飯村隆彦

第三章
飯村隆彦
飯村隆彦は、60年代の初めから、様々な困難や不便にも関わらず、積極的に海
外へ行き、生活した日本人の一人である。60年 1 代の初めに数多くの映画祭が西洋
各地で開かれるようになり、飯村もヨーロッパやアメリカの数々の町を訪れる機会に恵
まれ、国際的な評価を得た。ニューヨークやヨーロッパのアーティストたちの情熱に刺
激を受けた飯村は、日本、ヨーロッパ、アメリカの間で、何年も「ボヘミアン的生活」を
送ることとなった。このために、飯村の作品のほとんどは、日本語と英語の二つのタイ
トルを持っている。多くの作品は言語に基づくものなので、上映の際にも英語版と日
本語版が必要になる。海外で発表された作品の多くは、まず初めに英語で構想され
たものである。
50年代末から、美術、映画に関する実に多くの考察や評論を手懸けていた山
1外国生活への適応に関する物質的、心理的困難の他にも、飯村が複数の社会環境に同時に属していると
いうことが、日本ではあまり好意的に受け取られていないということがある。実験映画の主な発表場所であるイメー
ジ・フォーラムは、1994年末に日本の実験映画の40年にわたる大々的なレトロスペクティヴを催した時、意識的
に飯村を外した。飯村の名前は最初の歴史的説明の部分には出てくるのだが、作品は一つも上映されなかった。
カタログで飯村の作品について称賛していたのは、映画作家で批評家でもあるダリル・チンだけで、彼は日本人で
はない。このような排除は、飯村の作品の質に問題があるからなのだろうか、それとも、度々日本を留守にしたこと
で、学校をさぼる不良のような印象を与えてしまったのだろうか。
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・1
口勝弘や松本俊夫と同じく、飯村も、実験映画の傾向や彼自身の芸術活動に関する
情報をふんだんに盛り込んだ、本や記事を多く書いている。那田尚史が1991年に、
今はもうなくなってしまったスタジオ200の30年にわたる作業の歴史を紹介する文の
中で指摘しているように、飯村はアーティストであると同時に批評家であり、他の誰よ
りも、自らの作品を分析する能力を持っている。アメリカのアヴァン・ギャルド映画を日
本へ紹介した主な人物の一人であり、また、映画と関連したほとんどのイヴェントを鋭
く分析した。
ここでは、初めに年代を追って飯村の作品の全体を見ていくことにしよう。飯村
自身は次のように言ってはいるが。
「私は一人の作家の年代記的な進化論を信じていないから、それらの作品の意
図は説明出来てもそれを歴史的に意味づけ、位置づけることは、ほとんど不可
能である。」
飯村 2 の制作テーマの進展は、山口勝弘のように線的なものではない。山口の
場合は、それぞれの時期が明確に決定され、次の段階へと移るのだが、飯村の場合3
は、四つの主な時期の間を行き来しているようである。それはこれからこの研究で
徐々に明らかにしていくが、今ここで大まかに要約してみよう。第一の傾向は、エロ
ティックな、もしくは社会的な「オブジェ」の探求である。第二は、長いアメリカ滞在に
よってもたらされたもので、映像に対する興味が構造の探求に移っているのがわか
る。第三は、第二の時期に完成した作業をさらに極限まで推し進めようとしたものであ
る。ビデオという技術は飯村の意図に最適であるようだ。飯村はビデオを、アーティス
ト、観客、そしてメディアのインターラクティヴなインスタレーションやパフォーマンスに
使用した。第四は、60年代を通じて試みられた探求の結果によって、世界と環境に
2
那田尚史「飯村隆彦が批評者泣かせる理由」『飯村隆彦のメディアワールド』、Studio 200/セゾン美術館、1991
3飯村隆彦『パリ=東京映画日記』、東京、書肆風の薔薇、1985、p.36
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・2
対する新しい視座を提案するものである。
60年代の初めに、自らの芸術的意図を表現するために、映画という手段を使う
ようになった飯村だが、その理由は、うまく説明できないと言っている。精一杯この問
いに答えようとしたところで、その問いの多くの面の、たった一つについて語ることしか
できないとうことである。1980年に、自作の「パリ=東京映画日記」に関する回想を書
いた時、飯村がカメラを取ったのは、映像の助けを借りてある物語を表現したり、事件
や思想を記録したりするためではなく、映画の可視性のためであったと書いている。こ
れは当然のことと言えるが、60年代の初めには、この考えを明確にすることができな
かったのだろう。飯村は、カメラを手 4 にするとすぐに、年の行かない子供が文法を覚
えるように、新しい言語を発見し、発明しなければならなかった。しかも、この歩みを
始めた時代、日本にはまだほとんど先達がいなかったため、文字通り「初めの一歩」を
踏み出さなければならなかった。
4飯村隆彦『パリ=東京映画日記』、p.36
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・3
3-1- 「個人映画」の前提
3-1-1. 詩と美術:「オブジェ」の探求
飯村は1937年に東京で生まれた。慶応大学に入るため、予備校に通っていた
時から、すでに「ダダ」の詩人たち、とりわけ萩原恭次郎に興味を持っていた。自分で
も詩を書いている。その一つは窓から飛び降りる男を描いたもの(「飛び降り自殺する
男」)で、風 5 景を様々な角度から見ている。文字はその角度によって異なった向きで
印刷され、すでに、言葉や状況の視覚的要素への強い興味が顕れている。自作の詩
や、アポリネールなど外国詩人の訳詩は、当時大学の雑誌に発表された。卒業した後
も、詩の研究会に残ったが、詩作は続けなかった。しかし、詩を読むことと、詩の研究
に、詩作同様の情熱を傾けた。興味の中心は、ダダイズム、シュールレアリズム、現代
詩の間で揺れていた。
50年代の終わりに、日本ではネオ・ダダの運動が盛んになっていた。当時のほ6
とんどの造形作品の形式が、あまりにも保守的であることに失望したネオ・ダダのアー
ティストたちは、アメリカから輸入されたアクション・ペインティングにも注意を払いなが
ら、20年代のフランス、ドイツの芸術運動の一種の復興を行っていた。飯村は彼らの
考えに共鳴を覚えてはいたが、それは運動自体に対してであって、映像に対してでも
5飯村隆彦『映像実験のために』、p.11
6吉村益信、赤瀬川原平、萩原有司男、荒川修作、風倉匠は、1960年、〈読売アンデパンダン〉展に出品するために結
集し、その後様々なギャラリーで「反芸術的な」作品を発表した。彼らの原則の一つは、次のキャッチフレーズに要約す
ることができる。「創造は破壊であり、破壊は創造であった」のである。(赤瀬川原平の冒険、名古屋、名古屋市美術
館、1995、p.28)
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・4
なければ、動かない言葉に対してでもなかった。
「言葉の制約の中に囚われている自分を見つけたように思える。詩を読んでも、
持続して書くことができなかったことは、読むことで満足していたからでもある
が、同時に詩を作る才能がないことを知った。」
飯村は美術はより自由で、より開放されているように思われた。特に「アクション・
ペインティング」に、言葉には移すことのできないマグマを感じていた。そのとき、彼は
映画という、半分は詩であり、 7 半分は美術である手段を考え始めた。したがって、彼
にとって映画はまず「映像詩」であった。
1959年に慶応義塾大学法学部を卒業する。就職する気もなければジャーナリ
ストになる気もなかった飯村は、まず主にPR映画を作っていた製作会社に入る。しか
し、「助監督」とは名ばかりで、アシスタント的な雑用に終始し、彼の創作欲は、ごく部
分的にしか満8たされなかった。彼は会社をやめ、稼いだわずかな金で、8ミリカメラと
プロジェクターを買った。ついに、セットの外から見ているのではなく、自分でファイン
ダーをのぞくことができるようになったのだ。
***
20年代、30年代のヨーロッパのアヴァン・ギャルド映画は、写真集という形でし
か日本に紹介されなかった。つまり、静止した写真しかなかったわけだ。見る人は、自
分の想像力で映画全体を作り直してみるしかなかった。したがって、役者やシナリオ
が何ら重要性を持たない映画、映像自体が主役である映画を想像の中で作っていた
ことになる。
7飯村隆彦『映像実験のために』、p.12
8飯村隆彦『映像実験のために』、p.12
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・5
作家の初期の作品というものは、その単純さと力強さで、しばしば、芸術家とし
ての全体的な資質を顕しているものだ。1962年に作られた飯村の処女作は、東京
湾のゴミを撮映したもので、《くず》(8ミリフィルム、12分)と題されている。この作品
は、石崎浩一郎が「型破りのホーム・ムービィー」と評したことの他に、当時のキー・
ワードであった「オブジェ」の礼賛だといえる。飯村は、日用品(「ジャンク」)や動物の
死体、頭の無い猫、犬、鳥にレンズを向けた。遠くには静かに船が走り、浜辺では子供
たちが遊んでいる。様々な虫の幼虫が古い畳やビンの上を這い回る。オリジナ 9 ル・
フィルムは、度重なる上映で無数の雨が降っている。「オブジェ」はこうして、映像のお
かげで再発見された。しかし、10「もの」を見せることが重要なのではなく、ものを通し
て「自分の体」を見せることが重要なのである。飯村は書いている
「東京湾の晴海岸に打ち棄てられたくずと動物の死体から、主観的なイ
メージを作り上げたものであった。私は晴海の海岸を彷徨いながらカメラでくず
を収集し、それらに生命を与えていった。映画はものたちへのオマージュであっ
たが、同時にカメラをもつ私の手や足が画面に入り込んで、あるいは自分の影
が投影されて、ものと私とのかかわりも介入した。」
映画はこうして、風や波に洗われて崩壊していくものへの讃歌をナイーヴに描い
ている。音楽は小杉武久に委嘱された。小杉は当時、音楽における即興について書い
た卒業論文を東京芸術大学に提出したばかりであった。その前年には、フルクサスの
アメリカにおける活動が、一柳慧によって、草月会館で紹介されていた。小杉は、その
機会に11自らのア12ンサンブル、〈グループー音楽〉を率いて、「音響オブジェ」というコ
ンセプトでコンサートを行っていた。
9石崎浩一郎の言葉(飯村隆彦「映画作品アルバム/
The films of Takahiko Iimura」『芸術と非芸術の間』、p.17)
10東京写真美術館でのレクチャー、1995年1月22日
11東京写真美術館でのレクチャー、1995年1月22日
12飯村隆彦『パリ=東京映画日記』、p.35
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・6
飯村はこの映画を、「映画詩」であると同時に、「映画オブジェ」であると定義し
ている。映画《くず》は、当時注目を浴びていた「ジャンク・アート」への飯村の返答であ
り、評価であった。飯村はさらに廃棄物の探求を続ける。今度は、植物の成長を記録
した教育映画の不用になったフィルムを使い、つなぎあわせて穴を開けた。すると、元
の映像は大きな光の穴で暴力的に「隠される」。この作品を《視姦について》と名付
け、英語で《On Eye Rape》と訳した。飯村は、実際にポルノ的なシーン(当時日本で
は厳禁だった)が映っているこまを何箇所かに挿入していた。このテクニックは映画で
「暗示的」あるいは「構造的」と呼ばれる試みで、特にポール・シャリツがその作品、
《Word
Movie》(1966)や《N:O:T:H:I:N:G》(1968)、とりわけ
《T.O.U.C.H.I.N.G.》(1968)で追求し、網膜の残像に訴えるように、同じようなポルノ
的シーンを映したこまをフィルムに挿入している。
飯村は《リリパット王国舞踏会》(1964年、16ミリフィルム、N&B12分)で再び
《くず》の方向を探ることになる。この二つの作品は、美術と詩を結びつけようという試
みを行っている点で共通している。《リリパット王国舞踏会》の主演俳優である風倉匠
は、〈ネオ・ダダ〉のメンバーで、造形作家であると同時にパフォーマーであり、時に赤
瀬川原平の写真のモデルをつとめていたが、飯村がこの役に求めていたのとぴったり
な、「ひょうきん」な風貌の持ち主であり、彼のおかげでこの映画が可能になったと言
えよう。アンリ・ミショーの羽根氏 (Plume) は、予想のつかない動きを見せなければな
らない。飯村はミショーのテキストをそのまま映像化しようとは思わなかった。それは
第一不可能なことであっ13た。
飯村は、映画を構成する十章のそれぞれに、「K氏・A」「K氏・B」(K氏とは、 風
倉匠氏のこと)、と順々に記していった。各章ではそれぞれ、単純で日常的な場面が、
K氏によって巧みに、そして「国際的な」ユーモアをもって演じられている。カザクラの
13
1964年、赤瀬川原平は人体展開図写真の次に、「Dropping Events」という風倉匠のポルトレート・シリーズを制作
する。(赤瀬川原平の冒険、名古屋、名古屋市美術館、1995、p.86-98)
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・7
個性のおかげで、映画はミショーの作品とは独立したものとなった。原作に縛られて
はいないが、原作から完全に離れたわけではない。羽根氏は、やはり飯14村の内部で
生きているのだ。
《リリパット》の第二のヴァージョンは、1966年にニューヨークで上映され、東京
では1964年に同じフィルムが上映されたが、このときは順番が異なり、また同時に二
つのスクリーンを使うという方法がとられた。同じ場面が二つのスクリーン上にずれて
現われるように上映されたのだ。このヴァージョンはまた、オリジナル・フィルムにしみ
を作っていた、現像の疵が注意を引く。飯村はさらに、針を使ってフィルムをひっかき、
アニメーションのような効果を作ったり、時には映像を消したりもした。詩への接近は、
したがって、言葉の意味によってではなく、言葉の視覚的要素、つまり字のフォルムを
通じて行われた。この映画は、フィルムの上に直接書き、上映することによって、言葉
の視覚的要素を発見する助けとなった。
***
実験映画の中では、言葉や数字を映像と結びつけようとする多くの試みが、20
年代から行われていた。例えばドイツには、クルト・シュヴィッタースなど文字主義の擁
護者がいたし、スコットランドには、1933年にすでにハンドメイド・フィルムを作ったア
ニメーション技術のエキスパート、ノーマン・マクラレンがいた。フランスでは、「フラン
ス文字主義映画」の代表作といえるモーリス・ルメートルの《映画はもう始まった》が
1951年に作られ、アメリカでは、前述したポール・シャリツが1966年に重要な作品
である《 Word movie 》を作っている。
フィルムに引っ掻き傷を作る技法は、1967年に作られた作品、《ホワイト・カリグ
14飯村隆彦『映像実験のために』、p.16
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・8
ラフィ》とも共通性がある。数を使う前に、飯村は視覚15により訴える漢字と平仮名を
使った。彼は三ヵ月の間、妻の昭子の助けを借りて古事記の一部を書き写し、黒い
フィルムの一こまに一つの字を刻んだ。一定の速さで投影すると「網膜の連続性が、
映画の最後の方で、クロミ(編集用に使う真っ黒のフィルム)によって断続的に断ち切
られる」とスコット・マクドナルドは言った。上映時間は11分間で、1間に24個の文字
が流れるため、全部で約16.000個の文字が現われることになる。こんなに速くて
は、テキストを読むことはできない。しかし、何度も現われる文字は認識されるため、
飯村は日本語の「生命」を読み取るもう一つの方法を発見する。スコット・マクドナルド
が言ったクロミがあるところとは、古事記の中の歌や詩の部分である。16リズムや拍子
の構造は、「話」と「歌」の違いように、視覚的にも読取り可能なのである。
このことから飯村は、西洋の文字主義の作家たちが使うアルファベットと、漢字
のように起源が絵であるような文字との根本的な違いを明らかにしている。アルファ
ベットの場合は、意味をひきはがすことができるが、漢字を書くときは、形態を変えな
い限り、意味から離れることは不可能である。飯村によれば、言語のアニミズムが、も
とのテキストを手で書き写したことによって、より明確になったのだが、これがもしアル
ファベット 17 だったら、それを感じ取ることは難しいだろうということである。したがっ
て、アニミズムとは、アニメーション技術のおかげで映像の中に感じとられるだけでな
く、文字にも感じとられるものなのである。似たような試みは、数年前の《マイ・ドキュメ
ンタリイ》でも行われた。飯村は、新聞の活字や写真、つまり「無記名の」文字を集め、
やはり一コマづつつないだ。この最初の作品は、一瞬にして、その形態の上に「報道と
15
Dominique Noguez『Une renaissance du cinéma』(ドミニク・ノゲズ『映画のルネッサンス』)、pp.284-286
16
Scott McDonald「The Films of Takahiko Iimura」、p.6(スコット・マクドナルド『飯村隆彦の映画』)スコット・マクド
ナルドはシラクズ大学人文学部教授でありながら、映画評論家である。
17『映像実験のために』、p.26
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・9
いう伝達機能としての文字が、その無名性を強調している」。
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・10
3-1-2.《いろ》と《あい》
ここで少し、飯村の制作における詩や文字の探求を脇において、「オブジェ」への
関心を再び取り上げることとしよう。1962年には二つの作品が作られた。《いろ》(カ
ラー作品、8ミリフィルム、12分、音)と、《あい》(16ミリフィルム、12分、音)である。8
ミリカメラを使って、主体と客体の距離をできるだけ縮めて撮影された。
《いろ》は、絵の具が油に溶けていくところと、その科学現象が産みだす動きが
映し出されている。1980年にこの作品について書いたとき、これらの最初の実験から
十年間に作った作品は、どれも白黒か、ごく控えめに色を使っただけのものであると
彼は言っている。色は18、あつかいにくい材料であり、彼の作品の中で大きな役割を演
ずることはなかった。彼の作品は概念的な指向性をもつものであり、白黒でも十分に
テーマが表せる。色は、概念に重きを置くためには、消したほうがよい感情を持ち込ん
でしまうため19、好ましくないものでもあった。白と黒は、光と闇であり、映画の場合、
存在と非・存在、存在と不在を表すこともできる。また、全ての飾りを捨て去り、「欲望
を禁じる」ことにもなる。
20年にわたる芸術活動を距離をもって眺めたとき、彼は、前には気づかなかっ
たことを発見する。自分が属している極東文化との関係である。彼が「概念」という言
葉で表していたことは、中国、韓国、ついで日本で描かれていた「水墨画」の伝統的
な考え方にも見られるものである。飯村は、禅画や書についても書いている。そして、
自作に「読む」ことのできる、文字を含んだ作品があることを強調している。「私は書を
18飯村隆彦『パリ=東京映画日記』、p.74-77
19『映像実験のために』、p.27
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・11
読むものといったが、同時に書き方を見るものであり、それが意味を伝えるにしろ、そ
れ以上に視覚的な形態としてみられている。」と飯村は言っている。彼の概念的な映
画は、書道のように決まった意味を伝えようとするものではなく、「ある種の視覚的フォ
ルムという役割を果たし、余白や線、数字が重要になる」。飯村はまた別のところで、
映画とは本質的に時間の芸術であり、時間には「色が無い」とも言っている。しかし、
時間も色を纏うことがある。「場面」としての記憶と関係づけられる時、また、その「場
面」が時間の停止という現象を引き起こす時である。
《いろ》という言葉はまた、エロチックな意味も持つ。この同音意義語の関係を具
体的にするために、飯村20は、手元にあった全ての絵の具を混ぜただけでなく、精液
も加えてみたと告白している。そのことによって、液体による浸透性の違いを確認でき
たという。しかし、彼の「第二の」作品は、単純な言葉遊びに止まらず、彼の映画作家
としてのキャリアを通じて系統立って深められていく、他の問題を提起しているのであ
る。
***
『芸術と非芸術との間』の第一21章で飯村が解説し、評論した映画は、後に「私
の原点」というタイトルでまとめられた。全部で七篇で、《あい》、《Onan》、《Ama
Ata》、《ニューヨークシー22ン》、《サマー・ハプニングズ USA》、《Face》、《Virgin》で
ある。飯村の作品の後の展開の基礎を形成したものを明らかにするために、これらの
作品群を特別な注意を払って見る必要がある。
20飯村隆彦『パリ=東京映画日記』、p.76
21飯村隆彦『パリ=東京映画日記』、p.76
22飯村隆彦『パリ=東京映画日記』、p.77
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・12
《いろ》に続く作品も、やはりエロティスムに対する深い関心を顕している。一人
の男と一人の女の愛撫を、至近距離で撮影したものである。ジョナス・メカスはこの映
画を「直接的で美しい、流れるような肉体の官能の詩」と評している。スコット・マクドナ
ルドはこの映画を正確かつ明快に、次のように描写している。
「《あい》(1962)は、ウィラード・マアスとマリー・メンケンの『肉体の地理学』を思
い出させる。愛の行為を行っ23ている男と女の肉体を、大写しで撮影しているの
だが、体のどの部分を映しているのか、必ずしも見る者にはわからない。この大
写しが、わずかにスローモーションにした、絡み合いもつれ合う男と女のロング・
ショットと交差する。この映画は、人間の器官の本質的な生物学的性質を増幅
している。形式上は、映像の白黒のコントラストがおもしろい。この効果は一つに
は、初めに8ミリフィルムで撮影してから、16ミリにブロー・アップされ、また、オ
ノ・ヨーコによる音響によるところも大きい。彼女は窓にマイクをぶら下げっぱなし
にして、変化に富んだ断続的な音に「チチチチ」という音が入るテープを作っ
た。」
映画は、一つの目を誰か他の人が開けようとしているシーンの大写しから始ま
る。目が開くと、白目が見える。つまり、網膜を光に曝さないこの人物は、意図的に暗
闇の中に身を置いていることになる。白目とは、「不可視性」という状態である。彼は暗
いから見えないのではなく、アンドレ・ブルトンが「未開の状態」と呼んだ状態にいるか
ら見えないのである24。目は、それから激しい痙攣にとらわれる。手は目を離れ、鼻の
穴、唇、歯に向かう。そして手が男の口に代わり、女の髪を噛み、女の口が男の胸を
舐め、と続いていく。全体と部分、部分と部分。この映画は「自由な結合」を扱ってい
る。かつての日本のポルノ映画、「ブルーフィルム」に見られたように限られたものとし
て部分を見せているのではな 25 い。部分も全体の内部であり、ある大きさを持って立
23『飯村隆彦のメディアワールド』、p.19
24ビデオや映画の技術で、オリジナルを小さいフォーマットで撮ってから、編集をするために大きいフォーマットに移すこ
とを、英語ではblow-up,フランス語ではgonfler(ふくらむ)という。
25
Scott McDonald「The Films of Takahiko Iimura」『Takahiko Iimura Film and Video』、p.5
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・13
ち現われてくるものなのだ。
飯村が『自由な結合』という60行の詩を思い出したのは、映画を作った後であ
る。シュールレアリストの詩人が肉体の各部分を詩の中で書いた順序は、飯村が映画
に撮った順序と、偶然にも一致していた。しかし、ブルトンが砂時計とか花束というメ
タファーを使って各部分を美しく強調したのに対して、飯村は愛の感情を彩ることはで
きなかった。言葉 26 の場合は、異なった単語が同じ一つの物を指すこともできるが、
異なった映像は、やはり異なった物を扱っているにすぎない。映画のレトリックと詩のレ
トリックは違うのだ。「自由な結合」という言葉の意味の一つは、おそらくそこにあるの27
だろう。詩が表すイメージは、同じ場所に同時に現われる。映画は、連続して現われ
る。飯村の 28 仕事は、したがって、先達に続いて、肉体を全体として見せ、全体的な
知覚への鍵を与えられるように、映画という表現手段の中で新たなバランスを見いだ
すことであった。
飯村にとってのアンドレ・ブルトンの言葉のもう一つの意味は、近代的価値体系
による、肉体の各部分の専制的結合である。例えば、手はタイピストや大工の主な道
具のようにみなされるとき、物質としてとらえられている。同じように、性器はセックス
のための道具である。つまりこの映画は、時代の特徴だった分裂を乗り越え、個人を
細分化から開放し、肉体の各部分に本来の意味を取り戻すための試みだったのだ。
サルトルの性欲に関する文章に29ならい、飯村は、肉体の性的な部分を特別扱
26飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.50
27飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.52
28飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.50
29飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.58
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・14
いせず、体全体を一つの性器のようにとらえることを提案してい 30 る。さらに、女の体
や男の体を全部映したショットを使わないことによって、人間の体の非性的な側面を
強調している。性的な特徴を否定するのではなく、結合を行う自由をもう一度取り戻
すのだ。飯村は、《あい》を、「現代社会の微分化が生まれる場所の夢」として構想し
た。飯村はここで、渋沢龍彦の言葉を引用している。
「映画作家にとっては、まず最初の非常なリアリズムをもったカメラという武
器がある。彼はカメラによって、性行為を最初から最後まで、完全に描写するこ
とが可能であろうか。ここに映画作家のもっとも初歩的なジレンマがあるので
あって、もし彼がブルーフィルムの作者でないとするならば、このジレンマを避け
31て通ることはむづかしいと申さねばなるまい。
《あい》は、最初から最後まで愛の行為を描いた映画であるが、特に性行為の
シーンが出てくるわけではない。ジレンマは、飯村が体全体をただ一つの生殖器官と
とらえていたことである。飯村は、自分の作品が「架空」のものであり、「仮定」的なも
のとなるよう気をつけていた。
30前に触れたように「目はいまだ未開の状態にある」とブルトンが書いた後、ブニュエルは《アンダルシアの犬》でどのよ
うに目を(カミソリで)開くかを見せた。フランジュの『顔の無い目』や安部公房の小説を勅使河原宏が映画化した《他人
の顔》では、様々な角度で目の無い顔、すなわち《アンダルシアの犬》における「ポジティヴな」目ではなくネガティヴな
目を描いている。唇や手はといえば、フェルナン・レジェ(《バレー・メカニック》)やウォーホル(《Sleep》)やレネ(《二四時
間の情事》)が大写しで捉えた。その他にも、断片に切ってしまうヒッチコックなど様々な人体の扱い方がある。
31飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.60
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・15
3-1-3. 《Onan》
初めて完全に16ミリで撮影され、 32 1963年にブリュッセルのフェスティバルで
受賞した作品、《オナン》は、2回続けて見るように構想された。それぞれの回は、作
品の異なったヴァージョンとみなされる。映像は同じでも、観客自身が作品を特別な
ものに作り替える。この作品は、特別な上映の「順序」まで要求する。飯村はいくつか
例を挙げている。
飯村が方法論として提示しているのは、一つは繰り返しであり、もう一つはフィル
ムに開けた穴である。繰り返し上映されるように作られたのだから、この映画は「循環
的」構造を持っているといえる。「オナンの場合」と副題がついた33、『映画の実験か実
験の映画か』という章で、飯村は『もう一つののぞき窓』と題する文章によって、構想の
意図を明らかにしているので、ここに引用したいと思う。これは、映像に関する実験を
擁護する宣言文であるだけでなく、映像と同時に、映画が上映される状況全体を含
む「シネマ」を問題とした実験を擁護する宣言である。実際、「シネマ」自体が実験の
対象とならなければ34、映像の実験はありえない。
32飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.60。「ブルーフィルム」はポルノ・フィルムを表わしている。
33「(1)オリジナル、7分(この作品をブラッセル国際実験映画際に出品した)
(2)オリジナル二回反復、17分30秒(但し、二回目はオリジナルを三回反復)
(3)オリジナル三回反復、7分+7分30秒+7分、計21分30秒(但し、二回目までは2の場合と同
じ、二回目の終わりにエンドマークが出、三回目はラッシュをつなぎ、音はフィルム・ノイズをそのままだし、
さらにフィルムに穴=パンチ=をシーンによって入れた)
(4)オリジナル・ラッシュ・パンチ入、7分(3の場合の三回目と同じもの、但し、パンチは一シーンを除いて全カット
に入れた。」((飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.63).
34「もう一つの覗き窓」は1963年に草月会館で開催される〈Sweet
16〉フェスティバルのカタログに掲載される。(飯村
隆彦「映画の実験か 実験の映画か−オナンの場合」『芸術と非芸術の間』)
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・16
「映面もまたひとつの空間芸術である。これはあらためていうまでもないこ
とたが、それには二つの意味がある。
ひとつは映画がそのフレームの中においてもっている空間、他のひとつは
フレームの外、映画が投映される場における空間である。これまでの映画の空
間についての考察は多くが、そのフレームのなかにおける空間、フィルムに定着
された映像に間する空間論がほとんどであった。
しかし、今日、映画についての空間は、そのイメーシに関するばかりでな
く、その投映される場についての空間論をあらためて考えてみなければならな
い。
映画は、初め演劇の複製から始まったが映画が、複製芸術として成立す
るとともに、演劇の持つ空間、劇場という場については、何らかえりみることをし
なかった。映画も同しように、劇場において行なわれるにもかかわらず、すべて
をスクリーンという一枚の幕に負って満足してきた。
そして一方では映画は、テレビという新しい複製手段の前に自らの座をあ
けようとしている。もはやテレビにおいては、映画は劇場空間というものを放棄せ
ざるをえなくなっている。
映画ははたして、劇場空間については演劇に、映像空間についてはテレビ
に、というふうに両極化され、それぞれの手にゆだねられるのをぼう然と待つの
みであろうか。
映面が本来、劇場空間のうちにもっているものを新しく堀り起し、空間芸術
として再び蘇生させることははたして不可能であろうか。もちろん、フィルムの投
映については様々な拭みが行なわれてきた。
シネマスコープからシネラマへ。あるいは三百六十度のスクリーンへ。将来
は球形のスクリーンも夢ではない。このような大型化、立体化もその一つであ
る。しかし、そのような方向ばかりではない。現在行なわれている方向は、スク
リーンを観客の距離(それは物理的にも、心理的にも)を拡大し、マスレジャ−と
してスペクタクルへ向かうものである。
ぼくの考えでは、映画のもつ劇場空間は、このようなスペクタクルとは逆
に、映画がかつてそうであったように、それぞれの人にとってひとつののぞき窓
であると同時に、のそき窓のもう一つの目、向う側からのぞかれた目でもあると
いう関係で映画のある空間というものを考えている。」
上記のような上映様式は、全ての作品にあてはまるわけではない。なぜこのよう
に書くことが必要だったのかを理解するためには、「シナリオ」を読む必要があろう。シ
ナリオを要約すると、次のようになる。一人の若い男が、若い女のヌード写真を見て、
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・17
は、サディスティックな態度を暴きだしており、女たちに対する彼の子供っぽい態
度を最終的に理解させるものである。」
タイトルの《Onan》は、もちろん聖書による。マスターベーションではなく、むしろ
「膣外射精」と関係した言葉で、サルトルが『存在と無』の中で定義し、渋沢龍彦が訳
した用語、「対象不37在の欲望」のことである。この「欲望」が、《Onan》の核38であり、
中西の卵という風刺的な形で客観化されている。象徴的な物質的対象を、欲望の対
象そのものとして認識することが、ここでは主体の死を招く。他者は少女という形で現
われはするが、どんな欲望も掻きたてはしない。全てが自分によって始まり、自分に
よって終わるため、どんな欲望も展開することができず、主人公はくずおれてしまう。
佐藤重臣は、実験映画の真の性質に対して、警戒するようにと読者に言う。実
験映画の制作は、事実、細かい手作業が必要であり、佐藤によれば「 39 手淫」のよう
な性的な性格を持っていると言う。実験映画は、クローズ・サーキットの性的な性格の
35飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.63-64
36中西夏之の手になる作品である。中西の卵やその他の象徴的な性格の強い彫刻は、映画やダンス、特に舞踏のグ
ループ、山海塾の舞台などによく使われる。
37飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.65
38
Scott McDonald『The Films of Takahiko Iimura』、p.6
39〈フィルム・インデパンダン〉フェスティバルのカタログに掲載される。
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・18
上に成り立っていて、それに完全に依存している。実 40 験映画はしばしば、現実の物
を考慮に入れることを拒否する。実験映画は、現実の物との関係を全て切ってしまう
ことしかできないのだ。現実の物とは、作品の制作過程で、スクリーンに物として入っ
てくる見物人やその他の全ての人を含む。実験映画を成功とみなすか失敗とみなす
かは各人の自由だが、作家本人が判断を下すわけにはいかない。《Onan》は、佐藤
重臣の「手淫説」を否定しつつ、同時に有名にすることとなった。《Onan》の実験性
は、オリジナル・ヴァージョンが変化を、繰り返しを受け入れることによって始まる。観
客は回数を重ねるにしたがって、前には気づかなかったことに気づくようになる。同時
に、一つの映像を繰り返し見れば見るほど、映像は「形骸化」していく。同じ場面を何
度も見させられれば、観客の批判性は高まるし、新しい情報を見つけやすくなるから
だ。あまりにも何度も同じ映像を見ていると、観客はやがて映像の物理的現実に気づ
くようになる。フィルムの穴も、映像の内容とは無関係に恣意的に決定された視覚的
要素である。穴は、主人公が写真に開ける穴を思わせる。彼が卵を産むとき、そして
若い女の拒否にあって後にひっくりかえるときに、現われる。映像の真ん中に開けられ
た大きな白い穴は、観客の視線に挑み、観客は、断続的に現われる幕のような穴を通
してその向こうを見たくなる。穴は映像の欠如というよりは、観客の想像力を刺激する
ものなのだ。映画はこうして「のぞき窓」となり、人々は窓から積極的に若いオナンを見
つめることになる。
3-2- 環境の変化
40飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.66.
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・19
3-2-1. ボストン/ニューヨーク:日常の再生
飯村はまずボストンに滞在し、ハーバード大学のセミナーに出席した。彼はそこ
で、ガーナから来た若い女性と知合う。彼女はイギリスで勉強した後、飯村と同じよう
に、ハーバード大学の夏季セミナーに招待された。彼女は詩を専攻していたほか、当
時注目を浴びていた人種問題に深く関わっていた。ちょうど1966年に、アメリカの黒
人による運動や過激な行動があちこちで起こっていた。ガーナの女性が持つ雰囲気
に打たれた飯村は、アメリカでの最初の作品を、彼女に捧げることにし、《 Ama Ata 》
と名付けた(16ミリ、カラー、無音、20分、1966)。ボストンは、白人によるアメリカ大
陸の征服の歴史にまつわる最初の痕跡に満ちている。飯村はこの映画を、「アンチ・モ
ニュメント」、もしくは「死体のモニュメントを否定」することによって生きたモニュメント
の創造として構想した。彼は特別な政治的立場をとったわけではない。たとえばリン
カーンの彫像を撮ることによって、ナショナリスト的性格を強調したとしても、彼は単に
二つのモニュ41メントを同等の価値を持つものとして並べただけだ。
飯村はニューヨークへ行く。到着するやいなや、彼はジョナス・メカスのフィルム・
ライブラリーで、日本から持ってきた映画、《くず》、《あい》、《いろ》、《リリパット王国舞
踏会》を上映するよう招待される。メカスはすでにベルギーのノック・ル・ズートのフェ
スティバルでこれらの映画に注目していて、小野洋子にニューヨークで上映する手筈
を整えるよう頼んでいた。飯村は自らこの都市に乗り込み、ニューヨークの現代アート
の世界と特権的な接触を持った。そして、様々な人種の人間が混ざりあう環境の中に
身を置いて、外国人という概念をとらえ直し、今までどっぷり浸かっていた日本的価値
観を再検討する機会を得た。
41飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.71.
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・20
飯村はカメラを携えて、軽々と新しい環境の探険に出掛ける。彼は二つの方法
で「見る」ために、巨大な都市の通りを歩き回った。「自分自身の目とは別のもう一つ
の目」を作り出して、しまいには「自分の存在が、消えるように」しないために、彼はファ
インダーを覗くことを拒否した。また、8ミリフィルムの長さ(約3分)を作品を作る上で
の決定的な要素とした。一つの巻きわくの映像は自律したものであり、それが終わっ
たら、他のものに移るのだ。
42 様々なテーマの撮影が行われたが、結局、建築としての町の映像を捉えるこ
とになった。ニューヨークのような巨大都市では、始まりや終わりをわざわざ決める必
要は無い。見ること、つまり撮った映像の自律性をそうして認めることで、十分なの
だ。撮影の際には映写機を二台使い、上映の順序、または順序の変更を彼自身が選
んだ。映像は、カットも編集もしなかった。彼はその映像を、テーマや上映の時の気分
によって、同時に、または交互に映した。後に《ニューヨーク・シーン》(カラー、無音、
40分、1966年)と名付けられることになった、これらの短篇の撮影は、約一年間続い
た。そこには、「形状がたいへんエロチックである」赤や青の口のような火事の炎や、コ
ニー・アイランドの風景や、ナム・ジュン・パイクやシャーロット・ムアマンのパフォーマン
ス、草間弥生のボディー・ペインティングなどが映し出されている。
***
飯村は、《ニューヨーク・シーン》の撮影中に、すでに二作目、《サマー・ハプニン
グ・USA》を計画していた。彼は当時イースト・ヴィレッジの、トンプソン広場から2ブ
ロックのところに住んでいた。トンプソン広場は、ヒッピーたちが集まって、アトリエや、
共同経営の店や、議論のための部屋を持っていた。彼らは座禅、瞑想、武道や、絵画
42飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.74.
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・21
の道具を持ち込んでいた。仲間になると、破格の値段で場所を借りるこ43とができた
のだ。ミレニウムの元刑務所には、映画の学校まであった。飯村は招かれて作品を見
せることもあったし、創作活動を続けるために、研究室や道具を借りることさえできた。
ヒッピーたちは、自分たちの新聞を印刷したり、学校を開いたりして、ニューヨー
クという大都市の真ん中で、驚くほど自立した生活を送っていた。そこで飯村は、将来
どう使うかはひとまず考えずに、彼らの生活を16ミリフィルムで記録しておこうと思っ
た。イースト・ヴィレッジの街角では、ときどき「いかれた」人や、グループに話し掛けら
れることがあった。彼らは妙な議論をしかけたり、やはり妙な、誰も見ていなくてもおか
まいなしのパフォーマンスをしていた。これは飯村にとって格好の材料になった。彼は
期限切れのフィルムを何キロも安い値段で買ってあった。ミレニウムの自動現像機
で、彼は使ったフィルム約300キロを、自分で現像した。初めての経験だったので、
温度調整に何度も大失敗をやらかしたと、飯村は告白している。しかし思いがけない
おもしろい結果が出ることもあった。夜が突然昼になったり、あるいはその逆だったり、
ある部分は完全に反転していたり、という具合である。このような特別な効果は、普通
の現像センターに頼んでいたら、決してありえないことだ。その上、期限切れのフィル
ムを使ったため、現像すると、あちこちに斑点や染みができ、これも面白い効果となっ
た。
音は、撮影の時に録音したもののほかに、毎日のようにベトナム戦争の悲惨な
状況を放送していたテレビからも取られ、複雑で厚みのある内容となった。ベトナム戦
争は、一般のアメリカ人にとって、毎日流れる番組のようなものになっていて、チャン
ネルを変えようと思えば連続ドラマに変えることもできるようなものだった。マルコムQ
や他の〈ブラック・パンサー〉たちも、テレビ番組の一部となっていた。テレビの映像と
音は、したがって、「レディーメイド」、または飯村の訳語で「見いだされたフィル
43飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.74.
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・22
ム」(Found Films)として、使われることとなった。
飯村が現像した300キロのフィルムから選んだ映像と、妻の昭子が録音した
30時間に及ぶテープから取った音とを、偶然にまかせて組み合わせた作品が生み出
したのは、「その亀裂を明瞭化することによって、視覚と聴覚の両面での異化効果と
それによる感覚のトータルなはんらんへ」より導かれたものである。メディアで流され
た政治やイデオロギーの言葉は、コンテクストから引き離されると、「音の爆弾」のよう
に、聞くものの頭に直接響44いた。フルクサスの運動に関わっていたアーティストの一
人、ジョージ・ブレヒトは、このような実験を詩で45行っていたが、飯村は、撮影時には
状況の一部であった作家=カメラマンの動きを意識させる映像を、同時に使うことに
よって、「作家は常に状況の一部であって、観察ではなく、インヴォルヴのプロセスが
イメージの軌跡となるものだ」というこ 46 とを明記している。その上、「自然主義的」な
視線の動きは、撮影の角度や長さなど、カメラの操作によって完全に変形される。場
合によって、この動きは変形されたり増幅されたりして、映像のダイナミズムや力を決
定し、直接視覚を刺激する。この状況は、商業映画を見るときに強いられる「奴隷的の
ぞき」の状態から観客を救い出す。
***
飯村にとってカメラは手の延長となり、もはやカメラマンがファインダーを通して
見る必要はなくなった。体自体が変化したようだった。彼はこの現象を、ヒッピー社会
と、その「前代未聞の」活動に接触して引き起こされた、精神的ショックによって説明し
ている。体の一部となったカメラ操作は、一種の環境との融合を可能にする。この現
44東京写真美術館でのレクチャー、1995年1月22日
45飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.78-79.
46飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.79.
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・23
象は、《カメラ・マッサージ》(1968年、16ミリ、47N&B、音、6分)という作品で実際に
使われた。これは、《サマー・ハプニング》の撮影の際、即興的にモデルに近付いて
撮ったフィルムで作られた。
ヒッピーの活動を観察することによって、飯村は、リゼルキン酸やマリファナなど
の向精神剤を使いもしないで、自分の内部が大きく変革するのを感じた。この変化に
よって、彼は初期の頃からずっと追っていた「オブジェ」の理解にも変更を加える。《く
ず》は「崩壊していく」オブジェへの深い興味を表した作品であった。《あい》は、分解し
てオブジェとなった人体への関心を示していた。《いろ》は、「形を持たない」オブジェ
の探求と解釈することができる。彼は徐々に、目に見える外部世界を観察するという態
度を捨て、内部の現象に集中し、流れていく映画の時間と一緒に変化していく物とし
ての「オブジェ」に照準をあわせるようになる。《あい》はこの意味で、、目に見える世界
とは別の世界へ入っていく試みとして捉えることができる。飯村は、扱っているオブ
ジェの環境を拡張することにも関心を持っていたからだ。
「《あい》はミクロの目によって抽象化されているが、観察者の目があり、同時に
フレーム内のフォルムへの関心があった。ファインダーをのぞかないことは、一
つにはフレーム内のフォルムを無視することであり、それ以上に自分の存在自体
を賭けることである。」
この場合、カメラのファインダーを通して見ることは、「作家の存在を問題にする
こと」になる。カメラは現実のごく一部しか捉えることができない。その意味で、「マッ
サージ」というテーマは、小さなツボに照準を合わせるので、うってつけであった。
彼はこ48れらのフィルムによって、後に《カメラ・マッサージ》を創るアイディアを得
た。彼は20人の男女のアマチュア・モデルを募集し、映画的に「マッサージ」しようとし
47飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.79
48飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.80.
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・24
た。撮影は自宅で、演出や特別な装飾なしで行われた。このポートレートを撮るため
に3時間分のフィルムを使った後、彼は様々な異なった上映方法を考える。殊に、「個
人的対話」の形式を作るため、複数のスクリーンに映す方法を検討する。飯村は、観
客が一人一つづつスクリーンを持つことができれば、観客は、彼が撮影の時にしたの
と同じ経験を、新たにすることができるだろうと考えた。そのような上映方法はあまり
にも経費がかかるため、実現はしなかったが、飯村は他の可能性を探った。ジョナス・
メカスのフィルム・ライブラリー、ブラック・ゲイト、そして、やはり実験映画を専門に上
映している他の劇場で作品の上映を行った時、彼は四つの壁と天井と床、さらに床の
上に座った観客をスクリーンとして使った。同じような実験は、前衛演劇のグループに
よって行われていた。これは画家がタブローを離れたのと同じように、舞台を放棄する
試みであった。映像によって空間を一つにまとめることで、飯村が実現しようとしたの
は、次のようなことであった。
「ぼくのイメージのなかのものたち、人間たちは真に再生するだろう。彼等が実
際撮影以前にそうであったように、切り取られた映画のフレームから再び飛び出
して生きることができるのだ。つみとった環境から再び新たな環境のなかに返し
てやること。新しいコミュミケーションがそこにはじまるのだ。」
とすると、カメラのファインダーを通して見るということは、「作家の存在を疑問に
付すこと」になる。カメラは小さいので現実のごく一部しか捉えることができない。その
意味で、「マッサージ」は、小さいツボに照準を合わせるという点で、うってつけのテー
マだったと言えるかもしれない。《カメ 49 ラ・マッサージ》や《サマー・ハプニング》の制
作の際にこのような性質に気が付いた飯村は、前に触れたように、それまでとは異
なった上映形態に思いを馳せた。そこでは観客は座席に埋もれて大人しくスクリーン
の前に坐っているだけではなくなるだろう。飯村は、自分が撮影の時にしたのと同じ
体験を観客にさせたいと願っていた。しかし経済的な理由で、個人別の《カメラ・マッ
49飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.76.
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・25
サージ》の上映を実現することはできなかった。理想的な形態は、観客一人一人に一
つづつスクリーンを与えることであったが。しかし、《ハプニング》の「環境的な」上映は
実現できた。映像を、壁や床や天井や観客自身の上に映し出すというものだ。環境的
な上映という考え方は、飯村の撮影の考え方に内在している。飯村にとって撮影と
は、外部の視点で客観的に空間を見ることではなく、撮影者と空間との必要な融合の
ことである。飯村はこのような実験を「映像の 開かれた 環境化」と名付けている。こ
れはカメラが見ているものと違うものを見ることによって始められる。したがって、カメ
ラによって「見ない」ことなのだ。それこそが薄っぺらな秩序をもたらすパースペクティ
ヴの拒否であり、別な言い方をすれば、パースペクティヴが存在しない環境空間の探
求なのである。飯村は、複数の視点を含む空間を作り、偏在性の刻印のない視点を
提案しようとしていた。この発見の条件は、次のように言い表わされた。
「カメラを、単に目の延長としてとらえるのではなく、私の生活の延長として包括
することである。(中略)撮影することと生活することを同次元におくことである。
したがって、生活することに終わりがないように、撮影することにも終わりは(初め
も)ない。それは、単にカメラを回している時間だけが記録なのではなく、撮影し
ない時間をも包括する記録ということである。」
飯村は、ほとんどのドキュメンタリー・フィルムには彼が避けようとしている偏在
性のもう一つの側面が見られるという。時間はしばしば空間に従属させられている。し
たがって、時間にその無限性と多次元性を取り戻さなければならない。ドキュメンタ
リー作家は、素材の時間的現実と全く関係の無い解説との関わりでフィルムを編集し
てしまう。そのため、物語やイデオロギ5051ー的なメッセージを説明するために掻き集
められた、空間の断片になってしまうことが多い。この現象は、「直接的」なものをもた
らすとされているテレビに適用された時、より壊滅的である。
50飯村隆彦『映像実験のために』、p170-171.
51『映像実験のために』、p.162
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・26
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・27
3-2-2. 視点の変化:《ヴァージン》、《フェイス》
飯村は、内部世界への探求を、20歳前後のクリスチーナという名のモデルの協
力で続けていった。自らの行為を環境の中に広げていこうとしていた飯村の「マッサー
ジ」に彼女は加わった。カメラは、部屋の空間全体をマッサージするため、少しづつ、
若い女性の肉体の「巨大な肉の塊」を離れていく。空間全体に広がったマッサージは、
飯村自身をこの空間にしてしまい、彼はもう空間に直接働き掛けることができなくな
る。彼は天井にカメラを吊す。カメラと作家とオブジェが同じ水準になる。空間ー環境
という水準である。撮影は2ヵ月以上に及んだ。フィルムがなくなると、飯村はすでに
使用したフィルムをカメラに入れた。そのため、二回感光している部分もある。カメラ
自体が作業に加わったことになり、作家がコントロールできるのは、現像の時だけだっ
た。この時は、経済的な理由から、幸か不幸か、撮影された何キロもの白黒フィルム
は、全部現像することはできなかった。選んだ部分は、編集するというより集められ
て、場所によっては彩色したり、時には消したり、穴を開けたりした。この作品は皮肉
をこめて《ヴァージン》と名付けられ、まさに幻覚剤が流行していた時代に作られた。
もう一人のモデル、リンダは、《ニューヨーク・シーン》を撮影していた時に何度か
登場していた。大きな眼球に驚いた飯村は、特殊なレンズを使って、彼女の目を昆虫
の目のように撮影していた。体の動きも、やはり時に昆虫を思わせるところがあった。
飯村は当時、ウィルヘルム・ライヒの著作、特に『オルガスムの機能』を研究し、身体
表現の大きな自由がそこにあると感じていた。
飯村は、《あい》の撮影の時には、顔を積極的に扱うことはできず、人間の体全
体を「パンセクシュアリティー」、「アンティポルノ」の印として使った。顔は逆に、表情を
持っているため、人体の中で唯一、自立的な「部分」として残っていた。飯村はつい
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に、顔の表情 52 が生まれる動きと過程を、撮影することに決める。映画《フェイス/
顔》は、正面から捉えた顔を、有機的に描写している。映画の冒頭では、数センチメー
トル四方に表面を縮尺していて、激しく動くと、抽象的な映像にもなる。ついで飯村
は、アンディ・ウォーホルやジャック・スミスがよく使った女装の俳優、マリオ・モンテス
の協力を得る。この俳優は、女物の服を身につけるが、かといって、自分を女だと思っ
ているわけではない。日本と違ってアメリカの女性は、特に女性特有の言葉や仕草を
使うわけではないので、性を変えようと思ったら、服装に頼るしかないのだ。40年代
のハリウッド・スター、マリア・モンテスの名を取って芸名をつけたマリオ・モンテスは、
決然としてバイセクシャルの道を選び、二つの性の様式の間を自由に泳ぎ回り、男に
でも女にでも、簡単になってみせるのだった。
飯村が自分の「俳優」たちに、性行為の時の表情をさせると、モンテスは女性の
表情の変化を大変正確に再現してみせた。彼は完全に演技の中に入りこみ、カメラの
存在を忘れてしまうことさえあった。飯村はこの現象を、人格の同時的な二重性とし
て解釈した。モンテスは俳優として男の役を演じながら、現実の生活の中で女でいる
こともあった。リンダと絡むシーンでは、どちらが女の役を演じ、どちらが男の役を演じ
ているのか、わからなくなることもあった。このような状況では、現実は俳優の演技に
よって完全に崩れてしまう。
52飯村隆彦『芸術と非芸術の間』、p.83.
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3-2-3. 「純粋映画」:推移の提案
飯村は、1980年に書いた《いろ》に関する文章の中で、観念を強調するために
は色彩を排除することが必要であると述べ、彼の作品のいくつかは、「純粋」という形
容詞で表すことができると言っている。この資質は、すでにアメリカの批評家や映画作
家が気づいて論評していたものだ。
たとえば、《リリパット王国舞踏会》の二つのヴァージョンは1975年に、ステフェ
ン・ドウキンズによって、「構造映画」の典型として紹介された。
「各章の冒頭にタイトルがつけられ、ちょうど具体詩が(コンクレート・ポエム)必
ずしも意味によってではなく、音によっていっしょうになった言葉から成り立つよう
に、この映画のイメージも、必ずしも意味によってではなく、その見方によって
いっしょうになっている。多分、一般に言われている 具体・構造映画 (コンク
レート・ストラクチュラル・フィルム)という呼び方がより正確であろう。」
《リリパット王国舞踏会》は、「構造的」と言われる映画と緊密な関係にある。一つ
の章で、裸の男が静止画像で現われるかと思うと、身振りで短い宣言が述べられたり
する。各章の頭には、タイトルがついている。意味ではなく音によって展開していく具
体詩のように、この映画の映像は、意味ではなく見られたものによって展開する。この
映画のためには、「具体的構造映画」という呼称を使うのがふ53さわしいだろう。
ドミニック・ノゲズによれば、「構造映画」という呼称は、ポール・アダムズ・シト
ニーが作ったものだという。1969年に書いた記事の中で、この用語は「純粋」映画に
向かう抽象的な映画の性質について言う用語で、言葉は同じだが、ロラン・バルトやク
53Stephen
Dowkins「Film Is」『The International Free Cinema』、ニューヨーク、The Overlook Press、1975、
p.216、(飯村隆彦『映像実験のために』、p.17-18)
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・30
ロード・レヴィ・ストロースによる、フランス構造主義とは何ら関係が無いという。この用
語が指しているのは、「本当のテーマが構造自体である作品のことだ。内容はほとん
ど関係が無い。作品の輪郭 (shape) だけが重要なのである」。こうして、実験映画の
54新しい美学生まれた。これは、それまで大勢をしめていた「映像主義」に対抗するも
のであった。
アメリカの映画作家、ダリル・チンは、飯 55 村の70年代の作品、《Sync
Sound》(1975)や《24 Frames a Second》(1975)を、「純粋映画」と評している。
これらの作品については、また後で分析することにしよう。
「飯村は、ピーター・クベルカが「映画の本質」と呼んだ要素、つまり光と
闇、音と沈黙を使う。飯村はこれらの要素を純粋に視覚的な方法で使うが、クベ
ルカの《Arnulf Rainer》(1960)や、トニー・コンラッドの《The Flicker》(1965)
のような幾何学的模様になってしまうことは避ける。飯村が提案する知覚は、感
性的というよりは、むしろ認識的である。これらの映画で中心的な役割を果たし
ている「数える」という事実が、「リアル」な時間を映画の内部で概念化するのに
役立っている。飯村の映画では、映画の時間性が第一に置かれ、マイケル・ス
ノーの《Ten
Seconds
in
Montreal》(1969)や、ロバート・ネルソンの
《BlueShot》(1970)のような複雑な操作を避けている。飯村にとって、映画の
実験において時間性を強調することは、表現に関して云々することとは無関係で
ある。クベルカやコンラッドの点滅する映画でさえ、「絵画的」ともいえる網膜に訴
えるための配慮がなされている。飯村の目的は、時間によって「純粋な」見る対
象を作り出すことだ。その中では、映画の要素は彼の意図の独創性を消すこと
はない。」
それらの作家の考え方は先駆者のエイゼンシュタインの発想に基づくように思
われる。1928年には、『音声映画宣言』が出版される。そこでエイゼンシュタインは、
54
Paul Adams Sitney「Structural Film」『Film Culture no. 47』、1969(Dominique Noguez『Une renaissance
du cinéma』、p.346)
551959年に、ロラン・バールトはこう書いている:「構造主義的なすべての活動は、それが反省的なものであれ、詩的
なものであれ、「物」の再構築を行う。(中略)構造とは、したがって物の模擬行為である。」(ドミニク・ノゲズ『映画のル
ネッサンス』、パリ、クリンクシーク・エステティック、1985年、p.370)
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・31
全体的な対立法を行なうことができるため、映像と音声の根本的な非同時性が感興
の源になると述べている。『感覚の同時性』というエッセーの中で、映画に於ける、目と
耳、映像と影響の対立について、幾つかの概念をあげた。さらにその概念を発展さ 56
せ、映像と音響の編曲としての「編集の垂直性」という理論を主張した。映像と音響の
関係は、斜にも存在し、動的な同期操作を可能ならしめるとした。
ペター・クベルカが50年代に製作した映画の中では、ミニマルな要素によって、
エイゼンシュタインの「計量的な映画」という概念が徹底的に利用される。《Arnulf
Rainer》 (1958-1960年) という作品は、「映画において実現されたマレーヴィッチの
「白い正方形」である」とされ、映画の構成の連続が次の6つの観点を決定している:
「1-映像と同時的な57音との間、2-映像と次の映像との間、3-音と次の音との間、4映像と次の音との間、5-音と次の映像との間、6-連節と次の連節との間」。
飯村は実際、「時間を具体的に扱う」「抽象的な」性格に反論している。「純粋映
画」という言い方は58、また、歴史的な響きも持つ。20年代に、実験映画のパイオニア
たち、スエーデンのヴァイキング・エゲリング、ドイツのハンス・リヒターとワルター・ルッ
トマン、そ59して、やがて加わったオスカー・フィッシンガーが、抽象的な「純粋」映画、
そして「絶対」映画さえ制作した。視覚的な面から言えば、飯村の実験は、まさに初め
の「シネティックな」アーティストたちの実験と比べることができる。ただ、初めのアー
ティストたちは、ピーター・ヴァイベルが説明しているように、主に映像と音楽の間の秩
序に注意を払い、正確なリズムに基づいていた。飯村の場合は、そのような造形的、
56
Daryl Chin「The Future of an Illusion(ism)」『Millenium Film Journal』、ニューヨーク、1978、(『日本実験映画
の40年史』、p.20、104-105
57
Hermann Nitsch、1969.
58飯村隆彦『パリ=東京映画日記』、p.102
59
Peter Kubelka、1990、p.82.
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・32
音楽的意図はな60く、むしろ視覚的知覚と聴覚的知覚の「ずれ」を明らかにすることが
狙いであった。それこそが、映画という手段にふさわしい。
飯村はまた、「純粋」という言葉の「倫理的」側面を問題にするつもりもなく、「映
画的な思考の純粋性」を日本に導入するにあたって、注意を要すると思っていた。映
画は日本では未だに「芸術」とはみなされて 61 いない。「純粋」な芸術などではなおさ
らない。大学に「映画」学部はないし(日本大学は、映画学科のある唯一の大学であ
る)、美術館の中にも映画の部門はなく、映画を何らかの思考の対象として考える習
慣が無い。考えるというよりは、眠るのにふさわしい、薄暗い部屋で見なければならな
いのだから、なおさらである。
飯村は自らの歩みを、エイゼンシュタインの「知的映画」の伝統の中に位置付け
る方を好む。かといって、それは、エイゼンシュタインの編集理論を取り入れるためで
はない。飯村はむしろ、「ミニマル」と呼ばれるアートの思考と方法論を発展させようと
する。「ミニマルな」アートは、視覚的要素が比較的少ないことから、人を思考に誘うの
だ。
***
60ヴァルター・ルットマン(Walther
Ruttmann)は元々画家賭して活動していた音楽的なリズムの構成による「動いてい
る絵画」は、ルットマンの思想によって初めて発表された。オスカー・フィッシンガー(Oskar von Fischinger)が助手とし
て参加した"Lichtspiele opus 1-opus 4" は、「フィルムによる目のための音楽」("Augenmusik des films")とし
て、全部手で着色された映画で、「視覚的な音楽」の傑作と見做されている(Weibel、1987、pp.74-75)。ルットマン
は"Week-end"という映像の無い映画で、音のコラージュという「音響映像のフィルム」を1930年に作った。また、"In
der Nacht"(1931年)は、夜、一人の女性がシューマン(Robert Schumann)の作曲を弾いている10分間の短編映
画で、ある意味で、現在のミュージック・ビデオのプロトタイプであると言える。スウエーデンのヴイキング・エッゲリング
(Viking Eggeling)も、直接手でフィルムへ描き、「動きの芸術」という名を付けた。エッゲリングの映画は、強いコントラ
ストを用い、対位法的な時間に基づき、タイトルも技法も確かに音楽的なコンテキストから取られている(中略)幾何学
的な形と白黒の線で構成された「傑作」である。同じころに構成主義的性格のHorizontal-Vertical=Messe/
Orchesterを、5000にものぼる幾何学的デッサンによって作り上げた。リヒターは線は使わず、ダダの流れに入る作品
を作った。コントラストとポジ・ネガの効果で表面に様々な試みを行い、だまし絵や空間の拡張を見せた。」(Peter
Weibel「Von der visuellen Musik zum Musikvideo」『Clip, Klapp, Bum』、Köln、Dumont、1987、p.74-77)
61飯村隆彦『パリ=東京映画日記』、p.103
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・33
1970年以降、飯村は『〈構造映画〉と再撮影』という題で上映されることになる
作品をい62くつか制作する。これらの作品は、今見てきた評論の正当性を証明するも
のとなった。彼は《サマー・ハプニングUSA》の最後のバージョンを何度も見た後、二
つの短い場面が頭から離れなくなった。一つは、イーストビレッジの通りで63ヒッピーた
ちが踊っている23秒のシーンで、もう一つは、デトロイトの暴動を伝えるテレビニュー
スが3秒入っていた。1969年に日本に戻ると、飯村は新しい作品を作るために、この
二つの部分を再撮影しようと決める。彼は映写スピードを自由に変えて遊べる編集機
を使って、一コマ一コマ、前に進んだり後に戻ったり、ポジにしたりネガにしたりして再
撮影することができた。23秒のシーンを36回再撮影して、約14分の作品が出来上
がり、《目には目を》と名付けた。彼は同じようなやり方で、3秒のシーンの方にも取り
掛かり、映写機にフィルムを輪にして取り付け、速さを変えて再撮影した。こうしてでき
た作品は、当然にも、《歯には歯を》という題がつけられた。飯村が使ったテクニック
は、数学の図表を映画の構造にあてはめた典型的な例である(同じやり方を、音楽の
作曲の構造に適用することもできる)。
こうして、観客は作品をみながら、映像が流れる速さと、自分の知覚の速さと質
の間の相互関係を経験することができる。飯村はまた、私たちの映像の知覚の仕方
は、彼がフィルムのコマに導入した数学的計算とは、直接関係の無い激しい変化をこ
うむるということにも気づいた。《目には目を》は、《フィルム・ストリップ1》、《フィルム・
ストリップ2》と題名を変え、合わせて14分1秒の長さで、一緒に、また別々に、続け
て、また同時に、と様々な方法で上映され、人間の視覚の正当性を疑問に付す可能
性を増やしていった。
***
62飯村隆彦『映像実験のために』、p.41-48
63飯村隆彦『パリ=東京映画日記』、p.103.
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・34
おそらくはヒッピーたちとの出会いに刺激を受け、飯村はカトマンズへ行く。日本
に戻ると、ネパールで撮った映像を、やはり再撮影しないわけにはいかなかった。山は
《フィルム・ストリップ》ほど、数学的ではなかったが。飯村はおそらく、厳密な法則に従
う必要はまったく無いということに気づき、より即興性を含んだ方法で制作することに
したのだろう。完成した二つの作品、《In the River》と《Cosmic Buddha》は、僧侶た
ちが川の中で沐浴をしているシーンを使っている。繰り返され、重ね合わされる身振り
は、 64 「瞑想的」円環を描き、作品全体の構造を反映している。そして、映画作家の
カール・リンダーが指摘したように、「見る者の知覚は深い次元に到達する」ことを可能
にする。
64
「1- コマ撮りされたテレビの黒人暴動のシーンの80コマ(3.3秒)の数本のコピーを、エンドレスのループにして上映
した。
2- 16ミリメラで、スクリーンの背後から、12、24、32、64コマ(l秒間)の四段階のスピードで撮影した。その結
果、12コマで撮影したものはオリジナルの約半分、64コマで撮影したものは約四倍の長さになった。
3-
2で撮影されたフィルムを再びループにして上映し、これを再び12、及び64コマのスピードで撮影した。この
フィルムの再撮影のプロセスをくり返して、最も遅い(スロー・モ・ション)ブィルムではオリジナルの約五十倍、最も
速いフィルムではオリジナルの約1/3のスピードとなり、全都で七つの段階のスピードのものを得た。
4-1974年に『歯には歯を』から『フィルムストリッブスII』に改題されたヴァージョンにおいて、編集は、この七つのス
テージを最も速いスピ・ドから、最も遅いスピードにわたづて進行した。最初はオリジナルのフッテージが1/3に圧縮
されているから、イメージが重なづて激しい動きを伴って現れる。それが次第に正常に戻りながら、今皮はくり返さ
れた再撮影のため、像がぽやけると同時に丸くなる。しかも、動きが引き伸ばされて、イメージは断統的に現れる。
最後には、オリジナルの五十倍という遅いスピードにイメージが分解されていく。
5-『歯には歯を』の音は、ニューヨークのテレビ・ニュースにおける前SNCC(学生非暴力同盟)委具長ラッブ・ブラウ
ンの演説の中から、〈Tooth for Tooth〉の声のみを採録した。このオリジナル・サウンドをフィルム同様にループに
し、テ・ブレコーダーの回転速度の変化によって七つの異なった速度の声を得た。それぞれのテープは、4までの
方法で得られた各フィルムと同一の長さでダビングされた。したがって、声と映像はそれぞれの速度においてシン
クロナイズしている。
※注−但し、この音の操作はオリジナル版に限り、改訂版ではサイレントにした。
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・35
3-3- 70年代:映画の原点への回帰
《サマー・ハプニング》から《フィルム・ストリップ》へ65の移行は、同じ材料を使い
ながら全く異なった方法に基づいて制作されたため、創作に対する飯村の新しい関心
を明 66 確にするものだった。70年代には、ミニマル・アートとコンセプチュアル・アート
の方向に向かうのが当然の流れだろう。ビデオ技術は、1965年(1963年という見方
もあるが)から芸術史に加わったとはいえ、アーティストたちが広く、有効な使い方を
始めたのは60年代の終わりで、実際は70年代の初めに使い始めた者がほとんど
だった。飯村は、ナム・ジュン・パイクや松本俊夫と違67って、新しい技術を待ち構えて
いたわけでもなければ、親しみを感じていたわけでもない。彼はテクノロジーには距離
を置いていて、簡単に使えることがわかっている時しか触れようとしなかった。彼の関
心は、むしろ知的秩序の方にあり、彼はこのような傾向によって、映画の世界の先駆
者となった。1971年に初めて日本で上映された《フィルム・ストリップ》は、日本で作
られた初めの構造映画となった。
3-3-1. 概念芸術へ
以上の結果、イメージの知党と上映スピードの間には相関関係があって、速いコマ(l秒間に12コマ以下)のイメー
ジを知覚するには長い時間を要し、遅いコマ(l秒間48コマ以上)のイメージの知覚には短い時間でよいことがわ
かった。しかし、それはイメージの解明度が同質の場合で、この映画におけるように、遅いコマで画質が悪化する
と、速いコマと同じように長い時間がかかるようになる。
実際、最後の段階では、イメージは抽象化して、現実的なフィギュアは解読できず、逆に超現実約なフィギュアと
なって現れた。」(飯村隆彦『映像実験のために』、p.45-46)。
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・36
「概念芸術」、もしくは「コンセプチュアル・アート」とは、使用する媒体によって一
つの決まったカテゴリーに入れられることを拒否する芸術ジャンルである。例えば、絵
描きが絵画だけに関わり、彫刻家がアトリエだけで仕事をするのに対して、概念芸術
の芸術家は興味のおもむくままに、絵画でも彫刻でもビデオでも、自由に使っていく。
実際、概念芸術の芸術家が興味を持った媒体はいくつもあり、映像ももはや映画作家
の専売特許ではなかった。
この呼称は60年代の終わりに現われ、まだ名付けることのできないタ 68 イプの
作品を指すのに使われた。基本的な材料は、言葉によって表される「非物質的」な「概
念」だが、概念はやはり「媒介」や「対象」という「物体」と結びついている。概念芸術
は、これらの言葉や機能の関係を形づくろうとする。
映画、ビデオ、音の領域に関わる概念と機能を、より正確に定義するため、飯村
は二つの作品の分析を行った。一つは、映画作家マイケル・スノーの
《A
Casing
Shelved》(1970)で、映画ではなく、一つのスライド・フィルムを30分間投影すという
ものであった。スライドには、彼のアトリエの棚が一つ映っていて、本屋や道具など、あ
らゆる物が載っているる。映写室で、スノーはそれぞれの物について、「記憶」を使って
説明していく。飯村はここで、二つの異なった要素があるのに気づいた。映像によって
提示される「対象」としての「もの」が一つの要素、そしてもう一つは、与えられた「時
間」の中で、「言葉」によって表される「こと」である。(「言葉」も、「記憶」によって蘇る
過去の時間の一部となる。)
65
1932年マイアミ生まれで、もと海兵隊員で、詩人で研究者。その作品は、ジョナス・メカスによれば、「クラシックな
シュールレアリスト的イメージ」の集大成のような趣を持っている。そのサイケデリックな色、二重写し、アナモルフォー
ズ、スピード感のある編集によって、「リンダーは西海岸の「アンダーグラウンド」の巨匠の一人となった。計量や構成へ
の意志を持つ東海岸の映画作家からは、最もミニマル・アートの傾向が少ない者も含めて、リンダーは遠く隔たってい
る。」(ドミニク・ノゲズ『映画のルネッサンス』(p.123と252)
66飯村隆彦『映像実験のために』、p.48.
67
Scott McDonald「The Films of Takahiko Iimura」、p.8
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・37
言葉の使用によって「物」を強調する映像は、物を通してコンセプトを浮かび上
がらせる。しかし、コンセプトは物の存在の背後にあるもので、自ら姿を表しはせず、
スライドという形を借りる。したがって、映像はここで、「物」を提示するための「媒体」と
しての役割を果たす。前に《くず》という作品に触れた時「オブジェ」について書いた考
察を、この作品品のシチュエーションは、思い出させる。
一方、ホリス・フランプトンの映画《ノスタルジア》は、一続きの静止画像で成り
立っている。やはり作家69の声(言葉ー記憶)によって注釈が付けられるのだが、その
役割は異なっている。一つの場面が、それぞれ一枚のスライドになっていて、風景や
人物を映している。そして二分後に、プロジェクターのランプの熱で燃やされる。作家
による注釈は、スライドがランプの上に置かれた瞬間に始まり、溶けて変形し、灰に
なった時に終わる。これは「こと」であり、映像の「対象」である「もの」ではない。言い換
えると、映像は「もの」を映し出してはいるが、それ自身は「こと」として立ち現われる。
(「もの」として燃えるのを、人は目にするわけだが。)言語はここでは情報を伝える媒
体であり、スライドの中の「こと」の存在を証明し、また、「もの」としてのスライドの消滅
を引き起こす。
スノーとフランプトンは二人とも、現在と過去の間を行ったり来たりすることので
きる記憶に結びついた媒体として、言語を扱っているが、スノーのスライドが過去の記
録でしかないのに対して、フランプトンのスライドは、現在というリアルな時間の中で、
燃えていく。したがってフランプトンは、見る者に同時に二つの時間をぶつけてくる。
私たちを過去という時間の中に投げ込む一枚一枚のスライドは、まごうことなき現在
の中で燃えるからだ。上映の間ずっと、現在という時間が観客を見張っているから、彼
68ジョージ・ブレヒトが「コンセプト・アート」を次のように定義した8年後のことである。「コンセプト・アートの素材はコンセ
プトである。音楽の素材が音であるのと同じ意味で。コンセプトは言語と深い関わりを持つ。したがって「コンセプト・アー
ト」とは、言語を素材とする芸術のジャンルである。「コンセプト・アート」の本義は、音楽の本義が単に音である(楽譜や
分析ではなくて)という言い方に倣えば、言語を包含する。私たちは、言語哲学のおかげで、コンセプトとは、一つの考え
方であるとともに、命名への意図なのだということを知っている。そこでコンセプトと言語の関係が問題になる。」(ジョー
ジ・ブレヒト『コンセプト・アート』、1961年)
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・38
らは過去の中に入りこむことができない。現在という時間は、「幻想」を持つことを拒否
している。これは松本が自分の映像の枠を見せたこととも通じるものがあり、この映画
は、現在という次元を観客が忘れることをゆるさない。このことについて、飯村は「白け
る」という動詞さえ用い、観客が自分自身を意識してしまうことを説明している。言葉
も映像も、何も表現しようとはしていない。生の、客観化された情報として使われてい
るだけで、感情も刺激も含まず、自立性を保っている。
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・39
3-3-2. イメージによる幻想からの解放
飯村は2年間日本で過ごした後、1972年にアメリカに戻ると、実験映画が一つ
のジャンルとして確立したことに気づいた。創始者であるメカス、シットニー、クベルカ
は(皮肉をこめて?)アンソロジー・シネマ・アーカイヴと名付けられた映画館の設立に
よって、歴史を確立することに着手していた。クベルカが映画館の設計を構想し、座
席の間に十分な間隔を取ることで、観客が互いを気にせず、映画の「完全な純粋性」
を味わうことができるようにした。アメリカの実験映画が、視覚認識の自立を求めて、
まずシュールレアリズムに関連した心理学から自立したのは明らかである。
前衛映画の努力は、映画映像の視覚的な性質を強調すること、そしてその可能
性を試すことにあったからだ。映像は空間的次元だけではなく、視覚的記憶にうった
える時間的次元においても展開する。このような映画の「形態学的美学」 の追求は、
構70造映画に関するシットニーの論文の中に表現されている。シットニーは、視覚的認
識を信頼することにおいてほとんどフェティッシュなほどで、飯村の目にはそれが典型
的にアメリカ的であると映った。視覚に対す 71 るこのオプセッションは、飯村の芸術の
方向を新たな路線の上に定めることとなった。飯村は編集に使う16ミリフィルムを二
本用意した。一方は黒(クロミ)で光を遮り、もう一方は透明(ヌスケ)で光を通す。そ
れ自体が、デュシャンのレディーメイドの意味において、何の映像も伴わない2つのオ
ブジェ・トゥルーベであるといえる。
1971年に、飯村はそれまでの研究の延長線上として《シャッター》(16ミリ、白
69「1936年、オハイオ生まれ。写真家で色を専門とするラボの技術者。(中略)初期の作品にすでに構造上の遊びに
対する関心がうかがわれる。それは、1969年の『アーティフィシャル・ライト』に典型的に現われている。この作品は、一
つのテーマによる様々な筋の一連のヴァリエーションである。(ドミニク・ノゲズ『映画のルネッサンス』、P271/
PP353ー357)
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・40
黒、25分、音入り)を作った。《ホワイト・カリグラフィー》の時と同じで表象の機能を
もった映像は使われておらず、また《フィルム・ストリップ》の時のように、撮影でも複製
でもフィルムの走行速度を様々に変える試みを行った。この作品は要するに、スクリー
ンに「映画の欠如」を映し出すことである。カメラと映写機のシャッター・スピードの違い
は、結果として、カメラに入れたフィルムに黒と白の瞬間を刻むことになった。このよう
な点滅は、トニー・コンラッドの《フリッカー》やクベルカの《アーヌルフ・レイナー》を思い
出させるが、飯村の場合、光学的現象や、網膜残像のような生理現象が実験の対象
なのではない。しかし、スコット・マクドナルドは、黒と白のみで表現された《シャッター》
の点滅は、時として目の錯覚を引き起こし、色や動きが見えることがあると言ってい
る。映像の黒と白の部分が、時に青くなったり黄色くなったり変形したり、交ざりあった
りさえするのだ。このような視覚的効果は飯村が目的としたことではなく、「白黒フィル
ムの本質的形態」なのである。それはまた飯村の芸術的意図の本質でもあり、フィル
ムという道具を通して表現されるビジョンの現実性を探求する一連の映画の出発点で
ある。
1972年には1コマのもつ現実性がより直接に問われた。《Too
see
the
Frame, Not to see the Frame》は、100フィート(34、5メートル)のフィルム2本で
構成され、それぞれ約2分半の長さがある。一方は透明で、他方は黒である。最初の
タイトル、《To see the Frame》の後、20フィート毎に黒が4コマ(6分の1秒)、つまり
合計4回現われる。2つ目のタイトル、《Not to see the Frame》の後は、黒いフィル
ムが同じように4回区切られる。この場合は、透明な1コマ(24分の1秒)で十分であ
る。それから飯村は他の2つの100フィートフィルムに同じ作業を行い、同じタイトルを
つけた。ただし、一方のフィ 72 ルムには黒の4コマを一度だけ、そしてもう一方には透
70飯村隆彦『映像実験のために』、p.122。Iimura
avoue qu'il a éprouvé une réelle admiration pour la
"perfection" de cette salle non pas lors de la projection d'un film、mais plutôt lors de l'absence de
projection: le plus impressionnant était en effet la lumière blanche et crue qui illuminait l'écran。
71
飯村隆彦『映像実験のために』、p.122
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・41
明なコマを1つ挿入した。ここで、フレームという言葉は、英語では映像の枠、つまり
フィルムのコマを表すと同時に、投73影されるスクリーンの枠も表すということに注意し
ておこう。したがって飯村の作品では、一方では「コマを見る」ことが「スクリーンを見
ない」ことを意味し、他方では「コマを見る」ことは「スクリーンを見る」ことを意味する。
どちらの場合も、どのような幻想も不可能である。この映画は単に映画の可視性の限
界を探求しているのである。
72
Scott McDonald「The Films of Takahiko Iimura」、p.8
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・42
3-3-3. 時間のモニュメント
60年代には、飯村は、言語に基づく作品は作らなかったといえる。言葉を使った
作品はあったが、意味は無視され、文字として、視覚的効果のために使われたにすぎ
ない。彼は自分の批評活動や理論形成の作業と、映像作品の間に、はっきりとした境
界を設けていた。それを彼は次のように言っている。「非言語的対象を言語に翻訳す
るというトランスフォメーションが主であった。
彼によれば、「非言語的」な「コンセプト」というものも存在する。絵画や映画の映
像に固有のコンセプトは、言語的な類推を呼ぶ。しかし、絵の中に文字を書き込ん
だ、ピカソやジョルジュ・ブラックのキュビズムや、カットのいくつかを言葉に譬えたエイ
ゼンシュタインの編集理論を別にすると、言語は、ほとんどビジュアル・アートの中に取
り込まれたことがなかった 74 。タイトルをつけるときに、何の重要性もなしに使われて
いただけである。そこで飯村は、映像の内部で言語を再発見し、重要な位置を与えよ
うと試みた。それには、言語と非言語を対立させないことも重要であった。
言語的要素を含んだ飯村の初めての作品は、時間をテーマにしたもので、
1970年から作り始められた。この時間は、できうるかぎり具体性を持ったもので、河
原温の抽象的な時間とは異なる。飯村は、24コマのフィルムを用い、現実時間の中
で、一秒づつ流れるようにした。単純な番号をつけたことによって、フィルム75は時間
を視覚的であると同時に聴覚的な、記号に変えた。飯村は1970年に、規格の四百
字詰め原稿用紙を使った作品を作った。舛目一つがフィルムのコマ一つに相当すると
して、四百の舛目を24で割った答えが、作品のタイトルとなった。《16秒16フレー
ム》である。彼は、原稿用紙に新たに「ペーパーフィルム」という名前をつけ、さらに20
73飯村隆彦『映像実験のために』、p.126
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・43
ほどの同じタイプの作品を作った。これらの作品は、「これらの作業は、映画という時
間的なメディアをグラフィックに定着することによって、曖昧な時間と空間を再定義す
るである」。
原稿用紙は、映画を組み立てるために大変便利だった。舛目とフィルムのコマ
の類似は驚くほどだったからだ。しかし、それを元に作られた作品は、大変自立的な
ものだった。フィルムの上に重ね合わせ、「読むフィルム」とすることもできた。飯村は、
このようにして「見る」ことと「読む」ことを、異なった二つの体験としてでなく、同じ体
験の二つの現象として、関係づけた。「現在問われているのは、見ることの強調から読
むことへの転化によって、読むことが見ることにもまして、観念に直接的にかかわると
いう意識である。」
***
アンディ・ウォーホルは当時、アンダーグラウンド映画の先頭を切っていた人物
で、彼の映画は、おそらく同時代の作品のうちで最も独創的で意味深いものだった。
中でも《****(フォー・スターズ)》は、25時間の長さを持った作品で、作品を見てい
ると76いうより、作品が観客を見ているという印象を与える。これは飯村の窓映画とい
う観念を励ますものだった。ウォーホルは、《エンパイアー》、《スリープ》、《フォー・ス
ターズ》、《キス》などの作品で、日常の風景をリアルタイムで映し出していた。ビ77デ
オの技術がまだ一般に使われていない時代に、現実との同時性によって映像の実体
化を計ったのである。これらの「時間の記念碑」は、飯村に深い感銘を与え、後に制作
する「時間的」作品や、数字を使った作品の構想に影響を与えることになる。
74飯村隆彦『映像実験のために』、p.85
75河原温は、『百万年』という本を作った。タイトルが表すように、百万年を略号と数字で一つ一つ数えていくものであ
る。それぞれ200ページからなる10巻の本には、数字とBC、ADという記号しか書かれていない。ADは、0から始まっ
て、1969という本を作り始めた年で終わっている。河原は約1年半かけて自ら百万の数字をタイプに打った。
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・44
***
ウォーホルの映画に刺激された考察と、クベルカ、コンラッド、シャリツに導かれ
た反幻想主義的探求を合わせて、「時間シリーズ」の一連の映画が生まれた。スコッ
ト・マクドナルドはついに映像によるあらゆる形態の幻想を退ける意志に出会ったと、
次のように述べている。
「飯村は、その創作キャリアの第三の、そして私の見たところ最も興味深い
段階に突入した。《フィルム・ストリップ II》や《シャッター》で見せたよりもさらに本
質的に形態の概念を追求しようとしているのだ。60年代の末に、飯村は「意味
深い」とか「美しい」とか「おもしろい」と主張する映像を作ったり集めたりしている
映画に対して疑いを抱くに至った。飯村にとっては、カメラのそのような使い方
は、物質主義的社会のテクノロジーによる延長にすぎない。現実的で物質的な
物や経験を再び集結させる術を知らない人たちがたまたまカメラを手に取り、写
真的痕跡の集積によって創作するのである。飯村はこのような映画制作に背を
向け、写真的映像をできるかぎり避けながら、映画という媒体の性質の探求に
集中する。黒や透明のフィルムを使ったり、フィルムの上に直接数字や簡単な
フィギュールを書いたり引っ掻いたりすることによって、飯村は映画によるあらゆ
る形態の幻想を遠ざけた。《シャッター》や《ザ・フリッカーズ》などの映画におけ
る、観客の網膜によって作り出される幻想さえ遠ざけたのだ。」
初めの試みは《タイミング1、2、3》と名付けられ、透明なフィルムに、区切りなど
は特に入れないで、規則的な間隔で太い横線を書いた。サウンド・トラックにも、やはり
規則的に、しかし映像とは違う間隔で引っ掻ききずを入れていった。飯村は100フィー
トのフィルムを3本使い、それぞれ異なった時空間の間隔で同じ処理をし、最後に全
部をつなぎあわせた。これらのフィルムは、視覚と聴覚で同時に知覚可能な、24分の
1の倍数からなる一つの尺度を表している。
飯村は次いで、《モデルズ、リール1&2》(1972年)というタイトルで8本の映画
を制作し、この探求をさらに進めた。2つのリールのそれぞれには、4本のフィルムが
入っていて、合計で約45分になる。《リール1》には《Timing, 2 Min. 46 Sec. 16
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・45
Frames》《Time Length 1,2,3,4》と《Timed 1,2,3》が含まれていて、《リール2》に
は78《To See the79 Frame,Not to see the Frame》、《Counting, 1 to 100》、
《A Line 1,2,3》そして《Seeing, Not Seeing》が含まれている。
これらのタイトルが表しているように、ここには分析的に、さらには科学的に時間
を探求する、思考と創造の「モデル」が示されている。トニー・コンラッドはこの二つの
作品を、「意識の内部的測定」を照らしだす「トータルなメッセージ」であると明確に言
いあてている。「測定」表現は、表面的なものや曖昧なものが何一つ無い時にのみ十
全であるようだ。ここでは全ての要素が正確に計算されてい80るからである。しかし、
この測定を感知しようとしたとたん、人は曖昧さに、測定不能性に直面することにな
る。
飯村は《Timed1,2,3》の黒いフィルムに毎秒透明のコマを一つ挿入し、それを
10秒続けた。続く10秒は反対の作業を行い、黒い瞬間が白い期間を区切るようにし
た。音による信号は、初めは映像と同時で1秒ごとに、次いで2秒ごとに、最終的には
100秒ごとに入る。視覚的には全く同じことが繰り返されているのに、音の間隔に異
なった測定を導入することにより、視覚的知覚が「ずれ」として意識される変容を受け
る。この作品も「レディーメード」の400字詰め原稿用紙(20 20)を使って作られ、そ
れぞれ10秒のシーケンス20からなっている。
《Counting, 1 to 100》も同じような現象を明らかにするものである。1から
100までの数字が、1フィート(34、5センチ)ごとに、つまり1、6秒ごとに現われる。次
に十字が数字の代わりに現われる。この映画は、したがって同時に二つの読取りを可
能にしているのである。一つは数字でもう一つは十字、両方とも同じ数を表している。
76飯村隆彦『映像実験のために』、p.94
77飯村隆彦『映像実験のために』、p.95
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・46
しかし早いスピードで現われる十字を数えることはできないので、「疑い」という現象を
引き起こす。
これらの映画を作ることによって、81知覚認識は空間に対しては有効だが、時間
に対してはあてにならないということが明らかになった。というのも、空間は目によって
二次元や三次元として把握することができるが、目に見えない時間は、体験しなけれ
ば理解不可能だからである。飯村はジョン・ケージの沈黙の作品に言及している。飯
村によれば、この作品は音の「トータルな長さ」を明らかにするものである。この意味
で、ケージの《4分33秒》(1943年)は飯村が1972年に制作した《2 Min. 46 Sec.
16 Frames(100 feet)》の祖父であると言えるかもしれない。この作品は300フィー
トの長さでそれぞれ100フィートづつの三つのパートからなり、一つ一つのパートが2
分46秒16コマの長さである。82まず第一のパートでは、24個の数字が毎秒規則正し
く繰り返され、第二のパートでは、1から60までの数字が毎分規則正しく現われ、最
後に第三のパートでは、1分目には1という数字だけが、2分目には2という数字だけ
が、現われる。そしてそれぞれのシーケンスの初めに同じタイトルが三回、各5秒づつ
現われ、飯村の考えによればケージの作品と同じように、作品の観念を表す。スコッ
ト・マクドナルドは「映画体験の根本的なリズムの非日常的な意識段階」が少しづつ
「映画が上映されている現実空間」への意識に変化していくと言っている。第三部は視
覚的な変化がほとんどないため、観客は「傷んだ映像の事件」を、すなわちフィルムの
編集や度重なる上映によって生じた、意図的ではない埃や疵を観察するようになる。
このことは初期の作品(《On Eye Rape 》)の時から、フィルムを意図的に削ったり引っ
掻いたり穴を開けたりしてきたことを思い出させ、結果として作家の意図的な部分と
78
Scott McDonald「The Films of Takahiko Iimura」、p.8
79編集の際には映写機とカメラのスピードを変えることができるが、映画館の映写機にはスピードの変換機能がついて
いるとはかぎらない。これらの映画は、全て1秒24コマの普通のスピードで上映されるように作られている。
80飯村隆彦『映像実験のために』、p.130
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・47
非意図的な部分についての考察を促す。
***
これらの作品はまず、私たちの映像と音に対する知覚を問う。それは両者を「同
等の」次元に置いた上でなされる。光と闇が、音と沈黙、沈黙と音とに関係づけられ
る。光はフィルムの上に起こった事件を見せ、それとまったく同じように、沈黙は音の
事件を聴くことを可能にする。他方、これらの作品は映画のメカニックな本質を明らか
にし、作家自身に、よりラジカルに、素材自体の性質について新たに考えるよう 83 促
す。飯村が「写真的痕跡」に「背を向けた」のは、上映方法を限定してしまうと思われる
フィルムの操作という制約から自由になる必要を感じていたからである。完全で継続
的な自由を手に入れるためには、まず、芸術と科学がいまだ未分化だった起源に立ち
戻らなければならない。専制的に決定されたカテゴリーに属さない、純粋な実験を行う
ことが重要である。
《Models》に続いて、1973年にはこれと同種の一連の実験が行われた。しかし
その表現はより洗練され、複雑になっている。《+&-》(プラス・マイナス)は、進展の仕
方が《Timed 1,2,3》に似ている。基礎的な数式によって構成され、数式を視覚的時
間的に認識することを提案している。《1 to 60 seconds》も同じような領域における
81前半の10のシーケンスでは、光の時間が規則的に1秒から10秒に増えていく。一番目のシーケンスでは光の時間は
1秒だが、10番目のシーケンスでは10秒になる。11番目のシーケンスから20番目のシーケンスまでは、逆に闇の時
間が増えていく。11番目のシーケンスは光の時間が9秒に減り、20番目になると全く無い。
82飯村隆彦『映像実験のために』
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・48
実験を、同じようなテクニックで84行っている。《24 Frames Per Second》は、前に
作った 85 様々な作品を組み合わせたようなものである。《+&-》と同じで、2部に分か
れ、それぞれが24のシーケンスからなる。第一部の初めのシーケンスは、24コマが
24組続く。そのうちの一コマは透明で、透明なコマの位置は一コマ分づつずれていく
。24番目のシーケンスでは、全てが透明なコマになるように進展する。第二部の24
のシーケンスも同じ法則で進展するが、こちらは透明なコマではなく黒いコマが徐々に
増えていく。音は、24コマのそれぞれの組の始まりと終わりを報せ86る「ピー」という信
号だけである。第一部では透明なコマで、第二部では黒いコマで鳴る。光による時間
の探求を映画のフィルムを使って展開する試みは、他にも、《Sync Sound》(1975と
1978)や《Repeated Reversed Time》(1980)といった作品によって続けれてい
く。ここに《Sync Sound》の前書を引用しよう。
「フィルムは1秒24コマで回る。それぞれのタイトル(24分のQ)は、その
分子が1秒間のコマの数(二つの黒いコマに挿まれた透明なコマの数、もしくは
二つの透明なコマに挿まれた黒いコマの数)を表す。そのコマは毎回一番前から
一番後まで、移動していく。音はそのコマと同時に入っている。」
これらの作品の独創性はどこにあるのか。それは、クベルカやコンラッドの探求
をさらに押し進め、深めた構造の新しさのみにあるのではなく、映画のまだ未開拓な
方向を開いて見せたことにある。それは、作品を体験するために、坐ったままスクリー
ンを見つめ続けることを観客に強制しな 87 いということである。光の時間的な運動は
目を閉じていてもわかるし、会場の空間を照らす光源となったスクリーンからは離れて
もかまわない。これらの作品は完璧に映画的だが、かつて映画をこのように理解した
者は他にいなかった。飯村自身は、今度は映画という領域の中で、芸術作品の環境
的アプローチを考えたのだった。これはマルセル・デュシャンやフレデリック・キース
ラー、日本では山口の仕事と親近性がある。前にも触れたが、飯村は《4分33秒》を
83
Scott McDonald「The Films of Takahiko Iimura」、p.8
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・49
大変好んでいた。それは、この作品が明らかに二つの重要なことを含んでいるから
だ。一つは、この作品が音楽をもはや調和関係に従属させることをやめ、主要な次元
である時間によって作ろうとしていること、もう一つは、「無作為」という概念によって環
境の音を作曲に導入し、結果として音楽を環境的な様相によって受け取ることを可能
にしたことである。
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・50
3-3-4. 映画の非物質化
パフォーマンスとインスタレーションは、作家、観客、イメージ、そして発表のた
めに使われている様々なシステムの関係を問題にし、探求する手段である。どんな問
題を含んでいるかによって、いくつかの傾向に分類することができるだろう。飯村は60
年代の初めからパフォーマンスを行ってきた。ギャラリー・内科での《ダダ62》、草月
ホールでの《薔薇色ダンス》、88そして<クロス・トーク>での《シェルター9999》がそ
れである。1971年、またもや<クロス・トーク>で、飯村は日本で「最初の」パフォー
マンス・ビデオである《内と外》を発表する。70年代を通じて、飯村は言語と空間とビ
デオ映像を関係づけた作品を、主にパフォーマンスやインスタレーションによって数多
く制作する。80年代には、もっと多くの作品が作られた。これは、特に技術が進歩し続
け、ビデオという道具をさらに扱いやすく、安価にしていったことによるのだろう。飯村
84「+」の部と「-」の部に分かれている。初めは1+1=2、1+2=3、1+3=4、・・・8+1=9、8+2=10、そして9+1=10ま
で続くモデルに従って進行する。これらの等式は前の作品と同様、編集用の黒と透明のリーダーによって表される。
1+1=2の場合なら、黒いリーダー一つの後に+記号を入れた透明のリーダーが一つ来て、また同じ長さの黒いリーダー
が続き、その後に=の記号を入れた透明のリーダーが一つ、そして最後に前のリーダーの二倍の長さの黒いリーダーが
来て、「2」を表す。1+2=3の場合なら、まず黒いリーダーが一つ、そして+記号を入れた透明のリーダー、次に黒いリー
ダーが前の黒いリーダーの二倍の長さで入り、=を入れた透明のリーダーに続き、最後に最初の黒いリーダーの三倍の
長さの黒いリーダーで「3」を表す。第二部も同じ原則で、今度は逆に引算を表す。10-1=9、10-2=8、10-3=7、・・・
3-1=2、3-2=1、そして最後は2-1=1で終わる。
85何コマかにわたって数字が現われ、次にその数字に応じた長さの黒いリーダーが来る。数字は規則的に増えていく。
1+2=3秒+3=6秒+4=10秒+5=15秒といった具合に。逆に言えば、対応する数字が記された透明のリーダーが現わ
れるのは、3秒後、6、10、15、21、28、36、45、55、66(1分6秒)、78秒後、等々で、30分30秒に達し、足算が
60回繰り返されるまで続く。
86最初の24コマでは一番目のコマに、次の24コマでは二番目のコマに、といった具合に進展していく。次のシーケンス
では24コマが23組繰り返され、透明なコマは二コマ続けて現われ、徐々に位置をずらし、最後は一番後に来る。三番目
のシーケンスでは24コマが22組繰り返され透明なコマは三つになり、やはり同じように位置をずらして、最後に一番後
になる。
87Scott
McDonald「The Films of Takahiko Iimura」、p.15
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・51
はビデオと平行して、映画特有の制作、再生システムも研究し続けた。
《Summer Happenings》の中に見られた環境化というテーマは《Models》でさ
らに推し進められ、従来とは異なる上映の可能性を試89した《Film-installations》で
完全に空間化された。これらの作品は、光の画面を見せるだけで満足せず、映画の制
度全体を暴くものである。スクリーンを照らす光は、フィルムに記録された映像を見る
ことは可能にするが、映画を支える他の要素を闇の中に沈めてしまう。例えば、映写
機、映画館、観客の椅子、そして観客自身も含まれる。飯村の映画やインスタレー
ションにおいては、投影されている光と投影されていない光は、共に同じくらい重要な
ものである。第一、投影のための光は、映画館や展覧会場が環境の光に照らされて
いても、見えるのである。
黒や透明のリーダーで構成されたフィルムは、会場のサイズに合わせてループ
にして、上映するばかりではなく、壁に掛けたり天井にぶら下げたりして展示される。
その結果、観客は様々な解釈を同時に行う自由を得るわけである。
飯村は二種類のインスタレーションを行った。その一つ、《制度としてのフィル
ム》には、《プロジェクション・ピース》(1968年-1972年)、《一つの線として見える
ループ》(1972年)、そして《フィルム・インスタレーション》(1974年)が入る。もう一
つのシリーズは《現実時間》と名付けられ、《タイミング1・2・3》(1972年)、《分と
秒》(1973年)、そして《一秒と無限大》(1975年)を含む。これらの作品は、空間の
装置によって私たちの時間に対する知覚を新たに問題にするものである。
88ケージ自身も、音楽史に「転機」をもたらしたこの作品は、ラウシェンバーグの白い作品を見て思いついたのだと告白
している。ナム・ジュン・パイクが、ケージとラウシェンバーグへのオマージュとして、1960年に透明なフィルムだけの映
画作品《映画のための禅》を作ったことを思い出しておこう。また、マレービチが、それより前の1917年から1918年に
《シュプレマティスムのセマフォ》を作っていたことも。(Camilla Gray、The Russian Experiment in Art、London、
Thames and Hudson、1962(カミラ・グレイによる引用《芸術におけるロシアの実験》、ロンドン、テームズ・アンド・ハド
ソン社、1962年)p.240)《白の中の白》は、白地に白い四角が描かれている。
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・52
《プロジェクション・ピース》は三台の映写機からなり、うち二台は向き合ってい
る。一台には黒いリーダーのループが入れられ、光を遮断しており、もう一台には何も
入れられていないので、壁に生の光を投影し、第一の映写機のシルエットを浮かび上
がらせる。三台目は透明のリーダーが入っていて、第一のプロジェクターと平行して置
かれている。三台の映写機とそれぞれが投影する光、もしくは投影しない光は、相互
に対立の関係を持つ。《一つの線として見えるループ》の原理はさらに単純である。二
台の映写機が並べて置かれ、一方には中央に黒い線が描かれた透明のリーダーの
ループが装備され、もう一方には透明の引っ掻き疵がある黒いリーダーのルーープが
装備されている。こうして二つの「映像」が反対側の壁に見える。《フィルム・インスタ
レーション》には映写機は使われない。黒と透明の二つのループが天井にぶら下げら
れている。白いスクリーンが二つ壁に据えられていて、現われない光を待っている。映
写機が無いのだから。飯村はここでフィルムとスクリーンの物理的な距離を見せようと
したのである。
《タイミング1・2・3》は同じフィルムのコピー2本と一台の映写機からなる。フィ
ルムは三つのパートに分かれていて、一つのパートがそれぞれ100フィートである。コ
ピーの一つは壁に水平に固定されている。三つのパートは上下に並べられ、空間の周
囲をめぐっている。同じフィルムのもう一つのコピーは、一つ目のコピーが展示されて
いる壁の一つに映写される。三つのパートには、数学的に計算された、それぞれ異
なった時空間隔が、視覚的、または聴覚的、またはこの両者の組合せで印されてい
る。最初の二つのパートは映像と音が同じ間隔で同時に区切られている。三つ目の
パートは、音響的視覚的間隔が一定の規則に従って増大していく。ここでは異なる要
素の知覚の速さの違いと、二つの知覚形態の関係が問題にされている。
《分と秒》はそれぞれ2分(72フィート)の長さのフィルムを2本、ループにして使
う。1本目は同じ長さのリーダーを2本、一方は黒で一方は透明のものからなってい
る。2本めのループは、透明のリーダーの断片60と黒いリーダーの断片60で構成さ
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・53
れていて、それぞれ交互に編集されている。黒も透明も同じ長さなのに、時間間隔の
認識は、分と秒で変わってしまう。分の場合には黒いリーダーの方が長く感じられるの
に対して、秒の場合には透明なリーダーの方が長く感じられる。
《1秒と無限大》も二台の映写機で構成され、一方には透明なリーダーのループ
が装備され、もう一方には黒いリーダーのループが装備されている。この二つのフィル
ムはギャラリーの部屋の明かりの中で上映され、時間の無限という観念の中で溶け合
う。しかし、これは純粋に「コンセプチュアルな」体験である。なぜなら実際には誰も無
限を体験できないのだから。黒と透明の2本のリーダーはそれぞれ24コマ(1秒)の長
さで、物質化された「時間概念」を表し、壁の一隅に展示された。
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・54
3-4- ビデオによる最初の実験
3-4-1. ビデオの時間
ビデオができてから10年がたった。飯村にとってその時間は、このメディアのま
だ知られていない可能性について考えるためのものだった。この新技術の長所は、撮
影に際しても再生に際しても扱いがきわめて簡単なことである。8ミリの場合、特に
フィルムの現像のプロセスにおいて、相変わらず職人的手腕が必要になる。ビデオは
個人制作に大変適した道具である。めんどうな技術も必要ないし、費用もさほどかか
らないため、自分の考えを真っすぐに表現することができる。映画制作に必要な技術
はビデオが無用なものとしたあるヒエラルキーを前提としている。
ビデオのもう一つの注目すべき利点は、「クローズ・サーキット」の相互作用が可
能な点で、コミュニケーションのミニ・ネットワークを作れば、マス・メディアに挑戦する
こともできる。「情報機能」を備えたビデオは映像をその専門家から自由にする。
「映像はすでに、さまざまなメディアと芸術領域にかかわる現象である。したがっ
て既成のメディアとジェンルに固有な映像があるのではなく、90相対としての映
像のなかに、個々の作品が存在するだけである。映像に関して、メディアとジャ
ンルを超えたグローバルな目が当然ながら必要とされるだろう。」
パイクやケージが言ったように、私たちはテレビの前の「パブロフ博士の犬」であ
89松本は1968年、映画《薔薇の葬列》の中で、俳優たちに磁石とテレビで遊戯をさせて、日本で初めのマグネティッ
ク・スクランブルを作った。山本圭吾は1969年にパフォーマンスの形態で《火のイベント》を撮影し始めた。しかし、どち
らも観客を前にしてのものではなかった。
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・55
ることをやめ、個人に自由を取り戻すために、管理に奉仕するテレビのコントロールを
拒否しなければならない。
***
飯村がこのエレクトロニクスのメディアとどのように出会ったかをここで思い出し
ておこ91う。1967年、ニューヨークではソニーのポータパックがすでに二年前から売
られていた。しかしまだ大変高価だったので、あまり使い易いとは言えなかった。飯村
は当時「文化のテロリスト」というあだ名で呼ばれていたナム・ジュン・パイクと出会う。
パイクはしばしば大きな磁石でテレビを攻撃していた。飯村は興味をひかれたが、少
し原始的だとも思った。飯村の目にはパイクがテレビのサーキットを変容させて出てき
た映像の方がおもしろく見えた。そしてむしろアルド・タンベリーニの抽象的な作品の
方に惹かれ、マレービチの実験を継ぐものだと思った。もっとも今度は白い四角では
なく、黒い四角である。タンベリーニの作品はすべて黒という色を使う。1964年から
1968年にかけて、タンベリーニは《ブラック・テレビ》を作った。これは2年間に放映さ
れたテレビ・ニュースを詰め込んだものである。「黒は誕生であり、全ての統合であり、
全方向への意識の拡散である。」
タンベリーニの映像に魅了された飯村は、1969年に日本へ帰るとすぐに、16ミ
リのビデオ・テープ・レコーダーとカメラを購入する。初めのビデオ作品は、《男と
女》(1970年)と題されたインスタレーションである。透けるタイツだけを身につけた
男と女が白い背景の前でありとあらゆるポーズをとる。四つのビデオ・テープが、目の
高さ一列に並べられた四台のモニターで映し出された。次に飯村は《椅子》(1970
年、ビデオ、白黒、10分、音声無し)を作り、編集無しで、物の影が位置を変え、消え
ていくのを見せた。
90飯村隆彦『映像実験のために』、p.50
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・56
これら初期の「試み」は、黒や透明のリーダーによる映画にはない「有機的な」性
質を持っている。しかし飯村は「ミニマル」な映画の厳格さに通じ 92 るものをビデオで
も試みていた。《タイム三部作》がそれである(1971年、ビデオ、白黒、55分、音声
つき)。その一つ、《ムーン・タイムド》(15分)では、月が画面の端に現われ、もう一方
の端に消える。ビデオ・テープ・レコーダーが録音の時に93映像を消す(ワイプ)システ
ムを、点滅するデジタルのカウンターの画面の流れとシンクロさせる。《タイム・トンネ
ル》(35分)では、カメラをモニターに向けたときに得られる「フィード・バック」効果を
使った。飯村はこの画面に数字が予測のつかない仕方で次々に現われる映像を映し
た。フィード・バック効果がこれらの数字を、まるで鏡を向かい合わせに立てたときのよ
うに無限に増やしていく。エレクトロニクスのメディアによって可能となった、時間の知
覚に関するこれらの実験が、後に黒や透明のリーダーからなる《モデルズ》に現われて
いる観念を導き、豊かにしていたのである。飯村はここで、「観念の時間とリアルタイム
の位相を示すものである」。これらの実験は新しいテクノロジーと素材を使っており、使
用原則にさえ前例というものがなかった。
したがって、少しでも作家がそれまで培ってきた関心時と合致すれば、それが
存在理由になった。非常にメディア化された作品が、だからといってそれだけ独創的
で意味深いとはかぎらない。飯村がエレクトロニクスによって、映像と音の制作がいか
に楽になったかを書いているのは、次いで飯村がすでによく知っている要素に映像と
音とを結びつける制作システムを発展させるためである。
91飯村隆彦『映像実験のために』、p.50
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・57
3-4-2. 観察される観察者
観察する者にとってもされる者にとっても価値のあるビジョンの構造は、ビデオの
クローズ・サーキットの構造に見いだされる。映画と違って、ビデオは観察する者とされ
る者とを同時に見ることが可能である。すると時間と空間の中で一種のフィードバック
が起きる。飯村は例として英語の I see you"という文を取り上げる。ビデオのクロー
ズ・サーキットの特性のおかげで、観察者 I も観察され、 You となる。 観察する 、
観察される という二つの機能は、こうして発94話を通じて関係づけられる。言葉のお
かげで、役割を交換したり、再定義することができる。映像が言葉によって意味を得
る。一つの映像が様々な意味を持つことができる。観察の意味がそこで問題となる。
同じように、一つの発話が複数の映像を意味付けることもできる。
1975年から1976年にかけて、飯村は三部作、《Observer/
Observed》(1975),《Observer/Observed/Observer》(1976),
Monitor,
《Camera,
Frame》(1976)を制作する。これらの作品は、英語の文法構造を元に構
想がたてられ、飯村は特に日本語のタイトルをつけなかった。日本語の場合の表記
は、《Timing》シリーズや《Models》のとき同様、単にカタカナで書かれた。作品解説
では、飯村は漢字を使って「オブサーバー」には「観察者」、「オブサーブド」には「被観
察者」という言葉をあてている。
《Camera,Monitor,Frame》は一番最後に作られたが、他の二作の導入となる
内容である。タイトルからわかるように、この作品はビデオシステムを構成する要素
を、そのシステムの中での役割によって、しかも言語として定義することによって取り
92東京都美術館で行われる〈毎日現代美術展〉の際に発表される
93アルド・タンベリーニの言葉、ジーン・ヤングブラード『Expanded
Cinema』、p.311.
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・58
上げている。飯村は言語学的なアプローチを行ったが、映像を言語に従属させるので
はなく、また逆に言語を映像に従属させるのでもなく、二種類の異なった性質を持っ
た記号の違いを際立たせた。言葉を読むときに一つ一つの単語ではなく文を読むの
と同じように、映像のシンタックスや形態論を読まなくてはならない。飯村は文法的な
用語を使ってこの三部作の主なテーマを明確にしている。
『=「文として成立する限りにおいて、それぞれの作品は文法約な主題を
もっている。文法的な主なテーマをとりあげると、指示および人称代名詞を主語
としずo動詞を述語とする単文(Camera, Monitor, Frame, a-1)、単文の関係
代名詞による構文(Camera, Monitor, Frame, a-2)、さらに不定冠詞、定冠
詞、および不定詞( Camera, Monitor, Frame, b-1, b-2, c〕、cヽ動詞の能動
態と受動態(
Observer/
Observed,
a)、動名詞の甘定形と再定形
(Observer/ Observed, b)、人称代名詞を主語とし動詞を述語とする単文の
能動態および受動態、さらに肯定形と杏定形の四つの組み合わせ(Observer/
Observed, c)、同じく人称代名詞の主語に動詞の述語をもつ文に割係代名詞
による構文が接統する場合( Observer/ Observed, c )、ふたつの関係代名
詞をもち、動詞の能動態おょび受動態を同時に含む構文(Observer/
Observed/ Observer, b )、関係代名詞はびとつで動詞の能動態と受動態を
含む構文(Observer/ Observed/ Observer, c)、などである。
これらは文法の一部にはすぎないが、個々の例文の文法的な相連を映像
において表現しうるかどうかということは興味深いテーマである。言い換えると、
一定の文のシグニブァイア(能記)に対して、複数の映像のシグニブァイド(所
記)が成立することになる。
なお映像と言語の間係を個々の文法的な問題にわたって分析した試み
は、私の知る限り作品においても、また論文においても欧米には見あたらない。
ビデオそのものがまだ記号学の対象として扱われるには若いメディアであるが、
映画の記号学の研究については、クリスチャン・メッッをはじめとして理論書があ
る。私自身は英訳書を読んでいるが、私の現在の関心において、映像の記号学
という基本的なテーマにおいては参考となっているが、作品の制作においては非
〃に典なった方法をとっている。」
飯村はヴェルトフ(《This is a Camera, No.1》)やエイゼンシュタインやクリス
チャン・メッツ(《This is a Camera, No.2》)がすでに提示した映画の意味論との関
係で、自らの「ビデオの意味論」の定義を大変明確に分析している。飯村はしかし、映
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・59
画にしかあてはまらない理論とは距離を置こうとしている。実際、ビデオはまだ研究対
象95になっていなかった。メッツは劇映画の物語性を扱っていた。飯村はそれとは違っ
て、映像が操作される96システムとしてビデオの定義を行った。
***
《Observer/Observed》と《Observer/Observed/Observer》は次のような
文に基づいている。 I see you (Who is) shooting me"(私は私を撮っているあなた
を見る)、 I see myself (who is) shooting you"(私はあなたを撮っている私を見
る)。この文は飯村と妻のあきこによって英語で読まれる。画面の下に現われるテロッ
プも英語である。英語やフランス語では動詞が I"と you"の間に置かれ、媒体となっ
ているが、日本語では語順が変わり、主語と目的語は動詞によって切り離されること
がない。したがって日本語は、ヴェルトフのカメラによって定義されたビジョンの構造に
近い。主語が脱落する場合はなおさらである。日本語では、主語が明らかである場
合、言わないことが多い。だから、もし日本語版を作るとしたら、作品全体を全く違っ
たものに作り替えなければならないだろう。
***
《I=YOU=HE/SHE》は、1979年に制作されたインスタレーションで、観客の三
つの視点を同時に見える三台のモニター上に提示するというものである。飯村は正
面、背後、プロフィルからそれぞれ撮影されていて、任意のモニターに任意の映像を
映すことのできるスイッチを用意している。ダリル・チンはジョン・ハナルトを引用してこ
う言う。「これは自分自身との対話なのだ。そこではモニターが観客に向けられた鏡と
なる。現実の時間と録画された時間とで構成された時空間の膨張が、展覧会場の観
客の空間と関係する。《Self Introduction》(1983)では、飯村は二台のモニターの
94飯村隆彦『映像実験のために』、p.134
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・60
間の回転椅子の上に座り、即座に向き直れるようにして、モニターのどちらかによって
自分自身にインタビューする。《Double
Portrait》では、飯村はマグリットの《パイ
プ》、もしくはロラン・バルトの「「私」と書く者である「私」は「あなた」によって読まれる
「私」と同一ではない」の、自分なりのバージョンを試みる。飯村は二つの命題を提示
する。 I am Taka Iimura97"、 I am not Taka Iimura"。同じフレーズが妻のあきこ
によって繰り返される。 I am Akiko Iimura", I am not Akiko Iimura"ビ。デオに
よって飯村は、マグリットが見せていたことを超える問題を提示している。ビデオは現
実の時間と「保存された」時間を同時に見せることができるため、「記録された映像を
映し出すこのメディアの幻覚作用」を問題とすることができるのだ。ビデオ映像に関す
るこうした研究は、《TV Confrontation》(1978)にも表れている。二台のモニターが
画面を向き合わせて置かれ、映像を映し出している。まるで互いに説教しているように
見える。このようなメディアの大騒98ぎを演劇化することによって、映像の現実の真実
性が様々な次元で問題にされる。この二台のモニターは何に関して討論しているの
か。私たちとどんな関係があるのか。それは本当にそこにあるのか。
飯村はこれらの作品に対する実に多様な参加方法を提案している。ダリル・チ
ンは「条件付の時間」という。人がそれを使う時、人がその前に座って自問するに任せ
るときしか存在しないからである。飯村は時にジャック・デリダを引用する。そのフレー
ズのいくつかは、ビデオ作品の元ともなっている。例えば《Talking
to
myself:
Phenomenological Operation》(1978)では、 I hear myself at the same time
that I speak"という『The Speech and Phenomena』か99ら直接借用した文が使わ
れている。飯村はさらにこの文からいくつものバリエーションを作っている。 I
hear
myself at the same time that I speak to myself at the same time that I
hear"(私は私が聞くのと同時に私自身に話すのと同時に私自身を聞く)、 I
95飯村隆彦『映像実験のために』、P243ー262。英訳『Takahiko
hear
Iimura Film and Video』、P44ー50
96飯村隆彦『映像実験のために』、p.246
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・61
myself at the same time that I speak"(私は私が話すのと同時に私自身を聞
く)、 I speak to myself at the same time that I hear"(私は私が聞くのと同時に
私自身に話す)など。1990年に発表した《私があなたを見るようにあなたは私を見る
(As I see you you see me)》では、
「パフォーマーは2台の向き合うカメラとモニターの間を、往復しながら、タ
イトルの文を英語と日本語で発声する。同一人物が、映像、文学、音声の関係
で「I」と「YOU」の二役を演じるコンセプチュアルなパフォーマンス/インスタレー
ション」である。
飯村はここで「機能によっては分けられているが知覚によって統一されたコミュ
ニケーション(自己の内部の話し手と聞き手)」を提示しているのである。
***
飯村はまた《見る/聞くことの構造》(1983年より)とい100うビデオとフィルム投
101影器を使用したパフォーマンスで、ビデオと映画の平行性を実験している。飯村は
舞台の上に椅子に座り、スクリーンを見ている。後ろにフィルムのないプロジェクター
が白い光を投影している。飯村の前にビデオ・カメラが置かれ、作家の口と唇の動き
のクローズ・アップは何台かのビデオ・モニターに映るように設置される。飯村は唇が
常にモニターに現われるように全く動かずに話している。話しの内容はそれぞれのパ
フォーマンスによって異なるが、例として、1983年の札幌の北海道近代美術館で行
われたパフォーマンスの記録の一部をここで載せたい。
97Daryl
Chin『The Video Art of Takahiko Iimura」『Takahiko Iimura Film and Video』、p.37
98Daryl
Chin『The Video Art of Takahiko Iimura」『Takahiko Iimura Film and Video』、p.38
99
Jacques Derrida『The Speech and Phenomena』、Northwstern University Press、1973、p.77(『声と現
象』、和訳:那田尚史)
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・62
「私は私の影を見ています。と同時に私はいましゃべっている口を見ています。
私は私のイメージの観客です。私のイメージはシルエットですから、私の外形の
みを示しています。私の前にはカメラがあります。私の後ろに映写機があります。
私の前にはモニターもあります。そのモニターに私のイメージの一部が映ってい
ます。そのイメージは私の後ろにあるモニターにも映っている筈です。そのイメー
ジを私のところから見ることはできませんが、観客によって見られています。です
から、私は私のイメージの観客でもありますが、同時にそのイメージを私自身が
投映しています。私は観客でもありますが、同時に観客によって見られるイメー
ジでもあります。
私は観各に対して背後を向けています。それは観客と同じ方向を向いていま
す。観客と同じようにスクリーンを見ています。そのスクリーンに私の影が映って
います。ですから私はその影を見ながら、同時に話している私をモニターに見て
います。私にはいま、口だけがそのイメージとして現れています。私の声はその
口から発しています。その声をもちろん私は同時に聞いていますが、その声はま
た拡大されて、観客にも問こえているわけです。ですから、私は観客と同じょうに
聴衆でもあるわけです。私はいま、自分の口から発している声とスピーカーから
拡大される声とを同時に間いています。そのふたつはときに区別がつきません。
見るということと、問くということとが両時に行なわれているわけですが、私は双
方において、観客と両じ立場にありますが、その声を発しているのは私です。で
すから、私は私の声の聴衆ですが、その送り手になっています。ここでイメージ
を見ながら、イメージについて記述しながら、声を発しています。私の前のスク
リーン、スクリーンといっても壁ですが、私の影が現れています。
私はいま自分の口を見ながら、その声の発せられる場所を見ています。
(後略)」
他のバ 102 ージョンでは、ビデオ・モニターの台数、公演の長さ、内容が変わる
が、主なテーマは下記の言葉であろう。1995年に東京都写真美術館で行われたパ
フォーマンスの際、飯村の肉声以外に、サンプラーも音原として使用され、そのサンプ
ラーによってランダムに発信された言葉は次となった:「目を閉じてください。何が見え
ますか。目を開けてください。何が聞こえますか」。
100飯村隆彦
「私があなたを見るようにあなたは私を見る」、『メタメディア』、東京都写真美術館、
1995年、p.22
101飯村隆彦
「On Talking to Myself」、『Takahiko Iimura Film and Video』、p.55
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・63
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・64
3-5- 風景とテクノロジー前例のない視覚的角度
80年代の初め、飯村はそれまで続けてきたのとは全く異なる性質の作品に取り
掛かった。それらは、70年代初めのビデオ作品(《椅子》、《月》)を思い出させる。物を
固定して、その時空間における変化を追うものであった。その要素のいくらかは後の
作品の中にも残っていたとしても、形態と主題、そして作品を支配する美学は、もう見
られなくなっていた。
飯村はまだあまり使われていないメディアを試すことにした。レーザー・ディスク
である。ビデオよりも確実に映像を保存することができる。ビデオはこれに比べればま
だ破損しやすい。レーザー・ディスクの堅牢性は、映像にある種の「新鮮さ」を与えた。
新井満がその著書、『環境ビデオの時代』で書いているように、BGV(バック・グラウン
ド・ビデオ)はほとんど動かない風景を見せる。飯村は自分が制作した作品群を、「風
景ビデオ」と名付けた。ビデオはここでは、時空間におけ103る、ビデオなしでは不可能
な視点を体験させるために機能する。技術的なことだけでなく、その場所に自分で行
くことができないからでもあるし、ビデオが提案するのと同じようには見られないから
でもある。撮影された環境は、環境/人口の自然、都市の庭園となり、そのまま体験
することのできない自然を再び造り出す。かつての中国で都市生活者が画家にできる
だけ 新鮮な 山水画を描いてくれと頼んだのとちょうど同じである。滝の絵は、水の
音が聞こえるなら成功であったと言う。この役割は、今日では「風景ビデオ」が負って
いる。メディアは変わることができる。風景としてのメディアは、その機能を保ってい
102
飯村隆彦『映像実験のために』、p.264-265
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・65
る。
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・66
3-5-1. エヤーズ・ロックの時間
1984年、飯村はオーストラリアの王立メルボルン技術協会から、パフォーマン
スと講演のために招かれる。地図を開くと、大陸の中央に目印のエヤーズ・ロックが
見えた。直径3キロメートル、円周10キロメートルに及ぶ巨大な岩の塊で、太陽の光
を反射して、一日を通じて色が変化する。山口勝弘は、エヤーズ・ロックは「物理的精
神的現実」を反映する鏡の壁のようだと記している。飯村はこの自然の記念碑を前に
我を忘れることなく、砂漠の真ん中の巨大な岩の古代的な存在感について考える。
周りに広大な砂漠を作ったのは、まさしくこの岩の「孤独」なのではないか。飯村はエ
ヤーズ・ロックを見た時、人間の手によるものとは思えない、自然が造り出したアース・
ワーク104を見たのだ。
飯村は一日の様々な時間にフィックスで岩を撮影した。絵画の静止映像と似て
いるが、時間につれて変容し、発展する。現代の映像作品は、だいたいにおいて、映
像や映像の時間にプログラミングを受けさせる。その内部で現実の時間が取り扱わ
れ、日常生活の時間もプログラミングされる。ウォーホルは逆に日常のプログラミング
を解放しようとした。そこが風景画の概念とは違うところである。ウォーホルが1963
年に制作した《エンパイアー》は、今日では「古典」となっているが、何時間も続く。もし
5分間で帰ってしまう観客がいたとしても、映画はウォーホルがプログラミングした時
間の間、続いている。時間は目には見えないが、感じ105取り認知できるものとなる。こ
のような映画は、純粋に時間的な作品として解釈できる。アンディ・ウォーホルの映画
は、現実との同時性によって、映像の「物質化」を実現する。その時間的な性質は、撮
103
飯村隆彦『映像実験のために』、p.273
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・67
られた物や風景に複数的な時間性を与える。
「その両方とも、一つの対象物にカメラを向けたまま、時間の織物(テキスト)を
受信しようとしたのである。そしてこの行為としての受信内容は、われわれ見る
側の心の中に、見えない波動を発生させ、複雑な波動同志の干渉が持続し始
めるのである。この精神の波動から生まれるゆらぎの世界こそが、あの達磨大
師の修業の中に存在していたものに地階のではないか。」
飯村はこうして、60年代に試みた物の探求に帰ってきた。ミニマル・アートやコ
ンセプト・アートでは、イメージは物となる。<モノ派>のアーティストは美術館に石を
作品として展示した。同じように飯村はエヤーズ・ロックを撮影し、レーザー・ディスク
を作った(1985)。岩は<モノ派>のイメージとして解釈できる。それは現実の中で
把握されるのではなく106、イメージとして把握されるのである。
個人の表現は特に近代になってから現われた。アーティストは個人的な流儀で
創り「すぎる」。このような状況へのリアクションとして、<モノ派>の代表者たちは、
「創る」ことを拒否し、物を異なった見方で見て再発見しようとする。作品を見る者は
発見しなくてはならず、自分なりの意味を作品に与えなければならない。見る者は、
アーティストが創ったものを再び創りなおすのである。見ること、意識することが、一つ
の表現形態として認知される。<モノ派>のアーティストが美術館の中に石を置くと
き、彼らはアーティストが変形しなかったものを見るという点にこだわる。ここで強調さ
れ、増幅されるのは、見る者の発見するという行為であり、アーティストの創るという行
為ではない。この状況は、アーティストが観客に実験し、感じ、考えるよう提案する時
に目指す「相互作用」の基礎となるものである。<モノ派>の作品は、アーティストが
その作品を構成するものを変形しなかったという意味で、相互作用的である。
104山口勝弘「窮極の風景ビデオ」、『飯村隆彦のメディアワールド』所収、p.14.
105アース・ワークは、60年代アメリカに登場した。ロバート・スミソンやウォルター・デ・マリアらが、初めにこの分野を開
拓した。ロバート・スミソンは、作品を置こうと思っていた風景の上をヘリコプターで飛んでいた時に事故で死亡した。
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・68
***
飯村は、80年代はもはやコンセプト・アートに適してはいないと考えた。実際、
1981年(《Talking
Picture》)から1989年まで、まったく映画を作っていない。そし
て1989年、龍安寺の石庭を撮影した(《間:龍安寺石庭の時/空間》、1989年、16
ミリ、カラー、15分、音楽:小杉武久)。もっとも、飯村はビデオでニューヨークの風景
を撮っている。《Night Songs》(1986)では、この大都会の夜だけを、デューク・エリ
ントンの6つの曲(《キャラバン》、《テイク・ザ・A・トレイン》等)にのせて描いている。映
像と音楽は完全に独立して平行に進行するが、「相乗作用」をもっている。《Night》の
後、飯村はもう一度これを補足する映像を撮った。《Day》は、「間の観念に基づいて、
ビデオの時間と画面の中のネガティヴな空間」を提示するよう心がけた。こうして完成
した《New
107York
Day and Night》は、もう一人のニューヨーカー、小杉武久の音
楽で1989年に発表された。小杉はこの時、パーカッションや石や小さなオブジェを使
い、またヤマハのエレクトロニクスによる残響効果をによって、フルートを通る息の音
を長く響かせた。
106山口勝弘「窮極の風景ビデオ」、『飯村隆彦のメディアワールド』所収、p.14.
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・69
3-5108-2. 龍安寺の間
風景における 私 の位置は、ルネッサンスで変わった。透視画法を使うことに
よって、主体(画家ー見る者)と客体の間に特殊な距離が生じ、自然からその霊性を
奪って平凡なものとしてしまった。ブリューゲルのようなルネッサンス以前の風景画家
たちは、自然のフォルムを再現しようとはせず、その中に含まれている精神を表そうと
した。「超自然的」で動物的な力をである。山の表現は特に超自然的な存在の解釈と
描写における自由の大きさを証明している。それは時にシュールレアリズムのオプセッ
ションを思わせる。このように風景に 霊性 を見る態度は、東洋にもある。しかし同じ
方法ではない。絵は、風景を精神の内部に広げるためのメディアとしてとらえられてい
る。見る者は、風景の中を動き回る自由を持つ。複数の視点を選択することができる
からである。
1989年、飯村は建築家の磯崎新、作曲家の小杉武久とともに、新しい風景ビ
デオを作り、《間:龍安寺石庭の時/空間》と名付ける(龍安寺の石庭は、16世紀の
初めに作られた。白い砂利で覆われた長方形の庭に、15個の石が、5つの小島と
なって配置されている)。字幕に現われる文章は磯崎によるもので、英語と日本語で
書かれている。
「庭は瞑想のための
装置である
空白を感知せよ
静寂の声を
開け
空虚の浸透を想え
107飯村隆彦
『映像実験のために』、p.278
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・70
物ではなく
その間に生まれる
距離を
音ではなく
それが埋め残した
休止部分を
感知せよ
地面に置かれた
石は
シュミセンのある
鳥なのだろうか
白砂は
それをこの世界から
隔てている
大海なのだろうか
呼吸せよこの庭をのみこみ
のみこまれ
合一せよ」
ここでは 109 閉じた空間を体験することができる。「間」は庭に作られ、庭は「間」
として感知される。カメラの動きがゆっくりなのは、時間と空間の混合を感じ取るため
の必要条件である。撮影と視点は繰り返される。一つの石から他の石へ。一つの間か
ら他の間へ。動きの速さが空間を決定する。壁の平面的な空間は奥行を拒否し、西
洋の風景と違って、いかなるスペクタクルもない。二次元しかないのだ。枠が拡張を
限定する。ビデオは空間をミニチュア化する。空間は一つの檻である。ビデオを通して
見るという体験は、《エヤーズ・ロック》を作った時に展開した精神内部の風景という観
念をさらに強固にする。見る者は庭の中に実験的な方法で入っていく。
カメラを置いた荷車の速さを決めるのはコンピューターである。こうして撮影の距
離、時間、角度が、ビジョンを拡大するように決定される。コンピューターは、手で撮影
108飯村隆彦「New
York Day and Night, 作品解説」、『飯村隆彦のメディア・ワールド』所収、p.41
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・71
するよりも正確である。重要なのは、物と物との関係である(コンピューター、カメラ、
石)。コンピューターは、テクノロジーの助けなしでは経験することのできない、かつて
ない視覚を提供する。完全に規則的な速さは、龍安寺の構造が前提としている固定
した視点の観念と意識を打ち破ってしまう。ビデオは、能や他の伝統的な音楽と同じ
ように、時間を伸ばし、異なった時間体験を可能にしてくれる。
クリストフ・シャルル・現代日本の映像芸術・第三章:飯村隆彦・72