はどうにかこのお寺も落ち着きましたけれど、徳川から明治
に変わって、更に昭和卜一年にいまのこの本堂が建つまでの聞は本
当ピ大変な時代だったんです」
2
5
兄弟姉妹六人の次児訪だった住職は明和二十九年、ニト九歳、て貞
松院に米た。その時にはすでに今の査旦はあったのだが、住職はこ
の本堂建立にまつわる話を先代からよく聞かされたという。
「江戸時代に
二度火災に合い、嘉水元年、今の庫裡が建っただけ
で、本堂は未建のまま約九十年、いま残る寺宝が入っていた土蔵を
l
卜を天狗クラブという地元のテニス
除けば、貞松院の境内は原っぱ同然。境内がテニスコートになって
いたこともあります。このコ
クラブが使い、諏訪郡下民間テニスの発祥地になったぐらい、ですか
らね。また明治じ年、勧業博覧会がここ上諏訪で開催されたのです
が、その時、点松院の境内は本堂もなく広いので、芝居小屋が建て
五わ
られました。それが今日、当地万の近代演芸場の発祥地などと
一
れ、文化的に価値づけされていますが、皮肉なものです。当時の住
職は維持のため青息吐息で苦労のしっぱなし。何としても本堂をと
切望していた住職は芝居小屋が別の場所に移転の時、なんと興行師
に芝居小屋の材木を本堂建立のために残していってくれないか、と
いう嘆願書まで書いたというんですからね。貧乏寺でなければ聞け
ない、何とも痛ましいお話ですが、想像以仁に大変だったん、でしょ
うね。考えてみれば、徳川様や古川島崎市と関係が深かっただけに明治
維新の政変は直接響いたし、その上廃仏按釈とさんざんだった。で
も本堂をたてるために住職は東奔西走、昭和の始めに遠方檀家を回
2
6
名草l防,訪ねる @
七十歳を超える山田住織だガ、阿町出隠寺へ
の山道を下駄と校で簡単巳登ってしまう。
り、棺中の若い人たちにこの貞松院の歴史を説いたそうですよ。そ
うしたら、そうか和尚、知らなかったが由緒ある寺なんだなと、み
んな再興に力をAわ
n せてくれた。そして娃立工事中、手弁当で速い
きた木堂なんですよ、この木堂は。
農村から奉仕に通い続けてくれたそうです。みんなの汗と点心、て唱で
『 松院殿や寂林院殿が自分に力を与えてくれたん
点
』だ
っ てよく
先代が話してました。お寺に残った寺宝や史跡、つまり由緒が植家
。
先代の 号円
一前点通りこの本堂だって貞松院殿や寂林院殿が数行年の
「寺宝は寺と一 体のもの 。↓守を守る打の立任として守っていきま
の万々の心を動かした t いう・』とでしょう」
す
時間を越えて建立してくれたものですから、そうした人の心を動か
。
鑑定できないところに宝物の本当の価値があり、それを肌で感
宝物が人の心を動かして寺を守り、守が、そして舵信徒が宝を守
す h を秘めている宝物はいつまでも伝えるべきものと思い」
る
ルポライヲ l)
じる人がその宝物を次代へと伝えていく、点松院の歴史はこう語っ
ている。
2
7
御法語に聴く
一丈の堀を越えんと思わん人は、
一丈五尺を越えんと励むべし
勅修御伝第二十一巻「上人常に仰せられける御詞」
始めるときは、気合いを入れて
2
8
術耳去諮に聴く
1m ぐらいの走り高跳びのときでした。
子供のときの記憶で、確か
前のホ足が確かにその1mを越えたと思ったのに、どうしたわけか
。
後ろの左足のかかとが引っかかって跳べなかったことがあります
そんなときは先生から、「もっと高く跳ばなくては跳べないよ」と
言われ、次に右足がlm よりずっと向く跳んだとき、左足も楽に跳
。
び屈せた・』とを党えています
円
号
一われてしまうと、こんなことあたり前のことなのですが、この
ことはとても大事なことなのです。
。
そしてこのことは
E
んなことにも 一斉
最初の 1m の高きのまま、最後までその高さを維持することは、
とても大変なことなのですね
えそうです。
しかし、法然上人の教えからするとこ
、の 言葉は他の法語と少し
2
9
。
違う雰囲気がします 上人の教えの特徴は、力まずに、自らの力を
。
った
自覚して、肩の力を抜く教えであるように思います 教義が先にあ
。
るのではなく、その人の性格、力量がまずあって、その上に立
救いが信条の教えだと思うのです
t
。
が 一番大事だ
t
いうことだといえます
。
最初に目的意識をし っかり
しかし、先の話のように、最初の意気ごみがあれば、最後は楽に
って、物事を始めるこ
なるということは事 実 といえそうです
も
『
忍終不悔 』 の精神、後悔なんかしませんよ
。
「 生を期せん人は、
往
。
いうことで、仏様にお任せしようということなの、でしょう
そして結果に対しては
t
この 言葉は続いて次のように言 っています
決定の信をとりてあいはげむべきなり」
つまり往生を願う人は、し っかり定まった信じる心が 一番大事で
30
世!怯;再l こ聴く
あるということで、それは一般的には、一丈の掘を越えたければ
。
。
ということは、何事も思い立つときの最初の心構
丈五尺を越えようと頑張ることだというほどのたとえをもって語ら
れているのです
えが 一番肝心だというこ t なのですね
「決定の信」をもっ、」とは、それだけ気合いの入った心構えをもっ
ことだとも呈一
目的背議、師、う心そ
、うしたものがいかに大事かということを語
っているのです。
31
最初から力を抜き、いいかげんになることではなく、物事を始め
研
究
所
研
究
員
長
)1
岱
谷
かりした目的意識 t、気合いが必要だと言っ ている
万t
令
j閏
し っ
*
z
:
るときは、
i争
土
のではない、でしょうか。
文
責
アメリカ
You a
r
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r
i
e
n
d
友だちだから武田恵子
ニューヨーク州のワークショップで
ジユティーはボストンから、ダイ戸ンはコネチカットから、
フローはシラキユースからとアメリカ各地から泊まり込み
で私のバスケットの講習!こ集まってくれまし定。
e・.......・.....・...............・・......・..........・...
外国で生活 し て
難民やその他の固からの移民、合法的とは限
。
「パスケタリ|」まだあまり知られていな
らない中南米の固からの移住者や世界各地か
。
.
ら集まる大学関係者の家族など、ささ
ままな
い言葉ですが、私がライフワークと決めた仕
。
平たく言、っと、「篭編み」ですが、繊
。
スクールがあります 他言語の人
・
達のための英語(米語)教室、もちろんアメ
アダルト
めの生涯教育制度が整っており、いくつもの
。
では日本でも盛んになりましたが、成人のた
人種の人達が集まって住んでいる町です 今
事です
維を使って創り上げる立体を言います
もち
ろん、竹篭や藤篭もそうですが、実用品では
ない、抽象的な作品も含まれますし、植物に
。
その頃主人は浄
限らずさまぎまな素材が使われます
。
リカ人のための外国語教室、陶芸、絵画、ス
もう一 O年前になります
土宗から奨学金をもらい、カリフォルニア州
テンドグラス、パッチワークなど、さまざま
こんなに手軽な講
。
立大学サンタパ lパラ校の大学院に留学して
な講座が秋と春の二期に公開されます これ
。
。
主人の単身留学も一年が過ぎよう
。
いました
することができるのです
が一ドルの申し込み金だけで、だれでも受講
。
」と言う主人の知らせ
としていた時です 「近くでバスケットを教え
ているところがあるぞ
座にもかかわらず、どの先生も一生懸命で内
それに、各講座の終了時には生徒全
。
に、それまで簾や竹のかごを勉強して来た私
。
容もとても充実しています 日本で習う何倍
ました
は、「チャンスは今しかない!」と、小学校四
主人の留学先の
もの内容を一回ごとの講座で得ることができ
。
年の一学期を終えた息子とともに主人の所に
押しかけることにしました
員から内容の充実度や教え方の良否などの授
パラは、気候も温暖で治安もよく、
l
。
にされるので、どの先生も真剣です 生徒も
サンタパ
この町は、ベトナムからの
業評価が行われ、次回からの講座編成や参考
。
別荘地でもあり、退職した人達が多く住んで
いるところです
33
.........・e・..............・・.......・e・.....・e・........
。
納得するまで徹底的に質問をします 私は、
。
英語、パッチワーク、そしてパスケタリ l の
講座に通うことにしました
。
いよいよ待ちに待ったパスケタリl講座の
一日目です 少し早めに行って部屋の前で待
。
l
の仕事が、「ユl
・ ア|
・マ
メリカ各地の、たくさんの友達とのつながり
・
。
フレンド」、「友達だから」の言葉で広がっ
やパスケタリ
イ
l
は、カリフォルニア州立大学のバ
て行きました
キャシ
ークレー校を卒業して、道路工事会社の設計
技師をしているご主人と結婚し、私の息子と
っていると、生徒達は自介の作った作品やら
道具やらを両手一杯にかかえてやって来ます
同世代の二人の男の子がいます 彼女のアメ
と私の日本の篭編みの
。
皆、部屋に入ってくると、お互いに顔見知り
l
リカン・パスケタリ
。
らしく、作りかけの篭やら、いろいろな材料
の共通点もあり、私たちはすぐに親友になり
知識の交流や、母として同世代の女性として
。
を囲んで、おしゃべりが始まります どうや
。
生徒の方はといえば、半分が五O歳以上の
ました
ら初めての受講者は私だけのようです 日本
にいるのと違って私は外国人、解らなくて当
たり前1 こんな気持ちが私を自由にしてくれ
退職した人、あるいはその奥さん、残りが子
先生はキャシ|、私と同年代の女性
。
ました
育てを終えたか、もうそろそろ子供に手がか
。
、
です 片言の英語で自己紹介しながら、アメ
からなくなって来た女性で、若い女性はパッ
「日本で夫の家族になじめず、夫も浮気もの
。
れて、アメリカに帰って来たのだそうです
。
リカでの最初の先生であり 今では、もう一
ト一人でした パットは日本人と結婚して日
。
O年交際の続いている親友となったキヤシー
コネクショ
本に住んでいたのだけれど、ご主人に捨てら
l-
に話しかけて行きました これが今日まで続
。
いている私の「パスケタリ
ン」の始まりでした ここを出発点としてア
34
....................・........・...........・・.......・e・-
外国でJ jづjfj して
っとよいのだが・
・・
」と、アダルト ・ スク
余生を
ールを利用する人達のほかに、すこし違った
。
で随介苦労した」と、初対面の私にさらりと
。
目的で来る人たちがたくさんいます
有意義に過ごすために、ともに趣味を共有で
。
話してくれました
その時、彼女はサンタパ lパラで日本人の経
きる友達を見つけるために、ここを訪れる人
なんだか日本人として申
し訳ないような気持ちになったりもしました
営する植木屋に勤めていたこともあって、バ
この国の多くの人たちが、成人し
たちです
。
スケットの材料の植物についていろいろ教え
「今は植木屋で下働きだけれ
た子供達がそれぞれに独立した後は、たとえ
。
アップルゲ
てくれました
。
伴侶を亡くした後でも、自分の生活ぺ|スを
。
。
ど、いずれ自分に適した仕事を見つけ成功し
イ卜やナンシーもそんな人たちのひとりです
アーティストと
・
変えず、一人で暮 らしています
l
たい
もし、パスケタリ
して成功出来れば最高なんだけど」、アメリ
ナンシ|は、身寄りといえば他州に住む妹が
。
カで会った多くの女性がそうでした 自分自
一人いるだけです 定年で退職するまでずっ
。
身が独立して生きる道を求め、精神的にも、
と看護婦をしていました 小柄で、ものしず
。
金銭的にも自立してアイデンティを確立して
かな、とても思いやりのある女性です いつ
。
いたいと、常に成功するための方法を探して
も、「こんな材料は日本には無いでしょう」と
。
。
それは、夫との結婚生活とは別の、
います
か、もって来たバスケットを褒めると、「この
。
彼女だけでなく今まで会ったアメリ
カ
人のほとんどがそうですが、自分の知識や力
した
て、苦労して集めた材料をもって来てくれま
。
自分自身の道です パットも、キヤシーも生
。
材料で作ってみたの 使ってみる?」といっ
。
活のぺ|スは違っても、同じように一生懸命
貧欲なほどに
彼女たちのように、「生きがいを探して、出
に自分の道を探しています
来たら金銭的に独立できる道が見つかればも
35
-・・・・・・・・e・・・・・・・・・・.......・・・・e・・・・・・・e・・・・e・・・e・・・e・
。
を出し惜しみすることなく『分けてくれます
自介にできることで相手のためになることな
それは、哀れみゃ
。
。
彼女の家は平
っているから恥ずかしいわ」と言いながら、
家の中に案内してくれました
均的なアメリカの家よりも少し小さめの家で
。
ら、努力を惜しみません
。
。
私は、家の中に一歩足を踏み入れた瞬間か
本当にすごい
ます
ている小さな前庭を通り過ぎて家の中に入り
とは言えないながら、色とりどりの花の咲い
決して手入れの行き届いた
ころでしょうか
したが、それでも、日本の 3DK と言ったと
。
ナンシーがいくつかの
。
同情からではなく、あくまで対等の関係に立
。
つての相互の努力です 自分の力でできるこ
。
人々にボランティア精
とを、利害や見返りを考えずに、人に与える
ことができるのです
。
神が浸透しているようです
ある日のことです
。
かわいらしいバスケットを教室にもって来ま
。
。
部屋の中じゅう、
ースは歩くところだけです
ら圧倒されてしまいました 空いているスペ
。
椅子や箱が置いてあります 彼女の今までの
。
した
とてもていねいに編まれた、時間のか
かった作品なので、「とてもすてき材料は?
どのくらい時間がかかったの?」と質問する
人生の長さの介、家具や椅子が増えてきたの
タンスや椅子、箱の上には人形が、
。
と、「家にはもっと色々なバスケットがあるか
でしょう
。
ら、見にいらっしゃい 」と言ってくれまし
。
たくさんの人形が座っているのです 彼女の
。
後ろからアップルゲイトとキャシーが「彼
た
ベッドにも、[大人]の人形が座っていまし
一メーター位の大きな人形から、一五セ
。
日本人から貰ったという藤娘もありました
ンチほどの小さなものまで、縫いぐるみや、
。
女の色々なコレクションは一見の価値がある
。
た
。
からぜひ行ってごらん 」と勧めてくれまし
た
約束の日にナンシ|の家に行くと、「散らか
36
・・・.....・・・・・.........・e・..・e・........................
州司で生活して
l
。
は、
子たちを置いて行けなくって
キヤシ
この子たちを市に寄付すれば人形の博物館を
。
金髪のフランス人形や抱き人形が百や二百で
作って飾ってくれるって言うんだけれど」彼
。
の中を見てしまったようで、しばらく言葉が
はない数、[いる]のです私はナンシ|の心
この部屋に招待された誰も
女は、長年にわたって、旅行をしたときなど
。
の予供達です。
。
ナンシーにとってはなにもの
。
時々、スワ
ップミ
l 卜
けると、古びた人形の頭、手、足などが、一
。
スの前に案内してくれました 引き出しを開
。
「他にもいろいろあるのよ」ナンシーがタン
。
にも代えがたい家族なのでしょう
あるようです
達を集めたそうで、今ではかなりの年代物も
・
ショップをのぞき、この子供
出ませんでした
。
アンティーク
。
が同じ反応だったのでしょう 別段、気を悪
くしたふうでもなく、ナンシ|は言いました
「消防署からも、市役所からも、一人暮らしは
危ないから、ここを引き払って老人ホームに
l
いったらっていわれているんだけれど、この
ナンシ
杯詰まっていました
(
青空市)に行 って、このケガをした子供達
。
(人形)を[連れて]くるのだそうですそ
して、これまた古い布地や、レースを買って
来て彼女たちを直し、新しく洋服を作って着
l
。
「こんな生活だけど、友達も
クな布地や、レースがぎっしり詰
。
せるのだそうです ほかのタンスの中には、
アンティ
まっていました
。
いるし、結構忙しくて充実しているの ポラ
37
........................・・・・e・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・e・・e・
ンティアの人も時々のぞいてくれるし、体が
。
」決して気負った風もなく、話して
動けなくなるまで、ここで一人、暮らして行
くつもり
。
ギルドとは、作家が中心となっ
ての成功への道づくりのために、ギルドを作
っています
ている組合で、これに加盟することで、初め
こ
て作品を発表するチャンスを得られます
。
いました
ういった、ギルドを支えているのが、キヤシ
・
サンタパ|パラを去る少し前、キ
ャシーや、バスケット教室の生徒達が、長女
ー、パット、ナンシーのような、アダルト
の第
。
を身ごもっている私に、サプライズ・パーテ
l
サプライズ
スクールのようなところでパスケタリ
。
一歩を歩み出した女性たちです 男女平等の
。
ィーを聞 い て く れ ま し た
精神が行き渡ったこの国ですが、キヤシーや
パー
ティーとは本人には知らせずに呼んで、皆で
・
驚かして楽しむパーティーのことです 特に
パッ卜のような若い人たちにとって、現実は
。
この時のパーティーは、ベビー・シャワーと
また、百パー
セント財布の紐を握っている主婦の多い日本
。
決してそうではないようです
。
いって、赤ちゃんの生まれる少し前に、赤ち
ゃんのものをみんなでプレゼントするのです
費はもとより、自介のための出費までも、夫
。
いようです 特に、夫から月々渡される生活
と違って、自分自身の収入の道を持たないア
ナンシーにとって、
その時、ナンシーは、五 O年以上も前のもの
。
メリカの専業主婦は安住のできる立場ではな
レゼントしてくれました
だという人形の頭に、新しい体をつけて、プ
。
最高の祝福の気持ちだったと思います
。
彼女たちは、そ
の管理下にある主婦がとても多いことを聞か
されて、とても驚きました
。
のことに抵抗があるようですですから、い
色々な分野のアーティスト達もそうですが、
バスケット・メーカー(バスケット作家)達
「成功
つも成功するチャンスを探しています
。
も、お互いの連絡と勉強、アーティストとし
)8
............................................・e・..・....
州五I-(' I::i汚して
私がアメリカン ・パスケタリー
てくれます
受け入れる心のお陰です
。
キヤシ|に連れて
の違いを乗り越えて、全てを公平に評価し、
ちの大らかな心と、人種、個人、個人の生活
。
する」ということは、経済的にも精神的にも
。
そのための手段としてギル
の世界に受け入れられたきっかけも、彼女た
。
独立できるだけの収入や、社会的地位を得る
ということです
ドに入って来ます
また、ナンシーやアップルゲイ卜のような
いってもらって参加したロサンジエルスのワ
とシャレーンに
ークショップで、ジュディ
ジユディーはロサンジェル
i
ために、自司分の人生を豊かにするためにギル
成功するためというよりは、自分自身を捜す
。
知り合いました
彼女たちは、それぞ
。
ドに入る人達 かいます
ス地域のリーダー的存在の人であり、私もロ
.
れに違った環境にいて、違った目的をもって
サンジエルス
・ フレン
・
。
カリフォルニア・ファイバーァ
す
。
した
卜
ギルド
・
翌八八年度も連続一位に選ばれたので
。
大会〕に出品した私の作品は第一位になりま
l
入会直後に聞かれた、[南
パスケタリ|・ギルドに入る
いても、同じように大らかで、ボランティア
。
ことができました
。
精神にあふれ、行動的です 常に自分を捜し
ています
・アー・マイ
。
私は、ここ数年、毎年各地のギルドに呼ば
「友達だから」「ユ
l
れて、私のパスケタリーを教えています
l
の本をたく
シャレーンは北カリフォルニアのリーダー
シャレーンはパスケタリ
です
。
スケット・メイカ|の家に泊まり、おしゃべ
。
ド」 この言葉だけで、私は大勢の彼女たちバ
彼女たち、アメリカの人たちの
さん出版していて、私のバスケットを彼女の
。
りし、いつも決まって、「ケイコ、あなたのパ
くれました
何冊もの本に載せて、アメリカ中に紹介して
。
」そういって、飛行場から日本に送り出し
スケタリーをシェアしてくれて、ありがと
う
39
..・・e・・・・・・e・・・・e・e・..................................
心の広さと[フェアに、全ての人に平等に]
。
接する気持ちを知ることができましたまた、
。
。
[教えてくれて]ではなく、「シェアーして[介
かち合ってくれて]ありがとう」なのです
。
パラから始まった、私のパスケ
・コネクションは一 O年たった今、カ
l
そして、私と彼女たちは、「友達」なのです
l
サンタパ
タリ
リフォルニアから、ニューヨーク、フロリダ、
ヒューストン、ミシガンと伸びて行き、今年
も、この原稿を書き上げると、ボストン、パ
ーモン卜、フロリダ、ニューヨークに出かけ
くれています
。
ます。一 O 月にはミシガンの人たちが呼んで
いつもバイタリティー溢れる彼女たちの笑
顔と「友達だから」の言葉に迎えられて、お
。
l 」するため
互いのパスケタリーを「シェア
に、でかけるのです
(東京八王子・総泉寺内)
地元の人ガ多い中で、中央の篭を編んでいるリーンははるばるヒューストンから 2 日ガかりのド
フロリダ州、タンパでのワーク ・ ショッブで
の曹葉で「スノー .nード J、冬の聞だけ眼力いフロリダで過ごし、夏は力ナダ近くの涼しいとこ
ライブをして著書加してくれましだ。私の親友になりました。私のを側の眼鏡の女性は、この地方
ろで生活する、ヨラ金持ちの人遣の一人です。
40
久しぶりに旧友と集まる機会
があり、談笑をしていて今更な
。
それは 、 も の 静 か に
。
注意して見て
。
私は
我を忘れて
おしゃべりは
。
十五
宜
がらのように気づいたことがあ
りました
いつもニコニコ笑みを浮かべて
いて、あまり口を聞かない者も
いれば、はじめから終わりまで
ということです
賑やかによくしゃべる者もいる
。
いると案外おもしろいものです
人はさまざまなん で す ね
。
。
おし
どちらかつて?ぞ れ は も ち ろ
ん・・・
皆さんはどうで し ょ う
ゃべりは好きですか?それと
私は大好きです
もあまり好きではないですか?
。
ついエキサイトしてしまうこと
「聞いて心の静まる
いました
。
とを外に出すことによって、あ
言葉、話しを口にしていること
有益な言葉」どころか、無駄な
けにはいきません
長い時間お
。
の方が多いことに気付かないわ
らためて整理、確認することが
。
できますし、また、同時に相手
の話を聞くことによってその人
しゃべりをしていてもその後に
の考えを知ることができます
そんな意味もあって、おしゃべ
。
は何も残らなかった・:というこ
。
楽しいことであり、有益な場
とも確かにあります
りは楽しいとも思いますし、必
しかし先日、一冊の本を聞い
要なことだなとも思います
合もありますが、状況や内容に
。
よっては無益な、むしろ害にさ
お
て思わずドキツとしました
。
釈迦さまの次の言葉が目に飛び
べりです
。
えなる危険性のあるのがおしゃ
私のようなおしゃべり好きに
無益な言葉を千回話すより
込んできたからです
は何ともチクりと痛い教え で
しかし
「いいおしゃべり」をするよう
すが、胸によく留めておいて、
。
も、聞いて心の静まる有益な
。『
。
法句経 』
言葉を一つ聞くほうがすぐれ
ている
おしゃべりは楽しい
。
(正)
少しおとなし
思った次第です
心掛けるべきだと、あらためて
。
容、それにはどれほどの価値が
くしないと:・
自分が話している言葉、話の内
あるのかを考えさせられてしま
41
もしばしばです
自分の胸のうちで考えているこ
若和尚の
oeeo跏Cミ0tt
N
M
U
L
。
C
という
大正大学助教綬
シャウマン・ヴエルナー
42
11 本 t いうタ!{:]iJ
外人?
京京駅 中央線のホ
l
ム、て年配のごい州人に聞
この学生たちより日本生前が長い。最近、典
日本
文化を感じるためにトルコをあっかう。
はぼくにとってあまりにも当たり前の国とな
ったからだ。
「帰る」という言集ももうほとんど使えない。
かれる。「八重洲北口はEちら、でしょうか。」洋
許をあっかう木屋がその辺にあるので、ぼく
「ドイツへ帰る」か「
日本へ帰る」かをはっき
l
日本への道
Eう
「なぜ日本へ米たのか」、
「して日本に興
目的踊
りしないと誤解をまねく。
はもちろんよく知っている。「そこの階段を降
りて右側の突き当たりです。」ご婦人はぼくが
教えた店向に二、三歩を歩きかけて、突然ふ
り向く。「外人だった!私は外人としゃべっ
た!」驚いた顔をして、そそくさと逃げる。
味をもったのか」としばしば島国の人に聞か
れる。父はそれまで日本にまったく関係なか
カルチャー論」の授業て
学生と「多元文化社会」のあり方を考える。
った、ドイツの国家公見
務
u なので、分かりゃす
・
「君は外国人と付き合うことある?」「ありま
なく、」
い家系的な理由を挙げられない。「t何
ぱくの「クロス
せん。」ぼくは「そうかな?」と疑わしげに言
け
的論
れでは而 h くない。そこでぽくなりの
ういう風になった」というのが真実だが、そ
を勝手に作った。
うと、ほかの学生が笑いはじめるが、本人は
確かに、よく考えれば、ドイツから 日本へ
どうして笑われているのかよく分からない。
来て今年、てちょうど二十年になるぱくの万が、
43
日本の
小学校二年のころおばさんにもら った子供
。
ミルク、砂糖を入れない。一度中自の緑茶を
。
比つけたが、今のように日本茶まで口える時
った
n本を知
の行科事雌ぺてはじめて
代てはなかった
n
。
本の茶の文化を調べた 茶を小心に日本文
しかしち ゃんと本を読んで、
家屋は木と紙、で出米ている、とuか
作れ
品ていて、
数奇属店りのような、湖の中に挫てられた小
。
化を阿洋人のために解釈する附合天心の「茶
、
屋のイラストがついていた 町の洗濯機が入
の本」を、今は時々学生に日本文化論を考え
。
っていたボール紙の箱で作ったぼくの「家」
してあっかう
日記」だったろう。 一問、五歳のころヨーロ
日本にあこがれる最大のきっかけは 「上位
t
きせる材料
。
によく似ているではないかとぼくは喜んだ
あまりにも珍しかったので、さっそく学校の
。
クイズに「木と紙で家を作るのはどこの同
か」という問題を出したりした
。
ッパの日記文学を読んだ 文献日鈷で日本に
。
も日記を品川いた人がいた、』とそっ
知
た 「上位
。
。
、
読むと、独訳 てはある
。
「七佐日記」を下で作品目き写す
けて日記を詐くような軽いタ ッチに感動して、
。
が紀氏之の文体に悲かれる 男性が火性に化
って、愛成販である
図書館から手に入る 石版岡のイラストがあ
事「年後南ドイツのある
。
日記」は 二十年代に独訳が出版されていた
卜 二蔵のときに父の本棚て凡つけた、ドイ
ツ叶紀
一 木の詩人の短編集「近江百景」が描く
あるか調べてくれた
町の図書館にはなかったが、ドイツのどこに
。
美しい日本にもまた親しみを党えた デカダ
ったが、
。
ン少年は、皐太子を裏切った罪をつぐなうた
。
めに吉原で身を売り、金箔を吸い込んで円
安n
K の話を、日を見張って読んだ
する '性
、
紅茶 てはあ
。
ドイツ人は背コーヒー党だから、ぼくはお
茶を飲むことに決めた
4
4
、
留学生にな って初めて
。
一
これもなに
本へ行く 一週間前
日
って民い求め、ぱくの宝物の
・
に、この本を 斤木屋て見つけた
。
かの結だと思
つにした
。
、
その後、同じ独訳の別の版をもう 一冊 手に
第 二次大戦直後、ドイツに住んでい
ー
。
E うしよ
ド通りの横丁に行 ってみると、
。
ロンドンにあった日本料理屈を楽しみにした
オクスフォ
った
。
本人らしい
日
それで決心した
。
っ ているうちに、
同じ名前の店が道の両側にあ
うかと少し待
ー
に座ると、となりのイギリス人
人はみなホ側に入る
カウンタ
った
。
ほりが
一匹逃げよ
。
。
が奥においてある鍋を示してくれる その鍋
入れた
たある有名な朝鮮の人が、この占い訳をもう
にかけであ ったタオルが激しく動く 板前さ
っ張ると、うなぎ
んがタオルを引
、
。
最初に食べた 日本料理は舟斗川だ
うとする
一度、間際交流、異文化理解を願って、戦後
。
l
の同難で苦しんでいる ドイツ人のために出版
したものである
。
。
店
しないから魚料埋は嫌いだけど、ナマ加だけ
目
中時
プマ
は大川町きだ
七
向校のクラス旅行はイギリスだった
ったので、
三八 {弗 四
ドイツではまだ H本の食べ物はなか
ZZ 衣 高
五六
智
一 大一五
千? 法 EE
京市
三三
Jキ
I
I
千年の歴史に
MM
京
西都
邑
五五
育まれた巧みの技
.
悌具は当店に
4
5
日γ
、品
.
_
七七
者ド
京仏壇
開宮(株)
o0
尽
た
。
こんな風にしてだんだん日本に近づいてき
、
でも学校を卒業して、ドイチェ・パンク
。
。
銀行に就職した 日本は夢ではあるが、まず
はこの世に生きる力をつりなくてはならない
るのだろうか
。
外国人留学生寮の窓から咲いている桜と走
。幸 いに、自分のアパートを見つける
っている屯車がよく見えるが、あまり
気 に入
らない
学文
えて、ポン大学、て知り合った日本の独
者
。
戦争の空爆を受りなか った、 子供
(そのうち妻ともなるが)の家の離れに泊め
てもらう
。
ト
イレは、谷崎潤 一郎が品背いたよ
がれた美しい木造の建物だ っ
のときからあ、 』
純和風
ったぼくの
。
。
。
」ちょう
E
。
「ここ
近くのある家が壊され
達はぼくを訪ねてくると、まず聞いた
はスラムか
たので、地下ム
歪が
一ないことや、壁が、ドイツの
。
た
世田谷区の良いところに見つか
ン大学で 日本山下に耽けることに決めた附雌昧
t
(文語の授業てもちろん「
うに締盟だったが、ぱくの足はがくがくした
。
。
記」も読む )三告「勉強した後、 日木の
中 同学を選ぶ
川
初めて日本へ行く
アパ ートも畳の部屋 t庭で、まあまあ締鹿だ
。
文部省の奨学金をもらって、早稲田で幕末か
った
ルか
った しかし、パイロットになった高校の友
ことにな
当時はまだ羽田だ ったので、モノレ
一番ひ
E
いのは、比白が
E薄
ちゃんとした家、では考えられない
ほいこ
そして
ら最初に見たコンクリートのジャングルはシ
。
とが目立った
。
ョックだった 数奇屋造りの建物はどこにあ
ー
ら明治初期までの最後の戯作文学を研究する
佐
と
は文学であるぼくは、川
一 専攻 tして比較文学
。
五年間まじめな銀行員として働いた後、ボ
遊
学
6
4
窓の前など、人の口にふれるところに洗濯物
ないから、はしご酒は一つの勉他方法だ。江
を徹底
E
戸の戯作を理解するには歌舞伎町な
道」を片手に旅に出た。一ヶ月十らい、すば
互の東京は蒸し暑いので、芭誌の「奥の細
生もおっしゃっておられた。
的に調べる必要がある。と指道教授の町峻先
日本の条件ぞ知らない友達
を干すことだった。ちょっとでもプライドの
。
あるドイツの主婦だったら、そんな恥ずかし
いことはしない
串、一。
にとってこの地域がスラムにみえたのも無理
ゃ
FhE
lAJ
l
玄関の靴から奥の押し入れの背広まで、畳も、
ドアを聞けると、大変なことになっていた。
らしい旅の経験をした。しかし、家へ州って
ないことにした。日本語をしゃべるのはまだ
挙げ句の果てにぼくの大事な木も、すべてが
勉強の邪魔だからなるべくドイツ人と会わ
タシハドイツジンデス」「ワタシハリュウガ
下手なので、練習のために居酒屋へ行く。「ワ
かびてしまった。ドイツではできない経験だ。
京都・祇園
クセイデス」「ワタシハゲサクブンガクテベ
4
7
萱回愛山堂本勺鎖
※地方発送受賜ります。
TEL(075)551 ・ 2221 喜劇仰
FAX(075)525・ 1806番
あわててドアを閉めてまた出かける。温泉、て
珠典香香
ンキョウシティマス」こういう話は長く統か
念経線薫
もなんでもいい
。
大帰除を始めよう
ショ
。
クから立ち直
ッ
ったら
こういう風にだんだん日本の生活になれて
。
きて(ゴキブリとか、地震とか、いろいろあ
り
るが)、
三年の留学を楽しく過ごした
里帰
「ここは、ドイツだからお辞儀しなくていい」
。
。
ただ円木 てはカモイが
、
吉われる ぼくはお昨儀
と父の部届に入ると 一川
守したつもりはない
。
低くて、ドアのところで顕を下げるくせが身
についてしまった
。
学位をとるため、再びポン大学に通う久
。
人間にな
っ てしま
った
。
つまらない
。
でも、日本学科の後輩たちは(先輩・後輩
。
のシステムはドイツにはなくても)円本経験
のベテランの 言葉に耳を傾ける
ってきて、
。
夏休みに日本から彼交が訪れてくる彼 'K
の時とロンドンにいた彼次の妹もや
。
フ-フ
結締式はいずれ日本で行うこと
ドイツの親戚と友達を集めて、家、てパ
婚ー約
。
ティを聞く
にした
結婚式といえば市役所ての儀式の後、
ンス料理店、でのパーティがいいなとナイーブ
。
ドイツの法律にあるように、まずは市役
こはいろいろ違うんだとだんだん分か っ てき
なぼくは思った。存休みに日本へ来ると、こ
た
。
。
「ここにサインすれば、ど
。
」役人は
んな法的帰結が生ずるんでしょうか
。
所へ行くが、しかしそこではドイツとはっ
違
。
しぶりにドイツの小也市に乗だ
るれもぼくの
て儀式がない ただ婚姻屈を出すだけだ 出
ドイツでは又ただの
、
方を見てくれない ばくだよ!ぼくが電車に
す前に役人に聞く
H したのに
。
乗っているんだよ!日木、ては比梓
内い美人ま
てぼくに注
48
びっくり
結婚の法的帰結?ドイツ人の常で
。
「あなたのドイツ人のアイデンティティはど
てる」と聞かれたこともあるしかし
。
ようやく本文が始ま ったと思う万もおられ
。。
。
時に「教師」と「外国人」にな ったわけであ
。
大学 に就職をした 「外国人教師」として同
ボン大学で博士号を取得して、日本の国立
日本で暮らす
。
うな
。
シャウマンの戸籍は日本に
っ
しつこく聞いて、調べてもらう。日本には夫
ぼくはもとより衣服や固で円分のアイデンテ
。
(この法律はこの間に変わっ
っくりしたが、夫
。
婦聞の財産分配規定はないのかと驚いている
0
ィティを決めようとは思わない
L
。
うちに、返事が来た 1日本人と結婚してもピ
ずはもらえない
。
古風な妻もまた驚いた 結婚しても夫の名
。
)ぼくもこの理山 にはび
はないからだ
前をもらえない
た
。
婦別姓はすっきりして良いと岡山う
t文通して計画したとき
結婚の、』とを彼女
るかもしれないが、実はもう訴すことはあま
。
に、婚姻届の 二人の証人を彼女の恩師ご夫婦
りない
。
に頼めばと提案した 「証人」がいつのまにか
日本人の配偶者として、三年間ピザで五年
。
(これは異文化コミュニー
ケションというも
以上円本に滞在した後、永住許可を申請した
。
披
のだろうが)「仲人」ということになった
。
露宴もまた面白い経験。であっで
たもこれに
をくれた
。
の変な人じゃないと判定し、すぐに永住許可
ューしたりして、円本国に迷惑をかけるほど
瞥察は周りの人に聞いたり、ぼくをインタヴ
。
ついては円本人の読者に説明する必要はない
と思う
ぱくの紋付き袴姿の写真を親戚に見せたら、
4
9
外国人教師という身分はやはり不安だから、
った
。
日
本
大 学 の教師だから、
。
三年前、私立大学に転職した 仕事の条件も
日本人と同じにな
。
そんなに恐い粂件ではない しばしば「
とドイツ、どちらが暮らしゃすいか」と聞か
、
本当は返事ができない
。
人生の成り行き
れるが、両方で同じ生活を したことがないか
ら
け楽しくやっている
。
で 日本に暮らすこととなったので、できるだ
った円木人の学生
ぼくが、ドイツへ連れてい
。
はぼくの行動を分析するのが好きらしい ぱ
。
しかしぼくにと
。
そうい
ってはそれはた
くの行動の 小 になんとか、ドイツ的一而を見つ
けると存ぶ
だぼくという人間の 一面にすぎない
。
っ
うわけでこの話も、「外国日本」での生前とい
った
うよりは、「ぼくの 生前」みたいなものにな
てしま
ヲ。
篇
っているだけのつき合いをして
るのは、よほどでないと相手の
τ
存在を否定することになる」と
朝日新聞 』 に「仲良し
いる若者たちの姿が、浮かんで
先日
。
。
。
の価値が混合しあう 複雑な現
日本的あるものに巻かれろ主義
には、西洋の個人主義思想と、
『 良しごっこ を演ずる背景
仲
」
が傷つく-」とも極端にこわがり、
相手を傷つけることも、自分
ありました
いう二十一歳の大学生の投書も
ごっこ・:私も」という題で、現
。
きました
で、流行歌を歌い拍手するだけ
。
代の若者たちの、ナマの声を集
それを読んでみると、人とつ
の解りあいなき盛り上がりに、
カラオケボックスはその象徴
ながりを持ち、解りあうことを
酔っているに過ぎない空間だそ
めた投書記事がありました
極端にこわがり、自分が傷つく
親しい友ほど腹を割っ
うです
た話をしないということも聞き
。
のがこわくて、ハリネズミのよ
うに自分の柔らかい部分に針を
。
ました
何ともさみしい気持ち
立ててしまう反面、友達がいな
。
(潤)
8 1
7
きそうです
在の若者たちの苦悩が伝わって
3 I 区
7 2 南
2 1 元
になる話しです
新
宿
いと欠陥人間に見られてしまう
L 6
間違っている 」 と指摘す
束。。
「 『
51
町
6
東
京
都
京 3
2 I
I3
13
7 5
65
恐怖から、うわべだけのただ笑
吉野法、衣、活
1~ T 干
答 E 1
想
随
掌
r仲良 しごっ之」の著者たち
現代若者考@
:1淑
石
の
『
ー,
「乙、ろ」の難解さ i て
;
5
2
i軟石の こ、ろ J を"
。
先生はそのことに対する鋭い
K は打
先生は男女の 三
『こ、ろ
』に拙かれた先生の生泥の物語はす
でに周知のところであろう
。
角関係のもつれから友人 Kを哀切り、
殺してしまう
「罪」の立識に責められて、先生も最後nに
。
殺してしまう 終始沈痛な文章で綴られるこ
。
の深刻な物語に読者が深い印象を植え付けら
る
不思議な魅力をたたえながら、しかも容
。
。
易にはその本質を捕らえにくい 読む側の読
みが深まれば深まるほど、それに応ずるよう
に作品向体も深みを増して、それまで気付か
。
この作品があらゆる年代層の読者によっ
なか った新しい問題を発見するように忠われ
る
。
、
ここまでは小説に拙かれている通り
である
、
て読まれているのはそのため であろう
。
。
から誰でも解ることである 従って問題はそ
れるのは確かである この物語 円体は極めて
こから先にあるはずである しかしそこから
しかしながら何
明円
' であるように忠われる
。
依先生は円殺しなければならなか ったのか、
先にあるはずの問題をまともに考えようとし
。
Kもまた何故打殺したのか、その理山を少し
E
はありえないのであって、読
っとも、最近の文学批評の理論によれば、
作品の兵立な
も
た人は少ない
。
考えて兄ると、それほど単純な問題ではない
らしいと巴われ て く る
。
「罪」の意味にしても、一般には常識的な水
・
。
誤解であるにもかかわらず、むしろ創
。
このような読者論にある程度の説得力がない
者が作品の深みを創り出して行くのだという
わけではない
つけて読みなおしてみると、この小説の姉こ
うとしている「罪」の問題が、最初に読んだ
誤読
準で理解されているだけである しかし気を
ときに感じられたほど直線的に単純明解では
造的な深い理解 ・解釈である例も少なくない
実際問題としても、明らかな
なく、はるかに複雑で、むしろ作者の立図が
E は実に大胆な解釈を打ち出し
例・えば道元な
。
どこにあるのか捕らえにくいことに驚かされ
ラ3
ず 今の忠なるものに分り易く、読み易く、
。
ていることが多いけれども、それは軽率で無
、
。
相手になる様に見えて、侮りがたき忠を起き
しめ
ざる可らず
益な誤読ーではなくて、深い理解の仕方を気付
。
かせるところがあり、改めて驚嘆させられる
これなどは明らかに創造的 ・独創的な読み方
私的な手紙、て、しかも門下生そ励ますため
のものであるから、かなり思い切った表現を
であって、もとの文献を離れても道元の文章
は独自の意義を主張することが出来る 激石
している
。
作品についてもそのような評論があるとする
ることは激石のすべての作品にあてはまる、で
『こ、ろ
』 にはぴったり
しかし激石がこの手紙で述べてい
ならば、もはや激石を離れても、その評論自
あろう。そして特に
。
身が新たに深い意義を持つ独立の作品となり
める文章でありながら、はて、待てよ、と立
〈、相手になる」ような、すー
である。「忠なるものにも分り易く、読み易
散石の周辺をめぐっているだけで、激石以上
ち止まらせ、「侮りがたき忠」を起こさせる
、
に撤石作口聞を深く読んでいる例を、残念なが
つまり、誰ても手にとって気楽に読めるもの
であろう。しかしながら激石評論の類は
らわたしは知らない。従って現段階において
でありながら、実はその表面的な装いの下に、
うる
は、激石作品について文芸理論にある読者論
。
。
一気に読
を適用して、読者に文学創造の権利を認めう
並々ならぬ深みを潜み込ませている よい文
と
るだけの創造的な批評があるとは思えない。
章をもってよ い思想を表現する、というのが
。
文章、というよ
りも文体というべきであうフが、明快な文体
が理想としたものであった
若い頃に正岡子規と交わした手紙の中で激石
っ
激石は明治四十一年十二月二十日付の小宮
。
盟隆氏宛の手紙の中で次のように述べている
文埋に出る 一歩は実際的ならざるべから
5
4
i私石の 『 こ、 む を? 品
にも示されていると 言うべきであろう
。
所では・」の方法を駆使し澄
てましていること
。
常茶飯である 激石の本質が詩人であること
、
で高い思想を表現することは激石の生涯変わ
るのでなく、散文作品においでさえ重要な箇
は、単に俳句や漢詩をよくしたことにのみあ
、
このような明確な意
らない理念 であったが
図をもって創作に臨んでいたのであるから、
。
何故なら、作者は平明な
われわれ読者はそのつもりで激石作品に臨ま
なければならない
感じられるのも、それとはまた逆に、読めば
一読してすぐに理解出来たと
読むほど難解に思われてくるのも、実 は閉じ
』 が、
て、容易には作者の 全貌を現し尽くさない工
問題、すなわち先生の自殺をめぐ ってである
『こ、ろ
t が充分考えられるから
夫を凝らしている宅」
物 語 としての、』 の小説の主軸が罪の白党によ
表現の裏に、かなり複雑な構成を作品に与え
である 。実 際、激石は読者にはち ょっ と理解
る先生の死であることには疑問の余地がない
、
それとともに、
。
。
な、象徴的な手法を使って、平気で読者の前
出来ないのではないかと思われるような暖昧
って男女の三角関係を用いてお
作者は例によ
っ ているように
しかしながら小説の後の方 て先 生 は
に作品を投げ出していると考えてよい作品例
。
。
Kが淋しさのために自殺した
することになるであろう、と考えるようにな
ように、先 生自身もまた淋しさのために自殺
ないか、そして
自分と同じように淋しさに迫られたからでは
Kが自殺したのも失恋のためなのではなくて、
淋しさを訴えるようになる
見える
り、物 語 としては 一応筋も通
、
学んだ点が少なくないであろう
が少なくなにそのような手法は例えばシェ
イクスピアに
。
。
短編は陵昧模糊として捕らえど、』ろが
と忠われる 例えば 『
永日小口叩
』の・叩の「心」
という
ッ
においては口
。
ト
』を下敷きにし
この小品がシェイクスピ
ロミオとジュリエ
『
ないように見える
アの
ンと投げ出す方法は 詩
ていることを以前論証したことがある 説明
抜きでポ
55
る
。
そうすると、それまでの物語において恋
の争いから Kを円殺に追い込んでしま った・」
とに対する先生の罪の立識と、後になって語
また、この問題は先生
。
られる淋しきゃ円殺とはどのような関係にあ
るのかが問題になる
従
って読者の自由な判断が入り込む余地の多
『こ、ろ
』の物語の主軸は先生
。
いものとして理解されてい,る
このように、
の罪の意識であるとしても、実際には罪の怠
識の上に、淋しき ・明治の精神という、非常
に主要な概念が次々に畳み込まれるように重
』
。
ねられ、さらに先生の殉死、て終わっ ている
個人的な問題のはずであ
るのに、明治天皇と乃木大将の殉死を契機に、
そしてこれらの概念が相互にどのように関連
・
先生は「川治の精神」に殉じて死ねのだとい
しているのかが非常に解りにくい
Kをめやる私的
う。明治天皇一
の崩御 t乃木大将の殉死は歴史
は激石作nの
m 小、では最もポピュラーな作品で
と
的事実であるげれども、乃木大将の殉死は明
ありながら、これまで の研究でもこの問題は
。『こ、ろ
治天皇に対する特別な者臣関係という公的関
『こ、ろ
』
解明されていない 従ってそもそも
。
という作品がどういう作品であるのか、また
。
係を前提にしている
激石はこの小説において「心」を捕らえたと
これに対して先生は明
治天皇との聞にそのような君臣関係を持つて
はいない
称しているにもかかわらず、作者自身が心を
だから天皇に殉死するとは言 わず
うのである
に、「明治の精神に殉死する」と
一斉
どう捕らえているのか、問題の焦点が一向に
。
けれ Eも、何が「明治の桁神」であるのか、
定まらず、全体像が暖昧なままである、とい
な人間であることを明 言しており、以上の問
も っ
とも小説の中で、先生は自分が倫理的
。
何故先生はその「明治の精神」に殉じて死な
っ
うのが実状であろう
。一般にはむしろ取
ねばならないのかは、この作品、ては説明され
ていないように 見 え る
ち持きの悪いもの、
て付けたかのように、 tm
56
i軌干iのこ、ろ 』 を ;I~(.も乞
て考えていることは、疑問の余地がないほど
題も作者が倫理上の問題、思想上の問題とし
符易に気付かれる
あることは、テキストを慎重に読んだならば
って小宮氏の作品開解に大きな問題や破綻の
はないにもかかわらず、激石理解にどれだけ
られる。その研究の歴史はすでに決して短く
体に大きなな昧を凡出そうとするかに見受け
石研究は小宮氏流の激石解釈を迅けること円
しかしながら、こうして始まった新しい激
。
だから戦後に始まった現
明確である そこでこの作品を激石の「則天
代の激石研究が小宮氏の描いた激石像を「激
。
む
。
去私」の思想の線上に位置づけようとする試
石神話」として再定し去るところから出発し
。
うまでもなく
みが早くからなされている。一斉
たのは、一両ては、充分な理巾があった
。
その代表者は小宵盟降氏である 作品解釈の
店向としては当然そうであるべきものと 言 わ
なければならないけれども、小古氏の解釈は
作有が
『こ、ろ
』 という小説に託した槙維で
号円
一えない
微妙な意味をテキストに即して丁寧に読み取
っ ているとは
。
提起が屯ねられて米ている そしてそのト刀法
され、作品の様々な筒所について精細な問題
。
民献したか、判断に苦しむ点が少なくない
る努力を充分に払
しろ小山川氏は激石の忠惣を極めて予防似な通俗
もとよりこの間にテキストの相官な研究がな
。
的解釈のもとに理解し、そのような解釈で作
『こ、ろ
』 という作品をテキストに即
品を訓り切り、それを作品に押し付けている
従って
。
は「テキストの裂け日」という論文の巾で次
が今日主流であるらしい 例えば鶴田欣也氏
士
日山桁一は角川文庫の解説て 『こ、ろ 』
のように述べている。
て小宮氏が昭解したところの「別天去私」論
『こ、
して正確に読むというよりは、激γ
れから聞い
に相応すると考えられた部分だけを
ろ 』 から抽出しようとする、かなり乱誌な読
み・万をしていると言わなければならない。従
5
7
は「精密な建築設計図のようなものが」口取初
から組み立てられていたのではないか、また
。
「・』れほど論理的な構成をもっているものは、
他にないとい ってよい」とまでい っ ている
しかし学者が後年
不完全なものである、』とを
実証しようとして
。
いるかに思われる 実際、敵石作口聞は不完全
。
っ ている
。
第 て
そ
わたしはそう考える
であるから書き直すのだと明言 している小説
家もあるくらいである
必要はまったくないと思
うであるならば、何も激石にかかずらう必要
『こ、ろ
』 のテキストを虫
めがねで兄るようになると登場人物の性格、
。
のか、激石から何を学ぼうとするのかを
示
らう
こ
とが通用するのは、尚「に激石
気人にあ
えな いで、ただ欠点をほじくり出してあげつ
し
激石のどこが優れている
はないはずである
。
構成上の食い違いのようなものが発見されて
きている
精密な作品理解のために細部が無視される
やかり、もたれかかっているだけではないだ
。
。
だからそこ
言語表現が常に完全なもの
べきではないのは当然である 細部に関する
そもそも
ろうか
であるということはありえない
。
実証的な研究が推進され、それを集大成する
とによって作品の全体像が完成するのであ
こ
って問題のある「細部」
、
には「裂け口」あるいは隙間がありうる であ
。
れ三
な
るならば、この←万刀法はで
適て切
あろ,うそフ
ろう 。一 般にはそれを恋立的な解釈によって
、
『、
Fこ」:、ろと
』
らば桁密な制部の研究によつて
。
補おうとしている
従
いう作品
H叩が以前よりも
一屑
回
mよ〈理解出来るよ
。
しかしながら、まとまった怠昧
のある 言語表現において、部分が全体から遊
ことがない
としての全体像は拡散してしまって収敵する
Eも、作品
に関する「解釈」は山積するけれ
『こ、ろ
』を理解出来ないために、理
うになつたと 吾一
むしろ
解不能の原因を作品円体の責任に帰そうとし
て、細部をあげつらい、作品が裂け日の多い
58
神虫干;の 『 こ、ろ 』 を;品切
ある。細部は全体によって制限されながら、
離して存在すると考えることはまず不可純で
ながら、しかしそれに代わるべき新たな作品
者はそれの担再という点では認識を共通にし
があるのは事実であるけれども、現代の研究
いる
。
に対して様々な疑問を提起するのが
』
『こ、ろ
e すます謎を深めているよう
ま
』 は,
疑いが留学の出発点であるとギリ
シアの折門学者言
はったけれども、ただ疑って
に見える
。
評論家の役割であるかのごとき観すら呈して
『こ、ろ
論がいまだに提示されていない。むしろ、
全体を支える。作品の細部と全体は相互に響
い
An
っている。従って全体像の発見 ・構築を
き
無視して、細部の実証的解釈が成り立つt
想して、構想に即して叙述を進めているので
之削提は成立しえない。作者は作品全体を構
あるから、われわれもまた作品全体に対する
えば、人は笑うであろう。作品全体
一斉
。
理解を確立していなければならない
こう
いるだけであるならば、それは研究でも何で
ありながら、その現状はこのように不可解な
。
ているだけのことである 激石研究は盛んで
。
の理解が出来ないために細部を問題にしてい
それをしないで、取るに足り
ただ出発点の周闘をいつまでも阿っ
もない
。
。
しかし事実としてそうあるべきことは疑
るのに、どうして全体の略解が可能なのか、
と
いようがない
ない細部をことごとしく取り上げて得意がる
て自他ともに認めている人々がそれを助長し
状況にある。しかも専門家の中、ても大家とし
(
3
)
ているのは、何とも嘆かわしい限りである
。
のは精神の卑小さを示すものでしかない
『こ、ろ
』 とはこういう作品、であると、そ
。
の全体像について小宮氏ほどの確信をもって
小宮理論に問題
。
論じている評論家が今日では一人もいないと
言っ ても過青ではあるまい
5
9
位属
.-屯
若者たちの問では、最近「や
さしさ」の言葉の意味が、私た
つまりいい音楽があるからと
私たちは、「やさしさ」といえ
ち世代とは違うらしいのです
けることが「やさしさ」なのだ
聞を奪うことをしないよう心が
の好みを重視して、その人の時
るわけではなく、むしろその人
いっても、その人に薦め聴かせ
ば、すぐに「慈悲」の心を思い
。
浮かべ、その実践こそが「や注
そうです
。
しかしどうも私にはよく解り
。
しさ」だと何のためらいもなく
思ってきました しかし最近で
ません
。
る、価値観を大事にするという
その人の好みを重視す
の価値観を重視して、その人の
rやさしさ」の窓際が遭ってきた
ことではないようです
。
お互い
といった、討論の上でなされる
。
同志、理解しあうことが欠落し
ているように思えるのです
現代の若者たちを「仲良しご
。
っこ」の世代といいます お互
いが深く干渉しあわず、会って
いるときは、ただ笑っていられ
ればいいということを、若者の
。
投書から読み惇然としました
。
(潤)
「やさしさ」の意味も変わっ
て当然かもしれません
支店一大阪・名古屋・北陸・北海道・東北・九州・繍浜
三)三五五三・二七一
東京支店一東京都中央区新川 7 一七・ニ二m(O
E
一七'二二(
取O三)三五五三・二五一
松井建設株式会社
を言い、相手の考えをよく聴く
は、「やさしさ」とは、その人
。
のはきれいごとで、自分の考え
うです
ノリを妨げないこと、なのだそ
伝統が支える
現代若者考@
本社一東京都中央区新川一
…国信用と技術
⑬
想
随
皐
6
0
FORUM
部士の広場
6
1
編集部取材ノ
l
トから
按込み寺の
荷風忌
みのわおおもん
箕輪の浄閑寺を出て大閥横町を左折、大門
川a'
往mv
。
。
からまっつぐ吉原を抜げ、浅尚子へ
随分な距離だが、♀足 まるっきりのイン
サイダ ー面して、蜘昧の子のように集散する
かね目線を無意味に投げ遣り、しかも、その
んちゃんには会釈とも無視t もつ
呼び込みの u
そういえば晩春。
。
盛衰仁は冷静な観察怠りなく通り過ぎるのが
歓楽街、悪場所を抜けるコツ
夕暮れる t土曜日の六区は、競馬に幾許か
の小遣いをはたいた初老の男たちの群れが、
そこここに無音に澱み、まるで町の穆みのよ
。
'フだ
(街が老いているのだ:::)
。
気づくと否応なく気分がん伝染してくる。時
く重〈増幅してくる
ロック座の煽情的というには上品、センス
がいいというには安っぽい看板の間て、頭を
一句。
グルグル回し、唐突に、空気を振り払うよう
に
6
2
荷風忌や踊り子さんに触れてみる
。
。
要するに
我ながら、あまりに脳天気な馬鹿馬鹿しき
に思わずくすっと噛ってしまう
これも俳句の効用というやっか
意味のない独り 言が気分を救うこともあるっ
。
。
。
思えば、永井荷風が愛し、日参した浅草の
てこと
風情はもうと っくにないのだ
今年で 二七回目という
。
去年が 三七回
忌
。
葬式するな、墓要らねと書いた荷風だが
。
。
浄閑 寺とは浅からぬ因縁がある
浄閑寺、通称、投込み寺
。
一 年(
一六五五) 開山上人は天
開基、明暦 応
。
。
蓮社晴誉順波利向 正しくは栄法山清光院浄
閑寺と号す
開基の二年後、世に「振袖火事」といわれ
。
る開府以来の大火が江 戸を襲い、市中の大半
が廃境と化した 幕府はこれを機として、江
。
この新しい遊次町をも
新吉原は目論見通り、あるいは予想を大
、
。
そこに身を売
一
方で薄倖の遊女たちを膨
った
その痛ましい造体は、日
。
本堤の上をたど って堤の北端、 H光街道に近
れずに死んでいく
って働く遊女たちが病に侵され誰にも看取ら
大に生み出すことにもな
な ったが、それは
きく越えて急速発展し 江 戸名所のひとつに
る
との蔭原に対して「新 吉原」と称したのであ
。
った遊廓の浅 草 田岡への所
戸復興、新都市整備を企図したが、その 一環
に日本橋陵町にあ
。
t
った
替えの計画があ
った
けれど文 豪も既に昔日の幻影を追
。
幻影のまた幻影を追体験するのも一興なの
。
平成八年、四月 三十日、土曜日 文豪永井
ではないか
た
荷風を偲ぶ、荷風忌が三輪の浄閑寺、て行われ
本来だ
。
昭和 三四年のこの日、かの文 豪 は市川八幡
で孤独の死を迎えた
6
3
い箕輪の浄閑寺へ無縁仏として葬られたので
ある 。
かくて新吉原創業以来占原廃業までの三百
。
年間、浄閑寺に投込まれるように非られた遊
例年、法要のあと講演会があり、いずれ劣
を修ぷ9ること、これまた至妙である。
らぬ研究者、愛好者の術風論を聴くことがで
きて楽しいが、今年も和光大学教使、塩崎文
雄氏、近代文学館理事長、中村真一郎氏(お
元気だった!)の講演があり、いずれも興味
深い、荷風の一面を語られ、質疑応答とも内
浅草を歩き、吉原に材を採った荷風が、こ
の寺に惹かれ、幾たびも訪れ、あげくは円分
容の濃い時聞を過ごす、」とができた。
火は実に 二万五千人に及ぶ
の葬式の筋書を相談に来て、浄閑寺に墓を建
。
立すること、その墓の大きさの指定までして
いたこと、むべなるかな、と肯定できる
ったが、 この投込み土守の呪御住職一戸松山一£也師
荷風は日本文学史仁、極めて特異の人であ
ではないかとの指摘のむき判然あるだろうが
ずにはいられない。街風忌の存続 h体もこの
もまた瓢逸、無縫の人であり、此処に特筆せ
おや、さっきす一同た
い無用の 号円
一説と矛市する
どちらも真実。かの文豪の、らしき気まぐれ
方抜きでは考えられず、近代の垂直な知性と
の真意、いまとなっては解明、できない。また
いわば中世的なぷ平、風雅風狂との交錯点に
解明する必要もない。
荷風の死後、作家、評論家、学者、荷風を
った語落(この書き
件って、甚だ乱暴にいえば、念仏の実践によ
方では、私はこっぴど〈怒られるかもしれな
って これを止揚するとい
敬愛する有志寄り集い、浄閑寺に荷風碑を建
であり、また荷風を追慕し愛好する人々が、
い)を持つ。
立し、寂静の思いに導く道標としたこと必然
文袋を偲ぶ一円けを過ごすことのできる荷風忌
6
4
]r
o
R
U
M
筆者な Eは餓鬼の頃から燕陶を享け、その
兵撃なる遊蕩、変幻自在の対話、洞品、何よ
りも含蓄が顔に描いてあるとでもいうべき稚
気溢れる尊顔を深く敬愛するものである。
口口口 手は出っ張った脳である
。
たとえば、秋なら「おい苛」と
口には五文字、何かぴったりした季題を入
れてほしい
。
。
××
いて
忌など催すべきではない。
「ふらんす文学」
の徒となった私は、浄閑寺
00 忌とか
の門を出た
飾かに円宅に帰り、その者作をひも E
一人、作家の生涯を忍び鎮魂の時間を過ごす
べきだ、と偏屈きわまることを 吾円
一っていた術
風好きの友人に、私の今日の時間をどう伝え
るべきか、そんな厄介な娯しみのことを考え
ながらも、足は、もう紅い灯、青い灯のスイ
ッチに手の掛かった夕暮れの浅市、純粋に学
問研究の対象としてのみ、敢然と立ち向かっ
。
った。(文武佐山哲郎)
威張るのもいい 初夏なら「空梅雨や」でも
但し、中七下五の「子は出っ張った脳
いい
。
である」これは学童師の制作、最近、お気に
ズである
ー
てきた住とかいう場所に向かっていたのであ
入り の フ レ
八十歳を越えられるいま、浄附寺は大枝川請
の点っ最小 (荷風忌はその新しく娃築
中 の多
。
にわか
目的ホール、て行われた)であり、その脈々た
るエ、汗ルギlの淵源は測り知れない
というわけで、何を勘違いしたか
65
誌上俳壇
廻席は平や麿かれて春の寺
点鬼簿に詮号若し束、き春
つなぐ手のやわやわ小さし花祭
港仏会そそぐ扶に鍵の鳴る
佐藤雅子 (山形)
宇高一一慧(埼玉)
66
水音のとだえぬ厨花の・冷え
特や伽藍につづく保育園
春暖炉薪弾けをり山の宿
・
山 のえを存分に吸ひ春惜しむ
千枚の植田の九る日本海
田植機の夢のまた夢千枚田
千分の 一の田にをつ宵を植うる
内堀綾子
吉田ゆきゑ
児玉仁良
(東京)
(東京)
(埼玉)
6
7
事務局便り
-お詫び と 訂 E
月号巻頭掲載の牧田諦亮先生の文章中、制即振
4
鐸氏とあるのは節振鐸氏の誤り、また最終行、法
創業河年聞の実績と
然上人誕生とあるのは法然上人往生の誤りでした。
最高の晶賃
。
ここに謹しんでお詫びするとともに訂正させてい
顎協和木工所
ただきます
-新規会 員紹 介 (敬称略、順不同)
法善寺
し一一"一"一一一…一一
T
E
L
:
0
4
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(
9
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0
4
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(
9
7
)
1
8
1
6
〈一般会員〉
長崎平戸組
水波組
〈購読会員〉
富山
城北組 仮宿院
大仏寺
東京
豊田郡 花田ハツノ
調布市 海野信幸
東京都西多摩郡日の出町平井 1316
干 190 -01
広島
東京
大田 区
武蔵谷コ卜
東京
日本の代表的卒繕姿メーカー
ヒ=,
日
布
お寺から檀信徒へ
河之
客頁
家の宗旨がよくわかる/
考矢
菩提寺の名が入
注文 ・問合せは
法然上人鑓仰会
干 105 東京都港区芝 公園 4-7 - 4 明照会館内
'がたちの宗旨
電話 :03-3578-6947 ~ FAX:03 - 3578-7036
書店構浮上朱
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府三五豆省
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背芝体事忍停
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相
日情。舟辛
知晶
胡体
1
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m) 721 円/小 (27.3 X 1
4
.2
c
m
) 421 円
定価:大 (32.0X
r三=、
知らね間に濡れる我が身か小ぬか雨
。
今月は雨の季節である。梅雨に入ればそれこそ
毎日傘を必要とする、』 t だろう
雨 t 聞くとどうしてもこんな句が浮かんだ。も
し、この時期の雨のことではない
。
しかしこんな
ちろん小ねか悶は、各先か秋の終わりの時間を指
t
いう話を思い出すからである
。
句が詠みたくなるのは、学生時代に読んだ道元神
いう」
。
師の 『正
法眼成 』 に、「霧雨の・中を歩いている t 知
らね問に濡れてしまうように、良き教
λ、良き友
・
t 交わっている
t 知ら必聞に教えが身につき、正
しい生活ができるようになる
このこ t を京朝 nt
ただしこの時期の悶は少し織子が違う、傘をさ
きもある
t
。
。
。
きは、人の情け
過ぎ去るまで待っていよう。」
そして何より私た
言 われている
編集チーフ
編集スタッフ
編集協力
編集顧問
オフィス目店
長谷川岱潤
斎藤 M
北道
村 m洋 一
太田正孝
石上俊教
佐山哲郎
大室了時
"
J
雨に濡れる、』 t をそんなふうに受付止められた
ら、少しはイライラも納まるのではないだろうか。
t
さなければずぶぬれになってしまう悶であるし、
時には南凶のスコールのような、やむのを待つし
かない
t
雨を悲しみに轍える、』 t がある 「小川刷か雨程度
の悲しみなら濡れながら斗詩でも書いていよう。傘
を必要とする中内、らいの悲しみ
きはじっ
を頼りにすがって生きよう、でも上砂ぷりの悲し
t
(長)
川 1'1 川
諦Ilg
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νl 且件牧宮
Q 九 írp
こんなふうに
。
ïî~ 'tH町
じ"鍍 1町!fi1 1 式2 田林
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認平日
三ハじ::z:;;
1 '4 ム高内1
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吋 11
巻
第し
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物
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郵
悦
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一五
頒
I叫じ
みの
き、
ちは、その時に傘やレインコートの役目をするお
念仏があるこ t を熔しく思う。雨の中を歩く t
また雨宿りをするとき、お念仏を称えることがど
る月でもある
ハu11 -
岱
潤
れだけの力になることか、今月はそのことを伝え
ι 写 E日発 絹
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