アイヌは北方民族でしょうか

「アイヌは北方民族でしょうか」齋藤玲子
アイヌは北方民族でしょうか
8 月 31 日(木)19:00〜20:30 東京会場
9 月 5 日(火)18:30〜20:00 札幌会場
講師
齋藤 玲子
北海道立北方民族博物館主任学芸員
物館の展示品を中心にしながら、他の北方地域の先住民の
例と比べながら、類似点や異なる点をみていきます。
ただいま御紹介いただきました、北方民族博物館の齋藤
です。よろしくお願いします。
きょうのセミナーで、
「アイヌは北方民族でしょうか」
と
いうタイトルをつけたのは、実はこの講師のお話をいただ
いた6月ころ、道立アイヌ民族文化研究センターの方から
電話で「アイヌは北方民族なのかという質問を受けること
がある」
「センターの中でもいろいろ討論した」
「北方民族
博物館ではどのように北方民族というのを定義しているの
か」と聞かれました。
同じ6月ころに別の会合で、アイヌを北方民族に含める
ということに対して、否定的な意見があるという話も聞き
ました。北方民族というのがマイナスイメージを持ってい
ると聞き、北方民族博物館に勤める者として、もう一度考
えてみたいと思った時期でしたので、このようなタイトル
をつけました。
このセミナーの今までの報告書を見直したところ、近隣
の他の先住民族をテーマにしたものはあまりなかったよう
です。それで、私に何が話せるか考えてみました。また、
当館は網走にありますので、札幌でも博物館の宣伝をした
いと思って参りました。道立の博物館で開館してから 15
年経っているのですが、まだ知らない人も多いので、どん
な博物館なのか紹介したいと思っています。
北方民族の定義について、当館ではこの民族が北方民族
だと当てはめたり、北緯何度以上に住んでいる人たちを北
方民族とする、などと線引きをしているわけではありませ
ん。
「北方民族」
、また「北方文化」ということば自体は、
学問の上でも何度も使われてきたとは思うのですが、学界
で認められているというような定義というのはない、と私
は理解をしています。
例えばロシアとか、国内に複数の民族を抱えているよう
な国で、法律あるいは政治的な区分で「北方民族」を取り
決めているところはありますが、文化的な定義、あるいは
環境等で定義をしているという訳ではないと理解していま
す。
当館では、北方の寒冷な自然環境に適応した文化を持つ
先住民を紹介しています。これから話しますように、アイ
ヌ文化の中にもさまざまな要素があって、北方的なものも
あれば、南の方の文化と共通するものもあるわけですが、
アイヌは、
寒く雪が多い北海道で生活をしてきましたから、
もっと北の地域の民族の文化と共通する点がたくさんあり
ます。そういったことを今日はご紹介したいと思います。
話の流れですが、まず環境の話をして、言語や先史など
について簡単に概要を話したあと、時間をかけたいと思っ
ているのは文化、つまり生業や衣・食・住などについて博
北方地域の環境と民族の概略
これは北極を中心にした世界地図です。こういう視点で
の地図自体、あまりないかと思います。日本がまんなかに
あったり、太平洋がまんなかにあったりという地図が多い
ですね。氷河となっている部分、ここは人がほとんど住ん
でいません。少し南に行くと、ツンドラと言われる、背丈
の低い木、潅木ですとか草、コケなどが生えるだけの植生
の地域です。そして、そのツンドラの南には、シベリアで
はタイガと呼ばれる針葉樹林帯、また、カナダ、アラスカ
あたりにも針葉樹を主とする森林があり、その南の北海道
では大きく分けると東側に落葉広葉樹と針葉樹の混淆林、
そして西の方に落葉広葉樹林となっています。だいたい植
生でいえばこのあたりまで、主にツンドラと針葉樹林帯の
地域が、北方地域と想定している環境です。
ちなみに、
1万 4000 年から2万年前ぐらい前の北方の地
図も出していますが、氷河期の終わりごろ、シベリアとア
ラスカは陸つながりでした。ですから、アジア側に住んで
いた人たちのアメリカ大陸への移動は、この陸続きだった
シベリアの端からアラスカへ渡っていったと考えられてい
ます。
人類学的な話は、昨年のこちらの講演会やセミナーなど
でお聞きになった方も多いと思います。人類は 400 万年か
ら 500 万年前に熱帯のアフリカで誕生して、暖かいところ
に住むには比較的簡単な技術で過ごせたわけですが、より
北の寒いところでは、さまざまな技術や物を開発しなけれ
ば住めませんでした。新人、ホモサピエンスは、おそらく
十数万年前にもう一度アフリカを出て世界じゅうに広がっ
たとされていますが、北の方に人が住み着いたのは数万年
前で、アメリカ大陸に人が渡ったのは1万数千年前と考え
られています。長い人類の歴史の中で、北方に人が住むよ
うになるのがいかに難しかったかを示す数字だと思います。
もっとも北に住むことができる文化を持った人たちが、
今度、南へ下るのは比較的簡単で、数千年の間に南米の南
端まで移動していくわけです。それと、いわゆるモンゴロ
イド、アジアの系統の人たちは、北回りで新大陸に渡って
いたわけですから、イヌイト(エスキモー)と呼ばれる人
たちや、ネイティブアメリカン(インディアン)と呼ばれ
てきた人たちも、
私たちと似た顔立ち、
形質を持っており、
人類史の中ではごく最近分かれたということからもわかる
と思います。
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「アイヌは北方民族でしょうか」齋藤玲子
次に言語について、特にアイヌ語を含むアジアの方の言
葉を簡単にご説明します。
古アジア、あるいはパレオアジア諸語というなかに、ア
イヌ語、ニブフ語(アムール川下流域とサハリン北部に住
む民族、ギリヤークと呼ばれていたが、今は自称であるニ
ブフを使うことが多い)
、
少し離れてユカギル語というのが
北の方にあります。そして、チュクチ・カムチャツカ語族
としてチュコト半島からカムチャツカの方に住むチュクチ
やコリヤーク、そして、カムチャツカ半島の南の方にいる
イテリメンという人たち。そして、エスキモー・アリュー
ト語族、アリューシャン列島からアラスカ、カナダ、そし
てグリーンランドに住む人びとの言葉があります。古アジ
ア諸語は、系統が不明とされる言語です。少し離れたとこ
ろで西シベリアにケット語というのがありますが、だいた
いは東アジアの北東の方にあります。
西の方にはウラル語族とあり、お手元の資料にはさらに
ウゴル、サモエードと書いてあります。北欧のサミという
先住民について御存じの方がいらっしゃるかもしれません
が、このフィン・ウゴル語群に属します。フィンランドか
ら西シベリアにかけての地域にウラル語族というグループ
の人たちが住んでいるわけです。
そして、アジアの東側に広がっているのがアルタイ諸語
で、チュルク諸語、モンゴル諸語、ツングース諸語の大き
く3つに分かれています。サハ共和国、かつてヤクート共
和国と呼ばれていた、そのサハの人たちがチュルク語系の
言葉を話します。ツングース語を話す人びとはアムール川
の流域にたくさんいて、ナーナイとか、ウリチ、ウデヘ、
といった民族グループがあります。エベンキやエベンとい
う人たちはかなり広い範囲、もっと北の方やマガダン州か
らカムチャツカのあたりまで居住しています。
このツングースの人たちというのは、トナカイを飼って
いる民族が多く、この北東アジアにずっと昔から住んでい
たのではなくて、中央アジアあたりから比較的新しい時代
にきた人ではないかとの説があります。それから、サハの
人たちも、馬とか牛などの牧畜を生業としていますが、こ
ういったアルタイ諸語の人たちというのは、少し南の中央
アジアあたりから、古いアジアの系統の言葉を持つ人たち
の間に入り込むように広がっていったのではないかと考え
る研究があります。
サハリンの東側の方、それからカムチャツカ半島、アリ
ューシャン、そしてアラスカ、カナダ、グリーンランドの
海岸部、ここが海獣狩猟、アザラシですとか、あるいはク
ジラなど、海の獣を獲ることを主な生業としているグルー
プです。
そして、狩猟ですが、主に北米の内陸部に陸獣の狩猟を
主たる生業としている人たちがいます。
それから漁労、ここには北海道のアイヌ、サハリン南部
のアイヌも含まれ、アムール川の中流域から下流域まで、
またユーコンとかカスコキウムといったアラスカの大河流
域の先住民も含まれます。アラスカの南の方からカナダあ
たりにかけての太平洋岸もそうです。西シベリアのオビ川
流域も含まれます。内陸の幾つかの大きな湖の周りや、北
欧の北部の海岸にも、主に漁労を生業とする人たちが住ん
でいます。
そして、西シベリアとカムチャツカ北部からチュコト半
島あたりに、トナカイ遊牧というのがあります。この地域
では、トナカイを非常に大規模な群れで飼育している人た
ちが住んでいます。トナカイというのは、北方地域に広く
生息する動物で、そこに住む人びとにとって非常に重要な
動物です。
ある程度の規模で飼育をするようになったのは、
古くは9世紀ころ、本当に大規模になったのは 17、8 世紀
ぐらいと考えられている、比較的新しい生業です。内陸の
方でもトナカイを飼っていますが、荷物を運ばせたり、自
分たちが乗ったりするぐらい、数頭から十何頭といった小
規模なトナカイ飼育です。こういった地域では、狩猟が組
み合わされています。北米にもトナカイは生息していて、
カリブーと呼ばれていますが、飼育はされていません。
そして、ウシ・ウマ・ヒツジ・牧畜の区分に挙げられて
いるのが、サハ、ヤクートと言われた人たちと、少し南の
モンゴルの方にいます。
これが主な北方の生業なのですが、サハリンやアムール
川の流域、それからカムチャツカ、そして北米の北西海岸
と呼ばれる地域では、サケ・マスがたくさん獲れます。北
方民族博物館では広く北方地域を対象としていますが、ア
イヌ文化とも非常に類似する文化、共通する文化があると
いうことで、特に北太平洋沿岸から北海道、サハリン、ア
ムール川流域に重点をおいて調査・研究や資料収集、展示
を行ってきています。
北方民族博物館でどういった民族を対象としているかを
もう少し詳しく見ていきます。50 ほどの民族名を上げてい
ますが、これは民族誌が残されている、文化についての情
報がある民族を挙げたもので、さらにもっと細かい分類も
あります。特にアメリカの平原から東部はもっとたくさん
の民族グループに分けることができます。ある研究者がつ
くった北方地域の先住民の分布図では、70 もの民族名が挙
げられたものもあります。
色と模様で分けているのは生業です。どうやって生活に
必要なものを得てきたかというのを、
主に海獣狩猟・
(陸獣)
狩猟・漁撈・トナカイ遊牧と、狩猟・トナカイ飼育の組み
合わせ、およびウシ・ウマ・ヒツジ牧畜に分けています。
オホーツク文化
北海道の歴史については、簡単に説明するだけにしたい
と思いますが、北方民族博物館では「オホーツク文化」を
一つのコーナーとして取り上げて展示をしています。
北海道では、縄文の後に続縄文、そして擦文という文化
期がありました。それとほぼ並行するような時代で、やや
始まりが早く、
近年の研究ではだいたい5世紀から 10 世紀
ぐらいまで北海道のオホーツク海沿岸にかけ栄えたオホー
ツク文化について、当館では研究をしています。
北海道開拓記念館の右代啓視さんがまとめた図を示して
いますが、オホーツク文化のプレ期はおおよそ2〜3世紀
ぐらいにアムール川の下流域からサハリンあたりに広がっ
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「アイヌは北方民族でしょうか」齋藤玲子
ていました。もう少し下って、5世紀から8世紀ぐらいの
オホーツク文化前期と言われる時代に宗谷あたりからオホ
ーツク海側をずっと南下してきて、後期には北海道のオホ
ーツク海側一帯と千島列島にまでオホーツク文化の遺跡が
あらわれます。9世紀の末ごろから12世紀ぐらいになる
と、オホーツク文化は北海道から徐々にその痕跡をなくし
ていき、サハリンと、北海道東部にトビニタイ文化が残っ
たということで、
およそ 10 世紀から擦文文化と融合するよ
うな形でなくなっていったと考えられています。
主要な遺跡は、サハリンそして北海道の北部やオホーツ
ク海沿岸にあります。網走にはモヨロ貝塚という遺跡があ
り、国の指定の史跡になっているのですが、オホーツク文
化の発見の地と言えます。網走の郷土博物館をつくられた
米村喜男衛さんという方が大正〜昭和の初期に見つけ、オ
ホーツク文化というのが今まで知られていない文化だとい
うことがわかったのです。
オホーツク文化の土器は、首のところが少しすぼんで、
胴部は比較的安定した形です。そして、細いひも状の粘土
で、口縁部から肩あたりまで模様がついています。この細
い粘土ひもはソーメン文などと呼ばれています。全体は比
較的厚手で黒っぽい色をしています。
一方、擦文文化の土器はいろいろな形があるのですが、
典型的なものは、オホーツク土器に比べほっそりとしてい
て、色は赤みを帯びていて薄手、焼き物としてはこちらの
方が上質な感じです。字のとおり擦ったような跡や、線刻
文様が多いです。
トビニタイというのは羅臼の遺跡の名前ですが、トビニ
タイ土器の形は擦文土器に似ているのですが、細い粘土ひ
も文様がついています。擦文文化とオホーツク文化が融合
したもので、10〜12 世紀ぐらいに見られるものです。
この後、土器は使用されなくなり、そして、竪穴式の住
居を使わなくなり、12〜13 世紀以降、アイヌ文化期になり
ます。
オホーツク文化の人たちはどういう生活をしていたかと
いうと、非常にたくさんの銛先や釣り針などが出土してい
て、大型の魚や海獣類をとっていたと考えられます。貝塚
などから出土する動物の骨などからどんなものを食べてい
たかが調査されていますが、オホーツクの海の幸に依存し
て暮らしてきた人たちだということがわかっています。
そして、オホーツク文化の特徴の一つとして、クマを送
ったような跡が見つかっていることが挙げられます。住居
の一角に骨塚、
クマの頭をいくつも祀った痕跡があります。
これは、
モヨロ貝塚の発掘写真です。
遺跡からは動物の牙、
それから土製、骨製など、素材は違うものの、クマをかた
どった彫刻品がたくさん出ています。オホーツク文化の人
たちは、クマを崇拝していたと考えてよいでしょう。
一方でアイヌ文化の母体とされる擦文文化の遺跡からは、
ほとんどクマを祀ったような跡というのは発見されていま
せん。それで、アイヌ文化の熊送りの起源と、オホーツク
文化との関連を指摘する研究者もいます。
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北方民族の生業
オホーツク文化、
北海道の先史についてはここで終わり、
次に北方地域の生業の話をしたいと思います。先ほど言い
ましたように、アイヌ文化では漁労が重要なものでした。
サケ・マスを中心とした漁労に加え、陸獣の狩猟、また海
獣、クジラなども獲っていました。そして、植物採集も相
当な割合で行われていたと考えられています。
写真は博物館にある鉤銛、マレクと言われるサケをとる
ときに使うものです。この鉤銛は、実はアイヌだけの特有
なものではなくて、コリヤークと呼ばれるマガダン州から
カムチャツカの北部などにいる人たちにも同じようなもの
があります。大きさや形は少し違うのですが、同じような
使い方をします。そのほかには、近いところではサハリン
のニブフなども柄の先につけた鉤でサケを突いて獲る方法
がありました。
もちろんこのほかにも、簗、あるいは篭のようなものや
網でとるなど、たくさんの方法はあったのですが、アイヌ
に特徴的なものと考えられがちなマレクという鉤銛、これ
は近隣のほかの民族にもあるということを紹介したいと思
いました。
もう一つよく取り上げられるのが叩き棒で、サケをとら
えた後、頭をたたいてしとめる道具です。写真は、北西海
岸インディアンと呼ばれる東南アラスカからカナダあたり
の北太平洋沿岸の民族のものですが、アイヌにもイサパキ
クニのようにサケの頭をたたく専用の棒があります。北西
海岸とアイヌだけにあるわけではなく、本州の東北地方に
も、例えば「なづち棒」などと呼ばれる、サケをしとめる
ための特別の棒があります。儀礼的な意味が非常に強いと
考えられます。これについては、東京大学の菅豊さんが、
『動物考古学』や当方のシンポジウムでも、サケ儀礼とか
かわる共通する要素として報告しています。
【 叩き棒とオヒョウ用釣り針 】
叩き棒の隣は、手を広げたぐらいの大きさのオヒョウ用
釣り針で、やはり北西海岸インディアンのものです。オホ
ーツク文化にも非常に大きい釣り針があります。松浦武四
郎が描いたものに、網走付近のアイヌたちが大きなオヒョ
ウをたくさんとって、それを干しているという絵がありま
す。オホーツク海沿岸のアイヌは、前に住んでいた人たち
の使っていた道具のようなもので、オヒョウをとっていた
のではないかと想像してしまいます。
「アイヌは北方民族でしょうか」齋藤玲子
海上で猟をする場合は、
銛綱の先に浮きをつけておいて、
銛の当たったアザラシやクジラなどがどこにいるかの目印
にします。浮きは、袋状のアザラシ皮製のものだけではな
く、動物の内臓の膜を使ったものや木製のものなどもあり
ます。
開けた海上だけではなく、イヌイトの場合、アザラシの
呼吸穴猟という狩猟法があります。アザラシが凍った海の
氷のすき間から、息を吸いに上がってくるところを待ち構
えてとるという方法です。冬から春先、やはり獲物があま
りとれないような時期に行う猟として重要です。
それと、アイヌの資料はありませんが、氷に穴を開けて
釣る氷下漁というのが、北方地域に広くあります。寒い時
期、獲物があまりとれない時期に氷の下の魚をとるという
のは、
食料を得るために非常に重要な生業活動の一つです。
釣り針以外には、魚をとるための銛、あるいは「やす」の
ようなものも使われていました。
次に海獣猟について紹介します。オホーツク文化のとこ
ろでも触れた、回転式の離頭銛というのは、動物の体に刺
さった後、銛綱が引っ張られると、90 度回転して脂肪層の
下で水平になって抜けにくくなる、ちょうどボタンをとめ
るような感じで回転する仕組みです。オホーツク文化のみ
ならず、イヌイット(エスキモー)の人たちの銛先も同じ
ようなタイプです。
捕鯨は、カムチャツカあたりからチュコト、それからア
ラスカ、アリューシャン列島とバンクーバー島の太平洋に
面したところ、それからグリーンランドの南の方などで主
要な生業となっていました。
カナダ北極に近いところでは、
18〜19 世紀ぐらいの民族誌に出てくるような時代にはク
ジラがあまりおらず、捕っていませんでした。
図の色分けは、離頭銛と浮き袋を用いた捕鯨をしている
地域と、
トリカブトの根の毒を使って捕鯨をする地域です。
アイヌがトリカブトの毒を使って捕鯨をしていたことはご
存じの方もいらっしゃると思います。獲り方が伝播したの
ではないかと考えられるような、限られた地域に見られま
す。
ごく一部、チュコト半島の南の方、カムチャツカ半島の
根本あたりに網でクジラを捕獲する方法がありますが、大
きくは先ほどの二つに分かれていて、アイヌの捕鯨法はカ
ムチャツカあたりとアリューシャンあたりに共通するもの
です。
次に陸獣狩猟ですが、陸の動物を獲るには、北に限らず
主に弓矢が使われます。
陸上の動物にできるだけ近づいて、
そこから弓矢で射るというのは、世界中の狩猟民族に見ら
れる方法です。
北方で特徴的と言えるのは、弓の弾力を利用してテンな
どの頭を挟んで捕らえる罠です。このような罠は、サハリ
ンからアムール川の流域にあります。17、18 世紀ぐらいか
ら、シベリアではロシア人が毛皮を求めて東へ東へとやっ
てきて、先住民に毛皮獣をとらせました。伝統的にあった
ものではなく、毛皮獣を捕るために開発され、アムール川
流域、サハリン、そして、もしかすると北海道まで伝わっ
てきたものではないかと考えられるものです。呼称も似て
いることが知られています。北海道開拓記念館の出利葉浩
司さんや、国立民族学博物館の佐々木史郎さんなどが報告
されています。
北方では、毛皮交易の影響が非常に大きいものでした。
民族誌が残されている 100 年〜200 年前の様子というのは、
既にヨーロッパ人やロシア人などが北の地域に入ってから
のことですので、狩猟の形態も、自分たちが使うものをと
る伝統的なものだけではなくて、交易のための猟をするよ
うになっていますので、注意をして見ていかなければなら
ないのです。
【 二股キテ】
北海道アイヌにキテと呼ばれる銛があります。今、現存
しているのは、銛先が 1 つだけのものが多いと思います。
明治時代にアイヌの調査をしたヒッチコックが、スミソニ
アンに収めた二股のキテというのがあるのですが、輸送の
関係で長い柄を途中で切ってしまったそうで、もしかする
と二股のキテが丸まま残っているのは、当館にあるものだ
けかもしれないです。きれいな真っすぐな柄で、網走で昔
から使われていたものと伝えられています。
二股のキテは、
いわゆるアイヌ絵のオットセイを獲る図などで出てくるの
ですが、現存しているものは非常に少ないと思います。オ
ットセイ、アザラシ、それからカジキやマンボウなど大型
の魚を捕るのに銛が使われていました。
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「アイヌは北方民族でしょうか」齋藤玲子
生業の最後に、アイヌ文化とは直接は関係ないのですけ
れども、トナカイ飼育の道具をお見せします。モンゴルの
北部にもトナカイを飼っている人たちがいます。森林地帯
のトナカイというのは体格もよくて、騎乗したり、そりを
引かせたりと、使役獣として利用されています。
北方の衣類
どのように獲物をとるかを見てきたところで、今度は衣
食住の「衣」の話をしたいと思います。
アイヌの衣類を素材別に挙げてみますと、外来のもの、
本州から入ってきた布や着物があります。そのほかに、中
国の官服を払い下げた、アムール川流域からサハリンを経
由して北海道まで伝わった蝦夷錦のようなものがあります。
そして、自分たちで樹皮や草の繊維を織った布というのが
あります。アットゥシに代表されるような自製の布です。
それから、織物の前からあったと考えられるもの、織っ
た布とも併用しているのですが、獣の皮、魚の皮、鳥の皮、
それから草といったものが文献などに見られます。アイヌ
の衣服の形は、いわゆる和服のような前あきのものが知ら
れていますが、古い時代は、もしかすると頭からかぶる形
式ではなかったかと想像される情報もあります。
これからいくつかの、
いわゆるアイヌ絵を見ていきます。
私は一般向けにアイヌ文化を紹介するときには、あまりア
イヌ絵というのは使わないことにしています。誤解を生む
こともありますし、必ずしも絵師が現地で見たものを書い
たのではなく、聞き描きだったり模写だったりして、間違
いというものも少なくないからです。ですが、ここではそ
ういった断りをした上で、見ていくことにします。
秦檍丸の『蝦夷島奇観』に踊りの場面があります。アッ
トゥシと思われる服が見えます。外来の着物を着ている人
もいます。そのほかに、毛皮を着ている人がいます。これ
は模様からアザラシの皮と思われます。鳥の皮の服もあり
ます。そして、草を編んだ服を着ている人がいます。同じ
『蝦夷島奇観』に、択捉島のアイヌの様子を描いたものが
ありますが、女性がアザラシ皮の服を着ていて、男性は草
を編んだ服を着ています。防寒の際に、こういった服の上
などに着られたと書かれています。
草製の服は、
『蝦夷生計
図説』にも、ベストというかチョッキのような形で描かれ
ています。
これも『蝦夷島奇観』で、アイヌの女性の服装などを描
いたものですが、アットゥシと思われる着物の下にアザラ
シ皮製の服を着ています。
『蝦夷生計図説』の方には、
「モ
ウルの図」として、着物の前の部分が閉じているような形
で描かれています。
これもアザラシの毛皮でできています。
ウルというのは皮衣、皮や毛皮でつくった服を指し、モに
は「小さい」とか、
「閉じる」という意味があるとの説があ
ります。女性用の上着の下に着るものがモウルと呼ばれて
います。
『蝦夷島奇観』のクマ送りの場面で、ほとんどの人がア
ットゥシと思われるものを着ている中に、少年でしょうか、
毛皮を着た人がいます。このような模様で描かれるのは犬
の毛皮です。今回、スライドにしていませんが、サハリン
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のアイヌを描いたものには、犬の毛皮を着た人が多く出て
きます。
『生計図説』の方の「ウリの図」では、クマ皮と書
いてありますが、全体はクマ皮なのでしょうけれど、前立
ての部分に犬皮と見られる模様が描かれています。
それから、
「ラプリの図」は、裏面からわかるように、何
羽もの鳥の皮を接いでつくった着物です。多く使われたの
が海鳥で、ウトウやウなどです。北大の植物園の博物館に
も鳥の皮の服が残されています。
鳥の皮の服というのは、北方地域では珍しいものではな
く、アリューシャン列島やグリーンランドなど、トナカイ
があまりいないような島嶼部で主な衣服の素材とされてい
ました。海鳥の多くは、コロニーといって集団で営巣をし
ますから、比較的簡単に大量にとれるので、それを使うの
は特異なことではありません。
また、アザラシの中では小型で、輪のような模様がある
ワモンアザラシという種がいます。アイヌ絵にもよくワモ
ンアザラシと思われる模様が描かれています。北方地域の
民族は、衣服の素材として多くワモンアザラシの皮を使い
ます。ほかにもアザラシはいるのですが、ワモンアザラシ
の皮は比較的柔らかく、衣服に適しているようです。大型
のアゴヒゲアザラシの皮は丈夫で厚く、ブーツの底や、橇
や銛の綱などに適しているなど、
使い分けをしているので、
アイヌ絵のアザラシの模様にも関心を持って見ています。
次のスライドは、博物館の展示からトナカイの毛皮でつ
くった服です。北方で非常に重要な動物として、トナカイ
とアザラシが挙げられると申し上げました。トナカイは毛
の1本1本に空気をため込むような構造になっていて、毛
皮は非常に暖かく、ほとんどの北方の民族は冬の防寒具と
してトナカイ皮を使っています。多くはフードがついて、
頭から被るタイプのものです。フードは体で暖められた空
気が首から抜けないための役割を果たしていて、前が開い
ているものよりは閉じているものが多いです。写真は、コ
リヤークの子どもの服ですが、
靴や手袋がつながっていて、
袖口の横に手を出せる穴が開いています。ズボンと上着が
一体型の防寒服です。
次はアザラシの毛皮の服です。写真は、アラスカのエス
キモーのものですが、やはりワモンアザラシを使っていま
【 アザラシ毛皮服 】
「アイヌは北方民族でしょうか」齋藤玲子
スターをつくるという講習会を開きました。来年は、テン
キグサを刈って、ぜひ本物のテンキをつくってみたいと考
えています。
このテンキとほぼ同じようなものが、例えばカムチャツ
カ北部に住むコリヤークの人たちにも伝わっています。編
み方はいろいろあるのですが、写真のかごは草の束をコイ
ル状に巻き上げていくコイリング技法で作られています。
次はカムチャツカの南部、千島と接するあたりの先住民
イテリメンという人たちのかごです。植物採集に行くとき
などに背負うための紐がついています。アイヌの人たちも
額に帯を掛けて背負う運び方をしますが、同じように使い
ます。近年、当館の職員が撮影したものです。素材はやは
りテンキグサです。
テンキグサを使ったバスケットは、このシベリアの北東
部だけではなく、アリューシャン、アラスカなどの北太平
洋に広く見られます。
す。隣は、サハリンのウイルタのもので、これはワモンで
はなくゴマフアザラシっぽいです。アザラシ皮は、トナカ
イ皮ほどは暖かくはないのですが、水に強いという性質が
あることから、ブーツなどに多く使われる素材です。内陸
にいる人たちは、海岸の住民と交換してアザラシ皮を手に
入れていたことが知られています。
あとは、魚の皮の服です。写真はアムール川流域の中国
側に住むホジェンと呼ばれている人たちの服です。サケや
マスのほかに、アムール流域ではチョウザメ、コイ、ナマ
ズなどの皮も使われます。丈夫で軽くてしなやかで、水に
も強い素材です。
北海道の場合は、アイヌにチェプケリというサケなどの
魚の皮を使った靴があります。サハリンのアイヌではサケ
の皮を使った服、アムール川流域の民族と似たような感じ
の服があり、釧路市立博物館などに所蔵されています。
ちょっと変わったところでは、内臓の膜を使ったパーカ
ーというのが、アリューシャンからチュコト半島、そして
アラスカの西側などにあります。アザラシなど海獣類の腸
を何枚も継ぎ合わせてつくったパーカーがあり、防水性が
高く、雨合羽のような感じです。
内臓膜で服をつくるのは限られた地域ですが、内臓の膜
を利用するという点では、後でもお話しするようにアイヌ
も油の入れ物として使っていましたし、例えば太鼓の皮の
面などは北方でよく見られる使い方です。余すところなく
動物を利用する例と言えます。
植物性の衣服は、北方地域の中でもその南端に当たるよ
うなアイヌや、北米の北西海岸の民族で、樹皮を織ったも
のなどが使われていました。そのほかに、アラスカの西側
などでも草を編んだ靴下や手袋などが使われており、スラ
イドの草で編んだ靴下は、アラスカのものです。靴の中に
草、特にカヤツリグサとかイネ科やスゲの仲間などの細い
草を詰めて履くというのは、非常に広く北方地域に見られ
ました。草を乾燥させて保存しておき、靴をはく前に底に
敷き詰めてから足を入れるというのは、
共通する方法です。
衣類に関係するところでは、ハンノキの樹皮を染色や皮
なめしに使うというのも、北の方に広くみられます。この
例もやはりコリヤークなのですが、木の皮をむいて、それ
に灰を入れ、尿で煮出したものをトナカイの皮の肉の面に
塗りつけています。肉や脂肪を削って干しただけの皮は白
っぽい色ですが、赤茶色のほうは染色したものです。タン
ニンの成分などで、皮を腐りにくくしたり、丈夫にしたり
する効果もありますし、色もきれいになります。今、博物
館に展示していますが、非常に鮮やかな赤茶色です。
アイヌの場合は、皮の鞣し方や染色についての情報が少
ないのです。ただ、アットゥシを染める赤茶色の染料とし
てハンノキの皮が使われていたということは記録されてい
ます。このコリヤークのほかにも、もっと北のチュコト半
島の民族も、やはり皮なめしに樹皮を使っていましたし、
アラスカやカナダあたりの北西海岸でも、ハンノキでつく
った桶に尿をためておいて、それを煮出して染色に使った
という記録がありますから、ハンノキというのは染料、あ
るいは皮なめしのときに使う媒剤として、北方でよく使わ
れていたということが言えます。
草の話をしましたので、衣類ではないのですが、テンキ
グサについてお話ししたいと思います。ハマニンニクとも
呼ばれるイネ科の植物で、背丈の高くなる草です。7月ぐ
らいに穂をつけます。この葉を使った籠というのが北太平
洋に広く見られます。財団でも、たぶん講習会やセミナー
をされたことがあると思いますが、スライドは登別にいら
っしゃる知里眞希さんという方が製作されたものです。テ
ンキと呼ばれる小型の籠は、千島アイヌの特産として、江
戸時代の文献などにもよく出てきます。古いものでは 1700
年代に菅江真澄なども触れていて、千島から道東あたりで
つくられていたと考えられます。このテンキグサという植
物名もアイヌのバスケット、テンキからきたものと言われ
ています。テンキを作る技術は伝わっておらず、数年前に
知里さんが独学で、実際に博物館などに残っている資料を
見たり、本を見たりして再現されたのです。
北方民族博物館では、去る 7 月に、かご編みの基本的な
技術であるコイリングという方法を知里さんに習い、コー
北方民族の食
次に食の話をしたいと思います。古い研究ではアイヌの
場合は、狩猟・漁労・採集によって得られた食料のエネル
ギーがほぼ同じぐらいの割合であると言われていたのです
が、その後、植物質の食べ物がもっと大きな割合を占めて
いたのではないかという調査研究の報告がされています。
例えば、帯広畜産大学にいらした辻秀子先生は、十勝の
事例として、また、明治〜大正期以降の、雑穀類などの摂
取量が増えてからの時代のことと断ってはいますが、植物
の方が6割ぐらい、肉や魚は4割ぐらいだという結果を出
されています。穀類をそれほど食べなかった時代は、もう
少し魚や肉が多かっただろうと書かれていますが、植物が
大半であったと示されています。
ほかには、北大にいらっしゃる南川雅男先生が、骨に残
ったタンパク質成分の分析から、何に由来するものを食べ
43
「アイヌは北方民族でしょうか」齋藤玲子
養価が高いということが知られています。こういったもの
を春先にたくさんとって、干しておいて、生のものが食べ
られない時期にも食べていたわけです。
それから、レジュメに「茶と薬」と書きましたが、多く
の植物の葉や茎などを煎じてお茶としてよく飲みます。
体・健康によいと考えて、薬ともお茶ともつかないような
飲み方をよくしているのは、北方に限らないかもしれない
のですが、共通しています。北方地域では植物のエネルギ
ー源としての利用は少なくても、薬用としては重要だった
と考えています。
写真はイソツツジで、アイヌの人たちもお茶として、薬
として煎じて飲んでいました。英語ではラブラドール・テ
ィーをはじめ(ラブラドールというのはカナダ北東部の地
名ですが)
、○○ティーいう言い方がたくさんあり、お茶と
して使われていたということが名前にあらわれています。
アラスカやカナダ、グリーンランドのイヌイットから北西
海岸など広く使われている植物です。私はアラスカの北西
海岸インディアンと呼ばれる人たちのところで、初めてイ
ソツツジのお茶を飲みました。各地で胃や風邪に良いと言
われるのですが、ハーブティーのようにすっきりとした、
味も香りもいいお茶です。
もうひとつヤナギラン、ちょうど今花が終わって、綿毛
が出ている時期です。本州では高山地帯にしかない花なの
ですが、
北海道では平野部でもわりとよく見られる草です。
このヤナギラン、ロシア語ではイワンチャイ「イワンのお
茶」と言い、シベリアの先住民にはポピュラーなもので、
葉を煎じて茶として飲むほか、茎の皮をむき、中の部分を
のして干して保存食にするのです。ちょっと粉を吹いてい
て干し柿のような感じなのですが、甘みがあるということ
です。博物館の資料なので味見をできないのが残念なので
すが、おいしそうに見えます。
ヤナギランというのは、
お茶にも食べ物にもなりますが、
北海道のアイヌではヤナギランを食べ物として使ったとい
う記録はないようです。サハリンのアイヌでは薬や茶とし
て煎じて飲んだとされています。サハリンのほかの先住民
も使いますので、その影響なのだろうかと考えています。
ていたかを研究していらっしゃいますが、近世のアイヌで
は、
陸獣は少なく、
魚や海獣類が6割くらいを占めていて、
植物も3割以上という研究結果を出しています。
生業の中心を狩猟とするか漁労とするかによって、肉:
魚のバランスは違いますが、北へ行けば行くほど肉や魚の
割合が増えて、植物は少なくなり、エスキモーと呼ばれる
人たちなどは、ほとんど、もしかすると1割に満たないぐ
らいの植物質のものしか食べていないと考えられます。で
すから、その点では、アイヌは北方的ではないかもしれな
い。非常に多くの植物を摂取しており、利用の多様さとい
う意味でも、北方地域では群を抜いていると感じます。
写真はオオウバユリですが、アイヌの人たちにとって、
主要なでんぷん源として使われていたことをご存じの方は
多いと思います。花の咲く前年ぐらいの、ある程度成長し
た鱗茎が良いとされています。このオオウバユリを臼など
で搗いて、そのあと醗酵させて、水にさらしてでんぷんを
分け、1番粉、2番粉、更に残った繊維を丸めて円盤状に
して干すなどして得たでんぷんは、おかゆなどに混ぜて食
べるほか、儀礼などのときに団子にするなど重要なものと
して保存されました。
その他に、オオウバユリのでんぷんの利用としては、お
なかの調子が悪いとき、下痢をしたようなときにも食べた
と言われていますし、お乳が出ないときに赤ちゃんに飲ま
せたという記録もあります。消化のよい食べ物として、腹
痛、あるいは離乳食のような感じでも使われていたようで
す。
ユリの根、あるいはランの根の利用は非常に広く見られ
るものです。アイヌの人たちは、クロユリなどのユリ根も
とりましたが、サイハイランなども結構大きな球茎が幾つ
もつながってとれます。サイハイランとコケイランは、ア
イヌ語では同じニマクコトゥクと、歯につくものという名前
がついています。生で食べられるのですが、かじると歯に
くっついてとれなくなるのでそういう名前がついていて、
生で、また炉の火にかけて加熱しても食べたりします。
アイヌ語でエハとかアハと呼ばれる、ヤブマメという豆
も利用されています。この写真は秋ですが、夏〜秋にどこ
に生えているかを覚えておいて、春先の一番食料が少なく
なっているときに最初にとると伝えられています。地上に
も小さなキヌサヤのような果実がつくのですが、このさや
の豆は食べないで、地下にできる閉鎖花と呼ばれる実を食
べます。大きなものでも小指の先ぐらいで、味のいい豆で
す。野生の豆は渋みがあったり、食べにくいものが多いと
いうことなのですが、このヤブマメは味がよく、御飯に入
れたり、塩ゆでしたりしてアク抜きもせずにそのまま食べ
られます。他の民族の利用例はあまり見つけられませんで
した。林の縁や道路ののり面など、ちょっとした郊外に行
けばどこにでもある、珍しくもない植物なので、もっと利
用してもいいのではないかなと個人的には思っています。
それから、
ギョウジャニンニクなどは有名なところです。
肉や魚などをたくさんとりますから、香辛料となるような
味や香りの強い植物は、よく食べられています。さらにギ
ョウジャニンニクというのは、非常にビタミンも豊富で栄
共通する点としては、
油をたくさん摂るということです。
アイヌの人たちが、魚の油やアザラシの脂などを調味料が
わりに使ったというのはよく知られていることですが、北
方では非常にたくさんの油を使います。というのは、私た
ちが主食としている米や麦という穀類が北の方にはありま
せんから、でんぷん質のものが少ないため、エネルギー源
としてたくさんの油を必要とするのです。
それから、保存食。寒い地域は、冬になると食べ物が少
なくなりますので、春、夏、秋にかけてとって、主に天日
乾燥をして保存するという方法が非常に発達しています。
これは当たり前ですが、共通しています。
食に関する道具では、例えば、当館にあるのはトドの食
道を油入れに用いたものですが、アザラシの胃袋、シカの
膀胱など、アイヌの人たちはさまざまな内臓膜を使った油
入れをつくっています。これは、サハリンなどにも共通し
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「アイヌは北方民族でしょうか」齋藤玲子
て見られるものです。ほかには、木製の容器などに、イヌ
イットや北西海岸地域のインディアンの人たちも油をたく
さんとって確保しました。
ユリ根とか、ヤブマメのところで出せばよかったのかも
しれないのですが、土を掘る道具というのがあります。写
真はコリヤークのもので、一つは鉄製の棒のようなものを
曲げて利用しているようですが、もう一つは角です。アイ
ヌの場合はシカの角などの枝分かれした部分を利用した掘
り具などがあります。
北方の住まい
次は衣食住の「住」にいきます。北方の人たちの住まい
方の基本は移動、つまりトナカイが集団で移動する春や秋
にトナカイをとる場所、それから、サケ・マスなどが上が
ってくるときに魚をとるフィッシュキャンプであるとか、
とれる獲物に応じて人びとも移動してあるくことと言って
よいでしょう。1カ所にとどまらないで、獲物のとれると
ころに自ら行く。また、トナカイを飼っている人たちとい
うのも、やはり1カ所に留まっていてはそこの餌を食い尽
くしてしまいますので、トナカイとともに移動します。
北方地域の住居の代表例としてはテントが挙げられます。
写真はいま展示中のコリヤークのものです。基本的には三
角テントがよく使われますが、コリヤークのテントは三脚
を八つ建てて側面(壁)とし、その上に屋根をつける、こ
ういう大型のテントもあります。
トナカイを飼っている人たちはテントに住んで1年じゅ
う移動するのですが、海岸に住む人たちというのは、比較
的定住的な生活をしていました。海岸コリヤークの人びと
は地下を掘り下げた木造の家に住んでいて、写真は住居の
模型です。今は竪穴式住居に住んでいるという人はいませ
んので、
民族誌などをもとに復元してもらったものですが、
木製の壁と屋根で、
入り口が横の方と屋根の上にあります。
内陸というのは寒暖の差も激しいですし、植物や動物も
限られているのですが、海岸は先ほど来申し上げているよ
うに、アザラシ、クジラ、サケ・マス、貝などとたくさん
獲物がとれ、内陸に比べて資源が豊富です。それで、海岸
に住む人たちというのは、かなり定住的な生活をしていま
す。
ですから、
こういった長く住めるタイプの家なのです。
次は、アラスカのエスキモーの半地下式住居で、やはり
同じように地面を少し掘り下げて、木で柱や梁をつくって
います。流木を使っていますが、足りなければ、クジラの
骨なども柱に使います。
外から見ると本当に竪穴かどうか、
土を掘っているのかわからないのですが、中はしっかりと
した木造住居になっていて、出入口から階段状のところを
降り、地下のトンネルを通って、部屋の中には床の穴から
出入りするようになっています。冷たい空気は下へ、暖か
い空気は上へ上がりますから、寒い空気をトンネルの中に
閉じこめ、暖房をした部屋の空気が混ざらないための仕組
みです。こういったタイプの家は、北の方に多く見られま
す。
イヌイトというと、雪の家に住んでいるというイメージ
が強いかと思いますが、イグルーという雪のブロック状を
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積み上げた家は、流木があまりとれないような地域とか、
冬、狩猟のキャンプなどに行くときに仮の小屋として使わ
れるものであって、イヌイトが皆こういう家に冬中住んで
いたというのではありません。
竪穴あるいは半地下式の土を被せたような住居でも、木
造の住居というのがきちんとつくられていたことは、今の
ジオラマでご覧いただけたと思うのですが、例えばアラス
カ州からカナダの北西海岸に住んでいた人たちは非常に大
きな木造の住居に住んでいました。トーテムポールをつく
る人たちで、緯度は高いところなのですが、森林資源が豊
富で、たくさんの木を使う文化です。この北西海岸の人た
ちとアイヌの文化というのは、類似点があるということで
よく比較されます。
交通
住居も一通り見まして、雪上歩行具、かんじきとかスキ
ーとか、雪の上を歩く道具というのを紹介していきましょ
う。
北米の方によくあるのは、網目状の、テニスのラケット
のようなかんじきです。ユーラシア側はスキーが発達して
います。板の裏に毛皮、多くはアザラシの皮を張ったり、
あるいはトナカイなどシカ類の脛の毛皮を張ったりします。
毛の向きにより前には進むけれども、上り坂になったとき
には毛が滑り止めの役を果たすというものです。
北海道のアイヌでは本州と同じような、いわゆる輪かん
じきという、木を曲げて輪のような形にした小さめのかん
じきなのですが、サハリンのアイヌにはスキーがありまし
た。
実物はないのですが、鳥居龍蔵という人類学者が、明治
時代に千島の調査で北米にあるのと似たようなタイプのか
んじきを収集しています。カムチャツカや北アメリカの方
に広がっているタイプと似たようなものが千島にある。シ
ベリアからユーラシア大陸にずっと広がっているスキーが
サハリンにあり、北海道には本州の影響と思われる輪かん
じき、雪の上を歩く道具だけでも3タイプがあるのは、ア
イヌ文化にとっての近隣の民族からの影響を示す事例かと
思いましたので、お見せしました。
それから、船です。アイヌの場合は丸木船、あるいは丸
木船の横に板を張った、海で使うイタオマチプなどが知ら
れていますが、北方地域の森林地帯林では、白樺の皮を使
った船があります。写真はカナダのものですが、アムール
川流域などでも白樺樹皮製の船というのが残っています。
もっと北の方に行くと、アザラシとかセイウチなどの動
物の皮を張ったカヤックがあります。環境に応じた素材の
用い方と思います。
精神文化
北方地域には狩猟民が多いですから、基本的にアニミズ
ム、動物も含めたあらゆるものに魂があり、その魂という
のは不滅で、人間などの目に見える肉体というのは魂の仮
の姿といいますか、そういうものと考えられている。例え
ばクマ送り儀礼などに見られるように、森の主とか山の主
「アイヌは北方民族でしょうか」齋藤玲子
というような動物界を支配する者がいて、その骨などを丁
寧に扱えば、また人間のところへおみやげとして肉や毛皮
を持っていってくれるという思想が北の方にはあります。
例えば、クマ送りというのは、北方の全域にあります。
ほとんどは骨を何らかの形で祀るというやり方なのですが、
北海道、サハリン、アムール川下流域では、仔グマを飼育
して、それから盛大に祭りを開いて送るという儀礼が行わ
れていました。
それから、アミニズムとも関係があるのですが、霊魂の
世界というのがあって、いろいろな物事、事象が霊に支配
されて起こると考えられています。シャマンというのは、
特別な霊的な能力を持っていて、自分の魂を霊の世界に行
かせる、あるいは霊を自分の体に呼び込んで、予言とか病
気治療を行う人です。このシャマニズムというのは、北の
方に広くある精神文化です。
ただ、アイヌの場合は、このシャマニズムの影は薄いと
いう点があります。サハリンではシャマニズムに関する報
告があるのですが、北海道のアイヌの場合は、産婆さんの
ような人でシャマン的な力を持った人はいるのですけれど
も、ほかの地域に比べると、シャマンというような人の存
在が薄いようです。
それから、木偶はシャマンが主に病気治療などのときに
つくるのですが、人間の病気を肩がわりするなどの役目を
持っています。悪い霊にこちらの方が住みやすいと説得し
て、病気になっている人の体から悪い魂を追い出して木偶
に住んでもらう。そのために、ごちそうなどをあげたりす
る。このような木偶が北方地域には広くあるのですが、北
海道のアイヌの場合は形のあるもの、人間とか動物の形の
あるものをつくってはいけないと、むしろタブーになって
おり、偶像というものはつくられていない。シャマニズム
と関係があるはずですが、これもほかの北方地域とは異な
る点です。
儀礼などに使われる仮面も北方地域に広くあり、動物を
模したものなどが多いのですが、アイヌには仮面は知られ
ていません。ただ、鳥居龍蔵がやはり千島で仮面を収集し
ていますので、アイヌ文化と一口に言っても、千島はもう
少し北のコリヤークなど、カムチャツカあたりの文化と共
通する点があったのではないかと考えられます。
時間になってしまったので、社会については端折って説
明させていただきますが、北方では基本的に核家族で流動
的、
小さな家族単位で移動するという社会です。
アイヌや、
北西海岸インディアンなど、海岸沿いでは定住的な住み方
をする人たちがいて、集落もありました。
レジュメに平等主義的原理と書きました。北に行けば行
くほど階層社会というのが余りないのですけれども、アイ
ヌや北西海岸インディアンなど、ある程度の集落をつくっ
ているところでは、その集落の長となるような人がいて、
その社会を治めるということがありました。そして、クマ
送りや北西海岸でポトラッチと呼ばれるような、富をたく
さん蓄えた人が祭りなどを開いて、それを集落内や近隣に
住む人びとに配るという儀礼が北方地域の中でも比較的資
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源の豊かなところにはありました。
そして、
「男女双系?」と書いてあるのは、ユーラシア側
のツングース系の人たちには、主に父系といって父親の系
統を受け継ぎ、父方の系統の人たちとは結婚をしないとい
う父系外婚制というのが広がっています。
アイヌの場合は、
男性は男性の系統、女性は女性の系統があると言われてい
ます。
日本の本州ではご存知のとおり、父系です。この男女双
系というのが、どの地域にあるのか。当館初代館長の大林
太良先生という方は、世界的に文化を比較をするというの
を得意とする学者でしたが、どうもカムチャツカからチュ
コト半島あたりに男女双系のような記述があらわれるので、
ここを注目してみたいとおっしゃっておられました。けれ
ども、このあたりまだ未調査、研究の蓄積が少ないようで
す。
最後に、北方民族博物館では、昨(2005)年は、
「アイヌ
と北の植物民族学」という、植物利用に関する特別展を行
いました。
こちらの財団にも大変お世話になったのですが、
衣食住といった身近なアイヌ文化を知ることによって、ア
イヌ文化の理解を深めていただくための講習会や展示を行
ってきています。
お話ししてきたように、アイヌ文化には多方面からの影
響と思われるような文化が、幾重にも重なったような様相
が見られます。ですけれども、やはり動物との関係をはじ
め、北方の狩猟民的な文化要素というのは非常に多く認め
られ、さらに北太平洋地域のサケ・マスをとる人たちと共
通するような点もたくさんあります。
私は、アイヌ文化を枠にはめるということを目的として
「北方民族でしょうか」という疑問を投げかけたのではあ
りません。近隣の文化、もちろん南の方の本州とも比較し
ていくべきだと思うのですが、比較を行うことでアイヌ文
化はこういう特徴がある、こういう共通性があるというこ
とをより際立たせて見ることができますし、また、アイヌ
文化で調査をされていない部分というのもわかってくると
思います。広い視点で、そして深く文化を知るために、ア
イヌ文化のみならず近隣の文化とも比較する、そういう調
査・研究をこれからも行っていきたいと思います。
長くなって申し訳ありませんでした。これでおしまいに
させていただきます。