[最終講義] 島 の 教 育 ―教師の立脚点を求めて― 文教大学教授 蛭 田 政 弘 (2013.1.12 於:第 35 回ペスタロッチ祭) はじめに みなさんこんにちは。今日は土曜日の遅い時間にも関わらず、多くの学生の皆さんやご 縁のある先生方にお見えいただいて、大変ありがたいと思っております。どうぞよろしく お願いします。 ここに掲げられている「島の教育」というテーマで話してみようと思ったのには、動機 があります。一つは、東京都の教員を希望した場合には、島に赴任する可能性があるわけ です。よく皆さんから、 「島に行けと言われたらどうしたら良いだろうか。」という進路相 談を受けます。そのため、いつか島についてまとまった話をしたいなと常々思ってきたの ですが、なかなかその機会がありませんでした。そこで、最終講義というような形で島の 話をしてみたいと思ったのが一つです。 もう一つは、 “島”というのは、ここでは伊豆諸島をいうのですが、私は、そのほとんど の島に渡っておりまして、それぞれの教育事情などについて学ぶ機会がありました。そう いう意味では、 「島の教育」を私の密かなライフワークの一つに数えています。ただ、島の 教育というのは、日本の教育の中でマイナーな領域なもので、あまり話題にはなりません。 へき地教育大会というものがありまして、私も何度かそちらの方に招かれて行くのですが、 へき地教育といっても、島の場合と山間部の場合とでは少し様相が違います。そんなこと で、 「島の教育」と私は言っているのですが、実は日本も島国なのです。ですから、埼玉県 も島の教育なのです。東京都も島の教育なのです。このようなフレームでものを考えてみ ると、実は色々な見方ができるかなとかねがね思っています。皆さんはどうでしょうか。 日本は島国だなと実感されることは少ないと思いますが、例えば、外国から帰ってきて日 本を見たときには「日本は島国だな」と実感することがあります。というわけで、島国と いうような大きなフレームもあります、ここではもう少し小さく、伊豆諸島に限定して、 しかもその中で、私が赴任した“八丈島”といったさらに小さい島に限定したお話をさせ ていただきたいと思っております。 1 八丈島の定時制教師として赴任 それでは、お手元に資料もありますので、資料の 3 ページを開けていただけますか。 伊豆諸島というのは、伊豆大島、利島、新島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈 島、青ヶ島の九つの島から成り立ちます。“伊豆九島”です。ところが、よく“伊豆七島” という言葉を聞いたことがあると思うのですが、あれは島の数からいうと間違いです。で はなぜ伊豆七島なのか。それは、定期船が伊豆諸島に運行されていまして、運行会社が、 自分の船を定期便として行く島々にちなんで、観光用に伊豆七島と言いました。ですから、 島の数でカウントすると、伊豆九島ということになるわけであります。 これら伊豆諸島はいずれも火山島で、火山によって生まれた島々です。ですから伊豆諸 島の人々は、運命的に火山と共に生きる人々なのです。逆に言うと、人々は火山を恐れ、 敬いながら共に生活しています。皆さんも知っての通り、全島民避難というのがありまし た。2000 年には、三宅島が噴火しましたね。さらにその少し前、1986 年には伊豆大島が噴 火をしました。私はこの伊豆大島の噴火の時に直接かかわりをもったのですが、 「奇跡の全 島避難」と後に言われました。あの時は大変でした。三宅島の時も大変でした。今はいず れも島民が帰島できました。 少し歴史を振り返ってみます。もっと古い時代の 1785 年です。 天明 5 年には、青ヶ島が大噴火しまして、この時には 202 人が隣の島の八丈島に避難をし、 125 人が死亡しました。特に青ヶ島の場合には、後で少し触れますが、非常に困難な自然環 境にありまして、当時としては多くの人々が被害に遭いました。 私は、八丈島に定時制の教師として赴任しました。当時の時代状況が皆さんには想像で きないと思いますが、私が大学を卒業する時代は、日本は高度経済成長期でした。今はデ フレで不況が続いています。皆さんは本当に苦しんでいますが、あの当時はインフレに入 っていまして、東京オリンピックも終わり、日本は右肩上がりで経済が成長していた時代 です。ただし、大学生活はどうだったかというと、大学紛争に明け暮れていまして、落ち 着いて学ぶ環境ではなかったなと今は思います。その後、東京都の場合は高校紛争があり、 大学紛争に似たような状況が続きました。この時代の教員採用試験というのは、今とだい ぶ様相が違いました。ちょうど高度成長期で子どもの数も多かったこともありまして、教 員採用試験は各県別に競争して採用試験を行っていました。現在では関東甲信越などは同 じ日に採用試験を行いますが、当時、関東近県はみなバラバラに行っていました。 幸いなことに東京都にも合格したのですが、それ以外にもいくつかの県にも内定をいた だいたため、どこに行こうかなと思っていました。そこで、最初に声がかかったところで 教員になろう、と思っていました。そんな矢先に、島にいかないかという話が 10 月にあり ました。10 月というのは結構早い方で、現在ではだいたい 2 月・3 月ぐらいになります。 10 月に声がかかり、いやに早いなと思い人事課に伺ったところ、島でも“八丈島”に行か ないかという話になりました。私は八丈島については全く知識がありませんでした。当時 の私の意識状態はどうかというと、積極的に教師になろうという意識でいたわけではあり ませんでした。この当時、 「デモシカ」教師という言葉がありました。この言葉は当時の文 部大臣だった永井道雄氏がつくったものと言われています。「教師にデモなろうか」「教師 にシカなれない」という意味で、もっともそれとは違う意味で、 「デモにシカ行かない教師」 という意味もありました。私はどちらかというと、積極的に教師を目指して勉強したり、 教師になるぞという覚悟でいたりしていたようには思いません。漠然と教師にデモなろう かなと思っておりました。ですから、島に行かないかと言われたときに、最初に声がかか ったところに行こうと決めていましたから、 「はい。」と返事をしてしまいました。すると、 「君ね、廊下で待っている人がいるから、すぐにその人と話してきなさい。 」と言われ、す ぐに廊下の隅に行ったところ、おじいさんのように見えた方が一人待っていました。その たね お 方がのちにお世話になる菊池胤勇さんという方でした。当時、定時制では教頭という制度 はありませんでした。定時制主事である菊池さんが、「来ませんか。」と非常ににこやかに 私を誘ってくれました。 では、なぜ 10 月に内定が得られたかというと、島はへき地教育というジャンルに入り、 希望して赴任する人が当時は少なかったため、新規採用の教員にまず声をかけて、普通の 採用よりも先に採用してしまおうという制度がありました。こういう仕組みがよくわから なくて、 「デモシカ」教師だったため、「まぁ、いいか。」と私は思い、「よろしくお願いし ます。 」と返事をしてしまいました。これが運命の分かれ道でした。その菊池先生には、 「島 は空気がいいよ。 」 「酒が美味いよ。 」 「魚が最高だよ。」と良いお話ばっかりされました。 「酒 はいつも家の中に瓶で置いてあります。」なんて言うものですから、「どんな風に置いてあ るのですか。 」と聞くと、 「島には芋焼酎が家の中に置いてあり、いつでも飲める環境にあ ります。 」と言われました。私は当時お酒を嗜んでいたものですから、魚もおいしいし、こ れでいいかなぁと、飲み物や食べ物に釣られていったような感じになりました。 八丈島というのはどういうところかと言いますと、東京から約 290 キロ、伊豆諸島では 最南端に位置します。年平均気温は 18 度ですから、非常に暖かいです。私は、天気予報で 八丈島を必ず見るのですが、10 度以下になるということはめったにありません。高温多湿 で、雨がよく降ります。私が赴任した当時の人口は、10000 人ぐらいだったと思います。 現在の人口は、8273 人(平成 24 年 8 月現在)です。主な産業は、資料に記載してあるよ うに、農業は花き観葉植物です。更に沿岸漁業、観光サービスです。小学校は4校あり 362 人、中学校は 3 校あり 201 人、高校は 1 校 203 人、定時制は 12 人です(平成 23 年 5 月現 在) 。 圧倒的に第三次産業が多いのですが、産業の中でも八丈富士の裾野は牧畜に適した土地 で、塩分が植物に含まれています。それが牛にはとても良いらしく、放牧されています。 そのため乳牛の飼育も盛んです。 資料の 10 ページを開けてもらえますか。ここに八丈島の地図があります。八丈島も火山 島です。下の方に三原山があり、これが一番古い山で標高 700m あります。そして、新し く爆発して生まれたのが八丈富士で 854m です。この二つが合体して生まれた島です。伊 豆諸島はいずれも平野というものはないのですが、八丈富士と三原山とが合体したところ がちょうど窪地になり、ここが島の中の平野部になっています。その真ん中に八丈島空港 があります。そして、港は東側の方に底土港というのがあります。もう一つが八重根港で す。島は、船が着くには一つの港だけではいけません。片方の港が荒れるともう片方がな いでいますので、港は二港式でないとうまくいきません。三原山の下の方に、地熱発電所 があります。現在、自然再生エネルギーが注目されていますが、八丈島の 25%の電力は地 熱発電でまかなわれています。東京都は将来 80%ほどを地熱発電で賄おうとしているよう です。集落は、八丈富士には三根と大賀郷、三原山の方には樫立、中之郷、末吉があり、 島は5つの集落から構成されています。八丈島は、ひょうたん型の島をしています。です から、八丈の人々は、NHK の「ひょっこりひょうたん島」という人形劇のモデルは八丈島 だ、と言っていました。もっとも、全国各地で我が島こそがそのモデルだという声がある みたいですが。 1965 年 3 月の末に、黒潮丸という 500 トンぐらいの船に乗って、夜の 9 時頃に竹芝桟橋 から八丈島に向かいました。500 トンというのは小さな船で、 長さ 50 メートルぐらいです。 初めて船に乗りました。二等船室の船底に乗りました。船というのはエンジン音が非常に きつく、二等船室だったため、船のエンジン音が直に体に響いてきました。伊豆大島に行 くぐらいまでは、初めての遠洋航海だという感じで乗っていました。ところが、冬の伊豆 諸島の海は非常に波が荒くて、しだいに船底で転がってしまったんです。目が覚めた時、 島の人も一緒にいたので、 「どうしてこんなにもゴロゴロと体が動くのでしょう。」と聞い たら、「今、黒潮を超えているからだ。」と教えてくれました。ちょうど明け方に近くなっ たため、窓から外を見ると、黒潮が滝のようにドドドドドッと流れ、船がそれに従って揺 れていました。黒潮に揉まれる黒潮丸で、翌朝にやっと八丈島に着いたという経験をしま した。八丈島に着き、港で待っていた車に乗せてもらったのですが、人家が見えなかった ため、無人島かなと思ってしまうほどでした。実は、人家は木々の中にあるのです。なぜ かというと、島では風が強いので、人家は木の中にこっそり建っています。そのため、遠 くから見ると人家は見えないような状態だったわけです。 ところで、 「青ヶ島の子供たち 女教師の記録」という映画があります。1955 年に上映さ れました。中川信夫さんという有名な監督のもと、左幸子さん、宇野重吉さん、杉村春子 さんが演じています。実際に青ヶ島で撮影をしました。私はこの作品を後に見ましたが、 青ヶ島の厳しい環境の中で、左幸子さんが若い教師として活躍し、宇野重吉さんがベテラ ン教師という役割で、過酷な自然環境の中での子どもたちとの関わりを映像化した、非常 に珍しい作品です。機会がありましたら、皆さんにもこの映画を見ていただきたいと思い ます。 2 生徒からの抜き差しならない2つの問い 島に上陸してまもなく、私は生徒から来た二つの質問を受け、驚きました。その2つの 質問は別々の生徒からで、まず一人目の生徒には「お前はいつまでこの島にいるんだ。」と いう質問でした。当時は、だいたい 2・3 年すると本土に帰ってしまうというパターンが多 かったので、子どもたちは、教員に対する不信感が非常に強く、すぐに帰ってしまうので はないかと思っていました。私は事情がよくわからなかったのですが、定時制の教師だっ たので、4 年間は最低いるかなと考えていました。さらに、アフターケアの 1 年を含め、5 年はいればいいかと思い、その生徒の質問に対しては、 「5 年はいるよ。 」と言ってしまいま した。ですから、もう 5 年間は間違いなく島にいるという覚悟でその生徒の質問に答え、 自らの退路を断ち、島の教師になろうと思いました。 しばらくすると、もう一人の生徒から夜に呼び出されました。その生徒は「お前は俺た ちを教える資格はあるのか。 」と言われました。言葉は少し荒っぽい表現でした。私は、こ の質問には少しぎょっとしました。教える資格があるのか、という意味がわかりませんで したし、なぜそのような質問をするのかもわかりませんでした。私は、「どうして君はその ような質問をするのですか。 」と聞きました。すると彼は「大学を出た人間に、俺たちを教 える資格はない。」からだと言うのです。その時は言っている意味がわかりませんでした。 後になって理解したのは、 “自分たちがおかれている環境や実態について理解できる立場に ある人間かどうか”私に問うてきたのだと思いました。私はその質問に対しては十分に答 えることができなかったため、この問いは、ずっと私の心の中に途絶えることなく続きま した。ですから、自分が何か教える場面に出会ったときには、文教大学でもそうなのです が、 「お前は教える資格があるのか」ということを自問自答しながら、生徒や学生の前に立 ってきたように思います。 3 未熟な教師である私の困難 残念ながら、デモシカ教師で赴任していますから、教師としては非常に未熟な教師とし て八丈島の教師となったわけです。ところが、島のおかれている環境は極めて困難で、子 どもたちのおかれている環境は様々でした。いわゆる島の子どもたちは、 “へき地の子ども” という形で位置づけられることが多いです。資料の 4 ページに溝口さんの文章を引用しま した。 「へき地の子どもは粗野だ、らん暴だ、ものを大切にしない、人の好意を感じないなど といわれそうである。しかしこのことは、そう簡単に表面的に片づけてしまってはいけ ないのではなかろうか。どこのへき地の子も、欲しいものといえば、鉛筆といいノート という。それは彼らの考え方がつねに現実にしばりつけられており、現実を離れた想像 の世界を自由に駆けることができないからであり、未分化な低発達段階にあるからだと いわれる。 」 (出典)溝口謙三(1962)『へき地の子ども』東洋出版社、89 頁 私もそのように思います。現実には非常に粗野であったり、乱暴であったりします。し かし、それは表面的なものだけであって、本質的にはへき地におかれた環境に縛り付けら れ、その拘束から逃れられないからこそ、粗野な行動に出ることが多いのです。ただ、そ れを受け止めきれない教師の場合、どういう問題がおきるかというと、資料の 4 ページに、 教師の困難さを記載してあります。 ちょうど私の後から来た教師が『八丈島おじゃれよ、望郷讃歌』という本を出しました。 彼は国語の教員なので、詩を作っていました。その詩の中に、3 つほど、島に来たばかりの 彼が直面した困難を表したものがありました。 ・ 「定員 7 人、長期入院 2 名いる」先輩は淡々、事実を語る ・「成功するか、入院するか、どちらかだ」ことばは続く、どこまでも や め ・入院の教員 2 人顔を見せず退職ていった 1 年後には (出典)佐藤雅義(2008)『八丈島おじゃれよ、望郷讃歌』文芸社、28-29 頁。 こういう環境の中にありました。私は定時制の教員なので、昼間は暇だろうということ で、近くの中学校に非常勤講師として来なさいと言われました。まぁ、時間があるからい いかと思い、その中学校に行きました。そこで、 「英語を教えてくれ。」と言われたため、 「ど うしてですか。」と聞くと、「英語の先生がいないのです。」と言われました。「二人いるは ずですよ。 」と言うと、 「一人は入院して東京に行ってしまったから、一人しかいないので、 蛭田先生来てください。 」と言われたので、 「いいですよ。」と答えました。そして、ある日、 職員室に行くと、年取ったおじいさん先生が、一人の生徒に首を絞められていました。「こ ら!」と言って、首をほどいてあげるということもありました。そこの中学校の音楽の先 生は、芸大のフルート科を出た新任の先生だったのですが、一週間後には蒸発していなく なっていました。音楽室は壊されてしまった、ということでした。私は慌てて音楽室に行 ってみました。現在の音楽室は、防音設備が整っていますが、当時の音楽室は音がうるさ かったため、学校の端の方にありました。音楽室に行ってみると、窓ガラスや楽器がぐち ゃぐちゃになっていました。ピアノの上には岩が置かれていて、鍵盤がV字状になってい ました。これは、音楽の先生にとって堪らない出来事です。2 年生の数名が煙草をふかして 音楽室を占拠していたため、その中学校の先生方は誰も近寄らないという状況でした。こ れはなんとかしなければならないなと思い、音楽室に行って、生徒たちと色々と話し合い をしました。いずれにしても、中学校も定時制も似たような環境の中にありました。 定時制に初めて行った時には、体育館の裏で一人の先生が取り囲まれ、殴られそうにな っていました。私はびっくりして、 「こらー!」というと、取り囲んでいた生徒たちは、い っせいに逃げてしまいました。このように現象的にはかなり困難な状況にあり、今でいう “荒れた”状態の学習環境にありました。ですから、先生たちは病気になるし、入院する し、やめてしまうしという環境でした。 私自身が先ほど言ったようにデモシカ教師で、ぼやっとして教師になったため、どうし ようかなと少し悩みました。そして、大学時代に教職課程で学んだ教養が役に立つだろう かと、ふと考えてみました。例えば、生徒指導という科目が四十数年前にもありましたが、 どういう指導をされたかというと、 “イエス・キリストが弟子たちにどのように話をしたか” “イエス・キリストと弟子との対話の研究”これが生徒指導の内容です。「えっ」、と思う 人も多いでしょう。その時は私も、それはそれなりで面白いなとぼやっと聞いていたので すが、島に来てあの話は、生徒指導では役に立たないなというように思いました。カウン セリングというのは、実は宗教的な問答が源流の一つになっていますが、それにしても“イ エス・キリストと弟子との対話の研究”は、学校現場では役に立ちませんでした。心理学 はどういう勉強をしたかというと、マウスが迷路の出口までどのようにしてたどり着いた か、という実験心理学でした。最初は面白いなと思って聞いていたのですが、1年の終わ りになっても人間の話にならなかった。つまり、ネズミの心理学で1年間が終わってしま ったのです。そして、ついに人間の心理学に出会うことはありませんでした。ネズミと人 間とでは両者に飛躍がありすぎ、ネズミをどう研究しても実際の人間の心理には近づかな いだろうな、とその時思ったわけであります。あるいは、教育史という教職科目ですが、 寺子屋の勉強をしました。これは江戸時代で終わってしまいましたので、現代の教育には 結びつきませんでした。社会学はどういうことをやったかというと、週刊誌のテーマを毎 回分析しては披露をしていました。週刊誌のテーマを色々披露してもらっても、学校教育 には直接関係ないなと思いながらも、それで終わってしまいました。 ですから、島に来て困難な状況に直面した時に、大学で学んだことはそれなりに教養と しては役に立つけれども、現実に自分が教師となってやる場合には役に立たないので、自 分で教育学をつくらなくてはならないと思いました。つまり、大学で学んだ教育学は参考 にはなるかもしれないが、現実の学校教育では、そのままでは役に立つものではないと考 えるようになりました。目の前の子どもたちや学校、地域のおかれた状況の中で、「私の教 育学」をつくっていかなければ、教師としてはやっていけないんだ、ということをぼやっ としたデモシカ教師は考えたのでした。そうだ、 「八丈島で私の教育学をつくっていこう」 と考えるようになりました。 4 先輩の同僚教師から学ぶ 島に来てからはゼロからのスタートですから、まず、同僚の先輩教師から色々なことを 学ばなければいけないと思い、さまざまなことを質問しました。A先生からは、 「蛭田、お 前はね、 『島の心』を知らなければ島の教師にはなれないよ。」と言われました。B先生か らは、「ダメなことはダメと言い続けなければならない。」と言われました。それは、生徒 たちがやんちゃをした時に、それに妥協してはいけないということです。ある時、生徒が 酔っぱらって学校に来たことがありました。職場で酒をひっかけて、夜学校に来るという 生徒もいるわけです。またある時には、酔っ払い運転で職場の軽トラに乗って、そのまま 田んぼに突っ込み、自動車ごと突き刺さっていたという状況もありました。そういったこ とを認めてはいけないよ、ということでした。新任教師は毎夜、放課後、必ずバケツでモ ク拾いをするわけです。教室の中や屋上を回るのです。それを毎日毎日やります。しかし、 酒を飲むことやタバコを吸うことを黙認するのではなく、厳しく指導しなければならない、 ということを同僚の先輩教師は言っていました。また、C先生からは「教育は、集団の中 で行われる。 」と言われました。おそらく皆さんも文教大学で教わっていると思いますが、 “学習というものは学習集団を組織する、教師は学習集団をマネジメントできなければ教 師とはいえない”ということです。当時、私は集団という概念もわからないし、学習集団 なんてことは、一対一できちんと教る場所ぐらいにしか思っていませんでした。ですから、 「蛭田、お前はどういう学習集団をつくろうとしているの?」と先輩に言われて、「は?」 となってしまいました。 「あぁ、うかつだった」なと思いました。そして、D先生からは「教 師は学校の中だけで教師をやっているのではない。地域の中、島の中に入って島の人たち と共に地域活動をしながら教師をやっていかなければいけないよ。」と言われました。こう いった先輩の言葉は非常に私に突き刺さるものがありました。ぼやっとデモシカ教師にな ったけれども、これではいけないなと思うようになったわけであります。 5 八丈島の文化的な特色 (1)特産品など 次に、八丈島の文化的な特色をいくつかご紹介したいと思います。資料の4ページ、 5ページを開いてください。特産品では、植物が非常に有名です。ハイビスカス、ブーゲ ンビリア、フリージアなどが有名です。特に春になると八丈島のフリージア娘が都内にや ってきて、フリージアを配っています。非常に可憐な花が島中に咲き集っています。 そして、皆さんも聞いたことがあると思いますが、黄八丈です。これは、草木染でして、 木の灰汁に着けて染色します。黄色い色なので黄八丈です。この反物はかつて租税として も使われていました。 次に「くさや」です。これを皆さん食べたことがありますか。ムロアジやトビウオをく さや汁という秘伝のたれにつけ、乾燥させてつくります。くさやはとてもおいしいのです が、問題点があります。焼くと非常に臭います。伊豆諸島では、伊豆大島、新島、八丈島 で多くつくられますが、八丈島のものは市場には出ません。ほとんど島内で、観光客や島 民に消費されてしまうためです。ですから、都内に売っているものは伊豆大島や新島のも のが多いのです。それぞれの島の人々は、自分の島のものが一番おいしいと言うのですが、 私も八丈島のものが一番おいしいかなと思っています。ただ、焼くと非常に臭うので、団 地の中で焼くととんでもないことになります。そのため、皆さんがくさやを焼きたいなと いうときには方法があります。くさやをそのまま焼かないで、アルミホイルに包み、少し お酒を垂らして蒸し焼きにすると、家の中が臭くならずに済みます。一度賞味してもらい たいなと思います。 あとは、アシタバ(明日葉)でセリ科の植物で非常に有名です。ほとんどが山の中で自 然に育ちます。その葉っぱをちぎって食べたりします。それから、島では芋を原料とした 焼酎(島酒)も有名です。これも、それぞれの島が作っていて非常においしいです。 (2)芸能、行事 次に、芸能、行事を紹介します。八丈の場合、 「八丈太鼓」が有名です。これがなぜ有 名かというと、普通、太鼓というのは片面を打ちますよね、八丈太鼓は裏と表の両方を打 ちます。片方は“どんどこ、どんどこ”という感じですが、もう一方は“どどんどん、ど どんどん”というように主旋律を打ちます。陣太鼓が起源とも言われています。 歌では、色々な民謡があります。八丈島を代表する民謡に、 「ショメ節」というのがあり ます。 「ショメ節」というのは、黒潮の潮目を表しているといわれています。宴会の時、あ るいは日常的に、島の人々はほとんど歌います。私も何かと言っては歌ってきました。そ こに歌詞を載せておきました。一節ぐらい紹介してみます。 (イヤー) 沖で見たとき 鬼島と見たが、きてみりゃ八丈は 情け島 (アー、ショメ、ショメ) 黒い髪の毛 長さは背丈 可愛いあの娘は 島育ち 八丈八重根の ばらばら松は 誰が切るやら 大和おのこの 度胸があらば 超えておじゃれよ どうせ行く人 やらねばならぬ こんな恋しい 八丈すてて 南風だよ みな出でおじゃれ せめて波風 どこへ何しに 迎え草履の うすくなる 黒瀬川 おだやかに おじゃるやら 紅鼻緒 飲んではこういう歌を歌っていました。実は私、八丈島でアルコール中毒になったこと があります。若い時に、 「ショメ節」と共にアル中になりました。 島の一大行事といいますと、小学校の運動会です。特に小学校の運動会は、地域の集落 の人々がグランドに集まり、大漁旗を揚げます。おじいちゃんもおばあちゃんもみんな出 て、グランドの周辺で島酒も飲みます。中には、焼酎の瓶を抱えながらグランドに出て、 子どもたちと共に競技をする人もいました。非常に懐かしいです。また、盆踊りは集落ご とにやりますが、島内にいる人々はみんな踊ります。ですから、これも、島の一大行事な わけです。 (3)島の言葉 実は、八丈方言というものは非常に貴重な言語です。万葉集の東歌の古い言葉が、八丈 島の方言に残っています。日本の三大方言というのは、八丈方言、琉球方言、本土方言の 3つに分類されます。黒潮圏(黒潮の流れ)の関係で、八丈方言には非常に古い日本語が 残ることができました。ところが、2009 年のユネスコで八丈方言は、消滅危機言語という 形に分類されました。小学校などでは、これを受けて演劇活動などで、八丈方言を子ども たちに理解してもらおうと、教育活動で取り入れています。たとえば、言葉の末尾に「お じゃれ」をつけます。これは、「おいでください」ということです。「~してたもーれ」は 「~してください」という意味です。英語でいうと、 「Let's 」に近いのですが、 「~しよう」 は、「ごん」と言います。 「行こごん」と言います。このように、八丈方言の中には、日本 の古い形の言語が今も残されていますが、2009 年に消滅危機言語に登録されたということ もあって、私は心配をしています。なんとか、学校教育や日常生活の中で今後も残してい ってもらいたいと思っています。 (4) 「流人」の文化的影響 八丈の文化的影響については、 「流人」を抜きにしては語れません。八丈島の最初の流人 は、関ヶ原の戦いで敗北した西軍の武将であった、宇喜多秀家です。1606 年 34 歳で配流と なりました。家族と共に生涯八丈島で過ごして、1655 年に没しています。これ以降、265 年間、明治 4 年までの間に約 1900 人の流人が八丈島に流されました。八丈島の「流人」と いうのは、少し一般のイメージと異なります。流人であっても島で妻帯すること(妻をめ とること)ができますし、自由に島の中で生活できます。ただし、島の総生産量というも のは限られていますから、流人が多ければ多いほど一般島民の生活は困難になります。し かし、流人たちは自分たちの才覚でもって、島の経済活動などに寄与したということが言 えます。そういう意味では島の人たちとの交流があったと言えます。そのため、八丈島を 「流人の島」という言い方をすることができます。これは、伊豆諸島では八丈島に限らず、 それぞれの島で流人がこのような、ある種の文化的・経済的な貢献をした面があります。 (5)近藤富蔵『八丈実記』 一人の流人を紹介したいと思います。皆さん聞いたことはないと思うのですが、近藤富 蔵という流人です。近藤富蔵はなぜ八丈島に流人になったかというと、土地争いで自分の 隣の家の家族 7 人を殺害し、流罪となりました。近藤富蔵という人は、実はお父さんが有 名な人です。皆さんは日本史で学んだかもしれません、近藤重蔵です。1798 年に択捉島に 渡った人です。当時の江戸幕府は、18 世紀末から北方領土問題に取り組んでいたため、そ の中の探検家ということで有名でした。お父さんはあまりにも有名で、幕府の重職にもあ ったために、土地争いをした後、なんとか父親の名誉を守ろうと、刀を振るって 7 人を殺 害してしまったということでした。彼は八丈島に流されて、自分の行いを悔い改めようと したようです。そして、八丈島の歴史、風俗、習慣、流人などに関する項目、古文書など の記録を収集し、 『八丈実記』という書物をつくりました。書物というよりは、実際には原 稿という形で残しました。この『八丈実記』の原本は、重要文化財として東京都が保管し ています。今日は皆さんに『八丈実記』を紹介したいと思い持ってきました。ここに持参 した 7 巻があります。近藤富蔵がまさかこれを印刷したわけではありません。原稿は手書 きでした。それを 12 年間かけて、緑地社という小さな出版社が、原稿を活字に起こして 7 巻の全集にしました。小さな出版社が社運をかけて近藤富蔵の『八丈実記』を発刊しまし た。これが八丈島の百科事典と言われるものです。実際、彼は自分で挿絵を描いて、原稿 をつくっています。こういう形で、一つの島について体系的な文献が残っているのは、非 常に稀有な例だと思います。ですから、八丈島について何か勉強しようと思ったら、この 『八丈実記』を見ることなしには語れないくらいです。柳田国男や渋沢敬三は、非常に高 く評価しています。近藤富蔵を評価しただけではなく、小さな出版社がこれを出版したこ との意義についても高く評価をしています。 (6)作曲家・團伊玖磨 次に、流人ではないのですが、皆さんよく御存じかもしれません。特に音楽専修の方は 知っているかもしれません。作曲家の團伊玖磨さんです。この方は、仕事場を八丈に求め ました。作曲というのはどういうふうにするのか私にはわかりませんが、ピアノを弾いた り色々なことをしたりするのでしょうから、周辺に影響を与えないようにということでし ょう。八丈には、たまたま山田耕筰さんと一緒に来ました。その時に島が気に入りまして、 仕事場を兼ねた別荘をつくりました。團伊玖磨さんは、湿度が高いことが好きだったよう です。つまり、仕事をするときに乾燥していると嫌なようです。八丈は非常に湿度が高い ところですから、團伊玖磨さんにとっては、作曲活動がしやすい場所だったのかもしれま せん。彼は、お友達の音楽家を招き、島で無料の音楽会を催してきました。ですから、島 の音楽文化は、團伊玖磨さんの貢献が非常に大きいと言えます。残念ながら、2001 年に旅 先の中国でお亡くなりになりましたが、島では現在も團伊玖磨さんを偲ぶコンサートが続 けられています。 6 教育実践編 (1)教育観の転換 それでは、再び教育の話に戻ります。蛭田は、島の教育学をつくろうと言っていたが、 一体どう実践したのか、という話に移ります。初期のことを紹介します。まず、私のこれ までの教育観のようなものが転換しました。今までは、勉強しないのは子どものせいだ、 なんで勉強しないんだ、遅刻するんだ、と努力しないことを子どものせいにしていました。 しかし、それは間違いなのだというように変わりました。今風にいうと、自己責任的教育 観からの転換です。なんでも勉強しないのは子どもが悪いからだと考えるのではなく、そ うではないのだ、と考えるようになりました。では、教育というのはどういうことなのか。 教育は、 “環境や生い立ち、貧困など、生徒のおかれた困難を克服できるかどうか”つまり、 “不幸の連鎖を断ち切ることができるのかどうか” 、ここに教師の役割があると考えました。 よく、教育界では、 “子どもには無限の可能性がある”という美しい言葉があります。あれ はインチキ(虚構)です。無限の可能性などはありません。むしろ、非常に多くの制約の 中に子どもたちはおかれています。そのため、子ども自身がただ何もしないで、また支援 を受けることなく、無限の可能性が花開くなんてことはあり得ません。ですから、子ども たちがおかれているその制約をどう断ち切ってあげるか、手助けしてあげるかが、教師の 役割だと言えます。 (2)事例研究会の設置 定時制高校では、毎月 2 回職員会議があったのですが、私は、職員会議は 1 回にして、 もう 1 回は事例研究会を設置しよう、と提案しました。教師の生徒理解は一面的であるこ とが多いため、どうしても子どものとらえ方に偏りが生まれます。そのため、全員の教員 で、その生徒をどのように捉えているのか、事例研究会を通して学ぶ必要があると思いま した。この事例研究会は、非常に有効だったように思います。 (3)教育実践の記録化と合宿研究会 また、教育実践を記録化しようと考えました。島の中では定時制は、全日制と比べると レベルが低いというように生徒たちは見ていたし、校外的にもそういう扱われ方をしてい たかなと思います。前の教師がどのような実践をしたのかわかりませんでした。先輩同僚 の先生たちに、 「この学校は、どのような実践をしてきたのか、記録のようなものはないの ですか。 」と聞いたところ、 「ありません、あなたの好きなようにやってください。 」と言わ れました。好きなようにと言われても、教育には連続性というものがあるはずだと思った のですが、記録はありませんでした。そこで、とにかく何でもいいからやったことを記録 に留めようと提案しました。例えば、遠足をするということがあったら、どういうふうに 遠足の計画を立て、その結果どういう成果が上がったか、記録化しようと考えました。ま た、記録化をするだけではなく、その記録をもとに合宿をやろうと提案しました。三原山 の方に温泉がたくさん出るので、ホテルで一泊して、記録をもとに議論をするという合宿 研究会というものを開きました。 (4)自己表現活動の重視 現象的には、子どもたちは非常にやんちゃだし、乱暴だし、顰蹙を買うようなことをや ります。その背景には、どのように自分を表現したらよいのかわからないという問題があ るのだと感じていました。適切な自己表現活動を重視する活動をしてみてはどうかと提案 しました。エネルギーが有り余っているところもありましたので、そのエネルギーを善用 できないかと考えました。定時制の特徴を生かして、夜の 24 時まで生徒を帰さないで、体 育館でスポーツをしました。授業が終わると、教員を含めた全員で色々なスポーツをして 汗を流しました。私は格技系のスポーツはもともとやっていたのですが、バドミントンや バレーボール、バスケットボール等のスポーツを生徒と共にやりました。また、表現活動 の一環として、演劇活動を取り入れようと考えました。難しい演劇はできないので、簡単 に演劇的なものができないかと考えて、漫才を取り入れようと思いつきました。漫才は、 間の取り方やコミュニケーションをうまくとらなければできません。漫才をやらせて、文 化祭などで披露しました。私は、先生方の劇団をつくって、生徒と一緒に演じたことがあ ります。それから、行事では遠足やスポーツ活動、あるいは全定の交流行事などがありま すので、こういった行事を通して、自己表現をさせていくことに重点を置きました。 7 先達に教えを請う “私の教育学”というと少し大げさなのですが、自己流でやってきたことが果たして正 しい道筋を歩んでいるのかどうか不安に思いました。そこで、先達に教えを請いたいと考 えました。先ほども言ったように、島の教育というのはマイナーな分野で、当時の日本の 教育界では有名な方もいたのですが、みんな島についてはほとんど知らない方ばかりでし た。そこで、ふと思ったのが無着成恭先生です。無着成恭先生のことは、知らない方もい ると思うので、資料の 6 ページを見てください。そこに簡単な紹介をしています。 無着成恭は、1927 年に山形県に生まれ、山形師範学校(現在の山形大学教育学部)を卒 業後、山形県南村山郡山元村の山元小中学校に赴任しました。無着成恭は、当時の生活の 貧しさや困難さに向き合いながら、生活綴り方の指導を行い、中学生が書いた詩や作文を 『山びこ学校』という形で、1951 年に発表しました。これが非常に衝撃的でして、戦後の 新しい教育実践、民主主義教育の実践として、注目を浴びました。当時指導者の一人であ った、国分一太郎さんは、岩波文庫から出ている『山びこ学校』という本の解説の中で、 「戦 後日本の教育が生んだりっぱな古典であり、財産である」と言っています。なお、山元中 学校は、2009 年に閉校になってしまいました。 この無着成恭さんに、私は手紙を書きました。なぜ無着成恭さんが私の頭に上がったか と言いますと、戦前もそうなのですが、日本の教育というのは、あるテーマに常に向き合 ってきました。それは、 「貧困と教育」です。日本の貧困にどう教育が向き合うかというこ とを、教師は求められてきました。それにもろに向き合ったのが、無着成恭さんだったの ではないかと私は思います。その成果が、『山びこ学校』の中にも表れているわけです。八 丈のこと、あるいは我々が今やっていることをご指導いただくには、無着先生しかいない ということで、手紙を書きました。ただ、お金がないので、先生の往復の飛行機代と民宿 代、そしてほんの少しの講演料、しかも講演は夜にやって欲しい…というようなことを手 紙に書いて出したところ、 「行きましょう。」というお手紙をいただきました。それでお呼 びしました。 『山びこ学校』の作品例を 7 ページに有名なもの載せておきました。石井敏雄さんの「雪」 は有名ですね。あるいは、佐藤清之助さんの「山」です。この作品は、山元中学校の石碑 にあります。また、教え子の中で有名な佐藤藤三郎さん(現在 76 歳)の「答辞」という作 品の中で、今でも有効な教育方法論があると思われるので、載せておきました。つまり、 「答 辞」の中で、無着成恭先生から学んだことが 5 点挙げられています。 1点目、 「私たちの骨の中しんまでしみこんだ言葉は『いつも力を合わせて行こう』とい うことでした。 」2 点目、 「 『かげでこそこそしないで行こう』ということでした。 」3 点目、 「 『働くことが一番好きになろう』ということでした。」4 点目、 「『なんでも何故?と考えろ』 ということでした。 」5 点目、 「 『いつでも、もっといい方法はないか探せ』ということでし た。 」 私は無着成恭先生の教育方法論は、この 5 点に尽きるように思っています。この方法論 というのは、今の学校教育においても有効だと思っています。そのため、佐藤藤三郎さん には、骨の髄まで無着先生の教えが浸透しているのだと思います。7 ページに、現在のお茶 の水女子大学の学生が『山びこ学校』を読んで書いた感想文を載せております。 『名著講義』 という藤原さんの本の中にある感想ですので、ご覧ください。現在、無着先生は 85 歳ぐら いです。大分県に住んでいると聞いています。 私たちは「無着成恭先生来たる!」というビラを電柱に貼ったりしました。夜の講演に もかかわらず、120 人ぐらいの島の人たちが来てくれました。当時としてはたくさんの方が 来てくれたと思います。私は無着先生に、『山びこ学校』の続編のようなことを語ってほし いと密かに期待していました。ところが、無着先生はなんと、『山びこ学校』のことは一言 も触れず、当時話題になっていた永山則夫という死刑囚が、法廷で発言したことを話題に したのでした。皆さんは永山則夫という人のことは聞いたことはないと思うので、8 ページ に説明を載せておきました。 皆さんの中で北千住方向から来ている人はいつも見ているかもしれません。東京拘置所 がありますね。永山則夫はあそこに収監され、あそこで死刑が執行されました。私も大学 に来るときにはいつも東京拘置所を見ているですが、永山則夫をいつも思い浮かべます。 父親は岐阜県で生き倒れて亡くなりました。環境としては非常に不幸で劣悪な環境の中で 永山は育ちました。学校教育は、小学校 1・2.年ぐらいしか行っていません。その後は、学 校教育を正規に受けないという状態でした。彼は、裁判にかけられる時に、実は、私が生 徒から言われた「お前は教える資格があるのか。 」と言われたことと同じようなことを裁判 官に問うています。 「お前は俺を裁く資格はあるのか。」と。普通ですと、職業裁判官が被 告からそのような質問をされることはまずないと思います。しかし、永山則夫からすれば、 犯罪としては極めて凶悪ではあるけれども、自分のような生い立ちや環境に生まれたわけ でもない者に、「私を裁く資格があるのか。」という思いがありました。そのような形で、 彼は裁判に臨みます。第一審では、法廷闘争を繰り返していました。最初、このような姿 勢に対して、永山則夫は 4 人も人を殺害しておきながら自分のやった行いを反省していな いということで、彼には非難が集中しました。そして、第一審は“死刑”になりました。 この裁判の過程で、彼は東京拘置所の中で猛勉強をするのです。その獄中ノートを『無 知の涙』として出版します。現在は、河出書房で簡単に手に入ります。彼は東京拘置所の 中で、漢字の書き取りから始めます。そして次第に、古今の古典まで読み始めます。そし て、なぜ自分はこういう生い立ちの中で人を殺すに至ったかということを学ぶようになり ます。本の名前が『無知の涙』なのですが、みなさんはこれと類するような名前を聞いた ことがありませんか。そうです。ソクラテスの「無知の知」ですね。おそらく永山則夫は、 ソクラテスの本を読んでいたのでしょう。書名の『無知の涙』は「無知の知」に由来して います。ソクラテスは「人間は無知におおわれている」と考えていました。例えば、自分 が見たり感じたりしたことを真実だと思い込んでいる、この主観的な理解や判断が無知を 招くわけです。この無知の状態をギリシャ語では“ドクサ” (doxa)といいます。この“ド クサ”の状態である、無知から自由になるにはどうしたら良いのか。このことは、ソクラ テス以来、ギリシャ哲学の主要な命題でした。 この『無知の涙』の解説者に、秋山俊という方がいます。なぜ永山則夫が『無知の涙』 を書いたかという解説を、資料の 8 ページに載せてあります。 「いったいなぜあんな犯行が 生じたのであろう?」また、「あんなことをした主人公―犯行者とは、いったい何者だろ う?」など、自分を対象化する学習を獄中でしてきました。無着成恭先生が永山則夫をな ぜ取り上げたかということを今考えると、学ぶということは本質的にはどういうことなの かが重要なのであり、話すべきことは『山びこ学校』のことではないのだ、と無着先生は 思ったのでしょう。そのため、当時、話題となった永山則夫の獄中での学びを紹介してく れたように私は思います。 彼はこのようなことも言っています。『無知の涙』からの引用です。「物事を知って行く ということは自分自身を知る過程であるのだ。無知で在った時、サカンに何故なんだろう と未開発な頭を悩ませたものであるが、段々と、あああの時はこうだったからだと想起し、 また回想しなおし、自分自身の精神生活過程を解釈しているのであるので在った。とりも なおさずそれは、ソクラテスの“生産婆術”に相違いないのであるのだ。」と言っています。 う 彼は後に社会主義思想に近づいていきます。 「貧困が無知を誕むのじゃなくして、資本主 義体制自体が無知を造るのだ!と、そのことを自身なりに発見出来た現在の私は、否、学 問をしてそれを教えられた現存在は、完全なる社会的人間と成長したと言っても僭越な言 葉ではないであろう。 」つまり、自分を客観視できるようになったということです。学ぶこ とによって、あの劣悪な環境、生い立ちの中で殺人まで犯してしまった自分を捉え直すこ とができた、学問をすることによって自らを捉え直すことができたのだと。それを社会的 人間と言っています。このように、ドクサ(無知)の状態から自由になるということが“学 ぶ”ということなのである、と言っているわけであります。 永山則夫の問題は、最近非常に脚光を浴びています。その理由は裁判員制度です。皆さ んもこれから刑事事件で裁判員になる可能性があります。凶悪な事件の時に、死刑にすべ きかどうかの判断を問われます。裁判員になって、もしそのような凶悪な事例に遭遇した 場合に死刑の判決を出さざるを得ない、あるいは、判断を求められることがあります。そ のため今、改めて話題になっているのが、「永山規準」です。彼は第一審の時には死刑だっ たのですが、第二審の時に無期懲役になりました。第二審の裁判官というのは、裁判の中 で、裁判と思えないような学問上の会話を永山則夫と行っています。永山則夫は、西洋思 想はかなり勉強したのですが、東洋思想は十分に勉強していませんでした。しかし、裁判 官は東洋思想に造詣が深い人だったため、中国の古典などのやり取りをしていきました。 第二審は非常に異様な裁判展開をしていきます。そして、結局、第二審では無期懲役にな るわけであります。少年法 51 条というのがありまして、18 歳未満で死刑相当の内容であっ た場合には、無期懲役に処するという文言があります。そのため、第二審の裁判官は、犯 行当時 19 歳ではあったが、少年法 51 条を準用できるのではないかということで、無期懲 役の判決を下しました。この判決には検察官側や国内世論は、極めて批判的でした。検察 は上告をしました。結果的に最高裁では死刑判決が下されました。その時、永山則夫の死 刑を確定する際、最高裁判所は死刑適用の基準(9 つの量刑因子)を示した。これが後に「永 山規準」と言われるようになった。資料の 9 ページにある 9 つの量刑因子を総合的に勘案 して、死刑に処するかどうかを決めるということが「永山規準」と言われるものです。で すから、永山則夫の死刑が確定した際に最高裁が出したこの基準が、今、改めて裁判員制 度で注目されるようになったわけであります。 このように、彼自身は獄中で自ら学び直すということをしていったわけです。その時に もう一つ注目すべきことは、彼は小説を書いているということです。自分の生い立ちを記 した『木橋』という小説が、新日本文学賞を受賞しています。この小説ができるのにもド キュメントがありました。実は、永山則夫は沖縄出身の女性、和美さんと獄中結婚をしま した。結婚と言っても一緒に生活するわけではありませんが。その時に和美さんが、彼に どのような生い立ちだったか聞き取りをするのです。先ほど『無知の涙』は、非常に難解 な言語を使っています。つまり、言語活動を正規の学校で学んでいませんから、少し読み づらく独自の言語表現をしています。この『木橋』では、和美さんが手紙でやり取りをす るわけです。手紙で、 「ここは何を言っているのかわからないよ。」 「もう少し書き直した方 が良いよ。 」と言い、手紙のやり取りで小説形式をつくっていきます。そして、ある一定量 になった時に、和美さんは出版社にこれを本にできませんかと持っていくわけであります。 実は、このことを永山則夫は知りませんでした。そして、『木橋』という作品が新日本文学 賞を受賞したわけであります。永山則夫の中には、二つの言語があります。一つは、思想 で武装した言語です。これが永山則夫の勉強の成果でした。もう一つは、文学の言語で自 分を表現することです。この二つの言語が合体して、初めてドクサの状態から自由になっ たのではないかと思います。思想的な言語も重要ですが、文学的な言語というのも永山則 夫にとっては重要な意味を持っていました。とりわけ、獄中結婚した和美さんの役割が大 きかったのではないかと思っています。 以上のように、無着成恭先生の講演の意図には、学ぶとはどういうことなのかを本質的 に教えてくださったように思います。定時制の場合、学習が困難な状況の子どもたちもい るのですが、その中で教師が学ぶ本質から外れて、安易にただ適当に教えていればよいの だと考えるならば、それは大きな間違いだろうと私は思っているわけであります。 8 日々の生活 さあ、いよいよ時間もわずかに迫っています。島での日々の生活というのはどういう生 活だったのか、最後に少し紹介します。私を招いてくれた、定時制の菊池先生のことです。 島には、主な姓が三つぐらいあります。菊池・浅沼・持丸です。そのため、菊池先生や浅 沼先生などを呼ぶと、みんな手を挙げてしまいます。ですから、島では名前の方で呼びま たね お す。菊池胤勇先生の場合、島では「タネちゃん」と呼ばれていました。子どもたちも上の 名前ではなく、下の名前で呼び合っていました。その菊池先生は、戦前はサラリーマンで した。日本の敗戦とともに、日本の再建をどうしたら良いかを、菊池先生は痛切に考えま した。特に、島の子どもたちのために何かをしないと、島の子どもたちは戦後を生きてい けないと思ったのでした。そこでサラリーマンをやめて島に戻り、教師となりました。そ ういう意味で、島の子どもたちのために、真に熱心な先生を島に呼ぼうという気持ちで常 にいました。後に八丈島の教育長にもなられ、私は大変影響を受けました。 島で家庭訪問をしました。どういう生活をしているのかなということで家庭訪問をする のですが、大概、家にはお婆ちゃんしかいません。「担任の蛭田です。どうですか。」と聞 くと、「先生よくおじゃった。まあ飲みやれ。」とお茶碗が出ます。そして、ググッと飲む と、これがなんとお茶ではなく焼酎なのです。また次のところに行くと、 「まあ先生飲みや れ。 」と言われ、お茶を出してくれたかと思えばまた焼酎でした。その後 5 軒ぐらい行くと、 最後には真っ赤になり、酔ってフラフラと歩いているわけです。その内歩けなくなって、 藪の中でドタッと倒れてしまいました。そして、夕方になると「先生、藪の中で寝てたろ う。」と島中に伝わってしまうわけです。「よく先生はマムシに食われなかったな。あそこ はマムシがよく出るところだよ。 」なんて言われ、驚きました。今から思うとめちゃくちゃ な家庭訪問でした。 教師同士で俳句の会をよくやりました。宿題の俳句を1つ持ち寄ったり、即興で作った りしました。そして、点数が1番高かった人はビールを1ケース用意するなどしていまし た。そして、もう一つは、飢餓体験というのもありました。島では飛行機と船が中心で、 物資を輸入するのですけれども、まず 10 日間台風で飛行機も船も来なくなると、島にある ものが一切なくなってしまいます。私も普段は非常食で缶詰を置いてあるのですが、あの 時は 2 週間ぐらい船も飛行機も来ませんでした。給食もなくなった。みんなお弁当を持っ てこいと言っても、家にも食べ物がない。その時、あぁ、これが飢餓体験なのかと思いま した。食べ物がなかったため、教えている生徒の魚屋さんに行って「おい、なんか魚はな いか、尻尾でもなんでもいいから。 」と言うと、 「もう先生ないよ。」と言われ、今夜は食べ ずに寝なければいけないかなぁと思うような体験をしました。菊池先生に、 「食べ物がない のだけれども。」と言うと、「そうだよ、昔の島ではこういう体験をしたのだよ。山へ行っ てみたらどうだ。 」と言われた。山に明日葉(アシタバ)を取りに行ったのですが、明日葉 は葉っぱがもうなくなっていました。ではどうしたら良いかと考えたとき、明日葉の根っ こが食べられるのではないかと考えました。根っこを湯がいて、食べたりしました。これ が飢餓というものなのかとつくづく思いました。ですから、島での生活というのは今でも そうですけれども、昔はもっと大変だったろうなと思いました。 9 4 年目を終えて(初めての卒業生) そんなこんなで 4 年目を終えて、1 年生から持ち上がって、初めての卒業生を出しました。 やはり悪戦苦闘の日々で、教師としても未熟極まりない状態でしたので、生徒には申し訳 ないなと思いながらも卒業式を迎えました。夜に定時制の卒業式を終えた後、「先生、これ から 2 次会に行こう。 」と言われたので、 「どこに行くの。」と聞くと、(島に一か所ダンスホ ールがあるのですが)、「そこを貸し切ったから先生急いで行こう!」と誘われたのでした。 ダンスホールに行くと、十数名の卒業生が、女の子は正装して、男の子もいっぱしの服装 をして、みんなダンスホールで煙草をプカプカやっているわけです。濛々と煙が出ている わけです。またモク拾いをやらなければいけないのかなと思ったのですが、いや、今日は やらなくてもいいのだと思いました。そして、飲めや歌えの大騒ぎでした。そして外をよ く見ると、ダンスホールの側には八丈警察のパトカーが待機していました。もし飲んでそ のまま車に乗ったら逮捕するために待機しているわけです。そのため、「お前たち、絶対こ れから車に乗ったらいけないぞ」と言いました。その後は生徒の親の家に行きました。学 年の担当のお母さんが、戸板の上に魚をぶつ切りにして食べきれないぐらい山のように盛 ってあるのです。酒と一緒にご馳走を食べました。こんなに喜んでくれるのかと、保護者 の思いの深さを改めて感じました。苦労したけれども、こうして 4 年間でなんとか無事に 卒業にこぎつけることができました。最初に言われた「いつまで島にいるのか。」「お前は 俺たちを教える資格はあるのか。 」という問いを反すうしながら、なんとかここまでたどり つき、感慨深いものがありました。 翌年の 5 年目は新しい学年になるのですが、4 月いっぱいぐらいは虚脱状態でした。何も やる気もしない、そんな状態でした。そんなことで、今思うとこの 5 年間は懺悔の日々で した。とても理想的な教師とは言えなかったと思います。 おわりに 最後に、私はこんなことを頭の隅に置いています。それは「シマの文化」と「ムラの 文化」から、日本を捉えることができるということです。ムラの文化は、皆さんもご存知 の村落共同体が思い浮かびます。つい最近も、福島原発で原発に関わっている研究者や技 術者たちを「原子力村」というように呼ばれていました。原子力という最先端の技術開発 を「ムラ」の中で閉鎖的に行われていることに、驚いた人もいると思います。日本は、あ らゆるところに「ムラ」があります。ムラ文化ですね。例えば、「ムラに帰ってから。」な どという言葉はよく役人は使います。「そのことはムラに帰ってから相談してきます。」と 本当に言うのです。なお、ムラ文化は、マイナスばかりだけではないと思っています。伝 統を継承していくためにはムラというものは不可欠です。ですから、日本文化は、このム ラの文化を伝えると同時に、それを革新するという形で文化が継承されていきます。ムラ 文化はモデルとしては閉鎖系ですね。 一方、シマの文化というものは私に言わせると開放系です。常に外部から人や物や文化 が流入し、それを中で咀嚼して自分たちのものにしていきます。日本文化には、この二つ の文化があるのではないかと私は思います。楕円形には焦点が二つあります。文化には、 中心となると核のようなものがあります。私は、日本文化は楕円形で、ムラとシマの二つ の文化が焦点となって動いているのではないかと思っています。ですから、日本文化をム ラの文化として捉えることができるけれども、同時にシマの文化としても捉えることがで きます。この 2 つの文化モデルからなる一種の緊張関係の中で、日本の文化は発展し成熟 しているのではないかと考えています。 長い時間、ご清聴いただき、ありがとうございました。以上で私の話は終わります。
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