トレッサン宛書簡 に みる二〇世紀初頭の日本古美術研究ネットワーク 南

トレッサン宛書簡にみる二〇世紀初頭の日本古美術研究ネットワーク
鐔を中心に
――
――
の死去や、フォヴィスムなどの新しい表現が生まれ、またそれに伴
れはその中心にいた二人の美術商ジークフリート・ビングと林忠正
るジャポニスムの波は、一九〇五年前後に急速に引いていった。こ
一九世紀末に一世を風靡した浮世絵や陶磁器、工芸品に代表され
まずは自分の著書や抜刷りに名刺を添えて送り、やがて多くの質問
心をもつ研究者やコレクターに手紙を書き送って情報交換に努めた。
知識を得て独自に鑑定をしようとしたことである。さらに同様の関
しうる限りの日本、北米、西欧の資料を参考にしたこと、日本語の
った。彼がそれ以前のコレクターと異なる大きな点は、まずは入手
南
明日香
いアフリカの民族工芸品に注目が集まったことが影響している。し
を寄せ意見を戦わせることもあった。英語とドイツ語を解したので、
残された資料のうち書簡から、西欧(仏・英・独)での交流と日本
本稿では、ご子孫のドゥ・リペール・ダロジエ氏の協力を得て、
3
かしこの時期は同時に、趣味としてのジャポニスムから本格的な日
その交流は国境を越えて広がった。
里万国博覧会で、日本政府は帝室御物、帝室博物館所蔵品、歴史あ
人二人の書状を紹介する。ルーアンやウー、レンヌといった地方で
る社寺の秘蔵品を展示して、日本が古代から優れた技術と審美趣味
もつ国民であることを実証しようとした。それを実際に目にした若
の任務の期間も長く来日のかなわない立場にあって、重要なコミュ
間見る。
4
ニケーションのメディアであった書簡から、当時の交流の様子を垣
い世代が蒙を啓かれたのである。
1
一四)もそうした一人であり、本格的な研究を目指した。フランス
本稿で取り上げるジョルジュ・ド・トレッサン(一八七七~一九
陸軍将校という立場にありながら、日本美術・工芸史に関する論を
献辞を添えて寄贈した。その中の一冊に、現在東北大学附属図書館
一九〇五年に『日本美術論』を出版した後、トレッサンは方々に
献本への謝辞にみる日本美術研究機関
あ る 二 巻 本 の『 日 本 美 術 論 』
( 一 九 〇 五 年、 一 九 〇 六 年 ) は メ ル
執筆し、鐔をコレクションし詳細な目録を作成した。最初の著作で
キュール・ド・フランス社から刊行され、海を越えて作家の永井荷
風が参考にした。若干二八才の仕事であったとはいえ、網羅的な紹
所蔵のドイツの日本美術史家でコレクターであったオスカー・ミュ
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介を試みて、絵画史と金工史を中心に詳述しようとした。この時は
ン ス テ ル ベ ル ク Oskar Münsterberg
(一八六五~一九二〇)の旧蔵
書がある。トレッサンは同書執筆に際してミュンステルベルクの著
主に欧米での文献によっていた。しかしこれで満足することはなか
( )
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本美術・工芸研究へと成熟する転換期でもあった。一九〇〇年の巴
トレッサン宛書簡にみる二〇世紀初頭の日本古美術研究ネットワーク――鐔を中心に――(南)
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書『日本美術の歴史』の第一巻(一九〇四年十月)と二巻(一九〇
五年十月)を参考にしており、参考文献表にも挙げている。ミュン
等計九箇)、また参考文献に
p.202, 222
ステルベルクも同書の第三巻(一九〇七年十月)でトレッサンの鐔
を写真図版で紹介しており(
も『日本美術論』を挙げている。(参考文献 p.31
)。さらにトレッサ
ンに一九一〇年八月に「ベルリン東アジア美術館特別展」の抜刷り
を贈っていることから、双方での情報交換があったのは間違いない。
この他にも謝意を記したカード版名刺が多数残っており、フラン
(一八六一~一九三〇)、パリの装飾美術館のレイ
Gaston Migeon
スではルーブル美術館で極東美術を担当していたガストン・ミジョ
ン
(一八五九~一九四四)、ハンブルク工芸美
Cecil Harcourt-Smith
モン・ケクラン Raymond Koechlin
(一八六〇~一九三一)、ロンド
ンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館館長のセシル・スミ
ス
術館館長ユストゥス・ブリンクマン Justus Brinckmann
(一八六〇
~一九一五)等、美術館関係者が多い。なおブリンクマンは原震吉
終わっている。そのような事態も見越して、自分の仕事の最終形を
多くの人に伝えようとしたのだろう。
あった。ヴェヴェールの鐔の数点を、トレッサンは自分の論文に図
五月二七日付で H. Vever
から。アンリ・ヴェヴェール(一八五
四~一九四二)は宝石商で、浮世絵と鐔のコレクションでも有名で
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に発表しており、トレッサンは同書を早くから参考にしていた。
わかる書状を日付順に六通を紹介する。これらは内容から見ていず
六月二五日付ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の用箋で
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れもトレッサンがパリの『日仏協会機関誌』に発表した長文の論文
から仏文の礼状。こ れ はアルバ ート=ジェ ームス・クー
A.J Koop
ヴェヴェールを除きトレッサンから初めて贈ったと読める。和田維
プ Albert James Koop
(一八七七~一九四五)で、同美術館の金工
を始め日本美術・工芸品のコレクションを作った人物であり、日本
8
四郎著『本邦装劔金工略誌』
(一九一三年七月)の精読をもとに自
の人名に関する共著も出している。
Sir
( 一 八 六 五 ~ 一 九 三 七 ) か ら[ 図 2]。 イ ギ
Arthur Harry Church
リスの園芸家でキュー・ガーデンに所属。園芸についての著書が多
一 九 一 四 年 六 月 二 八 日 付 ア ー サ ー・ ハ リ ー・ チ ャ ー チ 卿
近いことがわかっていたからだと考えられる[図1]。この時期に
数あり、この年に『日本刀の鐔』私家版限定百部を出している 。
大尉でリョテ将軍の腹心ともいわれたトレッサンに、自分の出征が
鐔の文様に関する本もまとめ、浮世絵師と彫師の辞典も完成しよう
七月十日付で美術書や展覧会カタログの出版で知られていた、ラ
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としていた。が、前者は原稿を送ったまま刊行されず後者は未完に
月がある。何故この時期の書状が多く残っているかというと、陸軍
説も交えてまとめたもので、末尾に「一九一三年十二月」の成稿年
「日本刀の鐔の歴史的研究補考」の抜刷りへの返礼であり、在仏の
版として用いたこともあった。
年代的に一九一四年に受け取ったものが多い。なかでも送り主が
とともに鐔に関する著書を、ちょうどトレッサンが蒐集を始めた頃
図1 パステルによるトレッサンの
肖像(1914年)。
16
( )
トレッサン宛書簡にみる二〇世紀初頭の日本古美術研究ネットワーク――鐔を中心に――(南)
イプツィッヒの出版社 E. A. Seemann
からも手紙と献本とがある。
二代目のアルター・ゼーマンからになるのだろうが、トレッサンの
三月二九日と四月六日の手紙への返事とあり、前記トレッサンの論
文には「図三」として、同社から出したモスレのコレクションの図
録から一点を掲載している。あらためてゼーマン側から『モスレの
七 月 十 一 日 付 大 英 博 物 館 の 書 籍 部 門(
Departement Printed
九一四年一月)に、
「 図5 」 と し て 同 美 術 館 所 蔵 の 鉄 鐔 を 載 せ て い
具甲冑の名誉学芸員であった。トレッサンは『東アジア雑誌』
(一
中世の武具のエキスパートでもあり、メトロポリタン美術館では武
から礼状が来ている。バッシュフォード・ディーン
Bashford Dean
(一八六七~一九二八)は魚類を専門とする博物学者であり、かつ
ニューヨークのメトロポリタン美術館から七月二〇日付で
)の G. Barnick
から。受取り状であり、バーニックは日本美
books
術・工芸とは直接関わりがないと推定されるが、詳細は不明である。
日本美術コレクション』を贈るとある[図3]。
11
トレッサンがフランス陸軍将校という国のために尽くす職業に就
明な点が多いジョリであるので、今回得られた情報をまとめておく。
その著書がよく知られているのに引き替え、人物像については不
での論争の背景が伝わる文面である。
トレッサンとの『日仏協会機関誌』やベルリンの『東アジア雑誌』
日本美術・工芸コレクターたちのネットワークや情報収集の様子と、
第一次世界大戦直前のイギリス、フランス、ドイツの三国間での、
(一八七六~一九二〇)からの一束である。遺族以
Henri Louis Joly
外のところで見つかった分も入れると目下四一通が確認されていて、
残 っ た 書 簡 の 中 で も 一 際 注 目 さ れ る の が、 ア ン リ・L・ ジ ョ リ
アンリ・L・ジョリ書簡にみる鐔研究ネットワーク
る。したがって同論を贈ったのであろう。
き爵位を継ぎ、子沢山(五人)であったのに対して、彼の方では家
17
( )
図2 1914年6月28日付アーサー・ハリー・
チャーチ卿からの書状。
図3 1914年7月10日付ゼーマンからの書状。
あるチェルシー地区北のサウス・ケンジントンにあったフランスと
電気技師の職に就き、第一次世界大戦中はボランティアで、自宅の
二月十三日付手紙による)、一八九〇年代後半にロンドンに渡った。
ンジェでローマ時代の建築と彫刻について学び(彼の一九一二年一
リ南西のシャルトルに生まれて、一八九二年以前にシャルトルとア
柄を気にすることもなく祖国を離れ子供もなかった。フランスのパ
白い本として紹介しているのが、ジョリの『日本の芸術の伝説:歴
通っている、など語っている。正木が表題は挙げていないものの面
館で調査している、博覧会には平日は仕事があるので土曜の午後に
には精通」していて、日本や中国から本を取り寄せ、図書館や博物
具」について研究している。日本に来たことはないが「日本の言葉
気の技師」で「非常な日本美術の熱心家」であり、
「専ら刀剣小道
の解説』である。現在、独立行政法人国立東京文化財研究所に正木
史上のエピソード、伝説的な人物、民間伝承の神話、宗教的な象徴
ベルギーの子弟のための高校 Lycée franco-belge
で科学を教えた。
その功績によりベルギー王室からシュヴァリエ章の勲章を授けられ
への献辞のある版が所蔵されている。
ている。戦争後チェルシー地区で亡くなった。
て語っている。生涯でコレクションの目録などを含めて十冊ほどを
れなかったり、また好意だけ示してくれたりしたことを実名を挙げ
ボルについての本を出すときに、パリでどれだけの人々に相手にさ
家のたたずまいである。ジョリは先述の日本の神話的な人物やシン
と何台もの書棚が写っている。確かに技師というより日本工芸研究
手にしているジョリの姿や、能面や小像がぎっしりと並んでいる棚
トレッサンに宛てた書簡の中には写真が三葉あり、書斎机で本を
うな紹介があるのはレヴェルの高さ故であろう。
ある。実はジョリは刀剣会の会員ではない。にもかかわらずこのよ
真自写三千余枚を有する日本金工品に関する屈指の大家なり。」と
本職は電気会社員にして、日本協会の評議員なり、鐔目抜小柄の写
此人は日本の故実に委しきことは、欧米外人中の一人と称す可し、
(何年に得られた情報かはわからない)。
「ヘンリー
ジヨーレー氏、
介 す る エ ッ セ イ で、 コ レ ク タ ー 十 七 名 の う ち の 一 人 に あ げ て い る
八六八~一九五六)が主に英米の刀剣・刀装具のコレクションを紹
日本の刀剣会の機関誌である『刀剣会誌』でも、桑原羊次郎(一
出しているジョリだが、初めて日本美術について書いた文章がその
11
まま著名な出版社からの二巻本での刊行という恵まれた立場にいた
リーメーソン発祥の地におり、美術品のコレクションをしていたと
加入していたと推定されるが、この点は裏付けがとれていない。フ
うだ。なお、サインに付けられた印からジョリがフリーメーソンに
供者に名を連ねていることから見て、夫人もコレクターであったよ
トレッサンとは異なり、苦労も多かったと思われる。著書の資料提
以前にも手紙が交わされていたようである。ベルギーやドイツなど
トレッサンはこのカタログの序文を書いていた。内容から見てこれ
ョン
鐔刀・剣・小柄・鏃・印籠』のカタログへの礼を述べている。
年の五月に開催された売立て『故アレクシス・ルアールのコレクシ
レッサンからの五月八日付の手紙への返書になっている。冒頭で前
ジ ョ リ か ら の 書 簡 は 一 九 一 一 年 四 月 二 二 日 に 始 ま り、 こ れ は ト
あれば、こうした団体への加入もあり得たであろう。
英し、九月に出会っている。帰国後に語った記事が『美術之日本』
九四〇)が一九一〇年の日英博覧会の時に美術部審査主任として渡
日本人との交流では、東京美術学校校長正木直彦(一八六二~一
中心とした日本の美術工芸品のオークションの日程、相場の値段、
への謝意、それらについての疑問や誤謬の訂正がある。そして鐔を
ら執筆をしたオークションのカタログや論文を送ってもらったこと
国外からのものもあるが、場所に関らず大体においてトレッサンか
に 掲 載 さ れ た。 西 欧 で の 日 本 美 術 の 研 究 家 と し て、 前 記 ミ ュ ン ス
コレクターの紹介やそのコレクションの状況などの情報提供として、
テルベルクとジョリについて言及がある。すなわち、ジョリは「電
( )
18
トレッサン宛書簡にみる二〇世紀初頭の日本古美術研究ネットワーク――鐔を中心に――(南)
ジョリが作成したホークショー John C. Hawkshaw
(一八四一~一九
二一)
、 ナ ウ ン ト ン George Herbert Naunton
、 ト ロ ワ ー Henry
( 一 八 四 三 ~ 一 九 一 三 )、 ベ ー レ ン ス Walter
Seymour Trower
(?~一九一三)のコレクションの目録が話題にな
Lionel Beherens
る。さらに『刀剣会誌』に掲載された論文のこと、後にトレッサン
にA4版大の用箋にぎっしりと三枚から五枚も書いていることがあ
る。
一九一二年四月から頻繁に送ってきているのは、トレッサンの論
文「日本刀の鐔の変遷」の連載が終わったことと関係がありそうで
漢字を用いて表記したりしている[図4]。なお秋山についてはド
ども繰り返し出てくる。具体的に鐔の形状を図に表したり日本名は
が文通する秋山久作( Kiusaku
と表記)のこと、そして日本や欧米
での文献の紹介、古河目録、また花押の読み方や鐔の時代の判別な
たの年齢を知らないが、私たち二人とも互いにおだて合うは必要も
記したようだ。ジョリの一九一二年七月二日付の手紙で「私はあな
ジョリが誤記を指摘したその書き方についてトレッサンは批判的に
を挙げておくと、トレッサンが贈った自分の論文の抜刷りに関して、
ある。鐔の年代の確定など専門的な内容については別稿を記したい
イツの日本美術の権威であるキュンメルからの悪評を書きながらも、
ないよい年なのだ。」
「仮説について議論するのに凝った言い方をし
が、ジョリの歯に衣着せぬ書きぶりに刺激を受けたと読める。一例
自身は高く評価している。全体として驚くべきはその分量で、一度
ていては決着がつかないだろう」云々と書き連ねている
(実際には一才しか違わない)。
もちろん感情的なやりとりばかりではない。鐔の年代の
判別についての論争が続き、それがトレッサンの論に反映
している一例として、
「日本刀の鐔の歴史に関する諸疑問」
)とあるのを挙げ
p.280
刺 の あ る 言 葉 の 応 酬 に は 疲 れ て い る と 書 い て い る。 ま た
での論争を望んでいるとしても、自分の方ではこのような
けて、ジョリの方ではもしトレッサンが『東アジア雑誌』
るのを喜んでいる人たちがいるようだと書いたことを受
日付ジョリの手紙では、トレッサンが自分たちが論争をす
で批評を書いている。これをめぐって一九一二年十一月十
「 日 本 刀 の 鐔 の 変 遷 」 に つ い て、
『東アジア雑誌』に英語
ジ ョ リ か ら は、 ト レ ッ サ ン の『 日 仏 協 会 機 関 誌 』 掲 載
ておく。
ときに用いられるようになった」
(
透かし鐔は中世期に刀の刃が変化して現在の形になった
で の 註 に、
「H・L・ ジ ョ リ 氏 の 御 教 示 に 寄 れ ば、 最 初 の
ヴィリアム・コーンとオスカー・ミュンステルベルクの論
( )
19
図4 1912年5月26日付アンリ・L・ジョリからの書状。
け取れたのです。
そこに少しだけ立ち寄りました。大変疲れており、今朝になって受
私の英語の翻訳の誤りから、そちらの方で誤解をしていらっしゃ
争にも触れている。トレッサンはジョリへの返答を「回答」。とし
二 人 の 論 争 は し か し 誌 上 で は 交 わ さ れ て い る。 ジ ョ リ ィ が
るようで、ロンドンに戻ったら自分の書いたものを見てみます。十
スでしか鐔を見ていなかったのであれば、これは自分の知識の範囲
一世紀から十二世紀に鉄鐔があったのは明らかです。イギリスには
の「 Karamaro
について」への返答」を『日仏協会機関誌』一九一三
年四月号の「質問と回答」欄に掲載。さらにこのトレッサンの意見
がわかっていないのだろう、とお考えください。別の場所で見てい
で向かってくる唯一の存在であったに違いない。と同時に、ジョリ
育ったトレッサンにとって、ジョリは異文化ともいえる率直な表現
だ、王制の敷かれなくなったフランスでも侯爵家の一人息子として
に関わる細かい点が問題になっており、本稿では取り上げない。た
日がヴォーティエによいかはわからないので、来年手渡すことにな
たことによれば、数日後になるそうです。もっとも私に都合のよい
見ているのですが、写真の方はゲオルク・エーダーが先週私に言っ
フに行きます。エーダーの図録があるので。原稿は出来ているのは
いや私は 不[ 明 に] は行きません。ここから日曜日にハンブルクに
行き、それから出来ればヴォーティエと話すためにデュッセルドル
ってジョリから数通手紙が届いているが、浮世絵師の名前の読み方
への対抗心が彼の日本の美術・工芸への情熱を高めたのも疑いない。
クラヴリに話したように、モノクロの写真だけ使って、もしかした
私に写真をくださるというあなたのご親切な申し出の件ですが、
ビューの用箋を用いている。九日付では当地での展覧会を訪れた由、
リンのポツダム広場にあった有名なホテルのグランドホテル・ベル
のです。読み仮名について今何も言えません。目下日本の本は汽車
ました。蘭山の『名乗字引』によれば十二もの異なる読み方もある
「定命」についての疑問は残っていますが、日本の本で仮名があり
『刀盤図鑑』からは多くを学びました。そちらにもよいでしょう。
らそれでよいことにするでしょう。
その展示が見事であったこと、キュンメル Otto Kümmel
(一八七四
~一九五二、一九〇六年創設の東アジア美術館初代館長)が豪華版
」
H. L. Joly
ョンを始め、キュンメルの助言に従い一九〇八年にポール・ヴォー
ゲオルク・エーダー Georg Oerder
(一八四六~一九三一)はデュッ
セルドルフに住む風景画家で一八八〇年代から日本美術のコレクシ
取り急ぎ
敬具
の中で読む文法書しかないので。
術アカデミーに預け、私は今朝ライプツィッヒから汽車で着いて、
拝啓
そちらからのお手紙、拝受しました。ヤコビー氏が昨日美
「一九一二年十月十一日
には、興味深い交流の模様が書かれているので全文引用する。
の図録を出すことなど伝えている。論争のただ中にあって十一日付
一九一二年十月九日と十一日付のジョリからの手紙二葉は、ベル
がうかがえる。
な情報交換をし、書いたものを発表する度に意見を闘わせているの
るかも知れません。あちらにはかなりの数の鐔があります。
ないと、おからかいになっているように見受けますが、私がイギリ
に対するジョリィの返答が『日仏協会機関誌』一九一三年七月号に
るのです。古墳からでた鉄鐔です。
掲載(執筆日付は「ロンドン、七月二七日)された。この論争を廻
「 Karamaro
について」を『日仏協会機関誌』の一九一二年十二月
号に掲載。これに向けてトレッサンが書いた「H・L・ジョリィ氏
て発表した。このあと約四ヶ月ジョリからは書いていないようだ。
22
時にお互いの書き方への不満を書き連ねながらも、二人がさまざま
( )
20
知らせた可能性はある。ヴォーティエは( Paul Vautier
一八六七~
一九二八)エーダーのコレクションの目録などを作成しており、鐔
所 蔵 の 鉄 鐔 を 載 せ て い る( p.435
)。 こ の 図 の も と も と の 掲 載 誌
(書)は目下不明であるが、トレッサンの方で転載したことなどを
は一九一四年一月三月号の『東アジア雑誌』
「図七」に、エーダー
ティエの鐔のコレクションを買い付けたという。トレッサンの方で
問題になっているのは新井白石『本朝軍器考(巻之八)』
(一七三六
けではなく、またこの本について質問や批判があれば受け付ける。
して出したのでありそれで断っているのであるから、出さないで欲
そのようなつもりで貴誌にこの本を寄贈したのではない。書評は著
知らせる手紙を受け取った。しかし自分の方でいかなる書評も断る。
ジョリはこれを一九一二年にコピーし翻訳したらしい。手書きの原
神 品 図 鑑 』 の こ と で 一 七 八 三 年 に 出 た 以 上 の こ と は 不 明 で あ る。
金工師の名前の読み方の問題が出ている。
『刀盤図鑑』は『刀盤
て執筆活動を考えていたためなのかもしれない。
たにもかかわらず書評を拒否しているのは、本業とは別のものとし
う」との共訳になる。現在復刻版が出ているほどのレヴェルであっ
年)と稲葉通龍の『鮫皮精義』
(一七八五年)の、
「いなだほぎたろ
稿が現在スエーデンのノルデンショルド図書館に所蔵されている。
しい。ただしこれについてトレッサン氏の方でなにか誤解があるわ
者か版元からの依頼に応じてするもので、この場合自分が私家版と
のコレクターとしても有名であるが、伝記的事項は目下不明である。
ション約二千余点を東アジア美術館に寄贈した。ジョリが見学した
いる。ヤコビー Gustave Jacoby
(一八五六~一九二一)は銀行家で
日 本 名 誉 領 事 を 務 め て お り、 一 九 一 九 年 に 自 身 の 東 洋 美 術 コ レ ク
慶応四年に出た高井蘭山の『名乗字引』などの専門書にも言及して
定について(前記鐔の私家本)書いている。もっとも先に見たよう
にキュー・ガーデンの住所とハリー卿のコレクションの目録出版予
に送ることを勧め、後者については住所とクープの名も添え、さら
一九一四年六月二二日付が最後の手紙になる。トレッサンの論文
ジョリがライプツィッヒにどのような用事があったかわからない
方不明になっているので、ここで二人の論争は打ち止めということ
から返書をした可能性は高いが、八月五日に出征して十月四日に行
つものように鐔の素材など自説を展開している。その後トレッサン
ベルギーから戻って取り急ぎしたためたようで、手紙の後半ではい
が、ここには先に出版社のゼーマンのところで触れた名誉領事で刀
になる。
三年六月十六日の日付がある。ここから雑誌の編集のあり方がうか
タイプライターで打ったカーボン・コピーであろう。英文で一九一
担当していたベルリンのウィリアム・コーンに宛てた手紙である。
に書かれた文字を解読するのは日本人にとっても難しい。そのため
である。これは誤った鑑定を防ぐためでもある。しかし、作品の上
で書かれた文献と、掛け軸や浮世絵版画、鐔に記された文字の理解
トレッサンは日本語を独習している。彼にとって重要なのは古文
がえる。おおよその内容は次の通りである。トレッサン氏から『東
山下新太郎書簡にみる日本語解読
剣刀装具の蒐集家のアレクサンドル・モスレがいる。在日期間が一
た美術展の一つと見なされている。
をヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアムと大英博物館
展覧会は美術アカデミーで開催された「東洋古美術展覧会」になる。
に、トレッサンはすでにこの三件には郵送済みであった。ジョリは
西欧で日本の桃山期以前の美術工芸品の価値が、具体的に認知され
に日本人の伝手を頼って情報を得ようとしていたのが、残された目
このほか興味深いのはジョリからの、
『東アジア雑誌』の編集を
高かった。
アジア雑誌』が氏にジョリの著書の書評執筆の依頼があったことを
( )
21
三年と格段に長く、レヴェルの高いコレクションで鑑定眼も信用が
トレッサン宛書簡にみる二〇世紀初頭の日本古美術研究ネットワーク――鐔を中心に――(南)
録や書簡からわかるのである。そうした情報提供者の一人が洋画家
でいた、美術家の梁山泊のカンパーニュ・プルミエール街に滞在し
仏協会で書記代行をつとめた。当時は高村光太郎や有島生馬も住ん
ていた。パリ十六区にあったエヌリー美術館の一室が日仏協会の図
の山下新太郎(一八八一~一九六六)である。
印象派風の穏やかな画風で知られる山下は、一九〇五年にパリに
書室になっていて、そこで美術雑誌『國華』の目録の仏訳や、日本
に「掛物」についての小論文を発表し、ギメ国立東洋美術館で貴重
の長男であった山下は、古美術の知識が豊富だった。協会の機関誌
人工芸家の手紙の和文仏訳などをしたという。東京の裕福な表具師
留学。国立美術学校などに通って研鑽を積み、そのかたわら巴里日
図5 1908年1月22日付山下新太郎からの書状。
の確認と許可を得て翻訳した全文を紹介する。
図6 1908年1月25日付山下新太郎からの書状。
受け取って直ぐ、疑問など書き送ったその返事になる。以下ご遺族
日と二五日の日付がある[図5、6]。後者はトレッサンが手紙を
の返書はフランス語で書かれていて、それぞれ一九〇八年一月二二
考えられる。手紙で鐔と掛物の印について尋ねたようだ。山下から
トレッサンは一九〇六年に入会した巴里日仏協会の紹介を得たと
な古文書の修復作業にも携わっている。
22
( )
トレッサン宛書簡にみる二〇世紀初頭の日本古美術研究ネットワーク――鐔を中心に――(南)
「パリ、一九〇八年一月二二日
拝啓
お手紙拝受。もっと早くお返事できず申し訳ありません。
岸は gan
、岱は tai
で Gankou
の息子です。筑前典が岸岱の肩書きに
なります。彼がどちらかの大名に仕えたことでいただいたものです。
か
Dôgui
同真は
従って印の読み方も Gantai
でいいです。
で し ょ う か? 決 め か ね ま す。 も う 一 つ の は
Dôshin
これはひとえに、的確な説明をするのが大変難しかったためであり
か?
Dôshin
孟虚之図岸岱筆というのは順番に「トラ、の、図、岸岱が描く」と
以下が、わたくしの調査の最終結果です。
いうこと。
ます。
Ji-guhokou
こ れ は お 訳 し に な っ た と お り で す。
「この虎の図は岸岱が描いた」
で 貴 石 も し く は 玉 の 意。
tama
というので結構です。
てみましょう。
明 は méï
・ aki
、寿は
いいと思います。
刻は刻むとか彫る、之はこれの意味です。
いをすることが出来れば幸いです。 敬具
パリ、カンパーニュ・プルミエール街九番地」
S.Yamashita
つもりをしております。その折にお目に掛かって、お仕事のお手伝
わたくしは画家で、この夏はおそらくルーアンで絵を描いて過ごす
が
Méïju
児は で
ji 子 供 の 意、 玉 は
が制作者の名。
・ nao
で ま だ の 意。 た だ し こ
You
のこと。
Nippon
敬具
よりも
akitoshi
古画備考という本のことは、わたくしの日本にいる友人たちに聞い
・
で 勝 利 の 意。 猶 は
Ri Toshi
で
pon
・
。読み方は
ju toshi
で、日本の京都の近くにある地方の名。おそらく児玉
Ô-mi
は近江の生まれでしょう。
近江は
利は
のこと、日は 、
Kioto
ni本は
は 現 代 の 作 家 の 名 で、 つ
Gogakou
こでは Ri-you
と発音すべきで、鐔の制作者の名になる。
政は masa
、常は tsouné
で masa-tsouné
。書判です。
寿 、八
、斉 saï
で Juhassaï
といい、 ssa
の発音は濁らない。
Ju
hatchi
五は go
、嶽は gaku
。
で
to
写 は outsusou
で 描 き 写 す の 意。
まり五嶽が写したという意味。
京は
、都は
Kio
漢字はトレッサンが写したものを、山下がさらに書き写している
ようだ。丁寧に漢字一字ずつ読み方と意味を説明している。発音を
ローマ字で記すにしても、フランス語での読み方に合わせた綴り字
パリ、カンパーニュ・プルミエール街九番地」
S.Yamashita
「パリ、一九〇八年一月二五日
石黒政常(一七六〇~一八二八)のことで、江戸時代の装剣金工師。
近江は江戸時代前期の面打師。鐔の製作については不明。寿谷斎は
にする気遣いが見てとれる。トレッサンは山下から得た情報を、自
でよいと
sai
拝啓
斎
koku
分のコレクションの目録カードに記録している[図7]。なお児玉
谷
ju
二三日付のお手紙を拝見し、ここにお返事申し上げます。
お 書 き に な っ て い ら っ し ゃ る よ う に、 寿
虎など鳥獣を得意とする。従五位下越前守で元治二年に八四才で亡
思います。
五 嶽 は Gogaku
は 仏 教 の 僧 侶 で、 そ れ で よ く 僧 五 嶽 と 署 名 し ま す。
彼はまた中国の流派に属す画家でもあります。二十年ほど前に亡く
くなった。明寿は明寿埋忠(一五五八~一六三一)で、山城の国の
岸岱は佐伯の苗字で岸駒の長男。別号に虎岱や虎頭館があるように
なりましたが、その正確な日付はわたくしにはわかりません。
23
( )
通分の封筒もありすべてシベリア経由便。住
ンからの手紙の返信の内容になっている。八
所は東京市四谷区荒木町。フランス語の文面
と英語のとがあり、八通目以降はすべて英語
ある。子息が英語を理解するので英語で書い
である。日本語原文が添えられている場合も
てくれれば返事が早くできるとあることか
ら、トレッサンの方でも英語でのやりとりが
あった可能性もある。
秋山が連載をしていた『刀剣会誌』には、
トレッサンから秋山に宛てた最初の書簡の和
し て い る。 こ う し た 功 績 に よ り フ ラ ン ス 政 府 か ら レ ジ オ ン・ ド・
フランス留学をし、このときは狩野派の画家による屏風絵の修復を
が、実際に訪れたかはわからない。山下は帰国後一九三一年に再び
文末にルーアンに行く折にまた彼の仕事を手伝えればよいとある
る。そして目下日本の古書によって「日本画家辞典」を執筆中であ
ーヌ博士のコレクションの売立て目録を同封したことを説明してい
自分が序文を執筆した武具・刀剣・刀装具のコレクターであったメ
協会機関誌』やベルリンの『東アジア雑誌』に寄稿していること、
秋山の手紙は常に謙遜に満ちた調子で綴られている。最初の手紙
長も勤めている。トレッサン宛の書簡は一九一三年六月六日から一
知小津高等学校)校長職を勤めた後、内務省に出仕して奈良県警部
代藩主の山内容堂に側小姓として仕え、海南学校(現、高知県立高
山は現在でも刀剣の世界では知られている。土佐藩に生まれ第十五
もう一人の日本人は秋山久作(一八四四~一九三六)である。秋
[図8]。
は 鑑 定 が 困 難 な こ と を 説 明 し な が ら も、 わ か る 範 囲 で 答 え て い る
る。貴重な鐔が日本でも入手困難になっていること、写真や押形で
トレッサンがよこした写真や押形による鐔の鑑定にも返事をしてい
など気遣いを見せている。その後トレッサンからの鐔の購入の打診、
が、秋山が立て替えておくので一年に一度六円を秋山に送ればよい
の内容は刀剣会への入会の件に始まり、月々の会費は五〇銭である
九一四年七月六日付までで十四通が残されている。すべてトレッサ
秋山久作書簡にみる交流模様
り、
「鐔に関する日本の新刊書」の教示を請うている。
セルドルフのエーダー、ヴォーティエ)が知人であること、
『日仏
のコレクター(ベルリンのヤコビー、デュッ
容は自己紹介、日本でもよく知られている鐔
剣会入会の会員への報告に合わせている。内
訳が掲載されている。これはトレッサンの刀
ヌール勲章を贈られた。
彫金工で鐔の製作もしている。
図7 トレッサンが山下からの教示をメモした
鐔のコレクションのカード。
( )
24
トレッサン宛書簡にみる二〇世紀初頭の日本古美術研究ネットワーク――鐔を中心に――(南)
図8 1914年5月23日付秋山久作書状。トレッサンから質問のあった木瓜鐔や西欧の蒐集
家について『刀剣会誌』に書くと言明。
トレッサンからの和田維四郎の『本邦装劔金工略誌』
(一九一三
年)に関する質問にも丁寧に回答している。和田の同書について、
なかでは類を見ないよい状態なので大変に高価です。」
(原文仏文)
私の師匠の山内侯爵が昨年入手なさいました。これまで見つかった
は明珍家の作品である(この工房は五百年続いている)。この作は
る(
)。 秋 山 の 一 九 一 三 年 十 月 二 八 日 付 書 簡 に、 所 用 が 済 み 次
p.45
第押形を送るとあり、
「猪の装飾で八幡の文字の透かしのあるもの
と し て Prince Yamanouchi
所蔵の猪を透かし彫りにした鉄鐔を載
せ、作品の説明に加えて秋山久作氏ご提供の押形であると記してい
史的研究補遺」
(一九一四年四月)を書いている。この中に「図一」
得た知識をもとに先述の一九一三年十二月成稿の「日本刀の鐔の歴
トレッサンは要約と鐔の歴史研究のためのノートを作成し、さらに
]。秋山書簡が直接トレッサンの論に反映している一
( )
25
とある[図
例としてあげておく。
図9 トレッサン「日本刀の鐔の歴史的研究補遺」
『日仏協会機関誌』1914年4月。秋山の送った
鐔の押形の図版。
9
る「随感一束」で、トレッサンの書簡を踏まえて書いている文章が
これとは逆に、秋山が『刀剣会誌』に長期にわたって連載してい
出てくる。トレッサン宛の一九一四年七月六日付の手紙で「今月の
『刀剣会誌』に特別に、欧米で鐔を研究している人たちからの問い
合わせについて、自分の意見を述べました。お読み戴けると思いま
す。」
(原文英文)とある。これは『刀剣会誌』一六五号(一九一四
年七月)の「随感一束」中の文章で、
「今日遠く海外より、鐔の押
形を送致し、野翁の卑見を求めらるる方のあるは、蓋彼奸商の橎種
したる苗の、結びたる実にはあらざるなきかを疑ふ、左に野翁の卑
見を述て参考にせんとす」云々、とある。
この七月六日付書簡では先の引用に続けて、
『刀剣会誌』に掲載
された金家鐔について言及がある。秋山曰く、これは初代の作だと
しているが自分の意見では二代の作で、手長猿の文様であなたがい
つか送ってくださったものと同じである。これらを比べてみると違
いがおわかりになるだろう。家の文字が土蜘蛛の胴のように丸い。
これは口絵写真で「銘(山城国伏見住金家)鐔
清田寅君蔵」とあ
]。トレッサンの方では一九一四年
猿の文様の鐔を紹介している( p.432
)
[図 ]。ただし、秋山の文章
が出て(七月十五日付発行)一月もたたない八月五日にトレッサン
して先述のモスレのコレクションから初代金家の作と言われる手長
一月三月号の『東アジア雑誌』での『諸問題(続)』で、
「図四」と
る鐔の裏表の写真である[図
10
は出征しているので、これらを読む機会があったかはわからない。
11
図10 『刀剣会誌』165号口絵写真1914年7月。
( )
26
形跡はない。自分の書いた論文の抜刷りを作って関心を持ってくれ
そうな人物や機関に自己紹介もかねて送るというのは、今日でもよ
く行われている。しかし情報網が今日と比べものにならないほど不
便であった百年前の西欧では、特別な意味を持っていたであろう。
ク ー リ ス
いわゆる舞台裏の話になるが、二〇世紀の初めの日本美術・工芸研
究の現場を垣間見たことになる。
ド・トレッサンにみる
)
「ジョルジュ・
21520111
世紀初頭の日本美術研究の諸相」による
*本稿は科学研究補助金基盤C(課題番号
研究成果の一部である。
Lʼauteur tient à remercier à Messieurs Gilles de Ripert dʼAlauzier
et Alain Briot pour leurs aides précieuses.
号』二〇〇八年十二月)、
『日本美術論』の執筆
A 』二〇一〇年
73
代文学
2
拙稿「永井荷風の浮世絵研究 ―
ジャポニスムの視座」
(『日本近
集 』 二 〇 〇 五 年 五 月 ) 及 び『 永 井 荷 風 の ニ ュ ー ヨ ー
三月)を参照されたい。
本美術論』の刊行まで」
(『相模女子大学紀要
と刊行をめぐっては拙稿「ジョルジュ・ド・トレッサンの『日
ポニスム研究
「日本美術研究家ジョルジュ・ド・トレッサンについて」
(
『ジャ
1
トレッサンの生涯と日本美術・工芸研究の全体については拙稿
注
20
30
号』二〇〇九年三月)で紹介している。
5
Justus Brinckmann, Die Meister der japanischen Schwertzieraten,
Oskar Münsterberg, Japanische Kunstgeschichte, München,
Hamburg, Beiheft, Jahrbuch der hamburgischen wissenschaftlichen
Westermann, 1904-1907.
6
較文学年誌
東洋美術館宛トレッサン書簡にみる日本美術研究の諸相」
(『比
準備のために、同学芸員に宛てた書簡については、拙稿「ギメ
4
トレッサンが一九一三年三月にギメ東洋美術館で行った講演の
(『ジャポニスム研究
ド・ ト レ ッ サ ン の 日 本 絵 画 史 ――
やまと絵評価をめぐって」
号』二〇一〇年十二月)で考察した。
3
トレッサンの文献資料の扱い方については拙稿「ジョルジュ・
察した。
ク・ パ リ 東 京
造景の言葉』
(翰林書房二〇〇七年六月)で考
72
Anstalten, XX, 1902.
( )
27
28
45
図11 トレッサン『日本刀の鐔の歴史に関する諸疑問(承前)』モス
レ・コレクションの手長猿の文様の鐔の図版。
『東アジア雑誌』
1914年1月号。
以上、書簡の一部を紹介した。パリ在住のコレクター以外会った
トレッサン宛書簡にみる二〇世紀初頭の日本古美術研究ネットワーク――鐔を中心に――(南)
7
8
9
Tressan, « Nouvelles contributions à lʼétude de lʼhistoire de la
garde de sabre japonaise », Bulletin de la Société francojaponaise de Paris (infra. BSFJP), avril 1914, pp. 44-92.
Albert James Koop and Hogitarô Inada, Japanese names and
『銘字便
how to read them; a manuel for art collections and students
覧』 , London, Eastern press, 1923.
Sir Arthur Harry Church, Japanese Sword Guards, privately
Oeuvres d'art japonais-Armures, armes diverses, laques, étoffes,
Printed, 1914.
estampes. Collection Moslé 2 vol., Leipzig, Seemann, 1914.
Tressan, « Quelques problèmes relatifs à lʼhistoire de la garde
de sabre japonaise (suite) », Ostasiatische zeitschrift (infra. O.Z.)
II-4, Januar 1914, p. 433.
Cf. W.P.Y., « Henri Louis Joly », The Journal of the Royal Asiatic
号一九一四年十二月。
mai 1914.
Japanese sword-mounts a descriptive catalogue of the collection of J.
C. Hawkshaw, London, Privately printed, 1910 ; Japanese sword
fitting a descriptive catalogue of the collection of G. H. Naunton,
London, Privately printed, The Tokio Printing Co., 1912 ;
Catalogue of the H. Seymour Trower collection of Japanese art,
London, Glendining, 1913 ; W. L. Behrens Collection catalogue.
4 Parts, Glendining, 1913-1914.
Sword guards and other sword ornaments in old Japan:
Furukawaʼs collection, Shimbi shoin, 1910.
Tressan, « Lʼévolution de la garde de sabre japonaise »,
「起源から十五 世 紀まで」 一九一 〇年三月号 °n 18, pp.
BSFJP.
「 十 五 世 紀 末 か ら 十 七 世 紀 初 ま で 」 同 年 六 月 ︲ 九 月 号 °n
53-73,
「十七世紀初から今日まで」一九一一年六月号 °n
19-20, pp.7-35,
「徳川時代」一九一二年三月号 °n 25, pp. 43-78.
22, pp. 25-73,
Tressan, « Quelques problèmes relatifs à lʼhistoire de la garde
術と美学の受容」
『ドイツにおける〈日本=像 〉 ユーゲントシ
一八九〇年から一九〇八年までのドイツ語圏における日本の芸
181,182.
クラウディア・デランク著
水藤龍彦・池田祐子訳「第三章
Tressan, Karamaru – Karamaro ? », BSFJP, juillet 1913, p.
et réponse: réponse de M. H. L. Joly à M. Marquis de
de M. H. L Joly », BSFJP, avril 1913, pp. 139, 140. ; « Questions
1912, p. 173,174. ; Tressan « Réponse à la « Note sur Karamaro »
Joly, « Note sur Karamaro 蔦唐丸 [sic.] », BSFJP, décembre
Tressan, « Réponse à M. Joly », O.Z. I-4, 1913 Januar, p. 485, 486.
Sabre Japonaise », O.Z., Berlin, Oktober 1912 I-3, pp. 365-373. ;
de sabre japonaise », O.Z., Oktober 1912 I-3, pp. 271-297.
Joly, « Le Marquis de Tressan, LʼEvolution de la Garde de
20
°n 4, october 1920, pp. 639-641;
Socety of Great Britain and Ireland
Maxime Desjardins, « Le Japon de mon père (1900-1914) »,
Henri L. Joly, Legend in Japanese art : a description of historical
°n 46, octobre 1994.
Bulletin de l’Association franco-japonaise
正木直彦「外遊所感」
『美術之日本』一九一一年一月。
episodes legendary characters folk-lore myths, religious symbolism,
この他 Kumasaku Tomita
London & N. Y., Bodley Head, 1908.
と の 共 著 で 限 定 一 七 五 部 の Japanese art & handicraft, British
を 刊 行。 こ れ は イ ギ リ ス を
Red Cross, Sawers-Valansot, 1915
中心としたコレクター所蔵の日本絵画と工芸の写真と解説によ
る紹介をした豪華本である。
桑原羊次郎「装剣金工鑑定法汎論(十五)」
『刀剣会誌』一七一
Catalogue des Gardes de sabre, sabres, kozukas, fers de flèche, inros
Composant la Collection de feu Alexis Rouart, Hôtel Drouot, 1er-6
17
18
19
21
22
23
10
11
12
14 13
15
16
( )
28
ュティールからバウハウスまで』思文閣出版二〇〇四年七月。
』二〇一〇年三月。
安松みゆき「ドイツ近代における日本美術史の進展とその時代
区分」
『別府大学紀要
桑原羊次郎「装剣金工鑑定法汎論(十五)」注 に同じ。
号』二〇〇九
山下新太郎のパリ留学などについては展覧会図録『山下新太郎
年三月)を参照されたい。
ン・ド・ロニの日本語教本の影響」
(『相模国文
ド・トレッサンの『浮世絵画家と版木師の辞典』、およびレオ
Holland press, 1962.
トレッサンの日本語の知識の源泉については拙稿「ジョルジュ・
Inada Hogitaro, London, privately printed, 1913, reprint
Samé kô hi sei gi of Inaba Tsûtiô, translated by Henri L. Joly and
Arai Hakuseki The Sword book in Honchô Ginkikô and the bool of
15
36
展』石橋財団ブリジストン美術館(二〇〇六年四月九日~六月
六日)を参照。
る。
「消息欄」
『刀剣会誌』一九一三年六月、 p.41
Tressan,
Catalogue
de
la
collection
Wada (Tsunashiro)
二二の鐔のトレースをノート
actuellement à W. T. Furusawa,
に添付している。
( )
29
51
24
26 25
27
28
書簡の公表についてご理解戴いた川島美紀子氏に御礼申し上げ
トレッサン宛書簡にみる二〇世紀初頭の日本古美術研究ネットワーク――鐔を中心に――(南)
30 29
The network of ancient Japanese art studies
seen through correspondence to Georges de Tressan
MINAMI Asuka
Abstract: Georges de Tressan(1877-1914)was a Japonist who combined scholarship with a
passion for collecting. Beyond his publications, Tressan’s personal collection of sword guards
was well known among European and American collectors. However his mission as officer of
the French Army restricted his field of activity. To inquire about document, and publicize his
studies, he offered his publications to several collectors. In this article, we will examine three
sets of correspondence received by Tressan over a period of ten years(1905-1914)
:replies
sent to Tressan from Western European and American collectors and institutions of Japanese
art(such as Oskar Münsterberg, A. J. Koop of Victoria and Albert Museum, and B. Dean of
Metropolitan Museum of Art), letters from Tressan’s rival Henri L. Joly, and responses from
two Japanese connoisseurs, Yamashita Shintarō and Akiyama Kyūsaku. This examination
allows us to identify a network of collectors in the field of Japanese ancient art studies,
understand problematic areas in their studies, particularly those relating to sword guards and
discover mutual influences in their written works.
Keywords : correspondence, Japanese art, collectors, Tressan, sword guard
( )
30