!. 鎮西学院に遣わされた宣教師たち 鎮西学院において1885年から86年まで院長、 1886年から 〔1〕宣教師の働き 1889年まで神学科長、 1887年から1889年まで実業科長、 ! チャールズ・ビショップ BISHOP, Charles 1891年から189 5年までミッションの出版部長、長年にわた チャールズ・ビショップは1 8 8 5年1 0月に長崎に到着し、 りミッションの会計、 1880年代および1902年から1 90 7年ま 鎮西学院の第3代院長として就任した。 1 8 5 0年4月16 で東京福音会の会長を務める。 1897年から1906年まで日 日、 ニューヨーク州トゥループスバーグで生まれた。彼は 本の立教活動のニュースを伝える定期刊行誌 Tidings ノースウェスタン大学で教育を受け、 1 8 79年にギャレット聖 from Japan を編集。公式に引退後も青山学院内に住み、 書学院を卒業した。 そして同年9月、 メソジスト教会の宣 政治情勢により1941年やむなく米国に帰国。 彼が亡くなっ 教師として来日している。 たのは1941年11月8日。場所はカリフォルニア州ロサンゼ 1 8 8 0年に同じメソジスト教会の宣教師仲間で1 876年か ルスであった。 享年91歳。 ら日本に滞在していたオリブ・ホワイティングと結婚。 長崎 でのビショップ夫妻は4人の子供、 カール (1 8 8 1年誕生)、 " デイビッド・スペンサー SPENCER, David Smith ミルドレッド (1 8 8 3年誕生)、 フェイス (1 8 86年誕生) 、 そして デイビッド・スペンサーは1886年9月 レオン (1 8 8 9年誕生) に恵まれたが、 その後1 89 1年に東京 に長崎へ来て鎮西学院の第4代院長 の教文館へ転任した。 妻のオリブは1 9 1 4年東京で死去し となり、 1892年までその要職を務めた。 た。 6 7歳であった。 1854年1月31日、 ペンシルバニア州レ 2年後ビショップはメソジスト教会宣教師ミルトン・ペイ モンに生まれた彼は14歳でメソジスト教 ルの妹ジエニー・ペイルと再婚。彼は正式には19 2 6年に引 会の会員となつた。 1879年にワイオミング 退したが1 9 4 0年7月に本国へ送還されるまで青山学院 神学校を、 1884年にはドルー神学校を卒業している。 18 82 で教鞭を取り続けた。 メソジスト監督教会日本ミッション形 年5月にペンシルバニア州ファクトリービルに住むメア 成の最初の半世紀の中でもっとも重要な人物の−人、中 リー・アン・パイクと結婚。彼はフイランダー・スミス聖書学院 央の東京のみならず、 南は長崎、 北は札幌と活動し、 教育 で教授をしていたが、妻とともに1884年に来日した。 スペン 及び伝道活動において重要な役割を果たす。 1 884年から サー夫妻は8年間の長崎滞在中に3人の子供をもうけた。 8 5年まで東京北教区の長老司、 18 9 7年から1 900年まで 1888年に誕生し、 後にメソジスト派の宣教師および 鎮西 札幌教区の長老司。 在日中のほとんどの期間、 青山学院 学院の教師になった息子のロバートもその一人である。 の理事を務め、他の職務にある時も同学院の教師を兼任。 1893年から1899年まで 名 古 屋 教 区 の、 189 9年 から 1903年まで東京教区の長老司を務める。米国で資金を 集め、現在教文館の立っている銀座の角に貴重な不動産 を購入し、東京にメソジスト出版局を創立するのに主要な 役割を果たす。 また、 メソジスト監督教会・南メソジスト監 督教会及びカナダ・メソジスト監督教会の事業を統合して、 1907年独立の日本メソジスト教会設立にも重要な業績を 残す。 キリスト教史(1890)及び新約聖書入門書を日本語 に翻 訳、 さらに数 冊の本を著し、 その中に Comparative Church Polity『比較教会組織学』 (1892)、 および日本語 の小冊子がある。2年間 Japan Evangelist の編集者を務 182 鎮西学院1 2 5周年記念誌 鎮西学院物語 める。 1 9 0 9年ラキュース大学から名誉神学博士を授与さ tament『新 約 聖 書 入 門』 、Discrimination れる。 Japanese in California『カリフォルニアの日本人差別問 デイビッド・スペンサーは1 9 26年1 0月に引退し、 離日後、 Against ! 鎮 西 学 院 に 遣 わ さ れ た 宣 教 師 た ち the 題』 の著者。 種々の宗教定期刊行物への寄稿者。彼は カリフォルニア州パサデナのロビンソン・パークで生活、 1894年にドルー神学校から神学士号を、 そして19 0 7年に 1 92 9年10月3 1日に亡くなった。 75歳であった。 パシフィック大学から神学博士号をそれぞれ授与されて いる。彼は1926年11月インディアナ州で列車に乗っている !ハーバート・ジョンソン JOHNSON, Herbert Buell,Sr とき脳卒中で倒れ、 そのまま68年間の生涯を閉じた。 " アーヴィン・コレル CORRELL, Irvin Henry 鎮西学館の初 期に現われ たの はアーヴィン・コレ ルであった。 彼は 1891年に長崎伝 道地区の総括責 任者に任命され、 ハーバート・ジョンソンは1 88 8年1 2月に来崎し、 18 9 7年ま 1897年までその地位に就いた。 また鎮西学院の第5代院 で滞 在した。 この間、 鎮 西の第6代 院 長を18 9 3年から 長として1892年から1893年まで務めた。長崎在任中、数 18 94年まで務めたが、 鎮西学院在任中(在任期間1887 回琉球諸島を訪れ、沖縄のメソジスト教会を助けた。 彼は 年∼1 8 9 4年) に生まれて3か月の息子が死亡し、 1 891年 1851年にペンシルバニアのイーストンに生まれ、 18 7 1年ミ 1月、 坂本国際墓地に埋葬されている。 ハーバート・ジョン ラースビル州立師範学校を卒業。 1873年フィラデルフィア ソンは1 8 5 8年4月3 0日にニューヨーク州フェアフィールドに 協議会に加わり、 その年に中国行きが決定した。 しかし妻 誕生し、 1 8 7 8年にイリオン (ニューヨーク) 学士院を卒業し ジェニーが病気になったため、中国には行かず、 代わりに た。 翌年の4月エマ・リーチと結婚したが、 その5か月後、 横浜で伝道した。 ペンシルバァニア年会の牧師。 メソジスト 彼女は亡くなった。 18 83年に彼はドルー神学校を卒業し、 監督教会による最初の日本派連立教師の一人。 1 87 4年 この年5月にクララ・リチヤードソンと再婚した。式は彼の から1881年まで初代の横浜教区長老司を務め、 青山学 友人でドルー神学校にいたデイビット・スペンサーによって 院の前身であるメソジスト・ミッション神学校の創立に携わ 執り行われた。 ジョンソンはその年のワイオミング協議会の る。 1883年から1884年まで東京北教区の長老司を務め、 役員となり、 1 88 3年から1 88 6年までペンシルバニア州ル 東京英和学校の神学科で教える。 1884年から18 8 8年ま ザーンで、 18 8 6年から1 88 7年までは同州プレインズで牧 で再び横浜教区の長老司を務め、 1888年から1890年6 師を務めた。 月まで東京英和学校(青山学院) の校長を務めるが、 こ 彼は長崎を離れると、 青山学院の予科の科長と高等学 れは学校の正史に記載されていない。 このような経験は不 部部長、 1 8 9 8年から19 0 4年まで福岡教区の長老司を務 幸なことであって、 ミッションの展開の仕方に次第に不満を める。 1 8 9 8年度南日本協議会の主任選挙人に選ばれた。 募らせる。 1889年賜暇で帰国後、 1891年∼1 897年まで来 そして合衆国に戻ると、 19 0 4年に太平洋沿岸日本伝道者 崎したが米国に帰国後、 1899年12月に家族全員とともに 団体の監督官に選出された。Introdution to the New Tes- 監督教会に入会、 1901年に監督教会の立教師として日 183 !. 鎮西学院に遣わされた宣教師たち 本に戻る。 1 9 0 2年に再度牧師の按手礼を受け、 奈良、津、 招き記念コンサートを開催した。 また学院の校庭には東敦 東京において務めた。名誉神学博士。 アーヴィン・コレルは 子氏の夫二田原英二作の100周年記念碑コレル夫人像 1 9 2 6年6月アメリカから来日の途中、船内で死亡した。 享 を建立した。 年7 5歳。妻のジエニーは7年後の1 9 3 3年7月に他界し ている。 F.N. スコット SCOTT, Francis Newton オペラの題材となった小説 『蝶々夫人』 の原作者はジョ スコットは18 70 ン・ルーサー・ロングである。 彼の姉であるサラ・ジェール・ 年6月20日、 カナ コレルは、 1 8 4 8年に米国・ペンシルバニア州でロングの長 ダ南部のオンタリ 女として生まれた。 信仰の厚い彼女は、 2 5歳のとき3歳年 オ州チェスリーで 下のアーヴィン・ヘンリー・コレルと結婚。 夫となった彼こそ 生まれた。 14歳の が鎮西学院第5代目の院長である。 とき、家族がアメリ 当時鎮西学院は、 長崎東山手の丘の上に立っていた カ合衆国に移民、 (現在の活水学院) 。 コレル夫人はその敷地内の6番地 ノースダコタ州ド の宣教師館に住み、 日本人の青少年の教育に愛を注い レイトン近郊の農場に定住。 1896年スコットはハムブリン大 で取り組んでいた。 妻のコレルは宣教師の妻として夫のキ 学から文学士の称号を得、 その3年後、 ニュージャージー リスト教布教を助け、 みずからも宗教の指導にあたった。裁 州マディソンにあるメソジスト宣教師養成所のドルー神学 縫や英語の勉強、 料理、育児を在日外国人や日本人に 校を卒業した。 1899年から1902年までミネソタ州で牧師を 教えて外国人居留地でかなりの信頼を得ていた。長崎や 務める。 1899年12月、 カナダ南東部の半島ノバスコシアに 日本の出来事を耳にする機会は多かったコレル夫人が、 住むアニー・J・マクレランと結婚。 1901年に長女フランシ 出入りの商人からお嬢さんの哀れな物語を聞き、 数年後 ス・メアリーがミネソタ州ブラウン・バリーで生まれている。 帰国した際フィラデルフィアで弁護士の見習いをしていた スコット一家が最初に来日したのは1903年で、彼は名 弟のジョン・ルーサー・ロングにこの物語を聞かせ、 それをも 古屋でメソジストの宣教師として活動しながら日本語を学 とに小説 『蝶々夫人』 を書き上げたのである。 彼は、日本に んだ後鹿児島教区長老司。 1906年11月17日宣教師フル 滞在したことはなかったが、 姉の長崎での実話をもとにノ カーソンの後任宣教師として鎮西学院に奉職 (1 907年∼ ン・フィクションとフィクションが混ざり合った小説を完成さ 1925年、 1931年∼1939年、 1912年∼1913年 第1 2代 院 せたのである。 長)。彼と妻のアニーが長崎へやって来ると、翌年息子の 1 8 9 8年、 ルーサーがそれを基に 「マダム・バタフライ」 と ハーラン・ポールが誕生した。 しかしそのすぐ後に悲劇が 題しフィクション化した物語を 『センチュリー・マガジン』 に 待っていた。 1909年1月3日に娘のフランシスがジフテリ 発表した。 その2年後にアメリカの劇作家デビッド・ペラス アで死亡し坂本国際墓地に埋葬されたのである。 また息 ゴ が同じ題で劇を作り、 それ がロンドンのギアコモ・プッ 子のハーランも2年後にカリフォルニアで亡くなった。 2人 チーニの目に留まった。 プッチーニはその劇に深く感動し、 の子供の追悼記念としてスコット夫妻は基金を集め、長崎 それを基にオペラを書き、 19 0 4年ミラノでのデビューと相 の飽の浦に幼稚園を設立し、 妻のアニーはそこで長年に 成った。 「マダム・バタフライ」 はその後大ヒットとなり、長崎 わたり園長を務めた。 途中1910年∼1 911年シカゴ大学で は永遠にこの悲劇の恋物語と結び付けて考えられるように 社会学・教育学を修め、 1925年∼1 926年シカゴ 大学大 なったのである。 学院の課程を修めた。 1923年にはハムライ大学より名誉神 鎮西学院では創立1 00周年にオペラ歌手東敦子さんを 184 ! 学博士号を授与された。 1912 (明治45)年4月第12代院 鎮西学院1 2 5周年記念誌 鎮西学院物語 長にスコット氏は就任していたが、 日本人で適当な人物 助の功も逸することができない。夫人は英語の授業を担当 がいたなら院長職をゆずりたいという考えであった。 後任と するほか、前院長夫人笹森敏氏とともに、職員・生徒の家 して青山学院神学部教授鵜崎庚午郎博士を第1 3代院 庭訪問をなし、病欠の学生を見舞い、 下宿生徒を慰問し 長として迎えることに成功、 1 9 13 (大正2) 年院長職を辞 たり、 クリスマス・シーズンなどには生徒を夕食に招いたり、 任する。 そして財政面の仕事に力を注いだ。 地道な生活指導に力を尽している。 スコット一家の滞在中、鎮西学院の本館は19 10年と 19 10 (明治43)年7月、米倉次吉・伊東平次・吉田次 1 924年の二度火災にあっている。 より広い土地を確保する 郎七 (後に河野と改姓) ・松村友雄・榎本泰治・佐野勝也 とともに耐火性のある校舎を建てるために、 学校当局者は 氏等が、鎮西学院青年会伝道隊を組織して早岐・武雄・ 193 0年に東山手から竹の久保へ移転し、 そこに4階建て 佐賀等を巡回したときは、 スコット夫人から寄贈されたバイ のコンクリート校舎を建設した。 総予算の3分の2に当る ブル数十冊を持参している。誰にでもできそうなことに思え 10万ドルを米国において募金することに、非常な努力をさ るが、 それほどことは簡単ではないのである。 あらためて夫 れたのであった。 人の人間愛、日本人に対する友情を味わうべきであろう。 スコットは1 9 4 0年11月1日に引退し、 妻アニーとともにカ 190 7 (明治40)年から19 39 (昭和14)年まで、 前後して リフォルニア州オンタリオへ帰って行った。 妻は1 9 42年7月 28年間、学院の育成に力を注がれたスコット夫妻の離日 24日にそこで他界し、彼も1 9 47年1 2月2 1日、 77歳で妻の は、 ある意味では時代の流れの中の止むを得ない事情に 後を追った。 よるものではあったろうが、今日においても実の感を仰えき 頑丈なコンクリートの校舎も1 9 45年8月9日の原爆の れない。 スコット先 生は、帰 国 後 送られ た書 簡の中で 爆風とそれに伴う火災から鎮西を守ることはできなかった。 “There is now every indication that next spring will see 建物は破壊され、 およそ100名の学生と教師が原爆で帰 Chinzei Gakuin as near financial independence as we can らぬ人となった。 終戦後、 鎮西は諫早に移転して教育活動 hope to see unless conditions change very materially.”と記 を再開。 また、 スコットご夫妻の召天後遺産は遺言ですべ し、続けて、“At the same time the demands of the Mon- て鎮西学院と長崎飽の浦教会のために献げられた。 鎮西 busho concerning the teaching of English are such that 学院ではスコット記念会堂を建設しようとの機運が同窓か the school feels that it can not use English teaching by らその当時持ち上がり募金も集められたが資金が不足し foreigners as it once did. So it seems like a good time to ていて何とかしたい思いであった。 19 5 9年原子爆弾犠牲 end our work in Chinzei.”と記しておられるのである。鎮西 者の教職員や学生のご冥福を祈る鎮西学院ピースチャ 学院をこよなく愛した6 0翁の心境複雑なものがあったこと ペルが建立された。 その基金はスコット先生の基金が用 が察せられる。 ! 鎮 西 学 院 に 遣 わ さ れ た 宣 教 師 た ち いられた。 2 0 05年8月9日鎮西学院は被爆6 0年を迎え、 スコット先生ご夫妻を記念するためにピースチャペル内に 銘板を作成した。 ! F.H. スミス SMITH, Frank Herron 日本で伝 道 手 業に従 事。 19 11年 在任中のスコット氏のよき協力者は、 鵜崎院長、 田川精 から1 91 2年まで鎮西学院の院長代 一郎先生 (院長事務取扱∼第1 4代・第1 6代) 、川崎升先 理、 また長崎 YMCA の夜間学校で 生(第1 5代院長) 、秋永寿一先生であった。 スコット氏は、 教え、 中国人の子供たちのため日曜 鎮西学院5 0年史に追憶を寄せて深い感謝の言葉を述べ 学校を開き、大浦中学校でも教鞭をと ておられる。 田川先生・秋永先生の利己心のないまじめさ、 る。 19 10年から年に1回、朝鮮を訪問、 忠実さに感謝の言葉もないと記している。 スコット夫人の内 同地在住の日本人の間でメソジスト監督教会の仕事を支 185 !. 鎮西学院に遣わされた宣教師たち 援、 1 9 1 4年からソウルに滞在して、 朝鮮および満州在住の 日本人に対する伝道の統轄者となる。 19 2 6年から1939年 までアメリカ合衆国西海岸地域の日本人の間でメソジスト 監督教会の統轄者、 また1 93 9年から19 4 6年まで暫定太 平洋岸日本人年会の統轄者をつとめる。 フアイ・ベータ・ カッパの受賞者。 192 0年ギャレット聖書神学校より名誉神 学博士号を贈られ、 1 9 2 0年には勲四等旭日小綬章を受 ける。 彼の思い出の記録が娘のポーリンによって1 976年か ら1 9 7 7年にかけてタイプされ、 2 7部が親族に配付された。 笹森院長の後を継いでスミス氏 (SMITH, Frank Herron) が院長代理となった。 19 1 2 (明治4 5) 年3月第20回 1 9 0 1年 左より3番目フルカーソン先生、 4番目シュワルツ先生、 5番目笹森卯一郎先生を囲んだ議員 卒業式において卒業証書を授与した人はこの人であった。 鎮西学院宣教師として1889年から1907年まで18年間奉 スミス院長代理は、 火災、院長逝去と重なる不幸の中に 職。 その間、2度も院長職を勤めた (7代・・1894∼190 1、 卒業して行く生徒たちを祝福し、 挫折せずよくその困難に 9代・・1902∼1906)。 1898年から2年間、長崎の米国領 耐えて学業を終えたことに感謝した。 しかもその訓辞は日 事館において副領事を務める。 1908年から1933年の引退 本語であった。 『東洋日の出新聞』 は、 「スミス氏の訓示が 時まで、 米国メソジスト監督教会海外宣教局現地機関代 一般形式的のものにあらずして言々句々肺腑より出でたる 表を務める。 1933年にコロラド州、 キャノン・シティーにアメリ がゆえに、 たとい自国語にあらざる国語をもってせるも十二 カ応用心理学学会を創立し、死亡時にはデンヴァー・ナ 分の印象を他の頭脳に刻したるの証となすべく、 一般教育 チュラル・ヒーリング・アーツ大学 (自然治療術大学) の理 家もって他山の石となす可し」 と報じている。 19 13 (大正 事長。 1906年ネブラスカ州ウエスレヤン大学より法学博士 2) 年第21回卒の本田九六氏も8 0歳をもって残するに至 号および 名誉神学博士号を贈られる。 1902年1 0月23日 るまで、 その師スミス氏を語るに感謝の念をもってせられた 米国で召天。 ことを、 遺族本田康徳氏 (島原南高教諭) は語られる。 スミ フルカーソン氏が50年史に送った追憶は、 明治中期の ス氏の教育者としての人柄がしのばれることである。 なお 学院の模様、 学生の姿を語って興味深い。 かつまたそこに またスミス氏は非常によく日本を愛された人であった。 アメ は、建学以来の、愛と友情と向上の精神と、神への信頼が リカで排日の風潮が盛んであった折は、諸大学・教会を 脈動していることに気がつく。 独唱してまわられた、 Beautiful Japanと (先生はすばらしい 「私と鎮西とのかかわりは、 1889年から1907年までであ 声楽の人であった由) 。 そのことは、遠矢平次氏が記して る。 この間にびっくりするような大事なことがたくさん続いて おられる ( 「鎮西校友」 ∼昭和5 5年8月2 1日刊第19号∼ 起りました。 この間はまた基礎作りの日々でもありました。 多 「F・H・スミス先生に思う」 ) 。 くのけだかい魂が貢献を尽しました。H・F・ジョンソン、 M・S・ヴエイル、笹森卯一郎博士、 その他多数の人たち ! E. R. フルカーソン FULKERSON, Epperson Robert 様十分に立って行けるよう、同時に一般教育の面において フルカーソンは、 18 59年1 0月2日米国で生まれ、 アーカ も他の学校と等しいように維持されるべく、精一杯働きまし ンソー州、 ネブラスカ州、 アイオワ州においてメソジストの牧 師の経験を経て、 東京英和学校予科及びカレッジ部長、 186 が、 この学校がキリスト教の学校として他の大きな学校同 た。笹森博士の犠牲と大きな理想は筆舌に尽し難い。 彼と私とは幾度も、 その重大な時機における危機に直 鎮西学院1 2 5周年記念誌 鎮西学院物語 面して、 夜明け方まで計画を語りあいました。 私自身の経 で青森教区の、 19 01年から1 90 2年まで長崎教区の、 19 02 験においてもきわだった一事があります。 19 03年9月、私 年から1 906年まで南九州(鹿児島)教区の長老司を歴任。 の愛する妻が長崎でなくなりました。 私の生涯のこの最大 また19 01年から19 15年まで琉球諸島における伝道事業 の試練に際して、 鎮西の生徒たち先生たちが、 同情を表 の責任を負う。 さらに19 01年から19 02年まで鎮西学院の わしてくれました。 それは私の生涯の転回点となりました。 第8代院長を務め、 1 91 0年から1 91 5年まで那覇市の官 その時までのキリスト教見地からの私の友情と愛の観念は 立中学校で英語の教鞭をとる。 190 9年オハイオ・ウエスレ むしろ浅かったのです。 私の生涯のこの最大のかなしみに ヤン大学から名誉神学博士号を授与される。 また、 以下の おいて、 この愛の表現は非常に顕著であったので、主要な 本を出版 The Loo Choo Islands『琉球列島』 (19 07年初 力の一つでありました。 版、 19 10年改版) 、パンフレット“Japanese Manners and それは、 真のキリスト教の本質をより深い理解に私を導き Customs Considered in Relation to Success in Missionary ました。 生徒たちは遺体を墓地に運ぼうと強く言い、 そして Work; Being three lectures delivered before the 1913 非常に丁寧にそれをしてくれました。 民族の境界は忘れら summer school for missionaries in Karuizawa, Japan” (57 れてしまいました。 私はいま新しく、可能な限りキリスト教の ページ) 「効果的宣教活動のための日本人の作法と習慣、 愛と同情とに導かれました。私はこの驚くべき経験を経るこ 191 3年日本の軽井沢における宣教師のための夏季学校 とによってより良き人間となりました。 で行った3つの講演」 および Togo’s 私は常々人種偏見を持たないことを誇りとしてきました。 Country。同書は長 岡祥三及び島津久大により日本語に翻訳され、 『薩摩国 しかし、 この経験をした後では、 あの大きな真理神はすべ (東京、新人物往来 滞在記―宣教師の見た明治の日本』 ての人々を一つの血になし給うというあの真理の、 さらに強 社、 1984) として刊行された。 琉球の福音伝道に貢献した。 い主張者となりました。 (原英文は鎮西学院100年史資 」 彼の業績について、 エドワードE. ボリンガーはその著 The 料編に収めてある。) Cross and the Floating Dragon; The Gospel in Ryukyu この文章を読んで、 フルカーソン氏よ祝福されてあれ、 ! 鎮 西 学 院 に 遣 わ さ れ た 宣 教 師 た ち 『十字架と漂龍:琉球における福音』 の中で多くのペ−ジを 鎮西学院のボーイたちよ祝福されてあれ、 鎮西学院に神 さいている。 1915年から1920年まで当時カリフォルニア州 の祝福あれ、 と叫ばない人はないのではなかろうか。 サンノゼにあったパシフィック大学の英語学科長を務め、 1920年から1924年までメソジスト監督教会の国内伝道局 ! H. B. シュワルツ SCHWARTZ, Henry Butler のもとにハワイの日本人の間で伝道責任者となり、 また準 1 8 8 4年から1 8 9 2年までオハイオ州および マサチュー 州立教育局の外国語諸学校の監督に任命される。 1 927 セッツ州で牧師を務める。日本では18 9 4年から1 89 7年ま 年メソジスト監督教会から離脱して、他教派の教会牧師と なり、 1942年妻が死去するまでハワイに在住。 ジョイス JOYCE, James Albert と "ジョイス夫妻(J.A. J.P. ジョイス JOYCE, Jeannette Pathene(Mrs.J.A.) ジョイス夫妻は1951年6月10日米国・ミネアポリスで結 婚、 1953年9月3日宣教師として東京へ来日、 19 55年 鎮西学院へ宣教師として御夫妻で派遣され、 1 955年9 月1日∼1964年8月31日まで勤務。夫のJ.A. ジョイス は鎮西学院農場責任者として勤務、 妻のJ.P. ジョイス 187 !. 鎮西学院に遣わされた宣教師たち 達の青春には、 いつも先生がおられた。 優しかった先生… きびしかった先生・ ・・。心をこめて、 感謝をこめて先生にお 伝えしたい。 『グッド・バイ、Mrs. ジョイス!』」 (森泰一郎) 。 ま た、 ある卒業生は大学入試で関西学院大学にいったとき キャンパスで偶然会い名前を覚えていて、 家庭にまで連 れていって歓迎をしてくださったと話しておられる。 J.A. ジョイス JOYCE, James Albert 諫早時代は鎮西学院での宣教師のかたわら諫早の教 会世界奉仕団ヘイフアー・プロジェクトで働く。 1 9 64年9 月1日より関西学院の農業センターを指導。 関西学院大 学で平和と非暴力運動に関する問題について教える。 三 は鎮西学院中学校の英語教師として勤務した。昼食時に 田と小野の教会に尽力した。 1986年∼1 994年鎮西学院 なると生徒たちは農場で獲れたジャージ種の牛乳をいつも の理事として尽力いただいた。 飲むことができた。 時には昼食時牧場に入って食事をして J.P. ジョイス JOYCE, Jeannette Pathene (Mrs.J.A.) いるとニコニコしながら生徒たちに親しく話しかけたりされ 188 1964年9月1日関西学院、 来日以前は、 3年間高等 たし、 農作業ではよく指導をしてくださった。 妻のJ.P. 学校の英語と体育の教師。 関西学院の中等部と大学で ジョイスから習った教え子は次のような追悼文を残してい 英語を教える。 アメリカ赤十字水泳指導者の資格を持ち、 る。 水泳の教師でもあった。 兵庫県女性連盟の会員で、 女性 「にきび面の中学生の頃、感動して読んだチップス先生 の弁論術と指導技術の訓練団体インターナショナル・ ト の物語 ( 『グッド・バイMr チップス』) 。 たしか、 この物語は レーニング・イン・コミュニケーション (トースト・ミストレス・クラ Mrs. ジョイスがお教えてくださったと思う。 僕たちにとってあ ブ) に尽力する。 三村と小野の教会生活に携わるかたわら、 のチップス先生といつも二重写しになるのが Mrs. ジョイス メソジスト宣教局の現地代表を務める。子供は、 ジーン・ア である。 中学生の僕たちに強烈な印象を与えてくださった ン (1954. 01. 26生、 カンザス州ミネアポリス)、 ジェイムズ・ Mrs. ジョイス−思い出は一杯ある。今年5月 Mrs. ジョイ ロバート (1956. 05. 02生、 カンザス州マンハッタン)。 198 6 スは召天されてしまった。僕たちの口に手を入れて舌を 年4月1日∼1988年3月31日の2年間長崎ウエスレヤ 引っ張られながら教えてくださった TH・R の発音、宿題を ン短期大学の体育実技講師として奉職してくださった。 忘れた時のバツ 〈先生の自宅のマキ割り、 そうじ etc〉 −僕 1990年5月28日西宮で召天。
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