本論文獲行政院客家委員會 100 年客家研究優良博碩士論文獎助

本論文獲行政院客家委員會
100 年客家研究優良博碩士論文獎助
現代台湾コミュニティ運動の地域社会学
―高雄県美濃鎮における社会運動、民主化、
社区総体営造―
星純子(学生番号 31-27421)
東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻 博士論文
2011 年 4 月 28 日
論文の内容の要旨
論文題目
現代台湾コミュニティ運動の地域社会学
―高雄県美濃
鎮における社会運動、民主化、社区総体営造-
氏名
星
純子
民主化、中央・地方政府の政策、社会運動はどのような相互作用を伴って形成され、ま
た社会運動はそれがよって立つところの地域社会や地域政治にどのような位置を占めるの
か。これが本論文の課題であり、社会運動、民主化、社区総体営造の3つをキーワードと
して考察する。
序章では、本論文の視点を示した。まず、欧米を中心とした先進国の社会運動論にはな
い、途上国の社会運動論の特徴をみた。すなわち、第一に、民主化が必ずしも前提とされ
ていないこと、第二に、地域社会において中央政府の民主化は中央政府の意図どおりに浸
透せず、地域社会から民主化や地方分権化を問いなおす必要があること、第三に、途上国
では先進国と異なり社会運動がアクセスできる資源が限られるため、制度内化する社会運
動も「権威への挑戦」という社会運動の条件を満たしている場合があることである。次に
台湾の社会運動がこれまでそれぞれ民主化、ナショナリズムおよび公共圏との関わりを中
心とする研究蓄積を踏まえた上で、近年では社会運動と地域社会の関わりが注目されてき
たことを述べた。しかし先行研究では、
「誰が」政治に参加するのかは明らかになっても、
それらの行為者が「何をめぐる政治に」参加するのかは明らかになっていなかった。そこ
で、本論文では3つの開発政策、すなわち社区総体営造、地域開発政策と地域社会の「環
境」についての視点を提示した。
第1章では台湾社会運動史を概観した。1970 年代の外交的危機にともなう蔣経国主導の
「上からの」改革以後、市民社会は国民党の外、すなわち「党外」勢力として民主化運動
i
を展開し、1979 年 12 月 10 日の美麗島事件で挫折をみたが、翌 1980 年、党外は立法委員
選挙で速やかに再出発を果たした。この時期、党外全体としては社会運動の左右大同団結
を残しながら、新世代の党外は環境運動など社会運動への参与を深めていった。一方、経
済成長に伴う中産階級の成長で、高学歴かつ超党派の社会運動もこの時期に出現した。1986
年、党外は戒厳令をやぶって民主進歩党(以下民進党と略称)を結成した。1987 年には 1949
年以来の長期戒厳令が解除され、多くの留保がつきながらも、社会運動は抗議レパートリ
ー多様化やネットワーク化を進めた。対する国民党は、制度選挙での勝利を通じてたえず
自分たちの正統性を確保する必要があったため、社会運動の主張を一定程度取り入れてい
った。また、この時期は原住民運動の漢族中心主義への挑戦や、客家運動など、国民党政
権の公定中国ナショナリズムに基づいた一元主義的な国民統合政策への挑戦も行われた。
1990 年から 1992 年は国民党非主流派の揺り戻しに対し、成長を続けてきた社会運動は激
しく反発して、かえって大衆の支持を集めた。1993 年から 1999 年は、当局が社会運動へ
の対応をマニュアル化するとともに、社会運動も制度化の道を模索した。また、地域社会
においては、社区総体営造政策により、地域社会の文化や歴史を台湾的なものとして「発
掘」し、政府予算で対抗言説を生産する制度化したコミュニティ運動が誕生した。美濃の
ダム建設反対運動とそれに続くコミュニティ運動は、この流れから発生する。
第 2 章では美濃鎮に目を移し、戦後台湾地域政治と地域社会の変容を追った。まず、ロ
ーカルレジームの構成要素を提示し、地域政治アクターが何をめぐる政治に参加するのか
を解明する必要があることを論じた。美濃鎮のローカルレジームは戦後 10 年ほどのあいだ
に名望家から、中央政府の地域社会統制メカニズムである地方派系レジームへと変貌した。
この地方派系の作る地域社会内のグレーゾーンなき日常的対抗関係は美濃住民の不満を引
き起こしたが、里民大会や鎮公所など最基層の議決機関はその解決能力がなかった。葉タ
バコ栽培によって強化された血縁ネットワークの「団結」が地方派系に分断されたのを不
満とする美濃鎮民は、農業衰退にともなう美濃鎮公所の財政逼迫や生活の危機感に駆り立
てられて、血縁ネットワークを動員して鎮内から団結して中央民意代表を選出し、内向的
外部資源導入レジームを作り出した。その動員は、鎮内外の美濃鎮出身者にもおよび、鎮
民の「内向きの視線」を形成および強化していった。しかし、その団結は鎮内の政治対立
を払拭できるものではなく、また、外部資源の導入も必ずしも鎮民の生活の質向上に貢献
するものでもなかった。
第 3 章では、概観してきた台湾社会運動史と、地域政治や地域社会の変遷の合流として
の美濃ダム建設反対運動を分析した。まず、水利法および都市計画系統の検討と、ダム建
設反対運動の発生および展開を検討した。台湾では水利開発の大規模化に伴い、1963 年の
水利法改正で水利をめぐる政治の策定が中央政府に限定され、サブ政治の閉鎖化が進行し
た。その閉鎖的な都市計画系統で作られた美濃ダム建設計画に対し、協進会が主導した美
濃ダム建設反対運動は、当時の台湾全土の民主化と台湾化の波に乗って台湾客家エスノナ
ショナリズムやエコロジーの言説、および学術的言説を用いてダム建設の不要性を訴えた。
ii
ローカルな文脈に注目すると、第一に協進会の戦略は長幼の序や師弟関係などコミュニテ
ィの秩序に親和的であった。第二に「小さな機会」をめぐる争いや全国的な民主化にとも
なう派閥内の分裂により、1990 年代の美濃のローカルレジームは流動的であった。このダ
ム建設という単一議題を掲げた協進会は、流動化した 1990 年代の美濃の内向的外部資源導
入レジームの中で、
「内向きの視線」を動員して超党派の動員を可能にした。ここでは、協
進会率いる美濃ダム建設反対運動がダム建設という中央政府が作りだした、制度政治の関
与できないサブ政治に挑戦したことを示し、その運動を規定する要素として、民主化と台
湾化のみならず、地域社会の「環境」、ローカルレジームの動力にも注目して、社会運動が
トップダウンでおこる民主化やサブ政治だけではなく、地域社会の文脈からも説明できる。
第 4 章では、ダム建設反対運動のための地方文化の実体化として始まった協進会のコミ
ュニティ運動が、社区総体営造という台湾文化実体化政策の政府助成金を得て制度内化と
卓越化を遂げる過程を分析した。まず、社区総体営造以前のコミュニティ政策であり社区
発展では、コミュニティの原子化に対処するため、既存統治組織の強化がトップダウン形
式ではかられた。それに対し、社区総体営造は台湾文化実体化政策として始まったが、社
会運動への妥協策として、また民主化推進や地方派系弱体化のために地方派系に資源を意
図的に分配せず、民間団体に直接資源が投下された。その資源を得た民間団体は、協進会
のように、社区大学や姉妹会などのコミュニティ団体を新たに派生させるとともに、実績
を買われて助成金を受託し続ける政府助成金特有のメカニズムにより、制度内化を果たし
た。しかし、社区大学は運動参加者の自己変革と、コミュニティをめぐる政策制度変革の
あいだで揺れた結果、自己変革に傾斜した。また姉妹会はそれが理念とするグローバル化
や多文化主義が社区総体営造の基本となる台湾ナショナリズムと矛盾するものであったた
め、両者ともに高度な文化や学術に関する言説を用いて、常に自分達と地域政治アクター
を含む地域社会とを弁別していった。
第 5 章では、卓越化したコミュニティ団体が再び地域政治に参入するメカニズムを検討
した。まず、地域政治アクターは地方派系の個人化と瓦解を経験し、さらなるレントシー
キングを模索する一方で、搾取だけでなく分配の成果を競うよう中央政府から迫られ、そ
のためにコミュニティ団体が蓄積してきたノウハウが必要になった。コミュニティ団体も
事業の深化にともない、より深く住民の生活や現状改変に関わる必要が生じるにつれて、
地域政治アクターとの接触が不可避となっていった。そこで、面子にこだわる必要のない
実動部隊の若手スタッフが個人的な関係から接触を開始した。やがて実動部隊が農会理事
長ら地域政治アクターの公権力を借りて、プロジェクトの実質的主導権を握り、それと引
き換えにプロジェクトの成果を地域政治アクターの手柄に還元することは、コミュニティ
団体が上位政府とのパイプを保ちながら地域政治に参入し、同時に上位政府への政策提言
も試みる「二つの政治への挑戦」であった。しかし、それはコミュニティ団体が地域社会
において農会や鎮公所と同等のアクターとして認められたということではなく、むしろコ
ミュニティ団体が地域政治アクターの既存の地位を利用して実質的なプロジェクト実行権
iii
を握るというスタイルであった。また、コミュニティ団体の上位政府への政策提言も、上
位政府がその提言を「聴きおいた」だけに終わる可能性を絶えず内包していた。社区総体
営造は地域社会の中で卓越化しながら、再び地域政治に参入していくコミュニティ運動に
携わる人材を作り出したが、その運動が地域政治アクターと対等に行動する正統性までは
作り出さなかったといえる。
終章では本論文が持つ含意と展望を述べた。本論文は、国民党政権が民主化の文脈から、
地方政府の頭越しに社会運動に直接社区総体営造資源を投下したため、地域社会のコミュ
ニティ運動はそれを利用して「二つの政治への挑戦」という台湾独特の政治参加形態を作
り出した。このような地域政治と社会運動、
「環境」の関係は、地域社会学のバリエーショ
ン、すなわち社会運動と地域社会を分析する新たな視点として機能する可能性がある。こ
のような知見は途上国の地域社会にも応用可能であり、また台湾の今後を分析するのにも
有用であるといえる。
iv
謝辞
この論文は、ここに名前のない方も含め、多くの方々に支えられて完成した。
まず、台湾高雄県美濃鎮(2010 年 12 月 25 日より高雄市美濃区)の皆様に感謝したい。特
に、この論文のテーマであるコミュニティ団体、すなわち美濃愛郷協進会、旗美社区大学、
南洋台湾姉妹会、美濃農村田野学会の皆さんには深く感謝したい。一日中事務所やイベン
トに「ぶらさがっている」筆者をみて、あるスタッフは当初筆者を「スパイみたいだ」と
思ったという。そのスパイの正体は知れつつあるが、この論文や今後の研究でも成果を還
元していきたい。ほかにも、金曜日倶楽部の皆さん、ビンロウ店の王新師さん一家、呉発
徳さん一家、そして筆者に最高の居住環境を提供してくださった山下呉家の皆さんに心か
らお礼申し上げたい。彼(女)らは筆者の美濃での生き方を教えてくれた。お名前を一人一人
あげられないのが本当に残念でならない。
美濃以外のコミュニティ団体、特に屏東の藍色東港溪保育協会、大武山成年礼の皆さん
には多くを教わった。蔡森泰さんが見せてくれた屏東の客家集落、大武山(標高 3,092 メー
トル)の大自然、その山頂にある日本語で書かれた高砂義勇隊の石碑、ヒノキ製の神社の鳥
居は、台湾人が追ってきた台湾の歴史を雄弁に物語っていた。他にも、屏東県の前高樹郷
長の劉錦鴻さんは、竹田郷の六堆忠義祠で筆者の博士論文を気にかけて下さった。また、
台北では荒野保護協会にあるグリーンマップ台北にお世話になった。記して感謝したい。
筆者にとっての現場は、台湾での問題意識をもとに日本にも広がった。書物で勉強する
より先に現場に向かった筆者は、山形県新庄市大豆畑トラスト、岐阜県美濃市、茨城県常
陸太田市の皆さんに多くを学んだ。心からお礼申し上げたい。
このように現場を這い回る学生生活だったので、学業は滞ったが、すばらしい指導者に
会えた。修士課程以来の指導教員であり、博士論文の審査委員の一人でもある若林正丈先
生(現:早稲田大学)には、ゼミにも出ず、迷惑ばかりかけ、感謝する以上に筆者は間違いな
く一番のダメ弟子だと申し訳なく思い、反省している。先生は、論文で丁寧な説明をする
ことを教えられ、また台湾研究のための最高の環境を提供して下さった。博士論文審査の
主査である田原史起先生(東京大学)は、日本と中国の農村社会学的な視点を多くご教示下さ
った。石橋純先生(東京大学)は論文中の概念の重複を丁寧に指摘して下さった。中井和夫先
生(東京大学)は細部にまで目を配り、丁寧なコメントを下さった。松本充豊先生(天理大学)
は東北・関東大震災直後にもかかわらず遠路お越し下さり、台湾政治学者ならではのコメ
ントを多く下さった。指摘された問題は、以後の研究を通じて答えてきたい。
筆者が研究の道に入った契機は、何といっても中国学合宿である。戦後の食糧難の中、
運動に明け暮れてろくに勉強しない中国語クラスの学生を心配した当時の東大の先生方が、
コメを腹いっぱい食わせてやるとの条件で学生を半ば強制的に那須の三斗小屋温泉に連れ
て行って中国語を教えたのが始まりとされるこの合宿は、1996 年の筆者の入学当時はすで
に有志の少人数合宿となっていた。しかし、少人数であるがゆえに、そこに集う同級生や
先輩からは、中国という大枠の中で幅広い知見を濃密に学んだ。特に、アナクロな数十年
iv
前の先輩方の「教養」として習った歌の数々は非常に刺激的であり、今も忘れ難い。
学部 3 年生で進学した教養学部総合社会科学科相関社会科学分科では、優秀な同級生や
先輩後輩の中で、自分の愚鈍さとともに、地域研究が真の方法論ではないという負い目を
感じた。その負い目には今も悩んでいる。3 年生で参加した阪神大震災の調査では、現場の
楽しさや難しさを学んだ。大学院(地域文化研究専攻)の先輩後輩には様々な教えを乞うた。
学外でも、社会運動論研究会で「耳学問」した高度な議論は大変刺激的であった。
筆者の台湾長期滞在(2004 年 9 月‐2006 年 3 月)を支えてくれたのは、中央研究院社会学
研究所の范雲教授(現:台湾大学社会系)と鄭陸霖教授である。また、滞在費用は(財)交流協
会、(財)台湾民主基金会の助成金を受けた。記して感謝したい。滞在中は横田祥子さん(現:
日本学術振興会特別研究員 PD(東京外国語大学))のフィールドである台中県東勢に伺い、
同年代の彼女の真摯な研究に刺激を受けた。
2010 年 4 月以降は、法政大学サステイナビリティ研究教育機構で、多様な研究者に囲ま
れて快適な環境を提供していただいている。機構長の舩橋晴俊先生には、年表整理の重要
性、そして行動する勇気を学んだ。この論文の巻末年表は、この環境の産物である。
研究以外でも仲間に恵まれた。元々修士課程までは引きこもりがちな筆者であったが、
現場に飛び込む力をつける契機となったのは 2002 年からインターンとして 1 年、専従スタ
ッフとして 1 年あまり勤めた日米コミュニティ・エクスチェンジ(JUCEE)での OL 生活で
あった。直属上司である大出恭子さん、前田佐保さんからは、仕事の作法を習った。2003
年に JUCEE が主催する7週間の NPO インターンシッププログラムで一緒にサンフランシ
スコに渡った IP2003 の仲間は、今も様々な形で NGO/NPO に身をおく人が多く、多様な
情報や、不安の中での喜怒哀楽を交換することができた。2004 年以来毎年開く IP2003 の
新年会は、筆者にとって今も最も楽しみな集まりの一つである。
台湾の友人達にも感謝したい。陳治凡さんは、台北砂漠でのオアシスとなってくれた。
陳炳宏、呉玉聡・黄雅恵夫妻、蔡政信、サピアット・ナイサンの諸氏は筆者のストレス発
散につきあってくれた。この出会いがなければ、その後の日本での出会いや、博士論文を
書く力は発生しなかったであろう。
最後に、筆者と同い年の高雄市出身の旧友二人に感謝する。筆者が大学の第二外国語で
中国語を選択したのは、二人と英語ではなく中国語で意思疎通するためであり、台湾研究
を志したのは二人の出身地域をもっと知りたいと思ったからに他ならない。一人は沙曼琦
(Mandy Sha)さんである。彼女は高校一年生の夏、筆者が最初に知り合った「台湾人」であ
る。祖籍を中国吉林省に持ち、学生時代を韓国のアメリカンスクールで送り、大学進学以
降はアメリカで暮らす彼女だが、いつもどこでも筆者を励ましてくれた。もう一人は彼女
の古い同級生である陳敬宜さんである。高校時代から筆者と頻繁に文通し、台湾研究を志
す筆者を喜んでくれた。筆者がずっと憧れ、追いかけてきた二人は、既に結婚して母とな
った。これまでの応援に感謝するとともに、良友の今後を祝福せずにはいられない。
2011 年 3 月 20 日 星 純子
v
現代台湾コミュニティ運動の地域社会学
―高雄県美濃鎮における社会運動、民主化、社
区総体営造―
目次
序章 本論の課題
3
1
社会運動論の検討 ―開発途上国の社会運動を中心に―
4
2
台湾における社会運動研究 ―民主化、ナショナリズム、制度内化―
11
3 本論文の視点① 社会運動と「社区総体営造」政策
16
4
本論文の視点② 社会運動と開発政策
18
5
本論文の視点③――社会運動とそれを囲繞する地域社会の「環境」
23
6
本論文の調査対象・調査方法と構成
26
第1章
台湾社会運動の概観
28
1 社会運動の幕開け(1945―1979 年)
28
2 権威主義体制移行開始前夜(1980―1986 年)
31
3 政治自由化のインパクトと残る課題(1987―1989 年)
38
4 「非主流派」によるゆり戻しとさらなるネットワーキング(1990―1992 年)
45
5 民主化と社会運動の制度化(1993―1999 年)
47
6 小結
51
第2章
美濃鎮という「環境」 ―戦後台湾地域政治の磁場と地域社会―
53
1
美濃のローカルレジーム
55
2
美濃のローカルレジームの変遷
61
3
「エスニックの箱庭」の素地と農村社会の変容
65
4 「内向きの視線」 -「団結」の表象と内向型外部資源導入レジーム―
5
小結
74
―普遍的台湾農村としての美濃と、特殊エスニックコミュニティとしての美濃
―
79
第3章
地域社会における社会運動 ―サブ政治とローカルレジームのあいだ―
81
1
サブ政治の縁起 ―開発計画体系と水利法からみる「政治」の発生―
82
2
社会運動の発生と展開 ―民主化と台湾化の波に乗って―
89
3
社会運動の「環境」①
―伝統社会と協進会―
96
4
社会運動の「環境」②
―ローカルレジームの変動―
5
小結 ―地域社会における台湾社会運動論―
第4章
社区総体営造と社会運動 ―コミュニティ運動の派生と変容―
1
102
106
108
1
社区総体営造政策の形成と展開 ―社区発展との比較から―
2
社会運動の制度内化と派生
109
―ダム建設反対運動から始まる終わらないコミュニティ
運動―
114
3
派生したコミュニティ運動① ―制度変革と自己変革のはざまで―
121
4
派生したコミュニティ運動② ―グローバル化と地域社会―
128
5
小結 社区総体営造が台湾社会運動に与えたインパクト
134
第5章
コミュニティ運動の再帰的政治参加 ―郷鎮政治とサブ政治への挑戦― 135
1 郷鎮政治の変容 民主化とグローバリゼーション
136
2 社区総体営造の深化 コミュニティ団体の地域政治への参入
141
3
コミュニティ運動の再帰的政治参入 ―「人と人との接触」の意味―
148
4
二つの政治への挑戦 ―地域社会における社区総体営造再考ー
155
5
小結 ―「政治を作り出すものは幸いである」?
162
終章 台湾コミュニティ運動と地域政治 台湾地域社会学の成立に向けて
164
1
各章の総括
164
2
結論と本研究が持つ含意
168
3
残された課題と展望
170
参考文献
173
図表リスト
182
附録
183
インタビューリスト
183
美濃ダム建設反対運動年表(1992-2000)
184
美濃年表(2001-2010)
208
2
序章
本論文の課題
1
社会運動論の検討 ―開発途上国の社会運動を中心に―
2
台湾における社会運動研究 ―民主化、ナショナリズム、制度内化―
3
本論文の視点① 「社区総体営造」政策
4
本論文の視点② 台湾地域社会学の可能性
5
本論文の視点③――社会運動とそれを囲繞する地域社会の「環境」
6
本論文の調査対象・調査方法と構成
社会運動が、市民社会やそれが擁する社会資本のバロメーターとして注目されるように
なって久しい。特に、開発途上国では社会運動が政治的、経済的に不自由な環境下で発展
し、民主化に寄与するなど本国の政治のあり方を大きく変えてきたことが大きな特徴とい
える(Naruemon, 2002;金栄鎬、2001)。本論文で扱う台湾はこの他に、分裂国家のナショ
ナリズムという特徴も、地域社会の社会運動のあり方や文化政策に大きな影響を及ぼして
きた。民主化、中央・地方政府の政策、社会運動はどのような相互作用を伴って形成され、
また社会運動はそれがよって立つところの地域社会にどのような位置を占めるのか。これ
が本論文の課題である。
民主化に伴って発展してきた台湾の社会運動、なかでもコミュニティの社会運動(以下コ
ミュニティ運動と略称1)は、その展開の結果、総じてその運動主体が社区総体営造という政
策資源を用いて地域社会における信頼ネットワークの構築や、住民参加を重視したコミュ
ニティの美化計画などを安定的に運営するようになった。本論文は、その過程を論述する
と共に、コミュニティ運動が次の三つの帰結を生んだことを論ずる。第一点は、社会運動
が地域社会の頭越しに助成元たる中央政府との関係を築いたために、地方政治社会の緊密
なネットワークから外れた存在として出現したことである。第二点は、社会運動が政策資
源を用いているがゆえに、ときにその「抵抗の概念」すなわち、それが社会運動たる所以
自体が問われることになることである。そして第三点はコミュニティ運動が新たな政治を
作り出し、社会運動が地域社会における地位を模索する際、基層政治に再び参入する可能
性もあるということである。これらを示すことで、台湾社会運動、特にコミュニティ単位
の社会運動の政治アクターとしての可能性を示すとともに、その資金源である社区総体営
造の検証を行う。
この序章では、本論文の焦点である社会運動の展開と政治参加を台湾という地域に即し
て検討するとともに、その先行研究から本論文の課題と視角を塑造していきたい。1.では
社会運動論の流れを開発途上国の社会運動を中心に整理する。2.では台湾における社会運
1
本論文でいうコミュニティ運動とは、文化の実体化、産業振興、開発に対する抗議などを通じ
て、コミュニティの生活や信頼ネットワークの質を高める社会運動をいう。
3
動研究を整理し、その流れを踏まえて足りない論点を指摘する。3.と4.では前の指摘にも
とづき、本論文の観点を提示する。5.では本論文の構成を示す。
1
社会運動論の検討 ―開発途上国の社会運動を中心に―
本論文で検討する社会運動とはいかなるものなのか。本節では、まず社会運動の概念お
よびその変遷を世界的に概観し、そのうえで開発途上国の社会運動論を中心にさらに検討
をすすめる。そして、社会運動の定義を定めるとともに、民主化と社会運動、制度内化し
た社会運動、社会運動と地域社会という三つのテーマが台湾社会運動研究の文脈に適用さ
れることを明らかにして、次節の台湾社会運動研究の検討へとつなげたい。
1.1 社会運動論の流れ
社会運動論は、アメリカとヨーロッパでそれぞれ別の理論展開をみてきた。まずアメリ
カでは、社会運動が政治機会構造や社会構造に規定される側面よりは、むしろそれが構造
を変える側面に注目が集まってきた。そして社会運動はパニックやマス・ヒステリーなど
とともに、集合行動の一種として扱われ、その非合理性や非日常性、情動性、暴力性など
が強調されてきた。これは相対的剥奪感や怒り(grievance)などの微視的な社会心理学的諸
変数に焦点をおくもので、相対的剥奪論ともいわれる。それに対し、公民権運動などアメ
リカの社会運動の隆盛を踏まえて、社会運動を目的達成のための合理的な行為ととらえ、
社会運動の形成・発展・衰退を、当該の運動体が動員可能な社会的諸資源の量や戦略の適
合性によって説明しようとする資源動員論が登場した。そこでは実体的な不満があるから
社会運動がおきるという説明ではなく、そうした不満を動員できるだけの資源と、その資
源を効果的に用いる社会運動団体が社会運動を規定するという説明がなされた。言い換え
れば、不満はそこにあるものではなく、社会運動団体によって構築されるものであると資
源動員論は説明するのであり(McCarthy and Zald, 1977)、これは社会運動団体の主体性や
合理性を強調する観点であるといえる。
資源動員論に対しては、誰もが平等に集合行為を起こせるという前提に立っているとの
批判が現れ、社会運動を起こす環境条件を社会運動の規定要因とする理論が現れた。それ
が政治機会構造論である。しかし、社会運動は、政治機会構造だけに規定されているわけ
ではなく、資源動員論が示してきたような運動行為者の選択にも規定されている。そこで
登場したのが、折衷的な McAdam(1999)の提唱した政治過程論である。マックアダムはこ
こでアメリカ公民権運動を実証例に、政治機会構造と運動行為者の選択の相互作用に注目
した。これらアメリカで発達した資源動員論、政治機会構造論、政治過程論は、いずれも
イベントや政治過程など可視的あるいは計測可能な、社会運動の「客観的」側面に注目し
たものであるといえる。
それに対し、ヨーロッパでは運動行為者の主観に注目する「新しい社会運動」論が隆盛
をみた。もともとヨーロッパでは、社会運動が構造に規定された局面を論じるマルクス主
4
義の流れをくむ方法が主流であった。1968 年前後にはドイツ、フランスで大きな盛り上が
りを見せた学生運動および労働運動をはじめ、社会主義国の社会運動、環境運動や女性運
動の台頭がヨーロッパでみられた。そこでトゥレーヌは、社会が工業化社会から脱産業社
会へと変化すると、社会運動も旧来の社会運動から「新しい社会運動」へと変化すると主
張した(Touraine, 1978=1983)。新しい社会運動の特徴はその担い手の多様性、環境問題、
女性などイシューの多様性、工業化社会では自明のものとされた大量生産および消費、巨
大科学技術への疑問を呈する価値志向、自己を表出するという自己限定的ラディカリズム
であった。つまり、ヨーロッパで生まれた「新しい社会運動」論は、社会構造が変わると
社会運動もそれに応じて変わると論じ、旧来の階級意識にかわり、環境や女性など社会運
動へ資源や人を凝集させるアイデンティティ、つまり新たな集合アイデンティティ
(collective identity)が注目された。先述のアメリカの研究傾向と対比して言うならば、アメ
リカでは客観的に計測可能なイベントや政治過程に注目するのに対し、ヨーロッパでは運
動行為者の主観に注目する研究傾向が現れた。
そしてこの欧、米二つの社会運動論の潮流は冷戦の崩壊、特に東側諸国の体制を大きく
揺るがした社会運動を背景に、1990 年代以降急速な交流と射程の拡大を見せた。これに伴
い、アメリカで主流をなしていた資源動員論は政治システムとの対決、運動の組織政策へ
の影響など可視的側面だけをみるもので、社会構造変化の問題が退けられ、集合行為のア
イデンティティやそれを起こす潜在的ネットワークなど、社会的・文化的側面が無視され
ているとの批判がヨーロッパからおきた(Melucci, 1989=1997:41)。一方、ヨーロッパでお
こった「新しい社会運動」論に対しても、それが重視する行為者の動機付けは、資源動員
論が分析する動員過程と矛盾しないため(本郷、2007)、アメリカの研究は「新しい社会運動」
論と資源動員論の橋渡しとしてフレーミング論を展開した(Snow et al., 1986)。その統合結
果の一つが McAdam, McCarthy, Zald(1996)が提起した「政治機会、動員構造、文化フレー
ミング」という社会運動の構成要素であった。
しかし、重冨(2007:18)は両者に共通する特徴を指して「マーケッティング理論」と呼び、
3 つの特徴を指摘する。第一に、社会運動体の資源や作為で社会運動がおこるとする「供給
側の重視」である。第二に、社会運動のイシューが「売れる」環境でこそ運動は成功する
という「市場機会論」である。第三に、不満も動機も主体の意味づけや見方しだいという
「主観主義」的論点である。すなわち、欧米両方で発達した社会運動理論は、経済的に豊
かで、民主主義も制度化されている先進国の状況を前提としているというのである。これ
では、途上国での状況を説明しにくい。そこでは、脱産業社会どころか、まだ大量の農村
人口を抱え、都市にも大きなインフォーマルセクターが存在し、また、民主主義も制度化
されていないか、されていてもその歴史は浅いからである。実際、資源動員論の提唱者で
ある McCarthy and Zald(1977:1222)は、社会運動団体の潜在能力は警察など、権威や社会
統制者のエージェントによって影響されると述べて、資源動員論が民主主義的なアメリカ
の状況を想定したものであることを認めている(McCarthy and Zald , 1977:1222)。
5
本論文で扱う台湾は、ちょうどこの先進国と途上国の中間に位置する、ということがで
きる。それは、1960 年代以降 NIEs の一角として経済成長を遂げた豊かな国でありながら、
その経済成長が極めて短期間に地域的に偏って展開し、規制の欠如のために地域社会に環
境汚染を引き起こし、かつ制度的民主化が完成してまだ僅か 10 年あまりという途上国の特
徴を残している。途上国の社会運動だけでもなく、先進国の社会運動だけでもなく、両方
の社会運動研究から台湾社会運動論を考える必要があるだろう。
では、台湾の社会運動をどのように論じたらよいのか。東側諸国での社会運動が注目さ
れると同時期に、アジアでも社会運動は民主化や開発の担い手として頭角を現してきた。
次節からは途上国の社会運動論がどのような展開をみてきたのかを整理してみよう。民主
化と社会運動、社会運動と地域社会、制度内化された社会運動の 3 点にわたり検討する。
1.2 途上国の社会運動①
民主化と社会運動
前述の欧米における社会運動理論の展開は、社会運動が民主化された地域でおこるもの
で、かつ資源が市民社会の側にも一定程度存在する先進国で発生することを前提にするも
のであったことはすでに述べた。
しかし、途上国では制度的民主主義は必ずしも所与のものではない。むしろ、台湾をは
じめ韓国やタイでも、途上国で民主化運動と社会運動は相互にその政治空間を広げてきた。
ここからは、各国の民主化と社会運動の相互作用に関する比較研究が進められてきた。そ
の際にキーワードになったのが、先述の政治機会構造である。例えば、アジア諸国の民主
化という政治機会構造の変化を変数に、環境運動へのインパクトを比較検証する Lee and
So(1999)のような研究が行われてきた。
しかし元来、政治機会構造の概念はそれが誕生したアメリカのように、民主主義が定着
し、かつ社会運動に寛容な社会を前提としている。そこで、政治機会構造を変数として途
上国間の比較をする際、問題がおきた。すなわち、民主主義の歴史が浅い途上国の社会運
動の比較においては、政治機会構造の定義が無限に拡大解釈され、それを変数にして比較
ができないほどその定義は混乱しているという批判が提起されたのである(Koopmans,
1999)。このように途上国では、資源が先進国に比べて少ないことを理由に、上述の政治機
会構造や社会構造などの「構造」から直接に社会運動を説明する研究が多くなされてきた。
また、「新しい社会運動」の提唱者自身が、途上国の「新しい社会運動」の存在には否定
的であった。トゥレーヌはラテンアメリカを例に引き出しながら、途上国の社会運動はま
ず政治的不自由をもたらす国家やそれが従属する外国資本主義に立ち向かうものであり、
途上国において社会運動は階級、民族、近代化の三つの次元を組み合わせない限り存在し
ないと主張した(Touraine, 1976=1989:304)。すなわち、トゥレーヌによれば、階級ではな
く、多様なアイデンティティにもとづく「新しい社会運動」は途上国では発生しないとい
うことになる。
6
しかし、途上国にもその地域の特徴を残しながら自己表出を志向する社会運動は存在す
る。例えば台湾の女性運動は、担い手のエスニックな特徴が運動レパートリーに反映され
ているが、運動の訴求内容自体は階級や民族とは無関係に女性の権利擁護をめざしている。
すなわち、台湾の女性運動は、草の根のネットワークを持たない高学歴の外省人女性が担
い手だったため、本省人を中心とする党外および民進党と距離をおきながら超党派の立場
をとり、陳情など大衆動員を必要としない戦略をとりながら運動を展開した(Fan, 2000)。
また、韓国では 1987 年までは民主化運動と結合した女性運動が主であった。しかし 1987
年以降はそれまで現れなかった環境、女性、文化、障害者、消費など新たなイシューが社
会的に可視化され、それ以前の民主化運動と結合した女性運動とは異なる雇用平等や性暴
力などの問題を女性運動が扱うようになった(金京姫、2004:377)。これも新しい社会運動特
有の集合アイデンティティである。政治機会構造をはじめ、構造から直接に社会運動を説
明しようとする途上国の社会運動研究は、やはり集合アイデンティティの検討、特に勃興
する途上国や分断国家のナショナリズムを核とするアイデンティティの研究を、民主化研
究などの政治学に譲ってきたといわざるをえず、社会運動の観点からこの「運動」の集合
アイデンティティを検討する必要があるといえる。次節で述べる地域社会は、本節で述べ
た社会運動を規定する構造を補完するだけでなく、特にコミュニティ単位の社会運動の集
合アイデンティティを生み出す重要な要素として注目されている。以下、みていこう。
1.3 途上国の社会運動② 社会運動と地域社会2
社会運動の地域別比較研究が盛行すると、前述のとおり各国の政治機会構造を変数に社
会運動のバリエーションを検討する研究が現れた。これらの研究でいう政治機会構造とは
主に中央政府を中心とする政治機会構造であり、地方政府や地域社会のミクロな政治機会
構造は看過されていたといえる。しかし、中央政府―地域社会の連動というテーマは、地
方分権化や民主主義の定着(consolidation)という政治学のテーマであるとともに、社会運動
2
本論文での地域社会の定義は、中央に対する地域という意味合いで用いる。
「中央VS地方」
という普通の対義語に照らし合わせ、本来ならば地方社会という言葉をあてることも考え得る。
実際に中国語は「地方社会」と表記する。しかし、日本語を用いる際には日本での文脈を考えず
にはいられない。歴史的に地域開発を論じてきた日本の地域社会学では、市町村自治を越えた巨
大資本と広域行政に対抗する自治体改革の拠点として「地方」を捉えてきた。つまり、この場合
の地方という言葉には、中央への「対抗」や中央政府から自律的な地方自治という意味合いがこ
められているといえる。しかし、台湾の場合には実際に民主化期の宜蘭県や高雄県などを除き、
地域社会は必ずしも中央への「対抗」拠点とはならなかった。また、日本でも地方という言葉で
英語の local を表すことは少なくなってきており、地方自治体行政圏だけでなく国政や具体的な
生活圏の営みも含めるという意味で、local politics に「地域政治」という用語をあてる研究も存
在する(間場、1983:第一章)。そこで本論文では地域社会という用語を用い、県、郷鎮市レベル
のローカルな政治(政府)という意味ではそれぞれ地方政治(政府)、郷鎮政治(政府)の用語を用
いて分け、地域社会の中の様々なレベルの政治の総称については「地域政治」を用いる。この用
法については中澤(2005:15-16)、田原(2004)を参照した。
7
論からいっても地域社会における社会運動のテーマでありつづけてきた。本節では、中央
―地域の相互作用がなぜおこるのかを検討し、具体的な事例を示しながら、社会運動と地
域社会をみる角度を鋭角化したい。
多くの国民国家において、政府といっても、中央政府と地方政府はまったく異なる動き
を見せてきた。例えば、タイでは中央政府の民主化が地方政府に波及せず、中央政府はタ
ンボンというコミュニティ制度を発足させることで地域政治において新たなアクターの出
現を図った(永井、2008)。また、住民によるラブホテル排除運動を研究した大西(2004)によ
れば、韓国では 1987 年の民主化以降地方分権化が漸進的に進んだが、まだ不十分な状態に
あった。それを住民運動は利用して、税収減につながるラブホテルの規制に消極的な地方
政府の頭越しに、その排除を全国の社会運動ネットワークや中央政府および政治家に訴え、
国会の行政監査権を発動させることで、地方自治体の首長を呼び出してこのラブホテル戦
争についての喚問を行った。そしてこれが 2000 年末に地方自治体を住民運動寄りに方向転
換させることにつながった。このように、民主化と地方分権化は密接不可分の関係にあり、
地域社会に根ざす社会運動は、この動きに沿うように中央政府と地方政府に対して異なる
行動をとりながら、政治アクターとしての地位を模索している。社会運動を論じる際、地
域社会に注目する原因はいくつかある。
第一に、地域に根ざす社会運動の現れ方は、地方政府の権力の源泉と深い関係を持って
いるということである。これを検討することによって、社会運動が地域社会からどのよう
に発生し、また地域社会をどのように変えようとしているのかをより明確に描き出せる。
例えば、本論文で扱う台湾では、社会運動が中央政府および県政府とは助成元としての関
係を結んだのに対し、助成能力を持たない郷鎮政府(以下基層政府と呼ぶ)とは、社会運動の
活動に郷鎮政府という公権力の「お墨付き」を得ることで、地域社会での活動空間をより
正当化してきた(星、2007:191-2)。前述の「体制への挑戦」という文脈から言えば、社会運
動が資金を得る権力と、社会運動が挑戦する対象となる権力は異なる可能性もあるという
ことになる。社会運動はこれら 2 種類の政府に対し、それぞれの権力にもとづいて異なる
関係を形成してきたといえよう。ここから次節で述べる制度内化した社会運動が発生する
ことになる。
第二に、社会構造から社会運動の発生および展開を論じる際、地域社会レベルの細かな
要素も考慮に入れる必要があるということである。途上国の社会運動論は階級構造など大
きな社会構造から社会運動を説明する傾向があることは述べたが、地域社会には地域社会
レベルならではの血縁および地縁ネットワークなど伝統社会の諸様相、つまりもう少し小
さいレベルの様々な構造的要因も社会運動を規定しているといえる。ここでは政治機会構
造だけでなくそういった様々な地域社会の構造も社会運動を規定するという意味で、これ
らの構造を総称して環境と呼んでおこう。ここでいう環境とは、制度政治のみならず血縁
や個人のネットワークなども社会運動が発生し、展開する潜在的要因として考慮するとと
もに、海外の資金を得たり、市民や政権との新しいパートナーシップを樹立することによ
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って新しい地域の公共性が創出されたことも想定されたうえでの用語である。資源が少な
いため運動行為者の選択肢がそれほど多くなく、かつ民主主義的な制度政治の歴史が浅い
開発途上国では、多く論じられてきた政治機会構造だけでなく、伝統社会ならではの諸様
相も加味した社会運動の構造的要因、すなわち「環境」を検討する必要があるといえる。
第三に、地域社会は、もとより先進国と途上国とを問わず、社会運動の集合アイデンテ
ィティを生み出す場としても重要な役割を果たしてきた。特に、今日グローバリゼーショ
ンや近代資本主義の浸透にともない、それへの対抗言説を提供する地域や場所の意味はい
や増すばかりである(藤村、2003)。また、その逆に地域社会から始まったローカルな運動が、
国際的な支援を導入したために、環境問題などのグローバルな問題へと鋳直されていくブ
ラジルのダム建設反対運動の例もある(Rothman and Oliver, 2002)。実際、本論文であげる
美濃ダム建設反対運動では、ダムは最も純粋な台湾客家のコミュニティを破壊するという
ロジックで、環境保護や農民保護など 1980 年代から続く社会運動の文脈に加え、美濃とい
う地域そのものがアイデンティティの源泉となった。コミュニティ運動の生成と展開を論
じる際、地域社会において実体的な不満を行為者が感じていたかどうかを検証することは
もちろん重要である。しかし同時に、コミュニティという場自体の意味が社会運動の中で
問われてくる過程も見逃してはならない。これは、前述した社会運動の「環境」を考える
際にも重要である。すなわち、伝統社会の諸様相は実体的な構造要因として社会運動を規
定するだけでなく、
「伝統」として社会運動の諸言説がそれを再構築する部分も多い。なら
ば、その伝統の実体を論じるとともに、社会運動の中でそれがどのような言説へと構築さ
れていったのかを検討する作業が必要である。これらの作業によって、構造もしくは不満
即社会運動の発生という短絡的な議論を避けることができる。
そこで、本論文では社会運動の発生する場としての地域社会に注目し、社会運動がいか
なる地域社会から生まれ、またいかなるアクターとして地域社会で行動するのかを、政治
的側面を中心に検討していきたい。
1.4 途上国の社会運動③ ―制度内化された社会運動―
資源の少ない途上国では、以下にあげるように政府資源を得て制度内化した社会運動も
少なくない。本節では、その研究の文脈を整理し、制度内化に一定の留保をつけつつも、
それらをも社会運動とみなしていくことの意義を示したい。
制度内化した社会運動は、三つの政治機会構造から説明できる。一つは緑の党など、政
党や陳情活動としての環境運動である。これは、ドイツのように、社会運動の政党化に強
いインセンティブがある政党民主制国家や(Offe, 1986)、陳情の伝統が強いアメリカのよう
な地域で顕著である(Kitschelt, 1986)。もう一つは、資源の少ない途上国に見られる、国内
政府の頭越しに「民間社会」の担い手として海外の財団や政府から助成を受けるか、もし
くは国際会議に参加して国際問題の担い手となり、それを国内政府にフィードバックする
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社会運動団体の存在である。例えば Desai (2002)のあげるインドの女性運動は、1970 年代
に草の根の貧困女性救済に主に従事していたが、1975 年から 1985 年の国連国際婦人年へ
の参与を通じて、女性問題をグローバル・イシューとして認識し、国内政府が世界経済へ
の参入を進めるためにはその解決が必要であるとして政府に圧力をかけ、女性を保護する
法律の制定や、政策参与に成功している。もう一つは、同じく途上国で、中央政府資源を
得ながら地域社会に展開する社会運動の存在である。本論文で扱う台湾の例もこれに属す
る。台湾では、民主化運動と社会運動が密接に結びついてきたが、コミュニティの社会運
動は、社区総体営造という政府資金を得て、地方文化の実体化や地域社会の社会資本形成
に取り組んでいる(星、2008)。また、タイでは民主化と地方分権化により、制度上のインセ
ンティブを利用しながら社会運動が新たな政治アクターとして地域社会に浮上している(永
井、2008)。これら 3 つに共通する観点は、Jenkins and Klandermans(1995:3)の言うとお
り、国家は政治システムの組織者および勝利の裁決者であるとともに、社会運動の標的、
スポンサーそして不満の対象でもあるということである。ここには、社会運動の「権威へ
の挑戦」という通奏低音を踏襲しつつ、必ずしも対立的でない国家と市民社会の構図が現
れている(Alagappa, 2004:11)。近年の台湾での社会運動研究もこの構図にもとづいて、民
主化の担い手として国家と対立する市民社会像から、国家とより対等なパートナーシップ
を組む市民社会像へと変化しながら、より多方面からの研究が進んでいる(Fan, 2004)。
もちろん、市民社会と政府が対等なパートナーシップを組みうるのかという問題は、依
然として存在する。本来パートナーシップとは、互いの違いを理解したうえでの相互に自
律した対等な協働関係を指す。しかし例えば、行政の事業を受託した日本のNPOは、パ
ートナーシップの美名のもと、政策形成過程に参加できず行政の補完化にとどまるばかり
か、パートタイマー並みの人件費しか行政から支払われず、安上がり行政のための「パー
ト並みシップ」を余儀なくされている(藤井、2004:191)。このように、制度内化した社会運
動は形骸化や行政の補完化と紙一重といえる。アジアの社会運動は政府から資金を得て制
度内化しているがゆえに「見えにくい」社会運動となっているが、その中には社会運動の
核である「権威への挑戦」を保ちながら政府とのパートナーシップを模索している例もあ
り、その実態には詳細に検討が必要である。本論文で論じる台湾に関して言えば、留保は
必要なものの、社会運動関係者の政府職就任によって環境政策を変えたり(何、2006)、社区
総体営造という政策資源を用いて、屏東県林辺の社会運動団体のように地域社会の信頼ネ
ットワークを築き、生活の質を向上させている例は存在する(楊、2007)。この林辺のような
コミュニティの社会運動団体の中には、いわゆる郷鎮政府や地方政府だけでなく、社会運
動団体も参入する地域社会の広義の地域政治、すなわちガバナンス(協治)にも貢献している
例もある。したがって、政府資源を得て制度内化した社会運動も社会運動の範疇に含める
ことにし、そのうえで社会運動から権力への挑戦や、あるいは権力から社会運動への挑戦
がどのように行われているのかを検討することで、社会運動の実質的な「権力への挑戦」
に対して留保をつけることにしたい。
10
1.5 小結
以上みてきたように、社会運動は欧米二つの文脈が統合され、交流や射程の広がりを見
せている。しかし、それらの理論は民主化が定着し、かつ経済的に豊かな先進国の状況を
前提とするものであった。台湾を含めた途上国の社会運動を論じる際、民主化や地方分権
化などの政治機会構造の変化に注意しなくてはならないが、構造即社会運動という短絡は
避けるべきである。なぜならそこには、集合アイデンティティや、伝統社会の要素を残し
た地域社会という広い意味での環境も、社会運動を説明する要因として存在するからであ
る。また、資源の少ない途上国では、制度内化した社会運動も詳細に検討してみると、一
定の成果をあげていることが分かった。つまり、制度内化した社会運動には、留保をつけ
ながらも、そこに実質上の権力への挑戦が見て取れるのである。
そこで、本論文での社会運動の定義は「権力への挑戦」という留保をつけた上で、制度
内化した社会運動も含める。その際には、制度内化することによる支配と、権力への挑戦
両方を描くことで、それが社会運動と呼べるのかどうかを検討することにしたい。
次節では、まず台湾における社会運動研究を台湾研究の文脈から整理する。それによっ
て、台湾という地域の問題を整理するとともに、そこで地域社会という問題が持つ意味合
いを見たい。
2
台湾研究からみた社会運動―民主化、ナショナリズム、制度内化―
2.1 台湾社会運動研究の概観
現代台湾の社会運動研究は、台湾の現実状況と密接不可分であり、1980 年代の社会運動
の隆盛を受けて研究がさかんに行われてきた。本節では、前節で述べた社会運動の流れを
踏まえて、台湾における社会運動研究を整理する。台湾という地域固有の問題と社会運動
がどのように結合してきたのか、そして現在の問題意識とさらに検討すべき課題を彫琢し
ていきたい。具体的には社会運動論的な関心と地域研究的な関心、および公共圏的な関心
を検証する。そのうえで、本論文で扱う地域社会がそれぞれの関心から検討すべき事項と
して浮上していることを示したい。
1980 年代以降、台湾は民主化の進行にともない、各種社会運動が勃興した。そして、そ
の状況を検証すべく 1988 年に「台湾新興社会運動シンポジウム」が清華大学社会人類学研
究所で開かれ、原発建設反対運動、労働運動、学生運動、原住民運動など、各種社会運動
について研究報告が行われた。後にその成果は『台湾新興社会運動』として出版されたが、
そこでの関心は、社会運動と台頭する民主化勢力「党外」3との関係や、社会運動を形成す
3
戒厳令下で結社の自由がなかった時代の民主化勢力は、国民党の外にある党名なき党勢力とし
て、自らを党外と呼んだ。そしてこの党外が、戒厳令を破って 1986 年に民進党として結成され
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る集合アイデンティティと台湾ナショナリズムの関わりなど、今日の台湾社会運動研究の
源流をなしたといえる(徐ほか、1990)。このシンポジウム以後で出た二つの流れの他、もう
一つのNPOや公共圏から社会運動を論じる後発の流れも含めて、現代台湾社会運動研究
の流れを三つに分けて、もう少し具体的に見てみよう。
一つは呉介民や何明修に代表される政治学や社会学の関心から生まれた研究で、これら
の研究では、その初発から展開の時期、すなわち 1980 年代から 1990 年代にかけて、民主
化勢力(民進党)と互いに活動の空間を拡張しながら成長してきたという側面が強調され
る(何、2006;呉、1990)。これは、前述の社会運動論の文脈でいえば、政治過程論、さら
に厳密にいえば、政治機会構造論に属する。
二つ目は、淡水を研究した呂欣怡の研究に代表されるナショナリズム研究からの成果で
ある。呂欣怡の”the Politics of Locality”という書名が示すように、これらのナショナリズ
ム関連の研究では、社会運動や後述する「社区総体営造」などの政策が、地域社会の「地
域性」を「台湾的なもの」として実体化する際に生じる政治が研究されている。社会運動
に関していえば、民主化に伴って台頭した台湾ナショナリズム、すなわち民間社会からの
「台湾化」の要求が、
「地方文化の擁護のために開発に反対する」という対抗言説を集合ア
イデンティティとして社会運動に付与し、その台湾化のアジェンダを引き受けた中央政府
が、社区総体営造という政策を通じて実体化させていったという把握が行われている。例
えば、北部の台北近郊の街淡水では、台湾の歴史ある港町の文化を保護するという観点か
ら高速道路建設反対運動が展開された(Lu, 2002)。このように、社会運動のアクターは、尊
厳と自信を取り戻すため、自らの場所に蓄えられた記憶を頼りに自己イメージの肯定的な
再定義をめざそうとした。通常、特定集団にとっての場所の記憶や歴史を強調することは、
ほかの集団が保有する場所の記憶に抵触するおそれがある(長谷川ほか、2007:233)。しかし、
台湾ではその場所のローカルな本源性が、台頭する台湾ナショナリズムによって、全国に
共有されることになった。ここに 1980 年代以降の台湾のコミュニティ運動の特徴がある。
こちらは、社会運動論に即していえば、集合行為に際しての集合アイデンティティの側面
に注目する研究であるといえる。
三つ目の研究は李丁讃(2004)や顧忠華(2003)など、1990 年代後半以降に現れた、社会運
動を公共圏や市民社会の形成とみる傾向である。これはパットナムのいう社会資本の指標
としての社会運動≒NPOであり、西洋の市民社会論をベースに、社会運動が作り出す公
共性やネットワークを論じるものである。この研究の隆盛は、世界的な市民社会論の隆盛
を反映したものであると同時に、台湾のいわゆる「非営利組織」(NPO)が外交の一端を担
っている状況と無縁ではない(Chen, 2001)。人権 NGO や政策提言 NGO は台湾の民間外交
の担い手として、政府から助成金を受けている(佐藤、2007:153)。穿った見方をすれば、こ
の研究傾向は世界的な潮流を反映したものであると同時に、外交上の困難を補完するため
に、自国の市民社会を外国に向けて過剰にアピールし続けなければならないという台湾固
た。
12
有の状況をも反映している。
このように、第一の研究傾向からは、社会運動が民主化と結びつくという、開発途上国
に多く見られる現象が浮かび上がる。そして、第二の研究傾向は前者のテーマの他に、分
裂国家の分裂体におけるナショナリズムという台湾の特徴を補完するといえる。第三の研
究傾向は、世界的な市民社会論の隆盛を反映したものであると同時に、ソフトパワー外交
の一端としてNPOが台湾で重視されていることの証左であるといえる。
しかし、これらの研究は、民主化や台湾化といった全国的な動向、もしくはグローバリ
ゼーション下での「地方性」
「公共性」の強調から現代台湾のコミュニティ運動の成り立ち
を明らかにしているものの、これらの運動が実際にいかに地域社会の構造とかかわってい
ったのかという、地域社会と社会運動の連動という視点には欠けていた。
そこで近年新しい傾向として、台湾では民主化で中央政府と同じく揺れ動いた地域社会
に対し、社会運動が及ぼしたインパクトが微細に研究されるようになってきた。全国的な
制度的民主化と地方分権化、しかしその中央の動きと必ずしも歩調を合わせず複雑化する
地方選挙や地域社会に社会運動がどう向き合うのかというテーマは、社会運動論のみなら
ず、タイやインドネシアなど開発途上国の地域研究に広く共有された問題意識であり(永井、
2008:104)、本論文の問題意識もこの延長線上にある。次節では、台湾社会運動研究の中か
らどのようにして地域社会が注目されるに至ったのかをもう少し詳しく見てみよう。
2.3 台湾社会運動研究の中の地域社会への注目
前節で述べた台湾社会運動研究の中で、地域社会への注目はどのような経緯から始まっ
たのか。これには二つの文脈がある。一つは、台湾に内在する地域研究的文脈からの批判
である。すなわち、従来コミュニティにおける社会運動研究の多くは開発主体である県政
府や中央政府と社会運動の相互関係を論じるものであったが(何、2000)、直接の開発主体と
なりにくく、また中央・県政府とは全く別次元で営まれている郷鎮政治や地方派系4の実態、
およびそれと社会運動の関係は必ずしも明らかでなかった。また、民主化後立法院の議席
数の変化などに伴い、地方派系は瓦解したり、または逆に中央政界に進出したりと(王金寿、
2007:44)、コミュニティ運動に大きな影響を及ぼし続けている。こうした中で、楊弘任(2007)
の『コミュニティはいかに動き始めたのか?』は、その社会運動と郷鎮レベルの基層社会
の相互関係を分析した近年の台湾コミュニティ運動の代表作といえる。楊(2007:117)によれ
4
台湾における地方政治における派閥の呼称。戦後台湾では、外来政権である国民党が地域社会
を統制するために、ローカルエリートを中心に2、3の地方派系を県・市レベルと郷・鎮レベル
にそれぞれ形成した。地方派系は、地方選挙時における国民党の支持や資源の地方派系への配分
と交換に、ローカルエリートが党の統制に従うという選挙クライアンティリズムを各地域に形成
した。そして国民党は、県を越えたローカルエリートの提携を防ぎ、その力が中央政府の力を凌
駕することを防いだ。さらに、これらの地方派系は選挙時のみならず、日常生活においても地域
社会を分断し、地域社会の信頼ネットワーク醸成を阻害したり、政治腐敗の温床を作ったりした。
台湾全土の地方派系のクライアンティリズムやその変容については陳(1995=1998)を参照。また、
屏東県林辺を例とする地方派系の日常的動態については楊(2007)を参照。
13
ば、コミュニティの社会運動が直面したのは、権威主義体制の瓦解後もなお残る、それも
選挙時のみならず日常的に遍在する、地方派系のパトロン・クライアント関係であった。す
なわち、地域社会における社会運動は、地方派系などの「グレーゾーンなき政治対立」を
克服する作業と密接不可分であり、コミュニティの権力構造を含めた社会運動が生起する
環境と、社会運動がその環境に与えるインパクトを検証する必要があることを楊の研究は
証明した。
もう 一つは、 社会運動論か らの批判 である。台湾 の環境運 動研究者であ る何明 修
(2006:36-37)は、従来の資源動員論を中心とした社会運動研究は外部資源の導入を重視しす
ぎるあまり、地域社会が持つ現地資源(indigenous resources)を軽視しすぎているという批
判を提起した。台湾社会運動研究に具体的に即していえば、外部資源とは具体的には主に
民進党やその前身たる党外を指す。しかし、1980 年代前半から続く貢寮の第四原発建設反
対運動のように、党外あるいは民進党という外部資源に依存した社会運動が必ずしも成功
を収めなかった例や、1986 年の鹿港のデュポン社工場建設反対運動で、ローカルなネット
ワークやアイデンティティの動員が成功した例に鑑みて、台湾社会運動研究で、地域社会
の現地資源に改めて注目する動きが高まっているといえる。これら二つの批判は、社会運
動を描く際アウトプットとしての行動のみに注目するのでなく、その行動をおこした潜在
的ネットワーク5や社会運動が行動として表出する前提や条件としてのコミュニティ環境、
さらにはそこから社会運動が表出してくる過程を分析する必要性があることを提起してい
る。
つまり、楊弘任や何明修の研究は地方派系や選挙などの政治だけでも社会運動だけでも
なく、地域社会という場を切り口としてその中にある現象を総合的に研究するとともに、
コミュニティ環境などの潜在的ネットワークから社会運動を研究するという台湾社会運動
研究の新たな波頭を示しているものでもあるといえる。本論文もこれらの成果をうけて、
社会運動と地域社会の相互関係を分析するものである。
もちろん、地域社会研究自体は台湾研究の中に多く存在するため、本論文でもこれを参
照しながら地域社会と社会運動の相互関係を論じていきたい。社会運動が参照すべき地域
社会の先行研究は大きく二つに分かれる。
一つは、政治学や人類学による地方派系研究である(陳、1995=1998)。地方派系とは、中
国語で地方派閥を意味する。外来政権で台湾に支持基盤を持たない国民党政府は、遷台後
地域社会に二つもしくは三つの地方派系を形成し、政治エリートの統制や地域社会からの
支持調達を行った。すなわち、国民党政府が大陸反攻を実現して、憲法にもとづいて大陸
で選挙を行うまで国民大会は改選しないという「法統」(第1章参照)イデオロギーの下、台
湾地域社会の政治エリートは中央政界に進出する道を閉ざされ、地域社会内の各派閥が蒋
経国を至高の領袖とする国民党中央とパトロン=クライアント関係を結んだ。地方派系は
潜在的ネットワークの概念については Melucci(1997)を参照。同じく、社会運動を発生する潜
在的条件としての「場」や公共空間に注目した台湾の研究として、李丁讃(2004)がある。
5
14
選挙票の動員をはじめ、国民党の権威主義システム全体に対する支持を同党に代わって調
達した。その見返りとして国民党は、国家の公権力を利用して地方における公共財を台湾
人 地 方 勢 力 に 私 有 化 さ せ る こ と で 、 台 湾 人 地 方 勢 力 の 政 治的 支 持 を 獲 得 し た ( 陳 、
1995=1998:114)。これら二つ或いは三つの地方派系は世襲や選抜など自らの育成系統を持
ちながら継続し、地域社会内で国民党中央の支持を争って選挙期間のみならず日常生活全
体にわたって互いに対立し続けた(楊、2007)。そのため、この遷占者国家(序章参照)特有の
政治エリートの分割統治は、そのまま地域社会のグレーゾーンなき日常的対抗関係につな
がり、地域住民の不満の源泉となった。
1970 年代、地方派系の「至高の領袖」蒋経国は、その父である蒋介石から権力を継承す
ると、地方派系より統制のきく「党務系統」とよばれる国民党の養成機関内で育った本省
人党務エリートを地域政治の場にすえようとした。しかし、至高の領袖の死後、1990 年代
に入っても国民党は弱体化を試みたはずの地方派系に引き続き頼らざるをえないという事
態がおこった。なぜなら党務系統の人事が育ち上がってみたら、すでに民主化勢力が国民
党に迫る勢いで成長しており、国民党が選挙に勝ち続けるためには地方派系の支援が不可
欠となっていたからである。さりとて、国民党は地方派系に頼りすぎると民進党から政治
腐敗を批判され、有権者の支持を失う恐れがあった。至高の領袖を失った国民党中央は地
方派系を弱体化させたい一方で頼らざるを得ないというジレンマに陥ったのである。
結果として、1990 年代の台湾では地方選挙において中央からの統制の弱体化も加わって
地方派系の瓦解・再編および中央政界への進出がおこるとともに、地方派系の政治家が民
進党に流入するなど民進党が台頭するチャンスが生まれた(陳、1995=1998;王、2004)。こ
の後、国民党は地方派系の弱体化をはかるために、台湾文化の実体化政策である社区総体
営造を地方派系の支配する郷鎮公所ではなく、社会運動勢力に委ねた。地域社会のゆらぎ
をみた社会運動勢力も、地方選挙や開きつつあった中央選挙、さらには社区総体営造など
の助成金を有効に用いて自らの要求実現を試みるようになっていく。
では、地方派系の先行研究とはどのようなものか。Bosco(1992)は民主化で揺れ動きはじ
める時期を対象に、地方派系が中央には進出できない限定的なパトロン・クライアント関
係として機能してきたこと、そしてそれが国民党の変化、立法院の全面改選、および地方
派系が動員できる資源の減少により変化するであろうと述べた。そしてそれを実証付ける
かのように、王金寿(2007)は民主化による立法院の席数増加が地方派系の瓦解や中央政界進
出につながったことを立証した。地方派系研究は民進党政権期にも様々な個別研究が行わ
れ(趙、2001;杜、2005)、瓦解する地方派系がある一方で、存続する例もあることが分か
っている。また、民進党も地方派系を買収するなど、地方派系研究はその地域社会におけ
る根強い力を証明している(寺尾、2008)。このように、地方派系研究は、社会運動がよって
たつ地域社会の政治構造の解明に寄与できる。本章でもこれらの研究をもとに、ローカル
レジームの視点を提示する。
もう一つの先行研究は、人類学のコミュニティ研究である。台湾における人類学のコミ
15
ュニティ研究は、伝統社会のネットワークの解明を大きなテーマとしており、中国大陸の
漢人コミュニティ研究と連続性をもちながら進んできた6。本論文で扱う漢人コミュニティ
に関して言えば、人類学の伝統的関心は会(association)ではなく、Freedman(1966=1995)
のように父系出自集団、すなわち成員がまとまって一定の行為を行う宗族集団、およびそ
れを村の構成原理とする単姓村におかれてきた。この流れで Cohen(1976)は本論文で扱う
美濃を例に、その宗族の緊密なネットワークが、タバコ栽培という労働集約的産業構造と
密接に関わっていることを証明した。しかし、研究の対象が単姓村から複姓村へと広がる
につれて、女性のネットワーク、また血縁組織だけでなく村落をまとめる機能を持つ会や
祭祀組織の研究も行われるようになってきた(上水流、2005:34-37)。日本統治期の士林を例
に「祭祀圏」の概念を提起した岡田謙(1938)をはじめ、濁水溪流域の大規模調査で、大陸か
らの移民の過程で、祭祀組織が大陸の祖籍、すなわち血縁にかわって集落のまとまりとな
っていったことを示した許嘉明(1973)、施振民(1973)などがこれにあたる。このように、人
類学のコミュニティ研究は、社会運動の発生する地域社会のネットワークの解明に寄与で
きる。
しかし、これだけでは社会運動論と地域社会の関係を論じるには十分でない。確かに、
社会運動とこれらの地域社会の先行研究によって、
「誰が」政治に参加するのかは明らかに
なる。しかし、それらの行為者が「何をめぐる政治に」参加するのかは明らかにならない
からである。実は、その地域社会と社会運動を囲繞する政治的諸問題は、地域社会内で生
じた政治問題のみならず、台湾が経済成長を遂げるにあたり地域社会を覆ってきた中央政
府発の開発政策も含まれる。そこで、地域社会と社会運動の相互関係を分析するにあたり、
本論文では二つの開発政策に注目することで、地域社会で争点化される政治を検証したい。
まずは、社会運動と地域社会の両方に大きな影響を及ぼした文化政策であり、地域開発政
策でもある社区総体営造について検討する。その次に、日本の地域社会学の蓄積を導入す
ることで、公共建設など広義の開発政策との関連を検討する。まずは次節で、社区総体営
造について簡単に説明しながら、政策と地域社会から社会運動を分析する視角を提示する。
3
本論文の視点①――社会運動と「社区総体営造」政策
以上述べてきた先行研究を踏まえて、本節と次節では本論文の視点を述べる。まず本節
では、地域社会におけるコミュニティ運動と社区総体営造政策との関係、すなわち社会運
動と政策の相互関係という視点を提示する。台湾では社区総体営造という言葉が、楊弘任
(2007)のように社会運動を指すときと、Lu(2002)のように政策を指すときがあるように、
6
これは、台湾が日本統治期前にすでに漢人優位の社会になっていたことのほか、戦後台湾が
「唯一の正統な中国」としてあたかも中国全土を支配しているかのような虚構を維持したこと、
また、欧米人学者が冷戦期に中国大陸に行くのが困難であったため、中国の代替フィールドとし
てさかんに台湾で現地調査を行い、中国研究と称したことも大きく関連している。本論文で扱う
美濃はその閉鎖的地形や産業構造から、恰好のフィールドとなった。
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社会運動が政府資源を得ることは当然と考えられる傾向があり、社区総体営造の定義はあ
いまいであった。しかし、本論文では 1990 年代以降の台湾コミュニティ運動が、民主化と
台湾ナショナリズムに伴って出現した政策助成金を得て展開されたものであり、これこそ
が先行研究に欠けてきた観点と考える。そのため、社区総体営造を政策として定義し、あ
るアクターが政府助成金を得てコミュニティ運動を展開している場合は、それが社区総体
営造の資源を得てコミュニティ運動を行うという表現をとることにする。
まず、
「社区」の定義について説明をする必要がある。台湾でコミュニティの訳語である
「社区」という用語は、郷鎮市の下部に存在する村や里、もしくは郷鎮単位などの行政村
を指す場合と、祭祀組織や血縁組織など特定の性質を持った自然村を指す場合がある。両
者の範囲が一致することも多いが、社区総体営造の場合、社区はその行為者の定義により
様々な範囲をとる。例えば、政府が「社区」というのであれば、それは行政村を指すし、
住民が「社区」というのであれば、それは自然村であることもあるし、自然村の境界を越
えて何かをするための「社区」を謳うときは、その境界を越えて「社区」が定義されるこ
ともある。そのため、本論文でのコミュニティは行政村か自然村を問わず、
「一定の地域に
住まう人々がその地域に共通の感情を作りながら、そこを拠点に生活協力と交流を対内、
対外的に実現し、日常の生活を営んでいる具体的環境」としておこう。
次に、社区総体営造とはどのような政策であり、それと社会運動はどのような相互関係
を持ったのか。詳しくは後述するが、1990 年代半ばの李登輝率いる国民党政権は、市民社
会から勃興する民主化と台湾ナショナリズムのアジェンダを横取りしながら、その一環と
して、自分に反目する、もしくは反目する可能性がある社会運動への懐柔政策を行った。
すなわち、社区総体営造という地方文化の実体化政策を社会運動に委託した。中央政府の
資源を得た結果、コミュニティ運動は従来の抗議や選挙を通じた陳情という運動形式から、
台湾ナショナリズムに基づき地方文化の擁護を訴えながら政府資金を獲得するというスタ
イルへと変貌した。この社区総体営造は、単なる社会運動への懐柔政策という意味以上の
ものをもっていた。それは、以下の数点に要約できる。
一つは、台湾という地域の特性である。社区総体営造は、台湾の外交的困難や国民党主
導の台湾化政策のために、ナショナルな象徴、およびその「ナショナル」の具体的コンテ
ンツたる「ローカル」を国内外に向けて過剰に掲げ続けなくてはならないという地域的特
性とも関わっている。社区総体営造は全世界に向けて行った、台湾が「全中国の代表とし
ての中華民国」という虚構を脱しつつあるというアピールであったが、台湾の社会運動が
海外とのパイプを武器にその社区総体営造の海外への訴求を体現していったことは、社会
運動が政府に対して持った影響力として見逃せない。
もう一つは、社区総体営造がもたらした地域社会へのインパクトである。社区総体営造
は、中央政府が地域政府の頭越しに民間社会、なかでも政府に挑戦的な社会運動に資金を
提供したことに特徴がある。これは民間社会と郷鎮政府、および中央政府との関係を大き
く変えた。また、社区総体営造政策は日本のまちづくりにおける住民参加の経験を導入し
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ながら、特に地域社会を「台湾というナショナルな文化の実体」として建造物や各種イベ
ントで可視化していった。同政策によって、地域社会は政治的に変動しただけではなく、
地方文化をはじめとする、国家のコンテンツたる「地方的なもの」(locality)を表象する重
要なショーウィンドウとなったのである。
もう一つは、社会運動自体へのインパクトである。社区総体営造によって、社会運動は
安定した資金源を得る一方、政府の要求する方式に沿って自らの目標を追求するように方
向を転換し始めた。例えば、宜蘭の蘇澳鎮白米社区7では、1992 年に台湾セメントの賠償金
として毎年 600 万元を受け取っていたが、社区にこの資金の運用権がないことが問題とな
っていた。
そこで白米社区発展協会は 1993 年に県レベルの選挙をボイコットし、その結果、
同協会に属する各里はそれぞれ 150 万元の運用権を勝ち取った。この運動の実績が評価さ
れて白米社区は 1995 年に文化建設委員会の助成する「種籽社区」、すなわちコミュニティ
活性化のパイロットプランの助成を受けるが、そこで行われたのは木のサンダル(木屜)を台
湾地方文化の可視的特産品として大々的にアピールすることであった(Lu, 2002:ch.5)ここ
に社会運動は制度化と、政府の台湾ナショナリズム行政の補完化との間でゆれることにな
る。このように、社区総体営造は、民主化とナショナリズムの産物として始まった政策だ
が、いったん地域の社会運動団体に投下されると、社会運動団体のみならず地域社会全体
に影響を及ぼしていった。
社区総体営造は、従来の民主化および呂欣怡のような台湾ナショナリズム研究では、虚
構たる中華民国サイズのナショナリズムをいかに実行統治範囲の台湾サイズに縮小してい
くかという問題であった。しかし、それが民主化勢力や社会運動の突き上げをうけて出現
した課題であるにも関わらず、政府主導で行われたこと、また、それが社会運動と政府の
関係を変えてきたことは社会運動研究の中ではあまり論じられていない。そこで本論文で
はこの社区総体営造の政策過程を検証しながら、その政策と社会運動がなぜ結びついたの
か、そして両者が結びついた結果、社会運動がどのように変化し、またそれが政策をどの
ように変えたのかという社会運動と政策の相互関係を検討したい。この詳細は第四、五章
で論じるとして、まずはもう一つの本論文の柱である社会運動と開発政策という視点につ
いて次節で論じる。
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本論文の視点②――社会運動と開発政策
現代台湾のコミュニティ運動を論じる際、社区総体営造という政府資源を得ていたこと
を論じる必要があることは前節で述べた。社区総体営造と同様、台湾社会を激変させた政
永楽、永光、長安、永春の 4 つの里からなる。里は鎮の下部行政単位で、里長が里民によって
選出される。それに対し、白米社区発展協会のような社区発展協会は、後述する社区発展政策の
中で成立した任意団体である。実際は里長や里弁公室と人員が重複することも多く、政策の末端
機関や助成金申請の受け皿となることが多い。
7
18
策が、各種公共建設事業を伴うトップダウンの開発政策である。本節では本論文の視点の
一つとなる、社会運動と開発政策の関連という視点を、日本で生まれた地域社会学という
学問を参照しながら提示したい。すなわち、中央政府がトップダウンで策定した開発計画
と、それに地域社会がどのような反応を示し、その開発を不満として生起する社会運動が
地域社会の中からどのように形成および展開するのかを検討したい。
まず、日本の地域社会学がどのような研究蓄積を行い、現在どのような関心を持ってい
るのか、整理しておこう。日本の地域社会学の嚆矢は、高度成長期の地域開発政策に対す
る批判的検討であり、その代表は福武直を中心とする全国総合開発計画の検証である『地
域開発の構想と現実』(福武編、1965a,b,c)といえる。これは「構造分析」と呼ばれ、地域
社会を政治、経済、家族などの多方面から総合的に分析して全体像を浮かび上がらせよう
とするところに特徴があった(中澤、2005:44)。そして、この地域開発をめぐる分析は、地
域の民主化や内発的発展をめざす強烈な問題意識に支えられたものであり、家や住民団体
といった集団のあり方を分析することから団体自治の方向性を模索するものであった。
これらの研究の背景には、全総の紆余曲折を経た政策過程と、その大きなインパクトが
ある。日本の開発計画は世界にも例をみないトップダウンの計画であった。1962 年、池田
勇人内閣下で閣議決定された全国総合開発計画は旧国土庁(現国土交通省)を中心に、国土審
議会の答申にもとづいて策定され、閣議決定を経て正式決定する、文字通りの全国的な開
発計画であり、工業発展の地域格差を解消すべく拠点開発方式がとられた。拠点開発方式
とは「大都市およびその周辺部を除く地域に、既成の大集積と関連させながらその特性に
応じていくつかの大規模な開発拠点を設定し、更にこれらの開発拠点のまわりに、中規模、
小規模の開発拠点を配置し、これらをじゅず状に有機的に連繋させて、連鎖反応的に発展
させる開発方式」である(福武、1965a:13-14)。全総はその後も新全総(1969 年閣議決定)、
三全総(1977 年)、四全総(1984 年)、五全総(1998 年)と続いたが、上からの工業発展の全国
分散化政策はことごとく失敗、とくに四全総は東京への一極集中を加速させた。また、拠
点開発方式の理念とは裏腹に、新産業都市や工業地域の指定を受けた地域は公害に悩まさ
れたうえ、産業連関や地元の経済的な地盤が整わなかったため、史上空前の陳情合戦を行
ったわりに税収は思うようにあがらず、自治体の財政は逼迫した(帯谷、2004:25-26)。さら
に、
「単に平均値としての所得水準の均衡のために、地方企業、なかんずく地元住民とかか
わりをもたない独占資本のために、国家財政援助はいうまでもなく、県・市町村が財布の
底をすっかりはたいてしまうような投資」であると福武(1965b:46-47)が指摘するように、
企業誘致による所得水準の向上は限られた範囲でしかおこらず、地元住民の多くには波及
しなかった。このように、全総の問題点として、第一にそれがトップダウンで立法府や自
治体の審議を経ないままに策定されること、第二にその経済効果が限られた範囲でしかお
こらなかったこと、そして第三に限られた経済効果にも関わらず、地域社会に甚大かつ広
範な環境被害や財政逼迫をもたらしたことがあげられる。
次に、台湾研究の中に日本の地域社会学を持ち込むことの有効性は何か。台湾と日本の
19
地域社会の共通点は、第一に地域社会が開発政策と農業近代化によって大きく変化したこ
とである。日本の地域開発は 1962 年の全総閣議決定と 1961 年の農業基本法制定にその端
を発するが、台湾でも、1960 年代になると経済成長が進み、日本と同時並行かそれよりや
や遅れる形で、農村は人口流出や農業の近代化という産業構造の変化を経験する(Bain,
1993)。本論文で扱う美濃も 1971 年をピークに人口増から減少に転じている。また、都市
農村を問わず、台湾でも日本でも急速な高度成長によって環境が悪化し、公害が発生した。
日本では各種公害運動や訴訟がおこり、1980 年代の戒厳令末期の台湾では「自力救済」と
呼ばれるコミュニティ単位の抗議活動が頻発した。これらの環境悪化やそれに対応する地
域住民の行動は地域社会を大きくゆるがしていく。このように、日本と台湾にとって、地
域開発の検証は共通の大きなテーマであるといえる。
第二にトップダウンの開発計画系統が共通して存在することである。台湾では、日本よ
りやや遅れて 1979 年に行政院経済建設委員会が日本の全総をまねて「台湾地区総合開発計
画」を策定している。従来は各部門が公共建設計画によって個別に開発計画を策定してい
たが、開発の高度化につれて部門間の調整が必要になり、その利害調整が難航した末に全
国的開発計画が成立する(黄、1999)という政策過程は日本と全く同様であり、日本の全総と
台湾の台湾地区総合開発計画(現:国土総合開発計画)がパラレルになっていることが分かる。
第三にその計画策定過程の中に地域住民や選挙などの制度政治が介在できないという点
である。全国総合開発計画の検証を行った福武直は、全総が地域社会にもたらす影響につ
いて、以下のように的確に述べている。
開発は、対自然的な取り組みでないのはもちろんのこと、地域と進出企業の直接的な関係と
して現象するだけにとどまらず、当該地域社会の全住民の生活になんらかの形で影響と変化
をもたらすわけで、その及ぶところ、地域の経済、政治、行政、社会生活の分野にわたるの
である。もはや住民のすべてが、それにかかわりをもつことなしに過ぎ、開発行政を見送っ
てしまうといったわけにはいかなくなった(福武、1965a:18)。
このように、トップダウンの巨大な開発計画はいやおうなしに住民を巻き込み、地域社
会への影響は遍く渡るものであった。同様に、台湾でも「黒箱作業」(ブラックボックス)
の中で閉鎖的に策定された開発計画は、制度的民主化以前はもちろんのこと、民主化以後
も非民主的な政治の領域として出現し、台北県貢寮郷の第四原発反対運動など地域住民に
抗議や内部分裂をもたらしている。このように、中央集権的な開発計画のインパクトを地
域社会において検証してきた日本の地域社会学は、同様の開発計画のインパクトを受けて
きた台湾地域社会に、一つの視角を提供できる。
ただ、台湾の特徴には注意しておきたい。一つは、遷占者国家8である台湾ならではの地
遷占者国家(settler state)の概念は、北アイルランドとローデシア(現ジンバブエ)の治安システ
ムを研究したワイツァー(Weitzer, 1990:2-24)が権威主義体制国家において、少数者が多数者を
たえず区別しながら支配するシステムとして提起した。それによれば、遷占者国家とは外からの
少数者の移住者集団が多数の土着集団に対して優越的地位を占めるように編成された社会にお
いて、その移住者集団が出身母国から法的にないし事実上の独立を自律的に維持している国家を
8
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方派系という文脈である。外来政権たる戦後台湾の国民党政府は、中央政府においては台
湾人(本省人)を排除し外省人政治エリートの優位性を保ちながら、地域社会においては地方
派系を形成し、地域社会からの支持調達やその統制を行った。この地方派系に台湾地域社
会の大きな特徴がある。もちろん、日本にも保守政党に派閥がないわけではない。例えば、
新潟県巻町のような明治以来の地主に起源する派閥(中澤、2005:118-121)や、1970 年代か
ら 80 年代にかけて三木派と後藤田派が激しく争った徳島県自民党の「阿波戦争」(樋口、
2008:24)がそれである。しかし、いくつか違いもある。第一に、台湾の地方派系は長期戒厳
令下で中央政界への進出や、県を越えた連携を厳しく制限されたため、有権者-地方派系、
国民党-地方派系という二重のクライアンティリズムを形成した。その地方派系が中央政界
に堰を切ったように進出するのは、1990 年代の民主化後である。第二に、1970 年代に蒋経
国が父の蒋介石から権力を継承した 1970 年代から、国民党政権はより中央政府の統制の効
く党務系統エリートに地域政治を担わせるべく、また民主化後は地方派系が腐敗の温床で
あるという有権者の批判を受けて、地方派系の締め付けを行った。しかし、国民党は地方
派系の力なくしては選挙に勝てなくなっており、ここに国民党は地方派系の統制と温存と
いうジレンマを抱えた。これらの特徴により、1990 年代の国民党政権下の中央政府は、台
湾文化の実体化政策である社区総体営造の資源を、地方派系を避けて、結果として社会運
動団体に投下した。ここに台湾の社区総体営造と日本の地域活性化政策との違いがあり、
台湾の地域社会における社会運動の地位に留意する必要がある。
もう一つは、民主化という文脈である。日本の地域社会学は地域社会の中央政府からの
自律性や地域開発の地域社会へのインパクトを検証してきたが、55 年体制の崩壊という政
治機会構造の変化はあるものの、台湾ほど劇的な政治制度の変化をみたわけではなく、従
来政治機会構造と社会運動の関連を見る視点は弱かった(帯谷、2004)。一方、いくつかの開
発途上国がそうであるように、台湾では特に 1990 年代以降、民主化が政治機会構造を大き
く変え、これが地域社会のあり方を大きく変えた。したがって、民主化と社会運動が大き
なテーマとなってきた。しかし、そこに閉鎖的かつトップダウンで策定される開発計画系
統から生じるサブ政治の領域ができるという点は等閑に付されていたといえる。そこで、
本論文ではこの政治機会構造の変化が、どのような「政治」であるのかを検証しつつ、そ
れが地域社会に与えた影響を考察する。
まず、サブ政治とは何か。サブ政治とは、制度政治の介在できない領域で決定される「政
治的なもの」を示す(Beck 1994=1997:12)。たとえば、本論文のダム建設計画は、選挙政治
に代表される制度政治で決定することができない、官僚機構の中のみで閉鎖的に決定され
る事項である。しかし、多くの地域住民にとっては、政治的な対立を引き起こすものとし
て目の前に現れる。日本の全国総合開発計画においても開発が巨大化したために、地域住
民になんらかの形で影響を及ぼす政治的なものとなって現れたのは、福武(1965a:18)が述べ
いう。台湾では、少数の外省人が中華民国という国号の正統性の担い手として、中国大陸から事
実上の独立を保ちながら、多数の本省人に対して優越的地位を保った。
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た通りである。本論文では、サブ政治とは経済成長、開発の巨大化、社会の複雑化にとも
なって現われた、制度政治の介在できない領域、例えば官僚機構の中で決定され、関係住
民がその政策過程に加われないなど「政治的なもの」をさし、制度政治、特に選挙政治と
の対概念として用いる。
これをふまえて、本論文ではいくつかの論点を地域社会と社会運動に対して提起したい。
言い換えれば、台湾の地域社会が社会運動研究の中でどのように扱われたのかを検討した
うえで、日本の地域社会学で争点となってきた課題を台湾研究の中に融合する。一つは、
地域社会の中で争点化されうる「政治」を検証することである。地域社会という場を視点
として、いかなる政治が存在するのかを検証するといってもよいだろう。なぜ、政治が地
域社会に作られるのか。制度政治の民主化は 1996 年の総統直接選挙で一段落を迎えるが、
地域社会においては、郷鎮政治における政治腐敗や金権政治の問題が制度政治の民主化後
もなお残り、民主主義の定着や質を考える際に不可避の問題となっている(松本、2004)。ま
た、制度政治が民主化されても、民主化されない「政治的なもの」、すなわちサブ政治も存
在する。制度政治の民主化からこぼれ落ちた政治とは如何なるものなのか。本稿では、郷
鎮政治とサブ政治という二つの政治がなぜ立ち現れるのかを検証した上で、その政治に対
し、社会運動はどのようにその政治に挑戦したのかを検討したい。言い換えれば、地方派
系やサブ政治という個々の政治に注目するのではなく、地域社会という場にいかなる政治
がおこったかを検討したうえで、そこに生起する社会運動を検討する。
もう一つは、台湾全土の開発政策と地域社会の関係を検証することである。台湾社会運
動研究の地域社会に対する注目は、ともすれば個別研究を大量に生み出し、その個別研究
を一般化できるのかという問題を常に提起する。しかし、中央政府と地域社会の関係を個
別研究の中に見出せば、台湾社会に普遍的な「開発策定主体たる中央政府―開発のインパ
クトを受ける(もしくは中央政府の策定した政策のインパクトを中央政府に再びフィードバ
ックする)地域社会」という二者関係を抽出できないだろうか。日本の地域社会学が平成の
市町村大合併という問題に大きく貢献したように、この二者関係の研究は、現在の台湾の
ように変化する地域政治の様相、例えば 2008 年 1 月の立法委員の小選挙区制への移行や
2010 年 12 月 25 日の高雄県市、新北市などの合併にともなう中央直轄市への昇格といった
新しい現象の分析に、大きく貢献できる可能性がある。引き続き日本の用語を借りるなら、
本論文では台湾において地域社会学的視点を導入してみたい。すなわち、中央政府(もしく
は上位政府)で策定される台湾全土の開発政策を踏まえながら、その政策が末端の地域社会
に及ぼすインパクトを検証していくという方法である。本論文で検討する美濃に関してい
えば、美濃やその周辺をめぐる開発は、中央集権的な国土全体の開発政策の中で実施され
たものであり、ひとり美濃に限って実施されたものではない。中央集権的な国土開発のイ
ンパクトと、それに反応する地域社会という意味では、十分に台湾全土に通じうる現象な
のである。これら二点に留意することで、民主化後も続く台湾社会運動の不満の源泉の所
在と、社会運動がなくならない理由、および社区総体営造など諸要因に規定された運動の
22
アウトプットを検証する。
これらの視点は、地域社会に対象を限定しているという意味では、グランドセオリーで
はなく、
「中範囲の理論」(theory of middle range)といえる。しかし、述べてきたように、
中央政府の民主化と社会運動を論じることから始まった台湾の社会運動研究にとっては、
この中範囲の理論こそが等閑視されてきた部分であり、中央政府の下部にある地域社会の
動きを理解するためには構築が必要な理論である。次節では、述べてきた地域社会の政治、
血縁ネットワーク、文化など総合的な分析――本論文ではそれを「環境」と呼ぶ――が社
会運動に及ぼす影響という視点を提示する。
5
本論文の視点③――社会運動とそれを囲繞する地域社会の「環境」
前節で述べたように、地域社会学は経済成長に伴って巨大化した地域開発政策と、それ
に支配される地域社会との関係を総合的に分析する「構造分析」から始まった。台湾にお
けるコミュニティ運動を分析する際に、本論文はこの地域社会学の構造分析という方法を
用い、社会運動が生成する文脈、すなわち述べてきた「環境」を検討したい。なお、環境
問題などの環境ではなく、社会運動の構造的要因としての環境を指す場合は、「環境」と括
弧をつける。
途上国の社会運動研究の整理の中で述べたように、ここでいう「環境」とは、政治機会
構造、特に制度政治のみならず、血縁や個人のネットワークなども社会運動が発生し、展
開する潜在的要因として考慮するとともに、海外の資金を得たり、市民や政権との新しい
パートナーシップを樹立することによって新しい地域の公共性が創出されたことも想定さ
れたうえでの、広い意味でコミュニティ運動を規定する構造的要因を指す。資源が少ない
ため運動行為者の選択肢がそれほど多くなく、かつ民主主義的な制度政治の歴史が浅い開
発途上国では、政治機会構造だけでなく、伝統社会ならではの諸様相も加味した「環境」
を検討する必要があることは既に述べた。では、本論文でいう環境とはどのようなものか。
第一に、伝統社会の諸様相である。本論文で対象とする美濃鎮は、
「伝統中国の様相を色
濃く残す」(Cohen, 1976:6)と人類学者のコーヘンが述べたように、血縁ネットワークが濃
い客家社会である。この血縁ネットワークは台湾に普遍的なものではないが、後述する社
区総体営造の中で「台湾客家の代表」として、政府だけでなく、環境問題の解決やコミュ
ニティの問題解決のためにそのイデオロギーを積極的に採用する社会運動によって表現さ
れていった。
美濃の伝統社会の環境に関する研究は、Cohen(1976)や Bain(1993)など地域社会に関す
る豊富な先行研究のほか、それを基礎に、全国的な民主化の進行、台湾客家ナショナリズ
ム、環境運動などの文脈から、多くの研究者が美濃愛郷協進会(以下、協進会)を中心とする
美濃ダム建設反対運動の研究を社会運動の「成功例」として行ってきた。また、同時期に
社会運動自体のみならず、社区総体営造など政府の各種プロジェクトを通じて、美濃の自
23
然や文化に関する研究もあわせて多く行われていた。この中には美濃ダム建設反対運動に
関わった当事者による研究も少なくないことから、学術的な言説が多く社会運動に流用さ
れてきたことが伺えるが、その傾向は二つに大別される。
一つは、客家文化の箱庭としての美濃の研究である。洪馨蘭(1999)は、葉タバコ栽培が美
濃の大家族制度を維持する機能を果たしたというコーヘン(Cohen, 1976)の論文を引用しな
がら、その葉タバコ栽培が美濃のアイデンティティとなっていったと論じた。また、協進
会が県政府から受託した客家文物館の企画プロジェクトに携わったスタッフの宋長青
(2002)は、自身の経験から客家のコミュニティ意識を凝集して「コミュニティの博物館」を
創設するという概念の下で、客家文化が鋳直されていく過程を論じている。協進会の派生
団体として夏休みなどに地元の子ども向けの自然啓発エコツアーを企画していた地元教師
団体「八色鳥協会」の黄鴻松(2005)も、小学校における自身の郷土教育の経験から、同様の
美濃の客家文化の実体化や教育の可能性を論じている。これらの研究は、協進会の「貴重
な台湾の客家文化の箱庭である美濃をダム建設によって破壊してはいけない」という台湾
客家ナショナリズムに沿った言説の形成を助けた(美濃愛郷協進会、1994)。
もう一つは、社会運動そのものの研究である。まず当事者による研究からみると、1995
年から 1997 年まで協進会スタッフを務めた張高傑(2001)は、美濃ダム建設反対運動をテク
ノクラートの支配する技術政治への挑戦であると位置づけ、同運動がテクノクラートに対
抗するための技術に関する知識を活用しながら、合理的かつ冷静にダム建設反対を訴えた
と論じた。2003 年から 2006 年まで協進会スタッフを務めた鍾怡婷(2003)は、美濃ダム建設
反対運動が公共政策に異議申し立てをする際、合理的かつ技術的な言説を用いてダム建設反対
を訴えたと論じた。これらの研究は、修士論文という性格上、社会運動論もしくは台湾社会
運動史の中に美濃ダム建設反対運動を位置付けるというよりは、社会運動当事者自らが協
進会の運動に関わる中での関心を追求したという性格が強い。また、協進会の初代スタッ
フの一人であった鍾秀梅は、美濃ダム建設反対運動をグローバリゼーションや女性運動の
立場から論じているが(Chung, 2005)、これも鍾自身が美濃ダム建設反対運動が世界のダム
建設反対運動に参加する経験や、その後の反グローバリゼーション運動や女性運動に関わ
る中で生まれた研究だといえる。続いて、社会運動研究者による研究は、美濃ダム建設反
対運動を台湾社会運動史の中の複数の文脈の交差点であると位置づけている。台湾環境保
護運動に関する史料を集めた『台湾環保運動史料彙編』(施、2006:757-770)や、戦後台湾社
会運動史の集大成ともいえる『
《台湾全志》社会志―社会運動篇』(何、蕭、2006:159-162)
には、美濃ダム建設反対運動に関して単独で相当数のページを割いて説明していることか
ら、台湾社会運動史において美濃ダム建設反対運動の位置は重要と考えられていることが
看取できる。何明修(2006)は、第四原発反対運動と美濃ダム建設反対運動を比較し、前者が
民進党への依存を強くしたのに対し、後者が民進党から自律性を保って超党派の立場をと
ったという違いが、社会運動の成否を分けたと述べた。また前述の『《台湾全志》
』の中で、
何明修と蕭新煌(2006:161)は、ダム建設反対という環境運動が、80 年代から続く地方文史
24
工作室などのコミュニティ再生につながった最も顕著な例であると述べている。ここから
分かるように、美濃ダム建設反対運動は、台湾社会運動研究史の中で「台湾全体の民主化
と台湾化の文脈の交差点」に位置づけられているといえる。しかし、これらの先行研究で
は全国的な民主化、すなわち 1996 年から直接選挙となった総統選挙など中央レベルの民主
化や政党政治にふれられることはあっても、そこから見えない地域政治の流動や、また伝
統社会と地域政治の関わりには触れられてこなかった。
そこで本論文は「環境」の第二の重要な要素であるローカルレジームという概念を参照
する。前述のとおり、台湾で行われてきた地方派系研究は、王(2007)や陳(1995=1998)など
国民党中央の地域社会に対する統制手段としての選挙の政治過程や、Bosco(1993)などネッ
トワーク研究が中心であった。しかし、地域政治の観点からはなお解明を要する点が存在
する9。一つは、選挙時の動員過程やネットワークは明らかにできても、地方派系がもたら
すグレーゾーンなき日常的対抗関係(楊、2007:62-120)が、地域社会や地域政治全体にどの
ような影響を与えたのかまではとらえきれないことである。例えば、後述するように、中
央民意代表の増加定員選挙で美濃から立法委員が 1980 年に選出されたことは、地方派系の
争いに対する住民の不満の結果であったともいえる。言い換えれば、国民党中央の地域社
会統制手段としての地方派系ではなく、中央、県など上位政府の政治アクターをまじえた
地域社会の政治光景の一部、なおかつ選挙時にとどまらない日常的政治光景の一部として
地方派系をとらえなおす必要がある。地方派系の中央政界が進んだ民主化後は、特にその
視点が重要となっている。もう一つは、地域社会において、国民党中央の派閥操作が及ば
ない部分を説明できないことである。例えば、後述する美濃における 1970 年代の白派優位
の確立は、派閥操作の結果というよりは農会の運営上の混乱に起因するところが大きい。
つまり、国民党中央による派閥操作だけではなく、地域社会の権力構造やイベントから地
方派系の営みを説明する必要があるといえる。地域社会の権力構造のなかに、本論文で述
べる社会運動団体などが参入する場合のある現在、地域社会の勢力の一つとして地方派系
を相対化する観点は、重要性を増している。
では、どのように地域政治をとらえたらよいのか。地域社会の権力構造を解明する研究
は、アメリカで生まれた地域権力構造(CPS=community power structure)の研究にさかの
ぼ る 。 地 域 権 力 構 造 研 究 で は 政 治 エ リ ー ト の 分 析 を め ぐ っ て 、 ハ ン タ ー (Hunter,
1963=1998)のような一元的権力構造と、ダール(Dahl, 1961=1988)のような多元的権力構造
とに二分され、すべての政治イシューにおいて単一のピラミッド構造の頂点にたつ政治エ
9
もう一つ解明の必要なこととして、先行研究は地方派系が何をめぐる政治に参加していたのか
を検証できない。確かに、地域社会内のレントを争う現象は、地方派系の常態として研究が進ん
だ(陳、1995=1998)が、民主化が進んで地方派系の中央政界進出が進み、また中央政府からの地
方分権も進んだ現在、地方派系の資源はかつての地域社会内のレントにとどまらず、多様化して
いる。本章および次章で述べるとおり、その一例として、郷鎮レベルの政治アクターが中央レベ
ルの政治家などを通じた上位政府からの外部資源導入に際し、懇意にしている企業への発注など
「小さな機会」を受け取ることができ、これがレントシーキングの源泉となっている。
25
リートが権力を「一元的に」掌握するのか、それとも政治イシューごとに異なる政治エリ
ートが「多元的に」権力を持つのかをめぐって論争が起こった。しかし、二つの議論には
二つの共通点があった。一つは、政治エリートが地域権力構造において重要な役割を果た
すという考えに立っていることである。もう一つは、権力構造を静態的なものととらえ、
権力構造がコミュニティのイベントを規定すると同時に、そのイベント自身がたえず構造
に変化をもたらしているという構造のゆらぎを等閑視してきたことである。
そこで、ストーンが提起したのが「レジーム」という概念である。レジームとは、地域
政治における統治の比較的安定したシステムであり、10 年単位の長期にわたって地域を統
合する思想と構造である。ストーンはコカ・コーラの企業城下町アトランタを研究対象に、
市役所のエリートと白人ビジネスエリートの連合レジームが都市再開発や人種隔離撤廃な
どの政治を進めてきたことを論じた。また、人種問題とからむ市内交通システムの整備や
再開発などの政治イベントによって、レジームそのものも変化し、市役所の主導権が白人
から黒人に変化したり、黒人リーダーと白人ビジネスエリートの関係が白人優位からより
対等な関係へと変化していったことを論じた。すなわちレジームとは「構造」(structure)
という静態的なものではなく、イベントを通してレジーム内外のアクターが「構造を作り
かえていく」(structuring)過程であるといえる(Stone, 1989:9-11)。この過程には、政治エ
リートのみならず、再開発に反対する白人の住民運動などレジーム外部のアクターが参入
することもある。ストーンは全国レベルのレジームではなく地域単位のレジームを検討す
るという意味で「都市レジーム」(urban regime)という用語を用いているが、本論文で検討
する美濃鎮は農村なので、本論文では中澤秀雄(2005)の用法にしたがって「ローカルレジー
ム」という用語を用いる。
以上、本節では本論文の視点として開発途上国の社会運動特有の「環境」
、とくに伝統社
会とローカルレジームから社会運動をとらえる視点を提示した。次節では、本論文の調査
対象、調査方法と構成を述べる。
6
本論文の調査対象・調査方法と構成
本論文の調査対象は台湾南部に位置する高雄県美濃鎮(2010 年 12 月 25 日に高雄市に吸
収合併)であり、人口約 45,000 人、面積約 120 平方キロの内陸部の村である。鎮とは、郷
鎮市という県の下の自治体単位である。調査方法は主に文献調査、参与観察およびインタ
ビュー調査からなる。以下、順にもう少し詳しくみていこう。
文献調査は、新聞、コミュニティ紙『月光山雑誌』
、『美濃週刊』
、社会運動団体が刊行し
ている調査報告書(未出版のものも含む)、
『美濃鎮誌』(以下鎮誌)ニュースレターなどを用い
る。なかでも、コミュニティ紙の2紙や鎮誌は、これら自体が社会運動や「環境」の産物
であり、本論文でもその生成過程を述べながらこれらの資料を引用することで、資料にか
かるバイアスに配慮する。
26
参与観察およびインタビュー調査は、社会運動団体、鎮公所、農会が開催する各種イベ
ントへの参加などの参与観察や、社会運動関係者、農会関係者、同鎮に出入りする研究者
らへのインタビューを行った。調査期間は 2004 年 12 月から 2006 年 3 月までの長期滞在
調査のほか、その後も 1 年に約2回、一回あたり 2 週間から1ヶ月の滞在を 2,010 年 10 月
まで行い、現地の関係者らとの長期にわたる人間関係の中で、インタビューやフィールド
ノート記録の機会に恵まれた。日本に帰国の後は、文献調査のほか、美濃鎮のコミュニテ
ィ運動関係者が訪れた日本の町(岐阜県美濃市、茨城県常陸太田市)をそれぞれ 2009 年 6 月、
2009 年 9 月に訪れて、美濃鎮に関する聞き取りを関係者に行った。日本での調査データは
本論文の中に直接反映されていないが、筆者が地域社会学の視点を得るうえで参考になっ
ている。
本論文の構成は、序章、本論全5章および終章とからなる。第一章では、台湾の社会運
動の歴史を概観する。ここでは、さまざまな社会運動が社会状況や民主化の進展に伴い出
現したことが示されるとともに、本論文で扱う美濃のダム建設反対運動が、単線的な環境
運動の延長線上にあるのではなく、環境運動、客家運動、女性運動およびそれらの社会運
動どうしのネットワーキングという複数の文脈の上にあることが示される。第二章では、
美濃鎮という地域の発展と権力構造から、ダム建設反対運動が発生する環境をローカルな
レベルで示す。第三章では、1990 年代の美濃鎮を席巻したダム建設反対運動とその後続く
コミュニティ運動の経過をたどり、両運動の断裂と連続を示すとともに、それが民主化と
台湾化という台湾社会の大きな波から説明できることを論じる。第四章では、その民主化
と台湾化の一環であり、地域社会と社会運動に大きな影響を及ぼした社区総体営造政策に
ついて論じる。まずコミュニティ政策の嚆矢として、1960 年代の社区発展からたどり、そ
れとの比較や、グローバル化の中で社区総体営造がいかなる意味を持ったのか、そしてそ
れが社会運動にいかなる影響を及ぼしたのかをここで論じる。具体的には社会運動が制度
化と行政補完化のあいだで揺れ動く姿が描かれる。第五章では、社区総体営造の資源を得
た社会運動が地域社会でどのような政治アクターとして出現したのかを論じる。地域政治
の変化やコミュニティ運動の深化にともなう変化ののち、コミュニティ運動は何をイシュ
ーとしてどのように地域政治に参入しているのか。終章では、本論文を総括するとともに、
台湾コミュニティ運動に対して地域社会学的観点を導入した場合の展望についても提示す
る。まずは次章で台湾社会運動の歴史を概観してみよう。
27
第1章
台湾社会運動の概観
1 社会運動の幕開け(1945―1979 年)
2 権威主義体制移行開始前夜(1980―1986 年)
3 政治自由化のインパクトと残る課題(1987―1989 年)
4 「非主流派」によるゆり戻しとさらなるネットワーキング(1990―1992 年)
5 民主化と社会運動の制度化(1993―1999 年)
6 小結
本章では台湾における社会運動とその発生環境たる台湾社会全体の流れを 1999 年まで概
観する。これによって、本論文で扱う美濃ダム建設反対運動とそこから派生したコミュニ
ティ運動が発生し展開した環境を二つの方面から整理する。一つは、歴史的文脈である。
前章で、途上国においては政治機会構造だけでなく、地域社会のネットワークなど広義の
環境から社会運動を考える必要があると述べたが、本章で述べる社会運動のネットワーク
は、その広義の環境の一つとして社会運動の規定要因となっている。特に、美濃ダム建設
反対運動に複数の社会運動ネットワークが動員されたことは、行為者の背景や台湾全体の
社会運動がおかれた 1990 年代特有の状況によるところが大きい。本章ではこの状況を、民
主化など政治上の変化を軸に整理していく。もう一つは、空間的文脈である。前章で述べ
たとおり、地域社会は台湾社会全体から自律的な空間ではなく、さまざまな形で台湾社会
全体の中に埋め込まれている。本章では社会運動を記述しながらそれが発生する磁場たる
台湾社会全体を概観することで、次章の地域社会を記述するための基礎としたい。
当代の台湾社会運動研究の集大成ともいうべき『《台湾全志》社会志 社会運動篇』を著
した何明修と蕭新煌(何・蕭、2006)によれば、台湾社会運動は 2000 年の政権交代までに 5
つの時期に分かれる。台湾では、多くの開発途上国や旧社会主義国がそうであるように、
社会運動は政治機会構造や社会構造に密接に規定される一方、それを変えること、すなわ
ち民主化が運動目的の一つであり、何と蕭の区分もこの民主化運動の区切りとほぼ重なっ
ている。それぞれの時期において、いかなる社会運動がどのように展開したのか。本章で
は、基本的事実は何と蕭の研究に依拠しながら、社会運動とそれを囲繞する社会変容を整
理する。
1
社会運動の幕開け(1945―1979 年)
戦後台湾における社会運動は、暗黒期から始まるといっても過言ではない。光復という
言葉が表すように、
「祖国」たる中国の光に復したと思われた台湾の市民社会は、共産党と
の内戦状態の体制のままで台湾に逃れてきた国民党の強い統制下におかれた。その不満が
爆発したのが 1947 年におきた二二八事件であったが、これは強く弾圧され、本省人を主と
28
する市民社会はさらに強くかつ隈なく国民党政府の統制下におかれた。そこでは 1949 年か
ら 1987 年にわたって戒厳令がしかれ、共産党の赤ならぬ、国民党による「白色」テロの恐
怖が台湾全体を覆ったのである。さらに、
「法統」と呼ばれる、1946 年に制定された中華民
国憲法にのっとって政府の編成が行われたことが国民党政府の正統性の根拠であるという
イデオロギーを維持するため、国会の全面改選が無期限延期されるなど台湾の市民社会は
強い政治的不自由下におかれた。この環境下で 1949 年に創刊された半月刊誌『自由中国』
によって 50 年代後半から政治改革を主張し始めた雷震ら外省人自由主義者は、一時本省人
の非国民党の地方政治家と結んで中国民主党の結成をめざしたが、雷震が 1960 年に逮捕さ
れることでその試みは潰え、これ以降 1960 年代を通して、社会運動らしい社会運動は国民
党によって封殺された(李、1987:56-82)。
しかし 1970 年代以降台湾では中華民国という政治実体が外部正統性の危機にさらされた。
1972 年のニクソン訪中に前後し、国連からの脱退や各国との断交など、中華民国政府は
1970 年代に正統な中国としての外交的地位を次々と失っていった。この外部からの危機に
対応すべく、当時蒋介石の後をついで至高の領袖となった息子の蒋経国は様々な方面にお
いて巨大な中華民国の統治機構や人事を台湾サイズに調節する「台湾化」を徐々に進めた。
具体的には、
「万年国会」と揶揄された立法院(日本の国会に相当する中央政府の立法機関)
においても 1972 年から増加定員選挙を実施し、ここに台湾人が限られた空間とはいえ、中
央政界に選挙を通じて自らの利害を代表する政治機会が誕生した。また、国民党の人事に
おいても台湾化、すなわち戦後国民党に伴って台湾に渡った大陸出身者(外省人)ではなく台
湾人の登用、すなわち「青年才俊」政策が進んだが、これは蒋経国がより一元的に掌握で
きる「党務系統」と呼ばれる国民党の統治エリートを育成し、地方派系を弱体化させるた
めの対策でもあった(陳、1995:194-206)。次章以降で述べる美濃出身の鍾栄吉は、この党務
系統で出世街道を歩んでいく。一方で「青年才俊」の中で登用された許信良や張俊宏は後
に離党し、民主化勢力「党外」
(国民党の外、の意)の担い手となっていった。この担い手
たちは外交危機や蒋経国の政策手直しなどの「ゆらぎ」を見逃さず、社会運動を展開して
いくことになる。
1970 年代には、外交の危機に応じる形でいくつかの社会運動がおこった。一つは、釣魚
台(日本名:尖閣諸島)防衛運動である。同諸島は日本が 1895 年以降実効統治していたが、
1972 年、アメリカは「尖閣諸島は琉球の領土である」との見解にもとづき、沖縄を日本に
返還する際に同諸島の主権を日本に移した。これに対し台湾の大学生は、国民党の注入し
た公定中国ナショナリズムのイデオロギーにもとづいて「釣魚台は中国の領土である」と
主張、釣魚台を防衛するデモや文宣を展開したが、これはアメリカの前に無策な国民党へ
の抗議をも意味した。そのため釣魚台防衛運動は強い中国ナショナリズムを志向したり、
さらに中華人民共和国に傾倒したりする左派と、あくまで国民党に忠実な右派に分裂し、
収束していった(何・蕭、2006:49)。しかしこの釣魚台防衛運動は愛国学生たちに政治参加
の熱気をもたらし、それが 1970 年代を通じて民主化運動に引き継がれていく。
29
釣魚台防衛運動と前後してもう一つ、1968 年に大学教授などの若手知識人を同人として
『大学雑誌』10が創刊され、文化、思想、芸術などの内容を中心とする同人誌であった(李、
1987:90-91)。おりしも当時は蒋介石から蒋経国への権力継承が進んでいた時期であり、蒋
経国も自己の声望をあげるため、一定程度の言論の自由を許容した(若林、2008:142)。しか
し、蒋経国が自らの権力を固めると、これを抑えにかかり、結局『大学雑誌』の同人は分
裂するとともに、同誌も停刊に追い込まれた。しかし、
『大学雑誌』は後に「党外」と呼ば
れる民主化勢力で活躍する人物を育て、そのネットワークの下地を作った。例えば後に党
外の中心人物の一人となる許信良は、この『大学雑誌』時代に康寧祥など後の党外の中心
人物と接触を始めたという(新台湾研究文教基金会美麗島事件口述歴史編輯小組、1999:78)。
また、
『大学雑誌』の挫折は、知識人が中心となり、国民党に改革を期待するという姿勢の
限界をも露呈した。許信良や張俊宏ら後に党外で活躍する人物たちは、開きつつあった増
加定員選挙をはじめ、選挙による広範しかし期間限定の宣伝、および 1975 年に創刊された
初の台湾人中心の政論誌『台湾政論』をはじめとする党外雑誌による党外の組織化という
二本立ての民主化運動を模索していくことになる。党外雑誌では台湾独立などのタブーを
避けつつも、民主化の要求に関する政論や、進みつつあった開発に伴う環境破壊など社会
問題もとりあげられた。例えば、原発の危険性を告発し続けて「台湾反核の父」と呼ばれ、
2000 年の民進党政権交代後にその実績を買われて環境保護署長(日本の環境大臣に相当)に
就任した林俊義は、1978 年に原発に反対する文章を党外雑誌に投稿したが、その雑誌は即
座に発禁処分となった(何、2001:116-123)。
かくして、1970 年代の選挙期間は「民主の祝祭日」と呼ばれるほど、期間限定の民主主
義到来の様相を呈した。そして、政治機会の拡大を要求する民主化の声や、台湾アイデン
ティティの表現の自由や台湾ナショナリズムを主張する「台湾化」の勢力、そして各種社
会問題の解決を求める勢力は、政治的不自由の中で 1970 年代以降選挙を通じて提携してい
った。社会運動の側からいえば、民主化運動は選挙という合法的手段を通じて社会運動の
要求を実現できる数少ないパートナーであり、かつ運動の要求を実現するための大前提と
なるより自由な政治機会を確保するための手段であった。一方、民主化運動にとって社会
運動は、社会にあまねく浸透した国民党のコントロールを逃れて動員できる数少ない資源
であり、ここに両者は結合したのである(呉介民、1990)。
国民党政権も 1980 年に「公職選挙罷免法」を成立させて、選挙という制度政治への参入
を通して発言力を得ようとする党外の戦略に対応していった。すなわち、同法は選挙制度
の法整備であり、
「助選活動」つまり選挙キャンペーンに対する規制をするなど、党外の不
満も多かったが、同時に選挙の開票行為の不正を取り締まるものでもあり、それは党外の
要求に適うものであった。実際、結果的には同法によって開票プロセスの信頼性を高めた
ことが、後の政治体制移行期の政治過程において選挙という制度の信頼性向上に貢献した
10
当時戒厳令下の台湾で、雑誌は合法的に展開できる数少ない言論空間であった。その雑誌も
政治批判をすると前述の『自由中国』のようにすぐ停刊に追い込まれた。
30
(若林、2008:144)。
話を元に戻すと、1970 年代を通じた「民主の祝祭日」の一つの挫折点であり、かつ新し
い出発点となったのが美麗島事件であった。1977 年桃園県選挙の際に開票行為の不正に対
する抗議から発生した街頭暴動(中壢事件)など、徐々に政治的自由獲得に向けた戒厳令下で
の突破口を作りつつあったが、それに対して当局も警戒を強め、1978 年の増加定員選挙は
直前の米中国交樹立の発表を理由に中止になった。こうして当局と党外の緊張感が高まる
中、党外の急進派は、1979 年 8 月に雑誌『美麗島』を創刊した。同誌は僅か 4 期で発禁に
なったが、党外はここで組織化、つまり「党名なき党」の結成を試みた。そこには施明徳
ら急進派の「五人小組」を中心に、名前だけ貸す「掛名」の穏健派党外人士も含め、大規
模な党外ネットワークが初めて形を現し、ここに党外は当局への挑戦を強めたといえる。
この「五人小組」は 1979 年 12 月 10 日に世界人権デーに合わせて高雄で全島規模の大集会
を企画し、当局の許可が下りる前に見切り発車でこれを強行したが、それによって党外人
士が一網打尽に検挙された。当局は美麗島集団へのネガティブキャンペーンをはるととも
に、中心人物 8 名を軍法法廷に、33 名を司法裁判にかけ、ほぼ全員が有罪となった。これ
が美麗島事件である。この美麗島事件は党外にとって、明にせよ暗にせよ台湾独立を志向
する急進路線が「法統」を標榜する国民党政権下で有権者に受け入れられないことを示す
とともに(王甫昌、1996)、大量の逮捕者が出て人材的に大きな空白を作ったという意味で挫
折であった。しかし 1980 年 2 月 28 日に党外の林義雄の留守宅でその母と娘が何者かに惨
殺された林宅殺人事件ではからずも良心的支持者を獲得し、また人材の空白もすみやかに
埋められて 1980 年、
1981 年の選挙で大躍進を遂げたという意味では大きな前進であった。
もう少し先を見通せば、急進派が獄中にいるこの間、新生代と呼ばれる新しい世代の急進
派が台頭し、康寧祥などの穏健派は周縁化していくことになる。
2
権威主義体制移行開始前夜(1980―1986 年)
美麗島事件をひとつの分水嶺として、社会運動は一気に民主化運動とともに増加した。
それが 1980―1986 年である。1986 年には民主進歩党(民進党)が結成され、国民党中央常
務委員会がこれを黙認したことで「党禁」(野党結成禁止)は事実上解除され、戒厳令は当局
が正式に解除する前に、党外に実質上破られる形となった。ここに台湾の権威主義的政治
体制の移行が始まる(若林、2008:158)が、本節ではその前史をふりかえり、社会変動と合わ
せて社会運動と民主化運動の関係、および台頭する地域社会の社会運動を整理しておく。
民主化運動はこの時期、戒厳令突破に向けて大きく動いた。前述のように、美麗島事件
で検挙された党外人士の大きな人材的空白は、1980 年、1981 年の選挙で美麗島事件の家族
や弁護士が立候補、当選することで速やかに埋められた。その後、新生代と呼ばれる新世
代の急進派が台頭し、反政府行動に慎重な穏健派長老の康寧祥が一部の党外雑誌で批判さ
れて、その結果 1983 年の増加定員選挙で立法委員に立候補するも落選してしまった。その
31
若手活動家たちは 1983 年 3 月に「党外編集作家聯誼会」を結成したが、その活動家の一部
が翌年運動理論誌『新潮流』を創刊した。これが党外急進派派閥である新潮流派の始まり
であり、民進党結成後も台湾独立など急進的アジェンダの推進者となっていく。また、社
会運動に関しても環境運動に積極的に関与するなど、社会運動との結びつきを強めた。
急進派が台頭した結果、党外は 1982 年 9 月 28 日に台北市中山堂に集合し、
「台湾前途の
住民自決」という台湾独立のタブーに抵触するぎりぎりのスローガンを第一項に押し出し
た「共同主張」六項目を主張するという急進路線に出る(周・陳、2000:278-279)。そして
1983 年 10 月には前述の同年の増加定員選挙に向けて「党外選挙後援会」を結成、内部規
約、役員組織、共同政見を持つなど選挙期間限定ながらも事実上の政党を結成した。選挙
期間の後援会組織強化に始まった党外組織化の動きは、さらに「党外公共政策研究会」と
いう常設組織となって続き、これに対して手をこまねいている蒋経国を見た党外はついに
1986 年 9 月 28 日、突如民主進歩党(民進党)の結成を宣言した。このように、新生代を中心
とする党外の民主化運動はこの時期、徐々に中華民国の「法統」体制への挑戦を強め、最
終的には前述の 1986 年の野党結成に至った。
ただしこの時期は、後述する労働運動など、本来は相容れないイデオロギーを持つ集団
の大同団結がまだ見られる過渡期であった。新潮流派の社会運動への関与にしても、党外
全体として足並みを揃えたわけではなく、社会運動との距離は社会運動の種類や党外の派
閥によって異なった。しかし、1983 年から 84 年にかけて党外雑誌上で行われた「台湾意
識対中国意識論争」の上で、陳映真のような親中国派は民主化勢力内で急速に周縁化され、
全中国サイズではなく実効統治範囲である台湾サイズの国民国家を想像する台湾ナショナ
リズムが党外の基調となった(若林、2008:158-161)。話をもう少し先取りしておくと、周縁
化された親中国の左派民主化勢力は、その後労働運動などで民進党からも国民党からも距
離をおく、独自の路線をとっていく。また、
「党外」内部の社会運動との距離のばらつきは、
1990 年代になって民進党と社会運動との距離に反映されてくる。
この時期の社会運動はどうであったかを述べる前に、その社会運動をとりまく社会変容
についてまず整理しておこう。1980 年代は、民主化移行期であるとともに、台湾社会が大
きく変化する時期でもあった。
(出典:行政院主計処「教育統計」
http://www.dgbas.gov.tw/ct.asp?xItem=15423&CtNode=4610、2010 年 12 月 23 日確認)
32
表1-1は、台湾の高等教育の指標となる大学生および単科の高等教育機関である専科
生の学生数である。台湾の高等教育学生数は経済成長と平行して 1960 年代から増え始め、
その後も継続して増え続けている11。タローが先進国の例で中産階級が社会運動の担い手と
なっていったことを述べているとおり(Tarrow, 1998:chap.2)、これらの台湾の高学歴層は農
村社会とは異なる人的ネットワークや性格をもちながら、党外とは距離をおき、新たな社
会運動の担い手となっていった。女性運動や消費者運動はその例である。また、これらの
都市的な社会運動に対抗する形で、農民運動も出現した。本論文で扱う美濃のダム建設反
対運動は、この農民に関する言説を少なからず用いているという点で、単なる住民運動、
すなわち後述する自力救済と大きく性格を異にする。すなわち、都会に出た経験を持つ U
ターン組の若者が、鎮外に流出した鎮内出身者を含めた都市部の中産階級を巻き込みなが
ら、国内の農産物保護や農民への補償といった農民に関する言説を巧みに用いて展開して
いるのである。もちろん、自力救済や学生運動のように、組織化や戦略の多様化を経験し
ながら、民主化運動と結びついた社会運動も存在した。以下、順に見ていこう。
この時期の社会運動の特徴は、中産階級を担い手とする社会運動が誕生したことである。
例えば消費者運動である。消費者文教基金会(消基会)は大学教授を中心に 1980 年に成立し、
その活動内容を、1、消費者教育の推進、2、消費者の地位向上、3、消費者の権利保障
とした。具体的な活動は、1979 年に発生した食用油中毒の患者救済活動を 1981 年に行う
といった事後救済活動、1981 年の干しえびの蛍光剤検出などの予防性告発活動、署名活動
や企業側との折衝を通じて 1994 年に成立した消費者保護法の立案などである。この消費者
運動は、中産階級や専門家を担い手とする社会運動であるとともに、その専門知識を生か
した有毒食品の検査告発、消費者保護法などの立法活動といった抗議レパートリー、さら
にいえば党外による民主化運動や大衆動員とは距離をおいた戦略の誕生を意味した。
このような専門家が参加するスタイルは、環境運動にも見られた。専門家中心の環境運
動の早期の例は、墾丁国家公園(日本の国立公園に相当)の制定である。これは政府の協力依
頼を専門家が受託して、国家公園内の住民の狩猟禁止や環境保護教育などに関わるという
もので、権力への挑戦という観点からみれば社会運動とは呼べないものであった。しかし、
政府への協力のために政治に参加し始めた専門家は、学術的言説を用いた穏やかな方法で、
やがて政府に異議申し立てをするようになる。例えば、1979 年 3 月のスリーマイル島原発
の事故を受けて、台湾大学教授であった林俊義は同年『中華雑誌』にペンネームで原発反
対の文章を載せた。また、1985 年には清華大学の教授であった黄提源が立法委員の王清連
を説得して立法院で原発政策の再検討を要求する質疑を提出させた。これらの動きは 1986
年に新環境雑誌社という党外雑誌社となって結実する。ここにおいて環境運動は学者が学
術的言説を政府に訴えるという方法から、広く市民社会への啓発をめざす方向へと方向転
換したのである。
専科生の数が 1990 年代後半以降激減するのは、
「学院」と呼ばれる専門学校が少子化への対
策などから陸続と大学へと昇格したことによる。
11
33
この時期に頻発したもう一つの環境をめぐる運動が「自力救済」であり、これは上述の
専門家による環境運動とは異なる形をとった。自力救済とは、コミュニティ単位での開発
に伴う環境悪化などに対し、被害住民自身が救済を求めて抗議するという住民運動であっ
た。初期の自力救済の多くは被害が発生したのをうけて始まる事後抗議であり、行為者も
コミュニティ住民が主で、外部から支援が入ることは少なく、自力救済の全国的な組織も
なかった。
これが変化しだすのは 1980 年代中期である。この時期には三つの記念碑的自力救済が発
生し、その抗議レパートリーや動員資源に変化のきざしが見えた。その一つは、台中県大
里の三晃工場反対運動である。1976 年に設立された三晃化学工場の環境汚染に対し救済を
求める住民が郷、県、省、中央への各級政府への度重なる陳情の末、1984 年末に戒厳令下
にもかかわらず、住民団体を「台中県吾愛吾村公害防衛会」として県政府に登記した。そ
して最終的には住民が工場内に立ち入り、関係施設の打ちこわしを行った。最終的には 1985
年 6 月に台中県長の立会いのもとで、住民は工場から一年後の操業停止を約束させる同意
書を勝ち取ることになる。三晃工場反対運動は、自力救済を展開する住民が県政府に住民
団体を正式登記したこと、そして打ち壊しという実力行使に出たことの二点で画期的であ
った。この団体登記はこのようなコミュニティ単位の住民団体が後に社区総体営造などの
助成金を得るための基礎作業となる。
もう一つの自力救済は、新竹の李長栄事件である。李長栄化学工場は、1982 年に始まっ
た拡張工事により、周囲の田畑の汚染を悪化させた。汚染により被害を受けた農民は 1983
年、1985 年に各級政府に陳情を繰り返したり、新竹市にある清華大学の教授も巻き込んで
新竹市政府に地下水のサンプルを送って水質検査を要求したりしたが12、聞き入れられず、
ついに 1986 年に 3 度にわたって工場の囲い込みを行った。
もう一つは、鹿港のデュポン工場設置反対運動である。フランスの化学工業デュポン社
は、台湾中部の鹿港鎮に工場建設計画を発表したが、環境汚染を心配する地方選挙立候補
者が 1986 年初めに署名運動を開始した。動きが本格化するのは同年 3 月で、工場建設に反
対する人々が漁会(日本の漁協に相当)、農会(日本の農協に相当)、青商会(青年商工会議所に
相当)、学校、廟の運営委員会、鎮民代表大会(日本の村議会に相当)を総動員し、苦心の末
に 1986 年 6 月 24 日に戒厳令期末期とはいえ、台湾公害反対運動としては初めて街頭デモ
を敢行した。デモ行進は長くはなかったが、大きな衝突もなく、当時の行政委員長兪国華
は民衆の疑惑が晴れるまでは工場建設に同意しないと宣言せざるをえなかった。抗議はさ
らに鎮外に飛び出し、デュポン工場設置反対運動者は 1986 年 12 月 13 日に台北の総統府前
でデモを行った。これを受けてデュポン社は 1987 年 3 月に鹿港工場建設計画を一時中止す
ると発表し、最終的には 2 年後に観音工業区に工場を設置することで、鹿港工場建設計画
12
新竹の例は、大学教授が参入する社会運動のあり方を提示したといえる。すなわち、地下水
の水質検査要求などに現れたように、研究者や専門家を巻き込んで、合理的かつ科学的根拠に訴
える社会運動のさきがけとなった。これは環境アセスメントなど、後に民主化に伴って出現した
新たな制度によって、さらに有効な方法となった。
34
は取り消しとなった。デュポン工場設置反対運動は、被害が出る前に工場進出を止める運
動、すなわち予防性の社会運動であったこと、廟などのローカルなネットワークを徹底的
に動員したこと、首都台北でデモを行ったことの三点で自力救済の変化を予感させるもの
であった。このように、自力救済は事後救済から予防性の運動へ変化し、その抗議レパー
トリーも打ちこわしや囲い込みの実力行使からデモなど示威行為に変化し、学者や党外(民
進党)などの外部資源の導入も始まった。
様々な社会運動や民主化運動によって戒厳令や法統などの国家イデオロギーが挑戦され
るようになってくると、反共イデオロギーも動揺を見せてくる。その表れが労働運動であ
った。もともと高度経済成長によって台湾には労働者階級が形成されたが、国民党政権の
反共イデオロギーの下、政府や国営企業を含む企業に挑戦する労働運動は左翼的なものと
され、厳しく制限された。しかし、それをゆるがしたのが 1984 年 5 月の台湾労工法律支援
会結成である。これは党外急進派の新潮流と、雑誌『夏潮』を中心とする左派が合同して
成立した団体であり、イデオロギー的には相容れない勢力の大同団結であったが、政府か
ら独立した労働運動組織が結成されたという点では非常に画期的であった。活動内容は労
使トラブルの無料法律相談で、多くの労働者が助けを求めた。
1984 年に成立した労働基準法も、労働運動の隆盛に重要な役割を果たした。労働基準法
の内容自体は審議の過程で労働者の権利や退職金などに関して骨抜きされた部分が多く、
法律の成立後も労働者の劣悪な労働環境は改善されなかった。しかし、この法律の審議過
程やメディア報道の過程で、労働者は自らの問題を自覚していった。事実、1984 年を境に
労働争議は激増する(何・蕭、2006:67)。さらに、この法律を根拠に実際の労働環境と法律
との落差を訴えるという「法にかなった」要求をする労働運動も可能になり、労働基準法
の成立を通じて、労働運動の環境は戒厳令解除前夜に大きく改善された。
労働運動や環境運動が党外と結びついて展開したのに対し、消費者運動同様、党外から
距離をおいて大衆運動とは全く異なる路線を歩む社会運動がこの時期に現れた。それが女
性の権利や男女平等を主張する女性運動である。女性運動の始まりは、1970 年代にさかの
ぼる。米国留学帰りの呂秀蓮が 1974 年に大学の講演で新女性主義を提唱し、新女性主義と
は運動ではないとして大衆動員を否定し、新女性主義は思想、信仰、力であると述べた。
呂は有志とともに翌 1975 年に拓荒者雑誌社を設立、雑誌を通じた啓蒙のほかに女性のため
のホットラインを創設して、当時の党外雑誌と同様雑誌社という合法的な手段で女性運動
団体の結成を試みた。しかし当局からの嫌がらせが続いたのと、呂秀蓮が民主化運動に身
を投じて 1979 年の美麗島事件で逮捕されたことにより、彼女が主導してきた女性運動は立
ち消えになってしまった。
女性運動が復活するのは 1982 年の婦女新知雑誌社の設立である。同社は李元貞、顧燕翎
らを中心に設立された。同社は戒厳令下で合法的に活動するため、拓荒者雑誌社と同様に
雑誌社の形をとり、党外とは距離をおきながら超党派の立場で陳情活動や政策提言などを
行った。1984 年の優生保健法制定の際に部分的に人工中絶が認められたのはその成果であ
35
る。
消費者運動同様、新しい社会運動の一つである女性運動は、その担い手の特徴を大きく
反映していた。范雲は台湾の女性運動、労働運動、環境運動の担い手のプロフィールを比
較しながら、女性運動の戦略には、女性運動の担い手のエスニックな背景が反映されてい
るという(Fan, 2000)。すなわち、女性運動の担い手は高学歴の外省人女性が多く、草の根
の動員ルートや党外あるいは民進党とのつながりは持たないが、高学歴ならではの専門知
識を活かして大衆動員を必要としない超党派の陳情や政策提言の手段をとったのである。
この女性運動の方針は民進党と結びついた女性運動が生まれる 1994 年前後を境に変化する。
同じ高学歴でも、党外と強く結びついたのが学生運動と原住民運動であった。まず学生
運動から見ていこう。社会に遍く浸透した国民党は大学にも党組織をおき、学生を厳しく
監視した。70 年代には釣魚台防衛運動など、国民党のイデオロギーに沿った社会運動は一
定程度許容されたが、反政府的な社会運動は厳しく制限され、
1979 年の美麗島事件により、
80 年代初頭の大学は沈黙した。しかし、権威主義体制のゆるみが露呈するにつれて、大学
の機運も盛り上がりをみせる。大規模な動員には至らなかったが、大学生たちは 80 年代中
期になると小規模なサークルを結成し、啓蒙宣伝を行ったり、さらに一歩進んで大学自治
を主張して当局に抗議したりした。1982 年から 85 年にかけて発生した台湾大学普通選挙
事件がその例である。1983 年に学生自治やキャンパスの民主化を求めた学生サークルは、
選挙活動の結果初めて当局が推す学生を退け、サークルが推す呉叡人を学生代表連合会主
席(日本の大学生の自治会長に相当)に当選させた。しかし当局からのいやがらせにより、呉
は主席の座を退かざるを得なかった。この後学生運動は大学自治から各種社会運動への参
与へと方向転換していく。
原住民13運動は山中の部落ではなく、大学に通う台北在住のエリート原住民から始まった。
1983 年 5 月に台湾大学に在籍する原住民学生が『高山青雑誌』を創刊した。1984 年には
原住民運動の先鋒となる台湾原住民権利促進会(原権会)が作られ、1987 年には同会が台湾
原住民権利宣言を提案、翌年採択した。宣言の中で同会は原住民と漢人は違うエスニック
グループであり、台湾原住民こそが台湾の主人公であると謳うとともに、原住民が台湾社
会の中で重視されることを願い、原住民権利促進会は民族の歴史の回顧を通じて原住民全
体の民族意識を喚起したいと述べた。この宣言は、後の原住民運動の指針であり、台湾原
住民運動が国際先住民族運動の一環を形成するにいたったことを示している(若林、
2008:324)。後にこの社会運動の国際社会への進出は、外交上の困難を抱える政府から注目
され、ソフトパワー外交の役割を期待する政府が多額の資金を社会運動に与えて社会運動
が制度内化する契機の一つとなる(佐藤、2007)。
原住民運動は台北在住の大学生から始まったという意味では、部落からではなく広義の
13
台湾におけるオーストロネシア語族の先住民を台湾では「原住民」と呼ぶ。日本統治期は高
砂族、戦後は山地同胞と呼ばれたが、現在は敬意をこめて先住民の意を表す「原住民」という言
葉が使われている。日本語と異なり、これには差別的な意味合いはない。
36
学生運動から始まったといえる。ただし、原権会の初発は、体制への挑戦というよりは、
長老教会の後ろ盾を受けながら貧困や差別など、没落する原住民や部落の諸問題への事後
救済が主な活動であり、単なる民族イデオロギーの主張にとどまらない社会問題に関心を
もっていた(何・蕭、2006:72-73)。この原住民権利促進会が従来の個別案件の事後救済から
体制への抗議路線へと急進化するのは 1987 年 3 月の改組以降である。この後、原権会は増
加定員選挙や省議員選挙では失敗したが、国会で原住民の権利を認めさせるという国会路
線を継続していく(黄、2005)。
党外は早くから原住民の問題に注目した。1984 年には党外の若手急進派からなる党外編
集作家聯誼会が少数民族委員会を結成し、民主化勢力が原住民の問題を取り扱う素地を作
った。もちろん、原住民運動の初発が選挙ではなく個別案件の事後救済路線であったこと
からも分かるように、民主化と原住民という二重の課題の解決(Fan, 2000:62)を社会運動側
がどれだけ引き受けるかは運動の担い手の主観によって温度差があった。しかし、原住民
運動は多族群14化する社会/ネーション想像の趨勢の中にその自己主張を投入し、その自己
主張を民進党は引き受け、選挙キャンペーンなどでこれを積極的に主導していく(若林、
2008:334)。
この時期の社会運動についてまとめると、中産階級の台頭により新たな社会運動が出現
した。自力救済や労働運動などの社会運動は、運動の担い手が社会問題を解決するために
は民主化を解決しなければならないという「二重の課題」に直面したために、社会運動が
民主化運動や台湾独立イデオロギーと強く結びついて展開した。その一方で、消費者運動
や女性運動のような、研究や陳情を主な手段とする高学歴エリートが担い手の社会運動で、
民主化や台独から距離をおく超党派の運動も出現した。
超党派の社会運動の出現は、高度な知識や資源を持つことによって、ある程度の政治的
不自由を克服できる中産階級の社会運動の担い手が出現したことを示している。80 年代以
前と異なり、客観的な政治的不自由の緩和に加え、非民主的な政治制度の解決と社会問題
の解決という「二重の課題」を引き受けなくとも問題を解決しうる社会運動の担い手が出
現したことが、このような超党派の社会運動を生み出し、台湾の社会運動に「民進党との
結合の有無」という一つの対立軸を作り出した。
社会運動に「外部者」が参入する傾向は、地域社会における社会運動にも反映される。
もともと地域社会における自力救済運動は、住民が環境被害を受けて集合的に行うもので
あり、その抗議レパートリーは陳情、打ちこわし、囲い込みなど限られたものであった。
14
族群とはエスニックグループの訳語として「共通の起源、あるいは共通の祖先、共通の文化
あるいは言語を持つがゆえに自分で独自のグループを構成していると認識している人たち、また
は他の人からそのように認識されている人たち」(王、2003:10)との語義を持つ。台湾では原住
民、外省人、 閩南人、客家といったいわゆる「四大族群」を指すこともあれば、漢人内部のサブ
グループを指すこともあり、自在な語感を有している(若林、2008:29)。そのため、族群という
言葉はさらに拡大解釈されて、同性愛者など性的少数者(LGBT)の運動の中で当事者を指す場合
にも「LGBT 族群」と用いられることがある。プライドパレード(LGBT のデモ)のホームページ
を参照。http://www.twpride.info/(2009 年 7 月 28 日確認)
37
しかしこの自力救済は党外や学生運動の流入によって抗議レパートリーや行動範囲を増や
していく。例えば、鹿港のデュポン工場設置反対運動では、学生の流入が鎮外に問題をア
ピールするのに寄与した。また、住民運動組織が戒厳令下であっても登記されるなど、組
織化も進んだ。
戒厳令解除により、これらの社会運動はさらに活発化する。次節で見ていこう。
3
政治自由化のインパクトと残る課題(1987―1989 年)
1987 年 7 月 15 日、49 年以来 38 年の長きにわたって敷かれた戒厳令はついに解除され
た。前年 1986 年の民進党結成など、一部の政治的自由は黙認されていたが、正式な戒厳令
解除により、新たな政治的自由が保証されたのである。しかし 1986 年、行政院は国家安全
法の草案を提出していた。その第 2 条は「人民の結社および集会は、憲法に違反したり、
共産主義あるいは国土の分裂を主張するものであってはならない」というものであり、審
議延長の末、結局この条項は承認された。この「台湾独立禁止」という但し書きは民進党
のみならず、社会運動にもに重くのしかかることになる(何・蕭、2006:76)。本節では、戒
厳令解除以後の政治の動きと様々な禁止の解除を概観することで、社会運動にとって何が
変わったのか、それを社会運動側はどう捉えたのかを見ていきたい。
社会運動にとっての戒厳令解除の意味は、実質上のみならず法的にも政治的自由が認め
られたことにあったが、前述の国家安全法の台独条項のほか、戒厳令解除後の一連の法改
正は、社会運動の自由を半減させた。一つは、1988 年 1 月に反乱鎮定時期集会デモ法が国
会を通過し、台独条項以上にデモに関する規定が厳しくなった。もう一つ、結社に関する
法改正も社会運動に厳しいものとなった。1989 年1月に国会を通過した反乱鎮定動員時期
人民団体組織法は、審議が政党の結成に集中し、政党の結成は届出制となったものの、社
会運動が登記する「社会団体」に関しては政党より厳しい許可制がとられた。
しかし、それでも戒厳令解除は社会運動にとって大きな意味を持った。例えば、人民団
体組織法の同じ趣旨の団体は同一区域に一つの団体しか設けてはいけないという従来の規
定は削除されたため、政府の御用団体である「婦女会」があるのを理由に登記を拒まれて
いた主婦連盟は、新しい反乱鎮定時期人民団体法の通過により、内政部への登記申請を果
たした。このような社会運動団体の登記は、政府など各種助成金の獲得や、専従スタッフ
の確保など社会運動団体の制度化への第一歩となり、この後も 1990 年代を通じて社会運動
は専門化、法人化、全国化を遂げていく。
対する国民党は、1989 年の立法委員増加定員選挙など選挙での勝利を通じてたえず自分
たちの正統性を確保する必要があったため、社会運動の主張を一定程度取り入れていった。
その一つが、行政機関の整備である。原住民運動の要求を受けて国民党政権は 1987 年 7 月
に内政部に「山地行政科」を設置し、同年 8 月には、衛生署環境保護局と内政部労工科を
それぞれ環境保護署、労工委員会へと格上げした。もう一つは、法の整備である。1987 年
38
10 月には、初の環境問題に対する政策ガイドラインである環境保護政策綱領が公布された。
また、1988 年の五二〇農民運動デモには戒厳令下さながらの流血を伴う対応をとりながら
も、国民党は十三期全体大会で農業政策綱領をリスト入りさせ、省政府は 1988 年 10 月に
農民の要求であった全面農民健康保険を試験実施した。
このような大きな転換を踏まえて、前述してきた社会運動は戒厳令解除後どのように変
化したのか。まず、労働運動から見ていこう。
戒厳令下では、ストライキやボイコットなどの実力行使を含め、労働争議は不可能であ
った。また、労働組合は国民党もしくは経営者の同意を受けて初めて成立し、その幹部は
労働者による選挙を経ずに選出されたため、労働組合は労働者の意見を代表しているとは
言いがたかった。しかし、戒厳令解除後初の正月となる 1988 年 1 月には、労使関係が早く
も先鋭化し、バス会社や大企業の労働者がボイコットを通じて経営陣に待遇改善を要求し
た。これは前述の労働基準法で定められた「合法的な」待遇を労働者が要求するという意
味で、「順法抗争」と呼ばれた。また、
「聯誼会」と総称される、戒厳令解除後に組織され
た労働者の加入率が高い自主組織が、既存の「戦闘能力のない」労働組合の幹部と主導権
を争う動きも見られた。例えば、中国石油が所属する台湾石油工会は、労働者の自主組織
である労方聯線と国民党の文宣部が激しい争いを繰り広げ、1988 年には民主化運動の旗手
康寧祥の実弟である康義益が理事長に当選した。これは、国民党の国営企業に対する統制
に大きな打撃となった。
各種の統制により、台湾石油工会のように労働者が既存の労働組合の主導権をとれない
場合でも、
「聯誼会」は労働者の組織化に重要な役割を果たした(何・蕭、2006:83)。かくし
て組織化された労働者は、1988 年のメーデーに台鉄(日本の国鉄に相当)が初の全国規模の
ストライキを行い、同年 7 月 15 日に台湾石油も大規模デモを行うなど労働運動の組織化や
可視化を進めた。また、1989 年に自主労働組合の全国ネットワークである「全国自主労工
聯盟」が世界労働者連盟(WCL)のアジア労働組合連盟(BATU)に加盟するなど、世界的労働
組合との連携も成立した。このように、戒厳令解除を機に労働運動は可視化され、真正面
から組織的に企業と交渉するようになっていった。
次に、環境運動についてみていこう。環境運動の活動家は、戒厳令解除後の新しい「合
法的な」運動レパートリーとして街頭デモを取り入れながら、活発に運動を展開し始めた。
その結果、1988、1989 年の 2 年間で抗議件数は前年比 131%、82%の成長をみせた(何・
蕭、2006:84)。民進党のなかでも、新潮流と呼ばれる若手急進派は党外の時代から熱心に環
境保護を訴えたため、環境運動は民進党にとって重要な支持基盤となり、環境運動も民進
党の支持を大きな資源とした。例えば、大学教授や専門家が民進党と密接に結びつきなが
ら、環境運動の全国組織化をめざして 1987 年 11 月に台湾環境保護連盟を設立した。
戒厳令解除直後当時の政治状況をよく表している環境運動の一つに、宜蘭の台湾プラス
チック第六ナフサプラント建設反対運動がある。同プラント建設計画が発表されると、1987
39
年 7 月から民進党との関係が深い同人誌『噶瑪蘭雑誌15』や、同年 11 月に成立した環境保
護連盟宜蘭支部が住民の啓発に努めた。さらに、民進党籍の宜蘭県長陳定南も同プラント
建設反対を表明し、環境保護署が行った環境アセスメントでは信用できないとして、台湾
大学環境工業研究所に独自に同プラント建設計画の評価を依頼した。その結果、16 名中 8
名の教授がこの計画書では建設計画の決定を下すには不十分であり、修正のうえ再検討が
必要であると表明した。1988 年 3 月、台湾プラスチックは宜蘭の第六ナフサプラント建設
計画を放棄し、桃園県の観音工業区に移設する計画を発表したため、4 月に実施予定であっ
た第三回環境アセスメントもそれに伴い中止された。ここに宜蘭の第六ナフサプラント反
対運動は暫定的な成功を収めることになる。このように、民進党員が首長をつとめる県政
府が第六ナフサプラント反対運動に協力して独自に環境アセスメントを依頼したことは同
運動の大きな特徴であった。
もう一つ、民進党との強い連携を保ちながらこの時期に始まった環境運動は台北県貢寮
郷の第四原発建設反対運動である。最初に積極的に反対運動に参加したのは住民ではなく
専門家たちであった。1985 年に学者主導の原発論争により第四原発建設計画は暫定的に棚
上げされたが、建設予定地の貢寮での反対運動は 1988 年 3 月の塩寮反核自救会を俟たねば
ならない。この自救会成立大会の際には、民進党中央の幹部や国民大会代表、県議員など
も列席し、大会の席上で彼らは民進党の反原発の立場を強調した(何、2006:252)。同時に郷
外の反核団体も恒春など既存の原発立地で反核説明会とデモを行い、1988 年 4 月に立法院
に抗議陳情を行うとともに、500 名の大学教授の署名を集めて台湾電力本社ビル前で三日間
のハンストを行った。1989 年の 4 月 23 日のデモは、この後 10 年以上にも及ぶ反原発運動
の一つの里程標となった。このように、同時代の海外の原発事故やかねてからの専門家の
原発をめぐる論争はあったものの、住民運動としての第四原発反対運動はそれに直接触発
されず、1988 年に民進党のてこ入れのもとで始まった。
戒厳令解除のこの時期、女性運動は少数のエリートから都市の知識人への小規模な拡大
が図られた。1987 年には女性活動家数人や専門家が台湾人権協会、彩虹専案および婦女新
知などいくつかの女性団体と協力して「台湾婦女救援協会」を設立し、当時台湾で深刻化
していた人身売買の告発に乗り出した。1988 年には台湾婦女救援基金会として財団法人化
し、80 年代末期までは立法や法改正などの陳情活動を通して、人身売買の撲滅を図った。
また 1982 年に雑誌社として出発した婦女新知も 1987 年 11 月に婦女新知基金会に改組さ
れた。婦女新知はこの時期、陳情の他に街頭デモも用いながら他の女性団体との連携を強
め、1987 年 1 月、1988 年 1 月に人身売買の取締り強化を求めてデモ行進を台北の公娼街
である華西街で行った。しかし、環境運動や労働運動がグラスルーツに広い会員制を構築
していったのとは対照的に、婦女新知の改組は、限定された都市の上層知識人に支持を求
15
噶瑪蘭(クヴァラン)とは、宜蘭一帯に住む平地原住民(平埔族)の名称。戒厳令時代、中華民
国が全中国を支配するという虚構の中で無視されてきた台湾文化、特に台湾原住民の文化を尊重
する民進党の姿勢が雑誌名に現れている。
40
めるためのものであった(Fan, 2000:141)。
戒厳令後に姿を現した農民運動は、それまでの保守的な農民像を覆すとともに、農村の
長年にわたる衰退を浮き彫りにした。戒厳令解除は、その農民が抗議に繰り出す契機を作
り出したといえる。1987 年 11 月、果物の輸入自由化に伴う国産農産物の価格下落に抗議
し、中部の果樹農家が山城区農民権益促進委員会を結成した。同年 12 月、この山城区の農
民は彰化、台中、苗栗、宜蘭からの 3000 余名の果樹農民を組織して立法院に請願に赴き、
果物の輸入自由化に抗議した。1988 年 3 月になると、山城農民権益促進会とほかの農民権
益促進会は共同で農産物の輸入自由化に対する抗議デモを台北市の米国在台協会、経済部
国貿局、国民党中央党部の前で行った。このとき、農民団体だけでなくほかの社会運動団
体や民進党の立法委員も参加し、戒厳令解除後の異種社会運動間の大きなネットワークが
可視化された。同年四月には台湾とアメリカの農産物を含む貿易会議に対する農民の抗議
デモが台北で頻発したが、そのピークが 1988 年 5 月 20 日の数千名の農民の大デモ行進で
ある。農民は台北市の国父紀念館に集結し、国民党中央党部、立法院、行政院へとデモ行
進を行い、(1)農民健康保険の実施、(2)肥料の値下げ、(3)コメの計画購入量の設定、(4)農会
総幹事の互選廃止、(5)水利会の政府組織への編制、(6)中央省庁としての農業部の設置、(7)
農地の自由売買の開放という七大要求を政府に突きつけた。しかしデモには五千名もの警
察が動員され、途中で官民の衝突が流血事件や逮捕に発展し、戒厳令解除に湧き上がった
市民社会を一転して震撼させた。
五二〇デモ行進の後、農民運動はコメ農家を中心とする農権総会と、果樹農家を中心と
する農民聯盟に分裂する。後述する美濃ダム建設反対運動の主導者で、農民聯盟に関わっ
たことのある鍾秀梅は、この二つの団体の違いを『美濃鎮誌』の中で次のように述べてい
る(美濃鎮誌編纂委員会、1997:1102-3)。一つは、農権総会は閩南人、農民連盟は客家とい
う族群構成である。もう一つは、そのアピールの内容である。農権総会は民進党色が強く、
農民運動を政治運動につなげようとしていた。また、農権総会の中心となっていた稲作農
家は利便性の高い平地を持っているため、土地への投機意欲が強く、農地の売買の自由化
を求めていた。それに対し、農民聯盟は政治運動の前にまず農民の啓発や自主的な組織化
をめざしていた。例えば、1988 年 8 月、農民聯盟は学生運動団体の民主学生聯盟と農村巡
回工作隊を共同開催し、南部の旗山にてバナナ農家を対象に啓発と組織化を図った。また、
丘陵地帯の果樹農家が多かったため、土地の条件が悪い分土地への投機意欲は弱かった。
このように、農民運動は戒厳令解除を機にかねてからの農民の不満が組織化され、デモや
陳情の形をとって社会運動が勃発したが、五二〇のデモ以降、民進党の色彩が強い農権総
会と、特定の政党支持を表明せずゲリラ方式に農民の組織化を目指す農民聯盟に分裂した。
農民聯盟と民主学生聯盟が農村巡回工作隊を組織したことから分かるように、学生運動
は徐々にその活動範囲をキャンパスの外に広げていった。大学では、戒厳令解除前から学
生の自治を求める学生運動が始まり、戒厳令解除後にはその学生運動が組織化された。そ
の象徴となったのが 1987 年 7 月 18 日に輔仁大学など 11 の大学で結成された大学法改革促
41
進会(大革会)である。これは戒厳令解除後、大学の枠を越えて学生が自発的に組織した初の
団体であり、大学に共通する問題の元凶である大学法の改革を要求した。しかし、1987 年
11 月以降大革会の活動は二つの理由で停滞する。一つは、国民党政府が大学法を改正する
姿勢を見せたことである。もう一つは、大革会のメンバー自身が大学法という議題の限界
を感じ、外の社会運動と実践する必要を感じていたことである。そのため大革会は改組の
過程で解散し、1988 年に民主学生聯盟(民学聯)へと改組した。
この改組は当時の学生運動の路線転換を象徴している。すなわち、学生運動の主要関心
は、キャンパス内の学生自治や民主化から、外の社会へと移り、先述の農民運動のように
他の社会運動との連携を強めていった。この過程で学生運動は他の社会運動からも支持を
受ける中で、当時の権威主義体制への挑戦を強めていった(何・蕭、2006:95)。その挑戦は
1990 年 3 月に最高潮を迎えることになる。本論文で扱う美濃でも、社会運動に関わってき
た学生がダム建設反対運動やコミュニティ運動に関わり続けている。
原住民運動は戒厳令解除後に個人の救済や啓蒙から体制への挑戦へと路線を転換した。
1984 年に成立した原住民権益促進会(原権会)は、原住民への社会サービスや啓蒙を中心と
して社会運動を展開してきた。しかし、戒厳令解除後は、原住民運動は街頭デモという新
たな抗議レパートリーを採用して体制への抗議を強めた。若林(2008:325-326)の整理をもと
に、反呉鳳運動から当時の原住民運動をみていこう。
呉鳳とは原住民のツォウ族と漢人の「通事」(通訳)を務めていた漢人で、原住民の野蛮な
首狩の風習をやめさせるために、自らの首を差し出した。それを嘆いた阿里三社の原住民
は首狩をやめ、呉鳳を神として祭ったという呉鳳神話16が美徳として小学校の教科書に載っ
ていた。そして嘉義県の中でツォウ族の住む地区は呉鳳郷と呼ばれていた。これに対し原
権会、漢族の大学生および長老教会の牧師など約 200 名が 1987 年 9 月 9 日、漢族が原住
民の文化を不当に貶めているとして、同伝説の教科書からの削除を求めるとともに、呉鳳
郷という郷名の改名や嘉義駅前に立てられた呉鳳の銅像の撤去を要求して嘉義県政府まで
デモ行進した。さらに翌 10 日には舞台を台北に移して、原権会代表が教育部に請願活動を
行った。代表一行は要求書を直接教育部長に手渡そうとしてもみ合いになったが、一旦居
留守を使った教育部長も最後には面会に応じ、教科書からの呉鳳神話削除を承諾した。1988
年 9 月、教科書編集を担当する国立編訳館は、小学校教科書の「呉鳳教材」の全廃を決定
した。
原住民運動の影響を受けて、1988 年前半に呉鳳郷民代表会(日本の村議会に相当)は激論
の末、郷名を阿里山郷と改名することを決議した。同年 12 月、原権会など原住民団体は、
嘉義駅前の呉鳳銅像を引き倒し、呉鳳郷改称の最終決定を政府に迫るとともに、呉鳳を祭
神とする呉鳳廟の性質変更を要求した。最終的には翌 1989 年 2 月台湾省が改称を発令し、
16
呉鳳神話自体は国民党政府が作り出したものではなく、日本統治期から漢族の教化手段とし
て教科書に掲載されてきた(駒込、1996:166-189)。しかし、原住民を野蛮として教化の対象とす
る姿勢は国民党政府にも引き継がれた。
42
呉鳳に関する一連の社会運動は決着を見た。
この時期の原住民運動は個々の原住民の救済サービスの範囲を越えて、漢族中心主義と
いうイデオロギーに挑戦し、原住民こそが台湾の主人公であるという歴史観を喚起したと
いえる。同運動の動きはさらにラディカルに土地所有や先住権の問題にも及んだ(石垣、
2007)。このような世界観は漢族中心主義のみならず、中華民国憲法の正統性にもとづいて
全中国を統治するという中華民国の「法統」の虚構にも当然ながら挑戦するものであり、
原住民当事者ならずとも族群の境界を越えて、
「法統」の下で政府によって抑圧されてきた
台湾の歴史を重視しようとする人々の共感を集めた。原住民運動は広く台湾人にアピール
できる「本土化」(台湾化)17の枠組みで挑戦を続けたことにより、台湾全土の支持を集めた
といえる。
同じく族群の社会運動で、原住民とはやや異なる背景から始まった社会運動に客家運動
がある。客家の文化復興に関心を持つ活動家たちは、民進党を含めた既存政党への支持は
表明せず超党派の立場で、1987 年 10 月 1 日に『客家風雲雑誌』を創刊し、あわせてセミ
ナーなどのイベントも開きながら客家文化や歴史などの啓発に努めた(田上、2007:169)。
1988 年 12 月 28 日、50 余りの客家団体の連合体として結成された客家権益促進会は「母
語を返せ」をスローガンに台北で街頭デモを行い、万単位の参加者を率いて立法院まで行
進し、請願を行った。デモの要求内容は、1、客家語および各「方言」のメディアでの使用
解禁、2、多元的な言語政策の実施、3、国語と母語の教育両方を重視することであった。
客家運動と原住民運動の経緯を比較すると、客家運動のいくつかの特徴が浮かび上がっ
てくる。第一に、それは原住民運動から比べると相対的に必ずしも経済的困窮から始まっ
ているわけではないということである。つまり、原住民の実体的な困窮が社会運動の不満
として存在した原住民運動と異なり、客家運動は政治的自由化と社会運動の勃興に刺激さ
れて、活動家が運動を構築していった運動であるといえる(何・蕭、2006:103)。第二に、客
家運動の特徴は、民進党と強く関わっていた原住民運動と異なり、超党派の立場で出現し
たことである。これには二つ理由が存在する。一つは、客家という族群の性格上、「中原か
ら来た正統な漢民族」という中国ナショナリズムに基づいて客家の文化復興を主張する国
民党支持者と、台湾サイズのネーションの中に客家という族群を位置づける台湾ナショナ
リズムに基づく民進党支持者が相剋していたことである。この大同団結を図るには、超党
派の立場をとる必要があった。もう一つは、戒厳令解除前から始まった原住民運動と異な
17
台湾の中国語では、1970 年代に遡ることのできることのできる広範な政治的文化的変動過程
を指す言葉として「本土化」が定着している。若林(2008:417)は「本土化」の政治面に注目して、
「台湾社会・文化・歴史の独自性は台湾人自身の観点から評価され解釈されるべきであるとの考
え方」が公共的言説として展開されるプロセスとその結果の国民統合イデオロギーの変化、それ
を反映する政策と制度の変化を指して、「台湾化」と和訳している。本論文では基本的にこの考
え方を継承するが、台湾化がもたらした国民統合イデオロギーや政策、制度の変化の側面よりは、
それが社会運動の言説として動員力を持ったことに注目するために、さしあたり台湾化の定義を
「台湾社会・文化・歴史の独自性は台湾人自身の観点から評価され解釈されるべきであるとの考
え方」そのものとしておく。
43
り、戒厳令解除後にあって、民主化運動の旗手を自負する民進党を頼らずとも、社会運動
が十分な支持資源やネットワークを確保できる時代状況にあったことである。第三に、客
家運動は原住民運動と異なり大規模な統一的行動こそ少なかったが、他の運動に客家とい
うエスニックな運動フレームを提供し、運動間のネットワークを作った。楊長鎮
(1991:187-192)によれば、客家運動は先述の農民聯盟や労働運動に大きく関わっているとい
う。農民運動、特に果樹農家が多く参加した農民聯盟では、果樹農家は山間部に居住する
ため、客家が多かった。そこで農民聯盟は客家という族群の権利擁護をも運動フレームの
一つとして掲げた。また、労働運動に関しては、客家が多く住む北部の新竹や苗栗で客家
コミュニティのつながりが労働運動のネットワークを形成した。この客家運動がつないだ
さまざまな種類の社会運動は、美濃ダム建設反対運動にも重要な超党派の運動資源として
動員される。
様々な社会運動が開花する中、戒厳令前後の地域社会には民進党の後援組織や前述の自
力救済組織として非公式に成立し、1989 年の県市長選挙および立法院増加定員選挙などで
その躍進を支えながら、その後のコミュニティ運動の雛形となる組織が族生していった。
「文史工作室」と総称される組織である。例えば、屏東県林辺郷の林辺民主促進会はその
一つである(楊、2007:189-203)。同会は 1989 年に美麗島事件で弁護士を務めた蘇貞昌が民
進党から屏東県長に立候補した際、登記しない非公式の林辺の後援会として機能した。し
かし、
「身動きがとりやすいように」あえて団体を登記することはせず、引き続き民進党政
治家の後援会として、また地元の清掃活動や河川の美化運動などコミュニティ運動の担い
手として、地域社会の運動ネットワークの中心をなしていく。もう一つの例として、淡水
の滬尾文史工作室は、1980 年代に反国民党傾向の住民の自主勉強会として設立されたが、
80 年代半ばに台北のベッドタウンとして淡水の乱開発が急速に進む中、淡水の歴史を専門
家ではなく地域住民自らの手で発掘し、ニュースレターなどで発信していった。その内容
は淡水の英国統治の経験や港町の歴史など、台湾サイズの国民国家の想像範囲中に淡水と
いう地域社会の歴史を位置づけようとする、当時としては新しい台湾化の試みであった(Lu,
2002:ch.3)。これらの文史工作室が主導する戒厳令解除前後に生まれた地域社会の台湾化の
取り組みは、台湾文化の実体化が公定中国ナショナリズムへの挑戦を伴うため、同じく国
民党政権や公定中国ナショナリズムへの挑戦を行っていた民進党と結びついた。しかし、
地域政治は地方派系の世界であったから、民進党との結びつきは、文史工作室が台湾化と
同時に、地域社会の民主化、すなわち地域社会を分断する地方派系の克服という重い問題
を負わされることを意味していた。もとより地域社会の中に深く埋め込まれた地域住民が、
女性運動などのように超党派の社会運動のような立場をとることは非常に困難であり、多
くの文史工作室は何らかの政治的色彩を負わざるを得なかったのである。
1987 年―1989 年の社会運動の状況をまとめると、戒厳令の解除に伴う抗議レパートリー
の拡大、および同種運動団体間、異種運動間のネットワークの拡大が特徴であった。戒厳
令によって抑圧されていたのがその解除によって噴出した民衆の不満や、またそれに触発
44
された新興の社会運動は、もはや政治エリートにとって鎮圧するコストが高すぎた。1990
年代初頭には次節で述べる「非主流派」と呼ばれる国民党の古参エリートが旧来の司法や
法律適用で社会運動の鎮圧を試みるが、これら古参エリートは李登輝が憲政改革アジェン
ダの主導権を握るなかで政界の中枢から次第に放逐されていった。かくして李登輝率いる
国民党政府は自らも体制変容を遂げながら、社会運動の要求を受け入れつつ、しかし本土
化と民主化の主導権は民進党や社会運動に譲らずに、2000 年まで政権を維持する。次節で
はその国民党の体制変容の中で社会運動がどのような変化を遂げたのかをみていく。
4
「非主流派」によるゆり戻しとさらなるネットワーキング(1990―1992 年)
1990 年 5 月、総統の李登輝は後述する「非主流派」の重鎮である 郝柏村を行政院長に指
名した。郝は法律違反の名義や司法手段を用いて社会運動の鎮圧を図ったため、社会運動
は一時後退するが、それはあくまで局所的なものであり、社会運動はむしろ、80 年代に得
た大衆の支持や拡大したネットワークに支えられて、この時代に逆行する鎮圧に激しく反
発し、鎮圧コストの高さを政府に見せ付けて譲歩を迫った。しかし、その社会運動の要求
する民主改革の主導権はあくまで李登輝率いる国民党内の「主流派」が掌握し、社会運動
や民進党がそれを主導することはなかった。本節では当局による弾圧や国民党政府主導の
民主化と社会運動がどのように相互反応したのかを検討する。
1988 年 1 月、本省人の副総統李登輝は、蒋経国の死後に憲法の規定にしたがって総統に
就任した。総統に就任したとはいえ、李登輝の国民党内における指導権は磐石ではなかっ
たため、李は蒋経国の残余任期を終えた後に、飾り物でない形で新たな総統の任期を獲得
しなければならなかった。しかし、1990 年 2 月に正副総統選挙方式をめぐって李登輝が国
民党の古参エリートの挑戦に辛勝して主流派と呼ばれ、李登輝に挑戦した李煥や郝柏村が
非主流派と称されたように、国民党の党内対立は明白なものとなった。そこで、李登輝は
この「二月政争」で生じた党内亀裂を修復し、憲政改革に向けた政治環境を整えるため、
「二
月政争」
で李登輝と争った軍部出身の 郝柏村を1990 年 5 月に行政院長に指名するという
「劇
薬処方」に出た。これは同時に、もう一人の非主流派の重鎮である李煥を国民党・政府の
中枢から遠ざけ追い落とすことも意味していた(若林、2008:174-181)。
これに対し、社会運動は郝が行政院長に就任した 1990 年こそ抗議件数を一時減らしたも
のの、80 年代を通じて築いてきた広範な運動ネットワークや大衆の支持を活用して抗議を
大規模化させ、民主化や各種社会問題の解決を要求した。その最大のイベントは、1990 年
3 月の戦後台湾最大規模の学生運動である。1990 年 3 月 14 日、50 余名の台湾大学の学生
が国民党中央党部に赴き、
(1)
「反乱鎮定動員時期臨時条項」の廃止、
(2)国民大会の解
散、
(3)国是会議の開催、
(4)政治経済改革のタイムテーブルの制定、の 4 項目を要求
し、同月 16 日、台湾大学の学生 9 名18が中正紀念堂広場で座り込みを始めた。当初参加者
18
この中には後に屏東県の環境保護団体である藍色東港溪保育協会の創始メンバーで、民進党
45
は僅かであったが、18 日には全国から大学生が集結し、座り込みの学生は五百人、民進党
や市民団体も合流して集会は二万人規模に膨れ上がった(何・蕭、2006:125)。20 日、座り
込みの学生人数は五千人以上に達し、それに同調して合流した大学教授も 200 人にのぼっ
た。これに対し、立法院は上記3、を除いた学生の要求を支持する決議を行った。
21 日午前、ちょうど李登輝は圧倒的多数で第 8 期総統に選出されると、直ちに国民党中
央常務委員会を招集し、国是会議開催を党議決定した。そしてその日の夜、学生代表が二
名の教授を伴って国是会議の開催をあらためて要求した声明を持って総統府入りし、李登
輝と会見すると、李は国是会議の早期招集と 5 月 20 日の総統就任演説で政治改革のタイム
テーブルを提出することを約束した。ここに学生たちは行動を終結した。かくして、李登
輝は 1990 年に党内の「二月政争」に勝ち、国民大会で総統としての自分自身の任期を勝ち
得たことで体制内エリートに対する交渉力を獲得し、かつ「三月学生運動」への対応を成
功させることで、体制外民主化勢力との交渉力をも獲得した。「バランサー李登輝」の誕生
である(若林、2008:178)。
果たせるかな、行政院長に就任した郝柏村は社会運動リーダーの逮捕、街頭デモでの逮
捕、開発案件の強行など旧態依然たる方法で社会運動の鎮圧を図った。しかし、当局の社
会運動への鎮圧にも関わらず、当局の粗暴な鎮圧は、逆に大衆のさらなる反発を招き、か
えって大衆の社会運動への支持は減少しなかった(何・蕭、2006:119-121)。このような「非
主流派」の反動がかえって民主化勢力に支持を与えたことは、体制外の社会運動のみなら
ず、体制内の李登輝にもあてはまる。1990 年 2 月、「二月政争」で勝った李登輝に対し、
引き続き一部国民大会代表が三月国民大会に向けて反李登輝の動きを見せたことが、かえ
って李登輝に「民主改革派」リーダーとしてのクレジットを与え、外省人保守勢力に敢然
と立ち向かう本省人リーダーとしての族群的人気を高めることになった(若林、2008:177)。
社会運動もこの鎮圧に反応して、いくつかの変化をとげた。一つは、異種社会運動間の
ネットワーキングである(何・蕭、2006:130)。1991 年 8 月、環境保護団体、労働団体およ
び民進党社会運動部が集結し、分野を越えた異種社会運動間の相互応援の方法を協議した。
異種社会運動間のネットワーキングが進むにつれて、運動団体間のコーディネーションの
必要も増し、また、1990 年に結成された台湾教授協会など、単独の運動イシューを越えて
広く社会問題の解決をめざす社会運動団体もこの時期に出現した。
もう一つは、社会運動は民進党とのつながりを表面化させた。それまで社会運動は前述
のとおり民進党と密接に結びつくものもあったが、運動に政党のレッテルを貼られること
を嫌い、その結びつきを表面化させることはなかった。しかし、民進党と社会運動両方に
当局の鎮圧が及ぶ中、社会運動は民進党の社会運動への参与を歓迎した(何・蕭、2006:132)。
おりしも 1991 年 10 月、民進党は派閥闘争の末「公民投票式台湾独立」の党綱領化に成功
の曹啓鴻(2005 年より屏東県長)の秘書を務めている周克任や、同協会を通じて屏東県林辺郷に
入り、そこでのフィールドワークをもとに蓮霧(ワックスアップル)によるまちおこしと川沿いの
美化運動の研究を行った楊弘任(2007)がいる。このように、学生運動時代のネットワークは、そ
の後も社会運動や研究のネットワークの中に続いている。
46
し、党の公式イデオロギーを台湾ナショナリズムの方向へ急進化させた。これが国民党非
主流派の逆鱗にふれ、人民団体法にもとづいて内政部内に設けられていた政党審議委員会
は同月、民進党解散の是非を問う手続きを開始した(若林、2008:198-200)。かくして鎮圧を
受けていた社会運動と民進党は、鎮圧の危機感を共有し、協力関係を表面化させたといえ
る。例えば学生運動は、前述の 1990 年 3 月には民進党と距離を保っていたが、5 月に郝柏
村が行政院長に指名された後、反軍人政治干渉運動には民進党や大衆の参加を受け入れる
ようになった。また、反原発運動も民進党との結びつきを表面化させた。1991 年の反核団
体のデモは当時民進党の台北県長であった尤清が先頭に立ち、反原発運動への参加を表明
するとともに、台北県での民進党の拠点確立を図った。
1990―1992 年の社会運動の動きをまとめると、社会運動は当局による鎮圧に対し、それ
まで築いてきたネットワークや大衆からの支持を武器に、運動イシューを越えた異業種運
動間ネットワーキングや民進党との提携を進め、当局に鎮圧コストの大きさを誇示した。
また、郝柏村ら国民党非主流の李登輝や社会運動に対する反動的態度は、かえって大衆が
社会運動や李登輝への支持にまわる結果をもたらした。ここにバランサー李登輝は民主化
の主導権を社会運動や民進党に譲らずに、憲政改革の道を確立し突き進むこととなる。そ
して社会運動も、いったんは当局による鎮圧の下で民進党と提携を強めたものの、その弾
圧がやわらぎ、民進党も制度政治の中で新たなニッチを模索するにつれて、両者の距離は
変化していった。次節では、さらなる民主化や社会変化に伴う、社会運動の多様化を明ら
かにしていきたい。
5
民主化と社会運動の制度化(1993―1999 年)
李登輝は「バランサー」としての地位を獲得した後、国是会議の召集に成功して「反乱
鎮定時期臨時条項」廃止(1991 年 4 月)と国会全面改選に道筋をつけた。そして 1992 年末の
立法院の全面改選、1996 年には総統直接選挙と台湾の政治的民主化および台湾化は飛躍的
に進んでいった。その過程で、社会運動は立法院選挙への参入、環境アセスメント、政府
内の委員会参入、社区総体営造などを通して様々な形で政策過程に参与するルートを獲得
し、民進党との連携や大規模な抗議デモなどの従来の手段は相対化されていった。台湾の
社会運動は鎮圧の時期を切り抜けると、制度を前提とした運動スタイルを重視するように
なり、制度化された社会運動が日常的に存在する「社会運動社会」19が本格的に台湾に到来
メイヤーとタローは、社会運動の制度化の進展をふまえて、次の 3 つの仮説に基づく高度に
民主的な産業社会を社会運動社会(social movement society)と呼んでいる(Meyer & Tarrow
eds., 1998:4)。それによると、社会運動社会とは、
「抗議が散発的なものから永続的な要素にな
ること」
「抗議の頻度の増大と構成員の多様化、権利要求の範囲の拡大」、および「専門化と制度
化の進展による社会運動の日常政治化」である。このような社会では、社会運動は怒りの対象や
権威に挑戦する力やその挑戦を刺激する力を失ったり、圧力団体や政党に変化したりする可能性
がある社会である。ただ、これらはあくまで可能性であり、現実となっているかどうかは、社会
運動の実際の過程や結果は経験的データを検証する必要がある。本論文でも、美濃ダム建設反対
19
47
したといえる。本節では、次章以降で述べる美濃ダム建設反対運動が始まるこの時期に、
同時代の社会運動がいかなる状況におかれていたのかを明らかにしたい。あわせて、同時
代の地域社会に目を移し、1980 年代以降の動きを整理して、次章以降で述べる美濃との比
較の素地を作りたい。
まず、民主化の進展によって、社会運動の何が変わったのか。第一に、政府側の対応が
穏健化したことである。例えば、社会運動と当局の暴力衝突や、デモ申請の却下は激減し
た。表 1―2の通り、街頭デモの数や規模は検挙人数と比例して減少しているわけではない
が、社会運動側が過激な手段をとらなくなったこと、および当局も社会運動への対応をマ
ニュアル化させ、社会運動との無用な衝突を防ぐようになったことが原因といえる(何・蕭、
2006:137)。また、公害糾紛処理法(1992 年)、野生動物保育法(1994 年)、環境アセスメント
法(1994 年)の制定など、環境問題解決のための様々な法整備もこの穏健化を後押しした。
年
1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999
負傷者数
439
50
101
33
46
50
27
14
0
0
9
4
室外集会お
よびデモの
454
715
403
497
709
519 1453 1055
606
326
911
283
案件数負傷
者数
表 1―2 台北市集会デモ負傷者と案件数(1988―1999 年)
出典:(何・蕭、2006:137)
第二に、社会運動は主に民進党の立法委員の議員秘書(中国語で「助理」と呼ばれる)への
活動家の就任、政府内委員会、環境アセスメントなど制度政治への参入を通じて政策過程
に参与するようになった。例えば、環境運動団体は 1994 年の環境アセスメント法の立法過
程で評価の厳格化を要求し、それに成功しただけでなく、実際にこの環境アセスメントの
過程に参入して開発計画の阻止を図った。新竹市政府と台湾省政府は 1992 年に、新竹サイ
エンスパーク(新竹科学園区)の用地不足を補うために丘陵地を削って隣接する湿地を埋め
立てる香山工業区の建設計画を発表した。しかし野鳥保護協会をはじめ、大学関係者、漁
協やグリーンピースなどの NGO 連合が、制度化されたばかりの環境アセスメントを要求し、
アセスメント委員に専門家として参入することで、政治家による政治的解決ではなく、制
度的に計画を阻止した20(Tang, 2003)。
これにともない、社会運動と民進党との関係は再び変化し始めた。1992 年の立法院全面
運動がこのような変化の可能性がある時代におこったことをふまえつつ、実際のデータを検証し
ていきたい。
20 このような専門知識をいかした運動戦略は、新竹に大規模な名門大学やサイエンスパークが
あることと無縁ではない。すなわち、サイエンスパークは米国のシリコンバレーをまねて国策の
中で作られた、高学歴かつ流動的エリートが多く集住するコミュニティであり、この性格が社会
運動の戦略を規定している(河口、2008)。この新竹のように、大学やサイエンスパーク関係者な
ど高学歴エリートが担い手となる都市コミュニティの社会運動はこの後も続く。
48
改選では民進党が得票率 33.1%で新議会の議席の三分の一を占める躍進を見せ、制度政治
への本格参入の第一歩を踏んだ。もともと、民進党の前身は「党外」であったことから分
かるように、党内の主張は「反国民党」という一点を除いては非常に多様であった。例え
ば新潮流派のように環境保護を熱心に主張する派閥もある一方、民進党の支持母体の多く
を占める、台湾の経済成長を支えた本省人の中小企業経営層に訴える経済政策を主張する
党員もいた(Rigger, 2001:40-41, 109-112)。鎮圧を克服し、制度政治の中で居場所を模索す
る民進党は、中小企業の経営者層を取り込むために労働運動や環境運動の主張から離れた
り、急進的な台湾独立の主張をトーンダウンしたりして、社会運動以外の資源を模索する
ようになっていった。社会運動も、前述の制度政治への参入ルートを模索する中で、民進
党との結びつきは相対化されていった。
しかし逆に、この時期に新たに民進党と結びつく社会運動もあった。例えば、1994 年に
女性運動は台北市政への参入ルートを切り開いた。その担い手となったのが、同年 2 月に
成立した台北市婦女権益促進会である。同会はそれまでの外省人中心の超党派女性運動団
体と異なり、本省人女性で民進党を支持政党とする活動家が多く参加し、1994 年の台北市
長選挙でも積極的に民進党候補の陳水扁を支持して市政府の委員会入りを果たした(Fan,
2000:147-153)。従来の女性運動が消滅したわけではなく、政党と提携する運動も並立して
出現したという意味では、女性運動は新たな政治機会構造の変化に伴い、その運動レパー
トリーを変えたというよりは多様化させたといえる。
1990 年代中期になると、台湾文化の実体化政策である「社区総体営造」の実施によって、
地域社会に一つの変化の契機がもたらされた。同政策の策定過程など詳細については後述
するが、まずは本章で述べた淡水と林辺の動向を中心に簡単に整理して、次章で述べる美
濃との比較の素地を作りたい。
まず淡水の滬尾文史工作室は 1990 年 3 月に正式に設立登記すると、淡水ガイドツアー、
ガイド養成講座など次々と地域の歴史を広める事業を打ち出し、人気を呼んだ。しかし、
台北からの観光客が押し寄せると、同工作室のメンバーであった長老教会の牧師蘇文魁は
「地域の歴史とは日常生活に息づくものであって、ノスタルジーの消費ではない」として、
同工作室から 1994 年に分裂して淡水郷土研究会を立ち上げた。蘇は学校予算を用いて郷土
教育の教材編集などに従事するようになり、1998 年には社会改革を訴えて鎮民代表に無所
属で立候補するが、地方派系の支配する政界の中で落選する。このように、滬尾文史工作
室を発端に、さまざまな団体が分岐派生していった。
その派生団体の一つに、淡水文教基金会がある。同基金会はこのコミュニティ運動の機
運を受けて、1993 年に陳俊哲鎮長の主導の下、鎮の予算を用いて設立し、芸術家を事務局
長に招聘して『黄金淡水』という月刊誌で専門家並のレベルで淡水の歴史を紹介した。陳
は国民党の地方派系出身ながらも、アメリカで修士号を取得し、コミュニティ運動に理解
を示す開明派で、1990 年に高得票で鎮長に就任すると、
「音楽と芸術こそが地方派系の境界
を越える鍵だ」
とコミュニティ運動を積極的に支援した。
その成果は 1992 年に陳が建てた、
49
地方文化情報センターなどを擁する 5 階建ての文化センターなどに現れた。このように、
淡水鎮公所は住民が手弁当で行ってきた文化や歴史の発掘を行政の社区総体営造アジェン
ダとして引き受けていき、
『黄金淡水』上で淡水の政策批判も許すなど、民間に自由に経営
させた。
しかし、陳俊哲は自らの地方派系という背景から逃れられなかった。陳は 1994 年に敵対
する地方派系の李派を破って鎮長に再選すると、鎮民代表大会(日本の町村議会に相当)で多
数を占める李派はこれに激怒し、文化センター内の演劇センターの予算削除を決議した。
陳は自前で演劇センターの予算調達を図るべく、淡水の地上げで財を成した不動産業者に
寄付を要請したが、これによって陳は皮肉にも収賄罪で起訴され、1996 年に鎮長職を追わ
れた(Lu, 2002)。担い手自身が地方派系の実績を示すためではなく、
「公益」のために音楽
と芸術によるコミュニティ運動を試みても、敵対する李派からみればそれは敵が行うこと
である以上阻害すべきものであり、このような論理が存在する中で陳俊哲は結局地方派系
の境界を越えられなかったといえる。
次に屏東県林辺においてはどうか。民進党の地元政治家曹啓鴻をリーダーとする林辺民
主促進会は 1989 年に民進党の後援組織として出発しており、超党派のコミュニティ運動を
行うには民進党の党派色が強すぎた。そこで、同じ時期にやはり曹啓鴻が政党色を出さず
に公益を強調し、屏東県全体で環境教育を進めるために設立した「藍色東港溪保育協会」
の支援のもと、民主促進会と人的な重なりを見せながらも、より超党派のコミュニティ運
動を推進すべく、地元の医師が理事長を務める林辺文史工作室が 1998 年に設立された。同
工作室は政治色を極力排除し、一方で予算不足という事情もあって清掃ボランティア活動
によって地道に住民の信頼獲得をめざした。
おりしも 1999 年、台湾省政府水利処第七河川局が日本統治期に作られた堤防のコンクリ
ート補修計画を発表した。しかし当時立法委員の曹啓鴻を通してこのことを知った文史工
作室は、この堤防を文化遺産として、曹も巻き込んで補修に反対した。1997 年に曹啓鴻が
県内の古い堤防を保全した実績を買った第七河川局は、2 年を限度に現状維持を決定し、経
過を観察することにした。そこで文史工作室は社区総体営造の予算を申請して堤防の緑化
保護を始めたが、林辺を名産地として有名にした蓮霧(ワックスアップル)を栽培する農民た
ちが、この堤防の土壌や植物に自分の「自慢の」農作物栽培の技術を競って反映させ、農
家の積極的な参与のもと、堤防の緑化保護は大成功を収めた。
しかし、文史工作室はこのように成功を収めても、極力団体名を出さないようにした。
それは、
「団体のお手柄のためにやっている」という住民の疑いを晴らし、派閥を越えた「公
益」のための事業であることを強調するためだった。選挙の際には参加住民の対立が再び
顕在化するが、地道で名誉や面子を強調しない社区総体営造は、地域社会の中に一定の認
知を得て、住民間の超党派の信頼空間を作り出した。このように、政治的色彩を持った地
元住民であっても、団体の名前を出さないようにしたり、地道な活動を続けたりして社区
総体営造の助成金を運用し、
「公益」を追求すれば、地域社会において政治対立をこえた内
50
発的発展型のコミュニティ運動は可能性があることを林辺の例は示したのである。
淡水と林辺のコミュニティ運動は、成否の差こそあれ、1980 年代に民進党の後援組織と
して成立し、抗議や囲い込みなどの自力救済以来の運動レパートリーではなく、中央ある
いは地方政府からの助成金を獲得して、地域文化の調査や美化運動など台湾文化実体化政
策の一端を担いながら、開発反対などの対抗言説を生産し、啓発をめざす運動レパートリ
ーへと変貌していった点で共通している。これはコミュニティ運動の制度化を意味したが、
地域社会の政治対立は激しく、淡水のように地方派系と強く結びついた社会運動は、対立
する派閥に阻害されて挫折するものもあった。
以上、1993 年から 1999 年までの社会運動の動向をまとめると、民主化の進展にともな
い、社会運動は民進党の立法委員秘書、政府内委員会、環境アセスメントなど新たな制度
を捉えて制度内化を遂げた。台湾という地域固有の文脈からいえば、さらに二つのことが
いえる。一つは、社会運動の制度内化によって、社会運動と民進党とのつながりが相対化
され、民進党とつながり続ける社会運動もある一方で、距離を置き始める社会運動も出て
きた。もう一つは、社会運動の制度化の一環として、李登輝率いる国民党政権が社区総体
営造という台湾文化の実体化政策を実行したことで、穏健な台湾ナショナリズムにもとづ
いて、地域社会の文化や歴史を「発掘」して政府予算で対抗言説を生産するコミュニティ
運動が誕生した。これによって、必ずしも民進党と表面上は密接につながらずに、助成金
という安定した資金も得て、地域社会の文化や歴史を実体化させながらコミュニティ運動
を展開することが可能になった。
6 小結
本章では戦後台湾の社会運動と民主化の歴史を 1999 年まで概観した。台湾の社会運動は、
民主化と密接して発展してきたが、80 年代には中間層の誕生など社会変化にともない、女
性運動や消費者運動など、西欧では「新しい社会運動」と呼ばれるような社会運動が台頭
してきて、これらの運動のなかには 超党派の立場をとるものも現れた。逆に、同じく「新
しい社会運動」と呼ばれる環境運動の中には民進党、特に新潮流派と結びつくものもあっ
た。これらの社会運動は戒厳令解除後、さまざまな課題や鎮圧を切り抜けながらも、国民
党政権の民主化および本土化路線が本格化する 1990 年代半ば以降は、新たな制度を捉えて
制度内化および多様化を遂げた。
次章に移る前に、最後に述べた地域社会のコミュニティ運動と、次章以降で述べる美濃
の比較の土台について述べておきたい。林辺と淡水のコミュニティ運動は、台湾の中では
比較的早期に始まった例で、ともに民進党の後援組織から始まっている。これに対し、本
論文で検討するコミュニティ団体「美濃愛郷協進会」は 1992 年にその前身を成立させ、1994
年に正式登記にいたるという経緯をたどった、やや後発の運動団体であり、民進党の後援
組織から発生しているわけではない。このような団体の性格は、運動のレパートリーに大
51
きく影響している。次章では、美濃の地域社会のあゆみを概観してから、本章で述べた社
会運動の同時代の台湾全体のネットワークや、淡水と林辺の例を念頭に置きつつ、1990 年
代を席巻したダム建設反対運動を分析していきたい。
52
第2章
美濃鎮という「環境」 ―戦後台湾地域政治の磁場と地域社会―
1
美濃のローカルレジーム
2
美濃のローカルレジームの変遷
3 「エスニックの箱庭」の素地と伝統農村社会の変容
4
「内向きの視線」 -「団結」の表象と内向型外部資源導入レジーム―
5
小結 ―普遍的台湾農村としての美濃と、特殊エスニックコミュニティとしての美濃
図2―1 台湾における美濃の地理的位置(出典)(温、2008:15)
53
図2―2 美濃鎮内の地図
出典:(温、2008:38)
54
前章では、美濃ダム建設反対運動や、コミュニティ調査など各種のコミュニティ運動が
生まれる環境として、台湾全体を囲繞する民主化と社会変化、および社会運動の歴史を概
観した。本章では視点をもうすこしミクロな地域社会におく。序章で、日本の地域社会学
では地域社会を多方面から総合的に分析して全体像を浮かび上がらせようとする「構造分
析」という方法があったことを述べたが、本章でも地域社会を総合的に分析し、次章以降
で述べる美濃ダム建設反対運動やコミュニティ運動が生まれる背景となる「環境」(序章参
照)を検討する。本章の構成はまず1でローカルレジームの構成要素を提示してから、2で
そのローカルレジームの変遷を示す。次いで3で美濃の主要産業である農業政策の変遷と
伝統社会の変容を分析してから、4でその社会変化がローカルレジームの変化に及ぼす影
響を分析する。これらの分析を通して、美濃のローカルな「環境」が社会運動の発生と展
開にどのように作用したのかを考察する素地としたい。
高雄県美濃鎮は、図2―1のとおり、台湾南部に位置する人口約 45,000 人、面積約 120
平方キロメートルの農村で、その住民の 9 割近くが客家である。客家コミュニティとして
の美濃の淵源は、1736 年に林豊山、林桂山兄弟が美濃の山下地区に移住し、開基伯公とい
う土地神をまつる廟(土地公)を建立したことに始まる。以来、美濃は図2―2のとおり 3 方
を山に囲まれ、1 方を川(荖濃溪)に囲まれる閉鎖的な地形や、日本統治期に導入された葉タ
バコ栽培なども手伝って、まとまりのある一つの社会を形成してきた。まずは、地域政治
を分析する手法について若干の整理を行ってから、美濃の地域社会の発展を見ていこう。
1 美濃のローカルレジーム
序章で、地域政治とは地域社会の中に存在する様々なレベルの政治の総称であり、美濃
鎮のコミュニティ運動が発生および展開する「環境」
、なかでも伝統社会とローカルレジー
ムに本論文では注目すると述べた。そこで本節では、政治エリートがいかなるゲームの規
則に乗っていたかというローカルレジームという概念を援用しながら、戦後の美濃鎮の権
力構造、すなわち何をめぐる政治に誰がどのように参加していたのかを検討する。そして
この「環境」の中から、どのように後述するダム建設反対運動やそれに続く社会運動が立
ち現れたのか、さらにいえばダム建設反対運動がローカルレジームにいかなる不満を持ち
ながら出現したのかを明らかにする。
ローカルレジームの概念を美濃に具体的にあてはめる前に、アメリカで生まれたこの概
念を台湾の地域社会、とりわけ伝統社会に適用するには若干の注意が必要である。第一に、
田原(2004:40)が中国農村研究で指摘するとおり、工業分化の進んでいない農村では、ビジ
ネスエリートのような存在を見出すことは難しい。もともとストーンの研究は、地方政府
の能力が弱く、地元の白人ビジネスエリートを交えた非公式の取り決めが市政に大きな意
味を持つアメリカの文脈を反映している。しかし、工業分化が進んでいないことは、地域
政治のアクターの分化が単純であることを必ずしも意味しない。鎮公所の他にも、体制内
55
に位置する地域社会の半民間エリート21や、県、省、中央など各レベルの議員などの政治ア
クターが美濃鎮という地域社会の中で異なる資源や権力を持ちながら、地域政治に関わっ
ている。
第二に、ストーンが研究対象とするアメリカの地方都市は、市の政治イシューやアクタ
ーが連邦政府や州政府などの上位政府に対して、一定の自律性を持つ。しかし、台湾の地
域社会では、地方派系という一定の自律性を持ちながらも中央政府による地域社会に対す
る強い統制装置として働く存在があったため、地域社会はアメリカと比べるとアクターも
イシューも上位政府に対する自律性は低く、そのぶん上位政府とのつながりが重要な意味
を持つ。したがって、台湾の地域社会の政治アクターは農会や水利会など地域の政治アク
ターが存在するものの、アトランタのようにコミュニティの教会や地元ビジネスリーダー
など地域の中で体制の外に向かう「横」のアクターの多層性よりは、県、中央レベルとい
う上位政府に向かう「縦」の多層性が重要性をもつ。また、次章で詳述するが、地域政治
のイシューも上位政府からの強いコントロール下にある。これらの 2 点に注意しながら、
美濃鎮におけるローカルレジームを明らかにしていこう。
次に、ローカルレジームの具体的な構成要素を検討する。ストーンによれば、ローカ
ルレジームの構成要素は、
(1)地方政府の能力、
(2)地方政府の行為者、そして(3)
行為者を統一して行動させる関係性である(Stone, 1989:179)。
本節ではこの三点について、
美濃のローカルレジームを描き出し、美濃という地域政治の場にグレーゾーンなき日常的
対抗関係が形成されたことを明らかにする。
中華民国
台湾省
県
福建省
台北市・高雄市*
省直轄市
郷鎮
*台北市は 1967 年に省轄市から行政院直轄市に昇格、高雄市は 1979 年に同じく昇格
図 2―3
台湾の行政区分(1999 年の省政府凍結前)
21
出典:筆者作成
農会、水利会(日本の土地改良区に相当)、青果合作社(青果の輸出を独占管轄していた団体)、
菸葉改進社(日本のたばこ耕作組合に相当)は民間団体であるが、体制内に属し、鎮公所との人的
往来も頻繁であることから、ここでは「半」民間エリートと呼んでおく。
56
まず、第一の地方政府の能力とは、具体的には政策を遂行していくときの正統性と資源
動員力である。ここでは台湾全体の行政単位の構造を示してから、具体的に美濃鎮公所と
里弁公室の能力についてみていきたい。台湾の行政単位は、図 2‐3 のとおり、中華民国が
全中国を統治しているという建前のもと、行政院、すなわち中央政府の直轄市22を除くと中
央―省(台湾省、金門島および馬祖島は福建省)―県―郷鎮市という等級に分かれる。1999
年の台湾省凍結以降は、中央―県―郷鎮市という 3 層の政府から成り、省直轄市が行政院
直轄市に昇格した。
美濃鎮は、2009 年の鎮決算が約 2 億 5332 万元と高雄県内 27 郷鎮市のうち第 9 位の額で
ある(『高雄県統計要覧』2009 年度、6-10 および 6-11)。これは高雄県内陸部の 9 郷鎮の中
で最も多く、内陸部の中心地である旗山鎮をわずかに上回っている。美濃鎮は高雄県内陸
部で旗山鎮に次ぐ第二の鎮であるということができる。以下は美濃鎮公所 2009 年度の支出
と歳入の決算である。1990 年代は税収不足や旧鎮公所が売却できないなどから 1 億 6000
万元以上の負債を抱えていたが、羅建徳鎮長時代(2003-2010)に、鎮公所が中央政府に申請
するプロジェクト補助金(助成金)や節約対策などにより、ついに債務利息のない状態になっ
た。歳入をみると、この補助金が税収入に次ぐ重要な収入源であることがわかる。
2009年
政権行使
度美濃鎮
總計
行政支出 民政支出 財務支出 教育支出 文化支出 農業支出
支出
支出(単
位:千元)
決算
253326
16825
46937
23543
2913
46
6010
5076
2009年
福利サー 国民就業 医療保健 社区発展 環境保護 退職撫恤 債務利息 第二予備
度美濃鎮
ビス支出 支出
支出
支出
支出
金支出 支出
金
支出
決算
8934
0
0
647
38078
20363
0
0
表 2‐1 美濃鎮公所 2009 年度支出内訳(単位:千元) 出典:2009 年『高雄県統計要覧』6
-11
2009年度
鎮営施設
罰金およ
工程受益
信託管理
美濃鎮歳
の営業利
總計
稅課收入
財産収入
び賠償収 規費収入
費収入
収入
入(単位:
益及び事
入
千元)
業収入
決算
254040 165011
0
343
14223
0
3126
0
寄付およ
補助金収
その他収 国庫から 前年度繰
び贈与収
入
入
の借入 越金
入
63742
1603
5992
0
0
表 2‐2 美濃鎮公所 2009 年度支出内訳(単位:千元) 出典:2009 年『高雄県統計要覧』6
-10
(出典:『高雄県統計要覧』2009 年度、6-10、6-11)
では、鎮公所の構成とその能力はいかなるものか。鎮公所は公所内の各課と 4 年ごとに
22
基隆市、台北市、新竹市、台中市、嘉義市、台南市、高雄市の 7 市。
57
改選される鎮長、鎮民代表大会(日本でいう市町村議会に相当)から構成され、住民による選
挙で 3 地区から選ばれた鎮民代表(日本の市町村議員に相当)11 名が鎮予算の承認や各種の
決議を行う(2006 年選挙現在)。鎮公所を構成する各課は、開発計画の策定能力を持たず、
中央政府や県政府の政策の出先執行機関の性格 (Bain, 1993:162) や、市民社会が行うこと
に対する「お墨付き」を与えるという公権力の保証印的な性格が強い。また、スタッフも
そのような開発計画の執行経験や能力を持たない。
次に、鎮民代表は視察旅行や保険加入など各種の特権を享受できるため、選挙では多額
の費用をかけて熾烈な選挙戦が展開されるが、鎮民代表大会の活動範囲自体は上位政府の
政策を執行するための活動に限られており、鎮民代表が鎮の政策を独自に執行することは
難しい(Bain, 1993:161-2)。そのため、美濃鎮の鎮民代表は選挙戦で鎮民の大多数を占める
農民の利害を訴えても、鎮民代表に鎮の農業政策を決める権利はないため、実質上それは
選挙戦の争点とはならず、また選挙戦での費用面から一般農民が鎮民代表に当選すること
は難しい。
しかし、選挙で選ばれる鎮長は鎮内に広くネットワークを持ち、鎮長の政治能力はその
政策の執行能力を決めるため、美濃鎮の開発のスピードは鎮長の能力によって大きく左右
される。美濃のコミュニティ紙『美濃週刊』は、1977 年の鎮長選挙に際し、よい鎮長の条
件は「若く雄弁で、コネクションを多く持ち、県政府の官僚と渡りあうことができ、地方
派系に左右されず、そして学歴の高いことである」と述べている(1977 年 9 月 14 日付)。こ
の当時は農業の斜陽化で美濃鎮の財政が逼迫する中、美濃鎮立図書館の建設が教育環境の
充実を願う美濃鎮民の悲願となっており、県政府からその予算を取ってこられる鎮長こそ
がよい鎮長というわけである。ここから分かるように、鎮長は開発の方向性を決める策定
能力を鎮民に求められているわけではなく、また、実際に鎮長にはその権限もない。鎮長
にあるのは予算を上位政府からもぎとる力や、開発のスピードや執行を決める権限であっ
て、鎮長は鎮民に開発の方向性決定ではなく、上から与えられたアジェンダの実行能力を
こそ期待されているのである23。
郷鎮市の下にはさらに、
「里」(郷の場合は「村」)と呼ばれる行政区が存在し、4 年ごとに
住民の選挙で選出される里長と、その里長を長とする里長弁公室(弁公室は日本語で事務所
の意味)、および里住民で構成される議決機関の里民大会が存在する。里長は名誉職的な色
彩が強く、給料も小額なので、通常は農業や自営業など、本職と掛け持ちしながら務める
場合が多い。美濃には 19 の里が存在する。
次に、最も末端の政治単位といえる里長弁公室の能力はどうか。里の議決機関は里の住
民によって構成される里民大会である。しかし里民大会には鎮民代表は参加しないうえに、
里民大会は住民の不満を上位政府に伝えるメカニズムを持たなかった(Bain, 1993:160)。例
えば、ある住民は「里民大会で住民が不満を言っても、それがお上に聞き入れられること
23
このような期待にこたえるべく、鎮長の施政方針の発表は「全力で県政府や省政府から予算
をとってくる」といった内容のものになっている(『月光山雑誌』1990 年 3 月 19 日)。
58
はない。里民大会は参加するだけ時間の無駄である」(『月光山雑誌』1985 年 9 月 29 日)
と嘆いている。その結果、里民大会への住民の参加率は低迷したが、1976 年に県政府が住
民の里民大会参加率をあげるため、住民参加率が 6 割をこえた里民大会に地域の建設事業
に補助金を出す政策を始めると、美濃鎮の里民大会は参加率が格段に向上し、県内でもっ
とも参加率のよい里民大会の一つとなった。これは、県政府が補助金を出しても参加率の
上がらない県内の都市部の里民大会と異なり、美濃鎮のような農村部にとって、地域の建
設事業や里民大会で配られる生活必需品や記念品などが住民の生活や経済発展にとって相
対的に重要な意味を持つことを示している(Bain, 1993:160)。言い換えれば、里民大会は住
民の意見を上位政府に吸い上げる機能が欠落したまま、住民が参加の際におみやげなど「小
さな機会」24を受け取る、形骸化した住民議決機関となった(同前:161)のである。この里
民大会の機能不全は、後に中央レベルの地元政治家が中央政府の資源導入を依頼される原
因の一つとなる。
第二の地方政府の行為者とは、
「統治連合」のメンバーとして、直接に権力を行使する地
方政府の「統治者」
、すなわち町長、行政管理職、議員などの公職者と、政府に所属する一
員ではないが政府に影響力を行使する人々たる「有力者」(ローカルエリート)である。スト
ーンで想定されているのは、市役所のほかに白人ビジネスエリートや、再開発で立ち退き
を要求された白人の住民運動、そして黒人のビジネスリーダーや教会、学校などコミュニ
ティリーダーである。では、美濃鎮の地方政府の行為者にはどのような人たちがいるのか。
大きく分けて、鎮公所など郷鎮レベルのアリーナで動く地方政治アクターと、中央政界に
立法委員などの役職を持ちながら票田たる地元に影響力を及ぼす中央レベルの政治家がい
る。まずは前者から見ると、鎮長をトップとする鎮公所のほか、融資部門である信用部を
持つ農会のほか、水利会、菸葉改進社などの幹部は政府の許認可の下での地域的独占経済
活動を認められた団体の幹部であり、これらの職位やそれが管理できる資源は、国民党が
地方派系を篭絡するためのレントシーキングの温床となった(陳、1995=1998:114)。これら
の地域政治アクターは戒厳令下で中央政界への進出はできず、中央政府の承認を受けた地
域社会内のレントを激しく争っていた。
では、これらの地域政治アクターはどのような性格を持つのか。まず、美濃鎮単位で選
挙を行う農会からみていく。農会は県全体の組織もあるが、施策、予算、人事などは郷鎮
市単位で運営されており、美濃鎮にも美濃鎮農会が存在する。農会の主な人事は会員の代
表である農会代表(現在 45 名)、理事(9 名、含理事長)、監事(3 名)、常務幹事(1 名)、総幹事
(1 名)で、4 年ごとに選挙が行われる。その選挙は三段階に分かれ、まず第一に農会会員が
農会代表を選出し、第二に農会代表が理事と監事を選出し、第三に理事および監事の中か
小さな機会(small opportunities)とは、ちょっとした便益・機会のことであり、レジームに参
加する諸主体(特にレジームの周縁部にいる主体)が得られる利益のことである。アトランタの例
でいえば、白人ビジネスエリートが主導し、白人市役所エリートがそれを追認する都市再開発が、
黒人起業家たちに再開発事業の優先的参入権などこの「小さな機会」を提供し、黒人の市政への
支持につながったとされている(Stone, 1989:chap.7)。
24
59
ら常務監事と理事長を選出する。理事は総幹事を招聘し、このうち理事長、総幹事、常務
監事が農会内の三大アクターである。これらの選挙には数千万単位の資金がつぎ込まれる
など、買票行為が日常化している。また、この理事や監事は鎮民代表や鎮長、さらにその
先の県議員、省議員(1998 年まで)へのキャリアステップとしても重要な役割を持っている。
農会の歴代理事長は次の通りである。
理事長名 就任年 地方派系
旧制1 邱義生
1919 N/A
旧制2 林恩貴
1944 N/A
旧制3 林恩貴
1946 N/A
1 傅森明
1949 N/A
2 鍾貴栄
1953 紅派
3 鍾貴栄
1956 紅派
4 鍾貴栄
1960 紅派
5 黄辛富
1962 白派
6 張騰芳
1966 白派
7 林宜石
1970 紅派
鍾鳳祥
1970 白派
張栄昌
1970 白派
8 張宝昌
1975 白派
9 傅伝雲
1981 白派
10 傅伝雲
1985 白派
11 呉連火
1989 白派
12 鍾炳珍
1993 紅派
13 林增昌
1997 白派
14 朱信強
2001 N/A
15 朱信強
2005 N/A
林華昌
2007 N/A
16 林華玉
2009 N/A
表 2‐3 歴代美濃鎮農会理事長
出典:(美濃鎮誌編纂委員会、1997:378-380)に筆者が加筆
続いて、鎮公所はどうか。詳細は地方政府の能力で述べたので、ここでは鎮民代表につ
いてのみ述べておく。鎮民代表は 2010 年現在の議席が 9 席で、4 年に一度改選される25。
鎮民代表は美濃鎮の各地区から選出される。これらの鎮民代表も、農会理事同様、鎮長、
農会幹部、さらに県議員や省議員にいたる政治家のキャリアパスの一歩となる。美濃では
伝統的に、農会と鎮民代表および鎮長は白派が優位であったため、鍾新財、鍾紹恢や羅建
徳はじめ多くの鎮長が鎮民代表や農会理事を歴任してきた。
詳しくは後述するが、次に地元出身の中央レベルの政治家は、中央政府から地元への資
源導入を通じて、市民社会や鎮公所に強い影響力を持っている。この政治家は地元美濃に
強い集票ネットワークを持つほか、高雄県鳳山市や高雄市など、近接する大都市に住む美
濃人を動員する方法として同郷会を利用する。同郷会は緊密な血縁ネットワークを残す美
2010 年 12 月 25 日に高雄県の高雄市への合併にともない、鎮民代表は鎮公所ともども消滅す
る。
25
60
濃の「内向きの視線」26を強く反映し、鎮内への寄付などを通して鎮外に出た美濃人が引き
続き美濃鎮内に影響力を持つ手段となっていた。この内向きの視線とは、元は中国農村社
会学の中でコミュニティの記憶を強く持つ村の村民に、村を離れた後も引き続き村に関心
を持ったり、鎮外における自らの成功を鎮内で誇示しようとする傾向を指すものだが、本
論文では、鎮外に住む美濃鎮出身者あるいはその親戚が、引き続き同鎮に関心を持ち続け
ること、例えば美濃の『月光山雑誌』を購読したり、美濃産の米を買ったり、あるいは自
らの鎮外での成功を鎮内にフィードバックしようとする傾向を指す。鳳山市に住む美濃人
が選挙当日に時間をとって帰郷し、美濃出身の立法委員に投票したり、台北などで成功し
た美濃出身の企業家、例えば邱森曙や張吉安がそれぞれ大学および大学院の奨学金、囲碁
のための奨学金を美濃出身者子女に出しているのも、その例である。この内向きの視線は
立法委員など中央レベルの選挙票の動員に大きな役割を果たし、ここに中央レベルの地元
出身政治家が一部住民や鎮公所の陳情に応じて、中央のより大きな資源や利益を直接地元
に引き入れ、かわりに選挙票を獲得するという互恵関係が成立した。このように、地方政
府の行為者には地方基層レベルの政治アクターと、中央レベルの地元出身政治家という政
治アクターが存在し、地域社会において政治エリートの二重性ともいうべき構造を作って
いる27。民主化後、台湾の多くの地域では地方派系が立法委員や国民大会の選挙など新たな
政治機会を通じて、中央政界に進出した(陳、1995=1998:249)。
そして第三の関係性とは、レジームを支配するゲームのルールである。これは、伝統社会
の名望家レジーム、序章で述べた地方派系に代表される地域政治アクターと国民党中央と
のパトロン―クライアント関係、内向的外部資源導入型レジームなどがあてはまる。これ
らについては次節以降で述べていく。
2
美濃のローカルレジームの変遷
前節では、レジームの構成要素を述べた。本節ではこれをふまえて、そのレジームが社
同郷会の存在や選挙の団結力を賀雪峰(2003a:8-11; 2003b:7-12)は「村の外に暮らす村民も人
生の価値を村の中におく」内向きの視線と名づけ、華南の農村を例に、コミュニティの記憶や歴
史を強く持つ村では、村民の集合行為が発生しやすい潜在的条件があると論じている。美濃鎮の
「コミュニティの記憶」を実体的に形成したのは、Cohen(1976)や Pasternak(1983)など、後述
する米国の人類学者の研究成果であった。
27 この政治エリートの二重性は、前述した地方派系の名残でもあるが、美濃が鎮全体の票を総
集結すれば、立法委員を出せるに足る有権者数とその動員力が鎮内に存在するという「鎮のサイ
ズ」にも起因することに注目しておきたい。その意味では、このような政治エリート構造を持つ
台湾地域社会は、中山間地域や地方都市ではなく、その中間サイズの鎮レベルの自治体に限定さ
れる。また、同郷会など鎮内外の緊密な血縁ネットワーク、すなわち「内向きの視線」を持つコ
ミュニティは必ずしも台湾に普遍的でなく、これらは美濃の特殊性ともいえる。しかし、その地
元出身か否かは別として、どのコミュニティにもそこを票田とする立法委員は存在するし、地方
派系は大小の差こそあれ、台湾に普遍的に存在する。その点では、立法委員の「地元出身」を保
留すれば、このような政治エリートの二重構造は台湾の地域社会に普遍的であるといえる。
26
61
会や政治の変化に伴って変遷し、またレジームが社会を変えていく様子を、鎮長の変遷を
中心に考察する。
レジームを支配する関係性については、鎮誌(美濃鎮誌編纂委員会、1997: 291,342-343)
にもとづいて、鎮長を中心に時系列を追って見ていきたい。まず、日本統治期の美濃街長
は、初代の邱義生が 1918 年に就任して後、美濃最古の集落である柚子林地区出身で葉タバ
コ栽培で財をなし、10 棟のタバコ部屋を持ったといわれる名望家林家が 2 代にわたって就
任した。この 3 人の街長はいずれも「美濃庄」と呼ばれる美濃の中心地の出身地であり、
美濃街長=美濃庄出身者という構図ができていた。しかし、戦後は 1951 年、美濃で二番目
に早く開拓された龍肚地区の名望家の出身で、日本留学経験もある鍾啓元が史上最年少の
31 歳で当選し、1956 年まで 2 期 5 年間鎮長を務めた。このとき美濃庄住民は「ヨソモノ」
の鎮長に反発したが、まだ地方派系はなく、選挙活動はさながら廟の祭りのようであった。
このように、美濃鎮長(庄長)は戦後から 1956 年まで、名望家の読書人が鎮長をつとめると
いう名望家レジームであり、地方派系によって地域社会の統制を図った国民党政権から一
定の自律性をもっていた。
しかし、美濃鎮の鎮長選挙は、地方派系の派閥争いにもとづいて選ばれる地方派系レジ
ームへと移行した(同前、1997:352-385)。1956 年の第三期鎮長選挙の際は、国民党の指名
を受けた紅派の劉義興が他の候補者の出馬をおさえ、単独高票当選を果たした。このころ
から、徐々に鎮長選挙に国民党の介入が見られるようになる。そして、1960 年の第四期鎮
長選挙では、より派閥色の強い陳栄昌が当選を果たした。また、この時期は、鎮内の交通
網の発達により、各地区意識は薄れていき、鎮長の出身地区や出身家族の名望より、鎮長
の経済力やそれが調達できる資源が問題とされるようになっていった(同前、1997:352-385)。
地方派系レジーム下では、政治エリートは、家柄よりは地方派系というシステム上の地位
に乗って導入できる経済力によって決まるのである。そして、美濃鎮は地方派系という県
内のシステムに埋め込まれ、エリートは分裂的(disruptive)になるとともに、鎮内政治に対
して外部からの介入を容易にすることになる。
具体的な対立状況をみると、高雄県の地方選挙では戦後以来、国民党系の紅派と白派、
紅白の隙間をついて発生した非国民党系の黒派という 3 つの地方派系が対立した。美濃鎮
では、主に紅派と白派が争い、1950 年代は農会および水利会が紅派、鎮公所が紅派の劉義
興(任期 1956-1960 年)を除いては白派の支配下となっていた。このような派閥の分布は、県
単位で派閥を操作した結果であった(美濃鎮誌編纂委員会、1997:394;卓、2005:85-86)。例
えば、紅派の領袖洪栄華以降、2010 年の黒派の李清福を除いて歴代の水利会会長は皆紅派
であり、以下のように変遷している。
62
代数
選挙年
1956
1959
1963
1966
1970
1982
1986
1990
隣選1代
1994
隣選2代
1998
直接選挙1代
2002
直接選挙2代
2006
直接選挙3代
2010
1
2
3
4
5
6
7
8
会長名
洪榮華
洪榮華
黃銅樹
黃銅樹
郭水安
郭水安
郭水安
盧榮祥
盧榮祥
盧榮祥
盧榮祥
盧榮祥
李清福
表 2-4 歴代高雄県農田水利会会長 出典:(卓:2005:85)に筆者が加筆
そのなかで美濃鎮は高雄県内の農地の 5 分の 1 を占める農業地区であるため、影響力を
発揮するに足る水利会代表の議席数を持っていた。(現在、県内 22 議席中 5 議席)しかし、
水利会代表は県レベルで国民党による派閥操作を受けており、後述するように美濃鎮民の
嘆きの種となった。
一方、美濃鎮農会はそれらの派閥操作から多少の変化をとげる。すなわち、1960 年の農
会総幹事選挙で白派の鍾啓元が当選してからは、農会も白派が支配するようになった。1962
年には農会理事長にも白派の黄辛富が当選し、農会の白派優位は決定的となった(黄森松、
1993:214)。紅派の劉義興は 1956 年の鎮長当選以降、3 期 10 年にわたって水利会代表も務
めたことから分かるように、水利会は引き続き紅派の支配下におかれる(美濃鎮誌編纂委員
会、1997:395)。かくして、鎮内の政治エリートは機関ごとに優位な派閥を作り、またその
政治エリートが鎮民代表や鎮公所、農会、水利会などの鎮レベルの各ポストを流動的に移
動することで、地方派系による分裂的なレジームが続いた。鎮長の変遷は以下のとおりで
ある。
代数
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
14
15
鎮長名
鍾啟元
鍾啟元
劉義興
陳榮昌
陳榮昌
鍾德福
鍾德福
温彩光
温彩光
鍾徳珍
鍾新財
鍾新財
鍾紹恢
鍾紹恢
羅建德
羅建德
選挙年
1951
1953
1956
1960
1964
1968
1973
1978
1982
1986
1990
1984
1998
2002
2003
2005
地方派系 備考
白派
白派
紅派
白派
白派
白派
白派
白派
白派
白派
白派
白派
白派
白派
N/A*
鍾紹恢の収賄罪による逮捕で、2003年11月1日に補欠選挙
N/A
63
表 2-5 歴代美濃鎮長
出典:(美濃鎮誌編纂委員会、1997:291)に筆者が加筆
*羅建徳は白派の流れをくむが、県レベルの白派とのつながりは弱いうえ、この時期になると鎮内で紅白黒という従来の形で
の派閥対立はあいまいになったため、N/A とした。
果たして、美濃の鎮内エリートの分裂は地域社会に大きな混乱を招いた。その最たるも
のが、地域社会で重要な役割を果たす農会信用部の破綻である。農会においては白派が優
位を保っていたが、1970 年の美濃鎮農会理事選挙において紅派が理事会を支配し、紅派の
林宜石が理事長に就任した。紅派にとっては、これは 1950 年代の農会の支配権を「奪回」
したことを意味した。しかし、このとき理事選挙をめぐって上位政府である県政府の治安
人員まで巻き込んだ乱闘騒ぎがおこり、農会を見限った農民が次々と預金を引き出した。
そこにかねてからの農会信用部の融資の貸倒れと農村の不景気も重なり、同鎮農会は壊滅
状態に陥った。同年 6 月、紅派の理事は混乱の責任をとって辞職、農会は理事長を含む理
事を全員白派にするとともに、当時 29 歳の鍾玉福を異例の若さで総幹事に抜擢して再建を
図った。鍾は、その多くは白派が支配する県下の他郷鎮の農会を頼って資金を導入し、ひ
とまず危機を切り抜ける。
そして 1975 年の農会理事選挙において鍾玉福は総幹事に再当選、
理事は再び白派が支配し(Bain, 1993:169)、美濃鎮内は白派優位の安定した時代を迎える(美
濃鎮誌編纂委員会、1997:379-381)。ここに美濃鎮民は、安定した地方派系レジームの資源
導入力を見せ付けられることになった。
しかし、このような地方派系レジームは資源導入力があるとはいえ、どの派閥が優位で
あっても、鎮内の分裂は美濃住民に利益をもたらさないという不満は常に存在していた。
例えば、黄森清はコミュニティ新聞の「理想の美濃」という特集の投書欄で「地方派系の
存在は団結がないことの証である」と述べている(『今日美濃』1977 年 4 月 13 日)。また、
鎮誌の中で邱智祥が「商工社会の功利主義が蔓延する中で、忠誠を一貫して誓う純農業社
会の義理がたい思想は過去のものとなり、現実の功利のもとで派閥は変化を繰り返すよう
になった」(美濃鎮誌編纂委員会、1997: 291,348)と述べていることからも分かるように、
地方派系など鎮内の政治対立、およびその目まぐるしく変化する合従連衡は、血縁ネット
ワークが緊密な美濃人の団結を訴える美濃知識人の嘆きの種であった。
また、地方派系に対する住民の不満の源泉は鎮内の分裂だけではなく、その分裂が県レ
ベルの地方派系の操作によるものであること、すなわち地域の自律性が失われたことにも
存在した。例えば、前述の白派の鍾玉福は水利会代表が選出する 1986 年の第 7 期高雄県水
利会長選挙に出馬した。美濃鎮籍の水利会代表 6 名のほか、鎮外の 8 名の水利会代表の支
持を得られれば鍾は会長に当選できたが、国民党からの指名を受けられずに落選した。こ
のことは、美濃鎮民の結束が国民党の介入を克服できなかった悲劇として記憶された(美濃
鎮誌編纂委員会、1997:396)。また、1998 年の鎮長選挙は白派で国民党の指名を受けた鍾紹
恢が、1998 年 1 月に対抗馬の傅瑞智を 8 票の僅差で破って当選した(『中国時報』1998 年
1 月 25 日第 4 版)。鍾は選挙活動の中で美濃愛郷協進会や同郷会らと廟で美濃ダム建設反対
64
を公約に誓った(『中国時報』1997 年 12 月 30 日)。しかし、鍾は 2000 年の総統選挙にお
いて連戦後援会会長に就任する。それはとりもなおさず、白派の領袖王金平を支持するこ
とであり、同年に立法院で美濃ダム建設予算を強行採決した当の立法院院長である王金平
の支持は、鍾の美濃ダム建設支持を意味した。このように、鍾は美濃ダム建設反対を実行
することができないこと、そして地方派系の対立など鎮外に規定された美濃の政治は、鎮
内に利益をもたらさないことを美濃住民は思い知らされた。
このように、戦後の美濃は、鎮公所や農会が政策の策定能力を持たないが、その政策の
執行については権限をもち、各機関が地方派系の拠点となって、名望家レジームから分裂
的な地方派系レジームへと変化した。地方派系は国民党の指名の獲得の有無をめぐって国
民党中央からの派閥操作の対象となり、政治エリートの中にグレーゾーンなき日常的対抗
関係が成立したが、この対立関係や上級政府の政治介入は緊密な血縁ネットワークの中に
対抗関係をもたらし、住民の大きな不満を形成した。しかし、鎮民代表選挙から農会選挙
など、各種の選挙はこの対抗関係を強化こそすれ解決できるものではなく、里民大会も住
民の不満を吸収できない形骸化した議決機関になっていた。これらの不満は中央民意代表
の統一候補擁立となって現れる。
次節では、いったん美濃の社会変容に視点を移し、この社会変容と前述の住民の日常的
対抗関係に対する不満がどのようにレジームの変化へとつながったのかを次々節で述べる
準備としたい。
3
「エスニックの箱庭」の素地と農村社会の変容
美濃は日本統治期に村全体に網羅された灌漑系統や、それによって灌漑された広大な南
隆地区など、インフラの整った豊かな農村として 1960 年代には高雄県内で税収第 5 位の座
を誇っていた。美濃鎮の豊かさを象徴するように、1967 年には旧鎮公所(現:美濃故事館)が
改築されている(Bain, 1993:155)。現在でも美濃は「素朴で懐かしい客家の農村」といわれ、
現在は高雄市から 10 号高速道路でわずか 33 キロの人気の日帰り観光地になっている。し
かし美濃鎮はこの 30 年で劇的変化を遂げている。具体的には農業の衰退の結果都市へ若年
層が流出して農業の担い手が高齢化し、交通網の発達によってヒトや物資の移動が加速す
るとともに、観光の中継拠点へと変貌したのである。本節では、美濃の社会変容を整理す
るとともに、その社会変容が地方派系レジームから外部資源導入型レジームへの変化を準
備する過程を分析する。同時に、残された「客家の伝統社会」の特徴が米国の人類学者を
ひきつけたこと、そしてその研究蓄積が後に美濃の台湾客家文化の実体化に大きな役割を
果たしたことを明らかにする。
まずは台湾全体の産業構造の変化からみていこう。戦後台湾の農業は、1949 年―1953
年に国民党政府が実施した土地改革から始まる。この土地改革は自作農の創出と、地主資
本の工業資本への転化を目的として、小作率引き下げの「三七五減租」(1949 年)、主に日
65
本人から接収した公有地払い下げの「公地放領」(1951 年)、私有地を含む小作農への払い
下げの「耕者有其田」(1953 年)と段階的に続き、外省人が多数を占める立法院、すなわち
台湾本省人地主の利害が表出されない場で継続実施が保証された(松田、2006:397)。しか
し、土地改革は、本省人農民のニーズに応じたというよりはむしろ、大陸でなしえなかっ
た孫文の三民主義実践や、地主資本の工業資本への転化を目的とした。そのため土地改革
後は大量の小規模自作農が出現したにもかかわらず、農地改革の効果をそぐように、経済
政策立案者たちはコメなど農産物の価格を抑えて工業資本への転化を図る、すなわち「農
業を以って工業を発展させる」をとった(羅、2008:34)。糖業における加工分糖制度28や米
作における米肥交換制度29はその一環である。この背景には食糧増産と外貨獲得という 2 つ
の国家的課題が存在した。
この国家的課題の下で農業政策の核を担った中央レベルの政府機関が、経済部農林委員
会と、中国農村復興聯合委員会(以下農復会と本論文では称する)であった。農復会は 1948
年 10 月 1 日、中華民国の国内法ではなく、中国大陸で米華両国が交わした覚書に基づいて
米華合同機関として発足した。農復会の財源は米国の経済援助、いわゆる「米援」の 10 分
の 1 と米国の権威を後ろ盾としており、しかも制度上非政府機関であって、中華民国中央
政府内の党派や官僚組織を横断できたため、効率的かつ自律的なテクノクラートの農業政
策立案機関として、系統が混乱する中央、省、県市、郷鎮、各級の関連組織・団体とも直
接に接触し、現場を見据えた農業政策の策定に大きく貢献した(Bain, 1993:65;松田 、2006:
386-389)。しかし、農復会はその自由な組織的性格を妬まれ、国内の農業関連政府機関か
ら頻繁に批判されてもいた(Bain, 1993:67)。
このなかで、美濃鎮は戦後から現在に至るまで、高雄県随一の農業地区であり続けてき
た。現在も鎮面積 120 平方キロメートルのうち農地は 3,800ha と全面積の約 3 分の 1 だが、
農地に適さない山地(鎮面積の約 4 割)を除くと、残り 6 割(約 7,200ha)の約半分以上が農地
である。また、同鎮の農家戸数は県内で一位(1995 年)、農業就業人口は鎮内人口の約半数
である 22,123 人(2003 年)、耕地面積は二位(行政院主計処、1997:(5))である。戦後の美濃
は農村としてはインフラの整った豊かな農村であった。しかし前述の「農業をもって工業
を養う」政策の下では、その豊かさは鎮民に享受されず、むしろ工業資本による収奪の対
象となった。つまり、美濃鎮民が戦後ずっと嘆いていた美濃の貧しさは、自然の条件では
なく、むしろ米価抑制などで政策的に搾取された、条件のよい農村ゆえの貧しさであると
いうことができる。
当初、美濃鎮民はこの農業での貧しさを、葉タバコという高い現金収入が得られる工芸
28
農民のキビ原料を国営企業の台湾製糖が加工して、砂糖製品を両者で分配する制度。台湾精
糖は原料代を現金ではなく加工品で分配することで、農家の利益を吸収した。同様の収奪制度は
米肥交換制度にも見られる。
29 農民の米穀と政府(糧食局)との物々交換。この交換は等価とはいえず、農民の利益が犠牲にさ
れた。農民の利益を吸い上げた肥料は 1952 年から 1958 年まで毎年 35.7 万トンにものぼり(羅、
2008:34)、これらの資金は輸入代替工業化のための資本に転化されることになる。
66
作物で克服しようとした。美濃の主な農産物はコメ30と日本統治期に導入された葉タバコ31
で、第一期および第二期は灌漑系統によって効率よく栽培できるコメを、第三期は葉タバ
コを植えた。葉タバコは専売機関である省政府公売局の安定した買取価格のため鎮内でコ
メの裏作として広く植えられ、作付面積の半分近くを占めていた。美濃は土地改革前、す
なわち日本統治期からもともと小規模自作農の多い地域で(Bain, 1993:36)、葉タバコ耕作
申請許可32の条件に合う農家が多いことも、葉タバコ耕作に適合的な条件であった。
この葉タバコ栽培は集約的労働を必要としたため、葉タバコ農家どうしの血縁ネットワ
ークによる無償の労働力交換、すなわち「交工」の習慣が生まれた。具体的には、農繁期
にヨメやイトコなど姻戚関係や血縁関係のある家族からの応援を頼み、かわりに自らもそ
れらの家族や自分の娘の嫁ぎ先の農繁期を手伝うというものであった。この「交工」を容
易にするためには、鎮内で姻戚関係を成立させるのが最適であったため、美濃では美濃人
どうしが、しかも近隣の集落どうしで結婚する鎮内婚が進んだ。また、葉タバコ栽培は一
定の労働集約や、前述の許可証に規定された経営規模の維持を要したため、分家は進まず、
複数の既婚兄弟の家族が親と同居する二世帯家族、すなわち複合家族(complex family)の形
成が進んだ(Cohen, 1976:61)。葉タバコ栽培は、内婚の促進や分家の防止など、伝統的な客
家社会の大家族制度や鎮内血縁ネットワークの緊密化を促進したといえる。かくして形成
された交工ネットワークは葉タバコ栽培のみならず、選挙票の動員を含む日常生活のさま
ざまな部分で活用され、さらなる鎮内血縁ネットワークの強化に寄与した。
この葉タバコによって得られた豊富な現金収入を、美濃人は客家の学問重視の伝統も手
伝って、農業の拡大再生産ではなく教育資本に投資した。すなわち、農家が一部または全
部の子息に農業を継がせず、学歴をつけて鎮外で高収入で働かせ、農業で低収入しか見込
めない自分に送金してもらうという世代間の教育―送金システムが成立した。鎮内で子息
を公務員などとして働かせる場合でも、子息に安定した収入を得させ、育児を親が負担す
ることで子息の家族の育児コストを軽減するかわりに、自分の面倒を子息に見てもらうと
いうメリットが親にはあった(Bain, 1993:191)。その結果、美濃は博士学位保持者や軍人・
公務員・教員の「軍公教」を多く輩出する村として有名になり、美濃鎮民も自らの家族や
親戚が学位を獲得して鎮外で働くのを誇りとした33。事実、10 日に 1 回刊行されるタブロ
美濃鎮のコメの作付面積は 2003 年現在、
第一期で 1,390ha、第二期で 500ha となっている(高
雄県政府、2003:159)。
31 葉タバコは 1936 年に美濃で試験栽培が始まり、1939 年、総督府が府令第八十四号にて美濃
を「煙草耕作区域」に指定したことで正式に導入された(洪、1999:119)。
32 葉タバコは、省政府公売局に申請して許可を得た農家のみが耕作を許された。その許可条件
とは、
(1)自費で四坪または六坪のタバコ乾燥室を設置、
(2)0.8 ヘクタール以上の農地、
(3)
資金力(納税証を添付、1990 年に廃止)、
(4)家族から出せる三人以上の労働力(1990 年に 2 人
に変更)、(5)葉タバコ栽培を遂行できる技術の証明(既存の葉タバコ農家 3 人からの証明が必
要、1990 年に廃止)、
(6)タバコ乾燥室が農地から 2 キロ以内であること(1990 年に 5 キロ以
内に変更)という、小規模農家からみると厳しい規定であった(洪、1999:134)。葉タバコ耕作に
あたって一定規模を維持しなければならないという規定は、大家族の分家を防止した。
33 だが、後にダム建設反対運動に関わる人々のあいだには、反省も始まる。美濃愛郷協進会第
30
67
イド版の美濃のコミュニティ新聞『月光山雑誌』では、自らの子女が博士の学位を獲得し
たことや、校長就任などの出世を読者に知らせる広告が、毎号のように掲載される。葉タ
バコ栽培によって強化された伝統的大家族が自前で調達できる福祉システムは、葉タバコ
栽培で財をなした農家の人口流出や「軍公教」就任を促進した。
そして、その人口流出を後押しするかのように、農業資本を吸収して続いた戦後台湾の
持続的な経済成長は、台湾社会を農業社会から工業社会に転化させた。1950 年代以来、台
湾は輸入代替工業化から輸出指向工業化への脱皮を図ってきたが、1965 年には外資企業を
誘致し、関税の自由と税制上の特典を与え、もっぱら輸出加工に特化する経済地域、すな
わち輸出加工区を開設するための輸出加工区条例が公布された(佐藤、1988:34)。その第一
号となった高雄加工区は高雄港に隣接する約 69 ヘクタールの地区で、翌 66 年に運用が開
始され、開設後まもなく入居企業で満杯になったことからも、台湾の経済成長の成功が伺
える。この後も輸出加工区は 1970 年に高雄市北部の楠梓および台中市に開設される。
また 1965 年には第二次産業の GNP が第一次産業のそれを越え、70 年代半ばには就業人
口比においても第二次部門が第一次部門を凌駕した(同前、1988:20-21)。これらの第二次産
業への就業人口の流出は、近代農業の推進政策によって支えられた。政府は 1961 年に農地
区画整理を実施し、1969 年には農業機械化政策を打ち出した(羅、2008:36)。しかし、近代
農業の推進は農産物の価格引き上げを伴わなかったため、台湾の農業は衰退し、国を支え
る基幹産業から斜陽産業へと転落していった。
これに対し、農復会を含む政府は有効な手立てを打ち出せなかった。もともと農復会は
前述のとおり中華民国政府内の位置づけがあいまいな組織で、そのあいまいさが官庁横断
的な施策の実行につながることもあったが、反対に表立って国内組織の官僚と向き合えず、
消極的になることもあった(Bain, 1993:67)。農復会が力を持つためには、国内政府機関と
の関係を明確にする必要があった。
しかし、その明確化は農復会にとってマイナスとなる形で現れた。まず、1965 年に農村
復興委員会の財源であるアメリカの支援が廃止された。米援の残余金があったため、中央
政府は同委員会が効率的であるとしてこの組織を残した(Bain, 1993:67)ものの、1979 年の
米台断交時に同委員会はついに廃止され、農村計画発展委員会(CAPD)へと改組された。主
にアメリカのコーネル大学に留学した、先進的で優秀なスタッフ 200 名余りは同委員会内
に残ったものの、その立案は「上位」の官僚を通さねばならなくなり、かくして、農復会
の存在感は低下し、農政単位の乱立34が政策にさらなる混乱と困難を引き起こすことになっ
二代理事長S氏は、自分の娘が大学卒業後Uターン帰郷して協進会スタッフに就任したことにつ
いて、このように語る。
「わたしは、多くの美濃人がそうであるように、子どもは美濃の外に出
て行くのが出世の道だと思っていた。しかし、ダム建設反対運動を経て、そうではないことに気
がついた」(2006 年 2 月 23 日、S 氏への聞き取りによる)。このように、社会運動は伝統社会に
規定される一方、伝統社会の観念を変えていった部分もある。
34 経済部農林委員会は 1981 年に経済部農業局に改組された。当時、農業の危機をみた政府のな
かにはさらに格上の政府機関である農業部を作るべきとの声もあったが、中央政府は省政府農林
庁と重複することと、農林委員会のみを部に格上げするわけにはいかないのを理由にこれを拒否
68
た。
農復会にかわって、政策立案を担当したのは中央レベルでは農林委員会(-1981 年)および
その後身である経済部農業局(1981 年-1984 年)、農業委員会、そして台湾省レベルでは省政
府農林庁であった。前述のとおり、中央政府の実行統治範囲は台湾省政府の管轄範囲とほ
ぼ重複しており、中央レベルの農林当局と省政府のそれは頻繁に対立した。その理由は第
一に、省当局と中央当局との役割分担が不明確であったことである。第二に、省政府農林
庁は行政単位上は経済部の監督下にあったが、実際には農復会やその後身である農村計画
発展委員会とのやりとりが多かった。第三に、省政府農林庁の権力はそれほど強くなかっ
たものの、日本統治期の台湾総督府の実務経験者が相当数おり、大陸出身者が多数をしめ
る中央レベルの政府機関と対立した(Bain, 1993:77)。中国全土を支配する建前を持つ中華
民国という虚構が維持されているという、台湾特有の構造が農林当局の対立にもつながっ
ていた。
総じて政府は農業衰退対策として、コスト削減と農業所得の向上を図った。
1972 年には、
悪名高い米肥交換制度が廃止され、同年に蒋経国が年間 20 億元を投じて「加速農村建設方
案」を 2 年間実施すると宣言した。また 1973 年には国際的食糧危機を受けて「糧食平準基
金」が設けられた(羅、2008:36)。これらの政策のほか、農業衰退に対応してより徹底した
近代農業を推進する策として、1969 年には、農業の衰退を受けて第二次土地改革が提案さ
れるが、ここでも効率重視を提唱する経済部と、農民の平等を重視する農復会と省政府は
対立した(Bain, 1993:114)。その結果、1981 年に第二次土地改革の実施は延期されたが、
この時期にはすでにこれらの「改革」を実行できるに足る強力な政府機関は存在しなかっ
た。しかし、これらのコスト低下政策は農産物の市場構造を解決できず、農業は衰退して
いった。
事実、この農業の斜陽化を受けて、美濃鎮の財政は逼迫した(Bain, 1993:155)。1960 年
代には前述のとおり県内第 5 位の税収を誇っていたが、1978 年に政府が農民の収入確保の
ための 2 期分の農地税補助金の 3000 万元を廃止してからは、鎮公所の税収は減少し、税収
の減少がさらなる鎮民の流出を招くという悪循環に陥った。
この税収減に対し、鎮公所と農会は無策であった。まず、鎮公所は自力でこの悪循環を
断ち切ることはできなかった。なぜなら、税率の決定権は鎮公所ではなく中央政府にあっ
たためである。鎮公所にできることはわずかに鎮の所有する土地でヤシなどの経済作物を
植えることくらいであったが、盗難が相次いだうえに、タイからのヤシの輸入が自由化さ
れてヤシ栽培は失敗に終わった。鎮公所には本来政策策定能力のあるスタッフがいないう
した。農業局は農林委員会と財政部穀塩局との合併で、近代農法を推進する第二次土地改革など、
農林水産業に関する国家レベルの政策立案、統合がその任務とされたが、職員数は農村計画発展
委員会(CAPD)より減るなど冷遇された。また、第二次土地改革は土地行政を管理する内政部や
銀行など、大量の調整業務を必要としたため、同局の政策立案機能は形骸化した。これを解決す
べく、1984 年に農業局と農村計画発展委員会が合併して成立したのが農業委員会であり、現在
に至っている。
69
え、税率の決定権もなかったために、鎮の財政悪化や農業衰退を食い止めることはできな
かったのである。また、1974 年の鎮内への工業誘致やそれに続く試みはことごとく失敗し
た(同前、1993:183)。
次に農会も本来政策の策定能力に欠けていたため、この農業衰退に対する対策は次々と
失敗し、美濃鎮民の反感を買った。第一に、1990 年代に農会はコメや葉タバコにかわる農
作物として、トマト、イグサ、菊などの経済作物の栽培を奨励した。しかし、その販売ル
ート開拓や技術指導は不完全であったため、農会事業推進部主導の経済作物への転作奨励
政策は次々と失敗した(同前、 1993:220-233)。例えば、1980 年代に推奨されたコーヒーを
栽培した農家は、その損失補填を求めて裁判所に訴えている(『月光山雑誌』1993 年 4 月 9
日)。第二に、農会は農民を見限ったかのように、農民向けの技術改良指導やサービスより
も、融資など「準会員」たる非農民への事業を重視し始めた。第三に、農民の収入向上の
ために最も重要な市場構造の問題に、農会は着手しなかった。すなわち、農民にとって最
大の課題は、高額の中間手数料を吸収する農会に替わる、農家の利益を確保できる販売ル
ートの開拓であった。しかし、農会は自らの減収をおそれてこれらの問題には触れず、李
登輝(72 年蒋経国により農政担当政務委員に就任)が提唱する農業重視政策も、この領域
には踏み込まなかった(同前、1993:92)。かくして、農会の失策や農民軽視の政策は農会の
破綻事件とともに、農会や鎮公所に対する住民の不信感を少なからず高め、ひいてはロー
カルレジーム全体への不満の源泉ともなる。
ただし全国的にみると、美濃の農業は衰退したとはいえ、専売制度下で価格の安定した
葉タバコを主としていたため、農業の斜陽化の影響を一歩遅れて受けることになる。事実、
美濃鎮内の葉タバコ農家戸数は 1975 年の 1,781 戸をピークに 1987 年には 1,454 戸まで徐々
に減少していくが、鎮内の総農家戸数に占める割合は 1972 年が 20.4%であるのに対し、
1984 年は 22.5%と微増している。また、表 2-6 のとおり葉タバコ作付面積は 1986 年まで
は 2,000ha 台で推移している(美濃鎮誌編纂委員会、1997:641-649)。このように、タバコ
栽培の衰退は一般的な農業の衰退より相対的に遅いのが分かる。葉タバコ栽培が残ったた
め、前述の「交工」も残り(洪馨蘭、1999)、美濃は伝統的農村社会の特徴を比較的最近まで
保持していた。
70
出典:(美濃鎮誌編纂委員会、1997:641-649)より筆者作成35。1甲は約 0.97ha
この農村社会の特徴とほぼ純粋な客家村という特徴から、冷戦構造下で中国に行けなか
った欧米の中国研究の学者達は、恰好のフィールドワークの代替地として美濃を選んだ36。
例えばは、人類学者のマイロン・コーヘンは、美濃のコミュニティ生活は「まだ伝統中国
の特徴を色濃く残す」(Cohen, 1976:6)と述べ、伝統中国社会としての美濃を分析した。そ
して、労働集約的な農業である葉タバコ栽培において、葉タバコ農家どうしの血縁ネット
ワークによる無償の労働力交換、すなわち「交工」がおこっていることを指摘し、葉タバ
コ栽培に伴う家族同士の経済的依存が内婚の促進や分家の防止など、鎮内の拡大家族の維
持を促進していると論じた。コーヘンはここで、フリードマン(Freedman, 1966=1996)の
提示した「裕福な紳士が大家族を形成し、貧しい百姓は大家族を形成しない」という命題
を批判したことになる。 また Pasternak(1983)は日本統治期の戸籍を用いて美濃の婚姻形
態、出生率などの家族形成を統計学的に分析し、それが移住社会に特有の親族関係維持や
姻戚関係の発達、および女性が労働力として期待されているという社会制度との関係を論
じた。また、オーストラリアの農業経済学者である Bain(1993)は農復会と農林行政組織の
変遷が農政、とくに第二次土地改革の政策方向性に与えた方向性と、その政策が末端の農
村でどのように実行されたかを、美濃の福安里におけるフィールドワークをもとに論じた。
これらの学者のフィールドワークは、美濃住民にとって二つの機能をなした。一つは、
これらのフィールドワークは「著名なアメリカ人学者」の研究に協力した記憶として強く
残った37。この記憶は美濃人の「内向きの視線」を強化するとともに、その研究内容はさて
統計上タバコは、許可証を申請する 7 月から翌年 6 月までを 1 年と数える。
欧米の研究者にとって、美濃に限らず冷戦下の台湾は中国研究のフィールドワークの代替地
の役割を果たした。たとえば、Wolf(1968)の『リン家の人々』は台湾北部の板橋林家の歴史を「中
国の家族史」として研究したものである。
37 特にコーヘンの研究には多くの美濃人が協力したため、美濃住民にコミュニティの記憶とし
てとどめられている。コーヘンは 2008 年 1 月に美濃鎮公所で名誉鎮民の地位を授与され、研究
当時の協力者とも再会している (『月光山雑誌』2008 年 1 月 29 日)。
35
36
71
おき、美濃人が鎮外に向けて自らの文化を誇示するための材料となった。第二にこれらの
学問的蓄積は、
「六堆の中で最も純粋な客家の特徴を持った、自己完結的なコミュニティ」
とコーヘン(Cohen, 1976:6)が称したように、美濃を典型的客家コミュニティとしての「エ
スニックの箱庭」
、後に〈本土化〉が進むと台湾客家文化のショーケースの根拠として美濃
のダム建設反対運動やまちづくりの言説形成に大きく影響することになる(美濃愛郷協進会、
1994)。
タバコ栽培が専売制度下で保護されていたとはいえ、農業の衰退、農村社会の解体は着
実に美濃にも及んだ。1965 年の高雄輸出加工区開設に引き続き、美濃から 30 キロ圏内に
位置する高雄市中心部から北に約 15 キロの楠梓加工区が 1970 年に開設されると、美濃の
就業人口が急激に第二次産業、第三次産業へと流出した。美濃鎮の人口の変遷は以下のと
おりである。
出典:(美濃鎮誌編纂委員会、1997)、(高雄県政府、2003)から筆者作成
表 2‐7 のとおり、美濃では人口が 1971 年に 58,363 人に達した後減少に転じている。表 2
‐8 では台湾全土の人口が 1971 年以降も増加しつづけており、また、1970 年の楠梓加工
区の開設を考えると、美濃鎮の人口減少は人口流出によるものであることがうかがえる。
その後も人口の減少は続き、2003 年の人口社会増加率はマイナス 10.6%と事態が深刻であ
ることが分かる。話を先取りしておくと、この流出人口の中には高等教育を受けた高学歴
エリートが戻らないという意味での人材の鎮外流出が含まれており、このことは後述する
まちづくりにあたって大学生や NGO スタッフなど高学歴の若者が必要とされる原因とな
72
った。
(出典:行政部主計処「政府統計要覧 人口」2009 年
若年層の流出の結果、美濃鎮では世帯内収入における農業の比率が減少するとともに、
農業の担い手が高齢化した。例えば、世帯内の主要な農業従事者の実に 8 割近くが 50 代以
上となっている(行政院主計処、1997:16)。また農家の兼業率は 7 割をこえ(行政院主計処、
1997:2)、
兼業農家の中でも非農業所得平均が 72%に達している(高雄県政府、
2003:600-601)。
つまり、美濃鎮は高雄県内では農業地区に属するが、農業の生産高は低く、その担い手も
高齢化しており、世帯内の主な収入は若年層による非農業所得であることが分かる。
美濃農民の高い現金収入を支えた葉タバコ栽培にも変化が現れた。1987 年 1 月に行われ
た米国タバコの輸入自由化の影響で、1987 年に 1,759ha と減少がやや加速、公売局が
1993-94 年にかけて〈本省各菸区現耕戸申請廃耕、停耕補償要点〉(台湾省各タバコ栽培地
区既存農家休耕補償要項)を公布し、補償金発給を通じてタバコ栽培中止を奨励してからは、
さらに加速している(洪、2004)。2001 年のタバコ専売の民営化以降は作付面積が約 400ha
と激減し、2008 年には契約栽培制度そのものが廃止され、葉タバコの作付面積は 150ha に
まで落ち込んだ。つまり、葉タバコはもはや農民の生活を保障するものではなくなった。
視点を美濃鎮から高雄県全体に向けると、高雄県全体の開発は、美濃鎮の県内における
位置をも変えた。まず、全体のインフラ整備として、美濃の人口流出や移動などの変化に
拍車をかけたのが、交通の変化であった。大都市高雄市から美濃方面に向かう 10 号高速道
路が 1996 年に高雄県燕巣郷まで開通し、それが 1999 年 11 月に美濃の隣町旗山(全長約 33
キロ)まで延長された。
このため高雄市との距離が 1 時間半から 1 時間弱と大幅に短縮され、
美濃は高雄市から気軽に往来できる「一日生活圏」に組み込まれた(美濃愛郷文教基金会、
73
2006:3-34)。
次に、高雄県政府が策定した「高雄県総合発展計画」38では内陸部観光地の開発が奨励さ
れ、美濃はその中継地に位置づけられた。たとえば 2002 年 2 月、美濃鎮の北の杉林郷と美
濃鎮を結ぶ月光山トンネルが開通した。これにより、内陸部観光地である甲仙への観光客
は美濃鎮を通ることとなり、観光中継点として美濃の重要性が増大した。事実、高雄県政
府は美濃鎮を観光・農業地区、すなわち高雄市などの大都市住民のアメニティ空間と位置
づけ39、休耕地にコスモスの花を植えたり道路を整備するなど観光政策を促進している。甲
仙の他にも、高雄県政府は内陸部の六亀で、近年台湾で流行の温泉リゾートの開発を進め
ているが、美濃はここでも高雄から六亀への中継点に位置する。
このように、交通網の発達によって美濃は大都市高雄市への人口・労働力・物資の移動
が加速するとともに、県政府から新たな観光拠点の中継点と位置づけられた(高雄県政府、
2005; 美濃愛郷文教基金会、2006:2-96-99)。
本節をまとめると、日本統治期のインフラ整備によって戦後の美濃は豊かな農村として
栄え、葉タバコ栽培による鎮内血縁ネットワークの強化は美濃に伝統社会の様相を残した
だけでなく、安定した収入のため農業衰退の波をすぐには受けなかった。しかしその繁栄
は同時に工業資本の蓄積を支えており、輸出指向工業化による経済成長が続くと、美濃の
農業は斜陽化し、進学や雇用などによる人口流出が加速した。この斜陽化に対し鎮公所も
農会も無策であったため、前述の分裂的なローカルレジームへの美濃鎮民の不満は高まっ
た。
次節では、このような鎮民の不満が、民主化に伴って開きつつあった中央民意代表選挙
の選挙票動員によって団結へと表象されていく過程と、それによって鎮民の不満がどのよ
うに変化したのかを見ていきたい。
4
内向きの視線 ―「団結」の表象と内向型外部資源導入レジーム―
前述のとおり、美濃鎮内の政治エリートは限られた職位しか得られない状況の中で、分
裂的な地方派系レジームを形成し、住民の生活の中枢たる農会までが大混乱に陥った。美
濃鎮民はこれを嘆き、増加定員選挙など新たに出現した政治機会をも利用して、鎮外に向
けてはその団結力を誇示していく。本節では、鎮内のローカルレジームが分裂的な様相を
残しながらも、その分裂に対する不満や社会変容への危機感から、美濃人が団結して中央
政府や省政府のポストに政治家を選出した過程を描く。さらに、その結果成立した外部資
源導入型レジームが住民の不満を必ずしも解決できるものではなかったことを示す。
まず、美濃人の団結を表し、強化するメディアが誕生した。黄森松は政治大学新聞研究
所を卒業後、1974 年に『今日美濃』を創刊し、その後何度か改名をしながら 1992 年まで
38『高雄県総合発展計画』部門発展計画
観光遊憩部門、2000-2002 年
(http://gisapsrv01.cpami.gov.tw/cpis/cprpts/kaohsiung/total/total.htm、2009 年 10 月 2 日)
39 2006 年 3 月、高雄県政府計画室(県長直属の幕僚機関)副主任への聞き取りによる。
74
断続的にコミュニティ紙を発行し続けた。そこでは、美濃の地域政治の分裂や失態に対す
る嘆きや、美濃の地域政治のあり方を報じている(『今日美濃』1977 年 4 月 5 日)。また、
元新聞記者の邱智祥は、同じく新聞記者出身の林茂芳とともに 1982 年に『月光山雑誌』を
創刊した。その『月光山雑誌』は月 3 回発行、8 ページのタブロイド版で、現在発行部数
3,000 部あまり、鎮内住民や鎮外在住の美濃出身者に広く読まれているメディアである。そ
の内容は美濃出身の有名人の業績や鎮公所、農会、水利会など地域政治の動向40を伝える一
方、鎮内に蔓延する青少年の麻薬汚染や、各種社会問題についてはあまり触れられず、美
濃人の偉業をたたえる傾向がある。全体として同誌の政治姿勢は、政治腐敗、特に地方派
系には批判的だが、立法委員や県議員らによる鎮内への利益導入には比較的肯定的である。
この姿勢は邱の鎮誌の執筆姿勢にも反映されている。つまり、地方派系という外部の勢力
に左右されない、自律的な政治を期待し、美濃人の団結を強調している。これらのメディ
アの誕生は、それ自体が団結する美濃人のアイデンティティの産物であるとともに、選挙
や社会問題の報道など、メディアによってそのアイデンティティは増幅された。
では、美濃人は政治的にはどのように団結を図ったのか。1977 年の省議員選挙では、前
述した 1970 年代の農会の混乱や農業の衰退を受けて、元新聞記者を中心とする美濃出身の
知識人が派閥対立を超えた美濃出身の議員選出を呼びかけ、地元の元南隆中学教師である
邱発金を高雄県選挙区の候補に擁立した。邱は結局高得票で落選したものの、獲得票 22,605
票のうち 13,086 票が美濃鎮からの票であった。これは美濃鎮の総投票数 24,771 票の約 53%
に相当し、邱が特定の企業や派閥の支援を持たないこと、また 8 人という候補者数の多さ
を考えれば快挙であった。かくして、鎮内の票を総集結すれば当選者を一人出せる可能性
があることを美濃人は知ったのである。
そして 1975 年の 14 議席から 43 議席へと選挙定員(華僑枠を除く)が大幅に増加した 1980
年の立法委員増加定員選挙では、国民党籍の鍾栄吉が同党の公認がないにもかかわらず、
美濃鎮の総投票数 21,579 票のうち実に 96%にあたる 20,716 票を集めて第五選挙区(高雄県、
屏東県、澎湖県)から当選した。このとき、葉タバコ栽培によって形成された美濃鎮内の緊
密な血縁ネットワークは、鎮内外の美濃出身者の選挙票の動員に大きな役割を果たした。
鍾の総得票数 103,237 票の約 2 割が美濃の票、他に約 2 割(22,086 票)が屏東県の客家居住
地域(六堆)からと徹底した〈族群〉(エスニックグループ)動員の結果であった。鍾栄吉はの
ちに監察委員(立法院に対する弾劾機能をもつ監察院の委員)も歴任し、立法委員の呉海源、
省議員の鍾得珍、国民大会代表の陳子欽の 4 名の美濃出身の中央レベルの政治家は美濃で
「大四喜」(四つの大きな喜び)と呼ばれた(『今日美濃週刊』(1992 年 5 月 9 日)。ここから
は、美濃人の中央レベルの政治家を選出する団結力と、その「大四喜」にかける期待が看
取できる。
鍾栄吉の当選によって、鳳山など近郊の都市に流出した美濃人を含む、地方派系の対立
を超えて動員される美濃人の〈家郷票〉(地元票)が誕生した。中央レベルの選挙における高
40
第2章で引用する政治に関する鎮誌の記述は、邱智祥が執筆している。
75
票当選は、美濃に地方派系の対立は存在しながらも、美濃の外に対しては血縁や〈族群〉
の団結力がときにそれを凌駕しうること、同時に、その団結力はときに美濃のみならず六
堆全体の客家にまで及ぶことを証明したのだった。1983 年の立法委員増加定員選挙では鍾
栄吉が再選するとともに農民団体(農会)枠から呉海源が当選した。呉海源は台湾北部の客家
地域である苗栗で事業を営んでいたが、美濃に血縁関係を持つことを利用して美濃の票を
も動員した(Bain 1993:168)。
これ以降鍾は国民党党務系統のキャリアを駆け上り、その党務系統内における地位は、
もはや財政的に潤沢とはいえない美濃鎮公所にかわる外部資源を導入する力となって、美
濃鎮内における鍾の権力の源泉となった。もともと鍾は兄である鍾喜濱が鎮公所の建設課
長を歴任し、その息子で甥にあたる鍾紹恢は農会理事や鎮民代表、後に鎮長も歴任する郷
鎮レベルの政治家の一族であったが、ここにきて中央からの資源導入という新たな権力を
手にしたのである。これは鍾の地方派系の中の傍流的位置を補って余りある権力であった41。
事実、美濃の農会理事長や鎮長はたびたび鍾に接触し、中央の資源を用いて地域の問題
を解決するよう陳情を受けることになる(同前、1993:167)。里民大会で不満を解決できない
鎮民も、鍾栄吉への陳情を通じた不満解決を試みるようになり、これによって、鍾栄吉の
ような中央レベルの政治家の美濃鎮における地位は確固たるものとなった。このように、
政治エリートとしての鍾の権力の源泉は、戦後初期の鍾啓元のような鎮内の名望ではなく、
鎮外にあったといってもよい。この力は、甥の鍾紹和に引き継がれることになる。
このように、中央政界の政治家は地域内の政治対立を持ち込まないよう一種の地元超党
派となり、郷鎮レベルの地方政治エリートの分裂とは一線を画したまま、「内向きの視線」
を集めて地元票を獲得している。この美濃のレジームを本論文では、通常市町村外に流出
した住民が元の市町村の政治や経済に影響力をさほど持たない日本の地域社会と比べて、
内向的外部資源導入型レジームと呼ぼう。この内向的外部資源導入型レジームは、前述の
農会の混乱のほか、農業衰退や政府の補助金削減による美濃鎮公所の財政逼迫とも深く関
係していた。鎮公所の財政逼迫や農会の混乱、および農村の衰退に危機感を抱いた美濃鎮
民は民主化の初期段階で出現した増加定員選挙をいち早くとらえ、団結して鍾栄吉を立法
院に送り込み、中央政府からの資源導入を図ったといえる。
そして民主化後、多くの地域で地方派系が立法委員など中央政界に進出する中(陳、
1995=1998:249)、美濃では引き続き中央政界エリートが地方派系の政治エリートから分離
したまま、外部資源の導入によって鎮内(および鎮外に流出した美濃出身者)にその実力を誇
示する。そのきっかけは 1994 年に遡る。1994 年の省議員選挙では、高雄県白派の領袖王
金平の支援を受けて連続当選をめざす鍾徳珍と、国民党の党務系統でキャリアを積んだ叔
父の鍾栄吉の後ろ盾で国民党の公認を受けた、当時無名の鍾紹和が激しい地元票の争奪戦
を展開、鍾紹和が僅かに鍾徳珍を抜いて省議員に当選した。そして 2000 年の総統選挙に王
41
白派のなかでも、立法院院長などを歴任した国民党の大老王金平や呉光訓らの主流に対し、
鍾栄吉は後に親民党に合流する林淵源らの系統をくみ、白派の傍流に相当する(卓、2005:123)。
76
金平の後ろ盾となって国民党候補の連戦を支持した白派本流の鍾紹恢鎮長(鍾紹和の実兄)
が、民進党の陳水扁の当選によって権威を失墜し、さらに汚職事件で 2003 年に辞職したこ
とを受けて、中央からの利益を鎮内で鎮長以上に強力に導入できる鍾紹和は、鎮内の地位
を確固たるものにした。ここにおいて、美濃鎮はますます地方派系から自立したレジーム
を築いたといえる。鍾紹和は鍾栄吉の支持を背景に 1998 年に「客家大団結」を実現して中
央政界たる立法委員に当選、その後も 2001 年、2004 年、2008 年と連続当選している。民
主化後、台湾では多くの地方派系が陸続と中央政界へ進出したが、このように美濃では地
方派系よりもむしろ党務系統キャリアの鍾栄吉と、その甥の鍾紹和が、中央政府からの資
源導入レジームを築いていった。地方政治エリートである鎮長も、
『美濃週刊』の鎮長の条
件に、県政府とのコネクションが期待されていることを考えれば、立法委員同様に県政府
からの資源導入を期待されていたといえる。
しかし、それは「国家の政策についていくべき」というルールを必ずしも意味せず、国
家からの美濃への資源導入は選択的なものとして鎮民に捉えられていた。そのため、1980
年代末から 1990 年に国家の政策である美濃ダム建設案を、一旦は鎮内経済活性化のために
誘致する世論が高まるものの、それが美濃の崩壊につながる危険があると知るや、美濃鎮
内の世論はダム建設反対に傾き、政治エリートもそれに続いた。実際の動きをみると、1990
年には、当時立法委員である鍾栄吉が、美濃ダムの計画を早く決定するための緊急質疑を
立法院に出したり(『月光山雑誌』1990 年 8 月 9 日)、同じ く 1990 年にダム建設推進を公約
に掲げた鍾新財が鎮長に当選したりした。美濃ダム建設はその計画実態が分からないまま、
経済効果へのあいまいな期待を乗せて、経済活性化策として鎮民に支持されていたことが
伺える。しかし、ダム建設計画が 1992 年に正式に鎮民に公開された後、鍾新財は反対に転
じている。鍾栄吉の後を継いで立法委員となった鍾紹和や、同郷会もこぞってダム建設反
対に転じ、『月光山雑誌』には「(地元出身の)鍾栄吉に頼んで、中央政府にダム建設を停止
してもらおう」という投書も載った(1999 年 5 月 9 日)。このように、外部資源導入といっ
ても、美濃鎮民は国家からの資源を我先にと争って導入するのではなく、あくまで外部資
源は能動的に選択するもので、中央や県政府から自律的で団結したコミュニティを望む傾
向があった。全鎮の票を集結させて選出した立法委員は、外部資源導入の前に何よりも美
濃人の利害、すなわち「内向きの視線」を代弁せよという鎮民の期待の結晶であった。立
法委員は内向きの視線を代弁することを鎮民に期待されているのであって、中央からの資
源導入による中央政府からの新たな支配を期待されているわけではなかったといえる。
しかし、1990 年代に入ると、民進党の躍進により、統一候補を出さなければ、民進党の
入り込む間隙も美濃にあることが証明された。例えば、1992 年末の立法委員全面改選では
鍾栄吉を含む美濃出身の国民党候補が候補者争いに敗れて出馬しなかったのを受けて、鎮
内の長老教会牧師黄徳清などを中心とする民進党の後援会組織が活躍し、美濃鎮民の票を
次々と民進党立法委員に入れて、尤宏などの立法委員が当選した(『月光山雑誌』1993 年 1
月 9 日)。詳しくは次章で述べるが、この間隙は、鍾栄吉と、その甥で美濃鎮長であった鍾
77
紹恢の対立がおこった 1999 年に最も顕著となる。すなわち、2000 年の総統選挙では、鍾
紹恢が白派本流の王金平支持、つまり国民党支持にまわり、鍾紹恢の弟で鍾栄吉の地盤を
ついだ立法委員の鍾紹和と鍾栄吉は宋楚瑜の親民党支持にまわり、美濃の政治家一族が分
裂した。この分裂の漁夫の利を得て、民進党候補の陳水扁が美濃で最高票を獲得した。
しかも、地元選出の立法委員に託した鎮民の期待が中央政界において必ずしも成就する
とは限らなかった。地元出身の中央政界政治家は、新たなる中央政界のゲームに規定され
ていたからである。実際、鍾栄吉は、当時国民党副秘書長という党務系統キャリアにもか
かわらず、蕭萬長行政院長下(1997 年-2000 年)では重用されず、僅かに行政院政務委員とな
ったのみであった。そこで蕭の冷遇に憤った鍾は、2000 年の総統選挙に立候補すべく国民
党を離党した宋楚瑜について、2000 年 2 月 24 日に自らも離党して、宋の率いる親民党に
移った(『中国時報』2000 年 2 月 26 日)。また、省議員時代に宋と近く、1998 年に立法委
員に当選した甥の鍾紹和もこれに続いた。宋楚瑜といえば、1989 年に国民党秘書長に就任、
李登輝の支持の下に党務系統を掌握、国民党の台湾化を進めた張本人であり、1994 年に民
選の省主席となってからは、さらに県市レベルの地方派系の頭越しに郷鎮レベルの派閥を
動員し、県市レベルの地方派系の弱体化をはかっていた(陳、1995=1998:276)。党務系統
キャリアの長い美濃鎮の地元大物政治家鍾栄吉と宋楚瑜に深い関係があったことは想像に
難くない。そのように郷鎮レベルの派閥を動員する領袖が、地元の開発業者らとのつなが
りを深めるのは明らかであり、宋楚瑜がダム建設反対を表明しても、それは信じがたいも
のであった42。したがって、鍾栄吉や鍾紹和がいくらダム建設反対を表明しても、その中央
政界のボスがいる限り、その成就は非現実的であった。また、公共工事などの利益導入は、
「公共」と銘打っているものの、人口の半分が農業に従事し43、農業が鎮の中心産業44であ
る美濃において、公共事業による雇用などの経済効果は実際さほど広くいきわたるもので
はなかった。これらの公共事業の意味する公共とは、中澤秀雄が戦後日本の例をさして「レ
バレッジされた官独占型公共性」と言うように、台湾の地域政治アクターが独占的に定義
し、レバレッジして鎮全体に広げた意味での「公共」であり45、鎮民の期待を乗せて、中央
42
複数の元協進会スタッフからこの教示を得た。
『高雄県統計要覧』2003 年版によると、美濃鎮の農業従事者は 22,123 人であり、人口の約
半分を占めている。
44 鎮人口の半数が農業に従事しているものの、
『高雄県統計要覧』2003 年版によると、世帯内
収入に占める農業収入の割合はすでに 3 割をきっており、農業は生産額からいうと美濃鎮の基
幹産業とはいいにくい。ただ、多くの人が従事し、また水利会、農会などその農業をめぐる政治
ネットワークに多くの人が関わっているという点では、農業は美濃鎮にとって重要な産業であり
続けている。
45 中澤(2005:27)はこれをレバレッジされた官独占型公共性と呼んでいる。レバレッジとは梃子
を意味し、複雑に編み上げられた制度や組織を確立して、手持ち政治資源よりも大きな権力を梃
子のように発生させる仕組みをいう。美濃の例に即して言えば、地元立法委員が複雑に編み上げ
られた制度や組織を確立して、選挙票の動員装置を作れば、その政策が評価されずとも当選が可
能なのである。そして公共性の定義は政治家側にあり、有権者が自ら公共性を定義し、提唱する
ことはできない。
43
78
政界に政治家を送り出しても、それは中央政界のゲーム下で成就しないか、もしくは政治
家にレバレッジされて鎮民の多くには効果が波及しないことがあった46。
このように、美濃鎮の権力構造は戦後直後は名望家レジームであったのが、地方派系の
中に組み込まれ、地域社会内に県内の政治対立構造が持ち込まれた。そして混乱期と民主
化の激動期を経て、中央政界に直接パイプを持った中央政界の政治家に「内向きの視線」
を体現してもらうべく期待しながら、鎮内の票を総集結し、
「団結」して中央政界に政治家
を送り出す、内向的外部資源導入レジームへと変貌を遂げた。しかし、それは鎮内に残る
政治エリートの対立を払拭できたわけではなく、美濃鎮は外部に向けては中央政界の政治
家を地元代表として団結を誇示しつつ、地域内では対立を残すという二面相を呈すること
になった。また、実際にその内向きの視線の成就は、やはり中央政界のゲームに規定され
るもので、地元議員の選出は必ずしも視線の成就を意味しないばかりか、外部資源の導入
は、一部の建設業関係者を潤したものの、地域社会の政治に対する不満を広く解決できた
とはいえなかった。このようなコミュニティに渦巻く不満は、社会運動が、分裂的な基層
政治と中央政界の政治家両方から距離をおきながらダム建設反対運動を展開する原因とな
った。
5
小結
―普遍的台湾農村としての美濃と、特殊エスニックコミュニティとしての美濃
本章でみてきたように、美濃鎮のローカルレジームは戦後 10 年ほどのあいだに名望家か
ら地方派系へと変貌した。地方派系はグレーゾーンなき日常的対抗関係を地域社会にあま
ねく形成したが、それは美濃住民の不満を引き起こした。また、里民大会など最基層の議
決機関がこれらの不満や日常のインフラなどの住民の不満を上位政府に向けて吸収できる
ものではなかった。葉タバコ栽培によって強化された血縁ネットワークの「団結」が地方
派系に分断されたのを不満とする美濃鎮民は、農業衰退にともなう美濃鎮公所の財政逼迫
や生活の危機感に駆り立てられて、鎮民の声を上位政府に伝えるべく、血縁ネットワーク
を動員して鎮内から団結して中央民意代表を選出し、内向的外部資源導入レジームを作り
出した。その動員は、鎮内のみならず、血縁ネットワークを用いて鎮外に流出した美濃鎮
出身者にもおよび、鎮民の「内向きの視線」を形成および強化していった。しかし、その
団結は鎮内の政治対立を払拭できるものではなく、また、外部資源の導入も必ずしも鎮民
の生活の質向上に貢献するものでもなく、鎮民のローカルレジームへの不満はくすぶった。
農村衰退に象徴される地域社会の変容が、地元選出の中央レベルの議員を通じた外部資
源導入へのドライブとなるという構図は、台湾ではめずらしくない。例えば、同じく農村
46
美濃鎮は客家の多く住む鎮であるため、公共工事の建設現場で客家語ではなく福 佬語が話さ
れていると、美濃鎮民はそれが高雄や屏東の建設会社による施工であることがすぐ分かる。ある
高齢の農家は筆者に向かって「美濃の工事をするのに、結局は高雄のやつらばかりが来るんだ」
と嘆いたことがある。事業が本当に自分に有用かも分からないのに、まして美濃への雇用効果も
ないのに、公共工事を行うことを嘆く声は高齢の農民に普遍的に存在する。
79
の屏東県林辺では、衰退する村の振興を託されて地方派系の政治家の息子であるにもかか
わらず民進党籍の曹啓鴻が 1998 年に立法委員に当選した(楊、2007)。その意味では、美濃
の例は、台湾地域社会の先駆的な姿であり、美濃の衰退と外部資源導入レジームへの移行
は、経済成長後の農村の一形態を現しているといえる。また、地域社会の変容が外部資源
導入レジームへの移行を促すということは、レジームの変遷が単なる政治アクターのゲー
ムだけではなく、社会変容にも規定されていることを示している。
地域社会学的視点からみると、日本と美濃には若干の類似点が存在するといえる。例え
ば、美濃と同様の構図は、
「裏日本化」する没落の危機感から田中角栄の資源導入力を頼み、
ついに原発を誘致する新潟県柏崎市など、高度経済成長期以降の日本の地域社会にも見ら
れる(中澤、2005:56-62)。しかし、日本の地域社会と比較すると、台湾の特徴が二つ浮上す
る。一つは、地方派系という中央による地域社会統制手段が住民の不満の対象となったこ
とである。もう一つは、地方派系による大混乱がおきた 1970 年代をへて、折りしも中央レ
ベルの増加定員選挙の機会が開いたことである。これを利用して、美濃鎮民は団結して 1980
年に鍾栄吉を選出した。台湾では農村の衰退と民主化の進行が共振した結果、中央レベル
の政治家が地域社会で意味を増したといえる。
台湾の中でも、美濃のエスニックな特徴には注意が必要である。客家の伝統的大家族制
度が葉タバコ栽培によって強化されたことは、選挙票の動員に大きな役目を果たした。そ
してさらに、それを対象とする人類学者の研究が蓄積されたことは、後のダム建設反対運
動や、それに続くコミュニティ運動の言説形成に大きな役割を果たすことになる。
このように、美濃の地域変容とレジーム変遷は、台湾地域社会の典型をなしているとい
えるが、そのエスニックな特徴や内向きの視線は、台湾全土に普遍的なものではなく、美
濃に特殊であるといえる。しかし、逆説的ではあるが、このエスニックの特徴が、台湾ナ
ショナリズムが興隆する民主化期の台湾で「台湾の典型」に転化され、次章で述べる社会
運動や市民社会によって表現されていく姿は、台湾エスノナショナリズムの典型的な展開
を示している。後述する社区総体営造という政策は、これらを政府の必要に応じて台湾客
家文化の代表として実体化しようと試み、社会運動もその政策意図をくみとりながら積極
的にその資源を利用し、自らの目的達成を図っていった。
次章では、このようなローカルレジーム下で発生した社会運動が何をめぐって発生し、
どのように展開したのかをみていく。
80
第3章
地域社会における社会運動 ―サブ政治とローカルレジームのあいだ―
1
サブ政治の縁起 ―開発計画体系と水利法からみる「政治」の発生―
2
社会運動の発生と展開 ―民主化と台湾化の波に乗って―
3
社会運動の「環境」①
―伝統社会と協進会―
4
社会運動の「環境」②
―ローカルレジームの変動―
5
小結 ―地域社会における台湾社会運動論―
前章では、美濃ダム建設反対運動が形成および展開するローカルな環境として、美濃の
ローカルレジームの変遷と社会変容を追った。本章では、そのダム建設反対運動が具体的
にどのように進行し、その後も継続するコミュニティ運動にどのように続いていったのか
を分析する。
美濃ダム建設反対運動は、1992 年夏に美濃ダム建設計画が行政院で決定(日本の閣議決定
に相当)されたのを受けて、同年 12 月 10 日に美濃鎮の東門小学校で公聴会が開かれたこと
にさかのぼる。しかし、1970 年代から 80 年代末にかけて、美濃鎮出身の立法委員や鎮長
は農業の衰退を前に、鎮の経済活性化に寄与しうる美濃ダム建設を選挙公約としていた。
実際、1990 年には美濃出身の立法委員であった鍾栄吉が立法院で美濃ダムの計画を早く決
定するための緊急質疑を出しており(『月光山雑誌』1990 年 8 月 9 日)、鎮レベルでも鍾新
財がダム建設を公約として 1990 年に鎮長に当選している。ここから分かることは、後に
1999 年に 72%の住民の署名を集めることになるダム建設反対が、必ずしも昔からの住民の
総意ではなかったことである。むしろ、前章で述べた資源導入型レジームの下で、鎮民は
ダム建設が地域経済活性化に寄与するとあいまいな期待を寄せていた。では、ダム建設反
対運動はどのような過程をたどったのか。
本章の構成は以下のとおりである。まず1で、ダム建設計画がどのような計画系統から
発生し、誰がそれを策定したのかを検討する。あわせて、ダムを建設する主要な根拠法と
なる水利法にも検討を加え、サブ政治の閉鎖化の過程を日本の経験に照らし合わせながら
検討する。2では、ダム建設反対運動の主力を担った美濃愛郷協進会(以下協進会と称する)
の言説や社会運動のネットワークから、同会がどのようにダム建設停止宣言をかちとった
のかを分析する。3と4では、社会運動が発生および展開するローカルな文脈を検討する。
3では長幼の序や師弟関係など、伝統社会の秩序と協進会の運営の関係を検討し、それが
地域社会の動員や外部へのネットワーク拡大につながったことを明らかにする。4では、
地域社会の動員を可能にした環境(序章参照)として、ローカルレジームの変動を検討し、美
濃において、ダムという単一議題(single issue)による動員が可能になっていたことを明ら
かにする。5では、本章の総括を行うとともに、台湾で地域社会レベルから社会運動を分
析する可能性について検討する。
81
1
サブ政治の縁起 ―開発計画体系と水利法からみる「政治」の発生―
台湾の地域社会のなかには、中央政府の策定した種々の開発計画とその実施状況が反映
されている。ここに、選挙政治や地方派系とは異なる、中央政府の地域社会に対する支配
の構図を見出すこともできる。本節ではまず、ダム建設の根拠法となる水利法(日本の河川
法に相当)の変遷をみながら、サブ政治の閉鎖化が開発の大規模化と台湾独自の文脈両方で
おこったことを示す。続いて、台湾全体の開発計画をみながら、その特徴を検討し、非民
主的な政治環境の中で、さらに非民主的なサブ政治の領域が拡大し、選挙制度をはじめと
する民主化の動きの中でも、完全に民主化されなかったことを示す。
まず、序章でも述べたがサブ政治とは何か、もう一度みておこう。台湾の高度経済成長
に伴い、各地で環境汚染がおきたように、高度技術に支えられた近代社会は、技術や開発
が生み出す危険と隣り合わせのリスク社会を生み出した。ベック(Beck 1994=1997:12)の言
い方を借りれば「発達が自己破壊に転化する可能性があり、またその自己破壊のなかで、
ひとつの近代化が別の近代化をむしばみ、変化させていくような新たな段階」、すなわち近
代化のリスクが近代社会自身に跳ね返ってくる再帰的近代(reflexive modernity)の時代が
到来したといえる。この再帰的近代においては、工業資本主義段階で政治的なものが保護
してきた意思決定の領域、たとえば私生活やビジネス、科学、都市共同体、日常生活など
は、政治的対立の嵐に飲み込まれるようになる(同前、1994=1997:39)。このように、制度
政治の枠外で多くの人に影響を及ぼす意思決定がされる領域、すなわち政治的な領域をベ
ックはサブ政治と呼ぶ。本節はこの概念を用いて、台湾社会における「政治的なもの」の
創造とその非民主性を検討したい。
まずは、本論文で扱うダム建設の最も基本的な根拠法となる水利法の変遷から、ダムを
めぐる政治が中央政府に閉鎖化していく過程をみていきたい。水利法は水利委員会所管の
法律で、1942 年 6 月 20 日に中国大陸で制定され、以下のような条文があった。
第5条
水利管轄区が二つ以上の省市に関連するものについては、その水利事業は、
中央政府の所管機関がこれを実施することができる。
第6条
水利管轄区が二つ以上の県市に関連するものについては、その水利事業は、
省政府の所管機関がこれを実施することができる。
第7条
省市政府が水利事業を実施するとき、その利害関係が二つ以上の省市にまた
がる場合は、中央所管機関の承認を得なければならない。県市政府が水利事
業を実施するとき、その利害関係が二つ以上の県市にまたがる場合は、省所
管機関の承認を得なければならない。
第 5 条、第 7 条の「二つ以上の省市にまたがるもの」という文言から分かるように、これ
らの条文は中国全土を統治する中華民国政府を想定して制定された法律であった。また、
82
第 7 条にみられるように、省政府や県政府が二つ以上の省市、県市にまたがる水利事業を
実施する際には、上位政府の承認を得る必要があった。省や県はその下位政府に対して水
利事業の調整機能を持っていたといえる。
しかし、
この水利法は立法院での審議を経て、
1963 年 11 月 29 日に大きな改正を行った。
この水利法の改正の概要は、立法院の開会の冒頭で次のように述べられている。①水が公
有か私有かについての明確な規定がないため、水をすべて公有のものとすること、②「地
方水利自治団体」という文言を、実際は農田水利会しか存在しないという状況にあわせて
「農田水利会」と改めること、③水利事業に関わる経費について明文規定がないこと、④
増加する農業用水の「盗水」の罰則について斟酌の必要が生じたこと、の四点である47。つ
まり改正の趣旨は、国家が水の使用権を独占し、水利事業の費用の所在を明文化するなど、
近代的な水秩序の構築であるといえる。
この議論のもう少し具体的な文脈を、立法院における各条の個別討論から探ると、二つの
文脈が伺える。第一に、経済発展にともなう開発の大規模化である。立法院での水利法第 6
条に関する討論(中国語でいう「逐条討論」)で、立法委員の鄧翔宇は以下のように述べてい
る。
地方政府にお金がなくてダム建設ができないなら、現在中央政府と地方政府はほぼ一致し
ているのだから、中央政府がダム建設を行えばよい。地方政府に資金がないなら、中央政
府の補助金を使えばよい。第 7 条についてもしかりである。実際に、台南県白河の灌漑ダ
ムや苗栗県大埔ダムの事業は、二つ以上の県にまたがるものではないが、県政府の資金不
足のために、省政府水利局がこれを行っている。つまり、二つの省と二つの県をこえる水
利事業は、資金的および技術的な理由から、中央あるいは省政府がこれを実施するとすべ
48
きである 。
この質疑からは、経済発展にともなって、もはや県政府や省政府では実施困難な大規模な
ダム開発の必要が生じ、より資金力のある中央政府がこれを一括して担うべきだという考
えが伺える。この結果、中央政府は水資源の一元管理を担っていく。
第二に、台北市の中央直轄市への昇格という台湾的な文脈である。1960 年代当時、経済
発展にともない台北の人口は増加し、都市計画の調整と、水不足が喫緊の課題となってい
た。そこでダムサイトになったのが台北市に隣接する桃園県にある石門ダムで、1956 年に
総工約 32 億元の国家プロジェクトとして着工し、1964 年に完成した。おりしも同ダムが
完成した時期、台北市は現実の実効統治範囲にあわせて、省直轄市から中央直轄市に昇格
しようとしており、実際 1967 年に昇格を果たす。ここに、省の下に位置する桃園県から、
省の上に位置する中央直轄市台北市へと二つの異なる級の行政単位間に、都市用水が運ば
47
48
『立法院公報』第三十二会期第五期、p.8.
『立法院公報』第三十二会期第五期、33-35.
83
れることになった。立法委員の王夢雲は水利法第 6 条に関する討論で以下のように述べて
いる。
台北市は将来、必ずや行政院直轄市に昇格するだろう。われわれ行政当局は将来の趨勢
を検討していないが、…(中略)…台北市の行政院直轄市昇格が実現したら、台北市の水利
と境界を接する他の県市、例えば桃園、基隆、宜蘭、新竹などは省政府の所管になる。
したがって、われわれ立法院は二つ以上の省をまたぐことを想定しなければならない49。
つまり、将来台北市が中央直轄市に昇格することを想定して、省政府と市政府をまたぐ水
利事業を想定しなければならないというのである。そこで、台湾省政府と台北市政府をつ
なぐ水利事業を想定した「省(市)政府」という文言が付け加えられた。
かくして、水利法は 1963 年に以下のように改正された。改正前の水利法の第 5 条から第
7 条に対応する条文は第 6 条から第 8 条である。
第6条
水利区が二つ以上の省あるいは市にまたがるもの、もしくは地方政府が実施困
難な重大事業については、その水利事業は中央所管機関がこれを実施すること
ができる。
第7条
水利区が二つ以上の県あるいは市にまたがるもの、もしくは県あるいは市が実
施困難な重大事業については、その水利事業は省所管機関がこれを実施するこ
とができる。
第8条
省(市)政府が実施する水利事業で、その利害が二つの省(市)に及ぶ場合は、中央
所管機関の承認を得なければならない。県(市)政府が実施する水利事業で、そ
の利害が二つの県(市)に及ぶ場合は、省所管機関の承認を得なければならない。
ここから分かるように、水利法の改正によって、県市境、あるいは省の境を越えないも
のでも、大規模な開発については中央あるいは省の所管機関が事業を行うことができるよ
うになった。それはすなわち、省政府以上の選挙が凍結されていた戒厳令下の台湾におい
ては、水利政治が制度政治の届かない領域に閉鎖化されることを意味した。また、県の上
位政府である省政府は 1997 年の第四次憲法改正で 1999 年からの凍結が決定され、ダム事
業は実質上中央に一元化された。かくして、ダム事業は県境や省境を跨ぐと跨がないとを
問わず、基本的に省政府未満の地方政府が関与できない政治領域となった。
水利事業の財源も 1963 年の水利法改正で明文化され、選挙政治から切り離されて財源が
確保された。もともと、1942 年制定当時の水利法には、財源について明確な規定がなかっ
たが、開発の大規模化にともない、その財源を明記する必要が生じ、第 84 条から第 92 条
まで財源に関する規定が 1963 年に追加された。そこには、高度経済成長およびそれにとも
49
『立法院公報』第三十二会期第五期、39-40.
84
なう水需要の増加をみこんで、水利事業を維持するために、農業用水や工業用水の使用量
である「水権費」、河川を通行する船舶から徴収する「河工費」、および治水工事の受益者
から徴収する「防洪受益費」をもっぱら水利事業に充填することが明記された(第 84 条)。
すなわち、これらの 3 財源は日本の水源特別会計制度と同様、立法機関(台湾では立法院、
日本では国会)の審議を経ずに専門に水利事業に用いることができる財源となり、選挙政治
の関与できない、テクノクラートが専門に操作できる予算となった。
これらの法改正の変遷を踏まえたうえで、本論文で検討する美濃鎮に建設予定の美濃ダ
ムが、どのような都市計画系統のなかで策定されたのかをみてみよう。美濃ダムは、まさ
にサブ政治の代表格であった。同ダムは堤高 147 メートル(当初計画)の中央遮水壁型ロック
フィルダムで、1971 年、経済部水資源統一規画委員会(以下水資会と略称、現水利署)が部
門建設計画の一環として策定した「高屏渓流域開発規画報告」の中に、「美濃水庫蓄水規画
與研究」が掲載されたことが計画の始まりである。その目的は、南部(台南、高雄、屏東)
地区の長期水需要予測にもとづいて、特に高雄市で不足すると予測される水を供給するた
めであり、付帯的に発電施設も予定されていた(中興工程顧問社 a、1989:2-34)。この計画は、
前述した水利法にもとづいて、県政府、郷鎮政府、地域住民の合意を得ることなしに策定
され、いったん策定された後は 1983 年には水資源統一規画委員会が財団法人中興工程顧問
社に計画の修正研究報告を委託、1985 年に同社に地質調査工作を委託、1990 年には同社が
「台湾地区南部区域美濃水庫可行性規画総報告」を提出した。この報告にもとづいて水資
源統一規画委員会は行政院に審議決定(中国語で「核定」)を報告し、1992 年に行政院で閣
議決定されたが、これらの過程も県政府、郷鎮政府、地域住民の合意を得ることなしに自
動機械のように進行した(国立成功大学地球科学系他、1999:1-1)。また、ダムサイトは水没
予定集落こそないものの、集落のすぐそばに建設され、日本統治期は断層があるとしてダ
ム建設計画が断念された場所であった。そのダムが断層のずれによって崩壊すれば、隣接
集落のみならず美濃全体に甚大な被害を及ぼす。しかし、そのような危険を住民に及ぼす
ダム建設計画は、美濃住民にとってきわめて政治的であるにもかかわらず、1992 年の行政
院決定(日本の閣議決定に相当)までは、美濃住民はおろか、鎮公所の目にもさらされること
はなかったのである。これはダムという高度技術がもたらしたサブ政治の領域の一つとい
えよう。
なぜこのような非民主的なサブ政治の領域ができあがるのか。それは台湾の都市計画体
系がトップダウンで作られること、およびそれが立法府や地元住民の審議を経ずに、官僚
機構の中で策定されることに起因する。以下、具体的に台湾の都市計画体系をみていこう。
台湾国土全体の開発計画の嚆矢は、1979 年に行政院経済建設委員会(日本の経企庁に相当)
が策定した「台湾地区総合開発計画」である。これは日本の全国総合開発計画(序章参照)
をまねて作った包括的な国土開発計画で(黄、1999:74)、同委員会は引き続き 1996 年に国
土総合開発計画を策定している。これら2つの全国的総合開発計画には根拠法がないが、
この上位計画をもとに、中間計画として区域計画、下位計画として県市総合発展計画がそ
85
れぞれ内政部、県・市政府によって策定される(図 1 参照)。そして台湾地区総合開発計画か
ら区域計画、県市総合発展計画に至る系統のほか、各部門が個別に公共建設計画(中国語で
部門建設発展計画)を策定し、これも県市総合発展計画の上位計画となる。前述の水資会が
策定した高屏渓流域開発規画報告はこの公共建設計画に相当する。これらの計画は選挙に
よる異動のない技術官僚機構50の中で、上位計画から順に策定される。
これらの計画は三つの問題点を持っている。第一に、トップダウンで計画が策定される
ため、地方政府の事情に対応した地方独自の計画が作られにくい。また、郷鎮政府には計
画策定の権限がなく、もっぱら中央政府と県市政府がその開発計画の策定を担うことにな
る。第二に、これらの計画は影響を及ぼすであろう地域住民や基層政府の意見を聴取した
り、合意を得ることなしに計画され(同前、1999:83)、一度計画が決まるとそれを止めるシ
ステムは部局内にも住民側にも存在せず、自動機械のように計画は進行する。そして、計
画の中止は、それは立法院による予算削除か、県長や総統など、政治家による政治的決断
を俟たねばならない。戒厳令下という政治的不自由に加え、このようなテクノクラシー内
で閉鎖的に策定される都市計画体系も台湾のサブ政治の非民主性の原因となったといえる。
第三に、計画が枝分かれしていることからわかるように、それぞれの計画の整合性がとり
にくいことである。例えば、水資源統一規画委員会が策定した部門建設計画の中の美濃ダ
ムと、郷鎮レベルの郷街計画と、農業委員会が策定する農地計画である「非都市土地使用
管制及編定」と、中正湖など「特定区計画」が美濃鎮の中に混在しており、それぞれ計画
の策定機関が異なるため、一つの行政区の中で計画が不整合を起こすことがある。
台湾地区総合開発計画
(現国土総合開発計画)
区域計画(南北部は内政
部門建設計画(各部門が策
部、中東部は省府が策定)
定)
非都市土地使用管制及編
県市総合発展計画(県市政
都市計画
定
府が策定)
都会区発展計画
特定区計画
郷街計画
市鎮計画
図3-1 台湾都市計画系統図略図(破線は根拠法を持つもの)(施、1997:11)
50
台湾の官僚体系は公務人員任用法によって規定される。すなわち、試験によって登用される
事務官と、県市長や総統など選挙で選ばれた人物がこれを指名する政務官に分けられる。したが
って、政務官は選挙のたびに就任および辞任を繰り返すが、事務官は選挙による異動はない。
86
1990 年代に台湾で大きく進んだ制度政治の民主化は、二つの面でこの政治領域に影響を
及ぼした。すなわち、第一にサブ政治は選挙政治の民主化によって一部民主化された。例
えば、立法院で予算が審議される以上、選挙によって全面改選される立法院で開発計画の
予算を削除したり、凍結することはできるようになった。また、直接選挙で選ばれる総統
や県長はこれらの開発計画を選挙で争点化し、公約として政治的決断を下すことはあった。
例えば、2000 年に当選した陳水扁は「自分の任期中に美濃ダムは作らない」と宣言した。
第二の民主化によるサブ政治の変化は、1994 年の環境影響評估法(環境アセスメント法)の
制定など、環境問題におけるいくつかの民間参与制度51である。これによって、開発計画の
実施前に有識者や社会運動団体などの参入が可能になり、かつ、その結果によっては開発
計画の中止も可能になった52。実際、台湾北部の新竹の香山工業区建設反対運動では、社会
運動団体が環境アセスメントに参入することで開発計画を阻止している(Tang, 2003)。
しかし、制度政治の民主化を通じたサブ政治の民主化には限界もあり、その非民主性は
民主主義制度のなかで際立つようになっていった。第一に、サブ政治を「民主的な制度政
治」の遡上に乗せることによって民主化しようとするとき、その政治は政党政治の主要ア
クターたる政党資源に大きく依存することになる。その結果、サブ政治を制度政治内で解
決するかどうかは、政党の意向に大きく左右される。例えば、1980 年代の民主化運動期を
通じて環境運動と密接に結びついてきた民進党は、政党政治の定着に伴い、より中道路線
や従来の支持層である中小資本家層の要求である「開発」アジェンダを追求するようにな
った(何、2006:171-178,)。その結果、例えば、民進党資源に大きく依頼してきた第四原発
反対運動は、民進党の撤退に伴い、大きなダメージを受けた(同前、2006:241-279)。第二に、
制度政治の選挙によるサブ政治の解決は、計画の最終段階に残された「最後の手段」であ
り、根本的な民主化ではない。政治判断の不完全性は、民進党政権が 2000 年に建設中であ
った第四原発の建設を中止しようとしたが、当時の野党国民党の反発や官僚機構の猛反発
に遭い、結局中止を撤回したことからも分かる。策定段階からの民間社会の参与があって、
サブ政治はより民主化されるといえる。第三に、その策定段階での民間社会の参与手段の
一つである環境アセスメント法は、地質、大気、生物、環境工学など専門家による「科学
的、客観的、総合的」な判断こそが公正であるとの前提に立ち、その開発によってリスク
を負う可能性のある「民意」を「感情的なもの」として排除している(何、2000:209-10)。
しかし、本節冒頭で述べたとおり、リスク社会においては科学技術は決して政治的に中立
たりえない。つまり、台湾で環境アセスなど一連の民間参与制度は、開発や経済成長に伴
い発生する制度政治で解決できない「政治的なもの」、すなわちサブ政治の中に再び住民や
社会運動団体が政治的決定に関わることを可能にしたものの、そのサブ政治を完全に民主
51
他に野生動物保育諮問委員会の設置などがある(何、2006:158)。
一方、日本では環境アセスメントが、台湾と異なり評価結果いかんによっては開発事業を行
わないという選択肢を持たず、予定されている計画に正当性を付与するための「環境合わすメン
ト」であると揶揄された(帯谷、2004:52)。
52
87
化したとはいえないのである。
サブ政治がむしろ民主化後に閉鎖化する傾向もある。例えば、水利事業の財源は「水資
源作業基金収支保管および運用弁法」(2001 年発布)による規定で、水資源作業基金が使わ
れることになった。もともと、水利事業の財源は前述のとおり 1963 年の水利法改正で水権
費(水使用料)、河工費(河川工事料)、および防洪受益費(治水受益料)によって維持されるこ
とが明記されていたが、それをさらに完全な形にしたのが、水利法第 89-1 条に 2007 年に
明記された水資源作業基金という財源である。これにより、前述の水権費、河工費、防洪
受益費から得られる水利事業に充填する費用をプールしておくことが可能になった。つま
り、毎年の政府の歳入如何に関わらず、水利事業が一般会計からより完全に切り離されて、
財源面での事業の制度化が図られているといえる。
このように、台湾では高度技術社会の到来や、都市計画系統の閉鎖性、さらに台北市の
中央直轄市昇格に伴い、サブ政治の領域が拡大し、それは地域住民や地方政府の関与でき
ない領域となった。1990 年代の制度的民主化によって、そのサブ政治は部分的な民主化を
見たが、それは必ずしも完全とはいえなかった。美濃ダム建設反対運動は、ちょうどこの
民主化の過渡期に発生した運動であり、サブ政治の非民主性が露呈していく過程と一致し
ている。
台湾でサブ政治が閉鎖化する過程は、近代化による開発計画の巨大化にともない、法律
や都市計画の面でサブ政治の閉鎖化が進行するという点で日本と類似している。日本では
1896 年の制定以来、河川法は「区間管理主義」と呼ばれるように、河川管理を府県知事が
担うことになっていたため、複数の府県を流れる大きな河川の場合、開発をめぐって上下
流間の利害対立53があっても、それを調整する制度が存在しなかった。しかし、戦後復興期
には電源需要が高まり、各地に多目的ダムが建設されていった。さらに工業用水や都市用
水の需要も高まり、河川行政は利水を重視したものへと転換していく。この治水と利水と
が、戦後日本の河川行政を両輪で支えていく論理であった。しかし利水は、建設省が河川
の一元管理体制を築いておらず、水利用の調整権限を持っていないことが施策の立案・実
施のうえで障害となった。建設省はいわゆる「利水競合問題」に直面したのである(高木、
2008:39)。
そこで、日本では新たな河川法が 1964 年に制定され、それまでの「区間管理主義」から、
上流から下流までの水系単位で河川を一元的に管理する「水系管理主義」へと転換したう
えで、重要河川(一級河川)は建設大臣が直接管理することになった(帯谷、2004:34)。この河
川法改正により、日本の河川行政は中央政府(建設省)に一元管理され、建設省にとってはス
ムーズかつ一貫した大規模開発の基礎となる近代的水秩序が完成した。台湾の 1963 年の水
利法改正も大規模開発の進行から生じているという点では、日本の 1964 年の河川法改正と
共通している。しかし、台湾の特徴も存在する。第一に、台湾では台北市長選挙で国民党
53
例えば、明治期以降は従来の農業用水をめぐる地域間の「水争い」に加えて、発電と農業用
水、発電と漁業、発電と流筏(林業)などの利害対立がおきた(帯谷、2004:29)。
88
候補が負けたので、省政府の所管であった台北市を中央政府の直轄市に昇格させて選挙結
果を反故にした。この台北市の直轄市昇格がこの水利法改正に大きく影響しているという
点は、権威主義体制下で当局に都合の悪い選挙政治の結果が無効にされるという台湾独自
の文脈を表しているといえる。第二に、台湾の水利法はもともと上位政府が調整機能を有
しており、日本のような区間管理主義はなかったということである。したがって、サブ政
治の閉鎖化は、一元管理の必要性というよりは、開発の大規模化にともなうものであると
いえる。
次節では、このようなトップダウンの開発政策が地域社会に及ぼした影響をみていきた
い。
2
社会運動の発生と展開 ―民主化と台湾化の波に乗って―
美濃のダム建設反対運動は 1992 年にダム建設計画が行政院で決定(日本の閣議決定に相
当)し、同年末初めて美濃でその計画の全貌が美濃鎮民の前に公開されたことに遡る。同運
動は 1990 年代の台湾全体を巻きこんで展開するが、本節では、まず事実関係を整理し、次
の 2 節でそれらの先行研究であまり触れられていないローカルな文脈に焦点をあて、その
動員スタイルが美濃のコミュニティの権力構造や社会ネットワークなどの環境(序章参照)
に規定されていたことを示していく。
まず、序章で述べた先行研究にもとづいて事実関係を整理していこう。ダム建設反対運
動の担い手は美濃愛郷協進会(以下協進会)であった。協進会の活動は 1992 年 12 月 10 日の
東門小学校での公聴会を鎮公所の名義で開いたことを始まりとするが、その前身は、1991
年に結成された「第七小組」と呼ばれる 3 人の 20 代の青年であった。3 人のうち鍾永豊、
鍾秀梅はコーヘンが滞在先とした大家族の出身で、大学生時代に様々な社会運動に関わっ
ていた。兄の鍾永豊は台南の理工系の名門大学、成功大学の土木系に在籍しており、ダム
などの技術に関して一定の知識を持つとともに、環境運動や労働運動に関わっていた。妹
の鍾秀梅は台北の輔仁大学日文系に在籍しており、環境運動や女性運動に関わっていた。
もう一人の李允斐は両親が美濃出身で、自身は高雄で育ったが、大学院では美濃の客家建
築に関する修士論文を書き、美濃の文化に対して知識を持っていた。第七小組は中央研究
院民族学研究所研究員の徐正光に高雄県政府が委託助成していた高雄県の客家文化調査事
業に従事していたが、この調査で得た知識を活用しながらダム建設反対運動を進めていっ
た。これらの若者は台湾の社会運動の隆盛や、台湾客家ナショナリズムの波の中で生まれ
た活動家であるといえる。
協進会は活動を始めてから 1 年半近く後の 1994 年 4 月 10 日に、
「営利を目的としない社
会団体」として政府に登記した。人民団体法の規定に沿って成立大会を行い、そこで会則(中
国語では「組織章程」と呼ばれる)を理事および監事のもとで承認した。同会則によれば、
協進会のミッションは「地域の発展を促進し、美濃鎮の教育、社会、生態および文化生活
89
の質を向上させること」である(第 2 条)。その構成員は会員と理事、監事からなり(第 5 条)、
これらの構成員で組織される会員大会が団体の議決権や理事監事の(被)選挙権を持ってい
た(第 6 条)。この政府登記により、協進会は政府に正式に認知されると同時に、ひいては政
府や民間の助成委託を受けることが可能になった。また理事や監事に年配のローカルエリ
ートが就任し、予算や重要事項の議決権を持つなど制度的な意思決定機関も整備されたが、
実質上は、20 代の年少のスタッフが実働部隊として働き、年配のローカルエリートはその
決定にあまり干渉せず、年長者の持つ権威を用いた承認(endorsement)の「ゴム印」を与え
るというスタイルが成立した。この制度化と実質上の運営のギャップについては次節で述
べることにして、まずは協進会がどのようにダム建設反対運動を進めていったのかを整理
していこう。
このような組織構成の下、協進会はどのようなフレームを用いてダム建設反対運動を進
めたのか。そのフレームは、協進会が開催した前述の公聴会に端的に現れている。この公
聴会では約 200 名の住民や専門家が集まる中、ローカルエリートや鎮長、台湾大学土木系
の郭振泰教授、台湾大学建築研究所の夏鋳九教授らは席上で「美濃ダム建設に反対する十
の理由」と題する共同声明を発表した(『月光山雑誌』1992 年 12 月 19 日)。そこでは大き
く分けて①ダムサイトの安全性、②ダムサイトの環境破壊、③美濃鎮全体の環境破壊、④
政策過程の閉鎖性があげられた。以下、順に具体的に見ていこう。
第一に、ダムサイトの安全性は、合理的かつ学術的な言葉で語る必要があったため、協
進会は公聴会で大学教授の学術的な言説を用いて、美濃内外にアピールした。専門家がダ
ムサイトの安全性を疑問視することでダム建設反対を訴える傾向はずっと続いたが54、公聴
会の後もずっと続き、美濃出身の地質学者である宋国城は地質調査を 1999 年に完成させ、
美濃ダムのダムサイトの危険性を合理的かつ学術的に証明した(国立成功大学地球科学系他、
1999)。また水資源統一規画委員会の環境アセス報告書に載っている土砂積載量とは別に、
協進会は独自に土砂積載量を計算し、家の前を何秒おきにどの大きさのトラックが何台通
るかを計算した結果、トラックが 1 分おきに時速 7,80 キロで通ると算出された(『月光山雑誌』
1993 年 3 月 29 日)55。これと平行して、鎮民が曖昧に期待するダム建設の経済効果は、この
ような危険性に見合わないものであることを証明したのである。技術系の大学教授のダム
建設反対運動への参加はその後も続き、テクノクラートが言説の支配権を持つ技術の世界
で、それに対抗する技術的言説を作るための重要な原動力となった。
第二に、ダムサイトの環境破壊は、歴史的な経緯や自然環境の豊富さと結び付けられた。
まず歴史的な経緯として、協進会は、ダムサイトは旧総督府殖産局の熱帯林試験場であり、
54
この中心を担ったのが、高雄にある中山大学水資源研究センターであった。同センターはシ
ンポジウムダム建設にかわる代替案まで提出するなど、美濃鎮民の「ダムはいらない」という地
域エゴを克服しようとするとともに、屏東の藍色東港溪保育協会と協進会の河川に関する合同シ
ンポジウムを開催するなど、高雄県、屏東県、台南県など台湾南部の水資源に関する社会運動の
学術的対抗言説形成の一翼を担った。(『中国時報』1999 年 3 月 27 日)
55 2005 年 11 月 28 日、当時のスタッフY氏へのインタビューによる。
90
他にはない自然環境を残していることを主張した。そしてその豊かな自然環境の象徴とし
て、黄蝶や八色鳥(日本名ヤイロチョウ)の飛来地であることを強調した。協進会の派生団体
で地元教師が結成した「八色鳥協会」のメンバーでもあった宋廷棟は、
『月光山雑誌』にダ
ムサイトの雙溪がこのように歴史的価値や生態的価値を持ち、「専門」の名の下にダム建設
を計画する水資源統一規画委員会は、このような価値を顧みない横暴をはたらいていると
批判した(1993 年 2 月 29 日)。この美濃の自然の豊かさを主に訴えたのは「八色鳥協会」で
あった。地元教師たちは夏休みに地元の小学生から大学生までを対象に夏休みなどにエコ
ツアーを企画し、雙溪での自然体験や地元の用水路での水遊びなどを体験させていく過程
で、青少年に美濃の自然の豊かさとダムの不要性を訴えた。これは美濃の中でダム建設反
対運動を担う若いボランティアの育成および組織化という機能も持った。ここで育成され
た美濃出身の大学生は 1999 年に「後生会」(「後生」は客家語で青年の意)として組織化さ
れる。
第三に、美濃鎮全体の環境破壊については、ダムが住民の生命を脅かすという言説が用
いられた。それとともに、美濃が台湾の客家文化を残した貴重なコミュニティであること
が鎮内外に向けて語られた。つまり、美濃人は自らの客家文化を台湾客家ナショナリズム
の文脈に位置づけながら、それを客体化し、自らの生活の中に埋め込まれている文脈と切
り離してダム建設反対の言説へと転化していったといえる。おりしも、1990 年代の台湾で
は、多数派の福佬人を中心とする台湾ナショナリズムへの対抗言説として現れた台湾客家
ナショナリズムは、客家というエスニックグループが元来持つ中国ナショナリズムの言説
と共存する形で、客家文化の復権をより台湾ナショナリズムの範疇内で主張するようにな
った(田上、2007)。例えば、大学の客家サークルを対象とした美濃の歴史や文化の「発見」
イベントを、協進会は鎮内外の住民を対象にも頻繁に行った。
実際、協進会は客家文化をどのように客体化56したのか。1994 年に大学を卒業後、協進
56 本論文でいう文化の客体化とは、太田好信(1993:391)のいう「文化の客体化」概念を参照し
て、ある主体、例えば社会運動が文化を伝統的な文脈から切り離し、文化として他者に提示でき
る要素を選び出し、従来とは異なる意味づけを施したうえで、運動目的のために操作できる対象
として新たに作り上げることを指す。もともと客体化の概念は植民地インドの歴史人類学研究
(Cohn, 1987)で提起され、イギリスの支配を受けたインド人が、様々な領域にわたる支配を客観
的に突き放して、かえって自分の力とするという現象を論じる際に用いられたが、その後ハンド
ラー(Handler, 1988)のカナダのケベックナショナリズムの研究でも用いられた。石橋純
(2000:60-63; 2006:152)はベネズエラの民族音楽文化復興運動でこの客体化概念を1、知識の吸
収やイメージの転換を図る「民俗学的客体化」
、2、その文化を大衆市場で商品化するための「芸
能制作上の客体化」、そして3、その客体化された文化を自らのコミュニティで社会教育に利用
するための「社会事業の資源としての利用」に区分している。本論文で客体化の意味するものは
「実体化」という言葉が指すものとほぼ変わらないが、本論文ではそれを操作の対象とするとい
う意味合い、すなわち前掲の石橋の区分でいう 3、の側面をより強調するために客体化という用
語を用いる。美濃ダム建設反対運動の行う文化の客体化とは、伝統社会の文脈とは異なる形で台
湾客家文化を台湾全土=消費者に向けて意味付けを施し、客家文化の台湾での位置の重要性を訴
えていく台湾客家ナショナリズムの言説に乗せて、その台湾客家文化をダム建設は壊すと主張す
ることで、福 佬人も含めた全台湾にダム建設反対運動への支持拡大を図った。なお、本論文では
91
会のスタッフとなった元スタッフは、1995 年の旧正月に永安路で行った美濃のイベントに
「来去美濃売大眼」という名前をつけた。「売大眼」とは、普段見られない、ものめずらし
いものを見るという意味の客家語で、イベント名は「美濃に来て物珍しいものを見よう」
という意味である。協進会は、美濃に住んでいながら自分たちの文化を「知らない」、すな
わち聴衆・観衆=消費者の視線を意識せずに文化を日常的に生きている人々に、普段何気
なく通っている永安路に改めて来てもらい(すなわち「来去」)、自らの文化を消費者に向け
て表現できるように客観的に実体化してもらおう(すなわち「売大眼」)という狙いがあった
という57。協進会にとって、美濃のイメージを「没落した農村」から「最も保存状態のよい
台湾客家文化の箱庭」へと塗り替えることは、美濃住民に自らの言葉で「これほどに貴重
な客家文化の箱庭をダムによって台無しにするな」と自らの言葉で語らせるための基礎工
事であった。
客家文化を実体化するイベントと平行して、協進会は客家というエスニシティや農村を
押し出した文化の調査を、中央政府や県政府の助成金を得ながら積極的に行った。前述の
高雄県客家文化の調査や、鎮誌の編纂がそれである。まず調査に関しては、学生サークル
は社会運動や調査の実働部隊として大きな役割を果たした。1990 年に創立された台湾大学
客家社(「社」は中国語でサークルの意)をはじめ、92 年から 93 年にかけて各大学の客家サ
ークルは創立されるとともに大学をこえて組織化され、夏休みや冬休みに各地の客家コミ
ュニティの見学キャンプを頻繁に行っていた。美濃もその見学地の一つであり、客家サー
クルの大学生にとって美濃ダムは関心の一つとなった。また、美濃出身の客家サークルの
学生にとって、北部やそのほかの客家コミュニティの問題も関心の対象となった。学生に
とって、これらのキャンプやイベントは知的欲求を満たすとともに、自らが伝統社会の中
で体験してきた客家文化を実体化する機会でもあり、協進会からすれば、キャンプやイベ
ントは学生の協進会へのリクルートや人材育成を意味していた。実際、学生の何名かは卒
業後も客家サークルでの経験を生かして協進会に関わり続けている58。詳しくは後述するが、
この客家文化の調査やイベント開催は、言説形成のほかに、助成金をダム建設反対運動に
流用したり、人材育成を行ったりする点でも重要な役割を果たし、2000 年にダム建設が一
時停止された後も続いていく。
次に、協進会が鎮誌の編纂を鎮公所から受託したのは以下の経緯である。1990 年に台湾
協進会による文化の実体化とローカルレジームとの距離を書き出すことに焦点をあてるため、文
化の実体化の軌跡そのものを追うよりは、むしろその実体化を「誰が」担ったのかに注目したい。
すなわち、協進会と、実体化の担い手とはならなかった既存の政治アクターの関係を検討し、
「な
ぜ」既存の政治アクターではなく協進会が文化の実体化を担ったのかを社区総体営造という政策
設計の観点から明らかにする。これについては次章で後述する。
57 2006 年 2 月 3 日、元スタッフ G 氏へのインタビューによる。
58 90 年代初頭から半ばの客家サークル出身者の中には、美濃出身者のほかにも、客家文化の実
体化の担い手が次々と誕生し、現在に至っている。例えば、客家語で歌う歌手の陳永陶、苗栗で
「台三線」ブログを主催する黎振君、徐彩雲など。http://mypaper.pchome.com.tw/hakah(2009
年 11 月 25 日確認) 高雄師範大学客家文化研究所の呉中杰など、
学術界で活躍する研究者もいる。
92
省政府が各郷鎮市公所に鎮誌を編纂するよう通令を出したのに応じて、戦後第 12 期鎮長で
ある鍾新財政権下で、当初は地元コミュニティ誌である月光山雑誌社にその編纂が委託さ
れた(『月光山雑誌』2007 年 7 月 29 日)。しかし、月光山雑誌社はその仕事を「地元のこと
をよく知っているから」との理由で、協進会に再委託し、ここに協進会が約 180 万元の予
算で鎮誌編纂事業を受託した。協進会は、地元教師や月光山雑誌社の助言も受けながら、
若者や女性の視点も織り込んで鎮誌編纂を進めた。このように、協進会が鎮誌編纂を委託
されたこと自体が、協進会が編纂能力を持つ高学歴者の集まりであり、ローカルエリート
とのコミュニケーション能力を有していることを示している。この鎮誌は 1997 年の刊行記
者会見が『中国時報』で報道されるなど、鳴り物入りで登場し、現在に至るまで社会運動
や研究者が美濃の客家文化を示す典拠として、頻繁に引用している。
第四に、協進会が美濃住民に対して当初掲げたフレームは、ダム建設という高度に政治
的なサブ政治が、閉鎖的な官僚機構の中で決定されたという非民主性であった。ダム計画
が鎮公所や地域住民の合意なしに策定され、調査などが全て終了した時点ではじめてその
全貌が公開されるというのは、協進会のみならず鎮公所も持っていた不満であり、鍾新財
鎮長下の鎮公所は 1992 年 12 月の公聴会でダム建設反対を表明した(『月光山雑誌』1992
年 12 月 19 日)。鎮民代表も第 9 会臨時会議の臨時動議で副主席の鍾騰華が美濃ダム建設計
画を取り消す提案を提出したが、主席の鍾富洪は民間組織の決議案を鎮公所が決めるべき
ではないと慎重な姿勢を示した結果、鎮長の鍾新財が多く公聴会を開いて民意を問うとい
う方向に落ち着いた(同、1993 年 1 月 19 日)。協進会のダム建設反対運動は、当初は鎮公所
と比較的親和的に進行したといえる。
これに対し、水資源統一規画委員会は、ダムの安全性を強調するとともに、ダムの治水
効果を訴えた。水資源統一規画委員会が中興工程顧問社に委託して地質やダムの運用方法
などを 17 冊にわたって報告させた『台湾地区南部区域美濃水庫可行性規画』環境アセスメ
ント報告書の中には、地形、水質、騒音、空気、生態環境などの面において、わずかなマ
イナス面があることが指摘された(中興工程顧問社、1989b:9-1-6)。しかしこれらの報告は
一般住民の目に触れることはなく、ただ住民にはダムの安全性と経済効果のみが強調され
た(『月光山雑誌』1992 年 12 月 19 日)。また、1998 年前後に頻繁に行われた、自転車など
の物品配布、豪華なダム見学ツアーによる住民の「説得」など、旧態依然ともいえる住民
への「ばらまき」は全国メディアや『月光山雑誌』に暴露され、かえって住民の反感をか
った(年表参照)。
この水資源統一規画委員会に対し、協進会はスタッフ自身のネットワークや、美濃出身
の学者の協力を得て、学術的かつ合理的な「調査」に基づいた言説を用いて、前述の公聴
会よりさらに広範な言説を形成してダム建設反対を訴えた(鍾、2003)。
第一に、ダム建設の根拠となる水需要予測の再検証である。ダム建設の根拠は、台湾南
部で水が不足するとの長期水需要予測に基づいていた(中興工程顧問社、1989a:2-34)。すな
わち、高雄地区を中心に水需要は増えていくため、それを補うために 2001 年には美濃ダム
93
を建設し、406.2 百万立米の水を供給するという計画である。実際、高雄市の水不足は頻繁
に新聞で報じられ、そのたびに「ダムは不要だ」というのは美濃鎮民の地域エゴだという
報道が行われた。協進会はこのため、高雄市での水不足はおきていないこと、および美濃
ダムは実は高雄市の水不足解消のためではなく台南県の湿地に計画されていた濱南工業区
の工業用水のために使われることを科学的データを用いて証明した。
第二に、第一点と関連するが、他の地域の社会運動、特に高雄県(市)、台南県(市)、屏東
県など南部のコミュニティ運動や環境運動との連携である。例えば、前述の濱南工業区に
建設が予定されていた七股湿地は渡り鳥であるクロツラヘラサギ(黒面琵鷺)の生息地であ
り、自然保護の観点から濱南工業区建設反対運動がおきていた59。そこで、協進会は台南の
濱南工業区建設反対運動と提携し、より広い支持の獲得をめざすとともに、NIMBY 主義60
の謗りを解消した。同様の戦略は、屏東との連携においても見られる。屏東では、美濃ダ
ムと同時期に原住民居住地区である瑪家郷にダムを建設する計画があり、藍色東港溪保育
協会(第 1 章参照)という環境保護団体がこれに対し建設反対運動を行っていた61。協進会は
同協会と提携することで、「美濃にダムは要らないが、屏東にはできてもよい」という
NIMBY 主義62ではなく、高雄県市と屏東県は高屏溪流域としてつながっており、流域全体
としてダムはいらないと主張することで、社会運動間の相互提携をめざした63。これらのネ
ットワークを形成した背景には、第 1 章で述べた各地の環境運動の隆盛があった。
59 湿地の保護運動のために海外視察をおこなったり、国際シンポジウムで自身の問題を訴える
様子は『台湾湿地』第 35 号(2002 年 4 月)の特集に詳しい。
60 NIMBY とは not in my backyard(=自分のところに迷惑施設ができなければ他のところに
迷惑施設ができてもよい)の略語で、NIMB とも略される。アメリカの草の根環境運動で生まれ
た用語。マーチャント(Merchant, 1992=1994:262)によれば、アメリカの草の根環境運動は主に
マイノリティ居住コミュニティへの原発やゴミ処理工場建設など迷惑施設の反対運動から始ま
り、その当初の関心は NIMBY である。しかし一部の運動は周辺地域との連絡網を作ることに
よって「誰の庭でも許さない」not in anyone’s backyard となり、そして「地球という惑星で許
さない」not on planet earth(NOPE)へと変化した。またこれらのマイノリティのコミュニティ
はしばしば迷惑施設の反対運動からコミュニティの復権運動へと発展する。アメリカのこのよう
な動きは、美濃ダム建設反対運動やその後のまちづくりに大きな影響を与えた。
61 屏東県林辺出身の曹啓鴻は、1994 年の省議員選挙時に大武山を屏東から台東方面に貫く高速
道路の建設反対など、早くから環境問題を訴えていたが、1996 年に屏東の知識人に呼びかけて
東港溪という川の保護運動を始めた(楊、2007:204)。これが藍色東港溪保育協会のはじまりであ
り、以後同協会は曹啓鴻と深いつながりを持ちながら、屏東県全体の自然保護や各地のコミュニ
ティ団体の組織化に関わっている。協進会にとって、藍色東港溪保育協会との提携は社会運動ど
うしの連携だけでなく、曹啓鴻という中央レベルの政治家とつながりを持ったという点で大きな
役割を果たした。そのつながりの重要性は、1999 年に元協進会スタッフの張高傑が立法委員に
当選した曹の助手を務めにいったことからも伺える。
62 水資源統一規画委員会は美濃住民へのダム建設説明会で、美濃ダム建設が不可能なら、水需
要を満たすために屏東県瑪家にダムを作ると発言している(『中国時報』1993 年 5 月 14 日)。当
時行政院長であった連戦も、高雄での視察の際、美濃にダムを作らないなら代替案として屏東の
瑪家に作ると発言した(『月光山雑誌』1994 年 8 月 19 日)。
63 協進会の総幹事であった鍾永豊は、協進会が美濃ダムにも瑪家ダムにも建設に反対している
ことを投書で述べている(『中国時報』1999 年 4 月 4 日)。
94
もう一つは、フェミニズムの観点である。初代スタッフの鍾秀梅が台北で学生時代に女
性運動に接触していたのを利用して、協進会は女性運動に支持を訴えた。例えば、全台湾
規模の女性団体である主婦聯盟の林淑英は美濃の隣町の杉林出身だが、『月光山雑誌』にダ
ム建設反対運動を支持する文章を投稿している(1993 年 12 月 9 日)。また、1999 年 12 月に
は協進会の女性スタッフや署名運動を主催した「カーネーション女性隊」の隊長の女性が
台湾中部の埔里の主婦団体にまねかれ、女性がコミュニティ運動に参加した経験を講演し
ている。立法院の陳情で貸し切りバスで北上した年配の女性たちが客家の伝統衣装を着て
陳情を行ったように、女性が自らの文化を表現しながら社会運動に参加するという経験は
一つの模範として、全台湾の女性運動に共有されていったといえる。
もう一つは、外国 NGO の支援である。社会現象となりつつあった東南アジア出身の配偶
者の研究をするため、鍾永豊をたよって美濃でフィールドワークを行っていたフロリダ大
学院生の夏暁鵑は、アメリカで河川保護団体との接触を図りながら、中央政府の頭越しに
国際色をまとった社会運動を展開した。鍾も 1994 年に夏を追いかけてフロリダ大学修士課
程に入学し、在学中にアメリカの NGO と積極的に交流を図った。たとえば、協進会は国際
的な河川保護 NPO で米国カリフォルニア州バークレーに拠点をおく International Rivers
Network の理事長フィリップ・ウィリアムズ(Phillip Williams)を 1993 年 12 月 18 日に美
濃に招聘し、講演させるなど国際ネットワークからダム建設反対を訴えたのは、鍾や夏の
アメリカでのネットワーキングの成果であった。また、初代協進会総幹事の鍾秀梅も、総
幹事辞任後香港(1995 年)やオーストラリア(2000 年)に留学する中で、現地の NGO や研究
者と積極的に交流し、美濃に招待して講演会を行ったり、イベントに招待したりした64。2001
年に美濃で博士論文を書いた台湾系米国人のジェフ・ホウ(侯志仁)も、在籍していたカリフ
ォルニア大学バークレー校でのネットワークを活用して、1990 年代を通じてバークレーと
美濃の交流に奔走した。ホウは濱南工業区反対運動や宜蘭のまちづくりに関わっていたこ
ともあったため、台北で NGO の記者会見を開くなどして美濃と台湾国内の社会運動との連
携にも大きな役割を果たした65。協進会がこれらの国際 NGO の応援を受けていることは、
外交的に不自由な台湾にとって、国外へのアピールのみならず、翻って台湾内に向けても
協進会の存在感を示す大きな宣伝材料となった66。
このようにメディアや社会運動のイベントで言説を操作しながら、協進会は実際の主戦
1999 年 11 月 20 日には、協進会の協力の下、反ダム大聯盟主宰で香港の許宝強教授がダム建
設反対運動の応援講演にかけつけている。
65 2005 年 7 月 28 日、ホウへの聞き取りによる。
66 このように、国内政府の頭越しに海外の機関と提携し、その提携を武器に再び国内政府に交
渉を迫る方法を、社会運動では「ブーメランモデル」と呼ぶ(Keck and Sikkink, 1998:12-13)。
このブーメランモデルは、台湾で有効に機能することがある。すなわち、外交的に不自由な台湾
で、NGO が外交補完能力を持つ、いわゆるソフトパワー外交の担い手として政府から助成金を
得ているのである(Chen, 2001; 佐藤、2007)。協進会も、2002 年にヨハネスブルクで行われた
地球サミットで、外交部の助成金を得て参加するなど、ソフトパワー外交の一端を担っている。
また、1993 年 12 月のウィリアムズの講演会も、
国際的知名度の高い NGO が美濃に来るとして、
事前に新聞で大きく宣伝された(『中国時報』1993 年 12 月 14 日)。
64
95
場を多方面に確保する努力を怠らなかった。立法院への陳情やデモ、台湾南部を中心とし
た社会運動間のネットワークによる共同陳情やデモなどである(年表参照)。美濃反ダム大聯
盟など民進党の後援会を母体とする動員装置や、協進会スタッフが協進会を離職の後に県
政府や立法委員の秘書に就任したことは67、既存の制度政治のうえで美濃ダム建設問題を取
り上げるのに寄与した。このローカルな動員装置については、次節で述べる。
これらの運動の結果、最終的に、美濃ダム建設反対運動は総統直接選挙という民主化の
完成に乗って、ダム建設停止宣言を得ることになる。2000 年の総統選挙でダム建設停止を
公約とした陳水扁総統は、国民党候補の連戦と国民党から離脱した宋楚瑜の分裂にも乗じ
て当選した。2000 年 8 月 6 日の高雄視察の際に「自分の任期内に美濃ダムは作らせない」
とし、協進会は暫定的とはいえダム建設停止を勝ち取った。その後 2008 年の政権交代後も
ダム建設は始まっていない。
このように、美濃ダム建設反対運動は、台湾化や環境問題、ジェンダーなどの言説を用
いながら、ネットワーキングを進める社会運動の波にも乗って、台湾の社会運動界や市民
社会全体に支持を獲得していったが、これは当時興隆する社会運動や制度政治の民主化と
密接に結びついていた。次節では、先行研究であまり述べられていないローカルな文脈を
検討し、本章のテーマである台湾地域社会における社会運動の視点を提示する基礎とした
い。
3
社会運動の「環境」①
―伝統社会と協進会―
美濃ダム建設反対運動や、ダム建設反対の根拠となる美濃の自然や文化に関する研究は、
台湾全体の民主化と台湾化、およびグローバリゼーションなど世界をとりまく言説を駆使
してダム建設反対運動を展開してきたことを明らかにした。しかし、先行研究は協進会を
はじめとするダム建設反対運動のアクターが「どのように」社会運動を進めたかに焦点を
あてても、その社会運動が発生するローカルな「環境」(序章参照)、すなわち地域社会の政
治、階層などの社会構造、地縁血縁など伝統社会の諸様相との連関から「なぜ」社会運動
がそのように展開するのかを研究してきたとは言いがたい。例えば第一に、言説の操作だ
けでは地域住民を動員できない。そこには地縁や血縁など、言説操作とは異なる地域社会
のネットワークが動員装置として機能していた。第二に、何明修(2006)は、民進党からの自
立/民進党への依存が社会運動の成否を決めたと論じたが、そこでは「なぜ」貢寮の原発
建設反対運動が民進党に依存し、美濃ダム建設反対運動は民進党から自立したのかという
問題が問われていない。すなわち何の研究はローカルレジームの問題、すなわち貢寮で当
張高傑は、協進会スタッフ辞任後の 1999 年、半年ほど屏東出身の立法委員曹啓鴻の助手を務
めながら、美濃ダム建設反対運動と、屏東の社会運動の連携を行った。また、協進会初代スタッ
フの李允斐は高雄県長の余政憲の秘書をつとめ、李の辞任後、1999 年に同じく協進会初代スタ
ッフの鍾永豊が 2000 年まで秘書職を継いでいる。2005 年 8 月 20 日張高傑、2005 年 11 月 28
日鍾永豊、それぞれへの聞き取りによる。
67
96
時、民進党(もしくはその前身の党外)以外に連携する政治資源がなかったことを論じていな
いのである。また美濃の地域社会のネットワークとダム建設反対運動の関係を論じた林福
岳(2002)も、同様の部分が等閑視されている。すなわち、林は美濃の里長や鎮長などの地域
政治アクターや月光山雑誌などの鎮内メディアがダム建設反対の鎮民動員に大きな役割を
果たしたことを述べているが、林の研究では、地方派系の存在故にグレーゾーンなき対立
関係に覆われた地域社会の中で、
「なぜ」対立を越えた動員が可能になったのかは明らかに
されていない。
そこで、本節と次節では前節での先行研究と事実関係の整理を踏まえて、国レベルや世
界レベルではなく、その下の中範囲、すなわち地域社会レベルからダム建設反対運動に関
する分析を今一度進める。ここでは前節で述べられた「どのように」事態が進行したかと
いう事実関係が、
「なぜ」そうだったのかを問い直すことになる。本節では、協進会の運営
方法が血縁社会の規範に沿ったものであることを述べる。そこでは、若者が進める社会運
動が地域社会の年長者を動員するための装置として、年長者をたてる長幼の序という規範
が活用されていたことがわかるとともに、その長幼の序ゆえにスタッフの離職率が高くな
ったことが明らかになる。そのうえで、次節でローカルレジームの変動を分析し、ダム建
設反対運動がなぜ前節や本節で述べる展開したのかを論じたい。
協進会は 1994 年に団体登記を行い、会則を会員大会で承認するなど、表向きは制度化を
図ったが、実際の運営は、会則に書かれた書面的かつ制度的な活動規定とはかけ離れたも
のであった。協進会のスタッフは、地域社会の権力構造を反映した形で組織を形成したの
である。つまり、
「理事」という形で年配のローカルエリート、具体的には地元の教師や名
士を取り込んでいった。しかしこれらの理事は通常の団体運営には関わらず、念に 3,4 回行
われる理事会で団体の大まかな方法を議論および承認する程度で、通常はむしろ同郷会や
ロータリークラブで寄付を集めたり、イベントの先頭に立ったりするなど、認知度をいか
して協進会の「顔」となった。また、これらのローカルエリートは、自身の知名度をいか
してダム建設に反対する論考も月光山雑誌や全国紙に積極的に発表した68。理事、監事は鎮
内で発言権のない若者に代わって協進会を代弁したが69、実際の運営は若者に任せていたと
いえる。
ここには、コミュニティの秩序を守りながら社会運動を進めようとするスタッフの考慮
があった。認知度の低い民間団体で働き、かつ勉学などで長年美濃を離れた若者は、地域
社会の中に地位を持たないため、その言説はなかなか地域社会の中では信用されない。そ
のため、若いスタッフたちは立法院への陳情や各種デモで裏方の組織役にまわり、先頭に
年長者や地域社会の中で地位を持つ人物を配置した。理事・監事とスタッフという役割は、
地域社会の長幼の序を反映したものであったといえる。
例えば『中国時報』の人間副刊で、作家の呉錦発が故郷美濃への郷愁を書いたり(1993 年 9
月 23 日)、協進会名誉理事長で作家の鍾鉄民が高雄市の汚染を美濃に押し付ける不条理を批判し
たりしている(1993 年 4 月 16 日)。
69 2005 年 8 月 20 日、協進会元スタッフ張高傑への聞き取りによる。
68
97
このようなコミュニティの秩序を守りながらの協進会の団体運営は、地域社会の動員に
少なからず力を発揮した。第一に、協進会は教師を運営に引き入れ、その動員力を最大限
に利用した。例えば、八色鳥協会に参加していた協進会理事でもある若手教師が、若者を
学校経由でリクルートした。美濃出身の大学生から結成されるボランティア組織である「後
生会」のメンバーの中には、八色鳥協会に参加している教師からのリクルートによるメン
バーが多く存在した。学問を重んじる美濃の中で、教師の地位や資源動員力は大きいため、
協進会は教師の力を利用することで、コミュニティの秩序に外れない形で資源を動員でき
たのである。また、人的ネットワークのほかに、学校との提携は物的にも力を発揮した。
例えば、1995 年の外国人配偶者向けの中国語教室で、県政府教育局の「成人教育計画」の
助成金を申請する際、協進会のような社会団体からの申請が認められないため、協進会は
学校の名義を借りてこの助成金を申請し、これを得た(夏、2002:197)。このように、教師や
学校を利用することは、協進会にとって大きな資源となった。
第二に、文宣方面でも、協進会スタッフは年配のローカルエリートを立てた。例えば、
鎮誌や月光山雑誌では、自分たちで原稿を書く以外にも、理事・監事を含む年配のローカ
ルエリートに原稿を依頼することで彼らの名声や面子を立てた。これらのローカルエリー
トの文章は、鎮外に流出した美濃出身者を含め、内向きの視線を強く持つコミュニティの
動員、特に年配者の動員に大きく貢献した。協進会からすれば、この原稿依頼の過程は、
協進会の若者が、年配者の文筆能力を評価し、敬意を表すという機能もあった。
第三に、コミュニティの秩序は、立法院での陳情など年長者の動員に少なからぬ効果を
発揮した。協進会のスタッフは、このようなデモの先頭に年長者を立て、年長者が自信を
もってダム建設反対を訴えられるように腐心した。鍾秀梅は、年長者、特に教育を受けて
いない農民は表に立つことを当初いやがったが、自分達が発言すれば事態は変わると認識
すると、進んで前に出るようになったという70。それには、若者はデモの手配などを準備し、
年長者のパフォーマンスを影で演出する仕事が不可欠であった。そしてパフォーマンスの
手柄や面子を年長者に帰することで、若いスタッフは年長者の動員に成功した。実際写真
3-1のとおり、ダム建設反対運動のデモを示す写真は、常に年長者が先頭に立っている。
写真3-1 美濃ダム建設反対を訴えて出版された『重返美濃』(1994 年)の表紙。
70
2006 年 2 月 18 日、鍾秀梅への聞き取りによる。
98
第四に、この年長者の動員71は、そのまま地域政治アクターの動員にもつながった。すな
わち協進会の理事や協力者には、政党の後援会組織関係者や里長も含まれており、年長者
の動員は選挙時の緊密なネットワークを通じた動員にもつながった(林、2002)。例えば、協
進会と関連が深い反ダム大聯盟は、もともと民進党の後援会組織が母体となっている。そ
の中心人物である美濃長老教会の黄徳清牧師は、1992 年の立法委員選挙で美濃出身者が立
候補しなかったのをとらえ、民進党候補者の尤宏を美濃で最多得票させたが(『月光山雑誌』
1993 年 1 月 9 日)、2000 年の総統選挙でも陳水扁の当選に奔走している。また、協進会の
関係者には国民党員もいた。ダムサイトに隣接する集落に住むパパイヤ農家の黄廷生は国
民党員であったが、ダム建設に反対を表明し、鎮内で支持者を増やしていった72。このよう
に、年配者の政治ネットワークは、若いスタッフにはない力を発揮した。
これにより、協進会は若いスタッフが政党色を排除した超党派の立場をとって異なる政
治的立場の年長者をまとめ、年長者は自らが持つ政治ネットワークをいかして政治動員を
かけるという二重構造を形成した。政治対立に覆われた地域社会、もしくは台湾全体の中
で、若者は超党派の動員を、年長者は各自の所属する政治勢力の動員を担ったのである。
そのため、協進会は美濃鎮長の鍾新財とダム建設反対で一致したため協調路線をとったが、
基本的に若いスタッフはローカルレジームと一線をおきながら運動を展開した。例えば、
もともと 1998 年の鎮長選挙では、ダム建設反対運動を進めるために、鎮長候補を協進会の
中から擁立する声もあったが、傅瑞智と鍾紹恢に勝てるだけの適切な人物が協進会内に見
つからなかったのと、鎮長ではダム建設をとめる権限はないという判断とで、擁立は断念
された73。そして、鍾紹恢の鎮長当選にともない、協進会は環境問題や客家文化など、台湾
文化の実体化政策である社区総体営造(次章で後述)へとその重点を移行していった。地域社
会の秩序が支配する領域は年長者に任せて、若いスタッフは県政府や中央政府へと進出し
ていき、さらなる資源の導入を図ったのである。これは、地域社会の長幼の序をいかした
方法であるといえる。
コミュニティの秩序をいかしたコミュニティ運動は、屏東県林辺にも見られる。林辺で
は、民進党の後援団体を前身とする林辺民主促進会に対し、派閥の利害なしにコミュニテ
ィの「公益」を追求するという同様の目的は維持しつつ、民主促進会の持つ政治色を薄め、
台湾の仏教団体である慈済基金会の信者や地元教師なども参加した林仔辺文史工作室が
71
この年長者の動員には、年長者がUターンして生き生きと働く若者に触発されたことも大き
く影響している。第2章で述べた協進会第2代理事長のように、若者が鎮外で働くのがいいと思
っていたのが、自らの娘の帰郷で考えが変わったというのは、協進会に関わる若者たちが年配者
の伝統的価値観を部分的とはいえ変えていったことを表している。教師のL氏は協進会の若者が
あまりによく働くので彼(女)らの健康が心配だったという。2006 年 3 月 3 日、L氏への聞き取
りによる。
72 公共電視台テレビ番組「原郷逝水」(1999 年放送)でのインタビュー。
73 2009 年 4 月 4 日、フィールドノートより。協進会元スタッフや理事など、複数からこの指摘
を受けた。
99
1997 年に結成された。このとき、屏東県下で広くコミュニティ運動を展開していた藍色東
港溪保育協会は、コミュニティ運動のアイデアや助成金獲得などの能力を見込んで、文史
工作室総幹事に阿悦を推薦し、阿悦が総幹事に就任した。果たして、阿悦はニューズレタ
ーの刊行やエコキャンプの開催など、コミュニティ運動らしいバラエティ豊かな活動を実
行したが、農民や村長らの話合いが「自分の経験にもとづいて勝手に話すだけで、民主的
な討論をしていない」として、就任 2 年後に地域社会の地域政治アクターと衝突、結局辞
任する。しかし、高く売れる上質な蓮霧(ワックスアップル)の栽培を、進取の気性をもって
探究してきた農民にとっては、厳密に計画せずにまず実際に行動し、そこから形を整えて
議論し計画していくことこそが林辺の行動スタイルであった。ここで企画書や助成金計画
ありきの制度内化した社会運動に慣れた藍色東港溪保育協会は、自分達のスタイルではな
く林辺のスタイルこそがコミュニティ運動に最適であると学んだ。このように、林辺でも、
地元住民が主体の社会運動はコミュニティの秩序をいかして派閥対立を越えた「公益」の
創出という目的を果たしていった(楊、2007)。
もちろん、こういったコミュニティの秩序は、若いスタッフにとって必ずしも働きやす
い環境を提供しなかった。このコミュニティの秩序が動員効果の最大化を果たす一方、若
いスタッフには閉塞感をももたらし、高い離職率の原因ともなったのである。もともとス
タッフは鎮内の地域社会にニッチを持たないことは述べたが、それゆえに自分がコミュニ
ティ内でできることには限界があったため、スタッフは自分の力を発揮できる場所を求め
て 2,3 年たつと協進会を離職していった。1994 年の協進会の政府登記時のスタッフで、後
に台北市の客家事務や行政院客家委員会など客家事務畑を歩むあるスタッフは、協進会の
仕事で得た収穫について、以下のように述べている。
協進会の仕事で最も辛かったのは、コミュニティの文脈から逃れられないということで
した。そして、そのコミュニティの文脈というのは、外界と切り離されたものなのです。
仕事の中で得たものは、多くの人と知り合えたことです。仕事の中で様々な制約はあり
ましたが、コミュニティで生活しているという実感はありました74。
ここには、地位のない若者が伝統社会で生きる息苦しさが端的に現れている。長幼の序に
覆われた地域社会の中で、若者ができることは限られていた。また、高学歴の若いスタッ
フは本来美濃の外で仕事に就き、出世街道を歩むことを両親や親族から期待されており、
美濃に U ターンして、しかも地位のない社会運動団体で薄給で働くということはこれを裏
切ることを意味した。スタッフたちは、家族の期待を裏切る後ろめたさや、家族からの反
対に日々直面しながら働かなければならなかったのである75。このスタッフはその後も客家
2005 年 10 月 28 日、協進会元スタッフ F 氏への聞き取りによる。
大学まで行かせて外で立派に出世するはずだった子どもが、村に帰ってきてしまったという
親の嘆きを、美濃出身の歌手である林生祥は「秀仔帰来」(秀ちゃんが都会から帰ってきてしま
74
75
100
行政畑のポストを転々としているが、別の仕事に移ることで仕事の活力を保つことができ
ると話している。
また、後に若いスタッフが政府助成金の申請などに伴い、協進会の運営を制度化しよう
とすると、コミュニティの秩序はその障壁となることがあった。例えば、教師を通じた学
生のリクルート経路の結果、学生と教師という師弟関係は協進会理事とスタッフ(もしくは
後生会会員)となっても、なお個人的な関係を残す場合があり、制度的運営と対立した。理
事とスタッフは、ときに前述の師弟関係のような個人的関係を残し、協進会の理事が制度
的に総幹事や担当スタッフに何かをオファーするというのではなく、個人的な関係を利用
して特定のスタッフに何かを依頼するため、協進会のスタッフ内の指揮系統が乱れ、トラ
ブルが生じたこともあった76。しかし、地域社会のなかで若者は発言権を持たないため、協
進会スタッフが理事らに対して運営方法の改善を行うことはできなかった。
実際、スタッフはダム建設反対や美濃の文化復興など高い理念を持っていたが、離職率
は高かった。客家サークルなどでリクルートされた美濃出身の若いスタッフは激務もあっ
て77、2,3 年たつと離職し、他の機関で引き続きダム建設反対運動の外郭の役割を果たした。
例えば、第七小組時代からのスタッフであった李允斐は、民進党籍の高雄県長余政憲の秘
書になった。また、その李の紹介で、初期のスタッフの一人である古秀如は自由時報の新
聞記者になって美濃関連の記事を書いたり、また李が秘書離職後、総幹事を辞任した鍾永
豊が引き続き余政憲の秘書に就任するなど、協進会スタッフは様々な業界に進出してダム
建設反対運動を拡大した。客家サークルや、八色鳥協会の教師が率いる生態キャンプなど、
地域社会の中に一定の若者のリクルート口を確保していた協進会にとっては、若いスタッ
フが離職しても、それを埋めるだけの人材がいたため、スタッフが離職して外界でダム建
設反対のために引き続き働くことは、むしろ奨励されるべきことであった。協進会スタッ
フもそれを十分に承知し、かつ肯定的に捉えており、一定期間協進会で務めたスタッフが
辞職することを奨励していたという78。
このように、協進会は地元教師の地位、長幼の序、内向きの視線などコミュニティの秩
序を利用しながら、地域社会(鎮外在住者を含む)の年長者や学生の動員を行った。そして若
いスタッフは超党派、年長者は地域社会での地位や政治的所属をいかしての動員と役割を
分担することで、広範な動員を可能にした。このようなコミュニティの秩序は若い協進会
スタッフにとって力を発揮できないという閉塞感をもたらし、高い離職率を引き起こした。
った)という歌にしている。作詞は鍾永豊が担当した。交工楽隊アルバム『我等就来唱山歌』(1999
年発表)所収。
76
2007 年 10 月 9 日、元協進会総幹事P氏への聞き取りによる。
協進会の勤務形態は 2007 年ごろまで、スタッフは朝 10 時ごろ事務所に出勤し、夜の 12 時
すぎまで仕事するというのが常態であった。スタッフ同士はほぼ一日中顔をあわせるため、深い
人間関係を築く反面、息苦しさとも隣り合わせのため、スタッフの離職の原因ともなった。
78 2005 年 10 月 30 日、元協進会スタッフで現在南洋台湾姉妹会ボランティア W 氏への聞き取
りによる。
77
101
しかし、若者がたえずリクルートされる入り口を確保した環境下では、高い離職率は、か
えって外界へのネットワーキングを促進し、協進会の若者はしたたかにこれを資源として
いった。次節では、1990 年代におこった地域社会の政治変化を台湾全体ではなく、ミクロ
レベルの視点から分析する。そこでは、ローカルレジームの変遷が、ダム建設をめぐる美
濃の地域政治に大きく影響していることが明らかになる。
4
社会運動の「環境」②
―ローカルレジームの変動―
前節では、協進会の戦略が伝統社会のコミュニティの秩序に沿ったものであり、年長者
の動員や学生の動員を容易にしたことを明らかにした。しかし、コミュニティの秩序を守
るだけでは年長者の動員が可能になるとはいえない。なぜなら、前章で述べたように、地
域社会全体はグレーゾーンなき対立関係に覆われているからである。先行研究でも、何明
修(2006)は、協進会は鎮民に支持政党に関係なく超党派でダム建設反対を訴えたことがダム
建設反対運動に成功した原因だと述べているが、その戦略がなぜ可能であったのかを述べ
ていない。この分裂的な地域社会がダム建設反対をめぐって団結する、また協進会がその
ように鎮民を動員できる原因は、ローカルレジームの変化にあった。むろん、ローカルレ
ジームの変化は全国的な民主化の影響も受けているが、本節では一足飛びに全国的な民主
化からダム建設反対運動への影響を論じるのではなく、中範囲、すなわち地域社会のロー
カルレジームとこの社会運動の連関を論じる。これによって、中央政府からトップダウン
で下りたダム建設というアジェンダをめぐる地域政治の政治過程を明らかにしたい。
前述のとおり、鎮長の鍾新財79は 1990 年選挙当時には「経済活性化のためのダム建設推
進」を訴えて当選したにも関わらず、1992 年 12 月の公聴会ではダム建設反対を表明した。
そのため、協進会は鍾新財政権下の鎮公所とダム建設反対をめぐって協調路線にあった。
例えば、協進会は鎮公所から鎮誌の編纂を受注し、対抗言説の形成や(第 2 節参照)、団体運
営資金に充当することができた。また、協進会は台北でのダム建設反対のデモで鎮長を先
頭に立てて、ダム建設反対が鎮公所からも支持されていることをアピールした。
しかし、協進会は前述のとおり組織やスタッフ自体は政治的色彩を持たなかった。協進
会と鍾新財鎮長は後援会組織のように選挙票を動員するなどのパトロン・クライアント関
係があったわけではなく、偶然ダム建設支持において利害が一致したにすぎないことにな
る。なぜ鍾新財はダム建設を当初支持し、後に反対に転じたのか。
これは、地域政治における利益配分の問題に起因している。もともと鍾新財がダム建設
を支持する理由は、鎮全体の経済活性化というアジェンダ達成による鎮長選挙での票獲得
のほかに、外部資源導入にともなう「小さな機会」(前章参照)の獲得であった。すなわち、
79
鍾新財はもともと白派に属していたが、立法委員の呉海源(紅派)を応援したり、県長選挙で黒
派の余政憲を応援したり(『中国時報』1993 年 12 月 17 日)、1998 年の鎮長辞任後は新党に合流
して立法委員選挙に出馬するなど、地方派系の間を移動してきた(巻末年表参照)。この遍歴自体
が美濃のローカルレジームの変遷の激しさを物語っている(林、2002:197)。
102
鍾新財に限らず、中央政府が策定した美濃ダム建設を鎮長が受け入れれば、鎮長はそれを
懇意の地元企業に発注することができ、巨額の利益を得ることができたのである。しかし、
利益を得るパートナーであったはずの荖濃溪(前章地図参照)沿いで土砂採掘工場を営む経
営者が、土砂の買取価格に難色を示し、売買を拒否した(林、2002:197)。この工場の「ごね
得」に不満を持った鍾新財は、同工場が違法経営のうえに、ダム建設で巨額の利益を得よ
うとしているとして糾弾し、隣接する里の獅山里長許麒泉と同里の住民を率いて工場の撤
去を県政府に訴えた(『月光山雑誌』1992 年 6 月 9 日、1993 年 1 月 9 日)。結局鍾新財は工
場と住民の調停を、美濃東区ロータリークラブ会長で鎮民代表大会副主席でもあった鍾騰
華に依頼し、この事件をいったん収束させたが、これで鍾は「小さな機会」を受け取るこ
とはできなくなり、ダム建設を支持するメリットがなくなった。
鍾がダム建設反対を表明したのは、2 期目の鎮長選挙とも関わっている。白派の省議員で
ある鍾徳珍は 1990 年の鎮長選挙で鍾新財に協力したが、性格が合わず、1994 年の選挙で
は夫人の沈銀香を立てて鍾新財と争った(『中国時報』1993 年 12 月 9 日)。鎮長任期中に一
度土砂採掘工場との交渉決裂からダム建設反対を唱えた鍾新財は、再選を目指すうえで、
ダム建設推進を掲げる沈との対抗上、ダム建設推進に転じることができなくなり、「ダム反
対、財閥反対」のスローガンをかかげて鎮長選挙に出馬した。鍾はこの選挙で鎮長に再選
し、1998 年までの任期中を通してダム建設反対の立場をとり続けた。
このように、地域政治においては「小さな機会」の配分が上位政府からの政治の執行に
おいて大きく影響するといえる。もともとローカルレジームが上位政府からの政治アジェ
ンダを受け入れるときは、地域政治アクターと、それと協力関係にある地元企業や農会、
水利会など、サブ政治を執行する集団、すなわち前章で検討したローカルレジームの構成
要素たる統治連合が、鎮内で「小さな機会」を受け取ることで政治アジェンダの実行に協
力していた。地域経済の衰退によって鎮内で得られる資源が縮小するなかで、外部資源導
入レジーム下の美濃においては、立法委員や監察委員などが導入する中央レベルの資金や、
上位政府が策定した政策が、鎮内の統治連合に貴重な「小さな機会」をもたらしていた。
しかし、ひとたびこのローカルレジームが「小さな機会」の分配をめぐって分裂すると、
上位政府の政治アジェンダといえども地域政治アクターはこれを受け入れることはできな
くなるのである。
このような小さな機会をめぐる分裂のほかに、民主化にともなう台湾全体の政治変動や
ダム建設というイシュー自体も、美濃の政治アクターが国民党内部や派閥内部において離
合集散を繰り返す原因となった。以前はどの地方派系であるかを問わず、美濃では国民党
からの指名を受け、国民党員の票を動員すれば当選できた。しかし 1992 年末の立法院全面
改選で民進党が躍進したことからも分かるように、1990 年代は地方派系の所属が重要にな
るとともに、党籍をとわず、美濃鎮民の支持を得ることのほうが重要になった(『月光山雑
誌』1993 年 1 月 9 日)。また、1993 年の美濃鎮農会選挙では国民党系の紅派と非国民党系
の黒派が連合して内部分裂を重ねた国民党系の白派を破り、紅派の理事長が 23 年ぶりに当
103
選するという事態がおきた(年表参照)。そしてその後も4年間の理事長の任期の中で 6 人も
総幹事が交代するという混乱がおきている。つまり、地方派系や政党といった枠組みが 1990
年代半ばに流動化するなかで、支持政党よりイシューごとに美濃鎮民の是非を問う兆しが
できつつあったのである。
実際、その兆しの中で美濃住民は団結して選出してきた地元政治家の分裂を見、決断を
迫られた。
前章で述べたとおり、
1980 年に鍾栄吉が立法委員増加定員選挙に当選して以来、
美濃では地域社会の選挙では分裂しながらも、中央レベルの選挙では統一候補を選出して
外部資源導入をめざすという内向的外部資源導入レジームが形成されていた。しかし、ロ
ーカルレジームが「小さな機会」をめぐってダム建設という政策の導入に留保をつけると
同時に、中央政治の変動のなかで支持政党より「ダム建設」などの単一議題が選挙の集票
力を持ち始める中、ダム建設反対という内向きの視線を凝集したイシューもまた、ローカ
ルレジームを変動させた。以下、具体的にレジームの変遷をみていこう。
1994 年の省議員選挙で、省議員選挙で連続当選をめざした白派の鍾徳珍は、地方派系の
色彩が強い候補者の公認を国民党が避けたこともあって、同党の公認を逃し、鍾栄吉の後
ろ盾を得ながら鍾徳珍に替わって公認を受けた無名の鍾紹和に敗れる。
もちろん、前章で述べた内向的外部資源導入レジームにおいては、地域政治と上位政府
との連動がレジームを規定し、ひいてはそれが上位政府が策定した政策の執行のあり方を
規定する。すなわち、ローカルレジームは地域社会内で自己完結的に動くのではなく、政
策を執行するために、上位政府がレジームに介入することもできるのである。例えば、ダ
ム建設を強く推進する国民党の王金平を領袖に頂く白派の鍾紹恢が、1998 年 1 月に対抗馬
の傅瑞智を 8 票の僅差で破って当選したことで、鎮公所のダム建設反対の立場は大きく後
退する(『中国時報』1998 年 1 月 25 日)。傅瑞智は前職の鍾新財や鎮民代表大会の支持、お
よび協進会名誉会長の鍾鉄民の支持を受け、財政的には鍾紹恢より劣勢であったが、
「平民
対貴族の選挙」や「ダム建設に反対して故郷を守る」などのスローガンを掲げて鍾紹恢と
僅差に迫った。これに対し、鍾は当時省議員であった実弟の鍾紹和や叔父の鍾栄吉、さら
にはヘリコプターで応援演説にかけつけた省長の宋楚瑜の支持など上位政府の手厚い支持
を得て辛勝した(『月光山雑誌』1998 年 1 月 29 日、2 月 9 日合併号)。鍾は農会の理事を数
度にわたり歴任するなど、地域社会の中での地位を固めており、満を持して 1998 年の鎮長
選挙に臨んだ。そんな鍾にとって、1998 年の鎮長選挙は政治生命をかけた選挙であり、貴
族と批判されようとなりふりかまわず鍾栄吉やその後継者である鍾紹和、さらにその上に
いる宋楚瑜の豊富な外部資源の導入を頼んだ。宋楚瑜、鍾栄吉、鍾紹和ら中央レベルの政
治家にとっても、鎮長選挙の応援はきたる 2000 年の総統選挙などの中央レベルの選挙の前
哨戦として、票固めに寄与するものであった。かくして、中央レベルの政治家の介入によ
り、ダム建設を容認する鍾紹恢が鎮長に当選した。
当選後、鍾紹恢は傅瑞智を支持した鎮民代表と対立しながら、鎮公所の赤字財政を解決
する急務に迫られた。この急務を解決する際、宋楚瑜とのつながりは外部資源導入のため
104
に不可欠であった(『月光山雑誌』1998 年 1 月 29 日、2 月 9 日合併号)。美濃の外部資源導
入レジームは、地元政治家を越えて、直接最上級の政治家と結びつくようになるほどに、
美濃鎮の財政は悪化しており、また 2000 年の総統選挙出馬をめざす宋楚瑜にとっても、県
レベルの地方派系の頭ごしに地元政治家と結びつくことは利益のあることであった。しか
し各地の地方建設業者と深い関係を持つ宋楚瑜への接近はとりもなおさず、ローカルレジ
ームの中央政府に対する自律性が低下する、すなわち鎮公所のダム建設反対のスローガン
が遠のくことを意味した。
しかし、そのローカルレジームは再び中央政治の流動を受けて変化を始めた。鍾栄吉は、
その党務系統キャリアにもかかわらず、蕭萬長行政院長下(1997 年-2000 年)では重用されず、
2000 年の総統選挙に立候補すべく国民党を離党した宋楚瑜を支持すべく、2000 年 2 月に
国民党を離党したことはすでに述べた。また、省議員時代に宋と近く、1998 年に立法委員
に当選した甥の鍾紹和も早くから宋を支持した(『中国時報』1999 年 11 月 22 日、
『月光山
雑誌』1999 年 12 月 9 日)。しかし、鍾紹和の兄にあたる当時の美濃鎮長鍾紹恢は、高雄県
白派の大老王金平の後ろ盾があるため、ダム予算を立法院で強行通過させた国民党の総統
候補である連戦を支持した(『中国時報』2000 年 2 月 26 日)。1998 年の鎮長選挙で鍾紹和
と鍾栄吉、さらには宋楚瑜まで中央政府レベルの手厚い支持を得て当選した鍾紹恢は、新
しく出現した 2000 年の第 2 回総統直接選挙において、中央政治の国民党の分裂を受けて、
鍾栄吉と鍾紹和から決裂して国民党の連戦を支持したのである。この政治家一家の分裂と、
鍾紹恢がダム建設を表明する国民党の支持にまわるという「裏切り」は、美濃鎮民にとっ
て大きな衝撃となった。それはまた、統一候補を中央レベルの政治において立てて内向き
の視線を凝集させるという方法が通用しなくなることを意味した。美濃鎮民は鍾紹恢=連
戦と鍾紹和=宋楚瑜の二つに分裂することを迫られたとき、支持政党如何にかかわらずダ
ム建設というイシューが投票行動の決め手となった。総統選挙直前の『月光山雑誌』(2000
年 3 月 9 日)には、ダム建設を明確に推進する国民党へのネガティブキャンペーンを張った
大きな記事が掲載された。
統治連合内のアクターが「小さな機会」の分配をめぐって争ったり、中央政治の変動に
合わせて合従連衡を繰り返すうちに、もはや支持政党よりもイシューごとに美濃鎮民の是
非を問う兆しができつつあったことはすでに述べた。これに乗じて、協進会のダム建設反
対運動や里長やロータリークラブなど地域政治アクターは、前述のとおり「ダムは美濃鎮
民の生命を脅かす」というフレームを掲げて美濃鎮民のアイデンティティに訴え、鎮外に
流出した美濃出身者を含めて鎮民の「内向きの視線」(前章参照)を凝集していった。その結
果、鎮民のダムに対するイメージは地域経済活性化のあいまいな期待を乗せた金の卵から、
生命を脅かす悪夢へと変貌した。ダム建設は選挙票の見込める公約から選挙票を減らす公
約へと変化していったといえる80。例えば、1994 年の鎮長選挙での鍾新財の勝利も、むし
月光山雑誌主催の美濃ダムに関する意見調査では、賛成約 2 割、反対約 6 割、どちらともい
えない約 2 割であり、ダム建設反対がすでに多数を占めている(『月光山雑誌』1993 年 5 月 29
80
105
ろダム建設反対を掲げたほうが、得票が見込めるようになったことを証明した。また後に
1999 年、国民党が立法院で美濃ダムの予算を強行採決した際、鍾紹和や宋楚瑜もダム建設
反対を表明している(『月光山雑誌』1999 年 9 月 9 日、11 月 9 日)。このように、ダム建設
反対は、政治アクターの所属する派閥に関わらず、美濃鎮民の票を動員できる一つのイシ
ューとなった。このように影響力をもったイシューは、ローカルレジームをも変えていく。
果たせるかな、ダム建設というイシューは、美濃の選挙のアウトプットに変化を与えた。
2000 年の総統選挙で、国民党の白派優位と言われていた(第 2 章参照)美濃でも、美濃ダム
建設停止を公約とした陳水扁は美濃鎮総票数の 41.9%の得票率を得た(『月光山雑誌』2000
年 3 月 19 日)。宋の得票率は 33.2%、連戦の得票率は 23.7%であるから、宋と連のいわゆ
る国民党系の選挙票の分裂に乗じて、ダム建設反対を唱えた民進党が漁夫の利を得たこと
になる。これ以後、1994 年に始まった国民党白派本流の影響力低下は決定的となり、鍾紹
恢は 2003 年に収賄罪で逮捕されて美濃の地域政治から姿を消した。
本節をまとめると、1990 年に当選した鍾新財鎮長政権下でダム建設にともなう「小さな
機会」をめぐってローカルレジームが分裂したため、鎮長はダム建設反対を表明し、協進
会のダム建設反対運動もあって、これが鎮民の選挙票を獲得できるイシューへと変化した。
そしてまた、ダム建設反対をめぐる争いや中央政治の変動によってローカルレジームが流
動的になり、その流動に乗じて協進会は「内向きの視線」を凝集して政党や地方派系を越
えた超党派の立場でダム建設反対を訴えた。その結果、鎮民の 75%が反対に署名した(年表
参照)ダム建設というアジェンダは、鍾紹恢鎮長と県レベルの地方派系である白派の影響を
ローカルレジームから放逐するに至った。ローカルレジームは政策の執行のあり方を規定
するが、同時に、ダム建設反対という議題もまた、ローカルレジームの変動を規定したと
いえる(Stone, 1989:164)。このとき、内向きの視線という美濃の「環境」は、ダム建設反
対という議題の集票力をいっそう高めた。
5
小結
―地域社会における台湾社会運動論―
以上、本章では水利法および都市計画系統の検討と、ダム建設反対運動の発生および展
開を検討した。台湾の水利開発の大規模化に伴い、1963 年の水利法改正で水利をめぐる政
治の策定が中央政府に限定され、サブ政治の閉鎖化が進行した。本章ではこのサブ政治と
いう概念を提起したことで、社会運動が取り組んだダム建設反対という広義の政治的紛争
の歴史的淵源が、1992 年に突発的に現われたのではなく、水利開発の大規模化にともなっ
て長年の政策過程の結果出現した、住民にとって分裂を引き起こす政治問題であることが
明らかになった。そして、トップダウンの都市計画系統は、郷鎮政府や里など基層からの
ボトムアップを困難にした。そのような閉鎖的な都市計画系統で作られた美濃ダム建設計
画に対し、協進会が主導した美濃ダム建設反対運動は、当時の台湾全土の民主化と台湾化
日)。
106
の波に乗ってエスノナショナリズムやエコロジーの言説を活用し、同時に科学者などの専
門家を動員しながら学術的言説を用いて合理的にダム建設の不要性を訴えた。ローカルな
文脈に注目すると、第一に協進会の戦略は長幼の序や師弟関係などコミュニティの秩序に
親和的であった。これは若いスタッフの行動の障害ともなったが、スタッフはこれを逆手
にとって短期間で離職し、美濃鎮外にネットワークを広げていき、絶えず新しい若者を補
充していった。第二に、ローカルレジーム内の「小さな機会」をめぐる争いによる鎮公所
のダム建設推進の頓挫や、協進会のダム建設反対運動により、ダム建設は選挙票を獲得で
きる公約ではなくなった。このダム建設イシューは流動的な 1990 年代の美濃のレジームの
中で、単一議題による超党派の動員を可能にし、国民党白派の政治勢力を放逐した。
これらのダム建設反対運動の検討から分かることは、台湾の地域社会における社会運動
は、全国的な民主化や台湾化のほかに、地域社会の秩序やローカルレジームが大きく影響
しているということである。中央政府からトップダウンで下りてくる政策は、地域社会の
様相によってその受容のありかたが大きく異なる。例えば、第一章で述べた淡水は分裂的
な地方派系レジーム下で、社区総体営造という台湾文化の実体化政策を地方派系の政治ア
クターが担ったため、対抗する地方派系の抵抗でその政策が頓挫した。林辺では、栽培技
術の向上をめざす蓮霧(ワックスアップル)農家の向上心や探究心と、社区総体営造の担い手
の道路清掃など地道な戦略が合流し、社区総体営造の実行を通じて、部分的にせよ地域社
会を覆うグレーゾーンなき対抗関係を越えた信頼ネットワークができあがった。一方美濃
では、1990 年代を通じたローカルレジームの流動の中で、支持政党や地方派系に関係なく
単一議題ごとに支持を問う兆しができており、協進会の率いる美濃ダム建設反対運動はこ
れに乗じたといえる。
次章では、この美濃ダム建設反対運動の資金源となった台湾文化の実体化政策である社
区総体営造がどのように策定され、どのように協進会の地域社会における地位を規定して
いったのかをみていく。そこでは、社区総体営造の美濃の受容過程が前述した林辺や淡水
の例と大きく異なることが明らかになる。
107
第4章
社区総体営造と社会運動 ―コミュニティ運動の派生と変容―
1
社区総体営造政策の形成と展開 ―社区発展との比較から―
2
社会運動の制度内化と派生
―ダム建設反対運動から始まる終わらないコミュ
ニティ運動―
3
派生したコミュニティ運動① ―制度変革と自己変革のはざまで―
4
派生したコミュニティ運動② ―グローバル化と地域社会―
5
小結 社区総体営造が台湾社会運動に与えたインパクト
前章では、美濃ダム建設反対運動の形成と展開を検討した。そこで分かったことは、美
濃愛郷協進会が主導する社会運動には、全国的な民主化や台湾化のほかに、地域社会の秩
序やローカルレジームなどの「環境」が大きく影響しているということである。本章では、
協進会が主導する社会運動が「環境」から脱埋め込み化される側面を検討する。すなわち、
社会運動が地域社会を変えるための基礎となる社区総体営造の政策過程と、それが社会運
動や地域社会にもたらしたインパクトについて検討する。台湾政府の社区総体営造政策は
一種の地方文化実体化政策であり、その理念と政策展開は、協進会が主導するダム建設反
対運動に重要な言説と資金の源泉となり、さらにその運動実績が様々なコミュニティ運動
を新たに派生させた。社区総体営造の資源を用いたコミュニティ運動から派生した新たな
社会運動は、地域社会の中で新たな課題に取り組む一方、社会運動を地域社会から脱埋め
込み化し、その政策実行に付随する高度な知識は社会運動をして地域社会から卓越化せし
めた。卓越化した社会運動は再び地域社会へと向かい、また社区総体営造政策自体へのフ
ィードバックをもめざすこととなるが、この側面は次章で述べるとして、本章ではまず、
社区総体営造の政策過程とそれが社会運動に与えたインパクトを検討する。
本論文で述べる卓越化とは何か。台湾のコミュニティ運動は社区総体営造を通じて台湾
文化に関する言説を得、それを解する運動関係者たちを、日常のグレーゾーンなき対抗関
係に籠絡されている人々とは異なる、公益にもとづく高度な社会関係資本を持つ「上品な
(distinctive)」真の市民として統合し、それを解しない総じて低学歴の地域政治アクターか
ら区別した。この区別する実践を、ブルデュー(Bourdieu, 1975=1990:25-42)の用語になら
って本論文では卓越化と呼ぶ。ブルデュー(Bourdieu, 1975=1990)によれば、ブルジョワジ
ーはオペラや展覧会など、社交的儀式を行う機会を提供し、親の代からの文化資本を受け
継ぐブルジョワジーはそれに参加することで、彼らを統合すると同時に成り上がりの新興
ブルジョワジーから区別(distinct)する、すなわち卓越化する(distinction)。このような卓越
性、すなわち弁別的記号と力の象徴は、個人の「権威」や「教養」という形で身体化され
るだけでなく、モノの上でも物象化される。その区別は、協進会や旗美社区大学、南洋台
湾姉妹会の台湾文化に関する言説を用いた様々の展示やイベントに具現化された。ただ区
別するという意味では実体化、差別化という用語も本論文では使ってきたが、本論文で卓
108
越化といった場合は、そこに上品さや高い公共性を担う中産階級といった階級的な違いを
伴って差別化することを表すことにする。
本章の構成は以下のとおりである。1.では 1960 年代から 70、80 年代を通じて続くコミ
ュニティ政策である「社区発展」(中国語でコミュニティ発展ないし開発の意)政策と、1990
年代から始まる社区総体営造81政策を比較し、両者の出現する文脈の違いや担い手の違いか
ら社区総体営造の特色を検討する。2.では再び焦点を美濃に戻し、ダム建設反対運動の進
行する中で社区総体営造にともなう団体の派生が見られたことを明らかにする。3.ではそ
のように派生した旗美社区大学の地域社会における活動の範囲を検討し、それが地域社会
の権力構造を離れるメカニズムを検討する。4.では派生したもう一つの団体である南洋台
湾姉妹会が、グローバル化という地域社会の新たな局面に取り組む過程でもたらした、地
域社会やコミュニティ運動のネットワークとの相互関係を分析する。これらの検討を通じ
て、社区総体営造が社会運動にどのような影響を与えたのか、社会運動の変容と地域社会
内における社会運動のネットワークの変容を俯瞰したい。
1
社区総体営造政策の形成と展開 ―社区発展との比較から―
台湾の全国的コミュニティ政策は、社区発展政策が 1960 年代に策定されて以来、1990
年代まで連綿と続いてきた。劉梅玲(2005:218)は、屏東県萬巒郷五溝水地区を例に、その社
区発展の延長線上の政策として、台湾文化を重視した社区総体営造が始まったと述べてい
る。確かに、劉家という単一宗族の秩序に支配された人口約 1,500 人の伝統的単姓村で、
社区発展のアクターと社区総体営造のアクターが重複している劉のフィールドでは、その
説明は一定の整合性を持つ。しかし、本論文で検討するように、両者の担い手が異なるケ
ースもある上に、社区発展と社区総体営造とは策定された文脈や担い手に違いがあるので
あり、これらが劉の研究で十分に検討されているとは言いがたい。そこで本節では、まず
社区発展の形成過程を述べてから、そこで解決できなかった問題があったことを示す。続
いて、社区総体営造の政策過程を社区発展と比較検討しながら、社区発展で解決できなか
った問題が社区総体営造で解決できる可能性ができたことを明らかにする。まず社区発展
政策の形成過程から検討しよう。
社区発展の前身は、農復会(第 2 章参照)と省政府による農村生産力向上政策である。1955
81
楊弘任(2007)の著書で、社区総体営造と社会運動が同義扱いされているように、社区総体営
造という用語は、社会運動とほぼ同義で使われる場合と、専ら政策を指す場合とに分かれ、混乱
を招いてきた。この混乱は、みていくように、社区総体営造という現象自体が「上からの」政策
としての側面と、社会運動がこれを実際に担ったという「下からの」側面を併せ持つ、両義的な
現象であることに起因している。しかし、本論文ではこの社区総体営造をめぐって政策と社会運
動がどのように互いに呼応したのかを分析したい。そのため、本稿では用語の定義の都合上、専
ら社区総体営造を「上から」策定された政策の意味で用い、民間社会からの「下から」の問題解
決や文化の実体化の動きは社会運動と称することにし、両者の相互関係の過程を追うことで、こ
の社区総体営造という用語をめぐる混乱を解決したい。
109
年から 1957 年の間、農復会は農民の生活向上のために台北県木柵、桃園県龍潭、宜蘭県礁
溪の三箇所で試験的に「基層民生建設」工作を行った(馬、1990:19)。その一環として、農
復会は国民党地方県市党部が地方の公益に関心を持つ名士からなる「基層建設委員会」の
設立を助け、同委員会に自主的にコミュニティ内の農業生産、公共衛生、社会福祉の向上
に取り組めるように支援を行った。これが「基層民主建設」事業である。この事業はその
後 30 あまりの郷鎮に拡大したが、国民党の外にいたいわゆる「民主派人士」から中央政府
がこれを行うのは中央集権的であるとの批判を受けて、その後中央政府から台湾省政府に
引き継がれ、省政府が自主的に続けていくことになった(徐、2004:25)。この省政府の政策
が社区発展に引き継がれる。
省政府が農復会から引きついだコミュニティ政策は、再度中央政府からの政策を受けて
続いていった。社区発展政策の直接の起源は、1965 年に行政院が公布した「民生主義現階
段社会政策」の中で、
「社区発展」が社会福祉施策七大要項の一つに入れられたことにさか
のぼる(徐、2004:25)。翌 66 年には台湾省政府社会処がこれを受け、国連82のコミュニティ
開発(community development)の補助金も得て「台湾省社区発展八年計画」を策定し、コ
ミュニティの基層づくり、福祉建設および「精神倫理」建設計画を実施した(台湾省政府研
究発展考核委員会、1982)。また、その実行主体の創設段階では、1968 年に行政院が「社
区発展工作綱要」を策定し、各省、県、市、町村レベルで社区発展委員会を作り、社区発
展の任務遂行責任を委託した。そして同委員会の指導にもとづいて各里や村に民間組織で
ある社区理事会が作られ、政府の助成金を得ながら各種事業を行った。社区発展の事業内
容は、社区理事会が政府の助成金を得ながら行う簡易水道工事や農業託児所、福祉施設な
どコミュニティのインフラ整備や、中華イデオロギーにもとづく精神倫理建設であった。
総じていえば、台湾の中華民国政府は国連の施策と国内の状況を受けて、台湾においてコ
ミュニティのインフラ整備、および中華イデオロギーにもとづく秩序強化政策を実行した
といえる。
この政策が実行された背景には、経済発展に伴い各地で進んだコミュニティの原子化へ
の対応と、農村の生産力向上という課題があった。したがって、社区発展とは、コミュニ
ティの原子化を押しとどめ農村の生産力を向上させるため、コミュニティのインフラ整備
や統合イデオロギーの浸透、社区理事会やその後身の社区発展協会など既存統治組織への
てこ入れ83を通じた、国民党政権を支える地域秩序の形成を図る政策であったといえる(劉、
2005:228)。このコミュニティの原子化抑制と農村の生産力向上は、台湾が国連を脱退した
台湾は 1971 年 9 月に脱退するまで中国の代表として国連の常任理事国であった。
台湾の 1990 年代の社区総体営造が、民主化や台湾化が原因で、社会運動など既存の統治組織
の外にある団体への資金投入を図ったのに対し、同時代の日本では、台湾の 1960 年代以来の社
区発展と同様、1970 年代から一貫して既存統治組織へのてこ入れを通じた地域活性化政策が行
われてきた。1980 年代末期の「地方の時代」と呼ばれた時代に、自治体が運営する第三セクタ
ーが次々と設立され、地域活性化を担ったのはその一例であり、台湾で社会運動団体が社区総体
営造を担ったのとは対照をなしている。『農業白書』を通じた地域活性化概念の分析については
秋津(1998)を参照。
82
83
110
後も政府の課題として残ったため、国連の補助金が途絶えたあとも、社区発展政策は国民
党政権下で 90 年代まで続いた。
しかし、市民社会は社区発展という政府資源を用いてコミュニティを整備する機会を得
たとはいえ、その活動範囲はきわめて限定的であった。第一に、社区理事会のメンバーの
顔ぶれは里民・村民大会と重複が多かったため、活動は事実上休止状態であった。第二に、
社区理事会は活動していたとしても、それは住民が上位政府に向けて政策を提言する住民
参加としては機能せず、政府の補助金の受け皿や展示という性格の強いものであった(薛、
1987:1-7)84。第三に、その補助金の用途の多くは公共インフラのハードな建設に当てられ、
形式重視の事業内容であった(黄、1995:19)。つまり社区理事会は、住民の根本的な政策や
政治腐敗への不満を上位政府に伝え、解決するシステムとはいえず、むしろ長期戒厳令下
で中央政府の政策には物申さず、投下された資源を黙々と消化する末端組織となっていた。
これに対し、社区総体営造では全く異なる文脈から民間社会への資源投下が始まった。
勃興する社会運動が突きつけてくる台湾化の要求の中で、国民党政権が台湾化の主導権を
民進党に譲らず、さりとて同党が民主化や地域社会の統制強化のために弱体化を狙う地方
派系には資源を投下せず、そして社会運動の急進化を防ぐために台湾文化の実体化を担わ
せたのが社区総体営造なのである。まずは若林正丈(2008:338-9)の研究を援用しながら、具
体的な政策過程をみていこう。
1993 年 5 月 20 日、当時の総統であった李登輝は、総統就任 3 周年の記者会見で、それ
までしばしば口の端に載せていた「生命共同体」のコンセプトの重要性を強調し、ついで
政府にその具体化を指示した。同年 10 月 20 日、文建会主任委員の申学庸は国民党中央常
務委員会に「文化建設と社会倫理の再建」と題する報告を提出、各県に作られている地方
政府の文化センターと文建会の関係を調節し、これらのセンターを通じて民間の社会文化
資源を統合していく形で「社区」の共同意識と倫理を再建すべしとの提言を行って、席上
直ちに李登輝の賛同を得た。文建会はさらに、翌 1994 年同会副主任に抜擢された人類学者
の陳其南が、日本の「まちづくり・むらおこし」や地方文化産業のコンセプトを応用した
「社区」住民の参加を重視する社区総体営造のコンセプトを提出、これも李登輝の支持を
得て政策化されていくことになり、インフラ建設を含め 126 億元の予算が計上された(蕭・
何、2006:162)。かくして李登輝のリーダーシップの下、陳其南という理論提唱者をも得て、
台湾独立などの急進的な台湾ナショナリズム言説は排除しつつ、台湾文化を実体化する政
策が、国民党および同党政権下の文化建設委員会という文化部門の政府機関主導で政策化
された。
このような政策が急速に作られた背景には、民主化や台湾化の主導権を掌握しようとい
う国民党の意図があった。申学庸が前述の報告の中で「われわれ政府単位が民間社会資源
の吸収を重視せねば、われわれ与党はこの豊富な資源を敵に譲り渡してしまうだろう」85と
84
85
第 2 章で述べたとおり、同様の構造は里民大会にもおこっている(Bain, 1993:160)。
『中央日報』1993 年 10 月 21 日、第 4 版。
111
危機感を表すように、翌 94 年末に初の高雄市(直轄市昇格以来)、台北市および台湾省長直
接選挙という大がかりな選挙を控えていた国民党は、各地で噴出する開発プロジェクトの
阻止運動や台湾文化復権などの社会運動に関わる台湾人の選挙票を、台頭する民進党に譲
るわけにはいかなかった86。また、同党は 1970 年代以来弱体化を図り、また民主化の中で
腐敗への批判がいっそう強まる地方派系に社区総体営造の資金を投下するわけにもいかな
かった。同党はむしろ中国ナショナリズムのレトリックの範囲内にとどまって党内右派の
反発を回避しつつ、率先して民主化や台湾化を進めてそれらの有権者の支持を得、選挙政
治の中で自らの確固たる地位を築こうとした。そしてそのために、国民党政権は地方派系
の牙城である県や郷鎮政府でもなく、民進党でもなく、
「下からの住民参加」を掲げて社会
運動に直接台湾文化の実体化を託したのである。言い換えれば、国民党政権主導の社区総
体営造は、自分に反目している、もしくはする可能性のある市民社会に対する懐柔、ある
いは妥協政策であったともいえる。1990 年代半ばにはその一環として、同党は台湾文化の
コンテンツたる「地方文化」を早急に実体化する政策の必要に迫られていた。具体的なプ
ロジェクト内容としては、民間団体に委託して地方文化博覧会を実施したり、伝統的建造
物の保存、村の歴史の編集を行ったりと地方文化の可視化が重視された(Lu, 2002)。
そして、社区総体営造は、2000 年に中央政府が民進党政権になっても形を変えて引き継
がれていく。民進党からすれば、元来は自らのアジェンダである地方文化の実体化を、政
権掌握後に止めてしまう理由はなく(若林、2008:339)、むしろそれを文化建設委員会にとど
まらず複数の中央政府機関にも拡大、整備していった。例えば客家委員会は、客家文化や
産業を専門に支援する機関として 2001 年に行政院の下に設立され、客家文化の実体化や客
家コミュニティの産業支援に関する補助金を民間団体に助成している。社区総体営造の助
成金の総額は文化建設委員会、客家委員会や原住民委員会の他にも、教育部のコミュニテ
ィ教育に関する助成金など、複数の政府機関が社区総体営造と呼べる助成金を出している
ため、また、文化建設委員会の中で社区総体営造に関する助成金は特定の費目に集中せず
様々な費目に分散しているため、把握しにくいが、2004 年度の文化建設委員会の「社区営
造業務」費目の支出は 75,681 千元で、文化建設委員会全体の支出(512,615 千元)の 15%近
くを占めている(行政院文化建設委員会、2005:31)。これを文化の実体化に頻繁に利用され
る視覚芸術の助成金(79,033 千元)と合わせると、実に文化建設委員会の予算の 3 割以上を
占める。政権交替後の 2009 年の文化建設委員会予算でも、社区営造業務の支出は 656,704
千元で87、減額はされているものの、なお視覚芸術に関する支出(1,689,355 千元)などと合
わせると当年度文化建設委員会の予算(7,534,801 千元)の相当な部分を占めている。
国民党の立法委員や中央委員は、同党 14 期 2 中全会にて、94 年末の選挙に向けた「社区工
作」の必要性を強調している。ここからは申学庸の危機感は政策立案者のみならず、有権者と直
接接触する現場の国民党政治家にも共有されていたと考えられる。『中央日報』1994 年 8 月 27
日、第 2 版。
87 文化建設委員会ホームページ、
http://www.cca.gov.tw/images/accounting/budget/2009/6.pdf(2010 年 2 月 15 日閲覧)
86
112
また、社区総体営造の関連法令も整備された。2001 年には「社区文化再造計画実施要点」
が策定され、地方政府に対する社区総体営造関連補助予算が制度化された。これによって、
県政府が主体となって中央政府の補助金を得ながら社区総体営造を実施することが可能に
なり、いわばコミュニティ政策の地方分権が進んだ。2004 年には、1980 年代以降にできた
社会運動団体のみならず、前述の社区発展協会や里・村弁公室などの内政部所管のコミュ
ニティ団体が政府の補助金を得ることを考慮して、文建会ではなく内政部が社区営造条例
を制定し、新旧コミュニティ団体の所管の統合をはかった(蘇、田、2004:7-13)。専ら社会
運動に与えられてきた社区総体営造の資源が、ここにきて前述の社区発展の脈を受け継ぐ
既存の地方政治アクターにも与えられることになったのである。そして、2002 年からはそ
の他にも各政府機関で行われてきたコミュニティ政策を統合するプロジェクトが進行中で
あり、2008 年の「挑戦 2008 政策」を一つの到達目標とした(同前、2004)。このように、
社区総体営造は、国民党・民進党政権を通じて続いており、
「どのように」台湾文化を実体
化するかという課題だけでなく、
「誰が」それを実体化するかという課題をめぐって変化し
ている。すなわち、社区総体営造において、中央政府から県政府、郷鎮政府、さらには市
民社会へと台湾文化の実体化をめぐるサブ政治の地方分権化という課題も浮上しているの
である。
しかし、このような中央政府の市民社会への資源投下にともない、一つの問題が生じた。
そもそも社区総体営造は「下からの」台湾文化の実体化を、助成金を投じて「上から」支
えるというパラドックスをもった政策であり、政府の思惑とは裏腹に、実際に政府助成金
の申請書を作成してそれを運用でき、かつ地域の歴史や文化に詳しい人材や団体は少なか
った(Lu, 2002:45-47)。すなわち、台北県や宜蘭県など地方文化の実体化を熱心に行ってき
た自治体を除き、市民社会が下から台湾文化の実体化を担える素地は台湾全土としてはま
だなかった。そこで実際にこれを実行したのは、コミュニティの環境悪化や社会問題を契
機に結成された社会運動団体であり、「文史工作者」と呼ばれる大学を卒業したばかりの若
者が実働部隊として働いていた。彼(女)らは社会運動に従事しつつ、コミュニティへの一定
の理想や知識をもちながら社区総体営造の助成金を受託することで生計を立てていった。
かくして、社区総体営造は台湾文化やコミュニティへの興味や理想を持つ学生や若者にコ
ミュニティ団体への就業機会を新たに提供した88。
このような有給専従スタッフを含め、いったん「社区住民参加」の名目のもとに政府か
らの資源を手にしたコミュニティ運動は、社区総体営造の助成金受託を通じて資金を得な
がら、社区発展では解決できなかった住民の不満の解決を試みるようになった。1990 年代
の台湾の社会運動は社区発展の資源を得ることはできなかったが、民主化と台湾化の産物
である社区総体営造の助成金を用いて、地方文化の実体化や、さらにその実体化の産物を
用いてコミュニティ開発阻止を訴えるなど、自らの目的の達成を試みるようになったので
内政部統計処(2005)によれば、民間団体の専従スタッフは 31,607 人、パートスタッフは
28,258 人(2004 年)である。
88
113
ある。例えば、本論文で検討する美濃では、協進会が社区総体営造で客家文化の実体化プ
ロジェクトの助成金を得ながらダム建設反対運動を展開したり、隣県の屏東県でも川の美
化運動などで助成金を得ながら河川開発反対運動に従事する社会運動団体が現れた(楊、
2007)。
本節をまとめると、李登輝指導下の国民党政権は社区総体営造という台湾文化の実体化
政策を通じて市民社会への資源投下を進め、その動きは民進党政権にも継承された。この
政策は、国民党が民進党のアジェンダを横取りする形で始まったが、勃興する社会運動団
体の急進化や民進党への傾斜を防ぐため、また、既存政治アクターである地方派系の弱体
化を図るため、既存の地方政治アクターではなく台湾文化に詳しい社会運動団体にこれを
担わせた。この担い手の違いと、中華文化ではなく台湾文化の実体化を図ったことが社区
発展と社区総体営造の大きな違いである。かくして社会運動団体は団体を政府登記して助
成金の受託に備え、安定した政府資金をえながらコミュニティの文化の実体化を図ったり、
その資金を流用してコミュニティ開発阻止運動を展開したりした。次節では本論文で検討
する美濃で、ダム建設反対運動を始めた協進会がいかに社区総体営造の資源を活用しなが
ら運動を続け、また様々な方面へと派生していったのかを分析していこう。
2
社会運動の制度内化と派生
―ダム建設反対運動から始まる終わらないコミュニティ
運動―
前節では、社区総体営造の政策過程と、その結果として同政策が社会運動に託されたこ
とが明らかになった。本節では美濃を例に、具体的にどのように社区総体営造が社会運動
を変えたのかをみていく。
ダム建設反対運動当初、協進会の財源は逼迫していた。もともと協進会の前身である第
七小組は助手一人分の給料を三人の若者が等分して活動していたが、協進会としてのダム
建設反対運動が始まっても、財源は地元のロータリークラブや同郷会など鎮内外の美濃人
の寄附などで、やはり潤沢とはいえなかった。1994 年 4 月の組織登記に伴い、人民団体法
にしたがって会員制や理事・監事制を導入したが、団体の制度化は進まなかった。例えば
第一に、団体の運営方法は透明性の高いものではなく、現在に至るまで一貫して団体の会
計報告は会員にさえも全て非公開となっている。実際、協進会を運営する若者が会計報告
を公開しなかったため、年長者は寄附集めに苦労したという89。第二に、スタッフは勤務時
間が夜の 12 時をすぎるうえ、1 万元余り90の月給からさらに持ち出しで機材購入に充てた
こともあったというように、その勤務形態はかなり苦しいものであった。
この状況を打開するきっかけとなったのが、文化の実体化プロジェクトの助成金であっ
89
90
2006 年 2 月 23 日、美濃愛郷協進会第二代理事長S氏への聞き取りによる。
2006 年 2 月 3 日、1994 年当時の協進会元スタッフG氏への聞き取りによる。2009 年現在、
新卒の協進会専従スタッフの月給が約 2 万元強であることを考えると、1994 年当時のスタッ
フはかなり薄給である。
114
た。例えば初期のプロジェクトとしては、鎮誌の編纂や高雄県の客家文化の調査事業は対
抗言説形成や原稿依頼などローカルエリートへの接触とともに、協進会の財源としての機
能を持った。もともと鎮誌は、前章で述べたとおり、1990 年に台湾省政府が各郷鎮市公所
に鎮誌を編纂するよう通令を出したのに応じて、鍾新財鎮長の下で、当初は月光山雑誌社
にその編纂が委託された(『月光山雑誌』2007 年 7 月 29 日)。しかし、月光山雑誌社はその
仕事を協進会に再委託し、ここに協進会が約 180 万元の予算で鎮誌編纂事業を受託した。
鎮公所が予定した予算は約 200 万元という当時の郷鎮レベルの鎮誌にしてはかなりの高額
であり、予算を審議した鎮民代表は「屏東の長治郷は予算が 17 万元なのに、なぜ美濃は 200
万元も要求するのか」とこの予算案を 2 度封鎖した(『月光山雑誌』1991 年 11 月 19 日)。
しかし、編纂された鎮誌は上下巻合わせて 3000 ページにものぼり、その出版は新聞で大き
く報道された(『中国時報』1994 年 12 月 31 日)だけでなく、その後の協進会や大学院生の
調査に頻繁に引用された。このように、鎮誌の出版は協進会にとって、ダム建設反対運動
のための対抗言説の形成、資源獲得、ローカルエリートのネットワーク形成のみならず、
その後の政府助成金の受託にも大きく寄与したといえる。
調査・出版事業のほかにも、協進会は政府からの助成金を得て様々な形で文化の実体化
を進めた。例えば、1996 年に高雄県立文化中心から受託した客家文物館の設計および企画
がそれである。これは鎮誌が鎮の予算で進められたのに対し、県政府の予算で進められた。
協進会の担当スタッフであった宋長青(2003:74)によれば、ここで問題になったのは「美濃、
客家の特色は何か」という問題であった。すなわち客家文物館の企画とは、鎮誌編纂の過
程などで蓄積された美濃に関する「特色」を同定し、それを視覚化することであった。ま
た、宋は仕事の中でコミュニティの複雑さを実感したという91。つまり、協進会は客家文物
館の企画によって客家文化を中心とする美濃の特色を同定・視覚化し、コミュニティの仕
組みを学んでいったといえる。かくして、美濃出身の県議員である黄国銘による妨害を受
けながらも、客家文物館は 2001 年 4 月 27 日に正式に開館する。
高雄県政府が客家文物館の建設を助成した背景には、同県地方派系黒派(第 2 章参照)の民
進党政権下における、郷土文化の一環としての客家文化重視がある。この文物館の他にも、
高雄県政府は〈本土化〉の一環として、1990 年代に陸続と客家文化重視の政策を打ち出し
た。例えば、文化建設委員会から高雄県政府に移管された文化イベント〈高雄文化節〉92(高
雄文化まつり)の記念すべき第一回は 199 年、客家文化をテーマに美濃で行われた。ここで
も協進会は高雄県政府から企画実施を実質上全面的に請負い、約 500 万元(推定)93の補助金
を受け取っている。また、1999 年 7 月 28 日に高雄県は台湾全土初の客家事務委員会を成
2005 年 11 月 29 日、宋長青への聞き取りによる。
〈高雄文化節〉は、行政院文化建設委員会が行っていた〈文藝季〉を 1999 年に県政府に移管
したもので、地方分権や郷土文化の重視を象徴している。
93 高雄県県政府から協進会に出た公文書からこの金額が推定できる。1999 年といえばダム建設
反対運動が最も激しく行われた時期であり、この巨額の助成がダム建設反対運動に有形無形で
流用されたことは容易に推測できる。
91
92
115
立させ、主任委員と副主任委員にそれぞれ美濃出身の鍾鉄民(協進会名誉理事長、作家鍾理
和の長男で自らも作家)、呉錦発(作家、後に文化建設委員会副主任)が就任した。中央政府
である行政院の下に客家委員会ができるのは 2 年近く後の 2001 年である。
これらの過程で、
県政府は協進会が高雄県の客家文化を実体化する能力がある団体であると知り、協進会も
自分達が県政府、さらにその後には中央政府にも必要とされていると知るようになった。
かくして、協進会は、鎮、県のさらに上位である中央政府からも助成金を得るようにな
った。その始まりは 1997 年に行われた、美濃で最も古い街といわれる永安路の調査事業で
ある。もともとこの永安路には 1994 年、この永安路 19 巷の拡幅計画が浮上するという伏
線があった。協進会はこの拡幅に反対し、第一に現場を多くの人に見てもらい、その価値
を知ってもらおうと「来去美濃売大眼」(前章参照)という永安路の見学イベントを行った。
第二に、拡幅に伴い、葉タバコで財をなし、日本統治期には庄長を輩出した名望家の林家
の門が撤去されるのに反対するキャンペーン「林春雨の三合院の門を救おう」を展開した。
その結果、1995 年 2 月、美濃鎮長(当時)の鍾新財と協進会の協議により、局部保存が決ま
った(『中国時報』1995 年 2 月 7 日)。このように永安路は協進会にとって活動実績のある
場所であり、既に自分達のネットワークを存分に活かし、展示できる空間となっていた。
そして 1997 年、協進会は文化建設委員会の社区総体営造の一環であった〈輔導美化地方
伝統文化建築空間計画〉
(地方伝統文化および建築空間美化指導プロジェクト)の助成(助成
金額推定約 100 万元)を受けて、永安路の調査を実施した。これは、協進会が初めて中央政府
の助成を受けた事業であり(『中国時報』1996 年 10 月 18 日)、協進会としては継続中であっ
た客家文物館の企画、ダム建設反対運動とともに、協進会の事業の三大柱の一つであった。
内容としては、すでにあったコーヘン(Cohen, 1976)の著書や鎮誌などすでに蓄積された研究
結果も用いながら、地元住民と議論して 17 箇所の歴史的ランドマークを選定し、台湾大学城
郷研究所の協力も得ながらそこに歴史解説パネルを設置するというものであった(美濃愛郷
協進会、1998)。
このプロジェクトは、美濃に関する知識が協進会にまた一つ蓄積されたほか、助成金での
雇用を通じてスタッフやボランティアなどの人材も大きく育ったという意味で、協進会にと
っては重要であった94(美濃愛郷協進会、1998:30)。例えば、洪馨蘭はもともと台北出身で、
清華大学社会人類学研究所修士課程で美濃の葉タバコ栽培の歴史を研究するため、美濃でフ
ィールドワークを行っていたが、協進会に誘われて永安路プロジェクトの有給専従スタッフ
に就任し、記念すべき初の中央政府の大プロジェクトを担当した。当時の生活を洪は以下の
ように語る。
94
助成金によって人材やネットワークが育つことは、美濃のみならず他の社会運動団体にとっ
ても社区総体営造受託の重要なメリットであった。台湾東部の花蓮県にある著名なコミュニティ
団体である黒潮基金会は、省政府が実施した 1999 年の「みんなで村の歴史を書こう」プロジェ
クトの報告書で、社区総体営造はコミュニティだけではなく、コミュニティに携わる心を持つ人
を育てることでもあったと述べている(呉ほか、2000:18)。
116
美濃の葉タバコ栽培に関する自分の研究も進めなければならないため、
(鍾)永豊(当時
の協進会総幹事:筆者注)に永安路プロジェクトのスタッフを何ヶ月できるかと聞かれ
たとき、1 ヶ月と答えました。しかし、この仕事が面白くなってしまい、自分から滞在
延長を願い出るうちに、とうとうプロジェクトが終わるまで美濃に住み続けてしまい
ました。何が面白かったかというと、人的要因が大きいですね。永豊らの視点は、田
舎をはるかに越えていました。常に物事を新しく解釈しなおし、批判するという雰囲
気が自分を引き付けたのです。互いに学びあい、成長するという雰囲気は都市にはあ
りませんでした。…(中略)…都市でわたしはエリート然としていました。高校時代は生
徒会長でしたし。でも、美濃では一人一人が将軍で、そしてその将軍もほかの人の兵
隊にならなくてはならないのです95。
このように、洪のような若者にとっては、このプロジェクトにおける関係者との生活は知的
好奇心を大いに満足させるものであり、自己変革を図る意味でもコミュニティ運動への参加
の意義は大きかった(洪、2007;2008)。実際、洪は永安路のプロジェクト終了後も美濃に残り
続けて新たな助成金を獲得し続け、そのスタッフを務めている。そして協進会のスタッフで
あった美濃出身の男性と結婚、2 子の出産を経て、後述する社区大学に夫と移ってからはそ
のブレーンを務めながら、ダム建設反対運動で中断せざるをえなかった学業の完遂を清華大
学博士課程でめざし、研究活動を精力的に続けている。このように、美濃以外出身者を含め
た若者が一年に数名、大学院に在籍しながら、プロジェクトで給料を得つつフィールド調査
を行うというスタイルが成立し、これが美濃でフィールドワークを希望する学生をひきつけ
た。これらのスタッフの中には、大学または大学院を卒業後も続けて協進会で働き続け、離
職もしくは美濃を離れた後も協進会に協力しつづける者もいる。このように、人件費を払え
るほどの大規模な助成金の獲得によって、協進会はローカルエリートのほかに鎮内外の大学
生や大学院生という、知的レベルが高くて活動能力もある新たな協力者をより深くとりこむ
ことができたのである。
文化建設委員会から専従スタッフを 1 年雇えるほどの大規模な助成金を得た協進会は、
その翌年の 1999 年も省政府文化処が文化建設委員会から資金を得て実施した「みんなで村
の歴史を書こう」プロジェクトの助成金を受託し、前年に引き続き洪馨蘭が主な担当者と
なった。このときは、協進会が 2 年連続で大規模な助成金を獲るのは政府としては好まし
くないのではないかとの考慮がはたらき96、地元の教師団体である八色鳥協会(第 3 章参照)
の名前で助成金を申請し、これを受託した。これは、美濃で 2 番目に古い集落で、コーヘ
ン(Cohen, 1976)のフィールドワークの地にもなった龍肚地区の歴史を調べるというプロジ
ェクトであり、コミュニティに関する知識やネットワークの構築に寄与した。同時に 1999
年はおりしも国民党が 5 月に美濃ダム建設の予算を立法院で強行通過させ、
「ダム建設反対
95
96
2005 年 8 月 1 日、洪馨蘭への聞き取りによる。
2005 年 8 月 1 日、洪馨蘭への聞き取りによる。
117
運動が最も激しかった時期」97でもあり、文化建設委員の助成プロジェクトにともなう資源
やネットワークは少なからずダム建設反対運動に活用された。
美濃の手法は、助成元の意図とずれがあったものの、結果的には文書によるプロジェク
トの結果提出を重視する政府の風潮になじむものであった。すなわち、文建会関係者の発
想としては、このプロジェクトは偉い学者ではなく市井の一般住民が当事者の視点で、自
分達の知っている口承の歴史を自ら語り、記録するという目的であった。当地の歴史を知
る住民の中には字を書くのが苦手な人もいるため、記録の方法は台中県東海村のような劇
の上演や、苗栗県のような住民が古いものを持ち寄って展示する「持ち寄り博物館」の形
をとるケースもあった。しかし、美濃の住民はコーヘンやパスタナックなど学者のフィー
ルドワークと接触していた。それらの学者との接触を誇りとし、読書人を自負する住民は、
自らが知る口承の歴史より学者の研究結果が権威のあるものと考え、口承ではなく学者の
研究をそのまま語り、また協進会のスタッフもそれを「住民の口承」としてそのまま載せ
た。すなわち美濃の「みんなで歴史を書こう」プロジェクトは住民の口承ではなく学者の
研究の丸写しとなったのである。協進会スタッフはさらに美濃に関する学術研究を豊富に
加え、文字文化を重視する美濃らしく、伝統的な『庄誌』の形で報告書『大家来写龍肚庄
誌』を作成した。このプロジェクトを計画した当時の文建会関係者によれば、美濃のプロ
ジェクト成果は文建会の意図と美濃の意図がずれた上に成立した、「一種の妥協であった」
98という。したがって、その報告書は台中や苗栗など非文字化を志向したプロジェクトより
も整った形で文書化され、中央政府にとっては親しんだ形での結果報告となった。このよ
うに精緻かつ学術用語を豊富に用いた文書作成能力は中央政府に評価され、この後も協進
会は次々と中央政府や県政府からプロジェクトを委託された。
かくして様々な形の台湾客家文化の実体化の実績を積んだ協進会は、陸続と政府の助成
金を受託していった。そして客家文化の実体化にとどまらない広範なコミュニティの問題
解決に取り組むべく、福祉、教育、農業経済など政府からコミュニティに関する様々な助
成金をも受託するようになっていった。例えば第一に、東南アジア出身の配偶者のエンパ
ワーメントに関する助成である。当時台湾で増えつつあった東南アジアの外国人配偶者の
研究をしていたフロリダ大学大学院生の夏暁鵑が、知り合った協進会スタッフの鍾永豊を
たよって、美濃でフィールドワークを行っていた。この東南アジアの婚姻移民(夏の言う「新
移民」)の先駆的な研究によって、美濃は勃興する女性運動からも注目された。1995 年 7 月
31 日にはインドネシア客家華僑を中心とした東南アジアからの婚姻移民を対象に、週 2 回
中国語(北京語)、特に字を教える「識字班」を夏が協進会の名義で開催した。このとき、夏
はパウロ・フレイレ 99の解放教育の手法を取り入れ、教師と受講者という地位の不均衡の解
2005 年 8 月 1 日、洪馨蘭への聞き取りによる。
2006 年 8 月 18 日、当時の文化建設委員会関係者N氏への聞き取りによる。
99 Paulo Freire(1921-)。 教えるものと教えられるものの権力の格差是正を主張し、
『被抑圧者
の教育学』(小沢有作ほか訳、亜紀書房、1979 年)(原著 Pedagogía del oprimido, Rio de Janeiro :
Paz e Terra、1970、英訳 Pedagogy of the Opressed, New York: Continuum, 1970)を著す。
97
98
118
消をめざした。また、夏は社会的弱者のエンパワーメントの観点から、識字班で単なる語
学教育にとどまらず、東南アジア出身の外国人配偶者が日頃遭遇する夫、姑、舅、その他
の親戚からの偏見や対立に対処し、かつ自分の意思を的確に伝えられるコミュニケーショ
ンの訓練をめざした。この先駆的な取り組みを協進会は積極的に宣伝し、美濃が社会運動
の盛んな先駆的な村であることをメディアに印象付けた。識字班の開講は『中国時報』(1995
年 7 月 14 日)で取り上げられたほか、この後夏らが識字班の制度化を立法委員を通して内
政部に陳情し、2000 年には内政部が「外籍新娘生活適応輔導班」を開始した(夏、2002:137)。
この協進会内における識字班の取り組みは後述する社区大学に引き継がれ、さらに識字班
の受講者であった東南アジア出身の配偶者たちと夏暁鵑が中心となって、2003 年 12 月に
南洋台湾姉妹会として独立した団体となる。かくして、協進会が作り上げたダム建設反対
運動のネットワークは、グローバル化する台湾の社会問題にも取り組んでいった。
第二に、協進会は地元出身の作家である鍾理和の子孫を理事長とする鍾理和文教基金会
の名義を用いて、2001 年に旗美社区大学の運営を高雄県政府教育局から受託し、当時の協
進会のスタッフ 4,5 名が専従スタッフとして社区大学へと異動した。社区大学は、大学教授
らによる構想が台北市で陳水扁市長(当時)の支持を得て 1998 年に始まった民間運営の成人
生涯教育機関で、第一号が 1998 年に台北市文山区に開校して以来、社会運動団体が主に都
市部や、コミュニティ運動のさかんな宜蘭や屏東で、社区大学の形式を用いて県(あるいは
市)政府教育局の助成金を獲得した。その中で協進会の人脈から派生した旗美社区大学は全
国で第 30 校目の社区大学として、農村教育の推進、すなわち一方で色濃く残る客家文化な
どのエスニック文化を学び、表現すること、農業を中心とする産業育成、および農村で比
較的少ない教育の機会の充足などを謳い、2001 年 3 月 3 日に開校した。旗美社区大学はそ
のスローガンである「全国初の農村型社区大学」が注目され、すぐに全国から取材や視察
が押し寄せ続けている。社区大学の全国通信誌『社大開学』に見られるように、同社区大
学は取材の際、一貫して農村のための社区大学であることを強調している。美濃出身で台
北市政府民政局を辞職して U ターン就職した協進会スタッフ温仲良は旗美社区大学につい
て、以下のように述べている。
われわれのように都市で勉強してきた知識人が田舎に帰ると、崇高な理念を掲げて地域
社会であれこれしたいと思うものです。しかし実際に農村に対する知識人の貢献は限ら
れた部分でしかできません。われわれは往々にして知らないうちに都市の観点を用いて
農村を見ていますが、これでは却って農村の主体性を引き出すことができないのです
(羅、2003:21)。
ここから分かるように、旗美社区大学の理念には、都市で学業を修め、もしくは就職して
から田舎に帰った若者たちの挫折感とコミュニティ運動の新たな方向性の模索がこめられ
ている。地域社会の様々な「しがらみ」や居心地の悪さに若者が直面したことは前章で述
119
べたが、若者たちはその結果自分達が農村の観点を理解していないと感じ、より農村に沿
った形での運動を模索した。その結果たどりついたのが、農村で教育を展開して農村の特
色を引き出す、かつ県政府の助成金でより制度化されて恒常的に運営できる社区大学であ
った。また同時に、旗美社区大学は社区大学の全国ネットワーキングシステムを用いて、
美濃の社会運動を全国の社会運動と結びつけ、資源の導入や宣伝を図ることも忘れなかっ
た。この社区大学の発生の過程や、全国のシステム、事業の詳細は次節で述べる。
ダム建設反対運動、台湾客家文化の実体化、また派生した他のコミュニティ運動を含め、
協進会はこれらを「ダム建設運動から始まる終わらないコミュニティ運動」100と称した。
その言葉には、ダム建設反対運動や客家文化の実体化だけではなく、そこから派生するコ
ミュニティの様々な問題に取り組み続けていく、また自分たちにはその能力があるという
自負がこもっている。このように、コミュニティ運動は制度内化の延長として、もとの団
体は存続しながらさらに新たな団体を派生させ101、広範なコミュニティの問題に取り組む
ようになっていった。
しかし、このようなコミュニティ運動の存続と派生は、社区総体営造という政策が「下
からの住民参加」という政策理念をより効果的に実現するために、社会運動団体を必要と
していたことと表裏一体であった。前述のとおり、中央政府や県政府などの助成元は、社
区総体営造政策の執行にあたり、政府資金を用いて政府の要求する成果を出す能力をもち、
あるいはその実績を持っている民間団体を必要としていたのである。中央政府が地方派系
に政府資金を投下しないのであれば、資金の投下先として社会運動団体が浮上したのであ
った。ましてその社会運動団体が美濃という有名な客家村にあれば、研究者や政府関係者
の期待は必然的に高まった。実際、永安路のプロジェクトの中間報告会で、審査員たちは
美濃への大きな期待をにじませた。例えば、桃園県大溪でまちづくりに関わった高雄大学
の曾梓峰教授は「美濃には資源も人材もあるのだから、このプロジェクトの失敗は絶対に
許されない」(美濃愛郷協進会、1998:54)と断言した。そして、実績を積んだ協進会に、政
府はさらなる成果を出すことを期待して次々と協進会に資金を投下し、その過程で協進会
も政府が自分達を必要としていると認知していった。
実際、実績を積んだ社会運動団体に対して政府は陸続と次のプロジェクトを実行するよ
100
『美濃愛郷協進会 工作成果報告書』(1998.10~2000.10)の表紙には、
「ダム建設から始まる
終わらないコミュニティ運動」とのスローガンが記載されている。
101 このような政府助成金というメカニズムによる社会運動団体の変化や派生は美濃に限った
ことではない。団体の派生は異なる目的を持つ人々が元の団体から分裂するというケースも存在
するが、特定の助成金の獲得のため、もしくは一つの団体が助成金を獲り続ける事態を避けるた
めに団体を派生させるのはコミュニティ運動の常套手段となっている。例えば、屏東の林辺では、
民進党の後援組織から分離して、政治色を薄くしてコミュニティ運動に専ら従事する団体が「林
辺民主促進会林仔辺自然文史保育協会」(通称林辺文史工作室)と命名されて 1997 年に成立した。
この長い団体名は、政治色を薄くし、また自然系の助成金(「自然」)も文化系の助成金(「文史」)
も両方とれるように、という藍色東港溪保育教会のアドバイスを受けた結果であった(楊、
2007:212)。このように、実績を積んだ台湾のコミュニティ運動団体は、特定の助成金を獲得す
るために団体を派生分離させていった。
120
う打診してきた。例えば、地元若手教師の団体で協進会の関連団体である八色鳥協会の黄
鴻松は、勤務先の龍肚小学校で県政府教育局の助成するプロジェクトの受託を 90 年代半ば
に県政府秘書であった李允斐から持ちかけられた(黄、2005)。李允斐は協進会の前身である
「第七小組」の創設メンバーであり、客家文化の調査プロジェクトに関わりながらダム建
設反対運動を進めていたが、運動上の考慮もあり、高雄県政府入りして県長の秘書を務め
ていた。そのプロジェクトが大きな成果をあげると、教育局のほうから「小学校パソコン
学習計画」など様々なプロジェクトの執行を依頼されるようになったという102。社会運動
団体も、地域社会のニーズやプロジェクト執行に関する専門知識のほか、助成金の運用知
識を蓄積し、助成金をより獲りやすいように団体を派生させ、特定の助成金に特化するな
ど専門化を遂げた。政府助成金には実績を出した団体へ投下されるという傾向があり、社
区総体営造のこの資金の性質が社会運動団体の制度内化、専門化、派生を進めたのである。
本節をまとめると、ダム建設反対運動は、ダム問題の元凶となった地域衰退への対応の
一環として地域文化を実体化した。その際財源となったのは社区総体営造の資金であり、
この政府資金は実績を積んだ社会運動に継続的に投下されたため、助成金受託の実績を作
ったダム建設反対運動の担い手たちは農村教育やグローバル化など地域社会の様々な問題
に取り組むなど活動範囲を広げ、広範囲なコミュニティ運動のネットワークを作り上げた。
コミュニティ運動は制度内化や専門化、さらに派生を遂げたといえる。しかし見方を変え
れば、このコミュニティ運動の制度内化と派生は、政府が社区総体営造政策の成果を期待
しうる社会運動団体を必要としていたからこそ始まったのであった。終わらないコミュニ
ティ運動は、うがった見方をすれば、助成元たる政府が社会運動団体を必要としていたた
めに始まったともいえる。
次節では、社会運動がこのような派生と政府助成金によって運営するという制度内化に
よってどのような変容を遂げたのかを、担い手の特徴にも注意しながら、派生した団体を
中心に分析する。
3
派生したコミュニティ運動① ―制度変革と自己変革のはざまで―
前節では、ダム建設反対運動と同時期に始まった社区総体営造政策、すなわち文化の実
体化政策の助成金を用いて、コミュニティ運動団体も協進会から社区大学や南洋台湾姉妹
会へと地域の問題を「発見」し、政府が助成の受け皿として社会運動団体を必要としてい
たこともあって、団体が派生していったことが明らかになった。その派生と制度内化は 2000
年の民進党政権誕生、さらに 2008 年の国民党政権になっても続いている。しかし、なぜコ
ミュニティ運動はそれらの方向へと派生していったのか。それは台湾全土の社会運動の潮
102
ただ、このようなプロジェクトを受託しても、受託した担当教師の人件費は「給料は所属学
校から出ているから」との論理のもとに、プロジェクトから加給されることはない。そのため、
現場の教師はプロジェクトを受託すればするほど無給での仕事を強いられ忙しくなる。2009 年
4 月 3 日、黄鴻松への聞き取りによる。
121
流や、社会変容と密接にかかわっている。また、そのような派生と制度内化によって社会
運動はどのように変わり、地域社会における社会運動の地位をどのように変えたのか。
本節と次節では、協進会から派生した旗美社区大学と南洋台湾姉妹会の発生を、前節の
ような地域社会におけるコミュニティ運動の派生という文脈ではなく、もう少し広く台湾
全土の動きから考察する。それらの文脈を加味したうえで、行政補完化と卓越化をキーワ
ードに、社区総体営造の受託によるコミュニティ運動の変容を分析する。便宜上、本節と
次節で社区大学と南洋台湾姉妹会に分けて記述するが、卓越化や行政補完化は同時代的に、
そして協進会にも起こっているできごとである。まず、台湾で新しい社会運動や制度内化
した社会運動の象徴ともいうべき制度の社区大学が美濃に導入される過程を考察する。
まず、全国的な社区大学設置の動きを、社区大学の理念や歴史を整理した黄武雄ら(2004)
の『成人の夏山』をもとに整理しておこう。社区大学は、1990 年代の学校教育改革に携わ
った台湾大学数学系教授の黄武雄が中心となって構想した。もともと黄は 1990 年に台北県
の教育委員会として参与しており、そのころにすでに社区大学の構想はあった。しかし当
時は実現には時期尚早で、具体案は 1994 年ごろに構想された。社区大学成立への本格的な
動きは、黄が政治大学教授の顧忠華、唐光華、史英の3名をさそって社区大学籌備会を 1998
年に発足させたところから始まる。籌備会は社区大学を全国組織にすべく、
「社区大学全国
促進会」を 1999 年 9 月 19 日に発足させた。当初の理念はいくつかの点にまとめられる。
第一に、知識を大学などの教育機関から解放する動きである。1970 年代に釣魚台防衛運動
に加わり、その後共産主義運動に関わったため長年台湾への帰国を許されなかった林孝信
は、社区大学設置にあたり「知識の解放」とは教える側、教えられる側の権力の不均衡を
解消するパウロ・フレイレの「解放教育」であると述べている。また、知識の解放は外部
への制度改革を志向するものである。第二に、社区大学は市民の公共圏の成立をめざして
いた。新たに到来した民主主義社会にふさわしい、新たな認識を台湾市民が習得し、また
市民の公共圏を成立させることを目的としていた。これらの理念は中国時報で 5 回にわた
って黄武雄がシリーズ報道し、社区大学の理念の普及を図った。そして 1998 年 9 月 28 日、
満を持して社区大学第一号の文山区社区大学が開校した(黄、2004:338)。
これらの一連の理念は、台湾社会運動のいくつかの流れを継承していた。第一に 1990 年
代の「台湾化」を志向する郷土教育に象徴される学校教育改革の続きであるといえる。大
学教授たちにとって大学の民主化運動、学校教育改革を完遂するために立ち表れた問題は
教師の教育であったが、次なる問題は生徒の父兄、すなわち一般市民の教育であった。学
校教育の完遂には父兄の改革への理解が不可欠だったのである。事実、社区大学全国促進
会の主要メンバーである清華大学教授の彭明輝は、1990 年代の学校教育改革のときに教師
の動員は容易であったが、生徒の父兄は動員が難しく、まず父兄を教育しなければならな
いという問題に直面したと述べている(同前、2004 :110)。第二に、これらの動きは台湾の
民主化と結びついていた。民主化は台湾ナショナリズムに関する言説を含め、様々な方向
での言論の自由をもたらした。その結果、政治的に不自由な時代を送った成人を教育する
122
必要があると大学教授たちは考えたのである。第三に、社区大学は社会運動の制度内化の
産物であった。籌備会自体は無党派であり、むしろ民進党から距離をおくメンバーや、長
年共産主義に共鳴して台湾帰国を許されずに海外で生活していたメンバーもいたが、民進
党と非常に近いメンバーもおり、そのメンバーが当時台北市長であった陳水扁に社区大学
に対する財政的支持を求め、陳水扁もこれに応じた。政府に対峙的であった社会運動が、
台北市政府という地方政府とはいえ、全面的に政府の支持を得て社会運動を行うのは画期
的なことであった。第四に、社区大学は全国の社区大学、ひいてはそれにかかわる社会運
動のネットワーク化を志向していた。これは 1990 年代には社区総体営造も全国的に展開さ
れる中で、全国の社会運動の経験を共有しようとする動きを社区大学全国促進会は明確に
反映していた。美濃の協進会という小さな社会から派生した社区大学は、これらの台湾全
土の文脈を美濃に持ち込むとともに、同時に美濃の経験を全国に向けて発する一つのルー
トを確立したといえる。第四に、社区大学全国促進会に参加する知識人にとって、台湾社
会全体の競争力向上は憂慮すべき課題であった。彼(女)らは、1931 年に成立したドイツの
「帝国民衆大学連合会」やデンマークの生涯学習など、国民全体の知識水準の底上げをめ
ざす機関を参照しながら、到来したグローバル化の時代において、外交的地位で困難を抱
える台湾が、少しでも世界的な競争力を持てるように、一般市民の教育を図ったのである。
社区大學の創設者が思い描く台湾市民像とは、地域社会の地方派系によるグレーゾーンな
き対抗関係にとらわれない、社会関係資本や公益のための言論空間を築くことができる自
立した市民であった(顧、2004:169)。社区大学をめぐる言説の言外には、グレーゾーンなき
対抗関係の克服と、それにとらわれている地域社会の人々、とりわけ地域政治に深くかか
わる人から自らを「一流の市民」として卓越化しようとする動きがみられる。
では、このような流れを持つ社区大学を、協進会は美濃という地域社会の中にどのよう
に導入したのか。一言で言えば、旗美社区大学はコミュニティ運動にとって、全国的な社
会運動の流れを地域社会に導入するものであるとともに、緊密な地域社会のネットワーク
の中で外部へのチャンネルを確保するものとして機能した。以下、もう少し具体的に事業
内容や戦略を見ていこう。
協進会の関係者は、ダム建設反対運動で作られた全国の社会運動とのネットワークをい
かしながらこの社区大学の制度を導入し、基本的には全国社区大学促進会がめざしたとお
りの上記の理念を地域社会で展開した。同社区大学のホームページ103によれば、その理念
は第一に「専門知識の普通化」
、つまり一般市民の教育機会の充実である。旗美社区大学は
特に農村部で教育の機会に恵まれなかった人に生涯教育を提供することを重視しながら生
涯教育講座を展開している。第二に「経験知の文脈化」
、すなわち住民がすでに知っている
経験を再度教育過程の中で整理し、様々な文脈に置き直していくことである。実際、社区
大学の講座の中には台湾文化、特に地域の客家文化や環境保護に関する講座も数多く開設
103「農村型社区大学設立の目的と意義:存在そのものが価値」参照。
http://cmcu.ngo.org.tw/node/503(2010 年 3 月 24 日参照)
123
された104。第三に「結社知の農村化」
、すなわち美濃など農村ならではの社会運動の組織化
や公共圏の確立である。そのため、旗美社区大学は単なる生涯教育の講座開講にとどまら
ず、学期の最後に成果を発表する「成果展」を開催したり、講座の中で班代表を作るなど
受講者の組織化を図った。同社区大学は講座のほかにも、様々なイベント開催などを通じ
て地域のまちづくりに関わる民間団体のネットワーク化をも同時進行させた。その結果、
観光産業従事者を中心に作られた各地域の地域活性化をめざす団体どうしを組織する体制
が旗美社区大学の中に成立した。旗美社区大学は、農村の実情に合わせながら、基本的に
は全国社区大学促進会を通じて全国的な社会運動の流れを導入したといえる。
しかし、同社区大学は全国組織の傘下に入った際、美濃の経験をたえず全国に向けて発
信し、名声を確立する戦略も忘れなかった。旗美社区大学はダム建設反対運動が一段落し
てから設立の準備が始まったため、その設立は屏東や宜蘭など、同時代に社区総体営造で
名をはせた地域より若干遅かったが、旗美社区大学は設立されるや、
「全国初の農村型社区
大学」を謳い、すぐにその名声を確立した。同社区大学の受講者は約 300 名、そのスタッ
フは常時 7,8 名おり、推定予算規模は約 700 万から 800 万元、約 4 ヶ月の一学期のあいだ
に約 50 科目の講座を、
旗山を中心に高雄県内陸部 9 郷鎮全体にわたって展開している(洪、
2007)。これは農村部の農村の社区大学としては大規模である105。
旗美社区大学が「全国初の農村型社区大学」や「客家の農村」を謳い、地域社会の日常
的対抗関係の中で社区大学のめざす市民(中国語では「公民」)の養成が困難にみえる農村で
の社区大学創設をアピールしたのは、前述の若者たちの地域社会の課題意識とともに、同
社区大学の全国の社区大学内における卓越化戦略がある。その実、旗美社区大学は必ずし
も「全国初の農村型社区大学」とはいえない部分がある。第一に、同社区大学より早く成
立した屏東や宜蘭も、県の中心ではあるが、郊外には農村も広がり、決して大都市ではな
い。第二に、旗美社区大学は高雄県内陸部の中核都市で美濃に隣接する旗山鎮に位置し、
多くは農村や中間山村である高雄県内陸部全体が管轄地域であるとはいえ、旗山自体は近
くに大学や大きめの公的部門があったりと、農村とはいいにくい部分もある。しかし、こ
の卓越化戦略が功を奏して、同大学は全国から視察が続き、何度も優秀な社区大学として
表彰され106、その評判が引き続き各方面からの助成金を呼び込む糧となっている。実際に、
開講内容については、旗美社区大学ホームページを参照。cmcu.ngo.org.tw(2010 年 3 月 24
日確認)
105 例えば、台南市社区大学では約 10 名のスタッフが約 80 科目の講座を展開している。台南市
と高雄県内陸部の空間と人口を考えれば、旗山区社区大学が地方都市なみの規模を都市よりはる
かに広い地域で展開していることがうかがえる。
106 例えば、2004 年には旗美社区大学の美濃に関するガイドを養成する「美濃解説員培訓班」
が全国社区大学「サークル部門」講座の「優等」賞を受賞している(洪、2007:135)。最近では、
甲仙農業共同成長班と地方創意料理班が、2009 年度全国社区大学促進会から「特優」賞を受賞
した。旗美社区大学のウェブサイトより。http://cmcu.ngo.org.tw/node/602(2010 年 2 月 8 日閲
覧)これらの講座がともに、地方文化の実体化、とりわけ食農に関するものであることからは、
社区大学全国促進会が旗美社区大学を食農や地方文化の実体化の旗手として期待していること
が伺える。
104
124
2003 年の『社大開学』(第 9 期)の旗美社区大学インタビュー記事の中には、高雄県長の楊
秋興へのインタビュー記事も載せられており、県長が同社区大学への評判を大いに評価し、
県政府からの補助金を惜しまないことを強調する様子が報道されている。旗美社区大学は
一方でコミュニティ運動を下支えする成人の教育という新たな課題に取り組むとともに、
一方で「全台湾初の農村型社区大学」や伝統文化を残す「客家の農村」の生涯教育機関と
して全国の社区大学の中で差別化し、「名声」を絶えず作り出すことで、社会運動を制度内
化させ、地域社会内で運営を維持するメカニズムを作り出した107。
しかし、旗美社区大学は地域政治のアクターとはならず、結果としてローカルレジーム
に参入しての「制度変革」からは遠のいた。もとよりその資金は地域政治から遠い県政府
や中央政府の教育部からの助成金であり、旗美社区大学は郷および鎮公所や農会の予算で
動く地域政治アクターからの統制外にあったのである。長く勤める社区大学のスタッフ自
身も、既存の統治組織に入り込むことの困難を認めている。羅桂美(2008:141)のインタビュ
ーの中で、洪馨蘭と思われる「人類学を専攻している」社区大学のあるスタッフはこう述
べている。
社区総体営造に従事した結果、わたしはその基本理念は「人をつくること」だと確信
するにいたりました。これについては 2000 年に美濃で将来のビジョンを描くワークシ
ョップを開いたとき、陳其南(元文建会副主任委員で社区総体営造の推進者であった:
引用者注)とも話しました。きっとわたしが人類学を研究しているからか、わたしは彼
が話すことをよりよく理解できました。しかし、彼の考える方法(コミュニティ内の政
治対立に対して楽観的で、それを一つの多様性としてまちづくりの合意形成を話し合い
によってボトムアップでめざす方法:筆者注)では農村内部の権力構造を変えることは
できません。わたしたちはこの数年それを試してきましたが、やはり無理であることが
分かりました。
107
コミュニティ運動が「実績」をアピールしながら助成金を続けて獲得していくメカニズムに
は、評判が評判を呼び、場合によっては実態とかけ離れて言説が一人歩きするという言説の拡大
再生産機能が垣間見える。日本でも、
「地域活性化」がさかんであった 1980 年代末期から 1990
年代初頭にかけて同様の現象がおこっている。例えば、長野県小川村役場が創設した、おやきを
販売する第三セクター「小川の庄」に関する評判が、全国における地域活性化の優良事例を消費
する必要のある人々によって増幅され、言説が実態を離れて一人歩きしていった(原山、2005)。
同様に、全台湾で社区総体営造が展開される中、美濃のコミュニティ運動従事者が運動の継続の
ために自身の名声を必要とする以上に、他地域の文史工作者や社区大学、政府の助成金担当者、
さらには台湾ナショナリズムに同定する市民が、広範に美濃の優良事例を必要としていた。
そして美濃は日本の小川村と同様に、その優良事例を体現するよう期待されていった。本
論文もいわゆる「優良事例」を紹介するという意味では、その言説の消費構造の形成の一
端を担っていると言わざるをえない。しかし、論文の書き手がそのことに自覚的であり、
研究対象の面白さに依存しながらその上澄みをすくう事例紹介だけでなく、台湾の地方分
権化と地域社会、そして社会運動というより広いテーマを描き出せるならば、地域研究と
しての意味があると考える。ただし本論文でそれが達成されているかどうかは読者の批判
を俟たねばならない。
125
ここから分かるように、旗美社区大学は地域政治とは距離をおき、受講者やスタッフ自身
の教育や学びという自己変革を指向していった。その結果、同社区大学のスローガンは「農
村を変える」ではなく、
「相互学習」「農村に学ぶ」といった、仲間内のネットワークの自
己変革となった108。旗美社区大学の理念を述べた文で洪は農村型社区大学の講座を、上記
に示したように、①学術性課程:専門知識の普通化、②生活芸能性課程:経験知の文脈化、
③グループ性課程:結社知の農村化に分けているが、いずれも自己のネットワーク内の学
習や経験共有をめざすものであり、社区大学ネットワークの外にある制度の変革について
はふれていない。全国的な教育改革運動や民主化、台湾化から生まれ、「社会改革」や「知
識の解放」をコミュニティの中でめざした社区大学という団体は、美濃においては地域社
会から卓越化した、自己変革の閉じたネットワークを「社区」の中に形成したのである。
このような地域社会における社区大学の位置づけの変節は、社区大学が都市で生まれた
ことと関係している。もとより社区大学は、農村のように地域政治と住民の生活が密接に
関わっている地域社会を想定していない。地域社会は、社区大学を構想した大学教授たち
や、社区総体営造を提唱した陳其南らにおいても肌身に迫る具体的想像が困難であるよう
な緊密かつグレーゾーンなき政治対立下に置かれており、地域住民の生活は彼(女)らの想定
する自由に行動できる市民像とはほど遠い状況にあった。また元来、社区大学は教育とい
う主要事業の性質上、外界と断絶した自己のネットワークの中の受講生やスタッフの啓発
や変革に特化するコミューン化の傾向を常に内包するものであった。結果として、旗美社
区大学は「農村型社区大学」というスローガンをあげているが、地域政治と緊密に関係し
た地域社会の中では、地域政治やそれに統制された地域社会から切り離された形でネット
ワークを形成した。旗美社区大学は「農村型」を謳いながらも都市同様、地域政治から卓
越化したコミュニティを作り上げたのである。
もちろん、ダム建設反対運動から派生した旗美社区大学は生涯教育という事業の性質上、
スタッフや受講生の自己変革109、アイデンティティおよびネットワーク形成をも志向して
いるという点で、
「自己変革」の側面を持っていた。つまり、自己変革を促すことで、最終
108
洪馨蘭と名誉職である旗美社区大学主任の鍾鉄民の共同名義で書かれた「農村型社区大学設
立の目的と意義:存在そのものが価値」参照。http://cmcu.ngo.org.tw/node/503(2010 年 3 月 24
日参照)「ネットワーク自体が価値である」のは、自己変革をめざす社会運動にとってネットワ
ーク自体が自己目的的であるような関係性の総体だからである(石川、1988:158)。すなわち運動
への参加は運動に対する肯定的アイデンティティや運動のフレームワークが共有されているこ
との相互承認であり、そのような承認しあった「ピア」(仲間)どうしのコミュニケーションを通
じて初めて自己変革が可能になる。自己変革のためのネットワークは、制度変革のためのそれと
異なり交換・権力機能を必要とせず、ネットワークがあること自体が価値なのである。
109 筆者が聞き取りを行ったのは、主に 2005 年 9 月から 2009 年 11 月にかけて、協進会をはじ
めその派生団体の歴代・現役スタッフ合計 32 名、男女比は 8:24、美濃出身者は 17 名である。
就職時の年齢は全員が 20 代で、21 名は大学(もしくは大学院)を卒業して 1 年以内にコミュ
ニティ団体に就職している。これらのスタッフは大多数が 2,3 年で離職し、大学院に入学したり
美濃を離れたりする。
126
的には社区大学全国促進会(顧、2004:102)の理念にある「社会改革」の実現を留保した。例
えば、協進会の元スタッフで現在は社区大学のブレーンを務め、清華大学大学院博士課程
に在籍する洪馨蘭は、自己変革がコミュニティ運動を形成するという順番ではなく、遡及
的にこれらのコミュニティ運動がスタッフの自己変革や客家アイデンティティ形成を助け
ると述べている(洪、2007:130; 2008)。都会の台北育ちで「優等生」を自認していた福佬人
の洪が、研究のために訪れた美濃に住みつきさらに地元男性と結婚、2 度の出産を経験した
経緯から考えれば、美濃のコミュニティ運動が彼女のその後のライフコースに与えた影響
は計り知れない。さらに知的欲求の充足の延長として、コミュニティ団体での仕事を研究、
企業、政府への移動のためのキャリアアップと考えるスタッフもいる。もちろん、休日出
勤や長時間労働など仕事は決して楽ではない。またスタッフたちが口を揃える仕事の充実
感は、家族からのプレッシャーの中、長く社会運動団体にとどまるべきではないという焦
燥感や、先行きの不透明さというスタッフの不安を払拭できるわけではない。実際、大多
数のスタッフは 2,3 年で離職し、重労働後の休息やキャリアアップ、さらには研究職への就
職を求めて離職後大学院に進学・復学する。こうしたスタッフはこの 5 年間で 10 名以上に
のぼる。しかしその不安と充実感を共有しているからこそ、同世代の若いスタッフの間に
は相互学習を実践する親密な空間ができており、これが支持されていることは「みんなが
一緒に暮らしているという感覚が好き」というスタッフの言葉110からもうかがえる。コミ
ュニティ運動におけるこのような親密圏の形成は、自己変革の達成という意味では「新し
い社会運動」(序章参照)の一面を形成しているといえる。
しかし、自己変革が「社会改革」につながるというロジックは、自己変革と制度変革の
ジレンマの前に破綻する。社区総体営造政策を受託しながら行う台湾文化の実体化プロジ
ェクトは、社会運動に関わる若者をひきつけたことは述べたが、社区総体営造による社会
運動の制度内化や派生は、自己変革をめざす若者が、制度変革を同時にめざす困難をも露
呈していった。日本の障害者運動を研究する社会学者の石川准は、「新しい社会運動」が自
己変革と制度変革を同時にめざすことの困難を論じている。それによれば、制度改革に適
した組織構造は集中型(centralized)、「公式組織型」、「大衆基盤型」であるという。なぜな
ら、制度、すなわち敵手からみれば運動団体の代表性が保証されているためである。これ
らの集権的な団体では、ネットワークの交換・権力機能が重要である。それに対し、自己
変革をめざす運動体の組織構造は、ネットワークそれ自体が目的であり、交換・権力機能
は重要でない。すなわち、制度変革に適した組織構造と自己変革に適した組織構造は異な
る。また、オーディエンス抜きの「自己変革」は、ミクロ・コスモスの壁を越え出ようとし
た瞬間に外的脅威に曝される。それゆえ、より完全に「自己変革」を実現しようとする場
合や、「制度変革」と「自己変革」が原理的に相即的な関係にある場合には、
「自己変革」
をめざす社会運動も、第三者集団からの支持を必要とする。それゆえ、このような社会運
2005 年 11 月 22 日、台南出身で社会運動参加経験のある社区大学スタッフH氏の聞き取り
による。
110
127
動は政治の舞台での自己表現ないしは自己提示を通じて第三者集団にはたらきかける。こ
のような運動体には政治の舞台でのドラマトゥルギーが要求される(石川、1988:159-161)。
美濃の例に即していえば、旗美社区大学は全国の社区大学ネットワークや地域社会内のコ
ミュニティ運動という自己提示の場を得た111が、そのドラマトゥルギーの舞台を地域政治
に持ちこむことはできず、制度変革という形ではなく閉じたネットワークの中で自己提示
を続けた。
自己変革と制度変革を求めて社会運動で仕事を始めた若者たちは、制度内化した社会運
動の中で地域政治との断絶や行政補完化の可能性に直面し、「制度変革」が挫折したとき、
制度変革ではなく自己変革に特化して追求した。地域政治のしがらみに直面した旗美社区
大学は、外に向けては有機農業やエスニック文化の実体化などを主とした教育による「社
会改革」を標榜しながらも、内実はまさに卓越したコミューン化の道を進んだ。また、卓
越化とは、まさにコミュニティ運動が自己変革を求めて自分達の集合体を全体社会から切
り離す傾向そのものであり、中央政府もしくは県政府からの助成金という地域社会から隔
絶された資金の性格が、運動体をますます地域社会から卓越化させたといえる。
本節をまとめると、協進会が担うダム建設反対運動から派生した旗美社区大学は、民主
化、台湾化、教育改革など様々な文脈を地域社会の中に引き継いだ。その際、旗美社区大
学は社区大学内で自らを差別化することで、制度内化の維持を図った。地域政治の頭越し
に県政府や中央政府から得た資金を用いた制度内化によって、また、自己変革を指向する
社区大学という制度の性質によって、旗美社区大学はスタッフや受講者の自己変革を目的
として働くようになった。しかし、自己変革と制度変革を同時に達成することはその構造
上困難であり、社区大学は地域政治から離れて受講者やスタッフの自己変革を専ら指向し
ていった。これは社区総体営造にともなう制度内化が引き起こす、コミュニティ運動の卓
越化であるといえる。
次節では、協進会から派生したもう一つのコミュニティ団体である南洋台湾姉妹会を分
析しながら、コミュニティ運動の卓越化の側面をグローバル化との関係から検討したい。
4
派生したコミュニティ運動② グローバル化と地域社会
前節でみたとおり、中央政府や県政府への接近を強め制度内化すればするほど、旗美社
区大学は地域社会から卓越化した。そのような社会運動は地域社会から卓越化するととも
に、行政補完化の可能性をも内包している。しかし、抵抗の概念を持ち、制度変革を志向
するコミュニティ団体もある。そのようなコミュニティ団体は地域社会に対しどのように
111
コミュニティ運動団体のスタッフたちのアイデンティティ形成や、ステップアップのための
短期間での離職は、協進会の理事たち、すなわち協進会に関わるローカルエリートたちには支持
されている。むしろ、理事たちはスタッフの健康を気遣うくらいに彼(女)らの成長を見守ろうと
している。2006 年 3 月 9 日協進会前理事長L氏、2006 年 3 月 3 日現理事長X氏への聞き取り
による。
128
展開するのか。本節では、南洋台湾姉妹会(以下姉妹会と略称)の成立過程や地域社会とのイ
ンターフェイスをみながら、社区総体営造から派生したコミュニティ運動の卓越化のもう
一つのメカニズム、すなわちグローバル化にまつわる社会運動を考察する。まず、前節の
社区大学や協進会を分析材料として、制度内化したコミュニティ運動が行政補完化する可
能性を考察する。次に、行政補完化をたどらない社会運動が地域社会と対峙的に展開する
がゆえに、地域社会から卓越化する過程を考察し、小結で社区総体営造によって派生した
コミュニティ運動が地域社会にもたらしたインパクトを考える準備とする。
コミュニティ団体の制度内化の継続は、専門化とともに社会運動の行政補完化や政府へ
の依存傾向を内包した。そして社区大学のみならず、協進会も含めたコミュニティ運動は
たえず変容を迫られた。第一に、政府予算の通過によって、プロジェクトの執行時期が規
定されることになった。実際に、2007 年と 2010 年の二回にわたり、旗美社区大学は県議
会での予算案通過遅延のため開講を遅らせている。また協進会は、2004 年の「文化造鎮」
計画や 2008 年の「用水路文化実体化プロジェクト」を企画し、自ら入札してこれを実行し
ようとしたが、政府の制度上112企画者は入札できないために、仲間内の異なる参加メンバ
ーの名義で入札の申請書を数回にわたって書き直して申請したあげく、最終的には流会と
なるなど、プロジェクトが遅延しただけではなく、ペーパーワークに大量の時間を費やす
結果となった。第二に、コミュニティ運動は住民参加など社区総体営造の理念を数値化お
よび可視化する必要に迫られた。もとより地域住民の参加はもとより数値化できるもので
はなく、住民の参加はイベントだけではなく日常生活での接触が緊密な地域社会において
は、日常的に起こりうるものである。しかし、協進会は政府の要求する方法に合わせて、
参加の多寡を人数として記録するために、住民のイベント出席をわざわざ呼びかけたり、
参加を促すために会場でおみやげを用意したりするようになった113。第三に、助成金の獲
得の多寡によって、事業を縮小したり、拡大したりするなど、制度内化によって社会運動
の政府への依存度は強まった。
「(馬英九の国民党政権ができた)2008 年以降は民進党政権期
と異なり、100 万単位の助成金はどこの政府単位も出してくれない。だから一つの団体で
20 万元、10 万元といった小さな助成金をいくつも申請してやっている」114と現在の協進会
スタッフが述べるように、政府の助成傾向はコミュニティ団体の運営方法を大きく規定す
る。これらは制度内化して政府への提言ルートを確保し、制度変革をめざす理念と必ずし
も背反するものではないが、政府の要求に合わせることはコミュニティ団体にとってはあ
る種のコストや政府からのさらなる統制を負担する必要があることを示している。
これらの社区大学や協進会に対し、同じ協進会から派生したコミュニティ運動でも行政
112
これらの競争公開入札の諸規定は「国家採購法」に規定されている。
通常プロジェクト報告書の末尾には、通常どこで何回ミーティングを行い、参加人数や参加
者の名簿が記載されている。参加を呼びかけ、参加しても何も発言しない住民はおみやげを受け
取って帰るという構図は、形式的な参加人数増加のために物を配る里民大会と全く同じであるこ
とに留意が必要である。
114 2009 年 11 月 9 日、元協進会スタッフZ氏への聞き取りによる。
113
129
補完化を必ずしもたどらないコミュニティ運動もあった。それが姉妹会として結実する東
南アジア出身女性配偶者向けの運動である。夏暁鵑が創始した前述の東南アジア出身配偶
者向けの中国語教室は、協進会や社区大学が築いたネットワークや人材を利用しながら、
基本的には政府の助成金を得て展開した。例えば、2000 年には内政部のドメスティックバ
イオレンスハンドブック作成プロジェクトに参加し、協進会の名義で東南アジア諸言語へ
の翻訳を担当している(夏、2005:36)。
しかし、夏らの社会運動は協進会や社区大学が受け継いできた台湾化の流れとは距離を
おき、それゆえに時として政府と対峙的な姿勢をとった。第一に、夏は 2003 年に自らの勤
務地である台北を拠点に「移住者に関する法改正聯盟」(略称「移盟」)を立ち上げた。そこ
では東南アジア出身の婚姻移民のみならず、外国人労働者や大陸出身の婚姻移民も含めた
「新移民」らのための法改正を陳情やデモを通して積極的に政策提言している。第二に、
同年 12 月に夏暁鵑は南洋姉妹会を美濃に成立させ、初代理事長には中国語教室のリーダー
的存在であったカンボジア出身のソク・コリャン(中国語名:蘇科雅)が就任した。その事業
は、①政策提言、②南北台湾の東南アジア出身婚姻移民のネットワーキング、③東南アジ
ア出身婚姻移民のエンパワーメントである。識字班(中国語教室)は社区大学や各小学校で行
われ、姉妹会本体は東南アジア出身の女性配偶者たちのエンパワーメントにシフトしてい
る。エンパワーメントとは、単なる語学習得にとどまらないアサーティブ・トレーニング、
特に夫や舅、姑に対して「立場の弱い」東南アジア出身の婚姻移民が自己主張するための
コミュニケーション・スキル向上プログラムや、学校への出前授業などを行っている。ま
た、ステレオタイプを助長するようなメディアからの不用意な取材は拒否し、挨拶や目的
を説明させてからの取材を徹底させるなど、婚姻移民の主体性を全面に押し出している115。
2005 年には姉妹会は台北にオフィスをかまえ、政策提言や台湾南部と北部の連携を強化し
た116。これら二つの団体は政府からの助成金を得ながらも、同様に地域社会や中央政府の
移民政策には対峙的であった。
このような南洋台湾姉妹会や「移盟」の戦略を考えるには、まず、なぜ台湾の東南アジ
ア出身の女性配偶者が社会問題として夏らに認識されるに至ったのか、そしてそれがどの
ような社会運動の文脈から始まったのかを分析する必要がある。まず、台湾では都市化・
産業化で女性の高学歴化や晩婚化が進む一方、「子を残すべき」という家父長的規範が都市
化・産業化と共存した。そのため、家族が女性に男子を望むプレッシャーは存続し、その
配偶者不足から東南アジアからの女性移入が増加した(澤田、2008)。東南アジアは 1980 年
代後半以降、台湾企業の直接投資先として顕在化した (赤羽、2003:129) が、李登輝政権下
で中国との経済交流が深まる政治リスクを分散させるために、政府は東南アジアへの台湾
人の進出を積極的に推進し、その経済進出が東南アジア女性を台湾に移入させる結果とな
115
これらのメディアや研究者のインタビューなどへの対応ポリシーは、移民たちが自分で議論
しあって決めたものであるという。2005 年 10 月 30 日、姉妹会北部オフィスW氏のスタッフへ
の聞き取りによる。
116 2005 年 11 月 15 日、姉妹会スタッフB氏への聞き取りによる。
130
った。このように、移民の流入源が台湾より経済的に途上の東南アジアであり、かつその
移民が女性であることから、女性運動活動家にとっては、東南アジアの婚姻移民の問題は、
台湾で言語の壁や上述の家族のプレッシャーや台湾への排除の危機にさらされているとい
うジェンダー問題であり、台湾という国民国家への強制的同化を弱者たる女性が迫られて
いるという点で、グローバル化に逆行する多文化主義の抹殺が問題であった。夏にとって
南洋台湾姉妹会は台湾の多文化主義を体現するものであり、もとより中国大陸は台湾の文
化的多様化の要素に含まれてはいないという建前になっているため、南洋台湾姉妹会は、
このようなジェンダーや多文化主義の問題として夏らの研究者に認識されるに至った (夏、
2005:12-48)。
上述の問題意識のもと、姉妹会はコミュニティにおける東南アジア出身の婚姻移民の地
位向上や、彼女らを包摂した台湾多文化主義の推進、地域社会の家族やジェンダーに関す
る規範や東南アジア出身の婚姻移民に対する法律の変革、すなわち広義の制度変革をめざ
した。その陳情や助成金を中心とした制度内化の戦略は婦女新知基金会(第一章参照)のそれ
を踏襲していたといえる。実際、夏暁鵑はもともと女性問題に深く関心を持ち(夏、2002)、
婦女新知基金会と協力して婚姻移民に関するワークショップを開いたり、同基金会も 2007
年から台北市内の事務所を無償で姉妹会に提供するなど、姉妹会と婦女新知は密接な協力
関係を築いている。
地域社会の規範変革を強く志向する姉妹会は、当然ながら地域社会とは対峙的に展開し
た。姉妹会のスタッフ自身は協進会およびそれがよって立つ地域社会を以下のようにとら
えている。
われわれ姉妹会は協進会とは異なります。協進会は美濃のコミュニティ団体ですが、
姉妹会は全国的な団体です。ですから事務所が台北にもあり、
「移盟」-これは婦女
新知のようなエリートの団体ですが-と組んで政策提言を行っています。…(中略)
…南部(美濃のオフィスを指す:引用者注)の役割はサービスの最前線です。しかし
南部の動きは北部と協力する必要があります117。
ここから分かるように、姉妹会は美濃というコミュニティにとどまるのではなく、あくま
で台湾全体の東南アジア出身の婚姻移民のエンパワーメントをめざしたため、地域社会か
らは距離をおく戦略をとった。例えば、日頃の事務所には農会や鎮公所地元教師などのロ
ーカルエリートがほとんど出入りせず、事実上東南アジア出身の婚姻移民と地元の支持者
の女性が主な関係者となっている。姉妹会は東南アジア出身の配偶者たちが子どもを連れ
てくることもあって、近隣からうるさがられ、オフィスを転々とした118。
これに対し、協進会はオフィスやネットワークなど、様々な形で援助を行った。その援
117
118
2005 年 11 月 15 日、元姉妹会スタッフB氏への聞き取りによる。
2005 年 10 月 30 日、元姉妹会北部オフィスのスタッフW氏への聞き取りによる。
131
助について、姉妹会のスタッフは「姉妹会を美濃に作ったのは、既存のコミュニティ運動
のネットワークがあったから」119と述べている。女性運動という地域社会から隔絶した形
で外省人の高学歴女性エリートによって始められた社会運動の延長として始まった姉妹会
は、一方で女性運動の戦略を用いて政策提言や陳情を行い、一方で地域社会では協進会の
ネットワークを用いて地域社会への居場所を見つけ出したといえる。
しかし、姉妹会にとって、地域社会の規範にそって運営する協進会は「家父長的な」地
域社会の規範(第 3 章参照)を体現する団体そのものと映ることもあり、政府の政策に沿った
「台湾文化の実体化」は行政補完的と映った。LGBTI(性的少数者)の勉強会に参加した経験
があり、そこでリクルートされて姉妹会に入ったスタッフは協進会について以下のように
述べている。
わたしはもともと、台北の女性団体で働いていましたが、政策のことばかり扱って
いて女性の現場から遠い感じがしたので、辞職して姉妹会に移ってきました。…(中
略)…姉妹会は内政部や教育部から助成金を得ていますが、基本的には政府の助成金
で運営するのは好きではありません。例えば、今回(2005 年秋:引用者注)のタバコ
乾燥小屋のリフォームプロジェクトは政府の助成金を得ず、全て民間からの寄付で
まかなっています。全部政府のお金で動いていては、政府に対して声を大きくあげ
ることはできません。協進会は全て政府のお金で動いていて、NGOとは言えない
と思います120。
このように、姉妹会は協進会のネットワークを用いて成立したが、その理念や政府への対
峙のあり方は相容れない部分があった。そして協進会と姉妹会の衝突は、2007 年 9 月の六
堆客家文化に関するシンポジウムで発生した。もともと、そのシンポジウムを主催する屏
東県内埔出身の徐正光は、客家文化の中に「外籍新娘」(東南アジア、大陸を含めた外国籍
の婚姻移民)も含めることを主張し、報告を姉妹会創始者の夏暁鵑に依頼した。夏は多忙を
理由にその報告を南洋台湾姉妹会の秘書長、すなわち実働部隊のトップであった呉紹文に
任せた。呉は席上、南洋台湾姉妹会が協進会を含めた地域社会から圧迫や孤立を余儀なく
されていることを述べた(呉、2007a:12-14)。
姉妹(東南アジア出身の婚姻移民のこと:引用者注)たちは、コミュニティ団体の大物の
依頼を受けて、2003 年 11 月のダム会議で通訳を担当したり、黄蝶祭で東南アジアの食
べ物を売ったりとコミュニティの一員としての役割を果たした。その後の観察で、筆者
は姉妹たちが十分な発言権を与えられていないことが判明した。例えば、チャーハンの
コンテストで姉妹の作ったものはあっという間になくなり、好評を博したのに、誰もそ
119
120
2005 年 11 月 15 日、元姉妹会スタッフB氏への聞き取りによる。
2005 年 11 月 17 日、元姉妹会スタッフK氏への聞き取りによる。
132
れに投票しなかった。また、「文化造鎮」で協進会は姉妹会に対し、不公平な資源分配を
行った。
これに対し、同じシンポジウムに客家文化の報告者として招聘されていた協進会のスタ
ッフが「我々は南洋台湾姉妹会には再三援助してきたのに、それを裏切るのか」と激怒し、
協進会の関係者は姉妹会を厳しく批判した。その中で、元協進会総幹事の温仲良は「協進
会理事長は怒り心頭に達している」と理事の名前を持ち出したうえで、資源分配は事実誤
認であると批判したうえ、以下のように姉妹会を批判している。
呉紹文秘書長の方法は、女性運動のエリートがよく行う表象の操作である。もし呉秘
書長と同じ理屈でいうなら、姉妹会が姉妹たちについて論文を多数出していることのほ
うがよほど姉妹たちに対する抑圧であり、真実の歪曲である。姉妹会のいう他者とは誰
なのか、明示されていない121。
つまり、抑圧されたものとして「姉妹」を強調することこそが、姉妹会の戦略であり、そ
れは事実に合っていないどころか、支援をしてきた協進会を貶めるものであるというので
ある。激しい対立を経て、呉紹文はついに論文の内容を修正して、南洋台湾姉妹会がコミ
ュニティ運動から派生し、現在もそのネットワークに支えられたものであるという内容の
論文を発表した(呉、2007b)。呉は翌年 3 月に辞職している。
この対立のエピソードは、決して呉個人に帰せられるものではなく、南洋台湾姉妹会の
戦略の隘路を示している。南洋台湾姉妹会は東南アジア出身の婚姻移民の不遇を強調し、
彼女らが台湾の多文化主義に貢献することを強調しながら自己変革とともに台北オフィス
を中心とした陳情など制度変革を求めてきた。そのため、東南アジア出身の女性たちにコ
ミュニケーション・トレーニングを実施し、台湾人からの安易な取材を拒否するなどステ
レオタイプの再生産を防止するとともに、女性運動の延長として、「抑圧された女性」像を
学術的言説を用いて積極的にアピールした(夏、2002;2005;2009)。その運動は協進会という
台湾化の流れから発生したコミュニティ運動から派生したものであったが、グローバル化
にともなう東南アジアや中国大陸の婚姻移民は、台湾化の流れに乗って展開した協進会や、
それから派生した社区大学のネットワークを利用しながらも、本質的には台湾化と理念を
異にするものであった。人類学者のアレン・チュン(Chun, 2002)は全世界でおきた、グロー
バリゼーションにおけるトランスナショナルな人の移動にもとづく多文化主義と、1990 年
代以降台湾で進んだ、中華民国にかわって想像された新たな台湾というネーションの中で、
「四大族群」122という概念に代表されるように内なる他者を認めていく、台湾独自の文脈
121
温のメールから引用。
1990 年代の民主化や台湾化に伴って出現した、本省人/外省人というエスニック・カテゴ
リーにかわるカテゴリーで、外省人、原住民、福佬人、客家を指す。
122
133
をもつ多文化主義がやがて衝突することを述べているが、美濃という地域社会内において
それは現れたのである。
本節をまとめると、姉妹会は女性運動の流れをくみながらも、台湾化の流れから派生し
たコミュニティ運動の資源を多く用いて成立した。しかし、台湾化やそれを支える社区総
体営造と、グローバル化にもとづくより多元文化的な東南アジア出身の婚姻移民のエンパ
ワーメントの理念は本質的に対立するものであった。また、女性運動由来の陳情や政策提
言、文章による宣伝など、大衆動員を必要としない女性運動の戦略(第一章参照)は、地域社
会のみならず、協進会などのコミュニティ運動ネットワークからも時に脱離し、卓越化を
進めるものであった。次節では、本章をまとめるとともに、次章への展望を述べたい。
5
小結
社区総体営造が台湾社会運動に与えたインパクト
以上みてきたように、社区総体営造は台湾文化実体化政策として始まったが、社会運動
への妥協策として、また民主化推進のために地方派系には資源を分配しないという意図に
より、民間団体に直接資源が投下された。その資源を得た民間団体は、協進会のように、
社区大学や姉妹会などのコミュニティ団体を新たに派生させるとともに、実績を買われて
助成金を受託し続ける政府助成金独特のメカニズムにより、制度内化を果たした。しかし、
協進会から派生した社区大学は自己変革と制度変革のあいだで自己変革に特化し、また姉
妹会はそれが理念とするグローバル化や多文化主義が社区総体営造の基本となる台湾文化
の中身と矛盾するものであり、両者ともに台湾文化であれ女性であれ、高度な知識にもと
づく言説を用いて地域社会から卓越化した。ダム建設反対運動から派生したコミュニティ
運動は、地域政治の統制から自由な領域を中央または県政府の助成金によって自ら作り上
げ、高度な文化や学術に関する言説を用いて常に自分達と地域政治アクターを含む地域社
会とを弁別していったのである。
次章では、このように卓越化したコミュニティ運動のネットワークができた地域社会の
中で、協進会がどのように再び地域社会と向き合おうとしているのかを分析する。
134
第5章 コミュニティ運動の再帰的政治参加 ―地域政治とサブ政治の結節点―
1
郷鎮政治の変容 民主化とグローバリゼーション
2
社区総体営造の深化 コミュニティ団体の地域政治への参入
3
コミュニティ運動の再帰的政治参入 ―「人と人との接触」の意味―
4 二つの政治への挑戦 ―地域社会における社区総体営造再考ー
5 小結 ―「政治を作り出すものは幸いである」?
前章では、社区総体営造という台湾文化実体化政策の資金が、既存の統治組織ではなく、
地方派系弱体化や社会運動への懐柔という理由から郷鎮政府の頭越しに社会運動団体に投
下されたことが明らかになった。コミュニティ運動は社区総体営造の資金を得て地方文化
を実体化しながら、それを流用して開発に反対する対抗言説を形成したり、台湾全体の文
脈とも結合しながら若者という担い手の性格ゆえに、すなわち自分探しの性格をもつがゆ
えに、自己変革をも模索する様々な運動へと派生していった。そして助成金獲得および執
行の実績をもとに、制度内化を続けていった。第 2 章のローカルレジームの記述になぞら
えて言えば、コミュニティ運動は県や中央の助成金という外部資源導入力を武器に、地域
社会から卓越化した、一定規模のコミュニティ運動のネットワークを地域社会の中に作り
出したといえる。しかし、これらのコミュニティ運動は制度内化の過程で抵抗の概念の変
容が生まれた。もとよりコミュニティ運動は、自己変革と制度変革の同時達成の困難さを
露呈するものであり、また、全国ネットワーク化やグローバル化、あるいは既存の全国的
社会運動路線と結び付けられたコミュニティ運動は、たえず地域社会からの卓越化のメカ
ニズムを内包していた。
本章では、再び協進会に視点を戻し、地域社会内のコミュニティ運動ネットワークが拡
大、制度内化、卓越化した中で、協進会が社区総体営造を変え、またローカルレジームに
参入していく過程を考察する。そこでは政策や社会ネットワークなどの「環境」が社会運
動を規定するだけではなく、社会運動が「環境」を変える側面も見て取れる。地方文化や
エスニック文化に関する高度な言説を備えて一度は地域政治から卓越化したコミュニティ
運動は、なぜ再び地域政治への参入を試み始めたのか。また、その結果、ローカルレジー
ムやコミュニティ運動の財源ともいうべき社区総体営造にどのような変化がおきたのか。
これらの問題意識は、楊(2007)など少数の研究ではとりあげられているが、微細な過程や社
区総体営造という政府資金の性格がもたらすコミュニティ運動やそれと地域政治との相互
関係への影響はまだ先行研究が少ない。
本章の構成は以下のとおりである。まず1.では、民進党政権以後の全国的なローカルレ
ジームの変容を考察する。ここでは地方派系の再編や個人化が進み、農会や鎮(郷)公所など
の公権力が搾取ではなく分配の成果を競う時代になったことが示される。2.では、前章で
135
述べた派生したコミュニティ運動のネットワークの中で、協進会が地域社会の中でサブ政
治を担う卓越化した社会運動として、ローカルレジームにはない力を備えながらも、文化
の実体化プロジェクトが地域政治の領域と重なってくることを示す。3.では、農会や鎮公
所と協進会との相互関係を示しながら、協進会が再び地域政治へ参入する契機を考察する。
4.では、コミュニティ運動が地域政治に参入した結果を考察し、小結につなげる。
1
郷鎮政治の変容 民主化とグローバリゼーション
台湾の郷鎮政治は、1980 年代以降の中央レベルの民主化にともない、激動の時代を迎え
た。まず、地方派系は至高の領袖蔣経国――至高のパトロンであり権威主義体制の強い鞭
の掌握者でもある――を失い、瓦解を経験したり、もしくは暴力団と癒着した政治腐敗や
金権政治が民主化前よりもかえって進んだりした。これを台湾では「黒金政治」123と呼ん
でいる。同時に、グローバリゼーションや地方派系の中央進出などにより、郷鎮政治や中
央レベルの政治家が地域社会において形成する政治、つまり地域政治のレジームは、その
成果の宣伝をますます必要としていった。地域政治は民主化においてどのように変容し、
その中で地域政治アクターはなぜコミュニティ団体との接触を深めていったのか。本節で
は、地域政治の変化を追うことで、コミュニティ団体との接触を始める地域政治アクター
側の論理を考察する。まず民主化と社会変容に伴う地方派系の変化、特に汚職の激化(台湾
では金権政治を「黒金」と呼ぶ)や分配の競争を全国的に考察し、その後に美濃の具体的な
動きを追っていこう。
まず、第 2 章で述べた、地方派系に代表される地域政治の変容と民主化の流れをもう一
度整理しておこう。1970 年代、地方派系の「至高の領袖」蒋経国は、その父である蒋介石
から権力を継承すると、地方派系より統制のきく「党務系統」とよばれる国民党の養成機
関内で育った本省人党務エリートを地域政治の場にすえようとした。しかし、至高の領袖
の死後 1990 年代に、民進党との対抗上、国民党は弱体化を試みたはずの地方派系に引き続
き頼らざるをえないという事態がおこった。至高の領袖を失った国民党中央は地方派系を
弱体化させたい一方で頼らざるを得ないというジレンマに陥ったのである。結果として、
1990 年代の台湾では地方選挙において中央からの統制の弱体化も加わって地方派系の瓦
解・再編および中央政界への進出がおこった(陳、1995=1998;王、2004)。1992 年の立法
委員全面改選では、多くの地方派系出身者が地方選挙の動員ネットワークをいかして陸続
と立法委員に当選したが、その際には地方派系の汚職と金権化も激化した。
では、なぜ民主化後に汚職が激化するのか。それには、民主化と同時に進行した経済の
自由化に注目する必要がある。政治学者の松本充豊は、1980 年代後半以降の台湾における
123「黒」とは「黒道」と呼ばれる暴力団による政治への介入をさし、
「金」とは金権政治を意味
する。地方派系や一部のビジネス・グループがその担い手とされ、国民党が経営する「党営事業」
もまた、
「黒金政治の元凶」として批判されてきた(松本、2004:137)。
136
政治の民主化と経済の自由化を「二重の移行」と呼んでいる。それによれば、国民党政権
は権威主義体制下で政治領域か経済領域かを問わず、国民党政権は本省人勢力を中核領域
から排除する一方、周辺領域で懐柔することで彼らの政治的支持を確保した(松本、
2004:141)
。第 2 章で述べたストーンのローカルレジーム論では、アトランタの白人ビジネ
スエリートが黒人の中産階級の企業家に優先的に工事を受注させることで、黒人中産階級
をレジームの中枢からは排除しながらも、人口の多数を占める黒人の政治的支持を調達し
た(Stone, 1988)。これになぞらえれば、台湾では国民党政権は本省人勢力を政治の中枢か
らは排除しつつ、本省人で形成される地方派系に農会信用部の運用権やバス会社の運営権
など限定された「小さな機会」を与えながら、本省人からの支持を調達したのである。
ところが、権威主義体制下では至高の領袖蔣経国に一元化されて地方派系どうしの連携
が禁止されていたのが民主化によって自由化され、地方派系は相互に連合を形成し、1992
年に全面改選されてからは、より権力の大きい中央政界への進出を始めた。そして、国民
党中央の権威が低下すると、地方派系は中央レベルの選挙に進出しながら外省人政治エリ
ートへの挑戦を始めた。
このとき、本省人政治家は 1988 年 8 月の証券会社の自由化など経済の自由化に乗じて、
それまで国民党中央政府によって限定されていた「小さな機会」に限らない、新たな資金
源や利権を獲得した。1990 年前後には民主化が本格化するなか、蔣経国というパトロン兼
統制者を失った地方派系は経済力という新たな権力の淵源を模索していったといえる。陳
明通によれば、このような経済活動の局限の突破による構造転換は、ふたつの形で表れて
いる。ひとつは経済活動区域の拡大であり、もうひとつは、より資本集約的方向に向かっ
ての発展である(陳、1995=1998:257)。前者は、本来郷鎮レベルの区域でのみ活動してい
たものが県市の範囲に拡大し、県市レベルのものはさらに早いうちに全国的、甚だしくは
マルチナショナルな経営に向かっている。後者は、金融証券業あるいは土地建設業に向か
っての発展である。この民主化と地方派系の変容時期に出現した新たな産業、すなわち自
由化された証券業のほかにケーブルテレビなども、地方派系の利権の温床となった(周・陳、
1998:117)。地方派系は、資本集約がもたらす独占的な地位によって、かつて権威主義的支
配者が創設した、地域的連合独占にとって代わる新たな「至高の領袖」となることをめざ
し、その経済力を武器に中央政界というより権力の大きいポストへと進出した。かくして
「二重の移行」の過程で地方派系とそれに資金を提供するビジネス・グループの政治力と
経済力は全国レベルにまで拡大したのである。
「二重の移行」に伴う地方派系とビジネス・グループの影響力の増大は、さまざまな弊
害をもたらした。なかでも深刻な問題は公共事業が地方派系の利権と化したことである。
1980 年代後半に台湾で対米輸出増加に伴う貿易黒字の株式市場および不動産への流入のた
め、バブル経済が起こったが、このとき地方派系はビジネス・グループと結合して建設業
や金融業を中心に全国的に展開するようになっていた。彼らは地方政治を牛耳ることで、
都市計画や都市整備事業に介入する権限を手にいれ、乱開発や土地投機によって莫大な利
137
益を得た(松本、2004:142-145)。これらの乱開発合理化の言説として「地域アイデンティテ
ィ」が用いられた(何、2010:8)。地域政治アクターにとって地域アイデンティティは公共工
事を呼び込み、有権者の票を動員するためのスローガンとなった。「搶救××(地名)」(×
×を救い出そう)というスローガンのもとに、地域政治アクターは護岸工事などの公共工
事を中央政府や県政府から受注し、それに伴う巨利を得て次の選挙の資金源としていった。
このような文脈の中で、社区総体営造が現状改変、すなわち公共工事を伴うプロジェクト
へと変化したときに、その利害は地域政治アクターと衝突したのである。利権をめぐって
の争いのみならず、同じ地域アイデンティティのもとにコミュニティ運動はしばしば開発
を阻止しようとしたため、地域政治アクターとコミュニティ運動は公共工事をめぐって相
まみえた。
しかし一方で、地域政治アクターはより大きな文脈の圧力の下で変容をとげた。第一に、
台湾の地域政治アクターは搾取ばかりに専念してはいられなかった。なぜなら、台湾の地
域社会は民主化よりさらに大きなレベルの圧力、すなわちグローバリゼーションに飲み込
まれるようになっていったからである。2002 年の WTO 加盟以降、地域社会は国家の保護
を失って自らの活路を自らで見出すことを迫られた。それは全台湾各郷鎮の農会にとって
は、農産物の輸出、全国展開、特産品の推進など、中央政府や県政府の各種補助金を受け
ながら農産物の差別化を図るとともに販路を開拓することであった。実際、全台湾でほぼ
全ての農会が何らかの特産品を打ち出しており、全国展開をめざしている124。例えば早く
からブランド化に成功した台東県の池上郷のコメをはじめ、台南県玉井農会が中央政府の
農業委員会(日本の農水省に相当)の助成金を受けながらマンゴーの輸出で当該地域農民の
収入向上に貢献したことや125、台南県の西港郷農会が木酢液を利用して農薬使用量を減ら
した「木酢米」栽培を推進するなど126、各地の農会の農産物の輸出や差異化が農会の成果
や農家のサクセスストーリーとして盛んに報じられるようになった。10 日に 1 回発行され
る美濃のコミュニティ紙『月光山雑誌』でも、美濃のコメやパパイヤなどが全国レベルの
農会主催の品評会での受賞報道や、美濃の特産品として農会が秋に売り出している小ぶり
の「白玉大根」が人気を博している127など、農会の成果はさかんに報じられている。これ
らの農会の成果は、全台湾の農会が評価を受ける「考評」によって全国に周知され、より
実績をあげた農会が次の年により多くの助成金を政府から受け取ることができるという循
環が生まれる128。さらにこれらの実績は結果的に農民の信用を生み、農会の要である信用
124
2010 年 5 月 10 日、農会事業推進部長R氏への聞き取りによる。
125
呉錦勲「標準化作業
売出芒果国際競争力
小果農変富果農的翻身伝奇」『商業周刊』
第 923 号、2005 年 8 月 1-7 日、72-74.
126
127
128
『聯合報』2010 年 5 月 25 日。
「農會推廣白玉小蘿蔔有成果」『月光山雑誌』2009 年 10 月 29 日第 2 版。
これらの農会による農産物の差別化の動きは、単にグローバリゼーションへの対応や農
会の成果宣伝のみならず、農会の経営多角化をも意図していた。もともと農会の中で融資
138
部の業務も改善されるという循環もうまれた。事実、2010 年に美濃農会信用部は前年比 2
億元増の 50 億元を突破し、農会信用部の預金高が全国一になった129。かくして、郷鎮政治
は公共工事や金融業などで利益を得ると同時に、有権者からの搾取だけでなく有権者への
分配や新しい事業への取組など成果を見せる必要に迫られた。その要求は、有権者のみな
らず県政府間のレベルでの競争を展開する県政府からも突きつけられた。たとえば、高雄
県の楊秋興県長は、美濃農会理事長に美濃を「有機農業生産特区」に指定し、パパイヤや
バナナの日本への輸出特区にする用意があると話したという(羅、2008:121)。台南県がマン
ゴー輸出で成果を上げているのに対し、農業区を抱える高雄県もそれなりの成果を出す必
要に迫られ、高雄県随一の農業区である美濃もその成果を出すよう県長から迫られたので
ある。そこで美濃鎮農会に必要とされたのは、地方の特産や目に見える「ハコモノ」など、
地域文化を実体化する言説や技術であり、それらはまさに社区総体営造でコミュニティ団
体が蓄積してきた経験であった。
しかし、地域政治アクターには文化に関する高度な言説や、パッケージデザインなどの
表象技術を用いた経験がなかった。もともと、中央レベルの立法委員は大卒以上の学歴を
通常要求されるが、地方派系レベルではそのような学歴は必要ないと考えられ130、宜蘭県
や高雄県など地方文化の実体化に熱心であった一部の地域政治アクターを除けば、郷鎮レ
ベルの政治アクターは総じて文化に関する言説に無頓着であったといえる。ここにおいて、
地域政治アクターが注目したのが、台頭するコミュニティ運動であった。美濃鎮公所の主
任秘書が協進会のようなコミュニティ団体の特徴を「美濃の文化をよく理解し、役所を手
伝ってくれる」ことだと評したように131、郷鎮レベルのアクターにとって、コミュニティ
団体は自らの成果を台湾全土に向けて発信するのに不可欠の存在となったのである。ここ
に地域政治アクターとコミュニティ運動のもう一つの結節点が誕生した。
第二に、地域政治アクターは零細化、個人化をとげていった。国会全面改選、1997 年の
台湾省実質廃止に伴い、中央レベルの立法機関である立法院の議席が大幅に増加した。立
法委員の議席増加と政党システムの多党化が、政党対政党、派閥対派閥の競争に加えて、
派閥内部での激しい競争、さらには派閥の分裂を引き起こした。その結果、ピラミッド型
の権力構造と県市レベルの勢力を誇っていた地方派系の「瓦解」が進み、その勢力は弱体
化した。その裏返しとして、規模が「零細化」した新たな派閥勢力が生まれ、その動員力
が「個人化」していった。瓦解した地方派系の中からは国民党とは別の政党に鞍替えする
事業を行う信用部の農民向け融資事業は農会の収入の大部分を占めていたが、低金利の長
期化でその収益は徐々に減り、農会は経営の多角化を迫られた。2010 年 5 月 10 日、農会
事業推進部長R氏への聞き取りによる。
『月光山雑誌』2010 年 2 月 19 日第 1 版。
大学を卒業したエリートは、地域社会に残るのではなく、大都市など地域社会の外に出て出
世の道を歩むのがよいと考えられていた。それは、
「農会には大卒はいらない」というコミュニ
ティ紙『美濃雑誌』の投書にも表れている(
『美濃雑誌』1977 年 9 月 7 日)
。
131 2006 年 3 月 10 日、鎮公所主任秘書J氏への聞き取りによる。
129
130
139
派閥勢力が現れ、民進党はじめとする諸政党には彼らを取り込むチャンスが生まれた(松本、
2010:72-73)。その結果、雲林県のように民進党が地方派系のリーダーを擁立して選挙票の
動員を図るという現象もおきた(寺尾、2006)。このような動きの中で、地域政治アクターは
公共工事などの利権による利益独占という構造はそのままに、地方派系からより自律的に
動くことが可能になった。
では、美濃では実際に地域政治アクターはどのように変容したのか。1994 年の省議員選
挙で、鍾徳珍と鍾紹和が激しい選挙戦を繰り広げ、そこで勝利を収めた鍾紹和が叔父の鍾
栄吉の後ろ盾をもとに勢力を拡大していった。鍾紹和と鍾栄吉は白派を離れてのち、2000
年に総統選挙に立候補した宋楚瑜について親民党に合流し、再び国民党に合流したが、元
来白派優位と言われていた美濃の構図は、鍾らの流動や、2002 年の鍾紹恢の収賄罪による
逮捕など白派政治アクターの周縁化によって、公共工事などによる政治アクターの利権独
占などのメカニズムはそのままに、派閥自体は解体し、地域政治アクターが個人化してい
った。事実、2003 年以降の鎮長と農会理事長選挙では、政治アクタ―どうしの対立はある
ものの、地方派系色のない羅建徳と朱信強がそれぞれ当選した。また、2010 年 5 月には 60
年来の水利会の紅派優位さえも変化し、民進党の高雄県長楊秋興の配下にあった李清福が
水利会長に当選した。それは、コミュニティ団体にとっては、地域政治アクタ―どうしの
人間関係に配慮しさえすれば、県レベルなど上位レベルの地方派系の影響を受けずに、特
定の地域政治アクターと協力して地域政治に参入することが容易になることを意味した。
また、地域政治アクターにとっては、地方派系のシステムに頼らずに自らの人脈と手腕で
自らの功績を作り出し、権力を固めていく必要があった。こうして、地方派系の瓦解と個
人化は、コミュニティ団体にとってはローカルレジームへの参入を容易にした。このよう
な条件のもと、コミュニティ団体はローカルレジームへの参入を強めていくことになる。
本節では、地方派系など地域政治アクターの変容を整理した。すなわち、1990 年代に本
格化する制度政治の民主化は経済の自由化と同時に進行したため、台湾の地方派系は中央
政府の統制を離れて中央政界に進出する一方、証券業や不動産など新たに自由化された産
業や公共事業にも進出し、中央政府に代わる新たな資金と権力の淵源を模索した。その際、
ちょうど社区総体営造の深化にともない、公共工事を伴う事業への深化を模索するコミュ
ニティ団体と活動領域が重なった。一方で、グローバリゼーションや地方派系の全国進出
にともない、地方派系にとって有権者などの利害関係者にたいする分配の成果の宣伝は不
可欠となった。その際、地域政治アクターはコミュニティ運動が持つ文化に関する高度な
技術や言説を必要とし、ここにもう一つの地域政治アクターとコミュニティ運動の結節点
が誕生した。
次節では、コミュニティ運動の変容を追いながら、それがどのように地域政治アクター
の活動領域と重なっていくのかをコミュニティ運動の側から検証していく。
140
2
社区総体営造の深化――コミュニティ団体の地域政治への参入
前節では地域社会における地域政治アクターの変容を追った。本節ではコミュニティ団
体の変容を追い、地域政治アクターとの結節点を見ていこう。前章では協進会から派生し
た社区大学や姉妹会や地域社会から卓越化したことが明らかになった。これらの団体は中
央政府や県政府など地域政治の統制から離れた資金を用い、かつ地域政治アクターが解し
ない文化や学術に関する言説を用いて、地域社会から離れるイベントや表象行為を実践し
ていったのである。では、同時期に協進会はどのような道をたどったのか。これが本節の
課題である。手順としては、まず社区総体営造がどのように地域社会において政治的なの
かを述べる。次に、協進会の業務の推移を述べながら、それが社区大学や姉妹会とどのよ
うに連携し、地域政治と向き合うのかを分析したい。
社区総体営造は、地域社会の中に文化領域というコミュニティ運動の活動の場を作り出
した。協進会は前章で見たとおり、1997 年の永安路調査プロジェクト以来、中央政府から
県政府まで「タバコ乾燥小屋調査事業」や協進会の創設メンバーである李允斐が教鞭をと
る樹徳科技大学と提携した「客家伝統建築調査事業」(2001 年、2002 年)など次々と文化調
査事業を受託してきた。さらに 2001 年の旗美社区大学、2003 年の南洋台湾姉妹会設立に
よって、コミュニティ運動のネットワークは大きく広がった。これらのネットワークは、
プロジェクトが基本的には一年単位の政府助成金で運営されるため、プロジェクト受託の
大小に合わせて近隣のネットワークから人材や資源の過不足を融通したり流用したりする
ことによって強化された。例えば高雄の大学院修士課程を修了後、2003 年 8 月から 2006
年 8 月まで協進会で勤務したあるスタッフは、就職当初協進会の仕事ではなく、社区大学
全国促進会の台南県後壁郷の調査プロジェクトに参加した132。また、イベントの参加者や
ボランティアも協進会、社区大学、姉妹会の 3 団体の間では交流が頻繁に存在し、それぞ
れのイベント参加人数を増やすのに貢献している133。このように、協進会と旗美社区大学
のあいだではイベントやプロジェクトの受託の多寡に合わせて人材の交換や移動が頻繁に
行われており、これらのやりとりによって、コミュニティ運動のネットワークは強化され
ていったといえる。
これらのプロジェクトは、基本的に選挙やそれに伴う利権を中心に運営されているロー
カルレジームとは無縁の世界で展開された。前章で述べたとおり、協進会は地域政治アク
ターの統制のきかない県政府や中央政府からの資金を得て、またそれらのアクターが解し
ない高度な文化や技術に関する言説を展開することで、地域社会から卓越化したのである。
助成金という資金源の性質に由来するコミュニティ運動の派生は、コミュニティ運動のネ
ットワークを一定規模にまで拡大し、この卓越化を強化してますます自己完結的なネット
ワークを帰結した。以下は 2000 年以降の協進会の進めてきた主なプロジェクトの一覧であ
2005 年 11 月 22 日、協進会スタッフT氏への聞き取りによる。
コミュニティ団体のイベントにおける参加者数は、イベントへの住民参加を可視化するとい
う県や中央政府など助成元の要求により、イベントの助成金の報告書を書く際に記載する必要が
ある。
132
133
141
る。
執行終了年
プロジェクト名
1998
永安集落エコミュージアムを育てよう
1999
龍肚庄誌の編集
八十九年度『美化公共環境』公共環境子計畫-高雄
2000
縣美濃鎮永安聚落下庄水圳環境營造
2001~2010
黄蝶祭水橋くぐり(2003 年は SARS のため中止)
美濃下庄水圳生活環境營造と美濃菸葉輔導站再
2004
利用計画
2005
美濃文化造鎮総体規劃案
「コミュニティ用水路防災整理計画」高雄縣美濃鎮
2006
獅子頭用水路防災整理計画
表 5-1 協進会が手がけた主なプロジェクト134(1998-2006 年) 出典:筆者作成
しかし、協進会が数々の助成金を得て文化の実体化の領域が拡大および深化するにつれ
て、社区総体営造という文化の実体化プロジェクトは地域社会において政治化していった。
もともと社区総体営造は地域社会から卓越化した形で始まったが、担い手たちの持つ高度
な設計技術や言説を用いて、単なる調査だけではなく、公共空間の充実など住民の生活の
質の向上、以前の景観の復活などハードやソフトの現状の改変を試みるようになっていっ
た。その際、より深い形で住民の生活に干渉したり、公共工事という地域政治アクターの
既得権益の領域と衝突をおこしていったりしたのである。以下、2006 年度に行われた用水
路の改修と 2007 年におこった東門楼の道路拡幅問題を例に具体的に分析していく。
まず、美濃の用水路の歴史を整理しておこう。言うまでもなく、用水路は農村の発展に
密接に関わっている。美濃の用水路の開発は乾隆 3 年(1738 年)に建設された龍肚地区の龍
肚圳にさかのぼるが、鎮内の広範囲な灌漑整備は日本統治期の 1910 年に行われた獅子頭水
圳を俟たねばならなかった(美濃鎮誌編纂委員会、1997:738-741)。荖濃溪(第 2 章地図参照)
から水を引く竹仔門水力発電所(1908 年操業開始)から用水路は村全体にわたり、農業開拓
134
これらのプロジェクトは八色鳥協会の名義を用いたり、美濃愛郷文教基金会の名義を用いた
りしていることもあるが、実質上は協進会のスタッフによって執行されている。
142
のために台湾北部の苗栗や新竹など客家集住地域から美濃への移民135が政策的に導入され
た。これらの用水路は美濃の広範囲を流れるため、美濃の客家農業文化の象徴として美濃
のコミュニティ運動の中でたびたび取り上げられてきた。中でも、コミュニティ運動はこ
れらの用水路が単なる灌漑のみならず、住民同士の憩いやおしゃべりの場など、様々な親
水機能を持ち、美濃人の共通の記憶をなしてきたことを強調してきた(美濃愛郷文教基金会、
2006:5-64)。例えば、『美濃鎮誌』には用水路での子どもの水遊びや洗濯の写真が載ってい
る(美濃鎮誌編纂委員会、1997:741,745)。また、美濃の昔の風景をノスタルジックに描く地
元出身画家の曾文忠は、斜めになって水路に入りやすくなっているところで洗濯する婦人
や、水遊びをする子どもの絵をモチーフとしてきた。つまり、美濃の中で用水路は単なる
農村としての歴史だけではなく、その親水機能にまつわる生活文化、とりわけ客家文化と
深く関わるものであり、コミュニティ運動や画家など文化の実体化に関わるアクターもこ
れを好んで題材化してきたといえる。
写真 5-1 改修前の下庄地区用水路。水路の壁を直角にして道路を拡幅した部分と、古い部分
の道路のコンクリートの色が異なる。手前に見える橋の長さは元の狭い道路の幅と
同じであるため、道路の幅は橋の内側に食い込むように拡幅されている。ちなみに
橋に立っている旗は地元の立法委員鍾紹和の旗である(2004 年 12 月 8 日筆者撮影)。
写真 5-2 下庄地区用水路の壁を再度斜めに改修中の様子。道幅が狭くなっている(2006 年 9 月
2 日筆者撮影)。
しかし、道路の拡幅を理由に、水利会は下庄地区の用水路は斜めになっていた壁を住民と
の協議なしに突然 2002 年に直角に改修した。それが写真 5-1 である。この付近には橋の中
身を空洞にして用水路のトンネルとしている「水橋」(写真 5-3 参照)があり、その水橋を
くぐってウォータースライディングを楽しむのが美濃の子どもの日常風景となっていた。
また、この下庄地区は美濃の中で最も早く開発された地区であり、人口も密集しているた
め、用水路への人口集中も激しく、住民の密接な公共空間を形成していた。それだけに、
135
これらの移民は今でも美濃の中で「台北」すなわち台湾北部からの「客」
、すなわち客家と
いう意味で「台北客」と呼ばれ、それ以前から美濃に住む家族と区別されている。しかし現在で
はその違いが政治化することはなく、美濃における地位などで差別されることはない。
143
この部分の壁を直角にすることは、美濃の用水路の親水機能を著しく損ねるとコミュニテ
ィ団体は考え、また、この工事は水利会が公共工事の受注にともなう「小さな機会」を得
るためのものであるとして、水利会を批判した136。
写真 5-3 下庄地区水橋。昭和初期の建造。中は用水路を通すトンネルになっている。自動車
は通行できず、もっぱらバイクや自転車、徒歩用に用いられている。(2009 年 11
月 8 日筆者撮影)
写真 5-4 東門楼。後ろに見える緑地は美濃で 2 番目に古いとされる有名な「庄頭伯公」と呼
ばれる土地公(土地神を祭る廟)。この道路を挟んで右側に地域住民の活動センターが
ある。(2010 年 5 月 9 日筆者撮影)
そこで、協進会は 2000 年 4 月から 12 月まで、文化建設委員会の助成金を得て、この下
庄地区用水路の改修を住民と検討するプロジェクトを行った。そこでは、協進会の指導の
もとで最終的に用水路の壁面を斜めに改修しなおす美化の可能性が提案されたが、実際の
工事は行われなかった。
実際の工事が行われた直接の淵源は、2005 年に協進会が行政院客家委員会(2001 年成立)
と高雄県政府から受託した、美濃の都市計画、福祉、農業に関する地域全体の未曽有の一
大政策提言プロジェクトである年間予算 488 万元の「文化造鎮」である。このプロジェク
トにおいて、協進会は用水路の親水機能を高めるために下庄地区の用水路の壁を斜めに改
修するプロジェクトを提言した(美濃愛郷文教基金会、2006:5-68)。この提言にもとづき、
協進会は客家委員会の助成金を受託して、高雄県政府を経て民間団体に発注される 650 万
元のプロジェクトを企画した。
しかし、このプロジェクトを協進会の関係者が受託しようとしたとき、何回も落札でき
ずに流局した。プロジェクトを提言した企画団体はこれを受注することができないという
国家採購法の規定にもとづき、協進会は協進会の名義ではなく、日ごろ関係のある農協関
係者や大学院生らの名前を用いるという手段で数回入札を試みたがことごとく失敗に終わ
った。最終的に同プロジェクトは企画者である協進会の手を離れて、県政府が探してきた
136
「不要把『水圳』變水溝!!」『月光山雑誌』2002 年 6 月 9 日。
144
建設業者がこのプロジェクトを客家委員会の 578 万元の予算で 2006 年 5 月に実行したが、
建設業者は設計図と全く異なる形でこの工事を行った。コミュニティ団体がこれに抗議し
たため、客家委員会は再度 510 万元の予算を組んで再び工事を行ったが、それも設計図と
は異なるものであった137。なぜこのようなことがおこったのか。当時の協進会のスタッフ
によると、当時協進会のスタッフたちは鎮公所に不信感を持ち、県政府が建設業者と設計
会社を探したほうが協進会の考える改修に近いと考えたが、当時の県長であった楊秋興に
は特定の業者に受注させたいとの思惑があり、また、協進会は実際の工事を請け負う資格
がないため、結局協進会の思うようには行かなかったという138。このように、協進会が公
共空間の設計および工事という領域に足を踏み入れたとたん、そのプロジェクトは一気に
資金規模が巨大化するとともに、県政府の政治アクターの利害や活動領域と重なった。
同様の事件は、東門楼付近の道路拡張計画にも表れた。この東門楼(写真 5-4 参照)はか
つて美濃の入口であり、客家と原住民の「械闘」(土地をめぐるエスニックグループ間の武
力衝突)の最前線であった。門は現在も存在しており、美濃の開拓史を語るモニュメントと
なっているだけでなく、そばに屋根のついた東門地区の活動センターや土地公もあり、高
齢者たちが椅子を並べて憩う空間になっている。しかしこの付近は道幅がせまく、東門楼
を見に来る観光客の貸し切りバスが停まれないため、観光客からは不評であった。そこで
2005 年、協進会は前述の「文化造鎮」の中で都市計画政策提言プロジェクトの一環として、
東門楼付近の道路拡幅を提案した。具体的なデザインは、景観設計を専攻するワシントン
大学の大学院生が中心となって景観設計を提言した。その設計内容は、東門楼に隣接する
簡素な活動センターを住民のために充実し、またその周りにベンチを並べたり歩道を拡張
したりして観光客に便宜を図り、夜は東門楼をライトアップするという案であった(美濃愛
郷文教基金会、2006:5-71、 基本設計案(二))。
しかし、実際の住民座談会で出た意見の中には、住宅を削って道路を拡幅し、観光バス
を止められるようにすべきとの意見も出た(同前、2006: 基本設計案(二))。そして、実際の
工事は協進会ではなく、地元選出の立法委員である鍾紹和が鎮公所を通じて 2007 年に受注
した。鍾の案では観光客の貸し切りバスを停めるために、付近の住民の住居を削って道路
を拡幅するというもので、その削る対象には鍾と 1994 年に省議員の席を激しく争った鍾徳
珍の家も含まれていた139。もともとは協進会が提案した東門楼付近の空間改善計画である
にも関わらず、地元出身の立法委員が本来の意図と異なり、一方的に民家の土地を削る拡
幅工事として計画を受注したため、協進会などのコミュニティ団体は反発を強め140、2010
年 6 月現在まだ工事は始まっていない。
用水路の事件や東門楼の事件は、県、鎮、国会議員など地域政治アクターが関わる「建
設」という領域に協進会が踏み込んだことを示している。公共事業は従来、地方派系など
137
138
139
140
「令人匪夷所思的公共工程惡夢」
『月光山雑誌』2007 年 8 月 9 日、第 4-5 版。
2010 年5月8日、元協進会総幹事P氏への聞き取りによる。
2007 年 10 月 8 日、筆者の現場観察による。
劉孝伸「為東門樓和伯公請命」『月光山雑誌』2007 年 10 月 9 日、第 2 版。
145
の地域政治アクターが受注に伴うキックバック、すなわち「小さな機会」
(第 3 章参照)を
得て、地方派系の追随者に対する報酬としたり、追随者を呼び込んだりする利権の典型で
ある(渡辺、2004:171)。もともと地域社会から卓越化した社区総体営造は、文化の調査事業
など、制度政治のおよばないサブ政治の領域で台湾文化の実体化を担っており、それは台
湾ナショナリズムの具現化という国家レベルの政治ではあっても、地域社会の中で地域政
治アクターの関わる政治領域ではなかった。しかし、コミュニティ団体の事業が現状改変
を伴わない現状の「調査」から、景観デザインなど現状改変を伴う、すなわち建設を伴う
事業に変貌したとき、その実際の工事に伴う利権は地域政治アクターにとって得るべきも
のとなり、コミュニティ団体は地域政治アクターの領域に入り込んだのである。
地域政治アクターとコミュニティ運動の活動領域の接触は、コミュニティ運動の方向転
換からも発生した。2002 年に協進会の総幹事に就任したスタッフは、2000 年にダム建設反
対運動がひと段落して以来文化の調査事業に特化していた協進会や、自己啓発に特化した
社区大学の方向に疑問を感じるようになった。このスタッフにとって、客家文化の調査事
業や社区大学は一部の知識人だけのものであり、コミュニティ運動はより一歩住民の生活
の改善に踏み込むべきであると認知されるようになった。この元総幹事P氏は社区大学の
有機農業に関するワークショップやマーケットなど各種イベントについて、羅桂美
(2008:123)の中で社区大学の農業に関するイベントが知識人だけのものであることを、次の
ように述べている。
美濃でやっている有機農業はずっと、最も成功しているようにみえるのは一部の読
書人だけが言説の上で正統性と社会、文化資本を得ているにすぎないということで
す。これらの読書人は「農民」という記号を操作するだけで名声を得て、
「農民の売
上や宣伝を助ける」という名目のもとで、実は自らの社会資本を蓄積するために、
有機農業に関することをやっているのです。そしてこれを実績としてさらなる政府
助成金獲得を狙っているのです。
元総幹事P氏の発言からは、社区大学が推進しているという有機農業が、実は一部の知識
人が一部の農民を操作して作り出している言説であり、鎮全体の有機農業普及や農家の向
上には貢献していないという考えがうかがえる。おりしも美濃だけではなく、全台湾でも
知識人が担う社区総体営造と地域住民との温度差が批判されるようになっており(何、2010)、
元総幹事のような問題意識は美濃だけの問題意識ではなくなっていた。
文化の調査事業から一歩進んで現状を変更する何らかの文化の実体化を達成しようとす
るとき、そこには二つの方向を伴った。一つは特定の景観の改変、すなわち工事を伴う公
共事業であった。社区総体営造が県政府や中央政府など地域政治アクターの統制の及ばな
い資金であっても、それは従来の地域政治アクターの利害関係とする領域に踏み込んでい
かざるを得なかったのである。またもう一つの領域は、2002 年 1 月の WTO 加入以降農会
146
が力を入れるようになった農産物の差別化や輸出などの農業戦略、または鎮公所や農会が
行う観光政策である。農業や観光業は多くの住民が関わっており、住民の生活の質の向上
には、これらの産業に踏み込む必要があった。特に、農業関係では農業委員会―県政府農
業処―鎮公所農業課と末端組織の性格の強い鎮公所に比べ、農会は独自の政策を発揮しや
すいため、協進会は農会の施策に踏み込むことで自身の理念を実現できる可能性があった。
協進会の関わってきた政治の変化に注目して言うならば、ローカルレジームから離れたコ
ミュニティ運動が担ってきた社区総体営造という政治が、公共工事の利権として、また農
業や観光業などの産業として、再び地域政治の中に立ち現れたといえる。
地域政治アクターは、当初このコミュニティ運動に対して対峙的に対応した。もともと、
地域政治アクターにとってはコミュニティ運動という存在そのものが得体の知れない存在
であった。コミュニティ運動は各種選挙に直接立候補したり応援をしたりする存在ではな
く、どの地方派系に所属しているわけでもない。しかしコミュニティ運動が公共工事や各
種の交付金を受注してきた時点で、地域政治アクターにとってそれは競合相手と映るので
ある。コミュニティ団体が調査事業に特化していたときは、地域政治アクターにとって、
コミュニティ団体は自分たちの手の届かない資金を操作し、また自分たちの領域を侵すも
のではなく、個々のコミュニティ団体の特徴も渾然一体のものととらえていた。事実、美
濃出身の立法委員である鍾紹和は協進会、社区大学、南洋台湾姉妹会など一連のコミュニ
ティ団体を「愛郷派」と呼び、一体のものと認知している141。しかし、協進会は事業の深
化にともない、その活動領域や事業が地域政治アクターと重複してきたため、地域政治ア
クターにとって、コミュニティ運動は選挙の公約づくりなどに役立つ存在に見え始めた。
美濃と同様に、屏東県林辺でも、どの派系に属しているか分からないコミュニティ運動
は住民に警戒された。しかし派閥の属性を気にしているということは、また自らの政治的
立場を明らかにしてしまうため、コミュニティ団体のイベントに参加しない理由を地域住
民は「弁当が出ないから」といった「かこつけ」を行う(楊、2007:98)。グレーゾーンなき
対立関係に覆われている地域社会の中で、住民は何らかの政治的属性なしに生活すること
は難しい。立場が分からない団体は自分と敵対する派閥である可能性もあるため、住民は
警戒するのである。同様に、地域政治アクターにとっても、得体の知れない政治力がある
のにどの派閥にも属しないグループがあるというのは警戒の種であった。かくして、それ
が下水道や河川工事などのインフラ整備であれ、社区総体営造という名目の「美化」であ
れ、公共工事という領域の中でコミュニティ団体と地域政治アクターは相まみえることに
なったのである。しかし、対峙的に接する地域政治アクターに対して、コミュニティ団体
は事業の深化のために何らかの形で入り込んでいく必要があった。また、地域政治アクタ
ーにとっても、コミュニティ団体のもつ宣伝やプロジェクト執行能力は、地域政治アクタ
ーの名声を大いに高める可能性があった。
141
鍾らの地域政治アクターのコミュニティ団体に対する不安を表現するとき、コミュニティ団
体は自嘲気味にこの言葉をそのまま自らも用いることがある。
147
本節をまとめると、協進会は中央政府や県政府など地域政治アクターの統制のきかない
資金を得、また制度内化にともなうコミュニティ運動の派生によって地域社会から卓越化
した一定規模のコミュニティ運動のネットワークを作り上げるとともに、制度政治の及ば
ない台湾客家文化の実体化、特に調査事業や景観の大規模改変というサブ政治を担った。
しかし協進会の主要事業は、調査事業から一歩進むと現状改変を伴う工事の必要が生じた。
利権の大きいそのような公共工事の受注は従来の地域政治アクターの活動領域であり、こ
こにおいて地域政治アクターとコミュニティ運動は活動領域が重複した。つまり、コミュ
ニティ運動は地域政治アクターからいったん卓越化してサブ政治を担ったものの、事業の
深化や社区総体営造への批判にともない、再び地域政治アクターやローカルレジームに向
き合わざるを得なくなっていった。
次節では、
この 2 節で述べてきた地域政治アクターとコミュニティ運動双方の変容の下、
実際に協力関係が成立した過程を分析していく。
3
コミュニティ運動の再帰的政治参入 ―サブ政治と郷鎮政治の相互関係
前の 2 節で、地域政治の変容やコミュニティ運動の事業変容から、双方が双方を必要と
するようになっていったことが明らかになった。しかし、必要となっても、実際のインタ
ーフェイスの発生は必然ではない。そこには、然るべき過程があって初めて接触が可能に
なるのである。本節では、実際に美濃のコミュニティ団体と地域政治アクターが接触し協
力関係が成立していく過程を追うことで、その協力関係の本質を検討したい。
協進会と農会の接触は、2001 年に博士学人協会での、協進会スタッフP氏(1972 年生ま
れ
、翌 2002 年に協進会総幹事に就任)と農会事業推進部の若手スタッフV氏(1967 年生まれ、
ともに当時 30 代)の接触にさかのぼる。博士学人協会とは博士号を取得した美濃出身者の団
体で、100 名前後の会員を擁する142。団体の性格は地元の名士的存在で、会員自身は本職
を持ち、地元への事業執行にかける時間が少ないが、博士という名声や地元での事業執行
の意思はある。そのため、実際に事業執行を手伝うスタッフとして協進会スタッフ P 氏を
兼任スタッフとして雇用していた。そこでこの協進会スタッフが出会ったのが 5 歳年上の
農会事業推進部スタッフV氏であった。彼もまた勤め先の台湾東部の台東の農会から美濃
農会に呼び戻されたばかりであり、若い二人は意気投合したという。この協進会スタッフ
は 2002 年秋に協進会総幹事に就任すると博士学人協会を離れるが、その後もV氏との接触
は続いた。
では、この 2 人はどのような道をたどってきたのか。農会事業推進部の若手スタッフV
氏は、当時 3 年制の「農専」と呼ばれる農業専門学校(高校卒業後に入学する高等教育機関、
現在は大学に昇格)を卒業後、屏東や台東の農会で経験を積み、若手ながら農産物の栽培方
法や流通など農業全体に詳しい。彼は農会による指導を通して農民を組織化したり専門知
142
2006 年 2 月 23 日、博士学人協会理事長への聞き取りによる。
148
識を持った農家を育てたりして、生産量を増やし、品質を向上させるという理念を持って
おり、農業に関しては農会きっての知恵袋的存在である143。農会の事業推進部は約 70 名の
美濃農会の職員の中ではスタッフ 5 名と決して大きい部署ではないが、農会の主要な財源
である金融事業が低金利の現在は不振であることや、前述の農会の競争メカニズムなどを
理由に、その存在感を増してきている144。そのため、2007 年にこの農会若手スタッフは一
時信用部に異動し、その能力が発揮されずに悶々とする日を送ったが、彼をよく知る元事
業推進部長鍾清輝が 2009 年 3 月に農会総幹事に当選した後は、その能力を買われて再び事
業推進部に復帰し、コミュニティ団体との窓口業務や実務の中核となっている。一方、後
に総幹事となる協進会スタッフP氏も美濃出身である。台北の大学で土木を専攻し、卒業
後、同世代の美濃出身者の誘いで台北市政府民政局に 3 年あまり勤め、客家文化会館の設
立や台北市内の客家居住区の調査など客家行政に関わったのち、2001 年に帰郷して協進会
スタッフとなってからは、台北市政府に勤務した経験から都市計画の系統の不整合や助成
金行政、文化保全の知識をいかして、美濃の自然や歴史保全に関するプロジェクトに関わ
ってきた。このように、農会若手スタッフと協進会元総幹事は、学歴や地域社会への埋め
込み度は異なるが、それぞれの実務経験の中で地域活性化の必要を見出していった。
それぞれ別のキャリアの中で、協進会と農会のスタッフは何を感じていき、出会うにい
たったのか。農会と中心的に接触してきた協進会の元総幹事(2002 年―2006 年)P氏は、午
前中に地元の知り合いの若者のマッサージ店の開店祝いに駆けつけたあと、このように述
べている。
美濃の読書人は伝統的に学歴のない地域政治アクターや地域住民を見下す傾向が
あります。しかし、読書人には行動力はありません。また、学歴のないローカル
なネットワークの中で生きる人々も必ずしもそれほど悪いことをしているわけで
はなく、女を呼ぶのも、彼らの生活様式からすればそれほど不自然なことではあ
りません。知識人青年のUターンばかりが注目されがちですが、これらの地元青
年たちは地域社会において地域活性化のために発揮しうる潜在能力を持っていま
す。ただ、知識人の支配する地域社会の中で、その能力が発揮される空間は縮小
されているのです145。
このように、この協進会スタッフP氏は地域社会に踏み込み、能力の活かされていない地
元青年たちの潜在能力を生かして地域活性化に関わろうとしていた。それに対し、農会の
若手スタッフV氏も、農民の組織化や増産、品質向上やマーケティングなどに際し、この
ようなコミュニティ団体との接触を望んでいたと考えられる。彼は一度協進会への接触を
143
144
145
2006 年 3 月 10 日、農会若手スタッフV氏への聞き取りによる。
2010 年 5 月 10 日、農会事業推進部長R氏への聞き取りによる。
2010 年 5 月 9 日のフィールドノートによる。
149
試みたときの様子をこのように述べている。
社区大学も有機農業をやっているが、
「何を遊んでいるんだ」という感じだね。有
機農業を推進するには組織が必要だけど、社区大学は組織を作っていないじゃな
いか146。実は昔、わたしは協進会に協力を打診したことがあった。しかし当時総
幹事はまだ CS(前任の協進会総幹事)で、彼は農会が嫌いというか、協力したくな
さそうだった。彼は以前は文化を重視していたが、現在は社区大学でその文化が
農業からきていることにやっと気づいて、産業を重視しているようだね。
このように、農会の若手スタッフにとって、台湾文化や都市計画に関する知識は農会の農
業推進のために必要なものと考えられていた。しかし、彼にとって、協進会は自分が接触
しにくい相手と映った。なぜか。その答えは以下の社区大学スタッフの発言からうかがえ
る。社区大学が生涯教育事業の中で進める有機農業体験やワークショップについて、協進
会での実習生を経て大卒後すぐ社区大学に入り、勤務 2 年目のスタッフはこのように述べ
ている。
CS(社区大学の現場最高責任者:筆者注)は、いつも社区大学で社区大学スタッフ
に有機農業に関する本を読ませて勉強させます。わたしたちはかなり勉強しまし
た。しかしなんというか、それらの知識にもとづいてわたしは色々なアイデアが
あるのに、実行に移せないのです。(自分と同年代の:筆者注)農村田野学会の若
い子たちが美濃農会と頻繁に接触して自分たちの構想を次々と実現しているの
は、本当にうらやましいです147。
この社区大学スタッフが述べているのは、社区大学の発想が、知識人主導の環境保護や社
会運動の中から出てきているということである。前章で述べたとおり、旗美社区大学は「全
台湾初の農村型社区大学」を謳い、社区総体営造の「農村教育」の一環として有機農業に
力を入れている148。そこで旗美社区大学は一部の有機農家と社区大学スタッフやレストラ
ン経営者から成る「有機農業耕作隊」を 2005 年に立ち上げた。そのほか、
「農民市集」と
いうファーマーズマーケットを年数回開催するなど、ルーティンワークである生涯教育講
座の開催のほかにも農業関係のイベントを開催している。しかし、この社区大学スタッフ
の発言から分かるのは、農村田野学会が持つような、数々の理念を実行に移し、有機農業
を広く普及するだけの地域社会における同盟関係(coalition)や、それらの事業を実行する公
146羅桂美(2008:125)も社区大学の有機農業の農民組織の欠如を指摘している。
2010 年 5 月 9 日、社区大学スタッフM氏への聞き取りによる。
旗美社区大学ホームページ「論述専区」張正揚「農村学習・学習農村
学習運動」http://cmcu.ngo.org.tw/node/508(2010 年 6 月 30 日確認)
147
148
150
旗美社区大学的農村
権力を社区大学が地域社会において持たないということである。前章で述べたように、社
区大学はあくまでネットワーク内での自己啓発を目的としているため、その事業の正統性
は社区大学全国促進会を含む鎮内外の社区大学ネットワーク内から発生しており、農会や
地域社会にとって社区大学の事業は広く正統性を持つものではない。農会若手スタッフも、
知識人特有の農会と接触しない、概念ありきの社区大学が進める有機農業の中で、自分が
存在する空間がないことを敏感に感じ取ったといえる。
もう一つの代表的な美濃の高学歴者団体である博士学人協会についてはどうか。農会で
実務を十数年積んだ若手スタッフV氏にとって、博士学人協会の構想は現実性が低いよう
に見えた。彼は、美濃の博士号取得者からなる博士学人協会について、次のように述べて
いる。
博士学人協会のいうことは中身がなくて理想的すぎるよ。あんなことをできるの
は神だけだね。たとえば、博士学人協会の劉子英は、葉タバコの生産停止政策が
決まったら北海道の富良野のようにラベンダーを植えればいいというけど、台湾
にはそれを売るための市場もないし、品質は欧米に及ばない。また、博士学人協
会の有機田には県政府の役人が見学に来ていたけど、博士学人協会の田はたった
2,3分(=約 20,30a 弱:筆者注)で、決して美濃を代表することはできない149。
協進会が「非協力的」だったり博士学人協会の考え方が「非現実的」というこのような発
言に通底するV氏の考えは、高学歴の知識人は農会の能力を正当に評価していない、対等
なパートナーとして扱ってくれないという不満である。若手の農会スタッフは、地域政治
への参入は間接的であり、彼(女)らにとって重要なことは特定の政治アクターが利益を得る
ことよりも、鎮内の農業をより発展させ、美濃の農民の生活を向上させるというパブリッ
クな関心に向いていた。
「社区大学が最近やっと農業を重視し始めている」という発言から
は、市民の生涯教育や市民社会の組織化といった関心から照らして農業は重要であり、自
分は政治的な関心なしに、無私に早くからそれに取り組んできた、そして社区大学が遅ま
きながらそれに気づいたのだという農会若手スタッフの自負がうかがえる。しかし、その
公的な関心のためにこれらの知識人の団体と協力しようとしたとき、協進会や社区大学、
博士学人協会の非現実性や偏見に直面したのである。美濃在住の高学歴者に対する庶民の
コンプレックスについて、鎮公所の主任秘書J氏はこのように語っている。
博士学人協会は学歴も年齢も高いし、仕事の内容も大まかな方向に関するものだ。
こういう高学歴者にたいして、庶民(中国語で「小老百姓」
:筆者注)はコンプレック
スがある。昔親たちは子供に親と同じ苦労をさせたくないと、子供に一生懸命勉強
させたんだよ。だから美濃には「富む者は本を手放さない、貧者は豚を手放さない」
149
2006 年 3 月 10 日、農会若手スタッフV氏への聞き取りによる。
151
ということわざがあるし、高雄県の 4 分の 1 の校長は美濃出身者だ。…(中略) …博
士学人協会の理事長はわたしに様々な意見を言うんだよ。たとえば、鎮公所が鎮内
の民間団体を代表して中央や県政府に助成金をまとめて申請すべきだ、とか。一方、
協進会は学歴や学識があるとはかぎらないけど、地域活性化に熱心であり、参加す
る能力を持っている。協進会には多くの学生が出入りしており、どちらかといえば
実質的な仕事を多くこなしている。若者がこのようにまとまって仕事をすれば、美
濃にとけこむことができる。また、協進会には資料も多く保存されている。
鎮公所主任秘書のこの発言は、博士学人協会は名声はあるが、助成金申請のとりまとめな
ど、鎮公所の能力的に不可能な仕事を要求するという、博士学人協会の要求の非現実性に
対する不満を暗に指摘している。しかし、博士学人協会のような高学歴者には、鎮公所の
役人のような「庶民」はコンプレックスを持っていて、それが非現実的だとは正面からは
言いにくいこと、また地域社会の緊密のネットワークの中でそれを地域社会の住民、筆者
に対しても直接には言いにくいことを主任秘書は暗に示している。それに対し、協進会は
学歴や学識がないが、地域活性化に熱心に取り組んでいるというのである。このように、
地域政治への参加度が低く、より実務的な関心を持つ地元青年層やローカルエリートは、
知識人のアイデアの実行可能性を疑うとともに、無用な政治対立やコンプレックスを避け、
より対等な立場ないし自分より下の地位で地域のエンパワーメントについて話し合える知
識人、つまり自分とより協働可能性のある知識人を求めていたといえる。農会若手スタッ
フは彼を「都市計画や文化に強く、自分が意見を言っても受け入れてくれる」と評するよ
うに、博士や専門学校卒といった学歴の低さによって差別されない、より実質的に意見交
換のできる文化や都市計画の専門家を求めていた。
このように、中または低学歴の地元青年層は、都会からの高学歴Uターン知識人の知識
を必要とするも、何らかの距離感や、それらの高学歴者の言動の非現実性を不満に思って
いた。では、その距離感を縮める原因は何だったのか。農会スタッフと協進会スタッフの
双方はこれを「意気投合」と表現している。農会の若手スタッフは、協進会の元総幹事と
のやりとりを以下のように表現している。
協進会のほかのスタッフについてはよく知らないけど、Pについては、文化計画や
地域計画に強いね。彼は農産物や生産管理についてはよく知らないから、わたしが
アドバイスしたりするよ。彼もそれを聞いて、徐々に農業の問題に注意するように
なったんだ。
ここからは、V氏がP氏を「自分の考えを理解してくれる」知識人アクターと考えている
ことがわかる。後に総幹事となる協進会スタッフも、協進会に関わる中で美濃の文化に象
徴される客家文化が、人口の半分が従事する農業に由来することから、農業の重要性を認
152
識し、前節で述べたとおり、農民に還元されない客家文化の実体化事業や、自己啓発に専
念する社区大学の方向に疑問を感じていた。鎮民の半数が従事し、客家文化を下支えもす
る農業の推進をめぐって、組織の立場の違いこそあれ、農会スタッフと協進会スタッフは
共通認識を得るに到ったのである150。また、ここで重要なのは「協進会のほかのスタッフ
についてはよく知らないけど」という発言から分かるように、それが「協進会」という組
織ベースではなく、あくまで協進会元総幹事個人との接触であると農会若手スタッフが考
えていることである。この 2 人はあくまで組織とは別個の、個人的な「意気投合」を果た
し、対話の窓口を作った。それは面子による不要な政治対立を避けて実質的な交流を持つ
ことができる151若者で、農業の推進による地域活性化という最も実務的なラインで、かつ
同年代で同じ美濃出身という最も対等な目線を確保でき、生活知を共有している立場を持
つ、地元青年とUターン知識人が共通理解を得た起点であった。
このような人と人との交流からコミュニティが動き出した例は、屏東県林辺にも見られ、
本論文の前 2 節で述べた構造的な条件のみならず、コミュニティ内における個人どうしの
交流がコミュニティ運動の形成過程に大きな役割を果たしていることを証明している。そ
れは、宗教、世代、政治など幾重にも重なり合う地域社会の緊密なネットワークの中で、
政治的対立を避け、あえて世代や血縁など、異なるネットワークから面子を問わず個人的
にアプローチすることが、地域社会におけるコミュニティ運動の発端になる可能性を示し
ている。楊弘任(2007)によれば、林辺では異なる派系に属する住民どうしが、血縁関係や仏
教団体のつながりを通じて地元の清掃活動など「党派心にとらわれない」公共の活動に参
加した。この活動を通して、これらの活動が決して地方派系の政治的利益から行われてい
るのではなく、
「公益」を目的としていると林辺の住民同士が時間をかけて理解しあい、公
益に関心を持つ住民のネットワークを形成した。そこで林辺民主促進会という民進党の選
挙組織的色彩が強い団体のメンバーである陳医師が、その人的重複を残しながらも、政党
色を極力排除して「公益」の実現をめざすグレーゾーンの象徴ともいうべき新たなコミュ
ニティ団体「林辺文史工作室」を作りだした。かくして、選挙時の政治的対立は残りなが
らも、異なる派系に属する住民同士は林辺文史工作室を中心に、共同で堤防の美化活動に
150
協進会スタッフと農会スタッフは、二人が暮らしの中で体験してきた客家文化を共通感覚
(common sense)とし、さらに博士学人協会で政治的利害を除いた対話を重ねて、農業による地
域活性化に関する集合的記憶を形成したと考えられる。このような記憶や共通認識は、農会の若
手スタッフが夜間、仕事帰りに協進会や菸業輔導站に寄って協進会や菸業輔導站のスタッフ、お
よびそこに集まる人たちと酒やお茶を飲んで談話したり、ときには食事をしたりしながらさらに
形成されていった。これについて、環境倫理学者の福永真弓は、米国カリフォルニア州北部のマ
トール川流域に生きる二種類の住民、すなわち土地を所有し、牧畜や漁業、林業など自然からの
伝統的収奪で生計を立てるランチャーと、ヒッピーやエコロジストなど新参者が共有する集合記
憶の形成を論じている。そこでは、暮らす場を共有しているということに立脚する、人々の間に
ある連帯性は、サケに関する集合的記憶を資源とし、さらに流域協議会という対話の経験をさら
なる資源として付け加えながら人々が育んできたものであると述べている(福永、2010:114)。
151 中国社会における名と実の分離は、費孝通(1991:84-88)が論じているように中国伝統社会に
様相である。美濃において二人の若者は名よりも実をとれる立場にあったといえる。
153
参加するようになった。林辺では、血縁や宗教など、政治関係を迂回して異なる派系の住
民同士が接触し、時間をかけて公共の関心に共同で取り組む信頼関係を構築していったと
いえる。
しかし、さらにここから一歩考察を進める必要がある。それは、第一に誰がそのコミュ
ニティ運動と地域政治の結節点の担い手であったのか、そして第二にその同盟関係を規定
するものは何かという問題である。第一に、結節点の担い手から考えていこう。林辺では
異なる派閥どうしの接触は、あくまで伝統的なローカルエリートや、蓮霧(ワックスアップ
ル)を栽培する農家など、既存の政治ネットワークに深く埋め込まれた年配の住民から始ま
り、長い時間をかけて信頼ネットワークが形成された。一方、美濃では、農会スタッフと
接触を始めた協進会スタッフは、いわば社区総体営造という中央政府からの政策、すなわ
ち制度政治を経ずに政府内で策定され、地域社会に政治的なものとなって現れたサブ政治
によって、地域社会の緊密な政治ネットワークを外れて卓越化したコミュニティ運動の中
で生まれた人材であった。社区総体営造という中央政府の政策が、地域社会の中で地域文
化の実体化という新たな政治を生みだすとともに、前節で述べたその政治の深化とともに
地域政治にも参入していく、新たな地域政治の担い手を作り出したといえる。美濃では、
コミュニティ運動と地域政治の結節点の担い手は、社区総体営造という中央政府由来の政
治に規定された担い手と地域レジームの若手、すなわち実動部隊であり、これらの結節点
は中央政府由来のサブ政治と地域政治の結節点でもあるといえる。
第二に、協進会スタッフと農会スタッフの同盟関係を規定する背景は何か。それは、地
域社会における若者の実動部隊的役割といえる。それぞれが所属する組織自体に政治的色
彩や地位があっても、スタッフ自身は若く、組織の中で政治的地位を持たない人物であっ
た。協進会スタッフは農会スタッフと接触を開始した時点でまだ総幹事とはなっておらず、
また協進会スタッフとの結節点となった農会若手スタッフも、Uターンの経歴を持ち、美
濃の大家族出身でありながらも、農会の政治とは比較的遠い位置にあり、実務にいそしん
でいた。組織の中で比較的自由に行動できる人物が政治的に疎遠な団体との接触を開始し
たといえる。このような「しがらみ」のない若手は、組織の中では実際に実務を担う中核
でもあった。第 3 章でみたように、協進会の理事とスタッフが顔を利かせた外部への挨拶
と実動部隊という役割分担を果たした。同様に、農会の中でも理事は政治アクターである
と同時に、外部に対する「顔」の役割を担っており、実動部隊は若手のスタッフが担って
いたといえる。実動部隊どうしの面子にこだわらない接触は、実務上の接触を容易にし、
次節で述べる実際のコミュニティ運動と地域政治の広範な接触へと結実していく。
本節をまとめると、美濃では農会と協進会の接触は博士学人協会という第三機関でおこ
った。かねてから互いを必要としていた若手で、しかも政治的しがらみのない二人のスタ
ッフが意気投合し、組織の間ではない、個人間の信頼関係を築いた。農会スタッフは農会
での自分の無私な仕事や低学歴者の集まりである農会が知識人に正当に評価されていない
という不満を持ち、協進会スタッフは農会や鎮公所が公共の関心に対して概念がないこと
154
を不満にしていたが、それらを解消できる個人的な関係が成立したのである。このような
関係は、地域社会の中で地位を持たない分、各種のしがらみからは比較的自由な若手どう
しの関係であった。社区総体営造という地域社会の青年層が担った政治は、このような接
触を規定しているといえる。前 2 節で述べた構造的な協進会と地域政治アクターの相互の
ニーズのもと、個人的な、しかも政治的しがらみのない信頼関係ができると、協進会と農
会や鎮公所の接触は進んでいった。
次節では、このような実務レベルの協進会と農会アクターの接触が、どのように農会や
協進会全体に浸透していくか、またその組織どうしの同盟関係の性質を検証する。
4
二つの政治への挑戦 ―地域社会における社区総体営造再考-
前節では、協進会と農会が組織ではなくスタッフ個人として接触し、農業推進という点
で共通理解を得たことが明らかになった。本節では、本章第 1 節と第 2 節で示された協進
会と農会双方が互いを必要とする構造的条件を踏まえ、それぞれのスタッフが個人的にコ
ミュニティに関する共通の記憶を共有し、信頼関係を築いたうえで、協進会と農会、言い
かえれば社区総体営造という中央政府が制度政治の枠外で作りだしたサブ政治と、農会を
中心とする郷鎮政治がいかなる関係を構築しているのかを考える。
2001 年に始まった農会スタッフと協進会スタッフの個人的な意気投合が組織と組織の接
触に結び付くのは若干の時間を要した。実際の協進会と農会の事業推進は、2005 年に大き
く進んだ。協進会と農会事業推進部長、さらに農会理事長との接触が始まり、パパイヤの
輸出や特産物の宣伝に大きく貢献した。この過程で協進会の主なスタッフ3名のうち、当
時の総幹事と、もう一人の農業調査担当スタッフの 2 名が農会との接触を強めていった。
農会と協進会の接触を始めた協進会スタッフは、2002 年に総幹事となってからは、かつ
て鎮の主力作物であった葉たばこに関するワークショップや、2005 年の文化造鎮、2006
年の用水路改修などに関わり、同年総幹事を辞職している。協進会を辞職した後も、この
元総幹事はその拠点を美濃鎮農会から徒歩 2、3 分の菸業輔導站へと移し、2009 年 3 月に
は美濃農村田野学会を設立して農会との接触を続けている。同学会では学術団体というよ
りは農業の振興や土地の強制収用などに反対する「農地の公正」などを掲げ、美濃鎮農会
や里長など地域政治アクターや、台湾農村陣線など農業運動団体との提携が緊密なのが特
徴である。運営は元協進会スタッフ 2 名を中心に、大学院生や大卒の青年2名を雇用し、
夏休みは大学生のボランティアも動員しながら農会名義で特産品の白玉大根の販促イベン
トや、
2010 年 4 月には野草を高雄のデパートで売る企画を協賛団体として企画し、実行し、
年間 200-300 万元(推定)の予算を獲得している。美濃農村田野学会はその活動領域の一部を
農会と重ねながらも、2010 年は年間約 200 から 300 万元規模(推定)の事業を行っている。
協進会は、農会とともに鎮公所との接触も深めていった。協進会の鎮公所との大きな接
触の始まりは、2005 年 2 月の「彩絵大地」である。これは、休耕田にコスモスの種をまい
155
て花畑とし、観光客を美濃に呼び込むプロジェクトで、協進会スタッフが鎮公所農業課の
ために鎮公所名義で農業委員会の助成金を申請し、鎮公所がこれを取得して旧正月後の観
光客の呼び込みに成功したという事件である。それ以来毎年協進会は鎮公所のために助成
金の申請書を書き、鎮公所はこれを自らの業績として誇り、高雄県長は毎年これを視察に
来ている。また、水害の住民への補償金申請や休耕補償金申請の窓口は鎮公所農業課が行
うが、協進会の大学生ボランティアグループが鎮公所に出向いて手伝いをしている。
このように、コミュニティ団体は地域社会において農会や鎮公所の政治に参入している。
農会や鎮公所は、高学歴者エリートが鎮外に流出しているため、地方文化の実体化に関す
る知識も執行能力も総じて乏しい。協進会や美濃農村田野学会はこれに対し、農産物のブ
ランド化のためのパッケージや、中央政府への助成金の申請書作成を手伝っている。それ
らの知識を提供する代わりに、協進会は農会や鎮公所の持つ公権力152を利用して、自らの
プロジェクトのために開く住民を集めた公聴会や議決事項に公権力を付している。協進会
はいわば、地域政治のアクターが今までアクセスできなかった領域の政治に参入するのを
背後から助け、名声を得るのを手助けする代わりに、自分の達成したい事業を農会や鎮公
所名義で行い、事業を地域社会においてより信用のあるものとするとともに、よりスムー
ズに実行している。
協進会がこのように農会や鎮公所に参入できるのは、本章第一節で述べたように、コミ
ュニティ団体が社区総体営造で蓄積した経験と知識を農会や鎮公所が必要としているから
である。農会の名義を使ってコミュニティ団体が野草や大根のブランド化や販売促進活動
を行ったり、海外へ視察を行ったりすることについてどのように思うか、という問いに 2009
年 1 月に就任した農会の事業推進部長(30 代、女性)R氏は以下のように答えている。
農村田野学会が農会の名義を使って様々なことを行うのは、とてもいいことだと思い
ます。彼らが農会の名義を使ってこれらの助成金を得てくれれば、彼らの成長につな
152
ハーバーマスは、ウェーバーの一方的な統治権力という「正統性」の概念を批判し、コミュ
ニケーションによって正統性が塑造される側面を提起した(Habermas, 1976=2000:324)。美濃
の例にてらしていえば、美濃農村田野協会や協進会は、農会との対話を実務レベルで進めており、
コミュニケーションの結果としてコミュニティ団体の地域政治参入が成立しているという点で
は、公権力にかわって、ハーバーマスの提起する「正統性」という用語を使うこともありえる。
しかし、美濃のコミュニティ団体と地域政治アクターの対話は、地域社会における公的アクター
としての性格獲得にはつながっていない。むしろこれらのコミュニティ団体が依拠する正統性は、
依然として、少なくとも表面的にはウェーバーが提起するような農会の一方的な権力である。そ
のため、本論文ではコミュニティ団体が地域社会において依拠する農会などの力を地域社会にお
ける公的な権力という意味で、公権力と呼ぶことにする。権力のコミュニケーション的側面を強
調したい場合は、適宜正統性という用語を用いる。台湾における公共圏を論じた李丁讃
(2004:52-54)は、民主化や社会運動の動きによって、エスニックグループ間に親密な対話の空間
が生まれ、公共圏が誕生したと論じた。しかし、地域社会では、まだそのような動きは局所的に
しか存在しない。地域社会において公共圏はどの範囲に存在するのか、またそれを作り出すメカ
ニズムは何なのかを検討する必要がある。本章では、このような問題関心も踏まえつつ、コミュ
ニティ団体と地域政治アクターの対話が生まれるダイナミズムを検討したい。
156
がります。彼らの成長の成果が農会に導入されれば、そのまま農会の成長につながり
ます。我々農会には、彼らのような宣伝や写真をとる人材が本当にいないものですか
ら。…(中略)…また、彼らの助成金申請の実績が農会名義であれば、農会名義で実
績が積み上がり、農会の次なる助成金獲得につながります153。
ここからは、農会の名義をコミュニティ団体に貸すことによって、農会が農産物の宣伝な
どに関して実質的な利益を得ているという事業推進部長の考えがうかがえる。また、複数
の協進会や農村田野学会のスタッフが「メンツは地域政治アクターに譲り、実質的な事業
のアイデアや主導権は我々がもらう」と口をそろえるように、農会の政治アクターは面子
も得ている。たとえば、月光山雑誌や農会の活動を紹介する記事では、農村田野協会の名
前よりも農会総幹事や理事長の名前と写真が掲載され、名誉は彼らに帰せられる。
では、協進会など美濃のコミュニティ運動は、農会や鎮公所と提携することによってど
のような利益を得ているのか。美濃農村田野学会の成立をリードしてきた協進会の元総幹
事P氏は、筆者に対し農会の公共性を借りる有用性をこのように語った。
農会とは、大きな公共性のテコです。これを使えば――今までこれを使う政治アク
ターは不思議なことにおらず、皆これを悪用してきましたが――農村で公共性の高
い事業を行うことができます。事実、農民はいつも農会の失策をかこつ一方で、何
かあると農会がそれを処理することを期待しています。我々にとって、この農会と
いうテコを使わない手はありません154。
ここから分かるように、美濃田野学会を立ち上げたP氏にとって、農会は民間団体という
協進会なり美濃田野学会に代わって、自分の企画したプロジェクトに高い公権力を付与す
る団体である。農民も農会の施策に不満を持ちながら、結局はその地位の正統性や公共性
を認め、公共の問題の解決を期待しているという。協進会や農村田野協会の名義では地域
社会における正統性を得られず、なしとげられない事業も、農会や鎮公所の名義を冠すこ
とで可能になるのである155。また、助成金を申請する際に、協進会や農村田野協会などの
民間団体の名義では、前年度に助成を受けたなどの理由で助成金を得られない場合でも、
同じ申請者が農会の名義を使って同じ助成金を申請すると助成金を受託できる場合がある。
例えば、2008 年から毎年協進会(2009 年以降は農村田野協会に引き継ぎ)は青年輔導委員会
の助成金を申請して大学生約 4 名を海外視察旅行に連れて行っているが、2010 年度は農村
2010 年 5 月 10 日、農会事業推進部長R氏への聞き取りによる。
2010 年 5 月 9 日のフィールドノートによる。
155 このように郷鎮公所の公権力を借りて住民向けの説明会などを行うのは、台湾のコミュニテ
ィ団体の常套手段である。1994 年から 1996 年にかけて、嘉義県新港の新港文教基金会は淡水
の文化工作室に企画を依頼して廟の前の道路を美化するプロジェクトを企画した際、郷公所の名
前を用いて地元住民への説明会を開催している(李、2004:377-8)。
153
154
157
田野協会の名義で申請したドイツ旅行の計画が落選し、かわりに農会名義で申請した日本
旅行の計画が採択された。このように、コミュニティ団体にとって、農会の名義を借りる
ことは、地域社会で自分たちのアイデアやその実行に正統性を得るだけでなく、助成金申
請の名義を借りる面でも利益がある。
しかし、美濃のコミュニティ運動に関わるスタッフは、自分たちは地域政治に完全に埋
め込まれたわけではなく、中央政府とのパイプを保持しながらその中で閉鎖的に進むサブ
政治に参入しているという。例えば、協進会は社区総体営造の助成金を得ながら、中央・
県政府の各機関に対し、政策のフィードバックを 2005 年に試みた。これは『文化造鎮』と
いう年間約 488 万元の未曾有の巨大プロジェクトであり、文化という窓口を通して空間・
産業・福祉の3分野にわたって調査と政策提言を行った(美濃愛郷文教基金会、2006)。この
調査と政策提言は、助成元たる県政府および中央政府に対して行われるものであり、郷鎮
政府に対して行われるものではない。協進会は、地域政治への接触を試みる一方、地域政
治に埋め込まれないために、引き続き郷鎮政府や農会の頭越しに県政府および中央政府と
のパイプ、すなわち社区総体営造の受託を保ちながら、中央や県レベルで策定されている
サブ政治への関与を行っているといえる。具体的には中央、県など政府のレベルを問わず、
プロジェクトの報告会で正直にプロジェクトに他の可能性があることを提示している156。
社区総体営造はこのように、いったんはコミュニティ団体を地域社会から卓越化させたが、
再び政策を変える余地のある、自己変革の可能性を有しており、コミュニティ運動はこれ
を利用して地域政治への参入を果たしている。
コミュニティ運動のサブ政治と地域政治への参与は、コミュニティ運動が直面する政治
の車の両輪をなしている。社区総体営造というサブ政治の理念を達成するには、地域社会
のグレーゾーンなき政治対立を克服すべく、地域政治に参入せねばならない。しかし、地
域政治に参入するには、地域政治から脱埋め込み化された形で参入せねばならず、それに
は引き続き郷鎮政府の頭越しに、中央政府からの社区総体営造の資源を得てサブ政治に参
入せねばならない。台湾のエスノナショナリズムと民主化が生み出した社区総体営造と、
その政策を下からつきあげ、かつその資源を得た社会運動は、地域社会において「二つの
政治への挑戦」という台湾独自のコミュニティ運動のスタイルを作り出した。
事業成果などの面子は郷公所や農会に譲り、コミュニティ団体が郷公所や農会から事業
の正統性を得るかわりに実質的な事業の権限を掌握するという「二つの政治への挑戦」戦
略は、屏東の林辺の文史工作室でもおこっている(楊、2007:100)。地域社会において、面子
と事業への正統性付与の交換は、台湾のコミュニティ団体において一つの類型であるとい
える。しかし、それを行うには、地域政治アクターとコミュニティ団体の個人的な接触や
共通感覚の共有、派閥対立をある程度こえた信頼感の醸成、もしくは美濃のようにある程
度支配的かつ安定した地域政治アクターの派閥(もしくは派閥より小さい集団)が存在する
など、長い道のりが必要であることは述べてきたとおりである。さもなくば、淡水のよう
156
2007 年 10 月 9 日、協進会元総幹事P氏への聞き取りによる。
158
に地方派系出身でコミュニティ団体に理解のある鎮長が鎮民代表大会(議会)で敵対する地
方派系の反対に遭う可能性もある(Lu, 2002)。
しかし、美濃農村田野学会が農会の公権力を借りてプロジェクトを展開しているという
ことは、地域社会において、民間団体が独自の公共事業の正統性を付与されていないとい
う事実を物語っている。元総幹事も認めているように、この農会が抱える公共性はレント
シーキングや政治腐敗の温床となりやすく、農会と美濃農村田野協会のやりとりを冷やや
かに見つめる人もいた。美濃客家文物博物館や、農村田野協会成立後の協進会のスタッフ
を務め、現在は博士論文を執筆中の大学院生Z氏は、筆者に対してこう語った。彼は協進
会元総幹事からは距離をおきながら、地域文化の研究プロジェクトを中心にコミュニティ
団体でのスタッフを務めている。
別に地域社会から卓越化するのも一つの選択肢としてありうるよ。地域社会に密
着すればいいというものでもない。農会の手下のようにしていても、農会の腐敗
を変えられるものではない。また、イベントのたびに旧来の方法でおみやげやポ
スターなどをばらまくというのも、あまり健全な方法ではない。研究計画という
157
のは、地域社会のドロドロから一線を画して続けられるという意味ではよい 。
このように、地域社会の中でコミュニティ団体独自の地位や正統性を模索する動きもあり、
美濃農村田野学会の農会や鎮公所の「裏に隠れる」スタイルは美濃のコミュニティ団体全
てに必ずしも共有されていない。この大学院生が「美濃農村田野学会とまだ対話できる」
というように、美濃農村田野学会と没交渉にはなっていないものの、その方法が必ずしも
いいと思わないスタッフも存在するのである。他方、前節で述べた社区大学スタッフのよ
うに肯定的な評価をする人もいるなど、美濃農村田野学会との対話の窓口は確保しつつも、
評価が分かれている。
ここには、社区総体営造が抱えるジレンマが反映されている。同政策は、本来は住民の
「下からの」参加のもとに成立するものであったが、開発問題特有の矛盾、すなわち「下
からの参加を上から促進する」というパラドックスによって、また、民主化とナショナリ
ズムの文脈の中で、地域政治の頭越しに社会運動団体にその資金を投下することとなった。
その結果、社会運動団体は地域社会の緊密な政治ネットワークを脱し、知識や資金を備え
て卓越化した存在として地域社会に出現した。しかし、それでは社区総体営造の考える「ボ
トムアップの住民参加」という理念を十分に実現できず、何明修(2010:4)や協進会元総幹事
などが述べるように、地域社会から十分に信頼を得ていないとの批判を浴びてきた。協進
会や美濃農村田野学会は、その解決方法として、農会や鎮公所の持つ、地域社会での公権
力を利用しながら、農会や鎮公所の面子形成を助けるという交換関係のもと、二つの政治
に同時に挑戦するというスタイルを取ったが、それはグレーゾーンなき対立関係に巻き込
157
2009 年 11 月 9 日、元協進会スタッフZ氏への聞き取りによる。
159
まれる可能性もあった。社区総体営造は、地域社会の中で卓越化したコミュニティ団体や
しがらみのない専従スタッフを作り出したが、そのコミュニティ団体が地域社会の中で独
自の公共性や公共の事業を行う正統性までは作り出さなかったのである158。
また、コミュニティ団体の政策提言機能についても、意見は存在する。社区総体営造は、
それを受託したコミュニティ団体に政府へのコミュニケーションチャンネル159を付与した。
しかし、コミュニティ団体が企図しているような、助成元である中央政府や県政府へのフ
ィードバックが実際に奏功するとは限らない。協進会元総幹事は、「われわれは助成金を申
請することで政府に政策提言もしている」と何度も強調し、実際に 2005 年の地域計画提言
プロジェクト「文化造鎮」では、その提言にしたがって用水路の壁面改修や、農産物のブ
ランド化が行われた。しかし、実際に「文化造鎮」を担当した県政府側の幹部は「本当で
あれば、このプロジェクトは鎮公所に執行してほしかったのですが、鎮公所が意欲的でな
さそうだったので、協進会にお願いしたのです。…(中略)…我々の意図としては、美濃が大
都市高雄のアメニティとして機能するための空間設計をしてほしいです」160と述べるよう
に、県政府の意図はあらかじめ決められており、それへの提言はあまりコミュニティ団体
に期待されておらず、実際に県政府と協進会との間で、年に数回行われる県政府での審査
のたびに衝突が起きた。このような状況は、コミュニティ団体の中にも認識されており、
先述の元協進会スタッフZ氏は次のように述べている。
協進会の元総幹事たちは、自分達が政府を利用して自分のしたいことをしていると
いうが、コミュニティ団体が政府から完全に自由になれるとは思わない。国民党政
権(2008 年:筆者注)になってから、100 万元単位の大きな助成金はおりなくなり、皆
10 万、20 万元などの小単位の助成金になった。元総幹事たちももう一人のスタッフ
も、美濃農村田野協会では小さい助成金をいくつも申請して掛け持ちしながらやっ
ているのが現状だ。これではペーパーワークや政府とのやりとりに忙殺されてしま
161
い、政府から自由であるとはいえない 。
このように、スタッフ自身は政府から自由で政府への政策提言さえ行えるという自負があ
るが、他人からみるとそれは政府の助成金特有の問題を抱えているようにみえる。また、
158
政治学者のペッカネンは、日本の市民社会について、自治会のような政策提言を持たない、
しかし社会関係資本の形成に寄与する市民社会と、いわゆる新興のNPOなどの市民社会という
日本の市民社会の二重性を指摘している(ペッカネン、2008)。社区総体営造は、地域社会から
卓越した新たな市民社会を形成したが、美濃のコミュニティ運動が追求する公共性は、その政策
提言機能を残したまま、旧来の農会や鎮公所、里弁公室など政治アクターや政府の末端サービス
の性格が強い市民社会に回収されたといえる。
159 このようなコミュニケーションチャンネルは、台湾ではしばしば「管道」と呼ばれる。中国
大陸では「渠道」とも呼ばれる。
160 2006 年 3 月 22 日、県政府計画室副主任D氏への聞き取りによる。
161 2009 年 11 月 9 日、元協進会スタッフZ氏への聞き取りによる。
160
文化建設委員会の策定した「みんなで村の歴史を書こう」プロジェクトの責任者であった
行政院文化建設委員会の元副主任委員N氏は以下のように語る。
国家のお金というのは、日本でもそうだと思いますが、複雑な手続きがあり、使いに
くいものです。コミュニティ団体のスタッフは、その処理にかなり忙殺されることに
なります。それを軽減する方法はあります。たとえば、国家の助成金を専門に扱う民
間の財団を作って、そこからコミュニティ団体がお金を使えるようにするとか。でも、
政府はそれをしていません162。
このように、助成金を出す文化建設委員会側からみても、コミュニティ団体のスタッフが
ペーパーワークに忙殺されているのは明らかであった。コミュニティ団体のスタッフは、
自らのプロジェクトの公共性や効果の高さを自負している。しかし、朝から夜 12 時ごろま
で働くことが常態化しているように、実際には政府から過剰な労働を強いられ、またコミ
ュニティ団体が意図し自負する「政策提言」も、実際の効果は必ずしも得られるものでは
ない163。社区総体営造がコミュニティ団体を卓越化させ、その上位政府とのパイプを武器
に地域政治に参入したとき、引き続き上位政府のサブ政治に挑戦することはできる。ただ、
その挑戦は政府にとって「聴きおいた」だけのもの、つまりそれを必ずしも政府の政策に
反映できるとは限らない、危うい挑戦であり続けている。
本節では、協進会や美濃農村田野協会にあらわされるコミュニティ団体の農会、鎮公所
など地域政治への参入を検討してきた。スタッフ個人レベルの接触から始まったコミュニ
ティ団体と地域政治は、面子を地域政治アクターにゆずり、コミュニティ団体が地域政治
機関の持つ公権力を利用してプロジェクトに正統性を付与するかわりに、コミュニティ団
体が実質的にその事業の執行権を握るという交換関係を構築してきた。社区総体営造は、
地域社会から卓越化して地域文化の実体化や地域活性化に従事できる、若いコミュニティ
団体専従スタッフを作り出したが、それらの事業を地域社会において行う正統性までは作
り出さなかった。結果として、コミュニティ団体の専従スタッフは農会や鎮公所など既存
の政治機関の公権力を借りながら、実質的な事業展開をおこない、その手柄や面子は農会
や鎮公所に譲ることで地域政治アクターの地位を築いている。
次節の小結では、
第 2 章で述べたローカルレジームという観点から本章の内容をまとめ、
合わせてこのような二つの政治への挑戦が他の地域でも行われていることを示したい。
2006 年 8 月 18 日、元文化建設委員会副主任委員N氏への聞き取りによる。
2005 年の文化造鎮では、第 2 節で述べたような用水路の壁面改修プロジェクトや、その後
の農産物のブランド化などが実現しているという点では政策提言の効果があったといえる。しか
し、現場では、
「助成元は効果的に補助金を出しているとは言い難い」といった助成元への不満
もしばしば聞かれる。複数のスタッフからこの教示を受けた。
162
163
161
5
小結
―「政治を作り出すものは幸いである」?
本章ではまず、コミュニティ団体と地域政治アクターが互いに活動領域が重複していく
過程を考察した。そして、実動部隊を担う若いスタッフが、美濃の文化や農村に関する知
識を共通感覚として、個人的な関係から接触を開始した。やがて実動部隊が農会理事長ら
地域政治アクターの正統性を借りて、プロジェクトの実質的主導権を握り、それと引き換
えにプロジェクトの成果を地域政治アクターの手柄に還元することは、コミュニティ団体
が上位政府とのパイプを保ちながら地域政治に参入し、同時に上位政府への政策提言も試
みる「二つの政治への挑戦」であることが示された。
もう一度第 2 章で述べた、ローカルレジームの観点から本章の内容をまとめると次のよ
うになる。ローカルレジームの構成要素とは、(1)地方政府の能力、
(2)地方政府の行
為者、そして(3)行為者を統一して行動させる関係性である(Stone, 1989:179)。
(
1 )に
ついては、鎮公所や農会は、中央政府の出先機関としての性格が強く、独自の政策策定能
力は低いが、民間のコミュニティ団体が企画したプロジェクトに公権力を付与することで、
そのプロジェクトを地域社会において格段に信用のあるものにする権限を持つとともに、
成果を発揮することで地域社会や、グローバリゼーション下で競争を要求する上位政府へ
の面子をとりつける。
(2)については、農会の若手スタッフとコミュニティ団体がその実
動部隊であり、プロジェクトに地域社会における実行の正統性を付したり、その成果を代
表するのは地域政治アクターといえる。理事や総幹事などの政治アクターは、これらの実
動部隊の事業に公権力を付すかわりに、その事業にともなう成果や名声は理事や総幹事の
ものとなる。
(3)これらの行為者を統一して行動させる関係性は、政治アクターと実動部
隊の「面子と事業企画権や正統性の交換関係」である。協進会の元総幹事や複数の協進会
や美濃田野協会のスタッフが「面子は彼ら(=政治アクター)のもの、事業の主導権は私たち
のもの」と語るように、ここには一種の交換関係が成り立っている。それは、本章第 1 節、
2 節で述べた構造的条件のもと、地域政治への介入を最小限に抑える形で、自らの事業に最
大限の公権力と地域社会の信用をとりつけるために、コミュニティ運動が模索した道であ
るといえる。
このように、社会運動や新興の政治アクターが地方政府の頭越しに上位政府とのパイプ
を作り出し、地域社会における活動領域を作り出すことは、ほかの開発途上国においても
おこっている。例えば韓国のイルサン新都市のように、住民が地方政府の頭越しに中央政
府にラブホテルの撤去を訴えることで、中央政府から地方政府に圧力をかけ、これを撤去
させるという事例がある(大西、2004)。また、社会運動の中で国内政府の頭越しに国際社会
に問題を訴え、外圧によって国内政府に圧力をかけさせる戦略は「ブーメランモデル」と
いう用語が定着しているように、社会運動の常套手段となっている(Keck and Sikkink,
1998:12-13)。美濃のコミュニティ団体は地方政府の頭越しに中央政府や県政府などの上位
政府との関係を構築することで、直接上位政府に郷鎮政府への圧力をかけさせているわけ
ではないが、コミュニティ団体が上位政府とのパイプを武器に地域政治における発言権を
162
得るという意味で、広義のブーメランモデルであるといえる。
このようなブーメランモデルの社会運動がそうであるように、美濃のコミュニティ団体
は、社区総体営造という中央政府からの助成金を資源として、地域社会のしがらみから離
れた、新たな地域政治アクターとなる可能性がある。彼(女)らは、地域政治の最大のイベン
トともいえる各政府レベルの選挙には自ら出馬するわけではない。しかし、用水路の壁面
改修や伝統的建造物の保存など、地域の問題を考えだし、それを中央政府や県政府の助成
金を利用して解決を試みるというのは、制度政治の埒外で作られる十分政治的な問題、す
なわち「サブ政治」を扱うことに他ならない。政治的なものを考え、作り出し、解決しよ
うとするコミュニティ団体のアクターは、地域政治の様相を変えていく可能性がある。し
かし、それらの前には様々な問題が存在することは述べてきたとおりである。
次章の終章では本論文を総括し、結論と今後の展望を述べたい。
163
終章
台湾コミュニティ運動と地域政治 台湾地域社会学の成立に向けて
1
各章の総括
2
結論と本論文が持つ含意
3
残された課題と展望
台湾の民主化とともに発展してきた社会運動は、社区総体営造という資源をなぜ得たの
か。そしてその資源を得ながら、地域社会の変容の中でどのように発生し、またどのよう
に地域社会を変えていったのか。これが本論文の課題であった。一言で結論を言うなら、
地域社会における社会運動は、その運動形態を地域社会の秩序や変容に規定されながらも、
民主化と台湾化の結果地方政府の頭越しに投下された社区総体営造の資金を得ることで、
地域社会は本来関与できないサブ政治の民主化に貢献し、運動の制度内化を果たすととも
に、中央政府と地域政治への二つの政治への挑戦という新たな政治参加の形態を作り出し
たのである。
本章では、本論文全体の総括を行うとともに、結論を述べる。そして残された課題を論
じながら今後の展望を検討したい。台湾研究の中に日本生まれの学問である地域社会学を
導入する必要性や有用性を示しながら、
「日本で研究する台湾研究」の一視座として、グロ
ーバル化する学術界にローカルな成果を持ち込めれば、本論文の意義が示されることにな
る。
1
各章の総括
本節では、各章を振り返りながら、結論を述べる準備をする。
序章では、本論文の視点を示した。まず、欧米を中心とした先進国の社会運動論にはな
い、途上国の社会運動論の特徴をみた。すなわち、第一に、民主化が必ずしも前提とされ
ていないこと、第二に、地域社会において中央政府の民主化は中央政府の意図どおりに浸
透せず地域社会の文脈に沿って変化した形で展開しており、地域社会から民主化や地方分
権化を問いなおす必要があること、第三に、途上国では先進国と異なり社会運動がアクセ
スできる資源が限られるため、制度内化する社会運動も「権威への挑戦」という社会運動
の条件を満たしている場合があることである。次に台湾の社会運動がこれまでそれぞれ民
主化、ナショナリズムおよび公共圏との関わりを中心に研究されてきたことを踏まえた上
で、近年では社会運動と地域社会の関わりが注目されてきたことを述べた。しかし先行研
究では、
「誰が」政治に参加するのかは明らかになっても、それらの行為者が「何をめぐる
政治に」参加するのかは明らかになっていなかった。そこで、本論文ではふたつの開発政
策、すなわち社区総体営造と地域開発政策についての視点を提示した。社区総体営造は 1990
164
年代初頭から始まる台湾文化の実体化政策であるが、その政策過程は社会運動と政府の関
係にどのように影響しているのかについて、地域開発政策については、日本と台湾の異同
を述べながら、日本の地域社会学の経験が台湾に導入されることの意義をそれぞれ検討し
た。
第1章では、民主化の流れに沿った時代区分をしながら、台湾社会運動史を概観した。
まず、1945 年から 1979 年は社会運動の幕開けである。1945 年に日本統治下の台湾を接収
した国民党政府は、中国大陸で共産党との内戦に敗れて 1949 年に台湾に逃れ、内戦という
非常事態のまま台湾を統治したため、言論や結社の自由は制限され、
『自由中国』など一部
の言論活動を除けば社会運動は見られなかった。それが変化するのは 1970 年代の中華民国
の外交的危機にともなう蔣経国主導の「上からの」改革以後であった。市民社会はこの機
会をとらえ、国民党の外、すなわち「党外」勢力として民主化運動を展開したが、それが
実質的な野党結成として急進化したとき、1979 年の美麗島事件で大きな挫折をみた。
1980 年から 1986 年は権威主義体制移行開始前の時期である。1979 年 12 月 10 日の美麗
島事件の翌 1980 年、党外は立法委員選挙で速やかに再出発を果たした。この時期、党外全
体としては労働運動や親中国の左派民主化勢力など、社会運動の大同団結を残しながら、
新世代の党外は環境運動など社会運動への参与を深めていった。その結果、労働運動、自
力救済や学生運動のように、党外と結びつきながら組織化や戦略の多様化を果たした社会
運動が出現した。一方、経済成長に伴う中産階級の成長で、消費者文教基金会や女性運動
のような高学歴かつ超党派の社会運動もこの時期に出現した。同じ高学歴の担い手でも、
学生運動や原住民運動は党外と結びついて展開し、台湾の社会運動に党外との結合の有無
という一つの対立軸を作り出した。1986 年、党外は戒厳令をやぶって民主進歩党(以下民進
党と略称)を結成した。
1987 年から 89 年は政治自由化のインパクトと残る課題があった時期である。1987 年に
は 1949 年以来の長期戒厳令が解除され、新たな政治的自由が正式に保障された。しかし、
台湾独立の主張は禁止という但し書きが国家安全法によってつけられた。この台独禁止条
項や 1988 年の反乱鎮定時期集会デモ法の通過によって、社会運動にとっての戒厳令解除の
意味は政治的自由という意味では半減した。しかし、それでも戒厳令解除は新たな人民団
体組織法通過により、社会運動の抗議レパートリー多様化やネットワーク化、専門化、法
人化、全国化につながった。対する国民党は、制度選挙での勝利を通じてたえず自分たち
の正統性を確保する必要があったため、社会運動の主張を一定程度取り入れていった。ま
た、この時期は原住民運動の漢族中心主義への挑戦や、客家運動など、国民党政権の公定
中国ナショナリズムに基づいた一元主義的な国民統合政策への挑戦も行われた。同様の挑
戦は、地域社会においても地方文化の実体化をめざすなどの方法で行われたが、政治的不
自由の状況下にあって、多くは民進党と結合した。
1990 年から 1992 年は国民党非主流派による揺り戻しと社会運動のさらなるネットワー
キングの時期である。郝柏村ら国民党非主流派の揺り戻しに対し、成長を続けてきた社会
165
運動は激しく反発して、鎮圧コストの高さを当局に見せつけるとともに、かえって大衆の
支持を集めた。また、この揺り戻しが体制内の李登輝に「民主改革派」リーダーとしての
クレジットを与え、体制内での改革を促進させた。この時期、社会運動は異業種間のネッ
トワーキングを進め、民進党とのつながりを表面化させて揺り戻しの危機に対応した。
1993 年から 1999 年は、民主化と社会運動の制度化の時期である。当局が社会運動への
対応をマニュアル化するとともに、社会運動も制度化の道を模索し、両者の暴力的衝突は
減少した。そのため、いったんは当局による鎮圧の下で民進党と提携を強めた社会運動は、
その弾圧がやわらぐにつれて制度化や超党派化の道を模索し、民進党も制度政治の中で新
たな票源や戦略を模索したため、両者の距離は変化していった。また、地域社会において
は、社区総体営造の実施により、穏健な台湾ナショナリズムにもとづいて、地域社会の文
化や歴史を「発掘」して政府予算で対抗言説を生産する制度化したコミュニティ運動が誕
生した。美濃のダム建設反対運動とそれに続くコミュニティ運動は、この流れから発生す
る。
第 2 章では美濃鎮に目を移し、戦後台湾地域政治と地域社会の変容を追った。まず、地
方派系に関する研究を追いながら、ローカルレジームの視点を提示し、地域政治アクター
の顔ぶれだけでなく、その地域政治アクターが何をめぐる政治に参加するのかを解明する
必要があることを論じた。美濃鎮のローカルレジームは戦後 10 年ほどのあいだに名望家か
ら、中央政府の地域社会統制メカニズムである地方派系レジームへと変貌した。この地方
派系の作る地域社会内のグレーゾーンなき日常的対抗関係は美濃住民の不満を引き起こし
たが、里民大会や鎮公所など最基層の議決機関は、これらの不満を上位政府に向けて吸収
できるものではなかった。葉タバコ栽培によって強化された血縁ネットワークの「団結」
が地方派系に分断されたのを不満とする美濃鎮民は、農業衰退にともなう美濃鎮公所の財
政逼迫や生活の危機感に駆り立てられて、鎮民の声を上位政府に伝えるべく、血縁ネット
ワークを動員して鎮内から団結して中央民意代表を選出し、内向的外部資源導入レジーム
を作り出した。その動員は、鎮内のみならず、血縁ネットワークを用いて鎮外に流出した
美濃鎮出身者にもおよび、鎮民の「内向きの視線」を形成および強化していった。しかし、
その団結は鎮内の政治対立を払拭できるものではなく、また、外部資源の導入も必ずしも
鎮民の生活の質向上に貢献するものでもなく、鎮民のローカルレジームへの不満はくすぶ
った。美濃ダム建設反対運動は、このような文脈で発生する。
第 3 章では、概観してきた台湾社会運動史と、地域政治や地域社会の変遷の合流として
の美濃ダム建設反対運動を分析した。まず、水利法および都市計画系統の検討と、ダム建
設反対運動の発生および展開を検討した。台湾では水利開発の大規模化に伴い、1963 年の
水利法改正で水利をめぐる政治の策定が中央政府に限定され、サブ政治の閉鎖化が進行し
た。また、トップダウンの都市計画系統は、郷鎮政府や里など基層からのボトムアップを
困難にした。そのような閉鎖的な都市計画系統で作られた美濃ダム建設計画に対し、協進
会が主導した美濃ダム建設反対運動は、当時の台湾全土の民主化と台湾化の波に乗って台
166
湾客家エスノナショナリズムやエコロジーの言説を活用し、同時に科学者などの専門家を
動員しながら学術的言説を用いて合理的にダム建設の不要性を訴えた。ローカルな文脈に
注目すると、第一に協進会の戦略は長幼の序や師弟関係などコミュニティの秩序に親和的
であった。これは若いスタッフの行動の障害ともなったが、スタッフはこれを逆手にとっ
て短期間で離職し、美濃鎮外にネットワークを広げていった。第二に、ローカルレジーム
内の「小さな機会」をめぐる争いによる鎮公所のダム建設推進の頓挫や、協進会のダム建
設反対運動により、ダム建設は選挙票を獲得できる公約ではなくなった。このダム建設イ
シューという単一議題を掲げた協進会は、全国的な民主化の影響を受けて流動化した 1990
年代の美濃の内向的外部資源導入レジームの中で、
「内向きの視線」を動員して超党派の動
員を可能にし、国民党白派の政治勢力を放逐した。ここでは、協進会率いる美濃ダム建設
反対運動がダム建設という中央政府が作りだした、制度政治の関与できない「政治的なも
の」、すなわちサブ政治に挑戦したことを示し、その運動を規定する要素として、民主化と
台湾化のみならず、地域社会の秩序や微細なネットワーク、政治家が開発に伴って得る「小
さな機会」など地域政治の動力にも注目して分析して、社会運動がトップダウンでおこる
民主化やサブ政治だけではなく、地域社会の文脈からも説明できることを明らかにした。
第 4 章では、前章で述べたダム建設反対運動のための地方文化の実体化として始まった
協進会のコミュニティ運動が、社区総体営造という台湾文化実体化政策の政府助成金を得
て制度内化と卓越化を遂げる過程を分析した。まず、社区総体営造以前のコミュニティ政
策として社区発展を概観した。そこでは、コミュニティの原子化に対処するため、既存統
治組織の強化がトップダウン形式ではかられたこと、したがって、上位政府へのコミュニ
ケーションチャンネルが存在しないという住民の不満は解決されなかったことが示された。
それに対し、社区総体営造は台湾文化実体化政策として始まったが、社会運動への妥協策
として、また民主化推進や地方派系弱体化のために地方派系には資源を分配しないという
意図により、民間団体に直接資源が投下された。その資源を得た民間団体は、協進会のよ
うに、社区大学や姉妹会などのコミュニティ団体を新たに派生させるとともに、実績を買
われて助成金を受託し続ける政府助成金独特のメカニズムにより、制度内化を果たした。
しかし、社区大学は運動参加者の自己変革と、コミュニティや農村をめぐる政策制度変革
のあいだで揺れた結果、自己変革に特化した。また姉妹会はそれが理念とするグローバル
化や多文化主義が社区総体営造の基本となる台湾文化と矛盾するものであったため、両者
ともに高度な文化や学術に関する言説を用いて、常に自分達と地域政治アクターを含む地
域社会とを弁別していった。
第 5 章では、卓越化したコミュニティ団体が再び地域政治に参入するメカニズムを検討
した。まず、コミュニティ団体と地域政治アクターが互いに活動領域が重複していく過程
を考察した。地域政治アクターは地方派系の個人化と瓦解を経験し、さらなるレントシー
キングを模索する一方で、搾取だけでなく分配の成果を競うよう中央政府から迫られ、そ
のためにコミュニティ団体が蓄積してきたノウハウが必要になった。コミュニティ団体も
167
事業の深化にともない、より深く住民の生活や現状改変に関わる必要が生じるにつれて、
地域政治アクターとの接触が不可避となっていった。そこで、面子にこだわる必要のない
実動部隊の若手スタッフが、美濃の文化や農村に関する知識を共有しながら、個人的な関
係から接触を開始した。やがて実動部隊が農会理事長ら地域政治アクターの公権力を借り
て、プロジェクトの実質的主導権を握り、それと引き換えにプロジェクトの成果を地域政
治アクターの手柄に還元することは、コミュニティ団体が上位政府とのパイプを保ちなが
ら地域政治に参入し、同時に上位政府への政策提言も試みる「二つの政治への挑戦」であ
った。しかし、それはコミュニティ団体が地域社会において農会や鎮公所と同等のアクタ
ーとして認められたということではなく、むしろコミュニティ団体が地域政治アクターの
既存の地位を利用して実質的なプロジェクト実行権を握るというスタイルであった。また、
コミュニティ団体の上位政府への政策提言も、上位政府がその提言を「聴きおいた」だけ
に終わる可能性を絶えず内包していた。
以上、本論文の各章を振り返った。次節では、本論文の結論と研究意義を述べたい。
2
結論と本論文が持つ含意
結論は以下の二点である。第一に、本論文では、地域社会の側面から社区総体営造とい
う広義の開発政策を検証した。社区総体営造は、地方政府の頭越しに市民社会に直接資源
を投下したため、地域社会のコミュニティ運動はそれを利用して「二つの政治への挑戦」
という独特の政治参加形態を作り出した。これは、中央政府の作りだした社区総体営造と
いう台湾文化の実体化をめぐるサブ政治にコミュニティ団体が参入する契機を作り出した。
しかし、それを実行する市民社会に地域社会におけるプロジェクト実行の公権力までを付
与したわけではなかったため、市民社会は既存の地域政治アクターの公権力を借りながら
事業を進めることになった。
第二に本論文では、地域社会の変容から社会運動団体が発生する様子も考察した。地域
社会における社会運動団体は、地域社会の変容から環境破壊や農村衰退などの実体的な不
満をもとに発生し、それらの不満を台湾客家ナショナリズムや民主化など、全国的なイシ
ューへと鋳直し支持を広範に調達しながら、地域社会の秩序に合った形で運動を展開した。
そして、中央政府や県政府など上位政府からの資源を郷鎮政府の頭越しに得ながら、再び
地域社会を変えようとしていることがわかった。中央政府が民進党との相互関係の中で進
めてきた民主化は地域社会の中で腐敗の増大や地域間競争の激化を招いたが、その変化に
対して地域社会から生まれたコミュニティ団体が下から変えようとしているといえる。
本論文では台湾社会運動史を概観した後、高雄県美濃鎮という一つの鎮を考察したが、
本論の論述では林辺や淡水の例をあげながら、社区総体営造を用いたコミュニティ運動が
台湾に普遍的であることを述べるとともに、台湾客家ナショナリズムという言説によって、
それが全台湾を代表とするものへとレバレッジされていったことを指摘してきた。そして、
168
台湾のコミュニティ運動を考察するために、地域政治アクターとコミュニティ運動の距離
を一つの分析軸とする観点を提起した。美濃鎮の例は、社区総体営造とそれを請け負う社
会運動団体が存在するという点で、そして社会運動団体と地域政治の様相という分析軸が
適用しうるという点で台湾を代表しうるものである。
本論文の結論が持つ含意は、以下の通りである。第一に、地域社会学的な含意、すなわ
ち社会運動が取り組む政治がどこからくるものであるかを考察したことである。本論文で
は日本の地域社会学や環境社会学の知見を用いながら、サブ政治がトップダウンの開発計
画や、社区総体営造という中央政府主導で作りだされた台湾文化の実体化政策164から来た
ものであることを明らかにした。そして地域社会における社会運動、つまりコミュニティ
運動が、中央政府の資源を得てその政治的なものを作り出した中央政府への政策提言を試
みている。制度的民主化以降の社会運動が取り組む政治は、選挙など制度政治では解決で
きないサブ政治の領域であり、制度的民主化が完成された現在の台湾では重要さを増して
いる。したがって、戦後民主化されたはずの地域社会の中に、突如巨大な開発計画が高度
経済成長期以降登場したという日本の経験と同様、台湾でも高度な経済成長や開発を経て
サブ政治の領域が拡大し、民主化後にその閉鎖性が露呈され、今再び地域社会のガバナン
スが問われているという点で、日本で生まれた地域社会学が、台湾での地方派系研究、伝
統社会研究、台湾化および民主化研究などを吸収しつつ、台湾独自の形をした地域社会学
が形成される可能性があるということになる。
では、なぜ社会運動の制度内化と政策提言が可能になるのか。それが第二の含意である。
本論文は、国民党政権が社区総体営造で、地方派系を弱体化させるため、また社会運動の
急進化を防ぐために既存の統治組織ではなく、社会運動に資源を投下したことを示した。
しかし、社区総体営造が模範とする日本のまちづくりは、『農業白書』などが示すように、
既存統治組織の強化に重点をおいていた(秋津、1998)。したがって台湾の場合は、日本のま
ちづくりとは異なり、社会運動は郷鎮政府の頭越しに資源を得て、「二つの政治への挑戦」
という政治参加の形態を作り出した。台湾では日本の代表的な消費者運動である生活クラ
ブ生協や、東京都谷中のまちづくりに関わった雑誌『谷根千』(2009 年 8 月廃刊)の創始者
である森まゆみの著書、塩見直紀の『半農半X』などが中国語訳されており、台湾のコミ
ュニティ運動に従事する人々の中で広く読まれている。また、岐阜県白川郷や京都府旧美
山町(現南丹市)など、台湾人による日本のまちづくりへの視察はさかんに行われている。ま
た、日本からもこれらの著者やまちづくりの専門家が多く台湾を訪れている165。しかし、
164
もちろん、社区総体営造がめざした住民参加や台湾文化の実体化は、民進党やその前身の党
外、およびそれを開発に対する対抗文化の言説として主張してきた社会運動の主張を反映したも
のであり、中央政府はそれに応えて社区総体営造を実施したのだという考え方も不可能ではない。
しかし、その政策には地方派系の弱体化や社会運動団体の懐柔といった国民党政府の意図が反映
されていた。なぜ、社区総体営造が地方政府の頭越しに直接市民社会に投下されたのかを考える
とき、政府の政策意図を考えることが不可欠になる。したがって、本論文では社区総体営造を基
本的には政策としてとらえてきた。
165筆者は美濃でその何人かに遭遇した。しかし、日台の市民社会の詳細な比較は別の機会に譲
169
まちづくりの基本的な担い手や市民社会の構造がわからないままに互いが見聞を行ってい
るのが現状である。これに対し、本論文では日本と台湾のまちづくりが担い手と地方政府
との距離が異なることを述べてきた。これらの担い手の違い、ひいては制度化の有無の違
いや、台湾アイデンティティ、特にエスニックアイデンティティという台湾コミュニティ
運動特有の集合アイデンティティに留意しながら、台湾独自の地域社会学を展開すれば、
日本と台湾のみならず、同様に急速な経済発展を遂げながら民主主義の歴史が浅い国家も
しくは地域、例えば韓国やタイにもその手法が広がる可能性があると考える。
3
残された課題と展望
本節では、本論文で残された課題と今後の展望を述べたい。
まず第一に、地方分権と地域社会の連関のさらなる模索である。社区総体営造は、中央
政府が担っていた文化の実体化政策を地方政府の頭越しに市民社会が担うという点で、広
義の地方分権であり、民主化の地域社会的続編166であるともいえる。しかし、今日の台湾
においてその地方分権の意義は複雑さを増している。第 4 章で述べたように、社区総体営
造では既存の統治組織との協力が「地域社会に根ざしている」という観点から重視される
ようになった。つまり、社区総体営造が政策過程でその受給対象から排除した地方派系は、
再びその資源を得る機会を得たのである。またこのとき、サブ政治への参入を図ってきた
社会運動団体がその経験をいかして地域政治に参入する様子を本論文では検討してきた。
その郷鎮政府が、2010 年 12 月 25 日に高雄県が高雄市に合併されるなど、一部の県が市と
合併し、中央級の行政単位になる現象がおきようとしている。新たな行政単位になったと
き、それと社会運動団体はどのように連関するのか。中央政府が作りだし、市民社会がそ
の実務を担い、政策提言の窓口としてきた社区総体営造はどのアクターが担っていくのか。
他国の地方分権と地域社会の連関を見ながら考察していく必要がある。
第二に、政権交代のインパクトである。そのインパクトは第一に財源の方面である。馬
英九政権の成立後、国民党政権は自らの資源で育てた「班底」とよばれるネットワークへ
の資源投下を進め、第 5 章で述べたように、社区総体営造で実績をあげてきたコミュニテ
ることにしたい。
166 途上国において、民主化の次なるイシューは地方分権化である。例えば、タイでは先に民主
化の進む中央政府と、その民主化が直截には浸透しない地域社会、およびその地域社会で地方政
府の頭越しに中央政府に直接アクセスする市民社会という構図が存在する(永井、2008)。また、
インドネシアではスハルトが退陣してからほぼ 1 年たった 1999 年 5 月に地方行政法が制定され、
従来の村落(デサ)の画一化とは一転して行政村の「多様性」を尊重し、その「民主化」とともに
「慣習復興」をめざすものとなっている(吉原、2008:25)。これに対し、本論文が参照としてき
た日本では、逆の性質が見られる。すなわち、まちづくり条例の制定や各種公害訴訟など、地域
社会は中央政府に先駆けて先進的な取組みの現場であり続け、中央政府をやがて動かす可能性の
場として研究者や市民社会の注目を集めてきた。このように、地域社会の考察はその国や地域の
中央―地方関係を反映するが、これについては別の機会に考察を譲りたい。
170
ィ団体への資源投下は減少傾向にあるという167。この状況下で、社区総体営造の資源を得
て制度内化してきたコミュニティ団体は、財源や活動方向をどのように変えていくのか。
第三に、政権交代とも関連するが、台湾という国家の表象の変化が社区総体営造にもた
らすインパクトである。社区総体営造はもともと、
「台湾文化」の実体化政策であり、多文
化主義が浸透するにつれて、福佬人、原住民、客家、外省人168の「四大族群」の文化が台
湾文化として表象されていった。しかし同政策が台湾文化の実体化政策でありつづけると
したら、政権の想像する「台湾」というネーションの内容が変われば、社区総体営造で実
体化される文化も異なってくるはずである。例えば、2010 年の美濃黄蝶祭では、地元の歌
手のほかに日本のギタリスト、そして初めて中国の歌手が参加した。2008 年に緩和された
中国人の台湾訪問によっておこる、このような中国人との交流は、今後の社区総体営造の
柱となっていくのかどうか、また、グローバリゼーションによるインパクト、例えば第 4
章で述べた東南アジア出身の女性配偶者たちの文化や、2008 年 12 月 25 日の出入国および
移民法の改正に伴って今後さらに流入が予想される、おもに就労を目的としたタイ・ミャ
ンマー華人や在インドのチベット人169などの「華僑」は、台湾の国民として社区総体営造
によってその文化を実体化されるのか。引き続き注意深く見る必要がある。
第四に、中国社会との連続性である。本論文では主に、日本の地域社会学や環境社会学
の経験を参照しながら台湾地域社会に対する分析を進めたが、中国伝統社会との連続性を
十分に検討してきたとはいいがたい。2008 年 5 月に国民党の馬英九政権が誕生して以後、
その親中路線を反映するかのように中国と台湾の学術界は急速に交流を深めている。それ
は、台湾化や民主化で中国とは異なる台湾の独自性を模索してきた 90 年代、2000 年代の
台湾学術界からの揺り戻しのようにもみえる。しかし、単純に政権の交代に伴って視点を
変えるというのではなく、地域研究的に見れば、これまで続けられてきた研究との連続性
を重視していく必要がある。その意味では、日本研究を十分に引用して台湾の研究を進め
た本論文も、それを否定するのではなく、再度中国伝統社会との連続性をもう一度確認し
ていく必要がある。もちろん、中国伝統社会も伝統社会のままではなく、その政治アクタ
ーは多元化している(田原、2005:54-59)。また、都市では旧来の国有企業の職場組織などの
「単位」を改め、中国民生部は 1991 年により流動的な人口から構成される「社区」の必要
性を主張した(保坂、2009:119)。そのような中国自身の変化にも、本論文で述べた地域社会
2009 年 11 月 9 日、協進会元スタッフへの聞き取りによる。2010 年 5 月 16 日、客家電視台
記者からも同様の指摘を受けた。
168 外省人の台湾アイデンティティは、論争を呼びながらも、台湾社会の中にそのニッチを探し
続けている。台湾における外省人の台湾アイデンティティについては、張(2010)やコルキュフ(高、
2004= 2008)を参照。
169 2008 年 12 月の出入国および移民法の改正により、中華人民共和国籍を持っていないことを
条件に、タイ、ミャンマーなどからの華人や、インド在住のチベット人などの「華僑」が中華民
国国籍を持つ要件が緩和された。これにより、就労目的でこれらの地域からの華僑が台湾に大量
に流入し、その中には不法移民として台湾に滞在しているものもいる。現在台湾の不法移民(台
湾で「黒戸」と呼ばれる)は約 3 万人いるという。
(『連合報』2010 年 5 月 27 日)
167
171
の変容とコミュニティ運動に関する論点が示唆を与える可能性もある。
これらの問題意識をもとに、今後も考察を進めたい。
172
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図表リスト一覧
序章 なし
第一章
表1-1 台湾の大学生、専科生数
32
表 1―2 台北市集会デモ負傷者と案件数(1988―1999 年)
48
第二章
図2―1 台湾における美濃の地理的位置
53
図2―2 美濃鎮内の地図
54
図2-3
56
台湾の行政区分(1999 年の省政府凍結前)
表2-1 美濃鎮公所 2009 年度支出内訳
57
表2-2 美濃鎮公所 2009 年度歳入内訳
57
表2-3 歴代美濃鎮農会理事長
60
表2-4 歴代高雄県農田水利会会長
63
表2-5 歴代美濃鎮長
63
表2-6 美濃鎮の葉タバコ作付面積の推移
71
表2-7 美濃鎮の人口
72
表2-8 台湾の人口
73
第三章
図3-1 台湾都市計画系統図略図
86
写真3-1 美濃ダム建設反対を訴えて出版された『重返美濃』
98
第四章 なし
第五章
表5-1 協進会が手がけた主なプロジェクト
142
写真 5-1
143
改修前の下庄地区用水路
写真 5-2 下庄地区用水路の壁を再度斜めに改修中の様子
143
写真 5-3 下庄地区水橋
144
写真 5-4 東門楼
144
終章 なし
182
附録
引用インタビュー一覧
肩書きは原則として聞き取り当時のも
の。また、注意書きがないかぎり、筆者
本人が聞き取りを進めた。
インタビュー年月
2005/7/28
2005/8/1
2005/8/20
2005/10/30
2005/11/15
2005/11/17
2005/11/22
2005/11/22
2005/11/28
2005/11/28
2006/2/3
2006/2/23
2006/3/3
2006/3/9
2006/3/10
2006/3/22
2006/8/18
2007/10/9
2009/4/3
2009/11/9
2010/3/10
人名記号または人名
ジェフ・ホウ
洪馨蘭
張高傑
W
B
K
H
T
Y
F
G
S
L
X
V
D
N
P
黄鴻松
Z
J
183
美濃ダム建設反対運動期年表(1992-2000)
年月日
1992/12/10
1993/2/15
できごと
美濃鎮公所が東門小学校で美濃ダム建設計画に関する公聴会を開催。計画が知
らされずに進行していたことに対し、住民が席上で不満を表出。
高雄県下の農会の農民代表選挙が行われる。美濃鎮農会は 20 年近く支配の続
いた白派を破って紅・黒の 2 派連合が農民代表の多数を占める。
農民代表による農会理事・監事選挙が行われ、紅・黒派が白派に勝利。1989
1993/2/25
年以来の白派内部の分裂と、年末の選挙に向けて黒派が資金を大量に導入した
のが原因。
農会理事長、常務監事、総幹事選挙でそれぞれ鍾炳珍、劉富昌、邱英蘭が当選。
1993/3/5
白派は邱の資格に問題があるため、総幹事の人事が無効であるとして、引き続
き白派の鍾玉福が総幹事であると主張。同様の派閥間の対立にともなう総幹事
招聘の支障問題は、県下で美濃を含め 5 つの農会で発生。
1993/3/26
1993/3/27
1993/4/15
美濃鎮農会前総幹事の鍾玉福が交代を拒否し、欠席するなか、形式的な新総幹
事の引き継ぎが行われる。
美濃反ダム後援自救会が「ダム建設反対デモ」を開催、美濃各界の著名人が数
十台の車列を組み、美濃の街中を回る。
美濃住民が 4 台の貸し切りバスで県政府に乗りつけ、県長の余陳月瑛にダム建
設反対の署名を手渡す。
ダム建設に反対する美濃の男女住民 200 名余りが台北の立法院に陳情に赴く。
1993/4/16
10 名余りの与野党立法委員が陳情を受け入れ、立法院の会議室で公聴会が開
かれる。
1993/4/26
まだ総幹事を選出していない旗山、美濃、田寮、茄萣の農会の理事および監事
30 名あまりが県農会を訪れ、総幹事選出について調停を要求する。
美濃鎮農会の理事で理事長選挙に落選した鍾紹恢を中心に、白派の理事および
監事たちが国民党の県党部と国民党の県農会に陳情し、「農会理事会の成立後
1993/4/28
60 日以内に総幹事が招聘されない場合は、上級農会から総幹事を派遣するこ
とができる」という農会法第 25 条にもとづいて引き続き鍾玉福を農会総幹事
に就任させるよう要求する。
1993/5/4
1993/5/12
1993/6/4
立法院の経済予算聯席予算会、美濃ダム建設費用の 20 億元を 18 億元に減ら
し、残りの 2 億元を代替案の評価費用に充当することを決定。
水資源統一規画委員会、1971 年に美濃ダム建設計画を策定してから初めて美
濃で美濃ダム建設に関する説明会を行う。
高雄県農会、農会法第 25 条にもとづいて美濃鎮農会の総幹事派遣を決定、こ
れにより鍾玉福が引き続き総幹事を務めることが決定する。
184
県農会から派遣された美濃鎮農会総幹事鍾玉福、農会で受付をしようとしたと
1993/6/7
ころを同鎮農会理事長鍾炳珍の妨害に遭い、受付できず。引き続き同鎮総幹事
は正式に決定できず。
1993/6/8
1993/6/22
美濃鎮農会、5月2日の常務監事劉富昌の死去のため、臨時監事会を開いて常
務監事を改選。白派の劉富麒が当選。
高雄県政府、コミュニティ景観づくり運動に美濃鎮南興地区ほか田寮、旗山、
仁武、岡山を選定、成果発表会を行う。
美濃鎮農会総幹事鍾玉福、理事長鍾炳珍の妨害を受けて業務を執行できないこ
1993/7/1
とを不服として高雄地方法院(地方裁判所)に訴えたのを受けて、高雄地方法院
が引き続き鍾の総幹事在任を合法とする判決を下す。
1993/7/12
高雄地方法院の裁判官洪嘉鴻が鍾玉福の総幹事就任を合法と認める判決書を
送付、これにより鍾は正式に総幹事続投の手続きを完了。
公売局、当年度の葉タバコ栽培許可の受付を開始。全国 6000ha の葉タバコ作
1993/7/26
付面積を 5000ha に減らすため、屏東地区(美濃を含む)では作付面積を
376.4ha 減らして 2556ha にすると発表。
協進会主要メンバーが隣県である屏東県の好茶に行き、水資源統一規画委員会
1993/9/9
が美濃ダムの代替案として瑪家ダム建設を検討中であることが判明。この後、
瑪家ダム建設反対運動と美濃ダム建設反対運動は提携開始。
1993/9/15
1993/11/27
美濃鎮農会、12 期第 5 次理事会を開催、現政権派(紅黒派連合)が旧派(白派)に
よる同鎮農会の備蓄米の横領を指摘、批判。
高雄県長選挙が行われ、県長余陳月瑛の息子の余政憲(民進党)が当選する。
協進会、米国カリフォルニア州バークレーにある世界的な河川保護組織である
1993/12/18
International Rivers Network(IRN)理事長のフィリップ・ウィリアムズを美
濃に招き、講演会を主催。
1994/1/8
1994/1/29
1994/3/17
1994/4/1
1994/4/10
美濃鎮農会臨時理事会が召集される。同農会総幹事招聘について引き続き協議
するも、白派と紅黒派の対立により決まらず。
美濃鎮長選挙実施、ダム建設反対を掲げた鍾新財が当選。農会理事長鍾炳珍が
選対総幹事。
美濃鎮農会、理事長が支持する李進棟が総幹事に正式に就任する。
行政院文化建設委員会によって三級古跡に指定された美濃の敬字亭の保護工
事が始まる。県政府が民有地 7 坪を買収してガードレールを設置。
美濃愛郷協進会、正式に政府登記される。理事長に鍾鉄民。
200 名あまりの美濃住民が美濃でダム建設反対決起集会を行い、翌日 5 台の貸
1994/4/17
し切りバスで台北に向かい、立法院で陳情を行う。与野党の立法委員は美濃ダ
ムの予算を削除することを約束する。
1994/7/16
鎮民代表選挙が行われる。一票あたり 500 元から 2000 元の買票行為が横行す
185
る。
1994/7/29
1994/9/12
1994/11/19
行政院長連戦、視察先の高雄で美濃ダム建設の必要性を強調する。
実績があるにもかかわらず国民党から省議員候補の指名を受けられなかった
鍾徳珍が、無所属での立候補を表明。国民党候補は鍾栄吉の甥にあたる鍾紹和。
高雄県の白派の領袖王金平が省議員選挙で鍾徳珍の支持を表明。
文化建設委員会の社区総体営造の前哨戦的プロジェクト「充実郷鎮展演設施計
1994/11/20
画」の実施地を台湾大学城郷研究所が同委員会の委託により選定、宜蘭県羅東、
嘉義県新港、高雄県美濃が選定される。
1994/12/3
1994/12/16
第10回省議員選挙で無党派で立候補した鍾徳珍が高票落選、鍾栄吉の後ろ盾
を受けた鍾紹和が当選。
余政憲県長、龍肚小学校を視察、同小学校が県政府の予算を申請して計画中の
自然生態教学園区(自然生態教育地区)の建設を支持すると表明。
公売局が土地問題や休耕補償額を解決しないままに葉タバコ農家に休耕を奨
1994/12/17
励しているとして、菸葉改進 社(たばこ耕作組合)屏東分社社長の林作崙が反
発。1995 年 6 月末に改進社は解散。
台湾大学城郷研究所、文化建設委員会から委託された「充実郷鎮展演設施計画」
1995/1/19
の期末報告書を提出、3 つの実施地点での計画作業を完了。予算は総額 5000
万元以上。
1995/2/1
1995/2/6
美濃愛郷協進会、旧正月に合わせて美濃の歴史や文化を再発見するイベント
「来去美濃売大眼」を実施。
美濃鎮長鍾新財、美濃愛郷協進会の幹部と会談、保存が叫ばれていた美濃で最
も古い街「永安街」の局部保存を決定。
国内の環境保護団体が台湾環境保護団体サミットを開催、会議の決議で第四原
1995/6/3-4
発建設反対、美濃ダム建設反対、大武山貫通道路(南横道路)建設反対など 10
項目が決議される。
1995/6/4
1995/7/1
1995/7/4
1996/1
1996/2
八色鳥協会と美濃愛郷協進会などコミュニティの団体が、ダムサイトの渓谷に
て第一回美濃黄蝶祭を開催。悲痛な調子で環境保護を訴える。以後、毎年開催。
フロリダ大学院生で美濃の外国人配偶者を研究する夏暁鵑が、協進会名義で台
湾初の東南アジア出身の女性配偶者向けの識字班(中国語教室)を開催。
県政府、客家文物館のための土地徴収作業を完了。しかし地主の傅家が土地の
賠償金を受け取らなかったため、県政府は裁判所に提訴する。
高雄県議員鍾紹恢、省議員鍾紹和の奔走で美濃客家文物館の建設費用 9600 万
元が中央、省、県政府の均分負担によって確保される。
美濃客家文物館、費用の問題は解決するも、土地徴収をめぐって地主が売渡を
拒否、同文物館建設計画が停止。
186
文化建設委員会、同委員会が助成し美濃鎮公所が台湾大学城郷研究所に委託し
て計画させた「充実郷鎮展演設施計画」について美濃で報告を行い、美濃愛郷
1996/2/16
協進会や専門家と打ち合わせを行う。元の計画は美濃の特色を十分に強調して
いないとして、文化建設委員会は美濃で 2 番目に古い土地公「伯公壇」の修復
を提案。予算は約 250 万元。
1996/3
龍肚小学校の自然生態教学園区(自然生態教育地区)建設工事が始まる。工期は
3 期に分かれ、総建設費用は 3600 万元。
美濃鎮公所、1997 年度の予算に鎮公所の新庁舎建設費用 3 億 3 千万元を計上
1996/4/11
するも、7200 万元の不足が出たため、省政府に補助金 6000 万元を要求する。
省政府は承知せず。
美濃客家文物館のための土地取得が難航。県政府は 4 月末までに地主の傅家に
1996/4
土地の構造物撤去を要求、要求を受け入れない場合は廃棄物として処分すると
通告。
経済部長江丙坤、美濃で「美濃地区産業與社区発展観摩(見学)説明会」を開催、
1996/4/20
同部中小企業処の策定した美濃の伝統産業推進計画を説明。美濃愛郷協進会は
これが美濃ダム建設につながることを警戒し、公開書簡を提出。
高雄県政府、県長を司会として 菸酒公売局廃止後の葉たばこ農家のあり方を議
論。出席者は美濃鎮長鍾新財、県政府農業局、鳳山園芸試験所、屏東 菸酒改新
1996/4/22
社(たばこ耕作組合)、高雄区農業改良場(農業試験場)、公売局、葉たばこ農
家代表。葉たばこ農家からは同条例廃止後も立法院で葉たばこ農家の権益を守
る新法を制定してほしいとの要望があがる。
高雄県長余政憲、台湾省長宋楚瑜と台北にて会談、美濃客家文物館建設費を含
1996/4/23
むいくつかの重大建設の費用を省政府に要求。宋楚瑜はその場で美濃客家文物
館への 3000 万元の補助金を承諾。
稲作と葉タバコ栽培の減少にともない、美濃鎮で青果類の栽培が増加している
1996/5
にもかかわらず、その周辺施設が不備であるとして、省議員の鍾紹和が省政府
農林庁に陳情し、設備の充実を要求する。
高雄県長余政憲夫人の鄭貴蓮、黄森松(美濃コミュニティ紙『今日美濃週刊』
1996/5
主催者)、黄国 銘(県議員)の兄弟を名誉棄損で高雄地方法院に訴え、その判決が
下される。黄森松は禁固 30 日、黄国銘は懲役 3 ヶ月、市民権剥奪 1 年の刑。
美濃鎮福安小学校の新校舎建設開始。客家風の建築を取り入れたため、総工費
1996/5/28
は当初の 1700 万元より 600 万元多い 2300 万元。設計師は新竹出身で自身も
客家の謝英俊。
1996/6/2
第 2 回黄蝶祭で参加者が 3,000 人を超える。オーストラリア緑の党の国会スポ
ークスマンのボブ・ブラウンも来台し、鉄刀木(タガヤサンの木)を植樹する。
187
美濃鎮と杉林郷の間にある月光山を貫いて建設予定の月光山トンネル(全長約
1996/6/7
4 キロ、総工費約 8 億元)の用地収用説明会が美濃鎮公所で開かれる。収用予
定地は現在の地価の 4 割増しで買い取ることが説明される。
1996/7/8
1996/7/10
美濃鎮公所旧庁舎の売値を決める評価委員会が鎮公所で開かれ、競売用の売値
が 1 億 1100 万元と決定される。
美濃鎮農会、臨時会員代表大会を開き、理事長や総幹事が農会信用部の貸し倒
れ金が 6300 万元にのぼっていることについて批判される。
台湾省政府環境保護処南区環境保護中心の職員が旗山、美濃各鎮公所と美濃ゴ
1996/7/11
ミ処理場予定地を視察し、水源に近すぎることから当該地の処分場建設を断念
すると表明。
1996/7/15
1996/7/24
美濃鎮農会、15 日付で県政府に公文書を出し、25 日付で同農会総幹事の李進
棟を解雇するよう要求する。
美濃鎮農会総幹事李進棟、25 日に同鎮理事会が李の不信任案を提出するのを
前に自ら辞職を宣言。来年の理事会選挙をにらんで理事会内の争いの結果。
美濃鎮農会理事会開催、李進棟総幹事の辞職を受理せず、かつ李への不信任案
1996/7/25
を提出する決議が 7 対 2 で可決される。代理総幹事に県議員張乾徳の妹張玉
珍が就任。これで一期の理事長に総幹事が 5 回変わったことになる。
美濃愛郷協進会、高屏溪緑色聯盟などの民間団体が、省議員も交えて県政府で
シンポジウムを開催。省政府の計画する、 荖濃溪から台南県の曾文ダムに引水
1996/8/7
する越境引水の工事計画を議論。高雄県政府は屏東県政府とともに、この越境
引水に反対。しかし屏東県政府は水不足を解決するためにはダムが不可欠とし
て、高雄県政府に美濃ダム建設の早期達成を求めるよう、また高雄県政府と高
雄市政府に瑪家ダム建設の早期達成を中央政府に求めるよう要求。
美濃鎮公所で高雄県政府主催の美濃客家文物館公聴会が開催される。美濃愛郷
1996/8/15
協進会、美濃鎮長、各学校校長ら 20 数人が参加し、文物館の全貌が明らかに
なる。用地面積 10374 平米、建築面積 1680 平米。
菸葉改進社の全力陳情により、公売局は葉たばこの来年度(1996/97)の買い取
1996/9
り価格を今年度〈1995/96〉から据え置くことに同意。さらに葉たばこ栽培材
料の無利息融資の特典もつける。
1996/10
美濃鎮農会供銷部で回収不能になっている「塩漬け」費目が 400 万元にもの
ぼることについて、県政府調査局が調査を進める。
台南、高雄、屏東の 4 県市の民衆 7,000 人が「愛郷、土地保護、反濱南」請願
1996/10/4
団を結成、連夜貸し切りバスで台北に北上し立法院に陳情を展開、濱南工業区
建設反対を訴える
188
文化建設委員会第二処副処長の林登讃が美濃を訪れ、同委員会が台湾大学城郷
研究所に委託して計画させた「輔導美化地方伝統建築空間計画」で選ばれた美
1996/10/17
濃鎮永安路の視察を行う。同日、台湾大学城郷研究所長施長安、美濃愛郷協進
会総幹事鍾永豊、鎮長鍾新財らが鎮公所で計画の執行にあたっての意見交換を
行う。
美濃鎮長鍾新財、美濃愛郷協進会の幹部と会談、保存が叫ばれていた美濃で最
1996/11/1
も古い街「永安街」の局部保存を決定。隣町の屏東県里港郷長から 2 郷鎮合同
のごみ処分場建設の提案を受け、焼却炉か埋設場かを問わず、これを承諾する。
1996/11/25
1996/11/26
美濃客家文物館の着工式が行われる。用地面積約 1 ヘクタール、建て坪約 500
坪、総工費約 9600 万元。
美濃鎮農会、理事会で貸し倒れ案件が次々と問題になり、理事から執行部への
批判が出る。
美濃鎮農会選挙を前に、農会内の派閥争いが激化しているのを緩和するため、
1996/12/13
鎮長鍾新財、国民大会代表陳子欽、鎮民大会代表主席羅建徳、前省議員鍾徳珍
らが和解調停に乗り出す。
農会選挙に先立ち、羅兆洪、林栄賢、劉見和、張聡錦の 4 名が美濃鎮農会総幹
1996/12/21
事候補に登録。羅は元々黒派だが白派の若手鍾紹和と組んだ。林は羅兆洪、鍾
紹和と約束がある。劉は白派の元老鍾徳珍と紅派の国民大会代表陳子欽の支持
を受けるなど、派閥を越えた合従連衡が繰り広げられる。
現政権派の農会代理総幹事張玉珍が塩漬けの費目の処理を怠ったとして引責
1996/12/31
辞任させられ、かわりの代理総幹事に陳紹春が就任。1 期の理事長の中で 6 人
目の総幹事。
1997/1/3
美濃鎮農会選挙に向けて現政権派が鎮内の一番飯店で決起集会。鍾徳珍、鍾炳
珍、鍾新財を領袖として理事長候補に鄭登海、常務監事鍾明福、総幹事劉見和。
環境保護署、一度美濃鎮公所にごみ焼却炉のための補助金 3 億元を出すと公文
1997/1
書を送ったのを受けて、美濃鎮公所は焼却炉建設予定地を鎮内で探すも住民の
反対に遭う。環境保護署は再び当該予算が行政院の批准を得ていないとしてこ
れを取り消す。
1997/1/15
1997/1/20
1997/1/27
1997/1/28
県政府内で美濃鎮農会代理総幹事である張玉珍の交代決議案が通り、同農会保
険部主任の陳紹春が代理総幹事に就任することが決定する。
美濃鎮農会選挙に向けて反対派が決起集会、鍾紹恢、羅兆洪らが領袖。理事長
候補に林増昌。
美濃鎮農会の反対派 70 人余りが、現政権派が反対派林宜訪、鍾源泉の被選挙
権を奪ったとして省政府農林庁に抗議する。
美濃鎮農会選挙七人審査小組が三度目の会議を開き、省政府農林庁からの説明
公文書をもとに、林宜訪、鍾源泉の被選挙権を認める。
189
1997/2/3
1997/2/13
1997/2/15
1997/2/25
1997/3/6
1997/3/10
1997/3/12
1997/3
1997/3/14
1997/4
1997/4/7
美濃鎮農会反対派、20 台あまりの車で街中をまわり、支持を呼びかける。現
政権派と反対派の実力が伯仲。
美濃鎮農会選挙戦が大詰め、現政権派と反対派が激しい攻防を繰り広げる。
高雄県内の各郷鎮で農会代表選挙、美濃鎮を含む 4 郷鎮で政権交代。美濃鎮で
は反対派が勝利。
農会代表による農会理事選挙が行われる。反対派の勝利。
美濃鎮農会理事長、常務監事選挙が行われ、合わせて総幹事の招聘が行われる。
それぞれ林増昌、楊富麒、羅兆洪。
鍾炳珍ら反対派が現政権派の総幹事招聘をめぐって、県政府に用意ができてい
ないのに羅を招聘することに抗議し、県政府農会を訪れる。
1996-97 年度の葉たばこの買取が始まる。天候が良好だったため、豊作。
美濃鎮公所が中央政府の補助金 3000 万元を獲得して作った台湾南部初の託児
所が美濃鎮中壇地区に完成する。9 月の新学期より利用開始。
美濃愛郷協進会、ブラジルで開催された第一回国際ダム建設反対組織大会に参
加、全世界から 20 余りの国家、約 50 の団体が参加。
タバコ乾燥室をかたどった福安小学校の新校舎が完成。5 月から使用開始。
高雄県農業局長率いる私設屠畜場取締小組が美濃で最初にできた屠畜場を取
り締まる。
美濃鎮公所が旗山糖廠の敷地内にごみ埋設処分場設置を計画していることに
1997/4/14
ついて、美濃鎮住民代表が糖廠に反対の意志を表示する。糖廠は美濃鎮住民の
同意がなければ処分場を作ることはないと返答。
高雄県長余政憲、台湾省長宋楚瑜があいついで美濃の月光山トンネルの建設現
1997/4
場を視察、美濃側のトンネル入り口の拡幅が難航していることについて、早期
完成を促す。
宜蘭で第一回社区総体営造博覧会が開催され、台湾全土から社区総体営造のモ
1997/4/19
デルとなった 15 の社区がパフォーマンスを行う。美濃愛郷協進会も招かれ、
客家民謡を披露。余政憲高雄県長も出席。
1997/5
1997/5
中正湖の富栄養化について、鎮民代表が美濃でさかんな養豚業の影響を指摘。
美濃の隣町杉林出身の立法委員林郁方が立法院質疑で美濃客家文物館への補
助金を教育部長に要求し、承諾を得る。
県政府の策定した旗山区「緑色自然生態城」計画の座談会が美濃と内門で開催
1997/6/11
され、地元住民の意見交換が行われる。同計画は高雄県内陸部の農地を利用し
て観光農業や人材育成、および農作物の流通促進を促す計画。
1997/6/13
高雄県環保局長丁杉龍が美濃鎮吉洋地区の堤防の外側に暫定的なごみ処分場
を作る案について協調会が行われる。地元住民はこれに反対。
190
公売局の葉たばこの在庫過剰のため、公売局は来年度の台湾省内の葉たばこ作
1997/6
付面積を原稿の 4394ha から 1143ha に減らすと発表する。これにより、美濃
をはじめとする屏東地区でも葉たばこの作付面積を 400ha に減らすことが求
められる。
1997/6/20
1997/6
1997/6/27
1997/7/6
1997/7/7
1997/7/19
1997/7/26
1997/8/1
県政府が補助金 3000 万元を出して鍾理和紀念館内に作った全国初の「台湾文
学歩道園区」の完工記者会見が行われる。
経済部が美濃ダム建設の予算 145 億元を再び計上したことについて、立法院
で立法委員林郁方が質疑を行う。
5 年の歳月をかけて編集された『美濃鎮誌』の完成発表会が美濃鎮公所で行わ
れる。
第三回黄蝶祭開催。イベントの中で渓谷に関する住民投票を行ったところ、投
票者の 95%がダムサイトを「生態自然公園」にすべきと投票。
『美濃週刊』発行者の黄森松、黄蝶祭で蝶を弔うよりもカエルを弔うべきだと
発言。
国民党第 15 期全党代表選挙が行われる。美濃から立候補した鍾紹恢、鄭登海
はいずれも当選。
美濃鎮農会嘱託職員の邱秀香が、同農会の食塩販売金 450 万元を横領したと
して、高雄地検に起訴される。
国民党公認の高雄県長候補黄鴻都が2日間にわたって美濃を訪れ、票固めを行
う。
杉林と美濃を結ぶ月光山トンネルの美濃側入口の道路拡幅をめぐって、省政府
1997/8
公路局は道幅 20 メートルを計画していたが、拡幅分の収用予定地を所有する
住民側が希望する道幅 12 メートル案と衝突し、建設計画が頓挫、公路局が鎮
公所に住民との交渉を求める。
1997/8/20
美濃鎮農会に全県下で 2 番目の CIS システム(企業識別システム)が導入される
調印式が同鎮農会で行われる。
社区総体営造と社会発展青年キャンプが美濃鎮で行われ、全国から 150 名の
1997/8/23
大学生や大学院生が 4 日間にわたって社区総体営造について議論する。同キャ
ンプは美濃愛郷協進会が執行。
1997/9/4
『美濃鎮誌』の執筆者たち約 40 名が新竹県立文化中心を訪れ、同県関西鎮の
民間団体と鎮誌編纂についての意見交換を行う。
美濃鎮福安小学校の葉たばこ乾燥室をかたどった校舎の落成式典が行われ、正
1997/10/5
式に使用が開始される。同様の郷土文化をかたどった小学校は、同年に県内多
納小学校で原住民ルカイ族の石板を使った校舎が建設された。
191
台湾省長宋楚瑜、国民党の高雄県長候補黄鴻都の鳳山市後援会成立大会に出
1997/10/26
席、その日程上で特別に美濃鎮長鍾新財と会見。国民党員の鍾が民進党の県長
候補余政憲を支援していることについて、黄鴻都への支援を要求するため。
1997/11/7
1997/11/10
1997/11/12
台北市長候補で民進党の陳水扁が美濃中学校で高雄県長、屏東県長のための応
援演説を行う。
全台湾の環境保護団体が 1997 年の県市長選挙に対し共同政見を発表、その中
で美濃ダム建設断固反対を表明。
美濃鎮長に立候補した県議員の鍾紹恢が「建設なくして発展なし、明日なし」
と題したビラをまき、現職の鍾新財への不満を訴える。
『美濃週刊』の創始者である黄森松や邱国源を中心とする美濃発展協会、余政
1997/11/15
憲の「美濃ダム建設反対」に反対、美濃の各里で「ダムを建設して美濃を発展
させよう」説明会を巡回開催。
1997/11/15
1997/11/15
県政府が鍾理和紀念館内に作った全国初の「台湾文学歩道園区」除幕式が行わ
れる。高雄県長余政憲が司会、鍾鉄民、曾貴海、葉石涛、呉錦発らが参加。
美濃客家文物館の着工式が行われる。
国民党中央党部秘書長呉伯雄が高雄県長候補の黄鴻都の応援に美濃にかけつ
1997/11/17
け、支持をよびかける。立法院副院長王金平、中央党部副秘書長鍾栄吉、その
甥で省議員の鍾紹和、県議員鍾紹恢らも応援。民進党の県長候補余政憲を応援
して非難された鍾新財も同席するが、黄鴻都支持に動いた形跡なし。
1997/11/20
現職の美濃鎮長鍾新財、県議員への立候補を取り下げると表明。
1997/11/22
美濃愛郷協進会、美濃鎮公所 3 階でダム建設反対記者会見を開催。
1997/11/24
1997/11/25
1997/11/26
1997/11/27
1997/11/27
1997/11/28
1997/12/2
1997/12/7
国民党の高雄県長黄鴻都の義父劉逢春が美濃鎮長の鍾新財を訪れ、黄への支持
を訴える。
美濃鎮龍肚小学校生態教学園区の着工式が行われる。
美濃体育館で高雄県長候補の討論会が行われる。余政憲以外の 3 名は全て参
加。
国民党の高雄県長候補黄鴻都、美濃と旗山でそれぞれ 1,300 人を集めて集会、
支持を訴える。
余政憲県長の母で前県長の余陳月瑛が、橋頭余家一族が汚職で摘発されたり能
力不足であることを指摘し、次の代は一族から候補を選ばないと宣言。
県長選挙が行われ、高雄県では二期目となる民進党の余政憲が当選。
美濃鎮長鍾新財、自宅で鎮民代表主席羅建徳、副主席傅瑞智はじめ鎮民代表数
名と協議し、県議員に李雲廷を出馬させることを決定。
美濃鎮長に立候補する県議員の鍾紹恢が自宅にて決起集会を行う。
192
省政府の計画する、荖濃溪から台南県の曾文ダムに引水する越境引水計画につ
1997/12
いて、高雄県政府は反対するも、省政府水利処は水不足解消のために緊急に同
計画が必要として、高雄県長に裁決を迫る。
1997/12/10
1997/12/11
1997/12/13
1997/12/14
1997/12/15
1997/12/26
1997/12/28
台北市政府新聞処専門委員ら 11 名が美濃の文学歩道や福安小学校を視察。こ
れらの先駆例を台北市に取り入れる考えを示す。
高雄県立文化中心、1999 年度の全国文芸季イベントを美濃で開くと発表。
国民党台湾省党部、高雄県議員選挙および郷鎮市選挙の公認候補リストを発
表。
美濃鎮長に立候補する県議員の鍾紹恢が競選総部(選対総本部)の成立大会を
行う。約 2000 人が参加。
林仙保ら地方派系の紅派の政治家が、国民党の公認候補リストに不満を表明
し、党職を辞任。
美濃愛郷協進会、湿地保護聯盟、高屏溪清流護魚ボランティア団が美濃と屏東
県高樹の境目に位置する高美大橋の下で高屏溪観察会を行う。
美濃出身の県議員候補張乾徳が競選総部(選対総本部)の成立大会を行う。
美濃鎮長に立候補する県議員の鍾紹恢が美濃広善堂で、美濃ダム建設反対を誓
う。席上には弟で鍾議員の鍾紹和、父親の鍾喜濱、母親の鍾朱雲金、美濃愛郷
1997/12/29
協進会理事長鍾鉄民、競選総部主任委員張騰芳、総幹事鍾玉福、後援会長で農
会理事長の林増昌、農会総幹事羅兆洪、鳳山同郷会長宋雲換、台南同郷会長陳
松輝らも宣誓。
美濃愛郷協進会や地元住民団体、台湾南部の環境保護団体らが美濃にて「ダム
1998/1/14
反対、愛郷百台デモ」を行う。約百台の車で街中を練り歩き、ダム建設反対を
呼びかける。
1998/1/23
1998/1/24
省長宋楚瑜、県道 184 号の拡幅現場の視察のため美濃を訪れる。鍾紹和との
緊密な連携をアピール。
美濃鎮長選挙が行われる。得票数 13,427 票の鍾紹恢が同 13,419 票の傅瑞智
に 8 票差で勝ち、当選。
1998/1/25
美濃鎮長選挙で落選した傅瑞智が選挙の無効を訴えて高雄地方法院に赴く。
1998/2/3
高雄地方検察、高雄地方法院で 142 名の選挙開票員に聞き取りを行う。
1998/2/7
美濃発展協会、美濃中学校にて成立大会を行う。
環境保護署が小型焼却炉建設の補助金を打ち切る予定であるのを受けて、新茄
1998/2/9
萣郷長李明朗と新美濃鎮長鍾紹恢がこの補助金を全力で確保することを表明
したため、県政府環保局が公開入札を始める。用地の取得は各郷鎮公所の努力
にまかされる。
1998/2/9
70 年の歴史を持つ美濃鎮龍肚地区の信仰の中心清水宮の保存を地元名士が訴
えていたのを受けて、国策顧問らが清水宮を視察。
193
1998/2/9
2 月末で任期満了の美濃鎮長鍾新財が、鎮長の退職金を用いて「美濃文教基金
会」を成立。鍾の支持者や月光山雑誌社長らが会食。
元宵節に合わせて美濃愛郷協進会が「提燈籠,売大眼」(ちょうちんを提げて、
1998/2/11
珍しいものを見よう)イベントを行う。一年かけて行ってきた永安路の文化解
説パネル 17 枚などのお披露目を行う。
1998/2/12
1998/2/14
美濃愛郷協進会、国民党の 2000 年総統選挙候補の連戦が南部に遊説したのを
利用して、ダム建設反対の請願書を手渡す。
美濃愛郷協進会、鎮内でダム建設反対のカーラリーを開催、鎮内外から 500
台の車が隊列に加わる。
美濃と杉林を結ぶ月光山トンネル建設工事の請負契約が完了するが、美濃側の
1998/2 月末
入口道路幅を 20 メートルとする省政府公路局の案に道路沿いの住民が依然反
対、着工時に抗争すると宣言。
1998/2 月末
美濃愛郷協進会が美濃発展協会を政府の資金を得て作られたものだと批判し
たのに対し、美濃発展協会は事実無根だと反撃する。
美濃鎮長鍾紹恢、中正湖風景特定区の開発を施政目標にかかげ、省政府住都処
1998/3/7
と計画執行について話し合う。弟の省議員鍾紹和が省政府から合計 2 億 8 千
万元の予算を確保、1999 年度予算への計上をめざす。
1998/3/11
1998/3/14
1998/4/2
美濃発展協会の黄森松の弟である元高雄県立文化中心主任の黄国銘が美濃客
家文物館を場所が悪く、たばこ乾燥室の形は日本植民地主義の残滓だと批判。
第一回国際反ダムデー、美濃愛郷協進会は美濃で劇、コンサート、デモを開催
するとともに、世界反ダム組織を招聘してダム建設反対イベントを開催。
経済部水資源局長徐享崑が、計画中の美濃、あるいは瑞峰ダムのどちらかがで
きれば、台湾南部の水不足は解消できると発言。
高雄県政府、中正湖を観光スポットとして開発する計画の公聴会を開き、地元
1998/4/7
住民や環境保護団体から意見を聞く。席上の多数意見は観光開発の前に湖の治
水を行うべきで、省政府から別に特別予算をとる必要があるという考え。
1998/4/8
鎮長鍾紹恢を主任として、美濃鎮観光発展協会が準備大会を行う。中正湖の観
光開発を民間から推し進めるための団体。
美濃出身の経済部水資源局長(96 年に経済部水資源統一規画委員会から水資源
1998/4/9
局に改組)徐享崑が秘密裏にダムサイトを探していたことを知り、美濃住民は
徐に抗議を行う。
1998/4/9
1998/4/16
中正湖観光開発計画について、省政府環保処、水利処、住都処、旅遊局などが
美濃を訪れ、治水の予算編成について話し合う。3 億元必要との見積もり。
行政院長の蕭万長が一年以内に美濃ダム建設工事を着工すると宣言、美濃人を
震撼させる。
194
経済部水資源局長徐享崑が美濃の名士である作家の鍾鉄民を訪れ、民衆とメデ
1998/4/17
ィアに向けて①この訪問が私的な訪問であること、②美濃ダムと濱南工業区は
無関係であることを訴えるよう協力を要請する。
1998/4/17
1998/4/18
美濃愛郷協進会、行政院長が一年以内に美濃ダム建設工事を着工するという発
言に対し、改めてダム反対の意思を表明する。
省政府の関係単位が実地調査をした結果、中正湖の治水計画は親水公園などを
除いた結果、1 億 9 千万元で着工できると算出。1998 年 9 月に着工予定。
経済部水資源局長徐享崑、美濃ダムと台南県に建設予定の濱南工業区の工業用
1998/4/19
水は無関係であることを強調する。行政院長蕭万長、美濃ダムの代替案につい
て検討を進めるよう指示するも、徐は美濃ダムの代替案はないと発言。
経済部水資源局長徐享崑と高雄市長呉敦義が美濃ダムを建設しなければ 2006
1998/4/20
年以降高雄市民は水不足になると強調。これに対し美濃愛郷協進会が発言は資
源枯渇の結果であり、また地域間対立をあおるものであると批判。
1998/4/21
高雄市長呉敦義、美濃ダム建設のために美濃で地方のリーダーと会って話を進
める用意があることを示唆。
高雄市長呉敦義が高雄市民の生存権のために美濃ダムを絶対に建設すると発
1998/4/23
言したことについて、保護高屏溪緑色聯盟会長の曾貴海が、ダム建設は唯一の
方法ではないと反発。
1998/4/26
中国時報が行った民意調査によると、大高雄地区住民の 66%は美濃ダム建設
に賛成、美濃鎮住民の 55%はダム建設に反対。
高雄県長余政憲、行政院の一年以内に美濃ダム建設を着工するという発言を、
1998/4/27
1999 年度の予算に美濃ダム建設の予算が計上されていないことなどから「全
く不可能」と断定。
1998/4/30
経済部水資源局長徐享崑、美濃ダムの規模を縮小した計画があることを示唆、
5 月 4 日以降に美濃ダム建設のための具体的な行動計画を提出すると発表。
美濃鎮農会前理事長鍾炳珍、選挙の贈賄罪で捜索を受け、高雄地検に送検され
1998/4/30
る。他に鍾炳珍の支持者の元農会理事 3 名も送検される。一人あたり 100 万
元を用いた疑い。
中山大学水資源研究中心の主催する「美濃ダム建設の是非と水資源問題」座談
1998/4/30
会がひらかれ、研究者、環境保護団体、各級政府代表、美濃発展協会などが参
加。
1998/5/7
経済部水資源局、美濃鎮長鍾紹恢、美濃発展協会などと鎮内で意見交換。これ
に対し、美濃愛郷協進会は「美濃鎮民を買収しようとしている」と批判。
195
屏東県政府で中国時報の主催する「河川と河川再建」と題したシンポジウムが
開催される。パネリストに藍色東港溪保育協会、省議員、県政府、省政府、大
1998/5/7
学教授などが出席し、河川汚染の広域的視点からの解決や、水利権の地方分権
および調整のあり方が議論される。高雄市の水不足解消のために屏東県や高雄
県にダム建設を一方的に要求する高雄市の態度も席上で批判される。
全国に 15 ある水利会で、省政府水利処長など関係部局、および各県市長から
1998/5/9
構成される隣選小組が、会長候補 58 名について面談を開始する。この隣選方
式は 1994 年から始まり、今回が二回目。水利会長の人選は 20 日に隣選小組
が決定し、省長から指名を受ける。
高雄県政府、前高雄県議会正副議長であった現美濃鎮長鍾紹恢、現林園郷長張
1998/5/13
美麗の 4 年前の贈賄罪の刑期が確定しだい、二人を停職処分にするよう省政府
に求める。
六堆(高雄と屏東にまたがる台湾南部の客家居住地区)の客家住民が屏東県高
1998/5/23
樹の恩公廟での催し物の席上で、六堆ダム建設反対義勇軍を結成、美濃ダム建
設反対運動に参加する。
高雄県政府、前高雄県議会正副議長であった現美濃鎮長鍾紹恢、現林園郷長張
1998/5/27
美麗の 4 年前の贈賄罪に関して、高雄分院の二審判決を得る。省県自治法の規
定では、判決書が出た時点で二人を停職処分にできるが、余政憲県長は三審判
決が出るまで待つと二人を停職処分にせず。
美濃ダム建設推進派の高雄市長呉敦義と美濃ダム建設反対派の高雄県長余政
1998/5/28
憲が自来水公司第七区管理処で初めて美濃ダムの件で会談。台湾省長宋楚瑜も
同席。
1998/5/29
1998/5/31
1998/6/5
1998/6/15
美濃小学校の創立 99 周年文化祭。美濃の各学校の校長のほか、高雄県長機要
秘書、地元出身県議員の張乾徳、李雲廷も出席。
民進党の後援会組織を中心メンバーとする美濃ダム建設反対大聯盟が美濃中
学校で設立大会を行う。
農会監事で元県議員の劉誌来が死去。享年 85 歳。
政府水利関係機関は、濱南工業区の工業用水は毎日 30 万トン必要で、現在の
供給量では間に合わないと説明。
美濃住民および台南住民 100 名近くが 4 台の貸し切りバスで台北の環境保護
1998/6/15
署に乗りつけ、濱南工業区の工業用水の審査会の会場外で、美濃ダムの水の用
途は濱南工業区のための工業用水だとしてデモを開催。
すでに実刑判決を受けている美濃鎮長鍾紹恢を停職処分にしていないのを不
1998/6/17
満として、美濃鎮民代表 11 名を含む約 100 名の住民が県政府に抗議。県政府
は内政部の公文書が下り次第停職処分にすると説明。
196
1998/6/18
美濃ダムのダムサイトを擁する美濃鎮広林里長がダム建設反対を訴える。
「条
件付き建設賛成」という考えは退ける。
美濃鎮農会総幹事羅兆洪、農会の米穀乾燥をめぐる公害事件で鎮民代表の張聡
1998/6
錦、劉徳仁を訴える。劉徳仁の兄である劉順仁は羅兆洪を傷害罪で訴えており、
その報復とみられる。
1998/6/20
世新大学新聞系主任劉新白が美濃鎮長鍾紹恢を訪れ、地方エリートの美濃ダム
建設に対する聞き取りを行う。
高雄県政府民政局長余添勇、内政部から現美濃鎮長鍾紹恢、現林園郷長張美麗
1998/6/23
の贈賄罪について停職処分にすべしとの指示を得たため、これを直ちに実行す
る考えを発表。
テレビ局の民視が「美濃ダムと水資源」と称する座談会を美濃小学校で開催。
1998/6/27
会場内外に 2,000 人余りの住民が集まる。経済部水資源局長の徐享崑は招聘を
受けるも、安全を理由に欠席。
1998/6/30
1998/7/1
1998/7/14
前美濃鎮長鍾新財、新党の不分区(比例代表区)立法委員候補第四位に列せられ
ていることが報じられる。
経済部水資源局は旗山製糖工場内に「南部水資源開発協調センター」を設立、
ダム建設の推進をめざす。
美濃鎮農会、理事会を開く。席上で同農会の貸し倒れ金が 6 億 5 千万元にの
ぼることが発覚。
経済部水資源局副局長金紹興、来年度の予算編成で美濃ダム建設予算を復活さ
1998/7/14
せると明言。今年中に住民への説明を図り、住民の過半数の支持を得て建設す
る考えを示す。
1998/7/17
嘉義の梅山で大地震がおき、瑞峰ダムの安全が問題にされる。
省議員鍾紹和の陳情により、省政府旅遊局、水利処、環保処、住都処などの機
1998/7
関から合計 1 億 9 千万元の補助金が県政府の各下部機関におりる。美濃の中
正湖整備のため。
1998/7/27
1998/7/27
1998/8/9
美濃愛郷協進会と美濃反ダム大聯盟が合同で記者会見を開き、瑞峰ダムの安全
性に関する議論を受けて美濃ダムの安全性を疑問視する。
まちなみ保存を研究する東京大学工学部の西村幸夫教授が美濃を訪れる。
第 4 回黄蝶祭が開催される。高雄県長余政憲、屏東県長蘇嘉全と美濃愛郷協進
会理事長鍾鉄民が合同で主催者となる。
余政憲県長、新たに県の古跡を 6 ヶ所指定。橋頭製糖工場、竹寮取水站、旗山
1998/8/10
鎮農会、龍肚里社真官伯公、九 芎林社貞官伯公の6 ヶ所。古跡の増加には一件
につき約 2、300 万の予算が必要。
197
1996 年末から 1997 年にかけて、農会選挙で贈収賄の疑いがあった前美濃鎮
1998/8
理事長鍾炳珍、前省議員鍾得珍、同夫人沈銀香らについて、高雄地検が捜査を
終了し、農会法違反で 36 名を起訴。同様の農会幹部汚職は高雄県鳳山でも発
生。
1998/8/15
1998/8/18
1998/8/19
1998/8/20
1998/8/21
美濃鎮長鍾紹恢、鎮長選挙の票の数え直し(験票)の結果、傅瑞智より 8 票では
なく 7 票多かったことが判明。ほかに問題票 7 票が存在。
内政部から高雄県政府に美濃鎮長鍾紹恢の停職処分を命じる通達が下り、鍾紹
恢は高雄県議員時代の贈賄罪で鎮長を停職になる。
美濃鎮長鍾紹恢の停職に対し、美濃鎮内 13 の里長が抗議。
美濃鎮長鍾紹恢、県政府から停職の命令を受けるも、多額の負債の引き継ぎが
完了していないことを理由に、辞職を拒否。
美濃鎮長鍾紹恢と林園郷長張美麗、県政府から停職命令を受けたことに対し、
千人の支持者を率いて県政府に抗議。
台湾省政府、美濃鎮長鍾紹恢の停職令について内政部が説明不足であると指摘
1998/8/21
し、再度の説明を内政部に求めたと高雄県政府に通知。同様の事件が他の県で
もおきているにもかかわらず、高雄県政府のみが停職令を下したため。
美濃鎮長鍾紹恢の停職令に反対する鍾の支持者が鎮公所の前で代理鎮長の登
1998/8/24
庁を阻止しようとして、警察と衝突する。支持者は鍾の停職が高雄県長余政憲
の陰謀であると批判。
1998/8/25
1998/8/25
1998/8/26
内政部、省政府民政庁に法的権限にもとづいて停職を執行するべきだと回答。
内政部と省政府民政庁が責任を押し付けあう中、美濃鎮長鍾紹恢と代理鎮長黄
傅殷が同時に出勤。
経済部水資源局、
「親水知性之旅」と称する曾文ダムの見学ツアーを実施、ダ
ム建設反対派からばらまきであるとの批判を受ける。
経済部水資源局、大量の自転車や「おみやげ」を用意し、美濃ダム説明会を開
1998/8/30
催。反ダム大聯盟から「ばらまき」と批判を受ける。経済部水資源局は引き続
き住民への説明を続けると発表。
1998/9/3
高雄県長余政憲、県政府農業局の報告にもとづき、起訴されている鍾炳珍ら美
濃鎮農会の反対派理事ら31名を停職処分にすることに同意。
美濃客家文物館の委託経営について鎮公所で会議が開かれる。美濃週刊発行人
1998/9/4
の黄森松が、経営委託は美濃愛郷協進会のみに委託しようとしていると批判
し、委託団体選定作業の透明化を求める。
1998/9/4
反ダム大聯盟のメンバーを中心とする 800 名が端山の水資源開発協調中心に
赴き、経済部水資源局のばらまきや買収工作を批判。
198
高雄県地方法院、1998 年1月 24 日の鎮長選挙で落選した傅瑞智が提出した
1998/9/7
問題票を検査した結果、鍾紹恢の得票が傅より3票多いとの判決を下す。これ
により鍾紹恢の当選が確定する。
1998/9/9
1998/9/12
美濃ダム建設を推進する「美濃発展協会」がダム建設反対派を批判する新聞折
り込みチラシをまく。
反ダム大聯盟、美濃鎮公所前で「土地保護、声明保護宣誓大会」を開催、1000
人余の美濃住民が参加。
美濃鎮に合法のごみ処分場がないため、鎮公所が鎮内金瓜寮地区にショベルカ
1998/9/12
ーでごみ処分場を建設しようとしたのにたいし、付近住民がこれに抗議し、代
理鎮長黄傅殷に工事現場で作業停止を命じさせる。
反ダム大聯盟と美濃愛郷協進会が美濃住民 500 人余りを動員して、高雄市長
1998/10/24
選挙の国民党候補であった呉敦義に美濃ダムに対する立場を表明するよう迫
る。
全台湾各地の美濃同郷会、来る立法委員選挙で高雄県第一選挙区からは鍾紹和
1998/11
を支持すると発表する。1980 年の立法委員増加定員選挙で叔父の鍾栄吉が当
選して以来の団結した選挙になる。
1998/11/21
1998/11/27
1998/12/3
1998/12/22
高雄市の美濃同郷会、高雄市選挙区から出馬する新党候補林郁方の支持を表
明。
国民党主席で総統の李登輝、立法委員候補の鍾紹和の応援に駆けつける。鍾は
台上で李にダム建設反対の嘆願書を手渡す。
美濃から立法委員に立候補する鍾紹和、旗山地区で 60 台あまりの車を率いて
支援を訴える。
経済部水資源局、美濃ダムについて説明する「美濃ダム展示館」を美濃鎮公所
付近に開館させる。
台湾大学土木系教授徐年盛、高雄市長謝長廷が美濃ダム建設反対を表明してい
1999/1/16
ることについて、中華水資源管理学会の主催する水問題シンポジウムで高雄市
が 2006 年に水不足になることを指摘、美濃ダム建設の必要性を主張する。
高雄県長余政憲、公開の場で水資源局を批判、美濃ダムの水は台南の濱南工業
1999/1/19
区と屏東の第八ナフサプラント建設のための工業用水であると断言。これによ
り、高雄市、高雄県、屏東県の 3 首長がダム建設反対を表明したことになり、
経済部水資源局は大きな挑戦を受ける。
嘉義市を管理区域に含む第五河川局、計画中の経済部水資源局主催の美濃ダム
1999/1/22
建設推進のための 7 県市長座談会で、嘉義市長張博雅に嘉義地区の水は高雄に
提供しないと発言して美濃ダム建設の必要性を説くよう依頼するが、張は「美
濃ダムの建設は水資源の枯渇を招き、本末転倒である」とこれを拒否。
199
美濃鎮長鍾紹恢の復職を命じる公文書が鎮公所に届く。これを待って、公共工
1999/1/29
事の費用が未払いになっている建設業者などが支払いの催促のため鎮公所に
続々と訪れる。
1999/1/31
1999/2/1
1999/2/10
高雄県、高雄市、屏東県の首長が合同で 6 項目の提案を提出、その中で美濃ダ
ム建設反対を合同で表明。
美濃鎮長鍾紹恢と林園郷長張美麗が復職。1 月 25 日に発効した地方制度法第
78 条第 2 項にもとづく。
民進党の 2000 年総統選挙候補であった陳水扁が「学習之旅」と称して美濃を
訪れ、美濃ダム建設停止を公約とする。
経済部水資源局長徐享崑、経済部水資源局の新年会の席上で美濃ダム建設を今
1999/2/23
年度の四大工作目標の一つとすることを発表。また、美濃ダム建設費用の 10%
にあたる 60 億元を地元への補償金とすることを発表。これは第四原発の補償
金率と同率。
1999/2/24
1999/2/26
経済部水資源局、中山大学水資源研究中心に委託していた美濃ダムの段階性評
価報告が暴露され、経済部水資源局と公安人員の緊張が高まる。
美濃鎮農会会員代表大会が開かれる。理事や農会会員代表ら反対派 31 名が停
職処分にあったため、61 席のうち 34 席の議席で開会される。
美濃鎮長鍾紹恢、記者会見を開き、美濃鎮公所が破綻の危機に瀕していると行
1999/3/1
政院主計処が発表したことについて、主計処から人員を派遣して赤字の整理に
あたることを希望する考えを示す。美濃鎮公所の財政破綻について、県政府は
美濃鎮公所を助ける余裕はないとの考え。
美濃鎮長鍾紹恢、鎮公所で開催した主管報告で「債務清理小組」を成立させる。
招集者に秘書の鍾平祥、メンバーに財政課長鍾森棟、主計主任鄭明鴻、政風室
1999/3/3
主任羅進栄、人事主任傅清星、前秘書で現農業課長の童発祥。債務返済のため、
これまで 5 回競売にかけて買い手のつかない旧鎮公所を再び売りに出すこと
を決定。
高雄地検、前美濃鎮農会理事長鍾炳珍、総幹事李進棟、信用部主任羅建勇、預
1999/3
金業務職員宋永蒸、土地鑑定職員曾秀香ら 5 名を 1994 年に不正な手続きで
8000 万元の融資を行ったとして背信罪で起訴。
1999/3/8
前省議員鍾徳珍の告別式が美濃中学校で行われる。享年 53 歳。
美濃反ダム大聯盟、経済部水資源局の開いた「美濃ダム展示センター」が違法
1999/3/9
建築であるとして県政府に審査および撤去を要求したのが認められ、県政府は
同センターに 12 日から撤去作業を始めると通告。
1999/3/12
1999/3
県政府、経済部水資源局が自ら「美濃ダム展示センター」を撤去したため、県
政府による撤去作業は不要であると発表。
経済部水資源局長徐享崑が、美濃ダム建設の必要性を訴えて全台湾を行脚。
200
高雄市の中山大学水資源研究中心で「南部水資源代替案座談会」が開催される。
1999/3/26
美濃ダムの代替案についての議論が水資源工学の研究者を中心にていきされ
る。
1999/3/26
美濃鎮農会総幹事羅兆洪、1991 年に発覚した備蓄公米の不足が解消されたと
発表。
8 月に行われる4年ぶりの選挙をにらんで、菸葉改進社の選挙活動が本格化す
1999/4
る。屏東分社社長の林作崙が2期の任期を満了するため、李容通、林宜真の新
顔2名が激しい選挙戦を展開する。
美濃ダム建設予算の 10%にあたる 6 億元の補償金が交付されることに対し、
1999/4
北部の新竹県に計画中の宝山第二ダムで補償金の話が出ていないのは不公平
だとして、ダムサイトから不満が噴出する。
美濃反ダム大聯盟と美濃愛郷協進会は合同で立法院で記者会見を開催、美濃住
1999/4/2
民のダム建設反対の民意を全国に向けて訴える。このときに、美濃住民の 72%
を集めたダム建設反対の署名を公開。
1999/4/3
1999/4/3
1999/4/12
全国の客家の著名人と美濃の民衆約 500 名が美濃の広善堂で美濃ダム建設停
止を誓うイベントを開催。
経済部関係者が、2000 年度の予算に 2 億 5 千万元の美濃ダム建設前期工程予
算を計上したとメディアに明かす。
美濃ちく 15 の人民団体が県政府で余政憲県長を訪問、34238 名の美濃住民の
ダム建設反対の署名を手渡す。
中山大学水資源研究中心が美濃ダム建設に関する座談会を開く。経済部水資源
1999/4/13
局の美濃ダム建設推進宣伝が白熱化、対するダム建設反対派も応戦しているの
を受けての開催。
1999/4/15
1999/4/16
1999/4/16
高雄県、高雄市、屏東県の首長が行政院長蕭万長を訪れ、改めて美濃ダム建設
反対の意思を伝える。
陸軍第八軍団司令安家鈺、美濃鎮長鍾紹恢を訪問。軍と地方の関係強化のため。
経済部水資源局、美濃ダム建設反対団体が集めた 7 割の住民が美濃ダム建設に
反対という数字は本物の民意ではないという声明を発表。
高雄県立文化中心が 5 月 22 日から 8 日間にわたって「美濃客家板条節」を開
1999/4/17
催するにあたり、美濃愛郷協進会に相談。これに対し元県立文化中心主任で県
議員の黄国銘が高雄県立文化中心の能力が低いと批判。
清水宮の取り壊しに関し、六堆の地元名士らが反対を表明していたが、廟管理
1999/4
委員会が、築 60 年の同宮が古跡に列せられるはずはないと判断し、取り壊し
を決定。
201
美濃ダム建設に反対する住民が 15 台、屏東からは3台の貸し切りバスで北上
1999/4/19
し、美濃ダム建設反対運動の中で最大のデモ動員を行う。しかし水資源局は強
硬姿勢を崩さず、19 台の貸し切りバスで応戦。鎮内 19 里のうち 10 の里長が
ダム建設賛成。
1999/4/20
1980 年代から新竹の反公害運動に関わってきた清華大学社会学研究所の呉泉
源が美濃ダム計画を専門家のみで決める閉鎖性を『中国時報』への投書で批判。
美濃ダム建設に反対する住民が、美濃鎮公所に赴き、美濃ダム建設に賛成した
1999/4/21
里長に抗議する。その中で福安里長の李発明(後の行政院客家委員会李永得の
父)と口論になり、衝突がおきる。
高雄高分院、美濃鎮長選挙の票が 3 票と僅差であったことから、落選した傅瑞
1999/4/27
智が選挙の無効を訴える上告を棄却、これにより鍾紹恢の鎮長選挙当選が決定
される。
1999/4/27
美濃反ダム大聯盟のメンバーら 100 人近くが旗山糖廠内にある経済部水資源
局南部協調中心を訪れ、お祓いをして抗議の意を示す。
美濃住民が 2 台の貸し切りバスで北上し、立法院の前で見守る中、立法院経済
委員会は表決の結果、美濃ダム建設予算の 2 億 5 千万元を全部削除。これに
1999/4/29
対し、ダム建設を推進する美濃発展協会は反発、ダム建設反対を訴える 10 数
個の民間団体は国民党上層部に水資源局らが李登輝総統の意志に反してダム
建設を進めていると訴える。
立法院で美濃ダム建設予算の 2 億 5 千万元が削除されたのを受けて、中山大
1999/4/30
学で「美濃ダムが社会経済に与える影響」と題したシンポジウムが開催される。
ダム建設推進派、反対派は席上で平行線をたどる。
立法院で美濃ダム建設予算の 2 億 5 千万元が削除されたのを受けて、民進党
1999/5
籍の台南県長陳唐山や台南県議員が「美濃ダムがなければ県内に建設予定の台
南科学園区や濱南工業区の工業用水がまかなえない」と不満を表明。
5 月に完成を予定していた美濃の小型ごみ焼却炉の建設が遅れ、8 月に完工予
定となる。焼却炉の建設計画を落札した日友公司の購買した土地が河川敷の河
川流域(「行水区」)にあったため、環境アセスを通過できなかったが、日友公
1999/5
司の陳情により、省政府水利処が流水域の境界線を同公司の購買した土地の内
側に設定し、当地の焼却炉建設を合法としたため。一日あたりのごみ処理量は
100 トン、1 トンあたりの処理費は 3710 元、そのうち環境保護関係の政府機
関から 3100 元の補助金が出て、鎮公所は残りの 610 元を負担する仕組み。鎮
公所の負担する費用は一年あたり約 1000 万元。
竹門発電所が 90 周年を迎える。同発電所が 1992 年 5 月に三級古跡に指定さ
1999/5/1
れたため、台湾電力は建て替えの計画を全面変更して、極力元の状態を保存す
る方向に変更する。
202
美濃反ダム大聯盟、美濃発展協会が美濃反ダム大聯盟が民意を圧迫しているな
1999/5/7
どと批判したことに対し、同協会が政府に登記していないとして同協会の前で
抗議、生玉子や油、葬式の紙などを投げつける。
国民党が動員令を出して、立法院委員会の中で美濃ダム建設予算 2 億 5 千万
1999/5/10
元の復活を狙う。これに対し、美濃出身で国民党の立法委員鍾紹和は予算が削
除されるよう奔走する。
行政院長蕭万長、台南県市長や地元立法委員が経済発展のために建設を要望し
1999/5/12
ている台南科学工業園区の特定区面積を 3299ha に拡大することに同意。しか
し、台南県政府は美濃ダムで工業用水を供給する計画を策定しているため、水
不足が課題となる。
美濃鎮民代表会、1999 年下半期および 2000 年度の鎮予算を通過させる。予
1999/5/13
算成立反対派が 6 席と賛成派5席に対し多数を占めたため、予算総額の 55%
にあたる 2 億 9465 万元を削除もしくは凍結させる。
中央研究院院士許靖華、美濃ダム建設予定地を訪問、ダム建設は「石器時代」
1999/5/14
の思考だと批判し、自らが 1998 年 11 月に開発した地下水ダムの技術を美濃
ダムの代替案として提示する。
山文教基金会が主催する「水はどこから来るのか」座談会が高雄市の霖園飯店
1999/5/16
で行われる。経済部水資源局、高雄県市、台南県、屏東県政府の代表、水利工
学の研究者らが参加し、水不足を解決するための方法を議論する。
立法院で 1999 年下半期および 2000 年度の中央政府総予算の削減を与野党で
1999/5/19
協議する。行政部門は美濃ダムの予算など 28 億 4 千万元の復活をめざすが、
300 億元の予算削減をめざす民進党と衝突し、平行線に終わる。
1999/5/21
環球電視台と新新聞が山水民意調査会社に委託して調査した結果、高雄市民の
61%が美濃ダム建設を支持しているとの結果が出る。
1999 年高雄文化節が美濃で始まる。企画に美濃愛郷協進会が参加。美濃客家
1999/5/22-30 板条まつりのほか、葉たばこ展示館、客家新民謡大会、伝統音楽の八音大会、
右堆の昔話語り会、米食文化など一連のイベントが開催される。
美濃反ダム大聯盟事務所で、ダムサイトである広興地区の住民が「反ダム保護
1999/5/27
家園自衛隊」を結成、水資源局がダム建設を開始したら最も原始的な方法で抗
議すると宣言。
国民党、一度は削除された美濃ダム建設費用の予算案を再び立法院で強行通過
1999/5/28
させる。美濃人は再三貸し切りバスで北上し、ダム建設反対を請願するも、成
功せず、徹底抗戦を誓う。
1999/5/29
28 日に立法院で美濃ダム建設予算が復活したことについて、高雄県長余政憲、
屏東県政府が反対を表明する。美濃反ダム大聯盟は徹底抗戦の構え。
203
1999/5/31
美濃に隣接し、上流に堰建設の計画がある六亀郷新威地区 4 村の住民が、新威
聖君廟で堰建設反対決起集会を開催、美濃反ダム大聯盟も応援にかけつける。
葉たばこの当年度売り渡しが終了したのを機に、菸葉改進社の選挙活動が白熱
1999/6 月初
化する。屏東分社社長の林作崙が2期の任期を満了するため、李容通、林宜真
の新顔2名が激しい選挙戦を展開する。
1999/6/1
水利処が美濃出身の宋国城に委託して行った「美濃ダム地質構造特性研究」が
完成、美濃ダムのダムサイトに活断層があることが判明する。
美濃ダム建設をめぐって宋楚瑜と連戦の意見が対立していることについて、経
1999/6/2
済部水資源局長徐享崑、国民党中央常務委員会で演説を行う。連戦が台湾省主
席、行政院長、副総統の時代に 4 つのダムが完成したと連戦の業績を称賛し、
暗に宋楚瑜を批判。
1999/6/3
1999/6/4
美濃ダム建設をめぐって、美濃出身で国民党籍の高雄県議員李雲廷が経済部長
を批判、美濃人は客家票を結集して国民党に叛旗を翻すと宣言。
前民進党主席許信良、美濃を訪れ美濃ダム建設徹底反対を美濃反ダム大聯盟に
約束する。
経済部水資源局長徐享崑、中国時報からの取材で台湾南部の水不足解消のため
1999/6/5
に美濃ダム建設が必要との考えを改めて表明し、ダムが美濃人民の福祉向上に
も貢献すると強調。
高雄市美濃同郷会、美濃小学校で 100 卓を並べてダム建設反対運動参加者の
1999/6/5
慰労会を行う。中には席上でダム建設を推進する国民党からの退党手続きを行
った人も。
1999/6/6
1999/6/12
第 5 回黄蝶祭が開催される。民進党主席、総統候補の陳水扁も参加、ダム建設
反対を表明。美濃ダム建設が総統選挙の争点の一つとなる。
美濃反ダム大聯盟会長の鍾国華が疲労を理由に辞任。
屏東県政府機要秘書、民進党の県議員、立法委員曹啓鴻ら屏東の未来に関心を
1999/6/12
持つグループが美濃反ダム大聯盟を訪れ、美濃ダム建設は屏東の発展にも害を
及ぼすと表明、屏東の美濃ダム建設反対運動への協力を宣言。
1999/6/13
美濃鳳山同郷会がダムサイト付近でダム建設反対キャンプを開催し、テントを
張って一夜を過ごす。
美濃鎮長、5 月 13 日に通過した予算案で鎮公所の運営に関わる予算が削られ
1999/6/17
たため、地方制度法第39条にもとづいて、主計室に代表会への「覆審」を要
求。
山文教基金会が主催する「水はどこから来るのか -美濃ダム問題座談会」が台
1999/6/22
南市の成功大学で行われる。成功大学土木系教授蔡長泰、周乃昉、台南市社区
大学籌備会主任林孝信、南区水資源局副局長頼伯勲、台南県政府建設局工業課
長方進呈らが出席。席上林孝信が美濃の客家文化を守るためにダムは造るべき
204
でないと発言。
1999/6 月末
8 月末に完成予定の美濃小型ごみ焼却炉完成を前に、金瓜寮地区のごみ埋設処
分場が満杯になり、処分できないゴミの処理方法が問題になる。
農漁業法改正案が立法院で可決されたのを受けて、美濃鎮農会で停職処分を受
1999/7/2
けた30余名の人員が復職を高雄県政府農業局に申請するも、同局は県長の不
在を理由にこれを受理せず。全国では 200 名余の人員が復職を申請。
1999/7/3
1999/7/7
美濃反ダム大聯盟会長の引き継ぎ式が開催される。新会長に美濃長老教会牧師
の黄徳清。
高雄県市長、屏東県長が行政院副院長劉兆玄を訪れ、高屏溪の治水、美濃ダム
建設反対などについて会談する。
経済部長王志剛、台中の中興新村を視察、美濃ダム建設は既定路線であると強
1999/7/9
調。美濃ダムは省政府水利処が省政府凍結のため経済部に合併されてから初め
ての大工事となると発言。
1999/7/20
美濃鎮公所、主管報告で財政節約のため 8 月 1 日から鎮公所内の冷房を切る、
新聞の購読中止などを決定。
経済部水利処長黄金山、高雄県政府に県長余政憲を訪れ、高屏溪の流域管理や
1999/7/21
水資源開発について意見交換。黄は美濃ダムについて引き続き地元住民への説
明を行うと発言。
台湾初の客家事務委員会が高雄県政府内に成立する。委員会の活動目的は客家
1999/7/28
文化の保存と発揚。初代主任委員に美濃出身で美濃愛郷協進会名誉理事長の鍾
鉄民。
高雄地方法院、美濃鎮農会第 13 期理事、監事および農会代表選挙で贈収賄罪
1999/8
の罪に問われ起訴された 36 名について、参選前の行為であるため、農会法の
罰則規定に抵触しないとして、無罪判決を言い渡す。
行政院長蕭万長、行政院で「飲用水管理条例」の修正草案を議論した席で、台
1999/8/12
北市の上水道管理方式に合わせて、高雄市の上水道を同市政府の自己管理にす
る方式に変えることに同意。この措置が美濃ダム建設推進の助けとなるという
考えを示す。
1999/8/23
1999/9
1999/9/14
美濃出身の高雄県議員張乾徳が、留守中に自宅のそばに駐車していた車を銃撃
される。
美濃愛郷協進会、夏休みに開催した第二期客家八音研習班の成果発表会を開
始。
旧美濃鎮公所、競売が 8 度目の流局。
205
美濃鎮民代表会、臨時会議を開き、1999 年下半期および 2000 年度予算を再
1999/9/20
審議する。すでに代表の間で和解が得られていたため、15 分で通過。歳出入
それぞれ 5 億 8600 万元。
1999/9/20
1999/10/1
美濃鎮民代表会で通過した予算案のうち、県政府が 2 億 4 千万元を凍結する
行政命令を出す。
美濃鎮長鍾紹恢、茂林風景区の範囲に美濃を入れるよう交渉するため、同風景
区管理所長の方正光と会食。
1993 年に発生した美濃鎮農会の備蓄米持ち逃げ事件で有罪判決を受け、現在
1999/10
上告中の供銷部主任劉逢清が、1999 年 6 月 30 日の農会法改正を受けて復職
を同鎮農会に申請したが、農会は内政部の解釈を根拠にこれを拒否。
1999/10/26
1999/11/9
1999/11/14
立法委員の楊秋興が美濃に自転車用遊歩道を設置する計画を実現するため、現
地を視察。
高雄県議員黄国銘が、美濃客家文物館の設計が談合であったと批判したのに対
し、県立文化中心が反論、両者の争いが白熱化する。
高雄と美濃の隣町旗山を結ぶ全長 33 キロの 10 号高速道路が開通。これによ
り美濃から高雄市内へのアクセスが 1 時間弱となる。
行政院政務委員鍾栄吉、総統選の支持対象をめぐって対立している鍾紹恢鎮
1999/11/21
長、鍾紹和立法委員の和解を図るため美濃に帰郷。鍾紹和は宋楚瑜を支持、鍾
紹恢は予算を手配してもらった関係で態度を表明せず。
1999/12
1999/12/3
1999/12/6
交通部観光局、茂林風景区の範囲を美濃の一部分までに広げる予定と発表。観
光開発のために範囲加入を希望していた屏東県は加入させず。
交通部工程司、月光山トンネルの工程評価会を行い、2000 年の完成予定を
2001 年 8 月 22 日に延長する。
1999 年の921大地震や美濃愛郷協進会がインターネットを用いて社会運動
を行う様子が中国時報で報道される。
環境アセス委員会は条件付で濱南工業区建設案を通過させる。工業用水は企業
1999/12/15
が自前で調達すること、工業用水のための海水淡水化工場は別に環境アセスを
行うことが明記される。
2000/2/24
2000/3/14
2000/3/18
2000/4/26
2000/5/17
政務委員鍾栄吉、国民党を退党、総統選挙で宋楚瑜への支持を表明する。
第三回国際反ダムデー、美濃愛郷協進会など台湾南部の環境保護団体が美濃に
集結し、全世界のダム建設停止を呼びかける。
総統選挙で陳水扁(民進党)が、宋楚瑜(親民党)と連戦(国民党)を接戦の末当選。
環境保護団体が環境保護署に濱南工業区建設案の通過を抗議、会場で政権交代
前に建設案が通過するのを阻止することに成功する。
10 名の監察委員が南下して、畜産業の停止が高屏溪の水質改善に与える影響
や実施上の困難を視察する。
206
高屏溪の支流である旗山溪で、昇利廃棄物会社が有機溶剤などの廃棄物を垂れ
2000/7/13
流したため、水質汚染がおこり、下流の高雄市住民の生活用水に著しい困難を
きたす。
2000/8/3-15
2000/8/6
2000/8/9-10
2000/8/27
美濃獅山里の反焼却炉自救会と各コミュニティ団体が撤去を求めて焼却炉の
囲い込みを行う。
民進党の陳水扁総統が南部視察の際、自分の任期内に美濃ダムは建設しないこ
とを宣言。
第6回黄蝶祭が開催される。開催地を黄蝶翠谷から美濃鎮全体に拡大。
美濃と屏東県高樹郷を結ぶ高屏橋が断裂、17 台の車が橋から落下する。断裂
の原因は河川の改道。他にも同じ河川内で 22 座の橋が断裂。
出典:施信民(2006:757-770)に筆者が『中国時報』『月光山雑誌』にもとづいて
加筆
207
美濃年表(2001-2010)
年月日
2001/3/1
2001/3/3
2001/3/31
できごと
美濃鎮農会代表および理事選挙が行われ、理事長に朱信強、常務監事に張卓
欽、総幹事に邱肇鴻を選出。
美濃愛郷協進会の関係者を母体として、旗美社区大学が旗美高中に設立され
る。主任に鍾鉄民、副主任に張正揚。
準備期間 2 年ののち、美濃出身の博士取得者をメンバーとする博士学人協会
成立大会が広善堂で行われる。初代会長に呉其聡博士(同年 9 月に死去)。
2001/4/27
客家文物館が美濃で開館。陳水扁総統も開館式に臨席。
2001/6/3
美濃自転車協会が成立。初代会長に傅炳明医師。
2001/12/1
2002/1/1
立法委員選挙が行われ、美濃出身者では鍾紹和、鍾栄吉、林郁方(台北市)、
傅崑萁(花蓮県)が当選。
台湾、WTO に加盟。これに伴い葉タバコの全量買取制度や専売制度も廃止
される。
鎮長選挙、県議員選挙が行われる。鍾新財、張聡錦、傅瑞智を退けて立法委
2002/1/26
員鍾紹和、鍾栄吉の支援を受けて鍾紹恢が鎮長に当選。県議員は県内 6 議席
のうち張乾徳、李鴻鈞が美濃から当選。
美濃愛郷協進会、フィリピンのバギオで行われた第二回「東アジアおよび東
2002/2/20-23
南 ア ジ ア の 河 川 を 守 る 会 」 (Rivers Watch East and Southeast Asia:
RWESA)会議に出席。
2002/2/23
2002/4/4
2002/4
2002/5/5
2002/5/14
2002/6/8
美濃と杉林郷を結ぶ月光山トンネル(全長約 1.6 キロ)が開通。総工費 8 億 3
千万元。同月 7 日の開通式には陳水扁総統も臨席。
鎮民代表張聡錦、吉洋里長徐進金が行政院に吉洋地区における違法の土砂採
掘停止を求めて陳情、行政院長の游錫堃が現場を視察する。
美濃渓第七期治水行程の早期完成を求めて黄光雄、林範芳、陳美金、羅桂殊
らが経済部水資源局水利処に陳情。
第一回水利会長直接選挙で盧榮祥が水利会長に当選。
美濃ダム建設計画の代替案といわれた「吉洋人口湖」建設計画の公聴会が旗
山で行われる。
鎮民代表および里長選挙がおこなわれる。
美濃鎮農会の邱肇鴻総幹事、2002 年 1 月 1 日の台湾 WTO 加入を受けて、
2002/7
良質米の推進を発表。いくつかの「良質米」の指定を受けた品種のうち、高
雄区改良場が美濃の風土に適した品種「台粳二號」(台湾うるち米二号)を選
ぶ。
2002/7/21
美濃出身の作家呉錦発、高雄市議員選挙に出馬、選挙事務所を開く。
208
美濃鎮農会、美濃の良質米「美農米」の試食会を開催、県政府の補助金を受
2002/8/9
けながら正式に良質米の推進を開始。50 ヘクタールの契約栽培。美濃出身
者を「最良の消費者かつ広告」と位置付ける。試食会には立法委員鍾紹和、
楊秋興高雄県長も出席。
2002/9/6
財政部が農会、漁会信用部の預金引き出し業務の制限を命じたことについ
て、美濃鎮農会理事会が以前通り引き出し業務を行うことを決定する。
吉洋、吉東、吉和の 3 地区で「吉洋人工湖」計画の説明会が開催される。土
2002/10/23
壌改良のために台湾製糖の土地の土砂を掘り、かわりに良質の土壌を美濃に
運び込む計画。3 地区の農民は協議の結果、同計画の誘致を決定。
3 年間美濃で違法操業され、周囲の環境を汚染してきた日友焼却炉の撤去を
2002/10/31
めぐり、美濃環境保護連盟が全国環境保護会議および台湾反焼却炉連盟第二
回大会を美濃に誘致する。
2002/11/1
2002/1/21
2003/1/26
2003/3/29
2003/4
2003/5
美濃愛郷協進会の総幹事張正揚が辞職、温仲良が新たに就任。
美濃出身の立法委員鍾紹和が財政部に陳情を行い、
「台財庫字 0910073808」
の公式文書によって葉タバコの全量買取制度が存続。
美濃愛郷協進会、第一回美濃 菸葉紀を開催、美濃の葉タバコ栽培にかんする
歴史や建築の展示や葉タバコ乾燥小屋のサイクリングを行う。
美濃のコミュニティ新聞『月光山雑誌』が創立 20 周年を迎える。
農業委員会が 1 千万元を補助する 2003 年度観光農漁園区建設計画の審査
で、県内で美濃鎮農会の計画が第一位を取得。
地域経済振興のために 1 年単位で交付される行政院の「拡大公共建設振興経
済暫行条例」で美濃は県内の 27 郷鎮市中第 4 位の金額。3165.21 千万元。
土地銀行美濃支店の邱耀光、1993 年に建てた美濃鎮公所新庁舎の融資 4500
2003/7
万元と 96 年の追加融資 1508 万元(利息 37%)の早期返還を求めて鎮公所主
任秘書、財政課長、民政課長と協議を行う。美濃鎮公所は財政悪化のため、
2000 年 11 月 11 日から利息を払えなくなり、7774 万元の負債を抱えていた。
行政院長游錫堃、吉洋人工湖の予定地を視察、名称を吉洋人工湖から高屏大
2003/10/18
湖と改称。総面積 975 ヘクタール、深さ 12m、容量 6500 立米、総工費 158
億元、掘削の過程で 6500 万の土砂を算出できる予定。
2003/11/1
2003/11/2
鎮長鍾紹恢の高雄県議会正副議長の贈収賄罪にともなう辞職を受けて、鎮長
選挙がおこなわれる。羅建徳が当選。
美濃鎮農会、第 14 期常務監事に欠員が出たため、監事会を開き常務監事を
選出、李発明(元福安里里長、行政院客家委員会主任委員李永得の父)が当選。
美濃愛郷協進会、屏東の藍色東港渓保育協会とともにタイのラシサライで行
2003/11/28
われた第三回「東アジアおよび東南アジアの河川を守る会」(Rivers Watch
East and Southeast Asia: RWESA)会議に出席。
209
1995 年以来外国人配偶者向けの中国語教室を行ってきた美濃愛郷協進会の
2003/12/7
関係者が、南洋台湾姉妹会を設立。事務所を美濃鎮内に設置、高雄市婦女館
で成立大会を行う。
2004/2/7
美濃愛郷協進会、美濃山下地区にある宋家の葉タバコ乾燥室の修復プロジェ
クトを行い、
「 菸業教育館」として開館。
羅建徳鎮長、就任3か月で節約政策の下、自転車用歩道の工事費 1800 万元
2004/3
のうち 500 万元を償還、台湾電力への負債を 460 万元償還、その他合わせ
て鎮公所の負債を 1 億 3 千万元から 1 億 2 千万元に減少させる。
2004/6
2004/6
2004/8
2004/8/7
美濃出身の呉錦発、李永得がそれぞれ文化建設委員会副主任委員、客家委員
会主任委員に就任。
鍾栄吉と鍾紹和、台湾 菸酒公司に陳情して葉タバコの全量買取制度を1 年延
長させる。
美濃で違法操業していた日友焼却炉が、美濃民間団体の 4 年にわたる陳情を
受けて撤去される。
美濃の隣町の杉林郷で杉林郷愛郷協進会が成立。理事長に何明賢。
鎮長、鎮民代表、地元NGOや学者の一団が水利会を訪れ、美濃愛郷協進会
2004/8/31
が執行する「文化造鎮」プロジェクトで美濃の用水路文化を発展させるため
に協力を要請する。
2004/8
2004/9/7
2004/10/15-17
全国農会が開催する第一回全国米コンテストが開催される。美濃出身の張金
雄の台湾うるち米 2 号が全国第 3 位に入る。
月光山雑誌創始者の邱智祥が 54 歳で亡くなる。
美濃愛郷協進会、美濃と台北で第四回「東アジアおよび東南アジアの河川を
守る会」(Rivers Watch East and Southeast Asia: RWESA)会議を主催。
美濃出身者に大学および大学院進学者向けの奨学金を出す、美濃出身者邱森
2004/11
曙による「公益信託森満教育基金会」が成立。基金総額 3000 万元。1 年に
2 回、大学院生 5 人、大学生 10 名に奨学金を公布。他の高校生向け、中学
生の低所得者向け奨学金と合わせて、支給総額一年に約 160 万元。
2004/12/8
2004/12/11
2005
台湾青果合作社が旗山で社員小組会議を開催。バナナ農家が合作社の負債増
加を指摘し、破産を要求。
第 6 回立法委員選挙が行われ、美濃出身の鍾紹和が 36400 票という高得票
で当選。
美濃愛郷協進会の進める年間予算約 500 万元の大プロジェクト「文化造鎮」
が本格化。用水路の景観改造などのプロジェクトが開始。
休耕田にコスモスの花を植える景観美化プロジェクト「彩絵大地」が初めて
2005/2
行われる。美濃愛郷協進会が鎮公所名義で農業委員会と県政府の助成金を申
請して実現。多くの観光客が美濃を訪れる。
210
2005/4
2005/6/13-14
2005/7/10
2005/7/17
2005/7/18-9
美濃出身の呉平海の撮影した、美濃の中国人配偶者ドキュメンタリー「謝 婷
與她的歌」が第 27 回東京国際映画祭の優秀賞に選ばれる。
3 日にわたる雨の影響で、美濃の中心部を中心に床下浸水がおこる。
第 5 回月光山森満奨学金の授賞式が行われる。大学生 8 名、大学院生 6 名
にそれぞれ 1 万元、2 万元を公布。
黄蝶祭と合同開催の形で全国米コンテストが美濃で開催。2002年の開始
以来上位につけていた美濃農会が43位中29位という結果に終わる。
台風「海棠」の影響で、美濃の中心部を中心に床下浸水がおこる。鎮内の損
失 1 億 5 千万元。
羅鎮徳鎮長、公約にもとづいて高齢者向けの食事宅配サービスを実施。美濃
2005/8/1
各方面からの寄付金のほか、龍山社区発展協会の名義で 30 万元の補助金を
内政部から獲得、日新合作社と提携してサービスを実施。
アメリカ、シアトルからワシントン大学の都市計画専攻の大学院生 12 名が
2005/7/11-8/5
「美濃田野工作営」に参加、約1ヶ月美濃に滞在して景観改造の計画書を作
成。
2005/10/30
2005/11/6
2005/11/1
2005/12/10
美濃鎮が『天下雑誌』主催のネット投票で「微笑の郷」第一位に選ばれる。
行政院客家委員会、将来的に教職などの加給要素として想定した客家語認証
試験を開始。5 種の客家語試験を実施。
高雄県議員選挙、鎮長選挙が行われる。美濃からは県議員に張乾徳、李鴻鈞
が当選。鎮長に羅建徳が当選。
鍾理和記念館が新装開館。
経済部中小企業南科育成中心の劉馨正主任が日本の OKS 社を連れて、日本
2006/3/26
人リタイア族のロングステイの候補地選び。美濃を訪れる。結局日本人向け
のリゾート建設はならなかったものの、このころから高雄市民などが福安地
区を中心に別荘を次々と建てる。
2006/3/31
2006/5
2006/6/10
2006/6/30
2006/7
2006/9
2006/9/16
美濃愛郷協進会の大プロジェクト「文化造鎮」が終了。
美濃愛郷協進会総幹事の温仲良が協進会を辞任、農会顧問に就任。暫定的に
協進会総幹事は空位に。
里長選挙、および鎮民代表選挙が行われる。
2005 年 8 月 1 日から始まった鎮公所による独居高齢者向けの弁当宅配サー
ビスが経費不足のため終了。
鎮民代表大会臨時大会で栄誉鎮民頒授条例案が通過する。
下庄地区の用水路の壁を斜めにし、親水機能を高める「用水路生活文化環境
営造計画」が始まる。しかし紆余曲折を経て、工事は進まず。
泰安老人デイケア協会が成立、高齢者向けの体操、カラオケ、昼食サービス
を展開。
211
美濃愛郷協進会、文化建設委員会と高雄県文化局の助成金で 菸葉輔導站文化
2006/10, 11
空間調実做課程を実施、菸葉改進社(日本のたばこ耕作組合に相当〉の跡地
調査を行う。同輔導站は国有財産局によって競売にかけられていたが、それ
に反対する形で同調査を開始。
鍾理和文教基金会が約 200 名の大学生を組織して美濃全鎮の文化資源を 1
2006/10/21
年 4 か月にわたって調査した「美濃客庄文化資源普査(センサス)」の成果発
表会が行われる。助成元は客家委員会。
2006/11
2007
白玉小大根(ハツカダイコン)を美濃の特産品として売り出すキャンペーン
を美濃鎮農会が開始。以後毎年開催。
美濃鎮公所がピークで 1 億 6 千万元に達していた負債を返還し終わる。
美濃鎮戸政事務所の資料によると、2006 年の鎮人口が 44,506 人、65 歳以
2007
上の人口が 8,106 人、出生人数が 356 人、過去 10 年で人口が 4,000 人減、
高齢者が 2,676 人増加。
農業委員会、「計画産銷」制度を開始、みかん(柳丁)、バナナ、パパイヤ、
2007
パイナップル、にんにく、たまねぎ、落花生の 7 種について農民が作付面積
を事前に同委員会に登録して値崩れを防いだり、災害時の補償を行えるよう
にする。
2007/1
2007/5/15
2007/6
2007/6/15
2007/7/1
2007/7/10
美濃愛郷協進会の指導のもと、美濃で最も古い土地公(伯公)「開基伯公」の
付近住民が土地公の修復を行う。
屏東県政府、県政府客家事務局長に美濃出身の古秀妃を任命、六堆客家園区
などの業務に当たらせる。
美濃出身で高雄で起業した林耀通が美濃鎮の中心部(敬字亭付近)に月光別
荘を建設し、売り出す。
前鎮長鍾新財が 53 歳で死去。
美濃鎮農会、鎮内の良質米食味コンテストを開催、陳秀徳が優勝。以後、毎
年開催。
美濃パパイヤ產銷班(出荷組合)が第一便のパパイヤ 200 箱を日本に向けて輸
出。国内向けの売値の倍近い 40 元(600 グラムあたり)の値段をつける。
美濃後生会、樹谷基金会の助成金で用水路わきの民家の壁面に壁画を作成。
2007/8
壁画作成にあたり、雲林県台西からサンフランシスコでミューラル作成の経
験がある講師を招聘。
2007/8/1
2007/8/13
2007/8/31
高雄県政府、県民向けの福祉サービスの一環として、65 歳以上の県民のバ
ス料金を無料にする。
集中豪雨で、美濃鎮中心部を中心に浸水。
2001 年の農会理事選挙における不正が発覚し、美濃鎮農会理事長の朱信強
が辞職、9 ヶ月の懲役刑を言い渡される。理事長には代理として林華昌が就
212
任。
2007/9/9
南洋台湾姉妹会、移民署が外国人配偶者の中華民国籍取得要件として財力証
明を入れることに反対して台北でデモを行う。
鎮公所、観光バスを通りやすくするため東門楼そばの道路拡幅計画(予算
2007/10
5400 万元)を発表。個人宅が削られるのと住民のための散歩空間確保を理由
に民間団体が拡幅に反対。
2007/12/12
2008/1/12
立法院で、立法委員林樹山が提案した農業発展条例の初審が通過、農地の商
業地への乱転用を促進するとして農業従事者や学者が激しく反対する。
小選挙区制になってから初めての立法委員選挙が行われ、高雄県旗美選挙区
〈第一選挙区〉から美濃出身の鍾紹和が民進党の顔文章を破って当選する。
博士学人協会の推挙にもとづいて、美濃鎮の栄誉鎮民頒授条例により人類学
2008/1/15
者のマイロン・コーヘンが栄誉鎮民を授与される。鎮公所にて栄誉鎮民授賞
式を行う。
2008/2
2008/3/20
2008/3/21
羅建徳鎮長、旧鎮公所の改修費用 1 億 6 千万元のうち 1 億 4 千万元の補助
金を客家委員会から獲得。
第12回正副総統選挙で国民党候補の馬英九・蕭万長が民進党候補の蘇貞
昌・謝長廷に勝って当選。美濃の得票数はそれぞれ 13476 票、11692 漂。
岐阜県美濃市から岐阜さくらの会のメンバーが美濃鎮公所を訪れ、同会15
周年に合わせて美濃鎮内の中正湖畔に桜の木を植樹する。
美濃出身の企業家、楊富栄が美濃出身の子弟でスポーツや芸術などの成績優
2008/4
秀者に資金を提供する「柯珍玉菁英奨学金」を創設、博士学人協会と月光山
雑誌に運営を委託。
2008/4
美濃出身の画家、曾文忠が紫林宮昇平文教基金会を創設、毎年美濃の各学校
に美術教育のための資金を 10 万元提供。
羅建徳鎮長、前年から新しい河道の用地買収問題で計画が難航している水利
2008/4/24
署第七河川局の美濃渓治水工事(水患整治工程)について、メディアとの討論
会を開催、第七河川局が民意を軽視していると批判。
台湾のWTO加入後利用が廃止され、国有財産局が競売を予定していた美濃
2008/4/25
菸葉輔導站の建造物(1939 年完成)が、高雄県政府文化局から歴史、文化、芸
術価値を有する建造物として同県の歴史的建造物と認定される。
2005 年 5 月に鎮内獅山地区住民が組織した獅山パトロール隊について、鎮
2008/5/8
民代表大会の席上で、数名の代表(議員)がパトロール隊への政府からの助成
を希望する発言を行う。
2008/5/25
美濃のガイド組織である高雄県ガイド(導覧)協会が美濃の特産品である野
蓮を売り出すキャンペーン「野蓮節」を開催。同協会の理事長はレストラン
213
「古老客家菜」経営の劉漢堂が任期満了し、野蓮農家の黄弘灯が就任。
2008/5
2008/6
美濃出身の立法委員鍾紹和、水利署第七河川局局長の張良平を連れて美濃渓
現場を視察、土壁の建設のための予算増加を約束させる。
南洋台湾姉妹会、資金集めのためにインドネシア風手作り豆板醤を 5000 瓶
売り出す。一瓶 180 元。
樹徳科技大学で両親が美濃出身の李允斐教授、客家委員会の助成のもとに歴
2008/6/10
史的建造物である広善堂講堂(1923 年完成)の調査および修復計画を客家文
物館にて発表。同計画には美濃愛郷協進会も協力。
新鎮公所建設のための融資の質に入れられていた旧美濃鎮公所のリフォー
2008/6/26
ム案が発表される。リフォーム費用の 1 億 7000 万元は客家委員会から全額
補助金を出資。土地銀行との交渉の結果、鎮公所は鍾紹恢鎮長時代の利息の
0.5%を 0.2%にまでさげ、羅建徳鎮長時代に負債を返還した。
2008/7/13
2008/7/14
2008/7/17
2008/8
2008/8/20
2008/9/17
高雄県義務消防隊(日本の消防団に相当)顧問団団長に元農会理事長の朱信
強が就任。
美濃出身の立法委員鍾紹和、7 年連続で立法院で葉タバコ全量買い取り制度
の維持の陳情に成功。
美濃で大雨が降り、中心部を中心に広範囲で浸水。
美濃輔導站を拠点に、奇美文教基金会の助成金を受けて、美濃後生会(青年
会)が美濃の生活の楽しさを主題にした小冊子「美濃好楽」を作成。
客家電視台の主催で鎮民のテレビ討論会「村民大会」が鎮公所で行われる。
席上で鎮民が治水に関する不満を噴出させる。
美濃で 1980 年に最初の立法委員となった鍾栄吉、台湾肥料公司の取締役(董
事長)に就任。
美濃出身者で液晶を作る「維麒グループ」総裁の張吉安が 20 万元を寄付し
2008/10
て「月光山科技奨学金」を設立、鎮内の科学技術教育のために奨学金を出す。
運営は月光山雑誌社と博士学人協会が受託。
2008/10/8
美濃に住んで小説を書いた作家の鍾理和夫人の鍾平妹が 97 歳で死去。
六堆運動会に合わせて、美濃鎮公所の一角に美濃運動名人館の開館式が行わ
2008/10/25
れる。館内で美濃出身のスポーツ選手の業績を展示。建設費用は客家委員会
の助成金を博士学人協会が獲得して完成。
高雄県政府、鎮内の農業区である南隆地区へ伸びる中正路二段、三段部分の
2008/12/1
拡幅工事を開始する。同工事は立ち退き住民の反対があり、長く延期されて
いたが、鎮民代表が楊県長の任期満了を見越して早期の実現を要求してい
た。予算は第一期工程が1億4千元あまり、第二期工程が1億6千元あまり、
214
合わせて3億元あまり。
羅建徳鎮長、2004 年の就任以来清新に努め、前鎮長時代に 1 億 4 千万元あ
2009/
った鎮公所の負債をすべて返済、5 千万元の貯蓄まで作る。農会も 2001 年
以来二期の朱信強理事長の指導下で、信用部の預金率が県内第 2 位にまで改
善。
国有財産局が、2008 年 4 月に高雄県文化局から歴史的建造物の指定を受け
2009/1/14
た菸葉輔導站で操業している民間NGOを「国有地の不法乱用」とし、競売
にかける意思を表明。これに対し、県政府は措置をとらず。
2009/1/16
2009/1/26
2009/2/6
2009/2/14
2009/2
2009/2/25
2009/3
2009/3/4
2009/3/5
旗美社区大学、八色鳥協会、美濃愛郷協進会の合同開催で農村再生条例にか
んするシンポジウムが南隆地区の五穀廟で開催される。
鍾栄吉、台肥取締役の地位を利用して、台肥基金会から 20 万元を美濃の低
所得世帯への補助金にあてると発表。
美濃出身の元国民大会代表陳子欽が台北にて死去。享年 62 歳。
農会会員による農会代表選挙が行われる。現政権派は 45 議席中 26 席を確
保。
泰安老人デイケア協会、2008 年度高雄県の 86 団体のデイケア団体の中で最
優秀賞に選ばれる。デイサービス受講者は 55 名。
農会第二次選挙で農会代表が理事、監事を選出、現政権派が 9 名中 6 名を占
める。
年末に行わる予定の県長選挙で、国民党候補の許福森が病気のため出馬を断
念、急遽美濃出身の鍾紹和がこれを継ぐことになる。
美濃出身の県議員李鴻鈞、菸葉輔導站の保存をめぐって高雄県文化局長と議
論、県政府に菸葉輔導站で座談会を開催するよう要求する。
農会第三次選挙で農会理事長、常務監事、および総幹事が選出される。それ
ぞれ現政権派の林華玉、林華昌、鍾清輝が当選。
国有財産局、高雄県文化局、鎮公所、鎮民代表らが出席し、美濃客家文物館
2009/3/18
で菸葉輔導站の保存をめぐる協議が開催される。2003 年の菸葉輔導站博物
館化構想以来、高雄県政府が保存のための措置をとってこなかったことが問
題になり、県政府の手続きが必要であることが確認される。
立法院経済委員会が農村再生条例草案の公聴会を開催、同条例は農地の乱転
2009/3/26
用、乱開発や農村の荒廃を招くとして NGO の台湾農村陣線がこれに反対、
台北で抗議デモを行う。美濃からも学生や NGO、農民がデモに参加。
2009/3/29
元美濃愛郷協進会のスタッフが菸葉輔導站に美濃農村田野学会を成立させ
る。理事長にパパイヤ農家の黄廷生。
215
いくつかの大工事が美濃で始まる。1、経済部水利署の施工する、美濃渓整
治第七期工程。徴収した土地は 125 筆、総面積 39831.62 平米、費用は 1 億
3400 万元あまり。2、中正湖浚渫工事。鎮公所が施工、費用は 1230 万元
2009/3-4
あまり、費用は交通観光局から。3、中正路約 1.7 キロの拡幅工事。第一工
期の費用は 1 億 4 千万元、県政府が受託施工。4、美濃都市計画区内でまだ
拡幅していなかった道路の拡幅。費用は 6000 万元あまり、内政部営建署が
施工。5、旧鎮公所のリフォーム再生計画。費用は約 1400 万元、客家委員
会から全額補助金。
美濃出身の立法委員鍾紹和、今年の葉タバコの豊作を受けて 1 ヘクタール当
2009/4
たりの葉タバコ買い取り量を 2500 キロから 2750 キロにあげるよう財政部
に要求、合わせて買い取り時期を 5 月末にまで延長するよう要求し、通る。
2008 年 7 月の水害で壊れた広林里の双峰橋の修復費用を美濃出身の立法委
2009/4/6
員鍾紹和が中央政府に陳情し要求、800 万元の補助金を獲得して工事が始ま
る。7 月 21 日完成予定。
2009/4/10
2009/4
高雄県長、高雄市長、屏東県長が高雄県六亀郷天台山道場で行われた政策発
表会で、三地域の合併を要求する。
乾季が終わるころ、高屏渓の水位が異常に低くなり、用水路への引水が困難
になる。
台肥基金会の 20 万元の運用を任された月光山雑誌が、南洋台湾姉妹会との
2009/4/17
共催で「2009 年模範新移民スピーチコンテスト」を実施。南洋台湾姉妹会
のメンバーらが受賞。
2009/6
2009/6/1
美濃鎮農会、保険金融業務で全国第 1 位。
農会選挙の贈賄罪で逮捕され、懲役刑に服役していた朱信強が出獄。次期鎮
長候補と目される。
2008 年に美濃のコミュニティ団体が文化造鎮の一環として獅子頭用水路観
2009/6/30
光化計画を企画、高雄県文化局長に文化建設委員会から補助金を得るよう要
請。そこで得た 320 万元の予算が嘉南薬理学院の観光産業センターによっ
て流用される。コミュニティ団体はこれを非難。
高雄県、高雄市の合併案が内政部の召集した昇格審査委員会を通過し、2010
2009/6/23
年末に高雄県が高雄市と合併して新高雄市として中央政府直轄市に昇格す
ることが正式に決定。これにより、2009 年末に予定されていた鎮長選挙お
よび高雄県長選挙も中止される。
少子化対策と鎮の財政状況が改善したのを受けて、1996 年から 99 年まで鎮
2009/7/1
公所でかつて行われていた鎮民向け子ども手当が復活する。子どもを一人生
むごとに 5000 元、双子には 1 万元の手当。
216
高雄県内陸部に水害が発生、橋の崩壊や甲仙郷小林村の消滅(山の深層崩壊)
2009/8/8
など甚大な被害をもたらす。美濃も広範囲にわたって浸水、また旗山に向か
う旗山橋が崩壊、旗山へのアクセスが大幅に悪化する。
2009/9/2
高雄県県長楊秋興、県政府の八八水害の復興計画予算を 242 億 8 千万元と
発表、中央政府から特別予算を申請すると表明。
水利署第七河川局が企画、主導している「中正湖排水泰順橋分洪工程併弁土
2009/9/19
石標售」第二次施工説明会が鎮公所で行われる。付近住民はこれでは美濃の
洪水は防げないとしてこの施工に激しく反対、最後に張良平局長は計画の失
敗と停止を認める。
2007 年8月以来停止していた熱帯樹林のコミュニティ林業計画を、林務局
2009/10/24
の補助金を受けて再び美濃愛郷協進会が開始。広林社区発展協会と協力して
地元ボランティアガイドを育てながら熱帯樹林を自然公園にする計画。
2009 年度分で推定予算約 100 万元。
2009/11/28
2009/12/2-13
2010/1/3
2010/2
2010/4/7-20
2010/5/15
2010/6/12
2010/9/19
旧美濃鎮公所を改装した美濃故事館が開館。高雄県ガイド(導覧)協会が管理
業務を落札する。
美濃に住んだ作家、鍾理和の孫の鍾舜文(鍾鉄民の三女)が葉タバコ農家をテ
ーマにした画集を出版したのに合わせて、美濃の写真展を高雄で開催。
馬英九総統、台南県の曾文ダム視察の際に、美濃ダム建設計画の可能性を示
唆、美濃人の激しい反発を招く。
美濃農会の預金高が前年比 2 億円増の 50 億元を突破、全国農会信用部の第
一位となる。
美濃鎮農会、美濃田野学会が企画した野草の物産展「美濃野食節」を高雄市
の大統百貨店で開催。農業委員会からも視察が来るなど、好評を博す。
水利会選挙、楊秋興の配下の李清福が理事長に当選。紅派の支配が長く続い
た水利会に黒派の理事長が誕生する。
里長選挙が行われる。高雄県市が 2010 年 12 月末に合併されるため、鎮民
代表選挙は行われず。
台風により美濃中心部が浸水する。
高雄市市議選挙で、第一選挙区から立候補する朱信強(元美濃鎮農会理事長)
2010/10/7
の競選総部(選挙事務所)が成立大会。高雄市長候補の陳菊、楊秋興、黄昭順、
立法委員の鍾紹和、美濃鎮長の羅建徳、水利会長の李清福らが応援にかけつ
け、盛大な成立大会となる。
美濃鎮農会、良質米の品種「高雄 145 号」の買取価格を 1 台斤〈600 グラム〉
2010/11
あたり 10 元から 10.5 元に値上げする。良質米「台湾うるち米 2 号(台粳2
號)
」に比べて精米による目減りが少ない上、変異のリスクも少ないため。
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李鴻鈞の競選総本部が成立大会を行う。立法院長で白派の領袖王金平、紅派
2010/11/6
の林仙保、林益世親子、国民党中央党部青年部夏大明、行政院南部連合服務
中心執行長羅世雄、中央常務委員李徳維、国民党高雄市長候補黄昭順の娘が
応援にかけつける。
農民の持つ農地の強制収用に抗議する美濃の社会運動団体が、台湾農村陣線
2010/11/14
など全国的な社会運動団体と協力して、美濃で稲作のデモンストレーション
「凱稲」の作付を行い、その収穫を全国の社会運動団体とともに行う。
年末の合併にさきだつ高雄市議員選挙が行われ、美濃を含む第一選挙区(旗
2010/11/27
山、美濃など 9 郷鎮)からは林富宝(民進党)、朱信強、李鴻鈞(国民党)が当選。
高雄市長には陳菊が当選。
出典:月光山雑誌、中国時報、連合報をもとに筆者が作成
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