サミュエル・ベケット サミュエル・ベケット ベケットの他の作品 ゴドーとは

社会思想史 B
サミュエル・ベケット
ゴドーを待ちながら―2幕からなる悲喜劇
(1906-1989)
ジョイスとベンヤミン
ベケットは殆ど無国籍
な作品を書いたが、師に
あたるジョイスはあるい
みで逆だった。ジョイス
は私生活や都市ダブリン
の細かなディテール、あ
るいはアイルランドの伝
統的なケルト文化や言語
に深く沈潜し、特殊な断
片から普遍性を垣間見る
ような作品を描いた。こ
の点は、哲学者ベンヤミ
ンが「パサージュ論」に
おいてとった手法、つま
り、パリに溢れるモノや
ヒトといった断片の記述
をつうじて<近代の運命
>そのものを描き出す手
法に通じている。この時
代、すでに全体を俯瞰す
る<神の視座>は説得力
を失っていた。それに呼
アイルランド出身の小説家・劇作家。
パリで同郷のジョイスと知り合い、
秘書的な仕事をへて作家デビューす
る。戦時中はフランスでレジスタン
ス活動も。52 年、戯曲「ゴドーを待
ちながら」を「小説執筆の息抜きで」
書き、その後は演劇活動のほうへ。
69 年、ノーベル文学賞受賞。
1本の田舎道に1本の木、そこで2人(ウラジミルとエストラゴン)の浮浪者が
えんえんと会話を繰り返している。滑稽な会話はほとんど噛み合わず、すれ違
う。2人はゴドーという人物がくるのを待っているらしい。そこで奴隷とその
主人(主人=ポッツォー、奴隷=ラッキー)がやってきて、やはり噛み合わない会話
を繰り返して去っていく。そのあとゴドーの使いを名乗る少年が現れ、ゴドー
は明日になれば来ると告げる。2人の浮浪者は自殺しようにも死ねず、「じゃ
あ行こうか」「行こう」と言うも、そのまま動かず幕が降りる。第2幕は、翌
日か数年後か、日時未定の同じ場所で、1本の木が芽吹き、ポッツォーが盲目
となっている以外は殆ど同じことが繰り返され、同じセリフで幕となる。
ベケットの他の作品
● 初期作品「人減らし役」、あるいはチェコの劇作家にして民主化運動の
リーダー・ハベルに捧げた戯曲「カタストロフィー」以外、殆ど社会
的世界を描いていない。
● 徹底した一人称(デカルト的)を基本スタイルとする。自己がもうひ
とつの自己について詳細に書くとき、時間は殆ど寸断され、やがて死
せる自己がいま死のうとしている自己を記述するまでに至る。そのと
き自己は殆ど解体されている(反デカルト的)。これを実践して見せた
のが初期の小説3部作である。
● その傍らで、
「ゴドー」を頂点とするような、2人組=カップルを描く
タイプがある。が、それは「自己と他者」というよりも「自己のなか
の2者」を描いている。
「クラップ最後のテープ」では、自己1が過去
に吹き込んだテープの声(自己2)を聞くが、そのテープの声はさら
に古い声(自己3)を聞いている。
● 「ゴドー」と殆ど同じ構図で描かれた次作「勝負の終わり」では、死
にゆく間際までの終わらぬ生が描かれている。死というテーマはその
後、「幸せな日々」「ロッカバイ」などに続いていく。骨壷もしばしば
登場するアイテムである。死とは、意識にとっての最後の他者である。
● 初期以来、映画の技法たるモンタージュの影響を受けている。上演時
ゴドーとは何者か?(30以上の説)
→ ゴッド=神である。
→ 上演当時の反響のうち、最も大きな賞賛の
ひとつが監獄で得られた。フーコー的に言えば
「監獄化する社会」の彼方にあるもの?
→ 晩年のフーコーが 1979 年、イラン革命を
取材したルポルタージュのなかで引用。ゴドー
とは革命後の新世界を意味する?
→ アメリカの批評・ソンタグは、1993 年、内
戦のさなかにあるユーゴスラビアで「ゴドー」
を上演した。そのときゴドーは平和、あるいは
大国の介入を意味していた。
→ 伝記的事実:レジスタンスの渦中で執筆
→ 2007 年、05 年のハリケーン被害の爪あと
間はさらに短縮され(時間が寸断され)、描くのも口だけ(「わたしじ
が深く残るニューオリンズで上演、2011 年、
ゃない」)や声だけ(「息」)などへ縮減されていく。
ウォール街占拠デモ、同年福島で上演。
(閉塞した時代のシンボルに)