フルシチョフ時代再考(2) ベリヤはなぜ追放されたのか 中西 治 1. ベリヤ、スターリン死後の第一人者に 1953 年 3 月 5 日にスターリンが亡くなったときベリヤがスターリンの後継者のなかで最高実力 者であった。スターリンの娘スヴェトラーナ・アリルーエワはスターリンの臨終のときの情景をつぎ のように描いている。 父が臥せっていた大広間には大勢の人がつめかけていた。なかで一人だけ、ほとんど不作法 なばかりに振舞っている男がいた。それはベリヤだった。彼は何度も病床に近寄っては、病人の 顔をしげしげとのぞきこんだ。というのも、父がときおり目をあけることがあったからである。おそ らく意識は不明、でなくても混濁状態であったが、ベリヤはそういうとき、かすみのかかったような その目を食い入るように見つめ、この場になってもなお「最も信頼できる、最も忠実な部下」であ ろうとしていた。 すべてが終わったとき、彼はまっさきに廊下へとびだした。そして、死の床をかこんで全員が無 言のままたちつくしている広間の静寂をついて、勝利感をかくそうともしない彼の大声が聞こえて きた。「フルスタリョフ!車の用意!」 ベリヤの醜悪な本性が、いま、そっくり表に現れてきたのだ。彼はもう自制することもできなかっ た。わたし一人ではなく、多くの人がそのことに気づいていた。しかし、彼はひどく恐れられていた し、また、父が死に瀕しているこの瞬間、この恐ろしい男以上の権限と力をにぎっている人物が、 ロシアにはほかにだれもいないことも、よく知られていた(1)。 フルシチョフも同じようなことを次のように述べている。 スターリンが病気で倒れると、たちまちベリヤは彼に憎悪を投げつけ、あざけりはじめた。ベリ ヤのことばを耳にするのは、ただ堪えがたかった。だが、興味深いことに、スターリンの顔に意識 がよみがえったしるしがあらわれ回復するのではないかと思われると、すぐにベリヤはひざまず いて、スターリンの手をとり、そこにキスしはじめた。だが、スターリンがまた意識を失い、目を閉 じると、ベリヤは立ち上がってつばをはいた。これがほんとうのベリヤだった―スターリンに対して すら裏切りをこととするというのが。彼はスターリンを賞讃し、崇拝しているとすら思われていたが、 いまやその当の相手につばをはいているのだった。 さらにフルシチョフはブルガーニンと話し合い、ベリヤを国家保安省(このときはまだ内務省と国 家保安省は別の省であった)の大臣にさせてはならないことで意見が一致し、このことをフルシチ ョフがマレンコフに伝えることになったことを明らかにしている(2)。 ベリヤはスターリンが重態に陥った 3 月 1 日真夜中から 2 日にかけてのスターリンの別荘でも、 2 日朝と同日夜のクレムリンでの会議でも最高実力者としてとりしきった。そのままいけばベリヤ がスターリンの後継者となり、ソヴェトの第一人者となるかと思われた。 しかし、実際はマレンコフが党中央委員会書記局の首席書記と閣僚会議議長(首相)の座につ き名目的には党と政府の第一人者となった。ベリヤは内務省と国家保安省が統合してできた新 しい拡大された内務省の大臣と閣僚会議第一副議長(第一副首相)となり、マレンコフ、モロトフ、 ブルガーニン、カガノーヴィチとともに閣僚会議幹部会を構成した。ベリヤは名目的にはマレンコ フにつぐ第二位の指導者であったが、内務省の強大な権力を手中に収めたことによって実際に は第一人者となった。 2. ベリヤ、クレムリンの医師団を釈放 ベリヤはただちに第一人者として行動し始めた。彼はスターリンの死は弔事ではなく、慶事であ るかのごとく恩赦を実施し、多数の服役者を釈放するとともにスターリン時代末期の一連の事件 を再調査し、それらの事件がでっち上げであることを明らかにした。 ベリヤはスターリンが亡くなって 1 週間が経った 3 月 13 日に内務省内にクレムリンの医師団事 件をはじめとする四つの事件についての調査委員会を設置した。 3 月 26 日にベリヤはマレンコフに覚書を送り、このとき矯正労働所、刑務所、流刑地で服役し ていた 252 万 6402 人のうち重犯罪人以外の者を釈放する恩赦を実施するように提案した。この 提案は 3 月 27 日の党中央委員会幹部会で満場一致で承認され、120 万 3421 人が釈放される ことになり、4 月 18 日現在で 40 万 1120 人の裁判が中止された。この恩赦は 3 月 28 日に発表 され、同年 8 月 10 日現在で 103 万 2000 人が釈放された(3)。 ベリヤはついで 4 月 1 日にクレムリンの「医師・妨害者事件」についてマレンコフに覚書を送り、 徹底的な調査の結果この事件は最初から最後まで元国家保安次官リュ−ミンの挑発的なでっち あげであることが判明したと報告した。 この報告をうけて党中央委員会幹部会が 4 月 3 日にべリヤ、ヴォロシーロフ、ブルガーニン、ペ ルヴーヒン、カガノーヴィチ、サブ−ロフ、ミコヤン、フルシチョフ、モロトフ、マレンコフの全幹部会 員出席のもとに開かれ、この事件で逮捕された 37 人の関係者全員の完全な名誉回復と釈放を 決定した。 党中央委員会幹部会はあわせて前国家保安相イグナ−チエフに対してどうしてこのようなソヴ ェト法の重大な侵犯がおこなわれ、捜査資料がねつ造されたのかについて説明を求めることにし た。さらに、この事件を告発した女医チマシュークにレーニン勲章を授与した 1953 年 1 月 20 日 付けのソヴェト同盟最高会議幹部会令を取り消すことを決めた。党中央委員会幹部会はまたイ グナ−チエフを党中央委員会書記から解任することについて党中央委員会総会の承認を求める ことにした。 さらに、党中央委員会幹部会はこの決定をベリヤの覚書および内務省特別捜査委員会決定と ともに全中央委員と同盟構成共和国党中央委員会および地方・州党委員会の第一書記に送る ことを決めた。党中央委員会幹部会の決定とともに内務大臣や内務省の委員会の文書を送るの は党の決定の意義を低めるものであるとして後に大問題となり、ベリヤの命取りの原因の一つと なった。 医師団事件にかんする党中央委員会幹部会の決定は 4 月 4 日の党中央委員会機関紙『プラ ウダ』に発表された(4)。 この間にもう一つ重大な事実が明らかにされた。ベリヤは 1953 年 4 月 2 日にマレンコフに送っ た覚書のなかで 1948 年 1 月 13 日にベロロシアの首都ミンスクで起こったミホエルスの死亡事 件が当時の国家保安相アバクーモフの指示をうけたオゴリツォフ次官とベロロシア国家保安相ツ ァナワの計画的な暗殺であったことを明らかにした。 ミホエルスはユダヤ人の有名な俳優であり、ソヴェトに住むユダヤ人の民族的象徴であった。 彼はソヴェトとナチス・ドイツとの戦争中はユダヤ人反ファシスト委員会の議長を務め、ソヴェトに 住むユダヤ人の戦意の昂揚と在外ユダヤ人のソヴェトへの支持の拡大に尽力した。そのミホエ ルスを自動車事故を装って殺したのが国家保安省の高官であったというのである。 ミホエルスの葬儀は盛大に執り行われたが、その後ユダヤ人反ファシスト委員会は反ソ宣伝セ ンターとなったとして激しく批判されるようになり、1948 年 11 月 20 日には解散させられ、ユダヤ 人に対する非難がいっそう強まった。こうしたなかでモロトフの妻ポリナ・ジェムチュジナがユダヤ 人民族主義者とかかわりがあるとして 1948 年 12 月 29 日に党から除名され、1949 年 1 月に逮 捕され、同年 12 月に 5 年間の刑期でカザフスタンに追放された。ジョレス・メドヴェジェフによると、 1948 年末にモロトフはスターリンの執拗な圧力に屈し、妻と正式に離婚したといわれている。そ のポリナ・ジェムチュジナがスターリンの死後ただちに釈放され、1953 年 3 月 21 日には党籍を 回復した(5)。 ベリヤはさらにもう一つ重大な事実を明らかにした。1953 年 4 月 4 日にベリヤは逮捕者に精神 的・肉体的な圧力を加えて強制的に尋問することを禁じる内務大臣令を発するとともにマレンコ フとフルシチョフに覚書を送り、1951 年末から 1952 年初めにかけて起こった「ミングレル民族主 義者グループ事件」が挑発的なでっちあげであったと報告した。 ミングレル事件というのはソヴェト同盟に加入しているグルジア共和国内のミングレル人が民族 主義的組織を作ってソヴェト同盟から脱退する活動をしていたというもので、この組織の指導者 ということでグルジア共産党中央委員会第二書記のバラミヤをはじめ多数の人が逮捕されてい た。 ベリヤによると、ことの起こりは 1951 年秋にグルジア共和国国家保安相のルハッゼが折から 休暇でグルジアに滞在していたスターリンにグルジアの党活動や経済活動が上手くいかないの はミングレル人の民族主義的グループが破壊活動をしているからだと報告したことであった。ス ターリンがこの報告を真にうけた結果、1951 年 11 月 9 日に全同盟共産党(当時はこのように称 していた)中央委員会が「グルジアにおける贈収賄とバラミヤ同志の反党グループについて」決 定を採択し、事件は拡大していった。その間に自白を強要して違法な捜査がおこなわれたようで ある。 ベリヤの報告をうけて党中央委員会幹部会は 1953 年 4 月 10 日にサブ−ロフを除く 9 人が会 合し、この事件で逮捕されていたバラミヤをはじめとする 37 人全員の名誉を完全に回復し、釈放 することを決定した(6)。 ベリヤはまたソヴェトの居住用パスポート制度、とくに前科のある人や罰を終えた人が都市で 住むことを制限している制度を改めようとした。ソヴェトでは 1932 年 12 月 27 日付けのソヴェト 同盟中央執行委員会と人民委員会議の決定「ソヴェト同盟での単一パスポート制度の確立とパ スポートの義務的登録について」と 1933 年 1 月 14 日付けの人民委員会議の決定「パスポート 発給についての指令の承認について」にもとづいてモスクワ、レニングラード、ハリコフの諸都市 とモスクワとレニングラードの周辺 100 キロメートル以内の地域およびハリコフの周辺 50 キロメ ートル以内の地域では自由剥奪期間を終えた人々に対する居住用パスポートの発給と登録に ついて制限が加えられることになった。その後、国際情勢の先鋭化とともにこの制限を適用する 地域が拡大・増加し、1953 年当時ではこのような地域は 340 に増えていた。 前科をもつ人や罰を終えた人の居住を禁止する地域がソヴェト全体に広がっていた。これらの 人々は家族や住居のある都市に帰ることができず、就職も難しくなっていた。1952 年の 1 年間だ けでも 27 万 5286 人が前科の故に居住用パスポートの制限をうけ、その数は 1952 年を含む過 去 10 年間に 390 万人に及んだ。この制度に違反する人も増え、1948 年から 1952 年のあいだ に 559 万 1000 人に達した。そのうち 12 万 7000 人が刑事責任を問われ、436 万 5000 人が行 政措置により 2 億 1778 万 6000 ルーブルの罰金を課せられていた。 そこでベリヤは 1953 年 5 月 13 日にマレンコフに覚書を送り、このような制限を課している国は 世界中どこにもなく、アメリカ、イギリス、カナダ、フィンランド、スウェーデンなどの多くの資本主義 国では一般に居住用のパスポートは存在せず、市民の個人的文書に前科を記述するようなこと はないと指摘し、内務省としてこのような制限を撤廃するように提案した。 1953 年 5 月 20 日に党中央委員会幹部会はベリヤが提出した閣僚会議決定案「パスポート制 限と制限適用地域の廃止について」を承認した。この決定によって 300 以上の都市と国境沿い の制限適用地域で罰を終えた人々に課せられていた居住用パスポートの制限は廃止された(7)。 ベリヤはスターリンが亡くなってからわずか 2 か月半ほどのあいだに恩赦を実施し、前科をもつ 人や罰をうけた人に課せられていた都市での居住制限を撤廃し、スターリン時代末期のミホエル ス事件、「ミングレル民族主義者グループ事件」「医師・妨害者事件」が国家保安省高官による暗 殺やでっち上げであることを明らかにした。 ベリヤはさらに 5 月下旬から 6 月上旬にかけてウクライナ西部とリトワニアおよびベロロシアな どの共和国で州・市・地区などの各段階の党組織の指導部に現地の民族の代表者がきわめて 少数しか登用されていないことを批判した。また、ベリヤはドイツ問題でも多くの党中央委員会幹 部会員とは異なる意見を持ち、ドイツ民主共和国(東ドイツ)では社会主義を建設する必要がない ことを主張した。当時ドイツ民主共和国の多数の住民がドイツ連邦共和国(西ドイツ)に移り住み、 ドイツ民主共和国で暴動が起こっていた。 ベリヤはまた 5 月 15 日に内務省付属特別審議会の権限を制限することについての覚書を党 中央委員会幹部会に送った。この特別審議会は 1934 年 11 月 5 日付けのソヴェト同盟中央執 行委員会と人民委員会議の決定によって内務人民委員部に設置されたものであり、この決定に より特別審議会は社会的に危険とみなされた人を 5 年までの流刑・追放、5 年までの矯正労働所 送りに処する権限が与えられた。その後 1937 年からはその期間が 8 年まで延長され、さらにナ チス・ドイツとの戦争が始まったあとの 1941 年 11 月 17 日付けの国家防衛委員会の決定によっ て銃殺までの刑が課せられるようになった。ベリヤはこの特別審議会の権限を縮小し、その権限 を 10 年以下の刑務所での拘束,矯正労働所送り、流刑とするように提案した(8)。 ベリヤは 1953 年 6 月 25 日にマレンコフに覚書を送り、6 月 10 日から 13 日までおこなわれた 元国家保安次官リュ−ミンの尋問結果を報告した。ベリヤはこのなかでリュ−ミンの罪状を次の ように指摘した。 (1) リュ−ミンは前述の「ユダヤ人反ファシスト委員会のスパイ・センター事件」と 1949-1952 年 にクズネツォフとヴォズネセンスキーの両政治局員兼書記を含む数百人のレニングラード関係の 指導者が犠牲となった「レニングラード事件」の捜査資料の偽造に参加した。 (2) リュ−ミンは 1950 年 11 月にアバクーモフの指示でエチンゲル教授の尋問にあたったさいに 同教授が党モスクワ州・市委員会第一書記兼党中央委員会書記シチェルバコフ元国防次官の 治療に顧問として参加していたことを知り、同教授が正しくない治療法を勧め、それがあたかもシ チェルバコフを死に至らしめたかのごとき供述を強要した。ところが同教授がアバクーモフの尋問 のさいにこれを否定すると、リュ−ミンはふたたび同教授を尋問し、完全な衰弱状態とし、1951 年 3 月についに同教授を獄中で死に至らしめた。 同年 5 月にリュ−ミンはエチンゲル教授の供述を文書で固めていなかった廉で戒告処分をうけ た。そこでリュ−ミンは責任のがれのために自分の恩人であるアバクーモフを犠牲にすることに し、スターリンに手紙を送り、アバクーモフが事件を揉み消し、エチンゲル教授がシチェルバコフ を意図的に殺害したかのごとき同教授の供述を党と政府から隠していると「暴露」した。アバクー モフの逮捕のあとリュ−ミンはエチンゲル事件についての自分の主張の正しさを証明するために 有名な「医師・妨害者事件」を作り出した。 (3) 国家保安相イグナ−チエフによって国家保安次官兼特別重要事件捜査部長官に任命され たリュ−ミンは根拠なく逮捕された市民に対して肉体的に影響を与える方法とそれらの市民に対 する捜査資料のねつ造をイグナ−チエフの了解と承認のもとに広範に実行した。リュ−ミンとイ グナ−チエフはグルジアの元国家保安相ルハッゼが「ミングレル民族主義者グループ事件」を作 り出したことを知っていた。リュ−ミンは「ユダヤ人反ファシスト委員会のスパイ・センター事件」の 捜査をねつ造するのに直接かかわった。イグナ−チエフはスターリンに手紙を送り、そのなかで この事件の捜査資料によって逮捕された人々の犯罪活動は立証されていると伝えた(9)。 これがベリヤの内務大臣としての最後の覚書となった。ベリヤの行動はとどまるところを知らな かった。それは新しい時代の到来を感じさせるものであった。民衆はこれを歓迎したが、指導者 たちは脅威を身じかに感じ始めた。いまや前国家保安相イグナーチエフの身が危うくなった。イ グナーチエフはすでに党中央委員会書記を解任され、党中央委員の地位も失っていたが、次は 逮捕される可能性があった。イグナーチエフの運命はマレンコフを含めてベリヤ以外のすべての 党中央委員会幹部会員の明日の運命となる可能性があった。党中央委員会幹部会はこれを阻 止するために非常の措置に出た。 3. ベリヤ、逮捕される 1953 年 6 月 26 日、ベリヤは何も知らないで党中央委員会幹部会の会議に出た。ベリヤ追放 のお膳立てはすでにできていた。当日のことをフルシチョフは次のように語っている。 われわれは閣僚会議幹部会の会合を召集する手配をしたが、中央委員会幹部会のすべての メンバーも招いた。マレンコフは党の状況を検討できるように、閣僚会議幹部会ではなく、中央委 員会幹部会の会議として、開会を宣言した。 マレンコフは開会を宣するとすぐにいった。「党の問題を検討することにしたい。中央委員会幹 部会の会員構成のなかにただちに論議しなければならない党の問題がある。」全員が賛成した。 あらかじめ打ち合わせてあった通り、私が議長に発言を求め、ベリヤの問題を検討することを提 案した。ベリヤは私の右にすわっていたが、急に動きだして私の手をつかむと、じっと私を見て、 いった。「どうしたんだ、ニキータ? 君はいったい何をいっているんだ?」 私はいった。「とにかく聞きたまえ。じきにわかるから。」そして私は次のような発言をした。まず 戦争前の中央委員会総会を想起した。その席でカミンスキー保健人民委員( 保健相)は彼がバク−で働いていたときベリヤがムサヴァト派(アゼルバイジャンのブルジョア民 族主義政党「平等」)の諜報機関で働いていたという噂が共産主義者のあいだでしつこく飛び交っ ていたことを明らかにした。ところが、誰もこの問題についてこれ以上発言せず、ベリヤもその席 にいたにもかかわらずなんの質問もしなかった。休憩に入り昼食のあと総会が再開されたときカ ミンスキーは議場にもどってこなかったが、誰もなぜかを知らなかった。当時はこれが当たり前で あった。ある会議に出席していた多くの中央委員が次の会議には来なく、「人民の敵」に落ち、逮 捕されていた。カミンスキーはこのような運命に見舞われた。私は長いあいだカミンスキーが発 言したときに、なぜ誰も説明しなかったのかをけげんに思っていた。 (カミンスキーは 1937 年 6 月 25 日に逮捕され、1938 年 2 月 8 日に極刑をうけ、同月 10 日に 亡くなっていたが、ベリヤ事件のあと 1955 年 3 月 2 日に名誉が回復された。中西)。 フルシチョフの発言はつづく。それから私は、スターリンの死後のベリヤの措置に触れ、ウクラ イナ、ベロロシアおよびその他の党組織に対する彼の態度をふりかえってみた。私はベリヤが、 共産党のすべての敵がやるように、民族的な敵意をいかに利用したかを説明した。さらに、ドイツ 民主共和国での社会主義建設に反対したことや流刑地や矯正労働所の人間に対する政策につ いての彼の最近の提案は一見リベラルな提案に見えるけれども、実際は存在していることを合 法化しようとするものであることを強調した。 私は次にことばで発言を結んだ。「ベリヤの活動を見てきた結果として、私は彼が共産主義者 ではないという印象を抱くにいたった。彼は野心家で、利己的な理由から党にもぐりこんだのであ る。彼の傲慢さはがまんがならない。正直な共産主義者ならけっして彼のようにはふるまわない であろう。」 私が話し終わると、ブルガーニンが発言求めて、だいたい同じ趣旨のことを語った。さらにほか の者が順次発言し同じ原則を強調したが、最後に発言したミコヤンだけは例外だった。彼は会議 の前にわれわれが話しあった際、私にいったことをくりかえした。すなわち、ベリヤはわれわれの 批判を胆に銘じ、自己変革をするだろう。彼のケースは絶望的なものではない。彼は集団指導部 にとってなお役に立つ存在になりうるのだ、と。 全員が発言したあと、マレンコフは議長として議事を総括し、全員一致を宣することになってい た。だが、最後のどたん場になって、彼はおじけづいてしまった。最後の演説が終わると議事は 中断されたかたちになった。長い間があった。 厄介なことになると見てとったので、動議を提出するため私はマレンコフに発言を求めた。前も って打ち合わせておいた通り、私はベリヤを彼が保持しているすべての役職から解任すべきであ るという問題(中央委員会幹部会がこれをおこなう)を中央委員会総会で提起するように提案した。 マレンコフはいぜんとして気が動転していた。彼は私の動議を票決にかけもしなかった。 彼は隣の部屋で待機している将軍たちに合図を送る秘密のボタンを押した。ジューコフが最初 にあらわれた。つづいてモスカレンコとほかの者たちがはいって来た。マレンコフは消えいるよう な声でジューコフにいった。「ソヴェト同盟閣僚会議議長として、私はベリヤを拘禁することを求め る。」 「手をあげろ!」とジューコフがベリヤに命令した。モスカレンコとほかの者たちは、ベリヤの動 きにそなえて、拳銃のケースのびじょうをはずした。ベリヤが背後の窓枠の上に置いてあった自 分のブリーフケースに手をのばすように見えた。私は彼の腕を押え、ブリーフケースから武器を 取り出すのを阻止した。あとで調べたところ、そのブリーフケースにも彼のポケットにも銃はなか った。彼のすばやい動きは、たんなる反射的な行動だったのだ。 ベリヤはただちに閣僚会議の建物のマレンコフの執務室の隣で、武装警備兵の監視下におか れた。結局、ベリヤは防空司令官モスカレンコの手にゆだねるということで意見の一致を見た。モ スカレンコは部下を使ってベリヤを自分の本部の掩蔽壕に移した(10)。 これはおきまりの宮廷ク−デタ−である。この宮廷クーデターについてはもう一つの証言がある。 それはマレンコフの息子アンドレイ・マレンコフが父ゲオルギー・マレンコフから聞いた話しを記し たものである。アンドレイ・マレンコフは実はべリヤも宮廷クーデターを計画していたとして次のよ うに書いている。 ベリヤはマレンコフが権力の奪取を企むベリヤについての資料を近いうちに入手すると考えて いた。また、ベリヤがかつて国内戦争中にイギリスの諜報機関に引き込まれていたことを示す文 書が存在することを知っていた。実際にベリヤの逮捕後ベリヤの金庫からその一つが発見され たという。そこでベリヤ自身が宮廷クーデターを準備した。どのようにして実行するのか。 ジューコフが先頭に立っていた軍はおそらくマレンコフにつくだろう。残されている唯一の可能性 はモロトフ、カガノーヴィチ、ヴォロシーロフのマレンコフに対する憎しみを利用することとスターリ ン時代の粛清に参画したことが暴露されることへの恐れを利用することである。具体的にはフル シチョフとブルガーニンの支持を頼りとして幹部会でマレンコフを批判し、ブルガーニンとフルシチ ョフに個人的に忠誠を誓っている軍人の力でマレンコフをペルヴーヒン、サブーロフ、イグナーチ エフとともに逮捕することである。ベリヤはフルシチョフとブルガーニンに期待をかけて、この冒険 を実行することにしたが、不発に終わった。フルシチョフが先手を打った。 ベリヤを逮捕する 1 週間前にフルシチョフとブルガーニンがマレンコフを訪れて言った。ベリヤ が私たちを引き込もうとしている。私たちはどうすべきか。マレンコフは答えた。あなた方が来られ たことは大変よかった。何も起こっていないかのように振る舞って下さい。フルシチョフとブルガー ニンがマレンコフの側についたことで作戦はしやすくなった。 1953 年 6 月 26 日、党中央委員会幹部会が開かれる前に閣僚会議幹部会がマレンコフの執務 室でおこなわれた。最初の票決ではモロトフとカガノーヴィチがベリヤの逮捕に反対した。ベリヤ はすごく自信満々で生意気であった。応接室で騒ぎがするのでフルシチョフが突然執務室から出 たとき、ベリヤの顔には満足そうな薄笑いが浮かんでいた。ベリヤはすべてが彼の計画通りに進 んでいると信じていたようである。まさにこのときにフルシチョフが軍人たちに命令した。応接室で 騒いでいたのはもちろん彼らであった。軍人たちが入った。フルシチョフに近いブルガーニンの副 官ユーフェロフとモスカレンコ将軍が最初に執務室に入ったときでさえベリヤは薄笑いを浮かべ つづけていた。ベリヤは執務室の軍人たちのなかにピストルをかまえたジューコフを見い出した ときにやっと罠にはまったことに気づいた。威厳のある、いかなる期待をも残さない元帥の声が 鳴り響いた。「ベリヤ、君を逮捕する!」(11)。 ここでもフルシチョフの話しとマレンコフの息子の話しには大きな違いがある。フルシチョフはベ リヤ逮捕の合図を送るボタンを押したのはマレンコフだと言い、マレンコフは逮捕を命じたのはフ ルシチョフだと息子に言い残している。当事者の話しというのは疑ってかかる必要がある。これが 歴史研究の鉄則である。当事者たちはお互いに責任逃れをするからである。 会議が党中央委員会幹部会の会議か閣僚会議幹部会の会議かということでも違いがある。こ との性質上フルシチョフのいう党中央委員会幹部会の会議という方が筋が通るが、マレンコフの 息子がいうように、まず閣僚会議幹部会の会議が開かれ、そこではモロトフとカガノーヴィチの二 人が反対したため情勢を不利と見たフルシチョフが先にベリヤを逮捕し、そのあと党中央委員会 幹部会の会議を開いてそれを追認したとも考えられる。当時は党中央委員会幹部会と閣僚会議 幹部会が明確に区別されていなかった。フルシチョフの話しでも閣僚会議幹部会として集めなが ら党中央委員会幹部会として会議を開いているのである。 この会議の議事録はまだ明らかになっていないので、会議を正確に再現することはできない。 公表されているのはこの日の会議で議長を務めたマレンコフの発言の草稿メモだけである。この 草稿メモは党中央委員会幹部会の会議のものとされているが、これまたまだ確定できない。 この草稿メモが載っており、私もここで引用している資料集の作成者の一人であるロシアの歴 史家ナウーモフはジューコフが直接ベリヤを逮捕したとは信じがたいと主張している。ナウーモフ によると、ジューコフ自身がフルシチョフのこの言葉を一度も認めていないし、当日は会議の議題 にモスクワ軍管区の夏季演習が入っており、議場にはジューコフよりも階級と役職の下の将校た ちがいた。そのなかでジューコフのような党と国家のなかで巨大な権威を有する大祖国戦争の誉 れ高い司令官であり、軍の地位を象徴する人物が直接ベリヤに手をかけるようなことはしないと いうのである(12)。 ここでの問題はフルシチョフがスターリン死後のベリヤの行動のなかで第一に批判しているの がウクライナ、ベロロシアなどの問題であることである。先に指摘した草稿メモでマレンコフもベリ ヤを非難する第一の事実としてウクライナ、リトワニア、ラトヴィアの問題をあげ、これを内務省が 党と政府を「正し」、党中央委員会の重要性を下げようとしているものと見ている。また、マレンコ フはベリヤが内務大臣の地位から党と政府を統御しており、これは適時に、いま正さないと、大 変な危険をはらむと考えている。しかし、マレンコフはこの段階ではベリヤを逮捕・追放することま で考えておらず、閣僚会議副議長から石油工業相に格下げすることを検討している。もっとも、こ こには「?」がついている。内務大臣の後任には 1946 年 3 月 19 日から 1953 年 3 月 5 日まで 内務相を務めたクルグロフの返り咲きを予定しており、実際にそのようになった(13)。 ミコヤンも幹部会が開かれる前にフルシチョフからベリヤ解任の話を初めて聞いているが、そ のときはフルシチョフもベリヤを石油工業相に任命するつもりであると言っていたと述べている。 これに対してミコヤンは「たしかに、彼は石油のことはほとんど知らないが、戦争中と戦後期が示 しているように経済指導で組織者としての経験をつんでいる」と述べ、ベリヤは集団指導部のな かで組織活動という点で役立つであろうと付け加えたという(14)。 ベリヤが非難された点については後でまた検討するとして先に進もう。逮捕された翌々日の 6 月 28 日にベリヤはマレンコフに手紙を送っている。このなかでベリヤは冒頭に「自分としては幹 部会での厳しい批判から必要な結論を引き出し、集団のなかで役立つと信じていた。中央委員 会は別の決定をしたが、私は中央委員会が正しく行動したと考えている。」と述べている。そして、 どうしても言っておきたいのは、自分がつねにレーニン=スターリンの党、自分の祖国に限りなく 献身してきたし、仕事ではつねに積極的であったことである、と強調している。最後に妻や年老い た母、息子をよろしくと頼んでいる(15)。 ベリヤは 7 月 1 日と 2 日にも手紙を送っている。1 日のマレンコフあての手紙でベリヤは最初に マレンコフに対するとくにひどい許しがたい態度については 100%自分が悪かったと謝っている。 そして、ベリヤとしてはスターリンがいなくてもわれわれだけで失敗しないでやっていけるのだと いうことを示したい一心で一所懸命に努力したと述べている。また、医師団事件やミングレル事 件などは党中央委員会と政府の指示にもとづきマレンコフの助言により、一部の問題はフルシチ ョフの助言によって提案をしたと主張している。ただ、中央委員会の決定といっしょに内務省の報 告書を送るように強く主張したのは正しくなく、愚かで浅慮であったと反省している。このことによ って党中央委員会の決定の意義を相当程度低めたこと、内務省の役割が党中央委員会と政府 の決定を実行するのに限定されていたときに、あたかも内務省がウクライナ、リトワニア、ベロロ シアの党中央委員会を正すかのごとき許しがたき状況を作り出すことになったと自己批判してい る。さらに、党中央委員会幹部会や閣僚会議幹部会の会議でしばしば神経質で、あまりにもはげ しい態度をとったことは正しくなく許しがたいことであったし、とくにドイツ問題を論議したときにフ ルシチョフとブルガーニンに対して無礼で生意気な態度をとったことを詫びた。朝鮮問題、ドイツ 問題、アイゼンハワーとチャーチルへの回答問題、トルコ問題、イラン問題であなた方全員が正 しい解決をめざす提案を党中央委員会幹部会に出そうと努力されていたときにも同様であった。 そして、最後に自分は一度は大きな地位を占めたが、他の小さな仕事では役立たないということ はなく、いかなる小さな場でも積極的な建設者になるので私から活動の機会を奪わないでいただ きたいと懇願した(16)。 7 月 2 日の党中央委員会幹部会あての手紙ではべリヤは拘束されて以来 5 日間にわたって一 度も尋問をうけていないと述べ、裁判も捜査もしないで私を処理したいようであると抗議するとと もに、幹部会がただちに介入して、私の問題について厳重な調査をする責任のある厳格な委員 会をモロトフかヴォロシーロフを議長として組織するように要請している(17)。 マレンコフをはじめとする党中央委員会幹部会員たちはこれにこたえず、ベリヤのいないところ でベリヤ問題を審議・決定することにした。 4. ベリヤ、死刑に 1953 年 7 月 2 日にベリヤ問題についてのソヴェト同盟共産党中央委員会総会が開かれた。会 議はフルシチョフが議長となって開かれ、最初にマレンコフが第一議題「ベリヤの犯罪的な反党 的・反国家的行動について」報告し、ベリヤの行動の問題点として次のような事実をあげた。 第一は内務省を党と政府の上に置こうとしたことである。具体的には次のような事実が指摘さ れた。 ウクライナの内務大臣メシクは 1953 年 4 月にリヴォフ州の内務長官ストロカチに同州の党機 関の民族構成と活動の欠陥について報告するように求めた。同長官は内務省には党機関の活 動を調べる権限はないと考え、同内務相に電話で問い合わせたところ、これはべリヤの指示で あると言われた。同長官は州書記のセルジュークにこのことを報告した。ところが、その晩にモス クワのベリヤからリヴォフのストロカチ長官のところに電話がかかり叱責され、首にして逮捕し、 収容所で破滅させると言われた。実際に同長官は 6 月 12 日に解雇され、モスクワに呼びつけら れ、ウクライナで仕事をしたいという願いは拒絶された。ベリヤが逮捕された翌々日の 6 月 28 日 にストロカチはこのことをフルシチョフに手紙で訴えている。 同じようなことがリトワニア、エストニア、ベロロシアでもおこなわれていた。 また、党中央委員会幹部会員の護衛が幹部会員を監視するのに利用されていた。ベリヤは護 衛の報告を通じて幹部会員の行動をただちに把握していた。幹部会員との電話による会話も盗 聴され、ベリヤに報告されていた。 第二はユーゴスラヴィヤ問題とドイツ問題についてのベリヤの態度である。 ユーゴスラヴィヤ問題ではべリヤは内務省を通じて関係の改善を図ろうとしていたとして押収さ れたユーゴスラヴィアのランコヴィチあての文書が紹介された。 ドイツ問題では、当時、ドイツでは 2 年ほどのあいだにおよそ 50 万人の住民が東ドイツから西ド イツに脱走し、東ドイツでは折から暴動が起こっていた。この問題はソヴェトの指導部内でも論議 され、東ドイツで進めるられていた「強行的な社会主義建設」の政策は間違っているとの意見が 大勢を占めていた。 これに対してベリヤは「強行的な社会主義建設」どころか「いかなる種類の社会主義」にも反対 し、「ブルジョア的ドイツ」の路線をとるように主張した。マレンコフはこれを取り上げてベリヤを「ブ ルジョア的変節者」であると批判した。 第三は恩赦の問題である。マレンコフは恩赦自体はまったく正しいことであったが、ベリヤは悪 意をもってせっかちにことをすすめ、釈放してはならない累犯の泥棒までも恩赦の対象にしたと 批判した。 第四はベリヤが党中央委員会と政府の了解なしに水爆実験をおこなう決定を採択したことであ る。 ベリヤは 1945 年に国家防衛委員会付属特別委員会が組織されるまでもソヴェトの原子爆弾 生産の責任者であったが、同特別委員会が組織されたあとは同委員会を管掌し、原子力問題を 取り仕切ってきた。水爆実験のさい同委員会の指導的な活動家たちが政府に提出する決定案を ベリヤのところに持ってきたが、ベリヤはこの文書を全部取り消し、党中央委員会と政府にそれ を隠して一人で決定を提出したといわれている。実際にソヴェトが最初の水爆実験をおこなった のはベリヤが逮捕された後の 1953 年 8 月 12 日であった。 第五はべリヤはスターリンの生存中から多くの指導者間に不信の種を巧みにずる賢くまいてき たことである。スターリンは 1952 年 10 月の第 19 回党大会のあと同月 16 日に開かれた中央委 員会総会でモロトフとミコヤンを厳しく批判したが、マレンコフはスターリンがこの批判をおこなっ たのは内務省の敵対分子の中傷的な誹謗の影響をうけていたからであると述べた。ベリヤはス ターリン死後も指導者たちが互いにあたりを見回して慎重に行動するようにしむけていた。 最後にマレンコフはベリヤの個人的な性格には深く触れないが、彼が邪悪な腐敗した人間であ ると二度強調した。そして、党中央委員会幹部会がベリヤをその地位から解任し、党から除名す ることにしたと報告した。さらに、このような冒険主義者に対しては中途で立ち止まることができず、 党と人民の敵として逮捕することにしたと述べた(18)。 つづいてフルシチョフが発言した。彼はまずスターリンの生存中からベリヤが大変な策士である ことを自分たちは知っていたと述べ、さらに、ベリヤの性格について次のように指摘した。 ベリヤは腹黒い人であり、巧みな出世主義者であった。彼はスターリンの魂のなかに毒牙によ ってしっかりと入り込み、自分の意見をスターリンに押し付けることに成功していた。破廉恥と鉄 面皮がベリヤの根本的な性格であった。 そのあとフルシチョフはスターリンが重態であったときにブルガーニンと話し合い、ベリヤを内務 大臣の地位につけないことについて合意していたことを明らかにした。これは前にも指摘したこと であるが、ブルガーニンもこの席でこれを認めた。 ところが実際にはべリヤが内務大臣になった。どうしてそのときにフルシチョフもブルガーニンも 反対しなかったのか。フルシチョフはスターリンが亡くなったとき私たちはよりいっそうかたく団結 しなければならないと考えていたので、ベリヤについて私が意見を言うと、正しく理解されないお それがあったからであると弁明した。 フルシチョフはベリヤがスターリンの存命中に党中央委員会幹部会ビューロー員のあいだに離 間を作り出していたと述べた。ヴォロシーロフが、その通り、と叫んだ。 フルシチョフはベリヤが政府を重視し、党を軽視していたことをハンガリーの指導者ラコシと話し 合ったさいのベリヤの発言を引用して明らかにした。そのとき一人の人間が党中央委員会と閣僚 会議の最高指導者を兼任しないということが話題となっていた。ラコシがいかなる問題が閣僚会 議で決められ、どのような問題が党中央委員会で決められるのか、どのように分けているのかと たずねた。ベリヤは蔑んだように答えたという。閣僚会議が決めればよいのだ。党中央委員会は 人材の問題と宣伝をしておればよいのだ。 フルシチョフはベリヤのこの発言に驚いたという。ベリヤは党の指導的役割を排除している。こ れが党についてのマルクス・レーニン的な考え方であろうか。レーニンとスターリンは党について このように教えたのであろうか。党に対するベリヤの考えはヒトラーの考えとどこも違わない。党 にとって大きな危険があった。ベリヤは党員ではなく、出世主義者であり、おそらく、スパイである。 このことについてはまだしばらく掘り返さなければならない。 フルシチョフはまたベリヤの内務省付属特別審議会の権限縮小についての提案はこの審議会 の廃止ではなく、ベリヤに対していかなる人でも逮捕し、尋問し、判決を下し、10 年まで刑務所に 拘束する権利を与えるものであったと述べた。10 年経てばまた 10 年の刑を課することができた。 これは本物のテロであり、このような方法によってベリヤはいかなる人でも収容所の塵に変える ことができたとフルシチョフは強調した。 この特別審議会についてはベリヤが逮捕されたあとの党中央委員会幹部会で検討され、1953 年 8 月 12 日に廃止された。この廃止は 1953 年 9 月 1 日付けの最高会議幹部会令によって正 式に承認された。 フルシチョフはまたベリヤが自分をスターリンの後継者であると考えていたと批判した。ベリヤ がもっともはっきりと挑発者であり、帝国主義者の手先であることを示したのはドイツ問題につい て論議したときであったとフルシチョフは述べた。ベリヤはドイツ民主共和国において社会主義を 建設することに反対し、西側に譲歩し、中立的な民主ドイツを作るように主張したという。フルシ チョフはこれは 1800 万人のドイツ人をアメリカ帝国主義の支配下に置くことを意味すると指摘し た(19)。 フルシチョフのあとに演説したモロトフは四つの点でベリヤを批判した。 第一はスターリン死後の党中央委員会総会でベリヤが閣僚会議議長について提案したが、こ れは事前の了解なく彼が勝手におこなったものである。そのあと開かれた最高会議でも中央委 員会のなんの決定もなしに彼が閣僚会議議長について提案した。モロトフはこの最高会議が開 かれる前にベリヤに電話し、政府首班についての最高会議での党の提案は党中央委員会書記 のフルシチョフが直接おこなうべきであると伝えたが、ベリヤはこれを拒否したという。 これまではスターリン死後に党と政府と最高会議の合同会議が開かれたと言われてきたが、モ ロトフの発言によると、別々の会議が開かれたことになる。もしそうであるならば、それぞれの決 定をまとめて合同会議の決定として発表したことになるが、実際はどうであったのであろうか。 第二は党中央委員会幹部会の議事録にはこれまで中央委員会書記が署名してきたが、スター リン死後は個人の名前はなく、中央委員会幹部会とだけ署名されていることである。モロトフによ ると、レーニンの時代も、スターリンの時代も政治局の議長は閣僚会議議長が務め、署名は書 記がしていた。モロトフはフルシチョフとマレンコフにその旨を伝え、彼らは党中央委員会書記が 署名することに賛成したが、ベリヤに電話すると、ベリヤは反対したという。 第三は国際問題の論議が閣僚会議幹部会に移り、党中央委員会幹部会ではおこなわれなくな ったことである。この結果、閣僚会議幹部会に入っていないヴォロシーロフ、サブーロフ、ペルヴ ーヒンは国際問題の論議に参加できなくなった。フルシチョフは閣僚会議幹部会のしかるべき会 議に招かれているが、彼の立場は完全に明確ではない。これらはすべてベリヤの圧力によるも のであって、党中央委員会の活動と権威を損ねるのが目的であったという。 第四はベリヤのドイツ問題に対する態度である。モロトフによると、1951 年 1 月から 1953 年 4 月までのあいだに ドイツ民主共和国から西ドイツに 45 万人が移っており、とくに 1953 年に入って住民の移動が増 大している。逃亡者のなかには少なからない労働者がおり、数千人のドイツ社会主義統一党員 と自由ドイツ青年同盟員が含まれていた。これは東ドイツのわが友人たちの活動に大きな欠陥 があることを示しているとモロトフは指摘した。 モロトフはこれは東ドイツで過度に急速な工業化路線と力不相応な新しい大建設がすすめられ ているからであると述べ、とくに 1952 年夏からとられている明らかに左翼的な路線はできるだけ 早く改めるために緊急の措置をとらなければならないと主張した。 ベリヤの立場はモロトフの立場とは完全に異なっていた。彼は東ドイツでは社会主義建設をす る必要はなく、西ドイツと東ドイツはブルジョア的な平和愛好国家として統一すれば十分であると 考えていた。これに対してモロトフは現在の帝国主義時代においてはブルジョア的なドイツがソ ヴェトにとって平和愛好的国家になるとか中立的国家になるとかいうのは幻想であるだけではな く、共産主義とは異なる立場に事実上移行することを意味すると批判した(20)。 7 月 2 日の会議はマレンコフ、フルシチョフ、モロトフの 3 人の演説だけで終わった。総会は 7 月 5 日の土曜日と 6 日の日曜日を休んで 7 日まで 4 日間つづいた。 7 日の会議では最初に 1953 年 4 月 28 日の党中央委員会総会で中央委員から除籍されてい たイグナーチエフに対する処分を取り消し、中央委員の資格を回復することが決定された。また、 ジューコフ元帥が中央委員候補から正委員に昇格になった。他方、ゴルリッゼとコブロフの両中 央委員候補が中央委員候補から除かれ、党から除名された。彼らはベリヤとともに裁判にかけ られ銃殺刑に処せられたのである。 最後にマレンコフが結びの演説をした。彼は発言者のなかでマレンコフをスターリンの後継者と たたえる人がいたことに触れてスターリンの後継者は自分ではなく、だれか一人ではなく、強く団 結した一枚岩の党の指導者集団であると強調した。また、個人崇拝の問題は集団指導の問題と 直接結びついていると述べ、党大会が 13 年間も召集されなかったこと、党中央委員会総会が何 年も開かれなかったこと、政治局が正常に機能しなかったことなどを指摘して、暗にスターリンを 批判した。 さらに、マレンコフは 1953 年 2 月にスターリンが農村の税金を 400 億ルーブル上げることを強 く提案したことを取り上げて、この措置は目にあまるほど正しくないことであったし、危険なことで あると述べ、ここではスターリンの政策を公然と非難した。そして、偉大な人々にも弱さがあるし、 スターリンにもあった。私たちは個人崇拝の問題を正しく理解しないことと結びついた過ちを繰り 返してはならないし、この過ちはスターリンの居ないところでは 3 倍も危険なものになるだろうと強 調した。党の会議での公然たるスターリン批判が始まった。 総会は最後にベリヤを内務大臣と閣僚会議第一副首相の地位から追放し、逮捕し、厳格に隔 離し、党中央委員会幹部会と中央委員会の構成から除き、党とソヴェト人民の敵として党から除 名することを決定して、閉会した(21)。 1953 年 12 月 18 日から 23 日までモスクワでコーネフ元帥を裁判長とするソヴェト同盟最高裁 判所特別法廷が開かれ、ベリヤをはじめメルクーロフ、デカノゾフ、コブロフ、ゴルリッゼ、メシク、 ヴロッジミルスキーの 7 人に銃殺刑が宣告された。罪状とされたのは次ぎの 6 点である。 第一はこれら 7 人はソヴェトの共産党と政府に反対するために内務省の諸機関を利用し、権力 奪取、ソヴェトの労働者・農民の制度の根絶、資本主義の復古とブルジョア支配の回復のために 内務省を党と政府の上の置く犯罪的な目的を立てた。 第二はベリヤは 1919 年にバクーにいたときにイギリスの諜報機関の統制下で活動していたア ゼルバイジャンの反革命的ムサヴァト政府の諜報機関の秘密諜報員となり、裏切り行為をした。 第三はベリヤは 1920 年にグルジアにいたときに同じくイギリスの諜報機関の支部であったグ ルジア・メンシェヴィキ政府の保安機関と秘密の関係を持ち、ふたたび裏切り行為をした。その後 も逮捕されるまで外国の諜報機関との秘密の関係を維持し、拡大した。 第四はベリヤたちは反ソヴェト的な裏切りの目的で同盟構成共和国のブルジョア的民族主義 的分子の残存者を積極的にさせ、ソヴェト諸民族のあいだに悪意と不和の種をまき、なによりも ソヴェト諸民族と偉大なロシア人との友好を破壊するために一連の犯罪的な措置をとった。 第五はベリヤはソヴェトの食料を困難な状況にするために集団農場と国営農場の経営を向上 させ、国民の福祉をたゆまず高めることをめざした党と政府の重要な措置の実行をサボタージュ し、妨害した。 第六はベリヤたちは人々に対してテロリスト的な弾圧をおこない、誠実な党と国家の活動家に 対して中傷、策動、さまざまな挑発をおこなった(22)。 銃殺刑の判決は即日執行された。 5. ベリヤ、党主導の体制を打破しようとして失脚 ベリヤ失脚の根本的な原因はベリヤが共産党主導のソヴェト体制を打破しようとしたところにあ る。ソヴェト体制のもとで党と政府の関係は時代によって変わっているが、もともとは党が政策を 決めて、政府がその政策を実行するという党主導の体制である。私はこれを党主導利益調整型 社会主義社会と名付けている(23)。ところが、1939 年 9 月にナチス・ドイツがポーランドを攻撃し て、ヨーロッパで第二次大戦が始まり、1941 年 6 月にはソヴェトもドイツに攻撃されてこの戦争に 巻き込まれ、広範な領土がドイツの占領下におかれた。このようななかで 1941 年 3 月に党の書 記長であるスターリンがモロトフに代わって人民委員会議議長(首相)となり、ドイツとの戦争の勃 発後は国家防衛委員会議長を兼務するようになってソヴェト国家は政府を中心として運営される ようになった。これが 1945 年の戦争終結後もつづいた。 ベリヤが内務第一次官として初めてモスクワで仕事をするようになったのは 1938 年 8 月のこと であり、同年 11 月には内務大臣に昇格、1941 年 2 月からは副首相を兼務し、政府を中心に仕 事をすることに慣れており、それで良しとしていた。しかし、他方ではソヴェトの指導部のなかにソ ヴェト国家はやはり党中心に運営されるべきであると考える人がおり、その力が 1952 年 10 月に 13 年ぶりに開かれた第 19 回党大会以後強まった。スターリンの死ははからずもこれからも政府 中心でいくのか、それとも原則にもどり党主導でいくのかの対立を表面化させることになった。ベ リヤをめぐる権力闘争はその最初のあらわれであった。 ベリヤ失脚の直接的な原因は、第一はベリヤがやり手であり、スターリン時代末期の数々の疑 惑の事件を解明し、それらが権力犯罪であることを暴露し、その被害者を釈放するとともにそれ らの事件の責任を追求し、まず前国家保安相のイグナーチエフを党中央委員会書記と中央委員 の席から突き落とし、それが逮捕にまで及ぼうとしたことに他の指導者たちが危機感をもったこと である。当時のソヴェトの最高指導者たちは 1930 年代以降の粛清に多かれ少なかれ関係して おり、いつ責任を問われても不思議でなかった。ベリヤもその一人であるが、内務大臣ということ で唯一その圏外に立ちうる立場にあった。 第二はベリヤが国際問題の論議を党でおこなわないで、もっぱら政府でおこなおうとしたことで ある。また、ユーゴスラヴィア問題に見られるように党ではなく、政府、とくに内務省がその折衝の 窓口になろうとしたことである。さらに、ドイツ問題についてベリヤが東ドイツでの社会主義建設に 反対したことである。 第三は内務省が同盟構成共和国や州・市・地区の党の指導者の構成の問題に立ち入り、これ と関連して党の民族政策を批判したことである。政府、とくに内務省が党の上に立とうとしたこと である。 これだけの理由では死刑に処することはできないし、法的根拠もない。すべての公職を解任し、 党から除名すればよいことである。しかし、フルシチョフとすればベリヤの性格と権力欲、過去の 粛清の経験からベリヤをどうしても亡きものにしたかったのである。ベリヤを生かしておけば、ふ たたび粛清が起こる可能性がある。そこで考え出されたのがベリヤが外国の諜報機関のスパイ だったという口実である。そのために思い出されたのが 1919 年に彼がアゼルバイジャンで活躍 中にムサヴァト政府の諜報機関に関係していたという噂である。 ベリヤは 1899 年 3 月 17(新暦 29)日にコーカサス山脈南のアブハジア地方スフミの農村で貧 農の子として生まれた。民族的にはスターリンと同じグルジア人であるが、ミングレル人であると もいわれている。彼は 1917 年に中等専門学校に入った。丁度この時期にロシアで革命が勃発し、 ロマノフ王朝が崩壊した。同年 3 月に彼は新しい革命勢力であるボリシェヴィキ党に身を投じた。 それは当時の革命勢力のなかでは少数派であり、そこに加わることは身に危険が生じることであ った。それでも彼はそこに身を託したのである。1918 年にはバクーの党の地下組織の責任者と なっている。 1919 年に学校を終えたあとベリヤはアゼルバイジャン共和国国家防衛委員会付属対反革命 闘争組織の要員となり、1920 年にはグルジアで非合法の党活動に従事し、メンシェヴィキ派の 政府によって逮捕・投獄されている。そのあと最初はバクーのアゼルバイジャン党中央委員会で 働き、1921 年にはアゼルバイジャン非常委員会(チェ・カ)副議長になっている。 チェ・カというのはレーニンが作った反革命とサボタージュと闘い、ソヴェト政権を守るための政 治警察であり、のちの国家保安委員会(カ・ゲ・ベ)である。この機関の要員をチェキストという。現 在のプーチン大統領もこのカ・ゲ・ベの出身であり、チェキストである。日本ではチェ・カとかカ・ ゲ・ベというのは暗い秘密警察という印象が強く、評判が悪いが、ロシアではこれらは秩序の象 徴であり、正義の味方である。かつて 1983 年にモスクワ大学のなかの映画館で内戦時代の映 画を見たが、チェ・カが登場したときに観客から拍手がわいていたことを覚えている。プーチンも 高校生時代にこれにあこがれてカ・ゲ・ベに入った。カ・ゲ・ベは体制の維持・安定の見地からも 民衆の動向に敏感であり、外国の事情、とくに先端技術にも明るいエリート集団である。 1919 年にアゼルバイジャンで活躍中にベリヤはおそらくムサヴァト派の諜報機関と関係があっ たであろう。ベリヤ自身は党から派遣されたと弁解していたようであるが、1920 年にベリヤと初 めて会い、それ以後、親しくしていたミコヤンは、ベリヤは彼に対する非難にはどんなことについ ても口うるさく反論するのに、このことについてそれをしていないのは、党組織から派遣されては いなかったということを意味すると述べている(24)。 革命運動をして逮捕されたものは多かれ少なかれ相手側の諜報機関との接触が生ずる。レー ニンにもスターリンにもスパイ説はあった。問題は実際にどのように相手側と接したかであるが、 ベリヤの場合はそれがまだはっきりしていない。しかし、当時それは大きな問題にならなかった。 にもかかわず、30 年以上も経ってからそれが大問題になったのは、ベリヤが 1919 年以来ずっと 反革命派の諜報機関と関係をもち、外国の諜報機関と秘密のつながりをもっていたということが ベリヤに対して国家反逆罪を適用し、死刑に処するためには必要不可欠な条件であったからで ある。だからどうしてもベリヤをムサヴァト派と結びつけなければならなかったのである。ベリヤ裁 判は結論が先にある政治裁判であった。 ソヴェト体制が崩壊し、ソヴェト同盟が解体した現在から見れば、ベリヤが主張し実行しようとし た党主導を排し政府主導を確立しようとしたのは正しい。党は私的存在であり、政府は公的存在 であるからである。ベリヤは私に対して公を優先させようとしたのであるが、当時のソヴェトの政 治状況のもとでは実現は困難であった。ベリヤには改革者の側面があったが、彼の性格と平素 の行動がその実現を妨げ、失敗をもたらす大きな要因となった。 ベリヤの処刑以後ソヴェトにおいて権力闘争の敗者が殺されることはなくなった。粛清者を粛 清することによって粛清に終止符が打たれた。ベリヤの失脚はソヴェトの政治史のなかで時代を 画する出来事であった。 注 (1) スヴェトラーナ・アリルーエワ『友への 21 の手紙』ハ−パー・ロウ社、ニューヨーク、1967 年、6-8 ページ(ロ シア語);スベトラーナ・アリルーエワ、江川卓訳『スベトラーナ回想録』新潮社、1967 年、17-19 ページ参照。 (2)フルシチョフ『回想録』265-266 ページ(ロシア語) ;『フルシチョフ回想録』318-319 ページ(日本語)参照。 (3) A.N.ヤーコヴレフ編、V.ナウーモフ・Yu.シガチョフ作成『ラヴレンチ−・ベリヤ:1953 年。ソヴェト同盟共産党 中央委員会 7 月総会とその他の資料(以下、ベリヤ:1953 年と略称)』国際フォンド「民主主義」社、モスクワ、 1999 年、17-18,19-21,398 ページ(ロシア語)。 (4) 同上、21-25,398 ページ。 (5) 同上、25-28,398-399 ページ。モロトフの離婚については日本語訳書『知られざるスターリン』478 ページ。 (6) 同上『ベリヤ:1953 年』、29-40,399 ページ。 (7) 同上、43-46,400 ページ。 (8) 同上、62-64 ページ。 (9)同上、64-65,403 ページ。 (10)フルシチョフ『回想録』279-282 ページ(ロシア語); 『フルシチョフ回想録』340-342 ページ(日本語)参照。 (11)アンドレイ・マレンコフ『わが父ゲオルギー・マレンコフ』チェフノエコス、モスクワ、1992 年、66-67 ページ(ロ シア語)。 (12)ウラジーミル・パーヴロヴィチ・ナウーモフ「ベリヤの陰謀はあったのか? 1953 年の出来事についての新 資料」『近現代史』1998 年第 5 号(9-10 月)、27-28 ページ(ロシア語)。 (13)『ベリヤ:1953 年』69-70 ページ;同上、28 ページ参照。 (14)アナスタス・イワノヴィチ・ミコヤン『このようであった:過ぎしことへの思い』ワグリウス社、モスクワ、1999 年、587 ページ(ロシア語)。 (15)前掲『ベリヤ:1953 年』71-72 ページ。 (16)同上、72-78 ページ。 (17)同上、79 ページ。 (18)同上、219-225 ページ。 (19)同上、229-241 ページ。 (20)同上、241-244 ページ。 (21)同上、347-360 ページ。 (22)同上、387-390 ページ。 (23)中西治「党主導利益調整型社会主義社会」中西治『ソ連の社会と外交』116-142 ページ参照。 (24)前掲『ベリヤ:1953 年』306-307 ページ。
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