ミカヅキサマを祀る習俗 - 東京成徳大学・東京成徳短期大学

ミカヅキサマを祀る習俗
蜩蜩栃木県河内郡南河内町を中心に蜩蜩
松 崎 か お り*
はじめに
一 三日月を祀る習俗
二 南河内におけるミカヅキサマの諸相
1.
家の中の神と仏
1.
三日月に対する俗信
2.
南河内のミカヅキサマ
2.
茨城県下のミカヅキサマ
3.
3.
栃木県下のミカヅキサマ
三日月信仰の問題点
――正月の餅について―
―
まとめにかえて
はじめに
かつて日天月天信仰に関連して、柳田國男は古代文献にさかのぼり、「日神月神は共に自ら我祖は
高皇産霊尊なりと称せられたれど、其為に却りて伊勢に座す皇祖神にはおはしまさざりしことを推
測せざる能はず候」、或いは「現今諸国日月大明神と称し又は日天子月天子など云ふ小祠を以て皇祖
神を祭る社なりとし、甚しきは之を伊勢の両宮に繋くるが如き凡て戒むべき誤謬なり。日月神を竝
祀るは寧ろ外来の信仰なるべし。現に隋書其他の新羅傳にも彼國にて歳旦に日月神を拝するの慣習
ありしことを記せり」と述べて、日天月天を祀る風習は日本の皇祖神とは別なるものであるとの見
解を示している(1)。
日本の皇祖神は天照大神であり、誰れもが知るようにこれは太陽を指している。また、それと一
対に月読御命という月をモティ―フにした神様も存在する。しかしながら、日本に於ける天体信仰
は、各種の日待ち、月待ちと一部北関東地方の天祭を除いてはおおむね希薄であるといわれてきた。
ここで取り上げる三日月についても、そのほとんどは三日月の傾き加減によって近日の天気や作柄
の豊凶を占うといった、一時的な指標として〈俗信〉の範疇で利用されてきたことは往々にして耳
にするものの、継続的に〈信仰〉或いは〈年中行事〉の中に定着したかたちで奉斎する事例はほと
んど知られていなかった。
それに対して、1997年に榎本実が茨城県を中心とした北関東地方に年中行事化した三日月信仰の
*
Kaori Mathuzaki 日本語日本文化学科 非常勤講師(Department of Japanese Culture)
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東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
存在することを報告した(2)。榎本は、古代から近世までの史書の記述に当たり、人々が三日月に付
与してきた宗教的属性について明らかにするとともに、茨城周辺の市町村誌を総覧して、各地でど
のような習俗として三日月信仰がいきているのかをまとめあげた。ただし、その論稿の中に現地調
査の足跡はみられない。そのため、ここでは榎本の論に応えるかたちで、栃木県河内郡南河内町に
おいて行なった〈家の神と仏〉の民俗調査で出会ったミカヅキサマ信仰について若干の報告をして
みたい。
一 三日月を祀る習俗
1.
三日月に対する俗信
三日月に対して、信仰とも未だいわれないような俗信を抱いていた状況は、主に俚諺という形で
残っていることが多い。以下に例として挙げるのは『故事・俗信ことわざ大辞典』からの抜粋であ
る(3)。伝承している地域名が新旧混合しているのは、『ことわざ』が採取した原典に新旧の差がある
ためで、ここではその記述に倣うこととする。
① 三日月傾けば日和の象(和国)
② 三日月立つ月は天気よく横たわる月は雨がち(播州・安芸・日向北部)
③ 三日月立つときは米の価上がる(山形・常陸鹿島・岐阜県)
④ 三日月の下に横雲あれば四日のうちに雨降る(俗説)
⑤ 三日月の丸くなるまで南部領(青森県五戸)
⑥ 三日月南に傾けば豊年、北に傾けば凶年(俗説)
⑦ 三日月を拝むとその月の災厄を逃れる(播州赤穂)
⑧ 三日月を三月続けて拝めば福が授かる(三重県四日市地方)
これらの俚諺のなかで、⑤は三日月の日から望月の日まで歩き通しても足下の地面は南部の領地
だと、領土の広大なことを日数に換算して示したもので、その尺度として三日月が持ち出されてい
るだけで、ここでは除外して考えてもよいであろう。残る7つの諺には、三日月の傾き加減によっ
て天候や作柄の豊凶、米価の高低を占うものが多く(①②③④⑥)、農耕の一つの重要な指標と考え
られていたことが分かる。しかし、通常ならば年に12回現れる毎月の三日月をすべて対象としてい
たのか、或いは農繁期に集中して注意を集めていたものなのか、ある特定の月の三日月に限って重
視されていたものなのか判然としない。ただし、②③にある三日月が立つ、横たわるというのは、
春分から秋分にかけての三日月の見え方に照合するので、明らかに前者が秋を、後者が春を示して
いる。つまり、秋は晴れ間が多く、春は雨が多い。収穫の秋は米価の高騰を願っての謂いであると
みてよいであろう。
94
ミカヅキサマを祀る習俗
しかしまた、⑦⑧は〈除災〉〈招福〉の思想を持って、三日月に対して祈願する行為を伴っている
ため、前者の俚諺とは少しく区別しておきたいと思う。一時的ではなく、ある一定の継続的なリズ
ムの中に定着し、時を定めて同じ行動が繰り返し行なわれるものを〈年中行事〉、対象物を単なる指
標ではなく祈りを唱える相手とするものを〈信仰〉と捉えるならば、この⑦⑧の例は、
〈三日月の日〉
と時を定めて〈拝む〉という祈願の行為をとっていることから、同じく俚諺とはいっても、前者と
は少々意味合いが異なり、
〈年中行事〉や〈信仰〉の属性に近いものを持っていると判断できるのである。
2.
茨城県下のミカヅキサマ
これまで、三日月に関する習俗については、前節で示した俚諺がいくつか報告されるにとどまり、
〈年中行事〉や〈信仰〉の範疇で捉え得るような先行研究はなかった。未だその現状は続いているが、
1997年になって榎本実が、北関東地方に三日月を信仰する習俗のあることを、茨城県下の事例を中
心として報告した。ただし、榎本の論稿は、茨城県下の市町村誌から三日月関連の資料を拾い出し
て報告し、次には古代文献に現れる三日月、或いは中国での月の扱いといった方向に論が展開して
いるため、各地の習俗についての報告は市町村誌に記述されたものの域を出るものではない。県下
の三日月信仰の分布や各地の習俗の共通点、相違点など、より詳細な調査の必要を感じている。
事例1 真壁町(4)
三日月待供養塔9基。1/3は初三日月様。9/3は三日月様。豆腐や三日月型の餅を供える。
事例2 勝田市(5)
9/3の三日月様に眼病予防を願って豆腐を供える。
事例3 常陸太田市(6)
9/3。子供が丈夫に育つことを願って、ミカヅキトウフといって豆腐を供える。毎月小豆飯
を炊く家もある。
事例4 美和村(7)
秋に三日月様の行事があった。
これらの事例中、真壁町は県西部にあり、後に報告する栃木県南河内町や二宮町と近接している。
南から順に勝田市、常陸太田市、美和村はいずれも水戸以北に位置している。県内市町村の悉皆調
査を試みていないため論断は難しいが、今のところ真壁町を南限としており、霞ヶ浦や利根川流域
の県南部では、三日月に関する信仰は報告されていない。
信仰の内容のなかで注目されるのは、1)祭日が9月の三日月であること。真壁町では1月を初
三日月様といって祭日を設定しているものの、9月の祭日が抜けているわけではない。おそらくは、
9月の大祭に対して1月を特に年始の初三日月様としたもので、特定の例祭日を定めていても、初
恵比須、初弘法などと年が明けて初めての祭日をまた別に祝う意味合いと同様のものであろう。2)
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東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
供物として捧げられる物が、県北部では豆腐、小豆飯であるのに対して、真壁町では三日月型の餅
がそれに加わっていること。3)祈願目的は眼病予防、子供の安寧な成育の二点。4)真壁町に
「三日月待供養塔」が存在すること。月待ち信仰の盛んな土地では、十九夜、二十三夜などを初めと
して、祈念を具象化した石造奉納物が頻繁に見られる。筆者の調査地である南河内でもこれらの造
立物が数多い(8)。しかし、三日月信仰に関する石塔は1基も確認されていない。岐阜県土岐市に1
基存在することが確認されているのみで、全国レベルで考えても真壁町に9基の「三日月待供養塔」
があることは異例の存在として捉えてよいであろう。
3.
栃木県下のミカヅキサマ
調査にうかがった南河内の家々の中に、一、二軒「○○には三日月神社があると聞いたことがあ
る」との話が聞かれた。確かに南河内周辺の市町村には三日月を信仰の対象とする神社仏閣、或い
は個人の屋敷神がいくつか存在しており、それらは鹿沼、粟野、壬生、田沼、小山、野木といった
宇都宮市以南の県南部に偏っている(図1参照)。いずれもオデキやイボといった腫れ物の治癒に御
利益のある信仰対象として評判が高く、腫れ物のなかには〈眼の腫れ物〉として麦粒腫(モノモラ
イ、メバチコの医学用語)も含まれているようである。治癒すれば豆腐を奉納するのが一般的であ
るが、なかには四角を削り取ったものをスマ豆腐と称して奉納する例もある。または、個人的な身
体の状況に則して祈願される場合以外に、毎月3日を祭礼日とし、殊に正月3日を盛大に祝う例が
多い。或いは、〈餅なし正月〉と連関すると思われる例や、密教系宗教者とのかかわりが注目される
例など様々であるが、ここに栃木県下の三日月信仰を概略したい。尚、各市町村誌から引用した記
述については註を付すが、註のないものは筆者の調査デ―タである。
*三日月神社‥‥〈祭神 月読命〉
事例5 栃木市川原田町
芹沢氏が天正15(1587)年に建立。イボ・アザ・シミ・ソバカスに効く。
事例6 田沼町白岩小城岩(9)
氏子は1/3に初参りするまで餅を食べない(餅精進)と、一年間オデキができない。
事例7 田沼町岩崎福戸入り
3/3。オデキができると豆腐をあげて祈った。絵馬あり。
事例8 鹿沼市上殿町
間宮氏が承応2(1653)年に建立。現在は駒場氏宅の氏神。祭日旧1/3。絵馬を多数保存。
事例9 二宮町大根田
子供の神様。フキデモノに効く。1/3・3/3・10/15が祭日。太々神楽があった。絵馬数点あ
り。
*仏 閣
96
ミカヅキサマを祀る習俗
0
20km
福島県
那
須
町
黒磯市
藤
原
町
塩原町
栗山村
矢
板
町
塩
谷
町
西
那
須
野
町
日光市
今市市
上河内村 氏家町
黒
羽
町
大
田
原
市
湯
津
上
村
南
那
須
町
足尾町
河内町
鹿沼市
群
馬
県
粟
野
町
田
沼
町
葛
生
町
西方村
都賀町
栃木市
足
利
市
佐
野
市
岩
舟
町
壬
生
町
国分寺町
市
貝
町
芳
賀
町
上
三
川
町
石
橋
町
南
河
内
町
烏山町
高根沢町
宇
都
宮
市
茂
木
町
益
子
町
真岡市
二宮町
宮
城
山
形
大平町
小山市
新
潟
藤
岡
町
野木町
馬
頭
町
小
川
町
喜
連
川
町
茨城県
長
野
福島
群馬
茨
城
埼玉
埼玉県
山梨
東京
神奈川
千
葉
図1 栃木県市町村区分図
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東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
事例10 小山市卒島 西念寺(浄土宗)
独立してあったものを、事情があって現在は寺が管理するようになった。その詳細は不明。
事例11 壬生町本丸 常楽寺(曹洞宗通幻派)
壬生城主の菩提所であるとともに、子供の守り仏として周辺地域で有名な存在で、子育て
の安寧を祈願する両親の参拝が多い。月と太陽と北斗七星を祀り、旧暦正月3日の大祭に
は多数の参詣者でにぎわったという。祭日は旧暦1/3から新暦1/3に移したものの、まだあ
まりに寒い時期で、新暦4/3に変更して現在に至っている。祭礼日には参拝者が豆腐を一丁
奉納するのが決まりで、本堂横で一丁150円(1996年現在)で売っている。かつては境内に
別棟の三日月堂があったが、火災をきっかけに本堂に併せて安置するようになった。祈願
の内容は子育て、開運が主である。
*屋 敷 神
事例12 粟野町久野 丸山氏宅
1/3。アザや中気に効果。屋内にもミカヅキサマの棚がある。
事例13 田沼町山形 荻原氏宅
3/3。豆腐を奉納。金持ちになる。小遣いに困らない。健康・無病息災。長寿。オデキの話
は聞かない。
事例14 壬生町藤井 倉井氏宅
ハレモノや眼病に効果。豆腐を奉納する。正月は12個の供え餅の一つが三日月型。屋敷神
を持っているのは倉井本家だけであるが、分家の家々でも三日月型の餅は作る。餅を食べ
るとオデキができるといって食べない。三日月型の餅は、本家の分まで自宅で作って届け
ていたが、昭和45年に本家が火災に遭ってからその習慣もなくなった。
事例15 壬生町上田朝比奈 小林氏宅(10)
デキモノの神様で1/3が祭日。スマ豆腐を奉納。その先祖に三人の兄弟がいて、早々に年貢
を納めたところ、名主から年貢を納めるようにとの通達がきた。その後は「もう納めた」
「まだ受け取っていない」の水掛け論となったため、三人は身の潔白を晴らすため三日月様
に願をかけて行を始めた。すると、名主宅では天井から蛇や石が落ちてくるといった怪異
に見舞われた。名主が悔い改め、三人が行をやめるとこの異変もおさまった。このとき三
人が行中の冷えた身体を暖めるために焚いた火のあとに建てられたのが三日月神社である
としている。また、近年までこの土地には修験者のような人が住んでいたという話もある。
事例16 芳賀町(11)
正月、倉の中にカクシゾナエといって鏡餅、半月型の餅2個、十二支を示す12個の小さい
餅を供える。
事例17 野木町(12)
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ミカヅキサマを祀る習俗
正月の餅は、三日月状に切ったモチを丸モチの囲りに置いて、これを三日月様と呼ぶ。正
月三が日のあいだ一家、一族、一村で餅を食べない習俗が多くあり、その理由としては、
モチを食べるとオデキになると言うことが多い。
散漫ながら、栃木県下の三日月信仰について述べてきたが、南河内の事例との比較を容易にする
ためにも、ここで簡単に要点となる事柄を拾い上げておこうと思う。
①祭祀主体が神社、仏閣、屋敷神と様々であること。神社の場合は創設期には一族の氏神であっ
たものも見られるが、現在はムラ単位の鎮守となっているものが多い。仏閣は壬生の常楽寺一寺と
みなしてよいであろう。次に、祭祀内容に大きな違いをみせるのが、個人の屋敷神として祀られて
いるものである。栃木県下の屋敷神は一般にウジガミサマと呼ばれ、それらの多くは稲荷を祭神と
している。三日月様を祀る家々では、稲荷とともに三日月様を庭内に併祀している例が多い。②祭
日は1/3・3/3・10/3の三つが出てくるが主なところは1/3であろう。③デキモノや腫れ物についての
御利益を説くところが多く、なかにはイボ・アザ・シミ・ソバカスといった皮膚病一般に範囲を広
げているものや、眼病治癒をうたうものは麦粒腫からの波及であろう。④供物は豆腐を挙げるもの
と、餅を挙げるものの二種類がある。事例16、17は特別な祭祀施設を持ってはいないが、正月に三
日月型の餅を供えるという習俗からみれば同様のものと考えうるので、ここに併せて掲載した。ま
た、なぜ三日月様を祀るようになったのかという明確な信仰由来譚を伝承している例がほとんどな
い中で、壬生町上田の事例15は異色といってよい。ましてや、敵対する相手に対して災厄をもたら
すことで自らの潔白を証明しようとし、願をかける対象として三日月様を選択し、〈行〉を行なって
いることなど、少なからず密教系宗教者が行なう呪詛に近い行為がなされていることには、注意し
ておかなければならないであろう。
それでは次に、南河内町の報告に移り、これまでの栃木県下の三日月信仰と若干の比較をしなが
ら述べてゆこうと思う。
二 南河内におけるミカヅキサマの諸相
1.
家のなかの神と仏
南河内町は栃木県南部に位置し、JR自治医科大学前が最寄り駅となる。昭和64年に一万二千人余
であった人口は、平成10年現在には二万一千人を越えるという急激な増加をみせているが、これは
町域西部台地上の駅前周辺の宅地開発によるもので、町域東部の田川流域の平地部分は水田と干瓢
畑がひろがり、大幅な世帯の流出入はみられない。そのため、本稿で報告する事例は国道新4号線
以東のこの平野部での聞き取りが中心となる。
南河内町における三日月信仰について絞り込んだ報告に入る前に、町内の家々の屋敷地内、或い
は家屋内でどのような神や仏が祀られ、どのような儀礼が行なわれているのかを概説しておきたい。
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東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
コタツノヘヤ
ナガシ
オカッテ
(6)
マユダマ
炉
ナンド
(6)
(6)
大黒柱
長者柱
オ
カ
マ
サ
マ
ミズガメ
フロ
J
カマド
神棚
↓
アガリハナ
(8)
ド
マ
↑
仏壇
↓
恵比須
大黒
ミカヅキサマ
笠間
稲荷
ナカノヘヤ
(8)
トコノマ
(8)
←盆
棚
歳神
3尺ロウカ
ゲンカン
ジゴク
ドブ
稲荷
ベンテンサマ
オ モ ヤ
馬
頭
観
音
札
ウ
マ
ヤ
→
コ
ヤ
→
マエドオリ
柿の木
シタベンジョ
蜥
クラ
図2 塚田昭吉氏宅屋敷図(本吉田)
100
ト
←コ
ノ
マ
違
い
棚
ミカヅキサマを祀る習俗
ここで取り上げるのは本吉田地区にお住まいの塚田昭吉氏宅の場合である(13)(図2参照)。
◆家屋の概況
塚田氏宅では昭和42年に、瓦と柱を替えるといった改築を行なった。それまでの家屋はゆうに百
年は経っている代物であった。改築したとはいえ間取り自体は現在の家屋にも継承されている。た
だ、改築した折りに、神棚と仏壇も新しいものにした。以前の神棚は幅六尺もある立派なものであ
った。また、仏壇を新調するときは古い仏壇は焼くのがよいとされているが、仏壇屋に相談したと
ころ引き取るというので渡したところ、磨き直して売ったらしいと後になって聞いた。それほど立
派なものであった。
部屋の間取りは、奥から順に若い夫婦が寝るナンド(六畳)、床の間と違い棚がしつらえられたト
コノマ(八畳)、ここにはエビスとダイコクの木製人形と笠間稲荷の陶製人形が置かれている。次に
炬燵用の炉が切ってあるコタツノヘヤ(六畳)、仏壇が置かれたナカノヘヤ(八畳)、家族が食事を
とるオカッテ(六畳)、神棚とトシガミの棚があるアガリハナ(八畳)の六間取りの形式である。神
棚は部屋の北に南面し、トシガミの棚は南側に北面しておかれている。土間と座敷をつなぐ部分の
柱をダイコクバシラ(大黒柱)と呼び、ここにオカマサマを祀り、毎年かけてゆく注連縄が何重に
も垂れ下がっていた。また、大黒柱のほかにも、二間東に立つ柱をチョウジャバシラ(長者柱)と
呼んで、家屋を支える大切な柱とした。家屋の南側には三尺の廊下があり、前方に広がる庭のこと
をマエドオリと称した。家屋の裏側の障子と雨戸は普段は閉じられたままで、北側の部屋は薄暗か
った。ゲンカン(玄関)からドマ(土間)に入ると、普段の煮炊きに使うふたつのカマドのほかに
自在鈎のかかったカマドがもうひとつあった。ここでは主に小麦カラを焚いた。その後ろにフロ
(風呂)と炊事に使う水を貯めておくミズガメ(水瓶)が置かれていた。北側の出入口近くにはコン
クリートで打ったナガシ(流し)が据えられ、ここで使った汚水は裏庭のジゴクドブ(地獄どぶ)
に流れるように配置されていた。溜まった水は一日も経つと自然と土に吸い込まれていった。その
東隣には釣瓶式の井戸があった。家屋の西側には、ウマヤがあって馬頭観音の御札を張っていた。
その隣には農作業用の小屋があってシタベンジョ(下便所)が設けられていた。ここには、子供が
お七夜を迎えるとお詣りし、桑の木で作った箸で子供に物を食べさせる真似をする。クラは昭和41
年に建たものである。家屋の北東に稲荷社があり、これを普通はウジガミサマ(氏神様)と呼ぶ。
ホトケ(仏壇)とともに稲荷社へも毎日水をあげている。子供が生まれた、入学したといった節目
には必ずお詣りする。また「分家はだすな」との先祖の遺言があって分家を持たないため、イッケ
の人がこの稲荷社に詣りに来るようなことはない。屋敷地に入る門の近くには、ベンテンサマ(弁
天様)が祀られている。以前は北から流れてきた川が丁度この部分に突き当たりL字型に曲がると
ころであった。マエドオリにある柿の木は「センゾサマ(先祖様)の木だから切るな」といわれて
大切にしている。いったい何年くらい経っているのか見当がつかない。
◆すまいのなかの神と仏
101
東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
・年末の大掃除をした後、晦日近くになると、家中の神様のため十本の幣束を用意する。先ず神棚
に二本あげるほか、トシガミサマ・オカマサマ・笠間稲荷に一本ずつ、家屋外では井戸とウマヤ
と蔵に供える。蔵では内部に積んである米俵に挿す。そして、ウジガミサマである稲荷社に捧げ
た後に弁天社にあげる。
・大黒柱にはオカマサマを祀り、毎年正月にかけ足してゆく注連縄が何重にも垂れ下がっていた。
注連縄の本数は百本ではきかないくらいあった。
・正月にミカヅキサマといって、三日月の形をした餅をつくってトコノマの違い棚に供える。二宮
町久下田方面にミカヅキサマを祀るところがあると聞いたことがある。
・トシガミサマには、正月間際に幣束をあげるほか、正月三ケ日と七日正月と11日のクワイリ(鍬
入り)に際してお供えものをする。季節柄必ずオミカンをあげる。
・正月6日はヤマイリ(山入り)といって、鉈を持って近くのヤマに出向き、木を切って来る習慣
であった。
・正月7日には、そこらの野菜を採ってきて七草のオゾウセン(お雑炊)を作って食べる。鍋にお
つゆを作って野菜を入れ、ごはんを入れた後、仕上げにお餅を入れてできあがる。
・正月11日をクワイリ(鍬入り)といって、朝早くに、松の枝に幣束をつけたものと鍬、オサンゴ
(米)を携えて田圃へ行く。年が変わってからこの日までは田畑には出ないものであった。目的の
田圃へ着くと、真ん中へ松を立て、持ってきた鍬でワセ(早稲)・ナカテ(中稲)・オクテ(晩
稲)と三つの畝を立て、オサンゴを撒き、カラスヨバリ(烏呼ばり)といってカラスを呼ばる所
作をした。三つの畝に撒いたオサンゴのうち一番早く烏がついばんだ畝の品種が今年の豊作を約
束するものと判断した。各家でも同じ行事をするため、あちこちから烏を呼ばる声が聞こえてき
た。また、この日はカワリモノを食べるものといい、キナコやアンコをまぶした餅(アベカワ)
を朝に食べた。
・正月14日にはワカモチ(若餅)といって正月になって初めてのお餅をついて、それまであげてい
たお供えの餅をあげ替える。それと同時にメ―ダマまたはマユダマ(繭玉)を作り、「みいりが良
くなるように」といって大黒柱に供え付ける。玉は真丸い形の白い餅で、葉のついたままのカシ
(樫)の木に鈴なりにつける。養蚕をしている家では米粉で繭の形に似たヒョウタン型に作ると聞
いたことがある。マユダマの餅をドンド焼きの火で焼いて食べるとオデキができないといった。
マユダマの行事は現在もしている。
・正月15日には、アツキカユ(小豆粥)を炊く。
・正月20日はオソナエクズシといって、14日に供えた餅をさげる。「二〇日の風にあてるな」といっ
て、実際には早めに19日の晩にさげてしまう。乾いてひび割れたお供えの餅はアゲモチ(揚げ餅)
にして食べる。
・二月の初午には赤飯とスミツカレを供える。スミツカレは年越しの豆を入れて作るならばあとは
他の材料は何を入れて作っても良い。7軒の家のスミツカレを食べると中気にならないといい、
102
ミカヅキサマを祀る習俗
お茶飲みに行き来しながら各家のスミツカレを食べた。この日は風呂をたてるものではないとい
い、「火の始末を早くしろ」と注意されたこともあった。
・2月8日はササガミサマ・ダイマナグ(12/8参照)
。
・2月20日はエビス講(11/20参照)。
・田植えが終わるとサナブリの行事をする。最後に植えた株三本を抜いて家に持ち帰る。抜いた後
には新たな株を植えなおしておく。持ち帰った株は一升枡に立てて米粉を真っ白に振りかけて神
棚に供える。サナブリは現在も行なっている。
・盆棚はナカノヘヤの東南隅に西面して置かれていたが、ナカノヘヤが盆の来客を迎えたときに接
待する場として使われ、盆棚だけでもスペースをとるといった事情から、平成3年のお盆からは、
トコノマの違い棚の前あたりに盆棚をしつらえるようになった。普通、盆棚がどちらの方向に向
いているかは、西ずまい(玄関を入って左手に座敷のある構造)と東ずまい(玄関を入って右手
に座敷のある構造)とで、東向きか西向きかが決まるのではないかと思う。また、すべての位牌
を盆棚に移してしまった後の仏壇にも、盆棚と同じく水や茶などのアゲサゲをする。正式になん
と呼ぶかは分からないが、カラッポの仏壇の中にルスバンをしてくれる何かがいるからという。
・11月15日の八幡様の秋祭りの日には、稲荷社の幣束を替え注連縄をあげる。赤飯を炊き近所の子
供達を呼んで振る舞う。今でも「ゴク(御供)だから」といって各子供に半紙を持たせ、重箱か
らひとっぱさみずつの赤飯を取り分けてやる。
・エビス講は11月20日と2月20日の二度行なう。11月のそれを農家のエビス講といい、2月のそれ
を商家のエビス講という。御神酒とケンチン汁のほか、オソバを打って供え、また、エビスサマ
はナマグサモノが好きであるといい、必ず尾頭付きの魚を供える。本当は鯛がいちばん良いのだ
ろうがサンマでも何でも尾頭付きならば良い。このときダイコクサマも一緒に祀るので、箸とお
ちょこはふたつ供える。また、家族銘々の財布をあげる。特に唱え事などはなかったが、「明日に
なったら中身が増えてるだ…」などと冗談をいった。
・秋と寒中にササガミサマの行事があった。暮れの12月8日には裏庭に竹を三本立てて上部を縛っ
たものにソバをあげた。2月8日には前庭に同じものを供えた。また、同じ日にダイマナグとい
って竿にメカゴをつけて屋根の上にあげた。或いは廊下からあがってぬいだ履き物をそのままに
しておくと、この晩に悪いことがあるとか、ハンコを押されるとかいって、履き物をみんな屋内
に入れた。
・12月15日をオタリヤといい、火伏せの神の日なので風呂をたてない。また、針仕事や機織りもし
てはいけない。特に祭祀する対象物はない。
2.
南河内のミカヅキサマ
南河内のミカヅキサマは、正月に三日月型の餅を作って家内に祀る行事自体、或いはその餅自体
を指している。家々によって祭日の不確かな例、祭祀の由来を無くしている例など様々ではあるが、
103
東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
情報の精粗を別とすれば、お話をうかがった町内32軒中の20軒の家でミカヅキサマを祀っていた
(表参照。尚、今後事例番号を記す場合は本表の南河内村落内の通し番号とする)。①祭日は1月3
日を中心とした正月期間を挙げ、正月行事として捉えられている。そして、②ミカヅキサマの祭場
は20軒中の10軒がトコノマと答え、あらたまった空間に祀られるといえよう。事例10の「ニシノザ
シキの正面」というのも三間つづきの家屋の一番奥まった部屋の正面の壁を指しているし、事例18
の「違い棚」というのも奥座敷の床間に並んでしつらえられた棚を指している。これらもトコノマ
と同様の意味を持つものと解釈するならば12例を数える。さらに、祭場を不明とする家が4軒ある
ことを考慮すると、実に16例中の12例が賓客を迎えるための公式の空間にミカヅキサマを祀ってい
ることになる(14)。神棚に供えるという家が2軒あったが、これは意外に少ない数字と受け取らねば
ならない。現代の一般的な傾向に違わず、南河内でも神仏祭祀の簡略化が進行しつつあり、第二章
一節で塚田氏宅の例を挙げて概説したように、家屋敷を守る様々な神仏はもとは特定の祭場を持っ
ていたものの、家屋の改築などに伴って次第にその場所を喪失し、或いは失念されて、先祖供養関
連は〈仏壇〉に、神様関連は〈神棚〉へと二ヶ所に収斂してゆく傾向にある。何でもありがたい物
は神棚に乗せておけといった発想である。しかしながら、様々な神様が本来祀られるべき祭場を失
くしてきている中で、ミカヅキサマはいまもトコノマを初めとする賓客の席、特別にもてなさなけ
ればならない神様を迎える席の指定券を持っているのである。ただし、祀るとはいっても、事例28
の的場の伊澤榮一氏宅ではジュウジョウマの南壁に常設の木製の祠をかかげ、これをミカヅキサマ
と呼んでいるが、③ほかの家々では特にミカヅキマサの御神体といったものはなく、三日月型の餅
を作ること、或いはその餅自体をミカヅキサマといっている。おそらくは、祭祀対象に捧げる供物
名がやがて祭神名として通用するようになったものと考えられる(15)。
ミカヅキサマに供える餅は、いずれもミカヅキ状の餅は欠かされないものの、その餅の形や配置
は家によって微妙に異なっている。大別すると、1)ミカヅキ型の餅のみが用いられる場合と、2)
ミカヅキ型の餅と丸餅がセットで用いられる場合の二種類になろうか。一番よくきかれるのは、三
日月型に弓なりに矯めた餅の中央に一個の丸型の餅を配するもので、19軒中の9軒がこの形に作っ
ている。このとき、「丸い餅をこしらえて、そのまわりに三日月型の餅を置くのよ」といった作り方
の手順を説明してくださる場合がほとんどであったが、なかには「太陽の丸い餅を置いて三日月の
餅を置く」と、これら二つが日と月であることを意識して供えている例があり(事例15・31)、或い
は、三日月型の餅ふたつを向かい合わせに置いた中央に丸型の餅を配する例(事例16)でも、やは
り太陽と月をあらわすのだとの話が聞かれた。また表中にはないが、上坪山の某家では三日月型餅
に六つの丸餅を配したものをオムツラサマ・オムツサマなどと呼んで、スバル(昴)六星を祀ると
いう。このような言説からは、ある程度の密教的宗教体系を拾得した専門家の関与が感じられよう。
これらにはどこか④日天月天信仰とつながる部分があるのかも知れないと思わせる。その他にも、
三日月型の餅と丸餅のほかに米と尾頭つきと四角い餅を盛った一升枡を同時に供える例(事例28)、
三日月型の餅のみを用いるものとしては、紅白二色に染め分けた三日月型の餅を二つ重ねるという
104
ミカヅキサマを祀る習俗
例(事例7・8)、三日月型の餅を三つ重ねる例(事例25)がある。各家々によってその形状と配置
は少しずつ異なっており、同じ村内に暮らす家同士でも他家からの影響を受けにくく、その家々の
流儀で毎年繰り返されてきた習俗であることが分かる。
次に、ミカヅキサマを祭祀する目的については、南河内ではそのほとんどが由来を失っている。
県下一般にはオデキやハレモノを治してくれる神様として信仰されているが、南河内ではそれほど
顕著に現れてはこない。ただし、「1月3日に餅を食べるとオデキができる」という例(事例10)や、
「今年一年オデキやハレモノができないように」といって祀る例(事例13)が少数ながら存在し、栃
木県下一般の三日月信仰と同様の効能を説く事例もある。さらには、伊澤氏宅(事例28)のように
ミカヅキサマを作神様そのものと伝承している例もある。山口氏宅(事例21)では「昔はミカヅキ
サマの餅を若い者に食べさせてはいけないといった。月は変幻自在に姿を変えてめぐるものでなの
で、若い者がこの餅を食べると、そこらを巡って腰が落ちつかなくなるから」といったユニークな
話も聞かれた。このように、ミカヅキサマの意味は時代の影響を受けつつ各家の趣向や各々の解釈
に沿って、多様に変化してきたもので、一概にその性格を決めつけるわけにはいかない。ただ、坂
本氏宅(事例15)では「正月の餅を大神宮様に供えて、ミカヅキサマを忘れるな」とよくいわれた
ものだといい、ミカヅキサマが正月に際しては家の神棚にある大神宮様と同等に扱われるほど、大
切にもてなさなければならない神様であると意識されてきたこと、トコノマに迎えるべき賓客であ
ったことに違いはないであろう。
なかには、町田の鈴木氏宅(事例3)のように、正月の三日月型餅の儀礼はないものの、屋敷神
として庭内にミカヅキサマの祠を祀る例もある。それはウジガミサマである稲荷社とともに屋敷の
北西に鎮座し、祠の左右側面には日天と月天が浮き彫りにされている。また、大嶋二三雄氏(事例
1)によれば、以前は成田にミカヅキサマを祀る堂があって、祭日には子供達が相撲をとるなどし
て賑わったという話も聞かれた。現在は各家々の正月行事の一貫のなかに組み込まれているミカヅ
キサマの信仰も、いつの時代か定かではないが、栃木県下一般にみられるように、南河内町内にも
ミカヅキサマを信仰する風習が広められ、これを祀る社殿が建立され、家々が屋敷神として勧請す
るような時期があったのかも知れない。
再度、南河内のミカヅキ信仰の特徴をまとめるならば、1)在所に三日月神社を持たず、他所の
三日月神社へ参拝に行くこともない。要するに崇敬社を持たず、個々人の家で行なう正月儀礼の一
貫として定着している。2)トコノマなど家屋内の賓客を迎える空間に祭場を設定する。3)供物
の神格化がみられる。4)日天月天信仰との接触の可能性がある。以上が南河内町のミカヅキサマ
信仰に特徴的なことであるが、最後にもう一つ注目しておきたいのは、三日月型餅に付随する12個
の丸餅についてと、正月期間中に餅を食べてはならないとする例(事例10・21)があることである。
105
東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
表 南河内のミカヅキサマ祭祀概略
話者名
1
2
3
4
5
祭日
祭場
餅の形状
いわれ・備考
町田
大嶋二三雄
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
大字成田にミカヅキサマのお堂があっ
て子供達が相撲をとった
町田
大嶋 武
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
町田
鈴木元子
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
屋敷神の祠に三日月と日天の
線彫りがある
正月
机の上
ミカヅキ型
町田
鈴木ナヲ
?
町田
野沢喜久治
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
町田
秋山ユキエ
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
7
町田
後藤喜八郎
1/1∼
13∼19
トコノマ
8
町田
後藤ミチコ
正月
トコノマ
9
薬師寺
大門フサ
正月
オカッテのナガ
シの横
10
谷地賀
落合忠男
1/3
ニシノザシキの
正面
三日月型餅に丸餅を添わせ、
小さ
い二重丸餅六つとともに添える。
正月三日に餅を食べるとオデキが
できる
11
下文挾
佐藤博之
12/30
トコノマ
二重丸餅とともに三宝にのせて
トコノマへ
12
仁良川
蓬田トク
1/3
?
?
仁良川
飯野武久
1/3
?
オデキ・ハレモノができないようにミカヅキ
サマを祀る
14
仁良川
石川源市
正月
トコノマ
15
仁良川
坂本重通
1/1
神棚
日月
16
山王山
上野ミチ
1/3
神棚
月 太陽 月
6
13
106
紅
白
紅白
紅白ふたつの三日月型餅を重ね、
紅白の二重餅を六つ添える。
13日
におろし、
若餅で搗き替えて19日
まで供える
紅白の餅ふたつ
?
12個の丸餅。
12個目を囲むように
三日月型の餅をつける
太陽と月を表す。
「大神宮に供えて
ミカヅキサマを忘れるな」
と言われてき
た
太陽と月を表す
ミカヅキサマを祀る習俗
17
中川島
稲田徳次
18
本吉田
塚田昭吉
19
磯部
塚原甚一
20
21
22
23
24
12/31
∼1/11
14∼19
トコノマの違い
棚
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
?
?
?
東根
塚原 孝
1/1
東根
山口市郎
1/3
三日月型餅に丸餅を添わせたもの
と、
二重餅を一緒に。
14日の若餅に
搗き替えて19日まで供える。
二宮町久下田にミカヅキサマを祀る神
社があると聞いたことがある
月は廻るもの。
若者がこの餅を
食べると腰が落ちつかなくなる
ので食べてはならないという
?
上坪山
小島 昭
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
上坪山
野口 武
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
上坪山
松本ナカ
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
上坪山
伊澤安雄
正月
トコノマ
26
的場
伊澤ノブコ
正月
トコノマ
的場
藤沼 繁
1/2頃
的場
伊澤榮一
1/1∼
3∼14
28
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
25
27
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
三日月型の餅を三つ。
ミカヅキサマな
どの特別な呼び方はない
?
トコノマ
?
ジュウジョウマに祠を
常設。
餅はトコノマへ
縁側にも供物。
三
ケ所で祭祀
29
的場
川井嘉一
1/3∼
14∼19
トコノマ
30
台坪山
大嶋昭男
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
31
台坪山
大嶋丑之助
正月
三ケ日
トコノマ
32
絹坂
高山安次郎
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
三日月型餅に丸餅を添わせ、
小さい
二重丸餅六つとともに盆にのせる。
ミカヅキサマの餅はトコノマに。
祠には
二重餅。
また、
1/3の早朝、
縁側に一
升枡に生米、
ニボシなどの尾頭つき、
四角い餅を入れて踏み台にのせて
供える。
14日の若餅にミカヅキサマの餅
は搗き替えない。
作神様である
14日の若餅に他の餅と一緒に搗き
替えて19日まで供える。
栃木市に
はミカヅキサマの神社があって、
祀ると
ハレモノができないという
蜩蜩蜩
太陽 月
蜩蜩蜩
蜩蜩蜩
太陽と月を表す。
ミカヅキサマの餅は四日にさげる
蜩蜩蜩
107
東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
3.
三日月信仰の問題点――正月の餅について――
では、この12個の丸餅と、餅を食べない禁忌について、もう少し詳しく問題点を指摘しておこう。
南河内では、石川氏宅(事例14)で、11個の丸餅を並べ、12個目の丸餅を囲むようにして三日月
型の餅を配するといっていた。この地域では一例のみしか聞き取り得なかった特殊なものであると
しても、壬生町藤井の倉井氏宅でも、普段の供物は豆腐であるが、正月の供え餅は12個でその内の
一つを三日月型に作るといい、芳賀町では、正月に倉の中にカクシゾナエといって鏡餅、半月型の
餅2個、十二支を示す12個の小さい餅を供えるという。また、後藤氏宅、落合氏宅、伊澤氏宅(事
例7・10・28)では、三日月型の餅に小さな二重ね丸餅を六つ添える。これらも丸餅の数からいえ
ば12個と縁がないわけではない。
分散した地域の少数例ではあるが、この12という数字には多少こだわっておく必要があろう。な
ぜならば、ミタマノメシやオカノモチとの関連が想起されるからである。信越以東の地域で、正月
16日などに年棚や床の間や仏壇にミタマノメシと呼ばれる米飯を供える習俗が散見され、これを年
神との関連で捉えようとしたのが柳田であった。ただし、柳田によれば米飯を器物に高く盛り上げ
る形と、握り飯にこしらえて供える形があり、握り飯の場合その数は地方によって五つ、六つ、九
つ、一四などと色々で、「決して何処でも一二とは極まって居らず」、通常の年始にあたっては一二
個、閏年には一三個の握り飯をこしらえる習俗には、「何故に毎年判りきった月の数を、斯うして表
示するかといふ理由もない」とにべもない見解を加えている。つまりは12個、閏に13個というのは
月数にとらわれ、後に意味が付加されたための産物であり、本来のミタマノメシ行事を理解する上
では、さしあたって重要な要素ではないとの分析だったのであろう(16)。盛り飯、握り飯状態の米を
供えるミタマノメシと、餅を供物とするミカヅキサマとを安易に結びつけることは危険であろうか。
ただ、宮城県下などではオミダマサマといって12個の餅を仏壇に捧げる例が報告されているため、
供物が米か餅かにそれほどこだわる必要はないのであろうか。
或いはもう一つ12個という数字があらわれる習俗がある。これは早くは『秋田風俗問状答』にウ
(17)
に於いてオカノ
ガノモチと記されたもので、風俗研究の先駆けである菅江真澄も『男鹿の寒風』
モチとして報告している。宮沢村では正月2日にミタマノメシとともにオカノモチを供物として、
亡くなった親の霊を呼んだとしている。家人の数だけ餅を丸めて捧げ、2月9日におろして食べる
が、決して他家の者には食べさせないとか、家直系の長男のみが食べるともいう。このような習俗
は脇元村や笹子村や平鹿郡にも散見されるが、秋田のみならず青森、山形、新潟などの諸県にも存
在し、山形県東田川郡では餅の数を一年の月の数だけ作るという(18)。
残念ながら、南河内に於いてはなんのために三日月餅に12個の丸餅を添えるのかが伝承されてい
ないため、三日月習俗の中になぜ12個の餅がセットされるのか、月を祀ることから月の数だけと発
想されただけのものなのか、ミタマノメシ、オカノモチ的要素があるものなのか、現時点では明確
にはできていない。本来、先祖供養的目的で作られてきたオカノモチ習俗に、ミカヅキ信仰が習合
した可能性が指摘できれば、民俗宗教の複合性、可変性についても報告できるのであるが、なにぶ
108
ミカヅキサマを祀る習俗
んにも、南河内に於ける餅12個の伝承が、その来歴を失っているためここでは保留として、今後類
似した事例に注意してゆきたいと思う。
次に、もう一点餅について気がかりな事柄を挙げておきたい。
野木町の正月の餅は、三日月状に切ったモチを丸モチの囲りに置いて、これを三日月様と呼ぶと
いう。餅を三日月状に切るというのはなかなか難しいことなので、おそらくは餅がまだ柔らかいう
ちに手で成形するのであろう。この配置は南河内でも最も多く聞かれたかたちと同様である。そし
て更に、正月三ヶ日のあいだ一家、一族、一村で餅を食べない習俗が多くあり、その理由としては、
モチを食べるとオデキになると言うことが多いという。また、田沼町白岩小城岩の三日月神社の氏
子は、正月3日に初参りするまで餅を食べないと一年間オデキができないとし、これを餅精進と呼
んでいる。壬生町藤井の倉井氏宅でも餅を食べるとオデキができるといって食べないという。南河
内の落合氏宅で、正月3日に餅を食べるとオデキができるといっているのは、反対にオデキができ
るから餅を食べないという意味とつながるものであろう(事例10)。山口氏宅では若者が食べると腰
が落ち着かなくなるといって餅を食べさせないとしている(事例21)
。
これもまた少数例ではあるが、これらの家々ではミカヅキ習俗に付随して餅を食べない習俗が伝
承されてきているのである。この二つの習俗はどのようにしてセットで伝承されるに至ったのであ
ろうか。ミカヅキ信仰に〈餅を食べるとオデキができる〉という禁忌が存在し、それがたまたま一
連の正月儀礼の中に定着普及したため、正月に餅を食べない結果となったものであろうか。これは
〈餅なし正月〉の発生を結果論的に捉えた場合である。或いは、〈餅なし正月〉のあった土壌にミカ
ヅキ信仰が上乗せされて餅を食べない理由の説明役を果たしたものであろうか。〈餅なし正月〉を伝
承する地域では、餅を食べるなという禁忌を破った場合に被る罰則を、併せて伝えるものが多い(19)。
祟りに遭う、火災に見舞われる、搗いた餅が赤く血の色に染まるなどとしている。餅を食べるとオ
デキができるというのも、これらの罰則の選択肢の一つであったのかもしれない。この場合は〈餅
なし正月〉習俗が先行し、デキモノ忌避の属性を持つミカヅキ信仰が、その説明要素として力を貸
したことになろう。栃木県下において、餅を食べるなという禁忌を破った場合に課される罰として、
オデキができることをあげている家々は、三日月様をも信仰している例が多いといわれており、こ
の両者がどのように連動しているのかは注意を払ってゆかねばならないであろう。
簡略ながら、ミカヅキ信仰の中にあらわれる正月餅の扱いについて、オカノモチとの共通性、〈餅
なし正月〉との連関性の二点について述べた。今の段階ではどちらも明晰にするだけの力量がなく
残念であるが、今後これらの疑問点を頭に入れた上で、調査を重ねてゆきたいと思っている。
まとめにかえて
茨城県、栃木県、ひいては栃木県内の南河内町と、順を追って三日月信仰のありさまを見てきた。
それぞれの章でそれなりのまとめはしておいたつもりなので、総括は簡単に済ませ、むしろ今後の
展開について現在考えうる可能性を述べて、本稿のまとめとしたい。
109
東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
茨城県下では、三日月の祭日を9月3日とし秋の行事と認識している例がみられたが、栃木県下、
殊に南河内ではこれを正月行事の一環に組み入れて存在している。また、豆腐を奉納する例ととも
に三日月型の餅を奉納する例が多くを占めること、本来は奉納物であるはずの餅自体をミカヅキサ
マと呼ぶ供物の神格化が起こっていること、腫れ物治癒の祈願はそれほど明確に意識されていない
ことが南河内町の三日月信仰の特徴といえる。そして、正月餅に注目した場合に、〈ミタマノメシ〉
や〈オカノモチ〉との共通性が考えうること、〈餅なし正月〉と連動している可能性があることを指
摘した。
また、壬生町上田の小林氏宅の屋敷神には、三兄弟の〈行〉を伝える由来譚があり、密教系宗教
者の関与の可能性が考えられることを述べたが、榎本もまた、教義中に日月星に関わる部分を持つ
加波山信仰、ひいては真言宗の影響を示唆している。栃木県下は勿論のこと、群馬・栃木・茨城を
中心とする北部関東には、なぜか天体を意識した信仰対象が数多く存在しているのは確かであり、
太陽・月・星・雷といった天体を意識した民俗宗教が顕著にみられることが、当地の民俗のひとつ
の特徴となっている。栃木県下でも、天祭、或いは天念仏などと呼んで旧暦3月や4月、8月に太
陽を祀る行事があり、県下に二百余例が確認されている。或いは虚空蔵信仰とのつながりが指摘さ
れている星宮神社は県下に157社登録されているし、北斗七星を祀る妙見神社の数も多い(20)。もうひ
とつつけ加えるならば、盛夏の稲の成長期に雷雲の発生しやすい土地柄から、雷を除けるのに御利
益があるという雷電神社を奉斎する事例も多い。その原因としては、日光山修験の関与と影響が大
きいのではないかといわれてきたものの、密教的習俗に関してはすべて日光修験に結びつけて考え
られる傾向がなきにしもあらずで、日光修験がどのようにどんな形で民間レベルの習俗に影響を与
えたのか、具体的に検証した報告は提出されていないのが現状である。そのため、ミカヅキ信仰が
日光修験の影響下にあるのか、加波山修験の影響を受けたものなのか、日天・月天、或いは太陽・
月・星の三体信仰など天体を意識した信仰のなかでの位置づけは可能なのか、これらは大変興味深
い観点ではあるが、ここではまだ言及する力も用意もないので以降の課題とし、おおかたの御教示
を賜りたいと思う。
そして、静岡、岐阜、三重といった東海地方に、ここで報告した北関東の三日月信仰とはまた異
なった意味を持つ事例があることを附記しておきたい(21)。信仰する対象物は同じであってもその意
義、目的が違えば習俗としては別種のものと捉える必要があろう。論の展開が多岐にわたることを
恐れて、ここでは敢えて触れずにおいたが、いずれ稿を改めて報告するつもりである。
〈謝辞〉この論稿は南河内町史編纂室の町史編纂事業の一環として調査させていただいたものの、
編集の都合上掲載されなかった調査デ―タをまとめ、『日本民俗学会第50回年会』(1998)
に於いて発表した草稿に加筆訂正をしたものである。鎌田久子先生には数々のアドバイ
スを賜った。調査では丸谷仁美氏、大山有子氏の多大なる御協力を得た。先行研究が見
当たらず困りきっていたときには、大島建彦先生、中島恵子先生、長沢利明先生、小池
110
ミカヅキサマを祀る習俗
淳一先生ほかより貴重な御助言を頂いた。国立天文台職員の方々は天体知識のない者に
御丁寧に月の軌道の話を説いてくださった。あわせて御礼申し上げたい。また、お名前
を挙げればあまりの数になるためここではいちいち掲げないが、南河内町の皆々様の温
かい御教導にこころより深謝申し上げます。
〈註〉
盧
1910 柳田國男「柳田より白鳥博士へ」
(『石神問答』書簡29 定本第12巻)。
盪
1997 榎本実「三日月信仰について」
(茨城民俗学会『茨城の民俗』No.36)
。
蘯
1982『故事俗信ことわざ辞典』小学館。「ミカヅキ」の項。
盻
1986『真壁町の民俗』。1990『真壁町の石仏・石塔∼野仏∼』。1993『真壁町の石造物』。
眈
1975『勝田市史 民俗編』。
眇
1979『常陸太田市史 民俗編』
。
眄
1993『美和村史』
。
眩
1986『南河内町の野仏』南河内教育委員会。南河内に現存する石碑塔は約460基で、その内訳は十九夜
塔(103基)、庚申塔(48基)、馬頭観世音(38基)、地蔵尊(31基)、二十三夜塔(24基)となっており、
圧倒的に月待ち・日待ち信仰に関連する碑塔の多いことが分かる。南河内に於いては特定の日や月齢を
待って会合する習俗が盛んであった。現在、様々の講集団が廃絶してゆくなかでも、日待ちとしての庚
申講と月待ちである十九夜講はなお盛んである。十九夜塔の造形は頬杖をついた半跏思惟の如意輪観音
像が多く、子宝や安産祈願を目的にムラ単位で営まれる女人講中の名で造立されている場合がほとんど
である。しかし、なかには十九夜塔そっくりの観音像を浮き彫りに刻んでいるものの、個人の戒名をも
刻んであり、墓石と判断できるものもある。或いはお産が原因で死亡した産死者に対して、十九夜塔形
式の墓石を建てる習俗があったのかとの疑いも残っている。このように、十九夜・二十三夜をはじめ、
十六夜・十八夜・二十六夜など月の満ち欠けに注目した女性達中心の講が、ここ南河内に顕著な分布を
みせていることは確かである。
眤
1982『田沼町史自然・民俗編』第一巻。
眞
1985『壬生町史民俗編』。
眥 1997『芳賀町史報告書第一集 芳志戸の民俗』。
眦 1988『野木町史民俗編』。
眛 拙稿「家の神と仏」
(1995『南河内町史民俗編』)に掲載したものに加筆修正の後に転載。
眷 「田の字型」民家の空間的意義については、拙稿「家の神と仏」(1995『南河内町史民俗編』835∼838
頁)を参照いただきたい。四間取り・六間取りの家屋においては、棟木を境に裏空間と表空間に分けら
れること、アガリハナと呼ばれる玄関口に一番近い部屋や、トコノマと呼ばれる奥座敷が表空間にあた
ることを示した。そして、従来イエを守ってきた内々の神であるオカマサマやダイコクサマが裏空間に
おいて祭祀されるのに対して、これらとは性格を異にした他所からの勧請神、外来神が表空間に祀られ
る傾向にあることを述べた。この家屋空間認識からいうとミカヅキサマは最賓客の位置づけにある。
眸
佐々木勝「鬼の宿と笹神様」(一九八八『厄除け―日本人の霊魂観』名著出版150頁)にて、祭られる
べき神そのものの名称でなく、祭神に捧げられる供物の名称が神格化して祭神名として通用する場合の
あることを指摘している。南河内に於いては12月と2月8日のコトヨウカをササガミサマと呼ぶが、こ
れも何物かに捧げる供物を乗せる供物台を笹で作成することから波及した行事名で、つまりは供物の神
格化が起こった例といえよう。
睇
柳田國男「みたまの飯」、「箸と握飯の形」、「みたま思想の変化」(1946『先祖の話』定本第10巻)をは
じめ、1928「眞澄遊覧記を讀む」(『雪国の春』定本第2巻)、「みたまの飯」、「年の餅」(1948『村のすが
た』定本第21巻)などでも折に触れて言及している。そして、柳田國男「眼流し考」(1955『年中行事覚
書』定本第13巻)、1926「年棚を中心として」(『新たなる太陽』定本第13巻)では、正月に供えられるミ
タマノモチは、盆に際して先祖のホトケとは別に迎えられる外精霊、無縁仏に捧げられる供物に対応す
るとの見解が披瀝された。続いて、「家永続の願ひ」(1931『明治大正史』定本第24巻)では、「所謂無縁
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東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
佛の血食を絶たれた者は此世の供養がいつも十分で無いので、その嘆き羨む念が間接に家々の幸福を撹
き乱さうとして居た。之に対しては施餓鬼とか〈みたま〉の飯とかの、外の聖霊への色々な社会事業が、
生きて居る者の為よりも一層懇切に行はれることになった」と述べるに至り、柳田の中で、正月にミタ
マノメシの供えを受けるモノと、盆に供養を受ける餓鬼とを対応させたかたちで捉え得るものと位置づ
けされていたことが分かる。
睚
菅江真澄「男鹿の寒風」
(1968『菅江真澄遊覧記5』平凡社東洋文庫)。
睨 1955民俗学研究所編『改訂総合日本民俗語彙』平凡社。
睫
1979坪井洋文『イモと日本人―民俗文化論の課題』未来社。1988都丸十九一「餅なし正月と雑煮」『日
本民俗学』174号。1991安室知「餅なし正月・再考―複合生業論の試み―」『日本民俗学』188号。
睛
1993瀧田浩二「天祭の研究―太陽信仰行事としての天祭へのアプロ―チ―」(『下野民俗論纂』下野民
俗特集号 第33号)。1994佐野賢治「日本星神信仰史概論―妙見・虚空蔵信仰を中心にして」(佐野編『星
の信仰―妙見・虚空蔵―』渓水社)において、主祭神の内容を分類することで、星宮神社と虚空蔵菩薩
の関係を詳述し、そこに日光修験をはじめとする宗教者の強い布教活動があったことを指摘している。
ほか、加波山関連については、1984宮本袈裟雄「加波山信仰の展開と山先達」(『里修験の研究』吉川弘
文館)、1986今瀬文也「加波山信仰について」(『茨城の民俗』NO,25)、1997神原百世「加波山の信仰」
(『西郊民俗』159号)。
睥
静岡県磐田市の事例は鎌田久子先生から、岐阜県揖斐郡の事例は中島恵子先生より、三重県上野市の
事例は筒江薫氏より御教示いただいている。せっかくの御教示をなかなか成果としてあらわせない力不
足をお詫びしつつ、東海地方の三日月信仰については改めて報告することをお約束したい。また、少な
いながら東京都下の二例を補足しておきたいと思う。「三日月さまに豆腐を上げて子供のヨナミ(下痢)
を治してくださいとお願いする。ヨナミだよ。ヨナミじゃ三日月さまにお願いしたほうがいいって言っ
て、三日月さまにお豆腐一丁あげて、お願いしたことがある。縁側などに、お豆腐一丁を丸のまま。お
皿にのせて上げましたよ(東京都狛江市)
」。「台集落の一軒がガッテンサンを祀っている。床の間の障子
窓の桟の上に祀るが、特に御神体はない。1/3に小さなオスワリ、3/3に菱餅を供える(東京都町田市)
」。
狛江市の事例は、子供の下痢症状の治癒を三日月に祈るもので、やはり豆腐を一丁丸まま供えている点
が興味深い。また、町田市の事例は、祭祀場所が「障子窓の桟の上」という記述が何処を指しているの
か意味不明であるが、特に御神体はないものの祭祀対象をガッテンサンと称していること、祭祀する場
が〈トコノマ〉であること、祭日が1月3日であるなど、南河内との共通点が見い出され、近隣地区を
も含めた今後の聞き取り作業に可能性を感じている(1995中島恵子「今はむかし23 月と暮らし」『広報
こまえ』東京都狛江市、1993東京都教育庁生涯学習課『町田市小野路地区文化財調査報告(下)民俗・
人文地理編』)。
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