19 世紀フランスと日本における不敬の刑罰化 ― 国家の比較歴史社会学の試みとして ― 大阪市立大学 稲永祐介 1. 目的 これまでの社会学は、とりわけ機能主義の立場において国家を、社会的機能の観点から一般化 する傾向があった。このアプローチから得られた成果はけっして無視しえない大きなものであっ たが、理論的には近代国家を単線的な合理化の結果とみなし、国家の構築過程における歴史的・ 文化的多様性を看過した。本報告の目的は、こうした社会学理論を反省し補い、越えるために国 家の比較歴史社会学の学問的利点を提案することである。 2. 方法 この目的のために本報告は、19 世紀のフランスと日本における不敬の刑罰化を比較する。まず、 復古王政期フランス(1814-1830)における秩序紊乱の概念をカトリック教会の権威との関係から 考察する。ここでは、シャルル 10 世が即位してからの王権と教会との再結合に焦点を当て、冒 涜に関する法(1825 年)が定める重罪事項を検討する。次に、明治期日本(1868-1912)の秩序 紊乱の概念を皇室の権威との関係から考察する。ここでは、旧刑法(1880 年公布)が定める不敬 罪に着目し、国家が法規によって禁止する臣民の行為を論じる。資料には、フランスでは同法の 制定をめぐる議会録(ボナルド、シャトーブリアン、コンスタンの言説)を、日本では自由民権 運動期の不敬罪の判例(手塚豊『自由民権裁判の研究(下) 』1983 年所収)を扱う。 3. 結果 復古王政期フランスの秩序紊乱は、カトリック教会の権威への冒涜であった。憲章(1814 年) の 13 条にある「神聖不可侵」という文言は、同法の 6 条にある国家宗教としてのカトリシズム に由来し、国家による王の聖性の制度化を意味する。シャルル 10 世はランスの大聖堂で聖別を 受け、「王の奇跡」を復活させようとした。しかし当時の君主制は、ナポレオン帝政から引き継 ぐ法の支配をすべて否定して、旧体制を再建することがもはやできない。すでに政治システムは カトリックの文化コードから離れはじめており、しかも一定の条件の下ではあるが、プロテスタ ントやユダヤ教徒の信仰を法の名において承認していた。こうした「諸条件の平等化」が進展す るなか、冒涜に関する法はついに適用されることはなかった。他方、明治期の秩序紊乱は天皇の 聖性への冒涜であった。この聖性は、新秩序を安定させるために旧体制から引き抜かれ、保護さ れる対象であると同時に、共同体の中心として練り上げるべき対象でもあった。皇室への不敬は、 教育勅語(1889 年)の発布により、刑罰の対象であるだけでなく、罪責感という集合意識の問題 となる。1907 年に旧刑法が改正された際に 74 条に神宮への冒涜が罰則規定に加わるのは、 「建国 の祖」を強調し、臣民の感受性に天皇の聖性を内面化させる立法者の意思をみることができる。 4. 結論 復古王政期フランスの王の聖性は、カトリック教会の権威に由来し、国家によって反抗勢力か ら保護される。他方、日本における不敬の刑罰化は、帝国議会開設以前の社会的・政治的緊張を 和らげるための聖性の利用であったとみることができる。この意味で不敬の刑罰化は、国家が文 化コードの外部から臣民の行為を禁止する権力の動作である。だが両国の不敬罪を比較すれば、 文化コードに多少なりとも依存する国家は、内外の激しい紛争と衝突に対応するたびに政治シス テムとして制度化されるが、宗教の領域と有機的に結びつくことがわかる。国家の比較歴史社会 学は、個人の良心に介入する国家と宗教の協働を分析する学問的利点があるということができる。 主な参考文献 B・バディ、P・ビルンボーム『国家の歴史社会学〈再訂訳版〉』(小山勉、中野裕二訳、吉田 書店、2015 年)
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