19世紀初頭パリの救貧行政

関東学院大学『経済系』第 238 集(2009 年 1 月)
特別寄稿論文
19 世紀初頭パリの救貧行政
Social Assistance of Paris at the Beginning of 19th Century
大 森 弘 喜
Hiroyoshi Ohmori
要旨 20 世紀後半に誕生したフランスの福祉国家は 20 世紀初頭のコルポラティズム的社会立法を
直接の起源とするが,その淵源は 18 世紀末から 19 世紀初頭のフランス革命とその救貧行政に求め
ることができる。それは貧民の監禁と抑圧からの解放であり,生存権の承認であった。本稿はこの
時期の救貧行政の転換を,授産施設の開設,病院・ホスピス改革,福祉事務局と在宅救済に則して
考察する。革命のユートピア的理想が退潮した後の,王政復古と七月王政の時代は,新旧二つの福
祉理念が衝突し交錯し,揉みあう時代であった。
健常な貧民救済の手段として構想された授産施設は,多大な財政負担と弊害が糾弾されて短命に
終わった。病院とホスピスの改革は進んだが,無料の看護と治療は患者の命と身体との交換でなさ
れた。在宅救済は最もフランス的な福祉の態様であり,
「自助」を奨励する「公助」として推進され
たが,ここにも貧民家族の監視という意図が込められていた。
キーワード 貧困,病院,ホスピス,在宅救済,福祉事務局,授産所
1.
2.
3.
4.
5.
はじめに
貧困の蔓延と救貧行政の転換
病院とホスピス
在宅救済
結びに代えて
1. はじめに
る貧困観と救貧行政の転換を基点とし,19 世紀前
半の病院・ホスピス改革と在宅扶助の制度化を経
G・エスピアン・アンデルセンはその代表作にお
て,19 世紀末から 20 世紀初頭の一連の労働・社
いて,フランスの福祉国家を「保守主義的・コーポ
会・福祉立法により,その礎が築かれたと略述で
ラティズム的福祉国家」と性格づけ,歴史的には教
きるだろう。19 世紀前半の福祉には,旧体制以来
会の影響を受けつつ,市場に依存した福祉を国家
の教会の慈善的要素が色濃く刻印されており,そ
の責任に置換する過程で生まれた,という。その
の核心には家族重視の思想がすでに胚胎していた。
特徴は,職業的地位の格差が維持されていること
だが,フランスでも経済的自由主義の思潮を受
と,家族を重視すること等だと指摘した。[G.E・
けて,国民生活に政府が介入することは慎重に避
アンデルセン,2001, p29]
けられたし,他方労働者階級を危険視する思潮が
こうした特徴を有するフランス福祉国家は,第
強かったために,社会福祉の制度化に国民的合意
二次世界大戦後に成立し,今では医療・保健・年
を得るには長い道のりが必要であった。アンデル
金・生活扶助・住宅など国民生活の広い領域をカ
センの云うコーポラティズム的性格は,フランス
ヴァーするが,本稿ではその淵源を 19 世紀初頭パ
革命により否定された中間団体の設立を容認し,
リの救貧行政に探る。
推奨する 20 世紀に入ってから培われたものであ
フランス福祉国家の形成は,フランス革命によ
る。つまり,19 世紀前半に限定すれば,福祉とり
— 16 —
19 世紀初頭パリの救貧行政
わけ救貧行政は国家が関与する度合いは薄く,多
ることになった。したがって,
「公助」の在りよう
くは都市当局と教会関係者,民間慈善団体などに
も,飽くまで自助を助ける手段として援用される
1)
担われていたと云える 。
ことになった。
ところで福祉の態様については,自助,共助,公
助の 3 類型がある。フランス革命による個人の解
2.
貧困の蔓延と救貧行政の転換
放は封建的諸権利の廃棄により実現するのだが,
福祉の在りようとの関わりではアラルド法とル・
2.1
貧困の蔓延
シャプリエ法が特別に重要であろう。同法はギル
大革命が勃発するころのフランスには貧民が溢
ドの廃止と結成の禁止を宣し,個人の契約の自由
れていた。財務総監ネッケルによればパリだけで
を保障し,ここに「労働の自由 Liberté du travail」
およそ 10∼11 万人の物乞いがいた。これは住民
が確立した。いまや経済活動の主体は個人でなけ
6∼7 人にひとりが貧民という恐るべき割合であっ
ればならず,さまざまな中間団体や結社はこれを
た。革命期にこの問題に対処すべく設置された「物
阻害する要因とみなされ刑法罰の対象となった。
乞い撲滅委員会」の調査によれば,貧民は全仏で
福祉の観点からこの過程を考えれば,この体制は
325 万人を数え,国民 9∼10 人にひとりが貧民に該
「自助」原則の確立であり,社会的弱者みずからが
当した。その内訳は,身障者・老人約 80 万人,健康
互いに助け合う「共助」
(互助)の道を極端に狭め
な貧民 52 万人,4 歳以下の貧民の子ども 189 万人,
〔注〕
1)19 世紀前半をフランス福祉社会の淵源だとすると,
19 世紀末から 20 世紀初頭は福祉社会の基礎構築の
時代とみなすことができる。この時期に労働者階級
を排除するのではなく,しかるべき位置に国民統合
する思潮が台頭し,労働権を認知する社会的機運が
起こる。同時にレオン・ブルジョワや社会経済学派
らが「社会連帯」と社会改革を主張し,根深い階級対
立を止揚し国家的隆盛を企図する戦略が語られるよ
うになるからである。一連の労働・社会・福祉立法に
は,1884 年職業組合法,94 年低廉住宅法(HBM)
,
98 年労災補償法および共済組合法,世紀転換期の
A. ミルランの労働争議仲裁法や労働評議会・労働審
判所・労働監督官の改革法案,1902 年公衆衛生法,
1910 年労働者・農民年金法などがある。いわゆる
「ミルラン改革」は提案時には受け容れられなかっ
たが,1930 年代の人民戦線政府および第二次世界
大戦後に結実する。19 世紀末におけるフランス労
使関係の近代化とディリジスムについては[大森弘
喜,2006]
,社会福祉思想の展開については差当たり
[田中拓道,2006]参照。
なお本稿は,社会経済史学会第 77 回全国大会(於
広島大学)でのパネルディスカッション「ドイツ『社
会都市』論の可能性—『社会国家』との関係とその比
較史的射程—」でのコメントをベースにしている。
すなわち,19 世紀には福祉行政を担ったのは国家と
いうより都市当局だったのではないか,というドイ
ツ福祉史研究の仮説は,たいそう刺戟的で有益だっ
た。これを企画された馬場哲氏ほかの皆さんには感
謝を申し上げたい。
[E. Buret, 1840, p215]
病人 4.2 万人である2) 。
七月王政期には緩慢ながらフランスの産業化は
軌道に乗るが,市場経済の発達は一方で雇用機会を
増やすが,他方でリヨンの絹織物工の暴動に典型的
に見られるように,職人仕事を破滅に追いやった。
加えて農村から日雇農や作男・下男・下僕ら貧農
の一群が都市に流入して,貧民の隊列に加わった。
19 世紀を通じてこれら貧民の大群は都市の「不衛
生な住宅」に居住し,不安定な職種で糊口を凌い
でいた。男は荷役夫や「使い走り」,建築労働者,
種々の日雇い労働者,古物商,女は掃除婦・道路清
掃婦などの日雇い婦,洗濯婦,屑拾いや古物商,家
事使用人,お針子などの縫製業,守衛などに従事
して僅かな賃銀を手にしていた。[大森弘喜,2003,
p279–280; De Gerando, 1839, p60]
これら都市貧民は食えないゆえに売春や犯罪な
どに身をやつすことが多く,その不潔で伝染病の
発生源とも見なされた貧民窟ともども,ブルジョ
ワ社会秩序にとり「危険な階級」と見なされてい
た。[Chevalier, 1950]
旧体制下で秩序を攪乱する危険な存在と見られ
2)革命期にもパリの貧民は減少せず,何らかの公的扶
助をうける生活困窮者は 111, 727 人に達した。と
くに貧民が集中していたのはパリ第 8 区,9 区,12
区などであった。
[Code, 1824, t.2, p461]
— 17 —
経
済 系
第
238 集
たのは,物乞いと浮浪者であった。というのは,彼
捨て子,遺棄児はホスピスや養育院に,病人・
らはこの社会構成体の細胞であるいかなる社団に
身障者・生活の資を稼げない老人は病院やホスピ
も属さない「秩序の脱落者 déclassés」だったから
スに収容された。19 世紀前半まで,パリの病院と
である。歴代の王は物乞いと浮浪者を禁止する王
ホスピスは,このようにさまざまな病人と多様な
令を再三布告し,厳しく取り締まったがあまり効
貧民,男女,子どもが雑居する福祉施設であった。
果はなかった。
なかには囚人,精神病者をも収容するホスピスも
旧体制下における貧民の遇し方にも変遷があっ
あった。要するに,「社会から隔離,排除された
た。フランソワ 1 世(1517–47)からアンリ 4 世
人々」が,渾然一体となって生き永らえる場所が
(1585–1610)の約 1 世紀は,捕えられた物乞いと
これら福祉施設であった。
浮浪者は足枷をつけて労働させられた。この時代
は,物乞いに厳罰を与え畏怖させることを狙った。
2.2
救貧行政の転換
次のルイ 13 世(1610–43)とルイ 14 世(1643–
百科全書派の啓蒙思想の影響をうけて,18 世紀
1715)の治世約 1 世紀は,
「封じ込めの時代」と云
末葉に救貧行政に変化の兆しが現れる。啓蒙主義
われる。とくにパリには地方からの物乞いや浮浪
者は貧困を人間の尊厳や進歩に反する状態と捉え,
者が溢れたので,パリ市参事会議長ポンポンヌ・
貧民への同情と扶助,すなわち博愛の実践を公権
ド・ベリエーヴルは 1656 年に,
「総救貧院 l’ hôpital
力の義務と考えた。[田中拓道,2006, p49]
général」を創設し,ここに貧民を収容した。翌年
それはとりもなおさず貧民観の変化を示唆して
にはピティエ,サルペトリエール,ビセートル,プ
いる。チュルゴは困窮する人々の救済は国民すべ
ティト・メゾンなど 4 病院が創設され,貧民とそ
ての義務であり仕事である,との考えに立脚し,
の子どもらを収容した。とくに「総救貧院」は物
貧民を二つのカテゴリィに分けた。一が「健康で
乞い,未婚の母,放蕩癖のある娘などを,
「修道院
己の労働により生活の資を稼げるが,何らかの事
的雰囲気の(労働と祈り)の中で矯正することに
情で困窮に陥っているもの」であり,他の一つが
あった。」
[林信明,1999, p28]またその子どもら
「老齢・障碍などさまざまな肉体的・社会的事情で
に技能を教え込もうとしたが,ギルドの猛反発に
自立の手段を欠くもの」である。これに対応して
会い頓挫した3) 。それはともかく,以後,物乞い
慈善事業も,前者には労働機会の提供を,後者に
行為と物乞いに施しを与える行為は禁止され,違
は現物の公的扶助を与える,という方策だった。
反者は厳罰(ガレー船漕役刑など)に処せられた。
チュルゴの考案した制度は,前者が「慈善作業場
だがこの施設は逆効果であった。それが貧民を
Atelier de Charité」に結実し,後者が「慈善事務
パリに惹きつけることになったからである。これ
局 Bureau de Charité」の再編強化であった。
らの施設は,
「すべての貧民,老人・病人・不治の
これは旧体制において支配的だった貧困観の放
病人・身障者・失業者・修学すべき子どもたちの
棄,つまり貧困は怠惰,遊蕩,悪行など個人の性
避難所となった。」[Lecoq, 1906, p64]4)
癖に帰せらるべきものとし,これら「恥ずべき貧
民」を隔離・排除し,特定の場所で矯正労働に従
3)その代わり総救貧院のすべての労働力を,商人や職
人に無償で提供することになったという。
[Lecoq,
1906, p64]
4)1662 年,63 年の相次ぐ凶作と飢餓はパリへの貧民
集中を促したので,ルイ 14 世は主要地方都市にも
同種の施設を創り収容するように命じた。
「全土の
まだ総救貧院が建設されていない都市に,これを建
て,規則を設けて,貧民・物乞い・労働不能者・親
がないか,物乞いの親を持つ子どもらで 1 年以上そ
の土地に住んでいるものを,ここに住まわせ,閉じ
事させるか,でなければ処罰するという貧困観の
放棄であった。
— 18 —
込め,食事を与えよ。
」と。だが,33 の都市がこの
王令に従っただけだった。
[P. Strauss, 1901, p40]
1712 年国王自身がその失敗を認めざるを得なかっ
た。「貧しき者らが,道路で,教会で,公の広場で,
総救貧院を設立する前と同じくらい大勢で物乞いす
るのを目にする」
[Lecoq, 1906, p66]
19 世紀初頭パリの救貧行政
救貧行政の転換は,大革命が貧民の「生存権」
には難しいことになる。彼らが貧困からの脱却を
を認めたことにより確かなものになる筈だった。 「自助努力」に求めるときに,
「労働権」を要求する
1791 年創設の「物乞い根絶委員会」の長を務めた
理由はここにある。このとき「労働の自由」を定め
ラ・ロシュフコー・リアンクールは,すべての人
たル・シャプリエ法は逆に桎梏となるのだが,経
間の幸福追求権を認めたうえで,貧困はこうした
済的自由主義を信奉するブルジョワ社会はこの障
「自然」な「権利」に対する侵害である,として貧民
碍物を除去するのには,慎重であり臆病であった。
の生存権を認めた。これを受けた 1791 年憲法は,
貧民救済は国家の負債であると同時に,貧民は社
2.3
慈善作業場
会への義務を負う,という権利=義務の双務性を
革命期の救貧行政はチュルゴの提唱した二つの
認めた。すなわち,憲法第一篇基本条項は,
「捨て
ジャンルで実施された。まず,
「労働可能な健康な
子を養育し,貧しい障碍者を助け,仕事を得ること
貧民」に労働機会を付与するために,ネッケルが
ができない健常な貧民に仕事を与えるために,公
実施したのが「救済作業場 Atelier de Secour」で
的扶助に関する一般的施設が創設され,組織され
ある。これは今日流に云うなら公共土木事業であ
る」と定めた。だが反面で,この生存権を主張す
り,橋梁・道路・運河などの補修,埋め戻し作業で
る者は社会にとって有用な存在でなければならな
あった。これはもともとチュルゴが知事を務めた
いとして,「労働の義務」を負うものとした。[田
リモージュでの経験に裏打ちされていた。セーヌ
中拓道,2006, p51:阪上孝,1999, p254]
河畔に最初に開設された救済作業場は,夥しい貧
権利と義務の双務性をつなぐ鍵は「労働」であ
民の要求に応えるかたちでその数を増やし,1789
り,同年に制定されたル・シャプリエ法がギルド
年 7 月 14 日の時点で 14 か所を数え,最大で凡そ
を廃止し,古い規制と特権を廃し,「労働の自由」
2 万人の労働者に土木仕事と,何ほどかの賃銀を
を実現したこと前述の通りである。ところで,
「労
与えた5) 。[P. Strauss, 1901, p76:林信明,1999,
働の自由」が我が国ではこれまで「営業の自由」と
p103]
噂を聞いた物乞い・放浪者などの貧民が,シャベ
訳出されたことに示唆的に表現されているように,
それは製造業主や小商人,職人の経済活動をギル
ルか鶴嘴を持って大挙してパリに押し寄せた。だ
ド的規制と特権から解放することを想定していた。
が救済作業場は 2 年もたずに閉鎖される。財政支
では,
「私的所有から自由な」徒弟や労働者,縁
出の増大,管理運営の拙劣(重複した登録,選考の
辺的雑業に従事する貧民は,どのようにして労働
不慣れと情実,労働者の騒動)と指揮命令系統の不
により社会に義務を果たすことができるだろうか。
統一,労働監督の欠如などの理由で輿論の激しい批
彼らは生産手段を持たないから,企業を営む者に雇
判を浴びたためである。[Lecoq, 1906, p95–105]
われるほかはない。ナポレオン法典が定める「役
だが,国や自治体が労働機会を創出し,管理運営
務賃貸借契約」は,労働力商品が,雇用者と労働
することに原理的な難点があるのかもしれなかっ
者との自由で対等な契約により売買されることを
た。物乞い根絶委員会のラ・ロシュフコー・リア
定めたものだが,競争的経済環境のもとで製造さ
ンクールは,早くにその問題点を指摘していた。
れた商品が競争力をもつためには,品質と並んで
「社会が,働く能力ある者に労働を与え自活さ
価格が重要要素となり,コスト計算が重視される。
せるには多くの困難が伴う。つまり貧民が自分自
労働力の価格が押し下げられる力は常に存在する。
身で仕事を探す必要を免ずる訳だが,それは彼の
貧民など労働力過剰の労働市場環境と,ギルドの
勤勉さを損ねるだけである。〈中略〉社会は彼に無
もっていた労働者保護規制の撤廃が,労働待遇の
劣悪化傾向をいっそう強める。すなわち,共和国
の市民の義務とされた「社会的に有用な労働」を
果たす義務は,私的所有から外れた貧民には現実
5)1789 年夏には仕事を求める地方出身の労働者や外国
人労働者がパリに殺到したので,パリ市当局はその
一部の旅費を与えて送還する命令を出すほどであっ
た。[M. Lecoq, 1906, p84:林信明,1999, p103]
— 19 —
経
済 系
第
238 集
料の援助を与えるのを拒否しているのに,社会は
年の廃止令は,女子作業員が規則や命令を無視し,
ただ活動力や将来への備えの関心を喚起したいの
管理運営に不手際を起こし,この授産施設に無秩
に,逆に怠惰や怠慢を助長することになる。社会
序と悪弊が生じたことを,廃止の理由としてあげ
に不必要な仕事だけしか彼に与えないとするなら,
ている。[林信明,1999, p111]確かに,共同作業
社会は不精,ものぐさを認めるという誤りを犯す
場方式を管理運営する能力の欠如,応募者の選考
ことになる。なぜなら,人間は無駄だとはっきり
や仕事の配分における情実の横行など,全般的な
分かっている仕事には精を出して働かないからで
管理運営能力の拙劣さは否定できないようだ。
あり,また公共の利益にならないことに公共の金
チュルゴの提唱するもうひとつの救貧行政の制
銭を使うことも誤りだからである。」
[P. Strauss,
度が「救済事務局」である。これは革命期には「福
1901, p73]
祉事務局」となり,在宅救済を展開するのだがこ
この経験を冷静に総括することなしに,1848 年
れは後述する。
二月革命を導いた社会主義者らは失業者に土木仕
事を与えるために「国立作業場 Atliers Nationaux」
2.5
物乞い収容所
労働の社会性を認め,その実践が共和国への義
を創設し,同じ轍を踏むことになる。
[Lecoq, 1906,
務と定めた「物乞い根絶委員会」は,これを拒否
p106sq]
する者には,むしろ旧体制よりも厳しく臨んだ。
2.4 紡績作業場
すでに 1767 年に王令に基づいて物乞い収容施設
革命期に,貧民に労働機会を提供するもうひと
「感化院 Maisons de correction」が設置されてい
つの試みがあった。それが「紡績作業場 Ateliers
た。これは文字通り訳出するなら,「体罰やお仕
de Filature」である。これは革命前夜に,パリ警
置きをし,矯正し懲治する家」であった。感化院
察長官 lieutenant de Police ルノワールが,主にフ
は,革命が左傾化する 1790 年には貧民観の転換を
ランシスコ会派やジャコバン派の修道院を召し上
受けて,やや同情的な「物乞い収容所 Dêpots de
げて改造した亜麻糸紡ぎ所であった。一定の条件
mendicité」に名称変更され,革命の揺れ戻しと治
を満たした貧困女性が,ここで亜麻の束を与えら
安悪化のなかで,1793 年には「抑圧の家 Maisons
れこれを亜麻糸に紡ぎ,出来具合に応じて加工賃
de Répression」と名を変え,さらに 1808 年に再び
を支払われた。その日賃銀は平均 20 ソル程度であ
[Baron, 1882, p12]
「物乞い収容所」となった7) 。
り,当時のパリの一日の最低限度の生活費と同程
この名称変更の過程にその時々の権力者の貧民観
度であり,
「その日の飢えをしのぐ程度のものだっ
がよく表明されているように思う。
た」という。[林信明,1999, p115]
革命の理念を継承したナポレオンは,内務大臣
その製品は公的扶助を行う病院・ホスピスに買
に指示した報告が上がってこないので,自ら物乞
い上げられ,作業場の運営費用の一部に繰り入れ
られたが,財政的観点からは明らかにパリ市の持
ち出しであった。最盛期 1789 年にはパリに 22 の
「紡績作業場」があったが,1795 年には 3 つに統合
され,その後は名前を変えて細々と存続した。ま
た,その仕事の一部は在宅救済に,謂わば「家庭
内職」として引き継がれた。
この授産所の事業は,政治と経済の混乱により
窮迫していたパリの女性労働者の急場を凌いだ,
という意味で評価する向きもある6) 。だが,1795
6)ストロースは,公衆の貧窮を緩和すべく例外的な
措置は必要だったと肯定的評価を下している。
[P.
Strauss, 1901, p94]また林信明氏も,男女の授産事
業がそれぞれに果たした役割を評価している。土木
事業はパリの都市改造に,糸紡ぎ作業場は貧困女性
1999, p116]
や子どもの自立に貢献したと。[林信明,
だがルコックは,これは慈善作業場と同様に失敗だっ
た。そこは腐敗と混乱,不道徳の舞台となったとい
う。[Lecoq, 1906, p115–16]
7)阪上孝氏は,チュルゴが 1774 年に物乞い収容所を
廃止したと述べているが[阪上孝,1999, p245]
,こ
れは誤りである。後述のように物乞い収容所は,19
世紀第 3 四半期まで存在している。
— 20 —
19 世紀初頭パリの救貧行政
い取締りの大綱をしたためた。「すべての物乞いを
た。また,中世キリスト教には清貧の徳を称える
逮捕すべし,だがこれを監獄にぶち込むのは野蛮
風土があり,身体への惜しみない手当て,援助の
かつ馬鹿げたことだ。彼らに労働により自活する
行いには精神的償いの意味が投射されていた。そ
途を教えるためにその身柄を拘束するのだ」との
れゆえ,病院での世話や援助には,常にこの感情
方針を示した。[Lecoq, 1906, p221]
が込められていた,という[Musée, 2008, p10]10)
これには,物乞い収容所は彼らを監禁留置する
病に罹った者を収容するという意味での病院の
場所ではなく,
「救済と隠遁の場所 asile」であるべ
嚆矢は,レプラ(ハンセン病)患者を収容し手当
きだとの反論もあがった。だがナポレオンは当初
てを施した施設に求めることができる。それは一
の方針通り,物乞いの禁止,これを犯した場合は
般に「レプローズリ léproserie」と呼ばれた。レプ
逮捕され,一定期間の後各県の物乞い収容所に留
ラは 16 世紀には人の直接接触により伝染する病
置すべしとのデクレを発した。このデクレに基づ
気,つまり「コンタギオン」として認識されてお
き各県は物乞い収容所の設置を命令されたが,凡
り,レプラ患者は保護と隔離の観点から,
「隔離の
そ 20 県のみが設置したにとどまった。ナポレオ
儀礼」が施され,
「永久の隠遁」を宣告された11) 。
ンの物乞い禁圧方針は,1810 年制定の刑法に条文
このように病院・ホスピスは,生活困窮者や病人
化された8) 。だがこうした監禁・抑圧の政策が貧
などを暖かく迎え入れる「安住の場所 asile」であ
民の矯正に役立ったかどうかは,疑わしい。とい
り,中世のパリでは「慈善の家 maison de charité」
うのは,19 世紀後半に至ってもなお物乞いは姿を
と称された。17 世紀には,堕胎と嬰児殺しが横行
消すどころか,その跳梁跋扈が見られるし,また
し,絶対王政政府がその防止策として,大都市の病
再犯率が他の軽犯罪を遥かに凌駕するほどに高い
院に妊産婦と孤児の受け入れを命じたため,
「アジ
からである9) 。
ル」としての性格は強化された。[Gutton, 1982,
p215]さらに 18 世紀後半には啓蒙主義の影響下で
3. 病院とホスピス
「博愛の精神 philanthropie」が涵養され,
「貧民の
立場 cause des pauvres」に寛容な理解が醸成され
3.1 病院の起源とその複合性
て,貧民への「社会的扶助」の理念が形成され始
ラテン語の「オピタル l’hôpital」は,赤貧や病気
めた。
のため一時的に不安定な状態や他人に頼らねばな
他方で,病院・ホスピスの「安住の地」として
らない人々を暖かく迎え入れる場所を意味してい
の性格に,病人を治癒させるという病院本来の機
能が接木されてゆく。18 世紀末以降,パリには広
8)刑法 274 条は次のごとく定めた。「物乞い行為を予
防する目的で建てられた施設がある所で物乞いをし
ているすべての者は,3 ヶ月ないし 6 ヶ月の禁固刑
を受ける。この刑期を終えた後物乞い収容所に送致
される」
[Lecoq, 1906, p224]
9)1869 年にパリだけで,放浪の廉で有罪とされた者が
8703 人,物乞いで有罪とされた者が 7629 人に昇っ
た。1872 年のコート・デュ・ノール県の報告によれ
ば,この県には凡そ 25 千人の物乞いがいる。この
大部分は家を持ち,週のうち 1,2 日街に出て公的慈
善に与り,そうして得たカネの大部分は飲み代に使
う,という。[P. Cère, 1872, p133–36]別の著作で
は,同じころフランス全土で 16∼18 千人の物乞い
が軽犯罪の咎で処罰された。すべての軽犯罪の再犯
率が 30–40%なのに対し,物乞いのそれは 74%,浮
浪者のそれは 64%にもなる。
[Baron, 1882, p13]
10)中世イタリアでも,ホスピスは巡礼者や貧民に食事
と宿を与えるために,修道院に附設されたものが原
点で,やがて広く病人や貧民に看護と食事を与える
病院へと転化してゆく。それは衣食住に事欠く病人
と貧民が不即不離の関係にあり,また社会にとって
危険な要素であるとの認識が働いていたからだとい
う。[児玉善仁,1998, p217sq]
11)パリではサン=ラザール病院とサン=ジェルマン・デ
プレ病院がレプラ患者を収容していた。
「永久の隠
遁」といってもまったく外出が禁じられた訳ではな
く,ガラガラ・手袋・頭陀袋を帯びて物乞いするこ
とは許されていた。もちろん人々とのいかなる接触
も禁じられてはいたが…。パリのレプラ専門の病院
には,無為徒食に暮らす「偽りの患者」もかなり混
じっていたという。
[フランクラン,2007, p106sq]
— 21 —
経
済 系
第
238 集
大な敷地をもった大病院が次々と建設され,医学
としての病院は,病人だけでなく自活できない老
研究と医師養成のセンターという社会的役割をも
齢者,身障者,捨子や孤児,妊産婦と新生児,時に
12)
つようになる
。医師たちは,病人の臨床的観察
と病理学的症例の蒐集にいそしむようになる。
はビセートル・ホスピスのように囚人までも収容
していた。病人もまた一緒くたに同じ部屋のベッ
病院・ホスピスのこの複合的性格は,一面で近
ドに肩を並べて寝ていた。疥癬患者,性病者,精神
代病院制度の管理運営を複雑にしたが,だが反面
病者,肺癆患者らが同室の空気を吸っていた。当
ではパリ学派の隆盛を下支えもした。というのは,
然ながら,ベッド不足は深刻で一つのベッドを何
絶えず入院してくる貧しい病人が,その無料の看
人かの患者で共有するのが常態であった。
護と引き換えに,医師たちに「治験」と死体解剖
物乞い根絶委員会が憲法制定議会へ提出した報
の機会を与えたからである。19 世紀前半のパリ学
告には,「20∼25 のベッドを 200 人が利用してい
派は,豊富な臨床事例研究と病理解剖によりヨー
る,4 人が一度に寝るとき,残りの 4 人は自分の
13)
ロッパの先端的医学研究をなしたのである
。
番が来るまでは下に寝ている。」とか,「ミディ病
院では毎年 90 人が性病で死亡するが,その 3 分の
3.2 病院の居住環境
2 は待機部屋で死ぬ。それは彼らが治そうと思っ
19 世紀初めのパリは泥と埃と悪臭にまみれた街
てきた当の病気でというよりも,彼らが呼吸して
だったが,病院やホスピスもまた不衛生で悪臭を
いる汚染された空気による感染に因るものだ」と
放つ存在だった。中世以来の伝統たる「慈善の家」
の記述が見える。[Trébuchet, 1849, p383]
オテル・デュゥでも患者の鮨詰め状態は同様だっ
12)パリの病院建設を時代ごとに観察すると二つの大き
なうねりがあることに気づく。一つがルイ 14 世治
下後半の貧民「封じ込め」時代であり,ピティエ,
サルペトリエール,ビセートル,プティト・メゾン,
サン・ジュリアン,コンヴァレサンスなどの病院が
建設された。二つ目の山は,ルイ 16 世治下の 18 世
紀末葉で,メゾン・ロワイヤル・ド・サンテ,コレー
ジュ・ド・シルリュルジ,サン・シュルピス,サン・
ジャック,サン・タンドレ・デザールなどの病院・
ホスピスが新設され,また焼失したオテル・デュゥ
が再建されている。
[Gérando, 1839, p308sq]後者
はとくに僅か 10 年間のうちに生起した病院の新築
ラッシュとも呼ぶべき現象であり,パリ臨床医学の
物的基盤がここに整った,と見ることができる。
シャリテ病院に勤務したコルヴィサール,その後
継者のベール,クリュヴェイエ,ネケッル病院のラ
エンネクらは,肺癆研究に偉大な足跡をしるしたが,
それはこれらの病院で死んだ患者の病理解剖研究の
賜物だった。オテル・デュゥ(パリ市立病院)でも
19 世紀初頭,年間 5000 体の遺体のうち相当数が死
体解剖に付されたという。[Weiner, 1993, p182]こ
の事実は患者にも知れ渡り恐怖を与えた。当時の社
会小説 E. シューの『パリの秘密』に登場する肺癆を
病む二人の若き娘の会話は,こうした病院の実情と
患者の諦念を見事に表現している。
[E. Sue, 1842,
p814sq]
13)この点についてはさしあたり次の文献を参照せよ。
[川喜田愛郎,1977:アッカークネヒト,1967]
た。大革命前夜にその実態調査を委嘱された外科
医テノンは,この病院の惨状を口を極めて非難し
ている。曰く,二人用のベッドに 6 人が,
「一方の
者の足が他方の者の肩に当たるように」互い違い
に寝るなど,すし詰め状態が一向に改善されてい
ないこと,おまる(穴あき椅子)の汚物,死に瀕し
た病人の排泄物を染み込ませた藁,瀉血の際の血
や膿などが悪臭を放っていること,穿頭術などの
手術が病人の目の前でおこなわれ,人々を恐怖に
陥れていること,伝染病患者,梅毒患者,精神病
者,熱のある患者,回復期の患者,妊婦と売春婦
の同居,死にかかっている病人や既に息絶えた病
人などさまざまな病人を一緒くたに収容している
こと,等を指摘し,オテル・デュゥは,すべての病
院のなかで最も不健康で快適ではない病院であり,
9 人の患者のうち 2 人が死ぬと結論せざるを得な
いと述べている。[フランクラン,2007, p196–208:
Ackerknecht, 1967, p16]
病院は居住環境だけでなく給食メニュもお粗末
だった。革命期の統領政府は,入院患者の嘆かわ
しい状態を改善する方策の一環として,病人の食
事改善を指示し,基本的な二つのメニュを提示し
た。ひとつが「肉のある食事 régime gras」で,こ
— 22 —
19 世紀初頭パリの救貧行政
れは一日に 2 度のスープとパン,あるいは大麦入
は実現しなかったのだが,大革命が福祉行政の革
りスープかジャガイモ澱粉入りのスープ,骨なし
新を印したことは間違いない。それは,福祉行政
肉 250 g,が供される。もう一つは「肉なしの食事
の制度化と病院の環境改善の二つの側面に纏める
régime maigre」で,2 度のスープ,2 デシリット
ことができる。
ルの生野菜か豆類というものだった。どちらのメ
ニュもワインは供されない。これらは「完全食」
この時期,福祉行政の一元化・集中化の第一歩
が記されたことは特筆に価する。
で,食事長の判断でこれを四分の一づつ減らすこ
とができた。
すなわち 1801 年に「病院総評議会 Conseil Général des Hôspices」が創設され,パリの全ての病
このように,革命前の病院は多種多様な病気を
持つ患者と,病人ではない貧民らの混在するとこ
院・ホスピス・福祉事務局の管理運営にあたるこ
とになった。
ろであり,病院本来の機能を果たしてはいなかっ
大革命前夜のパリには 48 もの病院施設があり,2
た。そこは快癒の見込みのない者や貧民の「最期
万人余を収容していたが,
[Trébuchet, 1849, p357:
に行き着く所」だったとも云える14) 。だが,病院
Ackerknecht, 1967, p15],革命の過程で整理統合
の劣悪な居住環境は,革命の理念すなわち「市民
され,19 世紀初頭には病院 13,ホスピス 8 つを算
の幸福を追求する権利」に照らしても早急に改善
えるだけになった。その上で,病院・ホスピス・
さるべきだった。
監獄の機能が分化した。さらに病院機能も専門化
がすすみ,一般病院と専門病院が次第に区別され
3.3 病院改革
るようになった。一般病院の代表格がヨーロッパ
物乞い根絶委員会は,病院・ホスピスなど福祉
最古の病院と云われるオテル・デュゥ Hôtel-Dieu
事業の全面的な改訂が必要であるとしてその計画
であり,ノートル・ダム広場の前に厳然として聳
を発表した。それらは十指に昇るが,中でも次章
え,大革命前に焼失したがすぐ再建され,年間 1
で扱う「在宅扶助の組織化」と各種専門病院の建
万人余の患者を診療するパリで最大の病院となっ
設提言が目を引く15) 。もちろんこの構想の大部分
た。[Trébuchet, 1849, p370]専門病院には,皮膚
病を専門とするサン=ルイ病院や,性病専門のミ
14)ビュレは次のように語る。
「フランスでは公的慈善
がいかによい措置をとっても,病院は住民にとって
恐怖の対象である。虚栄とか見栄とかが大きな影響
力を持っている我が国では,自分のベッドのなかで
死ぬことを名誉に思うし,できるだけ慈善のベッド
を遠ざけたい」と。[E. Buret, 1840 p245]
実際この状況は第三共和政初期まで変わらない。
人口調査の項目には「どこで死んだか」の記載があ
る。もちろんいつの時点でも「自宅で死んだ」者の比
率が最も多いが,
「病院・ホスピスで死んだ」者の比
率もかなり高い。1836 年が 34.6%,65 年が 26.3%,
76 年が 24.6%である。自宅で死ねなかった者を概
して貧民である,と見てもよいだろう。というのは,
1865 年のデータで,最も富裕な第 9 区(オペラ)
の自宅死亡率が 97%であるのに対し,最貧区 18 区
(モンマルトル)では同 30%でしかない事からも裏
付けられる。[大森弘喜,2003, p269–70]T. ルアも
1866 年に「パリの貧乏人が大部分病院で死ぬという
のはまったくの真実である」と述べる。
[T. Loua,
1866, p273]
15)各区に 4 つのホスピス建設,パリに回復者の家を
ディ病院,小児科のアンファン・マラド病院,産
科のメゾン・ダクーシュマンなどがあったが,精
神病者の多くは,ホスピスに留まって治療を受け
ていた。
病院における医療制度の整備も進んだ。例えば,
オテル・デュゥには入院事務局が設置され,また
インターンとエクスターン(通勤医)が制度化さ
れた。[Ackerknecht, 1967, p18]これに照応する
ように,外来患者と入院患者が区別され,概して
云うなら,外来患者の市民としての権利が認めら
— 23 —
二つ建設,性病のための病院二つ建設,精神病回復
者のための病院二つ建設,ピティエ病院の閉鎖と捨
子施設の農村への移転,老齢者・身碍者を三つの病
院に入院させること,健康の家・将来への備えの家
の建設,接種専門の病院建設,放浪する物乞いのた
めの家を二棟建設,福祉の組織化などである。[P.
Strauss, 1901, p115–16]
経
済 系
第
238 集
れるようになった。つまり患者の希望が受け入れ
ン 3 回が与えられることになった。[Imbert, 1982,
られ,職も賃銀も失わなくてよい外来通院が認め
p383]グルマン(大食漢)あるいはグルメ(食通)
られるようになり,また無料診療が原則となった。
のフランス人を満足させるには不十分かもしれな
[Weiner, 1993, p165]
いが,最低限のカロリーと栄養は確保できたと云
ホスピスは原則として赤貧者・老齢者・幼児・遺
える。
棄児・精神障碍者・不治の身体障碍者など「自力で
は生活できない人々」のための避難所であり,基
4.
在宅救済
本的には無料であった。代表的なホスピスにはビ
セートル,サルペトリエールなどがある。ビセー
パリの病院・ホスピスが近代的に改組され,入
トルはベッド数 3 千を擁する大ホスピスで,生活
院者・入所者の待遇が改善されたといっても,パリ
困窮者と精神障碍者などを収容していた。ここに
市民の多くはできれば自宅で看護をうけ,そして
はかのドクター・ピネルがおり,精神障碍者の治
自宅で死にたいと願っていたようであり,社会改
療の一環に附属農園での野良仕事を組織し,大き
良や福祉に関わる識者の多くも「在宅扶助 secours
な成果をあげていた。サルペトリエールは主に高
à domicile」を推奨していた。そこには財政的負担
齢女性の生活困窮者と精神障碍者,他の病院で見
の軽減という現実的な要請と同時に,他方で家族
放された不治の病人,とくに癌患者らを収容して
の絆を尊重し,その自立を助けるのが「公助」の理
いた。生活困窮者用に 5000,病人用に 400 のベッ
想だとするフランスの福祉思想が貫徹している。
ドが用意されて,慢性気管支炎・心臓病・癲癇な
どの患者を専門医師が診療したという。
[Lancet,
4.1
福祉事務局
在宅扶助を統括する機関として革命期に設置さ
1834–35, vol.1, p576]
病院の居住環境では過密状態がいくぶん緩和さ
れたとは云える。革命前は前述したように,入院
れたのが,福祉事務局 Bureau de Bienfaisance で
あった。
福祉事務局の原型は 1544 年パリ市長 prévôt des
患者は一つのベッドを何人もで共有していたが,今
や規格化されたシングルベッドでゆっくりと安心
marchands ジャン・モランがフランソワ 1 世から
して睡眠と休息を取れるようになった。多くの病
特許状をとり,それまで高等法院が保持していた
院がこれまで受け容れていた生活困窮者をホスピ
貧民保護の役割を引き継いで創設した「ビュロー・
スなどに移したことや,在宅看護を勧めたことで,
ジェネラル」であった。ビュローは市長が指名し
過密が緩和されたと考えられる。患者は自分専用
た 13 名のブルジョワと 4 名の高等法院議員で構
のベッドのほか,清潔なシーツ,枕と枕カヴァー,
成された。このビュローが,皇太子・領主・聖職
ボウルなどの什器も支給されるようになった。ま
者などから「施し税」を徴収する権利を賦与され
た,新しい規則では病人は一日 2 回,午前中はチー
ており,その財源をもとに貧者の救済に当たった。
フドクター,午後はアシスタントの回診を受けら
[Tardieu, 1854, p226: M. Boucard, 1893, p279]
その後,
「慈善事務局 Bureau de Charité」と名を
れるようになった。[Weiner, 1993, p177]
また食事内容も幾分か改善が見られる。1806 年
変えて,管理運営はもっぱらカトリック教会の聖
の改定で,
「完全食」の病人は 380 g の白パン・スー
職者たちの手に委ねられた。彼らは教区の健康な
プ 2 回・ブイヨン 2 回・500 g の茹でた肉・野菜また
貧民には仕事を,病人や新生児には薬や産着,牛
は豆類・ワイン 500 cc が供されることになり,
「ダ
乳などの食料品等「現物」を支給する方針を守っ
イエット(節食療法)
」の患者は,一回の量 200 cc
た。定期的な司祭会議で,誰に何を援助するかが
のブイヨン(肉・野菜を煮込んだ汁)を一日 1∼6
決められ,修道女(シスター)らが貧民に現物を
回,「スープ」の病人は,120 g のパンまたは 60 g
手渡しした。[P. Strauss, 1901, p63]
の米か麺・300 cc のスープ 2 回・250 cc のブイヨ
— 24 —
この事業を継承し,聖職者主導ではなく都市当
19 世紀初頭パリの救貧行政
局が関与するかたちで再編しようとしたのがチュ
正しくは「慈善事務局」だが,19 世紀前半を通して
ルゴであった。彼の構想は革命期の物乞い撲滅委
考察するときには,多くの資料・文献に倣って「福
員会に受け継がれ,その福祉行政改革の筆頭に「在
祉事務局」とするのが混乱を招かないだろう— に
宅救済の組織化」として掲げられたのである。
ついて述べよう。福祉事務局は 1816 年の一連の王
1793 年 3 月 19 日法は,貧民救済は国家の負債
令により各区に一つ設置された。各区はさらに 12
であるとし,この精神の下で世俗化されたかたち
の地区に分割され,その各々にひとりの運営委員
で在宅救済が試みられたが,それはほとんど実行
administrateur と複数の訪問委員 commissaire お
されず「画に描いた餅」に終わった。[Gérando,
よび慈善婦人 dames de charité が選任された。運
1839, t2, p193]共和暦 5 年(1797 年)霜月 7 日法
営委員は「憐れみと愛で最も推薦に値する人々」の
が,各市町村に福祉事務局の設置を義務づけたこ
うちから市長により指名され,訪問委員と慈善婦
とで,在宅救済はようやく動きだした。1801 年に
人は事務局の指名になった。全体の監督権はセー
は前述の「病院総評議会」が誕生し,病院・ホスピ
ヌ県知事および病院総評議会にあったが,日常的
スとともに在宅救済はこの管轄下に入った。その
な業務統括はパリ市長の権限であり,毎週会議を
後 1816 年王政復古期に一旦昔の「慈善事務局」に
開催し,年 1 回総会を開催し事業報告をする義務
戻ったが,二月革命以降は「公的扶助 Assistance
を帯びていた。[Mauger, 1905, p344: Code, 1824,
Publique」を構成する中軸的な制度となった。
t.2, p406]
ところで,その名称変更の歴史には福祉思想の変
福祉事務局の役割はもちろん貧民の在宅救済だ
容が刻み込まれていることが窺えて興味深い。旧
が,19 世紀前半の福祉事務局行政を指導していた
体制下の貧民救済は「個人的慈善 charité privée」
『法令集』は,もっと明瞭に「福祉事務局の役割は
であり,
「施し aumône」が主流であった。それは
貧民の家庭訪問による聴き取りと監視,施しもの
富者と貧者の関係を上下のあるいは主従の関係に
の支給である」と述べていた。[Code, 1824, t.2,
配し,
「施し」は与える富者の精神的満足と優位の
p405]
確認であり,貰う側の「卑下」を育んだ。革命期
この業務に当たるのが訪問委員と慈善婦人であ
には市民としての平等が実現したことで,慈善に
り,彼らは担当地区の貧困家庭を 3 ヶ月ごとに訪
代わり「博愛 philanthropie」が,「施し」にかわ
問し,救済を受けている貧民の転居などの確認,そ
り「救済 secours」が使用され,広義の救済・福祉
の行状,救済物資の使い道,家族の状態などを聴き
の意味では広く《bienfaisance》が使われた。さら
取り,事務局に報告する決まりになっていた。救
に二月革命後には,《secours》に代わって《扶助
済を受けるには,訪問委員と慈善婦人の貧民調査
assistance》が用いられる。この過程は,貧民の生
が必要になるが,
『法令集』はそれも次のごとく詳
存権の社会的認知度を示すものと云えるが,現実
細に定めていた。
の福祉行政に反映されには一定のタイムラグがあ
「貧民調査は最大限の注意をもってなすことが
るのは,歴史の教えるところである。この過程は
必要である。項目は,住民の年齢,身体障碍の程
また,福祉行政の精神と主体の「世俗化」でもあ
度,子どもの数,貧窮の原因,所持している財産,
る。聖職者・修道女たちのキリスト教的博愛主義
彼らの行状,家事および子どもの世話状態である。
に基づく慈善活動が,フランスで云うなら共和主
<中略>救済を与えるだけでは十分ではない。そ
義的博愛主義と自治体行政に取り込まれてゆく過
の使用状態,救済のよき使用を確認することが重
程でもあった。19 世紀前半はその政体変遷と符節
要である。受けている救済を濫費する者は,それ
を併せるように,教会的な博愛主義と共和主義的
を取り上げるか,少なくとも罰として救済の一時停
博愛主義のもみ合いの時代であった。
止を措置する必要がある。
」と。[Code, 1824, t.2,
いま資料で確認できる王政復古期と七月王政期
p419]
のパリの福祉事務局— 王政復古期について云えば
— 25 —
事務局は救済申請を審査し救済者を選考し登録
経
済 系
簿に記載した。救済貧民は新たな基準でふた通り
第
238 集
溢れる「在宅扶助」を主張するのである。
に分類された。一つが「一時的救済を受ける者」
で,負傷者・病人・出産または授乳中の女性・捨
いま資料の得られる 1835 年当時のパリの在宅
救済を瞥見してみよう16) 。救済を受けた総数は
子と孤児・尋常ならざる事態に陥った人々とされ
62,705 人,世帯数は 28,969 世帯,その内訳は成
た。もう一つは「年間救済を受ける者」で,これは
人男子が 14,499 人,成人女子 25,748 人,12 歳以
1 級から 4 級まであるが,まとめると 60 歳以上の
下の子ども 22,292 人である。女性貧民が多いこと
老齢者・盲人・身障者・最も衰弱した貧民・低年齢
に気づく。世帯主の年齢では,60 歳以下が 13,755
児を多く扶養する家長,とされた。受給者の人数
人,60 歳以上が 14,756 人であり,当然かもしれ
は事務局の提案に基づき毎年「病院総評議会」で
ないが老齢者の比率が高い。しかもその社会的地
決められるのだが,『法令集』は,「支給を分散化
位を見ると,既婚者 11,380 人,寡婦または寡父が
してしまえば,貧窮の緩和にほとんど資すること
12,048 人,独身者 4,155 人,捨てられた女性
にならず,いたずらに浪費することになる。
」とし
1,386 人である。男女とも老齢者で身寄りのな
て,総枠をはめていた。[Code, 1824, t.2, p421]
い者や,比較的若い女性未婚者で男に捨てられた
救済は現物支給を原則とした。配給のために各
かして幼い子どもをもつ者,いわゆる「未婚の母
区に設けられた「救済の家 Maison de secours」で,
fille-mère」が,在宅救済を受けていると推測でき
慈善婦人や「愛徳修道会」のシスターらが,パン・
る。職業別では,男子の最多は種々の日雇い労働
スープ・食肉・衣類・下着・薪炭などの一定量を
者で 5,880 人,次いで建築労働者 1,745 人,守衛
配った。盲人や高齢者には金券が配られることも
1,433 人,荷役夫・使い走り 1,028 人で,無職も
あった。「救済の家」では,日常的に貧民の無料診
1,338 人いる。女子では種々の日雇い労働者(ア
療や法律相談などのほか,時には「炊き出し」も催
イロン掛け・道路清掃など)が最も多く 4,086 人,
され,貧民にスープやパンが供された。[Mauger,
次いでお針子 2,175 人,古物商 1,351 人であるが,
1905, p345]
無職が 3,729 人も存在する。老齢か,幼子を抱え
福祉事務局の財源は,自治体からの補助金と富
てか,それとも病弱か,などの理由で,日雇い仕
裕な篤志家からの寄付と義捐金が主なもので,独
事にも就労できない女性貧民と,パリのオート・
自財源としては「劇場入場料に課される税金」が
クチュール(紳士・婦人服でファッション性に富
あった。しかし,19 世紀を通じて,「自助」を原
むもの)を下支えする「お針子」の姿が浮かび上
則としていたこともあり,公的資金の支出はきわ
がる。
めて抑制的であった。また「病院総評議会」が一
元的に管理する病院・ホスピス・在宅救済のうち,
4.2
福祉事務局と在宅救済の普及
福祉事務局による在宅扶助は,もっとも安価な
病院・ホスピスの費用がかなりのウェイトを占め
ており,在宅救済への支出は皺寄せをくっていた。
救貧事業だったせいもあり,しだいに地方都市へ普
パリの在宅救済支出をみると,統領政府の時代
及した。福祉事務局の設置数は 1833 年に 6,275 ヵ
には一人当たり年間(金額換算)11 フランにしか
所だったものが,47 年には 9,336 ヵ所,52 年に
ならず,1837 年でも同 15 フラン,1876 年でも同
は 11,691 ヵ所,71 年には 13,369 ヵ所,96 年には
20 フランにしかならなかった。[E. Buret, 1840
15,827 ヵ所に昇っている。
p259: P. Cère, p211]19 世紀半ばのパリの平均的
だが在宅救済を受ける住民数は,必ずしもこれ
労働者の日賃銀がおよそ 5 フランだから,救済額
に比例した動きを辿らない。パリについて云えば,
がいかに僅少であったかが分かる。
19 世紀初め統領政府のころには 116 千人が在宅救
このため 19 世紀の社会改良家や識者,ジャーナ
リストはこぞって,病院・ホスピスでの福祉サー
ヴィスを縮小し,代わって金の掛からない,愛情
済に登録していたが,第一帝政が終焉するころには
16)以下のデータは[Gérando, 1839]に拠るが,煩雑
になるので引用箇所は割愛する。
— 26 —
19 世紀初頭パリの救貧行政
102 千人,1835 年には 62 千人,1844 年には 66 千
の実情を調査し,その行状を監視した点にも求め
人に減じた。第二帝政期のフランス経済の発展は
られる。前記の『法令集』は明瞭に貧民監視を謳っ
国民所得の向上をもたらしたことは確かで,1860
ていたし,有名なジェランドーの著作『貧困家庭
年代は 5 万人台に落ち着いている。だが,第三共
訪問員』
(1820 年刊)もまた,真の貧民と偽りの貧
和政初期には,諸々の事情から再び福祉事務局に
民を区別する方法を家庭訪問に求め,有効な在宅
よる在宅救済が激増した。
救済のあり方を熱心に説いたのである。[阪上孝,
19 世紀後半には公的扶助制度の改編に合わせる
1999, p260sq]すずめの涙程度の現物支給と引き
かたちで,在宅救済についても制度変更があった
換えに,貧民家庭内のプライヴァシーを調査し,そ
ので,軽々に比較はできない。1860 年の救済規則
の生活に容喙する在宅救済のあり方は,今日の観
は七月王政期のそれを踏襲し,
「一時的救済を受け
点からすれば明らかに行き過ぎだった。だが,当
る者」と「年間救済を受ける者」の内容もほとん
時の政治的文脈のなかで考えると,都市貧民の行
ど変更がない。[Haussonville, 1886, p45]ところ
状を把握し,不穏な動きを事前に察知することが
が,1886 年のデクレ(政令)では,在宅救済の受
優先されたのかもしれない。それほどに都市に堆
1 身体障碍者あるいは慢性疾患に罹っ
給資格を,
積する無産の労働者階級は危険視されていたとも
2 満 64 歳以上の高齢者,
3 満 13 歳以
ている者,
云える。その意味ではこの時代のフランス国家は,
下の孤児,に限定したのである。これは,無職者
在宅救済という回路をもって貧民家庭に介入した
はもとより,有職者でも低所得者階層を排除する
のである。
ものだったので,批判と憤激を買ったという17) 。
1895 年のデクレはこうした批判に応えるかたち
5.
結びに代えて
1 生活困
で改められ,在宅救済の受給資格者を,
2 「一時的生活困窮者」
3 放浪者・高齢者・
,
窮者,
19 世紀初頭のパリの救貧行政はこのように,病
身障者の三つにまとめた。大事なことは「一時的
院,ホスピス,福祉事務局(在宅救済)の三位一
困窮者」の対象に,
「決められた目的で手当てが支
体の体制でなされた。この他に,健常な貧民に労
給される定職にある労働者」を加えたことであろ
働機会を付与するために,慈善作業場,紡績作業
う。つまり何らかの事情で失業・休業を余儀なく
場などの授産施設が国家と自治体により開設され
された定職労働者も在宅救済の対象となったので
たが,それは急場凌ぎでしかなかった。病院とホ
ある。
[P. Strauss, 1901, p158]このように,19 世
スピスは次第に「棲み分け」がなされたが,病を
紀末に「社会的弱者」と「一時的生活困窮者」と
得た貧民が「最期に行き着く安住の地」という意
を分けて救済する,現代的な福祉制度の原型がで
味では共通だったかもしれない。特に病院は無料
きたのである。
の治療と看護と引き換えに,医学研究と医師養成
本題に戻り,王政復古期から七月王政期にかけ
てのパリの在宅救済を小括すれば,革命期の貧民
のために患者にその身体の提供を求めた。病院と
患者の間には暗黙の諒解があったと思われる。
の生存権保障という高邁な精神が後退し,部分的
これに対して在宅救済はもっともフランス的な
には革命前のキリスト教的政治経済学の「慈善的
福祉行政の柱となった。革命の高揚のなかで貧民
福祉」に舞い戻ったと云えよう。それは在宅救済
の生存権が承認され,旧来の「私的慈善」は批判さ
の実働部隊とも云える訪問委員や慈善婦人に,聖
れ,代わって「公的救済」が称揚されたが,その具
職者が無給で立ち働いたことに表現されている。
体策は検討されないうちに革命は退潮した。王政
そうして彼らが貧民家庭を定期的に訪問し,家族
復古期と七月王政期の在宅救済は,革命の精神と
17)この制度で在宅救済を受けたものは,例えば 1893
年には 48,938 人に減少し,その住民比も 2.05%に
低下した,という。
[P. Strauss, 1901, p165]
旧体制の遺物との混合物と云えるかもしれない。
中間諸団体を否定した 19 世紀前期のフランス社
会にあって,統治の最後の拠り所は家族であり,福
— 27 —
経
済 系
第
238 集
祉戦略においても家族は中軸たる役割を担うのだ
扶助や救済が社会の義務であっても,この義務に
が,それを実現したのがこの在宅救済であった18) 。
対応するのは市民の権利ではない,合法的権利は
だが民衆とくに貧民の家族のありようは,ブルジョ
イギリス救貧法のように人々を堕落させる,とい
ワ家族のそれとは根本的に異なる。しかし,19 世
うのが,この哲学の要諦であった。[G. Procacci,
紀前半の家族主義者はそれを無視して,ブルジョ
1993, p229]
ワ家族の規範に則って貧民家族の「道徳化」を果
この哲学の転換は 1848 年二月革命を経た 19 世
たそうとした19) 。その意味で,在宅救済はその道
紀半ば以降になされるのだが,これは別稿の課題
徳化の一手段,もしくはイデオロギー装置の一つ
となる。
であった。
(大森弘喜・成城大学経済学部教授)
だが,労働者家族をブルジョワ家族のように「鋳
直す」ことが現実的ではないことが明瞭になって
くる。社会秩序を維持するためには,労働者の多
様な家族形態に合わせるかたちで,福祉戦略の見
直しを図らざるを得ない。「家族は社会的なるもの
の女王であると同時に,その囚人でもあった」
[J.
ドンズロ,1991, p7]これが,前述の在宅救済の支
給対象に関わる規則の変遷であり,19 世紀末には
福祉戦略の対象は女性と子どもに置かれるように
なる。
ところで,家族重視の福祉戦略にもかかわらず,
在宅貧民の受け取る支給額はすずめの涙でしかな
かった。政治経済学の牢固たる哲学が公的な財政
出動には抑制的であったためである。「自助」が
原則であり,公的扶助は自助を奨励するためのも
のでしかなかった。ブルジョワ革命により,理論
上は社会的ヒエラルキーは瓦解し,国家は抑圧の
頂点に立つものではない,形式上はすべて平等で
あり,それゆえ市民は国家に援助を求めてはなら
ない,これが政治経済学の哲学であった。たとえ
18)クリストフ・モローは在宅救済を次のように高く評
価した。
「在宅救済は単純で直接的であり,
〈中略〉
状況に応じて幾重にも分割でき,数ある選択肢のな
かで唯一知的であり,道徳的かつ役に立つ組織であ
る。困窮者を家族から引き離さずに苦痛を緩和する
この方法は,我々には唯一の扶助方法に思える。
」
[G.
Procacci, 1993, p232] 原典は[C. Moreau, 1851,
p528]
19)ドンズロは,家族をめぐる心性の歴史について次の
ように語る。
「家族についての近代的な感情は,ア
ンシャン・レジームのブルジョワ階級および貴族階
級から生じて,19 世紀末のプロレタリアートを含む
あらゆる社会階級に,同心円状に拡がってゆく」
[J.
ドンズロ,1991, p5]
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