フルシチョフ時代再考(1) スターリンは病気で死んだのか、殺されたのか

フルシチョフ時代再考(1)
スターリンは病気で死んだのか、殺されたのか
中西 治
はじめに
本論文は 1953 年3月5日のスターリンの死から 1964 年 10 月 14 日にフルシチョフがソヴェト
の最高指導者の地位から解任されるまでの 11 年余の「フルシチョフ時代」を再検討しようとする
ものである。
筆者はかつて 1960 年代から 1970 年代にかけてこの時期のソヴェトの政治・外交・社会の諸問
題について多くの論文を発表した(1)。しかし、1985 年 3 月 11 日のゴルバチョフの登場以後この
時期の重要問題についての資料がロシアでも公刊されるようになり、1991 年 12 月 25 日のソヴ
ェト同盟解体以後はそれがいっそう増えている。2003 年にはこの時期のソヴェトの最高指導機
関であったソヴェト同盟共産党中央委員会幹部会の議事録がモスクワで出版されはじめた。
そこでこの機会に改めてこれらの新しい資料にもとづいてこの時期を考え直してみたい。本論
文ではこの時期全体を通史的に再検討するのではなく、論議の的となってきた幾つかの問題を
取り上げて論ずることにする。
第一はこの時期の出発点となったスターリンの死についてである。スターリンは本当に病気で
死んだのか、それとも殺されたのか。まず、この問題から始めよう。
1. ベリヤがスターリンを片付けたのか
スターリンが 1953 年 3 月 1 日夜から 2 日早朝にかけてモスクワの自宅で脳出血により重態に
陥ったと初めてモスクワ放送が伝えたのは 3 月 4 日早朝のことであった。亡くなったのは翌 5 日
午後 9 時 50 分、それがモスクワ放送で発表されたのは 6 日早朝であった。その後まもなくしてし
てフルシチョフを委員長とする葬儀委員会の構成が発表され、遺体は同日午後 2 時にモスクワ
の労働組合会館円柱の間に安置された。同日夜 9 時 30 分には党中央委員会、閣僚会議、最高
会議幹部会の合同会議の決定が発表され、党と国家の新しい指導体制が発足した。重態に陥っ
てから最初の発表までに 2 日以上経っていたのに死亡後は 1 日で次の体制が発足した。病死は
本当なのか、発表が遅れたのは何か異常なことがあったからではないのか、あとの手回しはあ
まりにも良すぎるのではないか。スターリンの死は最初から疑惑に包まれていた。
実はスターリンの死の前にユダヤ人に対する弾圧が進んでいた。 この年の 1 月 9 日にスター
リンの侍医を含むクレムリンの 9 人の医師が逮捕されていた。彼らはシオニスト組織やアメリカの
秘密機関と組んですでに元党政治局員のジュダーノフや元赤軍政治本部長のシチェルバコフ元
帥を殺害し、さらにワシレフスキー、ゴヴォロフ、コーネフなどを含む多くの軍指導者の殺害を狙
っていたとされた。逮捕された医師のなかにユダヤ人が含まれていたことから戦後冷戦が激化
するなかで進んでいた反ユダヤ主義キャンペーンがいっそう焚き付けられた。すでにモロトフの
妻ポリナ・ジェムチュジナが 1941 年 6 月のドイツとの戦争勃発後に結成され、戦時中にナチス・
ドイツと勇敢に戦ったが、戦後 1948 年に解散させられていたユダヤ人反ファシスト委員会との関
係で逮捕・投獄されていた。そこへスターリンの死である。やはり、スターリンはユダヤ人の医師
たちによって殺されたのではないか。しかも、スターリンの死後 1 か月も経たない 4 月 4 日にこれ
らの医師たちは釈放され、逮捕は不法であり、何の法的根拠もなかったとして全員の名誉が回
復されたのである。これは一体どういうことなのか。
スターリンの死については当初から暗殺説があったが、アメリカのロシア研究者エドワード・クラ
ンクショウは 1966 年に出版したフルシチョフの伝記のなかでも「こうしたあらゆる状況を勘案する
と、多くのロシア人がいまもなおスターリンが殺害されたこと、フルシチョフは別だが、マレンコフと
ベリヤ、それにおそらく他の人びとがそれに関係したということを信じているとしても驚くにあたら
ない。」と述べている(2)。
また、ロシアの歴史家エドワルド・ラジンスキーは 1997 年に上梓した著書『スターリン』のなか
で「四人組(ベリヤ、マレンコフ、フルシチョフ、ブルガーニン)は主人(スターリン)を助けないで意識
的に死に追いやった(カッコ内は中西)。」「彼らは彼を殺した。彼らはおずおずと生きてきたが、そ
れと同じようにおずおずと殺した。そして、ベリヤは 私が彼を片付けた とモロトフに言う権利を
持っていた。モロトフはこの言葉を後に引用している。」と述べている(3)。
このようにスターリンが殺されたという説はいまも消えていない。私自身も真相はよく分からな
い。そこでまずこの問題から検討しよう。
2. 倒れているスターリンを発見したのはマトリョーナ・ペトロヴナか
最初に当事者の一人であるフルシチョフの話を聞こう。彼はその回想録で次のように述べてい
る。
スターリンが病気で倒れたのは 1953 年 2 月だった。マレンコフ、ベリヤ、ブルガーニン、そして
私は、彼とともに土曜日の晩にクレムリンで映画を見たあと、例の近郊の別荘にいた。例によっ
て晩餐は、明け方の 5 時か 6 時ごろまでつづいた。スターリンは食事のあと大量に飲み、すっか
りご機嫌だった。肉体的にどこか悪いところがあるというような兆候は、これっぽちも見せなかっ
た。やがてわれわれが帰る時間になると、彼は玄関まで出てきて、われわれを見送った。彼はし
きりと冗談をいい、ふざけて私の胃袋を自分の指で突き、ウクライナ風のアクセントで私を「ミキ
ータ」と呼んだ。それは彼が機嫌のいいときにいつもやることだ。したがって、まさにその会合が
終わったあと、われわれはみんな幸福な気持ちで帰宅した。晩餐の席では何も気まずいことが
起こらなかったからである。スターリンの家での晩餐は、いつでもそのように愉快な気分で終わる
とはかぎらなかったのである。
翌日曜日は、休みになる予定だったが、私はスターリンがきっと何かの会合でわれわれに召集
をかけるだろうと思っていた。日曜の夜、いつ呼出しがかかってもいいように、私は家での夕食を
おくらせた。が、やがて待つのをやめて、食事をとった。食事が終わっても、電話はかからなかっ
た。休みの日まる一日、スターリンから呼出しがかからずに過ぎていくというのは、私には信じら
れないことだった。だが、まさしく彼は電話をかけてよこさなかったのである。私が服を脱いでベッ
ドにはいったときは、もうかなり遅かった。
だしぬけに電話が鳴った。電話の主はマレンコフで、彼は言った。「聞いてくれ。チェカー(ソヴェ
トの政治警察、当時は国家保安省)の者がたったいまスターリンの別荘から連絡してきたんだ。
彼の身に何か起こったらしい。われわれもあそこへ行ったほうがいい。もうベリヤとブルガーニン
には伝えてある。すぐに家を出たまえ。」
私はすぐに車を呼んだ。自動車は自分の別荘に置いてあったのだ。私は急いで服を着ると、ス
ターリンの家に向かって車を走らせた。着くまでに 15 分かかった。全員が集まると、われわれは
スターリンの部屋へ行く前に当直将校たちのところへ立ち寄った。彼らはなぜ心配しているかを
説明した。「同志スターリンは 11 時にはほとんど欠かさずにだれかを呼んで、お茶か何かをおい
いつけになります。今夜はそうなさいませんでした。」チェカーの者は、マトリョーナ・ペトロヴナを
やって様子を調べさせたといった。マトリョーナ・ペトロヴナは長年スターリンのために働いている
年とった女中だった。彼女はあまり利口だとはいえなかったが、正直で、スターリンによくつくして
いた。様子を見たあと、マトリョーナ・ペトロヴナは戻ってきてチェカーの者に、同志スターリンはい
つもおやすみになる大きな部屋の床の上で眠っていらっしゃる、といった。明らかにスターリンは
ベッドから出て、倒れたのであった。チェカーの者が床から抱きあげて、隣の小さな食堂のソファ
に横たえた。
一部しじゅうを聞いて、スターリンがそのようにみっともない状態でいるところにわれわれが居あ
わせたことを知られるのはかんばしくないと思った。われわれは解散して、全員帰宅した。その晩
遅く、マレンコフからまた電話があった。「あの連中が同志スターリンのところからまた電話してき
たんだ。彼らがいうには、スターリンはまちがいなくどこかおかしいということだ。マトリョーナ・ペト
ロヴナは、また様子を見に行かされて、スターリンはぐっすり眠っているといったが、どうもふつう
の眠り方ではないらしい。われわれも戻ったほうがよさそうだ。」
われわれはマレンコフがビューロー(党中央委員会幹部会ビューロー)の他のメンバーに連絡す
るように手配した。ヴォロシーロフとカガノヴィチは前夜の晩餐に加わらず、マレンコフとベリヤと
ブルガーニンと私が最初に様子を調べに行ったときにもやはり来なかった。われわれは医師たち
を呼ぶ手配もした。そのなかにルコムスキー教授がいたのを覚えている。当直士官詰所に集まっ
てから、われわれはスターリンの眠っているソファの置かれた部屋にはいった。われわれは医師
たちに必要なことは何でもやり、スターリンがどういう状態にあるのかを調べるよう指示した。ルコ
ムスキー教授はおそるおそるスターリンに近づいた。彼が何を考えているかはわかっていた。そ
わそわと身ぶるいしながら、彼はまるでそれが焼けた鉄ででもあるかのように、スターリンの手に
触れた。ベリヤが乱暴にいった。「きみは医者じゃないのか? かまわないから、きちんと彼の手
をつかめ。」
ルコムスキー教授は、スターリンの右腕が動かないといった。ほとんど口もきけなかった。容態
はひどく悪かった。医師たちはスターリンが着ていたものを脱がせて、彼がいつも眠る、もっと風
通しのよい大きな部屋につれ戻し、ソファの上に寝かせた。
医師たちは交代で容態を見守ることにした。われわれのほうでも幹部会ビューローのメンバー
を分けて、不寝番をすることにした(4)。
以上はフルシチョフが語る 1953 年 2 月 28 日から 3 月 1 日にかけての出来事である。
3. 発見したのはスターロスチンか
ロシアの歴史家ヴォルコゴーノフによると、同じ 2 月 28 日から 3 月 1 日にかけての状況は次の
ようになる。
2 月 28 日昼、スターリンは朝鮮戦争の戦況報告と医師団事件の関係者の尋問調書を読んで
いた。夜の会議でスターリンはブルガーニンとベリヤからこれらの問題について報告をうけた。ス
ターリンはブルガーニンの朝鮮戦争についての詳しい報告から戦況が膠着状態にあることを理
解し、モロトフを通じて明日にも、「交渉では最後の最後まで粘り」、最終的には停戦に持ち込む
よう中国と北朝鮮に助言することを決めた。ついでスターリンはベリヤに医師団事件の取り調べ
状況について質問した。
会議の終わるころにはスターリンはいらいらして、モロトフ(会議には参加していなかったが)、マ
レンコフ、ベリヤに当り散らし、フルシチョフまでとばっちりを受けた。ブルガーニンに対してはなに
も言わなかった。みんな、スターリンが席を立ち、それにしたがって自分たちも退席できるときを
待っていた。ところがスターリンは、指導部の中には昔の功績さえあれば生きていけると思ってい
る連中がいるが、それはとんでもない間違いであるというようなことを長々としゃべった。スターリ
ンの言葉には棘があった。
スターリンは突然、話を中断し、全員にそっけない挨拶をすると、奥に引きこもってしまった。み
んな黙って表に出ると、そそくさと帰っていった。まだ表は暗かった。マレンコフはベリヤと同じ車
に乗り込んだ(5)。
フルシチョフは晩餐と言っているが、ヴォルコゴーノフによると会議である。しかし、いずれにし
ろ、同じ会についての記述が随分異なっている。どちらが真実に近いのであろうか。
3 月 1 日の出来事についても随分違う。ヴォルコゴーノフは国家保安省の職員であり、かつてス
ターリンの警護を担当し、当時ボリショイ劇場の警備責任者をしていたルイビンとの話をもとに次
のように書いている。
3 月 1 日の正午、「サービス要員」と呼ばれていたお付きのものたちは何か様子が変だと思い
はじめた。スターリンは姿も現さず、誰も呼ぼうとしない。しかし、呼ばれもしないのに部屋に入る
ことは許されなかった。不安は募っていった。やがて、午後 6 時半になるとスターリンの書斎に明
かりがともった。みんなはほっとし、呼び鈴がなるのを待った。ところが、スターリンは食事もとら
ず、郵便にも書類にも目を通さない。何だかいつもと違う。おかしい。時は過ぎたが、呼び鈴はな
らない。
午後 8 時になり、9 時、10 時を過ぎても、スターリンの居室は森閑と静まりかえったままだった。
不安は頂点に達した。補佐役や警備の者たちの中に、部屋をのぞいてみてはという声が上がり、
不吉な予感がふくらんでいった。当直の職員スターロスチン、トゥーコフ、給仕係のブトゥソヴァ(マ
トリョーナ・ペトロヴナ)の 3 人が、誰が部屋に入るべきかを相談しはじめた。午後 11 時スターロス
チンが、規則を破ったとして、「ご主人」の機嫌を損じたときの口実にと、郵便物をもって部屋に入
っていった。
スターロスチンは途中明かりをともしながら、いくつかの部屋を通りぬけ、小食堂に入って明か
りをつけると、パジャマのズボンと下着姿で床に倒れているスターリンを発見して、跳びすさった。
スターリンはわずかに手をあげてスターロスチンを呼んだが、口をきくことができなかった。その
目には戦慄と恐怖、哀願が浮かんでいた。床には「プラウダ」紙が落ちていて、テーブルには「ボ
ルジョミ」(グルジア産のミネラルウオーター)の瓶が口を開けたまま置かれていた。
食堂の明かりがついていなかったことから判断すると、スターリンが倒れてからだいぶ時間が
たっているようだ。スターロスチンが押した呼び鈴で、びっくり仰天した召使たちが飛んできた。ス
ターリンをソファに寝かせた。スターリンは二、三度何かいおうとしたが、口から漏れるのははっき
りしない音ばかりだった。脳出血のため言語機能が麻痺しているうえに、意識も混濁していた。ひ
ょっとするとこの瞬間スターリンは、長い恐ろしい言語障害に陥ったレーニンの悲劇を思い起こし
ただろうか。
警備担当と補佐官らは国家保安省のイグナーチエフに電話をかけた。イグナーチエフはベリヤ
とマレンコフに電話するように勧めた。しかしベリヤはどこを探してもみつからなかった。マレンコ
フはベリヤ抜きで具体的な措置をとることに二の足を踏んだ、という。
世界でもっとも全能であるはずの人物のひとりが、肝心なときに、官僚的な指令と禁止事項の
柵に遮られて、応急手当てさえも受けることができなかった。「指導者(スターリン)」は自分がつく
った「システム」の人質になったのである。のちに明らかになったことだが、ベリヤの許可なしでは
スターリンのために医者を呼ぶことさえできなかった。数かぎりない指示事項の中にはたしかに
そう書かれている。
ようやく政府専用の一軒家に新しい愛人といた スターリン的なモンスター(ベリヤ) を探しだし、
やがて午前 3 時ベリヤとマレンコフがやってきた。ベリヤは酒の匂いをぷんぷんさせていた。マレ
ンコフはなぜだか新品の靴を脱いで脇にかかえ(ぎしぎし音をたてるのをはばかったのだろう)靴
下のままで、臨終のスターリンが寝ている部屋に入っていった。ソファの上の男はぜーぜーと音
を立てて息をしていた。ベリヤは医師を呼ぼうともせず、たちまち「召使」たちに食ってかかった。
「何を大騒ぎしているんだ!同志スターリンはぐっすり寝ておられるではないか!全員部屋から
でろ。われわれの指導者の眠りを妨げるんじゃない!諸君のことはあとで詳しく調べる!」
マレンコフはベリヤの意見にあまり賛成ではなかった。脳出血が起こったあとスターリンはすで
に 6 時間から 8 時間治療も受けずに寝かされ、また誰も治療しようとしなかったとの印象をうけた
とルイビンは確信をもって語った。すべてはベリヤが書いたシナリオどおりに進んでいたようであ
るとルイビンは結論づけた。警備係と召使に、勝手にどこかに電話しないように釘をさし、部屋か
ら遠ざけると、二人は騒々しく立ち去った。朝の 9 時ころになってようやくベリヤ、マレンコフ、フル
シチョフ、つづいて他の政治局員が医者をともなってやってきた(6)。
4. 真の発見者はロズガチェフか
ラジンスキーはヴォルコゴーノフの説に誤りがあることを指摘し、3 月 1 日深夜に床に倒れてい
たスターリンを最初に発見したのはスターロスチンではなく、別荘警備隊長補佐ロズガチェフであ
ったと主張している。ラジンスキーはかつて革命博物館で見たルイビンが集めた証言集でもロズ
ガチェフが最初の発見者であることは確認されていると述べ、さらにロズガチェフがラジンスキー
に語った話の内容を次のように紹介している。
私(ロズガチェフ)は 2 月 28 日から 3 月 1 日にかけてスターリンの別荘にいた。当直であった。
別荘警備隊長オルロフは休暇から帰ったばかりで休みであった。スターリンのところで当直して
いたのは上級配属員のスターロスチン、彼の補佐官のトゥーコフ、私、マトリョ−ナ・ブトゥソヴァ
であった。あの晩、別荘では客をしなければならなかった。主人が彼のところへくる政治局員をそ
のように呼んでいた。主人のところへ客がくるときにはいつものように私たちは主人といっしょにメ
ニューを考えた。2 月 28 日から 3 月 1 日にかけての夜には私たちのメニュ−はぶどう酒「マジャ
リ」他であった。これは若いぶどう酒であった。主人はアルコール度が低かったのでこれをソーク
(ジュース)と呼んでいた。あの晩、主人は私を呼んで、「われわれにソークを 2 本ずつ出せ」と言
った。あの晩に誰がきたか。いつもの彼の客と言えば、ベリヤ、マレンコフ、フルシチョフ、それに、
あごひげのブルガーニンであった。少し時間がたってから呼ばれた。「もっとソークを持って来
い。」持っていき、ついでまわった。万事穏やかであった。何の小言もなかった。朝の 4 時になっ
た。4 時台に客に自動車を手配した。主人が客を見送ったとき配属員も見送り、彼らが帰ったあと
扉を閉めた。配属員のイワン・ワシリエヴィチ・フルスタリョフは扉を閉め、主人を見た。主人は彼
に「あなた方、休みませんか。私はもう何も必要ない。私も休む。今日はもう用がない。」フルスタ
リョフはやってきて、うれしそうに言った。「おい、みんな、こんな命令はいまだかつてなかった
ぞ。」そして、主人の言葉を私たちに伝えた。ここでロズガチェフが付け加えた。実際、私が働い
ていたあいだで、主人が「休みなさい」と言ったのはこのときのただ一回だけです。普通は「休み
たいか」と尋ね、足の先から頭の天辺まで穴があくほど見つめた。なんと夢のようだ。私たちはも
ちろんこのような指示をうけて大満足で、遠慮なく休んだ。
フルスタリョフは午前 10 時に勤務を離れ、ミハイル・ガヴリロヴィチ・スターロスチンがその任に
ついた。午後 10 時をすぎてさて誰がスターリンの部屋に入るのかが問題になり始めたとき、ロズ
ガチェフはスターロスチンに言った。「君が行きたまえ。君が警備隊長だ。君が心配しはじめなけ
ればならないのだ。」スターロスチンは答えた。「私は恐い。」ロズガチェフは言った。「君は恐い。
それじゃ、なんかね、スターリンのところへ行く私は英雄かね」丁度そのとき郵便物が届いた。中
央委員会からの包みである。郵便物をスターリンのところへ持っていくのは普通私たちだ。より正
確に言うと、私である。郵便物は私の仕事である。「私が行こう。」ロズガチェフがスターリンのとこ
ろへ行った。(7)
5. マレンコフがスターリンの後継者に
フルシチョフとヴォルコゴーノフとラジンスキーのスターリンの死の当日の描写は犯人探しの推
理小説を読んでいるようなものである。さて真犯人は誰か。ロシアの生化学者で歴史家のジョレ
ス・メドヴェジェフはスターロスチンとロズガチェフのこのようなやりとりはおそらく事実ではあろう
が、自然ではなく、信じがたいと述べている。彼によると、人というのは不安な理由がたとえ少し
でもあると上司に報告し、必要な措置をとるものであって、何時間でも待つという。スターリンのい
るところへの扉を開けるというのは恐ろしいことであり、そこには武装した伏兵が待っているかも
知れないのである。
ジョレス・メドヴェジェフはスターリンが殺害されたとの説には与せず、スターリンの過去の健康
状態や活動状況からスターリンは病気で死んだとの説をとっている。また、スターリンの伝記作
家や身内の人々の多くがもし 3 月 1 日の昼間、脳出血のすぐあとに医師がきていたらスターリン
を助けることができただろうにと言っているが、これはおそらく根拠はないだろうと述べている。ス
ターリンの脳出血は大変広がっていたので、現在でもこの種の脳出血は死亡で終わっており、危
険を伴う外科的手術は若い人にだけ行なわれていると主張している。また、医師の派遣が遅れ
た責任は現在では「スターリンはぐっすり眠っている」という発言の故にもっぱらベリヤに帰されて
いるが、その責任は第一にはスターリンの警護にあったていたスターロスチンとロズガチェフ、そ
れ以上に彼らの上司であるイグナーチエフにあると考えている。
ジョレス・メドヴェジェフの説で注目されるのはスターリンが病気で倒れた直後からマレンコフ=
ベリヤ組とフルシチョフ=ブルガーニン組との間ではげしい権力闘争が展開され、これがスターリ
ン死後のソヴェトでただ一人の指導者の出現を阻止したと主張している点である。
彼によると、両者の権力闘争の状況は次のようである。
フルシチョフとブルガーニンは3月 1 日の真夜中にマレンコフの電話でスターリンの別荘に行っ
ているが、スターリンの寝ているところには行かず、別荘の入り口の側にある当直員の詰め所で
警備員の話を聞き、1 時間から 1 時間半そこにいている。彼らはスターリンのところには寄らない
で帰宅しているが、当直員の詰め所にいたときに最初の陰謀を企んでいる。
当時は党幹部会員の自宅の電話や自宅自体が盗聴されていたので彼らは盗聴されていない
場所と政府専用の電話が必要であった。この電話が置かれている当直員の詰め所からフルシチ
ョフとブルガーニンは国家保安相のイグナーチエフへ電話をした。そして、おそらく、急遽、別荘に
やってきたイグナーチエフもまじえて会談が行なわれ、現在までまだ明らかになっていない重要
な決定がなされた。
ブルガーニンの命令にもとづいて「治安維持のために」モスクワ守備隊の幾つかの精鋭部隊が
3 月 2 日にモスクワに入っている。
フルシチョフはニ度目に別荘へ行く前にクレムリンに立ち寄り、別荘から帰ってきたマレンコフお
よびベリヤとスターリンのもとへ医師を派遣する問題を話し合っている。
フルシチョフとブルガーニンは 2 日夜にもイグナーチエフおよびスースロフと話し合っている。こ
のときにイグナーチエフに党書記局での新しい地位(書記)が保証され、スースロフがイデオロギ
ー部門を担当しつづけることがきまった。このグループのだれ一人として当時、国の最高位と見
られていた首相の座を狙っているものはいなかった。マレンコフは「第二位」と見られていたが、
それは党の指導部のなかでのことであった。閣僚会議第一副議長はブルガーニンとベリヤであ
った。みなが恐れたのはベリヤである。ベリヤはまちがいなく優れた組織者としての能力をもって
いたし、それが無限の権力欲と結びつくと新しい独裁者が生まれる危険性があった。
もしベリヤが首相となれば、イグナーチエフとスースロフはその身が危なかった。マレンコフを首
相に推すというのは避けがたい妥協であった。ベリヤはマレンコフを「統御していた」のでこれに
賛成するはずであった。
2 日朝までに党の新しい指導体制はできていた。会議はクレムリンのスターリンの執務室でお
こなわれた。最初に部屋に入ったのはべリヤ。10 時 40 分であった。会議の参加者は「幹部会ビ
ューロー」の全員とこのビューローに入っていなかった旧政治局員のモロトフ、ミコヤン、シュヴェ
ルニクであった。シュキリャトフ中央統制委員会議長が招かれていた。
第 19 回党大会ではこれまでの中央委員会政治局が廃止され、新たに 25 人の正会員と 11 人
の会員候補から成る大きな中央委員会幹部会が組織された。この幹部会があまりに大きすぎる
ということで「機動的な指導のために」9 人から成る小さな「幹部会ビーロー」が組織された。しか
し、このビューローは党規約にはない非公式なもので、その会議は 1952 年 10 月 31 日と 11 月
22 日の 2 回しか開かれていなかった。この拡大された幹部会制度は個々の会員の権限を実質
的に低めるもであり、多くの旧政治局員は反対していた。スターリンが倒れたことにともなってこ
の制度が廃止され、実質的に第 19 回大会で潰された旧政治局が復活した。
2 日朝の会議の参加者はいつものように、テーブルのまわりに座ったが、スターリンの椅子は
空席であった。会議の公式の議長は居なかった。議題はただ一つ。この会議とその組織を認め
ることであった。わずか 20 分で終わった。スターリンが倒れたあとの新しい党指導部は特別な手
続きで発足した。本来ならば正規の幹部会または中央委員会総会が開かれるべきであった。
2 日夜にこの指導部の二回目の会議が開らかれた。今回は 20 時 25 分から 21 時 25 分まで
ちょうど 1 時間であった。最初に議場に入ったのはやはりベリヤであった。彼が司会役を務めた。
会議にはトレチヤコフ保健相が招かれ、スターリンの病状を報告した。きわめて悲観的であった
が、治療がどのくらい続くのかを予測することはできなかった。 会議では第 19 回党大会で作ら
れた拡大された中央委員会幹部会を廃止すること、政府を再組織すること、中央委員会総会を
1953 年 3 月 5 日に召集することが決まった。総会のメンバーはおよそ 300 人いたので、1-2 日
では召集できないので 5 日になった。具体的なポストの割り振りはまだ行なわれなかった。スター
リンの治療は始まったばかりであった。権力交代について論議は予備的なものであった(8)。
3 月 5 日午後 8 時から当初予定されていた党中央委員会総会ではなく、同委員会と閣僚会議
および最高会議幹部会の合同会議が開かれた。中央委員会総会の召集を決めて、各中央委員
に通達していたのであるから当然、それを開くベきであった。しかし、開会時に定足数に達してい
なかったのか、それとも中央委員会総会を開くと、第 19 回大会でスターリンが提唱した拡大した
幹部会を廃止する問題を正式に取り上げて、議論しなければならなかったからかもしれない。い
ずれにしても、異例の合同会議が開かれた。
合同会議はクレムリンのスヴェルドロフスクの間で開かれた。招かれた 236 人のうち 14 人が欠
席した。この欠席者のなかには当時ニューヨークにいた外務第一次官兼国連ソ連常駐代表ヴィ
シンスキーの他にグロムイコ駐英大使、ザルービン駐米大使、パニューシキン駐中国大使、ブカ
レストで発行されていたコミンフォルムの機関紙『恒久平和のために、人民民主主義のために』
の編集者ミーチン、ドイツ駐留ソヴェト占領軍最高司令官チュイコフやこのとき別荘の警備にあた
っていたブルガーニンなどがいた。
フルシチョフが議長を務め、会議は 40 分続いた。最初にトレチヤコフ保健相がスターリンの容
態が悪くなり続けていると報告した。つづいてマレンコフが「指導部の団結」の必要を強調するこ
れまた短い演説をした。フルシチョフが閣僚会議議長候補についての発言をベリヤに許した。ベ
リヤは幹部会ビューローの名でこのポストにマレンコフを提案した。会場から「正しい。賛成」との
声があがった。これで決まりであった。とくに採決はおこなわれなかった。
マレンコフが一連の提案をした。第一は指導をよりいっそう機動的にするために幹部会を 11 人
に縮小することであった。スターリンがまだ生きていたので彼も新しい幹部会に入れられた。スタ
ーリン、マレンコフ、ベリヤ、モロトフ、ヴォロシーロフ、フルシチョフ、ブルガーニン、カガノーヴィチ、
ミコヤン、サブ−ロフ、ペルヴーヒンであった。閣僚会議第一副議長にベリヤ、モロトフ、ブルガー
ニン、カガノーヴィチの 4 人が任命され、閣僚会議の議長と第一副議長によって閣僚会議幹部会
が組織された。ヴォロシーロフがシュヴェルニクに代わって最高会議幹部会議長になった。
国家保安省と内務省が一つの省に統合され、新たにできた内務省の大臣にベリヤがなった。
ベリヤの国家保安機関と内務省の軍事的・半軍事的機構に対する指導への復帰はフルシチョフ
とブルガーニンにとっては敗北であった。しかし、これを彼らは阻止することはできなかった。その
かわりとして国防省が強化され、ブルガーニンが国防相に任命された。第一次官にはワシレフス
キーとジューコフがなった。
フルシチョフは党中央委員会書記の地位を維持したが、党モスクワ委員会第一書記の地位を
失った。フルシチョフはスターリンが倒れたあとの人事の仕掛人であったが、彼自身の処遇は決
して「昇進」ではなかった。
権力の中心は党から政府に移った。しかも、党中央委員会幹部会でもマレンコフは 1953 年末
までは党中央委員会書記の地位を維持していたので議長を務めた。マレンコフが政府でも党で
も第一人者であり、国の新しい指導者であり、スターリンの政治的後継者となった。
8 時 40 分にフルシチョフは合同会議の閉会を宣した。あらたに幹部会員となった人々はスター
リンの眠る別荘へと向かった。彼らが到着後 30 分ほど経った午後 9 時 50 分にスターリンは息を
引き取った。彼らは亡き指導者のそばで黙とうしたあとただちにクレムリンにひきかえした。新し
い時代が始まった。
ジョレス・メドヴェジェフは次のように結論づけている。スターリンが倒れた後の権力闘争は
1953-1957 年の複雑な党内闘争の始まりとなった。この不安定な時期がその後のベリヤとその
グループの逮捕、フルシチョフの第 20 回党大会でのスターリンに対する個人崇拝批判演説、モ
ロトフ、マレンコフ、ヴォロシーロフ、カガノーヴィチ、ブルガーニンの反党グループ事件、ジューコ
フ元帥の解任などの党内危機をもたらし、結局、それらはソヴェト共産党の権威をぶちこわし、そ
の歴史的解体へと至ったのであったと(8)。
これらの諸事件についてはいずれ本論文で個別に取り上げていくが、先を急がず、ここではス
ターリンの死についての差しあたってのまとめをしたい。
6. スターリンは毒殺されたのか
スターリンは 1945 年 7 月のポツダム会議のときも心臓発作で到着が遅れ、会議の開始が 1 日
遅れたほどである(9)。この病気は当時秘せられていたが、彼の病歴から見て、スターリンの死は
直接には心臓発作によるものと考えて良いであろう。脳出血で倒れ、そのまま床の上で寝ていて
長時間発見されなかったのは彼がつくった制度と彼の日頃の生活振りの結果であって彼自身の
罪であり、運が悪かったというべきであろう。
発見後すぐに医師の手配をしなかったのはまわりの人々が本当にスターリンがぐっすりと眠っ
ていると考えるような状態にあった故であろうが、それを見抜けなくて医師を呼ぶのを怠った罪は
直接警護にあった者とその上司であるイグナ−チエフにある。ベリヤが到着したのは随分あとの
ことであって、それまでに医師を呼んでおけば良かったのである。早く医師がきていれば助かっ
たかもわからないが、そのことについては専門家でないのでなんとも言えない。しかし、少なくとも
そのことに対してベリヤに直接の責任はない。
にもかかわらず、殺害説が消えないのは当時の状況による。チェチェン人でソヴェト時代に「人
民の敵」として逮捕・投獄され、釈放後、1943 年に亡命した歴史家のアフトルハノフは 1953 年 2
月 28 日から 3 月 1 日にかけてのスターリンの別荘での夕食のときにベリヤ、マレンコフ、フルシ
チョフ、ブルガ−ニンの「四人組」がクーデターを起こし、ゆっくりと効く毒物でスターリンを毒殺し
たと推測している。その根拠としてクレムリンの医師たちの逮捕後に党機関紙『プラウダ』をはじ
めとするマスコミで激しく展開されていた「殺人者」「スパイ」「破壊分子」「人民の敵」「ブルジョア
民族主義者」などと非難するキャンペーンが翌 2 日からぴたりと止んだことを挙げている。これに
対してジョレス・メドヴェジェフはこの政治路線の転換は「四人組」の陰謀の可能性についての単
なる間接的な示唆にしか過ぎず、むしろ、スターリン自身が路線を転換したと考える方が指導者
が殺されたという説よりは確率は高いと主張している(10)。
医師団事件とスターリンの死についてはまだはっきりとしないことが多い。私も最終的な結論を
出しかねている。次回はこの医師団事件を中心として当時のソヴェトの内外情勢を検討し、つい
で 1953 年 7 月のベリヤ追放事件の真相を探ってみたい。
注
(1)代表的のものとしては、中西治「ソ連における新路線・スターリン批判の形成過程」中西治『ソ連の社会と外
交』南窓社、1986 年、34-64 ページ;中西治「フルシチョフ時代の政治指導」中西治『増補ソ連政治の構造と動
態』南窓社、1977 年、103-132 ページ。
(2) Edward Crankshaw, Khrushchev, Collins, London, 1966, pp. 186-188;E.クランクショー、高橋正訳『フ
ルシチョフ』弘文堂新社、1967 年、185-187 ページ。
(3)Edvard Radzinsky(Translated by H.T.Willets), Stalin, Anchor Books/ Doubleday, New York, 1996,pp.
574-575;エドワルド・ラジンスキー『スターリン』ワグリウス社、モスクワ、1997 年、618 ページ(ロシア語):
Molotov Remembers : Inside Kremlin Politics, Conversations with Felix Chuev/Edited with an
Introduction and Notes by Albert Resis,Ivan R.Dee, Inc., Chicago, 1993, p.237. ベリヤがモロトフに語っ
たという言葉については、ラジンスキーのロシア語版では"Ia ego ubral(ヤ・イエボ・ウブラール) 、英語版で
は I took him out ,モロトフの英語版では I did him in! となっている。
(4) Strobe Talbott(ed.),Khrushchev Remembers,Little,Brown and Company,New York,1970;ストローブ・タ
ルボット編、タイムライフブックス編集部訳『フルシチョフ回想録』タイムライフブックス、1972 年、316-318 ペー
ジ 。 同 書 の 続 編 は 、 Strobe Talbott(Trans. and Ed.),Khrushchev Remembers: The Last
Testament,Little,Brown and Company,New York,1974;ニキータ・フルシチョフ、佐藤亮一訳『フルシチョフ最
後の遺言』上下、河出書房新社、1975 年、である。ロシア語版はロシアの『歴史の諸問題』誌 1990 年 2 月号
から 1995 年 5-6 月号まで随時連載され、1997 年に一書にまとめてモスクワで出版された(ニキータ・セルゲエ
ヴィチ・フルシチョフ『回想録:断章選集(以下、回想録と略称)』ワグリウス社、モスクワ、1997 年、262-264 ペ
ージ)。フルシチョフの息子セルゲイは 1990 年に『歴史の諸問題』誌にロシア語で父の回想録を発表するにあ
たって上記英訳書の信憑性を確認しているが、英訳書では原文が大幅に縮小されていることを指摘している。
(5) ドミートリ−・ヴォルコゴーノフ『勝利と悲劇:イ・ヴェ・スターリンの政治的肖像』第 2 卷第 2 部,ノーボスチ通
信社、モスクワ、1989 年、191-193 ページ(ロシア語);ドミートリ−・ヴォルコゴーノフ、生田真司訳『勝利と悲
劇:スターリンの政治的肖像』下、朝日新聞社、1992 年、737-740 ページ。
(6) 同上(ロシア語),193-194 ページ;同上訳書、740-742 ページ。訳文は一部補正。
(7) ラジンスキー、前掲書、611-615 ページ(ロシア語)。
(8) ジョレス・メドヴェジェフ「スターリンの死の秘密」ジョレス・メドヴェジェフ/ロイ・メドヴェジェフ『知られていな
いスターリン』人権社、モスクワ、2001 年、12-49 ページ(ロシア語);ジョレス・メドヴェージェフ/ロイ・メドヴェー
ジェフ、久保英雄訳『知られざるスターリン』現代思潮新社、2003 年、17-54 ページ参照。
(9) 中西治『現代人間国際関係史』南窓社、2003 年、340 ページ。
(10) ジョレス・メドヴェジェフ「スターリンと 医師団事件 。新資料」『歴史の諸問題』2003 年 2 月号、113 ページ
(ロシア語)。2001 年に出版された前掲『知られていないスターリン』36 ページ(ロシア語);同訳書『知られざるス
ターリン』42 ページ、では、この命令を下しうるのはイグナーチエフである、としていたが、同訳書に掲載されて
いる追加の論文では、スースロフ(505 ページ)とスターリン(509-510 ページ)の名もあげている。