第 五 中 田 亮 著 『 下 野 俳 諧 史 』 中 田 亮 氏 の 『 下 野 俳 諧 史 』 は 、 ①連 歌 の 時 代 と享保俳諧の時代 ⑤早 野 巴 人 ⑨化 政 ・ 天 保 俳 諧 の 時 代 ⑥常 磐 潭 北 ⑩俳 諧 紀 行 句 文 ②貞 林 ・ 談 林 俳 諧 の 時 代 ③芭 蕉 の 『 お く の ほ そ 道 』 ⑦蕪 村 と 『 寛 保 四 年 ・ ( 宇 都 宮 ) 歳 旦 帖 』 ④蕉 門 ⑧中 興 俳 諧 の 時 代 の十編から構成されている。 この内容については、俳文学者・俳諧研究家として、さらには、俳句実作者としての、著者の専門知識を駆使 した、かなり高度のものであり、簡単に読み下だしのできるような、そんな内容のものではない。 できることならば、この十編の内容の重要な箇所について、「下野俳諧史」(通史)として、最もコンパクト に要約を試みることはできないか、さらには、「俳諧(連句)文芸の流れ」というようなものが、鳥瞰的に把握 できないものであろうか。 これが、この章の出発点である。 ① 連歌の時代 連歌は、三十一(みそひと)文字の短歌を、上句(かみのく)・下句(しものく)に分け、二人で唱和して一 組とするもので、これを短連歌といった。やがて長句(五七五)と短句(七七)を幾人かで、次々と重ねていく 長連歌(鎖連歌)が発生した。長句と短句とを続ける連歌の起こりは、『万葉集』(巻八)の、次の、大伴家持 と尼との唱和によるとされている。 佐保川の水を塞きあげて植ゑし田を 尼 刈る早飯(わさいひ)は独りなるべし 家持 「大事に育てた娘ですよ。(とても、あなたに上げられません。)」と尼がいい、家持が、「娘は、年頃にな れば、嫁になるものだし、嫁になれば、私のところに来るのは当然でしょう。」と、一人が問うて、一人が答え るという形式になっている。 下野と連歌 平安末期から、長連歌が流行し、鎌倉時代には、五十韻・百韻と続けるようになり、連歌の会が催されるよう になった。後鳥羽院のとき、連歌は、滑稽を旨とする無心(むしん)連歌〈栗本衆〉と情趣を重んずる有心(う しん)連歌〈柿本衆〉とに分かれたが、後者が大勢を制した。後期には、武士・僧侶・庶民にまで広がり、職業 的連歌師が誕生するに至った。そして、室町時代に入り、二条良基(よしもと)とその師救済(ぐさい)を中心 にして、連歌は優れた文学に高められ、形式・内容とも一新された。 良基は、救済とともに、連歌集『 玖波(つくば)集』(延文元年〈一三五六〉)を撰し、『連歌新式』(応 安新式)を定めて連歌の式目を統一した。その後、連歌は一時衰えたが、宗砌(そうぜい)・心敬(しんけい) らが出て、宗砌は、心付を唱え、心敬は、連歌論『ささめごと』を書いて、連歌の質的向上に努めた。 そして、次に、連歌の大成者としての、飯尾宗祇(そうぎ)が登場する。宗祇は、西行を慕い、その半生を旅 に送り、全国を行脚して連歌を広めるとともに、幽玄の境を求めて、文学的に、それを完成せしめた。連歌撰集 に、『新撰 玖波集』(明応四年〈一四九五〉)がある。この宗祇の時代を頂点として、有心連歌は惰性化し、 無心連歌から出た「俳諧之連歌」(俳諧・連句)に、その座を譲るようになった。 ◇『沙石集』 弘安六年(一二八三)に成立した『沙石集』(無住著の仏教説話集)に、下野に関する連歌の、その最古の作 品が収録されている。 宇都宮ニテ連歌アリケルニ 親ワカクシテ子ハ老ニケリ ト云句、難句ナリケルニ 明覚坊 我宿ノソトモニウヱシ三年竹 歌人、幡磨坊、感ジテ涙落シケルト云ヘリ ◇ 藤原実方と家隆 下野の代表的な歌枕を詠んだ連歌として、まず、実方(さねかた)と家隆(いえたか)のものがある。実方 (生年不詳∼九九八)は、平安時代の三十六歌仙の一人である。家隆(一一五八∼一二三七)は、『新古今集』 の選者の一人である。 此ころはむろのやしまをぬすまれて えこそはいはねおもひながらも 実方朝臣 我身の老となりにけるかな うば玉の黒髪山の秋の霜 従二位家隆 ◇ 宗砌 宗砌(生年不詳∼一四五五)、二条良基の後を承けて、室町時代前期に活躍した代表的な連歌師の一人であ る。 おもひもけぶり不二ばかりかは 月さむし室の八島の秋の暮 ◇ 宗砌 心敬 心敬(一四〇六∼一四七五)、『ささめごと』は、和歌と連歌の一体感、文学と仏教の一如感の理念を体系 化し、中世文学の頂点を極めたとされている。 卯花にとほき高ねや去年の雪 ◇ 心敬 宗祇 宗祇(一四二一∼一五〇三)、室町時代中期の連歌の大成者である。『新撰 玖波集』・『吾妻問答』など、 純正連歌の典型を確立した。心敬が会津に下向した前々年(一四六八)の頃、下野の塩谷を経て那須野ヶ原を横 切り、白河の関へ旅立った。その時の紀行に『白河紀行』がある。 黒髪に世をへし山や菊の陰 ◇ 宗祇 道興 道興(どうこう・一四三〇∼一五二七)、文明十八年(一四八六)に東国を旅した紀行文に『廻国雑記』があ る。次の句は宇都宮での百韻興行の際の発句である。 あらぬまはあらしや花の宮木もり ◇ 道興 兼載 兼載(けんさい・一四五二∼一五一〇)、会津猪苗代の出身、宗祇を支援し、『新撰 わった。次の句は塩原山中での発句である。 秋の葉にあさ露こほるみ山かな ◇ 宗長 兼載 玖波集』の編集に携 宗長(そうちょう・一四四八∼一五三二)、宗祇の門人として、『水無瀬三吟百韻』に同座、紀行文に『東 路のつと』などがある。次の句は足利での発句である。 ふけあらしちりやは尽す柳かな ◇ 宗長 宗牧 宗牧(そうぼく・生年不詳∼一五四六)、東国遍歴中に佐野で客死している。次の句は黒髪山を詠った発句 である。 水涼し黒髪山のあさ霞 ◇ 宗牧 佐野・福地家蔵『賦何路連歌』 文禄五年(一五九六)三月二十九日興行の百韻一巻の佐野市・福地家蔵「賦何路連歌」が、『佐野市史』の 編纂過程で発見された。この連歌の会は、宗牧が、佐野で客死して五十年後のことである。宗長・宗牧の影響の 下での一巻と思われる。 ② 貞門・談林俳諧の時代 中世の末期、貴族的な連歌から庶民的な、滑稽・卑俗・平易を旨とする「俳諧之連歌」(俳諧・連句)が興り、 山崎宗鑑(そうかん・一四六五∼一五五三)、荒木田守武(もりたけ・一四七三∼一五四九)らの手によって形 成されていった。俳諧が連歌から独立する動きである。 後世に、俳諧の祖といわれる宗鑑や守武は、宗長・宗牧と年齢の差はあるが、同時代の人であり、両者とも、 それら連歌作者と交渉を持ち、彼ら自身、連歌作者でもあった。宗鑑は、俳諧連歌集『新撰犬 玖波集』を編み、 守武は、『守武千句』を出し、後世まで千句形式の範となった。 その後、この二人の活躍を吸収した古典学者の、松永貞徳(ていとく・一五七〇∼一六五三)一派の、いわゆ る、貞門派の俳諧が、京都を中心として一世を風靡した。貞徳らが編集した『紅梅千句』は、温和で上品な俳風 を結実させた。しかし、やがて、この保守的な式目に煩わしさを覚えて、貞門派は飽きられ、代わって、西山宗 因(そういん・一六〇五∼一六八二)一派が抬頭し、清新洒脱な談林派俳諧が、大阪を中心として、全国的に流 行していった。その集大成が、『大阪独吟集』(宗因千句)である。 しかし、やがて、談林派は、自由を競い過ぎて、俳風が放埒化し、その最盛期は、十年ほどに過ぎなかった。 やがて、兵庫に、上島鬼貫(おにつら・一六六一∼一七三八)が現れ、誠の俳諧を唱え、伊丹派として、技巧を 排し、平淡な表現の中に静かな詩境を盛ることを主張する。そして、次の時代が、芭蕉の時代なのである。 下野の貞門と談林 ◇ 『詞林金玉集』 伊予国の、桑折宗臣(一六三四∼一六八六)が撰集した『詞林金玉集』は、撰集の中の撰集という性格を有し ている。この中に、八人の下野の俳人が登場する。その中心俳人は、皆川の住人・増山立外(りゅうがい)で あった。 ◇ 増山立外と『続山井』 皆川の俳人・増山立外は、芭蕉の最初の師であった北村季吟門の有力俳人であったと思われ、季吟門俳諧の動 静が最もよく伺える『続山井』にも登場する。 立外 春のよも長きはあすの花見哉 ◇ 桜井玄玖・家所玄調と『宝蔵』 季吟門の山岡元隣(一六三一∼一六七三)の刊行した俳文集に『宝蔵』がある。この中に、宇都宮の俳人、玄 玖(げんきゅう)・玄調(げんちょう)の句が収録されている。 ◇ あ さ が ほ の は な や う き 世 の か ゞみ 草 玄玖 ともし火をそむけて見るや飛蛍 玄調 『時勢粧』 寛文十二年(一六七二)の松江維舟編の『時勢粧(いまようすがた)』に、下野の俳人五人(発句・九句)が 収録されている。 ◇ 『誹諧当世男』・『俳諧江戸通り町』 延宝四年(一六七六)の神田蝶々子編の『誹諧当世男(いまようおとこ)』、延宝六年(一六七八)の、その 子神田二葉子編の『俳諧江戸通り町』に、それぞれ小川立些(りゅうさ)など宇都宮の俳人の発句などが収録さ れている。 ◇ 『誹諧板東太郎』 延宝五年(一六七七)の岸本才麿編の『誹諧板東太郎』に、佐野と葛生の俳人の句が収録されている。 ◇ 『富士石』 延宝七年(一六七九)の岸本調和編の『富士石』に、宇都宮の調味の句などが収録されている。 ◇ 『誹諧東日記』 延宝九年(一六八一)の池西言水編の『誹諧東日記』に、宇都宮と佐野の俳人の句が収録されている。 ◇ 『松嶋眺望集』・『稲筵』 天和二年(一六八二)の大淀三千風編の『松嶋眺望集』、貞享二年(一六八五)の鈴木清風編の『稲筵』 に、それぞれ宇都宮の俳人の句などが収録されている。 ◇ 『白根嶽』 貞享二年(一六八五)の一瀬調実編の『白根嶽』に、宇都宮のト也(ぼくや)などの俳人の句が収録されてい る。 ◇ 『続の原』 元禄八年(一六八八)の岡村不ト編の『続の原』に、宇都宮の小川立些の句などが収録されている。 ③ 芭蕉の『おくのほそ道』 蕉(正)風俳諧の確立 松尾芭蕉(一六四四∼一六九四)、本名を宗房(むねふさ)、別号を桃青(とうせい)という。伊賀上野の人、 初め伊賀上野の城代・藤堂良精の若君・良忠(俳名・蝉吟〈せんぎん〉)に近侍した。 寛文六年(一六六六)四月、良忠の死に遭い、主家を出奔し、京に出て、北村季吟のもとで学んだ。修行生活 の後、二十九歳で『貝おほひ』を出版し、江戸に下った。江戸では、談林派の人々と交わり、延宝三年(一六七 五)、『談林十百韻(だんりんとっぴゃくいん)』に参加した。同八年冬、門人杉山杉風(さんぷう)の好意に より、深川の芭蕉庵に移った。 しかし、天和二年(一六八二)、芭蕉庵が焼失したため、甲州に赴き、その翌年江戸に戻った。この間、芭蕉 の俳風は大きく転換し、俳諧を新しい芸術として創り上げた。天和三年刊の俳諧集『虚栗(みなしぐり)』の跋 文に、古人にならう心意気を示したことも、新しい芸術の創造への自信を示したものといえる。 貞享元年(一六八四)、『野ざらし紀行』の旅に出立し、帰途、名古屋で、俳諧七部集の第一集『冬の日』五 歌仙を興行する。これが蕉(正)風俳諧開眼の集とされている。それは、人間とは何か、人生とは何かの根本問 題から俳諧を考えはじめて至り得た境地であって、通俗的な美を文学的に高く結晶させた世界でもある。 雅で あって雅でなく、俗であって俗でない、独特の蕉(正)風俳諧の基礎が完成したのである。 芭蕉の紀行文学 漂 泊 の 詩 人 と い わ れ る 芭 蕉 は 、 生 涯 に わ た る 旅 の 中 か ら 後 世 に 五 つ の 紀 行 文 を 残 し た 。 そ れ は 、 『 野 ざ ら し 紀 行 ( 甲 子 吟 行 〈 か っ し ぎ ん こ う 〉 ) ・ 貞 享 元 年 』 、 『 鹿 島 詣 ( 鹿 島 紀 行 ) ・ 貞 享 四 年 』 、 『 笈 の 小 文 ( 卯 辰 紀 行 ・ 芳 野 紀 行 ) ・ 貞 享 四 年 』 、 『 更 科 紀 行 ・ 貞 享 五 年 』 、 『 お く の ほ そ 道 ・ 元 禄 二 年 』 の 五 つ で あ る 。 『おくのほそ道』と『曽良旅日記』 芭蕉の『おくのほそ道』のは、芭蕉が大阪で客死する年の元禄七年(一六九四)、門人の素龍(そりゅう)に よって清書され、それに芭蕉自筆の題簽(だいせん)が貼付されて完成した。同行の曽良は、詳細な日記を書き 留めていて、これが、『曽良旅日記』(『曽良随行日記』)と呼ばれている。この日記は、昭和十八年に始めて 全文が公表された。 下野と『おくのほそ道』 芭蕉の下野における『おくのほそ道』は、元禄二年(一六八九)三月二十八日(陽暦五月十七日)から四月二 十日(陽暦六月七日)までの二十二日にわたるものであつた。 ◇ 室の八島 現在の栃木市の大神(おおみわ)神社、下野の代表的な歌枕の土地である。芭蕉は、三月二十八日、間々田か ら小山を経て、この地を訪ねている。芭蕉の『おくのほそ道』に、その発句は出てこないが、曽良の『曽良旅日 記』には、次のような発句が記されている。 糸遊に結つきたる煙哉 翁 あなたふと木の下暗(やみ)も日の光 翁 入 か ゝる 日 も 程 々 に 春 の く れ 鐘つかぬ里は何をか春の暮 入逢の鐘もきこえず春の暮 ◇ 日光 四月一日(陽暦五月十九日)、芭蕉は、日光の東照宮を参拝する。 あらたふと青葉若葉の日の光 黒髪山(男体山)を詠った曽良の句が、『おくのほそ道』に収められている。 剃捨(そりすて)て黒髪山に衣更(ころもがへ) 曽良 四月二日、芭蕉は、裏見の滝を訪れる。 暫時(しばらく)は滝に籠るや夏(げ)の初 ◇ 那須野 日光から玉生を経て、那須野越えをする時の曽良の句が、『おくのほそ道」に掲出されている。 かさねとは八重撫子(なでしこ)の名成(なる)べし 曽良 ◇ 余瀬・黒羽 四月三日、芭蕉は旧知の余瀬の住人・鹿子畑翠桃(すいとう)を訪ね、その翌日、その兄の、黒羽居住の浄法 寺桃雪(とうせつ)に招かれている。その後、この兄弟の間を往来しながら、十四日間にわたり逗留し、この兄 弟らと歌仙一巻をはじめ、かずかずの佳句を詠出している。『おくのほそ道』には、そのなかの三句が収録され ている。 黒羽光明寺行者堂 夏山に足駄を拝む首途(かどで)哉 雲巖寺 木啄(きつつき)も庵はやぶらず夏木立 黒羽から殺生石へ 野 を 横 に 馬 牽 ( ひ き ) む け よ ほ と ゝぎ す さらに、『曽良旅日記』の「俳諧書留」には、次の芭蕉と曽良の句が収録されている。 雲巖寺 物いはで石にゐる間や夏(げ)の勤(つとめ) (曽良) 浄法寺桃雪邸 山 も 庭 に う ご き い る ゝや 夏 ざ し き 芭蕉 黒羽白河の関を偲びて 田や麦や中にも夏〈の〉時鳥 芭蕉 また、『雪満呂気』(天命三年・一七八三:闌更改定本)に、次の句が収録されている。 ばせをに* つる絵がけるに *「 つ る 」 は 鶴 の 異 体 字 * つ る 鳴 ( な く )や 其 声 に 芭 蕉 や れ ぬ べ し 翁 (「つる鳴や其声芭蕉やれぬべし」は、元文二年(一七三七)の『ゆきまるげ』(周徳自筆本)の句形) ◇ 高久 四月十六日、芭蕉らは、那須湯本の殺生石を目指したが、道中雨に降り込められて、那須の高久の高久覚左衞 門のもとで二泊する。その時の、芭蕉の発句と曽良の脇句との唱和が、『曽良旅日記』に掲出されている。 落くるやたかくの宿の時鳥(ほととぎす) 木の間をのぞく短夜の雨 翁 曽良 ◇ 那須湯本 四月十八日、芭蕉らは、那須湯本に到着し、湯本五左衞門のもとに滞在する。次の句が、『曽良旅日記』に掲 出されている。 那須湯本・温泉神社 湯をむすぶ誓も同じ石清水 翁 殺生石 石の香や夏草赤く露あつし ◇ (芭蕉) 遊行柳 四月二十日(陽暦六月七日)、芭蕉らは、那須湯本を出立し、白河の関へと向かう。その道中で、那須の芦野 の遊行柳を訪れ、その一句が『おくのほそ道』に収められている。 田一枚植(うゑ)て立去る柳かな ④ 蕉門と享保俳諧の時代 蕉門と元禄俳壇 元禄俳壇における蕉門俳諧の流行は、とかく過大評価されがちであるが、その実態は、その孤高性の故もあっ て、あまねく、その時代の寵児であったとはいい切れない面もあった。しかし、芭蕉の『おくのほそ道』行脚後 の、元禄三年(一六九〇)に編集され、翌四年に刊行された『猿蓑』は、元禄俳壇の中で、あまねく、注目を浴 び、自ずから蕉門の俳諧が波紋のように広がりはじめていった。 下野の蕉門 ◇ 浄法寺桃雪 元禄二年(一六八九)の『おくのほそ道』は、桃雪(一六六一∼一七三〇)の二十九歳の時であった。 『曽良旅日記』の「俳諧書留」には、次の発句が収められ、これに、須賀川の俳人・等躬(とうきゅう)の脇句、 芭蕉の第三、曽良の四句目が掲出されている。 雨晴て栗の花咲跡見かな 桃雪 また、天野桃隣が編集した『陸奥鵆』に桃雪の発句が、松本淡々の紀行句文集『安達太郎根(あだたらね)』 に、桃雪らの六吟歌仙が収載されている。 ◇ 鹿子畑翠桃 兄の桃雪より一歳年下で、『おくのほそ道』は、翠桃(一六六二∼一七二八)の二十八歳の時であった。 『安達太郎根(あだたらね)』の六吟歌仙にも、その名が見られる。次の句は、江戸の俳人・祇徳の『句餞別』 に収載されている。 うたひゆく時雨の笠か雪の笠 ◇ 翠桃 津久江翅輪 桃雪・翠桃と共に、芭蕉らの「 おふ人を枝折の夏野哉(芭蕉の発句)」の歌仙に登場する俳人の一人である。 天野桃隣が編集した『陸奥鵆』にも、次の句が見られる。 黒き蝶飛(とぶ)跡白し風車 ◇ 翅輪 芦野桃酔 芦野民部資俊(すけとし)は、芦野三千九百石の第十九代の領主である。芭蕉より七歳年上で、芭蕉が『おく のほそ道』を執筆中の元禄五年(一六九二)に病没した。次の句は、『陸奥鵆』に収載されている句である。 春雨や寝返りもせぬ膝の猫 ◇ 桃酔 『陸奥鵆』 元禄十年(一六九七)の天野桃隣編の『陸奥鵆』には、これらの俳人の他に、黒羽・芦野・烏山の有力俳人の 句も見受けられる。 ◇ 『伊達衣』 須賀川の俳人・相良等躬(一六三八∼一七一五)の『伊達衣』には、黒羽の三俳人の句が収載それている。 ◇ 『倭漢田鳥集』 大淀三千風(一六三九∼一七〇七)の『倭漢田鳥(わかんでんちょう)集』には、下野・重味(じゅうみ)の の句が見受けられる。 ◇ 『類柑子』 榎本其角(一六六一∼一七〇七)が未定稿のまま病没し、その後、服部嵐雪(一六五三∼一七〇七)が補訂し た『類柑子(るいこうじ)』には、佐野・鹿沼の俳人の、其角追悼の句が収載されている。 ◇ 『俳諧千鳥掛』 山口素堂(一六四二∼一七一六)がその成立に関係した『俳諧千鳥掛』に、八人の下野の俳人の句が見受けら れる。 ◇ 享保の俳諧 元禄七年(一六九四)の芭蕉没後、蕉風の俳諧は、芭蕉の詩精神を全面的に継承できる者が出現せず、四分五 裂の状態となってしまった。その一つは、洒落た比喩を誇示する洒落風と呼ばれた江戸座の俳諧で、其角、水間 沾徳(せんとく・一六六二∼一七二六)が中心となった。また、地方俳壇では、田舎蕉門と称された各務支考 (しこう・一六六五∼一七三一)の美濃風や岩田涼兎(りょうと・一六五九∼一七一七)の伊勢風が流行を極め た。その他洒落風の江戸座に対抗して、化鳥風(岸本調和・立羽不角等)なども勃興した。 ◇ 小川立些 立些は、宇都宮の談林風の有力俳人の一人である。寛保十五年(一七三〇)に刊行された には、立些の独吟歌仙一巻が収録されている。 『続江戸筏』 ◇ 青山立鴨 立鴨(りゅうおう)は、江戸座俳諧で活躍した宇都宮の有力俳人である。寛保十年(一七二五)に刊行された 江戸座俳諧の貴重な資料『百千万』(貴志沾州編書)の中にも江戸在住の大物俳人と肩を並べて、立鴨の句が収 録されている。 ◇ 其道 佐野在住の、其角門の有力俳人・其道(きどう)は、享保二十年(一七三五)に刊行された『梨園(なしのそ の)』(桑岡貞佐編書)に江戸座の一流俳人と共に四吟歌仙を興行しいる。 ◇ 沾風・杜川・楼我 佐野には、其道の他に、沾風(せんふう)・杜川(とせん)・楼我(ろうが)などの俳人が活躍していた。 ⑤ 早野巴人 巴人の生涯と史的意義 巴人は、那須郡烏山出身で、後に与謝蕪村(一七一六∼一七八三)の師として中興俳諧の礎となった。若くし て江戸に出て、其角・嵐雪に師事し、享保十二年(一七二七)に江戸を後にし、京都に移住する。この十年余の 在京中に、望月宋屋(そうおく)・高井几圭(きけい)らの門人を育成した。 元文二年(一七三七)、砂岡雁宕(がんとう・生年不詳∼一七七三)の強い誘因により、江戸に戻り、日本橋 本石町に夜半亭を結んで宋阿と改号した。蕪村は、この頃、夜半亭に同居し、宋阿の内弟子となったが、巴人は、 その数年後の、寛保二年(一七四二)六月六日に夜半亭において病没する。六十七歳の生涯であった。 巴人の年譜 ○延宝四年 (一六七六) 下野国烏山に生まれる。芭蕉・三十三歳、嵐雪・二十三歳、其角・十六歳。 ○貞享元年 (一六九四) 巴人・九歳。この頃江戸に出たと思われる。 ○元禄二年 (一六八九) 巴人・十四歳。芭蕉の『おくのほそ道』の跡を行脚する。 ○元禄七年 (一六九四) 巴人・十九歳。芭蕉没、享年五十一歳。 ○元禄十四年(一七〇一) 巴人・二十六歳。嵐雪編『杜撰集』に竹雨の号で入集。 ○宝永四年 巴人・三十二歳。其角没・享年四十七歳、嵐雪没・享年五十四歳、嵐雪編『類柑 (一七〇七) 子』 に入集。 ○享保元年 (一七一六) 巴人・四十一歳。蕪村生まれる。 ○享保十二年(一七二七) 巴人・五十一歳。江戸を出立し、京都に移住する。 ○元文元年 巴人・六十一歳。この年宗阿に改号、雁宕が上京し、江戸への帰国を誘因する。 ○元文二年 (一七三六) (一七三七) 巴人・六十二歳。春、京都を出立し、日本橋本石町に夜半亭を結ぶ。蕪村入門。 ○元文三年 (一七三八) 巴人・六十三歳。この年宋阿に改号。 ○寛保二年 (一七四二) 巴人・六十七歳。夜半亭にて没。享年六十七歳。 巴人の作品 ◇『夜半亭発句帖』 巴人の作品を集大成したものとして、巴人没後の宝暦五年(一七五五)に刊行された俳諧句集『夜半亭発句 帖』がある。その序は雁宕、その跋は蕪村が担当した。次の句は、結城の雁宕邸での故郷を思っての句である。 しもつけや奥底もなき花の形 巴人 ◇『杜撰集』 嵐雪編『杜撰集(ずさんしゅう)』に竹雨の号で入集。巴人の最も早い作品と推測される。 巣の中を立得ぬ鳥や花の山 ◇烏山・滝田天満宮奉納句 竹雨 次の句は、元禄十五年(一七〇二)の年号を付記した烏山・滝田天満宮奉納句の句である。 水聞の耳のうごきや家ざくら 願主 巴人 ◇早野家蔵『晋其角先生出点百韻』 巴人の一座した最初の俳諧の百韻の一巻に、其角の点が加えられ、連衆十五人の中で巴人は最高の三十九点を 得ている。 ◇『銭龍賦』 巴人の盟友の高野百里が編集した宝永二年(一七〇五)の『銭龍賦(せんりゅうふ)』に、巴人が一座した歌 仙と発句が収載されている。次の句は、その発句の一つである。 芦の温泉(ゆ)の石に精有リ秋の声 巴人 ◇『宝永六年歳旦帖』 宝永六年(一七〇九)の歳旦帖が、巴人の作品で現存する歳旦帖のなかでは最も早いものと思われる。 次は、そのなかの発句の一つである。 あまれりや鮮( せん) 一本に年の暮 巴人 ◇『今の月日』 巴人の後輩で烏山出身の常磐潭北が編集した享保七年(一七二二)の『今の月日』に巴人の三吟歌仙などの発 句が収載されている。次の句は、その発句の一つである。 宿とへば紅葉の目当定まらず 江戸 巴人 ◇『閏の梅』・『俳諧宮遷』 享保十二年(一七二七)刊行の『閏の梅』・『俳諧宮遷』に、京時代の巴人の発句が収載されている。次の句 は、そのうちの一つである。 もどり橋花やかつきの下り顔 京 巴人 ◇『俳諧象潟集』・『誹諧草むすび』 巴人の最初の俳号は、竹雨で、また、元禄十四年(一七〇一)の頃から、郢月泉(えいげつせん)の号も用い ていた。享保十四年(一七二九)刊行の『俳諧象潟集』・『誹諧草むすび』には、この号での発句が見受けられ る。 ひかる代や花たちばなの十万里 郢月泉 巴人 ◇『一夜松』 享保十八年(一七三三)刊行の巴人編集の『一夜松』に、巴人の初出と思われる独吟歌仙が収載されている。 ◇『元文元年・郢月泉興行百韻』・『元文三年・高峨亭興行五十韻』 元文元年(一七三六)の『郢月泉興行百韻』のなかで、巴人は宗阿の号を用いている。なお、晩年の号の宋阿 は、元文三年(一七三八)の『高峨亭興行五十韻』に初見があるという。 ◇『誹諧桃桜』 元文四年(一七三九)の其角・嵐雪の三十三回忌の追善集で〈左・右〉二巻から成り、その跋は、編者の宋阿 自身が記している。その左の巻には、其角の発句、その右の巻には、嵐雪の、それぞれ発句によって、いずれも、 宋阿自身の脇越しの独吟歌仙が収載されている。 ◇『寛保元年・夜半亭歳旦帖』 現存する宋阿最後の歳旦帖は、病没の前年の寛保元年(一七四一)の『寛保元年・夜半亭歳旦帖』である。次 の句は、その巻頭の発句である。 あめつちのいでもの見せん福寿草 宋阿 ◇『辞世吟』 寛保二年(一七四二)の春頃から口中に痛苦を覚え、次第に発語もままならない状態となって、ついに、その 六月六日にこの世を去った。次の句は、その辞世の吟である。 こしらへて有とは知らず西の奥 ⑥ 常盤潭北 潭北の生涯 宋阿 潭北は、延宝五年(一六七七)那須郡烏山赤坂町に生まれた。姓は渡辺、後に常盤を名乗り、名は貞尚、字は 堯民といった。其角門で、俳諧撰集に『潮越』、俳諧随筆集に『今のつき日』があり、そのほか『反古さらへ』、 『としのみどり』などの著書がある。また、潭北は医を業としており、さらには、庶民教育の先駆者でもあり、 その方面では『民家童蒙解』などの著書がある。延享元年(一七四四)七月三日に没し、享年六十八歳であった。 潭北と巴人 潭北は巴人の一年後輩として烏山の生まれ、また、俳諧も其角門であるが、俳人としての出発は、巴人よりも 十年余り遅れたようである。潭北は、常に、俳諧の道においては、巴人を自分の兄弟子のようにして接していた ことを、その著書等で伺い知ることができる。 潭北と与謝蕪村 潭北と巴人は同郷同門の旧友であり、その巴人晩年の弟子の有力の門下生に蕪村がいた。当然のことながら、 潭北と蕪村との交遊関係も深いものがあり、蕪村の『新花摘』には、潭北も登場してくる。 『潮越』 潭北の、享保二年(一七一七)の撰集で、盟友・稲津祇空(一六六三∼一七三三)との奥羽遍歴を記念して著 わしたもので、蕪村の俳詩「北寿老仙をいたむ」の北寿老仙こと、早見晋我(一六七一∼一七四五)も登場する。 『今の月日』 潭北の俳諧随筆・撰集『今の月日』は、享保七年(一七二二)に刊行された。巴人・潭北・我尚(蕪村の兄弟 子の雁宕の父)との「江戸川三吟」や潭北と我尚との両吟などが収められている。また、我尚の死に際して、我 尚の「むらさきの菊は行みち土の底」の句に、次のような追悼句を手向けた。 来賓の啼はらす目を羽帚 北 『類柑子』 宝永四年(一七〇七)の、其角の未定稿、嵐雪編(補訂)の『類柑子』に、次の其角追悼句が収載されている。 臼なれど香こそ長者の大桜 カラス山 潭北 『享保十七年歳旦帖』 『享保十七年歳旦帖』は、早見晋我の編集・上梓によるものである。潭北の歳暮吟が収載されている。 聾にてよしや富貴のとしの側 潭北 『綾錦』・『烏山彦』 享保十七年(一七三二)刊行の、菊岡沾涼(せんりょう)著の『綾錦』に、潭北の系譜とその句が収載されて いる。また、享保二十一年(一七三六)の沾涼著の『烏山彦』にも、その句が見受けられる。 花に見て苗の千もとや菊の杣 潭北 『紀行誹談二十歌仙』 享保十九年(一七三四)刊行の、松木淡々著の『紀行誹談二十歌仙』に、潭北の句が収載されている。 梅が香やのれば静る馬の (かほ) 潭北 『梨園』 享保二十年(一七三五)刊行の、桑岡貞佐著の『梨園』にも、潭北の句が見受けられる。 初雪や裾をさばかずとらず猫 潭北 『誹諧明星台』 元文二年(一七三七)刊行の、金井重雪著の『誹諧明星台』に、巴人の句と共に潭北の句が収載されている。 布子着る蛍の川や親ごころ 潭北 飛ほたるさびしき闇の遊びかな 巴人 『誹諧桃桜』 元文四年(一七三九)刊行の、巴人編の『誹諧桃桜』の〈左〉の巻に、「結城三吟」(雁宕・宋阿・潭北の三 吟)、〈右〉の巻に、「潭北独吟歌仙」が収載されている。 『寛保四年・(宇都宮)歳旦帖』 寛保四年(一七四四)刊行の蕪村編の『寛保四年・(宇都宮)歳旦帖』に、潭北の句が見受けられる。 梅がかや隣の娘嫁せし後 佐久山 潭北 潭北没後の撰集 『宗祇戻』(風光編・一七五三刊)、『俳諧古選』(三宅嘯山編・一七六三刊)、『俳諧新選』(三宅嘯山編 ・一七七三刊)にも、潭北の句が収載されている。 ⑦ 蕪村と『寛保四年・(宇都宮)歳旦帖』 俳諧中興 芭蕉没後、蕉風俳壇は各派が分裂、俳風はますます卑俗化していった。享保十六年(一七三一)の『五色墨』 が江戸で出版されたが、この頃から俳諧中興の動きが出てきた。俳諧中興の中心的人物は、京都の与謝蕪村、江 戸の大島蓼太(りょうた)、信濃の加舎白雄(しらお)、名古屋の加藤暁台(きょうたい)、 伊勢の三浦樗良 (ちょうら)等であった。 蕪村と早野巴人 与謝蕪村(一七一六∼一七八三)が、何時どのような経緯で、夜半亭宋阿(早野巴人)の門下になったかは詳 らかでない。しかし、蕪村の作品が最初に現れる撰集は、『元文三年(一七三八)・夜半亭歳旦帖』の、宰町の 号での次の句である。 君が代や二三度したるとし忘れ 宰町 蕪村の晩年の句集『落日庵句集』に、元文三年(一七三八)刊行の『卯月庭訓』所収の次の句が収録されてい る。 尼寺や十夜にとどく鬢葛(びんかづら) 宰町 また、同じ『落日庵句集』に、元文四年(一七三九)作として、宰鳥の号で、次の句が収録されている。 摺鉢(すりばち)のみそみめぐりや寺の霜 宰鳥 これらの句から、少なくとも、元文二年(一七三七)以前、すなわち、蕪村、二十三歳以前には、早野巴人の 門下になったものと思われる。号は、宰町、後に、宰鳥と称した。 元文四年(一七三九)に、巴人が刊行した『誹諧桃桜』には、宰鳥の号で、歌仙二巻に登場しており、当時、 蕪村が巴人の信頼を得ていたことが伺える。 寛保二年(一七四二)六月六日、夜半亭において、師の宋阿(巴人)の最後を看取ったのは、二十七歳の蕪村 であった。その時の句が、望月宋屋の編集した『西の奥』に収録されている。 我泪(なみだ)古くはあれど泉かな 東武 宰鳥 その後、江戸の夜半亭を離れ、同じ、夜半亭門の、結城の砂岡雁宕(がんとう)に身を寄せる。宝暦五年(一 七五五)に、雁宕・阿誰(あすい)等が編集した巴人遺句集『夜半亭発句帖』には、当時、京都に帰っていた蕪 村が、その跋文を寄せている。 さらに、安永三年(一七七四)の巴人の三十三回忌には、巴人追善集『むかしを今』を、時に、五十九歳の蕪 村が刊行する。 このように、蕪村と巴人の直接的な師弟関係は、五年程度と短かったが、蕪村は、終世の師として、巴人を仰 いでいたことは、蕪村の生涯に、随時現れてくる。 蕪村と『寛保四年・(宇都宮)歳旦帖』 蕪村は、師巴人の没後、飄然と江戸を去り、同門の先輩の雁宕を頼って、結城・下館に移り住む。以来、〈歴 行すること十年〉の関東放浪の生活に入る。その間、寛保三年(一七四三)の暮、約一ヶ年ほどにわたる奥羽行 脚から、宇都宮に戻ってきたと思われ、翌四年の新年を、宇都宮の佐藤露鳩(ろきゅう)の家で迎えたと解せら れる。 すなわち、蕪村は、下野の宇都宮の露鳩邸で、蕪村自身の、初めての撰集、いわゆる、『寛保四年・(宇都 宮)歳旦帖』を世に出すこととなる。蕪村は、この処女歳旦帖に、五句を収載しているが、その中の、巻軸句に、 初めて栄光の〈蕪村〉という号を用いている。後の四句は、これまでの号の〈宰鳥〉であった。 まさに、宇都宮は、俳人蕪村の号の誕生の土地でもあった。時に、蕪村、二十七歳であった。 鶏(とり)は羽(は)にはつねをうつの宮柱 宰鳥 (第一番目の三つ物の発句) 大黒舞のげにも子(ね)の年 宰鳥 (第四番目の三つ物の脇句) のどかさは又鉄槌の柄がぬけて 宰鳥 (第七番目の三つ物の第三の句) 水引も穂に出けりな衣くばり 宰鳥 (「歳末」吟中の句) 古庭に鶯啼きぬ日もすがら 蕪村 (「春興」吟中の巻軸の句) この資料は、当時の宇都宮俳壇の情況がうかがえる貴重な資料であるが、歳旦三つ物(年始めの、発句・脇句 ・第三による三句形式のもの)が七組もあり、全体が、蕪村の撰集としての意気込みが感じられる興味深いもの となっている。 蕪村と遊行柳 巴人門下の結城の雁宕・関宿の阿誰が編集し、宝暦二年(一七五二)に刊行された『反古襖(ほごぶすま)』 に、蕪村の作品を発句とした歌仙一巻が収載されている。 柳ちり清水かれ石ところどころ 蕪村 (発句) 馬上の寒さ詩に吼ゆる月 李井 (脇句) 茶坊主を貰ふて帰る追出(おひだ)シに 百万 (第三) この李井(馬場存義)、百万(小栗旨原)は、『寛保四年・(宇都宮)歳旦帖』にも登場する、江戸俳壇の有 力俳人である。この蕪村の発句の成立時期は定かではないが、奥羽行脚の往きか還りかのいずれかで、寛保二年 (一七四二)か三年の十一月の頃と思われる。歌仙を実際に巻いたのは、その後ということになろう。 ちなみに、この句は、蕪村開眼の一句とされ、晩年の自撰句集に至るまで、蕪村が愛着を持ち続けた自信作で もあった。宝暦元年(一七五一)に、京都に移住した蕪村は、その後、画俳二道の道を歩むこととなる。俳人と しては、明和七年(一七七〇)に、夜半亭宋阿(早野巴人)の後を継いで、夜半亭二世を継承することとなる。 このように見てくると、蕪村に俳諧の手ほどきをした師が、下野の烏山出身の、早野巴人であり、さらに、蕪 村という俳号も、その蕪村開眼の一句も、この下野で誕生しているということは、下野俳諧史上、蕪村は、切っ ても切れない関係にあるといえる。 ⑧ 中興俳諧の時代 中興俳諧 中興俳諧運動の時代は、寛保三年(一七四三)の、芭蕉五十回忌から、天明三年(一七八三)の、芭蕉百回忌 取越追善(実際は九十回忌)までの、約四十年間とされている。 この天明三年(一七八三)に興行された、芭蕉百回忌取越追善俳諧に出座の後、その年の十二月二十五日未明、 芭蕉に次ぐとされる俳人・蕪村は、その生涯を閉じた。 ◇『今のつき日』 享保七年(一七二二)刊行の、常盤潭北編の『今のつき日』に、佐野地方の俳人の句が収載されている。 ◇斉藤珠明 蕪村の『新花摘』に出てくる〈日光の斉藤珠明(しゅめい)〉とは、今市に居住していた斉藤珠明と同一人物 と思われる。安永六年(一七七七)の吉成宝馬著の『日光山紀行』、明和七年(一七七〇)の加藤暁台の『二編 しをり萩』、宝暦十三年(一七六三)の明田秀億著『標(こずえ)雑談』などにも、珠明の句が見受けられる。 朝がほは糸からくりに咲にけり 日光 珠明 ◇青雨 天明三年(一七八一)の、大島蓼太編の『七柏集』に、蓼太一門の歌仙が収載されているが、その中に栃木の 青雨が登場する。青雨は、蓼太門の有力俳人であったと思われる。 風鈴になぶられて居るばせを哉 下野栃木 青雨 ◇『職人尽俳諧集後集』・『張笠』・『新撰武蔵曲』 寛延二年(一七四九)に上梓した、大島蓼太編の『職人尽俳諧集後集』、寛延三年(一七五〇)の白井鳥酔編 の『張笠』、宝暦三年(一七五三)の大口屋暁雨編の『新撰武蔵曲(むさしぶり)』に、当時の下野の俳人の句 が見受けられる。 ◇『宗祇戻』 宝暦三年(一七五三)の和知風光編の『宗祇戻』には、氏家の俳人の歌仙と共に、黒羽・佐久山・氏家の俳人 の句が収載されている。 ◇『はいかい黒うるり』・『春興 駕数美遠東許』・『片歌東風俗』 宝暦九年(一七五九)の建部涼袋(りょうたい)門の鳥朴(素外)等の紀行文『はいかい黒うるり』、明和二 年(一七六五)の涼袋編の『春興 駕数美遠東許(かすみをとこ)』、同じ明和二年の涼袋門の桃林編の『片歌 東風俗(あづまぶり)』に、下野各地の俳人の句が見受けられる。 ◇『はいかい雲と鳥』・『しをり萩』・『俳諧武埜談笑』・『芭蕉庵再興集』 明和五年(一七六八)の白井鳥酔編の『はいかい雲と鳥』、明和七年(一七七〇)の加藤暁台の『しをり萩』 同じ明和七年の烏明一門の『俳諧武埜談笑(たけのだんしょう)』、翌明和八年の大島蓼太の『芭蕉庵再興集』 にも、下野各地の俳人の句が見受けられる。 ◇『俳諧 表紙』・『俳諧新選』・『日光山紀行』 安永二年(一七七三)の加舎白雄の『俳諧 (ふくろ)表紙』、同じく安永二年の、三宅嘯山の『俳諧新選』、 安永六年(一七七七)の吉成宝馬の『日光山紀行』にも、宇都宮・氏家・今市・日光・佐久山などの数多くの俳 人の句が収載されている。 ◇吉成宝馬 吉成宝馬(一七二七∼一七九八)は、那須の出身で、小菅蒼狐(一七一二∼一七六六)門で、後に、小菅家を 継ぎ、江戸談林七世を称した。椎本才麿(一六五六∼一七三八)の追善集『椎の恩爺忌』に、亡き才麿の句を据 えた宝馬等の五吟歌仙が収載されている。次の句は、天明元年の『俳諧類句弁』での、宝馬の発句である。 行春の雲あらた也よし野山 宝馬
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